正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

即心是仏 ―『言葉の思想史』よりー  末木 文美士

即心是仏

―『言葉の思想史』よりー

末木 文美士   

 

 

とふていはく、いまわが朝につたはれるところの法華宗・華厳教、ともに大乗の究竟なり。いはんや真言宗のごときは、毘盧遮那如来したしく金剛薩埵につたへて、師資みだりならず。その談ずるむね、即心是仏、是心作仏といふて、多劫の修行をふることなく、一座に五仏の正覚をとなふ、仏法の極妙といふべし。しかあるに、いまいふところの修行、なにのすぐれたることあれば、かれらをさしおきて、ひとへにこれをすすむるや。

 

 おなじみの辦道話の一節である(第四問答)。だが、真言の教説を指すのに「即心是仏、是心作仏」を挙げるのは如何にも奇妙である。真言のモットーは言うまでもなく「即身成仏」

であり、「即心是仏」はむしろ禅のモットーと見られるものである。ともあれ道元はそれに対し、「教の殊劣を対論することなく、法の浅深をえらばず、ただし修行の真偽をしるべし」と、その基準を実践論にとり、「即心即仏のことば、なほこれ水中の月なり。即坐成仏のむね、さらにまたかがみのうちのかげなり」と批判sうる。ここでは「即心即仏」(=即心是仏)が「即坐成仏」と並べて言われている。「即坐成仏」という語があるかどうか未検だが、それが禅宗を指していることは間違いない。従って、「即心是仏」「即心即仏」」の批判も真言密教の批判であると同時に、禅宗自体に於ける、ある立場の批判を含んでいると考えられる。「即心是仏」の批判は第一六問答にも見える。

  とふていはく、あるがいはく、「仏法には、即心是仏のむねを了達しぬるがごときは、くちに教典を誦せず、身に仏道を行ぜざれども、あへて仏法にかけたるところなし。ただ仏法はもとより自己にありとしる、これを得道の全円とす。このほかさらに他人にむかひてもとむべきにあらず、いはんや坐禅辦道をわづらはしくせんや」。

しめしていはく、このことば、もともはかなし。もしなんぢがいふごとくならば、こころあらんもの、たれかこのむねををしへんに、しることなからん。

しるべし、仏法は、まさに自他の見をやめて学するなり。もし自己即仏としるをもて得道とせば、釈尊むかし化道にわづらはじ。しばらく古徳の妙則をもてこれを証すべし。

  むかし、則公監院といふ僧、法眼禅師の会中にありしに、法眼禅師とふていはく、「則監寺、なんぢわが会にありていくばくのときぞ」。

則公がいはく、「われ師の会にはんべりて、すでに三年をへたり」。

禅師のいはく、「なんぢはこれ後生なり、なんぞつねにわれに仏法をとはざる」。

則公がいはく、「それがし、和尚をあざむくべからず。かつて青峯禅師のところにありしとき、仏法におきて安楽のところを了達せり」。

禅師のいはく、「なんぢいかなることばによりてか、いることをえし」。

則公がいはく、「それがし、かつて青峯にとひき、「いかなるかこれ学人の自己なる」。青峯のいはく、「丙丁童子来求火」。

法眼のいはく、「よきことばなり。ただし、おそらくはなんぢ会せざらんことを」。

則公がいはく、丙丁は火に属す。火をもてさらに火をもとむ、自己をもて自己をもとむるににたりと会せり」。

禅師のいはく「まことにしりぬ、なんぢ会せざりけり。仏法もしかくのごとくならば、けふまでにつたはれじ」。

ここに則公、懆悶してすなはちたちぬ。中路にいたりておもひき、禅師はこれ天下の善知識、又五百人の大導師なり、わが非をいさむる、さだめて長処あらん。禅師のみもとにかへりて、懺悔礼謝してとふていはく、「いかなるかこれ学人の自己なる」。

