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現代人による正法眼蔵解説

詮慧・経豪 正法眼蔵 第五十三 梅花 (聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵 第五十三 梅花 (聞書・抄)

先師天童古仏者、大宋慶元府太白名山天童景徳寺第三十代堂上大和尚なり。

上堂示衆云、天童仲冬第一句、槎々牙々老梅樹。忽開花一花両花、三四五花無数花。清不可誇、香不可誇。散作春容吹草木、衲僧箇々頂門禿。驀箚変怪狂風暴雨、乃至交袞大地雪漫々。老梅樹、太無端、寒凍摩挲鼻孔酸。いま開演ある老梅樹、それ太無端なり、忽開花す、自結菓す。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは狂風をなし、あるいは暴雨をなす。あるいは衲僧の頂門なり、あるいは古仏の眼睛なり。あるいは草木となれり、あるいは清香となれり。驀箚なる神変神怪きはむべからず。乃至大地高天、明日清月、これ老梅樹の樹功より樹功せり。葛藤の葛藤を結纏するなり。

老梅樹の忽開花のとき、花開世界起なり。花開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に、開五葉の一花あり。この一花時、よく三花四花五花あり。百花千花万花億花あり。乃至無数花あり。これらの花開、みな老梅樹の一枝両枝無数枝の不可誇なり。

優曇華優鉢羅花等、おなじく老梅樹花の一枝両枝なり。おほよそ一切の花開は、老梅樹の恩給なり。

人中天上の老梅樹あり、老梅樹中に人間天堂を樹功せり。百千花を人天花と称ず。万億花は仏祖花なり。

恁麼の時節を、諸仏出現於世と喚作するなり。祖師本來茲土と喚作するなり。

詮慧

〇今は梅を以て仏法を示す。めづらしき様なれども、はじめたるに非ず。仏優曇華を拈じて、吾有正法眼蔵涅槃附属摩訶迦葉と被仰き、拈じおわします優曇華が響きて正法眼蔵と云わるる。ときに正法眼蔵今の梅花なるべし、梅花優曇華なるがゆえに、正法眼蔵優曇華ならずば、拈じて可無詮、拈ずる優曇華正法眼蔵なるべし。法華は蓮華こそ体とすれ、いま梅を仏法と説かざる様なし。又蓮華蔵世界と云うこともあり。此の世界は以清浄為本、泥より出でて泥に染まざるを蓮華とす。この娑婆世界は染汚の世界也。但蓮華蔵世界と云うも、非別世界也。豈離伽耶、別有常寂光土と談ずるが如し。

〇十方仏土中唯有一乗法と談ず。諸法を一乗と云えば、諸法の各々の体を失して、一乗と云うべきかと覚ゆ。諸法に一乗の見を持たせて、失わざる時は、一乗を諸法に令具足、是を不驚して、今天童の「老梅樹」をば驚く、つらつら思うべし。仏法を解せんこと、何れにても解せざるべき様なしと。

〇先師古仏上堂示衆段。「鼻孔酸槎々牙々」という、花の開くる姿也。「清不可誇、香不可誇」という、「きよし」と説く詞、更不対濁。「香」と説く、又不対臰。ゆえに「不可誇」と説く。濁に対して清を褒めば可誇、対臰して香しと説かば香可誇。不対なるゆえに「不可誇」とは云う也。一切対境してこそ誇れ、全機の時は「誇」という詞不用也。

〇「散じて春の容と作る」という、この「散」の字いたづらに、花の散るにてはなし。たとえば迦葉仏は散じて、釈迦牟尼仏となると云う程の事也。二仏の名(は)異なれども、只一物なるが如し。春も梅花の樹功なるとなり。

〇「衲僧箇々頂門禿という、「梅」を衲僧の姿と取るなり。「禿」と云う詞は、無別義。頂きに付きたる詞也と可心得。

〇梅花を無数華と説く、優曇華優鉢羅華と説く。一切の華開・老梅樹の恩給と説く、人間・天上この梅花功と説く(は)、仏祖華なり。仏の身心光明は、究尽せざる諸法実相の、一微塵あるべからざるが如く、梅樹の見あるべし。

