正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

酒井得元 提唱 三昧王三昧

正法眼蔵提唱 三昧王三昧 提唱(一) 酒井得元

面山述讃第二十一 三昧王三昧

述して曰く、三昧王三昧は九年面壁是なり。是を仏仏の要機祖祖の機要と謂う。二乗外道及び趙宗以来の異計の者は干茲に暗し。讃に言く、高して上無く。広うして涯なし古仏の軌範。柄子の模楷名を聞く者は六趣忽ちに超ゆ。縁に値う者は万劫乖れずして歴代祖伝法の真準たり。乃ち十方仏出世の本懐なり。光明徧界曽て匿さず。杲日天に当る十字街。

 

この度は、『三味王三昧』の巻に入ってまいりました。この三味王三昧の巻と言うのは、「正法眼蔵」の中でも特異な巻と言ってもいいでしょう。この巻は坐禅そのものをお説きになった巻です。是ほど大胆に坐禅をお説きになった巻はありません。私達は、三昧王三味の巻を本当に読んで、そうして、道元禅師の坐禅というものが、他の人達がねらつている坐禅とはぜんぜん種類、というよりは、この基盤が違う、次元じゃないですね。次元の違いならまだともかく、ぜんぜん異種なものであるということをよく知っていただきたい。大体が三昧というこの意味のとり方からして違う。三昧と言いますというと、普通の人達は、精神統一してしまった事を三味と心得ている。ところが、王三昧の巻をよ―く読んでいただきます

というと、私たちの生活の中のある特殊な状態を三味と言うのじゃ御座いません。うっかりしますというと、三昧に入ったとか、出たとか言いおる、入ったとか出たとか言うものじや御座いません。

先ずそういうようなところからこの巻に入っていくわけです。それで、何時もの通りこの巻に入る前に、面山さんの『述讃』に入ってまいります。この一番初めに拾遺第二十一と書いてあります。だいたいがこの二十一という番号はどういう番号かと申しますというとすぐこの裏の方に「正法眼蔵」第六十六とあります。これが本当の「正法眼蔵」の番号です。

正法眼蔵」の番号と言いますと、道元禅師が晩年になってから「正法眼蔵」を全部編集されました。そうして編集されて全部並べられた。それが七十五巻で御座います。そうしてこの七十五巻を後から補って百巻にしようとお考えになられたけども、百巻にすることができないで、十二巻程お書きになってお亡くなりになってしまった。五十三歳の時に道元禅師はお亡くなりになつてしまつた。

実に残念な事だという事が、八大人覚の終りの方に二祖さんが書いておられます。ですか

らしてこの六十六と云うのは、七十五巻本の中でも一番最後の部類に入っております。それで前のほうの述の方は、これは二十一とありますのは、これは六十巻本の「正法眼蔵」に入っていなかったわけです。入っていなかったので、面山という人は、六十巻本を定本に致しましてこの述讃を作られた。ですから、これは後から六十巻本を元にして拾い集められたものの二十一番目のものが是の「三昧王三味」という事になります。ちょっと変な感じがしますけどね。

面山さんの時代には『正法眼蔵』がどういような構造で最初から組み立てられたものであ

るか、という事の書誌学がまだその時分発達しておりませんでした。それでどういう風に編集されたのかという事がよく解っておりませんでしたからやむを得ない事でしょう。

先ず三昧王三味、述して曰く、三昧王三味は九年面壁是なり。是を仏仏の要機祖祖の機

要と言う。二乗外道趙宗以来の異計の者は是に暗し。それまでが述ですね。

是の「三味王三味」という事は、だいたいがサマーデイーということですが、この三

昧の意味合いは等持とか正受とかいう意味があります。

実は、この三昧ということは私達の生活の中における特殊な状態というものでは御座い

ません。私達が特殊な状態で在るならば本当の我々の安心立命にはなりません。正しい生

活の態度にはなりません。

と申しますのは、この三昧が生活活動の中の特殊な状態でしたらまたすぐ変化しなきや

ならん。変化しなきゃならんものを一つ状態で、ず―と持っていこうと云うのは無理な事で

す。異常状態はやっばり異常状態ですね。三昧が異常状態で在るならばろくな事はない。本当の私達の生命活動の基本原点、この原点が三昧と言うことが出来る。

全てのものはその原点の中において、我々は人間生活を送つていると考えたらよい。私は何時もの通り申しますというと、御天気でいうなら、好い御天気だなあと言うだけで、いっぺん雲が出たらおしまい。雨が降ったらそれでおしまい。それがあなた方の都合でず―と素晴らしい御天気が二、三日ぐらい続くならよいですけども、一月なり二月なり一年位続こうものならめちゃくちゃだもの。こういう事は願わない方がよい訳だ。何時も変化している。この変化しているということが私達には丁度よい事なんだ。その変化しているということは御天気の中に於ける変化です。

私達のこの生活活動というものは、 つまり言うならば身体が生命活動をしています。この生命活動の中のいろいろな模様風景そういうようなものが実は私達の人生です。こういうのが普通の人間性というものだ。これが三味であっちゃならない。

本当の絶対的なもの三昧正三味とはどういう事かと言いますと、尽十方界真実人体であります。

私達の身体というものは大自然そのものですよ。この身体の生命活動の中で私達は人生を送っている。私達のこの身体の絶対的な事実の中でもって人生を送っておりまして、これを超越するという事は絶対出来ません。また超越したなって考えるのは、唯それはお前さんがそう考えただけですよ。生きとるから考えたんだ。考えるという事さえも身体の生命活動の一つの表現でしかない。何処までも私達は身体の尽十方界真実人体を越える訳にいかん。其の中でしか暮らしていない。ですから尽 十方界真実人体をひとつ体験してやろうと思いましても体験出来ませんよ。これは、ひとつ体験してやろうと思う事自体が、身体の中で考えている事なんだ。

身体の生命活動の一つとして考えているだけで、ですからして絶対お目にかかる事も出来ない。肌に触ることも出来ない。この眼でひとつ確かめてやろうと思っても眼で確かめる事も出来ない。こういうようなのが本当の絶対とい云う事です。これを忘れたら困る。人間というものは殆どが尽十方界真実人体という事に気が付かないよ。気が付かないはずだ。体験が出来ないもの。眼で見ることも出来ない。肌で感ずる事も出来ない。色々考えるのも尽十方界真実人体の生命活動の一つとして考えているだけだから、飛び出す事も出来なきゃどうする事も出来ない。其の処に私達がどのような事をやりましても、この中でどのような情景、景色、それに引きづり回されて、いろんな事をやらかしても考えてみりゃ何でもない。私達が、悩んだって、迷ったと言いましても大した事ない。こんなところで仏法が三昧という言に到達したことになりますか。

 

正法眼蔵 三昧王三味 提唱(二)酒井得元

述して曰く、三味王三味は九年面壁是なり。是を仏仏の要機祖祖の機要と謂う。二乗外道及び趙宗以来の異計の者は干苑に暗し。

三昧王三味と言うのはつまり申しますと、自分の身体そのものと言う訳だ。三昧王三味と言うのは、特殊な精神状態や心理状態では無い。是を良く心得ておいてこの巻を読んでもらうとよくわかる。私達の修行というものが。

坐禅は一種の精神状態を操るものでは無い、と言うことを知っておいて頂きたい。是が此の巻の狙いです、そこで初めて、只管打坐というものが大変な事であったと言う事を、私達は解らせて頂く事が出来る訳だ。其の意味に於いて、道元禅師の坐禅「只管打坐」に関しての此の巻は、最も重大な巻です。

それで面山さんの述讃の一番最初に述に云く「三昧王三味」とはいったいどういう事か、どういう風に是を実証するのかと言いますと、其れに答えて九年面壁是なり、此れは達磨さんの九年面壁坐禅修行の事で、面壁と言う事は大変な事ですね。

鉄漢成就と言う言葉が有りますけど、壁に向かって坐っているという事は、何も探していないと云う事だ、何も求めていない、ただ壁に向かっているわ訳だ、目を働かしたりして探す事をしないから面壁と言う訳だ、面壁是なり、是は何も求めないで坐っているだけだ、此の坐つているだけが「三昧王三昧」ということになる。

申しますと言うと、私達の日常生活というものは、じっとして居られないのが人間です。何かを探さなきゃならん、頭の中に何か浮かんで来る、此れ浮かんで来なかったら面白いんですけど浮かんで来る。

朝起きて、浮かんで来るから洗面するでしよう、浮かんで来なかつたら洗面しないでしょうね、浮かんで来たのも気が付かないでやつてるもんね、それから、顔洗いますとご婦人方ならば直ぐ食事の支度をする、最もこの頃では、スイッチを入れてから顔を洗いに行くでしようね、ゆっくり顔を洗っているうちにご飯が出来るから、まあ好い世の中だ。

そういう事もみな浮かんで来るから、浮かんで来るという事を動機にして、手を動かし足を動かして、人生活動、生活活動が始まる訳だ。朝から晩まで頭に浮かんで来たやつを追っかけどうしで、晩になったらくたびれて寝て一日が終わりだ。

結局追っかけまわし続けるのが人生でしょう。うまくいったら喜んで、いかなかったらガッカリして、泣いたり笑ったり文句言ったり、愚痴ならべたリヒステリー起こしたり、こういうのが人生でしよう、なかなかお忙しい、此れが普通一般の人の人生です。

それは何かと言いますというと、生命活動の風景です、私達はこの生命現象の風景に引きずり回されて全体という真実と全然関係無しに過ごしてしまっている、それで面壁坐禅と申しますと、つまり生命活動を人生に切り替えないでそっくりそのままの状態を頂く、是が面壁九年と云う訳だ、つまり壁に向かって居りますから何かないかと探すこともありません、それから浮かんで来ましても手も足も動かさなきや首も動かさない、全然こうして居りますからして、其処には人生というものが始まっていない、つまり言いますと、こうして坐禅しているという事が、尽十方界真実を実践しているという事になる。

貴方の真実の事実であり、本当の姿を実践している事になる、貴方の本来の相が是で、尽十方界真実人体を実践する事になる。是を「三昧王三昧」と云うわけだ、是を達磨さんの面壁九年と云う風に表現されている訳だ、おそらく達磨さんが来られまして、人間と云う者は何時でも何か追求しているものが人間なんです。

その追求を一切止めてしまって年中壁に向かって坐っているなんて言いましたら、普通の人間は受け付けてくれません。馬鹿な奴だな案山子みたいじやないか、何もしないで無意味な事をやってるな、と云う風に受け取られるでしょうね。人間というものは何時も何か追求しているのが普通の人間ですから、ですから何も求めないで、じ―と坐っているなんてのは、普通の人間には受け入れられません。

人間という生き物は、誰かが教えてくれなかったらそんな事やりませんぜ。人間から言いますとこれほど無意味なことないものな、全く意義無しでしょう。此の意義無しと言う処、これが一番大切な事だ、そこに目を開いて頂きたいのが此の巻です。

そしてこれが仏仏の要機祖祖の機要と言う訳だ、つまり仏様そのもの、仏様そのもののはたらきと云うのが実は是ですね、私達は此の尽十方界真実人体の中でいろんな人生を送らせていただいているわけだ、どんな文明を発明しようと学問をしようと、どんな芸当をやろうと皆身体の中の出来事です。つまり尽十方界真実人体の中の風景に過ぎない、そんなものなのです、どんなに貴方が喜んで感心して涙を流して興奮しょうと、大した事ではない。

