正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

十二巻本 第五 「供養諸仏」を読み解く     二谷正信                                                                          二谷正信

 

   十二巻本 第五 「供養諸仏」を読み解く

                           二谷正信

はじめに

 「当巻」は十二巻中第五番に位置するが、第一の「出家功徳」二「受戒」三「袈裟功徳」四「発菩提心」と実に整然と理に適った標題であります。『発菩提心』二段での「初発菩提心のち、そこばくの諸仏にあふたてまつり、供養したてまつり」と明記され、『供養諸仏』に聯関する事情が「当巻」冒頭文が『出家功徳』に繋がるわけである。

 

   一

 佛言、若無過去世、應無過去佛。若無過去佛、無出家受具。あきらかにしるべし、三世にかならず諸佛ましますなり。しばらく過去の諸佛におきて、そのはじめありといふことなかれ、そのはじめなしといふことなかれ。もし始終の有無を邪計せば、さらに佛法の習學にあらず。過去の諸佛を供養したてまつり、出家し、隨順したてまつるがごとき、かならず諸佛となるなり。供佛の功徳によりて作佛するなり。いまだかつて一佛をも供養したてまつらざる衆生、なにによりてか作佛することあらん。無因作佛あるべからず。

 

「仏言、若過去世、応無過去仏。若無過去仏、無出家受具」(『阿毘達磨大毘婆沙論』七十六「大正蔵」二七・三九三b一五、―部「無」は原「執」)<仏言く、若し過去世が無くば、応に過去仏も無し。若し過去仏が無くば、出家受具も無し>

 この偈頌は『出家功徳』(「大正蔵」八十二・二八〇c一六)にも同文が引かれる。その時の拈提文では「出家受具は過去諸仏の法なりー略―必ず出家受戒すべし」と標題に則したものである。

「明らかに知るべし、三世に必ず諸仏ましますなり。しばらく過去の諸仏におきて、その始めありと云ふことなかれ、その始め無しと云ふことなかれ。もし始終の有無を邪計せば、さらに仏法の習学にあらず。過去の諸仏を供養したてまつり、出家し、随順したてまつるが如き、必ず諸仏となるなり。供仏の功徳によりて作仏するなり。未だ曾て一仏をも供養したてまつらざる衆生、何によりてか作仏することあらん。無因作仏あるべからず」

 これは過去七仏で云う処の毘婆尸仏の前は問うな、と言っているような気がする。興味本位に宇宙の始まりを問い質して来るようなもので、そこには何の建設的な議論が無いように、毘婆尸仏の前の有無を論題にしても現実的ではない、との立場でありましょう。次いで、自身が作仏を成就する為には、「仏の供養」と云う功徳を積み重ねた上での結果である。と説明するは、宗教を説かんとする在所では、民族や地域は異なっても説き示す言明である。そこには「自未得度先度他」の実践が「供仏の功徳によりて作仏するなり」とに聯関するものと思われる。

 

   二

 佛本行集經言、

 佛告目犍連、我念往昔、於無量無邊諸世尊所、種諸善根、乃至求於阿耨多羅三藐三菩提。目犍連、我念往昔、作轉輪聖王身、値三十億佛。皆同一号、号釋迦。如來及聲聞衆、尊重承事、恭敬供養、四事具足。所謂衣服飲食臥具湯藥。時彼諸佛、不與我記、汝當得阿耨多羅三藐三菩提、及世間解天人師佛世尊、於未來世、得成正覺。

 目犍連、我念往昔、作轉輪聖王身、値八億諸佛。皆同一号、号燃燈。如來及聲聞衆、尊重恭敬、四事供養。所謂衣服飲食臥具湯藥幡蓋華香。時彼諸佛、不與我記、汝當得阿耨多羅三藐三菩提、及世間解天人師佛世尊。

 目犍連、我念往昔、作轉輪聖王身、値三億諸佛。皆同一号、号弗沙。如來及聲聞衆、四事供養、皆悉具足。時彼諸佛、不與我記、汝當作佛。

 このほかそこばくの諸佛を供養しまします。轉輪聖王身としては、かならず四天下を統領すべし、供養諸佛の具、まことに豐饒なるべし。もし大轉輪王ならば、三千界に王なるべし。そのときの供佛、いまの凡慮はかるべからず。ほとけときましますとも、解了することえがたからん。

 

「仏本行集経言、仏告目犍連、我念往昔、於無量無辺諸世尊所、種諸善根、乃至求阿耨多羅三藐三菩提」(『仏本行集経』一「大正蔵」三・六五五c四、―部「於」は原なし)<仏は目犍連に告ぐ、我れ往昔を念うに、無量無辺の諸の世尊の所に於て、諸の善根を種え、乃至於阿耨多羅三藐三菩提を求む>

「目犍連、我念往昔、作転輪聖王身、値三十億仏。皆同一号、号釈迦。如来及声聞衆、尊重承事、恭敬供養、四事具足。所謂衣服飲食臥具湯薬。時彼諸仏、不与我記、汝当得阿耨多羅三藐三菩提、及世間解天人師仏世尊、於未来世、得成正覚」(「同」c六)<目犍連、我れ往昔を念うに、転輪聖王の身と作りて、三十億の仏に値う。皆な同じく一号にして、釈迦と号(なづ)く。如来及び声聞衆まで、尊重し承事し、恭敬し供養して、四事具足せり。謂う所の衣服・飲食・臥具・湯薬なり。時に彼の諸仏は、我れに記を与えず、汝は当に阿耨多羅三藐三菩提を得、及び世間解・天人師・仏世尊として、未来世に於て、正覚を成ずるを得べし>

「目犍連、我念往昔、作転輪聖王身、値八億諸仏。皆同一号、号燃燈。如来及声聞衆、尊重恭敬、四事供養。所謂衣服飲食臥具湯薬幡蓋華香。時彼諸仏、不与我記、汝当得阿耨多羅三藐三菩提、及世間解天人師仏世尊」(「同」c一一)<目犍連、我れ往昔を念うに、転輪聖王の身と作りて、八億の諸仏に値う。皆な同じく一号にて、燃燈と号く。如来及び声聞衆まで、尊重し恭敬して、四事に供養す。謂う所の衣服・飲食・臥具・湯薬・幡蓋・華香なり。時に彼の諸仏は、我れに記を与えず、汝は当に阿耨多羅三藐三菩提を得、及び世間解・天人師・仏世尊たるべし>

「目犍連、我念往昔、作転輪聖王身、値三億諸仏。皆同一号、号弗沙。如来及声聞衆、四事供養、皆悉具足。時彼諸仏、不与我記、汝当作仏」(「同」c一六)<目犍連、我れ往昔を念うに、転輪聖王の身と作りて、三億の諸仏に値う。皆な同じく一号にして、弗沙(ふっしゃ)と号く。如来及び声聞衆まで、四事を供養し、皆な悉く具足せり。時に彼の諸仏は、我れに記を与えず、汝は当に作仏すべしと>

「この他そこばくの諸仏を供養しまします。転輪聖王身としては、必ず四天下を統領すべし、供養諸仏の具、まことに豊饒なるべし。もし大転輪王ならば、三千界に王なるべし。その時の供仏、今の凡慮はかるべからず。ほとけ説きましますとも、解了すること得がたからん」

 「転輪聖王(cakravartin)」に対する供物を縷々記す要旨は、供養とは自身の分に応じて与えるものでしょうが、時として現今にては、主客に位置づけられた形で、強制的に供養を求める態度は、宗教ビジネスそのものであり、「供養諸仏の具、まことに豊饒なるべし」の言を授受者ともどもに味わいたいものである。

 

   三

 佛藏經淨見品第八云、

 佛告舎利弗、我念過世、求阿耨多羅三藐三菩提、値三十億佛。皆号釋迦牟尼。我時皆作轉輪聖王、盡形供養及諸弟子、衣服・飲食・臥具・醫藥、爲求阿耨多羅三藐三菩提。 而是諸佛、不記我、言汝於來世、當得作佛。何以故。以我有所得故。

 舎利弗、我念過世、得値八千佛。皆号定光。時皆作轉輪聖王、盡形供養及諸弟子、衣服・飲食・臥具・醫藥、爲求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸佛、不記我汝於來世、當得作佛。何以故。以我有所得故。

 舎利弗、我念過世値六萬佛。皆号光明。我時皆作轉輪聖王、盡形供養及諸弟子、衣服・飲食・臥具・醫藥、爲求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸佛、亦不記我汝於來世、當得作佛。何以故。以我有所得故。

 舎利弗、我念過世、値三億佛。皆号弗沙。我時作轉輪聖王、四事供養、皆不記我。以有所得故。

 舎利弗、我念過世、得値萬八千佛。皆号山王、劫名上八。我皆於此萬八千佛所、剃髪法衣修習阿耨多羅三藐三菩提、皆不記我。以有所得故。

 舎利弗、我念過世、得値五百佛。皆号華上。我時皆作轉輪聖王、悉以一切、供養諸佛及諸弟子、皆不記我。以有所得故。

 舎利弗、我念過世、得値五百佛。皆号威徳。我悉供養、皆不記我。以有所得故。

 舎利弗、我念過世、得値二千佛。皆号憍陳如。我時皆作轉輪聖王、悉以一切、供養諸佛、皆不記我。以有所得故。

 舎利弗、我念過世、値九千佛。皆号迦葉。我以四事、供養諸佛及弟子衆、皆不記我。以有所得故。

 舎利弗、我念過去、於萬劫中、無有佛出。爾時初五百劫、有九萬辟支佛。我盡形壽、悉皆供養衣服・飲食・臥具・醫藥、尊重讚嘆。次五百劫、復以四事、供養八萬四千億諸辟支佛、尊重讚嘆。

 舎利弗、過是千劫已、無復辟支佛。我時閻浮提死、生梵世中、作大梵王。如是展轉、五百劫中、常生梵世作大梵王、不生閻浮提。過是五百劫已、下生閻浮提、治化閻浮提、命終生四天王天。於中命終、生忉利天、作釋提桓因。如是展轉、滿五百劫生閻浮提、滿五百劫生於梵世、作大梵王。

舎利弗、我於九千劫中、但一生閻浮提、九千劫中、但生天上。劫盡燒時、生光音天。世界成已、還生梵世。九千劫中生、都不生人中。

舎利弗、是九千劫、無有諸佛・辟支佛、多諸衆生墮在惡道。

 舎利弗、是萬劫過已、有佛出世。号曰普守如來・應供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・佛世尊。我於爾時、梵世命終生閻浮提、作轉輪聖王。号曰共天。人壽九萬歳。我盡形壽、以一切樂具、供養彼佛及九十億比丘。於九萬歳、爲求阿耨多羅三藐三菩提。是普守佛亦不記我汝於來世、當得作佛。何以故。我於爾時、不能通達諸法實相、貪著計我有所得見。

 舎利弗、於是劫中、有百佛出、名号各異。我時皆作轉輪聖王、盡形供養及諸弟子。爲求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸佛亦不記我汝於來世、當得作佛。以有所得故。

 舎利弗、我念過世、第七百阿僧祇劫中、得値千佛。皆号閻浮檀。我盡形壽四事供養、亦不記我。以有所得故。

 舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値六百二十萬諸佛。皆号見一切儀。我時皆作轉輪聖王、以一切樂具、盡形供養及諸弟子、亦不記我。以有所得故。

 舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値八十四佛。皆号帝相。我時皆作轉輪聖王、以一切樂具、盡形供養及諸弟子、亦不記我。以有所得故。

 舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値十五佛。皆号日明。我時皆作轉輪聖王、以一切樂具、盡形供養及諸弟子、亦不記我。以有所得故。

 舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値六十二佛。皆号善寂。我時皆作轉輪聖王、以一切樂具、盡形供養、亦不記我。以有所得故。

 如是展轉、乃至見定光佛、乃得無生忍。即記我言、汝於來世過阿僧祇劫、當得作佛、号釋迦牟尼如來・應供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・佛世尊。

