正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

永平広録について  酒 井 得 元

永平広録について  酒 井 得 元

   

 『永平広録』 についてお話をいたします。

道元禅師の著書というものを、 大別しますと、『正法眼蔵』 と 『永平広録』 ということになります。前者の方は世間に知られていまして、 皆にも読まれ、 研究者も出ております。 ところが後者の方は、 宗門におきましてもあまり読まれておりません。 また 『永平広録』 の伝承も一一種類しかございません。 それは卍山の 『流布本』というものと、『門鶴本』 というものとであります。それでこの二つを対照いたしましてなんだかんだといわれております。 この 『永平広録』 は何故読まれていないかと申しますと、 それは恐らく漢文で書かれたものであるからかと思います。 大体が漢文というものは、 日本人にはあまり親しまれておりません。 それでこの 『広録』 を私は、 何とかして読みたいと思っておりまして、一番初めに 『略録』 から入ったものです。その前に面山さんに 『永平家訓』 というものがあります。この 『永平家訓』 に冠注傍訓の本がありましたから、 それを手がかりにして一生懸命勉強し、それから、 『広録』 にとりついていったものであります。 そのようなわけで、 『広録』 というものは、 安直には一寸入りにくいものです。 これが一般に親まれていない理由の一つではないでしようか、それからもう一つは、 この 『広録』というものは、禅師が中国に行かれまして中国の禅者と親しまれたものですから、 その全てが当時の中国禅者達の用語法で書かれているので、 日本人にはどうも親しみ難いということです。 それだがらというので私達永平門下のものは『広録』をそのままに出来ませんので兎に角、あらゆる手段をつくして親しむ努力をしなければなりません。私は『広録』をず っと親しく見ておりまして感じたこと、あの時代の道元禅師が一番尊敬されたのは如浄禅師もさることながら宏智禅師であります。そして禅師はずっと『宏智広録』に親しんでおらられたようでした。ですから『宏智広 録』から『永平広録』を見ますというと、やっぱり『永平広録』は『宏智広録』が原点であったんだなと思うところがよくあります。それから更に『宏智広録』を苦しんで読んでから『永平広録』を見ま すというと、ホットとした気易さを感じます。

 

 『永平広録』には昔からこれといった注解書もあまりありません。注解書と言えば、 面山さんの『事考』というのがある。 それから本光さんの『點茶湯』というのがあります。けれどもこれらのものは、余り私達には助けにはなりません。私はずっと昔から、東京の入谷のお寺の参禅会で 『永平広録』を講義しております。 その頃に、 丁度伊藤俊光さんが広録の注解全書を出しました。 その時に初めて『点茶湯』がその註解全書の中に入 ていましたので、親し く見ることが出来ました。 この 『点茶湯』 はそれまでは珍らしい本として写本で伝えられておりましたが、今度始めて印刷されたというので私は非常に喜んだものです。私はその前から、 その時代にはまだコピーがございませんものでした.から『永平広録』を学校から借り出してまいりまして、その中の書き入れを、全部書写したものです。「今でもその本は持っております。なにせ昔の話ですけれどね。そんなことをやらなければ、『永平広録』は勉強できなかったのです。それに『点茶湯』の方もかねてから写本しようと思っていましたが、その時に出ましたからやめました。さて待望の 『点茶湯』を読んでみましたらさっぱり何が書いてあるやらわからない。しかもあの言葉が埼玉あたりの由舎の方言ですから、ますますわからない。私がその頃毎月参禅会に行っていました入谷の寺のご住職の奈良有道さんという方は、非常な勉強家で、最近出た永平広録註解全書の中のこの『点

 茶湯』を一生懸命に苦労して読んでおられましたが、何が書いてあるのかさっぱりわかりませんので、遂に手を上げてしまいましたと言われた、あの時の顔を憶えています。手を上げたのはあの人ばかりではない、こちらも手を上げました。それというのは、全々書いた人自身にも意味が通じていなかったのでしよう。また恐らくそれは提唱した人自身もわかっていなかったのではないかと思われる所が非常に多くありました。 したがって私は特に、 『永平広録』というものを読む時には、 特別の眼でもって見なくてはならないと思いました。漢文の先生が語録と読むと漢文式に読んでいるので、 真意は通じていません。語録はやっぱり語録として読んでもらわなくてはいけないと思いました。ある漢文の先生が『禅の句集』というものを出していましたがその解説を見たら、あの解説ならば書かない方がいいと思いました。それらは全く禅語の意味に通じていないのです。これは困ったものだと思いました。それは禅の世界と普通の漢文の世界とは全く違うからです。 また表現が違います。私は日本人ですから日本語は知っていますよ。知っていますけれども、 日本人の法律家に日本語で書いた彼の論文を見せられたとします。大体において読めます。然しその論文の意味がよくわかりません。書いてある字は知っていても、それを書い た人と生活が違ったりしますと、通じないのは当たり前のことです。従って漢文さえ出来れば、禅の語録というものが読めると思ったら大間違い、従ってどこまでも語録は語録として読んで、語録に通じておいて頂かなければなりません。これは語録だけのことではないでしよう。

   二

私が『永平広録』というものに魅力を感じたのは、実は最初の 『永平広録』 の文章です。 これは『門鶴本』と 『流布本』とでは順序が違いますけれども、卍山の『流布本』では一番最初のところにある上堂です。

 

上堂、山僧、叢林を歴ること多からず。ただ是れ等閑に、天童先師に見えて、当下に眼横鼻直なることを認得して、人に瞞ぜられず。乃ち空手にして郷に還る。所以に一毫も仏法無し。任運に且く、時を延ぶ。朝朝、日は東より出でて、夜夜、月は西に沈む。雲収って山骨露われ、雨過ぎて四山低る。畢竟如何ん。

良久して曰く。三年、一閏に逢う。鶏は五更に向って啼く。久立下座。

私はこれは一番典型的な上堂だと思うのです。何故かと申しますと。これには色々な説もありますが、兎にも角にも道元禅師の仏法をこれほどまでに、明確に大胆に表現されたお言葉はないからです。またこんな大胆に明確に表現されたものは、他には一寸見当りません。語録にはその人の個性がよく出ているので、それそれ独特な用語がありす。・道元禅師の語録にも他の語録とは違った独特の表現が非常に多いのは当然のことでしょう。それを我々 は初中終聞いておりまして、耳に胼胝が出来ておりますから何とも思っていません。例えて言いますと、単伝という言葉がそうです。あの単伝という言葉は、道元 禅師独特の言葉と思って差し支えない。他の人の所では使われていません。『如浄語録』や『宏智広録』でも見たことがありません 。

 

