正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

禅語つれづれ 入矢 義高

禅語つれづれ

入矢 義高

      一 禅臭

 現在アメリカに滞在中の一老師から、十年ほど前に「日本の禅宗はあまりに禅臭(くさ)すぎる」という慨嘆を聞かされたことがある。「禅臭(くさ)い内はまだ脈があるんだ」という風に先走って、この言葉を捻ってしまわずに、平心にこの嘆きを嚙みしめてみたい。わたし流にこの嘆きを受け止めるならば、これはまさしく臨済禅師の「外には凡聖を取らず、内には根本に住せず」(『臨済語録』「大正蔵」四七・四九八a一四)を裏返しにした姿を、今日の師家に見て取った所から出た嘆きであろうと思われる。言いかえれば、「根本に住し」きって、胡坐をかいた老師、「禅味に貪著」(維摩居士の語)することが、自らを縛する由縁であることの、自覚さえない禅僧が余りに多い、と云う事ではあるまいか。

 こういう処から発散する禅臭は、そのような人たちの一言一動にも、ありありと感じ取られるがここで私はその事を、古則公案の解し方に見られる一種の図式(または型)と関係させながら述べてみたい。

 ある僧が雲門に尋ねた、「如何なるか是れ清浄法身」。雲門は答えた、「花薬欄」(『聯灯会要』「続蔵」七九・二一〇a一〇)。この花薬欄とは、わが禅門一般の通説によれば、便所の悪臭を消すために、又はその不浄の場所を隠す為に植え込まれた、モクセイやムクゲなどの生け垣の事だと云う。つまり、清浄なものについての問いに、不浄なもので答えた。そこが素晴らしいのであり、面白い処なのだ、と云うわけである。しかし私には何としても納得出来ない。一体なぜ便所の周囲の生け垣が不浄なのか? もしその生垣に尋ねてみたら、生け垣は何と答えるだろう。抑もなぜ便所が不浄なのだろうか? すでに「不浄」を設定した処に、俗っぽい分別方便が顔を出しているし、浄に対して不浄、正に対して反と云った図式の極めて安易な適用が見られる。

 抑も花薬欄(または薬欄)とは、柵を巡らして丁寧に囲った芍薬の植え込みの事であり、中国の六朝時代から唐代へかけて、貴族の庭園や寺院には欠かせない景物であった(ただ中唐以後では、牡丹がこれに取って代り始める)。豪壮華麗な庭園の正面に、その華麗さを集約するポイントとして、この芍薬の植え込みはしつらえられたのである。そのことを証する記録は枚挙に堪えぬほど多い。いま一例を挙げれば、『景徳伝灯録』巻十一、淥水和尚の章に、「如何なるか是れ祖師西来の意」という問いに対して、「庭前の花薬欄が見えるか」(「大正蔵」五一・二八七a一五)と答えている。便所とは縁も所縁もないのである。これを不浄の象徴とする俗説こそ、まさに「平等一枚の定相」に胡坐をかく者であると言わねばなるまい。

 私のこの解釈は、何よりも先ず「花薬欄」と云うことばと、その物自体についての確認とから出発している。一切の先入主・図式・化儀の方便を私は介入させない。

 いわゆる「趙州の無字」についての従来の扱い方についても、私はかねてから不審を懐いている。「狗子(いぬ)に仏性ありや」という問いに対して、趙州和尚は一方では「有」と答え、また一方では「無」と答えている。しかし日本の禅門では、もっぱらこの「無」のみが公案とされて、「有」は全く無視し去るか、または初めから「無」よりも低次元のものとして捨象し去るのが習わしである。

 この習癖の元は、実は『無門関』に責任があると思うのであるが、すでに宋の大慧(1089―1163)はその弊を指摘している。日く「なんじら措大どもは穿鑿(せんさく)好みが多くて、〔この無は有無の無ではない、真無の無だ。世間のいわゆる虚豁の無とは別だ〕(『大慧語録』十七「大正蔵」四七・八八六a六 (爾措大家。多愛穿鑿説道。這箇不是有無之無。乃是真無之無。不属世間虚豁之無)などと言うておる。そんな事では生死との組み打ちなんぞ出来るものか。生死との組み打ちが出来ないなら、つまりダメだということだ」

 

 「有」は捨てて「無」を取ると云う図式は、つまり上述の「浄」に対して「不浄」を反措定すると云う図式と、根本的には同じ格套に堕するものである。「格に入って格を出づ」という事こそが、禅者の如法なあり方であるはずなのに、すでに『無門関』以来、こうした奇妙はformula(表現)が禅界にまかり通って、その格に人を嵌(は)め込み、自らもその格中に落ち込んでいる事を自覚せぬ、という弊風が著しい。

 今年になって私は永明延寿(904―975)の『宗鏡録』百巻を通読し、教えられる所が多かったが、その中に上述の図式的弊風に対する鋭い批判のことばを発見して、この厭うべき傾向がすでに五代の頃(十世紀)に現れていた事を知った。その延寿の言葉はこうである。

  即心即仏とは是れ其の表詮にして、其の事を直きに表示して、自心を親証して了了として見性せしめんとするなり。非心非仏に若(いた)っては是れ其の遮詮にして、即ち過ちを〔回〕護して非を遮〔遣〕し、疑を去り執を破せんとするなり。・・心も仏も倶に不可得なるを以ての故に、是(ここ)を以て云非心非仏とは云うなり。此れ乃ち能心を払い下(お)として、権(かり)に頓教の泯絶無寄の門、言語の道断え、心行の処滅するところを立てしのみ。故に亦た是れ一機入路なり。円教に若(いた)っては、即ち此の情尽き体露(あら)わるるの法にも遮あり表あり。即にも非ず離にも非ず、体と用と相收め、理と事と無礙なり。

  しかるに今時の学者(禅家)は、既に智眼なきのみならず、また多聞を闕き、遮非の詞をのみ偏重して、円常の理を見ず。奴(奴隷)と郎(主人)とを辯ずるなく、真と偽とを何ぞ分たん。〔即心即仏是其表詮、直表示其事、令親証自心、了了見性。若非心非仏、是其遮詮、即護過遮非去疑破執。奪下情見依通意解妄認之者。以心仏倶不可得故、是以云非心非仏。此乃払下能心、権立頓教泯絶無寄之門、言語道断、心行処滅。故亦是一機入路。若円教、即此情尽体露之法。有遮有表。非即非離、体用相收、理事無礙。今時学者、既無智眼、又闕多聞、偏重遮非之詞、不見円常之理。奴郎莫辯、真偽何分。〕(「大正蔵」四八・五六〇a二二)

 表詮より遮詮を重んじ、「有」よりも「無」を取り、「浄」に対しては直ぐに「不浄」をも

ってくるという紋切り型の浅薄さを、彼は責めているのである。同じ彼の別の著述『万善同

帰集』巻下には、もっと直截な指摘が見られる。日く、

  今時の人みな謂(い)えらく、遮言は深くして、表言は浅しと。故にただ非心非仏をのみ重んず。これ良(まこと)に〔今時の人が〕遮非の辞のみを以て妙となし、自法体の故(もと)より此(かく)の如くなることを親証せんと欲せざるに由るなり。〔今時人皆謂、遮言為深、表言為浅。故惟重非心非仏。良由以遮非之辞為妙、不欲親証自法体故如此也。〕(「大正蔵」四八・九八七a二三)

 もうこれ以上付け足す必要はないであろう。上に述べたような図式の安易なもたれ掛か

りは、ちょっと気を付けて見廻せば、至る所でお目にかかる事が出来る。たとえば、最もこ

れを嫌ったはずの臨済禅師その人の語録に対して、従来の日本の禅家が作った注釈や提唱

などに、いくらでもその例を見い出す事が出来るであろう。

 『維摩経』の菩薩行品に、次のような有名な一句があるー「生死の中に於て、園観〔に遊

ぶが〕如くに想う「於生死中如園観想」(「大正蔵」三八・四〇七b五)。日本の禅僧が好ん

で引用する句である。しかし原文ではこの句の前に、これの対句として「諸もろの禅定に在

って、地獄〔に在るが〕如くに想う「禅定雖楽。安之則大道不成。菩薩不楽故。想之如地獄

也」(「同書」b三)という、凄まじい一句がある。不思議なことにこの句の方は兎角無視さ

れるか忘れられるかして、引き合いに出されるのは、専ら「生死の中に・・」の句であり、

こちらの方が大変好まれているらしい。私が上に述べた「根本に住する」習癖の、これも一

つの現われであろう。

 四年前のフランスの『ル・モンド』紙に、その特派員が二年間ソビエトの大学に留学し、

つぶさにソ連の青年たちの生活と思想を報告したルポルタージュが連載された事があり、

その要約が『朝日ジャーナル』に紹介された。その記事のなかで、強く印象に残った一段が

あった。それは、ソ連の一大学生が彼に親しく語ったという、次の言葉であるー「我々ソビ

エト人も、ほかの国の人達が出来るように、自分自身を軽蔑する事が出来るようになったら、

その時こそ本当の大国民になれるでしょう」。この言葉を現在の中国の人たちに聞かせても、

全然その意味が理解されないであろう事は確かであるが、さて今日の

日本の禅家にとってはどうであろうか。わたし流に解すれば、この言葉はまさしく「もろもろの禅定に在って、地獄に在るが如くに想う」の現代的デフォルメ〔歪曲〕そのものである(さらに補足させていただくなら、維摩のこの語は「もろもろの禅定に在って、しかも・・」という意ではなく、「もろもろの禅定に在ること・・」という意でなければなるまい)。近世の最も勝れた禅者、鈴木正三(1579―1655)をして、もし今に生かしむれば、きっと右のデフォルメの意味を理解してくれるであろう。

