正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

十二巻本 第十一 「一百八法明門」を読み解く   二谷正信

   十二巻本 第十一 「一百八法明門」を読み解く

                             二谷正信

   一

 爾時護明菩薩、觀生家已。時兜率陀有一天宮、名曰高幢、縱廣正等六十由旬。菩薩時々上彼宮中、爲兜率天説於法要。是時菩薩、上於彼宮、安坐訖已、告於兜率諸天子言、汝等諸天、應來聚集、我身不久下於人間。我今欲説一法明門、名入諸法相方便門。留教化汝最後。汝等憶念我故、汝等若聞此法門者、應生歡喜。

 時兜率陀諸天大衆、聞於菩薩如此語已、及天玉女、一切眷屬、皆來聚集、上於彼宮。

 護明菩薩、見彼天衆聚會畢已、欲爲説法、即時更化作一天宮、在彼高幢本天宮上。高大廣闊、覆四天下、可喜微妙、端正少雙、威徳巍々、衆寶莊餝。一切欲界天宮殿中、無匹喩者。色界諸天、見彼化殿、於自宮殿、生如是心、如塚墓相。

 時護明菩薩、已於過去、行於寶行、種諸善根、成就福聚、功徳具足、所成莊嚴、師子高座昇上而坐。

 護明菩薩、在彼師子高座之上、無量諸寶、莊嚴間錯無量無邊。種々天衣而敷彼座、種々妙香以薫彼座。無量無邊寶爐燒香、出於種々微妙香花、散其地上。高座周匝有諸珍寶、百千萬億莊嚴放光、顯耀彼宮。彼宮上下寶網羅覆、於彼羅網多懸金鈴。彼諸金鈴出聲微妙。彼大寶宮、復出無量種々光明。彼寶宮殿千萬幡蓋、種々妙色映覆於上。彼大宮殿、垂諸旒蘇、無量無邊百千萬億諸天玉女、各持種々七寶、音聲作樂讚歎、説於菩薩往昔無量無邊功徳。護世四王百千萬億、在於左右守護彼宮。千萬帝釋禮拝彼宮、千萬梵天恭敬彼宮。又諸菩薩百千萬億那由佗衆、護持彼宮。十方諸佛、有於萬億那由佗數、護念彼宮。百千萬億那由佗劫所修行、行諸波羅蜜、福報成就、因縁具足、日夜増長、無量功徳、悉皆莊嚴。如是如是、難説難説。

 彼大微妙師子高座、菩薩坐上、告於一切諸天衆言、汝等諸天、今此一百八法明門、一生補處菩薩大士、在兜率宮、欲下託生於人間者、於天衆前、要須宣暢説此一百八法明門。留與諸天以作憶念、然後下生。汝等諸天、今可至心諦聽諦受、我今説之。

 

「爾時護明菩薩、観生家已。時兜率陀有一天宮、名曰高幢、縦広正等六十由旬。菩薩時々上彼宮中、為兜率天説於法要。是時菩薩、上於彼宮、安坐訖已、告於兜率諸天子言、汝等諸天、応来聚集、我身不久下於人間。我今欲説一法明門、名入諸法相方便門。留教化汝最後。汝等憶念我故、汝等若聞此法門者、応生歓喜(『仏本行集経』六「大正蔵」三・六八〇b二〇)<爾の時に護明菩薩、生家を観じ已りぬ。時に兜率陀に一天宮有り、名を高幢と曰う、縦広正等六十由旬なり。菩薩時々に彼宮の中に上り、兜率天の為に法要を説けり。是の時に菩薩、彼の宮に上りて、安坐し訖已(おわ)りて、兜率諸天に告げて言く、汝等諸天、応に来り聚集すべし、我が身久しからずして人間に下るべし。我れ今一の法明門を説かんと欲う、入諸法相方便門と名づく。教を留めて汝を化すこと最後なり。汝等我れを憶念するが故に、汝等若し此の法門を聞かば、応に歓喜を生ずべし>

 「護明菩薩」とは、兜率天に於ける釈尊最後身の菩薩名。「生家」とは、同経に説く処の「乃能堪受一生補処後身菩薩、菩薩欲入母胎之時」(「同」六七九c一九)を云い、「一生補処菩薩」は釈尊である。

「時兜率陀諸天大衆、聞於菩薩如此語已、及天玉女、一切眷属、皆来聚集、上於彼宮」(「同」b二七)<時に兜率陀諸天の大衆、菩薩の此の如く語るを聞き已りて、天の玉女、一切の眷属に及ぶまで、皆な来り聚集りて、彼の宮に上りぬ>

「護明菩薩、見彼天衆聚会畢已、欲為説法、即時更化作一天宮、在彼高幢本天宮上。高大広闊、覆四天下、可喜微妙、端正少雙、威徳巍々、衆宝荘。一切欲界天宮殿中、無匹喩者。色界諸天、見彼化殿、於自宮殿、生如是心、如塚墓(「同」b二九、―部「餝」は原「飾」、―部「相」は原「想」)<護明菩薩、彼の天衆の聚会し畢已るを見て、為に法を説かんと欲いて、即時更に一天宮を化作して、彼の高幢を本天宮の上に在り。高大広闊にして、四天下を覆い、喜ぶ可き微妙、端正雙び少なく、威徳巍々たり、衆宝もて荘餝(しょうじき)たり。一切欲界の天宮殿の中に、匹喩すべき者無し。色界の諸天、彼の化殿を見て、自(おの)が宮殿に於て、是の如くの心を生ぜり、塚墓の相の如しと>