そして道元禅師で、一番気付かれることは、その表現が非常に自然的なものが多いということでしよう。山水経などはその代表的なもので す。あの表現の仕方のもとは、この最初の上堂のここの辺りから来ているのでしよう。先ず、道元禅師が如浄禅師に御目にかかられたとい云うことは、全く最初から予期されていた、ことではなく偶然だったのです。うっかり御目にかかられたというのが本当の所 でしょう。「等閑に天童先師に見えて」道元禅師と如浄禅師との出会いはこの一語に尽きると言ってよいでしょう。この辺のことは『建撕記』なんかでよくご存知のことと思います。大体如浄禅師という方はそれほど有名ではなかったので、道元禅師もお会いになられるまで全ぐご存知なかったのでしょう。如浄禅師の語録は出ておりますけれども、他にまとまった伝記などというものもあまりありません。道元禅師が出られなかったら、如浄禅師という方は一 向に映えなかったのではないでしようか。映えない筈ですよ、如浄禅師の仏法はあの当時一世を風靡していた臨済宗の人たちのとは全く、次元が違っていたのですから。私もこの所二、三年、学校で、『如浄語録』を読んでおりますが、『如浄語録』は読むのに非常に骨が折れます。実は、本音を吐きますというと、『永平広録』よりはずっと骨が折れる。むしろ『宏智広録』よりも手強いところがあるのです。何故かと言いますと言葉の使い方が何んといますか、荒つぼいというか、粗野といいますか、寧ろ、『如浄語録』というものは、他の同時代の人の語録とは全く異次元にあって、従来の用語にとらわれないで、生の感覚をそのまま表現ざれたもののように思われます。またその辺に非常に文学的なところがあります。

 

 よく『如浄語録』を学者が批評し ています。「あれは道元と違うとか、或いは、臨済的な所があるとか。」私はよくあんなことを、学者が何にも知りもしないで、批評するもんだと思います。。恐らく彼らは果して如浄禅師の語録が理解出来ていたであろうか、どうか甚だ怪しいと思う。如浄禅師の仏法の絶対性は、彼等の思考とは全く次元が異っているので、分ってはいないのではなかろうかと思う。あの評論家という者は、自分達の思考でもって判断しているから、次元の異るものには、それへの本当の評価は出来ない筈です。今日ここで、 特に申し上げておきたいと云うのは、どういうことかと申しますと、我々の禅というものの真実が、一般に考えられているものとは、次元が異っているということです。つまり禅の真実の建前が、一般とは違うということです。何故かと言えば禅の真実というものは、一言にして一言にして云えば、人間の考える所ではないということです。即ち禅の真実は思想ではないということです。昔、私が沢木興道老師に会った、その時、老師から再三再四、思想じゃない、思想じゃないと言われた時、若い私は抵抗を感じたものです。道元禅師が思想家じゃないと云われるが、 何故に思想家でないのかと抵抗を感じたものです。ある時、ある所へ行って老師がその話をしました。時に、丁度そこに朝日新聞の記者だという人が来ておりまして、 彼が思想でなくて何んですかと捩じ込んだことがありました。ついに彼にはこのことは分からなかったようでした。

 

 と言いますのは、思想と云いますと、これは、自分が考えて、これはこう云う事であると、 一つの断定を作ってしまい、それによって、それから色々なものを分別判断するものです。 このようにして自分のものを持つ、この自分のものが思想というものです。つまり思想は自分で色々思索し判断し、自分で納得がいった事なのです。つまり、我々はある一つの事に当面すると、それについて色々考え思考して、分別判断して納得するものです。私もその方面のことを一生懸命やったことがあって、前科者ですから言える事ですけれど、色々考えると云うことは、結局どうしても自分勝手に考えることになるものです。それが自由思索、自主思考と言うことです。けれどもそれは妄想していると云う事には変りはありません。従って思想でもって決めた真実は、真実ではなくて、それは何処までも思想し妄想した結果であったのであります。そして今まで懸命にやっていたことが妄想であり、その妄想の成果を真実であると、人間は一途に信じてしまうものであることがわかった。

 

我々は考える葦といいますけれど、それは生理現象、生命活動でやっているのですが、その人間はものを考えると云う事を本来 自主的と思っています。その自主的と云うのは、人間の身体の生理活動の一つの表情であったのであります。そして我々はその生命活動の生理現象として、自分の物にしたいとか、自分の所へ取り入れたいと云う事をやっているのであって、本来、自主的でもなんでもなかったのです。ただ生理的に、必然的に、あらゆるものを自分の物にしなければ承知が出来ないでいるものであります。これが人間の宿命と云うものであり、かくて人間は思想の生活をするのであります。

 

 いつのまにか人間には、それぞれの性格なり癖なりが出来上っていて、それによって色々な得手勝手な要求を作っております。そして終には、その要求に適うようなものを作り出してしまう。これらは他の動物にはないことです。動物にはこうしたい、ああいう風になりたいと云う、未来を考えるとか、思想するとか云うことはないでしょう。人間だけがこうありたいああありたいと思い、そうして、かく意欲的に行動しようどするところに、人間生活が始まるのである。人間生活は必ず未来を持つ事であり、未来を期待する所から、結果の将来を待っている。そこでどのくらい待ったら、と云う所から時間を考えるようになって、人間だけが、時計を持つようになっているのであります。

 

 このようにしたい、あのようにしたいを思う所から時計を持つよケになり、やがて人間には人生というものが開けて来るのである。かくて人生は開けて来るのですが、その根本契機は意志意欲で、それが終始一貫して何んでも自分の物にしたいという、行動になっているのです。かくて人間は生きてゆくのです。従って人生は自分の家庭を作りたい、自分の財産を作りたい自分の国を作りたいというようにして展開しているのであります。

   三

言うならば人生と云うものは元来我儘なものです。つまり人間の行動の全ては利己主義なものです。人間はそれぞれ自分の理想を持っていすが、その理想の正体も結局のところ自己満足の追求であるし、自分の意志意欲の線に適う時に、人間は納得が行くというものです。人間は自分の意向にかなったもの、自分の好きな物は非常に大切にし、或いは共鳴したりする。ところが自分の意向に叶わない者に対しては敵意を持ったり、または排斥したりする。そればかりでは収まらないで、利害関係が反したりしていると、その果ては殺意までおこすようになるのが人間なのです。この元はと云うと、意志意欲というものが、人間生活をさせているからです。

 

ですから人間の思想などというものは、それぞれの本人は無意識であっても、各自の根底に持っている意志意欲の利己主義・個人主義が、いつも契機となっていて、それによって人間生活が営まれているのであります。

ですからその思想がどんなものであっても、必ず利己主義、個人主義がその根底にあって動いている。つまり利己的個人主義的に成立した生活体験が、その人の思想を創り出しています。人間の欲望というものは利己的個人主義的に凄まじいもので、この人間の欲望というものが生活体験を作り、そしてそれが更に理想を創っています。従って生活体験が違う人同士は、思想が相反するのは当り前のことです。従って乞食の生活をしている者と、金持ちの生活をしているものとでは、自然に思想も違うし主義も違ってくるのは当り前です。

 

意欲を発端として思考を始め、それから理想が生じて人間的生活努力が始まり、かくて人間は思想を持つようになったのである。この思想を持っていると云う事が、人間の人格の根幹であったのであります。かくて思想というものを深く反省して来ると、思想の次元に止まっていては、真実はあり得ないという事が明確になる筈である。何故ならば、思想にはその本来の発生の経路からしても、必ず偏向があるのは当然である。故にこれを越えなければ真実への道は開けない。そしてそこに出家道として仏道が展開するのである。然し思想の次元に止まってしまっている宗教もあるわけです。殆んどのものがそうであると言える。

