正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

十二巻本 第十「四禅比丘」を読み解く    二谷正信

   十二巻本 第十「四禅比丘」を読み解く

二谷正信

 

   一

 第十四祖龍樹祖師言、佛弟子中有一比丘、得第四禪、生増上慢、謂得四果。初得初禪、謂得須陀洹。得第二禪時、謂是斯陀含果、得第三禪時、謂是阿那含果、得第四禪時、謂是阿羅漢。恃是自高、不復求進。命欲盡時、見有四禪中陰相來、便生邪見、謂無涅槃、佛爲欺我。惡邪見故、失四禪中陰、便見阿毘泥梨中陰相、命終即生阿毘泥梨中。諸比丘問佛、阿蘭若比丘、命終生何處。佛言、是人生阿毘泥梨中。諸比丘大驚、坐禪持戒便至爾耶。佛如前答言、彼皆因増上慢。得四禪時、謂得四果。臨命終時、見四禪中陰相、便生邪見、謂無涅槃、我是羅漢、今還復生、佛爲虚誑。是時即見阿毘泥梨中陰相、命終即生阿毘泥梨中。

 是時佛説偈言、

  多聞持戒禪 未得漏盡法 雖有此功徳 此事難可信

  墮獄由謗佛 非關第四禪

 この比丘を稱じて四禪比丘といふ、または無聞比丘と稱ず。四禪をえたるを四果と僻計せることをいましめ、また謗佛の邪見をいましむ。人天大會みなしれり。如來在世より今日にいたるまで、西天東地ともに是にあらざるを是と執せるをいましむとして、四禪をえて四果とおもふがごとしとあざける。

 この比丘の不是、しばらく略して擧するに三種あり。第一には、みづから四禪と四果とを分別するにおよばざる無聞の身ながら、いたづらに師をはなれて、むなしく阿蘭若に獨處す。さいはひにこれ如來在世なり、つねに佛所に詣して、常恒に見佛聞法せば、かくのごとくのあやまりあるべからず。しかあるに、阿蘭若に獨處して佛所に詣せず、つねに見佛聞法せざるによりてかくのごとし。たとひ佛所に詣せずといふとも、諸大阿羅漢の處にいたりて、教訓を請ずべし。いたづらに獨處する、増上慢のあやまりなり。第二には、初禪をえて初果とおもひ、二禪をえて第二果とおもひ、三禪をえて第三果とおもひ、四禪をえて第四果とおもふ、第二のあやまりなり。初二三四禪の相と、初二三四果の相と、比類に及ばず。たとふることあらんや。これ無聞のとがによれり。師につかへず、くらきによれるとがなり。

 

第十四祖龍樹祖師言仏弟子中()有一比丘、得四禅、生増上慢、謂得四得初禅()、謂須陀洹。第二禅時、謂是斯陀含第三禅時、謂是阿那含第四禅時、謂是阿羅漢。恃是自高、不復求進。命欲尽時、見有四禅中陰相来、便生邪見、謂無涅槃、仏為欺我。悪邪故、失四禅中陰、便見阿泥梨中陰相、命終即生阿毘泥梨中(『大智度論』十七(「大正蔵」二五・一八九a一一、―部「第十四祖龍樹祖師言」は原なし、―部「亦」は原あり、―部「第」は原なし、―部「果」は原「道」、―部「初」は原なし、―部「時」は原あり、―部「得」は原「是」、―部「得」は原なし、―部「果」は原なし、―部「得」は原なし、―部「自高」は原「而止」、―部「見」は原「生」、―部「毘」は原「鼻」、―部「泥梨中」は原「地獄」)<第十四祖龍樹祖師言く、仏弟子の中に一比丘有り、第四禅を得て、増上慢を生じ、四果を得たりと謂(おも)えり。初めに初禅を得しは、須陀洹を得たりと謂えり。第二禅を得し時、是を斯陀含果を謂い、第三禅を得し時、是を阿那含果と謂い、第四禅を得し時、是を阿羅漢と謂えり。是を恃(たの)んで自ら高ぶり、復た進むを求めず。命尽んと欲(おも)う時、四禅の中陰の相有りて来るを見て、便ち邪見を生じ、涅槃は無く、仏は我れを欺き為すと謂えり。悪邪見の故に、四禅の中陰を失い、便ち阿毘泥梨の中陰の相を見て、命終り即ち阿毘泥梨中に生ぜり>

「四禅比丘」とは、四禅を得た時に、四果を得たと錯誤する増上慢比丘を云う。「初禅・二禅・三禅・四禅」に関しては、『解脱道論』二(「大正蔵」三二・四〇八a二)を参照のこと。「四禅」の概説については、欲界の惑いを越えて、色界に生ずる四種の禅定をいう。「増上慢」とは、七慢(慢・過慢・慢過慢・増上慢・卑下慢・我慢・邪慢)の一つで、殊勝の法および証りを得ないのに得たと思う高ぶりの心をいう。「四果」とは、➀須陀洹果(しゅだごんか)<srotapannaスロータパンナ>➁斯陀含果(しだごんか)<sakrdagamimサクリダーガーミン>➂阿那含果(あなごんか)<anagaminアナーガーミン>➃阿羅漢果(あらかんか)<arhatアルハット>を云うが、『辦道話』では「てまりによりて四果を証し、袈裟をかけて大道をあきらめし、ともに愚暗のやから、癡狂の畜類なり」(「大正蔵」八二・二一c一七)と、小乗声聞の聖果の不当性が強調される(「旧草本」での説き方の特徴である)。この「てまり・四果」に関する資料は、『雑宝蔵経』九「老比丘得四果縁」章(「大正蔵」四・四九四b五)にて説かれる。「中陰」とは中有を云い、「生有・死有・本有・中有」の四有に分類される。「中有」に関しては、『阿毘達磨俱舎論』八では「死有後在生有前即彼中間有、二趣中間故名中有」(「大正蔵」二九・四四b一〇)、また『大乗義章』八にては「命報終謝名為死有、生後死前名為本有、両身之間、名為中有」(「大正蔵」四四・六一八c一九)と規定する。「阿毘泥梨(あび・ないり)とは梵語avici-niraya<アヴィーチ・ニラヤ>の音写語で、無間地獄と訳す。

「諸比丘問仏、(某甲比丘)阿蘭若比丘、命終生何処」(「同」a一八、―部「某甲比丘」は原あり、―部「比丘」は原なし)<諸の比丘が仏に問う、阿蘭若比丘は、命終りて何れの処に生ずや>

 「阿蘭若(あらんにゃ)」とは梵語aranyaの音写語で、閑寂処とも訳し、少数の比丘が共住同行し、人里から程よく離れた閑静な道場を云う。十二頭陀行第一の在阿蘭若処の行者を阿蘭若比丘と云うが、 この話則の「阿蘭若比丘」は、共住同行する僧伽(サンガ)から離脱し、独居する比丘を指す。

「仏言、是人生阿泥梨中。諸比丘()大驚()、(此人坐禅持戒便至爾耶」(「同」a一九、―部「毘」は原「鼻」、―部「皆」は原あり、―部「怪」は原あり、―部「此人」は原あり、―部「便至」は原「所由」)<仏言く、是の人は阿毘泥梨中に生ぜり。諸の比丘は大いに驚き、坐禅持戒し便ち爾(しか)るに至る耶>

「仏如前答言、彼皆因増上慢。得四禅時、謂得四。臨命終時、見四禅中陰相、便生邪見、謂無涅槃、我是羅漢、今還復生、仏為為虚誑。是時即見阿泥梨中陰相、命終即生阿毘泥梨中」(「同」a一九、―部「如前答」は原なし、―部「彼皆因」は原「此人」、―部「果」は原「道故」、―部「毘」は原「鼻」、―部「泥梨」は原「地獄」)<仏は前の如く答えて言く、彼は皆増上慢に因る。四禅を得し時、四果を得たりと謂(おも)えり。臨命終の時に、四禅の中陰の相を見て、便ち邪見を生じて、涅槃無しと謂えり、我れは是れ羅漢、今還って復た生ず、仏は虚誑為りと。是の時即ち阿毘泥梨の中陰の相を見、命終して即ち阿毘泥梨の中に生ぜり>

「是時仏説偈言、多聞・持戒・禅、未得漏尽法。雖有此功徳、此事可信。堕獄由謗仏、非関第四禅(「同」a二五、―部「漏尽」は原「無漏」、―部「難」は原「不」、―部「堕獄・・」に関しては、これまでの『大智度論』にはなく、『止観輔行伝弘決』四之一(「大正蔵」四六・二五七b二六)に記載あり。<是の時に仏は偈を説いて言く、多聞・持戒・禅も、未だ漏尽の法を得ず。此の功徳有りと雖も、此の事は信ず可き難し。堕獄は謗仏に由る、第四禅に関わるに非ず>

「この比丘を称じて四禅比丘と云ふ、または無聞比丘と称ず。四禅を得たるを四果と僻計せることを誡しめ、また謗仏の邪見を誡しむ。人天大会みな知れり。如来在世より今日に至るまで、西天東地ともに是にあらざるを是と執せるを誡しむとして、四禅を得て四果と思ふが如しと嘲る」

 『大智度論』の本話から見たように、増上慢比丘を「四禅比丘」または「無聞比丘」と別称するは、四禅と四果とを同等性と思い込み、自身の増上慢の故に涅槃無しと謗仏するような学人を「四禅を得て四果と思ふが如しと嘲る」わけである。

「この比丘の不是、しばらく略して挙するに三種あり。第一には、みづから四禅と四果とを分別するに及ばざる無聞の身ながら、いたづらに師を離れて、虚しく阿蘭若に独処す。幸ひにこれ如来在世なり、常に仏所に詣して、常恒に見仏聞法せば、かくの如くの誤りあるべからず。しかあるに、阿蘭若に独処して仏所に詣せず、常に見仏聞法せざるによりてかくの如し。たとひ仏所に詣せずと云ふとも、諸大阿羅漢の処に至りて、教訓を請ずべし。いたづらに独処する、増上慢の誤りなり」

 改めて不是比丘(四禅比丘)について三点を要略されるが、此処では一点目として「阿蘭若に独処」する不是が説かれる。「阿蘭若に独処す」とは、仏道に於いての大原則は「仏・法・僧」に三帰依することから始まる訳であるが、その「僧」とはサンガ(僧伽)のことであり、僧個人を尊するものではなく、四人以上の僧団の活動を信者はサポート(支援)するものであるから、基本的(何らかの特別な事情がない限り)には「阿蘭若に独処」すること自体が、「増上慢」に連結する。と、説かれる次第となる。因みに、筆者1987年代(現在2023年)には名古屋市内の妙元寺(千種区振甫町4―43)にて、酒井得元老師(1912―1996)による夏期講座(8月1日~15日までの集中講義)に出席した折には、常々に「阿蘭若独処=増上慢=あやまり」を説かれた口調が、今も耳底に残っている。

「第二には、初禅を得て初果と思ひ、二禅を得て第二果と思ひ、三禅を得て第三果と思ひ、四禅を得て第四果と思ふ、第二の誤りなり。初二三四禅の相と、初二三四果の相と、比類に及ばず。喩ふることあらんや。これ無聞の咎によれり。師に仕へず、暗きによれる咎なり」

 第二点目は「初禅=初果」とする「思い込み・勘違い」による不是であり、参学聞法しない「無聞の咎」を挙げられる。

 

   二

 優婆毱多弟子中有一比丘。信心出家、獲得四禪、謂爲四果。毱多方便令往佗處。於路化作群賊、復化作五百賈客。賊劫賈客、殺害狼藉。比丘見生怖、即便自念、我非羅漢、應是第三果。賈客亡後、有長者女、語比丘言、唯願大徳、與我共去。比丘答言、佛不許我與女人行。女言、我望大徳而隨其後。比丘憐愍相望而行、尊者次復變作大河。女人言、大徳、可共我渡。比丘在下、女在上流。女便墮水、白言、大徳濟我。爾時比丘、手接而出、生細滑想、起愛欲心、即便自知非阿那含。於此女人極生愛着、將向屏處、欲共交通、方見是師、生大慙愧、低頭而立。尊者語言、汝昔自謂是阿羅漢、云何欲爲如此惡事。將至僧中、教其懺悔、爲説法要、得阿羅漢。