「時護明菩薩、已於過去、行於行、種諸善根、成就福聚、功徳具足、所成荘厳、師子高座昇上而坐」(「同」c五、―部「宝」は原「実」)<時に護明菩薩、已に過去に於て、宝行を行じ、諸の善根を種えて、福聚を成就し、功徳を具足して、成ぜる所の荘厳の、師子の高座に昇上し坐す>

「護明菩薩、在彼師子高座之上、無量諸宝、荘厳間錯無量無辺。種々天衣而敷彼座、種々妙香以薫彼座。無量無辺宝爐燒香、出於種々微妙香花、散其地上」(「同」c七)<護明菩薩、彼の師子の高座之上に在り、無量の諸宝、荘厳間錯(けんさく)して無量無辺なり。種々の天衣而も彼の座に敷き、種々の妙香を以て彼の座に薫ず。無量無辺の宝爐に燒香し、種々微妙の香花を出して、其の地上に散ず>

「座周匝有諸珍宝、百千万億荘厳放光、顯耀彼宮。彼宮上下宝網羅覆、於彼羅網多懸金鈴。彼諸金鈴出声微妙。彼大宝宮、復出無量種々光明」(「同」c一一)<座を周匝して諸の珍宝有り、百千万億の荘厳放光、彼の宮を顯耀(かがや)かす。彼の宮の上下は宝網羅で覆い、於彼の羅網には多く金鈴を懸く。彼の諸の金鈴、声を出すこと微妙なり。彼の大宝宮、復た無量種々の光明を出す>

「彼宝宮殿千万幡蓋、種々妙色映覆於上。彼大宮殿、垂諸旒蘇、無量無辺百千万億諸天玉女、各持種々七宝、音声作楽讃歎、説於菩薩往昔無量無辺功徳」(「同」c一四)<彼の宝宮殿の千万の幡蓋、種々の妙色あって映って上に覆う。彼の大宮殿、諸の旒蘇を垂れ、無量無辺百千万億の諸の天の玉女、各種々の七宝を持し、音声もて作楽し讃歎して、菩薩往昔よりも無量無辺の功徳を説く>「旒蘇(りゅうそ)」とは、吹き流しと、ふさ。「菩薩往昔」とは、兜率天から人間に下生しようとしている護明菩薩の過去世からの無量無辺の功徳。

「護世四王百千万億、在於左右守護彼宮。千万帝釈礼拝彼宮、千万梵天恭敬彼宮。又諸菩薩百千万億那由他衆、護持彼宮」(「同」c一八)<護世の四王百千万億、左右に在りて彼の宮を守護す。千万の帝釈彼の宮を礼拝し、千万の梵天彼の宮を恭敬す。又諸の菩薩百千万億那由他衆、彼の宮を護持す>「護世四王」とは、須弥山の半腹に居て、各々その一天下を護る持国・増長・広目・多聞の四天王。「帝釈」とは、忉利天の主。須弥山の頂、喜見城に居て他の三十二天を統領する。梵名を釈提桓因という。「梵天」とは、色界の初禅天の天王、天衆をいう。

「十方諸仏、有於万億那由他数、護念彼宮。百千万億那由他劫所修行、行諸波羅蜜、福報成就、因縁具足、日夜増長、無量功徳、悉皆荘厳。如是如是、難説難説」(「同」c二一)<十方の諸仏、万億那由他数有りて、彼の宮を護念す。百千万億那由他劫に修せし所の行、諸波羅蜜を行ぜし、福報成就し、因縁具足し、日夜に増長し、無量の功徳、悉皆荘厳せり。如是如是、難説難説なり>

「彼大微妙師子高座、菩薩坐上、告於一切諸天衆言、汝等諸天、今此一百八法明門、一生補処菩薩大士、在兜率宮、欲下託生於人間者、於天衆前、要須宣暢説此一百八法明門。留与諸天以作憶念、然後下生。汝等諸天、今可至心諦聴諦受、我今説之」(「同」c二四)<彼の大微妙なる師子の高座に、菩薩上に坐して、一切諸天衆に告げて言く、汝等諸天、今此の一百八法明門、一生補処の菩薩大士、兜率宮に在りて、下って人間に託生せんと欲する者、天衆の前に於て、要(かな)らず須く此の一百八法明門を宣暢して説くべし。諸天に留与して以て憶念を作さしめ、然る後下生す。汝等諸天、今至心に諦聴し諦受す可し、我れ今之を説くべし>

「一生補処」とは、一生所繋とも云い、菩薩の最高位。

   二

 一百八法明門者何。正信是法明門、不破堅牢心故。淨心是法明門、無濁穢故。歡喜是法明門、安穏心故。愛樂是法明門、令心清淨故。身行正行是法明門、三業淨故。口行淨行是法明門、斷四惡故。意行淨行是法明門、斷三毒故。念佛是法明門、觀佛清淨故。念法是法明門、觀法清淨故。念僧是法明門、得道堅牢故。念施是法明門、不望果報故。念戒是法明門、一切願具足故。念天是法明門、發廣大心故。慈是法明門、一切生處善根攝勝故。悲是法明門、不殺害衆生故。喜是法明門、捨一切不喜事故。捨是法明門、厭離五欲故。無常觀是法明門、觀三界慾故。苦觀是法明門、斷一切願故。無我觀是法明門、不染著我故。寂定觀是法明門、不擾亂心意故。

 