 はじめ三十億の釋迦牟尼佛にあひたてまつりて、盡形壽供養よりこのかた、定光如來にあふたてまつらせたまふまで、みなつねに轉輪聖王のみとして、盡形壽供養したてまつりまします。轉輪聖王、おほくは八萬已上なるべし。あるいは九萬歳、八萬歳の壽量、そのあひだの一切樂具の供養なり。定光佛とは燃燈如來なり。三十億の釋迦牟尼佛にあひたてまつりまします、佛本行集經ならびに佛藏經の説、おなじ。

 

「仏蔵経浄見品第八云、仏告舎利弗、我念過世、求阿耨多羅三藐三菩提、値三十億仏。皆号釈迦牟尼。我時皆作転輪聖王、尽形供養及諸弟子、衣服・飲食・臥具・医薬、為求阿耨多羅三藐三菩提。 而是諸仏、不記我、言汝於来世、当得作仏。何以故。以我有所得故」(『仏蔵経』下「大正蔵」一五・七九七a一六)<仏蔵経浄見品第八云く、仏は舎利弗に告ぐ、我れ過世を念うに、阿耨多羅三藐三菩提を求めて、三十億の仏に値う。皆な釈迦牟尼と号(なづ)く。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、形を尽くすまで諸弟子に及ぶまで、衣服・飲食・臥具・医薬を供養せり、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なり。而も是の諸仏は、我れを記して、汝は来世に於て、当に作仏するを得べしと言わず。何を以ての故に。我れ有所得なりしを以ての故なり>

舎利弗、我念過世、得値八千仏。皆号定光。時皆作転輪聖王、尽形供養及諸弟子、衣服・飲食・臥具・医薬、為求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸仏、()不記我汝於来世、当得作仏。何以故。以我有所得故」(「同」a二一、―部「皆」は原あり)<舎利弗、我れ過世を念うに、八千仏に値うを得。皆な定光と号く。時に皆な転輪聖王と作りて、形を尽くすまで諸弟子に及ぶまで、衣服・飲食・臥具・医薬を供養す、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なり。而も是の諸仏は、我れ汝を来世に於て、当に作仏するを得べしと記さず。何を以ての故に。我れ有所得なりしを以ての故なり>

舎利弗、我念過世値六万仏。皆号光明。我時皆作転輪聖王、尽形供養及諸弟子、衣服・飲食・臥具・医薬、為求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸仏、亦不記我汝於来世、当得作仏。何以故。以我有所得故」(「同」a二五)<舎利弗、我れ過世を念うに六万仏に値う。皆な光明と号く。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、形を尽くすまで諸弟子に及ぶまで、衣服・飲食・臥具・医薬を供養すは、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なり。而も是の諸仏は、亦た我れを汝は来世に於て、当に作仏するを得べしと記さず。何を以ての故に。我れ有所得なるを以ての故なり>

舎利弗、我念過世、値三億仏。皆号弗沙。我時作転輪聖王、四事供養、皆不記我。以有所得故」(「同」b一)<舎利弗、我れ過世を念うに、三億仏に値う。皆な弗沙と号く。我れ時に転輪聖王と作りて、四事供養するも、皆な我れを記さず。有所得を以ての故なり>

舎利弗、我念過世、得値万八千仏。皆号山王、劫名上八。我皆於此万八千仏所、剃髪()法衣修習阿耨多羅三藐三菩提、皆不記我。以有所得故」(「同」b三、―部「著」は原あり)<舎利弗、我れ過世を念うに、万八千仏に値うを得。皆な山王と号け、劫を上八と名づく。我れ皆な此の万八千仏の所に於て、剃髪法衣して阿耨多羅三藐三菩提を修習するに、皆な我れを記さず。有所得を以ての故なり>

舎利弗、我念過世、得値五百仏。皆号華上。我時皆作転輪聖王、悉以一切、供養諸仏及諸弟子、皆不記我。以有所得故」(「同」b六)<舎利弗、我れ過世を念うに、五百仏に値うを得。皆な華上と号く。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、悉く一切を以て、諸仏及び諸弟子を供養するも、皆な我れを記さず。有所得を以ての故なり>

舎利弗、我念過世、得値五百仏。皆号威徳。我悉供養、皆不記我。以有所得故」(「同」b九)<舎利弗、我れ過世を念うに、五百仏に値うを得。皆な威徳と号く。我れ悉く供養すも、皆な我れを記さず。有所得を以ての故に>

舎利弗、我念過世、得値二千仏。皆号憍陳如。我時皆作転輪聖王、悉以一切、(供具)供養諸仏、皆不記我。以有所得故」(「同」b一一、―部「供具」は原あり)<舎利弗、我れ過世を念うに、二千仏に値うを得。皆な憍陳如と号く。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、悉く一切を以て、諸仏を供養するも、皆な我れを記さず。有所得を以ての故に>

舎利弗、我念過世、値九千仏。皆号迦葉。我以四事、供養諸仏及弟子衆、皆不記我。以有所得故」(「同」b一三)<舎利弗、我れ過世を念うに、九千仏に値う。皆な迦葉と号く。我れ四事を以て、諸仏及び弟子衆に供養するも、皆な我れを記さず。有所得を以ての故に>

舎利弗、我念過去、於万劫中、無有仏出。爾時初五百劫、有九万辟支仏。我尽形寿、悉皆供養衣服・飲食・臥具・医薬、尊重讃嘆。次五百劫、復以四事、供養八万四千億諸辟支仏、尊重讃嘆」(「同」b一六)<舎利弗、我れ過去を念うに、万劫の中に於て、仏の出づる有ること無し。爾の時に初めの五百劫に、九万の辟支仏有り。我れ尽形寿に、悉く皆な衣服・飲食・臥具・医薬を供養して、尊重讃嘆す。次の五百劫に、復た四事を以て、八万四千億の諸の辟支仏を供養し、尊重讃嘆す>

舎利弗、過是千劫已、無復辟支仏。我時閻浮提死、生梵世中、作大梵王。如是展転、五百劫中、常生梵世作大梵王、不生閻浮提。過是五百劫已、下生閻浮提、治化閻浮提、命終生四天王天。於中命終、生忉利天、作釈提桓因。如是展転、満五百劫生閻浮提、満五百劫生於梵世、作大梵王」(「同」b二〇)<舎利弗、是の千劫を過ぎ已りて、復た辟支仏無し。我れ時に閻浮提に死して、梵世の中に生れて、大梵王と作る。是の如く展転して、五百劫の中に、常に梵世に生れ大梵王と作りて、閻浮提に生ぜず。是の五百劫を過ぎ已りて、閻浮提に下生して、閻浮提を治化して、命終して四天王天に生ず。中に於て命終して、忉利天に生れ、釈提桓因と作り。是の如く展転して、五百劫を満ちて閻浮提に生れ、五百劫を満ちて梵世に於て生れ、大梵王と作る>

舎利弗、我於九千劫中、但一生閻浮提、九千劫中、但生天上。劫尽焼時、生光音天。世界成已、還生梵世。九千劫中、都不生人中」(「同」b二六、―部「生」は原なし)<舎利弗、我れ九千劫の中に於て、但だ一たび閻浮提に生れ、九千劫の中に、但だ天上にのみ生る。劫尽きて焼ける時、光音天に生る。世界成じ已りて、還た梵世に生る。九千劫の中の生は、都て人中には生ぜず>

舎利弗、是九千劫、無有諸仏・辟支仏、多諸衆生堕在悪道」(「同」b二九)<舎利弗、是の九千劫に、諸仏・辟支仏有ること無く、諸の衆生の悪道に堕在するもの多し>

舎利弗、是万劫過已、有仏出世。号曰普守如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊。我於爾時、梵世命終生閻浮提、作転輪聖王。号曰共天。人寿九万歳。我尽形寿、以一切楽具、供養彼仏及九十億比丘。於九万歳、為求阿耨多羅三藐三菩提。是普守仏亦不記我汝於来世、当得作仏。何以故。我於爾時、不能通達諸法実相、貪著計我有所得見」(「同」c一)<舎利弗、是の万劫過ぎ已りて、仏有りて出世す。号(なづ)けて普守如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊と曰う。我れ爾の時に於て、梵世に命終して閻浮提に生れ、転輪聖王と作る。号けて共天と曰う。人寿九万歳なり。我れ尽形寿に、一切の楽具を以て、彼の仏及び九十億の比丘を供養せり。九万歳に於て、阿耨多羅三藐三菩提を求めんが為なり。是の普守仏も亦た我れを汝は来世に於て、当に作仏を得ると記さず。何を以ての故に。我れ爾の時に於て、諸法実相に通達するを能わず、計我・有所得の見に貪著すればなり>

舎利弗、於是劫中、有百仏出、名号各異。我時皆作転輪聖王、尽形供養及諸弟子。為求阿耨多羅三藐三菩提。而是諸仏亦不記我汝於来世、当得作仏。以有所得故」(「同」c九)<舎利弗、是の劫の中に於て、百仏有りて出ず、名号は各に異なり。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、形を尽すまで供養し諸の弟子に及ぶ。阿耨多羅三藐三菩提を求む為なり。而も是の諸仏も亦た我れを汝は来世に於て、当に作仏するを得ると記さず。有所得を以ての故に>

舎利弗、我念過世、第七百阿僧祇劫中、得値千仏。皆号閻浮檀。我尽形寿四事供養、亦不記我。以有所得故」(「同」c一三)<舎利弗、我れ過世を念うに、第七百阿僧祇劫の中に、千仏に値い得る。皆な閻浮檀と号く。我れ尽形寿に四事供養すも、亦た我れを記さず。有所得を以ての故に>

舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値六百二十万諸仏。皆号見一切儀。我時皆作転輪聖王、以一切楽具、尽形供養及諸弟子、亦不記我。以有所得故」(「同」c一六)<舎利弗、我れ過世を念うに、亦た第七百阿僧祇劫の中に於て、六百二十万の諸仏に値い得たり。皆な見一切儀と号く。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、一切の楽具を以て、形を尽くすまで供養すを諸弟子に及ぶも、亦た我れを記さず。有所得を以ての故に>

舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値八十四仏。皆号帝相。我時皆作転輪聖王、以一切楽具、尽形供養及諸弟子、亦不記我。以有所得故」(「同」c一九)<舎利弗、我れ過世を念うに、亦た第七百阿僧祇劫の中に於て、八十四仏に値い得たり。皆な帝相と号く。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、一切の楽具を以て、形を尽くすまで供養し諸弟子に及ぶも、亦た我れを記さず。有所得を以ての故に>

舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値()十五仏。皆号日明。我時皆作転輪聖王、以一切楽具、尽形供養及諸弟子、亦不記我。以有所得故」(「同」c二三、―部「六」は原あり)<舎利弗、我れ過世を念うに、亦た第七百阿僧祇劫の中に於て、十五仏に値い得たり。皆な日明と号く。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、一切の楽具を以て、形を尽くすまで供養し諸弟子に及ぶも、亦た我れを記さず。有所得を以ての故に>

舎利弗、我念過世、亦於第七百阿僧祇劫中、得値六十二仏。皆号善寂。我時皆作転輪聖王、以一切楽具、尽形供養、亦不記我。以有所得故」(「同」c二六)<舎利弗、我れ過世を念うに、亦た第七百阿僧祇劫の中に於て、六十二仏に値い得たり。皆な善寂と号く。我れ時に皆な転輪聖王と作りて、一切の楽具を以て、形を尽くすまで供養するも、亦た我れを記さず。有所得を以ての故に>

「如是展転、乃至見定光仏、乃得無生忍。即記我言、汝於来世過阿僧祇劫、当得作仏、号釈迦牟尼如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊」(「同」七九八a一)<是の如く展転して、乃至定光仏を見、乃ち無生忍を得たり。即ち我れを記して言く、汝は来世に於て阿僧祇劫を過ぎて、当に作仏するを得て、釈迦牟尼如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊と号く>

「はじめ三十億の釈迦牟尼佛に値ひたてまつりて、尽形寿供養よりこのかた、定光如来に値ふたてまつらせたまふまで、みな常に転輪聖王のみとして、尽形寿供養したてまつりまします。転輪聖王、おほくは八万已上なるべし。あるいは九万歳、八万歳の寿量、そのあひだの一切楽具の供養なり。定光仏とは燃燈如来なり。三十億の釈迦牟尼佛に値ひたてまつりまします、仏本行集経ならびに仏蔵経の説、おなじ」