 

私は若い時に徹底的に坐禅修行しようと思っていましたので、臨済の道場へ行っておりました。あそこでは全員が、なんとかして見性しようという一つの雰囲気に、 ひたりこんでしまっていました。そして見性するためには、自分の身体なんかはどうなってもいいというような熱気に燃えていました。つまり見性のためには手段を選ばぬといった調子でした。後から考えてみますと、これは別に考えなくとも分かることですが、本人は真剣な求道人としてどうしても自分は悟りたい、そのためには自分はどうなってもよいと、本当にそのように思ってしまうものです。然し、結局は、それはただの自分のものが欲しいと云う事だったのです。つまり自己満足感の追求ということだったのです。それでどうしても安心決定がしたいというのでした。安心決定が欲しいというのは、実は自己満足の追求に外なりません。そしてその果ては自己陶酔してしまうものです。これでは無量無辺の仏法の真実の中で、自分という小さな家を作って立籠るだけで、真実を永遠に見失ってしまうもので、これは出家の仏法ではなくて、在家業であります。道元禅師は仏法は何処までも出家でなければいけないと云う事を言っておられる事を、ここでもう一度改めて考え直して頂きたいものです。道元禅師が徹底的な出家主義を貫通ざれていたことは、真実というものは、個人の家に取り込む事ではない、即ち出家でなければならなかったのです。従って 出家は生活様式のみをい うのではありません。真実というものは出家であったのです。自分のものにして取り込んでしまいたいという様なものは、仏道修行ではなかったのです。無所得無所悟の修行によっ てのみ仏道修行は現成するものです。いつも人間は何でも自分のものにしようとしている。そして、自分のものにしないと満足出来ないと云う事をよく反省してみると、本当の所、彼等が考えているようには、何も自分のものになつておりません。それは一種の陶酔でしか なかったのです。俺は救われているとか、見性したとか云うのばは紛れもない陶酔です。大抵の宗教には殆んど陶酔があります。ですから、彼等の宗教修行は、いつでもそれを無我夢中に追求して、これを行と云っております。然しそのような修行は仏法ではありません 道元禅師は最初の上堂で「当下に眼横鼻直たることを認得して、人に瞞ぜられず、すなわち空手にして還る」と明確に示さ れている。渡宋されて修 行されたが、それは、結局、自己自身を正確に認得する事であった。実にこの自分自分これこそは仏法であったのであって、もう誰れが何んと言おうと絶対に瞞される事はない。もうこれ以上は何んの土産もいらないと云うので、堂々として自信を持って空手で帰朝されたのです。従って、これこそ仏法なんていうものはないので「一毫の仏法もなし」と宣言されている。

 

私は『正法眼蔵』を拝読しておりまして、つくづく感ずることは、この中から尽十方世界という言葉を抜きにしたら正法眼蔵は成り立たなくなってしまいやしないか、とさえ感じています。尽十方界の尽の字、これは誠に便利な字で、誠によく宇宙全体を残す所なく表現しています。この尽十方界が外ではない、我々が生きていると云うこの事実が、尽十方界であったのです。よく世の中には、自分は真理の探求をしているという者があります。しかし、真理真実と云うものは、探求して到達するものではありません。もし探求し得たものがあったとするならば、それは探求者のかねてから目標にしていたものであって、それを今その時に自分のものにしたと云うに過ぎない。だからそれは真理でも何んでもありません。したがって真実の修行者は、そのようなものをみんな捨ててしまわなければなりません。それが無所得無所悟することであり、それが行であったのです。 

 ところが人間というものは生理的習性で、いつでも、「これだ」という自分のものを持ちたくてガツガツやっています。思想家とか哲学者とかいう人も例外ではありません。そういう人達の所行を、私の知っている評論家が「思考の野獣、思索の野獣」と評しておったことがあります。

                  

私はこれは全くよく適中しているという感じを持ったものです。昔、私の若い時代、昭和十年頃に京都の哲学者で西田幾太郎さんと田辺元さんという二人の師弟の間柄の人がいました。ところがこの二人が真向から対立して、殊に弟子の田辺さんが、猛烈にお師匠さんの西田さんを攻撃して言うのには「あなたは論理を知らない、哲学が分からない」と、目茶苦茶なことを言っていた。思考の野獣とはこのような田辺元さんに対する評論家が思わず吐き出した実感です。

 

人間と云う者は、猛烈な欲求で、猛進すると、このように野獣となってしまい、反対するものに敵意を持って噛みつく、そこにあるものは真実ではなく我利我利亡者の暴霊のみがある。凡そ人間同士の論争の果ては、かく終末するものです。従ってこのような所に真実はあり得ない。また真実は探求して得られるものではなかったのであります。真実は求めるものでなく、 修行することであったのであります。凡そ思想というものはそのようなもので、どこまでも人間が勝手に考えたことです。従って勝手が違えば、即ち思想が違えば争いになるのは当然です。これは師弟の間でも当然なことです。だからしヘーゲルにしても、彼のそのままを受け継いだのは一人もいません。全部が師匠に反対しています。思想というものは自分が納得して、それに惚れこんで、ついにはそれに陶酔してしまった。それが思想というものです。

 

人間には考える癖がある。しかし我々の禅では、修行の基本は莫妄想ということです。この莫妄想ということは、妄想を全てやめてしまえという事ではありません。それには考えるということを考えていただきたい。考えると云う事が我々の全てではないのです。我々の身体について中国の禅僧が尽十方界真実人体といっています。これは真実を最もよく表明しています。真実の実体は人体なんです。我々がこうして眼を開いて自然界を眺めておりますと、そこに見えるものは天文学者からすれば大きな宇宙ということになるでしょう。そしてあの星からあの星までが何億光年という計算をするでしょう。かように計算するのは彼等が観測してやっていることです。即ち彼等は彼等の眼識の中での作業であったのです。

 

 してみみと、結局、彼らが言っている宇宙とは、どう云うものかと言いますと、人間の身体の生命活動の範囲内のことでしかない。即ち観測した宇宙といってもそれは眼識での事であって、またそれで色々と計算したりなんかしても、それは身体 の方の活動であったのである。故にこの宇宙は身体に 対立したものでなく、身体の生命活動の範囲内のことであ て、宇宙とは人体であるを云う事になって 尽十方界真実人体とは、この事実を端的に表明していると言える。従って 人間の身体は宇宙とぶつ続きなんです。そして決して大自然に対して第三者として立っているのではないのです。大自然と一体なのです。この事実が主客合一ということであったのです。

   四

坐禅を説明するのに、よく主客合一いう言葉を使っていますが、人間の身体の生命活動の事実が本当の主客合一などと言いますと文字通りに言えば、主人公と相手の客とが一体ということです。そうすると、この一体ということを、ある坐禅をする人達は間違えて、例えば無字の公案なんかをもらうと、無と一体になることと思って、朝から晩まで四六時中(無になろうと思って一生懸命に「無、無」と唸っています。そしてとうとう無になりましたなんて云うけれども、一種の幻覚症状です。

