正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

道元と永平寺

     道元永平寺 『福井県史』通史編2中世より抜書(一部改変)

 一般に栄西が中国より禅を伝えたことをもって日本禅宗の出発点とするが、「元亨釈書」や「延宝伝燈録」などの僧伝や「興禅記」(無象静照著)・「将来目録」(入唐求法者が持ち帰った書物等の目録)などの史料から、鎌倉期以前にも禅を日本に伝えた人物が存在したことが知られる。まず飛鳥朝期に道照(六二九~七〇〇)が入唐し、法相宗成実宗とともに禅を学び、元興寺に禅院を設けている。奈良期には唐僧の道璿が天平八年(七三六)に来日し、大和大安寺に禅院を設け、門弟の行表に法を伝えている。北宗禅というものであった。平安期に入ると最澄が入唐して円・密・禅・戒の四宗を伝えているが、彼は入唐する前にすでに行表から北宗禅を学んでいた。唐からは牛頭禅と称されるものを伝えた。空海にも「禅宗秘法記」という著述があったといい、在唐時に禅を学んだものと思われる。比叡山では円仁も入唐のおりに禅を学び禅院を設けており、円珍は代表的な禅籍である「六祖法宝檀経」を将来している。

  さらに平安期には唐僧の義空が南宗禅(以降、日本に入ってくる禅宗はこの南宗禅に属する)を伝えている。日本側の招きに応じたものであったが、数年にして帰国した。また日本から入唐した瓦屋能光(九三三年ころ没)は中国曹洞宗の祖である洞山良价の弟子となり、中国で没している。永延元年(九八七)に帰国した三論宗の奝然は宋朝禅を学び、禅宗の宣揚を朝廷に奏請したが許可されなかった。

  平安末期に禅を伝えた人物に覚阿がいる。覚阿は入宋し、南宗禅のなかの臨済宗楊岐派の禅を伝えて、安元元年(一一七五)に帰国して比叡山に入った。高倉天皇の問法を受けたが、笛を吹くのみであったという。

  このように、平安期以前において中国の禅宗と関わりをもった僧侶たちが何人かいたが、法孫を残さなかったために、これまでの禅宗史上ではあまり重んじられなかった。しかし覚阿の伝禅などは、後述する大日房能忍におおいに影響を与えることになったのではないかと考えられる。

  さて、中国からの伝禅という視点のみでは、鎌倉期以降なにゆえに禅宗が受容されていったかが理解できない。その背景には、中国禅を受容できるだけの基盤が日本のなかに存在したとみなければならないとする新しい視点が提示されている。それは、「往生伝」などの説話文学のなかに登場する禅定を修する僧や行的な僧に見出すことができる。また、奈良期における山林修行僧や民間布教僧のなかに位置した看病禅師や、持戒・看病の能力をもって国家に登用されていった内供奉十禅師の存在、平安期には寺院内に置かれた十禅師から四種三昧の修行をもっぱらにし臨終往生への助勢(葬祭)を行なう禅衆へと変化していった事実にも注目する必要がある。中世における禅僧たちがもっていた葬祭や祈祷の能力は、古代の「禅師」たちがもっていたものであったとするのである。

  さらに、禅的なものを古代からの山林修行の伝統のなかにも見出すことができるとする説もある。つまり、古代仏教のなかから中世における浄土教の展開や法華宗律宗などの展開のみをみるのではなく、古代の行的仏教のなかからは禅宗の展開もみなければならないという視点である。これらのことを考えると、入宋して禅を伝えた道元についてみるとき、中国からの伝禅という視点とともに、道元の入宋にいたるまでと帰国後の展開、特に道元のもとに参じた人びととの関連においては、古代仏教からの禅的な伝統や行的仏教の系譜などからの影響について考える視点が必要となってくる。

 道元についてみる前に、日本の禅宗の流れについて概観しておこう。入唐した学生・学問僧(三〇〇年間で一四九人)に比べると入宋僧(一七〇年間で一〇九人)・入元僧(一六〇年間で二二二人)の数ははるかに多い。入唐僧たちは、国家の留学生として求法の責務を負わされていた。ところが奝然や成尋らの北宋時代の渡海は、国家からの派遣ではなく私的なもので、仏蹟巡礼が目的であった。

  平安末から鎌倉期に渡海した僧、すなわち入宋僧は次のように三分類できるといわれている。奝然などの延長線上にあるもので重源や栄西などのように早く入宋した人びとで仏蹟巡礼を目的とするもの、芿俊や月翁智鏡などのように律宗を伝えるためのもの、3禅宗を求めてのもの、以上の三分類である。栄西天台宗に活力を与えるために禅を用いようとした人物であるが、その二回目の入宋でさえ、宋より「天竺」に渡り仏蹟を巡礼するのが最終目的であったことはよく知られている。しかし、その後の入宋僧の大部分は3である。