 拈提と云うよりは解説のような文体で、文意は文中の如くであるが、『仏本行集経』での「三十億仏」の検証の為に、延々と『仏蔵経』を記すは、何処に何の意味が在ったのかが疑問である。表題に示す如く「諸仏の供養」には四事供養の大切さを解き明かす為の引用であったの歟が問われる処ではある。

 この「新草」に対する人々のの疑念は様々あろうが、筆者の不審は、この『十二巻本正法眼蔵』は誰に対する著作かである。文章を書き上げる目的は、自身の為・備忘録的な著作、いま一つは「旧草本」の如くに聴講衆に対する示衆の二通りであろう。この後の経典引用も同様な形態であることから、この「新草本」は道元が手元に置くべき自身の参学用、またはメモ書き用と考えても良さそうな文体構成であろうが、疑念はこれにて止めよう。

 

   四

 釋迦菩薩、初阿僧企耶、逢事供養七萬五千佛。最初名釋迦牟尼、最後名寶髻。第二阿僧企耶、逢事供養七萬六千佛。最初即寶髻、最後名燃燈。第三阿僧企耶、逢事供養七萬七千佛。最初即燃燈、最後名勝觀。於修相異熟業九十一劫中、逢事供養六佛。最初即勝觀、最後名迦葉波。

 おほよそ三大阿僧祇劫の供養諸佛、はじめ身命より、國城妻子、七寶男女等、さらにをしむところなし。凡慮のおよぶところにあらず。あるいは黄金の粟を白銀の剜にもりみて、あるいは七寶の粟を金銀の剜にもりみてて供養したてまつる。あるいは小豆、あるいは水陸の花、あるいは栴檀沈水香等を供養したてまつり、あるいは五莖の青蓮華を、五百の金錢をもて買取て、燃燈佛を供養したてまつりまします。あるいは鹿皮衣、これを供養したてまつる。

 おほよそ供佛は、諸佛の要樞にましますべきを供養したてまつるにあらず。いそぎわがいのちの存ぜる光陰をむなしくすごさず、供養したてまつるなり。たとひ金銀なりとも、ほとけの御ため、なにの益かあらん。たとひ香花なりとも、またほとけの御ため、なにの益かあらん。しかあれども、納受せさせたまふは、衆生をして功徳を増長せしめんための大慈大悲なり。

 

「釈迦菩薩、初()阿僧企耶、逢事供養七万五千仏。最初名釈迦牟尼、最後名宝髻。第二(劫)阿僧企耶、逢事供養七万六千仏。最初即宝髻、最後名燃燈。第三(劫)阿僧企耶、逢事供養七万七千仏。最初即燃燈、最後名勝観。於修相異熟業九十一劫中、逢事供養六仏。最初即勝観、最後名迦葉波」(『阿毘達磨大毘婆沙論』百七十八「大正蔵」二七・八九二c五、―部「劫」は原あり、―部「供養」は原なし)<釈迦菩薩、初阿僧企耶(あそうぎや)に、七万五千仏に逢事して供養す。最初を釈迦牟尼と名づけ、最後を宝髻(ほうけい)と名づく。第二阿僧企耶に、七万六千仏に逢事し供養す。最初は即ち宝髻、最後は燃燈と名づく。第三阿僧企耶に、七万七千仏に逢事し供養す。最初は即ち燃燈、最後は勝観と名づく。相異熟業を修する九十一劫の中に於て、六仏に逢事し供養す。最初は即ち勝観、最後は迦葉波と名づく>

「おほよそ三大阿僧祇劫の供養諸仏、はじめ身命より、国城妻子、七宝男女等、さらに惜しむところなし。凡慮の及ぶところにあらず。あるいは黄金の粟を白銀の剜に盛り満て、あるいは七宝の粟を金銀の剜に盛り満てて供養したてまつる。あるいは小豆、あるいは水陸の花、あるいは栴檀沈水香等を供養したてまつり、あるいは五茎の青蓮華を、五百の金銭をもて買取て、燃燈仏を供養したてまつりまします。あるいは鹿皮衣、これを供養したてまつる」

 まずは引用経典には「供養」の語句が見当たらないにも拘らず、敢えて付加する由縁は、彼(道元)の披瀝した『毘婆沙論』では「逢事供養」と記載されていたからこそ、「当巻」に撰集択されたものだろう。

 ここで「供養」に関する事項として「身命」なり現身供養、次いで前巻『発菩提心』にて示した「国城妻子七宝男女頭目髄脳身肉手足」のー部を挙げ、後部―は「身命」に該当するであろう。これらは肉体的施しであり、金銭に余裕ある人ならば「黄金や七宝の固まりを、白銀および金銀の剜に盛り満たして」の供養もあろう。あるいは「小豆」の供養とは一段と質が下落したと思われようが、インドやネパールでは、実に多種多様な豆類が調理され食されるのである。特にネパールにては「ダル」と称し「小さな豆」スープが日々の食事に提供される。このことから日常の物品からの供養は実に現実的である。

 あるいは「水陸の花」の供養とは、特に東南アジア諸国での宗教儀礼に於いては、年間を通して生花が絶えない事情から、常に寺院・僧侶に対しては色彩豊かな「花」の供養が行われる。また当該の女性、殊に老婆と称すべき年配の女性が自身の髪に「生花」を供儀する姿は、日本などでは想像だに出来ない光景である。

 あるいは「栴檀・沈水香」の供養とは、香木による香食供養を仏および故人に捧げるものだが、『法華経』「法師功徳品」では種々の諸香として「須曼那華香。闍提華香。末利華香。瞻蔔華香。波羅羅華香。赤蓮華香。青蓮華香。白蓮華香。華樹香菓樹香。栴檀香沈水香。多摩羅跋香。多伽羅香。及千万種和香」(「大正蔵」九・四八b二二)が列記される。

 あるいは「五茎の青蓮華」功徳の出典は『仏説太子瑞応本起経』上での「七枚青蓮華―略―探嚢中五百銀銭―略―披鹿皮衣、不惜銀銭宝、得五茎華」(「大正蔵」三・四七三a六)からの援用であり、これらを「燃燈仏」に供養すると云う。なお「燃燈仏(Dipankara)」は定光仏の異名でもある。

「おほよそ供仏は、諸仏の要枢にましますべきを供養したてまつるにあらず。急ぎ我が命の存ぜる光陰をむなしく過ごさず、供養したてまつるなり。たとひ金銀なりとも、ほとけの御ため、なにの益かあらん。たとひ香花なりとも、またほとけの御ため、なにの益かあらん。しかあれども、納受せさせたまふは、衆生をして功徳を増長せしめん為の大慈大悲なり」

 此処では「供養」の本義とも云うべき旨が述べられる。「供養(puja)」の定義としては、仏、菩薩諸天などに、香華・灯明・飲食・医薬等の供物を捧げること(ウイキペディアより)」と記載されるが、道元の言う「供養」とは「諸仏に供養するのではなく、自身の命の存ずる時間を、供養したてまつる」と言う。この考え方は「衆生」→「ほとけ」つまり従来の→は不可逆的で一方通行のような観念であったものを、↔なる可逆的な観方を示した事で、「ほとけ」→「大慈悲(maha mettakarna)」が衆生への甘露となるものであろう。

 

   五

 大般涅槃經第二十二云、

 佛言、善男子、我念過去無量無邊那由佗劫、爾時世界名曰娑婆。有佛世尊、号釋迦牟尼如來應供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・佛世尊。爲諸大衆、宣説如是大涅槃經。我於爾時、從善友所轉、聞彼佛當爲大衆説大涅槃。我聞是已、其心歡喜、欲設供養。居貧無物。欲自賣身、薄福不售。即欲還家、路見一人。而便語言、吾欲賣身、若能買不。其人答曰、我家作業、人無堪者、汝設能爲、我當買汝。我即問言、有何作業、人無能堪。其人見答、吾有惡病、良醫處藥、應當日服人肉三兩。卿若能以身肉三兩日々見給、便當與汝金錢五枚。我時聞已、心中歡喜。我復語言、汝與我錢、假我七日。須我事訖、便還相就。其人見答、七日不可、審能爾者、當許一日。

 善男子、我於爾時、即取其錢、還至佛所、頭面禮足、盡其所有、而以奉献。然後、誠心聽受是經。我時闇鈍、雖得聞經、唯能受持一偈文句。

  如來證涅槃 永斷於生死 若有至心聽 常得無量樂

 受是偈已、即便還至彼病人家。善男子、我時雖復日々與三兩肉、以念偈因縁故、不以爲痛。日々不癈、具滿一月。善男子、以是因縁其病得瘥、我身平復亦無瘡痍。我時見身具足完具、即發阿耨多羅三藐三菩提心。一偈之力尚能如是、何況具足受持讀誦。我見此經有如是利、復倍發心、願於未來、得成佛道、字釋迦牟尼。善男子、以是一偈因縁力故、令我今日於大衆中、爲諸天人具足宣説。善男子、以是因縁、是大涅槃不可思議、成就無量無邊功徳。乃是諸佛如來甚深秘密之藏。

 そのときの賣身の菩薩は、今釋迦牟尼佛の往因なり。佗經を會通すれば、初阿僧祇劫の最初、古釋迦牟尼佛を供養したてまつりましますときなり。かのときは瓦師なり、その名を大光明と稱ず。古釋迦牟尼佛ならびに諸弟子に供養するに三種の供養をもてす、いはゆる草座石蜜漿燃燈なり。そのときの發願にいはく、

 國土名号壽命弟子、一如今釋迦牟尼佛。

 かのときの發願、すでに今日成就するものなり。しかあればすなはち、ほとけを供養したてまつらんとするに、その身まづしといふことなかれ、そのいへまづしといふことなかれ。みづから身をうりて諸佛を供養したてまつるは、いま大師釋尊の正法なり。たれかこれを隨喜歡喜したてまつらざらん。このなかに、日々に三兩の身肉を割取するぬしにあふ、善知識なりといへども、佗人のたふべからざるなり。しかあれども、供養の深志のたすくるところ、いまの功徳あり。いまわれら如來の正法を聽聞する、かの往古の身肉を處分せられたるなるべし。いまの四句の偈は、五枚の金錢にかふるところにあらず。三阿僧祇、一百大劫のあひだ、受生捨生にわするゝことなく、彼佛是佛のところに證明せられきたりましますところ、まことに不可思議の功徳あるべし。遺法の弟子、ふかく頂戴受持すべし。如來すでに一偈之力、尚能如是と宣説しまします、もともおほきにふかゝるべし。

 

大般涅槃経第二十二云、仏言、善男子、我念過去無量無辺那由他劫、爾時世界名曰娑婆。有仏世尊、号釈迦牟尼如来・応・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊。為諸大衆、宣説如是大涅槃経。我於爾時、従善友所転、聞彼仏当為大衆説大涅槃。我聞是已、其心歓喜、欲設供養。居貧無物。欲自売身、薄福不售。即欲還家、路見一人」(『大般涅槃経』二十二「大正蔵」一二・四九七a一九、―部「供」は原なし)<大般涅槃経第二十二云、仏言く、善男子、我れ過去無量無辺那由他劫を念うに、爾の時に世界を名づけて娑婆と曰へり。仏世尊有り、釈迦牟尼如来・応供・正遍知・明行足・善逝・世間解・無上士・調御丈夫・天人師・仏世尊と号く。諸の大衆の為に、是の如くの大涅槃経を宣説す。我れ爾の時に於て、善友の所より転じて、彼の仏は当に大衆の為に大涅槃を説くと聞く。我れ是を聞き已りて、其の心は歓喜し、供養を設けんと欲う。貧に居して物は無し。自ら身を売らんと欲うも、薄福にして售(う)れず。即ち家に還らんと欲うに、路に一人を見たり>