禅師のいはく、「丙丁童子来求火」と。

則公、このことばのしたに、おほきに仏法をさとりき。

  あきらかにしりぬ、自己即仏の領解をもて、仏法をしれりといふにはあらずといふことを。もし自己即仏の領解を仏法とせば、禅師さきのことばをもてみちびかじ、又しかのごとくいましむべからず。ただまさに、はじめ善知識をみんより、修行の儀則を咨問して、一向に坐禅辦道して、一知半解を心にとどむることなかれ。仏法の妙術、それむなしからじ。

 ここでは即心是仏(自己即仏)の立場が修行不要論に陥るのを誡め、「一向に坐禅辦道」

することを勧めている。

 

 それでは即心是仏の説が全面的に否定されるかと云うに、『即心是仏』の巻では、「仏々

祖々、いまだまぬかれず保任しきたれるは即心是仏のみなり」と、即心是仏説に極めて高い

評価が与えられている。と言っても、一般に言われる即心是仏説が単純に肯定されるわけで

はない。

  しかあるを、西天には即心是仏なし、震旦にはじめてきけり。学者おほくあやまるによりて、将錯就錯せず。将錯就錯せざるゆゑに、おほく外道に零落す。

いはゆる即心の話をきゝて、癡人おもはくは、衆生の慮知念覚の未発菩提心なるを、すなはち仏とすとおもへり。これはかつて正師にあはざるによりてなり。

  外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼となづく。かれが見処のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる苦楽をわきまへ、冷煖を自知し、痛癢を了知す。万物にさへられず、諸境にかゝはれず。物は去来し境は生滅すれども、霊知はつねにありて不変なり。此霊知、ひろく周遍せり。凡聖含霊の隔異なし。そのなかに、しばらく妄法の空花ありといへども、一念相応の智慧あらはれぬれば、物も亡じ、境も滅しぬれば、霊知本性ひとり了々として鎭常なり。たとひ身相はやぶれぬれども、霊知はやぶれずしていづるなり。たとへば人舎の失火にやくるに、舎主いでてさるがごとし。昭々霊々としてある、これを覚者智者の性といふ。これをほとけともいひ、さとりとも称す。自佗おなじく具足し、迷悟ともに通達せり。万法諸境ともかくもあれ、霊知は境とともならず、物とおなじからず、歴劫に常住なり。いま現在せる諸境も、霊知の所在によらば、真実といひぬべし。本性より縁起せるゆゑには実法なり。たとひしかありとも、霊知のごとくに常住ならず、存没するがゆゑに。明暗にかゝはれず、霊知するがゆゑに。これを霊知といふ。また真我と称し、覚元といひ、本性と称し、本体と称す。かくのごとくの本性をさとるを常住にかへりぬるといひ、帰真の大士といふ。これよりのちは、さらに生死に流転せず、不生不滅の性海に証入するなり。

 

 ここでは、道元は即心是仏説が先尼外道の説に類するものに陥るとして、二つの面を批判

している。すなわち、第一に、永遠不滅の霊知を認め、それが仏教の無我説に抵触する霊魂実体説に陥る側面であり、第二に、ここから未発菩提心衆生であっても、この霊知を具えているのだから修行を必要としない、という修行不要論に陥る側面である。第二の側面は既に見たように辦道話第一六問でも批判されていたが、第一の側面もまた、辦道話第一〇問答に心性常住説批判という形で見え、ここでもやはり先尼外道の例が引かれている。ちなみに、先尼外道は『涅槃経』三九に見える外道であるが(「大正蔵」一二・五九四a)、先尼外道に喩えて即心是仏説を批判するのは道元が最初ではなく、既に南陽慧忠に見られ、道元自身、慧忠の批判を重視し、引用している。この点は後に見ることにしたい。また、道元が即心是仏批判という形で心性常住説や修行不要論を否定しているのは、当時そのような傾向が現実にあったからと思われるが、その対象としては、道元が留学した当時の宋朝禅の動向、および当時の日本における天台本覚論の進展が考えられる。