川の流れで申しますと波が立っただけの話だ、川の流れには全然関係ない、相変わらず流れ続けているじゃないですか。川の流れで言いますと、川の流れそのものが「三昧王三味」であり、あなた方の身体も川のようなものだ。ズーと生き続けていらっしゃる、生まれた時から死ぬまでズーと体まずですよ、そりや坐禅は休むこともあるし、仕事も休む事もあるよけど身体の方は決して怠けちやいないよ、大変ですよ、余計飯食って余計遊ぶと、身体はいい迷惑しますぜ、人生上の仕事はしませんけど、身体の生命活動というものは、絶える事なく休むことなく続けていますよ、ズーと進み続けておりますよ。

私はまだね、若がえった人を見た事ありません、みな前進状態だズーと前進しております、飯食おうと何だろうと一度も体まずに、のべつまくなしに前進状態を続けてる。此の前進状態と言う事が、川の流れに喩えますと、川は常に流れていると言う事が前進状態だ、是が向上事です。此の向上事が真実の姿です。ですから仏向上事とも言う。仏向上事の風景が本来の人間の相であるわけです。ですから私達は、仏向上事そのものをみっちり修行しよう、と言うところに仏道というものがある。それでみっちりと修行し続けている処を、仏仏の要機祖祖の機

仏祖と言うものは何だろうか、仏様ってどういうものだろうか、仏様とは宇宙の真実が仏様だ。つまり宇宙の真実とは生命活動そのもので生命活動は一時も休まず続いている其の中で私達は人生送らせていただいている。仏様其のものを実践するのが坐禅です、坐禅はあなたの修行ではなく仏行で御座います、仏を行ずる事です。私達の坐禅は行仏で御座います、仏行という言葉は他の宗教に無く道元禅師だけの言葉ですよ、其れを仏仏の要機祖祖の機要と謂う。

二乗外道及び趙宋以来の異計の者は于茲に暗し、二乗という人達は声聞縁覚です。どういう人達かと申しますと、悟りを一生懸命に求めてる人達です、大変熱心に脱線せずに、厳格な修行をし、戒法もよ―く守っているという真面日な人達です。お釈迦様と同じ悟りを開こうと思ってる人達です。

二乗は何故いけないかと申しますと、悟りという狙うものがある、という事は人生上の事ですぜ、人間ですぜ、此れは。狙うという事がどのようなものを狙っても人間という者であり満足がしたいという是が人間であるわけだ。事業やって成功したい、ああ良かったという満足感だけですよ。是がなかったら誰もやらないでしょうね、大きな事業をする会社をつくる、だんだんだんだん大きくなる、会社をつくってる人達はのべつまくなしに、大きくするばかりで小さくする人誰もいないでしょ、どんどん大きくしてる又発展した、いったい何処

まで発展するんだい、考えたら可笑しいでしょう。あれが人間性というもんだ。私は変な言葉発見した、人間のやってる事は、悟りが欲しいと言っても、悟りという我儘を欲しがって暴走する暴走族だな、若い者たちがオートバイ乗り回して、物凄い音立てて走る。

若い者に「どんな感じする」って聞いてみたら「この気持ちは和尚さんには分からんでしょうね」と言いやがる。「山の中の、人がいない道をスーと走る爽快な感じといったらそりや―ネエだからな」と言う。「和尚もやつてみろ」と言う。まっぴら御免。こういうような感じだな。

つまり云うと人間には、年齢に関係なく皆こういうような事が大好きだ、是を私はわがままの暴走族と言うのだが、悟りを一生懸命求めてやってる連中も、私は暴走族と言う。人間の求めるものは自分の嫌いなものは絶対に求めない、望むものも自分の嫌いなものは絶対望まない、だから考えてごらん、人間の理想というものを。あれくらい、いい加減なものないから。

如何にも自分では理想というと、美化したり正当化したりしますよ。大変な価値をもたせ美化してるよ。そうしてその為に私は飯を食わんでも良い、身体なんかどうでも良い、という事で暴走する.皆これ暴走族だ。言うと、我がままの暴走でしかないじやないかと言う事になるわけです。

私はね、お釈迦様が苦行を止められたのも其処だと思うな、お釈迦様の姿見てごらん、苦行してる姿、あれちょっと日向(ひなた)に出してごらん、乾物になるよ、骨はこうだし、腹はこうだし、腐らないから直ぐ乾物に成る。あの乾物の姿が何が尊いか。

真実というものは自分の好みの方向に暴走したと処にはない、人間はのぼせてしまって、大切な自分の身体の都合を無視してしまう、親方忘れてしまってそっちの方にだけ暴走する、其れに気が付かれた。

それで、それを止められた、そして尼連禅河(にれんぜんが)で身体を清められて、スジャータの供養の粥を取られ、体力を回復させてから、初めて菩提樹下で本当の坐禅を始められたわけです。

 

正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(三) 酒井得元

面山述讃 第二十一 三昧王三昧

述して曰く、三昧王三昧は九年面壁是なり。是を仏仏の要機祖祖の機要と謂う。二乗外道及び趙宗以来の異計の者は干茲に暗し。

讃に言く、高して上無く。広うして涯なし古仏の規範。衲子の模楷。名を聞く者は六趣忽ちに超ゆ。縁に値う者は万劫乖れずして歴代祖伝法の真準たり。乃ち十方仏出世の本懐なり。光明徧界曾て匿さず。杲日天に当る十字街。

お釈迦様が菩提樹下で坐禅をしてお悟りを開かれたのち、先ず苦行林に行かれた。五比丘以下の連中は「シッダルタは堕落した」と言う訳で皆がよそ向いちゃった。こちらを向こうとしなかった。その内の一人が、うっかりとお釈迦様のお顔を見てしまった、すると、すっかり参ってしまって頭下げちやった。気が付いた時は、五人揃ってお釈迦様に礼拝をtてしまった。いうことは自分達の我がままの暴走ということに気づかれたのだろ。

お釈迦様御自身が、我がままの暴走がいかに愚かなものであるかを、身をもつてようくお示しになった訳だ。仏道修行というものも、うっかりしますというと我がままの暴走族になりかねない。是が二乗外道の修行だよ。

道元禅師が、この悟りを求める為の坐禅を否定されているのは、そういう処から来ている訳です。一生懸命に悟りを求める、いかにも真剣な真面目な態度に見えるでしょう。

ですからして二乗というような連中には、達磨様の面壁九年という坐禅が解ろうはずがないな。“堕落者 ”と言うことになるだろうね、それから外道というのは、“心外無別法”心外に法を求めると言って、勝手に自分の理想を外に追求する連中の事を言います。外道には必ず目標が有ります。自分で勝手に決めた理想を持っています。その理想を追究する者が外道ということで、ここでも同じ事ですね、こういう連中にはここのところが解ろうはずが無い。

趙宗以来異計の者は干茲に暗し。

趙宋というのは、大慧宗果あたりの看話禅、見性禅の事です。見性禅の者達は是が解らなかっただろうと言う事だ。

道元禅師が行かれた趙宋中国では、皆悟りを求める連中ばかりであったからです。非常に流行ってたんだ、全てがこの見性禅だったらしいね。『弁道話』の中に「臨済宗のみ天下にあまねし」と有ります様に…。

人間と云うのは昔からこういう目的を以て頑張るものなんだ。仕方がないな、人間とはそういう習性のものです。ですから、趙宋以来の異計者は暗し、この三昧王三昧というものも、とんでもない解釈をしている訳だ。

讃に言く。 高うして上無く、広うして涯なしというのは、無所得無所悟の事をこう言った訳だ。無所得無所悟ですから修行の仕上がりはありませんね、とうとうやり終えたと言う事はありません。

そんな際限の有るものではない、これが尽十方界だ。高して上無く 何処まで行ったらのぼり切るかつてものはありやしない、だいたい天上が無いんだから。

広うして涯なし 目的を達する事がないから。無所得無所悟の修行が、高うして上なく、広うして涯なしという言葉で表されている訳だ。 つまり仏法の真実というものは不可得という事です。

“俺はとうとう真実を得た”という時には、満足したんだから是は真実では御座いません。真実というものはどういうものかと言いますと、諸法実相という事です。ありとあらゆるものは真実の姿である。この宇宙全体が真実というものだ。

古仏の規範納子の模楷。古仏の規範というのは仏様の教えの手本の事で、仏様がどういうご修行をなさったかと言いますと、高して上なく広うして涯なし というのが仏様のご修行の原則だ。どんなにやつても是で終わりという事が無い。考えてみると、求める限界が上なく涯なしなのだから、求めることのない絶対の修行でなくてはならない。ですから 広うして涯なし。

納子の模楷というのはつまり修行僧の法式進退のことだ。

名を聞く者は六趣忽ちに超ゆ 名を聞くというのは三昧王三昧の坐禅に値うことだ。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天、という六趣の迷いの世界は、三昧王三昧の世界からすればすでに超えており、六趣など消えてしまいます。それは、どこまでも尽十方界真実人体ということを修行しておりますから、六趣の中の綾模様なんてものは問題に成りません。だから忽ちに超ゆ。

縁に値う者は高劫乖れず 中々こう云うような縁に値うと言う事は難しい事です。無所得無所悟の三昧王三昧の坐禅に縁があるという事は、よほどの仏縁でもないかぎりね。そうしてこれが本当に真実に目が覚めた人、仏法というものに気が付いた人でなければ難しいでしようね。その時は高劫乖れず。永久に離れないだろうな。と言うのは、人間の求めているものが大した事無いと解つたらそれでいいでしょう……。

人間が最高のものだと思って求めているものは最高のものではないですョ、それがはっきり化けの皮がはがれた時は、そちらに振り向かなくなるでしょう。

歴代祖博法の真準たり。つまりお釈迦様からズーと今日まで仏法が伝わっております。そうして伝法という事が今に行われております。そして、その基準というものが三昧王三昧であったわけです。そうして、乃ち十方仏出世の本懐なり。何故出世という言葉が出てきたか、これは世間を超出することです。面白い言葉ですね。世間と云うのは人間界のことであり人生上の事です。私達は自分の身体の中の風景に引きずり回されている。私達が物事を考え

るということをようく考えて頂きたい。私達が物を欲しがると云うのは、個人の都合というここから来てるでしよう。残念ながらここからだ。「物が食いたいな―」それから餌を探し始める。そして、どうしたら美昧い物食えるだろうかと動き出す。動物たちの動いてるの見てごらん。

私はこのまえ駅のプラットホームで、電車の来るの待ってましたら、鳩が飛んで来ましてね。鳩の奴ね、飛んで来たらすぐこれだもんね、一遍も休んだ事ない。よく餌が有るね―。それからこっちつついてすぐとなり、あれより他、決してやらないものね。たまには景色でも見たらどうだい。決して見ない。「あ―なるほどな」と思いました。鶏がそうですね。笑えないな人間も同じじやないですか、やつぱり口だな。食べることだナ。