「一百八法明門者何」(「同」六八一a一)<一百八法明門とは何ぞや>

一「正信是法明門、不破堅牢心故」(「同」a二)<正信は是れ法明門なり、堅牢の心を破せざるが故に>

二「浄心是法明門、無濁穢故」(「同」a三)<浄心は是れ法明門なり、濁穢無きが故に>「浄心」とは、衆生本来の自性清浄心を云う。

三「歓喜是法明門、安穏心故」(「同」a三)<歓喜は是れ法明門なり、安穏心の故に>「歓喜」とは、法を修して得るよろこび、「喜」は心のよろこび。

四「愛楽是法明門、令心清浄故」(「同」a四)<愛楽は是れ法明門なり、心をして清浄ならしむるが故に>「愛楽(あいぎょう)」とは、世間、出世間の善法を信愛し楽(ねが)うこと。

五「身行正行是法明門、三業浄故」(「同」a五)<身行正行は是れ法明門なり、三業浄き故に>「身行正行」とは、坐禅の意。「三業浄」とは、坐禅の時、身・口・意の三業が清浄の意。

六「口行浄行是法明門、断四悪故」(「同」a七)<口行浄行は是れ法明門なり、四悪を断ずる故に>「四悪」とは、妄語・綺語・悪口・両舌を云う。

七「意行浄行是法明門、断三毒故」(「同」a八)<意行浄行は是れ法明門なり、三毒を断ずる故に>「三毒」とは、貪・瞋・癡を指す。

八「念仏是法明門、観仏清浄故」(「同」a九)<念仏は是れ法明門なり、観仏清浄なる故に>

「念仏」に関しては、『大乗義章』十二にて「六名是何、一者念仏、二者念法三者念僧、四者念戒、五者念施、六者念天」(「大正蔵」四四・七一〇c一四)と記載あり。

九「念法是法明門、観法清浄故」(「同」a一〇)<念法は是れ法明門なり、観法清浄なる故に>

一〇「念僧是法明門、得道堅牢故」(「同」a一一)<念僧は是れ法明門なり、得道堅牢なる故に>

一一「念施是法明門、不望果報故」(「同」a一二)<念施は是れ法明門なり、果報を望まざる故に>

一二「念戒是法明門、一切願具足故」(「同」a一三)<念戒は是れ法明門なり、一切の願具足する故に>

一三「念天是法明門、発広大心故」(「同」a一四)<念天は是れ法明門なり、広大心を発する故に>

一四「慈是法明門、一切生処善根摂勝故」(「同」a一五)<慈は是れ法明門なり、一切の生処に善根摂勝なる故に>「慈」に関しては、『大智度論』二十にて「四無量心、所謂慈悲喜捨」(大正蔵)二五・四一〇c二四)と、四無量心を云う。

一五「悲是法明門、不殺害衆生故」(「同」a一六)<悲は是れ法明門なり、衆生を殺害せざる故に>

一六「喜是法明門、捨一切不喜事故」(「同」a一七)<喜は是れ法明門なり、一切不喜の事を捨する故に>

一七「捨是法明門、厭離五欲故」(「同」a一八)<捨は是れ法明門なり、五欲を厭離する故に>

一八「無常観是法明門、観三界慾故」(「同」a一九)<無常観は是れ法明門なり、三界の慾を観ずる故に>「無常」に関しては、『大方等大集経』三十にて「一切行無常、一切行、一切行無我一切法滅涅槃」(大正蔵)一三・二一〇c八)を優檀那とする。「三界」とは、欲界・色界・無色界。

一九「苦観是法明門、断一切願故」(「同」a二〇)<苦観は是れ法明門なり、一切の願を断ずる故に>「苦」に関しては、『大乗義章』二では「逼悩名」(「大正蔵」四四・五〇七b一七)とある。

二〇「無我観是法明門、不染著我故」(「同」a二一)<無我観は是れ法明門なり、我に染著せざる故に>「無我」に関しては、『大乗義章』二では「自体名法、法無性実、故曰無我」(「大正蔵」四四・五〇七b一八)との記載あり。

二一「寂定観是法明門、不擾乱心意故」(「同」a二二)<寂定観は是れ法明門なり、心意を擾乱せざる故に>「寂定観」とは、涅槃寂滅を観じて心意を乱さないこと。

   三

 慚愧是法明門、内心寂定故。羞恥是法明門、外惡滅故。實是法明門、不誑天人故。眞是法明門、不誑自身故。法行是法明門、隨順法行故。三歸是法明門、淨三惡道故。知恩是法明門、不捨善根故。報恩是法明門、不欺負佗故。不自欺是法明門、不自譽故。爲衆生是法明門、不毀呰佗故。爲法是法明門、如法而行故。知時是法明門、不輕言説故。攝我慢是法明門、智恵滿足故。不生惡心是法明門、自護護佗故。無障礙是法明門、心無疑惑故。信解是法明門、決了第一義故。不淨觀是法明門、捨欲染心故。不諍闘是法明門、斷瞋訟故。不癡是法明門、斷殺生故。樂法義是法明門、求法義故。愛法明是法明門、得法明故。

 

