正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

退任記念講演 駒沢大学と私     酒井 得元

退任記念講演

駒沢大学と私                     酒井 得元

 

私は昭和二十四年から、この駒沢大学に御厄介になっております。それで、ちょうど三十八年間、御厄介になったことになります。今年、満七十五歳になりましたから、ちょうど私の人生の半分をこの駒沢大学で送らせて頂いたことになります。

 

本日、この会を催して下さいました事は、恐らく長い間この駒沢大学で、御厄介になったんだから御礼を申上げなければならないので、わざわざこの機会を作ってやろうと云う処からこの会をお開き下さったことと思い、そのご厚情に深く感謝いたします。

 

今から考えてみますと云うと、私にとっては、駒沢大学は私の一生であったと言ってもいいんじゃないかと思います。大体、人間と云うものは道楽者なのです。もしこの自分の道楽を全うさせて頂くことが出来たら、その人間は最高の幸福者と言ってよいでしよう。然してそれを完全に全うさせてもらうという事、なかなか出来るもんじゃありません。ところが、 大学って処はそれをさせて下さる大変結構なところでございまして、私はつくづく自分は世の中で一番幸せ者だったと思います。こんな意味から私はつくづく幸せな人間であったことは大学の教員であったからこそと思います。特に駒沢大学は定年が長いものですから、特に有難く思います。実に私は駒沢大学に非常に感謝しております。まず、それに就きまして、私の今日までの歩みを御参考にまでお話してみたいと思います。

 

私は実はどうして禅を志したかと云う事からお話を進めてみたいと思います。静岡県立の中学校に入りました時に、私は寺で育ちましたが、禅宗寺で育っていたことは全く知りませんでした。まして、この世の中には、坐禅という事があることなどとは知らなかったのです。私の育った所は静岡県の西の方で遠州の真中あたりでした。あの辺のお寺さん方がその当時坐禅の話をしていたことを聞いた事はありませんでした。だから私も小さいうちから、 そのような状態の中のお寺さんの世界で育ったものですから、坐禅の坐の字も聞いたことはありませんでした。

 

それが中学校に入ってから、中学校の校長が、昔の東京高等師範学校(現・筑波大学)の出身で、その人は、学生時代に鎌倉の建長寺円覚寺かあのへんの寺で釈宗演(安政6年12月18日(1860年1月10日)ー大正8年(1919年)11月1日)という人について参禅して、いつも熱心に通っていたそうです。それで修身の時間に、昔は修身と云いますと校長か教頭かしかやらないんです。そのとき別に修身の教材といったものはありませんでした。 いつも教頭や校長が自分が経験した坐禅の話しかしませんでした。それで坐禅というものが、どういうものであるかということを知ったわけですよ。それから私が一番印象的だったのは、正月の元日の学校での儀式、校長が六祖慧能禅師の話をしてくれたました。それで慧能という人が禅宗にあるということを始めて知りました。

 

そうして、寺に帰って聞いたら、そのようなことは和尚さん達はご存知ないようでした。それで、この辺には禅宗の寺がどこにあるのか聞いたらうちは禅宗だよと言うので、私は曹洞宗じゃないかというと、曹洞宗というのが禅宗だと云うのです。その時なんだか変だなあと思いました。とにかく私はその時にはじめて禅宗ということを知りましたけども、じゃあ、校長先生の話では坐禅をしている時には警策を使うと言うことだが、警策というものはあるのかと聞いたら、警策はあるという。然し私はそれまでそのようなものは聞いたことも見たこともありませんでした。

 

まあ、そんなことでした。私が禅というものに興味を持ちはじめたというよりは、関心を持ち始めたのがそういうような次第でありました。その時は、私はお坊さんになることが一番嫌いだった。何故かと云いますと、静岡県のあの辺りでは、その当時、坊さんの恰好をしていると皆なか坊主坊主と言って馬鹿にするものですから、私はそれで劣等感を感じていました。中学校入りました時に、友達が 「おまえ、お寺の小僧だってな」と言ってそれから馬鹿にされました、それから坊さんであることが嫌になってしまったのです。あの時代には一般の坊さん達も坊さんの格好することを避けていたようでした。然し、いつの間にか、どういう事情であったか知りませんが私の寺に 『大乗禅』という雑誌が来るようになっていました。

 

この 『大乗禅』という雑誌をはじめて知ったのは、私が中学の四年生の時だったと思います。この雑誌は、坐禅のことばかりが書いてあるのでした。この雑誌は現在もありますが、その当時は原田祖岳(1871年11月25日(明治4年10月13日)―1961年(昭和36年)12月12日)という人が中心になって、飯田檐隠という人がやっておったものです。坐禅は悟らなければならんと云う言葉ばかりが書いてあった。それでは悟りはどういうふうにして修行したらよいのか、またどうしても我々はなんとかして悟らなければならないというように思い、そして坐禅に魅力を感じました。かくて坐禅したならば、どうしても悟らなければならないものたと感じました。それからこの大乗禅誌によって一生懸命、坐禅を毎日、一人でこっそりとやっていました。

 

然しいつまでたっても、悟りは開けません、 まあ、とにかく坐禅をするだけはしておけと、こういうことでやっておりました。中学を卒業しまして、その当時は他へ行こうと思っていましたので駒沢大学へ入るつもりは全くありませんでした。ところがそれが反対されて駒沢大学に入るようになりました。したがって希望して入ったわけじゃありませんでした。したがって、しようがなくて入ったと言ったところでした。

 

入試で面接のときに、昔は入学試験には面接がありました。その時には学長が直接やっていました。それが忽滑谷快天(慶応3年12月1日(1867年12月26日)―昭和9年(1934年)7月11日)先生だったのです。その両脇には、若い先生がいたんです。それが誰であったかさっぱり忘れてしまいました。その時に、片方の先生が、君が一番尊敬している人は誰だと聞かれました。別に尊敬している人はありませんでしたが、答えなきゃならんと思いました。その当時、私は宗門の人、誰も知りませんでした。管長さんが誰であろうと、なんとか老師であろうが全然そのようなことは考えてみた事もありませんでした。ただそのとき頭に残っておったのが、原田祖岳という名前だけだったのです。だから私は、すぐ 「原田祖岳さん」 とこう答えました。

 

それから帰ってきてね、おまえ、いま何と答えたというから、原田祖岳と言ったら、それではおまえだめだぜーといわれました。どうしてかと聞きましたら、いまなあ原田祖岳さんと、それから忽滑谷快天さんとはこんなふうにものすごいんだ。敵同士だよ、そんなこと言ったら、おまえ落第だそ。それで私はあきらめました。あきらめて、仕方がないから帰ってきましたが、その後になって合格通知が来ました。それで変だなあとは一応思いましたが、入試とそれとは関係がなかったらしいです。

 

駒沢大学に入りまして、仏教を学ぶことになったわけです。そうして学生生活に入った私にとって一番魅力があったのはね、 岩波から出しておりました 『思想』という雑誌です。あの 『思想』という雑誌の中には、西田幾多郎(1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)という人の論文が毎号出ていたのです。この論文に魅力を感じて、大の愛読者になってしまったのです。それはどういう訳かわかりませんが、いつの間にかそうなってしまったのです。それで毎号の論文を、一生懸命読んでいました。それからその意味を一日中それを考えていました。ある時は天井をにらめっこして考えていた事もありました。今でもあの時の自分を思い出します。あの西田哲学には「絶対矛盾の自己同一」なんていう変な言葉があるでしよう。実はあの言葉に魅惑されちゃって、あー、なるほどなあ。こういうことがあるんだなあ。それから一生懸命にあの本ばかり読んでました。

