正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

十二巻本『正法眼蔵』―『八大人覚』の「奥書」をどう読むか

十二巻本『正法眼蔵』―『八大人覚』の「奥書」をどう読むか   石井修道

 

十二巻本『正法眼蔵』の問題で、その性格を考えるのに重要な手掛かりを与えてくれるのが『八大人覚』の懐弉の「奥書」である。残念ながら、この「奥書」は永光寺本にはなく、秘本にある「奥書」に基づけば次のようである。但し秘本には句読訓点は全くない。

 

建長五年正月六日書于永平寺

 如今建長七年乙卯解制之前日、令義演書記書冩畢。同一校之。

 右本、先師最後御病中之御草也。仰以前所撰假名正法眼藏等、皆書改、幷新草具都盧壱佰巻、可撰之云々。

 既始草之御此巻、當第十二也。此之後、御病漸々重増。仍御草案等事即止也。所以此御草等、先師最後教勅也。我等不幸不拝見一百巻之御草、尤所恨也。若奉戀慕先師之人、必書此十二巻、而可護持之。此釋尊最後之教勅、且先師最後之遺教也。懷弉 記之。

 

 ここで、道元の『正法眼蔵』百巻の撰述意図があったことが知られ、特に「(a)以前所

撰假名正法眼藏等、(b)皆書改」とは、何を意味するかを巡って、研究者間で大問題を惹起することになったのである。十二巻本に対してであるから、(a)は七十五巻本を指すと考えられる。そこで、(a)(b)の関係を大久保道舟編『道元禅師全集』上巻では、「前に撰したまう所の仮字正法眼藏等、皆書き改めらる」と訓じ、次のように解釈した。

  所撰の仮字の「正法眼蔵」(旧草)を書き改められ、それから更に新草十二巻を編成して最後に「八大人覚」を著わされたというのである。

 つまり、七十五巻本を決定稿としたのである。十二巻本は新草で未完成なるがゆえに、

七十五巻本が主で十二巻本は従と考えられたのである。最古の詮慧、経豪の「聞書」「抄」

は、七十五巻本のみの注釈であり、しかも、権威と伝統のあるものとされて来たから、道元

の中心思想は七十五巻本にあることは、当然視されたのである。

 これに対して、主従を逆転した新たな提言が杉尾玄有氏の「道元の哲学(上)」によりな

された。

  旧草七十五巻結集は、単に暫定的便宜的でしかなく、おそらくあらためて新草十二巻の

  延長上に旧草七十五巻が吸収せられ、結集しなおしされて、全百巻になるはずだったのである。

 袴谷憲昭氏はさらに杉尾説よりも徹底して、『本覚思想批判』三四五頁で、次のように述

べている。

  『正法眼蔵』の編纂史を「決定的視点」から見るならば、道元唯一の新輯である十二巻

本の本覚思想批判を、六十巻本と七十五巻本とが寄って集まって隠蔽しようとした歴史で

もあったかのように、映じて来るのを如何ともなし難い。

 杉尾・袴谷両説について、早速に、鏡島元隆氏は「十二巻本『正法眼蔵』について」で反

論した。批判しながらも、両氏が十二巻本の意義を高めた点を素直に認めると共に、十二巻

本にある「自未得度先度他」の衆生済度の論理が曹洞宗史の中で欠落していった事は、「宗

門にとって不幸なことであった」と述べるのである。さらに「(b)皆書改」について、「(杉

尾説のように)新草の上に旧草が配列し直され、または(袴谷説のように)解消されるべき

ものではなく、旧草は旧草として、新草は新草として、それぞれ異なる趣旨のもとに合わせ

て百巻の撰述を」道元が意図したというのである。旧草を「弘法篇」、新草を「救済篇」と

名付けて二つの編集を等視するする考えが出され、「前者は「仏」の眼をもって諸法の有り

様を述べたものであり、後者は「衆生」の立場に立って衆生の有るべきようを示したもので

あって、それぞれ異なった性格のもの」としたのである。鏡島説に対しては多くの指示があ

り、最も一般的と言って良いであろう。旧草の重視説、新草の重視説、新旧の等視説の代表

的な流れは、以上のようなものである。

 ここで、十二巻本が注目されるようになったもう一つの袴谷氏の提言を見逃す事は出来

ないであろう。それは袴谷氏の本覚思想批判であり、この問題提起によって、その後の世界

の仏教研究者に激震が走ったのである。

 袴谷氏が本覚思想批判を最初に展開したのは、「差別を生み出した思想的背景に関する私

見」(『本覚思想批判』大蔵出版、1989年)であり、この論文の元は1985年10月2

6日に部落解放センターで口頭発表したものである。口頭発表は、曹洞宗の差別戒名問題を

含め、その差別的体質が如何なる処から発生するのかを、問題提起したものである。それゆ

えに、袴谷氏の「本覚思想」の定義は、次のように狭義のものではない。

  (本覚思想とは)蛇足ながら辞書的説明を付け加えますならば、本覚とは現象世界を超えた根元的覚りのことで、その覚りとは、本来すべての人々に普遍的に具わっていて常住であるが、それを自覚しない間は現象として変化生滅しているに過ぎない、という点

  も含意しておりますので、それは同事に「心常相滅」説をも意味しうる訳です。しかし、この本覚思想を上ッ面から眺めますと、すべての人々に普遍な根源的覚りを認めているが故に、これは即座に平等思想を表していると考えられがちなのですが、現実は如何ようにもあれ、それは迷妄であって、真実は一元的な根源的覚りの内にこそ求められなければならぬという、安易で押しつけがましいこの本覚思想こそが、実は差別思想を温存してきた元凶なのだと厳しく反省しなければならない体質を持っていたのであります。(同・142頁)

 袴谷氏の定義は、狭義の「天台本覚思想」の「天台」をはずしたものであり、別の論文では次のように定義している。

  「本覚思想」とは、ありとあらゆる現象を「包括するもの」としての一(hen)なる「本覚」(包括的な根源的覚り)が全(pan)なる「包括されるもの」としての一切の根底にあって実在していると主張する思想である。しかも、その「本覚」の実在は言葉によっては論証されえない自明の出発点とされているために、その実在との合一は言葉を離れた各人の体験によってのみ可能とされる。その可能性を実現することが、旧来の用語で言えば「始覚」であるが、重視なことは、「本覚」と「始覚」とは対立し平行する二つの相異なる考え方ではないということである。「本覚」は「包括するもの」として「始覚」を始めとする一切の「包括されるもの」を包括し尽している一個のそれ自体で完結している無限大の円のごときものであって、その円の中では一切の対立も時間も無(な)みされているものと考えなければならない。この場合の「包括するもの」と「包括されるもの」との関係を従来の術語で示せば、前者は「本覚」「本」「体」「理」「性」、後者は「始覚」「迹」「用」「事」「相」などに相当しようが、これらの二系統は従来ややもすれば互いに相反する二つの思想傾向と見做される場合もあったにせよ、私の「本覚思想」の定義によれば、前者が後者を包括する関係において、すべてが説明され尽くされていることが根本的であり、二系列本質的に相違するものではないという事になる。(「道元と本覚思想・仏性とはなにか」162―163頁)

 この広義の「本覚思想」の定義でこそ、曹洞宗の差別思想を抉り出すという、袴谷氏の重

要な問題提起があったと思われる。

 袴谷氏は差別思想の背景を、本覚思想と捉えた論文を発表した同じ年に、それでは道元は本覚思想とどのように関わるかを論じた。それが「道元理解の決定的視点」(『宗学研究』

第28号、1986年)である。この論文の主張は、自らが言うように、「本稿は、道元

師独自の思想的立場を理解する上で、禅師の本覚思想批判こそが決定的視点になりうるこ

とを、『正法眼蔵』そのものに基づいて明らかにしようとするものであり、この本覚思想批

判という、恐らくは道元禅師が生涯を貫いて主張したと思われる根本的立場から見れば、一

般に道元禅もしくは曹洞宗の宗旨として人口に膾炙している「本証妙修」などというスロー

ガンは、禅師理解の決め手になるどころか、むしろ安易な理解を助長させる事にしかなって

いない、という事を指摘せんとするものである」(『本覚思想批判』319頁)と明解である。

これが袴谷氏が「本証妙修」を宗旨とする事への批判を問題提起した最初であった。

 この論文は宗学大会で発表されたものであるが、翌年にはその反論が現れた。伊藤秀憲氏

の「『正法眼蔵』理解の視点」(『宗学研究』第29号、1987年)と角田泰隆氏の「道元

禅師の修証観に関する問題について」(同)がそれである。前者は、『辦道話』の批判は、天

台本覚法門のみではなく、教団内の日本達磨宗をも意識したもので、本覚思想批判だけに限

定できないこと、道元の「本証」の語は先尼外道の説と同一視されるような意味ではないこ

と、『正法眼蔵』の使用される諸仏の「本覚」の語は凡夫の「本覚」とは異なって否定され

ていない事を明らかにし、そのことにより、道元は生涯を通じて一貫して本覚思想批判をし

たのではなく、只管打座を実修すること(妙修)こそが、本証を実修することであると言わ

んとしたと反論した。後者は「本証妙修」の語を袴谷氏は「安易な理解を助長させるもの」

と言うが、第一に、道元の修証観として、なぜ多くの宗門人が使用してきたか、第二に、い

かなる意味でしてきたかを解明しないで、簡単にスローガンは捨てられないと言うのであ

る。後半には同時に発表された袴谷説への疑問も開陳する。

 すなわち、同年には袴谷氏は「『辦道話』の読み方」(『宗学研究』第29号、1987年)

を発表し、『辦道話』は道元の初期の撰述であるが、道元の初期の撰述に遡れば遡るほど曖

昧で昧渋な文体であり、道元には思想的遍歴が有ることが認められ、晩年の十二巻本の主張

は明解だとした。また坐禅よりは批判が重要であり、言葉の重視こそ道元を捉えるのに大事

であるとした。その主張は「十二巻本『正法眼蔵』撰述説再考」(『宗学研究』第30号、1

988年)に至って明確となり、十二巻本『正法眼蔵』は『辦道話』のような昧渋さがなく

なり、「決定的視点」の本覚思想批判が徹底し、十二巻本撰述の動機も明瞭に説明できると

したのである。

 袴谷提言のもう一つの契機となった松本史郎氏の業績について触れない訳にはいかない

であろう。松本氏は『縁起と空―如来蔵思想批判』(大蔵出版、1989年)を公刊し、「如

来蔵思想は仏教にあらず」と主張した。この理論根拠になった仮説に基体説(dhatu-vada)

がある。この仮説により、基体説、ひいては如来蔵思想は、仏教の縁起説と真っ向から対立

する思想であることが主張された。松本説は、道元研究も含めて、『禅思想の批判的研究』

大蔵出版、1994年)に集大成され、博士論文となった。その著の中に袴谷説批判があ

り、「本覚思想批判」がより厳密な議論として展開している。まず袴谷氏の問題提起が道元

研究において重要であることを強調する。その後に、基本的に袴谷説に対して三つの点から

疑問を提起する。第一は、「本覚思想」とは「如来蔵思想」の一形態であり、道元の批判の

対象(否定対象)を、袴谷氏は「本覚思想」という語で示すが、松本氏は「如来蔵思想(dhatu-

Vada)」という語によって表現した方が適切ではないかという。「本覚思想」は中国・日本仏

教においてのみ意味をもつものであり、インド以来の仏教思想史全体の流れの中で、その意

義が理解されなければならないものであり、道元の否定の対象は、むしろ「如来蔵思想」で

あったとした方が、袴谷氏の批判よりは論理的であり、かつ効果的になるのではないかとい

う。第二は袴谷氏の説では、道元がその初期から本覚思想、つまり、如来蔵思想の批判を自

覚的に意図していた、という意味に受けとられかねないが、松本氏は、道元には、非仏教と

して否定すべき対象(如来蔵思想)の正体も、仏教として死守すべきもの(縁起説)のあり

方も、その当初から充分明瞭に知られていた訳ではなく、自己の内部に於けるこれら二つの

矛盾する思想相互の相克という生涯の思想的苦闘を通して、ようやくにして明らかになっ

ていったもの、と言うのである。第三は、道元が仏教を深信因果とする袴谷説を極めて重要

な功績と認めるが、松本氏は、その道元の「深信因果」説は如来蔵思想的傾向を脱却できな

かった、と言うのである。

 第三の問題を補足すれば、松本氏は「声聞・独覚に対する菩薩の優越性を生得的なgotra

(種姓)の存在によって主張しようとする」ところの「菩薩gotra論」を展開し、十二巻本

にこの「菩薩gotra論」が一貫している、と言うのである。『法華経』「方便品」の散文(長

行)部分にのみ一切皆成が説かれるとし、十二巻本では、「我々が人身として生れ出家し、

袈裟を著し仏法を聞くことが出来たのは、すべて過去世に『供養諸仏』という『菩薩行』を

成したからであって、それゆえ我々は「菩薩」であり、我々には『必得作仏』が『決定』し

ている」と、言うのである。このことは、さらに『道元思想論』(大蔵出版、2000年や

法華経思想論』(大蔵出版、2010年)で詳論される。

 

これは石井修道氏による『正法眼蔵』に対する巻末に於ける「解題」としての文章を

書き改めたものであり、一部修訂を加えた。(タイ国にて・二谷)

 

神道伝承者としての明恵上人 平泉澄

神道伝承者としての明恵上人

平泉澄

 

 神道と仏教との関係を考察するに、それは宗派により、人により、時代によって、種々の相違があって、一概に之を論ずる事が出来ない。即ち仏教の中に、神道に反対し、之を排除しようとする者もあれば、神道を認めて、之と提携しようとする者もある。而して其の後者の中にも、真に神道を理解するわけでは無く、只便宜の為の提携であって、従って其の提携が、実は自他共に有害であるものもあれば、真に神道を理解し、形は僧徒であり、口に経論を唱えても、奥義に於いては神道の伝承者として考えられる人もある。明治初年の神仏分離は、行き過ぎの為に、幾多の過誤を伴ったにせよ、便宜の提携利用が、実は仏教による神道の汚染、遂にその本質を誤まらしめるのを恐れての、神道の自主独立の運動であって、いはゆる「もと是れ神州清潔の民」、その本来の面目に復帰しようとしたものである。之に反して、真に神道を理解し、神道の解説者おして考えられる人が、僧徒の中にもあり、ひとり解説者という程度に止まらずして、むしろ神道の伝承者、又はその発揮者と云うべき人が、やはり仏者の中にもある。彼の明恵上人の如きは、その最も高遠深厚なるものであろう。

 いふまでも無く明恵房高弁は、華厳宗中興の大器として、世にうたはれてゐる。『元亨釈書』にも、此の人を賛して、中世以来、賢首の宗(華厳の教え、賢首は菩薩の名号)振は、ず、高弁、純誠の質を以て、鑚仰(学徳を仰ぎ慕う)の志を立て、遂によく華厳の海に倒瀾

(くづれてくる大波)をかへし、普賢の教に失地を回復した、として、中興の才器と評してゐるのである。それは正にその通りであろうが、私は此の人の一生をしらべて、その基底に神道の存し、その行動、神道によらずしては理解出来ないものの儼存するのを見るのである。それに就いて、先づ説くべきは、紀州の苅藻島へ宛てて書かれた上人の書状である。

 苅藻島は、『明恵上人行状記』、『同漢文行状記』、及び『明恵上人伝記』など、いづれも苅磨島としてゐるが、読んではカルモと云ったらしく、『紀伊風土記』は苅藻の文字をつかってゐるので、読みやすく、分りやすきに就いて、今は苅藻島とする。紀伊国有田郡湯浅湾内の小島である。

 上人は紀州に生れ、有田川の流域にその一族蔓延してゐた為に、京の高雄や栂御(とがのお)の外に、紀州にその遺跡が数多く存してゐる。それらの遺跡が、七八百年の長い歳月を経過したに(も)拘らず、今以てその位置を確認し得るのは、忠実なる門弟、義林房喜海の深き配慮による。即ち彼は、一方に『行状記』を著して上人の伝記を明かにすると共に、別に遺跡を調査して、一々その標柱を立てた。標柱を立てられたのは、嘉禎二年(1236)の事であって、明恵上人の没後に過ぎず、且つまた喜海は、はやくより上人に随従してゐた人であるから、その標柱は最も信用に価するであらう。但しそれは、初め木柱であった為に、年月を経て次第に朽損して行った。そこで百八年の後、康永三年(1344)、即ち興国五年に、改めて石を以て之を造り、表に喜海の原文を刻み、裏に改造の由来を記した。それが有田川の流域に散在して現存してゐるのは、正に壮観と云ってよい。

 たとえば、金屋町歓喜寺には、畑の中に周廻十二間ばかりの芝地があって、梅の樹が茂ってゐるが、そこには、承安三年(1173)正月八日辰の時に上人が誕生した所であると記した石の率都姿(そとば)が建てられてゐる。また同じく金屋町筏立(いかだち)には、大きな楊梅のかげに、石の率都姿があって、建久(1190~1199・注)の末年、上人が「華厳唯心観行式」ならびに「随意別願文」をつくったのは、此処であると標示してゐる。金屋町糸野には、山の中腹に浄土宗成道寺があって、正平二十一年(1366)丙午の銘のある古鐘を本堂の前から発掘して、今に伝へてゐるが、その後方の谷へ廻ると、そこにも石の標柱があって、建仁二年(1202)上覚上人に就いて入壇灌頂を受けたのは、此処と知らせてゐる。吉備町田殿(たどの)の内崎山(うちさきやま)は、上人の庵室のあった処で、ここで『大疏演義抄』一部の披講が行はれたので、やはり石の率都姿が立てられてあったさうであるが、いつの頃か失はれて、今あるものは、新しい。その外、有田市の星尾(ほしのお)や、吉備町船坂の神谷にも、上人ゆかりの地として標石が立ってゐるさうであるが、私はそれをたづねる事は出来なかった。

 星尾と神谷とを見てゐないので、確言するわけにはゆかぬが、私に巡歴したかぎりに於いては、土地の状況ほとんど八百年前と変らず、いかにも清浄にして崇高の気に充ち、上人の遺徳のしのばれるのは、白上の峰、東西二つの遺跡である。

 白上の峰は、有田郡湯浅町栖原(すはら)に在る。山をのぼりきった所で、峰は左右に分れ、かりに云へば馬蹄形になって、中央に谷をいだいてゐる。その左が西白上であり、右が東白上である。西白上は、直ちに海を見おろし、眺望絶佳、見て飽く事うぃ知らぬ。ここに巨巌数個、あだかも鬼神の築造した巌窟のやうに重なりあってゐる。その巌のすぐ下に、例の標石の率都姿が立てられ、ここは建久の頃、本山高雄をのがれ来って草庵を構へたところであると記されてゐる。景色はいかにも美しいが、漁師共の騒ぎが気に入らぬといふので、やがて上人は東白上に移った。同じ山つづきではあるが、海とは縁が遠くなって、深い谷に臨み、谷をへだてて連山に対してゐる。静寂天地を領し、心を煩はす何物もあるまいと思はれる。石の率都姿には、建久の頃、蟄居修練の間、文殊の姿を空中に見たところであると記されてゐる。

 行状記や伝記に、白上の草庵の状況を記してゐるのは、主として西白上を指してゐるので、東白上には合はない。「前は西海に向へり、遥に海上に向て阿波の島を望めば、雲はれ浪しづかなりと雖、眼なをきはまりがたし」とあるによって知られる。但し此の西白上から眺めても、また山の麓に、森九郎影基が建立し、歓喜三年(1231)上人を招いて供養した施無畏寺から眺めても、美しく見えるのは、苅藻の島であり、その苅藻の先きに遠く見えるのは、鷹島である。此の二つの島は、二つながら上人の遊止した所、もしくは練行した所であり、上人の心に深く刻み込まれて忘れる事の出来ない島であったに拘はず、喜海の表彰にも漏れ、今日も一般には顧みられてゐない。

 鷹島は、今は広川町の共有に属する。『紀伊風土記』によれば、海上二十五町の距離にあって、周囲二十八町ばかり、小松が生えてゐるとある。その浜に小さな石が美しく並んでゐる。上人はそれを持ち帰って机上に置き、やがてそれに、

  われ去りて 後に愛する 人無くば

     飛びてかへれぬ 鷹島の石

と書きつけたといふ。

 しかしそれ以上に重要なるは、苅藻島である。『紀伊風土記』によれば、この島、陸を離るる事二十二町、立苅藻、横苅藻の二つの島が並んでゐる、立苅藻は高さ三十六間、周囲九町余、横苅藻は高さ十八町、廻り四町、共に明恵加持の地であるといふ。しかし実地に就いて見るに、立苅藻と呼ばれる南の島は、人のよじのぼるに適しない。上人が修行をし、祈誓し、且つ思慕してやまなかったのは、蓋し横苅藻、即ち北方の島であらう。『行状記』にいふ、

  上人ソノカミ紀州苅藻ト云フ島ニ渡ル事アリキ、月ト共ニ船ヲで(シ)テ風ニ任(セ)

  テ島ニワタル、団々タル月、光ヲナガシテ磯ノ浪ヲトシ、颯々タル嵐、声冷(すず)(シ

ク)シテ峰ノ梢ニヲ(オの誤)トヅル、情少キ漁者、空(シ)ク見テメヅラシクセズ、

心浅キ釣人、徒ニ過(ギ)テ翫バズ、彼(ノ)徳雲比丘、大海ヲ観ジテ普賢契経ヲ得シ

ガ如キハ、智ニ依(リ)テ心ヲ発セバ、娑婆ニ即シテ忽ニ浄刹ヲミル、随教信順スレバ、

凡身ニ速ニ妙恵ヲ開ク、然者今島モ法門ニ入(リ)テ実相門の道理ヲ思(フ)ニ、顕密

ノ聖教ニ向ヘルガ如シ、更ニ此外ニ何聖教ヲカ求メム、海浪、月ヲヒタシテ、光ヲシヅ

カニセズ、随縁起妄ノ徳ニ類シツベシ、円月、形動ズレドモ、影アラタマラズ、不変性

浄ノ体ニ異(ナ)ラズ、生死海ノ上ニ、仏恵ノ島高(ク)出(デ)タリ、自覚性(版本

聖カトアリ)智ノ宝山ヲ見ルガ如シ、涅槃岸ノフモトニ、無明(ノ)浪アラク立(ツ)、

真海識浪ノ海浜ニ望(ム)ニ似タリ、是則深ク入レバ託事門ノ玄理、又是(レ)事理融

ノ極説也、而(レ)バ知恵ト云(フ)ハ、万鏡ニ対スルニ悉ク得ル所ナリ、シカラザル

ハ只是(レ)凡爾ノ執識ナリ、若(シ)事識ノ分別ヲ亡シテ、普賢円智ヲ似テ、事ニ随

(ヒ)テ縁修シ、境ニ触(レ)テ善順スレバ、挙足下足、文殊ノ心ヲ尽(ク)シ、見聞

覚知、普賢ノ行ヲ極ム、文殊ノ心ナルガ故ニ、其心清浄ニシテ濁乱ナシ、普賢ノ行ナル

ガ故ニ、諸仏菩薩ノ所行ヲ同(ジ)クス、此理ヲヲシフルヲ聖教ト云フ、此智起ルヲ仏

智ト云フナリ、華厳ノ道英法師ハ、聴講ノ暇ノ隙ニ。常ニ僧役ニ供ス、目ヲ閉(ヂ)テ

坐禅スレバ、所詣アルガ如シ、事事務ニ於テ遊観シテ、心ヲシテ空有ニ滞ナカラシム

云々、又海東ノ暁公ハ、亡人ノ廟ニ宿シテ、甚深唯識ノ道理ニ悟入シキ、是等皆初(メ)

テ驚(ク)ベキニ非ズ、然レバ上人、島ニ臨(ン)デ、只法界法門ノ悟ヲ開キ、唯心

無性ノ智ヲミガクノミニ非ズ、又世間遊宴ノ友トシテ、心ヲ遊(バ)シムル情ヲ催ス、

凡夫ノナラヒ、島トテモノサマアシキ大島ノ、常ニ海中ヲスミカトシテ、漁捕ノツリス

ル泊トナリ、海人ノ藻カル島トサタメラレタレドモ、悟ノ前ニハ則(チ)依正無碍ノ観

智ヲ開キ、十身相即ノ成覚ヲ唱フ、

流石に多年上人に随従した人だけあって、喜海はよく上人の心持を理解し、それを解説してゐるが、しかし喜海の解説には、人の胸を打つだけの迫力が感ぜられない。人を驚倒せしめ、人に深き反省を要求し、人を幽玄なる瞑想に導くものは、やはり上人自身の書いた苅藻島宛ての書状である。

 島に宛てられた書状は、之を届けるように命ぜられた使者が、「此の御文をば誰に付け候べき」と反問したのに対し、上人は「只其の苅藻島の中にて、栂尾の明恵房の許よりの文にて候と、高らかに喚ばはりて、打捨てて帰り給へ」と、指示した、とは、『伝記』のいふ所である。それによれば、書状は島へ届けられた筈である。

 しかるに『行状記』によれば、

  是ニ依(リ)テ上人、世間ノ書礼ニナゾラヘテ、島ノ許へツカハス消息トテ書(カ)レ

タル事有(リ)キ、彼状ハ破却セラレニキ、然而其中ニ、法門ニ寄シテ理ヲノベラレタル所、少々覚悟スルニ随(ツ)テ、一両ヲ出(シ)テ、其智ノ深ク入ルトコロヲ注シ顕サムト思(フ)、

とあって、書状は一応書かれたが、島まで届けるに及ばずして破棄せられたかのやうに見える。

 『行状記』が喜海の手に成ったものである事は、それを漢文に訳述せしめた同門高信の、建長七年(1255)七月八日の奥書によって、確実疑を容れない。しかるに『伝記』の奥にも、

  予多年随逐の間、あらあら九牛の一毛を注す、定めて謬りあらん、外見に備ふべからず、喜海

とあって、是れ亦同じく喜海の著述であるかのように見える。従って両書の間に矛盾が無ければ、一人両書を著はしたものであって、只時に前後の差別があるものと考えられるが、実は両書の間には矛盾が存するのである。右に述べた島への書状の中に、桜の大木を想出して