 

   二 語録のレトリック

私がこれから取り扱う禅語とは、「麻三斤」とか「花薬欄」とか「喫茶去」とか云った、禅門のいわゆる古則・公案の事ではなく、禅宗の語録や禅僧の伝記などに普通に用いられている日常用語の事である。いま日常用語と言ったのは、これらの文献が載せられている説法や問答が、ほとんど常に当時の話し言葉のままか、或いはそれに近い口語体で記録されているからである。もちろん記録者によっては、それを文語体(古典的ないわゆる漢文体)に書き直して世に伝える事もあり、特に上堂説法(示衆)の言葉の記述には、そのような固い文語調のものが多く見らえるけれども、それの元になっているのは、やはり生(なま)の日常の言葉だったのである。

たとえば、禅録に必ずと言ってもいいほど頻繁に用いられる「這箇(しゃこ)」とか「什麽(そも)」とか「作麽生(そもさん)」とか云った用語は、実は決して禅宗に特有な用語でも何でもなく、中国の唐・宋時代を通じて、僧俗を問わず、ごく普通に用いられた話し言葉だったのである。この平凡なことが気付かれなかったり、または忘れられてしまうと、、とかくその言葉の理解の仕方にヒズミが生じ、或いは奇妙にハネ上がったアウフヘーベン止揚揚棄)をやる事になる。と云うのも、「そも」とか「そもさん」という語音の奇妙さや、その漢字の視覚的な非日常性が、一種の心理的作用を引き起こし易いという事情もあろう。しかし、もっと根本的には、もともと口語または口語体で書かれた原文を、古来のわが国では伝統的に日本の文語体を用いて訓読しているという点に、そもそも基本的なズレがある。口語文を文語体に置き代えて読むと云うこの習慣が、いかに誤った理解を育み、ひいては「這辺」と「那辺」の乖離を引き起こし、さらには「根本に住する」自体の風気をさえ生ぜしめた事か。

先ず簡単な例から始めよう。『臨済録』の冒頭に、

  対衆証拠看(「大正蔵」四七・四九六b一八)

という句がある。従来この句は「対衆証拠、看」と句切られことさえあって、たとい右のように句切らなくても、その読み方は「衆に対して証拠せよ、看(み)ん」い一点張りであり、「看ん」とは、「みてやろう」「検査してやろう」という意味に理解されてきている。しかしこれは全く誤りであって、この句の意味は「皆の者に向って証(あかし)を立てて見よ」と云う事であり、「看」とは、ちょうど日本語の「・・して見なさい」に当る口語である。こちら側が「看(み)」るのではない。この句は文語に直せば「試対衆証拠」(試みに・・せよ)であり、そこから「試・・看」という言い方も生じた。たとえば白楽天の詩には、「・・看」〔虚語君當事上〕と「試・・看」〔爲拂塵〕との両様の例が見られる。なお唐代では、「・・して見よ」という命令の意のほかに、「ためしに・・して見よう」という当人自身の意志を表す事が時にあり、禅録でもこの例は宋代に多い。

 これはいかにも瑣細な一例にしか過ぎない。「そう読み変えたかたと云って、宗旨には直接なんの影響する所もない。言説文字は末梢のことだ」という風に軽くあしらわれるかも知れない。しかし、決してそんなものではない。およそ書物を読むからには、先ずしの本文を正しく読む事が大切であるという事は、誰でも弁えている自明の理であろう。いまここに、維摩居士を担ぎ出して、「言説文字はみな解脱の相なり。この故に文字を離れてげだを説くなかれ」〔言説文字皆解脱相、無離文字説解脱也〕(『注維摩詰経』六観衆生品「大正蔵」三八・三八八a一四)などと助言して貰おうと云うつもりはない。ただ、とかく「不立文字」に藉口(しゃこう)して乱暴な誤読を犯して平然たる人の多いこと、また誤りを多く含む古来伝承の読み方を無反省に踏襲している例の多いことを見て、些か私なりの苦言を発せざるを得ないわけである。

 

 ふたたび『臨済録』から例を取ろう。

   道流、你取這一般老師口裏語、為是真道、是善知識不思議、我是凡夫心、不敢測度他老宿。瞎屡生、你一生秖作這箇見解、辜負這一雙眼。冷噤噤地、如凍凌上驢駒相似。我不敢毀善知識、怕生口業。(「大正蔵」四七・四九九b一九)

 この一段を取り上げたわけは、従来の読み方に、ひどい誤りがあるという事の外に、およ

そ禅録を読む場合には、その主人公である語り手(説法者)の語り口たレトリック(言い回

し)の特徴をよく掴んで読まないととんだ事になる、と云う事を示す好例だからである。

 まずはじめの「為是真道」という句は、従来から「是れ真なりや為して道(い)う」と読

まれ、現在もそうである。しかしこれは誤りであり、正しくは「真の道なりとなし」でなく

てはならぬ。「為是」は熟語であって、この二字で「・・なりとなす」「・・であると思う」

の意。同じもっと後の方に「取此為是祖門仏法也」(「同書」五〇一a二四)とあるのも同様

である。さて右の句に続く「是れ善知識不思議なり、我は是れ凡夫心、敢えて他(か)

の老宿を測度せず」という三句は、主体性を喪失した道流(どうる)の言葉を臨済が代わっ

て述べているのであり、つまり「お前たち道流のだらしない言い草はこうだ」と、相手の口

を借りて直接話法で述べた所である。普通の漢文ならば、このような直接話法の句の前には

、必ず「言う」とか「日く」という語を置くのであるが、この場合のような日常の話し言葉

での対話では、そのような語を必ずしも必要としない。旧訓が「真道」という熟語を強引に

二つに割って「道」を「いう」と読んだのは、上述の「言う」や「日く」に代わるものがど

うしてもここで必要だと誤解した為である。

 同じような誤り、しかももっとひどい誤りが、最後の二句に見られる。すなわち「我敢え

て善知識を毀(そし)りて、口業(くごう)を生ぜんことを怕(おそ)れず」という読み方

である。そのため、この句の意味を「わし(臨済)は善知識を謗(そし)って口業を積む

事ぐらい少しも恐れない」という、とんでもない方向へ暴走させてしまっている。しかしこの句も、上に取り上げた三句と同様、主体性を失った腑抜けの道流―ガタガタ震えながら氷の上をビクビクもので渡ってゆくロバそっくりのお前たちの言い草はこうだと、臨済が代わって直接話法で述べた処であって、正しくは「我敢えて善知識を謗らず、口業を生ぜんことを怕る(ればなり)」と読まねばならぬ。つまり「我々はあんな偉い善知識を謗るなどという大それた事は出来ぬ、そんな事をして口が裂けてしまっては大変だ〔などと言いおる〕、と云うのである。そもそも本文の「敢えて」を下の句の「怕る」にまで掛けて、「敢えて怕れず」などと読むこと自体が、間違いの元だったのであるが、それよりもこの説法全体の、いかにも臨済らしい生彩に富んだレトリック(言語表現)の特徴に対して、全く無感覚だった事がこのような誤読を生んだ第一の原因だったのである。

 そして、このような無感覚さは、ひいては次のような結果をも招きかねない。すなわち、どの語録を読んでも、主人公である禅僧その人の個性と、その宗風の特質とを安易に捨象してしまって、いわゆる禅道一般の中へ定型化するという味けなさである。臨済臨済であって趙州ではないし、趙州の「無」はやはり趙州のものであって、臨済や南泉に属しはしないであろう。

 文体について触れた序でに、もう一つ大切な事を取り上げよう。やはり先ず具体的に例を挙げる。またもや『臨済録』で恐縮ながら、次の文を見ていただきたい。

  你若達得万法無生、心如幻化、更無一塵一法、処処清浄是仏(「大正蔵」四七・)四九八b三)

 これの従来の読み方は、「你若し万法無生に達得せば、心、幻化の如く、・・」であり、や

はり現在でもそうである。右の部分では、「你」と「達得」だけが口語で、「万法無生」と「心

如幻化」は完全な文語であるが、それはともかくとして、問題は「若し」を「万法無生」に

だけ掛けて、「心如幻化」を下の句に続けた読み方である。これまた誤りであって、正しく

は「你若し万法無生、心幻化の如くなるに達得せば」と読むべきである。つまり、この四字

句の二句は連接して読むべきなのである。文意の上から云っても当然そうであるが、文体の

面から言っても動かせないなぜならば、この二句は音調上の対応関係がピタリと決まって

いて、「万法無生」は「仄仄平平」、「心如幻化」は「平平仄仄」となっているからである。

四字句二つが、このように隙のないシンメトリカル(対称的)な関係で結び合わされている

以上、この二句を切り離して読むことは許されないのである。

 