 

他の本を読んでいる暇はなかったものでした。その影響で、駒沢大学が終わりましてから、 京都にまいることになったのです。京都にまいりましたのは、西田さんの講議が聞きたかった為だったかも知れません。これが第一の私の脱線の道でした。それから今度は、鈴木大拙(1870年11月11日〈明治3年10月18日〉― 1966年〈昭和41年〉7月12日)さんのものを一生懸命に読み始めて 絶対的神秘的体験を、俺も一つしてやろうと思って一生懸命に、一人きり坐禅をしておりました。京都におりました時は、ずっと鏡島(1912年8月6日 - 2001年2月19日)先生と一緒だったんです。実際は、衛藤即応(1888年4月14日 - 1958年10月13日)先生のお指図で私は京都の洛北の紫竹林学堂に入ったのです。

 

その一年さきに来ていた彼を呼んでそれで二人が一緒にずーと三年間住むことになりました。紫竹林学堂それはよい環境でした。全く雑音が聞こえません。だから、こんなに坐禅に適した処はないと思いましたので、毎日部屋の中で、一人きり坐禅を、やっておりました。なんだか私には坐禅というものが憑いて廻っているようでした。その頃の私はなんと云いますか坐禅に憑かれたようなものでした。何処へ行っても、この坐というものが離れませんでした。

 

これは。宿命というもんでしようか。それで坐禅はしよっちゅうやってました。面白いことがありました。坐禅のとき、一生懸命、坐っておりましても変なものです、こんな事もあるものです。静かな所ということを満喫して坐禅していて、大変結構だとは思いましたが、 途端に枕時計のコチコチ、コチコチなっている音に気がついて、それが今度は邪魔になり出して仕様がなくなってしまいました。そこでこりゃいけないというので、その時計を、押入れの布団の下に入れて上から押さえつけてビシッと襖を閉め、そして音の消えてしまったのを味わっていました。もう音がしないなあ、そんなふうな気分にもなりました。それと同時に何処かに音はないかなといったような「音を捜している」ような気になってしまいました。

 

気がついたら外の方で松風の音がしているのです。そうしたらこれが今度は気になり出してしようがなくなってしまいました。これではだめだ、こんな時は坐禅ができないなと思い、その日はやめました。それから後に、今日は風も吹いていない、ひとつ今日は例によって坐禅してやろうかと、一人きり、また部屋の中で坐禅しておりました。そのときに困ったことがまた一つ出て来ました。音がない、音がしないなと思って坐っておっても。なにどこかで音がしていないかなという気持ちになって来るものです。実は自分が音をさがしているんです。

 

この枕時計のカチカチはなくなった。それから外の方の、松風の音はすっかりなくなった。するとどっかに音はないかと捜しているような変な坐禅です。そのうちに手首の中で音していることに気付いて、それが聞え出したのです。とうとうしまいにはね、心臓の音が聞えるようになってしまいました。あっ、これはいけねえ。この音は生きてるあいだは仕方ない、消す方法はない、これだけは逃げ道はない。本当に静かってことは、どういうことだろうか。ということで行き詰まりました。

 

それでは一体坐禅ということは一体どうしたことであろうかと、どうしたら、いいだろうか。それがずーっと悩みになっておりました。丁度その頃、京都大学では、久松真一(1889年6月5日 - 1980年2月27日)という人が始めて講師として来られました。私はそれでこの久松真一さんの講義を聴きました。そしてこの人は大本山妙心寺の春光庵(京都府京都市右京区花園妙心寺町42)という寺に居られましたから、よくお訪ねしました。それというのも、この人についたらば絶対矛盾の自己同一、即無的実存といった絶対的体験ということが、どうした出来るかという事が、伺えるかと思ってお訪ねしていたのです。つまりどうしてもあの先生のように自分もひとつ坐禅をして、あの絶対的体験を得ようとあせっておりました。あの時分の自分というものを回顧すると異常のようでした。

 

それから今度は、京都大学での生活を切上げて、大本山総持寺本山僧堂に掛塔することになりました。総持寺にまいりました、その時の後堂が沢木興道(1880年6月16日 - 1965年12月21日))老師でした。そしてその時この老師の話をはじめて聴きました。そうすると、全然これまでものとは、調子が違うんです。私がいままで聞いておった禅の性格と全然違うので、変だなあと思いました。そこでまた一つの困難にぶつかりました。そしてどうする事も出来なくなってしまいました。どうしようかなあと考えました。私はその時は両大本山に掛塔したのは、本当の気持ちで行ったんじゃなかったのです。ただ教師資格もらうためだけだったんです。その当時は両本山に半年ずついけば一等教師の資格が貰えたからです。つまり坊さんとして生活して行くのにはもうこれで十分だったんです。

 

ところで、そのころの両本山での坐禅はただ日常の行事としてあるだけで、雲水達も真剣にやっていない。これが、その当時の状態であって、今はどうか知りません。その時分には、坐禅というものは、時間制度ですから、その時間が来ると仕方がないから僧堂に入って坐るだけのことです。ただ睡眠していると警策で打つだけです。その打たれるのは大体は新到者だけだったようでした。それと言うのは、新到のものが警策当番になると、古参の者には遠慮して新到のものだけを打つといった具合でした。だから新到に警策当番をやらせると古参のものは安心して寝ていたものです。

 

これは総持寺の方ばかりではなく、永平寺の方でも同じでした。永平寺いきましてから、古参のものは新到が警策をもって歩いてる時は、絶対安全というて安心して皆なが居睡りしていたので、私は腹が立って仕方がなくて片っ端から警策で打って歩きました。そうしましたら、いまでも思い出しますけども、私が旦過寮の時の客行やってくれていた者がおりました。今、壱岐の方でお健在のようです。その人が、 頭下げて (この人はこの客行の時に私達新到の者に対して厳しかったその復讎をされていると思ったのでしよう) 『客行をやっておった時に大変非度ことをしてすみませんでした。あれから監録になっているが。この監録という役は大変に、忙しくって、それに、 開枕の時には寝られないし、朝も振鈴前に起きいなければならないので、坐禅をしていましても眠くて仕方がないのです。だからお手柔かに勘弁して下さい』と頼まれました。それで私は 「よしよし」と答えておいた。

 

まあ、こんな処か僧堂での風景であって真剣な修道はありませんでした。したがってその時に私はこんな所に居っても仕方がない。こんそところでは本当の坐禅が出来ない。なんとかして、真剣に坐禅するところがないものか、とその時、一生懸命に考えておりました。それから考えついたことは、仕方がない、いっそのこと臨済宗行くしかないと決心しました。さて臨済宗を言っても、一体どこへ行ったらよいか全くわかりません。それで今でもその時の手紙を残していますけども、久松真一さんにどの僧堂がよいか紹介して貰いたいという手紙を出しました。そうしたら丁寧な手紙を下さいました。

 