 

あんなに四六時中、一生懸命に「無、無、」とやって、無にひたり切ろうとしているのですから これに陶酔して幻覚症状になるのが当然でしよう。然しそれは無になり切ったこんなことを主客合一、能所泯亡などと考えて、一生懸命努力するなど気の毒というものです。実は我々が生きているという事実が主客合一であり能所泯亡であったのであります。私達は身体だけで生きているのではないのです。身体と外界とが一体で生きているのです。

そうしますと、目でものを見るということはどういうことかというと、確かに見る目と、見られる物があって、一方を主とすれば、一方は客です。 かくて主と客とがあって私達の日常生活が成立っている。この日常生活が私達の生命活動の全てではない、昼間の一つの存り方で、その全部ではない、つまり生命活動の中の一つの情景であったまでのことであったのです。したがって生命活動は、私事ではなかったのです。私事は日常生活の次元においてのみあることであって、生命活動は大自然の事実であり、尽十方界の事実であったのです。したがって本当の生命ということは、自分の生命というものでもなくて大自然であったのです。

 

 我々が考えている肉体としての身体というものは、生命の全てではなく、生命活動の一要素、即ち道元禅師流に言えば調度であったわけです。生命活動は身体と外界とが一体でのことであったのです。この生命活動そのものの実体が、自然であり人体であったのです。

 

私達が物を見るということは、如何にも個人のことのようではあっても、実はそれは身体の一つの作用ではあっても、生命活動の一つの事象であって、言うならばそれは宇宙の事実であったのです。宇宙は全部が生命活動であって、そしてその活動の形体が宇宙のあらゆる諸事象であったのである。人間で考えると必ず主人があり客がある、それでなければ生活は成立ないのですが、然しその生活も実は外ではない生命活動の一様相であったので、これは立派な宇宙の実態であったのです。それが生命活動であるからには、そこには主も客もない主客合一であったのです。かくて人体が人体であるには、主客合一の宇宙の真実、つまり尽十方界真実人体の事実であったのであります。したがってどのようなことでも、これは人間の一つの体験などではありません。

 

禅は主客合一の宇宙の真実を実修し実証することであって、特種な体験をする事ではありません。人間というものは体験ということが、どんなことであるかよく知らないで、自分の感情感覚だけで、決めてしまって物を言うものです。真実は決して個人に体験されるものではありません。禅を体験だなどというのは余りにも、軽率と言わなければならないし、 また禅を心得え違いしているど言わなければなりません。よく臨済宗の人達は体験しましたと言いますが、臨済宗は同じように禅宗と言われてはいますが、全ぐ別の宗教です。これを同様に考えて、混同する人がありますが、 余りにも自宗を知らないというものです。道元禅師には体験などという言葉はありません。大体、体験と言えば、 例えば、何か彼がかねてから念願していた特別の異常な精神状態に、ようやくなる事が出来たとすると、その時に彼は当然のことながら非常に感激して、彼にはそれを生涯忘れられない体験となる。またそれが忘れられないで、時々にその時の事を思い出して陶酔感に浸るものです。そして更にあのような体験は誰れも出来ないだろうと、自己の優越感に浸りこむものです。このような自己の誇に生き甲斐を感ずることがあっても、それは陶酔ではあつても、真実でないことは今更言うまでもないことでしょう。

 

六祖の『金剛解義』には「心有能所即非禅定「能所不生是名禅定。禅定即清浄心也。」とあります。したがって禅定ということは、精神統一でもなければ、何にも考えなくなることでもない、即ち一つの特別の精神状態ではなかったのです。主客合一の宇宙の真実であったのであります。つまり尽十方界真実人体の真実が禅定であったのです。故に「禅定は即ち清浄心なり」と言われているのです。

 

道元禅師は普通の人間として宋土に渡られたと思います。普通の人間というのは、皆な自分の理想というのを持っていて、それを追求し続けているものです。これは人間の生理的習性ですし、これがなかったら人格喪失というものです。これには特別の教育は必要ない。最も教育も、いうならば理想を持たせるように指導していますが、人間は生理的に意欲的生活をする事になっている。

 

  そして結果は、・かねてから彼が理想としていた事に、満足を感じてそれに陶酔することになる。即ち必ず結果的にはこのように、人間は陶酔するものです。陶酔するということは、麻薬患者となることでしよう。どうも人間は誰れでもが麻薬患者的な素質を持っているものです。だからいつも何かに陶酔したがっています。

 

恐らく道元禅師は渡宋に際しては、必ず何か一つのものを求めてゆかれたに相違ないと思う。ところが色々な問題にぶつかって、ついに求めるということが、また例え求め得られたとしても、それらはつまらないことであることが分られたのでしよう。そしてあの上堂が出来たと思う。天童山僧堂で、坐禅しておられる時に、師匠さんの如浄禅師が隣の席に坐っていた修行僧が居眠りをしておるのを見て、「寝ていてどうするか」と言って厳しく叱られて靴を脱いで殴られた。道元禅師、それを隣りで聞いておられて、それで初めて坐禅の真実が分かられたんです。つまり、居眠りしていてはいけない、眼が覚めていなけりゃいけないということがはっきりと分かられたのです。そしてその時に身心脱落ということを、明確にすることが出来たのです。

 

それまでは恐らく道元禅師は、坐禅ということに対して、それは何かを求めるものというような感じを持っておられたのではないかと思う。ところが我々が求めて理想としていたものを獲得するということは、身体の働きの中の人間的なもので、生きている身体の働きの中の全てではなく、その一部分でしかない。私はこの頃、人間の生命活動している身体そのものを、川の流れに例えてみると、理解しやすいと思う。年がら年中、川の水は流れ続けていて、決して、絶対に逆流することなく下流に向かっています、これと生き続けている身体と同じです。身体は後退りなく生き続け新陳代謝をやっています。これは川の水の流れと同じです。川の水は下流にいても流れ続けていますが、ただ流れているわけではありません。その時の状態によって水面にはいつも絶えず変化している模様を浮かべている。波紋が出来たり、渦巻が出来たり色々な表情が現われるものです。これと同様に、生命活動している身体にも色々な表情があるものです。つまりその表情というのが人間生活です。したがって我々はこの身体が生きている限り、毎日昼間のある時間は、必ず生活活動をしつづけなければなりません。だから私達はそれでご飯を食べなきゃならん、学校も行かなきゃならん、月給ももらわなきゃならん、話もせにゃ ならんといったわけです。 こういうようなことは、言うまでもなく生きているから、行なわれていることです。つまり言うならば、これらは水面の波紋のようなものだったのです。

 