   三 只没(しも)と与没(よも)

 鈴木大拙先生に「慧能以後の禅」という非常にユニークな論文がある(『禅思想史研究』

第二)。ユニークというのは、そこに学問的な実証性と、先生自身の禅体験から生まれた知

慧との不思議な統合ないしは調和が見られるからである。その「ふしぎ」さを特徴的に示す

一つの例は、その特有な、そして甚だ個性的な造語法である。たとえば「只没禅」がそれで

ある。

 鈴木先生の創造に成るこの術語は、右の論文においては、慧能以後の禅の展開の中で最も

特筆すべきものの象徴として捉えられ、設定された言葉であって、自然法爾そのままを顕現

した禅観(如々観)と禅経験(只没経験)を、この語で以て端的に規定されたのであった。

この造語は、私の推察する処、先生が密かに得意とされたものであったらしく、その後に書

かれた文章にもしばしば用いられているし、また晩年の対話にも好んで用いられたのを私

も何度か親しく伺った事がある。

 この術語を造られるヒントを先生は『神会(じんね)語録』の中から得られた。たとえば

崔斉公(673―722)と神会禅師(670―762)との問答に、次のような一段があ

る。

  問。禅師は坐禅された場合、ひとたび定(じょう)に入られてから、どれ程の時を経て定から出られますか。

  答。禅には方所はない。だから定なんぞあるものか。

  問。定はないと言われますが、それでは「心を用いる」とは何のことですか。

  答。私はいま定さえも立てぬ。「心を用いる」ことなど、私の知ったことではない。

  問。心も定も二つともないとなりますと、どのようなものが道でありましょうか。

  答。道はただ道であるだけ(道只没道)。「どのような道」というものではない。

  問。「どのような道」というものはないと言われますと、では「ただ道であるだけ」(只没道)というその道は、一体どこに得られますか。

  答。いま私が「ただ道であるだけ」と言ったのは、「どのような道」という問いが出たから、そう言ったまでのこと。もし「どのような」がなければ、「ただ何々だけ」さえも有りようはない(若無若為、只没亦不存)。

 

 右の問答で、崔斉公が第二問で「用心」のことを持ち出しているのは、禅を修するに当っ

て、「定」を否定されては心の用い様がなくなってしまうではないか、という反問であって、

ここが「定慧双修」を主張する神会の如来禅に対する当時一般の清浄禅の立場なのであり、

この論点はさらに同じ語録で、澄禅師に対する神会の批判の中に鮮やかに究明されている。

 それはともかくとして、先の「只没禅」に対して鈴木先生は、適当ではないが、仮りの

訳語としてと断って、「そのまま禅」という日本語訳を付けられた。私もこれにならって、

右の「只没禅」に対して「そのまま道」という訳語当てたかったのであるが、敢えてそう

しなかったのには次の理由がある。先ず第一に、「只没」は用言を修飾する副詞であって、

名詞を修飾する形容詞には成り得ない事である。「そのまま禅」という日本語は、いかにも

術語として安定してはいるが、それは「そのまま」が「禅」を修飾する形容詞たり得ている

からである。しかし原語の「只没」はそうはいかないのである。このことは恐らく鈴木先生

も御存知の上であったかと思われる。現に「只没禅」という三字が出てくる唯一の文献であ

敦煌写本『歴代法宝記』の例は、次の通りである。

  義奘法師が無住禅師にたずねた、「禅師はどのように坐禅されますか」(禅師作勿生坐禅

  無住は答えた、「〔どのように〕ではない、ただ禅だけだ」(不生只没禅)

 

 右の「只没禅」という句は、厳密に直訳すれば「ただ禅するだけ」、または「ただ禅であ

るだけ」であって、「ただこのままの禅だ」という意にはならないし、まして「ただこのま

まが禅だ」という意味にはならない。

 「只没」という言葉の意味は、要するに「只(ただ)」だけであって、「没」は意味のない

単なる接尾語にすぎない。これはまた「只摩」とか「只勿」とも書かれ、『景徳伝灯録』で

は大体「只麽」という表記法で統一されている(十か所)。後で言及する「与没」も「与摩」

「与麽」とも書かれ、稀には「異没」「伊没」などとも書かれるが、やはり没・勿・摩・麽

は意味のない語助にすぎない。

 「只没」という言葉の特徴的な用例が、先に引いた『歴代法宝記』に幾つか見られる(十

か所)ことは、すでに鈴木先生も言及していられるが、その諸例を挙げる事は省略されたの

で、次に一つだけを選んで紹介しよう。それは無住禅師が新来の弟子たちに説いて聞かせた

喩え話の例である。

 

一人の男が岡の上に立っていた。そこへ何人かが連れ立って通りかかり、高い所に立っ

ている男を望見して、一人が言うには、「あの男はきっと迷った羊を探しているんだろ

う」。もう一人が言った、「いや、連れにはぐれて〔仲間を探して〕いるんだ」。もう一

人が言った、「いや、風に当って涼んでいるんだ」。互いに言い争って決着がつかぬ。そ

こで三人は岡の上までやって来て、その男のたずねた、「羊の迷い子ですか」。「いや、

迷いはしないよ」。「連れにはぐれたんですか」。「いや、はぐれたのでもない」。「涼んで

いるんですか」。「いや、涼んでおるわけでもない」。「どれも違うとすると、一体なぜ岡

の上に立っているんです」。「私はただ立っているだけなんだ」〔有一人高阜上立。有數

人同伴路行、遙見高處人立、遞相語言、此人必失畜生。有一人云、失伴。有一人云、採

風涼。三人共諍不定。來至、問上人、失畜生否。答云、不失。又問、失伴。云、亦不失

伴。又問、採風涼否。云、亦不採風涼。既總無、縁何得高立上。答、只沒立。〕

 

 この寓話は、読む人によって、色々な意味に受け取られるだろうし、亦それだけの豊かな

膨らみを具えている。そこがこの寓話の真骨頂なのであって、たとえば「那辺の消息はあらゆる憶測や詮索を超えたものだ」といったような型通りの理解の仕方に引き込む必要はない。そのような受けとり方は、かえって鈴木先生の「そのまま禅」の本旨とも縁のないものであろう。

 香厳襲燈禅師の「玄旨頌」に

 

   去去 標的(あてど)なく      〔去去無標的〕

   来来 只麼(しも)に来る      〔来来只麼来〕

   人あって相借問(しゃもん)するも  〔有人相借問〕

   語らずして笑って咍咍        〔不語笑咍咍〕(「大正蔵」五一・四五二c二)

 

とあるのも「只麼」の例としてはともかく、そこから漂い匂ってくる禅臭は堪え難いものがあって、到底無住禅師の寓話の飄渺(ひょうびょう)たる風韻に及ぶべくもない。

 「只没」と同じ構造を持つ言葉に「与没(よも)」がある。本来の意味は「そのように」または「このように」であるが、時には形容詞的に「そのような」または「このような」の意に用いる用法が唐末頃から始まる。「没」は上にも述べたように摩・磨・麽とも書かれるが、敦煌の写本ではほとんど例外なく「没」のみが用いられる。「没」には意味がない。では、どうして「与」が「その(この)ように」の意味になるのか。その訳を説明するには、唐代の漢字音の音韻変化について専門的な解説が必要になるので、ここでは差し控える事にするが、ただ私の推論の結果だけを述べれば、この「与」は、「若」または「如」(意味は、かくのごとく・かくのごとき)の字音と当時かなり似通った所から、「若」「如」と同義に用いられるようになったものと推定される。敦煌本の『六祖壇経』で、しばしば「汝」(如)と「与」とが同音通用している例も、この場合いい参考になる。

 この語は、上にも述べたように時には「異没」とか「伊没」とも書かれるが、これも「与」の字音が「異」「伊」と同音になった為の現象であり、また稀に「熠没」と書かれるのも同じ事情による。五代以後になると、これらの代りに「恁麽(いんも)」、また宋代以後は「恁地」(恁的)が一般化するが、それでも禅録ではなお古風な「与麽」を使いたがる傾向がある。

 ここで注意しておきたいのは、日本の禅家のなかに「与麽」と「恁麽」を疑問詞として扱って、「甚麽」(什麽)と同義に解する人があるが、誤まりである。すると、そのような人は宋代の睦庵善卿が著わした『祖庭事苑』にその証拠があるとして、反駁するかも知れない。しかし『祖庭事苑』のその条がそもそも誤っているのである。

 