臨済宗坐禅を志されましたか、それは結構なことです。そうでしたらね、この京都には僧堂がいくつかあるけども、推薦出来る僧堂は一つもない。僧堂の条件は師家と、僧堂そのものの善し悪しに関係する。両方とも条件の適った処へ行くのがよいです。 それで、まず一応、推薦出来るのは京都では建仁寺くらいなものです。建仁寺道元禅師と関係があるから、 京都へ来るならば、 建仁寺にしたらよいです。京都以外と言うと鬼僧堂として有名な、 久留米の梅林寺(福岡県久留米市京町209)だと思う。久留米の梅林寺へわしは何回か人を推薦してやったけども、つとまったのは一人もいませんでした。みんな、あんまり厳しいので大抵の者は堪えられないで逃げ出してしまいました」。とこういう返事を貰いました。

 

それで私はどうせ行くのなら、最も厳しい鬼僧堂の方がいいと思いまして、久留米の方に決めたのです。ちょうど、久留米の方に知り合いがあって、その人の尽力によって梅林寺僧堂に掛搭することが許されました。この僧堂はなかなか入れてくれない所ですから、その人の尽力がなかったならば、掛塔は出来ませんでしたでしよう。それは昭和十五年の十月でした。ところがこの梅林寺僧堂というところは、全く私の期待とは違ってました、つまり肝心な坐禅が余りないと言うよりは殆んど無いと言うようです。ここで憶えた言葉がこの僧堂のあり方をよく象徴していました。これはどういう言葉かと申しますと、「動中の工夫は静中の工夫に勝ること百千倍」、これがここの建て前だったのですね。

 

あそこでは、必ず公案もらうことになっていて、その公案を、朝から晩までいつも考えている。そのためにこんな美談がありました。托鉢していて、無の公案に夢中なっていて、溝の中へ落ちてしまった者があったということです。それから、あの梅林寺の井戸で、その当時あの寺にはね、ポンプ使用は絶対に許されていないのでね、井戸から水を汲み上げるのには車井戸でした。そこで井戸の大きな御影石の枠の上に跨って、太い網を繰って重い大きな釣瓶で水を汲み上げるのです。これはこれは大変危険な仕事です。それを公案考えながらやっておったために、井戸の中に落ちた者がありました。これらがこの僧堂での美談になっていました。これらがこの僧堂がどういう風であったかがよく象徴していました。

 

それから坐禅堂におきましても、坐中には、ロ宣というよりは、騒々しい罵声と警策の連打ばかり。本當に静かに坐禅することは全くなかったです。つまりこれらは異常な雰囲気を作り出すためにつとめられていたようです。その最も代表的な臘八摂心でありました。正式の僧堂に於ける坐禅は、一日中夕方に一時間ぐらいなものでした。その坐禅も我々から言えば本当の坐禅はありませんでした。その坐禅中は引磬たたいて、戒尺を打って一つの調子をとっているようでした。永平寺総持寺でやっている坐禅とは全く違ってます。そしてここでは、本当の坐禅はできないということが分りました。

 

ここでは坐禅するは夜坐に限ると言われていました。夜坐というのは開枕後、みんながそれぞれの定まった場所へ行きます。まず、例えば新到の者は便所の裏とか。それから旧新到、 中単の者は本堂の前の縁とか、高単は鐘楼とかと行ったように何処々々でと、それぞれ階級によって場所が違っていました。それから、わしらは新到ですからいつも、便所の裏でみんなが集っていましたが、結局、坐禅はしません。いろんな雑談をして時間を費やすだけでした。それから朝は、顔を洗面の時間がないんです、だから、朝、洗面の出来ないので、夜坐の時間が終って就寝する前に、明日の朝の顔洗をしたものでした。まことに変な世界でした。然し面白かったです。

 

朝は時間が来ると、禅堂の后門のところで法堂の係りのものが振鈴をします。一応係りの者は振鈴してから鐘楼に昇って梵鐘を撞きます。撞き終るまでは、僧堂のもの起きてはいけないので、鐘声をただ寝て聞いているだけです。撞き終って、法堂の方で大鼓が鳴り始めると、高単さんが起きて洗面に行きます。それから階級順に起きます。順番に起きた途端に、法堂へ出発するのです。したがって朝洗面は高単のもの以外にはその時間がありませんでした。高単の者達だけは悠々とね起をし、洗面をしていました。禅堂の中では私たちは寝間着の使用は許されていません、ただ直綴(法衣) を脱いだだけで、一枚の夜具を横に二つに折ってその中に入ってそのまま就寝しています。したがって起床したら、 すぐ夜具は畳んで頭の上の棚の上に片付けます。(函櫃はありません) そして大急ぎで法衣を着て搭袈裟をして、そのまま法堂に上殿します。したがって暁天坐禅はありません。法堂の朝課の読経中、順番に方丈での独参に行きます。

 

 

この間、NHKテレビで伊深の正眼寺僧堂生活の放映をしていました、あの通り実際やって来ていましたから懐かしかったです。臘八接心会の時は、僧堂での坐禅中には独参の鐘の音がすると、堂中のもの全員が一斉に禅堂の前門からばかりでなく窓からも飛び出して、 草履を足に履く暇がないので草履は手でつかんで、裸足で独参場に飛び込むんです。まあ言うならば、こんな調子で夢中でやっていました。

 

ちょうどその時に曹洞宗から三人ほど、若い雲水が来ておりました。どこから来たかと聞きましたら、みんな金沢の大乗寺の渡辺玄宗明治2年(1869年)―昭和38年(1963年)12月9日)さんの処におった人達でした。君達はここをどう思うかと聞きましたら、矢張りここへ来てよかった、やはりこちらは公案の参究が本式だったと感じていると言っていました。そして彼等は宗門のことは全然知りませんでしたので驚きました。で、それで仕方がないということで、夜坐のときに私が宗門の話をしてやりました。先づ第一に毎晩「弁道話」 の話をしてやりました。それから、彼等は始めて、宗門の坐禅というものがどういうものであるかに気がついたようでした。

 

私はその頃、町へ出ることがあって、本屋の店頭に 『大法輪』という雑誌が出ておりました。それはつまり昭和十五年の秋のことでした。その雑誌を一寸みましたところ、大中寺(栃木県栃木市西山田252)で天暁禅苑を開設して沢木興道和尚が接心をはじめたとありました。それで自分はここにおいても何にもならない、一日も早く天暁禅苑に行かなければと決心しました。そして翌年の三月に梅林寺を下山して栃木の大平山の麓の大中寺に行くことに決めました。そして大中寺に到着して、沢木和尚に相見した時に、和尚がこんなことを言いました。

私にとってはこの言葉は生涯の印象となりました。『我が宗門は上は管長から、 下は青小僧の端にいたるまで一人も悟ったものがいない、すばらしい宗旨だそ』。変なことを云う和尚だとその時は思いましたね。その時、私はがっかりした。その時にもう一言こういうことをいわれました。『せつかく、ここへ来たからなあ思う存分にやりなさい』。思う存分やりなさいとは、思う存分坐禅しなさい、と云うことなんだなと受取って、これは非常にうれしかったです。それから、あの寺には檀家がありませんから人は誰もこないので、毎月必ず五日間接会を行いました。その接心会では全然横臥しない坐禅をしました。

 