それからいろんな思考が発達する。思考というのは意思です。意思というのは物が欲しいという欲望の事、「欲しい欲しい」というのが考えの基本で、この欲しい「満足したい満足したい」というところから思考が始まる。それが食う物だけでなく、着物も満足する着物が着たい。家も満足する家に住みたい。飽きると又別の物を欲しがる。欲望の発展が始まる。そういうことばかりやって一生終わりだ。

思索という事もエゴです。人間の求めてる思想もそうです。どんな立派な哲学史も元々はエゴです。つまり自分の意思にかなったものを創り上げようとする。人間は、自分の生活状態の満足を求めようとする。生活状態の違う人とは意見が違ってくる。政治の革新と保守がそうです。頭の構造を変えて、共通の同じ立場に立たないとだめですね。それでそういうものはどうにもならん。人生上の悩みはどうにもならんナ

これが世間です。それに対して仏道は出世間です。出るという事は、こういうことを自分の中で風景、綾模様として見て、それに引っ張り回されない、これが解脱です。十方仏出世の本懐なりです。これが三昧王三昧の坐禅の行です。仏様のこの出世された本懐だったわけです。

光明編界曽て匿さず。光明はただの光ではない、大自然の恩寵といったらいいでしよう。尽十方界の真実のありかたが光明徧界です。永久に無くなるものではない、私達は実は、何時も尽十方界の真実に生かされ続けている。これを離れることは出来ません。

杲日天に営る十字街。果日は太陽がカンカン照りの事、天に営るは天いっぱい。つまり光明術界を言い換えているわけです。

私達は自然の恵みいっぱいに生かされているのです。ですから何も求めることはありません。

黙っていても十分に頂いております。ここに私達は目を醒ます。三昧王三昧の坐禅をしていることが仏様の恩寵を十分に頂いていたわけです。

私達が幸福と云う物を求めるのは、杲日天に当る十字街ということが解らないからです。光明徧界曾て匿さずという事を信ずることが出来ないからです。そのままで十分。

私達は何時も何か自分を救つてくれるものはないかと追い求めていますが、それは一時的なものであって、悟ったとか、解ったとか、得たぞ、とかいうものは、決して本当の救いではありません。

 

正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(四) 酒井得元

 驀然として尽界を超越して、仏祖の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり。外道魔儻の頂□(寧+頁)を踏飜して、仏祖の堂奥に箇中人なることは結跏趺坐なり。仏祖の極之極を超越するはたゞこの一法なり。このゆゑに、仏祖これをいとなみて、さらに余務あらず。まさにしるべし、坐の尽界と余の尽界と、はるかにことなり。

この結跏趺坐とは、手を組み足を組んで、正身端坐しただけの事ですけども、この事がそれ程に意味があり、これが仏法の全体であるという事です。つまり申しますと、私達の結跏趺坐という事は、先ほどから何回か申し上げました通り、尽十方界真実人体と云うこの事実

を実践実証するもので、是より他に求むるべきもの無きなりということです。其の意味に於いてこの結跏趺坐は最も重要なことです。

なんだか書いたものを覗いて見たらこんな事書いてありました。腰掛坐禅とか出てまし

たが変なものだね。実は坐禅は静坐法じゃありませんから、静坐して精神統一することではありませんから。

私達の仏法は結跏趺坐(半跏趺坐も同じ)が全てです。結跏趺坐をしない時には三昧王

三味の現成は御座いません。これは私の信仰で御座います。又これが道元禅師の宗旨で御座います。志の有る人は坐りますよ。外国人も坐っています。便法はどうでもよい、要するに坐禅が仏の正法を行ずることです。こういう風に観ていただきたい、そして信じていただきたい、そこで本文最初のこういう言葉が有るわけです。

驀然として尽界を超越する、この驀然と言うのは一目散です。尽界は尽十方界です。尽十方界は宇宙全体、我々は宇宙と言うと目の前に展開している観察されたところを宇宙と考えますが、感覚でとらえる宇宙では御座いません。

私達が生きていると云う事そのまま全体が宇宙です、勝手に生きているのではありません。人間は人に生まれたいからと、一生懸命に頑張つて生まれて来たのではありません。知りませんね。気が付いたら人間だったというだけです。それからず―と人間やってます。一生懸命やってると言っても、ただ飯食って来ただけですよ。歳取ると数になるだけです、皆さんもそうだと思いますが。

一生懸命努力するという事はどういうことかと言いますと、何か目的を持ってグイグイ頑張つているだけでしょう。身体の為に頑張つているのは珍しいでしょう。もっとも最近では走る事が流行ってますが、だけどその人達の目的は健康の為だろう。悪いことでは無いが、ま―大したことではない、一種の満足感の追求です。

私は天桂伝尊さんの御蔭で、『宝積経』読み出しました。その中に、「仏曰く若し求むる所

有れば即ち涅槃に至るも名付けて悪欲と成す。是を名付けて如来秘密の説と名付く」(「大正蔵」十一・五〇二下)とあります。

これが如来の極意だそうだ。一生懸命求めて、「涅槃に到達したついにやり終えた」と言

つたらそれは間違いであると。そうしますと、好い気持ちに成ろうとか、腰掛けて好い精神

状態に成ろうとかというのは坐禅ではありません。仏道ではありません悪欲の側に入る。

私達が生きてるという事は、勝手に生きているのではない尽界を生きてる。人間は死

んでも命が有る様にと思う、殺そうとすると皆怖がる。当たり前だ、それが本当でしよう。

“死にたくない・死にたくない”これは誰からも習った訳ではない、習わなくともこれは

本当です。これは生命あるものとして好い事だなあ。死にたくないから自分のことを大切

にし守ろうとする。“死にたくない”という恐怖心が自分を守ろうとする心を起こし、考

えさせてもらつてる。この考えるという頭の働きが「死にたくない死んでも命が有る様に」

と自然に考えるようになつているわけだ。

あなたが勝手に考えているのではない。、いかにもお前さんの勝手な考えのように思いますけどそうではない、そういう風に考えさせて何まで皆させてもらつている訳だ。自分個

人でやつているのではありません。皆そういう風に出来ている。つまり言うとあなたの生

きてるという事、全ては大自然があなたを生かして下さつている。

人間は我が儘で悪欲ばっかりやってますよ。悪欲ということも矛盾してるじやないか

とお考えになるでしようが、私は何時もこのことを自動車のエンジンに喩えます。人間は

自然の恵みを過度に頂いている。車のエンジンは規定内の正常範囲だけの能力を出すエン

ジンが付いておつたらこれは危ない。余裕が無いと、余裕を持つたエンジンでないと安全

運転は出来ません。私達の身体も余裕のある恵みを頂いてます、ですから過度な事をして

しまう。

本当の生き方は節制が大事です。私がやりたいから、欲しいから、何をやつてもいいだろう。俺はこれがやりたいんだからいいじやないかやりたい放題することが自由じやないかと言いたい処だが、そういう我が儘の暴走というものが人間を滅ぼす。それは自然の恵みを無駄にしているから、私達が自然の恵みを余分に与えられているのは、安全運転が出来るようにとの事で与えられている。それを私達は謙虚に受け取ってブレーキをかけながら生きていく、これが本当の生き方です。こういう生き方が尽界を本当に頂くことです。

驀然として蓋界を超越して、 超越とはどういうことかと言いますと、完全に大自然の恵みを頂く事です。大自然の生命の恵みを全部そのまま純粋に頂戴する事が、尽界を超越すると言うことです。それが坐禅の形の結跏趺坐になります。だから我が儘をやると云うのは本当の自然の恵みを頂いていない事です。悟ってやろうなんていう事も大自然の恵みを本当に頂かないでお前の勝手な我が儘に暴走しているということです。

道元禅師の大切な言葉に「身心脱落」と言う言葉が有ります。脱落という事は落第する事ではない、落ちこばれだということでは無い。普通一般では脱落は落ちこばれのことを言いますが、この「身心脱落」はどういうことかと言いますと、身心は脱落である。脱落は身心である。

身心は全体である。その実態は尽十方界で御座います。そうしてこの尽十方界というものは永遠に活動し続けている宇宙の真実であります。今、身心をして、結跏趺坐している事そのことが大尊貴生なる三味王三味ということである。

 

 正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(五) 酒井得元

原文

驀然として尽界を超越して、仏祖の屋裏に大尊貴生なるは、結跏趺坐なり、外道魔党の

頂□(寧+頁)を踏翻して、仏祖の堂奥に箇中人なることは、結跏趺坐なり、仏祖の極之極を超越するは、ただこの一法なり、このゆえに仏祖これをいとなみて、さらに餘務あらず。

まさにしるべし坐の尽界と餘の尽界と、はるかにことなり。この道理をあきらめて、仏祖

の発心・修行・菩提・涅槃を辦肯するなり。

提唱

身心はどんな事があっても身心を貫き通している、それが身心脱落という事です。脱落は、脱落の事実以外の事にはどのような事があっても左右されません。これが脱落身心ということです。川はどんな事があっても流れ続けています。

人生は尽界の中のあや模様であり風景です。ちょうど川が流れておれば、川の水面はたん

なる水面ではありません。波が立ったり、さざ波が起こったり、水しぶきが上がったり汚

れてみたり、いろんな状態があります。これは流れているから、いろんな風景があるのは

当たり前です。

お天気もそうです、晴れた日もあれば曇った日もある。いろんな事があって当たり前、私達の健康もそうです。風邪引いたり、腹痛やったり、癌に成ったり、肺結核やったり、いろんな事しながら生きている。生きているからには、これは風景ですから避ける事出来ません。当たり前です「平常心是道」だ。この大自然の恵みが「身心」という事であり、この大宇宙の真実が「脱落」ということです。止める訳にはいきません。

この尽十方界そのものを実践実証するものは坐禅より他には無い。この坐禅の小さな姿勢が、考えると大変な事やってます。

知らん顔してただ坐っているだけで尽十方界真実を行じているのですから、他人が見たら「可笑しなことやってるな」という風に見るだろうな。この「何ともない」ということが

超越ということです。

私達が平気な顔をしているということが、いかに偉大な事であるかということを知って

もらいたい。平常底の中で坐禅をしていることがいかに偉大な事であるか。この結跏趺坐

が、驀然として尽界を超越するもっとも平凡な坐禅であるという事です。平凡な坐禅がいかに偉大なものであるか、ということを心してもらいたい。

外道魔党の頂寧□(寧+頁)を踏翻して、仏祖の堂奥

に箇中人なることは結跏趺坐なり。

この外道と言うのは、前に「心外無別法」とありましたが、人間の独断で決め込んだ連中で

す。

「これが真実だ」、「この神様が一番偉くて宇宙を創造し全てを支配しているんだ」と、そして、神様神様と、唱えてるのが外道です。それは勝手に信じてる、だからそれを信じない他の部族は間違ってるといって、憎しみを感じ争いと成る。商売敵のようなものです。この外道は人間の、ただの感情内の生活をしているだけです。そんなところに偉大なものは有りません。こんな連中に、「只管打坐」「結跏趺坐」は解らないでしよう。それで外道魔党の頂寧□(寧+頁)を踏翻して、その頭を飛び越えているということです。