   四 即

 むかし初めて黄檗禅師の『伝心法要』を読んだ時、それまでに読んだ『臨済録』や、そのほか二、三の禅録に見られる説法と比べて、その解きかたが極めて分析的、かつ論理的なのに一驚した事を覚えている。またその文体も、出来るだけ説法の生の口吻を伝えようとする配慮が行き届いていて、千年以上の後の我々が読んでも、その時の黄檗の語り口のニュアンスや、一句一句のイントネーションまでを思い浮かべる事が出来る。このような特徴は、恐らくこの記録者が裴休(791― 864)という非僧侶の人であったと云う事と、彼の文学者としての力量の非凡さが生んだものであろうと思われる。たとえば、同じく「もし」または「もしも」という仮定の意を表す口語を使う場合でも、「若也」と「忽若」と「可中」とを、その時々の論調と文脈に応じて微読妙に使い分けている(ついでながら、従来「若也」を「もしまた」と読み、「忽若」を「たちまちもし」とか「ゆるがせにもし」と読み、「可中」を「このうち」と読むのなどは、すべて誤りである)。と云う事は、黄檗その人の思想の性格が、その独特なレトリック(言語表現)に裏打ちされて呈示されていると云う事であり、またそれが人を得た記録者の手で見事に定着されていると云う事でもある。次に一例を挙げよう。

 

 問。昔から誰もが「即心是仏」(心そのものが仏である)と申しておりますが、どのような心そのものが仏なのでしょうか。〔從上來皆云。即心是佛。未審即那箇心是佛〕

 答。お前にはいくつの心があるのかな。〔爾有幾箇心〕

 問。凡心そのものが仏なのでしょうか。聖心そのものが仏なのでしょうか。〔爲復即凡心是佛。即聖心是佛〕(「大正蔵」四八・三八三a三)

 答。いったいお前のどこに凡聖の心があるというのだ。〔耶、處有凡聖爾何心〕

 問。げんに三乗の教えのなかに、凡と聖があると説かれています。それがないなどとは、和尚には言えないはずです。〔即今三乘中説有凡聖。和尚何得言無〕

 答。三乗のなかに、はっきりとお前たちに向って言うてある。「凡聖の心は妄である」と。それがお前にはいま分からず、かえってその心を実体のあるものと考え、空なものを実としておる。それこそ妄というものではないか。そんな凡情や聖境は取り払うことだ。そうすれば、心の外に別の仏はありはせぬ。・・永劫の昔から、〔心というものは〕今日のそれと異なりはせぬし、このほかの異なった法はないのだ。等正覚を成ずとは、このことだ。〔三乘中分明向爾道。凡聖心是妄。爾今不解。返執爲有。將空作實。豈不是妄。妄故迷心。汝但除却凡情聖境。心外更無別佛。祖師西來直指一切人全體是佛。汝今不識。執凡執聖向外馳騁。還自迷心。所以向汝道。即心是佛。一念情生即墮異趣。無始已來不異今日。無有異法故名成等正覺〕

  問。では和尚の申される「即」とは、どんな道理なのでしょうか。〔和尚所言即者。是何道理〕

  答。なんの道理を求めようというのだ。道理が顔を出した途端に、もうお前の心は異なってしまった。〔覓什麼道理。纔有道理便即心異〕

  問。さきほど「永劫の昔から、今日のそれと異ならぬ」と申されましたのに、それは

    またどうしたわけですか。〔前言無始已來不異今日。此理如何〕

  答。お前が〔その道理とやらを〕求めるからこそ、お前は自分からそれと異なってしまったのだ。もしお前が求めなかったら、どこにも異なりはない。〔秖爲覓故。汝自異他。汝若不覓。何處有異〕

  問。異ならぬのでしたら、なにを取りたてて「即」などと言う必要はありますまい。〔既

是不異。何更用説即〕

  答。もしお前が凡聖を問題にせぬなら、誰がお前に「即」などと言うものか。即がもし 

    即でなかったら、心も心ではない。もしも(原文は「可中」)心も即もともに忘れ去ったとしたら、お前はどこにそれを求めにいくつもりか。〔汝若不信凡聖。阿誰向汝道即。即若不即。心亦不心。可中心即倶忘。阿爾便擬向何處覓去〕

 

 この問答には、いわゆる禅の論理とそのレトリックの特徴が、かなり典型的に示されて

いるのであるが、まずことばの面から話を進めよう。

 ここの問答の主題である「即心是仏」というセット・フレーズにおいて、はじめの「即」

という語は、その次に来る名詞を、立音の主題として強く規定し正面に押し出す、という機

能をもつ言葉である。従って、文法の用語を使えば、いつも主格に立つ名詞のすぐ上に置か

れる。そこで「即心」を正確に日本語に移し替えれば、「心そのものが」、または「ほかなら

ぬ心こそが」という事になる。これを「心に即して」と読む人が多いが、意味のズレを引き

起こす危険が大きいので、私は賛成できない。

 ところで「心そのものが」あるいは「心こそが」と云うことは、「心そのままが」と云う

事と論理的には同じではない。しかしこの「即」は、中国語としても右の両様の意味に混用

される事が多く、上に挙げた問答での最初の問い「どのような心そのものが」(即那箇心)

という発問にも、右のような両様のニュアンスがある。もっとはっきり言えば、「私のよう

な妄執の多い凡俗の心そのままでも仏なのであろうか」という、問者自身の切実な疑心が裏

に籠っている。

 さて周知のように、「即心是仏」はまた「是心是仏」とも云うが、その場合の「是心」は

やはり「即心」と同義であり、ただ「即心」に比べると語調は柔らかい。しかしそれは「即

心」と比較しての事であって、たとえば『臨済録』における「是你」「是這箇」などは、ま

さに「お前こそが」「これこそが」という訳語がぴったりする。なお、右の「是仏」の「是」

は「是心」の「是」とは全く別で、「である」という繋辞、つまり文語の「為」と同じであ

る。「即心是仏」はまた「即心即仏」とも云う。むしろこの方が恐らく馬祖の原語であろう

が、この場合の「即仏」の「即」も「即心」の「即」とは全く別義であり、やはり「である」

の意ではあるが、右の「是」や「為」よりも遥かに強い。と云うのは、二者が無媒介。無条

件に等置される時にこの「即」が用いられるからである。日本語に置き替えれば、「・・に

外ならぬ」という言い方に当る。

 黄檗の第三の答え「永劫の昔から云々」には、例の〔心心不異〕と云う理念が中心にあり、

それが〔法〕と等置されている。〔心心不異〕とは、言ってみれば、大文字のMindと小文

字のmindとは二つのものではないと云う事である。しかしこの質問者にあっては、すでに

聖と凡との二元的立場を取っている事でも明らかなように、右のMとmとの絶対的相即と

言う事が判らない。そこで「即」とはどう云う道理かと、第四問を発する訳である。すると、

そもそも〔道理〕を想定すること自体がMとmとの乖離に外ならぬと指摘される。しかし

質問者にはまだそこが納得できない。「もし心心不異ならば、たとい〔道理〕を求めると云

う営みが介在しても、そういう今の自分のmindはやはりMindと異なるはずはなかろう」

と云うのが、第五問の意味である。これに対する黄檗の答えは、「求めることをやめよ、そ

うすれば心心の異はない」と云うのであるが、この答え方は、今までの理詰めの質問者を十

分に納得させ得るものでもないし、また平心に読んで、今日の我等にとっても必ずしも説得

的とは思えない。果たして質問者は切り返したー「本来不異ならば、わざわざ〔即〕という

必要はないではないか」と。

 この切り返しはなかなか鋭い。いかにも質問者は依然として二元的・相対的立場から抜け

出してはいないが、言葉へのもたれ掛かりを峻拒し、言葉の使用に潔癖であろうとする点は、

高く評価してよかろう。これに対する黄檗の最後の答えは、要するに二元的立場を捨てて

〔無心〕に帰れと言うのである。ただ「即がもし即でなかったら」などと云うあたりは、先

の質問者の「即」への切り込みにイニシアティブを取られて出て来た言葉であり、ここに至

って「心も即もともに忘れ去れ」と云う位なら、もっと早く「異」も「不異」もない理事不

二の処を直示してやった方が、この質問者の立脚点を砕くのにより効果的であったろう。し

かしここも黄檗の善巧方便と見ておく方が穏当かもしれない。

「即」は、いい意味でも悪い意味でも、大変便利な言葉である。鈴木先生の「即非の論理」

は、そのいい意味での面を巧みに捉えたユニークな発想であった。悪い面と云うのは、この

「即」の無媒介・無条件の等置という機能が乱用され易いため、しばしば安易な相対性の

捨象、手際の良い絶対性への滑り込み、平等一枚の定相へののめり込みに利用されがちな事

である。「即心無心」(『二入四行論』・『宗鏡録』四五、「大正蔵」四八・六八一a二九・3か

所)「即念無念」(『宗鏡録』三五「同所」六二三a九・4か所)、「即理無理」(同上四五「同

所六八一b一・2か所)などと云った術語が、たとい勝義び用いられている場合でも、我々

は常に右の事への注意を怠らぬようにしたいものである。

 