その間は山門に 『門内に無用のもの入るべからず』という札立てやっていました。お寺で、門内に入るべからずなんて、考えてみればおかしなもんです。最も人に来られると応待に出なければならないので、こうした札を出したのです。この大中寺はこんなことをしていても差し支えないような寺でした。お蔭で私は思う存分に坐禅に本当に親しむことができました。接心中は夜も横にならないので全員が褝板(坐禅のとき、身を寄せかける板のこと)を使用しました。斯様にして純粋に坐禅中心の生活をしていました。

 

昭和十九年の秋、十月に、大東亜戦も窮極になって、東京の学童疎開がやってきまして、お寺を全部使用ということになって、 で、 私たち禅苑の修行ができなくなりました。それで天暁禅苑を解散しました。それで仕方がないので、一先ず師寮寺に帰ることになりました。師寮寺の南満州の大連市にある常安寺でした。それで一応、普通の寺院生活に入っておりました。

 

私のこれまでの期間というものは、坐禅へ目茶苦茶に突っ走っていた暴走族でありました。私がこのような暴走を思う存分して来たということは、この暴走をさせてくれたものがあったからでした。それは、私の師匠でした。実はこの人も私と同じ型の暴走族だったんです。彼もどうしても一般的な宗門の坐禅に飽きたらないで、どこまでも絶対的な体験をしようと思っていたのです。ところが彼は師匠、私には孫師匠(森口恵徹・安政四年(一八五七)昭和十二年(一九三七))にあたる方丈に引っ張られて、 非常に忙しい常安寺に引き戻されて、寺の住職させられてしまったということだったのです。

 

そして毎日寺務に忙殺されてしまっていました。だから衲はこれまで思う存分のことが出来なかったことを思うと、全くやりきれない気持だ、その代りにお前にだけは一生懸命にひとつ、この道を進んでくれよと云われていました。今でもその時の懇切な手紙を大事に保存しております。師匠は生涯、禅宗僧でありながら自分は本当の禅の体験は全くなかったことを苦しんでいました。「お前だけは本当の体験をしてくれよ」と私はかくて嘱望を担わされていました。「禅々と言ってはいるがこの宗門には殆んど禅の体験、絶対的体験をしたものは一人もいないんだから。なあ」といつも嘆いていました。

 

「わしの同級生にこんなのいた、関頑牛(明治二十三年(一八九〇)―昭和十九年(一九四四)と言うのが、彼は臨済宗に行きおった。そして現在では宗門に帰って来て師家になっているが、しかしながら、あれでは駄目だよ、」と、私の師匠は彼を軽蔑していました。どうして関頑牛師を軽蔑したかは私にはわかりませんでした。

 

そのころ師匠は毎朝必ず自分一人で、自室で、必ず坐禅をしておりました。かくて私は禅の道を要望されたのでした。それがあったものですから私は私の禅道の暴走を許してというよりは励ましてくれました。それでこの我儘者が思う存分に暴走をやることが出来たのでした。今から考えるとその当時の私というものは、なりふりかまわずの暴走族でした。道場が、学童疎開の占拠によって解散したために、仕方がなく、師寮寺へ帰ることになりました。帰りまして半年たった昭和二十年五月十三日に、応召して北満の牡丹社の部隊に入隊して、兵卒の訓練を受けていました。八月九日にロシア軍の突如の侵略があってから、八月十五日の終戦まで北満の山中で防衛陣地の構築に必死の労働をしました。終戦以後は我々は全員が捕虜となりました。露軍は、捕虜を酷使して日本軍の貯蔵物資を全部シベリヤに運搬していました。

 

私が終戦をむかえて陣地構築の作業していた処は、鏡泊湖でした。鐘泊湖は、人跡未踏の原始林のまん中にある大きな湖でした。あのような大自然の素晴らしい景色は、このような事でもなかったら、親しむことができませんでしたでしよう。その意味で私は今でも感謝してます。

 

私達が鏡泊湖へ到着したその時に露軍の侵攻が開始され、私達のそれまで居った牡丹江の兵営は、 全部ロシア軍に攻略され、そして兵営に残っていた人達は戦死したり、負傷したり大変なことだったらしいということでした。それに対して私達は鏡泊湖の方へ事実上避難して来ていたようなものでした。

 

終戦から私は開放されるまで捕虜生活をしていました。捕虜生活中でも私にはいつでも私の暴走族が頭について離れませんでした。やっばり、もう生理的になってしまっていたのでしよう。いまさら方向転換できませんことを身に沁みて感じていました。私は召集されて、 配属された部隊の中の将校の一人がどうしたことか、私を特別に世話してくれました。それはどうしてか知りません。その人は私の属していた小隊長でした。時々私をわざわざ自分の処へ呼んでくれました。呼ばれたので行きましたら、お前は一寸皆なと変ってるなあと言うのです。それがどういうことかわかりませんでした。「お茶のみながらいろんな話をしようじゃないか」と云うことで色々な雑談をしました。

 

私は応召して参りました時に、全々「お守り」を持っていませんでした。大抵の召集されて来た人達は殆んど皆な沢山の 「お守り」を体につけていました。入隊する時には 一人一人が入念に身体検査をされるのです。その時に私だけが「お守り」を持っていませんでした。すると検査官に 「お守りがなくても大丈夫か」と聞かれましたが、私はそれまで全く「お守り」などは所持したこともなかったし、そのような事を考えたこともなかったのです。だから「そんなものはいりません」と答えました。

 

私はその時、いつもと同じような顔していたようです。それで、その将校に見込まれたのかも知れません。いつも呼ばれているうちに、何時の間にか、その度毎に『証道歌』 の話をすることになってしまいました。

 

昨年秋ごろ私が泉岳寺にまいっておりましたら、全々知らない者が、面会に来ました。それが実は全く忘れてしまっていたその時の少隊長でした。久しぶりで会いました。

 

終戦から翌年の四月十五日まで捕虜生活をしておりましたが、解放されて大連市の師寮寺へ帰えることができました。昭和二十二年の二月には師寮寺の全員は一般市民の全員総引揚げによって着のみ着のままで引揚げてしまいました。然し私は寺にこれまでのもの全部をそのままにして引揚げる(仏教大辞典、正法眼蔵(木版本)曹洞宗全書等々)気持になれないので、一人だけ居残ることに決めてしまった。 (一人ですから生活のことなど全々考えてはいなかった)

 

翌二十三年には全部(本尊観世音や菩薩像まで)も持って引揚げることが出来ました。引き揚げて舞鶴に上陸しました。その時の私はこれからどうしようなど考えてはいませんでしたが、ちょうどその時に横浜の永久岳水という人から手紙が届いていました。この永久岳水という人は、私の師匠の親友でした。この人から、ちょうど今度、長崎の皓台寺に住職することになって晋住しなければならないが、現住の自坊の後任者がなくて困惑している時に、 私が引揚げて来るということを知ってたので、すぐそのままこちらの方へ引き揚げて来てくれということでした。そういうことで、兎に角、横浜に落着くことにしました。横浜は東京に近いもんですから何は兎に角、その後、どうされたか心にかかっていた沢木老師を訪ねることが出来ました。そのときに老師は六十八歳でしたが、その間に病気されたり怪我されたりで体が非常に衰弱されて、すっかり七十以上の老人の姿になっておられたので驚きました。それでも駒沢大学には務めておられました。