「而便語言、吾欲売身、能買不。其人答曰、我家作業、人無堪者、汝設能為、我当買汝。我即問言、有何作業、人無能堪(「同」a二七、―部「若」は原「君」、―部「能堪」は原「堪能」)<而便ち語言す、吾れ身を売らんと欲うに、若(なんぢ)は能く買うや不(いな)や。其の人答えて曰うには、我が家の作業は、人の堪うる者無し、汝の設(も)し能く為せば、我れ当に汝を買う。我れ即ち問いて言く、何(いか)なる作業有りてか、人の能く堪うる無き>

「其人見答、吾有悪病、良医処薬、応当日服人肉三両。卿若能以身肉三両日々見給、便当与汝金銭五枚」(「同」a二九)<其の人見答するに、吾れに悪病有り、良医の処薬は、応当に日に人肉三両を服すべしと。卿(なんぢ)は若し能く身肉三両を以て日々に見給えば、便ち当に汝金銭五枚を与うべし>

「我時聞已、心中歓喜。我復語言、汝与我銭、仮我七日。須我事訖、便還相就。其人見答、七日不可、審能爾者、当許一日」(「同」b三)<我れ時に聞き已りて、心中歓喜す。我れ復た語りて言く、汝は我れに銭を与え、我れに七日を仮すべし。我が事訖(おわ)るを須(ま)ちて、便ち還た相い就かん。其の人見答すらく、七日は不可なり、審(も)し能く爾(しか)あらば、当に一日を許すべし>

「善男子、我於爾時、即取其銭、還至仏所、頭面礼足、尽其所有、而以奉献。然後、誠心聴受是経。我時闇鈍、雖得聞経、唯能受持一偈文句」(「同」b五)<善男子、我れ爾の時に於て、即ち其の銭を取りて、還た仏の所に至り、頭面に礼足し、其の所有を尽して、而以て奉献す。然る後、誠心に是の経を聴受す。我れ時に闇鈍にして、経を聞くと得ると雖も、唯能く一偈の文句を受持したり>

如来証涅槃、永断於生死。若有至心聴、常得無量楽。受是偈已、即便還至彼病人家」(「同」b九)<如来は涅槃を証し、永く生死を断ず。若し至心に聴くこと有らば、常に無量の楽を得べし。是の偈を受け已りて、即便ち還た彼の病人の家に至りぬ>

「善男子、我時雖復日々与三両肉、以念偈因縁故、不以為痛。日々不癈、具満一月」(「同」b一一)<善男子、我れ時に復た日々に三両の肉を与うと雖も、念偈の因縁を以ての故に、以て痛と為さず。日々癈せず、具(つぶさ)に一月を満てり>

「善男子、以是因縁其病得瘥、我身平復亦無瘡痍。我時見身具足完具、即発阿耨多羅三藐三菩提心。一偈之力尚能如是、何況具足受持読誦。我見此経有如是利、復倍発心、願於未来、得成仏道、字釈迦牟尼(「同」b一一)<善男子、是の因縁を以て其の病の瘥(い)ゆるを得、我が身も平復して亦た瘡痍無き。我れ時に身の具足完具なるを見て、即ち阿耨多羅三藐三菩提心を発す。一偈之力は尚お能く是の如し、何(いか)に況んや具足して受持し読誦せん。我れ此の経の如是の利有るを見て、復た倍(ますます)発心し、未来に於いて、仏道を成ずるを得て、釈迦牟尼と字(あざな)せんを願う>

「善男子、以是一偈因縁力故、令我今日於大衆中、為諸天人具足宣説」(「同」b一八)<善男子、是の一偈の因縁力を以ての故に、我れをして今日大衆の中に於て、諸の天人の為に具足して宣説す>

「善男子、以是因縁、是大涅槃不可思議、成就無量無辺功徳。乃是諸仏如来甚深秘密之蔵」(「同」b二〇)<善男子、是の因縁を以て、是の大涅槃不可思議なり、無量無辺の功徳を成就す。乃ち是れ諸仏如来の甚深秘密之蔵なり>

「そのときの売身の菩薩は、今釈迦牟尼仏の往因なり。他経を会通すれば、初阿僧祇劫の最初、古釈迦牟尼仏を供養したてまつりまします時なり。かの時は瓦師なり、その名を大光明と称ず。古釈迦牟尼仏ならびに諸弟子に供養するに三種の供養をもてす、いはゆる草座石蜜漿燃燈なり。その時の発願にいはく、国土名号寿命弟子、一如今釈迦牟尼仏

 「かの時は瓦師なり、その名を大光明」の出典は、『大智度論』三に於ける「問曰、云何先世因縁。答曰、釈迦文佛先世作瓦、名大光明。爾時有仏名釈迦文。弟子名舍利弗・目乾連・阿難。佛与弟子倶到瓦師舍一宿。爾時瓦師、布施草坐・燈明・石蜜漿三事。供養仏及比丘僧。便発願言。我於当来老病死悩五悪之世作仏。如今仏名釈迦文」(「大正蔵」二五・八三b一五)と考えられるが、細部は一致せず。なお此の所は『永平広録』(182)の冒頭語に記録されるが、『大智度論』がベースにはあるものの、他の文献との合楺であろうと思われる(寛元元年(1246)七月初旬の頃の上堂と推察する)。

「かの時の発願、すでに今日成就するものなり。しかあれば則ち、ほとけを供養したてまつらんとするに、その身貧しと云ふことなかれ、その家貧しと云ふことなかれ。みづから身を売りて諸仏を供養したてまつるは、いま大師釈尊の正法なり。たれかこれを随喜歓喜したてまつらざらん」

 「その時の発願が今日成就した」と云うは、「涅槃経」等で説かれた教説が時間・空間を越えて、道元の生きた時代にまで伝播された「大師釈尊の正法」を共に「随喜し歓喜する」ことへの共歓を述べるものでありましょう。

「この中に、日々に三両の身肉を割取する主に会ふ、善知識なりと云へども、他人の絶ふべからざるなり。しかあれども、供養の深志の助くる処、今の功徳あり。今われら如来の正法を聴聞する、かの往古の身肉を処分せられたるなるべし」

 「日々三両の身肉」は如何ほどの重量になるかは知らず、又これは説話の類いであるから、此話に対し労力を費やさない。と云うのが現代の思考パターンのように思われるが、これは一種の古則公案にも類似した話則と捉えると、「深志の助くる処」とは当に、縁起の深遠性つまり深大なる関係性の上に於ける、過去と現今との聯関性の問題とも考えられようか。

「いまの四句の偈は、五枚の金錢に替ふる処にあらず。三阿僧祇、一百大劫のあひだ、受生捨生に忘るゝことなく、彼仏是仏の処に証明せられ来たりまします処、まことに不可思議の功徳あるべし。遺法の弟子、深く頂戴受持すべし。如来すでに一偈之力、尚能如是と宣説しまします、もともおほきに深かるべし」

 「四句の偈」とは、「如来証涅槃、永断於生死。若有至心聴、常得無量楽」の文句は釈迦文より出で来るもので、五枚の金銭とは等価できない。「遺法の弟子」とは、取りも直さず我々を指名するわけであるから、責めても我々としては「具足受持読誦」に努めるしか方途はなかろう。

 

   六

 法華經云、若人於塔廟、寶像及畫像、以華香幡蓋、敬心而供養、若使人作樂、撃鼓吹角唄、簫笛琴箜篌、琵琶鐃銅鈸、如是衆妙音、盡持以供養、或以歡喜心、歌唄頌佛徳、乃至一少音、皆已成佛道。若人散亂心、乃至以一華、供養於畫像、漸見無數佛。或有人禮拝、或復但合掌、乃至擧一手、或復少低頭、以此供養像、漸見無量佛、自成無上道、廣度無數衆。

 これすなはち、三世諸佛の頂寧なり、眼睛なり。見賢思齊の猛利精進すべし。いたづらに光陰をわたることなかれ。

 石頭無際大師云、光陰莫虚度。かくのごときの功徳、みな成佛す。過去現在未來おなじかるべし。さらに二あり、三あるべからず。供養佛の因によりて、作佛の果を成ずること、かくのごとし。

 

法華経云、若人於塔廟、宝像及画像、以華香幡蓋、敬心而供養、若使人作楽、撃鼓吹角、簫笛琴箜篌、琵琶鐃銅鈸、如是衆妙音、尽持以供養、或以歓喜心、歌唄頌仏徳、乃至一音、皆已成仏道。若人散乱心、乃至以一華、供養於画像、漸見無数仏。或有人礼拝、或復但合掌、乃至挙一手、或復少低頭、以此供養像、漸見無量仏、自成無上道、広度無数衆」(『法華経』方便品「大正蔵」九・九a一〇、―部「唄」は原「貝」、―部「少」は原「小」)<若し人、塔廟、宝像及び画像に於て、華香・幡蓋を以て、敬心に而も供養せん、若しは人を使い楽を作し、鼓を撃ち角唄を吹き、簫笛(しょうてき・吹奏楽器)琴箜篌(きんくご)、琵琶(弦楽器)鐃銅鈸(にょうどうはつ・打楽器)、是の如くの衆妙の音で、尽く持以て供養す、或いは歓喜心を以て、歌唄(かばい)して仏徳を頌す、乃至一少音すら、皆な已に仏道を成ぜり。若し人散乱の心もて、乃至一華を以て、画像に於て供養せん、漸くに無数の仏を見ん。或いは人有りて礼拝し、或いは復た但だ合掌し、乃至一手を挙げ、或いは復た少しく低頭す、此れを以て像を供養するは、漸くに無量仏を見ん、自ら無上道を成じて、広く無数の衆を度せん>

「これ即ち、三世諸仏の頂□(寧+頁)なり、眼睛なり。見賢思斉の猛利精進すべし。いたづらに光陰を度ることなかれ」

 此処で述べる要略としては、どんな些細な機縁をも見過ごすことなく、一つ一つの事物事象が「仏の頭や眼玉」と思い、また『論語』「里仁」で説かれる「見賢思斉焉、見不賢而内自省也」<賢を見ては斉(ひと)しからんと思い、不賢を見ては内に自ら省みる也>のように、勇猛に進み出でて、時間を無駄にするな、との激励であります。また此の論語は『柏樹子』にては「これ見賢の雲水ありとも、思斉の龍象なからん」(「大正蔵」八二・一五四c八)と、賢者を見る雲水は居るが、賢者に斉しい雲水(龍象)は居ないぞ、と二分割しての用法である。

「石頭無際大師云、光陰莫虚度」(『景徳伝灯録』三十「参同契」(「大正蔵」五一b二〇)

「かくの如きの功徳、みな成仏す。過去現在未来同じかるべし。さらに二あり、三あるべからず。供養仏の因によりて、作仏の果を成ずること、かくの如し」

 時間を無駄にしない生き方をすれば、成仏が確約されているようなもので、その段階では二の矢・三の矢は無く、現成悉皆成仏の世界である。つまり「供養仏」=「作仏の果」が等価であるわけである。

 

   七

 龍樹祖師曰、如求佛果、讚歎一偈、稱一南謨、燒一捻香、奉献一華、如是小行、必得作佛。

 これひとり龍樹祖師菩薩の所説といふとも、歸命したてまつるべし。いかにいはんや大師釋迦牟尼佛説を、龍樹祖師、正傳擧揚しましますところなり。われらいま佛道の寶山にのぼり、佛道の寶海にいりて、さいはひにたからをとれる、もともよろこぶべし。曠劫の供佛のちからなるべし。必得作佛うたがふべからず、決定せるものなり。

 釋迦牟尼佛の所説、かくのごとし。

 復次、有小因大果、小縁大報。如求佛道、讚一偈、一稱南無佛、燒一捻香、必得作佛。何況聞知諸法實相、不生不滅、不々生不々滅、而行因縁業、亦不失。

 世尊の所説、かくのごとくあきらかなるを、龍樹祖師したしく正傳しましますなり。誠諦の金言、正傳の相承あり。たとひ龍樹祖師の所説なりとも、餘師の説に比すべからず。世尊の所示を正傳流布しましますにあふことをえたり、もともよろこぶべし。これらの聖教を、みだりに東土の凡師の虚説に比量することなかれ。