 この比丘、はじめ生見のあやまりあれど、殺害の狼藉をみるにおそりを生ず。ときにわれ羅漢にあらずとおもふ、なほ第三果なるべしとおもふあやまりあり。のちに細滑の想によりて愛欲心を生ずるに、阿那含にあらずとしる、さらに謗佛のおもひを生ぜず、謗法のおもひなし、聖教にそむくおもひあらず。四禪比丘にはひとしからず。この比丘は、聖教を習學せるちからあるによりて、みづから阿羅漢にあらず、阿那含にあらずとしるなり。いまの無聞のともがらは、阿羅漢はいかなりともしらず、佛はいかなりともしらざるがゆゑに、みづから阿羅漢にあらず、佛にあらずともしらず、みだりにわれは佛なりとのみおもひいふは、おほきなるあやまりなり、ふかきとがあるべし。學者まづすべからく佛はいかなるべしとならふべきなり。

 古徳云、習聖教者、薄知次位、縱生逾濫、亦易開解。

 まことなるかな、古徳の言。たとひ生見のあやまりありとも、すこしきも佛法を習學せらんともがらは、みづからに欺誑せられじ、佗人にも欺誑せられじ。

 曾聞、有人自謂成佛。待天不曉、謂爲魔障。曉已不見梵王請説、自知非佛。自謂是阿羅漢。又被佗人罵之、心生異念、自知非是阿羅漢。乃謂是第三果也。又見女人起欲想、知非聖人。此亦良由知教相故、乃如是也。

 それ佛法をしれるは、かくのごとくみづからが非を覺知し、はやくそのあやまりをなげすつ。しらざるともがらは、一生むなしく愚蒙のなかにあり。生より生を受くるも、またかくのごとくなるべし。

 この優婆毱多の弟子は、四禪をえて四果とおもふといへども、さらに我非羅漢の智あり。無聞比丘も、臨命終のとき、四禪の中陰みゆることあらんに、我非羅漢としらば、謗佛の罪あるべからず。いはんや四禪をえてのちひさし、なんぞ四果にあらざるとかへりみしらざらん。すでに四果にあらずとしらば、なんぞ改めざらん。いたづらに僻計にとゞこほり、むなしく邪見にしづめり。

 第三には、命終の時おほきなる誤りあり、そのとがふかくしてつひに阿鼻地獄におちぬるなり。たとひなんぢ一生のあひだ、四禪を四果とおもひきたれりとも、臨命終の時、四禪の中陰みゆることあらば、一生の誤りを懺悔して、四果にはあらざりとおもふべし。いかでか佛われを欺誑して、涅槃なきに涅槃ありと施設せさせたまふとおもふべき。これ無聞のとがなり。このつみすでに謗佛なり。これによりて、阿鼻の中陰現じて、命終して阿鼻地獄におちぬ。たとひ四果の聖者なりとも、いかでか如來におよばん。

 舎利弗は久しくこれ四果の聖者なり。三千大千世界の所有の智恵をあつめて、如來をのぞきたてまつりてほかを一分とし、舎利弗の智恵を十六分にせる一分と、三千大千世界所有の智恵とを格量するに、舎利弗の十六分之一分に及ばざるなり。しかあれども、如來未曾説の法をときましますをききて、前後の佛説ことにして、われを欺誑しましますとおもはず。波旬無此事とほめたてまつる。如來は福増をわたし、舎利弗は福増をわたさず。四果と佛果と、はるかにことなること、かくのごとし。たとひ舎利弗及びもろもろの弟子のごとくならん、十方界にみちみてたらん、ともに佛智を測量せんことうべからず。孔老にかくのごとくの功徳いまだなし。佛法を習學せんもの、たれか孔老を測度せざらん。孔老を習學するもの、佛法を測量することいまだなし。いま大宋國のともがら、おほく孔老と佛道と一致の道理をたつ。僻見もともふかきものなり。しもにまさに廣説すべし。

 四禪比丘、みづからが僻見をまこととして、如來の欺誑しましますと思ふ、ながく佛道を違背したてまつるなり。愚癡のはなはだしき、六師等にひとしかるべし。

 古徳云、大師在世、尚有僻計生見之人、況滅後無師、不得禪者。

 いま大師とは佛世尊なり。まことに世尊在世、出家受具せる、なほ無聞によりては僻計生見の誤りのがれがたし。いはんや如來滅後、後五百歳、邊地下賤の時處、誤りなからんや。四禪を發せるもの、なほかくのごとし。いはんや四禪を發するに及ばず、いたづらに貪名愛利にしづめらんもの、官途世路を貪るともがら、不足言なるべし。いま大宋國に寡聞愚鈍のともがら多し、かれらがいはく、佛法と老子孔子の法と、一致にして異轍あらず。

 

優婆毱多弟子中有一比丘。信心出家、獲得四禅、謂為四果。毱多方便令往他処。於路化作群賊、復化作五百賈客。賊劫賈客、殺害狼藉。比丘生怖、即便自念、我非羅漢、応是第三果」(『止観輔行伝弘決』五之四(「大正蔵」四六・三〇二c二二、―部「優婆毱」は原なし、―部「見」は原なし)<優婆毱多の弟子の中に一(ひとり)の比丘有り。信心して出家し、四禅を獲得してと謂いて四果と為り。毱多は方便して他処に往かしむ。路に於て群賊を化作し、復(ま)た五百の賈客を化作せり。賊は賈客を劫(おびや)かし、殺害し狼藉す。比丘は見て怖れを生じ、即便ち自ら念(おも)う、我れは羅漢に非ず、応に是れ第三果なるべしと>

 「化作」とは、優婆毱多の神通力にて「かりに実現させた」もので、謂うなれば『法華経』「化城喩品」(「大正蔵」九・二二a一八)のような例話であろう。「賈客(かかく)」とは、商人を指す。

「賈客亡後、有長者女、語比丘言、唯願大徳、与我共去。比丘答言、仏不許我与女人行。女言、我望大徳而随其後」(「同」)<賈客亡(に)げて後、長者に女有り、比丘に語りて言く、唯願わくは大徳、我と共に去るべし。比丘答えて言く、仏は我が女人と行くことを許さず。女言く、我れは大徳を望んで而も其の後に随わん>

「比丘憐愍相望而行、尊者次復変作大河。女人言、大徳、可共我渡。比丘在下、女在上流。女便堕水、白言、大徳済我。爾時比丘、手接而出、生細滑想、起愛欲心、即便自知非阿那含(「同」c二九)<比丘は憐愍して相望んで行くに、尊者次に復た大河を変作せり。女人言く、大徳、我れと共に渡る可し。比丘は下に在り、女は上流に在り。女は便ち水に堕ち、白して言く、大徳我を済(すく)うべし。爾の時に比丘は、手接して而出し、細滑の想いを生じて、愛欲の心を起し、即便ち自ら阿那含に非ずと知る>

「於此女人極生愛着、将向屏処、欲共交通、方見是師、生大慙愧、低頭而立。尊者語言、汝昔自謂是阿羅漢、云何欲為如此悪事。将至僧中、教其懺悔、為説法要、得阿羅漢」(「同」三〇三a四)<此の女人に於て極めて愛着を生じ、将(まさ)に屏処に向い、共に交通せんと欲(おも)うに、方に是れ師なるを見て、大慙愧を生じ、低頭して而立す。尊者語りて言く、汝は昔自ら是れ阿羅漢と謂えり、云何が此の如きの悪事を為さんと欲うや。将に僧中に至り、其れをして懺悔せしめ、為に法要を説きて、阿羅漢を得たり>

「この比丘、始め生見の誤りあれど、殺害の狼藉を見るに恐りを生ず。時にわれ羅漢にあらずと思ふ、なほ第三果なるべしと思ふ誤りあり。後に細滑の想によりて愛欲心を生ずるに、阿那含にあらずと知る、さらに謗仏の思ひを生ぜず、謗法の思ひなし、聖教に背く思ひあらず。四禅比丘には等しからず。この比丘は、聖教を習学せる力あるによりて、みづから阿羅漢にあらず、阿那含にあらずと知るなり」

 此処にて示す比丘の態度は、生れつきの見解(生見)にて自身を阿羅漢と思い込む誤認はあろうが、随時に自身の境遇を認知し得る力量は、仏の教え(聖教)に習学する機縁から生じたものであろう。

「今の無聞の輩は、阿羅漢は如何なりとも知らず、仏は如何なりとも知らざるがゆゑに、みづから阿羅漢にあらず、仏にあらずとも知らず、妄りに我は仏なりとのみ思ひ云ふは、大きなる誤りなり、深き咎あるべし。学者まづ須く仏は如何なるべしと習ふべきなり」

 「今の無聞の輩」とは、鎌倉より帰山しての永平寺山内に参ずる一部の学人を示唆するもの。とは筆者の邪推ではあるが、仏道について不勉強なる者は謙虚さが足らず、出家の儀式さへ済ませれば「我は仏なり」と鼻高に天狗になる者こそが、「仏は如何なるべしと習うべきなり」と、本話に合わせて永平寺僧団の内情を吐露されて居るように思われる。

古徳云、習聖教者、薄知次位、縦生逾濫、亦易開解」(「同」a八、―部「古徳云」は原「故知」<古徳云く、聖教を習う者、薄(ほぼ)次位を知るは、縦い逾濫を生ずれども、亦た開解し易し>

 「次位」とは、到達した位の順序。「逾濫(ちゅうらん)」とは逾濫遮で、六聚罪〔波羅夷(はらい)・僧残(そうざん)・波逸提(はいつだい)・逾濫遮(ちゅうらんしゃ)・提舎尼(だいしゃに)・突吉羅(ときら)〕の一つで、大障善道と訳す。「開解(かいげ)」とは、心開意解の略語。

「まことなるかな、古徳の言。たとひ生見の誤りありとも、少しきも仏法を習学せらん輩は、みづからに欺誑せられじ、他人にも欺誑せられじ」

 『止観輔行伝弘決』五之四では「古徳」とは誰かは明言されないが、聖教(仏法)を学習した者は、自らに欺誑せられず、他人にも欺誑されることはない。と、勉学の必要性が説かれる。

「曾聞、有人自謂成仏。待天不曉、謂為魔障。曉已不見梵王請説、自知非仏。(仍便)自謂是阿羅漢。又被他人罵之、心生異念、自知非是阿羅漢。乃謂是第三果也。見女起欲、知非聖人。此亦良由知教相故、乃如是也(「同」a九、―部「自知非仏」は原なし、―部「仍便」は原あり、―部「又被」は原なし、―部「又」は原なし、―部「人」は原なし、―部「想」は原なし、―部「乃如是也」は原なし)<曾て聞く、人有りて自ら成仏すと謂(おも)う。待つに天曉けず、為に魔障ならんと謂う。曉け已るに梵王の請説を見ず、自ら仏に非ずと知り。自らは是れ阿羅漢と謂えり。又他人の之を罵(ののし)るを被りて、心に異念を生じ、自らは是れ阿羅漢に非ずと知る。乃ち是れ第三果也と謂えり。又女人を見て欲想を起し、聖人に非ずと知る。此れ亦た良く教相を知るに由りての故に、乃ち是の如く也>

「それ仏法を知れるは、かくの如く自らが非を覚知し、早くその誤りを投げ捨つ。知らざる輩は、一生虚しく愚蒙の中にあり。生より生を受くるも、また是の如くなるべし」

 「仏法を知れる」と言うよりは、物事の道理・世間の道理を知り得れば、「自らが非を覚知」でき、また「愚蒙の中」からも機随によりて「非を覚知」できる状況が、現われ得るであろう。

「この優婆毱多の弟子は、四禅を得て四果と思ふと云へども、さらに我非羅漢の智あり。無聞比丘も、臨命終の時、四禅の中陰見ゆることあらんに、我非羅漢と知らば、謗仏の罪あるべからず。謂はんや四禅を得て後久し、何ぞ四果に非ざると省り見知らざらん。すでに四果に非ずと知らば、何ぞ改めざらん。いたづらに僻計に滞り、虚しく邪見に沈めり」

 此処での二つの例(優婆毱多弟子・無聞比丘)に示される如くに、四禅を四果と誤認しても、「我非羅漢」と言い得る力量が有るにも拘らず、どうして「四果にあらず」と知りながらも、自身を反省しないのであろうか、その為に「僻事に滞留し、虚無な邪見に沈潜」するのである。