  また日本の禅宗界は、中国禅を能動的に求めた時期から受動的に受容された時期へと移っていったとみることもできる。鎌倉前期には道元に代表されるような求法伝法を目的とした入宋僧が多かった。しかし後期以降は次第に文化摂取のための入宋・入元へと変化し、滞在年数も長くなっている。そしてこの時期には多くの優秀な中国禅僧が渡来したといわれており、日本の禅宗にとっては受動的受容の時期ということになる。

  鎌倉前期の禅宗界をみると、栄西が建立した京都建仁寺真言・止観・禅の三宗を兼ねそなえた比叡山の末寺として存在し、栄西自身は鎌倉幕府のなかでは台密僧として活動しており、彼の門弟たちも同様であった。中国禅宗界を代表する無準師範の法を嗣いで帰国した円爾弁円は、九条道家の外護を受けて京都東山に本格的な禅寺の東福寺を建立しているが、同寺も真言・天台・禅の三宗を修する道場として出発したとされる。唱えた禅も顕密禅と称されるものであった。なおこの時期に、只管打坐(ただひたすら打ちすわる)という純粋禅を唱えていた道元は越前に赴くことになる。道元が越前に入ることを決断した要因の一つに、圧倒的な大伽藍である東福寺の建立を挙げる説があるほどである。

 このような日本の禅宗界の兼修禅的・顕密禅的な傾向を変化させたのは、寛元四年(一二四六)に渡来した蘭渓道隆であった。彼は宋朝風の純粋禅をもたらしたのである。彼が開山となった鎌倉の建長寺は、宋朝風の建築様式で建立された。この蘭渓が京都の建仁寺の住持となるに及んで、純粋禅は京都にももたらされた。武士のなかにも北条時頼のように、禅に深い理解を示す者も出てきた。ただし兀菴普寧は時頼が没すると、禅の理解者なしとして帰国した。

 北条時宗は、日本においても著名であった無準師範の高弟の環渓あたりを招こうとしたが、実際には法弟の無学祖元が弘安二年(一二七九)に渡来した。蘭渓・無学ともに元の圧迫を避けての渡来という感じが強く、必ずしも一流の人物ではなかったようであるが、両者により宋朝風の純粋禅がもたらされた。

 元は再度の日本侵略に失敗すると、属国となるよう勧誘するために一山一寧という禅僧を送り込んできた。北条貞時はいっとき彼をとらえるが、のちには建長寺の住持としている。以後は日本からの招きに応じて渡来した人物が多く、東里弘会・東明慧日・霊山道陰などが挙げられる。このうち東明慧日は曹洞宗宏智派を伝えた人物である。彼およびのちに渡来した東陵永の法孫は、臨済宗で占められた五山派のなかでは珍しく曹洞宗として存在し、朝倉氏の外護を受けて越前にも寺院を有した(六章二節二参照)。

 鎌倉最末期になると、清拙正澄や明極楚俊・竺仙梵僊などの一流の禅僧が招きに応じて渡来してくるようになる。明極は当時の入元僧の多くが彼のもとを訪れるほどの人物であり、竺仙も入元僧であれば一度は訪れるという古林清茂の高弟であった。

 これ以降は渡来僧は途絶え、わずかに曹洞宗宏智派の東陵永が観応二年(一三五一)に渡来したに過ぎない。また日本の禅の水準も高まり、渡海してまで中国禅林から学ぼうとする者は少なくなっていた。そうしたなか鎌倉末期から南北朝期にかけて、渡海の経験のない、密教的要素を禅のなかに融合させた禅風をもつ夢窓疎石が活躍するようになり、その門派が勢力をもつようになっていったのである。

 禅宗の展開をみる場合、臨済宗曹洞宗に分けてみるよりも、宗派にかかわらず京都・鎌倉の五山を中心に展開した五山派(叢林)と地方に発展した林下(または林下禅林)とに分けて把握すべきであるという見解がある。そして中央から地方への伝播は三波に分けてとらえられている。まず第一波には越前永平寺開山の道元をはじめ、臨済宗紀伊国由良西方寺(のちの興国寺)の開山である無本覚心、陸奥国松島円福寺の性才法心、山城国勝林寺の天祐思順などがおり、彼らは中国禅を積極的に求め、地方に隠遁し、教団形成には否定的であったという。このうち道元や天祐を除くほとんどの人びとは密教的性格をもっていた。彼らの活躍した時期は鎌倉前期であった。次に第二波は五山派寺院の門弟らで、上層の地方豪族の保護を受けて各地に寺院を建立した人びとである。それらの寺院は五山寺院の末寺となっていった。第三波には中国の中峰明本に参じて念仏禅を伝えた人びとが多く、隠遁的であった。近江国永源寺の寂室元光、常陸国法雲寺の復庵宗己、筑前国高源寺の遠渓祖雄、甲斐国天目山棲雲寺の業海本浄などで、南北朝前期から中期にかけての人たちである。またこの時期には、さまざまな理由で五山およびその周辺の寺院から地方へ出た人びともおり、一派を別立する者や、各地の他派へ流入する者などがいたのである。こうしたなかで、教団否定的であった各派も教団を形成するようになっていった。永平寺道元下の法孫のなかにも、永平寺から加賀大乗寺へ出た徹通義介や、能登永光寺・総持寺を開いた瑩山紹瑾などが登場するに及んで、曹洞宗は大規模な教団へと変化していった。