〇「変怪」と云う、老梅樹のさまざま説かるるを、変怪と云う也。

〇「寒凍摩挲」という、「寒凍」は仲冬に一句をいう。「摩挲」は、なづ、と読むべきか。

〇「忽開花、自結果」という、これはともに不待時刻、おのれが時刻となり。

経豪

  • 此の寺は明州にあり、景徳年中に被造立也。由々しき寺なり、やがて年号を寺号に被付歟。住持人も無何輩は不補之歟。宏智古仏も、此寺の長老三十年住持人なり。天童(この天童は浄和尚歟。然者住持は未だ善くは考えざれども、十年よりうち歟)も三十年の住持なり。
  • 優曇華」などと云えば、同詞同華なれども、仏法なるように覚ゆ。「梅花」などと云えば、目にさかり耳にさかりたる様にて、只世間の調度とのみ覚えて、仏法ならんとは不聞。但是は日来の梅花の旧見、未解脱時の事也。今は以梅花法体を被直指也。所詮此の上堂の詞に、「槎々牙々」とあるより、「鼻孔すし」とある詞まで、悉く梅花の理を被述也。「開花」と云うも、「一花両花、三四五花無数花」と云うも、「清不可誇、香不可誇」の詞も、「散作春容、吹草木」と云うも、乃至大地漫々、香も悉是梅花也。又「仲冬」とあるは、十一月冬至上堂也。「不可誇」の詞は、「誇」をば極と云う心也。「清」も「香」も共に、無辺際心地歟。「無端」と云う詞は始中終を離れたる義、無辺際義なるべし。「酸」の詞(は)、梅花に縁ある詞なり、ゆえに此語いでくるか。又此の談の梅花の理の上には、「清不可誇、香不可誇」、已下「狂風暴雨、乃至漫々たる大地雪」等を「酸」とも可云歟、不可相違者也。此の梅花の道理を上に「開花」とも、「自結果」とも云わるる也。又春こそ梅花をも可談、ゆえに「春をなし冬をなす」とは云う也。已下如御釈。又「老梅樹の樹功より樹功せり」とは、此の梅花の道理より如此無尽に被談所を、「樹功より樹功す」とは談ず也。此の道理が又、「葛藤の葛藤を結纏せり」とも云わるる也。
  • 此の「梅花の理のあらわるる時を、開花の時節と談ず也。此の開花の時節を、「花開世界起」とは云うべき也。此の時節を「春到」とも可談なり。「開五葉の一花あり」とは、一花開五葉、結果自然成の初祖の御詞をしばらく、被引出なり。此の初祖の一花開五葉の「一花」も、今は「梅樹の一枝両枝無数枝の不可誇」と談ずべき也。
  • 「恩給」とは、此の梅花の理の上より、一切の道理現前する所を、「梅花の恩給」とは可談也。
  • 「人中天上」の当体を、「老梅樹」と談ずるを、如此云うなり。「老梅樹」とあるを、「老梅樹中」とあり。是れ親切なる道理の上に如此云わるる、不始于今事也。依之更道理不可違。「百千花万億花」とあり、是は花の数に付けても要なし。只「人天を百千花と称し、万億花は仏祖也」とあるは、梅花の道理の行く所が、人天とも仏祖とも云われ、百千花とも仏祖花とも、しばらく被談なり。只同じ詞とも同理とも可心得也。
  • 右に所挙の道理を指して、「時節」とは云うなり。此の時節を「諸仏出現於世と喚作す」とあり、非可不審。又此の道理を「祖師本來茲土と喚作するなり」とあり、文に分明也。

 

先師古仏、上堂示衆云、瞿曇打失眼睛時、雪裏梅花只一枝。而今到処成荊棘、却笑春風繚乱吹。いまこの古仏の法輪を尽界の最極に転ずる、一切人天の得道の時節なり。乃至雲雨風水および草木昆虫にいたるまでも、法益をかうむらずといふことなし。天地国土もこの法輪に転ぜられて活々地なり。未曾聞の道をきくといふは、いまの道を聞著するをいふ。未曾有をうるといふは、いまの法を得著するを称ずるなり。おほよそおぼろけの福徳にあらずは、見聞すべからざる法輪なり。

詮慧

〇先師古仏上堂段・・春風繚乱吹。「雪裏梅花」と云う、梅が冬と春とを離すなり。たとえば冬にも春にも拘わらぬ心地也。梅花の変怪と云うぞ。今の「成荊棘」にてある梅花の方よりは「繚乱」といかにも吹け、「春風」にてあるとなり。

経豪

  • 「打失眼睛」の道理と、「雪裏梅花只一枝」との詞、只同じかるべし。不可違、雪裏梅花只一枝と談ずる時は、「瞿曇打失眼睛」は梅花に蔵身すべし。打失眼睛の時も、雪裏梅花は又蔵身すべし。実に今の雪裏梅花の道理が、打失眼睛の理にてあるらん事、打ち任せて非可思寄事。未曾聞の詞なるべし。「而今到処成荊棘」とは、此の雪裏梅花只一枝の道理が無辺際して、無不到処(の)道理を如此云うなり。「却笑春風繚乱吹」とは、是も梅花の道理の人界にあまねきを、春風繚乱吹とは云う也。天童上堂の詞を被讃嘆とて、「一切人天の得道の時節也」とはあるなり。已下如文。

 

いま現在大宋国一百八十州の内外に、山寺あり、人里の寺あり、そのかず称計すべからず。そのなかに雲水おほし。しかあれども、先師古仏をみざるはおほく、みたるはすくなからん。いはんやことばを見聞するは少分なるべし。いはんや相見問訊のともがらおほからんや。いはんや堂奥をゆるさるゝ、いくばくにあらず。いかにいはんや先師の皮肉骨髄、眼睛面目を礼拝することを聴許せられんや。先師古仏、たやすく僧家の討掛搭をゆるさず。よのつねにいはく、無道心慣頭、我箇裡不可也。すなはちおひいだす。出了いはく、不一本分人、要作甚麼。かくのごときの狗子は騒人なり、掛搭不得といふ。まさしくこれをみ、まのあたりこれをきく。ひそかにおもふらくは、かれらいかなる罪根ありてか、このくにの人なりといへども、共住をゆるされざる。われなにのさいはひありてか、遠方外国の種子なりといへども、掛搭をゆるさるゝのみにあらず、ほしきまゝに堂奥に出入して尊儀を礼拝し、法道をきく。愚暗なりといへども、むなしかるべからざる結良縁なり。先師の宋朝を化せしとき、なほ参得人あり、参不得人ありき。先師古仏すでに宋朝をさりぬ、暗夜よりもくらからん。ゆゑはいかん。先師古仏より前後に、先師古仏のごとくなる古仏なきがゆゑにしかいふなり。しかあれば、いまこれを見聞せんときの晩学おもふべし、自余の諸方の人天も、いまのごとくの法輪を見聞すらん、参学すらんとおもふことなかれ。雪裏梅花は一現の曇花なり。ひごろはいくめぐりか我仏如来の正法眼睛を拝見しながら、いたづらに瞬目を蹉過して破顔せざる。

詮慧

〇「不一本分人」という、本分人をば、一本分人とも云う。この「本分人」は道人なり。ゆえに不一本分人は「要作甚麼」というなり。

経豪

  • 是は無道心にして、我此裏には無詮と也。「出了いわく、不一本分人要作甚麼」とは、たとえば仏法を修行すべき人にもあらず要なし、何れにかせん、と云う詞也。「如此狗子は人を騒がすべし、掛搭しかるべからず」と云う也。已下如文。

 

而今すでに雪裏の梅花まさしく如来眼睛なりと正伝し、承当す。これを拈じて頂門眼とし、眼中睛とす。さらに梅花裏に參到して梅花を究尽するに、さらに疑著すべき因縁いまだきたらず。