 龍樹祖師曰、復次諸佛、恭敬法故、供養於法、以法爲師。何以故。三世諸佛皆以諸法實相爲師。問曰、何以不自供養身中法、而供養佗法。答曰、隨世間法。如比丘欲供養法寶、不自供養身中法、而供養餘持法知法解法者。佛亦如是、雖身中有法、而供養餘佛法。問曰、如佛不求福徳、何以故供養。答曰、佛從無量阿僧祇劫中、修諸功徳、常行諸善。不但求報敬功徳故、而作供養。如佛在時、有一盲比丘。眼無所見、而以手縫衣、時針衽脱。便言、誰愛福徳、爲我衽針。是時佛、到其所語比丘、我是愛福徳人、爲汝衽來。是比丘、識佛聲、疾起著衣、禮佛足、白佛言、佛功徳已滿、云何言愛福徳。

 佛報言、我雖功徳已滿、我深知功徳因功徳果報功徳力。今我於一切衆生中得最第一、由此功徳、是故我愛。佛爲此比丘讚功徳已、次爲隨意説法、是比丘、得法眼淨、肉眼更明。

 この因縁、むかしは先師の室にして夜話をきく、のちには智度論の文にむかうてこれを檢校す。傳法祖師の示誨、あきらかにして遺落せず。この文、智度論第十にあり。諸佛かならず諸法實相を大師としましますこと、あきらけし。釋尊また諸佛の常法を證しまします。

 いはゆる諸法實相を大師とするといふは、佛法僧三寶を供養恭敬したてまつるなり。諸佛は無量阿僧祇劫そこばくの功徳善根を積集して、さらにその報をもとめず。たゞ功徳を恭敬して供養しましますなり。佛果菩提のくらゐにいたりてなほ小功徳を愛し、盲比丘のために衽針しまします。佛果の功徳をあきらめんとおもはば、いまの因縁、まさしく消息なり。

 しかあればすなはち、佛果菩提の功徳、諸法實相の道理、いまのよにある凡夫のおもふがごとくにはあらざるなり。いまの凡夫のおもふところは、造惡の諸法實相ならんとおもふ、有所得のみ佛果菩提ならんとおもふ。かくのごとくの邪見は、たとひ八萬劫をしるといふとも、いまだ本劫本見、末劫末見をのがれず。いかでか唯佛與佛の究盡しましますところの諸法實相を究盡することあらん。ゆゑいかんとなれば、唯佛與佛の究盡しましますところ、これ諸法實相なるがゆゑなり。

 

龍樹祖師曰、如求仏果、讃歎一偈、称一南謨、燒一捻香、奉献一華、如是小行、必得作仏」(『止観輔行伝弘決』四之一「大正蔵」四六・二五二a二七、―部「龍樹」は原なし)<龍樹祖師曰く、仏果を求むが如きは、一偈を讃歎し、一に南謨を称え、一に捻香を燒き、一に華を奉献す、是の如くの小行も、必ず作仏を得>

「これひとり龍樹祖師菩薩の所説と云ふとも、帰命したてまつるべし。如何に云はんや大師釈迦牟尼仏説を、龍樹祖師、正伝挙揚しまします処なり。我らいま仏道の宝山に登り、仏道の宝海に入りて、幸ひに宝を取れる、もとも喜ぶべし。曠劫の供仏の力なるべし。必得作仏疑ふべからず、決定せるものなり。釈迦牟尼仏の所説、かくの如し」

 「龍樹」は仏祖法系で云えば第十四祖に当るわけですから、謂うなれば釈尊の言説と受け入れれば良いわけです。「仏道の宝山に登り、仏道の宝海に入る」とは、正に「大蔵経」を手にした道元の意気高揚が読み取れ、「必得作仏」して「決定」し、「龍樹祖師言」を「釈迦牟尼仏の所説」と同等視する辺りに独自の表現法を感ずる。

「復次、有小因大果、小縁大報。如求仏道、讃一偈、一称南無仏、焼一捻香、必得作仏。何況聞知諸法実相、不生不滅、不々生不々滅、而行因縁業、亦不失」(『大智度論』七「大正蔵」二五・一一二c一九)<復た次に、小因大果、小縁大報有り。仏道を求むが如き、一偈を讃じ、一に南無仏を称じ、一に捻香を焼くは、必ず作仏を得。何(いか)に況んや諸法実相、不生不滅、不々生不々滅を聞知して、而も因縁の業を行ぜん、亦た失せず>

「世尊の所説、かくの如く明らかなるを、龍樹祖師親しく正伝しましますなり。誠諦の金言、正伝の相承あり。たとひ龍樹祖師の所説なりとも、余師の説に比すべからず。世尊の所示を正伝流布しましますに会ふことを得たり、もとも喜ぶべし。これらの聖教を、妄りに東土の凡師の虚説に比量することなかれ」

 前出「龍樹」の出典は『止観輔行伝弘決』であり、今回の出典は『大智度論』であるが、文言としては類似の文体ではあるが、膨大な大蔵経典文字群から如何にして取捨選択したの歟。独力で在ったのか、それとも助力者が在したの歟、知り得たい所である。

龍樹祖師曰、復次諸仏、恭敬法故、供養於法、以法為師。何以故。三世諸仏皆以諸法実相為師」(『大智度論』十「大正蔵」二五・一二八c二六、―部「「龍樹」は原なし」<龍樹祖師曰く、復た次に諸仏は、法を恭敬す故に、法に於て供養し、法を以て師と為す。何を以ての故に。三世の諸仏は皆な諸法実相を以て師と為す>

「問曰、何以不自供養身中法、而供養他法」(「同」c二八)<問うて曰く、何を以てか自ら身中の法を供養せず、而も他法を供養すや>

「答曰、随世間法。如比丘欲供養法宝、不自供養身中法、而供養余持法知法解法者。仏亦如是、雖身中有法、而供養余仏法」(「同」c二九)<答えて曰く、世間の法に随えばなり。如(も)し比丘、法宝を供養せんと欲わば、自ら身中の法を供養せずして、而も余の持法・知法・解法の者を供養すべし。仏も亦た是の如し、身中に法有りと雖も、而も余仏の法を供養す>

「問曰、如仏不求福徳、何以故供養」(「同」一二九a三)<問うて曰く、仏の如きは、福徳を求めず、何を以ての故に供養すや>

「答曰、仏従無量阿僧祇劫中、修諸功徳、常行諸善。不但求報敬功徳故、而作供養」(「同」a四)<答えて曰く、仏は無量阿僧祇劫の中より、諸の功徳を修し、常の諸の善を行ず。但だ報いを求めず功徳を敬う故に、而も供養を作す>

「如仏在時、有一盲比丘。眼無所見、而以手縫衣、時針衽脱。便言、誰愛福徳、為我衽針」(「同」a六)<仏在し時の如き、一の盲比丘有り。眼に見る所無く、而も手を以て衣を縫うに、時に針衽(はり・おくみ〔裏〕)脱す。便ち言く、誰か福徳を愛して、我が為に衽針せん>

「是時仏、到其所語比丘、我是愛福徳人、為汝衽来」(「同」a八)<是の時に仏は、其の所に到りて比丘に語る、我れは是れ福徳を愛する人なり、汝が為に衽し来らん>

「是比丘、識仏声、疾起著衣、礼仏足、白仏言、仏功徳已満、云何言愛福徳」(「同」a九)<是の比丘は、仏の声を識りて、疾(と)く起ちて衣を著け、仏の足を礼し、仏に白して言く、仏の功徳は已に満つ、云何が福徳を愛すと言うや>

「仏報言、我雖功徳已満、我深知功徳因功徳果報功徳力。()今我於一切衆生中得最第一、由此功徳、是故我愛」(「同」a一一、―部「令」は原あり)<仏の報(つ)げて言く、我れ功徳已に満ずと雖も、我れ深く功徳の因・功徳の果報・功徳の力を知る。今我れ一切衆生の中に於て最第一を得るは、此の功徳に由る、是の故に我れ愛す>

「仏為此比丘讃功徳已、次為随意説法、是比丘、得法眼浄、肉眼更明」(「同」a一四)<仏は此の比丘の為に功徳を讃め已り、次いで為に意に随って説法す、是の比丘は、法の眼浄を得て、肉眼は更に明らかまり>

「この因縁、昔は先師の室にして夜話を聴く、後には智度論の文に向かうてこれを檢校す。伝法祖師の示誨、明らかにして遺落せず。この文、智度論第十にあり。諸仏必ず諸法実相を大師としましますこと、諦らけし。釈尊また諸仏の常法を証しまします」

 「この因縁」とは、本則話に於ける「三世諸仏は皆な諸法実相を以て師と為す」の講話を天童寺での夜話(正式ではない講義・正式とは上堂を指す)で聴聞した話を、後日、原文の『大智度論』十と向い合わせ(檢校)確認したとの事だが、この「檢校」の作業は先ほどの『永平広録』(182)上堂の話則の引用が「当巻」である『供養諸仏』に聯関することから、先述の上堂日時は寛元四年(1246)七月初旬と推定されることから、それ以前に「檢校」作業が行われたと推考する。つまり天童寺での如浄への参学は宝慶元年(1225)より宝慶三年(1227)であるから、その間には二十年もの歳月が流れるが、天童寺での丈室夜話を、二十数年ぶりに会通したわけである。

「いはゆる諸法実相を大師とすると云ふは、仏法僧三宝を供養恭敬したてまつるなり。諸仏は無量阿僧祇劫そこばくの功徳善根を積集して、さらにその報を求めず。たゞ功徳を恭敬して供養しましますなり。仏果菩提のくらゐに至りてなほ小功徳を愛し、盲比丘のために衽針しまします。仏果の功徳を諦らめんと思はば、いまの因縁、まさしく消息なり」

 「諸法実相」の実態としては、小さな功徳の積み重ねであることの一例として、盲人の僧の為に針の穴に糸を通す手助け等を挙げるが、その行為自体が「仏法僧の三宝を供養し恭敬する」仏道が「諸法実相」をしる手がかり(消息)だと言うのである。

「しかあれば則ち、仏果菩提の功徳、諸法実相の道理、今の世にある凡夫の思ふが如くにはあらざるなり。今の凡夫の思ふところは、造悪の諸法実相ならんと思ふ、有所得のみ仏果菩提ならんと思ふ。かくの如くの邪見は、たとひ八万劫を知ると云ふとも、いまだ本劫本見、末劫末見を逃れず。いかでか唯仏与仏の究尽しまします処の諸法実相を究尽することあらん。ゆゑいかんとなれば、唯仏与仏の究尽しまします処、これ諸法実相なるがゆゑなり」

 此処に於いても「諸法実相」の捉え方を説くものであるが、「凡夫の思ふところは、造悪の諸法実相と思ふ」この文言は、先の鎌倉より帰山後の「永平寺山内衆の荒廃」を回想しての筆勢ではなかろうかと推察する。その証左が『建撕記』にて示される「玄明擯罸の事」であるが、「道元が鎌倉より永平寺に帰山後に、西明寺北条時頼)から越前国内の六条保の寄進の申し出があり固辞したものの、その寄進状の使い走りを玄明なる僧が担い、その任に当たって自身を高僧なると歓喜し、山内に喜悦する態度」を見て、道元の怒りに触れ「擯出」となったのである。

 このような観点から文章を読み解くと、「有所得のみ仏果菩提と思ふ」などは宝治二年(1248)三月以降の上堂内容を今一度精査しなければならぬが、今はその余裕が筆者自身には無い。

 

   八

 おほよそ供養に十種あり。いはゆる、

 一者身供養。二者支提供養。三者現前供養。四者不現前供養。五者自作供養。六者佗作供養。七者財物供養。八者勝供養。九者無染供養。十者至處道供養。

 このなかの第一身供養とは、於佛色身、而設供養、名身供養。

 第二供佛靈廟、名支提供養。僧祇律云、有舎利者名爲塔婆、無舎利者説爲支提。或云、通名支提。又梵云塔婆、復稱偸婆、此翻方墳、亦言靈廟。阿含言支徴〈知荷反〉。

 あるいは塔婆と稱じ、あるいは支提と稱ずる、おなじきににたれども、南嶽思大禪師の法華懺法言、

一心敬禮、十方世界、舎利尊像、支提妙塔、多寶如來、全身寶塔。

 あきらかに支提と妙塔とは、舎利と尊像、別なるがごとし。

 