 五山派に属することなく各地に展開した林下禅林を代表するものには、永平寺道元下の曹洞宗臨済宗の京都大徳寺妙心寺の門流などが挙げられる。なお、曹洞宗でも宏智派は五山叢林のなかにあり、朝倉氏の保護を受けて越前にも進出してくることになるのである。

 道元の生誕(一二〇〇年)前後は、禅宗史からみると大きな画期であった。栄西と能忍の出現である。栄西はまず天台宗の教学を学んだのち入宋し、臨済禅を学び、建久二年(一一九一)に帰国した。「興禅護国論」を著わし、建仁二年(一二〇二)には将軍頼家の援助を受けて京都に台(天台)・密(真言)・禅三宗兼学の寺として建仁寺を建立している。建永元年(一二〇六)、重源の跡を嗣いで東大寺勧進職となり、復興に尽力している。栄西勧進聖的性格がうかがわれる。

 能忍は房号を大日房という。禅宗に関心をもち、独力で悟りを開き、摂津水田(大阪府吹田市)に三宝寺を開創している。しかし無師独悟を批判されると、文治五年(一一八九)に弟子二人を入宋させ阿育王山の拙庵徳光のもとに遣わし、嗣法を許されている。能忍は「在京上人能忍」と称されており(『百練抄』)、京都での布教活動を行なっていたようである。能忍は拙庵から弟子を通じて受けた初祖達磨から六祖慧能(禅が中国でさかんになる基礎を作った人物)にいたる六人の舎利をもとに達磨宗を強調し、それまでの釈迦の舎利信仰に強い影響を与えたとも考えられている。建久五年には栄西とともに達磨宗の布教を停止させられているが、禅僧としての活動が栄西以上であったことは、日蓮が「開目抄」のなかで念仏宗法然に並べて禅宗の大日(能忍)を挙げていることからもうかがえる。 

 能忍の弟子である仏地覚晏は、多武峰奈良県桜井市)に移る以前は京都東山にいた。弟子の懐鑑が東山で覚晏から血脈を受けている(「永平寺室中聞書」)。しかし多武峰は安貞二年(一二二八)に興福寺衆徒によって焼打ちに遭い、覚晏門下も離散ということになったようである。懐鑑は越前足羽郡波着寺に移りその拠点とした。多武峰にいた覚晏に参じた懐奘は帰国して建仁寺にいた道元を訪ね、文暦元年(一二三四)には宇治興聖寺道元の門弟となっており、仁治二年(一二四一)には、越前波着寺にいた懐鑑が門下の義介・義演・義準・懐義尼・義荐・義運らを率いて上洛し、やはり道元の門下に入っている。なお波着寺は足羽川流域の稲津保にあるが、この稲津保出身でのちに永平寺三世となる義介が、波着寺にいた懐鑑のもとで寛喜三年(一二三一)ごろに出家している。そして、この達磨宗の相承物は義介から瑩山紹瑾へと伝播されていった。また越前大野郡宝慶寺開山の寂円の弟子であり、のちに永平寺五世となる義雲も系字の「義」が付されており、波着寺で出家したのではないかと考えられる。義雲は宝慶寺の檀越であった伊自良氏の出身と推定されている。

 いずれにしても達磨宗には、東山・多武峰・越前波着寺を経て道元の門下に入っていった一派と、摂津吹田の三宝寺を中心に応仁年間(一四六七~六九)まで存続した一派が存在したのである。

 永平寺を開いた道元の伝記としては、道元から四世で能登総持寺の開山の瑩山紹瑾が中心となって編集したとされる「元祖孤雲徹通三大尊行状記」(『曹洞宗全書史伝』上)や、それを整備して応永年間(一三九四~一四二八)に編集されたという「永平寺三祖行業記」、永平寺十四世建撕(一四六八~七四まで永平寺住持)が著わした「永平開山道元禅師行状 建撕記」(以下「建撕記」と略)、また瑩山紹瑾が歴代の祖の伝記を著わした「伝光録」(『曹洞宗全書史伝』下)のなかの「第五十一祖、永平元和尚」の項などがある。これらの伝記を中心に道元の行歴を略記してみたいと思う。

  道元は、頼朝が幕府を開いて八年後の正治二年(一二〇〇)に京都で生まれている。正月二日の誕生とされる。父は村上源氏の久我通親、母は松殿藤原基房の娘の伊子といわれている。ただし実父はこれまで育父とされてきた通親の子道具とする説も有力となってきているが、母である藤原基房の娘との関係もあっていまだ確定的とはいえないので、ここでは父は通親、母は基房の娘伊子と考えておきたい。道元誕生の地は未詳であるが、母方の松殿の宇治木幡の山荘ではないかといわれている。父である源通親は当時土御門上皇の外祖父であり、頼朝をして「手にあまる」と怖れさせるほどの政界での実力者であった(「愚管抄」)。しかし道元はこの父を三歳のときに失い、母も八歳のときに失っている。母も初めは木曾義仲のもとに嫁がされ、そののち源通親の側室にされたという説もあるほどの薄幸の人であったようである。