恋しきままに、消息を送りたいと思ひながら、世間のおもはくを恥ぢて果たさなかったといふ一条がある。その桜の木を、『行状記』は、高雄の中門の脇に桜の木が沢山ある中に、月明の夜、常に語らひ遊んだ一本の桜として居り、之に反して『伝記』では、苅藻島にある桜の大木であるとして居る。苅藻島に実情から見て、ここに桜の大木があったとは考へられず、高雄の桜とするのが妥当であると思はれるが、かやうに両書の記事が矛盾してゐる以上、それが同一人の手に成ったものとは考へられない。『伝記』には、前記の外にも、たとへば西行の物語を記して、

  喜海、其の座の末に在りて聞き及びしまま、之を註す、

と特に註記してあって、いかにも喜海の筆の如く見えるが、『行状記』が若し真に喜海の作であるならば、『行状記』と矛盾する『伝記』は、別人の手に成って、而して何等かの事情によって、喜海に仮託したものとしなければならぬ。

 かやうに云へば、古雅樸直なる『行状記』は、いよいよ其の信用を増し、文辞修飾に過ぎたる感じある『伝記』は、ますます其の価値を減ずるやうに思はれるであらうが、必ずしも一概にさう断定するわけには行かぬ。第一に、『行状記』は、もと三巻あったものが、不幸にして其の中巻を失ひ、今は只上下の二巻を伝ふるのみである。上巻は建久九年(1198)に終り、下巻は建暦二年(1212)に始まってゐるので、その中間、即ち建仁元久より建永・承元へかけての記事は欠けてゐる。之に反して『伝記』の方は、全部完備してゐるのであるから、その点、『伝記』の長所としてよいであらう。第二に、『行状記』は、作者喜海の希望により、仁和寺の隆澄僧都に委嘱して、漢文に訳せしめた。その漢文の『行状記』は、上中下三巻、完備してゐるので、以て失はれたる中巻の内容を察する事が出来るが、しかし中巻下巻の内容を、『伝記』の之に当る部分と対比するに、『伝記』にのみ存して、『行状記』には見られないものが、随分多い。ひとり多いといふのみでなく、頗る重要なる記事が、『伝記』のみによって伝へられてゐる。第三に、『行状記』の記事の中にも、恐らく誤であらうと思はれるものがある。即ち『漢文行状記』中巻に、苅藻島の記事があって、島は南北の二つ並び、北島は東西に長く南北に短い、南の島は南北に長く、東西に短い、上人は道忠僧都及び喜海と三人、相共に此の島に渡り、南苅藻島の南端、西面の洞に、わづかに数枚の板をさしかけて草庵に擬し、西に向って釈迦像をかけ、その前で読経念誦する事、五年箇日に及んだとあるが、此の記事は、島の実状にかなはぬ。南北長く東西に短いのは、実は北島であり、西面の洞穴の存するのも、実は北島に外ならぬ。従って右の記事は、『行状記』の原本にあったとすれば、作者喜海の記憶ちがひであり、しからざれば漢文に訳した際に誤ったものとしなければならぬであらう。

 かやうに見てくると、『伝記』を喜海の作とは認めがたいが、それはやはり貴重な史料とすべきであり、『行状記』は喜海の作ではあるが、それにも誤が無いわけではなく、両書とも、その記事は、吟味を加えつつ、取捨して行くべきであろう。

 そこで苅藻の島へ宛てられた消息の話に戻るが、『行状記』のように、書状を書いて見ただけで、やがて破棄したとしては、事いかにも軽い。妙恵上人は、釈迦にも手紙を書き、羅漢にも手紙を出した人である。釈迦へ宛てた書状に、

  あからさまに罷出候て後、なに事か候らん、あまりにこひしくこそおもひまいらせ候へ、成弁が罷還候はん間は、性憲に物をも請てめすべき候、(中略)早々に罷還候て、見参

  すべく候、普賢菩薩にも、同心に仰られ候べく候也、あまりにこひしくこそ思まいらせ候へ、

と書いてある。上人にとっては、釈迦も羅漢も、現に生きて居り、毎日その前に供へられる

物を食べてゐるのである。仏に宛てた書状は、当然仏前に供へられたであろう。同様に島に

宛てた書状は、島へ届けられねばならぬ。島へ届けしめたとする『伝記』の記事は、届けず

に破棄したかの印象を与へる『行状記』よりは、正確に事実を伝へたものと、しなければな

らぬ。殊に使者が反問して、島の誰に渡したらよいか、と云ったのに対し、只島へ向って、

明恵房からの書状だと名乗りをあげて、書状を島へ投げ込んで来い、と答へたとする『伝記』

の記事は、生彩のある伝説として、貴い。

 書状の内容は、『行状記』が詳細であって、且つ桜の木を高雄に在ったものとしてゐる点、

正しいと考へられる。私(平泉澄・注)は当然『伝記』を棄てて、『行状記』を採らねばな

らぬ。但し書状の首尾に存する挨拶の常套語は、『伝記』にはあるが、『行状記』には無い。

これはあるのが正しく、釈迦への書状にも存するので、『伝記』によって、『行状記』を補ふ

事とする。かやうにして、島への書状を整理して見ると、大体次のようなものになる。

  其の後、何条の御事候や。罷り出て候ひし後、便宜を得ず候て、案内を啓せず候。抑も

  島の自体を思へば、是れ欲界繋の法、顕形二色の種類、眼根の所取、眼識の所縁、八事

  俱生の体也。色性即智なれば、覚らざる事なく、智性即理なれば、遍せざる所なし。理は即ち真如也。真如は即ち法身也。法身無差別の理は、即ち衆生界と更に差異なし。然れば非情なりとて、衆生に隔て思ふべきにあらず。何(いか)に況や、国土身(しん)は即ち如来十身の随一なり。盧遮那妙体の外の物に非ず。六相円融無碍の法門を談ずれば、島の自体は則ち国土身也。別相門に出づる時は、即ち是れ衆生身、業報身、声聞身、縁覚身、菩薩身、如来身、智身、法身、虚空身也。島の自体則ち十身の体なれば、十身互に周遍せるが故に、円融自在にして、因陀羅網(いんだらもう)を尽くして、高く思議ほ外に出で、遥に識智の境を越えたり。然ればつらつら華厳十仏の悟の前に島の理を思へば、依正無碍、一多自在、因陀羅網、重々無尽、周遍法界、不可思議、円満究竟、十身具足、毘盧遮那如来と云ふは、即ち島自体の外に、何ぞ是を求めむや。住処は即ち蓮華蔵荘厳世界海、一微塵の中を出でずして、十方刹に遍せり。所説の教は即ち十々無尽の法門、主伴具足せる本部の経王也。三昧を立てずして法輪を転じ、道樹を動せずして六天にのぼると云ふも、外に求むべきに非ず。即ち島の自体に非ずや。然りと雖も、我れいまだ普賢の浄眼をきよめず、法界法爾の覚りをも開かざれば、情非情の情執分別の前に惣相の国土身をのみ見て、別相の微細身、重々無尽、因陀羅のすがたを見ざれば、心浅く、非情なればとて隔つるに似たれども、いみじくたのもしげに思へる心ある友とても、其有様を思ひとけば、島にかはりて自性ある物にも非ず。彼も無明不覚力にて生ぜる所の住相の四相の中に、分別事識細分の位の智相の力用によりて、自心所現の境の上に妄りに分別せる影像也。是れ則ち无明(むみょう)の睡眠いまださめざる間、大夢所現の夢念の境界也。同じく無自性の体なれば、島にかはりて有情なりとて、其体を見るべきに非ず。然而(しかれども)憖(なまじい)に有情類なれば、かたはらの人につつむ程に、物さまあしく、人似ぬやうなるにはばかりて、昔見し月日も遥に隔たるぬれば、見たくも恋しくも覚ゆる時は、磯に遊び島にたわふれし事も思ひ出されて忘れず、然而彼時も有為無常転変の随一なれば、今は過ぎ行きて夢に異ならず。是に付けても生死無常のことはり、心に浮びて、哀に覚ゆるままに、天親論主倶舎論の中に、正量部師が身表業色は行動を体とすと云う義を破せんが為に、以諸有為法、有刹那尽故と結んで、此道理を立て破し給ひし心の内思ひやれば、有為諸行刹那転滅のことわり、其心に浮びすめりしかば、天親論主いかにすぎたる人におはしましけむと、其心かよひて、遥に友に合へるが如し。

  かく申すにつけても、涙眼に浮びて、生滅無常の法門を心地にかきつくる心地す。是に付ても、恋慕の心をもよほしながら、見参(けんざん)する期(ご)なくて過ぎ候こそ、本意なく候へ。凡(およそ)は本覚の山のふもとに円満覚の花披(ひら)け、法性空の中に修正智の月いでて後は、法界皆相即して、依正二報、互に無碍也。一多自在なれば、一塵の中に無尽法界を見る。彼此円融すれば、無尽法界は唯一真心也。然りと雖も、我等が習の前には、真如海のきはに転識の浪高く、心原園の中に分別のおどろしげし。無明の酒に酔ひて、六度の船に乗らず、動念の病にせめられて、恵剣を抜くに力なし。誠に哀哉、悲哉。漫々たる生死の大海をば、一分計(ばかり)もいまだ渡りすぎず、鬱々たる煩悩の稠林(ちゅうりん)をば、一枝も猶剪(き)ることなし。さるままには執取相の天狗にとられて、弥々(いよいよ)三界のあたごの山に昇り、起業相の地孤にみちびかれて、ますます六道のいなりのつかにめぐる。来途、初なし。帰舎、何の日ぞ。かかる我等がためには、只無念の位にのぼり、薩般若智を得むより外は、いみじきも、おろかならむも、とてもかくても有りなむ。此道理の前は、非情なりとても、恋しからむ時は、消息をもまゐらせたし。凡者(およそは)、御事のみに非ず。高尾の中門の脇に桜のあまた候中に、月なむどのあかく候し夜は常にかたらひ遊びし桜の一本候が、境へだたりて常に見ざる時は、思ひいだされて恋しく候へば、消息なむどやりて、何事か有ると申したき時も候へども、物いはぬ桜の許へ消息やる物狂ひありなむなどと、よみ籠られぬべき事にて候へば、非分の世間のふるまひに同ずる程に、思ひながらつつみて候也。然而(しかれども)せむずる所は、物狂はしく思はむ人は、友達になせそかし。宝州にもとめし自在海師にともなひて島に渡り、大海にすましし海雲比丘を友として心を遊ばしめむに、何のたらざるかあらむや。かくいへば、あらまし事に似たり。実に夢の中の旅の友は、さめて後、恨をのこす。法門法界の悟を得給へる彼人達こそ、実の友達なれ。但恨むらくは、かくは思ひながら、一心動転の四相の夢念いまださめざれば、身のふるまひの申す様には似ざれども、真如も随縁門にいでぬれば、違自順他の義を存し、無明も帰本門に入りぬれば、無体即空の義をうしなはず。法身位の菩薩、なほし出観の時、法執分別を起す。菩薩漸く伏道の位に臨んで起事心をたち、ますます勝抜道の位にのぼり、根本心をつくしてのち、無明の風やみ、性海に浪つくる時も、候はむずるぞかし。漸入証理の修行の次第なれば、漸々に断除し、漸々に証得すべき也。しかれば、いみじく心有る人よりも、実(げ)にも面白き遊意の友とは、御所をこそ深く憑(たの)みまゐらせて候へ。年来、世の中を御覧じたれば、昔ならひに土をほりて物語せし者ありしぞかしともや覚(おぼ)し食(め)す覧(らん)。其等は古の事なり。このごろ、さやうの事は、よににぬ事にて候。かく申せば、望あるに似たり。然而和合僧の律儀を修して、同一結界の中に住せり。傍の友の心をまほらずば、衆生を摂護する心なきに似たり、凡(およそ)は過(とが)にして過ならぬ事に候也。取り敢へず候。併(しかしなが)ら後信を期(ご)し候。

  恐惶敬白。

      某 月 日 高弁状

     島殿へ

  非相続の 法にも得ぞ あらせたき

    わ島を我身に 成就せむとて

 これは一面、島へ宛てた書状であり、他面には、華厳の教義による自然観を説き、山河大

地の自然が、無生物であり、我等に対立する異物でなくして、我等と共に、我等と同じく、

毘盧遮那法身仏に外ならず、一切の生物無生物は、相互に円融自在であり、互に映発し、影

響して、此の世界を形成してゐるのであって、一つの島といへども、無限の真理を現前する

事、すぐれたる人物と同様であるとする。その中に因陀羅網といふ語があるが、因陀羅は天

主と訳し、即ち帝釈天であり、因陀羅網は、その帝釈天にある宝網で、之を以て帝釈の宮殿

を覆ひ、之をかけて宮殿を飾ってゐるが、そも網は宝珠宝玉を糸につないで作られて居り、

糸の結び目ごとに珠玉が輝いてゐるが、その光赫々として互に映発し、一珠の中に他の諸の

珠影を現じ、ひとり一珠に一切の珠影をうつすのみでなく、同時に一切の珠玉にうつる一切

の珠玉の影像形体をうつす、更にいへば其の二重所現の珠影の中に、また一切の所懸の珠を

現すといふ。即ち是れ天下の万物、世上の万人、相互に交渉交通あり、連絡影響あって、そ

の関係極めて複雑であり深刻であり、自他の分別しがたく、孤立の不能なるを示すものであ

る。(『因陀羅網』と名づくる書物がある。江戸妙延寺空誓の著すところ、仏教の名目をあげ

て、一々その出典を示してゐる。元禄十二年の版である。)

 さて華厳幽玄の哲理は、明恵上人によって血を与えられ、肉を与えられ、生命を吹き込ま

れた。思弁の中にわづかに形成せらるる空理空論でなくして、山河大地に生命あらしめ、海

中の孤島に恋慕の熱情を寄せた所に、上人の精神の高邁、衆にすぐれたるを見る。而してこ

こに我等は、我が国の古典、『古事記』や『日本書紀』神代の巻の、あの不思議なる国土草

木その他が神の生み給ふ所であり、従って我等と無縁の物でないとする伝説に対して、深遠

なる哲学的解説を与へられるのである。『古事記』によれば、伊邪那岐伊邪那美二柱の神

はオノゴロシマを始めとして多くの島々を生み給ひ、それより海の神、水の神、風の神、木

の神、山の神、野の神等を生み給ひ、之を総計すれば、島は十四、神は三十五に上るが、そ

の後、二神はそれぞれ単独に多くの神を生み給ひ、最後に最も貴い天照大御神月読命(つ

きよみのみこと)、及び須佐之男命を生み給うたとある。而してその島を見、国土を見るに、

伊代はエヒメと呼ばれて女性であり、讃岐はイヒヨリヒコと呼ばれて男性であり、また阿波

は女性、土佐は男性である。筑紫は全部男性、対馬は女性である。是等は、普通の常識より

之を見れば、荒唐無稽、ひとり信ずべからざるのみならず、むしろ笑ふべき事とされるので

ある。戦後の一般の風潮、古典を棄て、神道に背をむけたのは、一つはここに其の理由があ

るであらう。之に対する最も有力なる援護の解説を、私(平泉・注)は明恵上人に見出すの

である。神典は、同時に神道は、上人の苅藻島に与へた書状によって、深遠なる哲理の裏付

を得たと云ってよい。

 思ふに上人の此の思想は、華厳の哲学より学び得たものであらうが、同時に上人をして、

華厳の哲理を理解せしめ、それに生命を吹き込ましめたものは、祖先以来伝承し来った、日

本の神道そのものでは無かったか。祖先以来の神道が、その根柢にあったればこそ、華厳の

教理をたやすく理解し得たのであって、此の思想を、神道と華厳との偶然の一致と見、上人

に於いては、それは華厳から出てゐるのであって、神道とは無縁である、とは見るべきでは

あるまい。

 しかし之に対して、あくまで神道とは無関係であると、主張する人があるかも知れない。

いかにも山河大地みな仏性と解し、因陀羅網、十身周遍、円融自在と観ずるかぎりでは、別

神道をもち出さなくても、華厳だけで説明せられるであらう。しかるに上人の事蹟の中に

は、しかもその精神の最も高潮に達せる時に於いて、神道によらなければ理解出来ないもの

がある。それは承久の変の直後に、栂尾へ上って上人の教を乞はうとした北条泰時に対して、

日本の国体を説いて、その非行を痛責した一件である。

 但し泰時を痛責した一件は、『伝記』に見えてゐるのみであって、『行状記』は、和文漢訳

両本ともに之を載せてゐない。そればかりでなく、承久に敗れた官軍の落人を山にかくまっ

た為に、秋田城介に捕へられて六波羅へ拘引せられ、泰時に向って、

  此の山は、三宝寄進の所たるに依りて、殺生禁断の地なり、仍て鷹に追はるる鳥、猟に逃ぐる獣、皆爰に隠れて命を続ぐのみなり、されば敵を遁るる軍士の、からくして命ばかり助かりて、木の本、岩のはざまに隠れ居候はんをば、我身の御とがめに預りて、難に逢ひ候はんずればとて、情なく追ひ出して敵の為に搦(から)め取られ、身命を奪はれんことを、かへりみぬことやは候ふべき、(中略)隠す事ならば、袖の中にも、袈裟の下にも、隠してとらせばやとこそ存じ候ひしか、向後々々資(たす)くべき候、是れ政道の為に難義なる事に候はば、即時の愚僧が首をはねらるべし、

と、少しも恐るる事なく言ひきり、泰時をして感涙を流さしめたといふ劇的光景は、『伝記』

のみの記すところであって、『行状記』の記さざる所である。六波羅に於いて泰時に応対し、

栂尾に於いて泰時を痛責した事は、二つながら上人一生の大事といふべきであって、之を記

載した事は、『伝記』の殊勲であるが、同時に『行状記』の此の記事が無い所からして、『伝

記』の誇張もしくは虚偽がありはしないか、といふ疑惑もかかる。

 この問題を解明すべき手がかりは、善妙尼寺である。建長五年(1253)三月、門人

順性房高信の記録した『高山寺縁起』によれば、平岡の善妙寺は比丘尼寺であって、中御門

中納言宗行卿の後室が、出家して尼となり、夫(おっと)の菩提を弔はんが為に、西園寺入

道大相国即ち公経に請うて、古い堂を移して建立したものといふ。善妙といふのは、新羅

女神で華厳擁護の誓があるので、その尼寺の鎮守に善妙明神を勧請し、同時に寺の名も善妙

寺といったのである。さてその中納言宗行は、承久討幕の中心人物の一人として、北条に捕

へられ、関東へ下される途中、藍沢原で斬られた、年は四十七歳であった、とは『吾妻鏡

に見える所である。その宗行の夫人が出家して尼(あま)戒光となり、上人に従って仏道

入り、善妙尼寺を建てて、ここに住したのであるが、この尼寺には承久官軍の遺族、物心の

両面に於いてよるべなきもの、上人の徳を慕ひ、その袖にすがって、段々集まって来た。

 性明も、その一人である。この人は、後鳥羽上皇西面の勇士検非違使左衛門尉後藤基清の

妻であった。基清は捕へられた。泰時は、基清の子基網をして之を斬らしめた。夫は、子に

よって斬られた。妻は居るべき所が無い。出家して尼性明となり、明恵をたより、善妙寺に

入った。

 禅恵も、その一人である。この人は、参議定経の女であって、権中納言光親の夫人として、

右大弁光俊を生んだ。光親は、北条討伐の詔書作製の責任者として、四十六歳にして、駿河

国加古坂に於いて斬られた。夫人は善妙寺に入り、名を禅恵と改めた。

 明達も、その一人である。この人は、官軍一方の大将、山城守佐々木広綱の妻であった。

広綱は、宇治を守って敗れ、七月二日に斬られた。その子勢多伽丸、仁和寺に在ったのが、

六波羅へ拘致せられた。仁和寺の道助法親王、この少年の為に命乞ひせられる。母もまた六

波羅に至って哀願する。泰時は一たん之をゆるして放ちかへらしめた。しかるに少年の叔父

佐々木信綱之を訴へたので、泰時は少年を召還して信綱に与へた。信綱直ちに之を斬る。少

年の母は、桂川に身を投じて死なうとしたが、人々に止められて果さず、栂尾に入って上人

の袖にすがる。上人は之を出家せしめ、尼明達として、善妙寺に置いた。寺にある事十二年

貞永元年(1232)正月、上人が亡くなるや、明達は生きる力を失ふ、是に於いて七月八

日、清滝川に身を投じて自らその命を絶った。年は四十七歳。

 同様の尼、この外に、理証あり、真覚あり、明行あり、信戒がある。それらの人々は、上

人によって救はれ、上人の教を奉じて修行し、念誦写経を怠らなかった。今も残る『華厳経

巻五十二の奥書に、

  貞永元年七月二日酉尅書写了 比丘尼禅恵

   願以此経書写功力、生々世々受持夫忘、大師和尚不離暫時、在々所々値遇奉事、

とあるを見れば、是等の不幸なる人々が、いかに大師和尚、即ち明恵上人を慕ひ、しばらく

もそのそばを離れてあるを欲せず、来世に於いても、常に同所に在ってその指教を受けたい

といふ熱望をもってゐたかが察せられる。

 さても善妙寺に集まった官軍遺族の保護の懇切極まりなきを見れば、彼の明恵上人が六

波羅に拘引せられて泰時に対した話も、また栂尾に上って来た泰時を痛責した話も、二つな

がら肯定せられてよい。それらは、『伝記』のみの記すところであって、『行状記』の伝へざ

る所である。しかし『行状記』の伝ふべくして伝へなかったものに、善妙寺の遺族保護とい

ふ重大事があるでは無いか。而して遺族保護の事が、古写経の奥書や、上人真筆の書状現存

して、疑ふべからざる事実であって見れば、全く同一の精神に貫かれてゐる泰時との対談二

件は、之を伝ふる『伝記』の中に、他には猶考へねばならぬものがあるにしても、この対談

に関するかぎり之を是認し肯定してよい。

対談二件のうち、六波羅の方は、前に述べた。ここには栂尾の痛責を引用しよう。『伝記』

にいふ、

  泰時朝臣、此の山中に入来す、法談の次(ついで)に、上人問ひ奉って云はく、(中略)忝くも我が朝は、末代と雖もあらたなる聞えあり、一朝の万物は悉く国王の物にあらずと云ふことなし、然れば国主として是を取られむを、是非に付(つき)て拘り惜まんずる理なし、縦ひ無理に命を奪ふと云ふとも、天下に孕まるる類、義を存せん者、豈いなむことあらんや、若し是を背くべくんば、此の朝の外に出で、天竺・震旦にも渡るべし、伯夷・叔斉は天下の粟(ぞく)を食はじとて、蕨を折りて命を継ぎしを、王命に背ける者、豈王土の蕨を食せんやと詰められて、其の理必然たりしかば、蕨をも食せずして餓死したり、理を知り心を立てたる類、皆是の如し、されば公家より朝恩を召し放たれ、又命を奪ひ給ふと云ふとも力なく、国に居ながら惜み、背き奉り給ふべきにあらず、然るを剰(あまつさ)へ私(わたくし)に武威を振って官軍を亡ぼし、王城を破り、剰へ太上天皇を取りて遠島に遷し奉り、王子后宮を国々に流し、月卿雲客を所々に迷はし、或は忽に親類に別れて殿閣に喚び、或は立所(たちどころ)に財宝を奪はれて路巷に哭する体を聞くに、先づ打ち見る所、其の理に背けり、若し理に背かば、冥の照覧、天の咎めなからんや、大に慎み給ふべし、おぼろげの徳を以て、此の災を償ふことあるべからず、是を償ふことなくんば、禍の来らんこと、踵(くびす)を廻らすべからず、なみなみの益を以て、此の罪を消すことあるべからず、是を消すことなくば、豈地獄に入らんこと矢の如くならざらんや、

まことに痛烈骨を刺す批判である。或はそのあまりに痛烈なるに驚き、つつしみ深き戒律修

行の人の言葉らしからずとして、『伝記』の舞文修飾に出で、上人の真の面目を伝へるもの

ではあるまい、と疑ふ者さへある程である。しかも思へ、『伝記』はたとへ喜海の筆に成っ

たものでないにしても、室町時代の古写本は数部伝はって居り、更に古いものは貞治三年

(1364)の奥書を存し、古写本を検するのみでも、六百年を遡る事明瞭である。実際に

本の作られたのは、やはり鎌倉時代であって、はやく出来た門弟の覚書をもととして、それ

に多少の追加があり、そして最後に権威をつける為に、喜海の作なるがごとく装ったもので

あらう。しかも其の出来たと思はれる鎌倉時代は、国体の大義の一般には分って居らなかっ

た時代である。筆者の作為に出たものであれば、それは筆者の見識以上には決してでない筈

である。若し右にあげた泰時を批判し、痛責する言論を吐露し得る人物を求めるとして、

悠々たる国史三千年のうちに、果して幾人をかぞへ得るであろうか。右の痛責は、印刷して

二頁にもならないが、その内容の豊であり、識見の高く、構想の雄大なる事、一部の『神皇

正統記』に比肩して、少しも遜色なしとしなければならぬ。是れほどのものが、末流の作為

に生れる筈は無い。明恵その人にあらずして、誰が之を喝破し得よう。而して明恵が之を喝

破したに違ひない事は、善妙寺に於ける遺族保護の貴い事蹟が。之を確証するのである。

 此の大見識、大勇気は、一体どこから来るのであるか。それは華厳から出るものではある

まい。仏教の立場から上人を見る者が、之を不可解の事、また不可信の事として、むしろ敬

遠し除去してゐるのは、それを証する。多年随従の喜海でさへ、之が本当に分からないで、

『行状記』の中に、此の重大事を書き漏らしてゐるでは無いか。まことに此の見識、此の勇

気、日本の神道より出てゐるのである。明恵ならずして誰が之を喝破し得よう、と前に述べ

たが、更に云へば、神道ならずして、何が明恵をここまで導き得ようや、である。是に於い

て我等は、明恵上人を、華厳中興の高僧であると同時に、日本の神道の最も高邁なる伝承者

であったとしなければならぬ。

 擱筆に当って感謝しなければならないのは、上人の遺跡探訪に、快く便宜を与へられた諸

氏の懇情である。就中昨年の秋八十二歳の高齢を以て、鷹島苅藻島にも渡り。白上の峰にも

登って、案内せられたのは、地方史家として令名ある西尾秀翁であった。私が、上人の遺文

を些か心読し得るやうになったのは、一に目、その真筆に親しみ、足、その遺跡をたずねた

結果に外ならぬ。且つまたかくして得たる結論に、百万の援軍到るが如き感じして、力を与

へられたものは、昨年十一月、ノルウェーの大船と衝突して火焔に包まれ、全員悲壮なる殉

職を遂げた第一宗像丸の追善法要に当って述べられた増上寺法主、当時八十七歳の椎尾

弁匡大僧正の垂示であった。日く、仏教は印度に起ってインドに亡び、志那に渡って志那に

栄えず、遂に日本に於いて初めて花開き実結んだ。それは仏教渡来以前幾千年、遠く深く伝

はって来た日本の神道に支へられたが為である、と。

 