二二「慚愧是法明門、内心寂定故」(「同」a二三)<慚愧は是れ法明門なり、内心寂定なる故に>「慚愧」とは、自ら省みてはじを知ること。

二三「羞恥是法明門、外悪滅故」(「同」a二四)<羞恥は是れ法明門なり、外悪滅する故に>

「羞恥」とは、外に表われたる悪をはじる意を云う。

二四「実是法明門、不誑天人故」(「同」a二五)<実は是れ法明門なり、天人を誑(たぶら)かさざる故に>「実」とは、他に対して偽らないこと。

二五「真是法明門、不誑自身故」(「同」a二六)<真は是れ法明門なり、自身を誑かさざる故に>「真」とは、自己をだまさないこと。

二六「法行是法明門、随順法行故」(「同」a二七)<法行は是れ法明門なり、随順法行に故に>

「法行」とは、自ら思惟して法に随い行ずるを云う。

二七「三帰是法明門、浄三悪道故」(「同」a二八)<三帰は是れ法明門なり、三悪道を浄くする故に>「三悪道」とは、地獄・餓鬼・畜生の世界を云う。

二八「知恩是法明門、不捨善根故」(「同」a二九)<知恩は是れ法明門なり、善根を捨せざる故に>

二九「報恩是法明門、不欺負他故」(「同」b一)<報恩は是れ法明門なり、他を欺負せざる故に>「欺負(ごふ)とは、あざむき、そむく。

三〇「不自欺是法明門、不自誉故」(「同」b二)<不自欺は是れ法明門なり、自ら誉めざる故に>「不自欺(ふじき)」とは、自ら欺かず。

三一「為衆生是法明門、不毀呰他故」(「同」b三)<為衆生は是れ法明門なり、他を毀呰(きし)せざる故に>

三二「為法是法明門、如法而行故」(「同」b四)<為法は是れ法明門なり、如法にして行ずる故に>

三三「知時是法明門、不軽言説故」(「同」b五)<知時は是れ法明門なり、言説を軽んぜざる故に>「知時」とは、自己の現在の立場を自覚すること。

三四「摂我慢是法明門、智恵満足故」(「同」b六)<摂我慢は是れ法明門なり、智恵満足する故に>「我慢」に関しては、慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢の七種あり。

三五「不生悪心是法明門、自護護他故」(「同」b七)<不生悪心は是れ法明門なり、自ら護し他を護する故に>

三六「無障礙是法明門、心無疑惑故」(「同」b八)<無障礙は是れ法明門なり、心は疑惑無き故に>「無障礙」とは、仏道にさわりとなるものが無いこと。「障」は煩悩の異名である。

三七「信解是法明門、決了第一義故」(「同」b九)<信解は是れ法明門なり、第一義を決了する故に>「第一義」に関しては、『大智度論』八十にては「是名第一義、亦名性空、亦名諸仏道」(大正蔵)二五・六九四c二七)、さらには『大乗義章』四)では「彼第一義、亦皆空寂、是故名為第一義空(「大正蔵」四四・五四六b二八)とあり。

三八「不浄観是法明門、捨欲染心故」(「同」b十)<不浄観は是れ法明門なり、欲染の心を捨する故に>

三九「不諍闘是法明門、断瞋訟故」(「同」b十一)<不諍闘は是れ法明門なり、瞋訟を断ずる故に>「諍闘」とは、訴えを起し闘うこと。「瞋訟」とは、瞋(いかり)の心で正か不正かを訴え争うこと。

四〇「不癡是法明門、断殺生故」(「同」b十二)<不癡は是れ法明門なり、殺生を断ずる故に>

「癡」に関しては、『阿毘達磨俱舎論』四にては「癡者、所謂愚痴、即是無明・無知・無顕」(「大正蔵」二九・一九c四)さらに『大乗義章』五では「闇惑名」(「大正蔵」四四・五六五a六)と記載あり。

四一「楽法義是法明門、求法義故」(「同」b十三)<楽法義は是れ法明門なり、法義を求むる故に>「法義」とは、仏法の正しい意味を云い、「楽」はねがうの意。

四二「愛法明是法明門、得法明故」(「同」b十四)<愛法明は是れ法明門なり、法明を得る故に>

   四

 求多聞是法明門、正觀法相故。正方便是法明門、具正行故。知名色是法明門、除諸障礙故。除因見是法明門、得解脱故。無怨親心是法明門、於怨親中生平等故。陰方便是法明門、知諸苦故。諸大平等是法明門、斷於一切和合法故。諸入是法明門、修正道故。無生忍是法明門、證滅諦故。受念處是法明門、斷一切諸受故。心念處是法明門、觀心如幻化故。法念處是法明門、智恵無翳故。四正懃是法明門、斷一切惡成諸善故。四如意足是法明門、身心輕故。信根是法明門、不隨佗語故。精進根是法明門、善得諸智故。念根是法明門、善作諸業故。定根是法明門、心清淨故。慧根是法明門、現見諸法故。

 

四三「求多聞是法明門、正観法相故」(「同」b十五)<求多聞は是れ法明門なり、法相を正観する故に>「法相」に関しては、『大乗義章』二では「一切世諦有為無為通名法相」(「大正蔵」四四・五〇六c七)とあり。

四四「正方便是法明門、具正行故」(「同」b十六)<正方便は是れ法明門なり、正行を具する故に>

四五「知名色是法明門、除諸障礙故」(「同」b十七)<知名色は是れ法明門なり、諸の障礙を除く故に>「名色」とは、五蘊の総名。

四六「除因見是法明門、得解脱故」(「同」b十八)<除因見は是れ法明門なり、解脱を得る故に>「因見」とは、原因についての考えに固執するを止めること。

四七「無怨親心是法明門、於怨親中生平等故」(「同」b十九)<無怨親心は是れ法明門なり、怨親の中に於て平等を生ずる故に>「無怨親心」とは、憎む相手と親しむ相手の差別を無くする心。

四八「陰方便是法明門、知諸苦故」(「同」b二十)<陰方便は是れ法明門なり、諸の苦を知る故に>「陰方便」とは、色声香味等の有為法による方便を云う。

四九「諸大平等是法明門、断於一切和合法故」(「同」二十一)<諸大平等は是れ法明門なり、一切和合の法を断ずる故に>「諸大平等」とは地・水・火・風・空・識をを平等に見ること。

五〇「諸入是法明門、修正道故」(「同」b二十二)<諸入は是れ法明門なり、正道を修する故に>「諸入」とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識と色・香・声・味・触・法の六境の十二入を云う。