「おほよそ供養に十種あり。いはゆる、一者身供養。二者支提供養。三者現前供養。四者不現前供養。五者自作供養。六者他作供養。七者財物供養。八者勝供養。九者無染供養。十者至処道供養」(『大乗義章』十四「大正蔵」四四・七四二a一七)

「このなかの第一身供養とは、於仏色身、而設供養、名身供養」(「同」a二一)<仏の色身に於て、供養を設くるを、身供養と名づく>

「第二供仏霊廟、名支提供養。僧祇律云、有舎利者名為塔婆、無舎利者説為支提。或云、通名支提。又梵云塔婆、復称偸婆、此翻方墳、亦言霊廟。阿含言支徴〈知荷反〉」<第二に仏の霊廟に供ずるを、支提(しだい)供養と名づく。僧祇律に云く、舎利有るを名づけて塔婆と為す、舎利無きを説いて支提と為す。或いは云く、通じて支提と名づく。又梵には塔婆と云い、復た偸婆(ちゅうば)と称す、此(ここ)には方墳と翻ず、亦た霊廟と言う。阿含では支徴(した)〈知荷の反〉と言う>

 この経文の前半は前述で示した『大乗義章』十四からの「名身供養。供仏霊廟名支提供養。依僧祇律有舍利者名為塔婆無舍利者説為支提。地持論中通名支提。次二約就時処分別」(「大正蔵」四四・七四二a二二)+後半は『四分律刪繁補闕行事鈔』下之三「無者名支提。塔或名塔婆、或云偸婆此云塚也。亦云方墳、支提云廟廟者貎也」(「大正蔵」四〇・一三三c二五)or『蘇悉地羯羅經略疏』四「阿含四徴知荷―略―又云塔婆偸婆此翻方墳

亦言霊廟也」(「大正蔵」六一・四三七c一五~二〇)による合楺のようである。

「あるいは塔婆と称じ、あるいは支提と称ずる、同じきに似たれども、南嶽思大禅師の法華懺法言、一心敬礼、十方世界、舎利尊像、支提妙塔、多宝如来、全身宝塔。明らかに支提と妙塔とは、舎利と尊像、別なるが如し」

 「塔婆」は卒塔婆の略語であるが、梵語であるStupaストゥーパ)の音写語である。「支提」とは梵語Medhiメディから派生した語と思われ、ビルマ語ではZediと呼ばれタイ語でもヂェディーと類似した語で呼ばれる。日本語ではこれを霊廟と名づけ(仏舎利なし)、対峙的に卒塔婆仏舎利あり)と区別するものと思われるが、ここではやや混乱した書きようである。

「一心敬礼、十方世界、舎利尊像、支提妙塔、多宝如来、全身宝塔」

この出典籍は『法華三昧懺儀』(「大正蔵」四六・九五二a五)であるが、これは智顗の撰述とされるが、このような懺悔法は師である南嶽思大(慧思)の時からの行法であった為に「南嶽思大禅師の法華懺法」と記されたのである。なお南嶽に関しては『南嶽思大禅師立誓願文』(「大正蔵」四六・七八六b二六)にて詳述される。

 「南嶽思大」とあるが「南嶽慧思(515―577)」の名で親しまれ、慧思の師である慧文を中国天台初祖とし慧思を天台宗二祖とする説や、また慧思の弟子である智顗(538―597)を天台宗開祖とする説がある。

 「支提」=「舎利」、「妙塔」=「尊像」とするように「卒塔婆―支提―舎利」・「霊廟―妙塔―尊像」と区別されよう。

 

   九

 僧祇律第三十三云、塔法者、佛住拘薩羅國遊行時、有婆羅門畊地。見世尊行過、持牛杖柱地禮佛。世尊見已、便發微笑。諸比丘白佛、何因縁故笑、唯願欲聞。便告諸比丘、是婆羅門、今禮二世尊。諸比丘白佛言、何等二佛。佛告比丘、禮我當其杖下、有迦葉佛塔。諸比丘白佛、願見迦葉佛塔。佛告比丘、汝從此婆羅門、索土塊幷是地。諸比丘、即便索之。時婆羅門便與之得已。爾時世尊、即現出迦葉佛七寶塔、高一由延、面廣半由延。婆羅門見已、即便白佛言、世尊、我姓迦葉、是我迦葉塔。爾時世尊、即於彼家、作迦葉佛塔、諸比丘白佛言、世尊、我得授泥土不。佛言、得授。即時説偈言、

  眞金百千擔 持用行布施 不如一團埿 敬心持佛塔

爾時世尊、自起迦葉佛塔、下基四方周匝欄楯、圓起二重、方牙四出、上施盤蓋、長表輪相。佛言、作塔法應如是。塔成已、世尊敬過去佛故、便自作禮。諸比丘白佛言、世尊、我得作禮不。佛言、得。即説偈言、

  人等百千金 持用行布施 不如一善心 恭敬禮佛塔

爾時世人、聞世尊作塔、持香華來奉世尊。世尊恭敬過去佛故、即受華香持供養塔。諸比丘白佛言、我等得供養不。佛言、得。即説偈言、

  百千車眞金 持用行布施 不如一善心 華香供養塔

爾時大衆雲集、佛告舎利弗、汝爲諸人説法。佛即説偈言、

  百千閻浮提  滿中眞金施  不如一法施  隨順令修行

爾時坐中有得道者。佛即説偈言、

  百千世界中 滿中眞金施 不如一法施 隨順見眞諦

爾時婆羅門、不壞信、即於塔前、飯佛及僧。時波斯匿王、聞世尊造迦葉佛塔、即勅載七百車塼、來詣佛所、頭面禮足、白佛言、世尊、我欲廣作此塔、爲得不。佛言、得。

 佛告大王、過去世時、迦葉佛般泥洹時、有王名吉利。欲作七寶塔。時有臣白王、未來世當有非法人出。當破此塔得重罪。唯願大王當以塼作、金銀覆上。若取金銀者、塔故在得全。王即如臣言、以塼作金薄覆上。高一由延、面廣半由延。銅作欄楯、經七年七月七日乃成。作成已香華供養及比丘僧。波斯匿王白佛言、彼王福徳多有珍寶。我今當作、不及彼王。即便作經七月七日乃成。成已、供養佛比丘僧。作塔法者、下基四方、周匝欄楯、圓起二重、方牙四出。上施盤蓋、長表輪相。若言世尊已除貪欲瞋恚愚癡、用是塔爲得越毘尼罪、業報重故。是名塔法。塔事者、起僧伽藍時、先預度好地作塔處。塔不得在南、不得在西、應在東、應在北。不得僧地侵佛地、佛地不得侵僧地。若塔近死尸林、若狗食殘、持來汚地、應作垣牆。應在西若南作僧坊。不得使僧地水流入佛地、佛地水得流入僧地。塔應在高顯處作。不得在塔垣中、浣染曬衣、著革履、覆頭覆肩、涕唾地。若作是言、世尊、貪欲瞋恚愚癡已除、用是塔爲、得越毘尼罪業、業報重。是名塔事。塔龕者、爾時波斯匿王、往詣佛所、頭面禮足、白佛言、世尊、我等爲迦葉佛作塔。得作龕不。佛言、得。過去世時、迦葉佛、般泥洹後、吉利王爲佛起塔。面四面作龕、上作師子像、種々綵畫。前作欄楯安置華處、龕内懸幡蓋。若人言世尊貪欲瞋恚愚癡已除、但自莊嚴而受樂者、得越毘尼罪、業報重。是名塔龕法。

 あきらかにしりぬ、佛果菩提のうへに、古佛のために塔をたて、これを禮拝供養したてまつる、これ諸佛の常法なり。かくのごとくの事おほけれど、しばらくこれを擧揚す。

 佛法は有部すぐれたり、そのなか、僧祇律もとも根本なり。僧祇律は、法顯はじめて荊棘をひらきて西天にいたり、靈山にのぼれりしついでに將來するところなり。祖々正傳しきたれる法、まさしく有部に相應せり。

 

僧祇律第三十三云、塔法者、仏住拘薩羅国遊行時、有婆羅門地。見世尊行過、持牛杖地礼仏。世尊見已、便発微笑」(『摩訶僧祇律』三十三(「大正蔵」二二・四九七b一八、―部「僧祇律」は原なし、―部「畊」は原「耕」、―部「拄」は原「住」)<僧祇律第三十三に云く、塔法とは、仏が拘薩羅国に住し遊行する時に、婆羅門有りて地を畊(たがや)す。世尊の行き過ぎるを見て、牛杖を持ち地に拄(つ)いて仏を礼す。世尊は見已りて、便ち微笑を発す>

「薩羅国」はコーサラ(kosala)国であり、マガダ国の西北・バラナシの北方に位置し、当時の首都はシュラーヴァスティー(舎衛城)であった。そのほかにはアンガ国・カーシー国・ヴァッジ国などが林立した。

「諸比丘白仏、何因縁笑、唯願欲聞。便告諸比丘、是婆羅門、今礼二世尊。諸比丘白仏言、何等二仏」(「同」b二〇、―部「故」は原なし、―部「便」は原「仏」)<諸の比丘は仏に白す、何の因縁の故にか笑う、唯願わくは聞かんことを欲(ねが)う。便ち諸の比丘に告ぐ、是の婆羅門は、今二世尊を礼せり。諸の比丘は仏に白して言く、何等か二仏なる>

「仏告比丘、礼我当其杖下、有迦葉仏塔。諸比丘白仏、願見迦葉仏塔。仏告比丘、汝従此婆羅門、索土塊幷是地。諸比丘、即便索之。時婆羅門便与之得已」(「同」b二二)<仏が比丘に告ぐ、我を礼せし其の杖の下に当りて、迦葉仏塔有り。諸の比丘は仏に白す、願わくは迦葉仏塔を見んことを。仏比丘に告ぐ、汝は此の婆羅門より、土塊幷びに是の地を索むべし。諸の比丘は、即便ち之を索む。時に婆羅門は便ち之を与え得り已りぬ>

「爾時世尊、即現出迦葉仏七宝塔、高一由延、面広半由延。婆羅門見已、即便白仏言、世尊、我姓迦葉、是我迦葉塔」(「同」b二六)<爾の時に世尊は、即ち迦葉仏の七宝塔の、高さ一由延、面の広さ半由延なるを現出す。婆羅門は見已りて、即便ち仏に白し言く、世尊、我が姓は迦葉なり、是れ我が迦葉の塔なり>

「爾時世尊、即於彼、作迦葉仏塔、諸比丘白仏言、世尊、我得授泥不」(「同」b二八、―部「家」は原「処」、―部「土」は原なし)<爾の時に世尊は、即ち彼の家に於て、迦葉仏塔を作るに、諸の比丘は仏に白し言く、世尊、我れ泥土を授くるを得んや不や>

「仏言、得授。即時説偈言、真金百千擔、持用行布施、不如一団、敬心仏塔」(「同」四九七c一、―部「埿」は原「泥」、―部「持」は原「治」)<仏言く、授くるを得。即ち時に偈を説いて言く、真金の百千を擔い、用いて布施を行ずるよりは、如(し)かじ一団埿を持ちて、敬心を仏塔に持す>

「爾時世尊、自起迦葉仏塔、下基四方周匝欄楯、円起二重、方牙四出、上施蓋、長表輪相」(「同」c四、―部「盤」は原「槃」)<爾の時に世尊、自ら迦葉仏塔を起て、下基は四方に欄楯(らんじゅん・てすり)を周匝し、円起すること二重にして、方牙(ほうげ)を四つ出し、上に盤蓋を施し、長く輪相を表す>