これは平泉大(おお)先生の遺徳を偲び

Pdf資料をワードに打ち直したもので、一部

修訂を加えたものである。(二谷・タイ国にて・2023年)

 

歴史神学者平泉澄(二・完) 植村 和秀

歴史神学者平泉澄(二・完)

植村   和秀

はじめに

第一章  歴史神学をもたらすもの

      第一節  日本国家の精神的機軸

      第二節  ナショナリズムの変質とその日本的変奏(以上、第三七巻第四号)第二章  国史学の神学的代位(以下、本号)

      第一節  理性と信仰 

      第二節  教義―皇国日本の理念的構成

      第三節  教会と伝道―崎門の復活 おわりに

 

第二章  国史学の神学的代位

  第一節  理性と信仰

 

  国史平泉澄は、歴史神学者平泉澄たらんと欲した。平泉は、自己の国史家としての抜群の学識と、東京帝国大学国史学講座の職責をもって、日本の歴史に一個の神学的な構成を枠付けようとしたのである。平泉の目算によれば、それは、日本国家の精神的機軸を真に確立し、ネイション意識の集約を精神的かつ創造的に遂行する試みなのであり、首尾良く成功すれば、日本人の理性に信仰の支柱をもたらし、日本への信仰に理性的な均衡をもたらすはずであった。そして、そのためにまず平泉は、理性の優位する学者たちと、信仰の沸騰する国士たちの双方に、この構成の意義を自覚させる必要があったのである。

  大正の末年から昭和の始めにかけて、平泉の心意はこの要点にかけられていたと推測する。大正一五年四月に、平泉は文学博士の学位を授与され、東京帝国大学助教授に任命された。そして同年中に、『中世に於ける精神生活』と『我が歴史観』、そして『中世に於ける社寺と社会との関係』の三冊が上梓され、三〇代前半にして学界の大家たることが明白となった。その業績を示した上で、平泉は、まず歴史の専門的な研究者たちに対して、国史研究における神学的構成の意義の自覚を呼びかけたように思われる。すなわち、大正一四年四月の史学会例会に講演され、同年五月発行の『史学雑誌』に掲載された「歴史に於ける実と真」の一文である。

  そこで平泉は、イタリアの哲学者ベネデット・クローチェの行論を踏まえ、それを日本に応用した。クローチェは『歴史の理論と歴史』において、「文献学的歴史は多分正しくはあり得るが決して真なり得ない」と力説し、「真実さを欠くが故にまた真の史的関心を欠く」と断罪していたのである(34)。そして平泉は、新井白石の実証の不備を論証しつつも、それがかえって歴史の真に迫ることを力説し、あるいは、「板垣死すとも自由は死せず」の一言の、実ならざるも真を伝えることを指摘して、学問的な歴史研究の趨勢を以下のように批判している。

 「惟ふに史実の正確のみを期して文書記録の精査に耽り、而して歴史の生命の失はれゆくを顧みなかったのは、近代学風の一弊害である。博覧洽聞、殊に一切妄誕の記事を棄てゝ専ら当時実際に働きたる文書又は之に関係し之を見聞せる人々の記録に拠り、正確動かすべからざる説を立つるは其の長所ではあらうが、しかもそこに現るる人物は往々にして魂なき骸であり、従ってその歴史は精神を失ひ、真を逸せる空文に過ぎない。予は近時学界に現るゝ諸種の論文を読むごとに、この歎を重ねざるをえない。この道を辿るとき、歴史は偶然のうつりゆきであり、人は甲乙を別たず一箇の生理的存在に過ぎないからである。かくて史学は煩瑣見るに堪えざる骨董の分析であり、青年の気力を枯らし霊魂を眠りに導く毒酒となるであろう(35)」。

  平泉の講演を行った史学会は、日本における専門的な歴史研究者たちの本拠地の一つであった。これは明治二二年の創設にかかり、現在まで引き続き、東京大学文学部の管掌して『史学雑誌』を発行する学会である。その発会式兼第一回学会において、発起人の中心で当時の代表的な国史家である重野安繹東京帝国大学文科大学教授は、「史学ニ従事スル者ハ其心至公至平ナラザルベカラズ」と題する講演を行った。

「歴史ハ時世ノ有様ヲ写シ出スモノニシテ、其有様ニ就キ考案ヲ加ヘ、事理ヲ證明スルコソ、史学ノ要旨ナラン、然ルニ歴史ハ名教ヲ主トスト云フ説アリテ、筆ヲ執ル者、動モスレハ其方ニ引付ケテ、事実ヲ枉クル事アリ、世教ヲ重ンスル点ヨリ云ヘハ、殊勝トモ称スヘキナレトモ、ソレカ為メ実事実理ヲ枉クルニ至ルハ、世ノ有様ヲ写ス歴史ノ本義ニ背ケリ、唯其実際ヲ伝ヘテ、自然世ノ勧懲トモナリ、名教ノ資トナル、是即所謂公平ノ見、公平ノ筆ナリ(36)」。

  この学会において平泉の行った講演は、それでは重野への挑戦状であったのであろうか。ちなみに、重野安繹は明治四四年に長逝するまで、実に二〇年の長きに亙って史学会会長を務め、その発展に尽力し続けた。重野の尊重した「実事実理」の考究は、大学アカデミズムの堅実さと信頼感を生み出すとともに、たしかに無味乾燥の弊をもたらしはした。しかし、それをもって平泉が、重野の「実事実理」の考究を斥けたとするのは速断であると考える。平泉自身はむしろ、重野の心を発展的に継承しようとしたとも考えられるからである。    重野は史学会発会の目的を、「今此会ヲ開クハ、従来史局ニ於テ採集セシ材料ニ依リ、西洋歴史攷究ノ法ヲ参用シテ、国家ヲ裨益セント欲スルナリ」としていた(37)。これは全く、平泉の共感する目的である。重野はまた、「歴史ノ事ヲ大別スレハ、攷究ト編修トノ二ナリ」として、歴史研究を実証で終らせてはならないと警告しており(38)、平泉の講演はこれに和して、歴史研究における構成の重要性を説くものだったと把握することができよう(39)。もとより重野の実際は、攷究への努力に強く傾くことにはなった。しかしこれは、国史学の新たな第一世代に必要な傾向であったし、それは幕末の薩摩藩で「尊王主義、勧懲主義(40)」の歴史書を編修した重野の転身としても、あるいは、その一面としても理解しうるものである。平泉澄が考証史家として群を抜く実証の大家であったことも考え合わせると、果して、重野と平泉は断絶していると言うべきなのであろうか(41)。

  この重野安繹にせよ、三上参次黒板勝美にせよ、国史学科の先任教授たちと平泉との距離は、実はきわめて近かったのではないか。流刑先の奄美大島西郷隆盛と語り合った漢学者重野(42)、荻生徂徠への贈位を峻拒した國體論者三上(43)、南朝正統論の闘将にして国士たる黒板(44)、これらの先任教授たちと平泉とは、マルクス主義に走る若い歴史家たちと比べて、はるかに肝胆相照らす仲だったように思われる(45)。しかもその距離は、政治的立場の相違というよりも、むしろ拠って立つ教養そのものの相違、思想や生活における江戸時代との連続性の有無に由来していたのではないだろうか。ちょうど、津田左右吉美濃部達吉柳田國男長谷川如是閑たちが、丸山眞男と深く断絶していたのと同様に、江戸時代の名残りとの断絶を、われわれはここにも見出すのである。

  ただし平泉は、その先任教授たちとの時代の相違もまた、強く感じざるを得なかったようである。そうであるから、あえて史学会において、「歴史に於ける実と真」を問題提起し、「近代学風の一弊害」を強調したものと思われる。遠く重野の時代には、国史学の自立にこそ国史研究の意義があった。欧化全盛の気風の中で、国史学は大学においてまともに扱われず、重野自身も変転の苦労を重ね、明治二〇年にようやく東京帝国大学に史学科が設置され、翌年重野も教授に就任した。国史学の独立の学問たるを弁証せねばならぬ窮状は、重野をして、西洋の歴史学と切磋し、江戸時代の歴史学を蝉脱させる、国史学の再出発へと向わせしめたのである。それに対して平泉の時代には、国史学の大学内での地位は確固たるものである反面、国家内での大学の意義の方が変化しつつあった。近代化の成功によって強大化した国家は、他の強国との競争に勝ち残るため、大学に、知の伝達による社会的分化を促進する機能よりも、知の活用による社会的統合を促進する機能の方を、ますます強く求めてきていたのである(46)。それはもとより、先任教授たちも強調してきた機能ではあるが、平泉の相違する所は、神学に代位して、国史学こそが、日本への信仰の枠組みを作るべきであると強く踏み込むことにあった。「歴史に於ける実と真」の結論は以下である。

「明治以来の学風は、往々にして実を詮索して能事了れりとした。所謂科学的研究これである。その研究法は分析である。分析は解体である。解体は死である。之に反し真を求むるは綜合である。綜合は生である。而してそは科学よりはむしろ芸術であり、更に究竟すれば信仰である。まことに歴史は一種異様の学問である。科学的冷静の態度、周到なる研究の必要なるは、いふまでもない。しかもそれのみにては、歴史は只分解せられ、死滅する。歴史を生かすものは、その歴史を継承し、その歴史の信に生くる人の、奇しき霊魂の力である。この霊魂の力によって、実は真となる。歴史家の求むる所は、かくの如き真でなければならない。かくて史家は初めて三世の大導師となり、天地の化育を賛するものとなるであらう(47)」。

  この講演から約半年後、平泉は「我が歴史観」の一篇を書き下ろし、翌大正一五年五月に上梓する『我が歴史観』の劈頭に据えた。そこで平泉は、近代史観に対峙する現代の史家として自己を描き出し、百花繚乱に対抗するに取捨選択をもってした。すなわち平泉は、ヨーロッパ近代史学の主たる特徴を、「文明史乃至文化史」による「研究領域の拡大」に見出し、それらが雑然と日本の学界に流入し、しかも日本では、「それら近代的史観を幾分かは斟酌しつヽ、根本に於てはこれを蔑視して、昂然として純粋客観の大旆をひるがへすオーソドックスの塁壁は猶高い」とする。  

「それら多種多様の史観は、袖手して之を傍観する時は、百花繚乱の美がないではない。しかしながらその中に入って取捨選択を行はんとすれば、左右の晶光一時に目を射て瞑眩し、却ってその矛盾背反の潮流に漂没するおそれさへある。現代史家の悩は正にこの点に存する。しかも荀くも心を歴史に傾くる以上、この問題に就ては何等か解決の血路をひらかねばならない(48)」。

  平泉は、歴史観の雑居状態が日本ではひときわ甚だしいと見ていた。そして、そのような雑居状態を整序して歴史家の主体性を確立することが、現代の急務であると判断していた。そのため平泉は、歴史が「自由の人格が永久にわたる創造開展の世界である」ことを確認し(49)、さらに進んで歴史家自らが、その人格によって歴史を創造開展すべきであると要求し、さもなければ歴史家は歴史を真に理解することができないと主張した。「我が歴史観」の結論は以下である。

「過ぎ去りし事実はいかにも固定して千古不変であらう。しかしその事実をいかに把捉するかは、歴史家の個性、及

 

びその時代の思想によって相違する。中世に書かれたる歴史は、畢竟中世的把捉である。現代は現代的把捉を要求する。それ故に歴史は絶えず書き改められなければならない。……而してこの事は史家の人格、及び彼がいかに深くまた正しく現代を理解してゐるかが、最も重大である事を示す。実際純粋客観の歴史といふものは断じてあり得ないので、もしありとすれば、それは歴史でなくて、古文書記録即ち史料に外ならない。歴史は畢竟我自身乃至現代の投影、道元禅師の所謂「われを排列して、われこれをみる」ものである。しかも又歴史を除外して我はない。我は歴史の外に立たず、歴史の中に生くるものである。歴史を有つものでなく、厳密には歴史するものである。前には歴史のオブゼクトに人格を要求した。今は歴史のサブゼクトに人格を要求する。かくの如く内省してゆく所に、現代史観の特徴がある。外へ外へと発展を急いだ時代は既に過ぎた。思ふにかくの如きはひとり歴史に於てのみ見らるる所ではあるまい。すべては今や深き反省によって、自己を確立すべき秋である(50)」。

  平泉は理性の優位する学者たちに、主体的人格として歴史を作ることを求めた。歴史への真の理解は、その歴史を作ることによって把握されると考えるからである。そして平泉は、日本の歴史の具体的な多様性よりも、日本の歴史の全体的な構成を重視すべき時の来たことを宣言する。すなわち、歴史の客観的認識から主体的実践へと軸足を移し、その実践の根拠たりうる歴史を求めるべき時の到来を告げるのである。そのような平泉はさらに進んで、今度は、現に歴史を作らんとする人々へと呼びかけねばならない。歴史を真に作るためには、その歴史を真に理解することが不可欠である、と。学者たちから目を転じて、信仰の沸騰する国士たちに平泉の強く向き合ったのは、『我が歴史観』刊行の約半年後、大正一五年九月擱筆の「歴史の回顧と革新の力」の一文である。

「歴史の回顧と革新の力、思を過去に潜める事と足を将来に踏み出す事と、この二つは庸愚暗劣の徒にあっては常に矛盾せる対立と考へられ、彼に重きを置くものは此を取らず、此に専らなるものは彼を捨て、互に無縁の者として白眼視するのみならず、殆んど仇敵の如く相戦ふに至るのである。かくて前者は遂に保守退嬰に陥り、歴史の研究といふも徒に骨董的玩弄に過ぎず、而して後者は頻りに破壊反逆を事とし、理想の追求と称するも単に新奇を衒ひ流行に諛るに外ならない。その方向は相反しながら、その浅薄と愚劣とに於て、以上両者は正しく類を同くするものである。事実、大勢の推移、流行の変遷に伴ひ、往々にして彼より此にうつり、此より彼に変ずるものさへあるではないか。しかるに歴史の明示するところ、偉大なる精神に於ては、この二つは必ずしも相矛盾せず、歴史の回顧によって自己本来の使命を悟り、その本にかへる事によってその心を純粋にし、よって以て高く理想の標識をかかげ、深く現実の真相を理解し、陋と邪とを去って正義を顕はさんが為に、大破壊を敢てし、大革新を行ふものである。以下少しくその実例を指摘せしめよ(51)」。

  この冒頭部分に引き続き、平泉は、聖徳太子中大兄皇子後鳥羽上皇順徳天皇後醍醐天皇国史研究を紹介し、さらに明治維新の例を挙げるとともに、武家においても国史研究の行われたことを、足利尊氏徳川家康新井白石徳川吉宗松平定信などの故事に及んで紹介する。その結論は以下である。

「見来れば古来偉大なる人格に於ては、歴史の回顧と革新の力と常に相提携し、相融合し、否本来合致して唯一不二である。両者の分離する時、甲をとるにせよ、乙に趨くにせよ、いづれもその思想は浅薄愚劣であり、その行動は根抵無き表面的妄動に過ぎない。知らず、今日、改造といひ、国粋といふ、果して歴史の骨髄をつかんで本来の面目に徹し、日本人の真の使命を自覚せるや否や(52)」。

  この一文の掲載された『歴史地理』第四八巻第四号は、同巻第一号とともに、国史学修の意義を訴える特集を組んでいた。その発行者である日本歴史地理学会の編集担当者と思しき筆には、「目下我が国民の思想混沌として殆ど帰嚮するところなきの状にあり、帝国の前途誠に慮に堪えず」として、「国史教育の徹底を期すべき方策」を問い、「本会微力なりと雖も、率先して之が機運を促進し、学徒報国の事に竭さん」とある(53)。

  平泉は、他の教育者、軍人、文部官僚、衆議院議員などとともに諮問に答え、他の論者ともども、国史教育の国家的意義を論じて轡を並べていた。しかし、その中にあって平泉が異彩を放つのは、文部省への膝詰め談判の風のある諸論の中でただ一人、その筆先が文部当局以上に、国家革新の運動家たちに向けられていたことにある。平泉の声は、官僚よりも国士に向けて発せられていたのである。

  このような呼びかけは、その約九ヶ月後の「国史学の骨髄」の一文に結実することとなった。これは、昭和二年六月二三日の朝に書き下ろされ、同年八月発行の『史学雑誌』に掲載された歴史論であり、昭和七年発行の『国史学の骨髄』の劈頭を飾る論文である。そこにおいて平泉は、専門的な研究者たちにも、政治活動を行う国士たちにも、そしてそれらに関心を持つ人々にも、彼の把握する国史研究の意義を広く開示した。すなわちこれは、平泉歴史神学の「骨髄」なのである。

「かくて歴史は、自国の歴史に於いて、我れ自らその歴史の中より生れたる祖国の歴史に於いて、初めて眞の歴史となり得るものである事は、今や明かであらう。我が意志によりて組織し、我が全人格に於いて之を認識し、我が行を通して把捉するが如きは、祖国の歴史にあらずんば、即ち不可能である。祖国の歴史にして始めて古人と今人との連鎖、統一は完全である。古人はここに完全に復活し来る。(思へ、世には厳かなる科学的歴史の仮面を被りて、復活せざる屍骸を羅列し、精神的連鎖は全く之を欠如せる書のいかに多きか。)而して古人がここに完全に復活し来るを思ふ時、歴史は即ち永生となる。歴史を認識するは永生の確信を得る事である。吹く風の目にこそ見えね、古人の魂は永遠に現在する。この点より直ちに引き出さるる事は、凡そ世界中に於いて、我が日本の歴史こそ、最も典型的なるものであるといふ確信である。前に歴史は変化を必要とするといった。しかし実はその変化は発展でなければならない。個人にしていへば……人格の発展向上でなければならない。国家に於いても同様である。革命や滅亡によって、国家の歴史は消滅する。中興により維新により、国家の歴史は絶えず生き生きと復活する。未だ曾て革命と滅亡とを知らず、建国の精神の一途の開展として、日本の歴史は唯一無二である。世界の誇りとして、歴史の典型は、ここ日東帝国に之を見る。 ……一の精神の開展である。古と今との統一的連関は、ここに於いて完い。道元禅師いへるあり、「佛佛の相嗣すること深遠にして不退不転なり、不断不絶なり」と。わが国の歴史も亦、その相嗣深遠にして、不退不転不断不絶である(54)」。

  平泉はこれを『史学雑誌』に掲載し、専門的な歴史研究者に提示する一方、当時の国士の代表格である大川周明に送付して、直接に国家革新運動との接触を持った。そしてこれ以降、戦後に至るまで、大川は、九歳年下の平泉を深く重んじ、敬意を抱き続けた。大川の返書は以下である。

「陳者此度はからず御懇書と共に高著一篇恵投を忝うし、芳情不堪感激候。早速拝誦、敬嘆此事に御座候。独り史学と言はず、自余の諸学に於ても、老台の識見を抱いて精進する学者輩出するに非ずば皇国真個の学は出現せずと奉存候。生亦下手の横好きにて、日本史の研究に甚大の興味を抱き居ることにて、虚空叫希有の歓喜を覚え申候。国史の研究に就て、向後はどうぞ生の導師たる労を賜り度、不日更めて拝趨、御示教を仰ぐべく候へ共、不取敢書中御礼まで匆々如是御座候(55)」。

  他方、平泉に正面から反論したのは、六歳年下の羽仁五郎であった。羽仁は当時、東京帝国大学史料編纂所に勤務し、マルクス主義的な革命運動に積極的に関与していた。約一年後の『史学雑誌』に掲載された「反歴史主義批判」は、文献学的歴史と文化史を批判するとともに、「精神主義的歴史」を「一種の―というのは人間中心の―神学」と断罪するのである。

  ここでの羽仁の文献学的歴史への批判は、その「方法の確実性」の盲信への批判であり、クローチェに依拠して平泉と合流するものであった(56)。さらにまた文化史への批判も、「学問的総合原理」の喪失に向けられて、やはり平泉と合流していた。しかし羽仁は、その総合原理を日本精神に求める平泉を斥ける。

  精神主義的歴史は、「歴史の骨髄または本質または原理を求める。そして一方には文献学的歴史を精神領域への拡張によって補足し、他方には精神的なるものをもって歴史の確実なる指導原理としようとする」。それは、「いうまでもなくかの教会史をその中世における先駆とするものである。けれども教会史のごとき断乎たる仕方において歴史現象を神の干渉および指導によって理解することは、文献学的歴史以後遺憾ながらもはや可能ではない。そこでいま神のかわりに人格が、神の国のかわりに祖国が、そして唯一なる啓示のかわりに個別性が発見されたのである。したがって一言にしていえばこの精神主義的歴史は一種の―というのは人間中心的の―神学である。この神学は本来の神中心的神学のだしがらであり、再演であり、いわば戯画である(57)」。

  羽仁はそれが、キリスト教神学に比較して絶対性と普遍性において劣り、「物神崇拝の色を帯びる」と批判した。「教会史における神格は一方において絶対なる歴史的法則性でありえたが、精神主義的歴史における人格はむしろただ一切の歴史法則を無視する神秘でのみある(58)」。そして、「歴史のうちに人格的法則性をひき入れることは一つの反動である」と規定した上で(59)、「唯物史観」を正解と示唆して一文を終えている(60)。このような羽仁の批判は、どの程度適正であっただろうか。

  羽仁の慧眼は、平泉の神学性をいち早く見抜くものであった。しかし羽仁は、キリスト教神学の歴史的特殊性を看過して、それがあたかも、実際に普遍的であるかのように論ずるようである。あるいはまた、歴史の法則性の主張をもって、実際に法則があるかのように論ずるようである。そして何よりも、人間中心という規定は、後世より見れば誤解であった。平泉の描く歴史は、人間中心であるとは思えないからである。

  平泉の描く歴史の舞台には、たしかに多くの人間が登場し、躍動し奮起して、時に美しく滅びていく。しかし彼らは、言わば皇国理念の操り人形なのである。遣い手の神技は彼らに生気を吹き込み、絵巻物の如く見る者の息を呑ませる。しかしそれは、余人の模倣しえぬ平泉の筆の力の賜物であり、本義はあくまでも理念の方にある。そのため彼らの人生は、理念の部分へと刈り込まれる。平泉の簡明流麗な文体は、本末を判断して結論のみを述べ、その結果、論理的な整合性は亢進し、人間は語り尽くされる。そこに平泉の文体の透き通った特徴が生じ、そしてそこに平泉の、あまりにも論理的に説明し尽してしまう短所が見出しうるのではないだろうか。  平泉の言う歴史の骨髄とは、「本質または原理」とするよりも、むしろ理念なのであった。しかもそれは皇国理念であり、国史の骨髄をつかむとは、皇国理念を心に掴むことに他ならなかった。そして平泉の期待するのは、この理念を掴むことによって、理性と信仰が相乗的に働き、それらが人間を主体的行為へと衝き動かすことだったのである。

(34)クロオチェ、羽仁五郎訳『歴史の理論と歴史』、岩波文庫、四〇頁。この翻訳は大正一五年一二月初版であり、同月の『史学雑誌』に平泉が書評を書き、羽仁を祝福している。平泉澄「クロオチェ『歴史叙述の理論及歴史』邦訳を得て」(一九二六年一二月)田中卓編『平泉博士史論抄』、青々企画、一九九八年、六一〜六二頁。平泉はドイツ語版でクローチェを愛読し、彼のマルクス主義批判にも深く学ぶ所があった。留学時に自宅を訪問した想い出については、平泉澄ナポリの哲人」(一九五三年六月初出)『寒林史筆』、立花書房、一九六四年参照。『平泉博士史論抄』にも所収。

(35)平泉澄「歴史に於ける實と眞」(一九二五年四月)『我が歴史観』、至文堂、一九二六年、三六四〜三六五頁。初出は『史学雑誌』第三六編第五号(一九二五年五月)。『平泉博士史論抄』にも所収。

(36)重野安繹「史学ニ従事スル者ハ其心至公至平ナラザルベカラズ」『史学雑誌』第一編第一号(一八八九年)、三頁。史学会の歴史は、『史学会小史  創立五十年記念』、一九三九年。『史学会百年小史』、一九八九年参照。

(37)   「同」五頁。

(38)   「同」四頁。

(39)掲載誌裏表紙のドイツ語表題は、“Gewissheit und Wahrheit in der Geschichte” であり、訳すれば「歴史における確実さと真理」である。平泉自身の校閲を経たかは不明のためここでは紹介に止めておきたい。『史学雑誌』第三六編第五号(一九二五年五月)、裏表紙参照。