   五 是你

 前項で「即」の意味について述べた中で、「即心即仏」と云う時の「即心」とは、「ほかな

らぬ心が」または「心こそが」の意であること、そして「即心」の代りに「是心」と云って

も同じ意味である事を述べた。このような用法の「是」は、「この」の意ではなく、まして

「これ」でもない。その次に来る語を強く規定し、それを主題として大きく提示する機能を

持つ。従ってその語は常にセンテンスの主語になる。

 『臨済録』の説法のなかに、「是你・・」という言い方(13か所)が繰り返して現れる

事に気づいておられる読者もあろう。これは実は単にレトリック(言語表現)の面での臨済

の特徴を示すだけでなく、臨済禅そのものの本質を示す一特徴でもあると私は考えている。

たとえば、

  是你如今与麼聴法底人・・(「ほかならぬお前という、今そのように聞法している者こそ

は・・」。または「現にいまそのように聞法しているお前たちこそは・・」(「大正蔵

四七・四九九b一六)

 「你」は単数・複数のどちらにもなる。そしてここでは「如今与麼聴法底人」と同格であって、目の前で説法を聞いている聴衆に向って臨済がじかに呼び掛けた言葉である。何でもない事のようだが、実はこの点を先ずしっかり押さえて置く事が大切である。右の文中の「底」は、中国語に特有の一種の接続詞であって、その次の「人」を省く事も出来る。すると、その上の句全部は名詞化して、「是你如今与麼聴法底」だけで、やはり上述の意味と同じになる。次の例でも同様である。

  是你四大色身不解説法聴法。脾胃肝膽不解説法聴法。虚空不解説法聴法。是什麼解説法聴法。是你目前歴歴底。勿一箇形段孤明。是這箇解説法聴法。(「同所」四九七b二六)

 「是你四大色身」とは、「ほかならぬお前という四大色身(四つの元素からできた肉体)は」という意であって、「ほかならぬお前の四大色身は」という意ではない。「是什麽」は、「ほかでもない何ものが」または「そもそも何が」の意。「是你目前歴歴底」とは、ほかならぬお前という目前に歴歴たるものこそが」、つまり「私の目の前に歴歴としてあるお前たちこそが」の意であって、伝統的な読み方の「是れ你が目前歴歴底」、つまり「お前たちの目前にはっきりと存在するもの」という解釈は、全くの誤りである。最後の「是這箇」は、「これこそが」という意であり、その「これ」とは、以上の文脈から当然「目前に歴歴たるお前たち」―「一箇のフォルムすらなくして、しかも独自に明確なる」主体であるお前たちそのものを直指する。しかし伝統的な解釈では、これをお前たち(具体的な目前の聴衆そのもの)と解しないで、お前たちに内在する「人(にん)」(無依の道人)を指すとする。上文の「是你目前歴歴底」という句を「お前たちの目前に歴歴と存在するもの」と解するのもその趣旨の現われである。しかし、臨済はそういう言い方をしてはいない。つまり、そのような「道人」や「真人」の媒介を、ここの論旨は初めから必要としてはいないのである。いま目前で歴歴として法を聞いているのは、ほかでもないお前たちであって、「無依の道人が法を聞いている」と言っているのではない。その事は是你―是什麽―是你―是這箇という強烈な畳み掛け方から見ても明らかである。

 「是你」よりも一段と強い表現に「祇你」があり、右の点はさらにはっきりする。

  你欲得識祖仏麼、秖你面前聴法底是(お前たちは祖仏を知りたいと思うか。ほかでもない、私も面前で説法を聞いているお前たちこそがそれだ)(「同所」四九七b八)

 新訳が「お前たちがそこでこの説法を聞いているそいつがそうだ」とするのが誤りである

事は明らかである。そのほか「是你即今目前聴法底人」(「同所」四九七b二一)と云い、「你

秖今聴法者」(「同所」四九八c二三)と云い、「道流目前現今聴法底人」(「同所」五〇〇a

二〇)と云い、「道流目前霊霊地照燭万般、酌度世界底人」(「同所」五〇〇c一七)と云うの

も、すべて眼前の聴法の道流たちを、その現実の生き身そのままに〔本来人〕として肯定し

たものであり、そのままで「活きた祖」だとするのである。そこには外在的な超絶者の如き

者の介在は無用であり事は勿論、生ける真仏を内在的に前提するという手順さえも存しな

い。もしその手順があるとしたら、「生ける真仏」自体が別の一つの価値主体になってしま

う。「人(にん)」についての同様である。無依の道人や真人が我等の内に在って働きを為す

のではなく、我々が生き身のそのままで本来「無依道人」なのだ、と臨済は説いているので

ある。

  現今目前で私の説法を聴いている〔お前たち〕無依の道人は、歴歴として分明であり、初めから完全に充足したものなのである。〔現今目前聴法無依道人。歴歴地分明。未曾欠少〕(「同所」四九九c九)

と云うのもその意であるし、

 ただ私の説法を聴いている〔お前たち〕無依の道人こそが、諸仏の母なのだ。〔唯有聴法

無依道人。是諸仏之母〕(「同所」四九八c二)と云うのも、仏を生むのはお前たち自身の

外にないと云うのであり、そこが主体的に自覚されれば、仏という者自体も捨象されてし

まう事になる。

 いま荒木見悟(1917―2017)氏の言葉を借用すれば(『中国文化叢書』Ⅲ、一

六四ページ)、「本来性と現実性とを一体化せる実践主体を、仏の位においてとらえ」た強

烈な主体精神を、私は特に『臨済録』の「ほかならぬお前こそ」と云う、執拗なまでに

繰り返される呼び掛けに見てとるのである。かの南泉和尚がしばしば揚言したと云う「仏

は道を会せず。我はみずから

修行するのみ」〔仏不会道。我自修行〕(『南泉普願禅師語要』「続蔵」六八・七一b一四)

と云う言葉や、「我は渠にあらず、渠は我にあらず」〔我不是渠。渠不是我〕)「同所」七〇

c一五)と云う言葉は、その語録で見る限りでは、弟子たちに対する教えとしてよりは、

むしろ彼自身における信念の告白としての響きが強いだけに、その自己のみを信じよう

とする情熱と気魄は、また臨済のそれとは別な厳しさをもって迫るものがある。

 これまで述べた来た事は、「是你・・」という表現の特徴を手掛かりとして、もっぱら

臨済録』を中心としつつ、私なりの考えを纏めて見たのであるが、些か勢い余って「こ

とば」の枠からはみ出てしまった。

 さて「是你」のこのような用法は、禅録の世界でも中唐の頃から目立って来るのである

が、唐末になると、特に機鋒の激しい禅僧の説法に著しい。唐末の禅風には或る種の定型

化の傾向が現われ始め、たとえば問答の仕方にも、類型的な文句や所作が定着仕掛けて来

る。そうした型や図式を打ち砕こうとした出格の禅匠は、たとい少ない記録をしか留めて

いない人でもその鮮烈な風格は読む人の目を打つ。たとえば投子(とうす)和尚は、幸い

にかなりの量の記録を伝えているが、この人は紋切り型の問いを最も嫌った一人であっ

た。

  問。一念未生の時いかん。〔一念未生時如何〕

  答。よくもそんなデタラメが言えたもんだ〔得與(恁)麼謾語〕(『投子和尚語録』「続

蔵」六八・二三五c一二)

 問いそのものが、質問者自身において燃焼しておらず、絶体絶命の所から噴出した内発的な問いに成っていない時、投子はこれを厳しく拒否するか、または軽くはじいてしまう。

   問。いかなるか是れ鉄を截(き)るの言。〔如何是截鐵之言〕

   答。そう力(りき)みなさんな〔莫費力〕(「同所」二三七c一三)

 そしてこれは投子だけに限らないが、要するに質問者自身の言葉に成り切っていない問い、内的衝迫から迸り出た物に成っていない問いに対して、「是你問麽」、つまり「ほかでもないお前自身がその事を問うのか」と云う反問が先ず発せられる事が多い。出来合いの文句、借り物の質問用語でしかない事を相手に思い知らせる為である。

 

  「是・・」と云う語は常にセンテンスの主語になると述べた。従って『臨済録』中の左の一例、

   此三種身是爾即今目前聽法底人(「大正蔵」四七・四九七b二〇)

に於いては、「是」は明らかに繋辞で「・・である」の意であるから、もちろん上述の「是你」の諸例とは全く別である。

 次いでながら、主格に立つ「是」に、もう一つ別の用法がある。それは「あらゆる」「すべての」の意を表す場合で、たとえば「是処」は「あらゆる処・いたる処」の意、「是時」と云えば「いっさいのこと・なにごとも」の意であり、珍しい例として「是言語」は「凡そ言語は・すべて言葉というものは」の意である。時には「所是(あらゆる)・・」と云う熟語にも成る事があるが、これは還って中唐以後では用いられる事は稀で、むしろ「応是」「応有」「所有」の方が一般的である。

 

   六 在

 ここい取り上げる「在」という言葉は、普通の動詞としての用法「在る」ではなくて、センテンスの最後に用いられる「在」、中国語の語法用語で〔句終詞〕と呼ばれる助詞の一つである。これは大変珍しい、そして奇妙な助詞なのであるが、不思議に唐・宋の禅録では