  母方の伯父である師家は、道元を官職に就かせるために養子とし元服させようとした。しかし道元は一三歳の春のある夜、松殿の山荘を去り比叡山の麓に母方の叔父良観法師(「永平寺三祖行業記」「建撕記」には良顕とみえ、『尊卑分脈』には良観とある)の庵を訪ねた。良観は道元比叡山横川の首楞厳院般若谷の千光房に住まわせることにしている。この般若谷は、栄西の弟子でのちに道元とともに入宋することになる明全が参学したところであり、道元より年長であるがのちに弟子となる懐奘も参学した場所であった。

  建保元年(一二一三)一四歳の四月九日、天台座主公円について得度し、翌日戒檀院において菩薩戒を受け、仏法房道元と名乗った。比叡山において天台教学を学習するに及び、大きな疑問が生じたという。それは「本来本法性、天然自性身」という、一切の衆生には本来仏性がそなわっており人は本来仏であるとする天台宗などの基本的な考え方に対して、道元は、元来仏であるならばこれまでの諸仏諸祖はなにゆえに修行する必要があることを説いてきたのであるかという疑問をもったのである。天台教学からみれば幼稚にさえみえる疑問であったが、この基本的な問いに答えてくれる人物はいなかった。

  当時、延暦寺興福寺園城寺三井寺)などの寺院の間では争いが生じており、そのために公円は辞任するにいたる。道元も一五歳のころ比叡山を去り、園城寺の座主公胤を訪ね、先の疑問を問うたが公胤は答えず、禅宗の存在を教えた。道元はその指示により京都の建仁寺を訪ね、栄西が伝えた臨済宗黄竜派の禅にふれることになった。以後、道元建仁寺園城寺において学習を続けた。

  栄西は建保三年六月五日に鎌倉の寿福寺で没しており(一説には七月五日建仁寺にて没)、道元栄西に会うことができたかどうかは微妙であるが、おそらく会うことはできなかったのではないかと考えられる。栄西なきあとの建仁寺においては、栄西の弟子の明全について参禅した。

  貞応二年(一二二三)二四歳の二月二十二日、明全とともに京都を出発し、博多から船出して四月には中国の明州慶元府(寧波)に到着した。同年七月に天童山景徳寺に入り、臨済宗大恵派の無際了派に参じる。翌三年冬に無際が死去したので、天童山を去り諸方を歴訪したが、満足できなかった。ついに帰国しかけたが、以前に耳にした如浄という禅僧が天童山の住持となっていたので参禅することにした。如浄に参じてまもなく、ともに入宋した明全が亡くなっている。

 嘉禄三年(一二二七)二八歳の秋、如浄より嗣書(法が伝えられたことを証明する書)を受け、帰国することになった。同年八月ごろ出帆し、肥後国の川尻に帰着し(薩摩国坊津に帰着したとする説もある)、京都建仁寺に入った。この年、早くも「普勧坐禅儀」(『曹洞宗全書宗源』上)を撰述している。なお永平寺所蔵の道元真筆本(国宝)の奥書は天福元年(一二三三)の撰述となっているが、まもなく撰述する「弁道話」に「その坐禅の儀則は、すぎぬる嘉禄のころ撰集せし普勧坐禅儀に依行すべし」とあり、嘉禄三年は十二月十日に安貞元年と改元されていることを考えると、嘉禄三年に撰述したことになる。したがって永平寺所蔵の同書は、六年後に深草の観音導利院興聖寺を開創したおりに清書したものである。この「普勧坐禅儀」は道元が主張する「正伝の仏法」の坐禅を一般に広め勧めようとするもので、いわゆる教学の仏法ではなく、仏教の原点に帰り釈迦の正覚に直結しようとするものであったといえる。同書は道元の基本的立場を明らかにするものであった。建仁寺にいた道元のもとには、法を問う者も少なくなかったようである(「正法眼蔵随聞記」)。

 しかし寛喜二年の三一歳のころ、建仁寺を出て山城深草に閑居した。建仁寺道元にとって、次第に参禅者に指導できるような環境ではなくなっていたようである。大日房能忍の法孫であった懐奘が参随を願ったときに、別のところに草庵を結ぼうと思うのでそのときに訪ねて来るようにと言わざるをえなかったほどであった(「伝光録」)。それに、当時の建仁寺は腐敗し堕落していたようである(「正法眼蔵随聞記」)。そして道元建仁寺における房舎は破棄された(「京都御所東山御文庫記録」)。教禅兼修の建仁寺で純粋禅を説いたため、比叡山僧の迫害があったものと考えられる。