(40)大久保利謙「島津家編纂皇朝世鑑と明治初期の修史事業」『史学雑誌』第五〇編第一二号(一九三九年一二月)、三三頁。

なお、原田文穂「重野安繹博士の史観に就いて」『史学雑誌』第五三編第七号(一九四二年七月)、二二〜三〇頁参照。

(41)それゆえ平泉においては、編修に必要な史料の選択が重んじられ、選択に必要な価値観が問われることとなる。しかし、その価値観は史料の検討に先行させるべきではないとの重野の反論が推測され、平泉ならばこれに、史料の検討そのものに価値観が含まれると答えるであろう。その意味において平泉と重野は断絶する。けれども、重野の実証主義には漢学の口調が強く感じられ、その態度に儒学的な価値観の変奏が感じられてならない。そして平泉においては、儒学的な価値観の、これとは異なる変奏があると筆者は考える。果たして、両者は断絶しているのであろうか。ちなみに、実証主義史学の大家として日本でも敬仰されたレーオポルト・ランケの場合、その事実への愛は深いキリスト教信仰に根差しており、史学はすなわち敬虔なる宗教的営為であった。事実に働く神の手を感じることを喜ぶランケは、それゆえに、事実の探求を何よりも重んじたのである。これについては特に、フリードリヒ・マイネッケ、菊盛英夫・麻生建訳『歴史主義の成立』下、筑摩叢書、一九六八年、付章参照。

(42)重野と西郷の関係については、平泉澄『首丘の人大西郷』、原書房、一九八六年参照。

(43)三上が、贈位を求める犬養木堂に「言語道断」と激昂した一件については、丸山眞男荻生徂徠贈位問題」『集』一一参照。

(44)黒板は、南北朝正閨論争に際して大日本國體擁護団に参加し、建武中興六〇〇年祭にも愛弟子平泉とともに参加している。その生涯については、石井進黒板勝美」『二〇世紀の歴史家たち(二)』日本編下参照。

(45)平泉と講座の先任者黒板勝美との不仲説については、門下生からの説得的な反論がある。著者も、様々な状況証拠から師弟は親密であったと判断している。時野谷滋『大関の里集』、窓映社、二〇〇三年、七九〜八四頁。

(46)昭和期前半における大学の意義変化については、竹内洋『大学という病―東大紛擾と教授群像』中公叢書、二〇〇一年、特に第一〇章参照。

(47)平泉澄「歴史に於ける實と眞」、三七九〜三八〇頁。 

(48)平泉澄「我が歴史観」(一九二五年一一月)『我が歴史観』、六頁。『平泉博士史論抄』にも所収。初出は「現代歴史観」の表題で『太陽』大正一五年一月号。

(49)   「同」、一六頁。

(50)   「同」、二二〜二三頁。

(51)平泉澄「歴史の回顧と革新の力」(一九二六年九月)『國史学の骨髄』、至文堂、一九三二年、一八〜一九頁。『平泉博士史論抄』にも所収。

(52)   「同」二八〜二九頁。

(53)   『歴史地理』第四八巻第一号(一九二六年七月)、一五二頁。単行本としては、同号は『歴史地理  国史之教育』の表題、第四号(一九二六年一〇月)は『歴史地理  国史之懐古』の表題、両号合本版は『歴史地理  国史之懐古』の表題で、それぞれ日本学術普及会より出版されている。なお、直接の関連は不明であるが、第一号発行と同月の七月二三日に、文部大臣が国史教育家と意見交換したとの報が第四号に言及されている。

(54)平泉澄「國史学の骨髄」(一九二七年六月二三日)『國史学の骨髄』、至文堂、一九三二年、一二〜一四頁。初出は『史学雑誌』第三八編第八号(一九二七年八月)。『平泉博士史論抄』にも所収。

(55)昭和二年八月二九日付平泉澄宛書簡『大川周明関係文書』、芙蓉書房、一九九八年、四四九頁。平泉と大川の関係については、清家基良「大川周明と日本精神―平泉博士と比較して―」『藝林』第三七巻第四号(一九八八年一二月)、二四〜六一頁参照。

(56)羽仁五郎「反歴史主義批判」『羽仁五郎歴史論著作集』第一巻、青木書店、一九六七年、三四頁。初出は『史学雑誌』第三九編第六号(一九二八年六月)。

(57)   「同」、三八頁。

(58)   「同」、三九頁。

(59)   「同」、四〇頁。

(60)   「同」、四五頁。

 

  第二節  教義―皇国日本の理念的構成

 

  国史平泉澄は、歴史神学者平泉澄たらねばならなかった。それは平泉が、歴史の客観的認識から主体的実践へと軸足を移すため、その実践の根拠たりうる歴史を求めるべき時の到来を感じるからである。そして実践の根拠たるためには、歴史は、理念的に構成されねばならなかった。すなわち、個々人の主体性を窒息させるほど完璧ではなく、個々人の主観性を野放しにするほど散漫ではない、倫理的な根拠と創造的な足場たるに十分な、しかも政治的行動への意欲を発条させる、そんな歴史の骨格が必要だったのである。

  昭和期における平泉の心意は、この骨格の構築にかけられていたと推測する。日本人に日本史の骨髄を掴ませるために、平泉自身は、日本史の骨格を提示しようとしていたわけである。それは平泉にとって、国史家としての自己の使命と任ずる課題であり、一刻も早く、そこに全力を注がねばならぬ課題であった。「歴史の様々に変化する相を研究し、その裏に流れる一貫した或物を見出す」ことを、平泉は、在外研究直前の昭和五年の講演において、「私の歴史研究に対する信念」と述べていた(61)。しかし、その後の平泉の努力は、独創的で学問的に興味深い変化の相の研究によりも、むしろ一貫性の提示の方に向けられていくこととなった。現代の歴史家として、平泉は、こちらにより重大な意義を見出したからである。

  平泉は、日本の歴史から理念を抽出し、その高みから日本の歴史を取捨選択する。その理念とは、皇国理念である。この日本史の骨髄は、日本史の骨格を規定する。それゆえ例えば室町時代の大半は、平泉にとって、「これといってお話すべき価値あるものは、ない」と言い切れるのである。

「吉野時代の五十七年にくらべて、室町時代の百八十二年は、三倍以上の長さです。しかし三倍以上というのは、ただ時間が長かったというだけのことで、その長い時間は、実は空費せられ、浪費せられたに過ぎなかったのです。吉野時代は、苦しい時であり、悲しい時でありました。しかしその苦しみ、その悲しみの中に、精神の美しい輝きがありました。日本国の道義は、その苦難のうちに発揮せられ、やがて後代の感激を呼び起すのでありました。これに反して室町の百八十二年は、紛乱の連続であり、その粉乱は私利私欲より発したものであって、理想もなければ、道義も忘れ去られていたのでした(62)」。

  そして、このような「浪費」の多さは、平泉に挫折感を与えない。むしろそれは、平泉に使命感を与え、その行動への意欲を発条させる。皇国理念の実現は、一に行動する人間の努力にかかっているとするからである。

「大体日本歴史を考へる上に於て人々の考は実に楽観し過ぎて居る。日本の歴史は実に見事な歴史である、日本の國體は実に立派な國體である、是には何も問題はない、斯ういふ風に非常に楽観し過ぎて居るのであります。飛んでもない話。日本の歴史が光にみちた歴史であることは言ふまでもない。日本国の國體は萬国に冠絶せる國體であることは言ふまでもない。併しながらこの優れたる國體、此の優れたる歴史といふものは好い加減な気持を有って何等為すなくしてこの輝きを得られたものでは断じてない。幾多の苦しみの中に幾多の忠義の人々が命を捨てて、漸く護り来ったところである。実際事情を能く見て参ったならば幾多の恐るべき問題があって、その幾多の恐るべき中に於て傑れたる人々が命を献げ奉って之を護り来ったのが日本の國體であります(63)」。

  承久の変、建武の中興、明治維新、その辛苦、「若しそれを真剣に考へるならば茲に吾々は深き覚悟を有たなければならない。又日本の國體を考へる以上は、日本の歴史を考へる以上は、真実にこの國體を護り奉らんが為に、この日本の歴史をして光あらしめんが為に吾々は何をすべきであるか。此の事を深く考へる所なくしては、自分の責任に於て此の國體を護り奉つるといふことを覚悟せずしては、真に日本の國體、日本の歴史を考へることは出来ないのであります(64)」。

  このように考える平泉は、日本の過去への讃美を厳しく斥ける。日本の真の歴史とは、人間の努力によって過去の中に間歇的に噴出するものであり、「自分の責任に於て」護持されるべき永遠の課題だからである(65)。過去を整序する皇国理念は、未来を創造するため、今現在の各人の努力を要請する。過去の讃美は静寂主義的な大勢順応に堕し、他者へのひたすらなる糾弾は、やはり静寂主義的な事勿れ主義に堕す。理念に裏打ちされた生によって未来を創造することが、平泉の目標なのであり、そのためには、まず自己が深く信じることが要請され、取捨選択は大局から行うべきことが主張される。

  「しかるに歴史が、その本来の道にかへり、本来の面目を発揮せんが為には、歴史に対する者、即ち歴史家自身が、日本の使命、日本の理想を明確に認識し、体得しなければならぬ。……曽て深き思索もなく十分の検討も加へずして、破壊的考察に附和雷同した者の多かったやうに、今日はまたおごそかに仰ぎ謹みて思ふ事なくして國體を説き、大義を叫ぶ者が少くないのであり、それは一方には国史の浅薄なる美化主義となり、一方にはその過酷なる摘発主義となってゐるのである。……国史は大局の上に立ち、國體の大義に依り、皇国の理想に照らして、雄渾なる反省を必要とする。決して些些たる末節にとらはれ、徒らなる論難攻撃を事とすべきでないと同時に、また因襲に従ひ、浅薄なる美化主義に盲従すべきでもない。即ち我等は、おほらかに、而して大胆に、皇国日本の歴史の真実の姿を明かにしなければならぬ。そこには何の作為もなく、欺瞞もあるべきでない。而して其の作為なく欺瞞なき真実の姿は、直ちに大東亜の光となって輝き、人々に理想を与へ、光明を授けるであらう(66)」。

  それゆえ例えば、建武中興の短期間での蹉跌は、その価値を何ら損なわない。建武中興は、皇国理念に直接するがゆえに、それ自体において絶対的な価値を持つからである。あるいはまた、北畠親房の筆に不都合な箇所があるにしても、それは親房の価値を損なうものではない。なぜなら親房は、皇国理念に直接して生きていたからである。およそ人間は、自己の歴史的世界を成立させている理念に直接することによって、真の倫理性と創造性、真の主体性を発揮するものであり、そして日本人は、日本という特殊絶対的な歴史的世界の理念、すなわち皇国理念に直接することによってのみ、倫理的かつ創造的に、そして主体的に生き得るものである、というのが平泉の信仰の前提であった。 

「更に思ふ。我等は紛れもなき日本人として、櫻咲く日本の国土の上に、幾千年の歴史の中より、生まれ出で、生ひ立ち来った。我等のあるは、日本あるによる。日本の歴史は、その幾千年養ひ来った力を以て今や我等を打出した。我等の人格は、日本の歴史の中に初めて可能である。同時に、日本の歴史は、我等日本の歴史より生れ出で、日本の歴史を相嗣せる日本人によって初めて成立する。……求むれば則ち之を得、舎つれば則ち之を失ふ。信ずれば影向し、疑へば消散する。日本の歴史を求め、信じ、復活せしむるものは即ち我等日本人でなければならない(67)」。

  われわれはここで、平泉歴史神学の信仰の核心に触れている。それはすなわち、特殊絶対的な歴史的世界への信仰なのである。平泉によれば、人間は特殊絶対的な歴史的世界の中に在り、その世界を成り立たせている理念においてのみ、真に生き得る存在である。そして日本は、そのような特殊絶対的な歴史的世界の一つを最も正しく形成してきたとされ、その世界の成立根拠である特殊絶対的な皇国理念の顕現において、日本人は真に生きえ、人類に貢献しうるとされるのである。

  つまり、平泉の日本への信仰とは、日本という特殊絶対的な歴史的世界の実在への信仰なのであり、その世界を成立させている理念、日本を日本たらしめている皇国理念への信仰なのであった。これが、平泉の全生涯の原点であり、扇の要に他ならない。そして、平泉の平泉たる所以は、この信仰の旗の下に、自己完結した世界を国史学によって論理的に構築する所にあった。すなわち、国史学は神学に代位し、信仰の合理的な体系が整然と整えられていくのである。われわれはこの平泉歴史神学の論理を、その啓示、聖書、聖人、聖職者について瞥見していこう。

  平泉澄において、世界史は存在しない。地球上には複数の特殊絶対的な歴史的世界が並立し、人間はそれぞれの中に在るのみである。そして人間は、異なる歴史的世界を真に理解し得ず、ただ自己の歴史的世界のみを真に理解しうる存在である。これらの歴史的世界は、その特殊絶対性を貫徹すれば興隆し、喪失すれば滅亡する。ダニレフスキーやシュペングラーの歴史哲学に近似し、しかし没落への法則を信仰によって否定する点で彼らと異なるこの確信は、平泉年来のものであって、彼らの影響の形跡は見出せない(68)。ただし、シュペングラーの生きているヨーロッパに平泉が滞在し、この確信をますます強めたことは確かである。留学中の研究日記の冒頭、昭和六年元旦の欄には以下のように記されている。

「凡そこの数日、つらつら旧年中得るところを回想するに、民族性を異にして結局解し難しといふ一事の確信を得たり。従って彼の所謂世界史なるものは、何等の連絡なく、何等の統一なき寄木細工にして、真の歴史の意義と遠く離れたるものなる事、予年来の説、ここに至って愈々牢固動かすべからざるを想ふ。西洋史、又世界史といふものは、国際連盟の如し。ありて悪しからず、むしろ便利なるものとして喜ぶべきも、そは第一義のものにあらず、絶対的のものにあらず、あくまで便宜的のものなりといはざるべからず(69)」。

  それでは、日本の特殊絶対性はどこに顕われてきたのか。平泉はその場所として、特に国史神道を指定し、両者の不二一体なるを帰国後早々に説いた。帰国から約半年後の昭和七年二月、神道学会の講演で平泉は、両者を皇国理念に集約すべきことを強調したのである。

「今日我国に於ては、世界的な国際的なものに憧憬する傾向が頗る旺であるが、これは実に恥づべき陋風であって、実際これ程無意味な事はない。民族の特異性は決して失うてはならないばかりではなく、仮令失はんとしても失へるものではないのである。如何なる国民も皆それぞれの特色を具へ、相互に、之を尊重して、それぞれ発揮させることに力めるのが本当である。そして歴史は、此の民族性と聯関して互に離るべからざるものであるから、民族の特異性が永久に失ふべからざるものであるのと同様に、歴史も亦、恒久不変であって、初めて歴史と云へるのである。即ち革命のある所には歴史は無いのである。無論時に応じて幾多の改革又は革新を行ふことは必要であるが、それは歴史の根本精神を継受したものでなければならぬ。即ち民族本源の力に溯る力の発揮としての維新でなければならぬ。乃ち之を我が日本に当て嵌めて言ふならば、日本の歴史は、太古以来の日本精神の一途なる開展でなければならぬ。脇道に外れない、民族の特異性を失はない発展でなければならぬ。而もそれは、やがて又、惟神の大道即ち神道の開展を意味するものである。神道と云ふ語は、今日の如き世界的国際的風潮の下には、陳腐とも固陋とも感ぜられ、総てが著しい革新の歩みを取ってゐる時代の前には、或は古色の甚だしいものとして映ずるかも知れぬが、実際は、これこそ我が日本の生命の源泉であって、此の一見して甚だ陳腐に見える神道の中には、尽きざる真理が活きてゐるのである。我々の総ての研究は、此処から出発せねばならないものであると考へる(70)」。

  かくして国史神道の一切は、皇国理念へと縮約され、それゆえ此岸の政治的行動に奉仕させられることとなった。

「日本の生命の源泉」である皇国理念は、この世界への啓示だからである。皇国理念において日本という歴史的世界は生まれ、皇国理念のために日本という歴史的世界は存在する。国史神道も、言わば、この理念の顕現の仮称にすぎず、この理念の実現の根拠にすぎない。昭和四五年に『少年日本史』を執筆した際、平泉は、この啓示を以下のように平易に解説していた。

「「天壌とともに窮無かるべし」とは、瓊瓊杵尊直系の御子孫は、「代々日本の国の統治者として、天皇の御位をお継ぎになり、その輝かしい光栄と、その重い責任とを担って、いつまでも、いつまでも、永遠にお栄になるのだ」という意味であります。即ちそれは、大神の宣言であり、誓約であります。皆さんは、キリスト教のバイブルを知っていますか。……つまり神と人との間の約束、それを説いたものが聖書です。我が国では、その誓約が、天壌無窮の神勅として伝わって来たのです(71)」。

  そして、この「誓約」に努力し、この歴史的世界の存立に貢献した人間は、日本の聖人となる。平泉の言う先哲であり忠臣である。それゆえ、先哲の書を読み忠臣の事蹟に学ぶことは、聖書を読み聖人伝に学んで信仰を堅固にする如きものでなければならない。昭和三五年の「松下村塾記講義」において、平泉は、膝下に参じた若者たちにこう語りかけている。

アメリカに於ては礼拝堂といふものが大学の中心にある。皆、キリスト教を奉じてそれを中心として養われてをる。私はアメリカの大学はほとんど見てをりませぬ。私の見ましたのはドイツ、フランス、イギリスでありますが、いづれも礼拝堂と食堂が大学、或は学部の中心をなしてをりました。一緒に礼拝をし、一緒に食事をする。……そして例へば米人にしましても、随分だらしのない米人でも、日曜毎に教会に行きまして、バイブルを讀むのであります。日本だけが何らさういふ眞劍なる教、心の教といふものを受けてをらぬ。真の日本といふものが、かういふことでは立てようはずがないのであります。願くは松下村塾記の如き古典は、皆さん毎朝これを讀まれてよろしい。もし毎朝お讀みになることがつらければ、日曜毎にお讀みになってよろしい。私共の力はさういふ所から初めて出てくるのであります。讀んで讀んで讀みぬいて、はじめてそれは自分の魂にしみわたって来るのであります。すらりと讀んでそれを讀みをはったといふはずのものではございません。日本の道を何によって知るか。かういふものを熟讀玩味することが何よりの近道です。こひねがはくは、ただこれを一時のこととして、このまま讀みすてられないで、願はくは終身これによってその心をお養ひいただきたいと思います(72)」。

  平泉歴史神学における聖人は、皇国理念に直接した人間であり、その言動に学ぶことによって、読者は皇国理念に直接する可能性を獲得する。そして、その導き役に平泉が指定するのは、国史家と神道家であった。国史家と神道家は、この世界の聖職者として、日本への導師たるべき職責を負うことになるのである。

  平泉にとっての「学問」とは、この世界の成立根拠たる啓示を信じ、その上で、啓示を具現化した聖人に学ぶことに他ならなかった。平泉は、そのような聖人に「先生」の敬称を付け、例えば谷秦山ならば、谷秦山先生と呼ぶのを日常の作法と定めていた。それはちょうど、ニコライを聖ニコライの尊称をもって讃えるのと同様のことである。皇国理念に直接した日本の聖人とは、国史の本義を顕現し、神道の奥義に透徹した人間なのであり、国史家と神道家はこの聖人に学び、かつ、その聖性を平信徒に伝達する義務を負うこととなる。すなわち、国史家は、先人の列聖を判定し、聖人の言行録を集成し、基本的な聖典を編纂し、解説することをまず行わねばならず、神道家は、神道の本質を国史に徴し、聖人の祭事に勤しみ、皇国護持への祈りを捧げることをまず行わねばならないのである。

  この先人の列聖の判定は、大日本帝国においては早くから政治制度化されていた。すなわち、歴史的人物への贈位である。昭和三九年の眞木和泉守百年祭での講演において、平泉は、「亡くなりました忠臣、功臣に位を贈り、若しくは神としてこれを祭るといふこともまた先生の發意であります」と和泉守を顕彰し、以下のように述べている。

「眞木和泉守は正四位明治天皇より賜はりました。贈正四位であります。亡くなった人に位を贈るといふことは、何を意味するものであるか、亡くなってをらぬからであります。死んだ人に位を贈るといふことは意味をなしませぬ。和泉守は生きてをられるのであります。生きてをられるからこそ位を賜はったのであります。このことの不思議に驚かずして、日本の神道は理解されず、日本の歴史は理解し得ないのであります(73)」。

  こうして国史家と神道家は、聖人の姿を自己の仰ぐべき理想として、ともに聖職者として日本という世界に奉仕せねばならぬこととなる。その際、国史家はより多く神学者であり、神道家はより多く司祭となるものの、実際には両者は一体化され、しかも主導権は国史家の側にある。神道家は、進んで国史家となり国史を学ばねばならないのである(74)。そして国史家と神道家は、平信徒とともに、聖性の力強い再現を期して自ら立たねばならない。すなわち、先頭に立って信仰を率先垂範し、此岸の政治的行動を自他に発条させねばならないのである。 

「本当に日本の國體に触れて之を身を以て守らうとするには、何としても建武中興の諸忠臣の精神を受けて来なければならない。学問としては崎門学を受けて来なければならない。他に是だけの精神の籠ったのはございませぬ。驚くべき学問と言はなければならない。日本の國體といふことは明瞭であり、吾々の為すべき事はもう明瞭であって、何も特にさういふ学問を必要としないやうに一見すれば見えますけれども、併しながら実際問題としては余程自分の心を深く練って参りませぬと、物事の筋道を明瞭に判別しないでは大事に臨んで本当の御奉公の出来るものではないのであります。……結局は真実の御奉公といふものは道に殉ずるといふ外はない。自分の一身一命を道に托するといふ外はないのであります。ここに於いて問題となって来るのは道を明かにするといふことであります。是こそ即ち学問の本體であります。道を明かにするといふことが即ち学問であります。後になりまして学問といふ意味が余程変りまして唯知識を求めるとか或は或資格を得る手段として知識を集める、さういふ風に段々考へが変って参りますが、根本に於ては道を学ぶといふことが即ち学問の本體であります。古い所では学問をすることを御承知の通りに稽古と申して居ります。是は北畠親房公の神皇正統記にもしばしば書いてあるところであります。……今日の思想界が非常な混乱に陥って参ったのは明治以来の我国の学問が稽古を廃したからであります。稽古といふことは即ち古を稽へるといふ事であります。日本人としては日本の国がどういふ国柄であるか、どうして出来た国であるか、如何なる歴史を有って居るのであるか、その日本の美事なる歴史、美事なる國體は何人に依って此の貴さを発揮し護り来ったものであるか、それを明かにしてその精神を受けて行くといふことでなければ本当に自分の行く道は分るものではないと思います(75)」。

  かくして国史学の神学的意義は、皇国理念の啓示の閃光を、日本史の聖書と聖人の中に明らかにし、それによって日本人の内面に、皇国理念の力強さを復活させ、政治的な行動への意欲を発条させることに見出される。これが平泉歴史神学の目的である。しかしその真価は、実は論証にある以上に構成にあり、さらに言えば、構成を行う平泉自身の中にあった。国史の神学的構成の基本を、他ならぬ平泉澄という人間が提示し、それによって正統性を確保すること。これこそは、平泉歴史神学の真価であり真の意義だったのである。

  日本に関しては、国史の基本を構成することは至難の技であった。神話と歴史の渾然として靄のかかった源流に発し、きわめて多量の歴史史料を蓄積し、きわめて古い風俗習慣を保存してきた日本の歴史は、そこに何らかの意味のないはずはない、という漠然たる確信と、あまりにも豊富な歴史構成の可能性とを、もたらしていたからである。実際、荒唐無稽や美辞麗句も含めて、きわめて多種多様な日本史の物語を紡ぎ出すことが可能であった。日本の歴史は、ネイションの歴史としての構成にあまりにも適合的すぎたのである。他の事例に比べて、このネイションの輪郭は強靭な明確さを持ち、その内容は過剰な豊富さを持って、強烈なネイション意識を無自覚的になるほどに、広く深く浸透させてきたのである(76)。

  しかもまた、歴史の神学的構成それ自体が、日本には馴染み薄いものであった。救済への願望や摂理への欲求は、通常は、根深い無常感の前に敗北し、歴史の意味への探求は、無常の境地か表面的な教訓へと帰着したからである。文明開化の進歩史観も、このような感覚を全体的に揺り動かすことはできず、ヨーロッパに見られたような、進歩への宗教的信仰にまで深化しなかった。丸山眞男の指摘するように、「ある永遠なるもの―その本質が歴史内在的であれ、超越的であれ―の光にてらして事物を評価する思考法の弱い地盤に、歴史的進化という観念が導入されると、思想的抵抗が少なく、その浸潤がおどろくほど早いために、かえって進化の意味内容が空虚になり俗流化」したのである(77)。そして歴史に宗教的な意味を見出し得た例外は、近代日本においては特にキリスト教マルクス主義だったのであり、実際、平泉の意識していた相手もこの両者だったのである。

  もとよりこれは、明治以降の宗教的活力が弱かったためではない。実際、文明開化による世俗化の進展とは裏腹に、諸宗派・諸宗教は、明治以降顕著に再活性化し、浄土真宗日蓮宗の新展開や、新仏教、古神道の叢生、親鸞道元、禅への関心の高まりなど、新しい宗教的活力は踵を接して生じ、宗教改革的な気運が醸成されていた。しかし、これら諸宗派・諸宗教は、雑居的にひしめき合って、國體を脅かさず、歴史の意味を簒奪して國體に挑戦しようとはしなかった。國體護持のためには、さしあたりこれらを抱擁し、自己への忠誠競争を促進させておけば十分に事足りたのである。

  國體にとっては、敢えて自己を神学化し、紛れもない政治宗教とすることは、実は一つの転落に他ならなかった。諸宗派・諸宗教の上に立つ国民的基盤たる尊厳を守るため、生々しい宗教的な活力そのものから超然としている必要が、國體にはあったのである。そしてそれにもかかわらず、敢えて諸宗派・諸宗教に正面衝突するのは、國體を特定の宗教の次元にまで引き下げることであり、本来ならば無用の冒険にすぎなかった。しかも実際、ほぼ全ての宗派・宗教は、ごく普通に愛国的だったのである。