「第三には、命終の時大きなる誤りあり、その咎深くしてつひに阿鼻地獄に洛ちぬるなり。たとひ汝一生の間、四禅を四果と思ひ来たれりとも、臨命終の時、四禅の中陰見ゆることあらば、一生の誤りを懺悔して、四果には非ざりと思ふべし」

 「当巻」冒頭に提示された「比丘の不是」としての第一点目「阿蘭若に独処する無聞比丘」第二点目「初禅を初果と誤まる無聞比丘」を挙げられたが、此処に来て第三点目の「不是比丘」としては、「臨終命の時にこそ一生の誤りを懺悔し、四禅を四果にはあらずと思いなさい」との、恥入る心持ちが大切との言であろう。

「如何でか仏われを欺誑して、涅槃なきに涅槃ありと施設せさせ給ふと思ふべき。これ無聞の咎なり。この罪すでに謗仏なり。これによりて、阿鼻の中陰現じて、命終して阿鼻地獄に落ちぬ。たとひ四果の聖者なりとも、如何でか如来に及ばん」

 涅槃(nirvana)は厳然として在るものを、仏が欺誑(だま)したと思う其の心持ちが、「聞の咎」であり同時に「謗仏の罪」なのである。「四果の聖者」と謂いつつも、生前の不勉強により阿鼻地獄に落ちる事実を考えるなら、如来に及ぶものではない喩えであろう。

 此処で一言指摘すえき事項は、道元による「臨命終の懺悔」による阿鼻地獄回避のフィールド構造は、平安から鎌倉に及ぶ日本の浄土宗が唱え続けた「臨終正念」の行が、道元の「臨終観」にも通底したとする見方(『正法眼蔵全巻解読』木村清孝著<四九九頁)>は、興味深い指摘である。

 また「臨終正念」と道元の「法華経如来神力品経行」とは如何なる聯関があろう歟。

舎利弗は久しくこれ四果の聖者なり。三千大千世界の所有の智恵を集めて、如来除き奉りて他を一分とし、舎利弗の智恵を十六分にせる一分と、三千大千世界所有の智恵とを格量するに、舎利弗の十六分之一分に及ばざるなり」

 「舎利弗(已sariputta)」に関しては、『般若経』等では「舎利子」と漢訳されるが、その「舎利(sariサーリ)」は母親の名(鶖鷺)で、「プッタ(putta)」は息子を意味する為に、漢訳文献では「舎利子(しゃりし)」や「鶖鷺子(しゅうろし)」と表記されることもある。

 「舎利弗の十六分之一分」に関しては、『大智度論』十一にて「一切衆生智、唯除仏世尊、欲比舎利弗智慧及多聞、於十六分事猶尚不及一」(「大正蔵」二五・一三六a一一)に出典があるようであるが、道元の引用文献は「当巻」の援用例から推察すると、『止観輔行伝弘決』六之一(「大正蔵」四六・三三四c五)にも同文の記載があることから、後者からの援用であろう。

「然あれども、如来未曾説の法を説きましますを聞きて、前後の仏説異にして、われを欺誑しましますと思はず。波旬無此事と褒め奉る。如来は福増を渡し、舎利弗は福増を渡さず。四果と仏果と、遥かに異なること、かくの如し。たとひ舎利弗及び諸々の弟子の如くならん、十方界に満ち充て足らん、ともに仏智を測量せん事得べからず」

 「福増」に関しては、『賢愚経』四(「大正蔵」四・三七六c一五)にて詳細に説かれ、その上堂記録が『永平広録』<381>に録される。また「同広録」の前半部では、前述した「舎利弗十六分之一」が筆録されるが、その上堂には明確な日時は特定し難いものの、『永平広録』<379>には「六月初十、祈晴上堂」と記録される事から建長二年(1250)六月十日であり、さらに『永平広録』<384>では「天童和尚忌上堂」である事から、建長二年七月十七日であると確定される事から、この『永平広録』<381>の説示年月日は、建長二年六月もしくは七月に供されたものであり、さらには『永平広録』<383>の説示では「今大宋諸僧、頻談三教一致之言、最非也」と、次項で説く「いま大宋国のともがら、多く孔老と仏道と一致の道理を立つ。僻見もとも深きものなり」を書き改められたものである事は明白であろう。つまりは「当巻四禅比丘」の説時月日は、道元示寂三年前の建長二年(1250)六月もしくは七月に特定されるものである。

「孔老にかくの如くの功徳未だなし。仏法を習学せん者、たれか孔老を測度せざらん。孔老を習学する者、仏法を測量すること未だなし。いま大宋国の輩、多く孔老と仏道と一致の道理を立つ。僻見もとも深きものなり。しもにまさに広説すべし」

 これより「当巻」の後半部に入り、仏法・儒教道教による「三教一致」論を説く族(やから)に対する、手厳しい法戦が繰り広げられる。

「四禅比丘、みづからが僻見を誠として、如来の欺誑しましますと思ふ、永く佛仏道を違背し奉るなり。愚癡の甚だしき、六師等に等しかるべし」

 此処では「四禅比丘」=「六師外道」とを同等視する論述ですが、「六師外道」に関しては、『大般涅槃経』下(「大正蔵」一・二〇三c二五)にて詳述される。

古徳云、大師在世、尚有僻計生見之人、況滅後無師、不得禅者」(『止観輔行伝弘決』四之一(「大正蔵」四六・二五七b二七、―部「古徳云」は原なし)<古徳云く、大師在世すら、尚お僻計生見の人有り、況んや滅後に師無く、禅を得ざる者をや>

 此処では短文ながら、前述の「僻見」の関連語として「僻計生見」を取り上げ、前後の文脈に通貫性を与えるが、同じ『止観輔行伝弘決』ではあるが、先の「同経五之四」~「同経四之一」までは頁数にして四十六頁ではあるが、文字数にして七万六千余字の間隔があり、よくも、このように整合性に見合う十数文字の経文を見出す能力は、何処から生じるものであろう歟。

「いま大師とは仏世尊なり。まことに世尊在世、出家受具せる、なほ無聞によりては僻計生見の誤り逃れ難し。況んや如来滅後、後五百歳、辺地下賤の時処、誤りなからんや。四禅を発せる者、なほ是の如し。況んや四禅を発するに及ばず、いたづらに貪名愛利に沈めらん者、官途世路を貪る輩、不足言なるべし。いま大宋国に寡聞愚鈍の輩多し、彼らが云はく、仏法と老子孔子の法と、一致にして異轍あらず」

 「無聞」なる者は時代に関わらず、釈尊の黄金期であれ、存在するを提言するものであろうが、殊に道元が在した北宋時代には、僧でありながらも「官途世路」を願う為に、ワイロが横行した現況や、「三教一致」論を唱える世衆に取り込まれようとする「寡聞愚鈍の輩」の信条とする処は、「貪名愛利」の一言に尽きるようである。なお「後五百歳」に関する文献は、『大方等大集経』五十五(「大正蔵」一三・三六三a二九)に詳述される。

 

   三

 大宋嘉泰中、有僧正受。撰進普燈録三十巻云、臣聞孤山智圓之言曰、吾道如鼎也、三教如足也。足一虧而鼎覆焉。臣甞慕其人稽其説。乃知、儒之爲教、其要在誠意。道之爲教、其要在虚心。釋之爲教、其要在見性。誠意也虚心也見性也、異名體同。究厥攸歸、無適而不與此道會云々。

 かくのごとく僻計生見のともがらのみ多し、たゞ智圓正受のみにはあらず。このともがらは、四禪を得て四果と思はんよりも、その誤りふかし。謗佛謗法謗僧なるべし。すでに撥無解脱なり、撥無三世なり、撥無因果なり。漭々蕩々招殃禍、疑ひなし。三寶四諦四沙門なしとおもふしともがらにひとし。佛法いまだその要見性にあらず、西天二十八祖、七佛、いづれのところにか佛法のたゞ見性のみなりとある。六祖壇經に見性の言あり、かの書これ僞書なり、附法藏の書にあらず、曹谿の言句にあらず、佛祖の兒孫またく依用せざる書なり。正受智圓いまだ佛法の一隅をしらざるによりて、一鼎三足の邪計をなす。

 古徳云、老子莊子、尚自未識小乘能著所著、能破所破。況大乘中、若著若破。是故不與佛法少同。然世愚者迷於名相、濫禪者惑於正理、欲將道徳逍遥之名齊於佛法解脱之説、豈可得乎。

 むかしより名相にまどふもの、正理をしらざるともがら、佛法をもて莊子老子にひとしむるなり。いさゝかも佛法の稽古あるともがら、むかしより莊子老子をおもくする一人なし。

 清淨法行經云、月光菩薩、彼稱顔回、光淨菩薩、彼稱仲尼、迦葉菩薩、彼稱老子云々

 むかしよりこの經の説を擧して、孔子老子等も菩薩なれば、その説ひそかに佛説に同じかるべしといひ、また佛のつかひならん、その説おのづから佛説ならんといふ。この説みな非なり。

 古徳云、準諸目録、皆推此經。以爲疑僞、云々。

 いまこの説によらば、いよいよ佛法と孔老とことなるべし。すでにこれ菩薩なり、佛果にひとしかるべからず。また和光應迹の功徳は、ひとり三世諸佛菩薩の法なり。俗人凡夫の所能にあらず、實業の凡夫、いかでか應迹に自在あらん。孔老いまだ應迹の説なし、いはんや孔老は、先因をしらず、當果をとかず。わづかに一世の忠をもて、君につかへ家ををさむる術をむねとせり、さらに後世の説なし。すでにこれ斷見の流類なるべし。莊老をきらふに、小乘なほしらず、いはんや大乘をやといふは上古の明師なり。三教一致といふは智圓正受なり、後代澆季愚闇の凡夫なり。なんぢなんの勝出あればか、上古の先徳の所説をさみして、みだりに孔老と佛法とひとしかるべしといふ。なんだちが所見、すべて佛法の通塞を論ずるにたらず。負笈して明師に參學すべし、智圓正受、なんぢら大小兩乘すべていまだしらざるなり。四禪をえて四果とおもふしよりもくらし。悲しむべし、澆風のあふぐところ、かくのごとくの魔子おほかることを。

 古徳云、如孔丘姫旦之語、三皇五帝之書、孝以治家、忠以治國、輔國利民、只是一世之内、不濟過未。齊佛法之益於三世、不謬乎。

 まことなるかなや、古徳の語。よく佛法の至理に達せり、世俗の道理にあきらかなり。三皇五帝の語、いまだ轉輪聖王の教に及ぶべからず。梵王帝釋の説にならべ論ずべからず。統領するところ、所得の果報、はるかに劣なるべし。輪王梵王帝釋、なほ出家受具の比丘に及ばず。いかにいはんや如來にひとしからんや。孔丘姫旦の書、また天竺の十八大經に及ぶべからず。四韋陀の典籍にならべがたし。西天婆羅門教、いまだ佛教にひとしからざるなり。なほ小乘聲聞教にひとしからず。あはれむべし。振旦小國邊方にして、三教一致の邪説あり。

 

「大宋嘉泰中、有僧正受。撰進普灯録三十巻云、臣聞孤山智円之言曰、吾道如鼎也、三教如足也。足一虧而鼎覆焉。臣甞慕其人稽其説。乃知、儒之為教、其要在誠意。道之為教、其要在虚心。釈之為教、其要在見性。誠意也虚心也見性也、異名体同。究厥攸帰、無適而不与此道会云々」(『嘉泰普灯録』序文に相当するが、筆者手許になく確認できず)<大宋の嘉泰中に、僧の正受有り。普灯録三十巻を撰進するに云く、臣は孤山智円の言うを聞くに曰く、吾が道は鼎(かなえ)の如く也、三教は足の如く也。足一つも虧くれば而して鼎の覆(くつが)える焉。臣は甞(かつ)て其の人を慕い其の説を稽(かんが)う。乃ち知りぬ、儒の教え為ること、其の要は誠意に在り。道の教え為ること、其の要は虚心に在り。釈の教え為ること、其の要は見性に在り。誠意也虚心也見性也とは、名は異にして体は同じ。厥(そ)の帰する攸(ところ)を究(きわ)むるに、適(たまたま)此の道を会せずとは無し云々>