 それでは、道元自身が「仏々祖々、いまだまぬかれず保任しきたれる」とするところの即心是仏とはどのようなものであろうか。

   いはゆる仏祖の保任する即心是仏は、外道二乗ゆめにも見るところにあらず。唯仏祖与仏祖のみ即心是仏しきたり、究尽しきたる聞著あり、行取あり、証著あり。

   「仏」百草を拈却しきたり、打失しきたる。しかあれども丈六の金身に説似せず。

「即」公案あり、見成を相待せず、敗壊を廻避せず。

「是」三界あり、退出にあらず、唯心にあらず。

「心」牆壁あり、いまだ泥水せず、いまだ造作せず。

   あるいは「即心是仏」を参究し、心即仏是を参究し、仏即是心を参究し、即心仏是を参究し、是仏心即を参究す。かくのごとくの参究、まさしく即心是仏、これを挙して即心是仏に正伝するなり。

 

 ここでは即心是仏の常識的理解が排され、即・心・是・仏の一々が絶対的なるものとして

定立される。仏は仏を突破し、心は心を突破する。それは百草であり、牆壁である。「心とは山河大地なり、日月星辰なり」とも言われる。先尼外道的な心の実体化は無縁のものである。だが、だからと言って、即心是仏が汎神論に解消されるわけではない。

   しかあればすなはち、即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。いまだ発心・修行・菩提・涅槃せざるは即心是仏にあらず。たとひ一刹那に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一極微中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ無量劫に発心修証するも即心是仏なり、たとひ一念中に発心修証するも即心是仏なり、たとひ半拳裏に発心修証するも即心是仏なり。しかあるを、長劫に修行作仏するは即心是仏にあらずといふは、即心是仏をいまだ見ざるなり、いまだしらざるなり、いまだ学せざるなり。

 再び問題は修行である。即心是仏は修行の中に実現される。発心し、修証していくことが

即心是仏であり、それ故、長劫修行でさえ即心是仏と言われる。ここでも単純な即心是仏論は完全に突破されている。

 こうして道元においては、「この心が仏である」という元来の単純な即心是仏論は批判され、乗り超えられ、新しい次元からの即心是仏論が立てられているのである。

 

  • 馬祖系の即心是仏論

 

 即心是仏と言えば、多少禅に関心のある人ならば、ただちに馬祖の名を想い浮かべるであろう。それも恐らくは『無門関』を通して最も広く知られているのではあるまいか。

  馬祖、因みに大梅問う、「如何なるか是れ仏」祖云く、「即心是仏」(第三〇則。大正四八・二九六c)

 周知のように、この話は「即心是仏」だけでは終わらない。第三三則には「非心非仏」が

出る。

  馬祖、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」祖云く、「非心非仏」(同、二九七b)

 「非心非仏」は「即心是仏」の単純な否定ではない。第三四則に南泉(馬祖の嗣)の語と

して、「心不是仏、智不是道」と出るが(同、二九七b)、「心不是仏」ならば、少なくとも

形の上からは、「この心が仏である」の否定として「心は仏でない」ということになる。しかし、「非心非仏」と言えば、心とか仏とかいう概念の固定性自体の打破が言われている事になろう。我が心も仏もなくなったところ、それが非心非仏である。こう見れば、馬祖の即心是仏もまた単純な即心是仏ではなく、その超越としての非心非仏に転化し得る即心是仏であり、非心非仏を内に含む即心是仏である。

 馬祖が「即心是仏」(即心即仏)と「非心非仏」をセットにして説いている事は、馬祖の語録や『祖堂集』『伝灯録』などから窺うことが出来る。今、語録によって見ることにする。

  僧問う、「和尚、甚麽としてか即心是仏と説く」

  祖日く、「小児の啼くを止めんが為なり」

  日く、啼き止みし時如何」

  祖日く、「非心非仏」                 (『馬祖の語録』九二頁)

 馬祖の弟子たちもそれぞれの立場で即心是仏、非心非仏を受け止めている。南泉の「心不是仏」もそうであるが、『無門関』三〇則で問者となっている大梅の場合も興味深い。

  大梅山法常禅師、初めて祖に参じて問う、「如何なるか是れ仏」

  祖云く、「即心是仏」

  常、即ち大悟す。後、大梅山に居す。祖、師の住山するを聞いて、乃ち一僧を到り問わしめて云く、「和尚、馬祖に見えて箇の什麽を得てか、便ち此の山に住す」

  常云く、「馬師、我れに向って即心是仏と道う、我れ便ち這裏に住す」

  僧云く、「馬師近日、仏法又た別なり」

  常云く、「作麽生か別なる」

  僧云く、「近日又た非心非仏と道う」

  常云く、「這の老漢、人を惑乱すること、未だ了日有らず。任汝(たと)え非心非仏なるも、我れは只管に即心是仏なり」

  其の僧回(かえ)りて祖に挙似す。祖云く、「梅子熟せり」     (同、六八頁)