これすでに天上天下唯我独尊の眼睛なり、法界中尊なり。しかあればすなはち、天上の天花、人間の天花、天雨曼陀羅華、摩訶曼陀羅花、曼殊沙花、摩訶曼殊沙花および十方無尽国土の諸花は、みな雪裏梅花の眷属なり。梅花の恩徳分をうけて花開せるがゆゑに、百億花は梅花の眷属なり、小梅花と称ずべし。

乃至空花地花三昧花等、ともに梅花の大少の眷属群花なり。

花裡に百億国をなす、国土に開花せる、みなこの梅花の恩分なり。梅花の恩分のほかは、さらに一恩の雨露あらざるなり。命脈みな梅花よりなれるなり。

経豪

  • 是は此の梅花を、まさしく如来の眼睛也と云う正伝也。承当する上は、是梅花の道理を拈じて、頂門眼とも、眼中睛とも、すべしと云う也。是に不可限、百千万億の詞をも挙げても、梅花の理を拈じて可談也。頂門眼中睛許りに不可限。又打ち任せては国土大地等を置きて、其の上にこそ梅花をば談ずべきに、是は「梅花裏に參到して、梅花を究尽す」とあり。知りぬ、梅花究尽の道理の外に、又余物不可交と云う事を、仏法には如此の道理あるべしと、深可信也。実(に)「疑著すべき因縁、いまだ来たらざる」なり。
  • 此の梅花の道理、「天上天下唯我独尊の眼睛なるべし、法界中尊なるべし」。所詮右に所挙の、諸花等皆、今の梅花の眷属と可談なり。「梅花の恩徳分」とは、梅花の恩給などと云いし程の詞なるべし。此の梅花の道理を承けて「花開」とも談ず也。「百億花は梅花の眷属也」とは、如前云う、無量無辺諸花、今は梅花の眷属と可談なり。打ち任せて「眷属」とは、本体の人を置きて、其の所(の)従縁者等を眷属とは名づく。是は一切の諸花を「梅花」と談ずる道理を、「眷属」と仕う也。又「小梅花」とは、大小に対したる非小。梅花と談ずる上に、諸花を梅花と談ずる上に、諸花を梅花の眷属と云う所を、しばらく小梅花とあれども、総別大小にも拘わるべき小梅花にあらざるべし。梅花の「小梅花」なるべし。
  • 如文。
  • 百億国土に花ある常事也。「花裏に百億国をなす」(は)、逆なるように聞こゆ。但此の百億国(は)則(ち)梅花なり。此の国土梅花なる上は、以此国土開花とも可談也。是を「梅花の恩分」と取るべし。実(に)此の「恩分の外に、一恩の雨露あるべからざる」事を。

 

ひとへに嵩山少林の雪漫々地と参学することなかれ。如来の眼睛なり。頭上をてらし、脚下をてらす。たゞ雪山雪宮のゆきと参学することなかれ、老瞿曇の正法眼睛なり。

五眼の眼睛このところに究尽せり。千眼の眼睛この眼睛に円成すべし。

まことに老瞿曇の身心光明は、究尽せざる諸法実相の一微塵あるべからず。人天の見別ありとも、凡聖の情隔すとも、雪漫々は大地なり、大地は雪漫々なり。雪漫々にあらざれば尽界に大地あらざるなり。この雪漫々の表裏團圝、これ瞿曇老の眼睛なり。

経豪

  • 是は初祖、少林寺に面壁坐禅の時、二祖雪に立ちて断臂の時の事なるべし。此の「雪漫々」の道理、非可被嫌。是こそ雪漫々の手本とも成りぬべきを、今「参学する事なかれ」とあり、返々不審なれども、是は嫌う詞に似たれども、非嫌詞。是はそれぞれなどと云えば、喩えにも聞こゆ。又猶各別なる心地も出で来ぬべし。只ここには交(り)物なく瞿曇の眼睛の独立の道理を、一筋通さんとの心地なるべし。努々嫌いて少林の雪漫々を棄てんとにはあらず。又「瞿曇の正法眼睛也」と談ぜん時、嵩山少林の雪漫々の道理、いづくに可被棄乎。尤不審也。
  • 仏に「五眼」と云う事あり。其れも此の梅花の所に究尽せらるる千手の千眼も、「この眼睛に円成すべし」とは、此の千眼も老瞿曇の眼睛也と云う心也。
  • 仏祖の「身心光明」、実(に)「究尽せざる諸法実相、微塵もあるべからざる」条勿論也。
  • 雪は大地の上に漫々とありとこそ、打ち任せては覚ゆる所を、「人天の見別ありとも、凡聖の情隔すとも」とあるとも、「雪漫々は大地也、大地は雪漫々となり」。此の大地を雪漫々と談ずるゆえに、「雪漫々に非ざれば、尽界に大地あらざる也」と云う。雪漫々を以て表裏とする道理を「團圝」とはとは云う也。円満の心地なり。打ち任せたる凡見の表裏は、円満の義あるべからず。是を「瞿曇老の眼睛」と談ず也。

 

しるべし、花地悉無生なり、花無生なり。花無生なるゆゑに地無生なり。花地悉無生のゆゑに、眼睛無生なり。無生といふは無上菩提をいふ。

正当恁麼時の見取は、梅花只一枝なり。正当恁麼時の道取は、雪裏梅花只一枝なり。地花生々なり。

これをさらに雪漫々といふは、全表裏雪漫々なり。尽界は心地なり、尽界花情なり。尽界花情なるゆゑに、尽界は梅花なり。尽界梅花なるがゆゑに、尽界は瞿曇の眼睛なり。

経豪

  • 此の「花」は梅花の花なり。「地」と云えば、いかにも大地を置きて、其の上に花も咲き雪も降り積もると心得は凡見なり。此の梅花の「花」(は)、しかるべからず。地則梅花なり、大地則雪漫々とあり。不可不審。所詮此の道理は、花も「無上菩提」也、地も「無上菩提」也。花地悉く無上菩提也と云う也。眼睛も無上菩提なるべし。
  • 是は梅花現成の正当恁麼時には、見取も道取も共に、「梅花只一枝」の道理也と云うなり。地花無生と云う上は、又「地花生々」の道理もあるべきゆえに、如此云也。
  • 御釈分明也、如文。上には「尽界は心地也」とて、心を地という。下には「尽界花情也」とて、花の情と云う。「尽界花情なるゆえに、尽界瞿曇の眼睛也」とあり、以尽界と、かく被談なり。