「仏言、作塔法応如是。塔成已、世尊敬過去仏故、便自作礼。諸比丘白仏言、世尊、我()得作礼不」(「同」c六、―部「等」は原あり)<仏言く、作塔の法は応に是の如し。塔の成り已りて、世尊は過去仏を敬うが故に、便ち自ら礼を作す。諸の比丘は仏に白し言く、世尊、我れは礼を作すを得てんや不や>

「仏言、得。即説偈言、人等百千金、持用行布施、不如一善心、恭敬礼仏塔」(「同」c八)<仏言く、得べし。即ち偈を説いて言く、人等百千の金(こがね)、用いて布施を行ぜんよりは、如かじ一善心を持て、恭敬して仏塔を礼せんには>

「爾時世人、聞世尊作塔、持香華来奉世尊。世尊恭敬過去仏故、即受華香持供養塔。諸比丘白仏言、我等得供養不」(「同」c一一)<爾の時に世人は、世尊が塔を作るを聞いて、香華を持ち来りて世尊に奉る。世尊は過去仏を恭敬する故に、即ち華香を受けて持ちて塔に供養す。諸の比丘は仏に白し言く、我等供養を得てんや不や>

「仏言、得。即説偈言、百千車真金、持用行布施、不如一善心、華香供養塔」(「同」c一三)<仏言く、得べし。即ち偈を説いて言く、百千車の真金を、用いて布施に行ぜんよりは、如かじ一善心を持て、華香もて塔に供養せんには>

「爾時大衆雲集、仏告舎利弗、汝為諸人説法。仏即説偈言、百千閻浮提、満中真金施、不如一法施、随順令修行」(「同」c一六)<爾の時に大衆の雲集するに、仏は舎利弗に告ぐ、汝は諸人の為に法を説くべし。仏は即ち偈を説いて言く、百千の閻浮提には、中に満てる真金の施しも、如かじ一の法施もて、随順して修行せしむ>

「爾時坐中有得道者。仏即説偈言、百千世界中、満中真金施、不如一法施、随順見真諦」(「同」c二〇)<爾の時に坐中に得道の者有り。仏は即ち偈を説いて言く、百千世界の中、中に満てる真金の施しも、如かじ一の法施もて、随順して真諦を見ん>

「爾時婆羅門、()不壞信、即於塔前、飯仏及僧。時波斯匿王、聞世尊造迦葉仏塔、即勅載七百車塼、来詣仏所、頭面礼足、白仏言、世尊、我欲広作此塔、為得不」(「同」c二三、―部「得」は原あり)<爾の時に婆羅門は、不壞の信で、即ち塔の前に於て、仏及び僧に飯す。時に波斯匿王は、世尊の迦葉仏塔を造るを聞きて、即ち勅して七百車の塼(かわら)を載せて、仏の所に来詣し、頭面に礼足し、仏に白して言く、世尊、我れ広く此の塔を作らんと欲うに、為し得るや不や>

 「波斯匿王」に関しては、森章司『コーサラ国波斯匿王と仏教』、「迦葉仏塔」に関しては、杉本卓洲『迦葉仏の塔』などに詳述される。

「仏言、得。仏告大王、過去世時、迦葉仏般泥洹時、有王名吉利。欲作七宝塔。時有臣白王()、未来世当有非法人出。当破此塔得重罪。唯願王当以塼作、金銀覆上。若取金銀者、塔故在得全」(「同」c二六、―部「言」は原あり、―部「大」は原なし)<仏言く、得べし。仏は大王に告ぐ、過去世の時に、迦葉仏が般泥洹し時、王有り吉利(きり)と名づく。七宝の塔を作らんと欲う。時に臣有っり王に白す、未来世に当に非法の人有りて出づべし。当に此の塔を破して重罪を得べし。唯に願わくは大王は当に塼を以て作り、金銀で上を覆うべし。若し金銀を取る者あるも、塔は故(もと)のように在りて全きを得ん>

「王即如臣言、以塼作金薄覆上。高一由延、面広半由延。銅作欄楯、経七年七月七日乃成。作成已香華供養及比丘僧。波斯匿王白仏言、彼王福徳多有珍宝。我今当作、不及彼王。即便作経七月七日乃成。成已、供養仏比丘僧」(「同」四九八a一)<王は即ち臣の言の如く、塼を以て作り金薄で上を覆う。高さ一由延、面の広さ半由延。銅にて欄楯を作り、七年七月七日を経て乃ち成る。作成し已りて香華にて供養するは比丘僧に及べり。波斯匿王は仏に白し言く、彼の王は福徳にして多くの珍宝有り。我れ今当に作るも、彼の王に及ばず。即便ち作ること七月七日を経て乃ち成る。成り已りて、仏と比丘僧とに供養す>

 「由延」とは由旬と同義語であるが、一由延の長さは識者により異なるが、便宜的結論として森章司氏は「小由旬」は約6・5km、「大由旬」は約13kmと算定される。またインド人学者によれば「2頭立ての牛の引く(荷)車が、荷物を積んで運ぶ一日の距離は14km(約10時間で、1時間あたり1・4km)との記述が参考になろう(詳細は『由旬(yojana)の再検討』)。

「作塔法者、下基四方、周匝欄楯、円起二重、方牙四出。上施盤蓋、長表輪相。若言世尊已除貪欲瞋恚愚癡、用是塔為得越毘尼罪、業報重故。是名塔法」(「同」a六)<作塔の法は、下基は四方に、欄楯を周匝し、円起すること二重にして、方牙は四つ出す。上に盤蓋を施し、長く輪相を表す。若し世尊は已に貪欲・瞋恚・愚癡を除けば、是の塔を用うに為(な)んと言わば越毘尼(戒律)罪を得べし、業報重きが故に。是れを塔法と名づく>

「塔事者、起僧伽藍時、先預度好地作塔処。塔不得在南、不得在西、応在東、応在北。不得僧地侵仏地、仏地不得侵僧地。若塔近死尸林、若狗食残、持来汚地、応作垣牆。応在西若南作僧坊。不得使僧地水流入仏地、仏地水得流入僧地。塔応在高顕処作。不得在塔中、浣染曬衣、著革履、覆頭覆肩、涕唾地。若作是言、世尊、貪欲瞋恚愚癡已除、用是塔為、得越毘尼罪業、業報重。是名塔事」(「同」a一〇、―部「垣」は原「院」)<塔事は、僧伽藍を起つる時、先づ預(あらかじ)め好地を度(はか)りて塔処と作すべし。塔は南に在ること得ざれ、西に在ること得ざれ、応に東に在るべし、応に北に在るべし。僧地は仏地を侵すこと得ざれ、仏地は僧地を侵すこと得ざれ。若しは塔が死尸林(死骸を捨てる場所)に近く、若しは狗の食い残して、持ち来たって地を汚さば、応に垣牆を作るべし。応に西若しは南に在って僧坊を作るべし。使僧地の水を仏地に流入すること得ざれ、仏地の水は僧地に流入するを得。塔は応に高顕の処に在って作るべし。塔垣の中に在って、浣染(洗い)曬衣(日にさらす)し、革履を著け、頭を覆い肩を覆い、地に涕唾(はなみず・つば)するを得ざれ。若し是の言を作して、世尊は、貪欲・瞋恚・愚癡を已に除くに、是の塔を用い為すなら、越毘尼罪業を得て、業報重し。是れを塔事と名づく>

「塔龕者、爾時波斯匿王、往詣仏所、頭面礼足、白仏言、世尊、我等為迦葉仏作塔。得作龕不」(「同」a一八)<塔龕(とうがん・厨子)とは、爾の時に波斯匿王は、仏の所に往き詣りて、頭面に足を礼し、仏に白して言く、世尊、我等は迦葉仏の為に塔を作れり。龕を作るを得るや不や>

「仏言、得。過去世時、迦葉仏、般泥洹後、吉利王為仏起塔。四面作龕、上作師子、種々綵画。前作欄楯安置処、龕内懸幡蓋。若人言世尊貪欲瞋恚愚癡已除、但自荘厳而受楽者、得越毘尼罪、業報重。是名塔龕法」(「同」a二一、―部「面」は原なし、―部「像」は原「象」、―部「華」は原「花」)<仏言く、得べし。過去世の時に、迦葉仏が、般泥洹の後、吉利王は仏の為に塔を起つ。面(おもと)は四面の龕を作り、上に師子の像、種々の綵画を作る。前には欄楯を作りて華処を安置し、龕の内には幡蓋を懸けたり。若し人の世尊は貪欲・瞋恚・愚癡を已に除けば、但だ自ら荘厳して楽を受けと言わば者、越毘尼罪を得て、業報重し。是れを塔龕法と名づく>

「明らかに知りぬ、仏果菩提の上に、古仏の為に塔をたて、これを礼拝供養したてまつる、これ諸仏の常法なり。かくの如くの事多けれど、しばらくこれを挙揚す」

 この段では「迦葉仏塔」について述べられ、また附随する「塔事」や「塔龕」について紹介する律文であったが、「仏塔」に対する認識や知識の度合いの差こそあれ、我々は日頃に「板塔婆」と云われるものに触れること自体が、「諸仏の常法」に私共の日常も取り込まれている状況であり、決して「律文」などと云っても特別ではなく、「かくの如くの事多けれど」の一例である。

「仏法は有部勝れたり、その中、僧祇律もとも根本なり。僧祇律は、法顕はじめて荊棘をひらきて西天に至り、霊山に登れりし次いでに将来する処なり。祖々正伝し来たれる法、まさしく有部に相応せり」

 道元最後の著作と云ってもいい「十二巻」眼蔵の特徴は、「七十五巻」とは異質な引用経典群の採用である。道元の宗旨は「禅宗」と称されるように「不立文字、教外別伝」を標榜するわけであるから、「学問ではない教の外に伝来」する釈尊の教えは、「坐禅以外には無い」ことが基本であるが、此処に至りて「仏法は有部勝れたり」とは、これまでの「七十五巻」等で説き示された公案解釈や哲学的論述法から比べると、別人の語勢かとも思われる文体である。

 「有部」とは説一切有部を云い、仏滅後三百年(BC200年)頃に、根本上座部から分派した一グループである。上座部は経・律を重視するのに対し、有部の人たちは論蔵を重要視する。諸法を五位の七十五法に分類し、大毘婆沙論や俱舎論で以て教義を説くのである。

 「僧祇律」とは本話で扱った「摩訶僧祇律」であるが、「大正蔵」によれば「東晋天竺三蔵仏陀跋陀羅共法顕訳」(二二・二二七c六)と記載あり。律の全訳は「当巻」と「五分律」のみである。

 「法顕(337―422)は隆安三年(399)に慧景・慧応・道整らと共に長安からインドに向うが、六年の歳月を経て中インドに至る途上では、シルクロード西域南道を進み、ホータン王国を経由し、敦煌からタクラマカン砂漠を通過する。その時の法顕の年齢は六十三歳~六十九歳であった。

 

   十

 第三現前供養。面對佛身及與支提、而設供養。

 第四不現前供養。於不現前佛及支提、廣設供養。謂現前共不現前、供養佛及支提塔廟、幷供不現前佛及支提塔廟。現前供養得大功徳、不現前供養、得大々功徳、境寛廣故。現前不現前供養者、得最大々功徳。

 第五自作供養。自身供養佛及支提。

 第六佗作供養佛及支提。有少財物、不依懈怠、教佗施作也。謂自佗供養、彼此同爲。自作供養得大功徳、教佗供養得大々功徳、自佗供養得最大々功徳。

 第七財物供養佛及支提塔廟舎利。謂財有三種。一資具供養。謂、衣食等。二敬具供養。謂香花等。三嚴具供養。謂餘一切寶莊嚴等。

 第八勝供養。勝有三。一專設種々供養。二純淨信心、信佛徳重、理合供養。三回向心。求佛心中而設供養。

 第九無染供養。無染有二。一心無染、離一切過。二財物無染、離非法過。

 第十至處道供養。謂供養順果、名至處道供養。佛果是其所至之處、供養之行、能至彼處、名至處道。至處道供養、或名法供養。或名行供養。就中有三。一者財物供養爲至處道供養。二隨喜供養、爲至處道供養。三修行供養、爲至處道供養。供養於佛、既有此十供養。於法於僧、類亦同然。謂供養法者、供養佛所説理教行法、幷供養經巻。供養僧者、謂供養一切三乘聖衆及其支提、幷其形像、塔廟及凡夫僧。