これによると、馬祖は初め即心是仏を説いていたのが、後になって非心非仏と説くよう

になったものと見える。もちろん、それがそのまま史実と云う訳ではないが、即心是仏は馬祖以前からあり、他方、非心非仏は恐らく馬祖の独創と思われる点を考えるならば、即心是仏だけでは心や仏の固定化が生ずる所から、新たに非心非仏が言われるようになったものと見て誤りあるまい。

 この馬祖の即心是仏を批判したとされるのが南陽慧忠である。

  伏牛和尚、馬大師に書を送る。師(慧忠)の処に至る。

  師問う、「馬祖、何なる法を説きて人に示すや」

  対えて日く、「即心是仏」

  師日く、「是れ什麽の語話」

  又問う、「更に什麽の言説ありや」

  対えて日く、「非心非仏。亦日く、不是心、不是仏、不是物」

  師笑いて日く、「猶お些子較(いささかたが)えり」(『祖堂集』三)

 先尼外道に喩えて道元が即心是仏説を批判するのも、実はこの慧忠による、南方の即心是仏説の批判に従っているのであり、道元は「即心是仏」の巻にその話を引いている。それによると、南方の即心是仏論とは以下のようなものである。

 

彼方の知識、直下に学人に即心是仏と示す。仏は是れ覚の義なり。汝今、見聞覚知の性を悉具せり。此の性、善能く揚眉瞬目し、去来運用す。身中に徧く、頭に挃るれば頭知り、脚に挃るれば脚知る、故に正遍知と名づく。此を離れて外、更に別の仏無し。此の身は即ち生滅有り、心性は無始より以来、未だ曽て生滅せず。身生滅とは、龍の骨を換うるが如く、蛇の皮を脱し、人の故宅を出づるに似たり。即ち身は是れ無常なり、其の性は常なり。(『伝灯録』二八、大正五一・四三七c)

 

 確かにこのような説は、慧忠や道元の批判するように、心を実体化することになり、仏教の原則を逸脱することになろう。だが、こうして即心是仏を批判する慧忠もまた、「阿那箇か是れ仏」と問われて「即心即仏」と答えている(『祖堂集』三、六〇a、『伝灯録』五、大正五一・四四九a)。「即心是仏」「即心即仏」は馬祖の専売特許ではなく、この頃、禅門ではかなり広く用いられていたものと思われる。一体、この語は古くは宝誌の『大乗讃』(『伝灯録』二九、大正五一・四四九a)や傅大士の『心王銘』(同、大正五一・四五七a)に見え(ただし、宝誌は伝説的な人物であり、そのまま信じ難い)、法梅禅師は六祖に即心即仏について教えを乞うたとされる(同、大正五一・二三七a)。慧忠が即心是仏を批判し、馬祖が非心非仏を説くのも、こうした即心是仏説の普及と共に、南方の説に見られるような俗化した弊害が生じた為と考えられるのである。

 

  • 即心是仏論の源流

 

 ところで、このような即心是仏の思想はどこに淵源するのであろうか。道元は「西天に即心是仏なし、震旦にはじめてきけり」と言っているが、実は「是心是仏」という形が『観無量寿経』に見えている。『観無量寿経』は今日の研究では中国撰述かとも疑われており、道元自身、本経の真偽を疑っている(『宝慶記』第二五問)。もしそうとすれば道元の説も当っている事になるが、それはともかく、本経は周知のように浄土三部経の一つに数えられ、十六観よりなる極楽浄土と阿弥陀仏観想の方法を説いている。その第八像想観(正確には、像想観と次の真身観に共通する導入部)に次のように言われている。