その自我以前の「本来の面目の自己」を現しているのです。だから仏祖であるわけで

す。

仏祖の極之極を超越するは、ただこの一法なり、

この私が仏祖の結跏趺坐をするということが、ただひたすらにうちすわる、「只管打坐「三昧王三昧」の一法だという事です。一法とはただ一つの二のない真実の道だと、

仏祖の堂奥に箇中人なることはというのは、仏祖の奥の奥に入り込んで仏祖その本来の面目の人に成り切ることです。箇中人とはそれは結跏趺坐することです。結跏趺坐している時は彼方は彼方をやめてしまっています。彼方の我が儘をやめれば仏様です。

つまり坐禅はそういう自我を止めた、ということです。先ほど申しましたように、「これこそは」と感覚で言う様なものが有ったのでは、極之極を超越する一法には成りません。

坐禅してると足が痛い。愉快だな痛いという事は、身体に虐められてる。痛くなきゃ身体に虐められる事ない。

何とか「楽しよう楽しよう」と考えるのは我が儘ですよ。痛い時は只痛いだけで、勝手な事出来ない、これが極之極を超越することになるでしょう。考えると痛いという事は有り難いことです。痛いままに「何ともない」、というところに超越がある。

難しいですが、坐禅は「何ともない坐禅」をしなければ超越ということにはなりません。せっかく坐禅しているのに、「ああ気持ちが好いな」、「ああ無念無想に成った」と、感心し

ているのでは駄目です。無念無想に成ったと思ってる時は、有念有想を一生懸命やってるときですよ。

このゆえに仏祖これをいとなみて、さらに餘務あらず。

仏祖は仏道を行じなければ仏祖ではありません。仏祖は結跏趺坐をしなければ仏祖

には成り得ません。仏祖はどこまでも結跏趺坐をやつてこそ初めて、仏祖と成りうる

わけです。只管打坐の結跏趺坐は、普通の人からみれば無意昧です。しかしこの無意

昧なものが、いかに有意義なものであるかということが、解ってもらえることが大切

なことです。

まさにしるべし坐の尽界と餘の尽界と。はるかにことなり、この道理をあきらめて、仏祖の発心修行菩提涅槃を辦肯するなり。

餘の尽界とは、「ああ宇宙広いな―何処までも何処までも限りが無いな―。」感心するのはそれは感覚の対象だよ、お前さんが感じて言ってるものだ。見た者はお前さんが無限と見てるだけだよ。無量無辺と彼方がそう言ってるだけだよ。それは感覚の問題だ。人生上の問題だよ。人間生活の問題だ。波であり、水しぶきですよ。

しかし坐の尽界は先ほどから何回か言ってるように、私達が生きてるということは尽十方界真実を生きてます。大自然を生きてます。生きてると云うのは生かされているという事で、悉有(しつう)という言葉がありますが、どれもこれもが、ですからしてこの坐の尽界は感覚の対象ではありません。生きてるというその事実を、感覚を越えて実証するのが坐禅です。それが坐の尽界であります。

そんなものが本当にあるのかと思うでしょうが「何とも無い」ということ。

そこには感心するものが何も無い。私達が感心するものに碌なものはない。本当の偉大なもの絶対的なものは感じません。ですから、「坐の尽界」と「餘の尽界」とはるかにことなり、これは次元の違いの問題ではありません。

このことをよ―く心得た上でないと正しい坐禅にはなりません。王三昧にはなりません。仏道修行にはなりません。「この道理をあきらめて仏祖の発心修行菩提涅槃を耕辦肯するり。」それをあきらかにして初め仏祖の発心修行が行持されていくのです。

私は『正法眼蔵』の中で、「全自己の仏祖」という言葉に感激したね。道元禅師は「仏

道をならうというは自己をならうなり」と、言われております。(現成公案の巻)この自

己が「全自己」です。この全自己は言葉を変えて言うならば尽十方界真実人体です。尽界です。大自然そのものです。皆さんが「私だ俺だ」と言ってるのは自我意識です。ですから、身体の調子によつて自我意識が働かないことがあります。栄養失調三度位やってごらんなさいよ、何も欲しくなくなります。無欲悟淡です。「俺これからどうしようかな」なんて考えも浮かんできません。一日中目を開けて、上向いて寝てても退屈しません。大きな声で呼ばれても聞こえません。傍で怒鳴られて初めて、やっと気づく。隣の寝ている人が夜中にうめき出すと、翌朝それで死んでいます。そういう経験を私も中国でして来ました。ですから自信持って言えますよ。

それから少し身体が良く成ってきて初めて「俺これからどうしようかな」と、考える。「腹減ったな」と気づく。それまでは腹減ったとも思わないし、楽なもんです。悩みは全然有りません。悩みが有るということは有り難いことです。悩みが有るということは欲望が有るということで、欲望が有るということは、体力が有るということです。怒ることも出来るし、有り難いことです。自殺するような元気な奴はもったいない―。

とにかく全自己というものは、私たちを生かして下さつている宇宙の真実「尽十方界真実人体」ということです。これが仏祖正伝の仏法でこの巻の「三昧王三昧」の坐禅、結跏趺坐です。

 

 正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(六) 酒井得元

※原文

正当坐時は、尽界それ竪なるか横なるかと参究すべし。正当坐時、その坐それいかん。飜巾斗なるか、活々地なるか。思量か不思量か。作か無作か。坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。坐裡身心裏等を脱落して坐すや。恁麼の千端万端の参究あるべきなり。身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし。身心脱落の結跏趺坐すべし。

先師古仏云、参禅者身心脱落也、祗管打坐始得。不要焼香礼拝念仏修懺看経。

※提唱

正当坐時は、尽界それ竪なるか、横なるかと参究すべし、

つまり言いますというと、自分が今坐つているのは自分勝手な坐禅をしてはいないか、尽界を本当に修行しているかどうか用心しなさいという意昧です。自分の満足追求ではないのか注意しなくてはならない。うっかりしますと満足追求に骨折っている場合がある。

一週間の摂心をしますというと、中で一炷位は大変気持ちの良い時間があります。それを間違えまして、無念無想に成ったような気分になることがあります。この一性の為に一週間あったような気持ちに成る。実際私も若い時そういう体験をしました。

これは異常状態です。長い間坐っているので身体が変に成ったのでしよう。そうしますと頭の働きも変に成ります。これは半分眠っていたのかもしれません。眠つているのは自分では分かりません、警策で打たれて初めて、自分は眠っていたのだと分かるようなものです。

このようにいろんな状態がありますが、有って当たり前なんですね。三昧は或る時の一点をいうのではない全体的な事をいうのです。

正当坐時、その坐それいかん、「如何」というのが解答です。「如何」というのは「こうこ

うこういうふうに」ならなきや成らない。というのではない。いかなる事も在り得るから

「如何」と言う。

禅の言葉は疑問詞が多い、この疑問詞が大事なんです。「如何なるか是れ仏法の大意」、「如何なるか是れ祖師西来意」質問ではない、言ってる本人は質問ですが、この「如何なるか」と、言うのが真実です。それは答えが無いからです。

答えを出すということは決めてしまう。さなものになってしまい真実が死んでしまいます。真実には「これこそは」というものが無いからです。坐の正体は「それいかん」ということです。

人間は物事が解決すると「あ〜良かつた」と言って納得する。こういうものがあったの

では本当の坐禅ではない。終わってしまい生命が無くなってしまう。永久に「如何」とい

うことが坐禅の正体です。これを良く知ってもらいたい。「なんともない」納得のいかない

坐禅を一生懸命やっていく、これでは救いが無いと思うでしょうが、それが大切なところ

です。

その坐それいかん、翻筋斗なるか、活々地なるか、思量か、不思量か、作か、無作か、

翻筋斗というのは引っくり返ることです。「か」というのは疑問詞になっていますが、全肯定と解した方が良い。ですから翻筋斗であることもある。活鱍々地であることもある。思量も不思量も作も無作もそうです。こういういろいろな状態が有るのが本当です。

お天気を考えてごらん、晴れの日もあれば雨の日もある。風も吹けば台風も来る地震もある。あらゆるものが揃ってなければお天気ではない。人間の身体もそうです、何時も元気という訳には行きません。風邪も引かなきやならんし腹痛もやらなきやならん、生きてるからにはいろんな事があります。

地球の表面も川があり山があり、いろんな形してます。これが本当のあり方です。「病気をしません様に」、「何時までも健康であります様に」、と願うのは人間的な望みです。

尽十方界もいろんなものが全部揃っているから尽十方界です。尽界です。何も無いのが尽界ではない。

そして坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。

坐裏に坐すやというのは、坐禅の姿をいう。裏というのは表裏一体の事実、ただの表と裏

というのではない。 ″身心裏に坐すや″は、身心そのものを坐り切ること、身そのものを

坐ること。心そのものを坐り切ることです。

それから坐裏身心裏等を脱落して坐すや。

脱落はいわゆる脱落すること。坐はどこまでも坐であり、身心はどこまでも身心である。こういうことが脱落である。超越することが脱落であると前に出てきましたが。

恁麽の千端万端の参究あるべきなり。

参究は千端万端でなくてはなりません。坐禅中に煩悩が出て来ると、「このやろう」と云ってこれを無くしてやろうと、努力するのは坐禅でも仏道でもない。

身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし、身心脱落の結跏趺坐すべし。

「身心一如」「身心不二」とあるが。身と心とは同じものです。とにかく結跏趺坐をやり遂げていただく、そして身心脱落は結跏趺坐以外あり得ないという事。身心脱落は結跏趺坐の坐禅において、実践実修することが出来るということです。

先師古仏云、参禅者、身心脱落也、祗管打坐始得、不要焼香礼拝念仏修懺看経。

この言葉は道元禅師の文章にだけ出てくる言葉で、外には出て来ません。如浄禅師語録に

は「身心脱落」という言葉が御座いません。これは道元禅師が直接如浄禅師から問かれた

ものだと思います。

そしてこの言葉は、『辦道話』『無情説法の巻』、『仏教の巻』、「水平広録』、の中にも使われております。ですからこの言葉は、道元禅師が如浄禅師に参じていた時の言葉で非常に感激された言葉だと思います。この言葉が後で道元禅師の只管打坐の坐禅の根幹になったといってもいいでしょう。

道元禅師は『正法眼蔵坐禅儀』の中で〃参禅は坐禅なり〃という言葉を用いられております。この言葉が道元禅師の坐禅が、他の人達の坐禅と違うということを表しています。

何故かと言いますと、『辦道法』の最初の言葉によっても解ります。〃大衆若し坐すれば、衆に随って坐し、大衆若し臥せば衆に随って臥す。動静大衆に一如し死生叢林を離れず。群を抜けて益無し。″という言葉があります。

皆が坐る時には皆と一緒に坐る、皆が寝る時には皆と一緒に寝る。そして一生涯叢林生

活をまっとうする。自分だけ特別なものになろうなんて思ってはならない。

これがすなわち、身心脱落であり、現成公案であり、父母未生以前の公案です。

自分一人で、山の中に閉じ籠もったりしてする修行は、「好事不如無」(こうじもなきに

しかず)大変結構な事ではあるが、やらないほうが良い。「小人閑居をなして不善をなす」

という語もありますが。

一人で修行しますと、特別な心理状態に成りやすく、独善的に成ってしまう恐れがある。

私達の坐禅には、独善的なものは一切あってはなりません。

又自分が浸り込んでしまうものが有ってはならない。普通の修行は浸り込むものを求めている。道元禅師の坐禅には浸り込むものは一切有りません。その修行は「参禅」が一番良い。参禅とは身心脱落を修行することであり身心脱落を実践することです。

