正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

佛性の性格  酒井得元

佛性の性格  酒井得元

成佛を最後的なものとする佛教者は、自己を窮極にまで掘下げ、成佛という事實に到達すべく努力するものである。そして成佛とは如何なるものかが、第一に與えられる課題であつた。それはやがて本來成佛の自覚にまで具體化され、遂に大乗教を完成するに至つたのである。即ち自己の究明は如來藏としての自己を発見し、本來自性清浄心の自覚に到達し、一切衆生悉有佛性、更に本來成佛の信仰を確立するに至つたのである。その根本契機をなすものが佛性という自覚であつた。故に起信論的表現を借りるならば、佛性の性格を明確にすることが、正信を成就し、正法に生きることを可能ならしめることなのである。故に我々は先ず佛性の性格を自己自身の問題において考察しなければならない。

佛性には存在論的性格はない。勿論事物ではあり得ない。故に佛性は我々が如何にしても指摘し得ない、経験以前の絶対であつて、然も全く我々の定義の言語的習慣を受付けない非概念的な自覚でなければならなかつたのである。この意味で無自覚の自覚と言わなければならない。故に我々はこれを不可思量、不可思議、不可得、といい、この非概念的な言葉に當惑させられるのである。我々の思惟は、具體的なものを、そのまま理解することが出來ない。抽象することによつてのみ、それへの足がかりを得ている。即ち、思惟は、何かを抽象することによつて成立する。そして思惟は言語的習慣によつて概念構成し、そこに安佳の地を得て、更に進んでその抽象の趣くところ、観念の世界がある。かかる過程は起信論の三細六麁の明確に教えるところである。然るに思惟の対象とはならない非概念的自畳である佛性は、もし思惟によつて求めるならばそれは抽象輪廻の世界の観念的所産となつてしまうのである。然し日常走りやすい抽象的追求を所謂る求道と考えるならば、それは観念的流轉輪廻でこそあれ、この輪廻の現實を超えた絶對への道は永遠に開かれないのである。故に佛性に關する限り、それを追求することにこそ問題の契機があらねばなぢない。即ち求道そのものに、佛性そのものの具現がなければならない。絶對であるが故に佛性は追求の終局に顯現するものではない。即ち絶對ということには、絡局ということはない。故に、一切衆生悉有佛性と言われる時の佛性は、悉有とも三切衆生とも言われなければならないのである(正法眼藏佛性参照)。我々の思惟の抽象は一般を求めることはない。如何に一般と考えられたとしても思惟の対象である限り、特種であることをまぬがれない。故に佛性は、一般であるということにおいて、我々の思惟を超えるのである。一般に對しては全く手掛りを許されない思惟的な我々には、佛性は自覚されないのである。故にさきに私はこれを無自覚の自覚といつた。故に、ここに佛道を學ぶことの根本的難点がある。然し、この難点こそ、眞實なものへの契機であつたのである。

我々はこの一般としての佛性に戸惑い、なすすべのないのは、佛性が一般としての無自覚の自覚であつたからである。「問、如何是祖師西來意。師云庭前柏樹子」(『趙州録』「続蔵」六八・七七下)の有名な趙州の話頭が古來の禅者のよき公案となつて來たのも、一般そのものとしての佛性の絶封性を極めて巧妙にフィクションせるものである。さりとは言え、この事態に當面する學佛者は、この如何とも処置することの出來ないアポリヤ(困惑・当惑)に撞着して絶體絶命しなければならない。この絶體絶命のところにこそ一般そのものとしての佛性の性格の顯現があるのである。

以上によりて、一應佛性そのものの方向を見定めては來たのであるが、更に一般としてのその性格それ自體に一歩進めて見たいと思う。そして、それが如何に表現されているか、『涅槃経』の中から拾つて見ることにする。

「佛性者、名爲第一義空、第一義空名爲智慧」「善男子、佛性者即是一切諸佛阿耨多羅三貌三菩提中道種子」「善男子、是観十二因縁智慧、即是阿耨多羅三貌三菩提種子。以是義故十二因縁名爲佛性」(「大正蔵」十二・五二四上)

これらによつて、一聯の概念を列べることが出來る。佛性、第一義空、智慧、中道種子、観十二因縁。この六語を考察するに、佛性という語を枢軸とした同義語であることに氣付かせられるのである。そして、ここに佛性の性格が明示されているように思われる。ここで私は十二因縁を先ず最初に考えて見ることにする。この場合、十二因縁は、因縁一般と考えなければならない。十二因縁は、通常、我々には、現實構造の自覚と考られているようであるが、嚴密に因縁一般という立揚からするならば、この現實構造の自覚ということは成立しない。何故ならば、これも因縁であるからである。然らば、「観十二因縁」ということは一體如何なることであろうか、永遠の疑問とならなければならない。元來、十二因縁することそれ自體が因縁であり、観照することも因縁であつてみれば、観照 される因縁というものは存在しない。從つて十二因縁ということ、嚴密に言うならば、因縁が因縁自身を因縁していると言わなければならない。即ち、何と自覚して見ても、因縁であるより外にはあり得ない我々だつたのである。因縁が因縁を自覚して見ても因縁である以上、因縁を観照することはあり得ない、因縁は自己自身を対象とすることもあり得ない。故に因縁それ自體の自覚ということは成立しないのである。

因縁において、例え、主體的なものを考え得たとしても、それとても因縁に過ぎない。そして、結局、その主體というものも因縁の主體ではなく、それは我々の思惟的抽象の結果であつた。たとえ、我々の概念的安住がそこにあり得ても、それぱ因縁の一駒である。故に因縁そのものは思惟を超えたものでなければならない、故に古佛者が不可得、不可思量といつたその語感に、その性格が味到せられるのである。