五一「無生忍是法明門、証滅諦故」(「同」b二十三)<無生忍は是れ法明門なり、滅諦を証する故に>「無生忍」に関しては、『大乗義章』十二では「五忍之義、一者伏忍、二信忍、三順忍、四無生忍、五寂滅忍」(「大正蔵」四四・七〇一b一一)とある。「滅諦」とは、苦集道を云う。

五二「受念処是法明門、断一切諸受故」(「同」b二十四)<受念処は是れ法明門なり、一切の諸受を断ずる故に>

原文の『仏本行集経』では、五二の前に「身念処是法明門、諸法寂静故」がある。此処は「四念処」に関するものであるから、「身念処・受念処・心念処・法念処」が正解であるが、この「身念処」を加えると「一百九法明門」となり、故意に除外したか否かは不明である。

五三「心念処是法明門、観心如幻化故」(「同」b二十六)<心念処は是れ法明門なり、心を観ずるは幻化の如き故に>

五四「法念処是法明門、智恵無翳故」(「同」b二十七)<法念処は是れ法明門なり、智恵無翳なる故に>「無翳」とは、かげのない様。

五五「四正懃是法明門、断一切悪成諸善故」(「同」b二十八)<四正懃は是れ法明門なり、一切の悪を断じて諸の善を成ずる故に>「四正懃」に関しては、『法界次第初門』中之下にて「一心勤精神、若四念処観時、―略―名正勤也」(「大正蔵」四六・六八一c二八)とある。

五六「四如意足是法明門、身心軽故」(「同」b二九)<四如意足は是れ法明門なり、身心の軽き故に>「四如意足」に関しては、『法界次第初門』中之下にて「四如意足、一欲如意足、二精進如意足、三心如意足、四思惟如意足」(「大正蔵」四六・六八一c二九)と説く。

五七「信根是法明門、不随他語故」(「同」c一)<信根は是れ法明門なり、他の語に随わざる故に>「信根」に関しては、『法界次第初門』中之下にては「五根、一信根、二精進根、三念根、四定根、五慧根」(「大正蔵」四六・六八二a一四)と記載あり。

五八「精進根是法明門、善得諸智故」(「同」c二)<精進根は是れ法明門なり、善く諸の智を得る故に>

五九「念根是法明門、善作諸業故」(「同」c三)<念根は是れ法明門なり、善く諸の業を作す故に>

六〇「定根是法明門、心清浄故」(「同」c四)<定根は是れ法明門なり、心の清浄なる故に>

六一「慧根是法明門、現見諸法故」(「同」c五)<慧根は是れ法明門なり、諸法を現見する故に>

    五

信力是法明門、過諸魔力故。精進力是法明門、不退轉故。念力是法明門、不共佗故。定力是法明門、斷一切念故。慧力是法明門、離二邊故。念覺分是法明門、如諸法智故。法覺分是法明門、照明一切諸法故。精進覺分是法明門、善知覺故。喜覺分是法明門、得諸定故。除覺分是法明門、所作已辦故。定覺分是法明門、知一切法平等故。捨覺分是法明門、厭離一切生故。正見是法明門、得漏盡聖道故。正分別是法明門、斷一切分別無分別故。正語是法明門、一切名字、音聲語言、知如響故。正業是法明門、無業無報故。正命是法明門、除滅一切惡道故。正行是法明門、至彼岸故。正念是法明門、不思念一切法故。正定是法明門、得無散亂三昧故。菩提心是法明門、不斷三寶故。依倚是法明門、不樂小乘故。正信是法明門、得最勝佛法故。増進是法明門、成就一切諸善根法故。

 

六二「信力是法明門、過諸魔力故」(「同」c六)<信力は是れ法明門なり、諸の魔の力に過ぐる故に>「信力」に関しては、『法界次第初門』中之下にて「五力、一信力、二精進力、三念力、四定力、五慧力」(「大正蔵」四六・六八二a二八)にあり。

六三「精進力是法明門、不退転故」(「同」c七)<精進力は是れ法明門なり、不退転なる故に>

六四「念力是法明門、不共他故」(「同」c八)<念力は是れ法明門なり、他と不共なる故に>

六五「定力是法明門、断一切念故」(「同」c九)<定力は是れ法明門なり、一切の念を断ずる故に>

六六「慧力是法明門、離二辺故」(「同」c一〇)<慧力は是れ法明門なり、二辺を離るる故に>「二辺」とは有辺、無辺の二辺見を云うが、『大乗義章』四には「彼於十方、若謂有尽、堕有辺見、若謂無尽、堕無辺見」(「大正蔵」四四・五五三c二六)と記す。

六七「念覚分是法明門、如諸法智故」(「同」c一一)<念覚分は是れ法明門なり、諸法智の如くなる故に>「念覚分」に関しては、『法界次第初門』中之下にては「七覚分、一択法覚分、二精進覚分、三喜覚分、四除覚分、五捨覚分、六定覚分、七念覚分」(「大正蔵」四六・六八二b一六)と記載あり。

六八「法覚分是法明門、照明一切諸法故」(「同」c一二)<法覚分は是れ法明門なり、一切諸法を照明する故に>(―部「法覚分」は原「択法覚分」)