波紋は一時的なものです、したがって波紋のために川の流れが変化し停滞するということはありません。どんなに波立ちがあろうと渦巻きがあろうと、川の流れは、そのようなものには一向にかかわらず流れ続けています。また波紋の方も消えてしまったらそれっきりであとには何も残しません。昨日の台風はどうなったかと、太平洋に聞いたって全々返事をしてくれません。それと人生上の問題も同じです。、皆こういうように流れています。つまり色々な波紋を浮がべ、渦巻きをし、いろいろな表情を水面に現わしていつも流れ続けている、これが我々の生き続けている身体というものです。この身体は大自然そのものです。 こ の人生上の諸問題を超越した大自然の絶対的な事実、これが脱落ということです。だから道元禅師は、身心は脱落なり、脱落は身心なりということを、この時に本当に悟られたのです。

 

道元禅師はそれまで、坐禅の中で、何か一つのものを求めて一生懸命やっておられたに相違ない。しかし、ここでもって坐禅は何かを追い求めることではなくて、つまり何かを求めるという うな人生の波紋、渦巻などのあらゆる表情を、超越して生き続けている生命の大自然の真実を、そのまま実修し実証するのが、坐禅であったことに気付かれたのでした。居眠り坐禅では、それは睡眠であって、真実を修行し実証し実践することにはならない。とにかく正気で正身端坐する時に本当の自分、即ち大自然の真実が現成しているのです。その時の本人の感覚がどうのこうのということではありません。つまり身心の真実というものは、無所得無所悟の正身端坐の只管坐禅をするという事によってのみ、修行され、実践されるのです。これは決してあることに陶酔するということであってはなりません。これが真実を実証することであったのです。かくて 尽十方界の真実を実証するということが坐禅であったのです。私達人間の日常は波紋、渦巻きの人生問題の表情に終始して、それだけが全てであって、本流である身体即ち身心を完全に見失っているのです。

 

                                 五

道元禅師は身体の事実を身心不二不二身心と解釈されている。そこでこの心ということは、どういうことを言っておられるかということを、次に述べてみたいと思います。これは心意識の心、つまり意識活動のことではないのです。人間というものは精神とか魂とかなんとかいうものが存在していると思っています。私共の学校でも建学の精神とか、何とかやかましく言っています。学校なんかで言っています精神は、その学校を設立するようになった理念を実践することであって、それが教育の方針であったのであります。即ちこれがその学校の建学の精神というものです。するとこの場合の精神とは、理念であり、意欲的な人間の生活努力を限定するものであると言える。つまりこの場合の精神とは、意欲的行動を規制するものではあるが、結局は意欲活動といってよい。これを一般的には絶対的なもの、神聖なものとして「精神」と呼んでいるまでのことである。故にこのような精神をも越えたものが心であったのであります。

 

身心脱落の身心はどういうことかと申しますと、先ず心ということから述べることにします。それには「一切法即一心、 一心即一切法」という言葉がありますが、これが本当の心の意味です。 この一心が仏法の基本なんです。この心というのは、伝心法要の黄檗の言葉を借りますと、「この心というものは、 かって生ぜず、かって滅せず」「色にあらず、形にあらず、相にあらず。方にあらず。有にあらず、無にあらず。新旧にあらず。大にあらず、小にあらず」ということです。今ここで私の挙げましたこの言葉の中の生滅ということ、あるいは色ということ、形ということ、即ち、存在の問題、古いとか、新しいとかいう時間の 

の問題、それから長いとか短いとかいうこと、あるいは大きいとか小さいとかいう比較の問題。これらはすべて人生上の問題です。即ちこれらは人間生活の調度といったらいいでしよう。これらがないと、人間生活は成立しない。長いとか短かいとか、良いとか悪いとか、あるとかないとか、これらは人間が意欲生活する限り、なければならない問題で、これらがなければ人生問題はあり得ない。それは本来の心、即ち大自然の生命活動そのものではありません。

この心は、宇宙全体の生命のことです。生命とは一時も休むことなく生きつづけている事実です。この宇宙のありとあらゆるものは、生き続けている生命そのものの形体であったのです。つまりどんなものでも、それはそれなりに生き続けています、そしてその生き続けているという姿がそれがコンクリートであったり、材木であったり、人間であったりしているんです。。即ちこの生き続けている姿が身体であったのです。

  したがって身体と心とは別ものではありません、 不二です。この不二ということは、イコールということではない、イコ―ルということとは、全く別なことです。即ちイコールということは、色々なことが全て同じである、全く別のもの同士の関係であって、全く不二ということとは別のことであったのです。不二ということは.イコールのように別のことがあって、その両者がイコールの関係にあるというのとは全く異って、 別のものではなく、両者ではない一つのものであるという事です。つまり一つの事実であるということです、身と心とは全く同じことだったのです。特に言うならば心が実体であり、身が心の事実の形体だと言える。つまりこの両者は一つの事実の表情と実体というものであったのです。

 

  つまり、身心とは一つの大自然の生命活動の事実であり、尽十方界の真実であったので 尽十方界真実人体と言われている。つまり身心は大自然の絶対事実であったのです。そして絶えず身心の様相として、人生上の諸問題はうごめいている。即ちそれは身心の生命活動の景色であり、様相であって、この景色や様相の如何に拘らず身心の事実は、身心であって絶対的な尽十方界真実人体であったのです。この絶対の事実が、脱落という事だったのです。この脱落ということは、尽十方方界真実人体の絶対のことであり、身心の事実のことであって、人生上のことではなかったのである。

 

  世の中には身心が脱落であること以外に、真実はありえないのです。だから身心脱落 脱落身心と、道元禅師は言われたのです。即ちこの身心脱落の真実は坐禅によってのみ完全に実修し実証されているということに気付かれたのです。つまり道元禅師では、坐禅は身心脱落の真実の実修実証そのものであったのです。したがって坐禅は陶酔して自己を満足させるような、麻薬中毒的ものではなかったつまり坐禅は、尽十方界の真実を修行した尽十方界真実人体の実践であったのです。

 

  人間というものは、意欲のために奔走し欲望によって行動しています。したがって、何かやりたい、何かやりた、というのが、人間の正体というものです。その人間が坐禅すれば必ず、ただではおさまらないのです。即ち人間は坐禅しても、本当の坐禅がわからない人は、坐禅は瞑想だなどと本気で考えたりして、そして実際瞑想をやっているものもあります。だから世の中の学者という人の中には、自分勝手に「道元の瞑想」なんていっているものもいます。まことに困ったものです。坐禅をするといって実際は坐禅をしないで瞑想して、自分がかねてから期待していた異常な状態に向かって努力して、遂に目的を達すると、これを神秘的体験という。その神秘的体験とは一体何でしようか。私も昔は神秘主義者で、何んとか体験をしようと、遮二無二にやったものです。遮二無二に断食したり、不眠やったり色々なことをやって、かねてから自分のあこがれ願っていた境地になり得たということは、それは決して絶対的な真実でもなんでもない、それは念の入った異常な救いの心境は幻想であって、本当の神秘ではない。本当の神秘というならば、平常心これでなければならない。

 