  次に当に想うべし。所以は何ぞや。諸仏如来は是れ法界身にして、遍く一切衆生の心想の中に入る。是の故に汝等心に仏を想う時、是の心即ち是れ三十二相八十随形好、是の心、仏と作り、是の心是れ仏なり(是心作仏、是心是仏)。諸仏正遍知海、心想より生ず。是の故に応当に一心に念を繋け、諦かに彼の仏・多陀阿伽度・阿羅呵・三藐三仏陀を観ずべし。                     (大正一二・三四三a)

 禅における基本思想を表すとも言える「即心是仏」がその淵源を浄土系の経典に持ってい

ることは、一見いかにも奇妙にも見えるが、実は必ずしもそうではない。この点については、さらに『観無量寿経』そのものの検討が必要であり、これから些か考えてみたいが、それに先立ち、初期の禅宗でこの経典が極めて重視されていた事実を指摘しておきたい。例えば、初期の禅宗史書である『楞伽師資記』は四祖道信の説として次のように伝えている。

  無量寿経に云く、諸仏の法身、一切衆生の心想に入り、是の心、仏と作る、と。当に知るべし、仏は即ち是れ心にして、心の外に更に別の仏なし。(大正八五・一二八八a)

 「無量寿経」とあるが、もちろん、『観無量寿経』の先の箇所を指している。そして、こ

の「仏即是心」の説にもとづいて、知心体・知心用・常覚不停・常観身空寂・守一不移の五つのあり方を説いている。

 五祖弘忍に至っては、積極的に『観無量寿経』にもとづく観法の実践を初心の禅修者に勧めている。

  若し初心に坐禅を学ぶ者あれば、『観無量寿経』に依りて端坐し正念せよ。目を閉じ口を合せ、心前に平視し、随意に近遠し、一日想を作せ。真心を守りて念念住することなかれ。                 (『最上乗論』、大正四八・三七八a―b)

 「一日想」とは『観無量寿経』の第十六観の第一日想観であり、弘忍がこの経典の観法を

禅の実践の中に生かしているが、後にも触れるように、この一行三昧もまた般舟三昧に由来し、『観無量寿経』の観法と同系列に立つものである。かの馬祖もまた、先の像想観の文を趣意の形で引いているし、(『馬祖の語録』、一九三頁)、時代は下るが、道元入宋当時、宋の禅寺では本経にもとづいて十六観の室を構えていたという(『宝慶記』第二五問)。

 このように、中国の禅宗と『観無量寿経』の関係が浅からぬ事が知られたが、そこで次には『観無量寿経』の「是心是仏」の説にもう少し立ち入って考察してみよう。先ず指摘さるべき事は、「是心是仏」という言い方こそ『観無量寿経』に至って初めて見えるのであるが、それと近い「心即仏」という言い方は、より古く『般舟三昧経』に見えるという点である。

『般舟三昧経』には後漢支婁伽讖訳と伝えるものに一巻本と三巻本の二種類あるが、今、三巻本によって該当箇所(行品の終り近く)を引いてみよう。

  我れ念ずる所を即ち見る。心。仏と作る。心自ら見る。心は是れ仏なり。心は是れ怛薩阿竭(tathagata)なり。心は是れ我が身なり。心、仏を見る。(大正一三・九〇六a)

 「心作仏」「心是仏」と、『観無量寿経』の「是心作仏、是心是仏」に当る言い方がここに

見られる。こうして問題は『般舟三昧経』に遡ることになる。「般舟三昧」は、pratyutpanna-

Buddha-sammukhavasthita-samadhiの省略された音写で、「現在諸仏悉在前立三昧」等と意訳される。。すなわち、十方の現在諸仏が目の前に現前するという三昧である。しかし、そうは言っても現在諸仏がすべて現前に出現するという事が簡単に実現するとは思われない。そこで実際上の方法として、特定の一仏に精神を集中するという方法が取られる。その一仏はどの仏であっても良いわけだが、『般舟三昧経』では阿弥陀仏が対象とされている。その実践は具体的には次のように規定されている。