六九「精進覚分是法明門、善知覚故」(「同」c一三)<精進覚分は是れ法明門なり、善く知覚する故に>

七〇「喜覚分是法明門、得諸定故」(「同」c一四)<喜覚分は是れ法明門なり、諸の定を得る故に>

七一「除覚分是法明門、所作已辦故」(「同」c一五)<除覚分は是れ法明門なり、所作已に辦ずる故に>

七二「定覚分是法明門、知一切法平等故」(「同」c一六)<定覚分は是れ法明門なり、一切法平等を知る故に>

七三「捨覚分是法明門、厭離一切生故」(「同」c一七)<捨覚分は是れ法明門なり、一切の生を厭離する故に>

七四「正見是法明門、得漏尽聖道故」(「同」c一八)<正見は是れ法明門なり、漏尽聖道を得る故に>「正見」に関しては、『法界次第初門』中之下にて「八正道分、一正見、二正思惟、三正語、四正業、五正命、六正精進、七正念、八正定」(「大正蔵」四六・六八二c一一)と記載あり。

七五「正分別是法明門、断一切分別無分別故」(「同」c一九)<正分別は是れ法明門なり、一切の分別と無分別とを断ずる故に>

七六「正語是法明門、一切名字、音声語言、知如響故」(「同」c二〇)<正語は是れ法明門なり、一切の名字、音声・語言は、響きの如しと知る故に>

七七「正業是法明門、無業無報故」(「同」c二二)<正業は是れ法明門なり、業無く報無き故に>

七八「正命是法明門、除滅一切悪道故」(「同」c二三)<正命は是れ法明門なり、一切の悪道を除滅する故に>

七九「正行是法明門、至彼岸故」(「同」c二四)<正行は是れ法明門なり、彼岸に至る故に>

八〇「正念是法明門、不思念一切法故」(「同」c二五)<正念は是れ法明門なり、一切法を思念せざる故に>

八一「正定是法明門、得無散乱三昧故」(「同」c二六)<正定は是れ法明門なり、無散乱三昧を得る故に>

八二「菩提心是法明門、不断三宝故」(「同」c二七)<菩提心は是れ法明門なり、三宝を断ぜず故に>「菩提心」に関しては、『身心学道』(「大正蔵」八二・一五九a二七)に散見される。

八三「依倚是法明門、不楽小乗故」(「同」c二八)<依倚は是れ法明門なり、小乗を楽(ねが)わざる故に>「依倚」とは、大乗の法に依ること。

八四「正信是法明門、得最勝仏法故」(「同」c二九)<正信は是れ法明門なり、最勝の仏法を得る故に>「正信」とは、大乗で云う正信である。

八五「増進是法明門、成就一切諸善根法故」(「同」六八二a一)<増進は是れ法明門なり、一切諸の善根の法を成就する故に>

   六

 檀度是法明門、念々成就相好、莊嚴佛土、教化慳貪諸衆生故。戒度是法明門、遠離惡道諸難、教化破戒諸衆生故。忍度是法明門、捨一切嗔恚我慢、諂曲調戲、教化如是諸惡衆生故。精進度是法明門、悉得一切諸善法、教化懈怠諸衆生故。禪度是法明門、成就一切禪定及諸神通、教化散亂諸衆生故。智度是法明門、斷無明黒暗及著諸見、教化愚癡諸衆生故。方便是法明門、隨衆生所見威儀、而示現教化、成就一切諸佛法故。四攝法是法明門、攝受一切衆生、得菩提已、施一切衆生法故。教化衆生是法明門、自不受樂、不疲倦故。攝受正法是法明門、斷一切衆生諸煩惱故。福聚是法明門、利益一切諸衆生故。修禪定是法明門、滿足十力故。寂定是法明門、成就如來三昧具足故。慧見是法明門、智慧成就滿足故。入無礙辯是法明門、得法眼成就故。入一切行是法明門、得佛眼成就故。成就陀羅尼是法明門、聞一切諸佛法能受持故。得無礙辯是法明門、令一切衆生皆歡喜故。順忍是法明門、順一切諸佛法故。得無生法忍是法明門、得受記故。不退轉地是法明門、具足往昔諸佛法故。從一地至一地智是法明門、灌頂成就一切智故。灌頂地是法明門、從生出家、乃至得成阿耨多羅三藐三菩提故。爾時護明菩薩、説是語已、告彼一切諸天衆言、諸天當知、此是一百八法明門、留與諸天、汝等受持、心常憶念、勿令忘失。

 

八六「檀度是法明門、念々成就相好、荘厳仏土、教化慳貪諸衆生故」(「同」a二)<檀度は是れ法明門なり、念々に相好を成就し、仏土を荘厳し、慳貪の諸の衆生を教化する故に>

八七「戒度是法明門、遠離悪道諸難、教化破戒諸衆生故」(「同」a四)<戒度は是れ法明門なり、悪道の諸難を遠離し、破戒の諸の衆生を教化する故に>「戒度」とは、持戒波羅蜜を云う。「悪道」とは、地獄・餓鬼・畜生を指す。

八八「忍度是法明門、捨一切嗔恚我慢、諂曲調戲、教化如是諸悪衆生故」(「同」六)<忍度は是れ法明門なり、一切の嗔恚・我慢・諂曲・調戲を捨し、是の如きの諸の悪衆生を教化する故に>「忍度」とは、忍辱波羅蜜。「嗔恚(しんに)」とは、いかり。「我慢」は七種の一種。「諂曲(てんごく)」とは、他の意を迎えて諂(へつら)い、自らを曲げること。「調戲」とは、あざけり、からかう。

八九「精進度是法明門、悉得一切諸善法、教化懈怠諸衆生故」(「同」a八)<精進度は是れ法明門なり、悉く一切の諸の善法を得て、懈怠の諸の衆生を教化する故に>「精進度」とは、精進波羅蜜。「懈怠」に関しては、『大乗義章』二にて「不断悪修善、不勤方便名懈怠」(「大正蔵」四四・四九二b一四)とある。