 

而今の到処は、山河大地なり。到事到時、みな吾本来茲土、伝法救迷情、一花開五葉、結果自然成の到処現成なり。

西来東漸ありといへども、梅花而今の到処なり。而今の現成かくのごとくなる、成荊棘といふ。

大枝に旧枝新枝の而今あり、小条に旧条新条の到処あり。処は到に参学すべし、到は今に参学すべし。

参四五六花裏は、無数花裏なり。花に裏功徳の深広なる具足せり、表功徳の高大なるを開闡せり。この表裏は、一花の花発なり。只一枝なるがゆゑに、異枝あらず、異種あらず。

経豪

  • 是は而今到処成荊棘と云う詞の被釈なり。「到処」と云う事は、所と云う事を一つ置いて、其の上に「到」と云う詞はあるなり。今の到処は山河大地を以て「到処」と談ず也。是れ則ち「吾本来此土」の姿を以て「到処」とは可談也。
  • 「西来東漸」と云うとも、梅花の到処なり、所詮山河大地の詞あり。「梅花而今の到処也」と云う道理を、悉く「成荊棘」と可云也。
  • 此の梅花の上に、「旧枝新枝の而今あるべし、小条に旧条新条の到処あるべし」、皆是梅花の功徳荘厳なるべし。凡見の新旧にあらざるべし、又如前云う尋常の到にあらず。吾本来此土の到なるべし、ゆえに「処は到に可参学」とあり。此今古今の今にあらざるゆえに、「到は今に可参学」と云う也。「処」も究尽の処、「今」も究尽の今なるべきがゆえに、如此云うなり。
  • 「三四五六花裏は無数花裏也」とあり、名目相違して聞こゆ。但今の「三四五六」の詞、数の多少に拘わるべからず。以無数花裏、三四五六と仕う也。「裏」の詞の具したるは、雪裏梅花とある「裏」を取り出したる也。但此の「裏」(は)、外に対したる裏にあらず。此の「表」(は)、裏に対したる表にあらず。「裏表」共に梅花也。仍って「裏功徳の深広なる具足せり、表功徳の高大なるを開闡せり」とは云う也。梅花の上の表裏なる所を、「一花の花発」とは云う也。この道理が、只一枝とは云わる。「只一枝なるゆえに、異枝にも異種にもあらざる」なり。

 

一枝の到処を而今と称ずる、瞿曇老漢なり。只一枝のゆゑに、附嘱嫡々なり。このゆゑに、吾有の正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉なり。汝得は吾髄なり。かくのごとく到処の現成、ところとしても太尊貴生にあらずといふことなきがゆゑに、開五葉なり、五葉は梅花なり。

経豪

  • 「一枝の到処を而今と称す」と云う、知りぬ古今の今にあらずと云う事を。瞿曇老漢の姿を而今と可談也。「只一枝のゆえに附嘱嫡々」と云う、まことに数代の仏祖面授附属し給う事、代々多きに似たれども、此の附嘱嫡々の姿を云えば、只一枝の道理なるべし。ゆえに代々附属は只一なるべし。面授の沙汰時、委談了。釈尊と迦葉と只一枝也。全く非両人ゆえに、「吾有の正法眼蔵、附嘱摩訶迦葉也」という。初祖与二祖の附属の姿(は)同上、ゆえに「汝得は吾髄也」と云うなり。只一物にて不各別ゆえに、「太尊貴生」とは褒むる詞也。以此道理、初祖は「開五葉」とは被仰也。今は此の五葉を「梅花」と談之。ゆえに此の「五」の詞は、数量には拘わらざるなり。

 

このゆゑに、七仏祖あり。西天二十八祖、東土六祖、および十九祖あり。みな只一枝の開五葉なり、五葉の只一枝なり。

一枝を参究し、五葉を参究しきたれば、雪裏梅花の正伝附嘱相見なり。只一枝の語脈裏に転身転心しきたるに、雲月是同なり、谿山各別なり。

詮慧

〇「雲月是同なり、谿山各別也」という、雲月を同じと仕うべくば、谿山も同じかるべし。谿山を各別と仕わす、又雲月も各別なるべし。但同不同を仕う事(は)、是程なり。梅花にあらざるものなけれども、人とも仏とも祖とも云いしが如し。

経豪

  • 此の御釈も参差したるように覚ゆ、但以梅花理案之。「七仏祖・二十八祖・東土六祖・及び十九祖」を、只一枝と談ぜん、尤有其謂。「只一枝の開五葉なり、五葉の只一枝」とも云わるべきなり。
  • 一枝ならび五葉を参究する道理が、「雪裏梅花の正伝附嘱相見」の道理にてあるべき也。語脈裏只一枝の内の道理と云う心なり。此の「只一枝」の詞の内に、「転身転心し来たる」道理同じ也と云う義もあるべし。「各別也」と云う義もあるべきなり。此の「雲月谿山」の詞は、無其要、是同各別の詞を取らん料りなり。教意祖意是同是別と、問いせし同じ詞なるべし。

 

しかあるを、かつて参学眼なきともがらいはく、五葉といふは、東地五代と初祖とを一花として、五世をならべて、古今前後にあらざるがゆゑに五葉といふと。この言は、挙して勘破するにたらざるなり。これらは参仏参祖の皮袋にあらず、あはれむべきなり。五葉一花の道、いかでか五代のみならん。六祖よりのちは道取せざるか。小児子の説話におよばざるなり。ゆめゆめ見聞すべからず。

経豪

  • 如文の無殊子細。初祖の一花開五葉の御詞を、悪しく人の心得たるようを、次に表わさるるなり。見于御釈に。

 