  若しは沙門・白衣、聞く所の西方阿弥陀仏刹、当に彼方の仏を念ずべし。戒を欠くことを得ず。一心に念じ、若しは一昼夜、若しは七日七夜、七日を過ぎて以降、阿弥陀仏を見る。覚に於て見ず、夢中に於て之を見る。譬えば人の夢中に於て見る所の如し。(同、九〇五a)

 チベット本を参考にするならば、「覚において見ざれば、夢中において之を見る」と取る

のが良いかも知れない。一巻本では「七日を過ぎて已後之を見る」とのみある(同、八九九a)。ともあれ七日七夜にもわたり、ひたすら仏を念じ続けることにより、朦朧とした意識の中で、あるいは夢の中で仏が立ち現れるというのである。このことを『般舟三昧経』は聊か不謹慎とも云える譬喩で説明している。すなわち、遠くに住む女性と交わりたいと願う人が、ひたすらその女性の事を思いつめていると、夢の中でその女性と交わる事が出来るようなものだと云うのである。

 このように「般舟三昧」による見仏の行法は元々高度な理論や修行を要するものではなく、むしろ何とかして、夢でも良いから仏にお目に掛かりたいと云う熱意に基づく、極めて素朴な行法と言うことが出来る。出家者に対してのみならず、在家者にもこの三昧が勧められているのはこの為であり、また後代、「般舟三昧」は菩薩の初歩的な行として位置付けられてくるのである。このように見るならば、本経の「心作仏」「心是仏」とは、何よりもまず、文字通りに心が仏を作り出す、心が幻の仏を描き出すという意味に取れよう。

 ところで、ここで問題にしたいのは、先にも触れたように、元来はどの仏でも良いはずなのに、具体的に阿弥陀仏を対象としている点である。しかも、そこでは三昧の中で阿弥陀仏が行者に対し、「我国に来生せんと欲すれば、常に我を念ずること、数数たるべし」(同、九〇五b)と阿弥陀仏国への往生が勧められている。このことは当時既に阿弥陀仏信仰が相当に盛んになっており、あるいは少なくともそのような地域で「本経」が形成された事を示している。大乗仏教の成立に関しては、最近様々な議論があるが、仏塔を中心とする仏陀崇拝の流れが重要な役割を果たしていた事は一応認められ、また阿弥陀仏信仰は、その大乗仏教の中でも非常に早く形成されたものと考えられている。『無量寿経』の古訳である『大阿弥陀経』(支婁伽讖訳)は空の思想を含まず、最も古い大乗経典の一つではないかと言われている。そして、その『大阿弥陀経』の中にも夢中の見仏や臨終の見仏が言われ、さらに阿難が仏に教えられて西方に向って礼をなし、阿弥陀にまみえる箇所も出てくるのである。この流れを承けたと考えるならば、『般舟三昧経』はより具体的に見仏の方法を規定したものと見る事が出来る。この点からすれば、「本経」は阿弥陀仏信仰、浄土信仰の一発展と見る事が出来る。

 ところで、阿弥陀信仰はこのように初期の大乗仏教形成に重要な役割を果たしているが、見仏や往生を求めるその方向は仏教本来の流れからすれば傍系と言うべきであり、また、理論的な基礎付けも充分に為し得ないものである。『般舟三昧経』の重要な点は、それを空の理論によって裏付けようとした点にあると考えられる。先に引いた「心是仏」の箇所に続く一節を見てみよう。

  心は自ら心を知らず。心は自ら心を見ず。心に想あれば癡となす。心に想なければ是れ泥洹(=涅槃)なり。是の法、楽(ねが)うべきものなし。皆念の為す所なり。設使(たと)い念ずとも為れ空なるのみ。設い念あれども亦了(つい)に有る所なし。(大正一三・九〇六a)