九〇「禅度是法明門、成就一切禅定及諸神通、教化散乱諸衆生故」(「同」a一〇)<禅度は是れ法明門なり、一切の禅定及び諸の神通を成就し、散乱の諸の衆生を教化する故に>「禅度」とは、禅波羅蜜

九一「智度是法明門、断無明黒暗及著諸見、教化愚癡諸衆生故」(「同」a一二)<智度は是れ法明門なり、無明の黒暗及び諸見に著するを断じ、愚癡の諸の衆生を教化する故に>「智度」とは、般若波羅蜜。「無明」に関しては、『大乗義章』二では「於法不了名無明」(「大正蔵」四四・四九二b一六)とある。

九二「方便是法明門、随衆生所見威儀、而示現教化、成就一切諸仏法故」(「同」a一四)<方便は是れ法明門なり、衆生所見の威儀に随って、教化を示現し、一切の諸仏の法を成就する故に>

九三「四摂法是法明門、摂受一切衆生、得菩提已、施一切衆生法故」(「同」a一六)<四摂法は是れ法明門なり、一切衆生を摂受し、菩提を得已り、一切衆生に法を施す故に>「四摂法」に関しては、『大乗義章』十一では「四摂者―略―一布施摂、二愛語摂、三利行摂、四同利摂」(「大正蔵」四四・六九四b九)と記載あり。

九四「教化衆生是法明門、自不受楽、不疲倦故」(「同」a一八)<教化衆生は是れ法明門なり、自ら楽を受けず、疲倦せざる故に>「疲倦」とは、つかれ、いやになる。

九五「摂受正法是法明門、断一切衆生諸煩悩故」(「同」a一九)<摂受正法は是れ法明門なり、一切衆生の諸の煩悩を断ずる故に>「摂受正法」とは、正法を余す所なく受け入れること。

九六「福聚是法明門、利益一切諸衆生故」(「同」a二〇)<福聚は是れ法明門なり、一切諸の衆生を利益する故に>「福聚」とは、福徳の集まること。「福徳荘厳」に関しては、『大般涅槃経』二十七(「大正蔵」一二・五二三a一六)にて説明あり。

九七「修禅定是法明門、満足十力故」(「同」a二一)<修禅定は是れ法明門なり、十力を満足する故に>「十力」に関しては、『阿毘達磨大毘婆沙論』三十にて「種説名意、一処非処智力・・十漏尽智力」(「大正蔵」二七・一五六c一九)と記載あり。

九八「寂定是法明門、成就如来三昧具足故」(「同」a二二)<寂定は是れ法明門なり、如来の三昧を成就して具足する故に>「寂定」とは、坐禅。「三昧」とは、梵語samadhiの音写から「さんまい」と発音する。

九九「慧見是法明門、智慧成就満足故」(「同」a二三)<慧見は是れ法明門なり、智慧成就して満足する故に>

一〇〇「入無礙辯是法明門、得法眼成就故」(「同」a二四)<入無礙辯は是れ法明門なり、法眼を得て成就する故に>「無礙辯」とは障礙なき辯舌。

一〇一「入一切行是法明門、得仏眼成就故」(「同」a二五)<入一切行は是れ法明門なり、仏眼を得て成就する故に>「入一切行」とは、一切行に真実として入ることが出来る。

一〇二「成就陀羅尼是法明門、聞一切諸仏法能受持故」(「同」a二六)<成就陀羅尼は是れ法明門なり、一切諸仏の法を聞いて能く受持する故に>「陀羅尼」に関しては、総持・能持と訳され、善法を失わないようにし、悪法が起らないようにする働きを云う。また『法界次第初門』下之下にては、「一聞持陀羅尼、二分別陀羅尼、三入音声陀羅尼」(「大正蔵」四六・六九二b七)との記載あり。

一〇三「得無礙辯是法明門、令一切衆生歓喜故」(「同」a二八)<得無礙辯は是れ法明門なり、一切衆生をして皆な歓喜せしむ故に>

一〇四「順忍是法明門、順一切諸仏法故」(「同」a二九)<順忍は是れ法明門なり、一切諸仏の法に順(したが)う故に>「順忍」に関しては、『大乗義章』十二では「言順忍者、就能為名。以能上順故名順忍」(「大正蔵」四四・七〇一b一八)と記載あり。

一〇五「得無生法忍是法明門、得受記故」(「同」六八二b一)<得無生法忍は是れ法明門なり、受記を得る故に>「無生法忍」に関しては、『大宝積経』二十六では「無生法忍者、一切諸法無生無滅忍故」(「大正蔵」一一・一四六b一二)と記載あり。「受記」は授記と同義。

一〇六「不退転地是法明門、具足往昔諸仏法故」(「同」b二)<不退転地は是れ法明門なり、往昔の諸仏の法を具足する故に>「不退転地」とは、阿鞞跋致を云い、成仏の進路を退転しない意。「阿鞞跋致」に関しては、『大智度論』五十七では「於菩薩過阿鞞跋致地乃至未成仏」(「大正蔵」二五・五八六a一三)と出。

一〇七「従一地至一地智是法明門、灌頂成就一切智故」(「同」b三)<従一地至一地智は是れ法明門なり、灌頂して一切智を成就する故に>「従一地至一地智」とは、一地より一地智に至る、一地を指す。

一〇八「灌頂地是法明門、従生出家、乃至得成阿耨多羅三藐三菩提故」(「同」b五)<灌頂地は是れ法明門なり、生れて出家するより、乃至阿耨多羅三藐三菩提を成ずるを得る故に>「灌頂(巴abhisecana阿鼻詮左)」とは、元々インドに於ける帝王の即位を意味し、頭の頂きに聖水を灌(そそ)ぐ儀式であるが、転じて仏位を嗣ぐ儀式となる。また『大方広仏華厳経(六十巻本』では「去来現在諸仏所説、何等為十、一名初発心、二名治地―略―九名法王子、十名灌頂」(「大正蔵」九・四四五a一)との記載あり。