人間の妄想というのは、自分のものを作りたいという事で終始している。結局そうする事は、ただお目当てのものが、自分のものになったように感じて、満足をするだけの事で、ただこうすることに夢中になるのが、欲望の追求の人間の行為の実態です。このような人間が ただ自分の欲望をそのままにしておいて、坐禅をすれば、一応は坐.禅の姿勢はしていても、 実はそれは欲望の追求であって、挙句には、兼ねてからの目的を達して満足感を得ると「見性」したなどと思ってしまう。これでは全く真実を行ずる坐禅ではなくなってしまうのです。それで坐禅するという事には、どんなことでも、例え公案であっても工夫してはならない 「公案工夫する事は、それは 坐禅を修行していないということです。公案というこれは、日常生活の中で真実に生きる努力している禅者は、どうあるべきかを学ぶ、禅者の最も重要なテキストであったので公案だったのです。即ち禅者にとって公案は不可欠な日常生活における鑑であったのです。

 ―中略―

 宗門では何かと言うと、修証不二が言われているが、本当にこれが分って貰えているのかと疑いたくなることが屡々です。道元禅師が修証不二の只管打坐以外には仏道はあり得ないことを諄諄とを教えられているから、言っているだけで、これが本当に信ぜられているかどうか疑わしい。現実にはいつも別の方角の方へ暴走しつつあるのは、一体どうしたことであろうか。 道元禅師は無所得無所悟の只管打坐を生涯お説きになっておられ、 またこれが宗門の標語として唱えられているものの、実際にはあまり坐禅が修行されていないで、 外の方への努力に専注されている。ことによると本当の坐禅が無視され忘れられている場合も珍しいことではない。これは今に始まったことではない。

 

私はよく師匠から、若い時代の宗門の状態をよく聞いています。私の師匠は佐藤泰舜禅師さんとは同級生で親友でした。また同級生に、山田霊林禅師さんもおられました。あの時代は坐禅するようなのは、特別の人間に限っていて、一般には全くする者はいなかった。したがって修証不二の只管打坐を口では言っても、その実相をだれも知らなかった。それで臨済宗で見性して来たという原田祖岳という人物が現われたら、見性坐禅と只管打坐とは、全く次元の相違した異宗教であると知らないで、求道心のある真面目な若い学人は彼の下に雲集したものだと、私に話してくれました。これなどは人間の生理的習性に従ったまでのことで止を得ないこととも言えます。お前達の坐禅は何にもならないじゃオよいかと言われれば、その通り、何にもならない。これでは仕方がないということになって、つい熱心に見性目当ての坐禅に努力するようになるものです。だから本当の坐禅なんかやり手が、殆んどなかったと師匠は言っていました。従ってあの時代は坐禅を本当に修行するには、臨済宗へ行かなければ駄目だという風潮があったと聞いていました。また私自身もそのように思って臨済宗の僧堂にご厄介になったものでした。 

 

私は昭和十四年秋に永平寺に上山しました。本山でやっている事が、全て形式的なように思われて仕方がなかったのです。時間が来たら坐禅をする、それ以外はしない。当時の私はどにまでも坐禅を坐り切ってやろう、原田祖岳さんみたいになりたいと真剣に考えていたのです。だがら私は坐禅修行にあせっていましたので、永平寺の生活がまだるっこしくて、つまらなく、やりきれなかったのです。それというのも、実は京都で久松真一さんの講義を聞いて、どうしても坐禅しなければならないと覚悟をきめてしまっていたからです。

 

それから宗門に帰って寂しくて仕方がなかったのです。やっている坐禅が全く反応のない坐禅ばかり、それも形式的にやっておる。決まった時間だけやって、一定の時間が過ぎれば止めてしまう。こんな事で宗門はよいのか、これで禅宗といえるかなどと本気でそう考えたものでした。従って永平寺にいる事が馬鹿らしくてしようがなかったのです。そのとき私が一番親しくしていた雲衲で加藤黙堂という人がおりました。この人は私より可成り年長者した、ある時、私は彼にいつ永平寺を逃け出そうかと考えている最中だ、こんな所におったんでは、形式的な坐禅ばかりで本当の坐禅ができない。俺は真剣に坐禅修行をしようと考えている、と、私の本心を打ち明けたんです。その時、黙堂さんは、「じゃお前さんは臨済へ行くつもりだろう」、と言われた。その時には、私はもう既に京都の久松真一さんの所へ手紙を出して、どこヘ行ったらいいかを推薦してもらっていた。久松さんは、臨済で今一番厳しくて、鬼叢林と評判のところは、九州の久留米の梅林寺です、それに対して京都のは姫叢林でそれ程に厳しくはない。これまでわたしが薦めて梅林寺へ行かせたものは、殆んど途中で逃げ出してしまっている。それに君は曹洞宗の人だから、とりあえず京都の方がよい。それには師家と僧堂が一番いいのが妙心寺ですが、道元禅師と因縁があることだから、建仁寺.へ行きなさいと推薦して貰っていた。そこでどうせ行くのなら鬼叢林の梅林寺に行くことに決心してた。かように黙堂さんに話した。

 

その時黙堂さんが言うのには「わしも昔、 伊深の正眼寺へ盛んに通ったもので、 向うさんのことはよくわかっている。おみやあさんナモ、臨済宗というところは坐禅せんところやで。それにまた坐禅の仕方が全く違うんやから。それに坐禅中に矢鱈とどなったり警策で目茶苦茶にたたいたり、 その上坐禅中に拍子木を鳴らし、 引鑿を鳴らすので坐禅なんかできやせんから、 やめなはれ」と言われた。そして「おみやあさんがここに居るということは、 御開山がお膝元で修行することだから、 余門へは行きなさんな」と再三再四留められたものです。然し私は黙堂さんの留めるのを振り切って、 遂に永平寺を下山して、 梅林寺に行きました。

 

実際に梅林寺へ行ってみて分かったことは、 黙堂さんの言葉通りに坐禅をしないということでした。それに坐禅というものの性格が全く違うということでした。それは今私が話しておりました真実というものの取り扱い方や、考え方が全く違っていた。それから解脱ということの意味も違っていた。勿論のこと悟りの内容も、全く次元が違っていたということです。つまり、言いますと、いずれも禅宗と言いますので、 用語や経文や行事などに共通のところが非常に多い、然し全く別の仏教といったようなものでした。また昔からこんなことがよく言われていたものです。臨済宗曹洞宗との相違は「日蓮宗真宗の差よりもっとひどい」とは聞いておりました。けれどね、 実際行ってみまして、 こんなにも違うとは全く思ってもいなかったものです。それをこれまで曹洞宗若い人たちで、 その相違を全く知らないまま、ただ求道心の燃えるにまかせて飛込んで、猛進してしまう人がよくあったものです。

 

  六

 私は宗門において最も大切なことは、 日常なんともなく生きているということ、 このことが、 何よりも有難いことであることを、 心から感ずることだったのです。何故ここでこのようなことを特に言うのかと申しますと、道元禅師が初めて、如浄禅師にお会いになり、そして「眼横鼻直なることを認得」されたのでした。つまりそれは自分の体はいつも当前で るが、この当前である事を、これまで全く気付いていなかったが、この時に始めてはっきりと、この事実が大変なことであった事を知らせて頂いたということです。そして我々がそれまでに喜んだり、悲しんだり、安心したりして、 大騒していたことは何んでもないことだということが分ったということです。したがって「眼横鼻直なることを認得して」最早や、絶対的な価値を知らせて頂いた以上、誰れが何んと言おうと、最早や、それに瞞れて、それに惹きつけられることない。だから元のままの自分に自信を持って帰国することが出来たということです。だから「人に瞞ぜられず。乃ち空手にして郷に還る」と言われているのです。

