正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

法界の論理的考察 酒井得元

法界の論理的考察 酒井得元

論理は思索の軌道である。論理に導かれて思索進むのか、それとも思索が論理を生むのか、その邊のことを考えるのは徒勢である。何故ならば、思索は論理を媒介としなければあり得ないが同時に、その思索が論理を生む。故に思索と論理とは別物でないが、同一ではない。結局、これは生活形成途上の必然的生活現象である。故にその形成は獨特の論理を生み各人各様のものがあるのも不思議はない。即ち論理はこの意味において形成的である以前に個性的である。思索が生きものであると同様に論理も生きものでなければならない。故に形式化され固定化されたものは、論理式ではあつても、嚴密な意味においては論理ではない。

然らばここで佛教者にも、それ自身の論理が個性的に存在していなければならない。これが個性的であるが故に、種々雑多のものがあるのも當然である。これを一々取り上げて考察することは非常に意味あることではあるにしても、余りにも困難なことである。然し、大乗佛教者のそれらの中には一貫したあるものがあることは、誰しも認めるに吝(やぶさ)かではないであろう。ここで私が採り上げようとする法界もそれで、これも斯様な意味に於いて重要な論理である。

つまりここで法界の意味性格を判明させることが大乗佛教の大乗たる所以の一端を明かにすることになる。『大乗起信論』の「心眞如者、即是一法界大総相法門體」(「大正蔵」三二・五七六上)とある言葉を手掛りに考察を進めることにする。ここでは「心眞如」の實態が法界の全體そのものである。そこで先ず「心眞如」という概念にぶつかる。一體、私達はこれを如何に理解したらよいのか。また「心」とは何かということに當面する。とにかく同じ『起信論』にその答えを求めることにする。「所言法者、謂衆生心。是心則攝、一切世間出世間法。依於此心顕示不摩詞衍義」(「同上」五七五下)にある「心」がこの解答になつている。即 ちここでは法は衆生心とある。この法の概念を考察して見なければならない。

古來、法は色々に解されてはいるが、結局、周知の通り軌持(『成唯識論』「大正蔵」三一・一上)ということになつている。今日の我々の常識は、これを「存在」といつた意味に解している。それならば、「存在が衆生心」といつた意味に無媒介になり得るものだろうか。一體、存在という揚合は、何がそれを存在と認めるのか、あるいは、それが別に認められなくても、存在は何處までも存在であり得るのか。存在ということは、単に「そこにおいてあるもの」といつたものではない、それは考えられたことで我々の現實を限定しているものとしての存在ではない。存在は我々の生活における必然的な條件でなければならない。即ちそれは「何々がそこにある」ということでなければならない。そしてその條件によつて生活は形成されるのである。その生活形成の必然的條件としての存在の役割は常に所縁の立揚にあるということである。即ちそれは意識關係にあるということである。故に意識關係にない存在などあり得ない。

存在は常に我々とは能所の關係にあり、如何なる揚合であつても所縁である以外にはあり得ない。また我々とても、能縁である以外はあり得ない。故にこの能所關係は絶對的で、如何ともなし得ないし、何物からも絶對に超越されることはない。ところが能所の關係にあつては主動的位置は常に能縁であると考えられている。そして所縁はいつでも能縁を中心としてあり得ていると考えられるのであり、この揚合には所縁は能縁に常に従属關係にあるということになる。こんな關係を「法は衆生心」といつたのであろうか。従属關係にあるならばその對立は絶對ではない。この對立は何處までも對立であり、一方は他を限定するものでなければならない。

然らば「心外無有物、物無心亦無、以解二無故、善住眞法界」(『大乗荘嚴経論』第二眞實品) (「大正蔵」三一・五九九上)と言われているのは一膿どうしたというのであろうか。こごで能縁、所縁の關係を追求し、私達は何故にこの關係をもたなければならないかを考えて見なければならない。

「不覚而起、能見能現、能取境界、起念相続」(「大正蔵」三二・五七七中)と『起信論』は言つているが、この「不覚而起」ということに問題の鍵がある。そこで不覚ということを當面の私達の問題としよう。この不覚は意識活動の発生の様相をいつている即ち、これが心生滅の様相であつた。これは我々が生命活動の可能性に催されてなし得ている生活々動である。即ちこの邊のニュアンスを不覚といつたのである。そしてこれを「依如來藏故有生滅心」(「同上」五七六中)といつている。つまり、これはこの心生滅は我々の本質的な問題であつた。言い換えればこれは我々の生命活動の様相であつたのである。即ちそれが「能見能現、能取境界」といつた活動であつたのである。かくて我々の能縁所縁の關係は生活々動の軌道であつた。生活を営む限りは、この将外であるというわけにはいかない。即ちそれが「依如來藏」であつたというのである。

ここで法藏が『大乗起信論義記』で「挙體動」(「大正蔵」四四・二五四下)と説明したとに注目したい。これによりて「依如來藏」の具體的な姿を知ることが出來ると同時に、如來藏そのものの相を現實に把握することが出來る。即ちこの「挙體動」は生命活動の實態であるからである。この挙體動はある意志的主體的なものがあつて、その意志するところに從つて動くというものであるならば、「挙體動」ではない。意志するものなくして、無始無終に動ずるのでなければならない、故に挙體動は生活活動ではない。故に生滅心ではない挙體動によつて生活々動が催されるところに生滅心が活動して能縁し所縁する。故に我々はこの「挙體動」を所縁とすることは出來ない。我々の意識生活は、かくて「不覚而起」つた能縁所縁關係の限界内の出來事に過ぎない。そしてこの能所の對立が生活するものには必然的なことではあつても、挙體動中の一駒であつたのである。能所の對立が必然的である限り、我々はこの對立を超えることは全く不可能事である。この絶對に超えることが出來ないところを「不如實知眞如法一故」(「大正蔵」三二・五七七上)と言い、そして生活々動の活動を「不覚心起(「同上」)と読明したのである。