先師古仏、歳旦上堂曰、元正啓祚、万物咸新。伏惟大衆、梅開早春。しづかにおもひみれば、過現当来の老古錐、たとひ尽十方に脱体なりとも、いまだ梅開早春の道あらずは、たれかなんぢを道尽箇といはん。ひとり先師古仏のみ古仏中の古仏なり。

その宗旨は、梅開に帯せられて万春はやし。万春は梅裏一両の功徳なり。一春なほよく万物を咸新ならしむ、万法を元正ならしむ。啓祚は眼睛正なり。

万物といふは、過現来のみにあらず、威音王以前乃至未来なり。無量無尽の過現来、ことごとく新なりといふがゆゑに、この新は新を脱落せり

このゆゑに伏惟大衆なり。伏惟大衆は恁麼なるがゆゑに。

詮慧

〇歳旦上堂段・・梅開早春。「梅開早春。」という、此の詞(は)元正の上堂に尤有其便、但春なれば梅花とばかり心得んは、不可有上堂本意。此の梅花すでに、「過現当来の老古錐、脱体也とも、梅開の道あらず」という、上は仏法の至極、ただ可在此の梅花早春。

〇「先師古仏のみ、古仏中の古仏也」という、古仏中の古仏と云う事は、今(の)教えに新成旧成などと談ずる、仏には可勝。釈迦八相を示して、新成妙覚遍照尊などとあるも、又五百塵点劫のそのかみの仏ぞ、久遠実成也などとあるも、ただ世間の新古に異ならず。ただ当時見在せる祖師天童ごときをこそ、古仏と謂え。ゆえに古仏の中の古仏也、新と云うも、世間に談ずる新なるべからず。「過現来のみにあらず、威音王以前乃至未来なり。無量無尽の過現来、ことごとく新也という、新は新を脱落せり」とある上は勿論也。

〇すべて仏に本末立ち難し。新成の仏(は)顕本すやと云う論議あるも、世間の新古を心に控えて云うべし。

〇「万物咸新ならしむ」と云うは、過現来のみにあらず、威音王以前乃至未来也というがゆえに、この新は新を脱落せり、と云う。過現来に洩れたる威音王あるべからず。然らば以前の詞、猶過去に対して云う様に聞こゆれども、威音王以前と仕うは、仏向上ぞ父母未生前などと云う程の詞也。然れば又この以前の詞に因みて、出で来ぬる未来なれば、過現に具足したる未来にはあるべからず。すでに過現来のみあらずと云いて後、威音王以前とある時に、これはすべて際限なき事を云うとして、威音王以前に仕う也。この新は三世を超越するゆえに、新の脱落と云う也。万物咸新の「新」これなり。

〇「伏惟大衆」と云う、万物咸新これなり。梅開早春これなり。

経豪

  • 如文。所詮「老古錐」とは由々しき長老などを可云歟。かかる脱体の人ありとも、梅開早春の道あらずは、許し難しと也、是天童の御詞を被讃嘆也。
  • 是は梅花の道理が、「万春はやし」とも云う也。「万春は梅裏一両の功徳也」とは、打ち任すは、春は総てにて梅花は其の内に咲く花とこそ被心得を、此の梅花の理は「梅裏一両の功徳」にて、万春はあるなり。と被釈。其のゆえは以万春の当体(を)、梅花と談ずるゆえに万春は梅裏一両の功徳也と云わるる也。「一両」の詞、又数多ある中に、わずかに其の内の一両と云うにはあらず。梅花の姿を一両と云う也。「一春猶よく万物を咸新ならしむ、万法を元正ならしむ」とは、この「新」は古に対したる新にあらず。「万物」と云うも、物が数多あつまと多にあらず。只大地有情等を以て、万物とは指すなり。万古も同心也。万古の不移は、移らずと云う也。是も梅花の道理、移とも不移とも、一篇に難定。即不中の道理なるべし、不中也。又万物にあたるべき也。
  • 万物の様(は)分明に聞こえたり。威音王以前無量無尽の過現来を以て新也と可談也、所詮今は梅花の道理の現前する咸新なるべし。ゆえに新は古に対したるに非ざるなり。ゆえに「新を脱落す」とは云う也。
  • 「伏惟大衆」の詞は、寺院には付けたる衆僧の事かと聞こゆるを、今は無量無辺過現来悉く新也と云う道理を、伏惟大衆也とあり。此の詞(は)、迷旧見ぬべし。所詮梅花の道理(は)、「伏惟大衆」なるべし。対人、伏惟大衆と云うにあらず。

 

先師天童古仏、上堂示衆云、一言相契、万古不移。柳眼発新条、梅花満旧枝。いはく、百大劫の辦道は、終始ともに一言相契なり。一念頃の功夫は、前後おなじく万古不移なり。

新条を繁茂ならしめて眼睛を発明する、新条なりといへども眼睛なり。眼睛の佗にあらざる道理なりといへども、これを新条と参究す。新は万物咸新に参学すべし。

梅花満旧枝といふは、梅花全旧枝なり、通旧枝なり。旧枝是梅花なり。

たとへば、花枝同条参、花枝同条生、花枝同条満なり。花枝同条満のゆゑに、吾有正法、附嘱迦葉なり。面々満拈花、花々満破顔なり。

〇「一言相契段・・梅花満旧枝。「一言」とはやがて、此の柳眼発新条、梅花満旧枝と云う句を、一言とは指すなり。「相契」と云うは、仏法に贖(あがな)うと也。然れば世間の梅が、相契と云われんずるにてはなし。仏言の梅が相契とも万古不移とも云わるる也。「万古不移」とは、此の「古」の字は非世間之新古、ゆえに「不移」と説く、世間には不移の万古不可有。「柳眼発新条、梅花満旧枝」は、正法眼蔵附属拈破顔也。「一言相契、万古不移」とら、詞を二つにはあつべからず。一言相契せんずる梅花は、仏法の梅花なり。万古とは云いながら、不移ならんずるも、仏法の詞ならではあるべからず。