 寛喜二年に閑居したところは京都郊外深草極楽寺別院の安養院であった。この安養院で翌三年八月十五日、道元の禅を如実に示した「弁道話」を撰述している。

  道元は如浄から伝えた仏法を正伝の仏法と称したが、それは只管打坐の禅風であった。坐禅を、悟るための手段にはしなかった。坐禅それ自体に絶対の価値を見出し、坐禅修行すること以外に悟りはないとし、「修証一如」、すなわち坐禅(修)が悟り(証)であるとする。

  道元の在俗男女に対する態度は、「弁道話」に「本郷にかへりし、すなわち弘法救生をおもひとせり」と述べており、帰国後は法を広め、衆生を救済することを念頭に置いていたことが知られる。ゆえに坐禅修行は「男女貴賎」にかかわらず修することができるものであることを明確に示している。

  このころになると道元の周辺には、近衛家藤原教家(弘誓院)・正覚禅尼などの助力者が現われたようである。このうち近衛家は、近衛基通道元の父とされる久我通親とがともに抗幕派として政治的に深い関係にあったとされる。また建長五年(一二五三)の近衛家の所領目録からは(「近衛家文書」)、冷泉宮領の相模国波多野(神奈川県秦野市)の地を管理したことが知られるが、この波多野はのちに道元の大檀越となる波多野氏の本貫の地であった。藤原家と密接な関係にあった寺院のなかには山階寺や法性寺などをはじめとして多武峰極楽寺も存在し、近衛家とも無関係ではなかったようで、道元深草極楽寺の別院である安養院に居住するようになったのも、近衛氏との関係からではなかったかと考えられている。

  藤原教家道元の母方の関係者であったようである(『尊卑分脈』、「山州名跡志」一八)。道元はこの藤原教家や正覚禅尼などの助力により、天福元年ころに観音導利院興聖宝林禅寺を深草極楽寺跡に開いている。そしてこの年の夏に『正法眼蔵』(摩訶般若波羅密の巻)を示し、以後同書の示衆・撰述を進めていくことになる。

  文暦元年の冬、大日房能忍門下で仏地覚晏の門弟であった懐奘が参じてきている。嘉禎二年(一二三六)十月に僧堂を開くと、前述のように仁治二年春には越前波着寺の懐鑑が門下の義介・義演・義準・懐義尼・義荐・義運らを率いて道元のもとに入っている。大日房門下の集団での参入であった。

 道元僧団は次第に大きくなっていった。やがて京都においても説法を行なうようになり、仁治三年十二月十七日には六波羅の波多野義重のもとで『正法眼蔵』(全機の巻)を説き、翌寛元元年四月二十九日には六波羅密寺で『正法眼蔵』(古仏心の巻)を説いている。

 道元建仁寺深草時代に道元に参学・問法する者が少なからず存在したことは前述したが、帰国後まもない安貞元年十月十五日、明全の得度の弟子の智姉が明全の舎利(火葬にしたときに高僧ほど多数あるとされる美しい骨)を分与してほしい旨を申し出てきたので、道元は「舎利相伝記」(『曹洞宗全書宗源』下)を書いて与えている。道元建仁寺にいたときである。なおこの智姉は道元より四代の法孫になり能登の永光寺や総持寺の開山として知られる瑩山紹瑾の「洞谷記」に「明智優婆夷」と表記されており、篤信者であったことがうかがえる。瑩山は永光寺開創に尽力した平氏の女性をこの建仁寺道元を訪ねた明智と対比させているのであり、のちのちまで明智の名は知られるところとなっていたようである。「洞谷記」にはまた「瑩山今生祖母明智優婆夷」とみえる。瑩山の出生地は坂井郡多称村(丸岡町山崎三ケ)、あるいは今立郡帆山(武生市)ともいわれている。明智は越前の人か、あるいは少なくとも越前と密接な関係にあった人物であったと理解される。

 天台宗の教学を集大成したといわれる「渓嵐拾葉集」(一三四七年)には、仏法房(道元)が後嵯峨天皇のときに「護国正法義」を著して奏聞に及んだが、佐の法師が、道元の説は仏教に拠ったものではないので沙汰に及ぶようなものではないとの判定を下し、極楽寺が破却されたという記事を掲載している。これによれば、道元が「護国正法義」を著したということになり、その内容が原因で極楽寺が破却されたというのである。その内容は未詳であるが、栄西の「興禅護国論」を意識してのものであったと思われる。では「護国正法義」が著述されたのはいつごろなのであろうか。

 暦仁二年(一二三九)四月二十五日に撰述された『正法眼蔵』(重雲堂式の巻)の奥書に「観音導利興聖護国寺開闢沙門道元示」とある。「護国」という文字がみられるのは、この巻だけである。「護国」ということが強く意識されたときであろうか。この暦仁二年四月からそう遠くない時期で、かつ後嵯峨天皇の即位後で、『正法眼蔵』の撰述に間がある時期が「護国正法義」の著された時期ということになろう。それは、仁治三年六月二日の『正法眼蔵』(光明の巻)以後、九月九日の『正法眼蔵』(身心学道の巻)撰述の間ということになると考えられている。