斯様にして不覚而起り、「能見能現、能境界、起念相続」する我々の生命活動が、現實的には能縁所縁の生活關係を現出した。我々の自我の自覚もこの生活關係によつて生れたものであつた。その自我の自覚は主動的な能縁の側に立つてこそ、起り得たものである、斯様な自我を中心にしたものの考え方をするときに、依報正報といつた考え方も自然に起つて來たのである。然し、挙體動の本來の立揚にあつては、正依の差別もその一動に過ぎず、能所對立に於ての主動的なものはあり得ない。不覚にして起つて「不如實知眞如一」であるが故に對立し、自我の自覚によつて主動的立場に立つところに却つて能縁所縁の對立も到りする。もしここに主動的なものがないならば、この對立の自覚が起る余地はない。對立の自覚があるときは必然的に活動は目的的であり、意志的であつても、しからざる揚合はその對立は對立の自覚を伴わないばかりでなく無目的的である。一方、挙體動は何かを目的に持つものではないので、意欲的ではない。故にこれを無所得といい、無念無相といつた。かくては我々はこの挙體動への道を現實的に開くことが出來るのである。

我々の生活には行相のない動はない、そしてその行相は必ず形成的であり有目的的である。然もその行相は必ず所縁能縁の關係の上に形成されている。即ち對立の場に於て形成されている、その對立はそれ自體、有目的でも意志的でもなかつた、即ち對立そのものが挙體動につらなり、挙體動の場においてあつたのである。故にどんな形態も、どんな一動も、挙體のそれでなければならなかつた。能縁所縁はその場に於いてあるものであり、その對立關係は根源的な立揚にあつては絶對の顯現であつたのである。

此處に於いて、いつも所縁の立場にある存在というものを考えて見たい。この存在することは行相としてあるということである。即ちそれは所縁されているということである。この行相として、所縁されているということを「軌範、可生物解こ(『成唯識論述記』「大正蔵」四三・二三九下)といつている。更にそれが所縁されているということは、能縁と對立して、却つて能縁を限定する、これが「任持、不捨自性」(「同上」)であつたのである。また「法者是持自性義」(『佛地経論』「大正蔵」二六・三〇一中) ともいつているのもそれである。

かくて存在性ということが確立して、我々は物というものを把握するのである。古來の法の定義「軌持」に佛教者の透徹せる存在論を見ることも出來る。かく考えられる軌持としての法は能縁所縁の關係に於いての存在であり、これ以外には存在はあり得なかつた。即ち生活々動するところに存在はあり得たのである。存在によつて却つて我々の生活そのものが形成されるのである。即ち、それが行相であつたのである。

我々は法は「衆生心」と教えられているが、この衆生心を如何に考えたものか。「心性常無念、故名爲不變」(「大正蔵」三二・五七七下)と『起信論』で言うこの心は、衆生心の心と一體どうつなぐべきか。この心性の不變は『義記』によればこれを「雖挙體動、而本來静故云常無念」(「大正蔵」四四・二六七上)といつている。一方衆生心の概念を考察して見るに、『大乗起信論筆削記』(「大正蔵」四四・三二六上)に「衆生即能依、心即所依、所依體從能依、以彰名」とある。即ち衆生は心に依存するのであり、心は挙體動において不變であつた。ここでは能依所依の對立は對立ではない。衆生は挙體動の中に於いて生きている衆生であつたのである。これを『筆削記』が能依所依で説明したのである。かかる意味における衆生の所依の心こそ無念の心性であつたのである。能縁所縁の對立に生活する衆生にとつては彼等の所依である無念の心性は決して所縁となるものではない、また衆生を能縁することはない。この挙體動の無念の心性には能縁所縁の對立は存在しない。かくて「三界唯一心」の意味も理解されなければならない。

衆生心とは言つて見るならば、挙體動の實態であり、またこの挙體動が「無念の心性」の實態であつた。この無念の心性は決して能縁所縁となるものではないし、また存在以前の事實である。即ち、存在を存在せしめるものである。かくて衆生心法の因であり、界は因の意で此れを法界といつた。この法界が挙體動の心性であつた。然しかような心がただ存在以前であうて我々の観念上の結論であるならばそれを、本來寂静、無念無相というても観念の所造で あつて有念有相に堕在する。ただ事もなく現在ありえている事實こそ、却つて衆生心の實態にふれる。かく考察する時、「心外無有物、物無心亦無、以解二無故、善住眞法界」がものされ、法界の論理的究明は大乗佛教の論理核心にふれるものと言わなければならな

い。

 

「印度学仏教学研究 7(1), 123-126, 1958-12」より抜書(一部改変)

 

これは二谷がpdfからワード化したものであり、出典などはsat(「大正蔵テキストデータベース」)を援用したものであり、旧漢字と新漢字の混用など雑な作業になってしまい謝する次第である。 猶これは小拙の酒井先生に対する報(法)恩の一環である事を記す。