経豪

  • 「一言」と云えば、わづかなる詞かと聞こゆ。但仏祖の一言半句、総て欠けたる所あるべからず。ゆえに「百大劫の辦道は、終始ともに一言相契也」とも云い、「一念頃の功夫は、前後同じく万古不移也」とも云う也。所詮百大劫の辦道は久し、一念頃の功夫は蹔時とは不可思。百大劫と一念頃と、只同じかるべし。多少に努々拘わるべからず。たとえば三界唯一心とも、諸法実相とも云わんに、文字はわづかに五字なれども、此の詞に諸法の道理欠けたる所あるべからず。百大劫の辦道も此理也、一念頃の功夫も此理なり。ゆえに只同じ道理なる也。
  • 「枝を繁くならしめて眼睛を発明する」とは、くしくしと枝が取り付きて、数多茂りたる義にあらず。此の梅花の上に、或いは柳眼とも旧枝とも、乃至一言相契とも談ずる所を「新条を繁茂ならしむ」とは云う歟。此の道理が、「眼睛を発明す」とも云わるべきか。今は是を「眼睛也」と可談也。此の眼睛(の)詞(は)、ふと指し出でたるように聞こゆれども、柳眼とある眼の詞に付けて被引出歟。眼睛と談ずる上は、実(に)「他にあらざる道理なれども」、此の道理をしばらく「新条を参究すべし」とあるなり。此の「新」をば、先に談ずる「万物咸新に参学すべし」とは、所詮新古を超越したる新と可参学と云う也。
  • 如文。枝に梅花が咲て、等しく在ると被心得ぬべし。今の梅花の旧枝、しかあるべからず。以梅花旧枝と談ず也。梅花と旧枝と非各別也。通旧枝と云うも、梅花と枝と一物なる理を、「通旧枝」と云う也。「旧枝是梅花也」とあり、分明也。
  • 花与枝、各別なるを「花枝同条参、花枝同条生、花枝同条満」とあり、「花枝」(の)只同一なる道理、顕然に聞こえたり。「吾有正法附嘱迦葉」の道理も、花枝同条参、花枝同条生、花枝同条満、程のあわいなるべしと也。花枝一物なる道理を以て、釈尊と迦葉とのあわい、非一非二(の)理をも可心得也。又「面々満拈花、花々満破顔也」とは、打ち任すは釈尊は拈優曇華して瞬目す。迦葉は破顔微笑すとこそ被心得たるを、此の梅花の花枝の道理を以て云えば、釈尊は破顔微笑し、迦葉は拈優曇華の道理あるべし。ゆえに此理を面々満拈花、花々満破顔とは云う也。

 

先師古仏、上堂示大衆云、楊柳粧腰帯、梅花絡臂韝。かの臂韝は、蜀錦和璧にあらず、梅花開なり。梅花開は、髄吾得汝なり。

詮慧

〇先師古仏上堂段・・絡臂韝。たとえば身を飾るに、楊柳の姿に作りて腰を飾り、梅花臂のたまに纏うと聞こゆ。但これは仏法に談じて無由、今は「蜀錦和璧」にあらずと云う。「梅花開は、髄吾得汝」と云う時に、楊柳韝などと説くは、悟道の飾り也。梅花の響く詞也。

〇「髄吾得汝」という、汝得吾皮肉骨髄とこそ聞きなれたれ。いま書く文字の前後したること不審也。但得吾髄の後は、汝与吾二つあることなし。只一体なるのみ也。この心地を以て、如此随吾得汝とも云う也。

経豪

  • 「楊柳腰を粧い帯たり、梅花絡臂韝」という、此の詞は楊柳(は)楊柳を飾り、梅花(は)梅花を纏う心地也。楊柳を尽十方界とし、梅花を尽十方界とす。此理を粧とも絡とも、腰とも臂とも云う也。被臂韝蜀錦にも和璧にもあらず、梅花開なるべし。「梅花開」の道理は、「髄吾得汝」とす。汝得吾髄と云えば、猶汝与吾の差別ありとも聞こゆ。「髄吾得汝」と云えば、親切の理あらわるるなり。

 

波斯匿王、請賓頭盧尊者斎次、王問、承聞、尊者親見仏来。是不。尊者以手策起眉毛示之。

先師古仏頌云、策起眉毛答問端、親曾見仏不相瞞。至今応供四天下、春在梅梢帯雪寒。

この因縁は、波斯匿王ちなみに尊者の見仏未見仏を問取するなり。見仏といふは作仏なり。作仏といふは策起眉毛なり。尊者もしたゞ阿羅漢果を証すとも、真阿羅漢にあらずは見仏すべからず。見仏にあらずは作仏すべからず。作仏にあらずは策起眉毛仏不得ならん。しかあればしるべし、釈迦牟尼仏の面授の弟子として、すでに四果を証して後仏の出世をまつ、尊者いかでか釈迦牟尼仏をみざらん。この見釈迦牟尼仏は見仏にあらず。釈迦牟尼仏のごとく見釈迦牟尼仏なるを見仏と参学しきたれり。波斯匿王この参学眼を得開せるところに、策起眉毛の好手にあふなり。親曾見仏の道旨、しづかに参仏眼あるべし。

この春は人間にあらず、仏国にかぎらず、梅梢にあり。なにとしてかしかるとしる、雪寒の眉毛策なり。

詮慧

〇賓頭盧段。小乗の羅漢果は見仏と許すまじき所を、いま問いとはなる也。釈迦牟尼仏の事を、見釈迦牟尼仏するかと説かるること也とは、「策起眉毛」の道理こそ見仏なれ。いま又先師天童古仏頌に作らるる也、策起眉毛答問端、親曾見仏不相瞞・・。

〇「帯雪寒」と云うは、波斯匿王の問いを答えたる事也。「至今応供四天下」という、是尊者の徳也、無別儀。「春在梅梢帯雪寒」という、是は「親曾見仏」の義を説かるるなり。仏を他所に置きて見るにてはなし、策起眉毛がやがて見仏なる也。この心を春与花、不各別儀にわたして説かるるなり。