 次供養心有六種。

 一、福田無上心。生福田中最勝。二、恩徳無上心。一切善樂、依三寶出生。三、生一切衆生最勝心。四、如優曇鉢華難遇心。五、三千大千世界殊獨一心。六、一切世間出世間、具足依義心。謂如來具足世間出世間法、能與衆生爲依止處、名具足依義。以此六心、雖是少物、供養三寶、能獲無量無邊功徳。何況其多。

 かくのごとくの供養、かならず誠心に修設すべし。諸佛かならず修しきたりましますところなり。その因縁、あまねく經律にあきらかなれども、なほ佛祖まのあたり正傳しきたりまします。執事服勞の日月、すなはち供養の時節なり。形像舎利を安置し、供養禮拝し、塔廟をたて、支提をたつる儀則、ひとり佛祖の屋裏に正傳せり、佛祖の兒孫にあらざれば正傳せず。またもし如法に正傳せざれば法儀相違す、法儀相違するがごときは供養まことならず、供養まことならざれば功徳おろそかなり。かならず如法供養の法、ならひ正傳すべし。令韜禪師は曹谿の塔頭に陪侍して年月をおくり、盧行者は昼夜にやすまず碓米供衆する、みな供養の如法なり。これその少分なり、しげくあぐるにいとまあらず。かくのごとく供養すべきなり。

 

現前供養。面対仏身及与支提、而設供養。第四不現前供養。於不現前仏及支提、広設供養。現前不現前、供養(現前供養)仏及支提塔廟、幷供不現前及支提塔廟(『大乗義章』十四「大正蔵」四四・七四二a二五、―部「第」は原なし、―部「三」は原「一」、―部「四」は原「二」、―部「謂」は原「三共」、―部「共」は原なし、―部「現前供養」は原あり、―部「塔廟」は原なし、―部「仏」は原なし)<第三に現前供養。面(まのあた)り仏身及び支提とに対して、而して供養を設くる。第四に不現前供養。不現前の仏及び支提に於て、広く供養を設く。謂ゆる現前と不現前と共に、仏及び支提・塔廟に供養す、幷びに不現前の仏及び支提・塔廟に供ず>

 この「大乗義章」経文は、先に示した「一者身供養」に続くものであり、原文では「門別雖二、随事分一現前供養。面対仏身及与支提而設供養。不現前供養」でありますから、恐らくは「第一現前供養」と書写すべき処を、前出の「三」に気を取られての「第三現前供養」と誤写されたものと推察する。

「現前供養得大()功徳、不現前供養、得大大功徳、境()寛広故。(共)現前不現前供養者、得最大大功徳」(「同」a二八、―部「大」は原あり、―部「界」は原あり、―部「共」は原あり)<現前供養は大功徳を得、不現前供養は、大大功徳を得、境・寛広なるが故に。現前・不現前の供養者は、最大大功徳を得>

第五自作供養。自身供養仏及支提。第六他作供養仏及支提。有少財物、不依懈怠、教施作(「同」b二、―部「第」は原なし、―部「五」は原「一」、―部「六」は原「二」、―部「仏及支提」は原なし、―部「他」は原「化」、―部「也」は原なし)<第五に自作供養。自身に仏及び支提に供養す。第六に他作に仏及び支提に供養す。少しき財物有れば、懈怠に依らずして、他を教えて施作する也>

自他供養、彼此同為。自作供養得大功徳、教供養得大大功徳、自他供養得最大大功徳」(「同」b四、―部「謂」は原「三」、―部「他」は原「化」)<謂ゆる自他供養は、彼此同為なり。自作供養は大功徳を得、教他供養は大大功徳を得、自他供養は最大大功徳を得>

第七)財物供養仏及支提塔廟舎利。謂財有三種。一資具供養。謂、衣食等。二敬具供養。謂香花等。三厳具供養。謂余一切宝荘厳等」(「同」b七、―部「第七」は原なし、―部「名」は原あり、―部「仏及」は原なし)<第七に財物供養は仏及び支提・塔廟・舎利。謂ゆる財に三種有り。一には資具供養。謂く、衣食等なり。二には敬具供養。謂く香花等なり。三には厳具供養。謂く余の一切の宝荘厳等なり>

第八)勝供養。勝()有三。一專(精解心、善解施)設種々供養。二純浄信心、信仏徳重、理合供養。三回向心。求仏心中而設供養(後二一対就行分別、供行離過名)。第九無染供養。無染有二。(如地持説)一心無染、離切過。二財物無染、離非法過」(「同」b一〇、―部「第八」は原なし、―部「名」は原あり、―部「心」は原あり、―部「精解心・・」は原あり、―部「後二一・・」は原あり、―部「第九」は原なし、―部「如地持説」は原あり、―部「一」は原なし)<第八に勝供養。勝に三有り。一には專ら種々の供養を設く。二には純浄の信心にて、仏徳の重きを信ずれば、理は供養に合(かな)う。三には回向心。求仏を心中にして而も供養を設く。第九に無染供養。無染に二有り。一には心無染、一切の過を離る。二には財物無染、非法の過を離る>

第十至処道供養。順果、名至処道供養。仏果是其所至之処、供養之行、能至彼処、名至処道。()至処道供養、維摩経)名法供養。地論之中)名行供養。中有三。一財物供養為至処道供養。二随喜供養、為至処道供養。三修行供養、為至処道供養(「同」b一五、―部「第十」は原なし、―部「謂」は原なし、―部「養」は原「行」、―部「此」は原あり、―部「或」は原なし、―部「維摩経中」は原あり、―部「地論之中」は原あり、―部「就」は原「於」、―部「者」は原なし、―部「供養」は原なし)<第十に至処道供養。謂ゆる供養は果に順(したが)うを、至処道供養と名づく。仏果は是れ其の所至之処、供養之行、能く彼処に至るを、至処道と名づく。至処道供養は、或いは法供養と名づけ。或いは行供養と名づく。中に就きて三有り。一は財物供養を至処道供養と為す。二は随喜供養を、至処道供養と為す。三は修行供養を、至処道供養と為す>

供養於仏、既有此十供養。於法於僧、類亦同然」(「同」b二〇、―部「供養於仏」は原「於仏供養」<仏に供養すること、既に此の十供養有り。法に於ても僧に於ても、類するに亦た同然なり>

供養法、供仏所説理教行法、幷供養経巻。供養僧、謂供一切三乗聖衆及其支提、幷其形像、塔廟(又供聖僧)及凡夫僧」(「同」b二一、―部「謂」は原なし、―部「者」は原なし、―部「養」は原なし、―部「及其」は原なし、―部「又供聖僧」は原あり)<謂ゆる供養法は、仏所説の理教行法に供養し、幷びに経巻に供養す。僧は、謂ゆる供養一切三乗の聖衆及び其の支提、幷びに其の形像、塔廟及び凡夫僧に供養す>

心有六種。一、福田無上心。生福勝。二、恩徳無上心。一切善楽、依三宝。三、生一切衆生最勝心。四、如優曇鉢華難遇心。五、三千大千世界独一心。六、一切世間出世間、具足依義心。如来具足世間出世間法、能与衆生為依止処、名具依義。以此六心、雖是少物、供養三宝、能獲無量無辺功徳。何況多」(「同」b二六、―部「次」は原なし、―部「養」は原なし、―部「田」は原なし、―部「最」は原なし、―部「生」は原なし、―部「大千」は原なし、―部「殊」は原なし、―部「謂」は原なし、―部「足」は原なし、―部「其」は原なし)<次に供養の心に六種有り。一、福田無上心は。福田中の最勝を生ず。二、恩徳無上心は。一切の善楽は、三宝に依って出生す。三、一切衆生とは最勝心を生ず。四、優曇鉢華は難遇心の如し。五、三千大千世界は殊に独り一心なり。六、一切の世間・出世間は、義心に依りて具足す。謂ゆる如来は世間・出世間の法を具足し、能く衆生と与(とも)に依止処と為るを、具足依義と名づく。此の六心を以て、是れ少物なりと雖も、三宝に供養すれば、能く無量無辺の功徳を獲る。何(いか)に況んや其の多からんをや>

「かくのごとくの供養、必ず誠心に修設すべし。諸仏必ず修し来たりまします処なり。その因縁、あまねく経律に明らかなれども、なほ仏祖まのあたり正伝し来たりまします。執事服労の日月、すなはち供養の時節なり」

  これで「当巻」最後部の拈提に当るわけだが、前述の拈提に於いては「仏法は有部すぐれたり、僧祇律もとも根本なり」と、これまでの自身の提唱法とは異質な発言とも見られたが、此処では「執事服労の日月」つまり南嶽懐譲が慧能に師侍した「執侍一十五載」(「大正蔵」五一・二四〇c一七)が「供養」そのものであった。と説き明かす処は、「有部」+「仏祖正伝」が「供養の時節なり」と力説するものと解する。

「形像舎利を安置し、供養礼拝し、塔廟を建て、支提を建つる儀則、ひとり仏祖の屋裏に正伝せり、仏祖の児孫にあらざれば正伝せず」

 古来より故人を敬慕する目的で以て、各地に墳墓は建てられる。日本に於いても「古墳」の名で以て、仏教伝来以前の弥生時代後半の紀元一世紀頃には「墳丘墓」が確認される。古代インドに於いても初期の仏塔の形状は「円墳」つまり土饅頭のような状態から、時代と共に複雑化され、日本のように五重塔から多重塔へと変質する。但し仏教信徒にとっては、塔廟・支提の違いこそあれ、「塔」そのものが礼拝の対象であり、供養の儀則である事実を「祖の屋裏に正伝せり」と記し、さらには「仏祖の児孫であればこそ正伝す」と付言する。

「またもし如法に正伝せざれば法儀相違す、法儀相違するが如きは供養まことならず、供養まことならざれば功徳おろそかなり。必ず如法供養の法、習ひ正伝すべし。令韜禅師は曹谿の塔頭に陪侍して年月をおくり、盧行者は昼夜に休まず碓米供衆する、みな供養の如法なり。これその少分なり、繁く挙ぐるにいとまあらず。かくの如く供養すべきなり」

ここでは令韜禅師(666―760)について見てみよう。伝記によれば、六祖慧能(638―713)より出家し、六祖存命中は一時も左右を離れず、祖寂後は「衣塔主」と為り、開元四年(716)・上元元年(760)と二度の皇帝よりの勅命を辞し九十五にて寂(『景徳伝灯録』五「大正蔵」五一・二四四a一)。この記事を読んで想い浮かぶは、道元を慕い南宋から日本に渡り、道元存命中は表面に現るる事なく、道元死して後は、彼の承陽庵塔主に任ぜざるも、後には奥越前に吾が故国の元号を持した宝慶寺を建立し、一箇半箇の接得を行持の主眼とした「寂円」と類似する人物である。

 また六祖の昔日に於ける「盧行者」と呼ばれた時の「昼夜不休の碓米供衆」つまり自未得度先度他の行持そのものが「供養の如法」の姿であり、「供養すべきなり」と「当巻」の結語とされる。

 最後に石井修道氏による『「供養諸仏」考』「駒沢大学研究紀要」での興味深く、示唆に富む提言を紹介しよう。「仮説ではあるが、道元には『授記』とは別の「燃燈仏授記」を主題とする撰述の構想があったのではないかと想像する。―略―『供養諸仏』を学んで、ますます道元の教えが、従来、片寄った「即」の一面でしか捉えられていないのではないかと痛感する。それは「即心是仏」の誤解から生ずるものであり、『供養諸仏』に於ける授記されない供養が繰り返される苛立ちとなる。」

 これらの言も参考にしながら、「旧草七十五巻」と「新草十二巻」との関連性、さらには最晩年に於ける道元の言い残した言行とは何かを探求したいものである。

(終)

 これは2023年5月3日、雨季に入った盤谷北郊にて擱筆