 「嘉泰普灯録」に関しては、雲門宗の雪竇下七世に当る雷庵正受(1146―1208)の編。嘉泰四年(1204)に成立し、寧宗(在位1194―1224)に上進して入蔵を勅許される。巻首には陸游の跋がある。『景徳伝灯録』『天聖広灯録』『続灯録』の後を継承し、その欠けたるを増補した禅宗史書の一つである。前三書が出家沙門の事に偏しているのを改め、広く王公・居士・尼僧等の機縁を収録する。示衆機語、聖君賢臣、応化聖賢、広語、拈頌、偈賛、雑著の八門に分けて収録し、およそ南嶽偈十七世、青原下十六世に及ぶ。日本では、入宋して仏海慧遠の法をいだ叡山覚阿(1143―1182?)の伝が立てられている為に、早くから注目された灯録である(「花園大学国際禅学研究所」、禅語解題142を引載)。

 「孤山智円(976―1022)」は天台山外派の学匠。「仏海慧遠(1103―1176)」は、成都四川省)の昭覚寺にて圜悟克勤(1063―1135)の法を嗣ぐ。仏海とは禅師号であり、通称は瞎堂慧遠。

「叡山覚阿」とは、承安元年(1171)に比叡山の学僧として入宋し、杭州霊隠寺十六世の瞎堂(仏海)慧遠から臨済禅の楊岐派の禅を嗣承し帰国し、その折には法然(1133―1212)上人に、自己伝持の禅の衣鉢を相授したとも伝えられる(光地英学著、『禅浄両者の交渉性』を引載)。

 一方で、道元の孫師匠とも云うべき明庵栄西(1141―1215)も覚阿同様に宋に渡り、虚庵懐敞の法を嗣ぎ、黄龍派の禅を日本に伝来した禅匠として類似点がある。

「かくの如く僻計生見のと輩のみ多し、ただ智円正受のみにはあらず。この輩は、四禅を得て四果と思はんよりも、その誤り深し。謗仏謗法謗僧なるべし。すでに撥無解脱なり、撥無三世なり、撥無因果なり。漭々蕩々招殃禍、疑ひなし。三宝四諦四沙門なしと思ふし輩に等し」

 前所では「雷庵正受・孤山智円」両人の不勉強ぶりが謂われたが、彼らが「灯録」の序文にて、このように鼎の例えを出すに至るには、それ以前には禅界および世俗界では「仏・儒・道」による相互補完説ないしは三教習合説などが流布した結果として、『普灯録』序文に至ったのであろう。

 その「三教一致」論を唱える人はと云えば、四禅を得て四果と思う「四禅比丘」よりも不勉強であるは明白であり、彼らは永嘉玄覚(675―713)の如くに「豁達空、撥因果、漭漭蕩蕩招殃禍」(『景徳伝灯録』三十(「大正蔵」五一・四六〇c四)と、―部のように「わざわい」を招き、同時に解脱もしくは三世や因果をも無きように考えるは、「三宝(仏・法・僧)、四諦(苦・集・滅・道)、四沙門(預流・一来・不還・阿羅漢)」などは無いと称する徒輩と同等視する論点は、先の『深信因果』にも通じ、聯関するものである。

「仏法いまだその要見性にあらず、西天二十八祖、七仏、いづれの処にか仏法のただ見性のみなりとある。六祖壇経に見性の言あり、かの書これ偽書なり、附法蔵の書にあらず、曹谿の言句にあらず、仏祖の児孫またく依用せざる書なり。正受智円いまだ仏法の一隅を知らざるによりて、一鼎三足の邪計をなす」

 「六祖壇経」に関しては、➀敦煌本六祖壇経➁興聖寺本六祖壇経➂大乗寺本六祖壇経➃金沢文庫本六祖壇経⑤高麗本六祖大師法宝壇経➅真福寺文庫所蔵六祖壇経などが存在するが、『大正新修大蔵経』四十八巻(三四七c二四)には「六祖大師法宝壇経」として二万四千余字の 行由が記録されるが、「見性」の語言が三十二か所にも亘り出現するを見て、「かの書これ偽書なり」と断言されるが、これは南陽慧忠(675?―775)も指摘するように、荷沢神会(684―758)が自身の宗旨に合致するように、改変したものと見る向きもある。また徹底した「見性」批判には、日本曹洞宗教団の中核を成した義价等の「日本達磨宗徒」の指南書(教本)とも云うべき、『成等正覚論』には、「大師答へて日く、道は心に在り、事には在らず。不立文字をも、方便をも仮らず。直指人心を、見性しつれば成仏なり」(原漢文『中世禅籍叢刊』3達磨宗より)が認められる為に、彼らの邪計生見をも論破する意味も込めての、「附法蔵の書にあらず、仏祖の児孫またく依用せざる書なり」と言明されたのではなかろうか。

古徳云、老、尚自識小乗能著所著、能破所破。況大乗中、若著若破。是故不与仏法少同。然世者迷於名相、濫禅者惑於正理、欲将道徳逍遥之名斉於仏法解脱之説、豈可得乎」(『止観輔行伝弘決』三之四(「大正蔵」四六・二四七a一一、―部「古徳云」は原なし、―部「子」は原なし、―部「未」は原「不」、―部「愚」は原「講」)<古徳云く、老子荘子は、尚お自ら未だ小乗の能著所著、能破所破を識らず。況んや大乗の中の、若しは著し若しは破するをや。是の故に仏法と少しく同じからず。然れば世の愚かなる者は名相に於て迷い、濫禅の者は正理に於て惑い、道徳・逍遥の名を将って仏法解脱の説に於て斉しめんと欲うは、豈に得べけん乎>

 「老子(前571?―前471?)」に関しては、司馬遷(前145―前86)著『史記』巻六十三「老子韓非列伝」では、「老子者、楚苦県厲郷、曲仁里人也。姓李氏、名耳、字聃」と記載される。書物には五千数百字にも及ぶ『老子道徳経』があり、その考古学的発見としては、1973年には湖南省長沙市の馬王堆3号墓から二種の『老子道徳経』が発見され、続いて1993年には湖北省荊門市の楚国の墓から730枚の竹簡が発見され、そこには三種類の『老子道徳経』が発見された(ウイキペディア老子を参照)。

 「荘子(前369?―前286?)」に関しては、姓は荘、名は周と云い、老子と同じく道教の始祖の一人とされる。荘子の代表的説話では、「胡蝶の夢」があり、「荘子が夢を見て、蝶になり、蝶として大いに楽しんだ所で夢が覚め、荘周が夢を見て蝶になったのか、それとも蝶が夢を見て荘周になったのか」を問う説話であるが、まさに今日の世界観で以て見れば、パラレルワールドに生きた荘周であろうが、「胡蝶の夢」で説く主旨は、無為自然、一切斉同を主張する老荘思想を表わすものである(ウイキペディア荘子を参照)。

「昔より名相に迷ふもの、正理を知らざる輩、仏法をもて荘子老子に斉しむるなり。聊かも仏法の稽古ある輩、昔より荘子老子を重くする一人なし」

 「名相(みょうそう)」とは、法門の名目と様相の略語であり、教学上の概念を云う。「正理」とは、正しい道理。つまり此処では、「名相」は名利とも受け取れ、また正しい仏法の道理を知らない連中は、荘子老子の無為思想とと仏法とを同一視する考え方は、片寄った「本覚論」を論破する意図もあり、本来の仏道観では荘子老子とは一線を画し、老荘思想を重要視する学人は一人も居ない、と述べんとするものであろう。

「清浄法行経云、月光菩薩、彼称顔回、光浄菩薩、彼称仲尼、迦葉菩薩、彼称老子云々(『止観輔行伝弘決』六之三(「大正蔵」四六・三四三c一八、―前「云々」が原なし)<清浄法行経に云く、月光菩薩は、彼(かしこ)に顔回と称し、光浄菩薩は、彼に仲尼と称し、迦葉菩薩は、彼に老子と称ず云々>

 「清浄法行経」に関しては、中国撰述経典であり俗にいう偽経であり、「大正蔵」には含まれない。「顔回(前521―前490頃)」に関しては、孔門十哲の一人で、尊称は顔子、諱は回、字は子淵とすることから、顔淵とも称す。魯の出身であるが、孔子に嘱望されたが早逝した(ウイキペディア顔回を参照)。「仲尼」とは、孔子の字で、つまりはニックネームのようなものである。

 「月光菩薩(仏)=顔回(儒)」、「光浄菩薩(仏)=仲尼(儒)」、「迦葉菩薩(仏)=老子(道)」。この図式は三教一致を説明する為の文言(偽経)ではあるが、謂うなれば日本国内で唱道された「本地垂迹・神本仏迹」説の中国版の如きであろうか。

「昔よりこの経の説を挙して、孔子老子等も菩薩なれば、その説密かに仏説に同じかるべしと云ひ、また仏の使ひならん、その説おのづから仏説ならんと云ふ。この説みな非なり」

 つまりは道元も認ずる偽経であると。

古徳云、準諸目録、皆推此経。以為疑偽、云々(『止観輔行伝弘決』六之三、(「大正蔵」四六・三四三c二〇、―部「古徳云」は原なし、―部「云々」は原なし)<古徳云く、諸の目録に準じ、皆な此の経を推す。以為(おもへら)くは疑偽ならん、云々>

 此処で云う「古徳」とは、『止観輔行伝弘決』を撰述した荊渓湛然(711―782)であろう。「湛然」に関しては、中国天台宗第六祖に列す。師は渓玄朗(673―754)、弟子には道邃・行満らが居るが、最澄(766―822)は、この両人から天台法門を伝授される。また著述(作)には、『止観輔行伝弘決』(「大正蔵」四六・一四一b一二)十巻、『法華玄義釈籖』(「大正蔵」三三・八一五b四)十巻、『法華文句記』(「大正蔵」三四・一五一a七)十巻などがある。

「今この説によらば、いよいよ仏法と孔老と異なるべし。すでにこれ菩薩なり、仏果に等しかるべからず。また和光応迹の功徳は、ひとり三世諸仏菩薩の法なり。俗人凡夫の所能にあらず、実業の凡夫、如何でか応迹に自在あらん。孔老未だ応迹の説なし、謂はんや孔老は、先因を知らず、当果を説かず。わづかに一世の忠をもて、君に仕へ家を治むる術を旨とせり、さらに後世の説なし。すでにこれ断見の流類なるべし。荘老を嫌ふに、小乗なほ知らず、謂はんや大乗をやと云ふは上古の明師なり」

 道元の見方によれば「菩薩と孔老」とは別物で、「菩薩と仏果」との違いも表明されるが、この『清浄法行経』での主意は仏法での区分けではなく、「三教一致」の論述ですから、聊か論点のズレが生じたようである。

 「和光応迹」とは、光を和(やわ)らげて俗塵に同ずる意であるが、仏菩薩が衆生済度の方便(方途)として、無漏の智・光を隠し煩悩濁世の塵に交わり、衆生に縁を結ばせる事を云う。同義語として和光同塵とも云う(『禅学大辞典』下巻、一三二五頁参照)。いま少しく噛み砕けば「順応」とも言い得よう。所謂は、仏法には対機説法的な臨機応変さがあるが、中国古来の儒教道教には順応化は期待できず、また孔老の教えには「先因(先世の因)」や「当果(当来の果)」は見当らず、「忠孝」の家父長制を説くは、「断見(今世に対し来世がないとする考え)」に輩と言って良かろう。と、上代や古代からの勝れた善知識(上古の明師)が荘老を判断する由縁である。

「三教一致と云ふは智円正受なり、後代澆季愚闇の凡夫なり。なんぢ何の勝出あればか、上古の先徳の所説をさみして、妄りに孔老と仏法と等しかるべしと云ふ。なんだちが所見、すべて打つ法の通塞を論ずるにたらず。負笈して明師に参学すべし、智円正受、なんぢら大小両乗すべて未だ知らざるなり。四禅を得て四果と思ふしよりも暗し。悲しむべし、澆風のあふぐ処、かくの如くの魔子多かることを」