 

それが縁で二十四年四月からに私は沢木老師の助手をすることになり、講師として駒沢大学で勤めることになりました。実はそれまで老師の助手をしておった人が突然、脳溢血で遷化して、その後任者がないので困っておられる時に私が横浜におりましたので、丁度その後任に良かろうと云う事で、決められたらしいです。全然考えたこともなかったことで、この事は私には全く寝耳に水でした。その時は、老師から話があったのでなくて「駒沢へ来ないか」という、衛藤即応(1888年4月14日 - 1958年10月13日)先生から手紙を頂いて決心した次第でした。

 

このようなことになってしまった、と云う事は私のそれまでの暴走業の果報で、そのようになったのでした。つまり私のこれまでの一途の暴走の因果の報いが、今度の縁を作ったというわけで、したがって私はそれに従わなければならなかったのでした。それでこの駒沢大学の、その後の三十八年間というものが始まったのでした。このおかげで、私は自分の一生の暴走を全うさせていただくことが出来て、非常に有難く自分の果報者であった事に対して感謝しています。まあ私の人生はこれでもってすべてが終わります。

 

この度、駒沢大学での勤めを終らせ頂いたという事は、駒沢大学によって私の人生は全く順調に完了させて頂いたことになります。この三十八年間、駒沢大学で過ごさせていただいたということは、非常にまあなによりの有難いことだったと思って感謝しております。それで今日、この御礼を言うようにという事で、ここでお話をさせて頂くことになったのではなかったでしょうか。そうして、こうして図々しくとうとう、ここに上がってまいりました。兎に角、みなさん方に厚く御礼を申し上げる次第でございます。

 

まず言うならば、これ一途に私に禅の道を辿らせて頂くことが出来たのは、駒沢大学で勤めさせて頂けたからです。もしもそのようでなく普通の寺院生活に終始してしまっていたならば、暮らし向きとか、そんなことしか考えなきゃなりませんでした。それを、駒沢大学に入れて下さったおかげで、もう一遍、過去の勉強の仕直しをする事が出来ました。これが有難い一番大事なことでした。その時に大学時代の仏教の勉強は本当に身に付いていないこと痛感いにしました。

 

やっぱり、大学時代というものは、ただ今後の勉強する方角を教えてもらっただけで、実際いいますと。駒沢大学に勤めるようになって、更に竹友寮生活していましたから専心純一に、全く生活のこと考えることなく努力することが出来ました。あの時代の私は全くよそ見せず何はとにかくまず基礎学を一生懸命に努力し、徹底的にやることができました。それに一番、有難かったことは原本を一生懸命読むことが出来ました。私は、みな若い人たち、特に宗学の人達に特にお勧めしたいことは、どうか基礎学をしつかりと身につけて貰いたいということです。

 

禅をやろうと思うなら先づ第一に基礎学を徹底的に勉強しておいてもらいたい。私はもともと、どういう出身かと云いますと、唯識をやっておりました。京都時代は、専一に『摂大乗論』を中心にずっとやっておりました。それでそういう関係からかも知りませんけれども、とにかく教学の方向に一生懸命に徹底的にやっておりました。だから私は昭和二十五年の夏から毎年八月の一日から十日間、名古屋の妙元寺(名古屋市千種区振甫町4-43)で講習会をやっております。(現在も続けています。本年で三十七回になります)。その講習会では徹底的に、その教学ばっかりやって来ました。

 

一番はじめに、多分大乗起信編それから、『三論玄義』だったと思います。それから『中論』、『仏性論』『摂大乗論』そのようなものを徹底的にやりました。そうして、『維摩経』、しまいにはね、『法華経八巻』、それから『涅槃経』を最後にやりそれから現在は宗学をやっています。兎に角そういうふうにして私はいつも基礎学を徹底的にやっておりました。ということは、基礎というものが出来ませんことにはね、宗乗を本当に深く頂くができませんからです。だからして、これからの若い人たちにも特に、基礎学の教養には生涯を通じて一生懸命努力していただきたい。宗学の専門に走ってばかりおりますと、自己流になり視野が偏狭します。また自己陶酔の宗学になります。それで私は沢本老僧からいつもこれについて教示を頂いていました。

 

あの沢木興道という人は、大和の法隆寺で佐伯定胤(慶応3年6月25日(1867年7月26日) - 昭和27年(1952年)11月23日)僧正について、法相の唯識学を本格的に、徹底的に勉強されました。それで法隆寺唯識の本流の伝統的な書入れが全てまとまって、老師の手によって仕上げられたものが、全部図書館に寄附されています。法隆寺伝灯の唯識にとっては、貴重な文献であると同時に、駒沢図書館とっても貴重な文献であります。この法隆寺唯識学は現在の唯識学をやってる人達とは方角が違いますけども貴いものと思います。

 

あの書入本は如何に若き日の老師が教学に一生懸命に努力されていたか、その結晶だったのです。それで教学の非常な苦労が沢木和尚の坐禅行を産み出す素地ともなったのです。

老師は宗門に帰ってられてからは宗学に専念されることになった。それから老師が宗門に帰ってから痛感したことは『正法眼蔵』 の大家といわれる人たちの、教学にあまりにも無知であったということだったそうです。つまり彼等は仏法の根本がわかっていないで、自分勝手な考え方でやっているので、おかしなもんだったといっておられました。仏教教学の素養を身につけていないために自己流の理解で押し通して、それで自己満足を作り上げていたので彼等には『正法眼蔵』の本当の理解が出来ていないということを、余りにもはつきりと見せつけられてガッカリしたようでした。

 

これが所謂る眼蔵家と言われていた人達の実態であったのです。最もその人達というのは、実に沢木老僧とは同門下だったので実態を実感しておられたのです。沢木老僧は、法隆寺の修学を一区切にしてからは丘宗潭(1860年10月22日(万延元年9月9日)―1921年(大正10年)8月19日)という人に随身していました。この丘宗潭という人は西有潭山(文政4年10月23日(1821年11月17日)―明治43年(1910年)12月4日)禅師から最も信頼された西有門下の最長老だったのです。西有禅師という方は、その当時の第一人者でしたから、当然の事として永平寺の第一回の眼蔵会の講師を依頼されましたが、年齢と健康上からの理由で辞退されて、門下の最長老の丘宗潭老師を推挙されたのです。それで、 丘宗潭老師は第一回の眼蔵会の講師を勤められました。そのように西有門下の最長老であったと云う、丘宗潭老師の下に参するようになられました。

 

その西有門下には、漢学を一生懸命にやってから、門下に入門したお弟子方がおりました。その人が西有禅師の下で、眼蔵の参究を始めました時に、同門下の先輩でかって漢学を専攻した人の処へ行こうと申出た時に、西有禅師から「決しておまえは、そんな処へ行っちゃいけない。おまえには変な癖(漢学)がある。そのおまえがあんな処へ行ったら、同じ病人と病人が一緒になるから、大変なことになる。だから行くな」と言われて、その人は丘宗潭さんのところへ行くように指示されたという話があります。

 