十二因縁を自覚し得ても、それは因縁されたものであつて、観ぜられる十二因縁というものはなかつた。然らば如何にして「観十二因縁」ということがあり得るであろうか。とにかく我々は因縁の特種を超えなければ一般の大生命に生きることはあり得ないのである。然るに、この因縁の特種の循環の中に流轉する我々である。故に、『涅槃経』ではこれを「一切衆生不能見、十二因縁是故輪轉」(「大正蔵」十二・五二四上) といつている。然らば我々は精神的に安住するところを喪失してしまわなければならないのか。上來考察し來つた如く因縁は凡ゆるものの原理であるが、思惟をもつては、全く取りつく島のない絶對であつた。思惟以前の思惟を超えたこの絶對に戸惑い、我々は絶體絶望せざるを得ない。即ち、我々は、全く超絶した絶體の断崖に逢着するのである。そしてこの断崖に道を通ずるのでなければ、特種を超えて一般に生きる道は存在しないのである。ここで、一般と私が指摘して來たものを、往古の禅者の「平常心是道」「無事是貴人」「佛是無事凡夫」等々によつて具體的に表現し來つたことを、想起しなければならない。

「眼前の法さらに通路あるべからずと倉卒なるは佛學にあらざるなり」(『正法眼藏』「坐禅箴」) と道元禅師は言われたが、この絶對の不可得という實態に、即ち思惟を棚上げした處に、道を通ずるものが佛道であつたのである。この不可得は一般それ自體のあり方なのである。もし可得であるならば、それは一般ではなく、特種として、我々に對象するものとして、特種でなければならない。然らば不可得とは如何なる實態であるのであるのか。如何にしても受取り得ないものなるが故の不可得であつたことは繰返すまでもあるまい。結局、ここには第三者的傍観の立揚は勿論あつてはならないし、全く相對することがあつてもならない。然らば、具體的にそんなことがあり得るであろうか。此處で想起することは、「親きものは問はず」(『圜悟語録』「大正蔵」四七・七九九下)の古禅語の眞實である。不可得に「倉卒ならざる」時、更に、思惟、意慾的なものを忘れ去つたときこそ却つて不可得は不可得として顯現するのである。

常に可得の特殊に生死する一切衆生は、不可得の一般にあるに拘らず、蠶(かいこ)の繭(まゆ)の中に終始するが如く、自造結業の中に流轉生死するのである。この一切衆生の實態を「善男子、如蠶作繭生自死、一切衆生亦後如是。不見佛性、故自造結業流轉生死、猶如拍毬」(『涅槃経』「大正蔵」十二・五二四上))と指摘し、これを不見佛性と言つたのである。

思惟の特殊の立揚にある我々は、不可得の絶體絶命の事態に當面し、あらゆる努力にも拘らず、特殊に終始して、因縁の奔流に輪廻すること以外には何物でもなかつた。却つて作爲を放下した無目的、無所得、無所悟に行ずる時、見佛性として佛性は顯現する。故に見佛性は、行道であり、その行道が成佛でなければならない。ここに「佛性の道理は、佛性は成佛よりさきに具足せるにあらず成佛よりのちに具足するなり。佛性かならず成佛と同参するなり。」(『正法眼藏』「佛性」) の道元禅師の言葉の淵源に想到するのである。ここに聯も有目的的なものの一片なりとも介在するならば、はや因縁の特殊の奔流に輪轉しなければならないのである。

不可得の立揚において、観十二因縁と いう事實が現成する。これは論理の飛躍ではない。言語的習慣を超えた眞實である。観とは十二因縁を所對として能観することではない、十二因縁を超えることである。この超えることを無念と教えられるのである。この無念は、『大乗起信論』で「心起者無有、初相可知、而言知初相者、即謂無念」(「大正蔵」三二・五七六中)といい、この無念の時に、心相の生住異滅を知ると教えているのを考え合せねばならぬ。即ち、知ることのあり得ないのに、知るという無念。然もこの無念にして心相の生住異減を知る。この認識を飛躍した佛者の知るということは認識の内のことでないことを銘記せねばならない。

観十二因縁も斯様に知るのであり、これを智慧と言つている。これは自己認識、自己意識の介在は許さない能所泯亡ということである。故に観十二因縁は、特殊を超えた意識以前の一般として、「無常無断」(「大正蔵」十二・五二四上)) といわれている。「無常無断、即是観照十二因縁智。如是観智是名佛性」「是観十二因縁智慧、即是阿耨多羅三三貌三菩提種子。以是義一故十二因縁、名爲佛性」(「同上」)の一文に至つて佛性の一般としての性格が明らかにされてくる。即ち「無常無断」は認識以前の何の変哲もなき一般の姿である。即ち枯木死灰の徒として蔑視される無事の行者に、却つて見佛性の事實が現成しているのではあるまいか。驚異讃歎感激は却つて特殊の不見佛性の流轉生死に終るのである。かくて、見佛性は「佛性者即首楞嚴三昧」(「大正蔵」十二・五二四上)とある三昧王三昧の真實相であつたのである。

 

「印度学仏教学研究 5(1), 227-230, 1957-01」より抜書(一部改変)

 

これは二谷がpdfからワード化したものであり、出典などはsat(「大正蔵テキストデータベース」)を援用したものであり、旧漢字と新漢字の混用など雑な作業になってしまい謝する次第である。 猶これは小拙の酒井先生に対する報(法)恩の一環である事を記す。