 此処で再び『嘉泰普灯録』撰者の「雷庵正受(1146―1208)」と其の師匠である「孤山智円(976―1022)」に対する痛烈なる批判となる。彼らが三教一致を支持する由縁は、社会の凡流に阿(おもね)る結果では有るにせよ、両人ともに「大小両乗知らざるなり」とは、仏道のイロハも理解せず、「四禅比丘」と称される輩よりも仏法に暗きは、悲しむ情況ではあるが、仏教の衰退する社会では「智円・正受」のような「魔子」多くなるも必然であろう。

古徳云、如孔丘姫旦之語三皇五帝之書、孝以治家、忠以治国、輔国利民、只是一世之内、不済過未。斉仏法之益於三世、不謬乎(『止観輔行伝弘決』十之二(「大正蔵」四六・四四〇b二二、―部「古徳云」は原なし、―部「之語」は原「経籍」、―部「只是・・」は原なし)<古徳云く、孔丘・姫旦の語、三皇五帝の書の如きは、孝で以て家を治め、忠を以て国を治め、国を輔(たす)け民を利するは、只是れ一世の内にして、過未に済(わた)らず。仏法の三世を益するに斉(ひと)しめん、謬(あやま)らざらん乎>

 「孔丘(前551―前479)の「孔」は氏で、「丘」は諱つまり本名で、字は「仲尼」つまりニックネーム、「孔子」は尊称である。「姫旦(ー前1037?)の「姫」は姓、「旦」は諱で、「周公旦」として知られる。「三皇五帝」の「三皇」とは、太皥庖犠(たいこうほうぎ)女娟(じょえん)・神農(しんのう)。「五帝」とは、黄帝軒轅(こうていけんえん)・顓頊高陽(せんぎょくこうよう)・帝嚳高幸(ていこくこうこう)・帝尭(ていぎょう)・虡舜(きょしゅん)。

「誠なる哉や、古徳の語。よく仏法の至理に達せり、世俗の道理に明らかなり。三皇五帝の語、いまだ転輪聖王の教に及ぶべからず。梵王帝釈の説に並べ論ずべからず。統領する処、所得の果報、はるかに劣なるべし。輪王梵王帝釈、なほ出家受具の比丘に及ばず」

 此処では中華思想に於ける「三皇五帝」と、インド思想での「転輪聖王」との優劣を述べんとするが、それぞれの民族には地域に根差した言語構造体、すなわち「神話」には、そもそも優劣などは在り得ないのであるが、一旦「輪王・梵王・帝釈」の優位を認めつつも、仏道での「出家し具足戒を受ける」比丘には及ばず、との本義を述する。

「如何に謂はんや如来に等しからんや。孔丘姫旦の書、また天竺の十八大経に及ぶべからず。四韋陀の典籍に並べ難し。西天婆羅門教、未だ仏教に等しからざるなり。なほ小乗声聞教に等しからず。憐れむべし。振旦小国辺方にして、三教一致の邪説あり」

 前述同様に、古代中国の「孔丘・姫旦」の書物と、古代天竺(インド)の「十八大経・四韋陀(ヴェーダ)」の典籍との比較である。「十八大経・四韋陀」に関しては、『百論疏』二之余にて「四韋陀者外道十八経・・」(「大正蔵」四二・二五一a二〇)と説かれる。

 「四韋陀」とは、アーリア民族がガンジス河流域に居を構えた時からのバラモン(婆羅門)教の根本聖典を指し、紀元前千年頃から同前五百年頃にかけて、インドで編纂された宗教文書の総称である。そこには、「サンヒター(本集・中心的な部分で、マントラ(讃歌・歌詞・祭詞・呪詞)より構成される」、「ブラーフマナ(祭儀書・散文形式で書かれ、祭式の手順や神学的意味を説明)」、「アーラニヤカ(森林書・森林で語られる秘技。祭式の説明と哲学的な説明)」、「ウパニシャッド(奥義書・インド哲学の源流の書)」と分かれ、またその中の「サンヒター」から「ソグ・ヴェーダ(韻文讃歌集)」、「サーマ・ヴェーダ(詠歌集)」、「ヤジュル・ヴェーダ(散文祭詞)」、「アタル・ヴェーダ(呪文集)」と細分される(ウイキペディア、ヴェーダを参照)。

 この西天竺の婆羅門教は、仏教とは等しくなく、さらに言うなら小乗声聞教とも不同と明言される事から、此処で道元の言う「仏教」とは、明らかに大乗仏教に言及されるようである。

 此処で言及しておきたい事実は、中村元(1912―1999)博士などが指摘される如くに、『ダンマパダ(法句経)』等の初期原始仏教の文献等には、バラモン教からの言い廻しや、また姉妹宗教とも称されるジャイナ教文献での語法を用いるなど、少なからず両教の影響もあって、相互に依存しながらの「婆羅門教・仏教・声聞教」の存在であったのであろう。

 

   四

 第十四祖龍樹菩薩云、大阿羅漢辟支佛知八萬大劫、諸大菩薩及佛知無量劫。

 孔老等、いまだ一世中の前後をしらず、一生二生の宿通あらんや。いかにいはんや一劫をしらんや、いかにいはんや百劫千劫をしらんや、いかにいはんや八萬大劫をしらんや、いかにいはんや無量劫をしらんや。この無量劫をあきらかにてらししれること、たなごゝろをみるよりもあきらかなる諸佛菩薩を、孔老等に比類せん、愚闇といふにもたらざるなり。耳をおほうて三教一致の言をきくことなかれ。邪説中最邪説なり。

 莊子云、貴賤苦樂、是非得失、皆是自然。

 この見、すでに西國の自然見の外道の流類なり、貴賤苦樂、是非得失、みなこれ善惡業の感ずるところなり。滿業引業をしらず、過世未世をあきらめざるがゆゑに現在にくらし、いかでか佛法にひとしからん。

 あるがいはく、諸佛如來ひろく法界を證するゆゑに、微塵法界、みな諸佛如來の所證なり。しかあれば、依正二報ともに如來の所證となりぬるがゆゑに、山河大地、日月星辰、四倒三毒、みな如來の所證なり。山河をみるは如來をみるなり、三毒四倒佛法にあらずといふことなし。微塵をみるは法界をみるにひとし。造次顛沛、みな三菩提なり。これを大解脱といふ。これを單傳直指の祖道となづく。

 かくのごとくいふともがら、大宋國に稻麻竹葦のごとく、朝野に遍滿せり。しかあれども、このともがら、たれ人の兒孫といふことあきらかならず、おほよそ佛祖の道をしらざるなり。たとひ諸佛の所證となるとも、山河大地たちまちに凡夫の所見なかるべきにあらず、諸佛の所證となる道理をならはず、きかざるなり。なんぢ微塵をみるは法界をみるにひとしといふ、民の王にひとしといはんがごとし。またなんぞ法界をみて微塵にひとしといはざる。もしこのともがらの所見を佛祖の大道とせば、諸佛出世すべからず、祖師出現すべからず、衆生得道すべからざるなり。たとひ生即無生と體達すとも、この道理にあらず。

 眞諦三藏云、振旦有二福、一無羅刹、二無外道。

 この言、まことに西國の外道婆羅門の傳來せるなく、得道の外道なしといふとも、外道の見おこすともがらなかるべきにあらず。羅刹はいまだみえず、外道の流類はなきにあらず。小國邊地のゆゑに、中印度のごとくにあらざることは、佛法をわづかに修習すといへども、印度のごとくに證をとれるなし。

 古徳云、今時多有還俗之者、畏憚王役、入外道中。偸佛法義、竊解莊老、遂成混雜、迷惑初心孰正孰邪。是爲發得韋陀法之見也。

 しるべし、佛法と莊老と、いづれか正、いづれか邪をしらず、混雜するは初心のともがらなり、いまの智圓正受等これなり。たゞ愚昧のはなはだしきのみにあらず、稽古なきいたり、顯然なり、炳焉なり。近日宋朝の僧徒、ひとりとしても、孔老は佛法に及ばずとしれるともがらなし。名を佛祖の兒孫にかれるともがら、稻麻竹葦のごとく、九州の山野にみてりといふとも、孔老のほかに佛法すぐれいでたりと曉了せる一人半人あるべからず。ひとり先師天童古佛のみ、佛法と孔老とひとつにあらずと曉了せり。昼夜に施設せり。經論師、また講者の名あれども、佛法はるかに孔老の邊を勝出せりと曉了せるなし。近代一百年來の講者、おほく參禪學道のともがらの儀をまなび、その解會をぬすまんとす、もともあやまれりといふべし。

 孔子書有生知、佛教無生知。佛法有舎利之説、孔老不知舎利之有無。

 ひとつにして混雜せんと思ふとも、廣説の通塞、つひに不得ならん。

 論語云、生而知之上、學而知之者次、困而學之、又其次也。困而不學、民斯爲下矣。

 もし生知あらば無因のとがあり、佛法には無因の説なし。四禪比丘は臨命終の時、たちまちに謗佛の罪に墮す。佛法をもて孔老の教にひとしとおもはん、一生中より謗佛の罪ふかかるべし。學者はやく孔老と佛法と一致なりと邪計する解をなげすつべし。この見たくはへてすてずは、つひに惡趣におつべし。學者あきらかにしるべし、孔老は三世の法をしらず、因果の道理をしらず、一洲の安立をしらず、いはんや四洲の安立をしらんや。六天のことなほしらず、いはんや三界九地の法をしらんや。小千界しらず、中千界しるべからず。三千大千世界をみることあらんや、しることあらんや。振旦一國なほ小臣にして帝位にのぼらず、三千大千世界に王たる如來に比すべからず。如來は梵王帝釋轉輪聖王等、昼夜に恭敬侍衛し、恒時に説法を請じたてまつる。孔老かくのごとくの徳なし、たゞこれ流轉の凡夫なり。いまだ出離解脱のみちをしらず。いかでか如來のごとく諸法實相を究盡することあらん。もしいまだ究盡せずは、なにによりてか世尊にひとしとせん。孔老内徳なし、外用なし、世尊におよぶべからず、三教一致の邪説をはかんや。孔老、世界の有邊際無邊際を通達すべからず。廣をしらず、みず、大をしらず、みざるのみにあらず、極微色をみず、刹那量をしるべからず。世尊あきらかに極微色をみ、刹那量をしらせたまふ。いかにしてか孔老にひとしめたてまつらん。孔老莊子恵子等は、たゞこれ凡夫なり。なほ小乘の須陀洹におよぶべからず。いかにいはんや第二、第三、第四阿羅漢におよばんや。

 しかあるを、學者くらきによりて諸佛にひとしむる、迷中深迷なり。孔老は三世をしらず、多劫をしらざるのみにあらず、一念しるべからず、一心しるべからず。なほ日月天に比すべからず、四大王衆天に及ぶべからざるなり。世尊に比するは、世間出世間に迷惑せるなり。

 

第十四祖龍樹菩薩云、大阿羅漢辟支仏知八万大劫、諸大菩薩及仏知無量劫」(『大智度論』五(「大正蔵」二五・九八b五、―部「第十四・・」は原なし)<第十四祖龍樹菩薩云く、大阿羅漢辟支仏は八万大劫を知り、諸大菩薩及び仏は無量劫を知る>

「孔老等、未だ一世中の前後を知らず、一生二生の宿通あらんや。如何に謂はんや一劫を知らんや、如何に謂はんや百劫千劫を知らんや、如何に謂はんや八万大劫を知らんや、如何に謂はんや無量劫を知らんや。この無量劫を明らかに照らし知れること、たなごころを見るよりも明らかなる諸仏菩薩を、孔老等に比類せん、愚闇と云ふにも足らざるなり。耳を蓋うて三教一致の言を聞くことなかれ。邪説中最邪説なり」

 此処で明かに引用典籍が変わり『大智度論』を用いるが、「当巻」冒頭では「第十四祖龍樹祖師言」と冠頭し、今日は「第十四祖龍樹菩薩云」と言下する心底には、道元の経典に対する息遣いが感じられるようである。また「三教一致」の言は道元には認め難く、聞くに忍びない言辞であったかは、「邪説中最邪説」に的確に表態される。

荘子云、貴賤苦楽、是非得失、皆自然」(『摩訶止観』十上(「大正蔵」四六・一三五a一九、―部「是」は原「其」)<荘子云く、貴賤苦楽は、是れ得失に非ず、皆な是れ自然なり>