 

人間をいうものは、自分が感激するような体験でもすると、自分のような体験をした者がどこにあったかというような誇りを感ずるものです。これは自分がそのように思い込んだまでのことです。そして自分がそのように思い込んでいるだけでは済まないで、それを他人に誇り、他にこれを宣伝しないではおれないものです。このようにして遂には、宗教のカ ス々が誕生する次第です。したがって彼等のところには絶対に真実はあり得ない。彼等には永久に「眼横鼻直」の無限の価値は通じない。 

 

  したがって「眼横鼻直を認得した」道元禅師には、このようなカリスマ的なことは、全く何に一つもあり得なかったのは当然です。だから「空手にして郷に還られた」のです。道元禅師は尽十方界真実人体の修行者でした。故にあのカリスマ的な教祖などのような忘想的修行は全くあり得なかったので「一毫の仏法なし」と言われるのでありました。

 

教祖達は全て自分の考えたこと、自分の好きなことを、絶対的なことのように誇大妄想し て言い放っている。そうすると信者はただそれを信じ、その言葉を頂いている。これが本当に「人を瞞ずる」ものであり「人に瞞ぜられる」ことであったのです。仏法はそのようなものであってはならなかったのです。

 

お釈迦様のお師匠様というのは、法です。即ち一切法です。お釈迦様は一生涯、法を修行された方なのです。道元禅師も法の修行者でした。したがってカリスマ的な所はないので、これといって特別な何も持つものがなかったわけです。だからして自信をもって「空手にして郷に還る。一毫の仏法もなし」と言われているのです。

 

 これというのは、全部が仏法であり、特別なものは、何に一つもなかったのです。したがって仏法は特別な神がかり的な自己満足的修行することではなかったのです。何故ならば、 一切衆生悉有仏性だからです。したがって宇宙の全てが仏性、即ち真実です。故にこれこそはという特別であるものは、全てあってはならぬことです。こうしてみると、全てが仏性であり真実であってみれば、特に外道というものがあるわけではないのです。あの外道というのは一切衆生悉有仏性に背を向けて、即ち広い宇宙に背を向けて、小さな自分だけの家の中にとじ籠っているものです。したがって思想家は殆んどが広い宇宙に見向きもしないで、小さな自分だけの家にとじ籠っているから外道だったのです。しかし仏法の方からは外道も一切衆生ということになって、外道というものはありません。

 

かくて全てが真実であって、真実以外の何物もあり得なかったのです。この事実が心ということであったのです。したがって心は決して精神的なものでも、意識的なものでもなかったのです。つまり、この宇宙全体の真実が心であったのです。ですからこれを黄檗希運禅師は「当体即是なり」と言っています。ところがいつの間にか、変なふうに偏向してしまいました。宋の時代になりますと、カリスマが出てまいりました。そして変なふうになってしまったのです。つまり言いますと、これは一重に人間性の暴走が、禅を堕落に導いたと言わなければならないのです。即ち人間なるが故に堕落したと言えます。

 

私は終戦後に満州から引きあげてきまして、パチンコの流行にはびつくりした。未だに流行っていますが、あのパチンコの発祥地は名古屋だったそうで、私と同じ誕生地とあっては、 聊かがっかりした。これというのも偶然のことではなくして、人間が本来持っているパチンコ的なものが、これを生んだのです。このパチンコ的なものがそっくりそのまま禅の方へやって来まして、それが大慧宗杲の禅を生んだわけです。そしてカリスマ的なものヘ暴走してしまったのです。それだから看話禅が宋代には一世を風靡したと言われています。これは珍しいことではありません、あるべくしてあったことです。これはパチンコ的人間性によって、発生したものですから不思議はありません。

 

結局今の臨済の看話禅は本当の臨済禅じゃなかったのです。本当の臨済禅であるならば黄檗希運禅師の「当体即是なり」でなければならないのです。即ち全てのものが、是で特別な体験をするようなものであってはならなかったのです。なんでもが、全てが真実であり、真実以外と云うものは何ものもなかったのです。これが法華で言うと「諸法実相」ということです。

 

道元禅師は、特別にこれだけが仏法というものはないので「一毫も仏法無し」と言われ、全てが言うならば、仏の姿であり、真実相である。その真実相の展開を「任運に且く、時を延ぶ。朝々、日は東より出でて、夜々、月は西に沈む。雲収って山骨露われ、 前過ぎて四山低る」、その時その時に、色々と変化を示す自然の景色、これ仏の姿であり、真実の相の転変であったのです。この自然の世界そのままが、真実の相であり、仏の姿であれば、別にあごがれて陶酔したりして、かねてからの理想世界を幻出する必要はない。そこではまともに自然の景色が見えるようになる。以上これまで述べた道元禅師の宗風の具体的な表現が『永平広録』に一貫していることを身近に親しく読むことが出来るのは有難いことです。

 

自然のどの景色もそのまま、自分の好みによらないで、頂くように努力をするところに、道元禅師の「風流浅きところ、かえって風流」と言う言葉がよく理解出来る筈です。一般 には風流人と云うのは、皆それぞれ個性が強過ぎて、一般人には余り近づけない独善的なところがある。したがって、つまらないところまで、彼等は凝ってしまっているので一般的ではない。そうではなくて、まともな自然の姿そのままのところに、本当に風流を見るのでなければならないのです。

 

私は昔こんなことを聞いた事がある。曹洞宗という処の寺院には、余り宝物がない、建物だって碌なものはない、庭園だって名園などない。これで曹洞土民と言われる所以でしょう。ところが臨済宗なんか行きますと僧堂の性格が違っています。まあ料理にも相当凝っているし、庭園の掃除も仲々手がこんでいる。私も臨済宗の僧堂へ行っておる時に、料理の作りの貼案の手伝いをさせられて、実際に手のこんだ料理に吃驚しました。我が宗門の人達が作っているものは、余りにも田舎っぽくて、問題になりません。それまで私は凝った精進料理には色々な難しい方式があるということを、知りませんでした。然し同時に私は余りにも人間がでしゃばり過ぎて、諸法実相の真実が見失われてはいないかという事を感じました。 これも宗風の相違によることでしよう。これに比較して曹洞宗の方は、いわゆる格式とでも言うことでは、一段と低いなと感ずるのは私ばかりではなかろうと思う。然しこの格式の低さこそ、即ち結局それは庶民的というよりは、一般的、普遍的だったんです。道元禅師自身は権威を嫌われていたというよりは、寧ろ全く相手にされなかった。普遍、一般、平常心に徹せられれば、これは当然のことです。したがって国王大臣には親近せられなかったし、 また親近しないように門下に示されている。これはただ道元禅師があの時代の腐敗した貴族の生活に愛想を尽かされたからということだけじゃないと思います。