頻繁に用いられている為、還ってこの語の奇妙さに気付かない人が多い。まず手近かな所から二つ三つの例を挙げよう。

  一索草鞋銭有日在。(〔エンマ様から〕飯代を請求される日が必ずあるぞ)(『臨済録』「大正蔵」四七・五〇一a二一)

  二他日尽被閻老子拷你在(いずれお前たちは皆きっとエンマ様にひっぱたかれるぞ)(『伝心法要』「大正蔵」四八・三八三b二〇)

  三猶将教意向心頭作病在。(まだ教意を背負い込んで心の病気を作っておるぞ)(『景徳伝灯録』十五洞山章「大正蔵」五一・三二二a七)

 結論を先に云えば、このような〔句終詞〕の「在」には、それ自体の語義は全くないので

あって、肯定にせよ否定にせよ、そのセンテンス全体に断言的な語調を添えるだけの、いわ

ゆる強辞であるに過ぎない。感嘆符号(!)の代りを為す助詞だと考えても差し支えない位

である。従ってこれを「在り」と読む必要はないし、そう読んではいけないのである。何と

なれば、日本語の「在り」には強辞としての用法はないのだから。第一、右の一つの例の「飯

銭を索(もと)めらるる日有ること在らん」と云う従来の読み方では、そもそも「有ること

在り」と云う発想も修辞法も日本語には存しないのだから、逆にこの点から類推しても、こ

の読み方が異様であり、不自然であり、従って何らかの誤りを孕んでいるであろう事が当然

気付かれるはずであった。

 この「在」は口語の助詞である。文語ではない。右の「有日在」は、もし文語に直せば「有

日」か「有日焉」となるが、もし「有日在」をそのままで文語として「日の在る有り」と読

もうとすると、意味がすっかり変わって、「まだ日が残っている」「まだ日時が余っている」

と云う意になる。たとえば中国の古い算術用語で、五から三を引くと二が残ると云う時、「有

二在」とか「二在」と云うが、そういう「在」の意味になってしまう訳である。従来の読み

方で右の句を「日の在る有り」と読まなかったのは、せめてもの救いであった。

 要するにこの「在」は強調の語気を表すだけの物であるから、いわゆる訓読法では、なん

とも読みようはないのである。結局訓読する限りでは「日有り!」と読んで他はなく、そし

てそれで結構正確なのである。

 さて奇妙なこの「在」の語源は、実はサッパリわからない。中国の文法学者で呂叔湘

(1904―1998)氏に「釈景徳伝灯録中〔在〕〔著〕二助詞」と云う論文がある。仏典や禅録

中の語法を研究の対象とする学者は、中国では極めて稀な存在であって、氏はその中でも特

に珍らしい学者なのであるが、右の論文での「在」の語源探索は、残念ながらその分析と論

証自体に飛躍と誤解が多くて、とても頂けない。

 ところでこの「在」の奇妙さは、語源の不明な事と共に、その語史の上での不可解さにも

見られる。先ず第一に、この「在」の用例が初めて文献に現れるのは八世紀初めであるが、

そのあとかなり長い断絶があって、九世紀近くになって、今度は俄かに禅録の中にー叙述

の文ではなく必ず対話の部分にー頻繁に用いられ始める。その八世紀の初見の例は、上述の

呂氏の論文では見落とされているが、例の『遊仙窟』に見出される。三例あるうち二例だけ

を挙げよう。どれも詩の中の用例である。

  他家解事在、未肯輙相嗔。(あの人はわけ知りだから、おいそれと腹を立てたりはしま

せんよ)「解事」とは、世間の表も裏も知りむいた粋な人であること。古語で「わけよし」というのに当る。

  定知心肯在、方便強邀人。(ちゃんと分かってるよ、心では承知しているくせに、わざ

と〔拒んでいるようなふうをして〕人を誘いこんでるということが)

 杜甫の「江畔に独り歩んで花を尋ぬ」という詩の「詩酒尚堪駆使在、未須料理白頭人」の

上句「詩酒はなお駆使するに堪えたり(在)」と云うのも、この時期としては珍しい例に属

する。そして次の九世紀になると、この「在」は専ら禅録の用語かと思われる程一般化する

が、外典では還って用いられる事が少ない。

 第二に、特に九世紀以降に都市の寺院を中心として盛んとなった「俗講」、つまり仏典や

仏教説話を分かりやすく民衆に語り聞かせた講談でも、この「在」が用いられた形迹がない。

また禅関係の文献でも、八世紀後半頃に作られたと思われる初期ダルマ禅に関する諸文献

や、神会(じんね)禅に関する諸資料(『六祖壇経』を含む)でも、かなり特徴的な口語の

語彙を多く含むにも拘らず、この「在」だけは現われない。このことは、前に取り上げた「与

没(よも)」と云う言葉が、唐代全体を通じて仏典以外では全く用いられなかったと云う事

実と共に、その理由を明らかにする事はなお容易ではない。禅録に於ける問答に用いらえて

いる口語には、、時折このような厄介な言葉があって、我々を悩ませる。しかしこの「在」

は、その語史的な性格は明らかでないにしても、その語法的な機能は上述のようにはっきり

している。同じく『臨済録』の「勘弁」の始めにある、

  猶恐少在。(これでもまだ足らないと思います)(「大正蔵」四七・五〇三a一九)

と云う言い方は、宋代の哲学者、陸象山(1139―1193)の語録に見える「為是尚嫌

少在」つまりまだ足らぬと〔孔子が〕思われたわけですな)(『象山集』三十四)と云うのと

そっくりであり、下って『』朱子語録』でも、弟子との対話にしばしば用いられている。―

たとえば「未会在」(わからないな)など。ところが不思議なことに、次の元代になると、

あれほど大量の口語文学を生んだにも拘らず、この「在」の使用は一部の方言に残存する場

合を除いては、パッタリとなくなってしまい、この後も文献には現れなくなる。

 

 やはり『臨済録』の「勘弁」の章に、趙州禅師との有名な出会いの一段がある。趙州が行

脚の途中、臨済を訪れた〔趙州行脚時参師〕。ちょうど臨済は足を洗っていた〔遇師洗脚次〕。

趙州は問うた、如何なるか是れ祖師西来の意〔州便問。如何是祖師西來意〕。答、ちょうど

わしは足を洗っておるところだ〔師云。恰値老僧洗脚〕。趙州は近寄って、耳を傾ける様子

をした〔州近前作聴勢〕。すると臨済は云った、〔師云〕、「更要第二杓悪水溌在」。趙州はす

ぐ立ち去った〔州便下去〕。(「大正蔵」四七・五〇四a一五)

 右の臨済の二度目の答は、従来「更に第二杓の悪水を溌(そそ)がんことを要すること在

り」と読まれ、「〔お前は〕まだ二杓目のよごれ水でも、ぶっかけられたいのか」と云う意に

解されている。しかしこの解釈は全くの誤りである。上に述べたように、このような「在」

は常に強い断言的な口調を表すのであって、「ぶっかけられたいのか」と云うような質問や

疑問の意にはなり得ないのである。そのことは『祖堂集』や『伝灯録』などに見える全ての

例を通じて言える事であって、例外は一つもない。このような特徴的な「在」の用法だけか

ら言っても、従来の解釈が誤っている事は明らかである。右の句は「〔わしは〕つぎに二杯

目のよごれ水を足にかけようと思うのだ(または、足にかけるところなのだ)」と云う意味

にしか為りようはない。「よごれ水」と云うのは、洗足の水だからそう云ったのであると共

に、趙州が臨済から第二の答を与えられる事を期待したその期待そのものを、臨済が自ら

先取りして「よごれ水」で以て喩えたのである。そのことは、始めの「ちょうどわしは足を

洗っているところだ」と云う言葉が、そのまま趙州の質問そのものへの解答となっている事

と重層的に連関している。なにも趙州の顔にその水をぶっかけさせなくても、このままの自

然な機用で臨済の器量は十分に発揮されているし、また趙州の方もそのままで十分に分か

る人だったのである。ほぼ同時代の翠微無学の「更要第二杓悪水作麼」(二杯目のよごれ水

までほしがって、どうしようというのだ)(『景徳伝灯録』十四「大正蔵」五一・三一三c一

五)はこれとは全く別の文脈であり、また『碧巌録』五十五則・七十八則の「悪水驀頭澆」

(よごれ水が頭からザブリ)(「大正蔵」四八・二〇五b二三)という著語や、同じく七十六

則・八十八則「第二杓悪水澆」(二杯目のよごれ水がザブリ)(「同所」二一二c二三)とい

う著語は、宋代の転化した用法であり、『仰山語録』に見える東林常総の著語「大小仰山被

他将両杓悪水驀頭澆了也」(仰山ともあろう人が、かれに二杯のよごれ水をザブリとやられ

てしまった)(「大正蔵」四七・五八六a二九)や、『無門関』二十八則の「将悪水驀頭一澆

澆殺」(よごれ水を頭からザンブリと浴びせられた)(「大正蔵」四八・二九六c一二)も、

やはり臨済のあの答えの意とは全く無関係である。

 