いわゆる「大衆一如」「不離叢林」といわれる、宗門の修行の指針もおわかりいただける

のではないかと思います。 

 

正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(七) 酒井得元

資料欠本により、本文のみ掲載す。

あきらかに仏祖の眼睛を抉出しきたり、仏祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師ひとりなり、震旦国に斉肩すくなし。打坐の仏法なること、佛法は打坐なることをあきらめたるまれなり。たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれる、いまだあらず。いはんや仏法を仏法と保任するあらんや。しかあればすなはち、心の打坐あり、身の打坐とおなじからず。身の打坐あり、心の打坐とおなじからず。身心脱落の打坐あり、身心脱落の打坐とおなじからず。既得恁麼ならん、仏祖の行解相応なり。この念想観を保任すべし、この心意識を参究すべし。

 

正法眼蔵 三味王三味 提唱(八) 酒井得元

※原文

釈迦牟尼仏告大衆言、若結跏趺坐、身心証三昧。威徳衆恭敬、如日照世界。除睡懶覆心、身軽不疲懈。覚悟亦軽便、安坐如龍蟠。見画跏趺坐、魔王亦驚怖。何況証道人、 安坐不傾動。

しかあれば、跏趺坐を画図せるを見聞するを、魔王なほおどろきうれへおそるるなり。いはんや真箇に跏趺坐せん、その功徳はかりつくすべからず。しかあればすなはち、よのつねに打坐する、福徳無量なり。

※提唱

これは『大智度論』の七巻(「大正蔵」二五・一一一中)にある言葉です。原文通りじゃありません。道元禅師が解りやすいように文書を直されております。『大智度論』の言葉ですけども道元禅師はいつも釈迦牟尼仏のたまわくと言われています。

それでここでも釈迦牟尼仏、大衆に告げてのたまわく、結跏趺坐するがごときは、身心に三昧を証すと云っています。つまり結跏趺坐するという事は、私達の身心で三味を実証しているのです。三昧とはどういう事かと言うと身心の根本姿勢だ。こういったらいいな、三昧を訳しますと、正受、総持こういうふうに訳されてます。もう一度いいますと身心の根本的な姿が三昧だな。尽十方界の真実人体の本来の姿これが三味だ。つまり言うと私達の体、身心は宇宙でしょう。この宇宙のありかたを証してこれを実践したものだ。この事は大変なことですね。宇宙の真実の実証だからね、これ以上の絶対的なものは無いわけだ。だから威徳衆恭敬、威徳というのは身心が三昧を証した威徳だ。この威徳は自然の絶対性だ。これを皆尊ばねばならない。頭を下げざるを得ないじゃないか。

そしてそれは、日の世界を照らすが如し、まるで丁度太陽が、世界を照らしてるような偉大なものだ。だからして其れに対して、こういうような坐禅の姿をしなきゃならないじゃないか、そのような坐禅をしてこそ、この森厳さにたいして衆は自然と、頭を下げるのではないか、確かにそういうことありますね。

沢木老僧が昔ね初めて永平寺へ行った時に、まだ坊さんじゃなかったので永平寺では修僧としては入れません。断られたが自分は死んでも此処から帰らないというので仕方がない、ああいう所ですから男衆として置いてくれたわけだ。小間使いみたいに取り扱われておったのね。

その時に福井の町から東に行きますと竜雲寺という寺が有ります。その寺で開山忌か何かあったのね、それで人夫に頼まれて行ったわけだ。それであのうらめしい婆さんが居りましてね、それがうんと、こき使ったそうだ。ああせいこうせい、ああ茶碗を洗えこれ洗えとね。まあ一生懸命働いたそうだ。所謂小間使いだからな、それが終わつてああ今日はご苦労さんだった、休んでいいよとこういうことになった。昔私らもそうだったけども、布団部屋なんか入って寝たもんだよ。二十四時間ぶっ続きで寝た事あるよ。そんな時は起こされんから安心して寝れるよ。だからして姿が見えなくなったから、ああやってるなって訳で婆さん解ってる。それが何かの用事で座敷へやって来て、襖を開けたところ小僧座敷の真ん中で坐禅しとった。その時に婆さん、今までこき使って馬鹿にしとった小僧ですよ、その姿見て、ビツクリして南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏と、合掌礼拝をしたっちゅうもんな。それで坐禅というものは″何ぞあるぞ″ということを初めて知った。理由無しですよこれは。

だから坐禅というものには、本人がどんな思いで坐っていても、人が見るというと、そういう厳粛なものがあるということを初めて知らされたわけだ。これが沢木老僧が只管打坐の坐禅に入っていった一つの起縁に成っておりますね。ここでもこれと同じことですよ。

確かに坐禅してるところはそういう厳しいものがあるんですね。これは、坐禅が尊厳なものであり。その尊厳性をここで言ってるわけだ。威徳は衆の恭敬して日の世界を照らすが如しと。

それから次に坐禅を一生懸命やっておりますと睡懶覆心を除く。 一生懸命坐禅していましても眠くなることがある。叱られながら坐禅しておりますと、まあ目を開いているから自分を見つめる事が出来ているとしても。ところが眠ってしまったらお終いですよ、寝てしまったら三昧でも坐禅でもない睡懶だ。だからあくまで三昧を証した威徳の太陽の世界を照らすような坐禅をしなければならないわけだ。

だから身軽くして疲解せずという坐禅をしなければならないわけだ。坐禅は仕事したり物担いだりしてるのと違いますからね、坐禅は何かをしていることではありません。何もしておりませんから疲れるということはありません。

だから覚悟亦軽便なりという事です。この覚悟とはどういう事かと言うと、いろんな事が頭に浮かんできますね。この頭に浮かんで来るのが覚ですね。これも自然に浮かんで来る。何もしておりませんからね。野球なんかやっておりますと、集中力でもって玉が来たらひとつ打ってやろうと、一生懸命やってるでしょう。そうすると考え事出来ない、打つことに集中しなければいけないでしょう、あの連中は、一生懸命夢中にならなければいけないでしよう。のぼせだなあんなことせんでもええのにと思うことありますよ、ご苦労さんと言いたくなるね。坐禅はああいうことじゃないですョ。あ―いうような夢中になった気持ちじゃないんだ。これは、仕事してるからだ。坐禅は覚悟亦軽便なりで、そういう集中力をやってませんから静かな姿だな。ひとつ玉が来たらホームラン打つてやろうというのと違いますよ。うっかりしますと、坐禅もひとつ精神統一してやろうというようなことになると、間違いを起こすよ。そうではなく心身に三昧を証した結跏趺坐であればこそ覚悟亦軽便なりです。

安坐して龍の蟠(わだかま)るが如し坐禅している姿は非常に厳格であると同時に森厳なるものです。その厳しさは″龍の幡る″ようなものだ。よくこの言葉使いますよ。坐禅の姿は龍の幡るが如しという言葉はここから来ていたわけだ。

そうして跏趺坐を画くを見るに、魔王亦驚怖す。画に描いた坐禅の姿だナ。これを見ても魔王がびつくりする、恐れをなす。画でさえも魔王さんびつくりする。魔除けになるということだナ。

それで何に況や証道の人、本当に証道の人とは、この三昧の坐禅を実践してる人のことだ。結跏趺坐している人だ。

この証道の人は、安坐して傾動せざらんや、ごたごたしたりしない。傾いたりしないで、ただ安らかに″安坐″正身端坐をしていることじやないか。この言葉は大事な言葉ですよ。この一節は坐禅に対する説明において、こんな良い説明のものは有りません。『大智度論』の言葉です。次にこれについての道元禅師の垂示が、

しかあれば、跏趺坐を画図せるを、見聞するを魔王もなほおどろき、うれへおそるるなり。

だから坐禅の姿は魔除けにもなるわけだ。人間のい云う魔って大したことないや、悪魔なんかな魔除けなんか本来ありませんョ。迷いなんか本当は無いもの。

いはんや真箇に跏趺坐せん、その功徳はかりつくすべからず。しかあればすなわち、よのつねに打坐する、福徳無量なり。

坐禅するということは福徳無量を実現していることですね。福徳無量、つまり福徳が無量に現成していることでこの場合には、仏道から申しますと福徳そのものが跏趺坐ということです。福徳無量を実践していることで御座います。これは大変有り難いことですね。こんな縁起のいい話はないな。しかしこの福徳とは、あなたに腹一杯御飯を食べさせる事でもない。大いに儲かることでもない。又病気が全部治るということでもない。そんな福徳ではない。そんなことはどうでもよいのです。とにかく私達は、真実に生きるということが福徳ということです。人間の虫のいい願望が福徳ではありません。そのへんに目を開いて頂きたい。

 

正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(九) 酒井得元

※原文

釈迦牟尼仏告大衆言、以是故、結跏趺坐。

復次如来世尊、教諸弟子、応如是坐。或外道輩、或常翹足求道、或常立求道、或荷足求道、如是狂狷心、没邪海、形不安穏。以是故、仏教弟子、結跏趺坐直身坐。何以故。直身心易正故。其身直坐、則心不懶。端心正意、繋念在前。若心馳散、若身傾動、摂之令還。欲証三昧、欲入三昧、種々馳念、種々散乱、皆悉摂之。如此修習、証入三昧王三昧。

(復た次に如来世尊、諸の弟子教えたまわく、応に是の如く坐すべし。或いは外道の輩、或いは常に翹足して道を求むる、或いは常に立ちて道を求むる、或いは荷足して道を求むる、

是の如きの狂狷心は邪海に没す、形安穏ならず。是を以ての故に、仏は弟子に教えたまわく、結跏趺坐し直身に坐すべし。何を以ての故に。直身は心正し易きが故に。其の身直坐すれば、則ち心は懶ならず。端心正意にして繋念在前なり。若しは心は馳散し、若しは身は傾動すれば、之を摂して還らしむ。三昧を証せんと欲い、三昧に入らんと欲わば、種々の馳念、種々の散乱、皆悉くに之を摂すべし。此の如く修習して、三昧王三昧に証入す)

提唱

前段を承けて『大智度論』七巻が続きます。

釈迦牟尼仏、大衆に告げてのたまわく、是を以ての故に結跏趺坐す」と大衆に告げられてから″この故に結珈映坐す″と実際に坐禅して‥‥応に是の如く坐すべし、と外道の輩の苦行によつて道を求めることへの誤りを示して、正しい王三昧の坐禅が、如何にあるべきか教示下さつています。