経豪

  • 此の波斯匿王の問いも、見仏の様を不存知しては如何かは、正しく四十余年の間、仏に奉随逐して後、仏の出世を待つ学者に対して、事新しく初めて奉見仏か否かとは、問わるべき。それに尊者奉見仏(の)条(は)勿論也とも、又不爾とも不被答。「以手策起眉毛」する事、実(に)尋常の見仏を心得たる理には等しむべからず。但此の「策起眉毛」の姿、親見仏の道理なるべし。たとえば尊者挙手払子を投げ、乃至扇を仕い茶を用いんも、「親見仏来」の道理に不可違。然而今は策起眉毛の姿を以て、「親見仏」の理を表わさるる也。今(の)策起眉毛は喩えと成りたるに非ず、やがて此の策起眉毛、やがて親見仏来なるべき也。此の時節は、尊者も此の策起眉毛の理に蔵身して、只策起眉毛なる姿許りなるべし。是れ「親見仏来」の道理なるべし。

是を今先師古仏被頌に、「策起眉毛答問端」とは、前の尊者の策起眉毛の姿を云う也。「親曾見仏不相瞞、応供」とは、仏の十号也。「春在梅梢帯雪寒」とは、梅花(と)梅梢(は)只同詞同心なり。此の春(は)四季に対したる春にあらず。以梅花為春、以春為梅花也。此の道理の上は雪も全雪、寒も全寒なるべし、寒時寒殺闍梨の寒なるべし。梅花の上は帯雪と云うも寒と云うも、梅花の功徳荘厳なるべし。如此云えばとて、梅花をば本にして、其の上に飾りの具足などを取り付けたる様には不可心得。全く寒の時節には、梅花の姿も不可有。但又梅花の姿有るとも云うべし、此れ寒梅花なるゆえに。

  • 如文。只衆生ありて、色相荘厳の仏体を奉拝などと云う程の、見仏を見仏にあらずと嫌うなり。若以色見我・・不能如来と、『金剛経』(「大正蔵」八・七五二上・注)にも説之。「釈迦牟尼仏、見釈迦牟尼仏なるを、見仏と参学す」と、今の策起眉毛の姿、乃至三界唯一心とも、十方仏土中とも談ずるを、如釈迦牟尼仏、見釈迦牟尼仏なるを、見仏と参学すとは云う也。已下如文。
  • 「この春は人間にあらず、仏国に限らず。何としてか、しかあると知る」とは、此の梅梢の道理、雪寒の姿、眉毛策の各法界を尽くす道理なるがゆえに、是れ程の理なるゆえに、かかるぞと云う心地なり。

 

先師古仏云、本來面目無生死、春在梅花入画図。

春を画図するに、楊梅桃李を画すべからず。まさに春を画すべし。

楊梅桃李を画するは楊梅桃李を画するなり、いまだ春を画せるにあらず。春は画せざるべきにあらず。

しかあれども、先師古仏のほかは、西天東地のあひだ、春を画せる人いまだあらず。ひとり先師古仏のみ、春を画する尖筆頭なり。

いはゆるいまの春は画図の春なり、入画図のゆゑに。これ余外の力量をとぶらはず、たゞ梅花をして春をつかはしむるゆゑに、画にいれ、木にいるゝなり。善巧方便なり。

先師古仏、正法眼蔵あきらかなるによりて、この正法眼蔵を過去現在未来の十方に聚会する仏祖に正伝す。このゆゑに眼睛を究徹し、梅花を開明せり。

詮慧

〇本來面目段・・入画図。「無生死」と云うは、梅花の義を云うに、生とも到さず死とも云わず。ゆえに無死也、凡そは仏法に生死を立てざる定むる事也。

〇「春在梅花入画図」と云う、春在梅花と云いしが、入画図にてある也。春の画図に表わるると可心得。楊梅桃李に春を表すとは云うべからず、たとえば方便品に実相を説くが如し。

〇梅花を談ずる所に、「楊梅桃李」と加うる如何、楊の次の字に連ねて桃李と同じからん。梅はいま説かるる一枝の梅花にてあるべからず、世間の草木の一類なるべし。楊桃李は只、景気を挙げらるる許りなり。梅花一枝は正法眼也、祖意也と可心得。余法に同類の梅にては、あるべからず、

〇「先師古仏のみ、春と画する尖筆頭也」という、此の先師の画は、非世間画。以正法眼蔵画とすと可心得。

経豪

  • 是は「本来の面目」の上には、なじかは生死あるべきと云う道理もありぬべし。但如此云えば、本来の面目は善き物にて、其の上に悪しき云う物あるべからずと、取捨の法に聞こえぬべし。只今は「本来の面目」を指して「無生死」と可談。諸悪の上に莫作の理ある程の道理也。又「入画図」の詞は、画餅の時、能々沙汰旧了。又此の画図は、諸仏とも諸祖とも云う程の詞なるべし。彩色等の画図にあらざる也。
  • 「楊梅桃李」は春の物なればとて、画せんには今の理に背くべし。春を地盤にて其の上に「楊梅桃李」と云う物を、景物にして画する分を嫌うなり。「春を画すべし」とは、何物を画すとも春を画する道理に不可違。たとえば、柏樹子を画せんも乃至牆壁瓦礫を画せんも、春を画すなるべし。
  • 楊梅桃李を画するは、楊梅桃李なるべし。春を総てとして、其の内に楊梅桃李を画する事を、如前云被嫌なり。春を体せずとも只楊梅桃李と談ぜん、有何不足やと云う心地也。ゆえに「いまだ春を画せるにあらず」と云う也。
  • 是は天童の先の詞を被讃嘆也。実に「と春は諸人画せざるべきにあらねども、先師古仏のみ春を画する尖筆頭也」と被讃なり。「尖筆頭」とは、するど(尖)なる筆と云う歟。是に画に付けて筆と云う詞も出でくるか。所詮又、物も不交よき詞と云う心也。
  • 如文。今の春画図の春也と云いて、尋常の春にあらざる分は聞こえたり。是れ「入画図の春なるゆえに、これ余外の力量をとぶらはず」とは、此の春の究尽の姿(は)実(に)余外の力量を不訪、有何不足。梅花が春なる理を以て、梅花をして春に仕わしむとも云う也。「画に入れ木に入る」とは、入画図の「入」の字を被釈歟。画を入と仕い木を入と談ずるゆえに、如此云也。「木」と云う事ぞ指し出でたるようなれども、梅花の理の上に、木と云う詞其便ありぬべし。又梅花の道理、搓々牙々と云いしより、或いは開花一花両花とも云い、或いは三四五花無数花、乃至清不可誇とも、大地雪漫々とも、鼻孔酸とも、此の梅花のさまざまに被談所を、今は「善巧方便也」とは云う也。実事にと告げん料りの善巧方便とは、今(の)詞をば不可心得。
  • 今の「正法眼蔵」を、三世十方のあらゆる仏祖に、天童の「聚会する」也と心得なり。逆なるようにぞ覚ゆれども、仏祖の皮肉相嗣のよう、今更非可疑。「眼睛を究徹し、梅花を開明せり」とは、先師上堂御詞に、打失眼睛時、雪裏梅花只一枝とあり。其の眼睛の詞、梅花の詞を被取出て究尽し、開明せられたる事を被讃嘆也。