その人は遂に 『正法眼蔵』 においては、宗門においては第一人者になられました。ところが、そのような方ではあったのですが教学に対しては、全く無知に近いものだったということでした。沢木老僧はこのことを指摘していました。「あの人は教学がないので、全々わからない事にブチ当たると、わしんとこへ、よく問い合わせをよこしたもので、 それは助言をしたが、 それも本当によく理解してくれなかった。全く困ったものだった。」ということを言われていました。

 

「どうかこの 『正法眼蔵』を勉強する時には、教学の基礎をしっかりと身につけておいてくれよ」ということを、始終、私は聞かされておりました。それで私もこの学校に就任してからずーと、この基礎学に骨を折っておりました。どううか、研究発表も結構ですが、この頃は研究発表しないと業績が上がらない上がらないと言って、研究発表ばかりやってますと、結局、研究発表に終始して、学問が特に仏教では身につかないで変なもんになってしまわないかと、私はつくづく心配になって来ています。

 

研究発表する為には一つの問題を設けます。その問題の究明のために一生懸命にやってますね。だが、それでは肝心な仏教は「自己」 の究明ですが、この地道の参究ができません。それにはどうしても教学を深く深くやるということがなければなりません。そのような勉強では業績は上らないし、研究成果が認められないでしよう。尤も認められないと一般的には採用されませんが、とに角、基礎を一生懸命に固めていただきたいものです。これは学道者として生涯通じて努力していかなければならないことです。

 

とにかく宗学者というものは基礎を究めてもらいたい。その上で、宗学の方へ徹底的に入っていただきたい。私は感心したのはね、衛藤先生です。衛藤先生は教学者ではありました。言うならば徹底した教学者でしたが、この徹底的教学がそのままに、宗学に入って行かれました。宗学に入られましても教学が先生の体質とまでになっていましたので、自分の教学の限界にブチアタッて非常に苦しんでおられました。むしろ苦しんでおられた処に、私はあの先生に本当の宗学する者はかくあるべきだという処の真面目を見せて頂いて、私達はかくあるべきだと教えられました。

 

衛藤先生は沢木興道老師に非常に親しんでおられ、よく御宅の方に招待されていました。その度ごとに私は老師に伴僧していました。その時には、衛藤先生がよくこんなことを言われました。「おい、酒井君、今日の和尚との話は秘密にしててくれよ、余所へ行って云うてくれるなよ」ということでした。そうしてその時に忌憚なく、自分の意見を述べておられました。そうして老師にいちいち念押しをして確められておられました。その時は先生は全く何の憚りもなく、忌憚なく宗乗においての自分理解を、そのまま赤裸々に告白して、念押をして確めておられました。

 

それで私は側で聞いておって、学道者というものは、自分の理解だけで満足して止まってしまってはならない、その謙虚な真の学道者の真面目を見せて頂くことが出来たことは、私の一生の中で最も貴重なことでした。本当にありがたいことでした。

 

今後の宗学の参究には、基礎というものをしっかり、身につけておいていただきたいものです。これは私自身の実感であります。これがありませんと、『正法眼蔵』の真実を本当に参究していただく事は出来ません。これは、歴史的な研究や、書誌学の方面の研究も非常に重要です。その中でも書誌学の研究が大変に発展したということは私たちにとっては、大変うれしいことでした。ところが書誌学ばかりやっておりますと、肝心な『正法眼蔵』そのものの参究に入り切れなくなってしまいます。『正法眼蔵』 の教理の研究と書誌学が全く関係ないというものでなく、却ってこの方面への配慮を決して欠かしてはなりません。したがって、書誌学の研究はどうしてもなきゃならないものです。ところが、根本はと云いますと教理ですから、 その教理を徹底的に究めておいていただきたいと思います。

 

私たちの宗門は「只管打坐」 の宗旨です。あの「只管打坐」の宗旨は、はじめは全然私にはわかりませんでした。そうして、兎に角、禅は絶対的な体験をしなければいけないと思って、それに夢中になっていました、これが私のいう暴走族だったのです。ひとつの目的のために手段を選ばずにやってまいりました。暴走とは、まことに勝手なことに夢中になることだったのです。この暴走をここで申しますのは、これは他ならぬ、この私の自己反省なのです。駒沢大学に就任いたしましても、この私の心の底辺には、いつもこの暴走がうごめいていました。なんとかしてと、いつも思っていました。それで特に昭和二十四年の四月に駒沢大学に就任してからも寮でも自分一人で心やりました。そのうちに、若い連中の中のある者達も、私と一緒に接心することになりました。ある時は徹夜でやって相手を困らせた事もありました。自分の方は何時もそれやっていましたから。三日半ぐらいの坐りはなんともなかったでした。

 

初めての人は大変だったらしいです。それで、途中でヘこたれた者もいました。とにかく「行」というものが、一番大切なものだと思って、しよっちゅう「行」、「行」ということが、いつも頭について離れませんでした。ところが、年をとってまいりまして、こんな生活ばかりしておりまして、遂に昔の沢木老僧の言っておられた言葉が身に沁みるようになりました、 これというのも年齢というものでしよう。

 

私にとって非常にうれしかったのは、その昔、夢中になっていた西田幾多郎さんの「絶対矛盾の自己同一」とか、 鈴木大拙さんの 「絶対的神秘的体験」、 それから久松真一さんの「即無的実存」とか云うようなものは、単なる昔の物語りに過ぎないように感ずるようになって、嘗っての感激は消えてしまいました。私たちの 「只管打坐」の坐禅が将来においては、これだけしか残らんのじゃないかと感じています。これはと申しますのは、絶対的体験と言った処が、それは人生上のその時だけの異常状態であったまでの事で、絶対的な体験でもありません。

 

大体が絶対ということが、体験である筈はありません。たまにの事で絶対的な体験でもありません。大体が絶対ということが体験である筈はありません。それは絶対的な体験というのは、一種の興奮に過ぎなかったのです。このことがよくわかりました。それでは何が一番大切なのでしようか 「平常心是道」ということだったのです。つまりそれは何の変哲もない無感覚はあたりまえの日常事だったのです。これが本当の自分というものであったのです。そしてこれが一番大事なことだったのです。そこではということもあってはならない。 即ちいつもこれであって、 したがって異常感などが全くあり得ない、 これが絶対無量無辺の真実であり、平常心是道だったのです。したがって、すばらしい状態だ、これこそ最高のものだというようなものは、絶対といったものではなかったのです。

 

正法眼蔵』の中に「諸法実相」の巻があります。この「諸法実相」 は、これ『法華経』 の中心であります。諸法実相ということは、あらゆるものごとは全て真実の姿である、ということであります。したがってそこには、選り好みすることはありません。したがって我々は全て、そのままいただかなきやならないということです。人間というものは、自分には都合のいいもの、自分の好きなものをいただくことばかりやっています。そして自分の都合の良いことや、自分の好みにあった事に会いますと喜び、 自分の嫌なものには、不愉快を感じ、更には憎しみをも感ずるものです。ところが実際には好きなものばかり、都合のよいものばかりとは参りません。

 