 しかし、道元が越前に入居するのはちょうど一年後の寛元元年の七月である。「護国正法義」の撰述からすると間があきすぎているとする見方から、極楽寺破却そして道元の越前入居の直接の原因は、仁治三年十二月十七日の六波羅密寺そばの波多野義重邸と翌寛元元年四月二十九日の六波羅密寺での『正法眼蔵』の説示ではなかったかとする説もある。

 いずれにしても、波多野氏がのちに永平寺における檀越となっているところをみると、六波羅での道元の説法は入越と深くかかわっているとみてよかろう。天台別院であり、多くの人びとの信仰を集めていた六波羅密寺での説示が比叡山の僧徒を怒らせ、興聖寺が破却されるという事態になってしまったものと思われる。六波羅密寺での説示は古仏心の巻であり、その巻頭では、禅宗系図が釈迦以来正しく伝わってきたことを示すものであるだけに、比叡山側を刺激するものであったのかもしれない。

 それにしても、道元の越前入国は急であった。『正法眼蔵』の著述・説示は、天福元年夏に説きはじめて仁治三年十二月までの九年半に四二巻に及んでいたが、仁治四年に入っても正月六日に都機、三月十日に空華、四月二十九日に古仏心、五月五日に菩提薩埵四接法、七月七日に葛藤の各巻を示している。古仏心の巻以外は興聖寺での説示である。七月七日に同寺で説示して一か月を経ない閏七月一日には、すでに越前大野郡の禅師峰において三界唯一心の巻を示しているのである。深草興聖寺を義準に頼み、七月のうちに越前に入ったことになる。興聖寺の破却があったとすれば、説示に間がある五月五日から七月七日の間であったものと推定される。

 さて、道元の越前入国の理由であるが、直接的には興聖寺が破却されるということがあったかもしれないが、それのみではなかったようである。道元はすでに師の如浄から深山幽谷に居して修行するようにといわれており(「宝慶記」)、深山にての修行のことは『正法眼蔵』(重雲堂式の巻)のなかにもうかがえるので、道元の心の底には深山幽谷での修行への思いがあったものと思われる。それが興聖寺の破却や、比叡山建仁寺との関係の悪化、あるいは大規模な伽藍をそなえた東福寺の建立などのこととあいまって、越前入居ということに傾いていったものと思われるのである。

 道元吉田郡志比荘に入居することになった最大の理由は、それまでに有力檀越となっていた波多野義重の所領が同所に存在したことによるものと考えられる。波多野氏は平安末期以降、多くの支族を出し、秦野盆地(神奈川県秦野市)から足柄平野へと進出し、松田・河村・大友・菖蒲・広沢など各地の地名を苗字とする諸流が活躍する状況になっていた。次に波多野氏が全国に拡散したのは、後鳥羽上皇北条義時追討の院宣を下して争った承久の乱(一二二一)が契機になっていて、関東の多くの御家人が乱の恩賞地を得て西遷していったが、波多野義重もこの時期に志比荘に移ったのではないかと考えられる。志比荘は、平安末期の承安三年(一一七三)に後白河天皇の女御の建春門院平滋子の本願によって創建された最勝光院領として立荘された荘園である。義重は承久の乱にさいしては惣領の波多野経朝に従って参戦し、右眼を失明している(『吾妻鏡』宝治元年十一月十六日条)。義重が承久の乱の新恩地として志比荘の地頭職を受けたことを明らかにする史料は存在しないが、道元を同荘に招き、のちに永平寺の大檀越となっていることや、義重の跡を嗣いだと考えられる子息の時光が「野尻」と号し越中国野尻(富山県福野町)を領していたことが知られることから、義重と時光は越中国野尻とともに志比荘の地頭職を受け継いでいったものと考えられる。これらのことから義重は、承久の乱による恩賞として越中国野尻とともに志比荘を受け、西遷していったと考えてよかろう。 

 承久の乱後に義重の名がみえる史料は、仁治三年十二月十七日に道元六波羅蜜寺のそばにある義重の邸宅で説示した『正法眼蔵』(全機の巻)の奥書である。当時の義重は六波羅探題での任務に就いており、六波羅に屋敷を構えていたことが知られる。またそれ以降も、京都六波羅で活動していた(同 寛元四年正月十日条)。

 義重にとって、志比荘へ入宋僧を迎え、数年後に寺院(大仏寺、のちの永平寺)を建立したことは、自らの力を荘園内外に示すことになったものと思われる。西遷御家人が本貫地から神を勧請したり、新たに寺院を建立した例は多々あるが、波多野義重が道元を迎えて寺院を建立したのも、そのような面でとらえることができるのではなかろうか。