「この見、すでに西国の自然見の外道の流類なり、貴賤苦楽、是非得失、みなこれ善悪業の感ずる所なり。満業引業を知らず、過世未世を明らめざるがゆゑに現在に暗し、如何でか仏法に等しからん」

 「西国の自然見の外道の流類」とは、釈尊の世に在した「六師外道」と称する一人であるサンジャヤ・ベーラッティプッタ(Sanjaya Belatthiputta)による「不可知論・懐疑論」を指すものであろう。「満業・引業」に関しては、『阿毘達磨大毘婆沙論』百七十七での「然三十二大丈夫相、是衆同分円満業、非衆同分牽引業果」(「大正蔵」二七・八八七c二三)を参照のこと。

「あるが謂はく、諸仏如来広く法界を証するゆゑに、微塵法界、みな諸仏如来の所証なり。しかあれば、依正二報ともに如来の所証と成りぬるがゆゑに、山河大地、日月星辰、四倒三毒、みな如来の所証なり。山河を見るは如来を見るなり、三毒四倒仏法にあらずと云ふ事なし。微塵を見るは法界を見るに等し。造次顛沛、みな三菩提なり。これを大解脱と云ふ。これを単伝直指の祖道と名づく」

 一見すると、仏法の理事を説いているような語言ではあるが、特に「山河大地・日月星辰が如来の所証」とは、本覚論を全面に表態したようで、道元の見方では「自然見の外道」と感ずるのであろうが、「旧草七十五巻」、興聖寺時代の『仏性』・『身心学道』等では、「山河大地、みな仏性海なり」(「大正蔵」八二・九三a二一)ならびに「しばらく山河大地・日月星辰、これ心なり」(「大正蔵」八二・一五八c八)と、本覚論的示唆を与える文言を提示された事実に於いても、「新草十二巻」の立ち位置が問われるのである。

 「依正二報」とは、環境世界の依報と、我々の身心の正報を云う。「四倒三毒」の「四倒」とは、「無常・苦・無我・不浄」を浄・楽

我・浄と見る凡夫見。「三毒」とは、貪・瞋・痴。「造次顛沛(てんぱい)」とは、ごくわずかの間。

「かくの如く云ふ輩、大宋国に稲麻竹葦の如く、朝野に遍満せり。しかあれども、このともがら、たれ人の児孫と云ふこと明らかならず、おほよそ仏祖の道を知らざるなり。たとひ諸仏の所証となるとも、山河大地たちまちに凡夫の所見なかるべきにあらず、諸仏の所証となる道理を習はず、聞かざるなり」

 このように、「自然見=仏法」と云う外道的な物言いの人間は、「稲麻竹葦」つまり稲や麻の実は無限大に近く多く、竹や葦は地面から湧き出す如く。の喩えでありますが、道元在宋時には、このように荘子の説く無為自然的な考え方が相当に流布した状況が、道元には目に余るものだったのであろう。

「なんぢ微塵を見るは法界を見るに等しと云ふ、民の王に等しと謂はんが如し。また何ぞ法界を見て微塵に等しと謂はざる。もしこの輩の所見を仏祖の大道とせば、諸仏出世すべからず、祖師出現すべからず、衆生得道すべからざるなり。たとひ生即無生と体達すとも、この道理にあらず」

 「微塵」→「法界」〇、「法界」→「微塵」×、このように不可逆的な偏頗な見方からは、和光同塵的な順応性は得られず、たとえ「生即無生」と体得しても、「無生即生」をも体達しなければ、仏法の見方ではないのである。

「真諦三蔵云、振旦有二福、一無羅刹、二無外道」(『摩訶止観』十上(「大正蔵」四六・四四〇a一〇)+(『止観輔行伝弘決』十之二(「大正蔵」四六・四四〇a一一)による合成語となるが、原文の一部を列記す。

真諦三蔵、震旦国有二種福云々」(「摩訶止観」)+「故云不入小賢中耳、震旦有二福者、一無羅刹、二無外道」(「止観輔行伝弘決」)。

「真諦三蔵(499―569)」に関しては、西インド優禅尼国の人で、梁の武帝に招かれ、大同十二年(546)に中国に渡り、「金光明経・起信論・摂大乗論・倶舎釈論など278巻を訳出した僧である(水野弥穂子校注「正法眼蔵」四、362頁参照)。

「この言、まことに西国の外道婆羅門の伝来せるなく、得道の外道なしと云ふとも、外道の見おこす輩なかるべきにあらず。羅刹は未だ見えず、外道の流類は無きにあらず。小国辺地のゆゑに、中印度の如くにあらざることは、仏法をわづかに修習すと云へども、印度の如くに証を取れるなし」

 此処での「真諦」はインド僧ではありますが学僧であり、バラモン僧ではないことから、このような解説に成ったことなのであろう。「振旦」には外道無し、とは記すものの、何処でも何時でも「外道の流類」は在るもので、此処にても西国(中印度)は勝れ、「振旦」は劣れりの論述で、印度での「証」は中国では獲得できず。との論法は、現代の思考法からすれば、少なからずの差別が存するようである。

古徳云、今時多有還俗之者、畏憚王役、入外道中。偸仏法義、竊解荘老、遂成混雑、迷惑初心孰正孰邪。是為発得韋陀法之見也」(『摩訶止観』十上(「大正蔵」四六・一三四b一四、―部「古徳云」は原無し、―部「之見」は原なし)<古徳云く、今時多くの還俗の者有り、王役を畏(おそ)れ憚(はばか)りて、外道の中に入る。仏法の義を偸(ぬす)み、竊(ひそ)かに荘老を解して、遂に混雑を成し、初心孰(いづ)れか正、孰れか邪なるを迷惑す。是れ韋陀の法を発得する見と為す也>

「知るべし、仏法と荘老と、いづれか正、いづれか邪を知らず、混雑するは初心の輩なり、今の智円正受等これなり。ただ愚昧の甚しきのみにあらず、稽古なき至り、顕然なり、炳焉なり。近日宋朝の僧徒、一人としても、孔老は仏法に及ばずと知れる輩なし。名を仏祖の児孫に語(かれ)る輩、稲麻竹葦の如く、九州の山野に満てりと云ふとも、孔老の外に仏法勝れ出でたりと曉了せる一人半人あるべからず」

 「今時多くの還俗の者有り」の時代背景としては、廃仏毀釈の影響で還俗者が最も大規模な弾圧として、武宗皇帝(在位840―846)による「会昌の破仏(842)」が有名であり、日本人僧として遭遇した円仁(794―864)による『入唐求法巡礼行記』(838―847)には、その当時の社会情勢が詳細に記される。

 此処でも「三教一致論者」として、先ほどの普灯録編纂者の「智円・正受」が矢面に立たされるが、いつの時代でも必ず、このような悪徳を演ずる人物が居るものである。特に道元在宋の嘉定・宝慶の頃には、仏法が孔子老子の思想よりも優位性を説く学人が「一人半人」も居なかったのかは、当時の大陸に住した禅匠に問い質したいものである。

「ひとり先師天童古仏のみ、仏法と孔老と一つにあらずと曉了せり。昼夜に施設せり。経論師、また講者の名あれども、仏法はるかに孔老の辺を勝出せりと曉了せるなし。近代一百年来の講者、多く参学学道の輩の儀を学び、その解会を偸まんとす、もとも誤れりと云ふべし」

 「先師天童古仏」とは、道元の敬愛・敬慕する長翁如浄(1162―1227)ではあるが、『如浄語録』嘉定三年(1210)十月五日、江蘇省建康府清凉寺での晋山式の法語では「師至法座前―中略―瞿曇頂骨夫子眼睛、両彩一賽玉振金声」と、公的な立場での決意表明であります。「瞿曇」とは釈尊、「夫子」とは孔子を指し、仏教を頂骨に、儒教を眼睛に喩える論述である。「両彩」とは、二つのサイコロの数が共に同数に成ることを、「一賽」と称えることから、儒教と仏教の同等性を、入寺式での宣言とする。

 いま一つは同じ「清凉寺」での退院近くの上堂(嘉定八年(1215)三月頃か)では、「璨禅客至上堂、金剛宝剣入紅爐。煆出楊岐三脚驢。到処沙場鏖死戦。髑髏交血糢糊」との、禅客をもてなす上堂ではありますが、「璨禅客」とは無文道璨(―1271)を指し、道璨の師は笑翁妙堪(1177―1248)となり、妙堪の師は無用浄全(1137―1207)であるが、浄全の師は大慧宗杲(1089―1163)となる系譜は楊岐方会(992―1049)から始まる楊岐派に属する。また「三脚驢」とは、儒教

仏教・道教を示唆し、鼎(かなえ)の三教一致論に喩う。

 また『楊岐方会語録』にては、先ほどの「三脚驢」の公案が「問楊岐、如何是仏。岐云、三脚驢子弄蹄行。三脚驢子弄蹄行、奉報諸人著眼睛。草裏見他須喪命、只縁踏最分明」(「続蔵」六八・四〇六a一〇)として、圜悟克勤(1063―1135)・大慧宗杲と代々継承される公案として充分に承知の上で、如浄は無文道璨を客人として讃え、同時に「三教一致」を説く態度は、官寺(国営)に住持として入山するには、当時の皇帝による宗教政策にも通暁していたからこそ、自身の思いとは裏腹かも知れぬが、「三教一致」の論説が必須要件であったのだろうと、推察する次第である。

 以上のように、如浄には「三教一致」は認めても、「仏法と孔老と一つにあらずと曉了せり」とは、道元個人の希望であろう。あるいは道元が如浄から直接に「三教不一致」を伝言された可能性が無いとは言えないが、『宝慶記』にても、そのような(三教不一致論)記載は無いことから推察しても、ここで示された「先師天童古仏のみ、仏法と孔老と一つにあらず」の言行には、疑念を持たざる得ない状況を説明した。 

孔子書有生知、仏教無生知。仏法有舎利之説、孔老不知舎利之有無」<孔子の書には生知が有り、仏教には生知は無し。仏法には舎利の説が有り、孔老は舎利の有無は知らず>

 この文言の出典籍は不明。

「ひとつにして混雑せんと思ふとも、広説の通塞、つひに不得ならん」

 儒教と仏教との比較を論じ説くものですが、この論法で以て優劣を導くには聊か尚早との声も聞こえそうである。

論語云、生而知之上()、学而知之者次()、困而学之、又其次也。困而不学、民斯為下矣」(『論語』」「李氏第十六」、―部「論語」は原「孔子」、―部「也」は原あり)<論語に云く、生まれながらにして之を知るは上なり、学んで之を知る者は次なり、困して之を学ぶは、又其の次也。困して学せざるは、民にして斯れを下と為す矣>

「もし生知あらば無因の咎あり、仏法には無因の説なし。四禅比丘は臨命終の時、忽ちに謗仏の罪に堕す。仏法をもて孔老の教に等しと思はん、一生中より謗仏の罪深かるべし。学者早く孔老と仏法と一致なりと邪計する解を投げ捨つべし。この見蓄はへて捨てずは、つひに悪趣に落つべし」

 「無因」とは、原因が無いにも関わらず、生れながらに知り得る。とは、因果の法に反する理法を云い、それ故に儒教では「無因の咎」が生じる、と説く。

 ですから、仏法を学ぶ者が、孔老の教えと同等視するような学人は、一刻も早く儒教道教の教えを放棄しなければ、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に堕罪す、と説く。

「学者明らかに知るべし、孔老は三世の法を知らず、因果の道理を知らず、一洲の安立を知らず、謂はんや四洲の安立を知らんや。六天の事なほ知らず、謂はんや三界九地の法を知らんや。小千界知らず、中千界知るべからず。三千大千世界を見ること有らんや、知ること有らんや。振旦一国なほ小臣にして帝位に登らず、三千大千世界に王たる如来に比すべからず」