実相とあるからには、全てが真実の姿であり、真実そのものであるならば、好きなものも、都合のよいものも、またその反対のもの真実であったのです。したがって仏道修道は真実の修証である以上、一切、そこには自分好みというものを持込んではいけないという事になります。即ち一切自分というものを持込まないということであって、それには一体どうするというのでしようか。即ち日常生活を全部一切返上するより外はありません、そこに坐禅があったのです。即ちそれが只管打坐の坐禅だったのです。つまり只管打坐は日常の自分を本来の自己に返上して、本当の自己を実修実証することであったのです。そこに始めて純一の仏道が実修実証されるのです。絶対的神秘的体験を求めていた私は、そのようなことを止めて、 この坐禅に入りました。そしてあー、よかった、特別の体験などを求める事なんか全くしなくなった、今の自分を悦んでおります。今、こんなふうになっていなかったら、今ごろ自分はどうなっているだろうかと思うと、ゾッとします。そして特別の体験をしたと言っている人達のことがよくわかります。

 

と同時に人間という者がどんなものであったか、と云うこ事がよくわかりました。絶対的体験をしたと称する人達が、よく自殺したとか言うことを聞きます。すると、あの絶対的体験ということは、その人の本当のものではなかったのです。つまり彼等に本当の自己、自己の真実には全くかかわりの無い、感覚的なもの以上ではなかったのです。結局、私に教えてくれたのは、彼等の目指して粉骨砕身した絶対的神秘的というものは、彼の自分達が勝手に希ったもので、つまり彼等は自分の欲望満足追求の暴走族だったのです。

 

人間は一生懸命に修行するという時には、 必ず目指す絶対的なものを自分で決めています。そしてその絶対的なものに向って、一生懸命に努力するのです。これが普通の修行というものです。したがって修行者の中には自分の体はどうなってもいい、断食しようとなんだろうとかまわん、無理してやっています、だから私はこんなのを、自己満足の暴走族というのです。こういうような事は、人間以外にはないでしょう。自分の理想に向って修行するということはありません。こんなことは人間だけのことです。断食してみたり、それから苦行してみたり、こういうことは、人間だけです。これが、つまり、人間の特徴、人間性というものです。人間だけがいつも、理想を持っていて、それに向って努力しています。この理想に向って努力するということは、人間に生れた宿命というものです。つまりこういう生き方は、人間の生理現象といったらよいでしよう。生理現象だから、そのまま無条件に人間はそれに暴走します。私にこれが暴走であることを教えてくれたのは仏道でした。仏道には、理想主義ということはありません。理想に向って一生懸命にやるということはありません。それが無所得・無所悟であり仏法の原則です。これは、つまり仏法の原則は、理想を持つなということです。だが私は、はじめは人間の生理現象によって理想をもってやっておりました。

 

ところで、理想というものの正体を考えてみました。自分の理想というのは、本来自分の望むことが理想だったのです。したがって自分の望まないことは理想にはなりません。望まないことを一生懸命やる、そんなことはない。望むから夢中になるものです。理想というものは頭の中で勝手に考えた、最もエゴイズムなものなのです。理想を純粋のものと考えてやっていますが、その純粋もわがままなんです。だから一生懸命、体なんかどうでもいいというように 飲まず食わずでもやります。それが世の中でよく言われている 「働き蜂」だつたのです。一生懸命働いて、無理してまでやっています。だから彼等には理想が全てであったので、それが駄目であったあったら、人生はいらないということになり、自殺行為にまで走ってしまいます。つまり彼等には、自分の体なんてどうでもいい、ということになってしまうのです。目的のためには手段を選ばず、と云った事も人間には珍しいことではありません。

 

かくて佛道修行というものが、どういうものでなければならない、かと云う事を始めて知らせてもらいました。これは、自分でもやってきました、その時は、自分の体はどうなってもいいんだ。絶対的体験を得るためには手段を選ばん、こういうことをやってきました。もっとも、 そう信じておりました。そう信じておりましたから、このような事になんとも思いませんでした。然し、年とって今まで自分のやって来た実態は、わがままの暴走だなあということに気が付きました。ははあ、わがままの暴走なるがゆえに、たとえ、どのように目的を達しても、それは真実ではなくて満足したまでのことであることがわかりました。

 

私はよくこの頃、白隠さんの悪口をよく言いますが、私は昔、白隠さんの法語に、ぞっこん惚れ込んでしまって、夢中になっていました。法語、特に 『遠羅天釜』などは一生懸命読んだものです。

 

その当時は夢中になって、ただ感心ばかりしていました。あーいうんものではないですか、第三者的な立場にたって、それを批判することなどは全然出来なかったのです。これは、年とってまいりまして、はじめて「ハハァ」、これは自分の暴走とそっくりだったなあ、彼もやつばり暴走族なんだな。一生涯、暴走で終わったな。可哀そうな人だったなあ、今度は気の毒に思うようになりました、 はあはあ、 これでは仏法にならないじゃないと感ずるようになりました。

 

そうすると、世の中の人たちが禅というものは、どういうものと見ていたでしようか、たいていは、いままでの私のように禅というものは、絶対的体験をめざして、一生懸命やるものであると見ているようです。私自身も一般的な禅の見方で、絶対的な体験をしようと思ってやっていましたので、体験をしたという人に対しては、絶対的な尊敬をしておりました。それからだんだんやっていまして、 「ハハアーよかったなあ」あんなことやっていたら、トンデモナイ事になってしまう処でした。これで世の中の人たちが、本当に自分というものに、生命活動というもの本当のものに、気がついてもらいたいものです。つまり、絶対的体験を目指してやっておりますのも、また絶対的体験をしたと感ずるのも、実は生命活動の一

つの表情にすぎないということに気付くことです。

 

人間がどのようなことに遭遇したとしても、 どれもこれも生命活動の表情にすぎなかったのです。そういうことに気がついてもらいましたならばと思うのです。そこでそういうような坐禅というものは、将来なくなるんじゃないかと思うのです。そしてそのようなことは、絶対的でも神秘的でもない、 異常状態に過ぎないので、こんなことを本気でやる者もやがてなくなるんじゃないか、と私は思います。

 

それで、私は将来の仏道というものは、私たち道元禅師の 『正法眼蔵』の道しかあり得ないのではないかと、つくづく感じさせられます。私は、こゝで一番うれしく思っているのは、駒沢大学にまいりまして、そういうような事ばっかりさせられて頂くことが出来たからです。これは、普通だったら、お寺に帰っておりまして、お寺の経営ばかり考えておって坐禅はしませんでしたでしよう。またする暇もありません。それで専一にこの道に、進むことができたということは この駒沢大学のお蔭だったのです。

 

私は駒沢大学に就任して三年後、昭和二十七年にその時の総長岡田宜法(1882年4月7日 - 1961年12月29日)先生から、この竹友寮を頼まれました。その時、竹友寮の私の部屋にまでわざわざやって来られて、 丁寧に頭下げて頼まれました。「もう寮がだめになっちゃっている。どうにも仕様がないから、お前さんひとつやってくれないか」という事でした。

その当時は世の中も敗戦のあとで目茶苦茶でした。従って竹友寮も例外ではありませんでした。まともな格好したもの一人もいませんでした。殆んどが復員してきた者でした。 したがって、軍服を着ているものがたくさんいました。それから、この食料品がないものですから、みんな、郷里からお米を持ってきて、寮の食堂の食事では足りないので、殆んどの者が半分は自炊で補っていました。その自炊ですが、木炭も電気もガスもあるわけでない、燃料にするものが無いので教室の木造の腰掛や机を壊しては燃していました。