 道元が越前に入居することになった理由には、波多野義重の勧誘とともに、足羽郡波着寺から参入してきた懐鑑以下の達磨宗の人びとの勧めも存在したと考えられる。そのなかには義介のように、足羽川流域の稲津保の出身者もおり、越前の地理や状況に詳しい人びとがいたと思われる。波着寺の旧跡(福井市成願寺町)は「波着観音」と称され、登り口には「波着観音」の額を掲げた鳥居が建っている。志比荘は波着寺からさほど遠くない所にあった。波着寺は比叡山の末寺的存在であったと考えられるが、かつて達磨宗の人びとが拠りどころとした東山多武峰のように、往徨する天台宗の別所聖などが居住する場であったろう。

 さらに道元を越前に迎えるにあたっては、波多野義重とともに、後述するように今立郡に所領をもち京都に私宅をもっていて義重とも系図上でも連なると考えられる覚念の力もあったものと思われる。また道元から明全の舎利を受けた明智も、前述したように越前と密接な関係にあった人物であった。

 道元は、こうした諸関係を背景として越前に赴くことになったのである。ただ越前出発まで『正法眼蔵』の説示を続け、半月ばかりで越前に入り、入り次第すぐに同書の説示を開始しているところをみると、興聖寺破却事件の有無はともかくとして、越前入国はかなり計画的に以前から進められていたものと考えられる。なお計画性が考えられることから、興聖寺破却事件などは存在しなかったとする見解もある。

 仁治四年七月七日、すなわち七夕の時点では興聖寺にいた道元は、閏七月一日には志比荘の吉峰寺(上志比村吉峰)において『正法眼蔵』(三界唯一心の巻)を説示している。「建撕記」は、七月十六日に宇治を出発し、七月末には越前の吉峰寺に入ったと記している。『正法眼蔵』の各巻の奥書により、道元がどこに居住していたのかがわかるが、入越当初の道元は閏七月一日から十一月十三日までは吉峰寺において四か月半の間に一六巻の『正法眼蔵』を説示している。十一月六日に説示された『正法眼蔵』(梅華の巻)には「深雪三尺大地漫々」とあるように、吉峰寺は雪の深いところであった。十一月十九日から翌寛元二年元旦までに、禅師峰下の草庵(大野市西大月)において『正法眼蔵』五巻が示衆され、門弟懐奘により二巻が書写されている。

 禅師峰で正月を越した道元や懐奘は吉峰寺に戻り、正月十一日から六月七日までは同寺にて『正法眼蔵』各巻の示衆や書写を行ない、このときの夏安居(四月十五日から七月十五日の修行)は吉峰寺を中心に行なわれたものと思われる。越前に入国して一年弱の間に、道元は吉峰寺から禅師峰へ移り、また吉峰寺へ戻ったことになるが、周辺の僧侶たちは両寺間を往復しながら修行生活を続けていたのではないかと思われる。

 そしてこの間に、それまでに計画されていたであろう大仏寺の建立が、春になるのを待って実行に移されていった。二月二十九日には大仏寺法堂の地を平らにする工事、四月十二日にはその法堂の上棟式が行なわれた。その儀式の時間などについては陰陽師の安倍晴宗に占わせている(「建撕記」)。この安倍晴宗はのちの建長四年四月一日宗尊親王が将軍として鎌倉へ下向するさいに、西御方(内大臣土御門通親の娘)や波多野義重らとともに従った人物である。七月十八日には開堂説法が行なわれており、道元の語録集である「永平広録」にもそのときの法語が掲載されている。寺院は吉祥山大仏寺と号することになった。

 このときの法要の参詣人のなかには、「前大和守清原真人」「源蔵人」「野尻入道実阿左近将監」「案主」「公文」などがいた(同前)。このうちの「野尻入道」とは越中国野尻にいた波多野義重の子息の時光であろう。また「案主」「公文」といった荘園を管理する在地の人物と思われる人びとの参加もあったことがうかがえる。九月七日には京都の興聖寺より大仏寺に木犀樹が送られてきている。大仏寺開堂の祝賀ということであったろう(同前)。そして翌寛元三年の四月十五日には大仏寺において夏安居の上堂(堂の須弥壇の上に登って行なう説法)があった(「永平広録」)。これはすでに大仏寺に僧堂が完成していたことを示している。

 このような大仏寺の建立には波多野義重とともに覚念の助力があった。越前に入ってまもないころに、すでに二人で寺地の選定にあたっている。「建撕記」に、「雲州大守并今南東左金吾禅門覚念相共ニ建立セント欲ス、庄内ニテ山水ノ便宜ヲ尋ヌ」とみえ、覚念は今南東郡内に所領をもっていたことがうかがえる。ちなみに今南東郡とは、今立郡のうち月尾川・鞍谷川流域および足羽川上流域にあたる。道元は最晩年に上洛し覚念の私宅で療養生活を送っているので(「建撕記」)、先述したように覚念は京都に私宅をもち今立郡に所領をもつ人物であったといえる。覚念は波多野義通の二男義職(義元)の子息としてみえる中島義康ではないかと考えられ(『諸家系図纂』巻一八)、波多野義重は同じく波多野義通の長男忠綱の子息であるから(『尊卑分脈』)、義重と覚念とは従兄弟という近い関係にあったことが理解される。