‥‥或いは外道の輩、或いは常に翅足して‥‥常立して‥‥荷足して道を求むる。是の如きの狂猾の心は邪海に没す。その当時、インドではこのような苦行をするのが沢山いたのですね、今でもいるそうですよ。これは外道の輩です。 ″翅足″といつて足の親指を逆に立てて変なふうにして立ってる。これは正常な姿勢ではないですよ、異常な無理なことをやってこれが求道だと思っている。又″常立″というのだから、決して横にならずに立ちっぱなし″或いは荷足して道を求む″と、足を担ぐような格好をして立ってる。見たことありませんけども要するに苦行者のことですね。いろんな苦行があるわけだ。つまり云う処の苦行というのは、身体を痛める事だね、これを″狂狷の心″といわれてますね、″猜″とは片意地を張ることで、こんなことをすると″邪海に没す″とはっきりいわれている訳だ。何故かというと形、安穏ならずと正常じゃないものね、異常ですよ、だからこの苦行の姿勢というものは決して安穏、安らかなものではない。人間の身体というものは、左右上下全体に調和がとれております。それをわざわざ変わった事をする。人間という者は苦行だとか、荒行だとか云って、あんな風になっちゃうもんだ。それが道を求める修行と心得ちがいするのだから哀れなもんだ。この前、私は広島県呉市へ行って来ましたら、山の中に洞穴が有りましたよ。そこは或る教祖さんが断食苦行した所だそうだ、中に入ってみましたよ、何てことな

いや、 ″邪海に没す″というような思いがしましたよ。そもそも″邪″というのは自分勝手、自己中心、有我に没した我が儘ものの事を言いますね。前に言った私の言葉で言いますと「我が儘の暴走族だなア」、人間はこれを悟りを開いたとか神通力を得たとか、霊能者になったとかいうのだから注意しないと。これは、のぼせ、かぶれ、狂ってるというのだナ。 ″邪海に没す″と″安穏ならず〃とはつきり間違いだと御説きになつているわけだ。

是の故に仏は弟子に結跏趺坐直身の坐を教えたもう。と直身というのは真っ直ぐに坐る正身端坐のことを言ってるのです、これが一番バランスのとれた正しい姿なんですよ。と申しますのは、足を組んで坐っていますから、重心が低く最も安定しています。二本足で立っていることはアンバランスでそれだけで疲れますよ。他の動物は四本足でしょう、彫刻も足は台にくっ付けていないと立てませんよ、くるくる回っている独楽は中心を定めてバランスよく立っていますが、あれは感心しますね。地球の垂直に合わせたバランスのとれた、いわゆる調和のとれた姿勢というものは変わらない真実の事だ。そういうわけで、直身に結跏趺坐している事は、最も定したバランスのとれた真実なことです。身体上からいっても大変合理的なことだ。静かに動かずに坐っているのだから、酸素も少なくてよく、呼吸も調い、脈拍も落ち着いて、身体全体が大自然のリズムとひとつになって調って安らかとなり、つまり安穏で穏やかになる。あなたの本来の面目というんだろうな―。

何を似ての故に。直身は、心正し易きが故に。其の身直く坐すれば、即ち心、懶(ものう)からず。だから今ここで説かれる結跏趺坐は正身端坐、直身をやかましく言います。道元禅師の、永平寺坐禅も正しい姿勢は厳しくい言われます。私が臨済に行ってるきは、正身端坐はやっちゃいなかったね。だいたい坐蒲が無い、あぐらかいてりやいい、握り飯を手で抱えているように坐っていても怒られたためしがない。″龍の幡る″が如くピーンと坐っている事はいけない。真っ直ぐ坐っちゃ公案考えることは出来ない、「考える時は考えるような顔しろ!」ということで、直身、正身端坐はありません。次の独参で何を言ってやろうかウンウン‥‥と。″直身は、心正し易きが故に。〃心を正すという心とは、身体の調子の

ことですね、この私達の身体の生命活動を正常で安易に穏やかにすることは正しい直身になることが、心を正し易くすることです。先にも重ねて申した通りです。私達の身体は、調和がとれリズミカルであることが大切なことです。変な雑音を長いこと無理に聞かされたり、生活のリズムを乱されると、頭が痛くなり、体調が狂い、、全身体が乱れて病気になるでしょう。憶えがあるでしょう。仕方がないなア……次に、″其の身直く坐すれば、即ち心、懶からず。″と、つまり身が直く調えられていれば、心は乱されない、これ身体が真っ直ぐだからだ。だから余計な浪費が少ないわけで、ストレスも溜まらないわけだ。″懶″とは気がとぼしいと云う事で、ここでは、〃ず″と否定してるので反対に、気力に満ちるということです。

次に端心正意にして繋念在前なりと″端心正意″とは心意識の正しい状態のことで、どういうことかと云いますと、″繋念在前″心の働きをそのまま″在前″ということはつまり前に在るままにしておくことで念以前ということ、心意識が起きてもそのままにしておけということだ。行動に移さないで、心の動きを起きっ放しにし、そのままにしておく。私達は頭の中に様々な、(思い、心、念)が起きます。次に、こうしようああしようと、次々に念いが続いて起きます。その念いを動機として、仕事を始める。例えば顔を洗うのも、洗うとおもい付かないと顔洗いません。思い付くから洗面所まで行って顔を洗うでしよう。″繋念在前″ この思いをそのままにしておけば、消えてゆく、そのままにしておくことが″在前〃ということだ。行動以前だ、繋念在前を保つことが不染汚の行だ。それを何か一つしでかしてやろうという事から、染汚を始めてしまう。しかし、だからと云ってそういう思いが全然解らなくなってしまった時は眠ってしまった事だ。これはだめで、それこそ何とか以前だ。注意しなければならない。剣道やっていて、相手の剣がどこに来るだろうか、そればかりに気にし過ぎて、こだわりになってしまうと「小手一本!」と取られてしまう。前にも出て来たように集中力が三昧ではない。これなんか良い例だろうなア。

続いて若しは心馳散し、若しは身傾動せば、之を摂して還らしむ。と″馳散″という事は、あれこれ心の中で考え過ぎる事だ。つまり言うと思索することだな。今も、眼蔵終わったらあれやらねばならんとか何とか、いろいろ空想してるんじゃないかナ。

次に″身傾動せば、″という事は、坐禅していると、足が痛くなる、そういう念が起きて来ても構いません。それに引きずり回されたり、乗っかったり、追いかけたりしない事が不染汚だ。辦道とは努めることでもある訳だ。禅者の努力はこれだ、そのまま黙って坐る。或る一つの状態に意識的に入って、例えば数息観とか、他の念想観をしたりする事は堅く戒められています。ただ只管打坐することだ。″之を摂して還らしむ。〃と「摂」という字は、おさめる、ととのえる、ただす、という意昧の通り元々の本来の面目に戻せばいいんだ。それが参禅辦道という事ですよ。不染汚の修証というのはこういう努力だ。

三昧を証せんと欲い、三昧に入らんと欲わば、種種の馳念、種種の散乱、皆悉くに之を摂す。と先ず″三昧を証せん‥三昧に入らん‥″とは只管打坐をすることだ。只管打坐の坐禅中でも、″種種の馳念、散乱″があれこれ頭に浮かんできますよ。そういうことがあっても″皆悉くに之を摂むべし″と又ここで″摂す″ べしといわれています。念いに馳せたり、心が散々に乱れても、本来の姿に正して、調えて、おさめなさいと重ねて言われている訳だ。否定する事じゃありません。妄想を袋の中に入れてしまうような事かな。この野郎出て来やがったな。と歯をくいしばって頑張って相手にして闘争するような事はしない。私に言わせれば皆これは一人相撲だなア。摂めて発展させない、消えてゆくままにする。先に出て来た″在前″そのまま前に起きたままにしておくことだ。大津波だって、自然におさまるものだ。ノイローゼ患者の顔見てるとくたびれた顔してる。彼はノイローゼを治したいと追いかけるから疲れてくたびれちゃうんだな。病は病に任せておけばいいんだがなア・‥。良寛さんも「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」といっているじゃないか。道元禅師の伝える坐禅には無理は一切やっちゃいけない。本来の面日、本来の真実人体のままに任せ切ることです。下手な頑張りは要りません。

ここまで御説きになって最後に此の如く修習して、三昧王三昧に証入す。と結ばれています。三昧王三昧″は只管打坐することで御座います。只管打坐をすることが三昧王三昧です。こういうふうに只管打坐することが三昧王三昧を″此の如く修習して、三昧王三昧に証入す。″ということです。つまり云いますと、三昧王三昧を″修習″し、三昧正三昧を″証入″することは尽十方界真実人体の真実を実践することです。つまり私達の大宇宙いっぱいの生命の真実を、実修、実証する事実が三昧王三昧ということです。心境じゃありません。

 

正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(一〇) 酒井得元

※原文

あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり。一切の三昧は、この王三昧の眷属なり。結跏趺坐は直身なり、直心なり直身心なり。直仏祖なり、直修証なり。直頂なり、直命脈なり。いま人間の皮肉骨髄を結跏して、三昧中王三昧を結跏頂□(寧+頁)するなり。世尊つねに結跏趺坐を保任しまします、諸弟子にも結跏趺坐を正伝しまします、人天にも結跏趺坐ををしへましますなり。七仏正伝の心印、すなはちこれなり。

※提唱

以上によりまして『大智度論』第七が一段落して、道元禅師の本文が始まるわけです。

此の如く修習して、三昧王三昧に証入す。を承けて

あきらかにしりぬ結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり。と垂示して下さっています。 つまり私達が結跏趺坐することは、三昧王三昧を実証していることだ。だからしてこの事を″証入なりという訳だ。一般的な言葉で云うと悟りと言うことでしょう、私は悟りというよりは″証入″のほうがいいなア、実は悟りという言葉は日本語で、専門的には日本に入つてから翻訳しただけだ。悟りと言いますと何だか心理的なことのように受け取られていますが、心理的なことでは御座いません。心情ではないですからネ、内面的な感情というようなものではない。「自受用三昧」で「覚知にまじわるは證則にあらず。證則には迷情およばざるがゆえに‥…」といっておられます。

続いて一切の三昧は、この王三昧の眷属なり。つまり言うならば、三昧にあれこれあるが、三昧中の王三昧は結跏趺坐であって、この坐禅が最尊、最上、この上なき三昧の中の王三昧で、いわゆる王様の位にあたる三昧だ。他は、その眷属であり、属するものだとおっしゃっているわけだ。こう云うと王三昧とは難しいようですけど、王三昧というのは、私達の体全体が宇宙一杯に生かされている事実を実証しているのが坐禅で結跏趺坐する事です。王三昧ということが如何に重要、重大なことであるかと云う事を肝に命じておいて頂きたい。

道元禅師の坐禅は、内面的な心境の問題じゃない、結跏趺坐をして頂く事だ。その結跏趺坐というのは、どういうことかというと正身端坐ということだ。次に出てくるが、正身端坐という言葉は『永平広禄』あたりから盛んに用いられますけども、この『三昧王三昧』の時分にはまだこれは寛元二年ですから1244年で、吉峰寺に入られた時分ですから、正身

端坐はあまり使われておりませんが。次に出てくる結跏趺坐は直身なりの「直」は正身ということです。

結跏趺坐は、直身なり、直心なり、直身心なり、直仏祖なり、直修証なり。直頂□(寧+頁)なり、直命脈なり。

つまり結跏趺坐は、そつくりそのままが身そのものでもある。こういうふうに読んでみると解りますね。同時に仏祖そのものでもある。昧わい深いですねこうやってみると、結跏趺坐は、そのまま直修証なり、そのまま直頂□(寧+頁)なり、頂□(寧+頁)というと頭の天辺で高いということですね、それからそのまま直命脈なり、生命そのものでしょう。頂□(寧+頁)は仏さんと考え、如来さんそのものであると受け取るといい。気分の問題じゃないぞこれは、そういうふうに確信することだ。我々は結跏趺坐をどこまでも一生懸命努力することだ。そこで我々は形ということが非常に重要なことになる訳ですよ。