  國體を敢えて政治宗教化する理由の一つに、マルクス主義の挑戦があったことは明らかである。これも丸山眞男の指摘であるが、日本におけるマルクス主義の思想史的意義は多岐に渡り、昭和初期には無視できない政治的影響力を保持するに至っていた。それは学問として、「歴史について資料による個別的な事実の確定、あるいは指導的な人物の栄枯盛衰をとらえるだけではなくて、多様な歴史的事象の背後にあってこれを動かして行く基本的導因を追求する」魅力を持ち、世界変革のためには、「直接的な所与としての現実から、認識主体をひとたび隔離し、これと鋭い緊張関係に立つことによって世界を論理的に再構成すればこそ、理論が現実を動かすテコになる」ことを自覚させ、生の倫理として、「思想というものがたんに書斎の精神的享受の対象ではなく、そこには人間の人格的責任が賭けられている」ことを教えたのであった(78)。そのどれにおいても、平泉は、これに堂々と反論できる歴史神学を構築しようとしていたのではなかったか。

  國體そのものへの反逆が政治的力を持ち始めたことは、平泉を、マルクス主義に対抗しうる歴史神学の構成へと衝き動かした。しかしそれ以上に、國體が政治的対立の道具に乱用されるようになったこともまた、平泉を深く衝き動かしたはずである。平泉はその乱用の原因を、歴史の神学的構成の不十分さに見出していたからである。

  國體は、すでに昭和の初めには、国法上の次元にまで引き降ろされていた。マルクス主義を主敵とする治安維持法の条文に、國體の文言が入れられたのは示唆的であり、弁護団の上告趣意書に応じて、大審院の判事が國體の定義を下さねばならないほど、その聖性は剥奪されていたわけである。その上國體は、生々しい権力闘争の次元にまで引き降ろされ、暴力的な争奪の旗印にさえされてしまった。そのような中で國體の存続と尊厳を確保するためには、敢えて國體を神学化して、反逆に正面から対決し、混乱を実質的に収拾する現代の必要が、平泉によって見通されたのではないだろうか。それはまさに、ネイションの市民宗教化と国家の総動員体制化という時代の要請に合致したものであり、平泉の歴史神学とは、このような時代の要請に自覚的に応えるものであったのである。

  そこで不可欠であったのは、実に、平泉澄という人間なのであった。学識の深さにおいても信仰の深さにおいても、またその職分からしても、平泉澄こそはまさに、国史の基本を提示し國體を闡明するに最適任の人物であった。平泉が語るからこそ、その「国史の概要」や「国史の眼目」、「国史概説」は、格別の意義と説得力を持ったのである。

  平泉は、荒唐無稽も美辞麗句も斥け、信仰に裏打ちされた「実証」に即して、信仰の鋳型を作る作業を担当しようとした。神学なき日本の神学者として、平泉は、そこから日本人の信仰の共通化と標準化を実現させ、信仰の減失と信仰の過剰のコストを最小限に管理しようと試みたのである。それは、「一定の根本的見解における共通性と、種々様々であって構わないもの相互間の寛容と是認―いわばネイションの年齢の幾日かにおける神の平和―を得る」ことを願ったマイネッケの思いを、平泉流に実現させようとするものに他ならなかった。國體の争いを停止するために、平泉は、「一定の根本的見解における共通性」を確保することに自己の使命を見出したのである。

  学生の革命運動も学者の無関心も、国士の革新運動も軍部の内訌も、全てそれらを、信仰の共通化と標準化によって日本国家興隆の健全な活力へと転化せしめねばならない。これこそは、平泉の決意であった。そして、そのために平泉は、独創的な研究を措いて、標準的な教義を定めることに努力を集中したのであろう。平泉は、日本人に必須の標準的な教義を定め、それによって、それ以下の一切を斥け、それ以上の争いを止める基準を確立させようとしていたのであった。

  この標準的な教義の中には、平泉によれば、日本人の倫理性を守り、創造性を高め、主体性を起動し、政治性を駆動させる可能性が一式含まれていた。すなわちこの教義には、革命を断乎として否定させ、革新の争いを創造的な政治改革の競争に転じさせ、日本人が主体的かつ政治的たらざるをえなくなる構成が施されていたのである。それは平泉によれば、日本的近代の作為の論理を起動させ、日本における政治の論理を駆動させるはずのもの、すなわち、「維新の原理」なのである。

「かう云ふ風にして我国の改革は、大化の改新にしましても建武の中興にしましても、明治維新にしましても、悉く其の原動力を歴史の中から汲みまして、我国本来の姿、正しい日本に戻さうと云ふのが根本の精神であり、其の根本の精神さへ確立して居りますれば他の細かい制度の末に於きましては、所謂時の宜しきを制すればよい訳である。しかも時の宜しきを制する為めには、外国の制度を参酌することは少しも差支のないところである。其の意味に於いて、昔は隋、唐の制度を取入れ、後には西洋各国の文物制度を取入れられたのであります。今内外の形勢非常に重大でありまして、改革の叫ばれます時に於いて、私共の考へて置かなければならないのは、茲に行はれる所の改革は必ず其の原動力を歴史の中に汲み、日本の本来の姿、正しい日本の姿に戻さうとする運動でなければならないと云ふ点であって、従来の一切を否定して、新しい社会組織を作らうとする革命であってはならないと云ふことであります。尤も個々の局面に於いては、或は個々の結果に於いては同じことになるかも知れないと思ひますが、併し根本の精神に於いては全く違ったものである。総て問題が重大であれば重大であるだけ、其の根抵を確立し、明白にしておかなければならないのであります。今日漫然として革命と云ふ言葉が用ひられ、是に於いて殆んど世間が注意を払って居ないのは洵に残念なことであって、是は今にして心しておかなければならない重大事であると思ひます(79)」。

  しかし、このような平泉の歴史神学には、窓がない。それは特殊絶対的で、論理的に自己完結した世界である。外界との唯一の通路は信仰である。信仰の細道を通れば、論理的に首尾一貫し合理的に構成された平泉澄の円錐形の世界が広がっている。啓示は天頂にあり、聖書と聖人伝は円錐の壁面を具体的に構成し、この世界を支えている。天頂近くには祝福された聖者が列し、ただ信仰の力によって、人間はその聖性を我が身に復活させ、この世界を飛翔しうるのである。それは果たして、どれほどの魅力を当時の日本人に及ぼしたであろうか。日本人を倫理的で創造的な、主体的で政治的な行動へと踏み切らせるために、このような世界はどの程度役に立ったのであろうか。

  この世界が大学の一角に作り出された時、言いようのない違和感が生じたようである。当時の雰囲気をある門下生は以下のように伝えている。

「相嗣復活、礼拝得髄を研学の正道とされる平泉史学は、東大文学部国史学科に衝撃を与へ、大きな波紋をえがいた。平泉教授の立場は科学ではなく教学であり、科学的研究の殿堂である大学の講壇にふさはしくないとする批判的空気が瀰漫した。いはんや、階級的立場に立って史学を社会科学の一環に位置付けてゐる唯物史観流においてをやで、この方面からは仇敵視されるに至ったのである(80)」。 

 しかしわれわれの想起すべきは、この平泉の博した人間的な信用である。大学の外部において、平泉は、各界の人士に重んじられ、特に軍部への影響力には突出したものがあった。また、平泉を慕い重んじる学者学生は、理系文系を問わず他の諸学部にも広がって、その私塾は順調に発展していった。平泉に接して、多くの人々が紀律を内面化させ、能動的な主体性と政治性を発動させて世に立ったのである。それは結局、この歴史神学が時代の要請によく合致したのみならず、「思想を実質的に整序する原理」として、実際にある程度、機能しえたということではなかったか。唯物論の立場から激烈な日本主義批判を展開していた戸坂潤は、ちょうどその頃、以下のように獅子叫していた。

「処で日本主義(之が今日一個の復古思想であり又反動思想なのだという点に注意を払うことを怠ってはならぬ)は、この自由主義ブルジョア社会常識に照らせば、著しく非常識な特色を有っている。この非常識さが自由主義者を日本主義的右翼反動思想から、情緒的に又趣味の上から、反発させるのに十分なのである。処がそれにも拘わらず、事実上は、こうした非常識であるべき日本主義思潮が、今日あまり教養のない大衆の或る層を動かしているという現実を、どうすることも出来ない。そうなると又一つの常識だということにならざるを得ないように見えるのである。社会に於ける大(4)衆(4)やその世論(?)というものがどこにあるか、という問題にも之は直接連関している。―で、常識というものの有っているこうした困難を解決するのでなければ、今日の日本主義に対する批判は十分有力にはなれまい(81)」。

  なぜ平泉の歴史神学は、短期間の間に多くの信奉者を生み出しえたのか。そしてなぜ信奉者たちの中核は、戦後も団結を保持しえたのか。平泉の影響力は、決して終戦とともに終結したわけではない。われわれはこの同学集団に目を転じ、平泉歴史神学への共鳴の精神的基盤を考察しよう。それはわれわれの見る所、近世日本の儒学の伝統上に、とりわけ崎門の伏流の上にある。われわれは、平泉歴史神学を、崎門の近代版と見るのである。

(61)平泉澄国史学の概要」(一九三〇年三月)『平泉博士史論抄』、一三六頁。この講演の前半や「日本精神発展の段階」(『國史学の骨髄』所収)など、心性の歴史の研究として興味深いものが平泉には多い。   

(62)平泉澄『物語日本史』(中)、講談社学術文庫、一九七九年、二四九、二四四〜二四五頁(原著は一九七〇年時事通信社刊)。

(63)平泉澄「國史の眼目」(一九三七年?)、『天兵に敵なし』、至文堂、一九四三年、二五九〜二六〇頁。

(64) 「同」  二六五〜二六六頁。

(65)平泉史学を皇国美化史観と区別され皇国護持史観と規定されたのは、平泉門下の田中卓皇学館大学元学長である。田中卓「平泉史学の特色」『平泉史学と皇国史観』、「皇国史観について」『私の古代史像  田中卓著作集十一巻Ⅱ』、国書刊行会、一九九八年。

(66)平泉澄国史の威力」(一九四三年五月初出)、『平泉博士史論抄』、三六九〜三七〇、三七九〜三八〇頁。戦後の回想録によれば、昭和九年三月の『神皇正統記』口語訳及び解説の出版を機に、平泉の不敬糾弾の動きが生じ、まもなく平沼騏一郎が止めたとの事である。その理由は、『神皇正統記』は不敬の書であるというものであった。平泉澄『悲劇縦走』、皇学館大学出版部、一九八〇年、五四〇頁参照。

(67)平泉澄「國史学の骨髄」、一一頁。

(68)これ以上の比較は、ここでは立入らない。なお、ダニレフスキーについては、勝田吉太郎『近代ロシア政治思想史』、創文

社、一九六一年。シュペングラーについては、アントン・ミルコ・コクターネク、南原実・加藤泰義訳『シュペングラー ―ドイツ精神の光と闇―』新潮社、一九七二年、特に一一七〜一二九頁参照。

(69)平泉澄『DIARY』、私家版(平泉洸・平泉汪・平泉渉編、平泉洸発行)、一九九一年、七頁。

(70)平泉澄「民族の特異性と歴史の恒久性」(一九三二年二月一〇日)『平泉博士史論抄』、二一三〜二一四頁。

(71)平泉澄『物語日本史』(上)、五四頁。

(72)平泉澄松下村塾記講義」(一九六〇年八月)『先哲を仰ぐ』、錦正社、一九九八年、三九九〜四〇〇頁(原著は一九六八年日本学協会刊)。

(73)平泉澄「維新の先達  眞木和泉守」(一九六四年八月二〇日)『先哲を仰ぐ』、四一頁。

(74)それゆえ、国史を踏まえた神道神学の確立は、歴史神学者平泉自身の尽力し、また待望する課題でもあった。この平泉歴史神学に呼応する神道神学への試みは、特に、平泉の門下生である谷省吾皇学館大学元学長によって遂行されてきた。谷省吾『神道原論』、皇学館大学出版部、一九七一年。同『神道  その探求への歩み』、国書刊行会、一九九七年参照。

(75)平泉澄「國史の眼目」、三九九頁。

(76)平泉に挑戦して「日本」を脱構築する通史を提示しようとしたのが、網野善彦『「日本」とは何か』、講談社、二〇〇〇年だったのではないだろうか。

(77)丸山眞男「日本の思想」(一九五七年)『集』七―二〇八〜二〇九。

(78) 「同」、七―二三五〜二三七。

(79)平泉澄「維新の原理」(一九三三年七月)『武士道の復活』、至文堂、一九三三年、三八五〜三八六頁。

(80)村尾次郎「先師平泉澄博士における神道」、『神道史研究』第三三巻第一号(一九八五年一月)、五〜六頁。西洋史学科出身の林健太郎は往時を回想し、「平泉派の跋扈によって「史学雑誌」は単に面白くないだけでなく、学問的にも価値の低い雑誌に転落してしまった」としている。そしてその結果、「アカデミズム史学の本道」が史学雑誌を脱出して歴史学研究会へと流入し、ために草創の会は時ならぬ活況を呈したとのことである。林健太郎『移りゆくものの影―インテリの歩み』、文芸春秋新社、一九六〇年、一三九〜一四二頁。

(81)戸坂潤『日本イデオロギー論』、岩波文庫、三〇〜三一頁(初版は一九三五年)。戸坂は、自由主義は日本主義と論理的に対立せず、ただ情緒的性格的に距離を置くにすぎない、と批判する。戸坂によれば、自由主義は自己と原理的に対立する唯物論の立場へと移行せねば、日本主義への準備にすぎないのである。『同』二九頁。われわれは後世から見て、このような唯物論者の自由主義排撃こそが、日本主義勝利への後押しであったと判断する。自由主義こそは日本主義との論理的な対立物だったのであり、唯物論者こそが自己と原理的に対立する自由主義の立場へと移行せねば、それは畢竟、日本主義への準備にすぎなかったと考えるものである。すでに大量転向は現実化し、唯物論者は社会民主主義者にさえなれぬままに総崩れていった。それでも旗を下ろさず獄中死した戸坂は、信仰に殉じたということであろう。そして、この自由主義者唯物論者の距離感の問題は、戦後の丸山眞男に残された課題となったのである。

 

  第三節  教会と伝道―崎門の復活

 

  国史学が神学に代位するや、その使命は、皇国理念の啓示の閃光を、日本史の聖書と聖人の中に明らかにすることとなり、それゆえ国史家は、聖職者として平信徒に率先すべき職責を負う。はたして先師平泉澄を追悼して平泉史学の真髄を説く門下生たちの声も、期せずしてこの一点に集中した。

 「平泉博士の神道観はその歴史観と表裏一体を成してゐる。両者は、先生にあっては同義語であるといってよいのであり、外来宗教に見倣って特定概念の神道教義を立てることさらさら無く、日本の歴史の中に神道の髄を発見し、これを信じそれに立脚せられた。「神道の眼目」は「皇国護持の祈りに生きる事」である。歴史上の偉大なる精神現象を精究し、これを礼拝し得髄し、相嗣し復活する行である」。これは、村尾次郎元教科書調査官の証言である(82)。

 「平泉史学における「信」というのは、実証史学の本道に則った厳密な考証の手続を経て、「正確動かすべからざる説」を立てることを当然の前提としており、……実証主義のリゴリズム以前の世界に属するものではなく、これを突き抜けた世界に属する問題なのである。日本の歴史の事実を追究し、それのみで足れりとすることなく、明らかにされた事実を信じ、これを復活する行を積むこと」が、平泉史学の立場である。これは、時野谷滋関東短期大学名誉学長の証言である(83)。

 「平泉史学の特色は、史観として人格主義・伝統主義に立脚し、具体的には国史の中で、すぐれた人格を先哲・忠臣・義士に求め、正しい伝統を万世一系の皇統、天皇政治の中に論証した点にある。もとよりこの「歴史」には、栄光もあり、悲劇もある。名誉もあり、屈辱もあらう。私共に与へられた平泉博士の教訓の第一は、歴史は事実のままに直書せよ、といふことであった。決して時局便乗や国体美化に陥ってはならない。真実を貫くところに国史の威力があり、意義がある、とするのである」。これは、田中卓皇学館大学元学長の証言である(84)。

  平泉を師と仰ぎ、生死を共にする覚悟を持った門下生たちを、平泉は、同学と呼んで重んじていた。この同学は学者学生に限らず、軍人その他様々な職業の人々があり、平泉に私淑してその教えを承け、互いを尊重する見えない集団を形成していた。すなわち、この同学の集まりこそが、平泉歴史神学にとっての教会だったのである。晩年近くに平泉寺白山神社を訪ねた国家主義運動の後輩に対して、平泉は運動の心得を以下のように述べた。

 「人はまごころによって動く。神仏も人のまごころで動く。えらそうなことをいって、看板だけは立派でも、財閥から金を取ってやるような運動は、泡沫のようなものである、誠と誠が結び合わねば天下をうごかす運動にはならない。天皇陛下が民草のことをつねにいつくしみ、つねに思っていられる。その大御心を心として、人の誠を尽すことである。われわれの運動は、横につらねて旗を振ることではなくて、根を張ることだ。これをやらないで、旗を振って、華かに新聞やテレビで騒がれるようなことを狙う運動は、結局うたかたのごときものである。あの人の言うことなら信頼できる、絶対安心だ、そういう人と人とが結び合うことだ。その結びは因縁である。天の配剤といってもいい、必ず結ばれるものである。それが国を興す運動につながったときに、本当の運動となる(85)」。

  人と人との結び付きによって、平泉は、自己の歴史神学の教会を形成しようとし、そして実際、かなり大きな力を持ち得たようである。昭和六年の夏に帰国した後、まさに「天の配剤」の如き多くの人々の助けによって、平泉は順風に乗ることになった。

 「然しながら国史学界に於いてこそ新進の名を謳はれてゐたものの、かぞへて三十六歳、一助教授の身を以て、何が出来るでありませうか。自分で考へても、身の程知らずと恥ぢ入るばかりでありましたのに、翌年より始めて、昭和七 ・八・九 ・十の四年間連続して、私は好運にめぐまれました。第一に、天皇陛下への御進講、しかもそれは破格、一時間有余の長きに亘る事を許されました。第二に秩父宮殿下の侍講、それは二年半に亘って、昭和九年七月二十五日終講、八月十日賜餐の光栄に浴しました。陸軍は大学校、士官学校へ招かれ、海軍は大学校、兵学校、機関学校、各鎮守府、更に霞ケ浦航空隊へ招かれて連続講演し、聊か陸海軍の英気雄風の一新に貢献し得たやうに覚えました。陸海軍の武に対して文の方面に於いては東京帝国大学、大講堂に於いて行はれたる山崎闇斎先生二百五十年祭、法学部講堂に挙行せられたる楠公祭等によって、曾てロシア革命の影響を受けたる迷妄より醒めて、日本の伝統に復帰する傾向を強めました。是等は皆一般世間に反射影響して其の風潮を変へて行きました(86)」。

  平泉は高く信用され、多くの人々が手を差し伸べた。まず東大総長小野塚喜平次は、平泉を特に抜擢して秩父宮への日本政治史の侍講を命じ、次いで有馬良橘海軍大将は、山崎闇斎先生二五〇年祭の開催を依頼した。その大成功に、上田万年や小野塚喜平次のような長老教授たちのみならず、「忘れ果てられた崎門の学風の、新鮮なる復活は、その学統につながる長老達の驚喜された所でありました」と、平泉は懐かしげに伝えている。(87)さらに有馬良橘は、荒木貞夫陸軍大臣に推挙して昭和天皇への御進講が実現し、それを木戸幸一が陪聴する。その直後に、荒木の腹心小畑敏四郎陸軍少将が平泉を招き、さらに小畑は近衛文麿に引き合わせ、近衛は平泉の意見を聞いて、木戸幸一に引き合わせ、近衛木戸平泉の三人で四時間半に亘って密談する。これが実に昭和八年二月七日の事、平泉は三九歳であった(88)。

  そして昭和九年四月一六日、陸軍士官学校の講演で東條英機陸軍少将に深い感銘を与え、士官学校の指導を依頼される。他方、小畑敏四郎は陸軍大学校校長となって、平泉に指導を依頼する。しかし、この流れは二・二六事件の勃発によってひとたび頓挫する。無関係であり厳しく批判的であったにもかかわらず、平泉は連累を猜疑され、湯浅倉平内大臣や元老西園寺公望木戸幸一岡田啓介などから警戒されたのである(89)。  ただしその後も、板垣征四郎関東軍参謀長から満洲建国大学への総長就任を依頼されたり、陸軍、海軍艦隊派人脈、高等学校、警察などからの講義講演依頼の途切れることはなかった。内務省には、安井英二(大阪府知事・近衛内閣内務大臣・文部大臣)の信頼が篤く、海軍においては、先述の有馬良橘(大将)を始め、加藤寛治(大将・軍令部長)、末次信正(大将・軍令部長)、南雲忠一(中将・海軍大学校長・艦隊司令長官)、上田宗重(中将・海軍機関学校長)、徳永栄(中将・海軍省教育局長)が平泉に信頼を寄せ、あるいは私淑していた。そして平泉は、自己の講義講演によって、聴衆の信仰に火が灯り、あるいは内面的な紀律を与えられることに喜びを感じていたようである。平泉が回想録に特記した思い出に、昭和九年六月、香川善通寺での陸軍予備兵への講演がある。

 「初めは何分にも町から村から俄に召集を受けての集合とて、その懶惰無規律、見るに堪へないものでありました。然し精魂こめて三日間講義をつづけてゐるうちに、見る見る態度は変って、昨日の予備兵は、今日の現役兵となり、規律厳正、風貌凛然、尊敬すべき威厳を備へて来ました。私が帰京の際、駅に見送ってくれられた代表の人々の爽快なる態度は、今も歴然と印象に残っています。しばらくして中将は上京せられましたが、陸軍省へ行かれる前に、元づ曙町へ謝礼に来られ、そして其の場で入門せられました。そして其の純情は終生一貫して変らなかったのであります(90)」。 

  それはまさに、司牧と伝道の旅であったわけである。平泉の講演に接して入門するのは、この松田巻平陸軍中将のみではなく、しかもまた、講演に出かけて平泉の憂慮するのも、予備兵のだらしなさだけではなかった。北海道帝国大学では、構内の並木を伐採して来校の天皇への襲撃を予防するのを見、(91)大阪高等学校では、校長も講師も無視し、始業のベルも無視して遊ぶ学生たちを見て(92)、平泉は憂慮を重ねていた。時には反応のなさに憤慨し、時には聴講後に慕い来る入門希望者たちに喜ぶ。そのようにして形成されていく平泉の教会は、その中核に、青々塾という名の私塾を持っていた。  平泉自࡛の『寒林年譜』によれば、これは昭和八年四月七日の開設であり、当時平泉は三九歳の助教授であった。本郷区駒込曙町に貸家を借り、最初の塾生は五名、すなわち、法学部一名、工学部一名、国史学科三名であった。その後、一年を経たずに松柏塾、綱常塾を開設せねばならぬほど入塾希望者が増え((允))、やがて塾は発展して塾頭を置き、各地に分派して戦後にも存続した。平泉の道を講ずるや、軍人や顕官も自ら参集して聴講し、塾には緊張感あふれる活気が漲ったのであ。る(94)

 「然るに私の講義には、此の枠を越えて、殆んどすべての学部から来聴しました。それは制度によって来るのではありませぬから、単位は取れないのでありますが、それを構はずに集まって来ました。朝行って見ると、予期せざる多人数で、教室へ入れない為に、私は学生と共に広い教室を捜して、まるでモーゼのやうに、移動した事が、幾度かありました。塾がまた同様で、法、工、理、医、農、経済、すべてに亘って居り、ひとり東大に限らず、稀には早稲田や日大も入ってゐました。その塾が東京ばかりで無く、京都に在り、仙台に在り、金沢に在り、稍性格は違ふものの、其他の各地にも在りましたので、私の学生門下は、その多方面であり多趣である事、想像も及ばない程でありました。塾には規則も無ければ、資格も無く、名簿も無い程で、只道を以て集まり、心を以て結ばれてゐるだけでありましたが、結びの強く、交はりの深い為に、敗戦といふ天地傾覆の大変が起りまして後も、門下の山を登って寒林に分け入り、摧残の私を顧みる人絶えず、ある時は一箇月の泊り客三十人に及ぶといふ有様でした(95)」。

  こうして平泉は、教会を組織化していくとともに、その伝道を、特に軍隊と学校において進めていった。平泉自身が振り返って驚嘆するほど、その伝道活動は猛烈であり、時間的・経済的な犠牲を払って、倦むことなく全国を飛び回ったのである。そして、それほどまでに平泉が必要とされたのは、信仰と理性の均衡が、当時切実に必要とされたためあった。軍隊においては革新派の暴発を防ぎ、学校においては革命派の反逆を防ぐために、平泉は最適の講師だったのである。実際、平泉の歴史神学には、沸騰する信仰を鎮静化させ、冷ややかな理性に信仰の火を灯す作用があった。平泉の静かで論理的な語りには、海軍条約派の首脳を強く警戒させるほどの、人間の魂を揺り動かす力があった。ここにおいて神学者は、抜群の説教者たることも実証したのである。海軍大学校での講義について、阿川弘之は以下のような伝聞を記している。これは恐らく、海軍大学校三四期学生長の大井篤少佐の言である。

 「その国史講述は、世間で想像するような壮士風煽動調のものではなかった。眼もとは澄んで涼しく、すがすがしい風格があって、建武中興の故事、吉野朝の哀史を静かに説き去り説き来り、時に聞く者の涙をさそった。人によっては受講中、何かが乗りうつったような異常興奮状態に陥る。兵学校機関学校、霞ケ浦の航空隊へも講義に行くのだが、若い生徒や練習生が聞いたら、微分積分の勉強なんかする気を失うだろうと言われていた(96)」。 

  しかしもちろん、反発もあった。大井少佐は平泉の講義に正面から異議を唱え、「学者として講義をなさるのに、歴史上の人物を最初から忠臣逆臣と分けてかかり、呼称にまで差別をつけておられますが、何故そんなことをする必要があるのですか」と述べ、「平泉教官は呆気に取られたような顔で、返事をしなかった」と阿川は伝えている(97)。

