正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第五十八「眼睛」を読み解く

正法眼蔵第五十八「眼睛」を読み解く

 

 億千萬劫の參學を拈來して團圝せしむるは、八萬四千の眼睛なり。

 先師天童古佛、住瑞巖時、上堂示衆云、秋風清、秋月明。大地山河露眼睛。瑞巖點瞎重相見。棒喝交馳験衲僧。

 いま衲僧を験すといふは、古佛なりやと験するなり。その要機は、棒喝の交馳せしむるなり、これを點瞎とす。恁麼の見成活計は眼睛なり。山河大地、これ眼睛露の朕兆不打なり。秋風清なり、一老なり。秋月明なり、一不老なり。秋風清なる、四大海も比すべきにあらず。秋月明なる、千日月よりもあきらかなり。清明は眼睛なる山河大地なり。衲僧は佛祖なり。大悟をえらばず、不悟をえらばず、朕兆前悟をえらばず、眼睛なるは佛祖なり。験は眼睛露なり。瞎現成なり、活眼睛なり。相見は相逢なり。相逢相見は眼頭尖なり、眼睛霹靂なり。おほよそ渾身はおほきに、渾眼はちひさかるべしとおもふことなかれ。往々に老々大々なりとおもふも、渾身大なり、渾眼少なりと解會せり。これ未具眼睛のゆゑなり。

 洞山悟本大師、在雲巖會時、遇雲巖作鞋次、師白雲巖曰、就和尚乞眼睛。雲巖曰、汝底與阿誰去也。師曰、某甲無。雲巖曰、有汝向什麼處著。師無語。雲巖曰、乞眼睛底、是眼睛否。師曰、非眼睛。雲巖咄之。

 しかあればすなはち、全彰の參學は乞眼睛なり。雲堂に辦道し、法堂に上參し、寝堂に入室する、乞眼睛なり。おほよそ隨衆參去、隨衆參來、おのれづからの乞眼睛なり。眼睛は自己にあらず、佗己にあらざる道理あきらかなり。

 いはく、洞山すでに就師乞眼睛の請益あり。はかりしりぬ、自己ならんは、人に乞請せらるべからず。佗己ならんは、人に乞請すべからず。

 汝底與誰去也と指示す。汝底の時節あり、與誰の處分あり。

 某甲無。

 これ眼睛の自道取なり。かくのごとくの道現成、しづかに究理參學すべし。

 雲巖いはく、有向什麼處著。

 この道眼睛は、某甲無の無は有向什麼處著なり。向什麼處著は有なり。その恁麼道なりと參究すべし。

 洞山無語。

 これ茫然にあらず。業識獨豎の標的なり。

 雲巖爲示するにいはく、乞眼睛底、是眼睛否。

 これ點瞎眼睛の節目なり、活碎眼睛なり。いはゆる雲巖道の宗旨は、眼睛乞眼睛なり。水引水なり、山連山なり。異類中行なり、同類中生なり。

 洞山いはく、非眼睛。

 これ眼睛の自擧唱なり。非眼睛の身心慮知、形段あらんところをば、自擧の活眼睛なりと相見すべきなり。三世諸佛は、眼睛の轉大法輪、説大法輪を立地聽しきたれり。畢竟じて參究する堂奥には、眼睛裏に跳入して、發心修行、證大菩提するなり。この眼睛、もとよりこのかた、自己にあらず、佗己にあらず。もろもろの罣礙なきがゆゑに、かくのごとくの大事も罣礙あらざるなり。このゆゑに、

 古先いはく、奇哉十方佛、元是眼中花。

 いはゆる十方佛は眼睛なり。眼中花は十方佛なり。いまの進歩退歩する、打坐打睡する、しかしながら眼睛づからの力を承嗣して恁麼なり。眼睛裡の把定放行なり。

 先師古佛いはく、抉出達磨眼睛、作泥彈子打人。高聲云、著。海枯徹底過、波浪拍天高。

 これは清涼寺の方丈にして、海衆に爲示するなり。しかあれば、打人といふは、作人といはんがごとし。打のゆゑに、人人は箇々の面目あり。たとへば、達磨の眼睛にて人人をつくれりといふなり。つくれるなり。その打人の道理かくのごとし。眼睛にて打生せる人人なるがゆゑに、いま雲堂打人の拳頭、法堂打人の拄杖、方丈打人の竹篦拂子、すなはち達磨眼睛なり。達磨眼睛を抉出しきたりて、泥彈子につくりて打人するは、いまの人、これを參請請益朝上朝參打坐功夫とらいふなり。打著什麼人。いはく、海枯徹底、浪高拍天なり。

 先師古佛上堂、讚歎如來成道云、

  六年落草野狐精  跳出渾身是葛藤

  打失眼睛無處覓  誑人剛道悟明星

 その明星にさとるといふは、打失眼睛の正當恁麼時の旁觀人話なり。これ渾身の葛藤なり、ゆゑに容易跳出なり。覓處覓は、現成をも無處覓す、未現成にも無處覓なり。

 先師古佛上堂云、

  瞿曇打失眼睛時  雪裡梅花只一枝

  而今到處成荊棘  卻笑春風繚亂吹

 且道すらくは、瞿曇眼睛はたゞ一二三のみにあらず。いま打失するはいづれの眼睛なりとかせん。打失眼睛と稱ずる眼睛のあるならん。さらにかくのごとくなるなかに、雪裡梅花只一枝なる眼睛あり。はるにさきだちて、はるのこゝろを漏泄するなり。

 先師古佛上堂云、霖霪大雨、豁達大晴。蝦蟇啼、蚯蚓鳴。古佛不曾過去、發揮金剛眼睛。咄。葛藤々々。

 いはくの金剛眼睛は、霖霪大雨なり、豁達大晴なり。蝦蟇啼なり、蚯蚓鳴なり。不曾過去なるゆゑに古佛なり。古佛たとひ過去すとも、不古佛の過去に一齊なるべからず。

 先師古佛上堂云、日南長至、眼睛裡放光、鼻孔裏出気。

 而今綿々なる一陽三陽、日月長至、連底脱落なり。これ眼睛裏放光なり、日裏看山なり。このうちの消息威儀、かくのごとし。

 先師古佛ちなみに臨安府淨慈寺にして上堂するにいはく、

 今朝二月初一、拂子眼睛凸出。明似鏡、黒如漆。驀然勃跳、呑卻乾坤。一色衲僧門下、猶是撞墻撞壁。畢竟如何。盡情拈卻笑呵々、一任春風没奈何。

 いまいふ撞墻撞壁は、渾墻撞なり、渾壁撞なり。この眼睛あり。今朝および二月ならびに初一、ともに條々の眼睛なり、いはゆる拂子眼睛なり。驀然として勃跳するゆゑに今朝なり。呑卻乾坤いく千萬箇するゆゑに二月なり。盡情拈卻のとき、初一なり。眼睛の見成活計かくのごとし。

 

 正法眼藏眼睛第五十八

 

  爾時寛元元年癸卯十二月十七日在越州禪師峰下示衆

  同廿八日書冩之在同峰下侍者寮 懷弉

 

正法眼蔵を読み解く眼睛」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/ganzei

 

詮慧・経豪による註解書については

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道元白山信仰ならびに吉峰・波著・禅師峰の関係についてー中世古 祥道

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如浄語録(漢文)

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禅研究に関しては、月間アーカイブをご覧ください

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道元永平寺―『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

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