姿勢という事は、大事ですよこれは、我々の頭の働きというのは姿勢によつて定まるもの

で、逆に思いや考えがその人の姿勢を変えていくものです。よく考えて下さいよ。その頃の宗門では坐禅の姿勢のことあまり喧しく言わなくなつててネあの時代、それで沢木興道老師が、坐禅を盛んにした時分に、この『正法眼蔵』によって老師は正身端坐ということをネ非常に大事にした。そうして直身を大切にされた。

私は初めて伊豆の修善寺に安居した時、坐禅で正身端坐ということは知らなかった。正身端坐ということは全然考えてもいなかったナ。坐禅は要するに足を組めばいいとだけ考えてた。正身端坐を特に教えられなかった。旦過寮に入った時も、あぐらかいてると怒ってネ、客行和尚がやって来そうになると足を組み直してし知らん顔してたヨ、慣れないから足が痛いもんナ、うっかりしてると見つかって警策で殴られる。しかたがない運が悪いと思ってあきらめたヨ。そういう事で坐禅というものはただ足を組むものとばつかり考えとった。正身端坐ということが重要な事とは気が付かなかった。

それから後のことだが沢木老師のところ大中寺の天暁禅苑へ行ってみてびつくりした。というのは来る人来る人が非常に姿勢がいい。老師が直々に直されているから姿勢がいいわけだ。それから老師の話の中でも老師は坐相のことをよく言っていた。又老師は久留米市のセンエイ寺という寺で初めて参禅会を頼まれて行ったわけだ。或る時或る老僧が来とった。それが後で非常な深い縁を結ぶこととなりました、博多の明光寺の山本祖学という方だ。老師は、明光寺、駒沢大学総持寺、とつながっていったわけですから、その人が沢木老師の正しい坐相を見てびっくりしたという。

正身端坐は、姿勢を正しくすることが大切な事だと、坐禅というものは姿勢が正しくなき

ゃいけないなということを初めて気が付いたというな。これは、大変な発見だよこれは、『三昧王三昧』の巻を本当に読んどったら解るはずだけどネ、うっかり読んどったんだろう。

これは、坐禅、王三昧、結跏趺坐にとって大変大事なことですよ実は、この姿勢を正しく保つというこ事を努力することが結局坐禅の骨髄になるわけだ。

姿勢が乱れてしまうと、いろんな事を考えてしまうことになる。ああでもないか、こうでもないかとやらかすよ。つまり功夫辦道ということは姿勢を乱さないように努力することだ。これが辦道ということで一番大切なことだ。これが全てと言ってもいいな。

いま人間の皮肉骨髄を結跏して、三昧中王三昧を結跏するなり。

つまり皮肉骨髄を結跏すると云うことは皮肉骨髄つまり体全体総てで修証することだ。全部だよ、足だけの結跏じゃない。坐禅は、体全体で結跏することなんだ。私は若いころはじめ足は組むだけだと思ってたことがあったよ。実は三昧中の王三昧を結跏すること。つまり王三昧は直身心に体全体で正身端坐することだ。

世尊、つねに結跏趺坐を保任しまします。諸弟子にも結跏趺坐を正伝しまします。人天にも結跏趺坐をおしえましますなり。七仏正伝の心印、すなわちこれなり。

お釈迦様は何時でも結跏趺坐という事をおつとめなさっておられた。私達もこれを失わないよう何時も努力しつづけなきゃならない。それでお釈迦様はお弟子さん達にも結跏趺坐ということを正しくお伝えになつた。

禅宗禅宗と言いますけどもね、他の禅宗にはこういうふうに結珈趺坐ということを、これほど強調して示していない。結跏趺坐を正しく伝え教えられているのは、道元禅師の坐禅です。そのへんをよく知って肝に銘じて置いて頂きたい。そして天上界の天人にも、結跏趺坐をおしえましますといわれております。

七仏正伝の心印とはどういうことかといいますと、印とは判子のことで、 つまり証明しているということだ。過去七仏から証明し続けてきたのだとおっしゃっているわけだ。七仏正伝の心印すなわちこれなり。これは何かというと三昧王三昧の結跏趺坐です。理論じやありません。

 

正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(十一) 酒井得元

※原文

七仏正伝の心印、すなはちこれなり。釈迦牟尼仏菩提樹下に跏趺坐しましまして、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量劫を経歴しまします。あるいは三七日結跏趺坐、あるいは時間の跏坐、これ転妙法輪なり。これ一代の仏化なり、さらに虧欠せず。これすなはち黄巻朱軸なり。ほとけのほとけをみる、この時節なり。これ衆生成仏の正当恁麼時なり。

※提唱

「七仏正伝の心印、すなわちこれなり。」

七仏″とは過去七仏のことです。過去七仏とは、毎朝の朝課の祖堂諷経で唱えている釈迦牟

尼仏大和尚より前に唱えている毘婆戸仏大和尚から迦葉仏大和尚までの七仏の仏祖方のことです。仏教では、大恩教主と呼ばれることはありますが、教祖とか開祖とは呼びません。無限の過去から今世の仏陀が出世されるまで、既に仏法という正法はあつて、正しく伝えられているのが仏教の教義です。このことをよく踏まえて修行しておいていただきたい。

ここで″心印〃とは、仏心印とも言いますが、印とは印鑑のことです。何度押しても同じですから、正しく法が伝わることを表しているわけだ、判子のことですかネ。いわゆる証明されているということだナ。

続いて″すなわちこれなり。″とありますが″これ″とは何か。前に″これとは何かというと、三昧王三昧の結跏趺坐です。″と言っておいた通りですが、次の文を読んでみると、

釈迦牟尼仏菩提樹下に助映坐しましまして、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量を経歴しまします。」と続いていますからここでいう″これ″とはしたがつて″菩提樹下の跏趺坐″のことですネ。跏趺坐とは、結跏趺坐のことで、菩提樹下の金剛坐上で坐禅したことを言ってます。このことはお釈迦様の教えの仏教にとって、最も大切なところですよ。出家されて苦行する後の話ですが、前にも出て来て話しましたので少しだけ触れておきますが、お釈迦様は、出家されて初め前正覚山の苦行林で五比丘達と一緒に苦行をされた。端坐六年の蹤跡ですネ、あの痩せ細った姿が像になって伝わっているように、死ぬ一歩手前までそこまでやった。そこまでやつたから、その苦行の何たるかに気が付いたんだナつまり苦行というものは、目的を持って、身の汚れを断つだとか、清浄なる悟を得るんだとか、目標を立て、それを果たす為には、身体はどうなってもかまわん。 一番大切な肝心なことを忘れてしまつていたんだナ。気が付いて、苦行を止められた。お釈迦様は山を下りて尼蓮禅河で身を浄め、村の娘の粥の供養を受けて、体力を回復してブッダガヤの菩提樹の本の下まで歩いていって、坐禅を組まれた。ここが本文に出てくる″菩提樹下に跏趺坐しましまして″というところになるわけだ。今、菩提樹下の金剛坐上に、結跏趺坐をしたということは、苦行の趺坐とは、同じ足を組んで坐ったとしても、向かっている方向が違う、次元が異っているわけだ。いわゆる、この坐禅は、七仏正伝の坐禅であり、無所得、無所悟の坐禅、三昧王三昧の結跏趺坐であり、いわゆる、只管打坐になつていくわけである。

次に続く文章を見ると〃五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量劫を経歴しまします。

″劫″という語は、長い時間の経過のことで、宇宙の生滅のくり返し程の長い時間の単位です。何々光年とでもいうものですか。芥子劫の説と、盤石劫の説とありますが仏教辞典で調べといて下さい。この″劫″が、五十、六十と重なり無量劫ということになると、無限大の長い時間のことになり、無量無辺という言葉もありますが、時間空間を超越した、その事柄の内容規模の大きいことを表していると受け止めるといいですネ。 つまり、坐禅というものが、かくも偉大なる規模のことであると理解するといいだろう。

〃経歴(けいりやく)しまします。″といつているが、ただ経過したということよりも意昧を持たせて使っている語句で、歴史的重みを持たせた、時間の経過であるというところだナ。これ程までに長い時間の経歴であるといつてますが、実際はどうかといいますと、次の文章を見て下さい。

「あるいは三七日、あるいは結跏趺坐、時間の跏坐、これ転妙法輪なり、これ一代の仏化な

り。さらに虧欠せず、」と、前の文章の続きとしては問題になりそうな一文がありますが、まづは″三七日″とは三×七の二十一日間のこと、〃時間の跏坐″とは一時の短い時間という意昧です。しかも、この短い時間の坐禅が″転妙法輪なり〃と妙法輪を転じているのだといつてます。大法輪という語はよく知られていますが、あの出版社の大法輪社もここから取つたんだろうなア、あたかも、太陽が輝いて光を照らして仏法を転じているようだというところかナ。 ″これ一代の仏化なり。″このことがお釈迦様の一生一代、八十年の生涯は″衆生成仏なり〃衆生の教化であつたのだと、言い切っており、″さらに居欠せず、″と重ねて念を押していわれています。虧欠(きけつ)とは欠けたところがないという語で、すなわち、欠けることのない完全なる真実なのだと断言しています。

菩提樹下の坐禅は、無量劫来の長い時間の経歴であるといわれて、続いて、二十一日間のひと時の坐禅であると反対のことを言われ。つづいて以上のことは、転妙法輪であり、 一代の仏化であると断しています。理解しにくい、話でもあります。

実は、仏教の説く本懐は、無量劫の昔から、今日に到る現在、そして未来永劫の先まで変わることなき、仏の実在を説いている。

伝灯歴代仏祖七仏の話にしても、迦葉仏大和尚から釈迦牟尼仏大和尚までが、 一宇宙が生まれて滅し又生まれる、ビツクバンの話は今はよく知られていますがそんな長い時間のことをいい、その七倍の長い時間とは、永遠無久の時間を越えた、宇宙の真実を物語つているわけだ。今この菩提樹下の金剛坐上の坐禅の規模が、尽十方世界の真実なのだといつてるわけだ。

五十小劫、六十劫の出典は、『法華経』従地涌出品第十五。序品第一の語句だが、法華経は、″久遠実成の本仏、一乗仏″の一貫した物語で、ここもこの金剛坐が、久遠すなわち、永遠、絶対の不壊なる実在の真実であることを言い表しているわけで、だから″転妙法輪″と、一代の仏化、衆生成仏″といわれているわけだ。道元禅師の真意が力強く伝わって来る大切な所であつたわけだ。

こんなところで次に行きますが

「これすなわち黄巻朱軸なり。ほとけの、ほとけをみる、この時節なり」法華経』が出て来たので、経典のことになるわけだ。仏教の経典のことを″黄巻朱軸″といいます。何故、黄巻朱軸かといいますと一つの話があります。仏教がインドから中国に伝播した時、中国の道教の人達が外来のものだから排斥した。仏教が入って来るのを反対した訳だ。そこで時の政府が一つの試みをした。道教の経典と、仏教の経典を、 一緒に積み上げ、それに火を付け