   七 多子無し

 臨済禅師が若くして黄檗の元で修行していた時の事、黄檗に向って「如何なるか是れ仏法

的的の大意〔如何是仏法的的大意〕」と問いを発した。言いも終らせず、黄檗臨済を打ち

据えた。なぜ打たれたのか、その意味が臨済には分からなかった。彼はその後二度、同じ問

いを発したが、、二度とも同じ様に打たれただけだった。それでも臨済にはその訳が分から

なかった。彼は師の元を辞し、その指示に従って大愚を訪れた。大愚に問われるままに、黄

檗に三度打たれた事を語ってから、「いったい私にどういうあやまちがあったのでしょうか

〔不知某甲有過無過〕」と尋ねた。大愚は答えた、「それほどまでに黄檗は親切の限りを尽く

して、クタクタになるほどお前の為を図ってくれたのに、その上又わしの所まで来て、あや

まちがどうのこうのと聞くのか〔黄檗与麼老婆為汝得徹困、更来這裏問有過無過師〕。臨済

は言下に大悟して言った、「元来、黄檗の仏法多子無し!〔元来黄檗仏法無多子〕(「大正蔵

四七・五〇四c一九)

 有名な臨済大悟の機縁である。ハッと悟って発せられた右の一語は、黄檗臨済の、まさ

に劇的な出会いの一瞬に、迸り出た閃光である。

 「元来」には、「もともと初めから」と云う意味があるが、それは平叙文での用法であり、

日本語での「元来」にはこの用法しかない。しかしここは平叙文ではなくて感嘆文であり、

従ってこの場合の「元来」は「ああ、そうだったのか」「なんだ、そうとは知らなかった」

と云うニュアンスになる。つまり、今の今まで気付かずに居たこと、知らずに居たことが、

今はじめてハタと分かったと云う時に発せられる言葉である。中国語では「元来」はこう云

う意味に用いられる事の方が多い。

 さて問題は「多子無し」である。これも俗語なのであるが、従来これは「なんの造作もな

い」とか、「大したことはない」とか、「たあいない」などと解釈されてきた。立田英山氏の

臨済録新講』でも、右の一句を「黄檗の禅って、どんな偉いことかと思ったら、ナーンだ、

こんなものだったのか」と釈し、さらに「開けてみたらば猫の糞かなと云う所である」とい

う解説まで付いている。みな誤りである。

 「多子無し」と云う言葉については、幸いに清代の学者翟灝(1736-1788)氏の『通俗編』

巻三十二に要を得た説明がある。そこには先ず最も早い用例として隋の煬帝(569―61

8)の詩の、

 

   見面無多子   面(かお)を見るに多子なきも

   聞那爾許時   名を聞くこと爾許(かくばかり)の時なりき

 

が挙げられ、次いでこの『臨済録』の例が引いてあり、その後に次のような解説が加えられ

ている。

  この語は今日いうところの「没多児」と同じ。「没多児」はかつて詩に用いられた事が

ある。邵堯夫(しょうぎょうふ・1012―1077)の詩に「天聴は高しと雖も只些

子(さし)のみ、人情は相去ること多児(たじ)没(な)し」とあるのがそれである。

 右に挙げられた詩の意味は、「当人の顔を見たところでは、別になんのしさいもない(普通の人と変りはない)が、この人の名声は今までずいぶんい久しく耳にしてきた」と云う事である。つまり「多子無し」とはここでは「特別変ったしさいがない」「普通のもの以上の

何か違ったものがない」ことである。「多子」の「多」とは、文字通りには、「必要以上・普通以上の余計なもの」という意。邵堯夫(北宋初めの哲学者)の詩の「人情は相去ること多児没し」も、人間一般の心情は〔さまざまに異なるようには見えても〕その差異にはそれほど各別なものはない、と云う意味である。以上の例からも分かるように「多子無し」と云う言葉自体には、もともと価値判断は含まれていないのであり、従って「たいしたことはない」

とか「たあいない」とか云った評価や批判には成りようはないのである。

 この点をさらに『臨済録』そのものに即して確かめて見るならば、ちょうど右の「黄檗の仏法多子無し」とピタリと照応する発音が二例見出される。

  一山僧の見処に約すれば、如許多般(くだくだしきこと)なし、秖(た)だ是れ平常のみ。衣を著け飯を喫し、無事にして時を過ごす〔約山僧見処。無如許多般。秖是平常著、衣喫飯無事過時〕(「大正蔵」四七・五〇〇c一〇)

  二我が見処に拠れば、寔に許多般(くさぐさ)の道理なし。用いんと要(ほっ)せば便(すな)わち用い、用いずんば便わち休(や)めんのみ〔拠我見処、寔無許多般道理。  要用便用、不用便休〕(「同所」五〇二a一五)

 

 「多子無し」とは、つまり「くだくだしい、余計なあれやこれやが全くない」こと、一言

で云えば「端的」である事を言う。黄檗の『伝心法要』や『宛陵録』には、噛んで含めるよ

うな諄々とした説き方が見られるけれども、しかしその中にそれらの底を貫いて、「端的」

を直示する黄檗その人の「仏法」がドシリとしてある。臨済が「ああ、そうだったのか!」

と悟ったのは、まさに黄檗のその端的の処だったのである。それを「猫の糞」に転じさせる

必要もないし、またそう転ずる事がそもそも不可能なのである。なぜそれが不可能であるか

を、さらに補足して説明しよう。

 上述の隋の煬帝(在位604―618)の詩は、丁福保(1874―1952)の編訂に

成る『全漢三国晋六朝詩』の中の『全随詩』では、「無多子」が「無多事」となっている。

意味は全く同じである。ところで、『宗鏡録』巻九十八に、第一代雲居和尚の左の語が引用

されている。

  仏法什麽の多事か有らん、行じ得れば即ち是なるのみ〔仏法有什麼多事。行得即是〕(

「大正蔵」四八・九四七a九)

 

 この語は一読して明らかなように、前述の臨済の二つの発音(一と二)とも符節を合わすように同趣旨である。「仏法什麽の多事か有らん」とは、言い替えれば「仏法は多事無し」

と云う事であり、すなわち「仏法は多子無し」と同じ事である。「多子無し」=「多事無し」とはこのような意味なのであり、そしてそれ以上でもなく、またそれ以下でもない。

 唐の天宝四年(745)正月十五日、司空山の本浄和尚(667―761)は宮中の内道場に召されて、玄宗皇帝(在位712―756)の前で、天下の名立たる禅師を相手にして法論を戦わせた。そのとき法空禅師と云う者が質問を発した。

  仏と道とは、ともに仮りの名。とすれば十二分教もやはり実体なきものであるはず。しかるに何故、古来の高僧はみな修道を言われしや〔仏之与道陣尽是假名妄立十二部経亦応不実。従前尊宿代代相承皆言修道〕。

 これに対して本浄和尚はこう答えた。

  道は本(も)と無修、しかるに禅師は強いて修せられる。道は本と無作、しかるに禅師は強いて作される。道は本と無事、しかるに強いて多事を生じなさる。道は本と無為、しかるに中に於て強いて為される。道は本と無知、しかるに中に於て強いて知ろうとなさる。かくの如き見解は、もとより会(わか)っておらぬ証拠。よくよく反省なさるべし〔道本無修禅師強修、道本無作禅師強作。道本無事強生多事。道本無為於中強為。道本無知於中強知。如此見解自是不會須自思之〕。(『祖堂集』三P133)

 

 右の文で、「道は本と無事、しかるに強いて多事を生ず(道本無事、強生多事)と云うの

も本来無事なる道に対して、余計な所作や観念を指向して無意味な波瀾を起こす事の愚を

戒めたものである。「多事を生」ぜず、「多子なき」ままの「平常無事」の生き方、それが臨

済が黄檗から学びとった、端的な生き方=道なのであった。

 『趙州録』に次のような問答がある。

  問。「万法本と閑(しず)かなるに、人自(み)ずから閙(さわ)がす」とは、誰の言葉でしょうか〔万法本閑。而人自閙。是什麼人語〕。

  答。出で来れば便わち死す〔出来便死〕。(『古尊宿語録十三』「続蔵」六八・八一c一〇)

 

 「誰の言葉か」と穿鑿すること自体が、すでに「閙(さわ)が」しているではないか。た

とい私(趙州)がその人をお前の目の前に出して見せても、お前の前に現れた途端に、その

人は息絶えるであろう。しずかに水の中で遊んでいる魚を、わざわざ水の外に掴み出すよう

な事はするな、と云うのが趙州の答えの意味する処であろう。「道はもと無事、強いて多事

を生ずるなかれ」と云う本浄和尚の語にとって、趙州のこの商量は、ちょうど打って付けの

注釈になるであろう。

 ついでながら、右の「万法本閑、而人自閙」は、『聯灯会要』巻三(「続蔵」七九・三三b

八)では南陽慧忠(―775)の語とされているが、それが正しくない事は、すでに『祖庭

事苑』巻一の「雲門室中録」(「続蔵」六四・三二五c二二)の条に弁ずるところ。この辺で

センサクは止めておこう。でないと、水から掴み出した魚を、さらに足で踏み付ける事にも

成り兼ねないから。ただ一言、「多子」の反義語として「少子」という語が敦煌から出た一

写本に見出される事を付記しておこう。

 