 見仏と言っても実体的な心が実体的な仏を見るわけではない。見る心も見られる仏も空

である。それ故にこそ「仏、従来する所なく、我亦た至る所なき」(同、九〇五c)ままに心と仏の一体化も可能となるのである。さらに、「本経」ではこうした空の理論を基盤にしながら、より一層の心の理論の発展をも萌芽的に含んでいるように思われる。例えば、「心是仏」や「心に想なければ是れ泥洹なり」と云う処には自性清浄心の思想から後の如来蔵思想に連なるものがあるし、また、先の引用の少し前には「自ら三処を念ず。欲処・色処・夢想処なり。是の三処は意の為す所ならくのみ」とあり(同、九〇五c―九〇六a)、これは『華厳経』(十地経)の三界唯心を思わせる。このように、『般舟三昧経』の「心作仏」「心是仏」は、一面では初期の浄土教に由来し、極めて素朴に心が三昧の中で幻のように、仏を描き出すという実際の行法を意味していると共に、他面では空の理論を基盤に、より高度な如来蔵説や唯心説に発展していく要素を併せ持っているのである。

 このように考えるならば、『般舟三昧経』が後代極めて大きな影響を与えていくのも当然と言えよう。そこには浄土教と禅の両方に発展していく淵源が、それも理論と実践の両面にわたって展開されているのである。中国で念仏と禅の両方におおきな影響を残した廬山慧遠の行法は具体的には「般舟三昧」であったし、天台の四種三昧の一つ常行三昧に採用され、さらに他方、日本浄土教に大きな影響を与えた善導もまた『般舟讃』を残している。インドでももちろん多方面に影響を与えているが、ここでは先に触れた『文殊般若経』の一行三昧を挙げておこう、

  善男子・善女人、一行三昧に入らんと欲すれば、応に空閑に処(お)り、諸の乱意を捨

  て、相貌を取らず、心を一仏に繋げ、専ら名字を称すべし。仏の方所に随いて身を端(ただ)して正向し、能く一仏に於て念念相続すれば、即ち是の念中に能く過去・未来・現在の諸仏を見る。                     (大正八・七三一b)

 ここでは阿弥陀仏と特定されていないが、「般舟三昧」の行法を承けている事は明らかで

ある。『楞伽師資記』によると、道信はこの一行三昧を重視しており(大正八五・一二八六c)、また、神秀は弘忍から一行三昧を伝えられている(同、一二九〇b)。この一行三昧もまた、他方で智顗が常坐三昧の一として採用し、善導もまた『観念法門』や『往生礼讃』に取り挙げているのである。一行三昧もまた禅・念仏、さらには天台止観のいずれにも発展していく要素を持っているのである。

 

 以上、「般舟三昧」を中心とする問題に些か多くの紙数を費やす事になった。ここで再び『観無量寿経』に戻るならば、今日でこそ『観無量寿経』は浄土経典としてのイメージが定着しているが、元々上述のような「般舟三昧」を承ける「観仏三昧行法」の流れの中で捉えられるべきものである。では、『般舟三昧経』と較べて何処に発展があるかと言うに、『般舟三昧経』では只ひたすらに仏を念ずると云うだけであったのが、ここでは十六観の体系を以て段階的に観想の手順が示されている。同じ頃、『観仏三昧海経』など、同様の傾向を持った経典が幾つか集中的に漢訳されており、当時こうした観仏の実践が流行していた事が知られる。

 ところで、ここで注目したいのは、こうした観仏の実践は「般舟三昧」以上に禅観の流れと深い関係を持っていると云う点である。一体、このように観法を段階立てて進めるのは、大乗経典よりも不浄観などに代表される小乗の観法の行き方である。事実、『観無量寿経』などが漢訳された頃、かなりの流行を見せていたと考えられる。しかも、『坐禅三昧経』など幾つかの禅観経典は、その禅観の体系の中に「観仏三昧」の行法をも摂取している。『観無量寿経』の漢訳者とされる畺良耶舎(きょうりょうやしゃ・梵カーラヤシャス・382~443)も又こうした禅観の実修者の一人であった。こうした初期の禅観の流れは、必ずしも後の禅宗と直接に結び付くものではないが、ともあれ『観無量寿経』が単なる浄土経典ではなく、禅系統においても摂取さるべき要素を十分に具えている事は、以上の考察から明白であろう。像想観の「是心作仏、是心是仏」もこのような中に位置づけて見られるべきものであろう。―以下略―なお、注は不載。

 

これは末木氏論文での、道元に関する部分を抜書したものである。(2022・二谷記)

また、この論文には一部修訂を加えた。