 

それは諸法実相というところから見ると、全てのものに於いて、真実が見出されなければなりません。そして今まで全く何とも思わす、過していたことにも真実が見出されるのです。 このように仏教者は一般的なものの見方とは違わなければなりません。ここで道元禅師の仏法の根底を理解願いたいと思います。

 

     七

『永平広録』の八巻の二十丁右二行目、こういうことがある、ここを特に紹介しておきたかったのです。それは「伝法之師、 最も知らざるべからざるは、人を接するの一句は仏心印を伝わるに非んば、豈に敢てせんや」という一句です。つまり伝法の師たるものは、これだけのことは、是非心得ていなければならないという事です。そして人を指導する一句が、仏心印を伝えるものでなければ、何も言うてはならないということです。「如何が是れ人を接する手段。」それでは一体どういうふうにしたならば、それが本当に人を接する手段になるだろうか。 そこでどういう具合に道元禅師は人を接せられたかというと、「それ求道の心を、 一時に放下する是れなり。この放下底、実に大道に徹するの底の時節なり。」とあります。私はこの一文には、びつくりしました。これでは世の中の人の言っている事とは反対です。普通には求道心をしつかり持つように教え指導するものです、それを「求道の心一時に放下する」とあって、即ちこの「求道心」これをなくしてしまえということです。

 

「この放下底、実に大道に徹する底の時節なり」とあります。つまり我々は、このいつも「放下底」即ち一切を手から放してしまうこと、つまり何ものも自分に取込まない事を、努力しなければならないのです。したがって私達の修行の努力は、この放下底を努力することでした。放下底ということは、何ものも取り合わないでただ放っておいてそのままにしておくことではありません。この放下底を努力することをしなければなりません。これを努力することがなかったら放下底になりません。この放下底が、大道、即ち真実を実修し実証することだったのです。実修し実証することは、完成を目指して努力するのではなく、即ち「放下底」を努力することで、その努力そのものが大道であったのです。

 

一般的な求道ということでは、大道に徹することはあり得ないと云うことです。何故かと言いますと、求道は、結局のところ自分の好みを追求することになってしまっているからです。人間は決して嫌いなものを追求することはあカません。自分の欲しいものだけに向かって、一生懸命暴走するものです。真実は我々が、好もうが嫌らおうが、そのような我々の意向とは全く関係はありません。我々の好き嫌いを超越したものでなければならないのです。だからどうしても大道に徹底するのには、求道も投げ出してしまわなければなりません。 この一切の放下を可能にしてくれるものが、これが坐禅の道だったのです。放下底でない求道は、如何にしても、決して大道に徹することはありません。真実は自分の好みというようなものであってはなません。言うならばその自分の好みを拾って歩くような、ものが、一般の求道とか、真理の探究などと言うものです。

 

「実に大道に徹す底の時節」は、「放下底」であったのですが、更に永平広録では「古人いわずや、目撃に道存す」と続けられています。この古人は荘子の下巻の田子方第二十一にある孔子の語です。これは目撃したものそれが真実である。つまり真実は直観するものであって、探し求めて、ようやくに到着するものじゃないということです。俺は何年かの修行の後、ようやくにして真実にたどりついた、とうとうやり遂げたというような者であってはならないことです。うっかりするとそのように考えてしまうもです。普通一般にはこの語は、 ほとんどそのように考えられているものです。

 

昔、 西田幾多郎さんが、「善の研究」を著述して、その中に直観ということを主張していました。然しここの目撃は普通の直観と違うと思います。直観してから我々はそれをもとにして判断すると考えています、つまり我々は直観をそのまま受入れてはおりません。

 

この目撃は、直接見たら、そのままでよいということです。それに判断を加えない、そのままが本当の事だと云うことです。人間というものは目で見たものを、必ず自分の納得出来るようにしないと承知が出来ないものです。っまり人間は、自分のそれまでの経験によって、自分のものとして持っているもので、目で見たものを、取り替えて、そして納得して自分の理解を作り上げているものです。したがって理解したものは、直接に目でとらえた本物ではなくて、必ず自分のものに置き換てしまっているわけです。このようにして人間は判断をしているわけです。だからして判断されたものは、極端な言い方をすれば、そこでは変形されて、そしてそれを人間は受け入れているというわけです。

 

だからここで『永平広録』では、この古人の語に対して「此語は什麽ぞ、畢竟如何。」と言われている。何故このようなことが言われているかというと、それはすぐに「剣去って久し」ということがあるからだと云うことです。これは中国の語録なんかによく出てくる間違いの標本なのです。これは舟に乗っておって、川の中に剣を落したが、すぐその場で剣を拾い上げようとしないで、後刻に拾おうと、船の縁の剣を落した場所に、目印をつけておこうというもので、舟の縁に印したというものです。この舟の縁の印は、動きませんが、舟自体は動いておって、その印の場所は、すぐに剣を落したところではなくなっている。こんな馬鹿な探し方はないでしよう。人間の物を判断することの正確でないことは、丁度このようです。人間は目の前の物を、自分の知っているものと、置き変えて、これはこれこれだと決めてしまう。このやり方は、正に「剣去って久し」であったのです。

 

これは外ではない私達の仏法の見方が、殆んど「剣去って久し」というような事が多いというのです。それで『永平広録』では、この辺の事を手厳しく教示されるのです。したがって道元禅師の坐禅は、単なる精神的活動でもなければ、勿論、精神統一というようなものでもない。中には、長い間坐禅をしておりまして、時には異常な状態が幻出することがありま すと、非常にその異常さに感激したりして、その時を最高と思ってしまう。しかしそれは最高でもなんでもない。ただそれは本人がかねて期待していた通りの状態が幻出したので、これに感激し興奮したまでの事です。

 

   ―中略―

私達の坐禅には、どんな時でも、これが最高でこれが最低だと云うものはありません。それは人間の得手勝手な主観でもって決めているものです。卍山さんの言葉に、「一尺坐れば一尺の仏、一寸坐れば一寸の仏」ということがあります。坐禅は自分の気分の問題ではありません。尽十方界真実人体、つまり自分の体で坐るのではなく、宇宙の真実としての人体を修行することだったのです。宇宙は千変万化している、そのいずれの一変も宇宙の真実相であったのです。これが諸法実相ということです。坐禅は精神統一の静坐ではないし、また瞑想することではなく、諸法実相の実修実証だったのです。我々の坐禅は終始一貫、調子のいい時も、悪い時も、逃げ出したくなる時も全てが真実であるということが 信じ切れるまで徹底的に坐り抜いて頂きたいものです。長い間お話いたしましたが、力不足でもっと『永平広録』 で真実はどういうように説かれているかをお話をし、だからこのような坐禅が成立っているのだという事を明かにしたかったのですが、又他日にさせて頂きたいと思います。

 

 

 これはインターネットにてダウンロードしたpdf論文を、ワード化し修正

 したものである。(2022年 タイ国 バンコク近郊にて 二谷)