   八 仏典漢文と禅録の漢文

 中国語と云うものは、古典的な漢文でも、また現代の中国語でその一字・一音・一義と云

う漢字(漢語)の基本的な性格からして、必ず一定のセンテンス・リズムを具えている。た

とえば句(文節)と句(文節)の長短と音調のバランスが一定の調和を保つように常に配慮

されると云う特性は、そも最も見易い一例である。そして大事な事は、一つのセンテンスの

意味内容は、それが論理的・超論理的な内容であると、また情緒的な内容であるとを問わず、

常にこのリズムに裏打ちされ、或いはそれと相即しているのであって、この意味からすれば、

やや飛躍した言い方ではあるが、中国の言語に於いては、思想と文体とは基本的に不即不離

の関係にあるという事が出来るし、別な言い方をすれば、ある文章に於て何が言われている

かと云う事への十全な理解は、同時にそれがどう言われているかと云う点への顧慮を常に

必要とすると云う事でもある。

 〔どう言われているか〕という事は、広くいって表現の問題であるが、ここでは中国語

に固有の一般的な性格に拘わる問題について述べてみたい。まず一つの具体例から始めよ

う。魏訳『大無量寿経』〔下〕に、次のような偈がある。

  如来智慧海、深広無崖底。二乗非所測、唯仏独明了。(「大正蔵」一二・二七三b七)

 「如来智慧の海は、はてもなく深くて広く、とても二乗の人々の推し測れるものではな

い、それを明らかに知りうるのは仏だけである」と云う意味である。しかし第三句の「二乗

非所測」は、このままでは右の意味にならない(このままでなら「二乗は推測を超えるほど

深遠である」という意である)。右のような意味になる為には、この句は「非二乗所測」と

いう言い方でなくてはならないーちょうど『金剛三昧経』無相法品に「一覚了義難解難入。

非諸二乗之所知見」(一覚の了義は、解し難く入り難く、諸の二乗之知見する所に非ず)〔「大

正蔵」九・三六六b四〕とあるように。しかし、ここは偈の文であり、五字句として句を整

える為に、敢えて右のような破格な句法にしたのである。そして幸いに、この四句全体のコ

ンテクストが明瞭である為に、この破格な句法は殆ど何の支障をも引き起こさずに済んで

いる。また、素朴ながらも四句全体の韻文的リズムが、この第三句の破格さをカバーしてく

れてもいる。しかし同じ『大無量寿経』〔下〕の次の文(散文)になると、事は面倒になる。

  何不力為善、念道之自然、著於無上下、洞達無辺際。(「大正蔵」一二・二七四b二〇)

 この文は「なんぞ力(つと)めて善をなし、道の自然なるを念じ、上下なく洞達して辺際

なきをあらわさざる」と読まれている。文庫本では「著於無上下」のあとに読点(、)を入

れていないが、五字句ずつに整えられたこの文全体のリズムからして、右の句は一句として

句切られねばならぬ。すると文脈の自然な勢いから、この最後の二句は、「道之自然」の内

容(または様相)を解説した説明句として読まざるを得ないのである。以上の点には全く疑

問の余地はない、問題は「著於無上下」である。細かな説明は省くが、この句は破格とまで

は言えないにしても、甚だギコチなくclumsy(不器用)であって、従って解しにくい。「著」

という語の解しようによっては、右の文は「上下なく、・・辺際なきにあらわるる事を念ぜ

らる」とも読めそうである。しかし敦煌写本の『義記』を見ると、この句は「無著於上下」

と改めらるべきだと断言している(ここでは「著」は「染著」の意に解されている)。その

ほか慧遠の『義疏』(「大正蔵」三七・一一一c二〇)も、吉蔵の『義疏』(「大正蔵」三七・

一二三b一〇)も、この句の解釈はみな異なる。この句のこのような曖昧さは、要するにそ

の修辞法の不安定さに原因がある。

 『大無量寿経』の魏訳は、全体として非常に格調の高い、しかも漢文としても本格的な

堂々たる文章であり、直訳調に特有のギコチなさも、また中国語としての破格さも殆どない

のであって、右に挙げた例は、その内の極めて稀な例外に過ぎない。というよりも、この魏

訳『大無量寿経』のような、全体としてきちんと整った正則の漢文を用いた翻訳は、むしろ

仏典の漢訳としては例外的な存在だと云った方がよかろう。

 仏典の漢訳の歴史に大きな足跡を残したあの鳩摩羅什の業績は、勿論高い評価が与えら

れるに十分なものではあるが、しかし彼の数々の漢訳を子細に吟味して見ると、中国語の約

束を無視した直訳体の句法や、センテンス・リズムに頓着しない不調和な修辞が相当に多い

のに驚かされるのである。もしぶ漢文に習熟しない一般の中国人が、このような破格で異様

な文章に接した時、その内容の理解よりも前に、果たして何処までこれを読みこなせたであ

ろうか。このような疑問をさえ抱かせられるケースが、広汎な読者を持ったと謂われる、あ

の羅什の漢訳に相当多く見出されるのである。彼の〔新文体〕が、その後の仏漢文に大きな

影響を与えた事は事実である。しかしその事から直ちに、彼が中国語の表現能力を大きく開

発したとか、漢文の表現力に新たな可能性を賦与したとか云う功績を引き出すよりも前に、

先ず右に述べたような基本的な疑問に対して、我々はどのような解答を与えるべきである

か、その事を考えるのが先決問題であろうと思われる。

 

 ところで禅の言葉と文章とはどうであろうか。そこに見られる超論理や逆説的な表現、ま

たは高度の象徴性などからして、その言語と文章自体も普通の漢語・漢文とは違った、ある

種の異質の物であるかのように錯覚される傾向がある。しかし実はそうではないのであっ

て、問答の場合にせよ、説法の場合にせよ、すべてちゃんとした中国語なのであって、破格

な語法も、異様な修辞も、殆ど見られないと言ってよい。ましてこれらが〔語録〕として記

載される場合は、もとの生(なま)の言語に大なり小なりの修訂が加えられ、あるいは簡素

化され、あるいは洗練されるなど、修辞上の配慮が施されるのが常である。このことは、原

資料を生のままで多く収録する点で、、むしろ例外的な文献である『祖堂集』と右のような

修訂がかなり綿密に(時には過度に)施されている『景徳伝灯録』とを比較してみれば、一

目瞭然である。

 従って、禅の文献を読むに当っては、先ずこれをちゃんとした正格の漢文として、つまり、

まともな中国語として読むことが必要なのであって、直訳体の仏典漢文に見られるような

破格な句法などをそこに導入する事は、全く筋違いの事である。早い話が、たとえば「不許

葷酒入山門」を「許サザレドモ葷酒山門に入ル」と読もうとするのは、正則の漢文の読み方

として全くのナンセンスである。しかし、このようなナンセンスな読み方が、従来の禅録の

読み方に実は相当に多かったし、そして今日でのそうである。一例を挙げよう。『禅関策進』

に鵝湖大義禅師の垂誡が載せてあるが、その始めの二句は次の如くである。

  莫只忘形与死心。此箇難医病最深(「大正蔵」四八・一〇九八b二〇)

 これの従来の読み方は、「只だ形を忘るると心を死すると莫(な)き、此箇(こ)の医(い

や)し難きの病最も深し」であり、従ってその意味は「形(からだ)を忘れきれぬことと、心を断滅できないことと、この二つが修行者にとって最も深い不治の難病である」と解されてきたし、今もそうである。全くとんでもない誤読である。正しくは「只(ひた)すらに形を忘れ与(また)心を死せしむること莫(なか)れ。此箇(これ)(ひたすらに忘形と死心

をめざすという誤った考え)こそは医(いや)し難く病最も深し」である。つまり修行者たちがひたすら形を忘じ心を死灰の如くならしめんと図り、その事を以て修行の要諦と思い込んで顛倒の迷妄を、鵝湖禅師は厳しく戒めているのである。従来の誤読はこれを正反対に捻じ曲げて、「修行の要諦は忘形と死心にある」と解している。その誤読の原因は「莫」の読み違いにあるが、しかし私の見る処、もっと深い原因が他にある。つまり(禅は大死一番、

身心脱落すること)と云った硬直した固定観念と、さらに表詮を軽んじて捨詮をのみ重んずると云う通弊(上述)に根本的な原因がある。いま右の句の誤読を批正する為には、敦煌本『六祖壇経』の次の文を引くだけで十分であろうー

  百物を思わずして常に念を絶たしめんとすること莫れ。〔かかることをなすは〕即ち是れ法縛にして、則ち辺見(一面的な考え)と名づく〔莫百物不思、当令念絶。即是法傳、即名辺見〕。(「大正蔵」四八・三四〇c二三)

(一九六七―一九六年)

 

これは、入矢義高氏の論考が眼にする機会が少ない為

ここに原文に修訂を加えワード化し提出する。(2022・タイ国にて。二谷)