 此処では、先ほどの包括的な仏道と孔老の違いから一転して、具体事例で以て「孔老」の非が説かれ列記する。➀「三世」を知らず➁「因果」の道理を知らず➂「一洲」の安立を知らず➃「四洲」の安立を知らず。四洲とは南閻浮洲・西牛貨洲・東勝身洲・北俱盧洲を指す⑤「六天」を知らず。六天とは四天王天・三十三天・夜摩天兜率天・化自在天・他化自在天を指す➅「三界九地」を知らず。三界とは欲界・色界・無色界を指す・九地とは五種雑居地・離生喜楽地(色界の初禅天)・定生喜楽地(二禅天)・離生妙楽地(三禅天)・捨念清浄地(四禅天)・空無辺処地(無色界の第一天)・識無辺処地(第二天)・無所有処地(第三天)・非想非非想処地(第四天)を指す(水野弥穂子校注『正法眼蔵』四365頁を参考)。⑦「小千界」を知らず。小千界とは、千の日、千の月・千の閻浮提・千の瞿陀尼・千の欝怛羅越・千の弗婆提・千の須弥山・千の四天王天処・千の三十三天・千の夜摩天・千の兜率陀天・千の大梵天、これらを総体して千世界とする(水野弥穂子校注『正法眼蔵』四496頁を参照)。⑧「中千界」を知らず。中千界とは、小千界の千倍を指す。⑨「三千大千世界」を知らず。三千大千世界とは、中千界の千倍を指す。

 このように、仏法の孔老に勝りたる事例を挙げ、振旦(孔老)と印度(仏法)との差違を説く。

如来は梵王・帝釈・転輪聖王等、昼夜に恭敬侍衛し、恒時に説法を請じたてまつる。孔老かくの如くの徳なし、只これ流転の凡夫なり。未だ出離解脱の道を知らず。如何でか如来の如く諸法実相を究尽すること有らん。もし未だ究尽せずは、何によりてか世尊に等しとせん。孔老内徳なし、外用なし、世尊に及ぶべからず、三教一致の邪説を吐かんや」

 次いで仏法の優位を、侍従する眷属(帝釈・転輪聖王)等に求めるものですが、この「侍衛」自体が、一種の神話を文字化したような表象態でありますから、このような比較法は生産的では無いような感じを得るが、いま問題としている「三教一致」の論議は、主に仏教側からのアプローチであり、却って孔老側からの主導では無い処に、この問題の核心が潜んでいるような気がする。

「孔老、世界の有辺際無辺際を通達すべからず。広を知らず、見ず、大を知らず、見ざるのみにあらず、極微色を見ず、刹那量を知るべからず。世尊明らかに極微色を見、刹那量を知らせ給ふ。如何にしてか孔老に等しめ奉らん」

 同じ論調による仏法の優位を説くもので、孔老は有辺無辺際、広大を識得せず、また諸色を分析して一極微に至る「極微色」を見ず、極小に及ぶ「刹那量」を知る由も無いが、世尊に至っては「極微色や刹那量」を認得するは、日常の茶飯と説く。

「孔老荘恵子等は、只これ凡夫なり。なほ小乗の須陀洹に及ぶべからず。如何に謂はんや第二、第三、第四阿羅漢に及ばんや。しかあるを、學者暗きによりて諸仏に等しむる、迷中深迷なり。孔老は三世を知らず、多劫を知らざるのみにあらず、一念知るべからず、一心知るべからず。なほ日月天に比すべからず、四大王衆天に及ぶべからざるなり。世尊に比するは、世間出世間に迷惑せるなり」

 此処に来て「恵子」が加わるが、改めて「孔・老・荘子」ならびに「恵子」を示すと、「孔子(前552―前479)」は春秋時代の哲学者で、儒家の始位。氏は孔、諱は丘、字は仲尼で、孔夫子とも称する。「老子(前571―前471)」は道教の開祖として知られ、孔子同様に春秋時代諸子百家の一人である。「荘子(前369―前286)」は戦国時代の思想家で、道教の始祖の一人。姓は荘、名は周、特に「胡蝶の夢」での無為自然、一切斉同の思想が特徴的である。「恵子(前370―前310)」は戦国時代の政治家で、荘子の友人であるから道教を信奉し、恵施とも記す(ウイキペディア参照)。と、四人の略歴を記した。後文では、従来からの孔老への二項分立的批判となる。

 

   五

 列傳云、喜爲周大夫善星象。因見異気、而東迎之、果得老子。請著書五千有言。喜亦自著書九篇。名關令子。準化胡經。老過關西、喜欲從聃求去。聃云、若欲志心求去、當將父母等七人頭來、乃可得去。喜乃從教、七頭皆變豬頭。

 古徳云、然俗典孝儒尚尊木像、老聃設化、令喜害親。如來教門大慈爲本、如何老氏逆爲化原

 むかしは老聃をもて世尊にひとしむる邪儻あり、いまは孔老ともに世尊にひとしといふ愚侶あり、あはれまざらめやは。孔老なほ轉輪聖王の十善をもて世間を化するにおよぶべからず。三皇五帝、いかでか金銀銅鐵諸輪王の七寶千子具足して、あるいは四天下を化し、あるいは三千界を領ぜるにおよばん。孔子はいまだこれにも比すべからず。過現當來の諸佛諸祖、ともに孝順父母師僧三寶、病人等を供養ずるを化原とせり。害親を化原とせる、いまだむかしよりあらざるところなり。

 しかあればすなはち、老聃と佛法ひとつにあらず。父母を殺害するは、かならず順次生業にして泥梨に墮すること必定なり。たとひ老聃みだりに虚無を談ずとも、父母を害せんもの、生報まぬかれざらん

 傳燈録云、二祖毎歎曰、孔老之教、禮術風規、莊易之書、未盡妙理。近聞達磨大士、住止少林。至人不遠、當造玄境。

 いまのともがら、あきらかに信ずべし、佛法の振旦に正傳せることは、たゞひとへに二祖の參學力なり。初祖たとひ西來せりとも、二祖をえずは佛法つたはれざらん。二祖もし佛法をつたへずは、東地いまに佛法なからん。おほよそ二祖は餘輩に群すべからず。

 傳燈録云、僧神光者、曠達之士也。久居伊洛、博覧群書、善談玄理。

 むかし二祖の群書を博覧すると、いまの人の書巻をみると、はるかにことなるべし。得法傳衣ののちも、むかしわれ孔老之教、禮術風規とおもふしは誤りなりとしめすことばなし。しるべし、二祖すでに孔老は佛法にあらずと通達せり。いまの遠孫、なにとしてか祖父に違背して佛法と一致なりといふや。まさにしるべし、これ邪説なり。二祖の遠孫にあらずは、正受等が説、たれかもちゐん。二祖の兒孫たるべくは、三教一致といふことなかれ。

 如來在世有外道、名論力。自謂論議無與等者、其力最大。故云論力。受五百梨昌募、撰五百明難、來難世尊。來至佛所、而問佛云、爲一究竟道、爲衆多究竟道。佛言、唯一究竟道。論力云、我等諸師、各説有究竟道。以外道中、各々自謂是、毀訾佗人法、互相是非故、有多道。世尊其時、已化鹿頭、成無學果、在佛邊立。佛問論力、衆多道中、誰爲第一。論力云、鹿頭第一。佛言、其若第一、云何捨其道、爲我弟子入我道中。論力見已慚愧低頭、歸依入道。是時佛説義品偈言、

  各々謂究竟 而各自愛著 各自是非彼 是皆非究竟

  是人入論衆 辯明義理時 各々相是非 勝負懷憂苦

  勝者墮憍坑 負者墮憂獄 是故有智者 不墮此二法

  論力汝當知 我諸弟子法 無虚亦無實 汝欲何所求

  汝欲壞我論 終已無此處 一切智難明 適足自毀壞

 いま世尊の金言かくのごとし。東土愚闇の衆生、みだりに佛教に違背して、佛道とひとしきみちありといふことなかれ。すなはち謗佛謗法となるべきなり。西天の鹿頭ならびに論力、乃至長爪梵志先尼梵志等は、博學のいたり、東土にむかしよりいまだなし、孔老さらに及ぶべからざるなり。これらみなみづからが道をすてて佛道に歸依す、いま孔老の俗人をもて佛法に比類せんは、きかんものもつみあるべし。いはんや阿羅漢辟支佛も、みなつひに菩薩となる。一人としても小乘にしてをはるものなし。いかでかいまだ佛道にいらざる孔老を諸佛にひとしといはん。大邪見なるべし。

 おほよそ如來世尊、はるかに一切を超越しましますこと、すなはち諸佛如來、諸大菩薩、梵天帝釋、みなともにほめたてまつり、しりたてまつるところなり。西天二十八祖、唐土六祖、ともにしれるところなり。おほよそ參學力あるもの、みなともにしれり。いま澆運のともがら、宋朝愚闇のともがらの三教一致の狂言、用ゐるべからず、不學のいたりなり。

 

「列伝云、喜周大夫善星象。因見異気、而東迎之、果得老子。請著書五千有言。喜亦自著書九篇。名関令子。準化胡経。老過関西、喜欲従聃求去」(『止観輔行伝弘決』五之六(「大正蔵」四六・三二五b二一、―部「為」は原「謂」)<列伝に云く、喜は周の大夫と為して星象を善くす。因みに異気を見て、而して東に之を迎うるに、果して老子を得たり。請うて書五千有言を著す。喜も亦た自ら書九篇を著す。関令子と名づく。化胡経に準ず。老は関西に過(ゆ)かんとするに、喜は聃(たん)に従いて去(ゆ)くを求めんと欲(ねが)う>

「列伝」とは漢書列伝を指す。「喜」については、「尹喜(いんき)」の略で、「文始先生」とも「無上真人」とも称され、関令(関所の長官)であったとされる伝説上の人物である。『史記老子伝では、周(前1046―前256)の衰退を予知した老子は、その国を去るべく函谷関に至り、尹喜に『老子道徳経』を書き与えた、とする(『道教事典』山田利明編著より引載)。「星象」とは、星の上に現われた形により、運命を推算すること。「異気」とは、平常とは異なった気配を云う。「化胡経」とは老子化胡経であり、これは道家の対仏教論であり、老子が流沙を越えて西方に行き、仏となって西域諸国を教化した、と云う老子化胡説に起因するものである。

「聃云、若欲志心求去、当将父母等七人頭来、乃可得去」(「同」b二五)<聃云く、若し志心の去(ゆ)くを求めんと欲(おも)わば、当に父母等の七人の頭(こうべ)を将(も)ち来るべし、乃ち去くことを得べし>

「喜乃従教、七頭皆変(頭。古徳云、然俗典孝儒尚尊木像、老聃設化、令喜害親。如来教大慈為本、如何老氏逆為化原」(「同」b二六、―部「為」は原あり、―部「豬」は原「猪」、―部「古徳云」は原なし)<喜は乃ち教えに従うに、七頭は皆豬頭に変ず。古徳云く、然あるに俗典の孝儒は尚木像を尊ぶ、老聃は化を設けて、喜を令して親を害す。如来の教門は大慈を為本とす、如何が老氏の逆を化原と為す>

 「古徳」とは、原文である『止観輔行伝弘決』の著述者である荊渓湛然(711―782)を指す。言うまでもなく、此れは天台大師智顗(538―597)による『摩訶止観』に対する最古の注釈書である。「孝儒」とは、親孝行を重んずる童子を云う。「木像」とは、父母の木像を云う。「老聃」とは老子を指す。「逆」とは、親を殺す逆罪を指す。「化原」とは、化導の本原を云う。

「昔は老聃をもて世尊に等しむる邪儻あり、今は孔老ともに世尊に等しと云ふ愚侶あり、憐れまざらめやは。孔老なほ転輪聖王の十善をもて世間を化するに及ぶべからず。三皇五帝、いかでか金銀銅鉄諸輪王の七宝千子具足して、あるいは四天下を化し、あるいは三千界を領ぜるに及ばん」

 これは湛然の生きた唐代の前半期の社会状況を示しているようで、当初は老子を仏法と同等視し、後には孔子老子ともに仏道と同類視した「愚侶」とは、つまりは「四禅比丘」を謂わしめるもので、憐れむべき対象である。次いでの「孔老↔転輪聖王」「三皇五帝↔七宝千子」の比較論は、これまでの重言を繰り返すもの。