たそうだ。坊さんは頭がいいからちゃんと水で濡らしておいたそうだ。だから道教の経典の方はすぐに燃えてしまつた。ところが仏教のお経は燃えずにクスンだ色になつただけで済んだ。それで一応決着がついて、中国に仏典、仏教が伝わったとされている。これは仏教の人達の側の話ですがネ。まあ、それで燃えなかったということで信用を勝ち取って仏教が中国に伝わったという物語がありますョ。それで、お経に黄色い紙が多いわけですが、まだ虫が食べないようにした紙の製法の話もありますが……

「ほとけの、ほとけをみる、この時節なり。これ衆生成仏の正当急蕨時なり。」私達が、坐禅をするということは、〃ほとけが、ほとけをみる″ということだ。『唯仏与仏』の巻がありましたが、仏が仏を見るということは、坐禅の内容のことですネ。

坐禅は自己の正体なり、ということも言われています。沢木老僧も、 〃自分が自分で自分する″と言っていますが、よく言い当てている言葉ですネ。仏なる自己が、自己なる仏を実践しているのが坐禅することであったんだ。他人の真似をすることではないぞ。

この段の締めくくりになりましたが、 ど」れ衆生成仏の正当恁麽時なり。〃と結んでいます。我々の成仏というのは死んで棺桶の中に入ることではない、 ″あアあの人成仏した″なんて云ってるのは、あれは成仏じゃないんだなア。ここでいう本当の成仏とは、道元禅師がおっしやる″衆生成仏″とは、只管打坐、直身の結跏趺坐することです。そのことが″正当恁麽時″で御座います。この一言がいいたかつたんだ。私達の信仰は、只管打坐に努め精進することであったのです。 

 

 正法眼蔵 三昧王三昧 提唱(十二) 酒井得元

※原文

初祖菩提達磨尊者、西来のはじめより、嵩嶽少室峰少林寺にして面壁跏趺坐禅のあひだ、九白を経歴せり。それより頂□(寧+頁)眼睛、いまに震旦国に遍界せり。初祖の命脈、ただ結跏趺坐のみなり。初祖西来よりさきは、東土の衆生、いまだかつて結跏趺坐をしらざりき。祖師西来よりのち、これをしれり。しかあればすなはち、一生万生、把尾収頭、不離叢林、昼夜祗管跏趺坐して餘務あらざる、三昧王三昧なり。        正法眼蔵第六十六

爾時寛元二年甲辰二月十五日在越宇吉峰精舎示衆

※提唱

初祖菩提達磨尊者、西来の初めより、崇岳少室峰少林寺にして面壁跏趺坐禅のあいだ、九白を経歴せり。

この度の『正法眼蔵 三昧王三昧』の巻の締めくくりの段が前章の釈迦牟尼仏に続いて初祖達磨尊者で結ばれているのも、道元禅師の深いお心が伝わってくるところです。先ず″初祖″とは、西天中国から最初に正伝の仏法である坐禅、結跏趺坐を、東土中国に伝えられた菩提達磨尊者、いわゆる、達磨大師のことです^達磨様のことはご存じの通りですが実は歴史上、文献もはっきりしておらず、他に同名の人物も居たり、異説も多く通説が定まらないまま、その本当の正体がはっきりしないところがあります。それだけに数多くの物語が伝えられており画材にもこと欠かない人物です。しかしながら私達の禅門の初代祖師であることには異論のない方で、もっとも尊ばれて然るべき仏祖であるわけです。インド南天竺香至王の第三王子として誕生し、幼名は、菩提多羅とよばれていました。

西天仏祖二十七祖般若多羅尊者に四十年侍して第二十八祖となり、師の命により中国に渡来して、いわゆる西来して、仏法を弘通したが梁の武帝との相見に機いまだ熟せずと、崇山少林寺に面壁九年された。人は時に″壁観婆羅門〃と呼んだと伝えられている。そこへ 二祖となる慧可大師が道を求めて、雪の山中来たって断臂の誠を尽して心印をゆるされた。衣鉢と『楞伽経』を与えられたという。有名な伝法の偈を紹介をしておくと″吾本来茲土・伝法救迷情。一華開五葉。結果自然成。″この偈を残してイ

ンドに帰ろうとするが、兎門の千聖寺で西暦五528年、大通二年十月五日(異説あり)、入寂した。後に唐の代宗が円覚大師の号を論なされた。時に百五十歳だったと云う。『少室六門集』『達磨禅師観門』『菩提達磨四行論』『達磨真性偈』『無心論』『観心論』などの語録が伝えられてはいるが、先に述べた通りである。簡単に略伝を云ったが『宏智頌古』『従容録』第二則に、達磨廓然の話は宗門の安居結制の法戦式でよく知られた通りである。

ところで面壁坐禅という″面壁″ということで私達の道元禅師の坐禅では、この面壁坐禅が普通のことで何も不思議に思うことはありません、そのように伝え受け継がれていますからね。ところが臨済宗黄檗宗もそうですが″対坐″をしますよ。壁に背を向けて前を向いて坐禅をしてます。このことを、あの鈴木大拙さんが不思議に思つたらしく何かの文で読んだことがありますが、まあ初体験の坐禅が対坐だったんでしょうが、私も昔、このことについて無著道忠のものに目を通していたとき『小叢林略清規』の解説だったと思いますが「‥‥この頃、うちの宗旨(臨済宗)では面壁坐禅が全然なくなって忘れられてしまっている、残念なことだ。……これは黄檗宗の影響だろう‥…」と書いてましたよ。本来、初祖菩提達磨尊者の正伝の坐禅は面壁跏趺坐禅であることが伺え知れる話です。したがって道元禅師の時代、坐禅は皆、面壁坐禅であったに違いない。

日本の禅の歴史をみると鎌倉時代、その後の室町時代以後、戦国の乱世には禅は闇黒時代と云われ、坐禅が無くなり断絶していたのではといわれています。『正法眼蔵』も顧みられることなく、この時代の文献、人物もあまり伝わっていません。そして時代が経過して江戸時代。徳川時代、それも後期になると『正法眼蔵碩学、宗師家も多く現れて、坐禅も盛んにされるようになったと云う事情もあったようです。坐禅の建物の方で見てみると、坐禅堂の日本で一番古いものは、京都の興福寺に残っておりますが、あの坐禅堂も実は基本的に清規に照らして良しとする、七堂伽藍の僧堂といわれるものではありません。いわゆる坐禅堂ですね。もともと本堂と使って居ったものを坐禅堂にしたと云われています。その後、江戸後期になって黄檗宗隠元禅師が渡来して万福寺が建てられて、各禅宗が禅堂を造りはじめたわけだ。宗門では本山永平寺は別格で、代々正しい七堂伽藍が守られてきましたが、古い坐禅堂というのは宇治の興聖寺の僧堂です。深草の旧興聖寺ではなく、今の興聖寺のことだからずつと後代のことですね。坐禅堂、僧堂と云いましても、私達道元禅師門下には『永平清規』という確かなものが伝えられております。これが宗門のありがたいところだ。ですから修行の根本の規りが『永平清規』によってしっかり定められ正しく伝えられております。ですから儀式一切から食事作法、洗面、洗浄日日の行事が滞りなく日分月分年分と、如常に行われて来たわけだ。

それに比べて、私が久留米市の梅林僧堂に居りました時応量器は使っておりませんでしたよ、仏前に供える御霊膳は所謂応量器でした。あの中に匙と箸と刷(せつ)が付いております、箸と匙はよく解るんだが、ところが刷が何だか誰も知らない。私は日常使っておりましたからよく知ってましたよ、こういう風に使うものだと教えてやつたら感心してましたね。

それで、解るように本当の禅の修行、古いところを伝統的に受け継がれているのは、道元禅師の門下に正しく伝えられております。というのも『永平清規』のおかげです。有難いことです。伝統が正しく伝わるということは、坐禅においてもその通りだ、面壁坐禅ということも間違いなく受け継がれてきたわけです。

それより頂□(寧+頁)眼晴、いまに震旦国に遍界せり

″それより″とは達磨さんが正しい坐禅を″西来〃してより以後ということです。以後と以前の違いははっきりしておかなければならないことで後の文章でも出てきます。″頂□(寧+頁)眼晴″ この巻のめに出てきましたが頭の頂上、眼の玉とは、全体、一部分のことではない生命つまり、死にものではない無上の真実態そのことですね。坐禅の真骨頂、坐禅の真面日と云ったらいいでしよう。

″扁界せり″今ここ震旦国すなわち中国大陸の全域に遍く弘く繁栄しているということを云っているわけだ。道元禅師が修行していた頃の中国はまさに坐禅宗が五家七宗と遍く全土に弘がっていた時代です。

初祖の命脈、只結跏趺坐なり。初祖西来よりさきは、東上の衆生、いまだかつて結跡映坐を

知らざりき。初祖西来よりのちこれを知れり。

″初祖の命脈″と出てきましたが、前に″直命脈なり″と有りましたね、前にもどって本文を読んでみますと″あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり。 一切の三昧はこの王三昧の眷属なり。結跏趺坐は直身なり、直心なり直身心なり。直仏祖なり直修証なり。直頂□(寧+頁)なり、直命脈なり。″「直命脈なり」とありますネ前回のところですがどこを読んでいるか解りましたか―――。 ″直″をそつくりそのまま、そのものと言っておきましたね、

ところで達磨さんの伝える〃命脈〃とは生命、そのままのことです″脈″とはず―と続いてきた伝灯、繋がりが続いてきたということです。したがって前文の〃頂□(寧+頁)眼晴″の意昧する内容も″命脈す″も同じことを繰り返し強調しています。

この達磨さんの命脈は、西来より以前は東土中国の人々は知らなかったことで、西来より以後はじめてこの事実を知ったことなのであると、達磨の偉行を讃えているわけだ。であるのだから三昧王三昧の結跏趺坐、正身端坐、只管打坐はかくあるべきものだと、この巻の最後の結びとして強く断言しています.

しかあればすなはち、一生万生、把尾収頭、不離叢林、昼夜祗管跏趺坐して餘務あらざる、三昧王三昧なり。正法眼蔵第六十六 爾時寛元二年甲辰二月十五日在越宇吉峰精舎示衆

であるのだから三昧王三昧の結跏趺坐を生まれ変わり万生にも行じ続けることでございます。全身心をもつて排道精進し続けることでございます。直心是道場の言葉がありますが、修行道場を離れないことです。五祖さまの唯務坐禅のみなりの言葉がありますが餘そごとをせずただただ坐禅を務めてゆくことでございます。これが三昧王三昧なのであると。

これで『正法眼蔵』三昧王三昧、第六十六、ということにします。爾時、寛元二年甲辰、西暦1244年、道元禅師四十四歳の御歳。吉峰精舎において大衆に垂示す。とあります。

三昧王三昧(終)

 

この提唱録は福井県吉田郡永平寺町松岡春日1―64 清涼山 天龍寺が発行する季刊誌「枯木」に記録されたものを、二谷が編集したものである。「枯木」誌からワード化した為に原文とは多少の相違が生じた。