「爾時護明菩薩、説是語已、告彼一切諸天衆言、諸天当知、此是一百八法明門、留与諸天、汝等受持、心常憶念、勿令忘失」(「同」b七)<爾の時に護明菩薩、是の語を説き已りて、彼の  一切の諸の天衆に告げて言く、諸天当に知るべし、此れは是れ一百八法明門なり、諸天に留与す、汝等受持し、心に常に憶念して、忘失せしむこと勿るべし>

   七

 これすなはち一百八法明門なり。一切の一生所繋の菩薩、都史多天より閻浮提に下生せんとするとき、かならずこの一百八法明門を、都史多天の衆のために敷揚して、諸天を化するは、諸佛の常法なり。

 護明菩薩とは、釋迦牟尼佛、一生補處として第四天にましますときの名なり。李附馬、天聖廣燈録を撰するに、この一百八法門の名字をのせたり。參學のともがら、あきらめしれるはすくなく、しらざるは稻麻竹葦のごとし。いま初心晩學のともがらのためにこれを撰す。師子の座にのぼり、人天の師となれらんともがら、審細參學すべし。この都史多天に一生所繋として住せざれば、さらに諸佛にあらざるなり。行者みだりに我慢することなかれ、一生所繋の菩薩は中有なし。

 

「これ即ち一百八法明門なり。一切の一生所繋の菩薩、都史多天より閻浮提に下生せんとする時、必ずこの一百八法明門を、都史多天の衆の為に敷揚して、諸天を化するは、諸仏の常法なり」

「当巻」ならびに『八大人覚』巻は道元の遺著とも称すべき著述であろうが、両巻ともに渾心の運筆を以て永平門下の仏弟子に遍く説き示されるものであろう。

 この『仏本行集経』にて説く二千余字から成る信仰に随順するは、諸仏の常なる仏法の行持と解き示される。

「護明菩薩とは、釈迦牟尼仏、一生補処として第四天にまします時の名なり。李附馬、天聖広灯録を撰するに、この一百八法門の名字を載せたり。参学の輩、明らめ知れるは少なく、知らざるは稲麻竹葦の如し。いま初心晩学の輩の為にこれを撰す。師子の座にのぼり、人天の師となれらん輩、審細参学すべし。この都史多天に一生所繋として住せざれば、さらに諸仏にあらざるなり。行者妄りに我慢することなかれ、一生所繋の菩薩は中有なし」

長々と経文を書き写した背景を結語文として述べられるが、そこには様々な情報が包接されていて、まずは「護明菩薩」に関しては、釈迦が一生補処の菩薩としての、都史多天(兜率天)に居た時の名号でありますが、この「都史多天第四天にまします」の出典は『説無垢称経疏』四本では「都史名者、欲界六天中第四天也」(「大正蔵」三八・一〇五七b二五)などに見出される。

『天聖広灯録』の記載に関しては、「灯録」冒頭にて「鎮国軍節度使駙馬都尉臣李遵勗(リ・ジュンコク)編」(「続蔵」一三五・六〇七b二)と記される。「駙馬都尉(ふばとい)とは官職名で、「李附馬」は皇帝(仁宗明孝)の娘婿になる。さらに「同録」では「今更為汝説一百八法門、与汝憶念」(「同」六〇九a一四)と記されるを此処に示したわけである。

『天聖広灯録』に関しては、天聖中(1023―1032)に編集を始め、景祐三年(1036)に入蔵を勅許されるが、これは『景徳伝灯録』(1004・楊億、校定)の後を承けたもので、南嶽下九世および青原下十二世までを増補した禅宗史書である。因みに『天聖広灯録』の使用は「旧草」から頻繁に援用することから、このような「一百八法門」の記述にも言及されたものであろう。

「李附馬(李遵勗)」に関しては、臨済下七世に当る谷隠蘊聰に参じた居士であり、『景徳伝灯録』の校定者である楊億とも親交があったようである(「IRIZ禅籍データベース」参照)。

この「一百八法門」を認知する者は少数であり、不知なる者は「稲麻竹葦」の如くに大多数であるが、道元は此の「一百八法門」の御法を「初心晩学の学人に撰す」と示されることから、此の「一百八法門」の位置づけを、基本的かつ仏道の根本と呈示される。と共に、長老や善知識・住持などと呼ばれる立場の学人であるなら、この「一百八法門」には通暁し「審細に参学せよ」と、我々に問いかけるものであろう。余談ではあるが、「大正大蔵経」三十二巻には『仏一百八名讃』なる経文では「南無一切智・南無大釈子・・」なる文言が連なる経典が記載される。

結語として、護明菩薩のように、この都史多天(兜率天)に仏位を約束されていながら、一生の間だけ迷いの世界に繋がれて留まらなければ、もはや「諸仏にあらざるなり」とは、自未得度先度他を使命とする菩薩行の本位の重要性を解き明かすものであろう。

参学道人の最も危惧すべき点を、「我慢」世俗的に云うなら「わがまま」とでも云い得るだろうが、此処では『阿毘達磨俱舎論』十九での「五取蘊に於て、我々所を執して、心をして高挙ならしむを我慢と名づく」(<於五取蘊、執我々所念心、高挙名為我慢>「大正蔵」二九・一〇一a一八)を記載し、「護明菩薩」の所行の如く自未得度先度他による菩薩行を説いて擱筆とする次第である。

(終)

2023年1月9日 雨季のバンコク北郊にて記す