 「転輪聖王の七宝」の言は、『出家功徳』(「大正蔵」八二・二七九b一〇)にても説かれる処であり、「転輪聖王」に関しては、『阿毘達磨倶舎論』十二(「大正蔵」二九・六四b二五)にて詳論される。「十善」とは十善業道を云うもので、「不殺・不盗・不邪淫・不妄語・不両舌。不悪口・不綺語・不貪・不瞋・不邪見」による生活を指し、戒行の十善戒に該当する。「三皇五帝」については、第四段後半部に登場したが、つまりは神話内に出現させた想像上の概念である。謂うなれば禅宗での過去仏・神道上では天孫降臨的な表現法に比定できよう。

「七宝千子具足」に関しては、『四分律』三十一分之十にて「七宝者、一輪宝・二象宝・三馬宝・四珠宝・五玉女宝・六主蔵臣宝・七曲兵宝。有千子満足雄孟勇健」(「大正蔵」二二・七七九b一七)と記載され、先述の『出家功徳』にも聯関する。「四天下・三千界」に関しては、第四段後半部にて「四洲」ならびに「三千大千世界」として言及するを参照されたい。

孔子は未だこれにも比すべからず。過現当来の諸仏諸祖、ともに孝順父母師僧三宝、病人等を供養ずるを化原とせり。害親を化原とせる、未だ昔よりあらざる処なり。しかあれば即ち、老聃と仏法ひとつにあらず。父母を殺害するは、必ず順次生業にして泥梨に堕すること必定なり。たとひ老聃妄りに虚無を談ずとも、父母を害せん者、生報免かれざらん」

 此処で特筆すべきは、「孝順父母師僧三宝、病人等を供養」の出典は、『梵網経』十下に於ける「爾時釈迦牟尼仏、初坐菩提樹下成無上覚、初結菩薩波羅提木叉。孝順父母師僧三宝」(「大正蔵」二四・一〇〇四a二四)+『同経』「若仏子、見一切疾病人。常応供養如仏無異」(「同」一〇〇五c八)による合楺であろうが、さり気なく文中に「梵網経文」を差し入れる手法は、この経文の原文ならびに訓読文が、道元の頭上から流れ込んだかの文章には驚くほかない。

伝灯録云、二祖毎歎曰、孔老之教、礼術風規、荘易之書、未尽妙理。近聞達磨大士、住止少林。至人不、当造玄境」(『景徳伝灯録』三(「大正蔵」五一・二一九b六、―部「伝灯録・・」は原なし、―部「遠」は原「遥」)<伝灯録に云く、二祖は毎(つね)に歎じて曰く、孔老の教えは、礼術風規なり、荘易の書は、未だ妙理を尽さず。近く聞くに達磨大士は、少林に住止せり。至人遠からず、当に玄境に造(いた)るべし>

 「二祖」とは、菩提達磨(―536)を嗣ぐ神光慧可(487―593)を云う。「礼術風規」の「礼術」は国家社会の制度を指し、「風規」は風習上のきまり。「荘易」とは、荘子易経を云う。

「いまの輩、明らかに信ずべし、仏法の振旦に正伝せることは、只ひとへに二祖の参学力なり。初祖たとひ西来せりとも、二祖を得ずは仏法伝はれざらん。二祖もし仏法を伝へずは、東地いまに仏法なからん。おほよそ二祖は余輩に群すべからず」

 これは「菩提達磨」章からの引用となるが、一般的に言われる例言としては、高名な名僧と云われるには、その弟子による功績つまり語録の編纂等による後代への継承が、大きな重責であり責務なのであります。最も身近な譬えとしては、釈尊の言行を普遍化し文字化したのは、入滅後の第一結集に於ける摩訶迦葉(マハーカーシャパ)・阿難(アーナンダ)・優波離(ウパーリ)等の弟子たちが、発意を以て「如是我聞(ekam samayam)」と称する経文を遂行した御蔭で、後世の我々にも釈尊の所行が理解し得るものとなる。

 いま一つ、道元に関する著作としては、七十五巻に及ぶ『正法眼蔵』各巻に亙る、禅哲学の真髄とも称すべき著物の原本と呼ばれるものは、わづかに現存するのみで、伝来したものは、道元から託された直弟子の孤雲懐奘(1198―1280)による書写本が代々書き続けられた結果として、世界の道元としての位置づけを与えられた素因は、拈提文の如く「只ひとへに二祖の参学力なり」が、この道元にも適合される。

伝灯録云、僧神光者、曠達之士也。久居伊洛、博覧群書、善談玄理」(「同」b五、―部「伝灯録云」は原なし)<伝灯録に云く、僧の神光は、曠達之士也。久しく伊洛に居して、群書を博覧し、善く玄理を談ず>

「神光」とは二祖慧可を指す。「曠達」とは、心が広々として物事に通達する様態を云う。「伊洛」とは、伊水(河南省洛陽の南を流れる川)と洛水(洛陽の南を通り、黄河に注ぐ川)との中間地帯を指し、孔子と其の弟子が集まった所とも云う。

因みに『行持』下にては、「真丹第二祖大祖正宗普覚大師は、神鬼ともに嚮慕す、道俗同じく尊重せし高徳の祖なり、曠達の士なり伊洛に久居して群書を博覧す。国の稀なりとする処、人の会い難きなり」(「大正蔵」八二・一三八b一九)と、同じ『景徳伝灯録』を底本に訓読文にて「二祖慧可」を読み解かれる。

「むかし二祖の群書を博覧すると、今の人の書巻を見ると、はるかに異なるべし。得法伝衣の後も、昔われ孔老之教、礼術風規と思ふしは誤りなりと示す言葉なし。知るべし、二祖すでに孔老は仏法にあらずと通達せり。今の遠孫、何としてか祖父に違背して仏法と一致なりと云ふや。まさに知るべし、これ邪説なり。二祖の遠孫にあらずは、正受等が説、たれか用ゐん。二祖の児孫たるべくは、三教一致と云ふことなかれ」

 此処での解釈には、これまで述べてきた『深信因果』での永嘉玄覚・宏智正覚や『三時業』での長沙景岑などと比べても、二祖の「群書博覧」は良しとし、而今の学人の読書博識は悪し。との言辞は、贔屓目もしくは寸度ありとの疑念が生じても仕方あるまい。

 この話題そのものは、達磨との相見以前であるから、仏教を擁護する必然性はない訳であるから、「得法伝衣の後」の言葉は適切ではなく、また「孔老之教・礼術風規と思ふしは誤りなりと示す言葉なし」との拈語は、附言するまでもない事である。

如来在世有外道、名論力。自謂論議無与等者、其力最大。故云論力。受五百梨昌募、撰五百明難、来難世尊。来至仏所、而問仏云、為一究竟道、為衆多究竟道」(『止観輔行伝弘決』十之二、―部「如来在世」は原「大論云」)<如来在世に外道有り、論力と名づく。自ら論議与(とも)に等しき者無く、其の力最大なりと謂(おも)えり。故に論力と云う。五百梨昌の募を受けて、五百の明難を撰じ、来りて世尊と難ず。仏の所に来至して、仏に問うて云く、一究竟道と為し、衆多究竟道と為す>

 「梨昌」とは、リッチャビの音写語で、インド毘舎離国の種族名であり、離舎とも離昌とも記す。「明難」とは、難問を解明すること。

「仏言、唯一究竟道。論力云、我等諸師、各説有究竟道。以外道中、各々自謂是、毀訾他人法、互相是非故、有多道」(「同」b九)<仏言く、唯一の究竟道。論力云く、我等が諸師は、各(おのおの)究竟道有りと説く。外道の中に、各々自ら是なりと謂(おも)いて、他人の法を毀訾して、互いに相い是非するを以ての故に、多道有り>

「世尊其時、已化鹿頭、成無学果、在仏辺立。仏問論力、衆多道中、誰為第一。論力云、鹿頭第一。仏言、其若第一、云何捨其道、為我弟子入我道中。論力見已慚愧低頭、帰依入道」(「同」b一一)<世尊は其の時、已に鹿頭(ろくづ)を化して、無学果を成ぜしめて、仏の辺りに在りて立てり。仏は論力に問う、衆多の道の中に、誰をか第一と為す。論力云く、鹿頭第一なり。仏言く、其れ若し第一にならんには、云何ぞ其の道を捨てて、我が弟子と為りて我が道の中に入るや。論力は見已りて慚愧し低頭して、帰依し入道す>

 「無学果」とは、阿羅漢果を指す。

「是時仏説義品偈、各々謂究竟、而各自愛著、各自是非彼、是皆非究竟。是人入論衆、辯明義理時、各々相是非、勝負懐憂。勝者堕憍坑、負者堕憂獄、是故有智者、不堕此二法。論力汝当知、我諸弟子法、無虚亦無実、汝欲何所求。汝欲壞我論、終已無此処、一切智難、適足自毀壞」(『大智度論』十八(「大正蔵」二五・一九三b一九、―部「言」は原なし、―部「苦」は原「喜」、―部「明」は原「勝」)<是時仏説義品偈に言く、各々究竟なりと謂(おも)いて、而も各(おのおの)自ら愛著し、各自ら是とし彼を非なりとす、是れ皆な究竟に非ず。是の人は論衆に入りて、義理を辯明する時、各々相い是非し、勝負して憂苦を懐(いだ)く。勝者は憍坑に堕し、負者は憂獄に堕す、是の故に有智の者は、此の二法には堕せず。論力汝は当に知るべし、我が諸の弟子の法は、虚も無く亦た実も無し、汝は何(いづ)れの所をか求めんと欲(おも)う。汝は我が論を壞せんと欲わば、終(つい)に已に此の処(ことわり)無し、一切智も明らめ難し、適(たまたま)自ら毀壞するに足らん>

「いま世尊の金言かくの如し。東土愚闇の衆生、乱りに仏教に違背して、仏道と等しき道ありと云ふことなかれ。即ち謗仏謗法となるべきなり。西天の鹿頭ならびに論力、乃至長爪梵志先尼梵志等は、博学の至り、東土に昔より未だなし、孔老さらに及ぶべからざるなり。これら皆みづからが道を捨てて仏道に帰依す、いま孔老の俗人をもて仏法に比類せんは、聞かん者も罪あるべし。謂はんや阿羅漢辟支仏も、皆つひに菩薩となる。一人としても小乗にして終はる者なし。如何でか未だ仏道に入らざる孔老を諸仏に等しと云はん。大邪見なるべし」

 「長爪梵志(Dirghamakha)」とは、舎利弗(Sariputra)の叔父である俱稀羅(Kausthila)を指すが、出家して頭陀を行ずる梵志となり、バラモン教の十八種経典の十八大経を読み尽すまでは爪を剪らなかった事情から、世人は長爪梵志と名づけ敬い、後には舎利弗に導かれ釈尊に帰依し、問答第一と称される仏弟子となる。

 「先尼梵志」に関しても、右に示した長爪梵志・鹿頭・論力と同じく、釈尊在世当時の著名な哲学・思想家(外道)である。これらは『大智度論』一(「大正蔵」二五・六b一六)に示さる。

「おほよそ如来世尊、はるかに一切を超越しましますこと、即ち諸仏如来、諸大菩薩、梵天帝釈、皆ともに褒め奉り、知り奉る所なり。西天二十八祖、唐土六祖、共に知れる所なり。おほよそ参学力あるもの、皆ともに知れり。いま澆運の輩、宋朝愚闇の輩の三教一致の狂言、用ゐるべからず、不学の至りなり。」

 これにて「当巻」の締め括りとなるが、標題の如く「四禅比丘」と云う驕慢者と、「三教一致」を唱える無聞者との不是を説く提唱であった。「三教一致」に関しては、「普灯録」の撰者である雪庵正受を筆頭に、主に孔老の方面から「三教一致」の不具合を唱え、「当巻」終りに至り「宋朝愚闇の狂言」とは、相当に手厳しい表現を以てしても、道元には堪忍できぬ、相入れ難き、迎合主義者であったのであろう。

(終)

井筒俊彦氏論文に『東洋思想』の論考あり。コトバに関するインド・中国、殊に老荘思想に関し、卓越なる示唆を与えると思われる為に参照されたい。

https://blog.hatena.ne.jp/nitani3246/karnacitta.hatenablog.jp/edit?entry=820878482961859822

 

 

2023年8月2日、タイ仏暦2566、カオパンサー(入安居日)にて擱筆。昨日はアサラブーチャー(三宝節)

カンチャナブリ県 ゲストハウスにて記す