 

寮の付近は、現在の8号館辺りですが、あの辺は全部畑になっていました。それを食堂の経営者の木村鉄五郎さんが、その当時は野菜など仲々入手が出来ないので、その畑で「さつまいも」や大根などの野菜を栽培して、それを材料に調理していました。全く大変でした。 従って、寮の食事半分は自給自足の状態でした。その作物の肥料は全部これも、自給自足でした。その時、耕作と肥担ぎを実際やっていたのは木村さんと若い今野さんと、関さんとでした。今でも関さんは健在のようですが、今野さんは亡くなりました。この三人が一生懸命に働いていた、あの時の姿が脳裏にはっきりと覚えています。

 

ところで一方、竹友寮内では一般社会の流れに迎合してと言ったらよいでしよう、「信教は自由なり」ということが流行っていました。それで寮生は「信教は自由なり」で寮の規矩なんかに従うことはないというので。本来、竹友寮の寮生活は行学一如の規矩によるものであったのですが、それを怠けて勝手気儘をしようとして寮生達が言い出した論理が、この「信教的自由なり」 であったので、それは筋も何にもあったものではありません。これには出鱈目滅茶苦茶というもので、これが当時の寮の状態だったのです。したがってその当時は寮の行持は殆んど行われていませんでした。

 

岡田先生の依頼を私は引き受けて、これは一応大変だとは思いましたが、その時分の私にはこういう体験がありました。それで曹洞宗というところは、どういう宗旨であるのかということを知らせて貰いました。それと言うのは、こういう二回の体験であります。それは、私の、孫師匠が鳥羽の常安寺(三重県鳥羽市鳥羽2-12-3)で昭和十二年十二月廿五日なくなりました。ちょうどその時、私は京都におりましたが、すぐ鳥羽に出かけました。

 

その時に弟子達が全員集まり、そうしてお通夜と、葬式とをやりました。その時に、一番長老の者がこんな事言いました。「明朝は、何時振鈴、暁天は何時、それから引続き朝課」と一同に告報しました。これでは僧堂と全く同じことです。これは。変なことだと思いました。その時はじめて気が付きました。実はこれです。坊さんたちが集まったときには、必ずそこに、一つの僧団が成立したのです。僧団の成立には、必ずそこに修行というものが成り立つ。それが僧団というものであるということを教えてもらいました。

 

われわれ坊さんが集まった時には、ただ人間集まったのであってはならない、集まった処に於いては、必ず、そこには何時振鈴、暁天、朝課という行持が出現するのです。これが僧と云う者であることを知らされました。それから修褝寺の丘球学(1877年10月17日 - 1953年10月14日)老師が亡くなられた時に、実は丘球学老師は私の法幢師でしたから、葬式に参りました。そうしたら、老師に参学したその昔の雲水達が殆んど全員が集まって居ました。そして、翌朝には矢張り、常安寺と同じで「明日は振鈴何時、暁天何時、朝課何時」と告報がありました。ははあ成程な、これが本当の在り方なのだなあという事が、身にしみました。それで、私は以上で、坊さんが集まったときには、このようでなければならないということ、それが仏法僧の僧宝であり、これが本当の原則だということを教えて頂いておりました。それで私は、竹友寮の寮生に対して諸君は宗門の徒弟であり、宗門人であるから、世間的な「信教の自由」であってはならない。したがってここに集まっている限りは、宗門の家風にしたがうのが当然であり、それが宗門の子弟であるということだ。この竹友寮にあっては、当然のこととして「信教の自由」など、あってはならない。このような共同生活

は僧宝であって、それには必ず規矩がなければならない。だから 明朝からは行事は固く始めると宣言しました。

 

それまでは朝課だけだったのでしたが、暁天坐禅も開始しました。その当時は現在のように、竹友寮には僧堂がありませんでしたから、昔の講堂 (昭和十二年落成百年祭に改築) 下に仮の坐禅堂がありましたので、竹友寮からは、毎日走って行かなければならなかったのです。その当時は私は坐禅のほうを担当していました。その当時寮生は百六十名ぐらい居まして、全部が入りきれないので、半分ずつ坐禅組と朝課組とにして交替でやっていました。朝課をつとめる本堂と言っても、竹友寮の二階にあった仮講堂だったのです。そこに現在のような立派な本尊さんはありませんでした。このような状態の中で竹友寮の全員に行事を強制しておりました。そのころの私は毎朝ね、片端から各部屋を見て廻り起こして歩きました。中には振鈴など一向にかまわないで、平気で寝ているものもありました。その時は私は布団を引き剥して、叱り飛したものです。中には裸で寝ていて、その裸のままを寝台から引きずり降された者もいました。

 

昭和三十年前後の卒業生で竹友寮におった者の大部分、このような被害者だったではないでしようか。かくてこの竹友寮では、学生寮の限度で僧堂生活をやりました。然も昭和四十一年に現在の新竹友寮になってからは、僧堂も法堂も完備しましたので、学寮限度の僧堂生活を徹底することが出来ました。その代表的なものは、朝行われている僧堂での本行鉢であります。面白いことに、永平寺行きましたら、実は本山という処では非常に忙くて時間が無いために、毎日毎時に本行鉢は出来ないので、毎日、僧堂では略行鉢が行われています。

 

したがって時たま本山あたりで、本行鉢をやる時に、それが突然であったりすると、作法の熟練者が不足していたりする。そのような時に、竹友寮の出身者が呼ばれた、と云うことを聞いたことがありました。その時、私はやっぱり竹友寮でやっておってよかったなあと感じました。

 

私は竹友寮というものに対して、常に信念をもってしていました。それは僧堂生活を実践することです。何故かと云いますと、宗門の生命は行持にあるからです。従って、大学では行学一如でなければならなかったのですし、またこれが建学の精神でもあった筈です。そこで当然の事として、竹友寮においては行持しなければならないのです。行持がないならば、駒沢大学竹友寮ではなくなります。それで私は一生懸命、まあ竹友寮のためにやったのです。然しそればかりではない、竹友寮という処でやっている事は実は私自身が行持することでもあったのです。

 

私自身は生涯を修道生活に打込みたかった。というよりは、その修道生活が理想だったのです。だから実際において、この自分のこの暴走を竹友寮生活が実現させて下さっていたのです。従って、こういうような寮に縁があったということは、私にとっては、無上の好因縁であったのです。

 

だから、私は特にこの駒沢大学の三十八年間の生活というものは、本当に有難いことでした。なんと御礼をいって言いかわかりません。つまり暴走族の私に思う存分に暴走させて頂いたことは、どんなに感謝しても感謝し切れるものではありません。どうも、皆さん方に長い間、つまらぬ話ばかりしました。まことに恐縮の至りであります。心から御礼を申し上げる次第でございます。

 

どうか、駒沢大学は行学一如の学風であります。またこれが駒沢大学の建学の根本義であります。つまりこの根本義が実は宗門の生命であったのです。この宗門の生命のことを考えてみる時に 色々の事が考えさせられますが、駒沢大学の存在は宗門の生命でありますので、今後の繁栄を祈念いたしております。

 

 

これはインターネットからダウンロードしたpdf論文をワード化し、大幅に修訂

を加え、掲載するものである。(タイ国 バンコク近郊にて 二谷 記す)