 ところで大仏寺という寺名であるが、これは禅宗寺院として建立される以前にあった寺名であったと思われる。道元や波多野義重・覚念らは大仏寺という古寺があった所を整地してそこに本格的な禅寺を建立し、旧寺名をそのままとって大仏寺としたものと考えられる。なお、大仏寺は現在の永平寺裏山の大仏寺山山頂付近にあり、三代の義介のときに現在地に移ったとする説があるが、大仏寺旧跡といわれる所はのちの永平寺の伽藍が存在したほどの広さはないので、大仏寺は当初より現在の永平寺が存在するあたりに建立されたものと考えられる。

 大仏寺の開堂説法から二年、同寺での初めての結夏上堂から一年が経過した寛元四年六月十五日、道元は大仏寺を永平寺と改めている(「永平広録」)。またこの日には「永平寺知事清規」を撰述し、永平寺を運営する六知事の心構えを定めており、道元の意気込みが感じられる。

 道元は宝治元年(一二四七)八月に執権北条時頼招請により鎌倉に赴き、説法を行ない、翌二年三月に帰山している。この鎌倉行きはあまり思うようにいかなかったようで、反省の色がみえる(同前)。この年の暮の十二月二十一日に「庫院須知」を定めて、「公界米」の使用の仕方について規制を定めており、それより二年前の寛元四年八月六日にも『正法眼蔵』(示庫院文の巻)で規制を定めており、すでに庫院が存在したことが知られる。また建長元年正月十一日には「吉祥山永平寺衆寮箴規」を撰述しているので、衆寮という建築物も完成していたことが理解できる。

 建長元年十月十八日に道元は「永平寺規制」(永厳寺文書一号『敦賀市史』史料編二)を設け、参陣・訴訟を行なうこと、諸寺の役職に就くこと、他寺院の勧進職を勤めること、地頭や守護所の政所へ赴き訴訟を行なうこと、諸方の墓堂の供僧や三昧僧(葬送にかかわる僧)を務めることなど、九か条について禁止しているのである。禁制を定めなければならないほど、さまざまな能力をもった僧侶たちが存在したということになる。そこには、ややもすれば世間の一般的な傾向に流される僧侶を出さないよう腐心している道元の姿がある。

 また永平寺にはさまざまな人びとも参詣したようである。寛元五年正月十五日の布薩説戒のさいには五色の雲が方丈の正面障子にたなびいたといい、参詣していた吉田郡河南荘中郷の人びとがそれを見物したという文書が伝えられている(資2 全久院文書一二号)。

 道元は建長四年の秋に病気となり、翌五年七月には永平寺を退いている。そして懐奘が七月四日に二世として入院した。八月五日に道元は懐奘をともない京都に向かって出発し、俗弟子覚念の高辻西洞院の宅に入り、八月十五日には中秋の和歌を詠み、同月二十八日に寂した。五四歳であった。

 懐奘は東山の赤辻にて道元を荼毘に付し、九月十日に永平寺に帰った。同月十二日には葬儀を行ない、永平寺の西隅の道元の師如浄の塔があったところに塔を建て、その庵を承陽庵と号することにしている。なお、それまでの如浄の塔は道元を慕って中国より渡来した寂円が塔主として守ってきたものであった。

 三代相論などで永平寺はかなり疲弊していたようである。このような状況のなか、大野郡宝慶寺から五世として入院したのが義雲であった。義雲は道元を慕って宋国より渡来してきて懐奘に嗣法し宝慶寺を開いた寂円の門弟で、弘安二年ごろに懐奘に助力して『正法眼蔵』を書写していた人物である。正和三年(一三一四)十二月二日に永平寺に入っている。

  義雲は宝慶寺から什物などを持参したりして伽藍の整備を行ない、永平寺の復興に全力を挙げている。嘉暦二年(一三二七)八月四日には梵鐘を鋳造している。入院してから一三年が経過していた。梵鐘の鋳造は諸堂の復興がほぼ完了したことを意味するのではなかろうか。

  このように義雲は伽藍の復興に尽力したが、宗旨に関する面でもその立直しを行なっている。六十巻本『正法眼蔵』(実際は五九巻であるが行持巻が上・下に分けられている)は義雲の編集によるものといわれており、嘉暦四年五月には六十巻の各巻の題目の下に着語を付し、各巻の大意を七言四句の偈(宗教的な内容をもった漢詩文)で表現した「正法眼蔵品目頌」を撰述している。

 先述したように、義介を永平寺の中興とよんだ時期があったようであるが、義雲以降は彼を称するのが一般的となった。義雲が入寺して以降、関東より入った門鶴が慶長三年(一五九八)に二十四世になるまで、永平寺住持はいずれも宝慶寺から入ることになっていった。すなわち寂円派の人びとによって永平寺住持職は務められていったのである。義雲が正慶二年(一三三三)十月十二日に寂したのちに住持となったのは、門弟の曇希という人物であった。