 

もしおのづから自魔きたりて、梅花は瞿曇の眼睛ならずとおぼえば、思量すべし、このほかに何法の梅花よりも眼睛なりぬべきを挙しきたらんにか、眼睛とみん。そのときもこれよりほかに眼睛をもとめば、いづれのときも対面不相識なるべし、相逢未拈出なるべきがゆゑに。今日はわたくしの今日にあらず、大家の今日なり。

直に梅花眼睛を開明なるべし、さらにもとむることやみね。

詮慧

○年号奥段。「自魔きたりて」という、是は我身の邪見を「魔」とは仕う也。「大家」と云うは仏家也。「もとむることやみね」という、是は梅花より外の瞿曇眼睛は、なしと云う心地也。

経豪

  • 実にも此の事、一定如此、思われぬべき事也。「梅花が瞿曇の眼睛ならず」とは、決定不審せられぬべき也、其れを如此被釈也。此の心地出で来ん時、思量すべし。此の梅花の外に、何れの法の梅花よりも親しく眼睛なるべきを、挙し来たらんにか、眼睛と見ん。其の時も「是より外に眼睛をもとめば、何れの時も相見るべからず、相逢未拈出なるべし」と云うなり。又「今日まことにわたくしの、今日なるべからず」、所詮梅花の今日なるべし。是を「大家の今日也」とは云う也。
  • 是は何として、瞿曇眼睛なるべきぞと云う心地をやめて、「直に梅花眼睛の理を、開明すべし」と云う也。

 

先師古仏云、明明歴歴、梅花影裏休相覓。為雨為雲自古今、古今寥寥有何極。しかあればすなはち、くもをなしあめをなすは、梅花の云為なり。行雲行雨は梅花の千曲万重色なり、千功なり。自古今は梅花なり。梅花を古今と称ずるなり。

経豪

  • 是は無風情、只「行雲行雨も梅花の千曲万重色なり、千功万徳也、自古今は梅花なり、梅花を古今と称ずる也」とある上は、非可疑。「梅花の影裏休相覓」と云うは、梅花の法界は究尽する道理、休相覓と云わるる也。只彼是皆梅花の為す所也と可心得。

 

古来、法演禅師いはく、朔風和雪振谿林、万物潜蔵恨不深。唯有嶺梅多意気、臘前吐出歳寒心。しかあれば、梅花の消息を通ぜざるほかは、歳寒心をしりがたし。梅花小許の功を朔風に和合して雪となせり。はかりしりぬ、風をひき雪をなし、歳を序あらしめ、および溪林万物をあらしむる、みな梅花力なり。

詮慧

○法演禅師段・・吐出歳寒心。「万物蔵」と云えども、「嶺梅の意気多くして、吐出歳寒心」という。諸法を実相と脱落するなり。

経豪

  • 是も前段に如云うに同じ。「朔風」と云うも、「和雪」と云うも、「万物」已下(の)詞(は)、皆「梅花力」なる道理也。「歳寒心」とは、寒時寒殺闍梨の寒なるべし。ゆえに梅花と此寒との道理、只一なり。ゆえに「梅花の消息に通ぜざる、歳寒心を知り難し」とは云う也。梅花の功徳と、朔風との一理なる所が、「和合」とは云わるるなり。此の和合の道理なるゆえに、雪とも風とも云わるるに、違う事なき也。

 

太原孚上座、頌悟道云、憶昔当初未悟時、一声画角一声悲。如今枕上無閑夢、一任梅花大小吹。孚上座はもと講者なり。夾山の典座に開発せられて大悟せり。これ梅花の春風を大小吹せしむるなり。

詮慧

○孚上座段・・大小吹。「無閑夢」と云うは、以未悟時いたづらなる夢と仕い、悟後(は)無閑夢となり。「一声画角一声悲」という、角(かく)を打つ声を聞いて悟道するか、其の時刻を云う也。「画角」とは、絵を画(か)きたる角(つの)なり、これは楽器の其一歟。「一声画角」がやがて「一声の悲なる」也。未悟道の時刻も、悟道の時は無相違。一なるを一声の画角は、一声の悲と仕う也。「悲」の字は無別釈歟。「一任」という、梅花に仰せぬれば、未悟の時も梅と云いぬべし。日来の百不当、今の一当という心なるべし。「大小吹」という、梅花春を成せば大小吹と也。

経豪

  • 如文。未悟の時は一声画角も悲しき。「如今枕上無閑夢、一任梅花大小吹」とは、今の解脱の上はいたづらなる夢なし。只「梅花の大小吹に一任す」とは、この梅花の道理に任すと云う也。「任」と云うは、全界梅花なる理を云うべし。ゆえに「これ梅花の春風を、大小吹せしむるなり」とは云う也。

梅花(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。