  やがて日米開戦と戦局の悪化とともに、平泉の役割は変じて、従軍司祭の役割をも期待されるようになる。平泉は、戦地に赴く人々の心の平安を司ることを期待され、その適任者たることも実証したのであった。そして平泉も、呉の鎮守府で一千名近くに講演し、翌朝窓を開ければ、港内の軍艦一隻残らず出撃してただ海面の揺らぐのを見、(98)あるいは茨城県神の池の海軍航空隊で数百名に講演し、翌日には皆出撃して前線に飛ぶと聞き(99)、さらには次々と同学知友の出征し、続々と戦死の報の重なるを知らされて、心深くまで信仰の染み透るのを体験したはずである。やがてその体験は、終戦時の至重の判断へと通じていくのである。

  そして、このような伝道活動を通じて、平泉は、多くの人々を自己の教会に迎え入れることとなった。その詳細は不明のため、著述に名の挙がった年輩の軍人官僚の同学を見れば、陸軍には阿南惟幾(大将・鈴木内閣陸軍大臣)、山口三郎(少将)、津田美武(中将)、松田巻平(中将)、下村定(大将・東久邇宮内閣及び幣原内閣陸軍大臣)、海軍には加来止男(少将・空母飛龍艦長)、升田仁助(少将・ヤルート島警備司令官)、内務省には富田健治(警保局長・近衛内閣書記官長)、橋本政實(警保局長)、野村儀平他がある。もとよりそれ以上に、学生軍人官僚その他多くの若者が平泉に入門し、私淑していた。戦死者、自決者の多い中で、生き残った同学集団の中核は戦後も継続し、平泉の見えない教会を維持していたようである。戦後も平泉は、保安隊、自衛隊、警察などにおいて、きわめて活発な講演活動を行ったが、それを支えていたのも、このような同学集団であったろう(100)。

  平泉の講義を聞き、あるいは配布される打聞に学び、その教えを承けることは、平泉の同学集団にとって、まさに神聖なる祭儀であった。それは、平泉の信じる正しい信仰への導きであり、平泉による霊的な司牧の活動に他ならなかったのである。そして平泉によれば、正しい信仰こそが正しい判断を生み出し、その上に正しい行動へと進んで行く勇気を与えてくれるものであった。それは日本の思想史において、どのような系譜に連なっていたであろうか。

 「先生の学問はある時期から自ら「正学」と称せられた。公けには「日本学」であらう。それは現在のいはゆる史学・哲学・政治学等の分類を超越したものであって約言すれば道を求めるもの、古への学問そのものであらう(101)」。

  平泉門下の名越時正水戸史学会長の追想にあるように、平泉澄の学問とは、まさに「道を求める」、明治の近代化以前の「古への学問」であった。すなわちそれは、崎門の昭和における復活の試みだったのではないだろうか。同学の参集し、列座して学ぶ姿には、山崎闇斎の膝下に集う門弟たちの姿を重ね合せるのが最も自然である。平泉は昭和の山崎闇斎たることを願い、それゆえ学統を継承する同学集団への思い入れ深く、その行く末の道険しくとも、日本の道を守り続けていってくれることを信じたのであろう。  「かく内外の弁既に明かに、我が国の歴史に徹底する時、日本精神の特色その極致は、忠の一字に帰着する事明瞭となる。しかも先生の学は机上の戯論にあらずして、直ちに之を実践にうつさんとする。即ち尊王の論は直ちに斥覇の説となり、又現実に現れて直ちに勤王の行動とならざるを得ない。ここに時勢切迫すれば、この精神は火の如き熱を発し来って、門下身を以てこの学を験せんとするに至る。崎門が幾多の犠牲を出だし、幾多の肉弾を発して、明治維新の鴻業を翼賛したのはこれが為である。即ちかくの如きは先生の学問の特色であるが、しかもひとり先生の特色たるに止まらず、古今に通じてかはる事なき日本精神の極致に外ならぬ。かくて我学は先生の説により、又その門下の行を通して、日本精神の中核、忠義の至誠に触れるのである(102)」。

  これは、山崎闇斎先生二百五十年祭の記念出版『闇斎先生と日本精神』に寄せた平泉の一文である。国史を通観する平泉にとって、江戸期と明治以後の断絶は、その思想と生活においては存在していなかった。闇斎とその門下への敬慕は、地下鉄の走り飛行機の飛ぶ東京においても、何ら妨げられることはなかった。忘れられた崎門を昭和に復活して、再び維新の原動力とすることを、平泉は真剣に目指していたのである。

  しかし、江戸期と明治以後の断絶は、特に都市部の住人にとって、当時すでに、きわめて深いものがあった。儒学の伝統から切れた人々に、平泉の試みは一種異様の感を与えたはずである。しかもまさにこの頃に、江戸の様々な伝統はついに命脈尽き果てていた。竹山道雄は、その雰囲気をこう回顧している。

 「「国が変った」。それが決定的に行われたのは大正の末から昭和のはじめのことだったが、あのころに日本人は大変化をとげた。魂の底で、目に見えないところで、あやしむべくおどろくべき変貌が行われた。むかしからの日本の文化・道徳精神はあのころついに命数がつき、もはや創造的原理としてはたらくことができなくなってしまった。残っているものはただ過去の遺産にすぎなくなった。あるいは、悪しき残滓として、人間性の欠陥に特殊な形をあたえるものにすぎなくなっていた。日本人の精神は新しい段階に入って、ただ過剰なエネルギーをもてあましながら、それを有意義に結晶さすべきいかなる積極的な目標もなく、前後十年ほどのあいだ、文化において混沌たる無様式の状態を、モラルにおいて乱脈痴呆の状態をつづけた(103)」。

  そして、まさにそれゆえに、平泉は、そのような変化に正面切って挑戦せねばならなかったのである。しかもその挑戦は、平泉一人の生涯のみならず、後世への長い精神の持続を信じて遂行されたものであった。山崎闇斎学派のように、平泉は、自己の精神が同学に長く貫通し、しかもその精神が同学の人間の生全体に実現していくことを願っていたはずである。時代の変化の底にある一貫性を信じ、平泉は、そのような意味での平泉学派の形成を、最も深く心に期していたのだと思う。

(82)村尾次郎「先師平泉澄博士における神道」、二二頁。

(83)時野谷滋『芭蕉・鴎外・漱石』、近代文藝社、一九九三年、九三頁。

(84)田中卓『平泉史学と皇国史観』、一五三〜一五四頁。

(85)田中正明平泉澄先生を訪ねて」『民族と政治』、昭和五六年一〇月号、六六頁。なお、同氏の訪問日は昭和五五年八月一九日である。

(86)平泉澄『悲劇縦走』、四五〇〜四五一頁。以下の記述は同書と『寒林年譜』に基づく要約である。

(87) 『同』、三八九頁。

(88)この時期に平泉歴史神学の基本枠組みが全て確定したと筆者は推定している。前掲拙稿「平泉澄不惑について」参照。

(89)   『悲劇縦走』五三九〜五四六頁。

(90)   『同』四七〇頁。

(91)   『同』四六五頁。

(92)   『同』四〇六頁。

(93)   『同』四〇四〜四〇五頁。

(94)塾生による塾の想い出の記録は、『日本』の様々な号に掲載されている。『日本』は日本学協会の発行する平泉直系の月刊誌である。

(95) 『悲劇縦走』二二〜二三頁。一一六頁参照。

(96      )阿川弘之『井上成美』、新潮文庫(原著一九八六年)、一三八頁。

(97      )阿川弘之高松宮と海軍』、中公文庫(原著一九九六年)、三一頁。大井は名著『海上護衛戦』を執筆した元海軍大佐であり、自由闊達な直言を信条とする人物であった。

(98)   『悲劇縦走』三一四頁。

(99)   『同』六二二頁。

(100)同学集団の鍛錬所である千早存道館については、千早委員会編『存道―千早鍛錬会の足跡』、日本学協会、二〇〇四年参照。戦後の各地での講演と交流については、平泉澄『山河あり』、立花書房、一九五七年。『続山河あり』、立花書房、一九五八年。『続々山河あり』、立花書房、一九六一年に詳しい。

(101)名越時正「平泉先生の日本学といはゆる水戸学」『神道史研究』第三三巻第一号(一九八五年一月)、八三頁。

(102)平泉澄「闇斎先生と日本精神」(一九三二年)、平泉澄編『闇斎先生と日本精神』、至文堂、一九三二年、三四〜三五頁。『先哲を仰ぐ』にも所収。なお、平泉の崎門への評価については、近藤啓吾「平泉博士と崎門学」『神道史研究』第三三巻第一号(一九八五年)、六五〜八二頁参照。『悲劇縦走』二八五頁。

(103)竹山道雄「手帖」(一九五〇年初版刊行)『昭和の精神史』、講談社学術文庫、二八七頁。

 

おわりに

 

  竹山は、革命運動であれ革新運動であれ、あるいは軍部の超国家主義であれ、倫理性も創造性も生み出さず、主体性も生み出さなかったとし、しかも敗戦後も変わらずに、ただ流されていくだけの日本と断じてこう述懐した。

 「戦争があったから、そのために戦後の頽廃がおこった、と考えられている。しかし、むしろ戦前の頽廃があったから、それで戦争になった、ということはできないものであろうか?  封建的残滓を蔵しながら、いびつに近代化して変質した軍が、やはり封建的残滓をもちながら畸形に近代化して乱脈におちいった社会を、支配したのだった。封建性のよさも失われ、近代のよさもできあがってはいなかった(104)」。

  それは平泉澄も、そして丸山眞男も痛憤し憂慮した実感であろう。この実感に抗うために平泉は、振り返って江戸期との思想的連続性を再建しようとしたように思われるのである。その結果、平泉の信仰する日本には、近世的な特徴が厚く塗り込められ、儒学的な特徴が色濃く現われることとなった。つまり平泉の日本とは、倫理的で政治的、一面では合理的な世界なのであり、中世的な宗教の非合理性を排し、上代的な文化の非政治性を糺し、多様な伝承を体系的に整序せんとする世界に他ならなかったのである。近世の史眼をもって日本史を解釈し、闇斎学をもって学問の本義とし、それらを昭和に復活させんとする平泉は、近代国家の危機を克服せんとする歴史神学者として登場したのである。

  ただし、それをもって平泉が現実に、昭和前半の黒幕であったとするのは過大評価である。いかに人脈があるとはいえ、平泉の職分は、畢竟、東京帝国大学教授としての教育研究にあり、政治制度の直接の立案や運営の衝に当っていたわけではない。もとより平泉にすれば、自己の歴史神学が国家的祭儀に具現化されることを願ってはいたであろう。しかし、短期間にはそこまで実現しえず、また敗戦によってその夢も中断され、平泉は故郷へ帰る。多くの人々は平泉への信頼をさらに高め、銀座に研究室を整えて、その出講を請じたのは昭和二九年のことであった。戦後も多くの人々が平泉を助け、平泉も精力的に活動する。しかしやがて昭和四九年、平泉は再び故郷へと帰る。

 「三十年代の初めまでは、伝統は強く残ってゐたが、この清純の気風は、所得倍増の掛声によって次第に薄らいで行った。人々の好意友情は感謝に堪へないものの、所詮戦後の世の中は、私と相容れざるもの、東京滞留二十年に及んだのが寧ろ不思議であった(105)」。

  ここで平泉の言う伝統とは、江戸期からの様々な連続性だったのではないだろうか。その遂に途切れるや、平泉への反響もまた弱まっていったのである。高度経済成長は、戦国時代以来の連続性を持つ農村社会までをも突き崩し、江戸期の名残りのどこにも見出せなくなった時、平泉は平泉寺白山神社へと帰郷した。それは言わば、現世から後世への道行きであり、福音の伝道書と学統の継承者を後世に残すための帰還でもあった。歴史神学者の帰郷は、永遠への旅路なのである。

  平泉は、昭和五九年二月一八日に数え年九〇歳にして帰幽した。その生涯の要点は、神葬祭における斎主祭詞に述べ尽されており、われわれはその一節を、ここに引用したいと思う。

 「先生はしも、明治二十八年二月十六日に、かけまくも畏き、白山妙理大権現に、代々仕へまつり来れる、平泉の家に生れ、平泉の清き真清水に洗はれ、育まれたまひて、百年に一人だも無き才を抱きて、歴史の学びに入らせたまひ、広く探り考へ、細やかに究め明かし、目は隈無く深く晴れたる大空の高きに遊ばしめ、心は海の底の深きに置きたまひて、批判は厳しく、理解は温かに、挙ぐるに遑も無き著書論文講義の数々を以ちて、前にも後にも比ひ無かるべき、新しき境地を拓き、東京帝国大学文学部国史学科の主任教授として、学界を導きたまひしが、革命思想の蔓り浸み透りゆく  皇国の今将来の危き状に、早くより深き憂へを懸けたまひ、ヨーロッパ・アメリカの国々をさへに廻り学びつつ、世界の歴史の限りを、広く深く見通したまひけるに、淀みに浮ぶ泡沫のかつ消えかつ結びて、留まること無きがごとく移らふ中に、磐石なす、かけて動くこと無く易ること無き  皇国の道を見出でたまひ、その道を生命を懸けて継ぎ守らしし、もろもろの先哲たちの学問のさまを、心を尽して究めたまひ、説き示したまひて、尊き辺りを始めて、政事の重き司とある人々、軍人学者教育者実業家より、遍く市井の人々に至るまでに、日本人たる自覚を喚び起し、生活の支へを与へたまひたればこそ、昭和の御代の、嶮しく悲しき御代に、なほ  皇国の光有る、命脈の絶ゆることの無かりしか。この事どもの、殊に重き極みに至りては、固く秘めて語りたまはず。年々に人々を率いて、夏には大楠公を祭り、秋には山崎闇斎先生を祭り、唯その冥助を乞ひ、鉄槌を下したまへとのみ祈りましし、その敬み深く穢れ無き、ひたすらなる誠の御心ぞ、高く貴く仰がるることなりける。

  御教蒙りたる人は、数限りも有らざるに、黒木博司少佐を始め、大東亜戦争に生命を献げたる人も、また少しとせず。然かはあれども、戦敗れたる後も、なほ青々塾有り、千早の存道館有り、日本学協会有り、友有り同じ道を行くと、努め励む人々力を協せて、回天の働き有らむとすれども、力足らぬにや  皇国の現状、年を追ひて浅ましき状に成りもて行くを、痛く憂へ歎かせたまひつつ、細く痩せたまへる御身を、更に消耗らして、国の果てまで隈無く足を運び、懇に人々を倦まず導き教へたまひ、殊に近き年頃、力のことごと傾け尽して著しましし、少年日本史・日本の悲劇と理想、並びに悲劇縦走こそは、偽りを正し、正しきを明らめ、人々の眼の霧、心の雲を、吹く風のごと打ち掃ひやりたまひて、誠実と勇気とによりて  皇御国の再び興らむ導きの光ならめと仰がれたまひ、また今この御国にこの人有りて、なほ御国は安けかりとさへ思はれたまひしに、人々の思ひもかけず、忽ちに隠りたまひ、銀の御鈴なす、清く透れる御声を、現に承らむ由は、もはや無くなりにたるぞ、口惜しき事の極みなりける(106)」。

  われわれは、この平泉澄を歴史神学者と規定し、その存在理由と、その論理を解析しようと試みてきた。すなわち、平泉歴史神学とは、日本における近代国家の精神的機軸の問題に応答し、近代におけるネイション意識と国家の問題に応答する現代の理由を持つものであり、信仰に照明せられた理性の体系を、日本史の基本的な構成として論理化せんとするものに他ならないと規定してきたのである。そしてわれわれは、その日本史上における実際の根拠が、実は近世にあり、具体的には山崎闇斎学派にあると推測し、平泉歴史神学とは昭和における崎門復活の試みであるとの規定を行った。さてそれでは、日本史上における崎門の意義とは、一体何であっただろうか。丸山眞男の分析に聞いてみよう。

 「わが国における儒学移入の淵源の古きにもかかわらず、また日本近世の程朱学の複数的な源流にもかかわらず、程朱学を理論と実践にわたる世界観として一個一身に体認しようと格闘した最初の学派は闇斎学派であった。……「ハズミ」はたしかに崎門の俊傑たちを、それぞれの仕方で「行き過ぎ」させる動力でもあった。けれども、この行き過ぎによって闇斎学派は、日本において「異国の道」―厳密にいえば海外に発生した全体的な歴史観―に身を賭けるところに胎まれる思想的な諸問題を、はからずも先駆的に提示したのではなかったか。そこに闇斎学派の光栄と、悲惨があった(107)」。

  この丸山の分析は、平泉歴史神学に及ぼされるべきであろうか。その当否を考える際に、われわれは、正統と異端の問題と、忠誠と反逆の問題へと足を踏み入れることとなる。それは平泉歴史神学の正統性の問題であり、平泉の終戦時の行動への評価となると同時に、丸山に生涯つきまとった世界観的生の呪縛の問題と、丸山の日本への反逆の評価となる。しかし本稿の課題はここで終わり、それらは別稿に譲ることとしたい。

(104)竹山道雄「手帖」、二九九頁

(105)平泉澄『家内の想出』(一九八二年一二月二一日)、私家版、一九八三年、二七頁。

(106)斎主の大任は平泉生前の指名により、谷省吾皇学館大学神道学科教授(当時)が勤め、この祭詞も谷氏のものである。なお引用は、田中卓氏が宣命体を訓読文に改められたものに拠った。田中卓平泉澄先生の神葬祭に参列して」『平泉史学と皇国史観』、二五〇〜二五二頁。谷省吾『神道  その探求への歩み』、一六〜一八頁も参照。

(107)丸山眞男「闇斎学と闇斎学派」(一九八〇年)『集』一一―三〇六〜三〇七。〔付記〕本稿は、平成一三年度〜平成一四年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(一)課題番号一三六二〇〇九一)による共同研究の成果の一部である。

 

この資料は、植村和秀氏による平泉澄博士に関する研究書であるが、インターネットからのpdf書面をワード化し新たに提出するものである。

このように平泉澄博士の論考に関するものを提出する目的は、小拙の最初の師である稲川誠一先生の恩徳に報いる目的の一貫としてのものである事を記す。(2023年・タイ国にて)

稲川誠一(1926―1985)七高で久保田収、東大で平泉澄に師事。日本中世史を専門とし、『新修大垣市史』の中世の部分を担当し、また岐阜県内の東大寺領荘園の研究に従事。日本教師会会長などを歴任している。(ウイキペディアより転載)

林下幽閑の記 平泉澄

     林下幽閑の記

平泉澄

 

 形の上より之を見れば、私は今日最も不幸な者の一人とも考へられるであらう。前には勅任官であつた。今は一野人である。前には十分に俸禄を給せられてゐた。今は収入皆無である。曾ては賓客の来訪頻りであつて、しかも其の中には大臣あり大将あり高位高官の人が多かつた。今は稀に門人の遠く来り訪ふのみで、数日に亘つて人を見ない事が多い。曾ては外出に多く自動車を用ゐた。今は無論徒歩であるばかりでなく、靴や下駄にさへ事を欠く有様である。実際戦災者として配給を受けた兵の下着を着用して、草履をはいて、破れた籠を腰につけて、うしろの谷間に下りたち、蓬を摘み、蕗を採つて、下手な畠作りを補ひ、わづかに飢を凌いでゐる私を見る人は、之を沈淪と観じ、落魄と断ずるに相違ない。そして日々静かに祈りを捧げ、鳥居の前の草取りをしつゝ神に仕へて、その神徳の一端を宣べようと、村人の病気を治療しつゝあるのを知っては、人々はバルザックの「村の牧師」を連想するであらう。いふべくば正に是れ懺悔の生活である。戦勝の日には直ちに官を辞して、戦死した同学を弔いながら、全国行脚の旅に出たいと思つてゐたのが、国の厄難に遭遇して山に籠り、お詫びの為に心身を苦しめてゐるのである。人々が之を憐むべき者と見るのは当然であらう。

 然し一方よりいふならば、私は最も幸福なる者である。煩はしき声名利慾の外に在つて、静かに山に憩ひ水に遊び、優游自適の日々を送つてゐるからである。三十余年都塵にまみれて、心ならずも背いてゐた自然のふところに帰り、日々に変つて極まりなき其の美しさを、飽かず眺めくらしてゐるのである。私は寧ろ之を感謝しなければならない。

 私が感謝するのは、私の一生の中で、丁度最適の時期にこの大変化に遭遇したといふ事である。若し之が三十四十少壮の日であつたならば、十分に力をのべ、心を尽くして御奉公する事の出来ないうちに、結局為すなくして葬り去られるといふ事になつたであらう。それは如何にも残念至極といはなければならぬ。また若し之が六十七十老衰の時であつたならば、折角自然のふところに帰つたとはいふものゝ、山道を登る事も、谷底に下りる事もむつかしく、わづかに杖にすがつて遠望にあまんずるの外は無かつたであらう。しかるに私は五十一歳にして此の大変にあひ、山にこもつて半年ばかりこそ、心身の過労、殆んど病人のやうであつたものの、次第に回復もし、適応もして、今では一生のうちで最も健康な日々を喜んでゐるのである。曾て白楽天が、

  五十未だ全く老いず、

  尚しばらく歓娯すべし、

  これをもつて日月を送る、

  君以て如何となす、

と歌つた句は、そのまま私にあてはめていゝ。白楽天は更に別の詩に於いて、この喜びをくはしく述べてゐる。

  三十四十、五慾牽き、

  七十八十、百病纏ふ、

  五十六十、却って悪しからず、

  恬淡清浄、心安然たり、

  已に過ぐ愛貪声利の後、

  猶在り病羸昏耄の前

  未だ筋力の山水を尋ぬべき無くんばあらず、

  尚心情の管絃を聴くあり、

  しづかに新酒を開いて数盞を嘗め、

  酔うて旧詩を憶うて一篇を吟ず、

私はその一句一句、身にしみて之に感ずるのである。そして此の白楽天が、古人に於いて陶淵明を慕ひ、先輩にあつて韋蘇州を尊び、その高玄清閑を讃美した態度を、ゆかしく思ふのである。

 しかし実生活の上よりいへば、私はやはり陶淵明を思はざるを得ない。忽忙のうちに後事を処理して東京を辞し、郷里にかへつた時に、最初に読んだものゝ

一つは「帰去来の辞」であつた。そして少年の日より読みなれた此の一文に、曾て味ひ得なかつた興趣を覚え、殊にその末尾の一句、「かの天命を楽んで、またなんぞ疑はむ」といふを喜んだのであつた。 

 陶淵明が「帰去来の辞」をつくつたのは、その四十一歳の時であつたから、私の退隠に比して十年も早い。その点に於いて彼は不幸であつたといはねばならないが、不幸なるはそればかりでなく、その帰り来つた旧宅が、決して安住の地でなかつたのである。即ち帰つて四年にして火災にあひ、一切烏有に帰したのである。よつて翌年南村に居を移したが、居を移し、村を易へたといふのであつて見れば、その郷里に於ける根蔕(土台)は、むしろ薄弱であつたのではあるまいか。現に彼は、「人生根蔕無し、飄として陌上の塵(ちまたの塵)の如し」と歌つてゐるのである。

 その点では私は世にも類稀なる仕合者といはねばならない。わたの家は遠く遡れば養老の昔にその基礎を置いて居り、村に於いてはその根幹をなすものである。中世の屋敷は、南谷にあつたといふが、私は捜索して未だ的確にどの土地であるかを知り得ない。現在の屋敷は、もと今天神の社であつたところで、此処に移り住んだのは慶長二年(1597)の事であつて、慶長年間築造の庭は現に存してゐる。建築の方は安永五年(1776)に一たび火災にあひ、同七年に再建せられた。即ち今の家は安永七年に作られたものである。

 安永七年といへば今より百七十年ばかり前(昭和23年当時〔筆録者・注〕)の事である。イギリスであ、ドクター・ジョンソンや、エドモンド・バークの出た時代、ギボンの『ローマ衰亡史』が陸続として公刊せられた時である。ドイツでは、ゲーテがワイマールに在つて政務に携はつてゐた時で、そのイタリヤへ向つて出発したのは、この年より八年後の事である。而してアメリカに於いては、その独立宣言のわづか二年後に当り、丁度独立がフランスによつて承認せられた年である。ギボンやゲーテといへば、それ程にも感じないけれども、アメリカ独立の二年後といふを聞いては、人は今昔の感に堪えないであらう。

 百七十年の星霜は、幾多の人を送迎した。幾多の人の希望と喜悦と悲哀とを経験した。幾多の国家が、この間に興亡し盛衰した。しかるに、それらのあわたゞしい変化推移をよそに見つゝ、此の家は黙々として立つてゐるのである。いや此の家とても、時勢の影響を受けないわけでは、無論なかつた。現にその正門である薬医門は失はれて板塀となり、曾て門番の住んでゐた長屋の跡を通用門として出入りする事になつてゐる、三間に二間の玄関も、五十畳敷の応接の間も失はれて、正門からの歩道は、石を畳んだ上に美しく苔蒸して、徒らに一つの装飾と化してゐる。四間に六間の書院も無くなつて、その跡今は庭となり、数本の桜が植ゑられてゐる。土蔵は三間に四間のもの二棟並んでゐたが、今はその跡畠となつて、茄子や黄瓜が作られてゐる。西の高台には、観月楼といつて、風流な楼閣があり、母屋の二階から橋を渡つてこゝに登れば、廊下を廻ると見るうちに、いつの間にか二階へ出る仕掛になつてゐたさうであるが、これも失はれて了つた。それどころではない。母屋自体が既に大きな変化である。即ちそれは七間に十二間の建物であつたのが、その後半を削られて、今は七間に五間になつてゐる。このうち観月楼のみは慶応年間に取払はれたのであるが、その外はすべて明治初年の処分である。田畠山林悉く上地せしめ、土地人民に対する支配権を奉還せしめた維新の大変革が、この家に与えた影響は、実にかくの如く深刻であつた。記録の上で之を見れば、何といふ痛ましい打撃であらう。手ももがれ、足ももがれたといつていい。しかし歳月と自然とは、七十年の間に、其の傷痕に十分の手当を加へた。杉や松や桜や柿が、あちこちに繁つて屋敷を飾り、人の感傷を慰めるやうになつた。いや明治以前の人は今は殆んど無くなつたので、昔の規模の大さを知る者とて無く、昔の大さを知らねば、現状を見て歎息する筈も無いのである。沿革を無視して現形を見れば、是れ猶豪壮の邸宅」といつてよい。棟の高さは七間もあらうか。箱棟の先端に大きく家紋が彫られてゐる。紋は鬼梶である。その下の唐破風(からはふ)といひ、格子といひ、いづれも装飾少なく簡素であつて、両側へ流れる屋根の反りに浮薄な曲線の無い事と相俟つて、いかにも厳粛沈着の構へである。二階は横に七間、柱の間には全部欄干を通してあつて、それがまた此の家に威厳を添へてゐる。階下は向かつて右が内玄関、通用門からの石畳はまつすぐにこゝへ向かつてゐる。中央は部屋の障子の外、一帯の出格子である。左方は台所口、石畳は中程から分れて此処へも」向かつてゐる。この入口は、その戸が、外側の雨戸といひ、内側の障子といひ、巨大であつて重いのに人を驚かせる。されば時勢の変遷は、この屋敷の中にさへ、時に渦を巻き風を起したが、しかもこの母屋は、傷つきながら百七十年の星霜に堪へ、世の盛衰を静観してゐるといつてよいであらう。

 汽車を離れる事八里である。町を去つて一里である。村内に在つても隣家と隔たる事、坂の石段を数へて五十数段である。住んで此処に在る時、人は家と共に黙々として静観するの外は無い。殊に冬に於いて然りである。冬はこの山中に在つては頗る長い。それは十一月の末に始まつて、三月の末に至る。雪は百二十日の間、大地を蓋いつくすのである。それは降つては消え、消えては降るのではない無い。降ればそのまゝ消えずに百日以上を通すのである。積る高さは、普通にして三四尺、稍(やゝ)積つて七八尺、多い時には一丈に及び、一丈を越ゆるに至るのである。自然の力の偉大さして人力のいかんともすべからざるものである事を痛感するのは、この大雪の夜に如くは無い。

  長き日も さびしく暮れて 友も無く

   酒も無き夜に」 春雨ぞふる

とは、大隈言道の歌であるが、それは寧ろ甘い寂寥に至つては、満目白皚々、終日白霏々、人の往来を隔絶して、孤影大自然の威厳に対する沈痛至極の寂しさである。梁の王籍が詩に、「鳥鳴いて山更に幽なり」といひ、唐の杜甫が詩に、「伐木丁丁として山更に幽なり」といふは、深山幽谷の静寂を写し出して尽きざる妙味があるが、こゝに北国山中の冬は、雪に明け雪に暮れて、人を見ず、鳥さへ鳴くを聞かず、天地たゞ白一色にして更に他の色を交へざる時、その寂しさは、まこと骨身にしみ透るのである。

 降りつゞく雪の山中にとぢこめられた時に、私共を慰めてくれるものは、火である。雪が降れば降る程、火はあたゝかく、なつかしく、慰藉(いしゃ)となり、希望となり、励ましとなる。実際冬の楽しみ、囲炉裏に如くはない。自在かぎに茶釜ををかけて、大きな榾(ほだ)に小さな柴を」さしそへ、さしそへ、燃えゆく火を見つめてゐる時、見つめて物を考へながら、想を遠い南の国に馳せたり、古い昔を偲んだりしながら、豊かな想像、尽きざる思索に、時のたつのも忘れてゐる時、その楽しみは、到底雪無き地方の人々の知り得ない所であらう。白楽天立春の後、花の漸く開くを喜びながら、

  還つて惆悵の心あり、

  紅爐の火に別れんと欲す、

と歌つたのも、彼が日に親しんでゐた為であらうが、しかしかゝる火の慰めを最も詳密に描き出したものか、ホーソーンの「火の信仰」であらう。彼は所謂発明が、人生の絵画的また詩的美しさを汚し去るを悲しみ、殊に不愉快なるストーブの発明によつて、人々団欒の中心であつた囲炉裏がなくなつた事は、社会生活に於いても、家庭生活に於いても、大革命といはねばならないとして、燃ゆる火の親しみ深き炎を、再び見得ない事を悲しんでゐるのである。しかるに私は今や、昔ながらの囲炉裏に、惜しむ所なく薪をくべて、百日余りを心ゆくばかり火に親しみ得るのである。白楽天も来るがよい。ホーソーンも来給へ。こゝの囲炉裏は相当に大きく、四人や五人のお客があつても、大丈夫である。私が冬の間用ゐてゐる小屏風の交張の中に、

  月花の 名残り咄(はなし)や ゐろり端

といふ父の句があつて、それに右扇といふ人が、

 心おきなう更(ふ)かす 雪の夜

と附けてゐる。右扇は元勝山藩士で、禄に離れてから村へ来て書記を勤めてゐたといふ事であるが、年老いて口過ぎに苦労するのを自ら憐んで、左団扇(うちわ)の反対に右扇と号したのでもあらうか。ともかく此の句に対してゐると、浮世の栄辱を離脱した神官と老翁とが、ゐろりを囲んで春秋の興趣尽きざる想出話に夜をふかしてゐる有様が、目に見えるやうである。私は昭和十五年の二月に、丈余の雪に降りこめられて、勝山の旅館に数日の滞留を余儀なくされた事があつた。雪が深いので交通は一切杜絶する。自ら動く事も出来ないと同時に、人の来る事も不可能であつて、明朝の来客を慮る必要はない。そこで朝寝を覚悟で興に乗じて書物に耽り、窓の漸く白むに至つて巻を閉づる事、屢々であつた。私はその数日を、悤忙勤苦(そうぼうきんく)の一生のオアシスであらうと思つた。しかるに今や時勢の激変は、私を永く其のオアシスの中に閉ぢこめてくれたのである。

  夕烟 今日は今日のみ たてゝおけ

  明日の薪は 明日採りて来む

とは曙覧の歌であるが、春夏のうちに用意して一冬の薪は貯へてあるのであるから、明日の薪も憂ふるに及ばぬ。興に任せて夜を更かし、読み耽り、語り明かして、差支へないのである。かゝる夜の火の燃えやうの面白さ、或は舞ふが如く、踊るが如く、或は飛ぶが如く、這ふが如く、鉄砲のはじくが如きもあれば、騎馬の駆けるが如きもあつて、千態万様、変化極まるところが無く、正にこれ自然の演劇、名手不思議の演出である。

 茶釜の水は、何処に之を汲むか。それは流しに流れ落つる筧の水を汲むのである。筧の水は、二六時中、春夏秋冬、不断に流れ落ちて、曽てその音を止めない。それは閑寂なる我が家に於ける唯一の音響である。しかもそれは決して喧騒でなく煩雑でない。いふべくは此の水声のあるあつて、此の家更にしづかなりと言えるであらう。筧は蜿蜒として二町余、森の中を過ぎ、石垣の上を伝はり、時に潺湲(せんかん)の声を立て、時に淙々(そうそう)の響を伝へ、最後に龍頭(りゅうず)より落ち、地下を一くゞりして、さて此の家に流れ込むのである。その源は即ち平泉、神域の中に於いても最も神聖なる所として、尊び、且つ畏れられて来た泉である。即ち今を距る事一千二百年、養老の昔、神影この泉の中の小島に出現」し給ひ、之を拝して神容を写し、木に刻んでお祭りしたのが、此の白山社の起原と伝へられるのである。アシジの聖者サン・フランシスは、神に祈つて山に泉の涌出を見、渇きの為に死に瀕してゐる人を救つたと云ふが、この平泉の神泉も、考へれば実に不思議である。といふのは、この村の水は概して良くなく、どの家へいつても井戸の水は浅く且つ濁つて居り、味もよいとはいへないのである。しかるに唯一つ、此の神泉のみは、深く巌の中より涌き出でて、清冽夏も氷の如く、底の底まで澄み徹つて、曽て濁るといふ事なく、手に掬めば手は冷たさに痺れるが、口に含めば殆んど甘露の味がするのである。

 一体水の味などは、若い時には到底分るものでは無い。ラムネやサイダー、紅茶や珈琲などを喜んでゐる日には、水はどれもこれも一種一様で、単純無味なものと思hがれるのである。私も以前はさうであつた。しかるに今稍老境に入り、座右に大火鉢を備へつけて、寒椿と銘うつた鉄瓶をいつもたぎらせ、書見の段落ごとに茶をたてゝ、しづかに之を味ふやうになつて見ると、水は決して一種一様では無い。あるものは清く、あるものは濁り、或は甘く、或はからく、或は渋味があり、或は香りがあつて、実に複雑多様である。古来茶人が水をやかましく品評して、京にては加茂の御手洗川を第一とし、飛鳥井、常磐井、明星水、柳の水などを賞味してゐるのは、いかにも尤もな事とうなづけるのである。幸なるかな、今の私は、白山の神の御恵みに浴し、そのみたらし、即ち此の平泉に湧き出づる清き水の流れをいたゞいて、朝夕その甘味を汲む事が出来るのである。水を識る者は誰ぞ。石清水の松花堂か、京の庸軒か、はたまた宋の蘇東坡か。私はそれら趣味の達士を招いて、共に此の神泉を味ひ、神徳を讃へたいと思ふ。

 さて筧の水は、途中に分れて庭の北山に小さな瀧をかけ、瀧は流れて大きな池に落ちるやうになつてゐる。一体この庭には古い池が二つあつて、庭の正面東方にあるは水を堪へず、側面北側にあるものだけが漫々たる水に鯉を泳がせてゐるのである。その水のある池も無論面白いが、水の無い池に却つて言ひ知れぬ趣が存する。それは左方に巨巌を重ねて飛瀑の状を写し、やがて石橋を渡して渓流奔湍を想はしめ、遂に大きく開いて中に奇巌を擁し、浪その裾を洗ふ趣を示してゐる。即ち岩石の配置によつて水の存在とその動態を想像せしめてゐるものであつて、いはゞ一つの象徴詩である。もとよりそれは京都の龍安寺の庭のやうに、一本の木もなければ草も無く、たゞ夫れ土塀に囲まれた坪の内に、白い砂を一面に敷きつめて、十五個の石をそここゝに配置したといふ徹底したものではない。徹底した石の庭ではなくて、草木の助けを十分に借り、それによつて人の想像を豊にしてゐるのである。たとへばその島になつてゐる奇巌―これは土地生え抜きの大巌石であらうが、それを巧みに利用した上に、これに多少の木を植ゑて、風趣を一段深からしめてゐるのである。

 石に目を着けて庭を見渡す時には、正面の山の上に立つてゐる本尊石及び之に従属せるいくつかの石もまたよいといはねばならぬ。本尊石といふものは大切なもので、少年の日には何とも思はなかつたが、段々気がついて見ると、庭の品格はこの本尊石できまると言つてよい。しかもその本尊石のよいのは中々無いもので、大抵の庭ではこれが大きすぎる。石が大きくて庭が小さい時には、何となく落着きがなくて借り物のやうである。また石がたゞ肥大であつて風趣に欠けてゐる時には、成金のやうな浅薄さを感ずるものである。しかるに此の庭の本尊石は、庭の割合に小さくて誇揚恫愒(こようどうかつ)の嫌味がなく、簡素であると同時に圭角(けいかく)もあつて、どことなく高士超俗の趣を存してゐる。

 石のついでに述べて置きたいのは、石塔である。この庭には小かげ藪かげにいくつかの石仏があつて、それには延徳とか、永正とか、天文とか四百数十年前の銘が刻んであるが、目ざましいのは永享六年(1434)の五重の石塔である。これは元御手洗池即ち平泉の傍にあつたのを、明治維新の際に此の庭に移したものである。当時石塔は二つあつたが、一基は福井初代の藩主黄門秀康賞美の余り所望してもちかへり、福井城外郭の別荘所謂お泉水に

之を置いたといふ事で、先年まで存してゐたが、一昨年の戦災にどうなつたか、私はまだ其の現状を審にしてゐない。残された一基は現に此の庭の丑寅の隅、椿の丘の中腹に立つてゐる。永享といへば今から五百年も前の事であつて、イギリスでいへばチョーサー逝いて三十余年といふ時分、セクスピーアの出現にはまだ百数十年を要する頃であるから、此の古塔に対して東西の歴史を考へると、是れ亦興味津々として尽きないものがある。

 水の味ひは、赤ネクタイのよく弁ずるところでは無い。石の趣は、無論ジャズを喜ぶ徒輩の解し得ざるところである。それにくらべては、花こそ万人に好かれ、老若を選ばぬやうに思はれるであらう。それは一応その通りである。しかし仔細に観じ来れば、こゝにも年齢の高下と、心情の深浅とは、大いなる差等を存し、段階をつけてゐる。そしてそれは、年浪の寄るにつれて自然に深まりもし、変つてもゆくのであろうが、生死の難関を透過した時に於いては、一朝にして飛躍するものである。佐久良東雄も、

  あすしらぬ このよとおもへば ちりかゝる

   ゆふべの花の 惜しまるゝかな

と歌つてゐるが、既に幾度か爆撃を受け、火焔の中をくゞり、死生の断崖に危き血路を開き来つて、しかもまた明日の運命計るべからざる監視の中に在つて、私の花を見る目は違つて来た。どの花もしみじみ之を眺めるに、その美しさ言語に断え、その趣、筆に尽くせるものではない。言語に現はし、文字に写さうとすれば、美しいといふの外に、何程の事がいへやう。しかし心の感ずるところに至つては、年若く心浅き日と千里を隔てるのである。

 さて今の私は、その美しい花を、ゐながらにして、此の屋敷に眺め得るのである。父逝いて既に二十年、庭園はいたく荒れた。梅の木も二本まで枯れた。今は最早梅は無いのかと思つてゐたのに、早春雪の中に咲いたので分つたが、前庭に一本、後園に一本、いづれも雪国の事とてヒョロリと痩せて高くのびてゐるが、昼之を眺めて飽かず、月に乗じて夜も眺め、月の無い夜も折々窓をあけると、古人の所謂暗香浮動して、我が魂も亦清められる気持がする。かゝる夜こそ『菅家詠草』をひもとくに最適の時である。

 つゞいて桜である。私は最も桜」を喜ぶものであるが、しかし東京の桜はさして賞美に値しない。それは都会の灰色の空、殊には春の曇り日に、花と空とが似よつた色に融け合つて、花の色頗る鮮明を欠くからである。古人が讃歎賞美して止まず、「うち見れど猶飽足らず、言ひもかね、名づけも知らに、くすしきも、あやしき花か」と歌つたのは、東京の花のみを見る人には、溢美過褒(いつびかほう)とあやしまれるであらう。そこへくると此の屋敷である。上には杉の大樹、四時緑りこまやかであつて、下はまた一面の青苔、庭を埋めつくしてゐる。空はと見れば、ガスの濁りがこの山の中にあらう筈はなく、晴れては碧空、曇つては白雲、いづれにせよダラシなくボヤケたものでは無い。その杉の緑の間に咲いて、その苔の青きに散る桜である。しかもそれが杉の大樹と競つて高くのび、長く枝を延ばして、東西連繫し、南北映発するのである。人事を忘れつくして夢に遊ぶは、実に桜花の候、一旬の楽である。

 牡丹は牡丹でまた面白い。これはまだ余りおおきな株ではなく、この数年一向に咲かなかつたさうであるが、私が帰郷以来丹精して世話した効(しるし)があつて、去年も今年も大きな花をつけた。その新芽が鉄板の如き積雪を割つて出てくるのを見て、私は驚き且つ喜んだ。「満城の人狂せるが如し」とまで唐人に愛されたこの花は、私に与ふるに大いなる教訓を以てし、激励を以てしたのである。

 牡丹の花は少ないが、多いのは薔薇である。これは北側に父が新しく作つた庭があつて、その池の向ひ、梅の枯れ株に凭(よ)りそつて植ゑられたものであるが、去年からの世話が届いたのであらう、開花百を数へる日が多かつた。食膳に向ふとき、戸を押せば、花は丁度私の真正面に眺められる。百に余る薔薇の花が、枝もたわわに咲き乱れ、或は梅の古株にもたれ、或は池の面に垂れてゐるのは、また飽かざる眺めである。

 花を数ふれば、次々に咲いて限りもない。あやめである。桜草である。芍薬である。つゝじである。桔梗である。萩である。木犀である。そして花では無いが楓である。秋の紅葉の頃に来て見給え。庭を蓋ひ、池を埋むる紅葉に、人は京の高雄に遊ぶ思がするであらう。そして紅葉が散れば、今度は山茶花である。四季折々の花の眺め、わが目を楽しませ、わが心を豊ならしむる自然の恵みに、私は心から感謝しなければならぬ。

 花がすめば実である。よつて少しく果実に就いて述べて置かう。しかしこれは余り数が多くない。子供の頃には葡萄もあり、梨もあつたが、これは二つとも早く枯れて了つた。李も二本か三本あつたのであるが、いつのまにか姿を消してゐる。今あるものは、第一に胡頽子(ぐみ)である。これは三株も四株もあつて、そのうちの一株は随分大きい。以前母の里が勝山の町に在つて、その裏庭に大きなぐみの木があり、その実がすばらしく大きく、その味格別によろしかつたが、今この屋敷にあるのは、それの子か孫に当るのであらう。しかし実の大さもそれほどではなく、味も落ちている。その上に、虫がついてゐるのが多くて、余りよいものとは云へない。口に入れてはそれほどでないが、梅雨のはれまに裏へ出て、一面の青葉の中に、紅玉燦々として輝いてゐるのを見ると、何ともいへない嬉しさであつて、初夏の景物欠くべからざるものである。時を同じうして、畠の隅々、草原を飾るものは、草苺である。これは植ゑたものでもなければ、世話したものでもない。雑草と共に一面にはびこつて生えてゐるのである。家内などは初めは棘のある嫌な雑草として軽んじもし、嫌つてもゐたが、梅雨時になつて、宝石をまきちらしたやうに、美しい実がなり、その味胡頽子にまさるとも劣らないのを知つて、今度は大いに肩を入れて世話をしようと言ひ出したから、来年からは一層期待してよからうと思ふ。

 しかし胡頽子や草苺は、やはり景物詩であり、お愛嬌である。大切なものは柿であり、栗である。父は頗る柿を好み、また柿の接木(つぎき)が上手であつたから、一時は屋敷のうちに柿の木を数へて五十本に達した事があつた。それが今は十数本に減つた上に、木も段々老境に入って、実の数も少なく、品質も衰へて来た。しかしまだ元気のよいのもあれば、味のよいのもあつて、これは秋の景物詩である以上に、私には無二の嗜好品であり、且つまた絶好の代用食である。大智の鳳山山居の詩の中に、

  艸屋単丁たり二十年、

  未だ一鉢を持して人煙を望まず、

  千林果熟して籃を携へて拾ふ、

  食し罷んで谿辺、石を枕にして眠る、

といふのがあつて、年来好んで誦する所であるが、起句と結句とは別として、中の二句はそのまゝ当てはまるのが、今の私である。秋になると木食上人も中々よいものだと悦に入つてゐたのは一昨年で、去年は殆んど一つもならず、今道心の木食稍あわてざるを得なかつた。

 ところが、天の配剤の妙は、柿のならない年には栗がなり年となつてゐる。去年は栗の

木がどれもどれも枝も撓(たわ)めと実をつけた。これにも大分変遷があつて、私共が子供の時分に拾つた栗の木は大抵なくなつて了つたが、段々跡継ぎが出来て、今を盛りとするのが三四本ある。之を拾ふのがまた面白い。朝、起抜けに籠を携へて木の下へゆく。夜はまだ明けきらず、藪かげは殊にくらくて、一向に見つからない。そのうちに白々と明けても来、目も段々慣れて来て、見直し見直しすれば、前にも後にも右にも左にもそこにもこゝにも一面に栗は落ちてゐる。無心なつて之を拾つてゐると、パタリと新にこぼれ落ちて来る音に、ハツと我にかへる事がある。栗は焼いてよく、煮てよく、御飯に入れてよく、勝栗にしてよく、土中に埋んで春まで貯へてよい。土中に埋めるというので想出したが、もとは門の前に大きな胡桃の木があつて、つその実を拾ふと、四五升にもなつた。それを土中に埋めて置いて皮を剥がすのであるが、好んで胡桃を食べるのは栗鼠(りす)であつて、木へ登つてとりもすれば、土を掘つて盗みもする、その枝を伝ふところ、掘つて逃げるところは、子供の頃にたびたび目撃したものである。

 昔に変らず今も此の屋敷に親しんでゐる動物がある。それはこの庭をかけ廻る度数からいへば、主人である私よりも多いかも知れず、多いとは云へないにしても、直ちに私に次ぐものといへるであらう。それは兎である。私はまだ其の姿を見付けた事は無い。しかし冬の間兎が毎夜この屋敷をかけ廻りかけ廻りして遊んで居り、時には玄関の階段へまで登つてゐる事は、朝起きて戸をあけた時に発見する縦横の足跡で明瞭である。炬燵(こたつ)に入つて芭蕉の『七部集』をひもときながら、戸を隔てゝ月に乱舞する兎の姿を想ふと、まるでお伽の国に在る心持がする。

 このごろ一向来なくなつたのは、雉や山鳥である。三十年前、私が中学へ通つてゐた頃には、雉・山鳥の美しい群が屢々来てくれた。玄関の先きに大きな多羅葉樹があつて、赤い実が雪の上へ落ちる、それをついばみに来るのであつた。鳥の世界にも栄枯盛衰があるのであらう、雉・山鳥は一向見えなくなつたが、昔見た事がなくて、今屢々見るのは、鷹であり、

木菟(みみづく)である。

 一昨年の夏、山に籠って以来、夜毎に近くの杉の梢に鳴く怪しい声を、何とも判断つかずにゐた。それは丁度赤児の鳴声のやうであつて、それは鷹に違ひない、沖縄では若い者は夜中によく木に登つて鷹を捕へるのであるが、その鳴声は、人間の赤児そのまゝだと教へてくれた。いかにもさうであらう、秋の一日、二階の正面の軒下、古い額のかけてあるところに止つてゐる鳥を見ると、明かに鷹であつた。

 木菟を見附けたのは、最近の事である。六月の初め、夕飯の後、たそがれの庭をボンヤリ眺めてゐると、妙な鳥がヒラヒラと軒近く飛ぶ。その飛び方が、普通の鳥とは違つて、あちらへそれ、こちらへそれ、頗る不気味で、まるで魔物のやうである。之を見る事数回にして、やがて家内は、その静止してゐる正体を見究め、木菟と断定するに至つた。

 梟は、昔も今も変らずに、夜になると杉の梢の茂みの中で鳴いてゐる。曾て神泉に川蝉を見、うちの池に白鷺を見た事があるが、今度帰つてからは、未だ見るに及ばない。その美しい色と姿は、見たい気もするが、来れば池の鯉に危難がふりかゝるのであるから、来てくれない方が安心であらう。その外の小鳥は種類も多く、数も多く、到底一々あげつくす事は出来ない。

 以上がこの屋敷の概観であり、私の生活の実相である。官うぃ辞して野に下り、禄を辞して貧に甘んじ、身には弊衣をまとひ、手には不慣れの鍬をとつて、最もつゝましやかな暮らしを立てゝいる私に、神の授け給うた恩恵の豊けさ、私は衷心之を感謝して止まないのである。罪無くして配所の月を見むと願つた顕基の中納言などは、之を聞いてどんなに羨しがることであらう。

                 (『寒林年譜』昭和三十九年四月、私家版)より

 

バルザック(1799―1850)主な作品―1835年『ゴリオ爺さん』、1836年『谷間の百合』、1836年『ファチノ・カーネ』、1836年『サキュバス』、1841年『村の司祭』。

*白楽天(772―846)―白氏文集巻第八「人亦不少酒酤、髙聲詠篇、什大笑飛盃盂。

五十未全老、尚可且歡娯、用茲送日月、君以為何如。秋風起江上、白日落路隅迴首。」

白氏文集卷第五十一「薄官不卑、眼前有酒、心無苦秖、合歡娱不合悲。耳順吟寄敦詩夢得。

三十四十、五慾牽。七十八十、百病纒。五十六十、却不惡。恬淡清浄、心安然。巳過、愛貪

聲利後。猶在、病羸昏耄前。未無、力尋山水。尚有心情聽管絃。閑開新酒嘗數盞、醉憶舊詩吟一篇。敦詩夢得且相勸不用嫌」

陶淵明(365―427)―「帰去来の辞」―「帰去来兮。田園将蕪、胡不帰。既自以心爲形役、奚惆悵而独悲。悟已往之不諌、知来者之可追。実迷途其未遠、覺今是而昨非。他耳順年」

エドモンド・バーク(1729―1797)

*ギボンの『ローマ衰亡史』―エドワード・ギボン(1737―1794)―「古代ローマ帝国の衰亡を記述した歴史書の古典大作」

ゲーテ(1749―1832)

*大隈言道―江戸時代後期の歌人。父は商家大隈言朝。福岡の出身。池萍堂(萍堂)・篠廼舎、観水居などと号した。二川相近に師事して和歌を学び、30歳代半ばで独自の歌風を築いた。また、広瀬淡窓に師事して漢学を学んでいる。佐佐木弘綱、萩原広道などとも交友があった。門下に幕末の勤王歌人の野村望東尼が居る。

*梁の王籍(南朝斉から梁にかけての官僚)、「鳥鳴いて山更に幽なり」「蝉噪林逾静、鳥鳴山更幽

杜甫(712―770)「伐木丁丁として山更に幽なり」―736年25歳、開元24年、斉州に遊んだ時の作。七言律詩。題張氏隠居。「春山無伴獨相求,伐木丁丁山更幽。澗道餘寒歷冰雪,石門斜日到林丘。不貪夜識金銀氣,遠害朝看麋鹿遊。乘興杳然迷出處,對君疑是泛虛舟。」

*白楽天、「還つて惆悵の心あり」白氏文集巻第八「簷坐、還有惆悵心、欲紅爐火郡中即事漫漫、潮初平熈熈、春日至空闊」

*橘曙覧(1812―1868)―幕末期の歌人国学者。身近な言葉で日常生活を詠んだ和歌で知られる。

*アシジの聖者サン・フランシス(1182―1226)

*福井初代の藩主黄門秀康―松平秀康(1574―1607)徳川家康の次男として遠江国敷知郡宇布見村で生まれた。母は永見吉英の娘・於古茶(長勝院)[1][2]。幼名は於義伊(於義丸 / 義伊丸 / 義伊松)と名づけられた。

*佐久良東雄(1811―1860)―日本の幕末時代の国学者歌人。本姓は飯島。東雄の他の通称に靱負(ゆきえ)、寛、静馬、健雄。雅号は薑園(きょうえん)。尊皇攘夷の志士として活動した。

*「顕基の中納言」(1000―1047)―源 顕基(みなもと の あきもと)は、平安時代中期の公卿。醍醐源氏高明流、権大納言源俊賢の子。官位は従三位・権中納言後一条天皇の側近として仕えた。

徒然草』第五段、「不幸に愁にしづめる人の、かしらおろしなど、ふつゝかに思ひとりたるにはあらで、あるかなきかに門さしこめて、まつこともなく明し暮したる、さるかたにあらまほし。顯基中納言のいひけん、配所の月、罪なくて見ん事、さも覺えぬべし。」

 

これは、タイ国に移住前でのpdf資料を、ワード化し提供するものであり、最後の注*は私(二谷)適宜書き添えたものである。また、このように平泉澄博士の論考に関するものを提出する目的は、小拙の最初の師である稲川誠一先生の恩徳に報いる目的の一貫としてのものである事を記す。(2023年・タイ国にて)

稲川誠一(1926―1985)七高で久保田収、東大で平泉澄に師事。日本中世史を専門とし、『新修大垣市史』の中世の部分を担当し、また岐阜県内の東大寺領荘園の研究に従事。日本教師会会長などを歴任している。(ウイキペディアより転載)

明治の大御代 平泉 澄

明治の大御代

平泉 澄

 

 明治天皇の知ろしめた明治時代は、わが国の歴史に於いて、内治外交ともに、最も光彩陸離たる、いはば黄金時代であつた。古くは延喜・天暦の御代が、聖代としてたたへられて、その聖代に復す事が、政治の理想とせられたが、明治の大御代は、その深刻なる改革の徹底といひ、その雄大なる発展の規模といひ、もとより他に例類の無いものであつた。

 しかも明治の大御代は、直ぐその前の、文久・元治・慶応までが、対外的には萎縮姑息であり、而して内は分裂抗争がつづいてゐたのであるから、その分裂から全国を打つて一丸とする大同団結が生れ、その萎縮から奮起して世界的雄飛となつたのは、殆んど一夜の変異の観があり、之を謎とし、之を奇蹟としても、決して無理では無いであらう。

 慶応三年(1867)正月九日、明治天皇践祚の礼を行ひ給うた。嘉永五年(1852)の御降誕であるから、今慶応三年には、御年十六歳であらせられた。その十月十四日、徳川慶喜上表して、政権の奉還を請うた。その文に、保元平治の乱以来、政権武門に移り、徳川氏に至つて二百余年相承して今に至るといへども、政刑、当を失ふこと少なからず、

  況や当今外国の交際、日に盛なるにより、いよいよ愈朝権一途に出で申さず候ては、綱    紀立ちがたく候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候へば、必ず海外万国と並立すべく候、

云々とある。政権の武門に移つたのは、正に保元平治の乱からの事ではあるが、しかし平家の時代には、平家は朝廷の内にあり、朝廷の重臣として政権をとつてゐたのであるから、外形よりいへば政権はまだ朝廷の内に存した。それが朝廷の外に、別に政府を立て、朝廷を凌ぐ権威をほしいままにするに至つたのは、源頼朝からであつて、時をいへば、文治元年(1185)の冬であつた。それは頼朝みづから十分に意識して、「今度は天下の草創なり、尤も淵源を究め行はるべく候」といつて居るによつて明かである。されば今、慶応三年十月の上表は、文治元年以来六百八十二年の幕府政治を否定し、保元元年(1156)以来七百十一年に及ぶ武家の専横を改めようとするものであつて、正に破天荒の改革といはなければならぬ。

 しかも朝廷はこの上表を許されると共に、猶之を以て足れりとせず、十二月九日、王政復古の大号令を発して、神武創業の始にもとづき、従来驕惰の汚習を一洗すべく、摂関幕府等を廃絶し、仮りに総裁・議定・参与の三職を置かれ、実質的に徳川宗家の政議参与を否定せられた。これ即ち小御所会議の論争起る所以であるが、その会議に於いて、徳川宗家の締出しは、決定的なものとなつた。

 事の行はれた後より見る時は、当然の事が順当に運んだやうに思はれやすいが、将軍みづから大政の奉還を請ひ、朝廷之を許されると共に、徳川宗家、幕府の主脳は、一切今後の政治に関与せしめず、完全に之を締出されるに就いては、幕府に於いても、親藩一門のうちにも、諸藩のうちにも、之を喜ばず、むしろ之を憤つて、武力を以ても之を阻止したいと考へる者がすくなくなかつた。即ち彼らは

  御連枝、御譜代、臣子の面々より論じ奉り候へば、九重(明治天皇)御幼冲、輦下御動   揺の折柄、御祖宗奕世の御大業、卒然一朝御辞解に相成候段、いかでか坐視傍観奉るべき、悲憤痛惋、此事に候。

となげき、

  嗚呼歳寒うして松柏の後凋を知る。誰か幕府と君臣の大義を明にし、むしろ忘恩の王臣ならんより、全義の陪臣となり、益砥不節奮武の目的相立候へば、即ち依然たる徳川氏失はせられず、世運挽回の期もこれあるべきやと存ぜられ候。

と云つた。「忘恩の王臣」は、「徳川家の恩を忘れて朝廷に仕へるよりは」の意味であり、「全義の陪臣」は、徳川家に仕へて朝臣より陪臣といはれようとも、それによつて義を全くしたいといふのである。

 親藩の一つが、かやうに云へば、外様大名も亦云ふ、

  私に於いても、二百余年の御恩沢、いかでか遺失仕るべきや。憚りながら領知差上候と   も、一分の忠勤相励み候志に御座候。

 かやうにして当時二条城に会集する所の諸隊は皆武装し、慶喜の号令一たび下れば、奮進血戦して、二百余年の徳川家の大恩に報ぜん事を期するものの如くであつたといふ。かくの如き状態の下に、将軍の大政奉還が行はれ、更に王政復古の名の下に、摂関と共に幕府を否定し、そして実質的に徳川宗家を追放し畢つた事は、殆んど不思議といふの外は無い。

 不思議といへば、鳥羽伏見の戦も亦不思議である。古来京都の攻防戦、攻める者に勝利あつて、守る者に不利なるを通例とする。木曽の入る時、平家之を防ぎ得ず、義経の入る時、木曽之を防ぎ得ず、承久に関東の軍勢乱入すれば、官軍之を防いで利あらず、元弘に官軍攻入る時は、六波羅やぶれて東走し、延元に足利攻入れば、官軍は防御の法を失つた。京を守つて勝つた例は極めてすくなく、わづかに元治の禁門の変をその著例とするであらうが、それは長州一藩の攻撃を多数の雄藩連合して撃退したに過ぎない。しかるに慶応三年十二月十二日、一たん二条城を出でて大阪に去つた徳川慶喜が、翌明治元年(1868)正月三日、再び兵をひきゐて入京しようとして、鳥羽伏見の戦となるや、幕府の軍勢は一万五千、之を防ぐ薩長の兵数は四千未満であつたのに、幕府脆くもやぶれて、慶喜は海路東帰するの外無かつた。是れも亦不思議の戦である。

 更に驚くべきは、明治四年の廃藩置県である。戊申の役、慶喜の恭順にとつて、江戸は鎮定し、ついで奥羽の諸藩も降り、それぞれ削封の処分があつて、県を置かれた所も多いが、しかも藩の多くは依然として存した。今、明治三年の列藩一覧を見るに、当時の諸藩は左の通りであつた。

   大藩(百万石より四十万石)

 加賀の前田(百二万五千石)、薩摩の島津(七十七万八百石)、静岡の徳川(七十万石)、尾張の徳川(五十六万四千五百石)、紀伊の徳川(五十五万五千石)、肥後の細川(五十四万石)、筑前の黒田(五十二万三千百石)、安芸の浅野(四十二万六千五百石)、以上八藩

   中藩(三十九万石より十万石まで)

 長州の毛利(三十六万九千石)、肥前の鍋島(三十五万七千三十六石)、水戸の徳川(三十五万石)、伊勢の藤堂(三十二万二千九百五十石)、鳥取の池田(三十二万石)、越前の松平(三十二万石)、岡山の池田(三十一万二千九百五十石)、仙台の伊達(二十八万石)、阿波の蜂須賀(二十五万七千九百石)、土佐の山内(二十四万二千石)、久留米の有馬(二十一万石)、秋田の佐竹(二十万五千八百石)、彦根の井伊(二十万石)、松江の松平(十八万六千石)、前橋の松平(十七万石)、郡山の柳沢(十五万千二百八十八石)、松山の久松(十五万石)、高田の榊原(十五万石)、姫路の酒井(十五万石)、豊前の小笠原(十五万石)、米沢の上杉(十四万七千二百石)、盛岡の南部(十三万石)、高松の松平(十二万石)、羽前の酒井(十二万石)、柳川の立花(十一万九千六百石)、佐倉の堀田(十一万石)、福山の阿部(十一万石)、小浜の酒井(十万三千五百五十八石)
、淀の稲葉(十万二千石)、津山の松平(十万石)、弘前津軽(十万石)、忍の松平(十万石)、宇和島の伊達(十万石)、大聖寺の前田(十万石)、富山の前田(十万石)、松代の真田(十万石)、大垣の戸田(十万石)、中津の奥平(十万石)、新発田の溝口(十万石)、対馬の宗(十万石)、以上四十藩

   小藩(九万九千石より一万石まで、ここには一々の石数を省略した)

 土浦の土屋、豊橋の松平、高崎の大河内、河越の松平、明石の松平、古河の土井、笠間の牧野、小田原の大久保、小城の鍋島、宇都宮の戸田、岡の中川、延岡の内藤、宮津の本庄、新庄の戸沢、島原の松平、平戸の松浦、鶴田の松平、岩国の吉川、鶴舞の井上、松本の戸田、膳所の本多、笹山の青山、西尾の松平、中村の相馬、唐津の小笠原、舘林

の秋元、大洲の加藤、亀山の石川、棚倉の阿部、桑名の松平、柴山の太田、上田の松平、岸和田の岡部、久居の藤堂、蓮池の鍋島、丸亀の京極、竜野の脇坂、飫肥の伊藤、村上の内藤、臼杵の稲葉、丸岡の有馬、亀岡の松平、山形の水野、菊間の水野、豊浦の毛利、秋月の黒田、岡崎の本多、三春の秋田、二本松の丹羽、郡上の青山、津和野の亀井、関宿の久世、徳山の毛利、大野の土井、長尾の本多、尼崎の桜井。鯖江の間部、田辺の安藤、三田の九鬼、高槻の永井、新宮の水野、花房の西尾、今治の久

松、沼田の土岐、犬山の成瀬、高瀬の細川、舞鶴の牧野、高遠の内藤、加納の永井、福知山の朽木、杵築の松平、西条の松平、出石の仙台、岩村の松平、安中の板倉、壬生の鳥居、平の安藤、鳥山の大久保、久留里の黒田、高島の諏訪、広瀬の松平、鳥羽の稲垣、館の松前、高須の松平、宇土の細川、陸奥の松平、鹿奴の池田、吉田の伊達、村松の堀、重原の板倉、大村の大村、大田喜の大河内、佐土原の島津、高鍋の秋月、一の関の田村、上の山の松平、園部の小出、水口の加藤、日出の木下、松岡の中山、高取の植村、足守の木下、鴨方の池田、長岡の牧野、刈谷の土井、真島の三浦、岩槻の大岡、勝山の小笠原、松嶺の酒井、人吉の相良、府内の大給、半原の阿部、本庄の六郷、大溝の分部、石岡の松平、八戸の南部、守山の松平、下館の石川、挙母の内藤、赤穂の森、佐伯の毛利、木幡の松平、与板の井伊、今尾の武腰、長島の増山、飯山の本多、高梁の板倉、飯野の保科‘鹿島の鍋島、庭瀬の板倉、柏原の織田、伊勢崎の酒井、岩崎の佐竹、綾部の九鬼、泉の本多、亀田の岩城、新見の関、黒羽の大関、天童の織田、西大路の市橋、飯田の堀、結城の水野、矢田部の細川、竜岡の大給、佐貫の阿部、佐野の堀田、福江の五島、矢島の生駒、須坂の堀、神戸の本多、小諸の牧野、鶴牧の水野、岩村田の内藤、豊岡の京極、三日月の森、生坂の池田、若桜倉の池田、湯長谷の内藤、伯太の渡辺、山上の稲垣、萩野山中の大久保、宮川の堀田、一の宮の加納、土佐の支藩山内、成羽の山崎、森の久留島、田原の三宅、三上の遠藤、六浦の米倉、加知山の酒井、多古の久松、大田原の大田原、小久保の田沼、峰山の京極、小泉の片桐、菰野の土方、足利の戸田、三根山の牧野、大網の米津、村岡の山名、福本の池田、西端の本多、岡田の伊藤、志筑の本堂、山家の谷、苗木の遠山、牛久の山口、七日市の前田、堀江の大沢、田原本の平野、麻田の青木、麴山の酒井、柳本の織田、新谷の加藤、平戸新田の松浦、小野の一柳、米沢新田の上杉、宍戸の松平、但南の高木、三池の立花、黒石の津軽、芝村の織田、三草の丹羽、野村の戸田、三日市の柳沢、千束の小笠原、母里の松平、西大平の大岡、高富の本庄、清崎の松平、多度津の京極、安志の小笠原、柳生の柳生、吹上の有馬、生実の森川、椎谷の堀、林田の建部、小松の一柳、浅尾の蒔田、桜井の滝脇、小見川の内田、館山の稲葉、櫛羅の永井、高徳の戸田、下妻の井上、高岡の井上、麻生の新庄、清末の毛利、山崎の本多、黒川の柳沢、七戸の南部、喜連川の足利、

以上二百三十二藩

 

今その石数を計るに、大藩五百十万四千九百石、中藩七百二万五百三十二石、小藩六百五

十五万四千百二十三石、以上全部を合計すれば千八百六十七万九千五百五十五石となる。是等の諸藩、版籍奉還と称し、大名の名を改めて藩知事といふにしても、多年土地人民を私有し、世襲の勢、牢固たるものがあつたのに、明治四年七月十四日、突如として之を招集し、只一片の辞令を以て、一切之を免職せられたのは、真に空前の大改革、未曾有の重大事といはねばならぬ。而して当時の詔書にその目的を述べて、「内以て億兆を保安し、外以て万国と対峙せん」が為である事を明かにして居られるのは、期する所、雄大豪快、明治四十五年間の大飛躍、大発展を約束せられたものといつてよい。 

 廃藩置県の大事を、いはば写真を見るが如くに、ありありと我等に情景を示すもの、グリフィスの『ザ・ミカドス。エムパイヤ(Griffis The Mikados Empire)』に若くは無い。彼れは明治四年十月一日、越前福井に於いて、藩主が藩の廃止を告げ、藩士に訣別する式に参列するを許された。彼れは記していふ、

 是の日早朝より、侍は裃を着用して、城内の大広間に集合し、訣別の用意をしてゐた。私  が入つていつたのは、九時であつた。私は此の印象的な光景を決して忘れないであらう。部屋部屋を仕切る襖(ふすま)はすべて 取払はれて、一つの大座敷となつてゐた。それぞれの地位階級によつて並び、儀式用のこはばつた装束をつけ、月代(さかやき)を剃り、

 髻(まげ)を結ひ、正座して前に一刀を立て、その柄(つか)に手をかけてゐる福井一藩の侍は、総数三千と注せられた。彼等は頭を垂れてゐるが、事の重大さを感じて胸中には

 万感往来してゐる。それは彼等の封建君主との訣別以上のものであつた。それは過去七百年間、父祖代々生きて来た制度の厳粛なる葬式であつた。彼等は或は過去を回想し、或は未来を模索するかの如く、瞑想的であつた。 

  私は彼等の心が読めたやうに思つた。刀は侍の魂である。しかるに今やそれは、商人の

 インク壺と元帳とに座を譲つて、名誉を奪はれ、無用の道具として棄去られるべきであるか。武士は今や商人にも劣るものとなつたのであるか。名誉は金銭に若(し)かないのであるか。日本の魂は、日本の富を吸取りつつあるむさくるしき外国人と同列にまで低下せらるべきであるか。我々の子供は将来どうなるのであるか。彼等はあくせくと働いて、おのれのパンを得なければならないのであるか。我等の世襲の禄高が廃止せられるか、又は乞食へのめぐみ程に減額せられる時、我等は何とすべきであらうか。名誉ある武士の子孫として、その血と魂とを継承せる我等は、希望も無く一般民衆の中に混入しなければならないのであるか。商家に娘を嫁せしめるよりは、むしろ名誉ある貧困の中に餓死するを欲した我等も、今やその生命を救ひ胃袋を満たさんがために家族の縁をけがさなければならないのであるか。我等の将来は一体どうなるのであるか。

  主君の出座を待つ家臣の顔は、かやうな思案で曇つてゐるやうに見えた。やがてその主君の来られた事が告げられると、その後は、一本の針を落しても聞えるだらうと思はれる静粛さであつた。

  福井藩主越前侯松平茂昭公(明日よりは単に一人の貴族となるべき)は、広い廊下を通つて大広間へ入つて来られた。公は恐らく三十五歳、厳格な容貌であつた。その袴は紫の襦子、着物は白の襦子、羽織は濃い鼠色の絹で、背にも胸にも徳川一門の葵の紋が縫取られてゐた。その腰に帯びたる脇差の柄は、純金で飾られてゐた。白足袋をはいたその足は、畳の上を音も無く進んだ。その通るや、人々は頭を下げ、刀を伏せて右側に置いた。公は外には現はさないが、深い感動で、家来の列の中を進んで、大広間の中央へ来た。家老が簡潔にして荘重なる告示を読上げて、藩の歴史、主従の関係、明治元年の御一新によつて、王政の復古するに至り、藩の廃せられた事を、簡単に、しかし雄弁に述べた。その結論に於いて、公はその家来がすべて、今後は天皇と皇室とに忠節をつくすやう厳命した。そして各人の成功と幸福とを祈りつつ、上品にして適切なる言葉で、厳粛なるお別れの挨拶があつた。

  侍の側では、一人が代表として答辞を述べ、元の君主に対して懇切なる感謝を捧ぐるとともに、今後は天皇と皇室とに忠節をつくす事を誓つた。儀式はここに終つた。前藩主と家老とは城を去つた。

  その翌日、前藩主は、多年住み馴れた福井を引上げて、東京に向ふ。人々は名残りを惜しんで群集し、その熱心なる者は、あとについて武生(たけふ)までも随行する。封建制度の最後の日の姿の、如実の描写として、グリフィスの記述は、千金の価をもつ。

 

まことに雄大にして深刻なる大改革であつた。されば当時英国公使パークスは、之を聞いて驚歎し、ヨーロッパに於いてかくの如き大事を成そうとすれば、幾年かの兵力を用ゐなければなるまいに、日本に在つては、天皇詔書一たび下れば、忽ち二百余藩の実権を収め得るといふは、世界未曾有の盛時であつて、天皇は真に神の如し、人間の企て及ぶ所ではない、と云つたといふ。正にその通りである。七百年にわたる因襲であり、現に今、明治四年に於いて、藩をかぞへて二百八十、石数をつもれば千八百万石、一国の大部分を占拠してゐる封建諸侯を、只一片の辞令を以て免官し、藩を全廃して県とし、朝廷の直轄として、土地にして王土にあらざるは無く、人にして臣民にあらざるは無き大理想を、一瞬にして実現し給うたのであるから、明治天皇御一代の盛時、之を以て頂点とし、これ以前の改革は、ここに到る道程であり、これ以後の壮挙、日清・日露の二大戦役にしても、憲法の発布、教育勅語の下賜にしても、すべて此の点より出発して内は以て億兆を保安し、外は以て万国と対峙しようとせられたもの、つまり是れよりの発展に外ならぬであらう。

米人グリフィスは、外人なるが故に、特に鋭敏にして新鮮なる感覚を以て、廃藩置県の重大にして深刻なる改革の一瞬を、さながら今も目に見、耳に聞くが如くに、写取つた。そして彼は、その表面に現れたる変化を叙述したに止まらずして、その根本の動力が、そもそも如何なるものであるかを看破した。そして其の結果、彼は其の日本見聞記に題するに、The Mikados Empireを以てし、特に漢字を併記して、『皇国』とした。これこそ明治維新の本質を、最も簡潔に、最も的確に表現したものであり、同時に明治の大御代の、あの花々しい雄飛、かがやかしい発展を、最も雄弁に説明するものと云はなければならぬ。

皇国といふ言葉は、尊王家勤王家の間には、はやくより用ゐられて来たが、注意すべきは、慶応三年十月十四日、将軍慶喜が「大政奉還の上表文」に、

 臣慶喜謹で皇国時運の沿革を考候に

云々とある事であつて、大政の奉還も、鳥羽伏見の敗退も、江戸城の開渡も、静岡への転封も、すべて幕府の首脳部に、皇国の自覚があつた為である事が考へられるであらう。

 即ち明治維新の大業は、その積極面にも、消極面にも、皇国の自覚が滲透した結果、一時に発露して来たものであるが、之を統率し、之に決断を下し給うたのは、いふまでも無く明治天皇であらせられる。明治天て皇おはしまさずしては、維新の大事、明治の鴻業は、あり得ないのである。功臣あり、名将ありとしても、之を採択し、之を用捨し、之に決断を下さるるは、一に天皇の御徳にある。

 明治天皇の御降誕は、嘉永五年九月二十二日であつたが、その時、御安産の御祈祷を捧げたのは、大阪座摩(いかすり)神社の祝部(はふりべ)、佐久良東雄であつた。そしていよいよ御降誕遊ばれたと承つて、中山忠能卿までささげまつつた歌は、左の二首であつた。

  名に高き その中山の 姫松

   天津日の影 とよさかのぼる

  天照らす 日つぎのみこの みことぞと

   深く思へば なみだし流る

佐久良東雄は、深く幕府の専横を憎み、国民一般の無自覚をなげき、何とかして王政の古にかへしたいと念願し、此の熱烈なる念願に一生を終始した人であつた。

  まつろはぬ やつこことごと 束の間に

   やきほろぼさむ 天の火もがも

は、幕府の専横を憤るのである。

  大皇(おおきみ)に まつろふ心 なき人は

   何を楽しと 生きてあるらむ

は、同胞の無自覚をなげくのである。

  死にかはり 生きかへりつつ もろともに

   橿原の御代に かへさざらめや

  おきふしも ねてもさめても 思ひなば

   立てし心の とほらざらめや

は、王政復古を念願するのである。

 ひとり佐久良東雄のみでは無い。明治天皇の御降誕、明治の大御代の出現は、安政万延より文久を経て元治慶応に至る間、数多くの志士の祈りに答へられての事であつた。否、ひとり安政以来と云はぬ。その御英明、「後鳥羽院このかた」と人々の歎称し奉つた桃園天皇以来、君臣の間の祈願、また当時古を援(ひ)いて今を論じ、正気を公卿の間に扶植した竹内式部の熱祷に答へられての事であつた。

 豈ひとり宝暦以来と云はうや。明治元年はやくも湊川神社の創建を仰せいだされ、翌年には鎌倉に護良親王を祀り、井伊谷宗良親王を祀らせ給うた事は、明治維新の大業が直ちに建武の御精神を承けさせ給うた事を示すものである。

 更に驚くべきは、承久の昔との深い関係である。今その一例を、順徳天皇の神霊奉迎に見よう。明治六年、明治天皇の思召により順徳天皇の神霊を佐渡より迎へ奉つて、後鳥羽天皇土御門天皇と共に、水無瀬宮にお祀り申上げる事となり、翌七年三月、奉迎使並に随員の発令があつた。奉迎使を仰付けられたのは、式部権助兼大掌典橋本実梁であつた。一行は四月二十日に東京を出発し、五月六日佐渡に渡り、同十日奉迎の式をあげた。御生前御還幸の御希望をとげさせ給はず、

  むすびあへぬ 春の夢路の 程なきに

   幾たび花の 咲きて散るらむ

  人ならぬ 岩木も更に 悲しきは

   みつの小島の 秋の夕暮

  爪木(つまき)こる 遠山人は 帰るなり

   里まで送れ 秋の三日月

  かこつべき 野原の露も 虫の音も

   我より弱き 秋の夕暮

など、数々の悲しき御歌を残して、御在島足かけ二十二年、仁治三年(1242)に四十六歳を以て崩御遊ばされたる順徳天皇は、承久以来六百五十余年にして、再び海を渡らせ給うたのである。鳳輦の水無瀬宮に着御、御鎮座あらせられたのは、六月十三日であつた。

 かくの如く承久に遠島に移らせ給うた上皇方の奉迎が、明治維新の直後、百事猶混乱のうちに行はれた事は、明治の大御代の源泉が、遠く六百数十年の昔に存するを明示するものである。

 之を要するに、明治の大御代の奇蹟とまでに思はれる輝かしき出現は、わが国の歴史を一貫する精神の発露であり、国家理想の実現であり、而して幾百年にわたる君臣の熱烈なる祈祷に答へての成就であつた。

                              昭和四十年十一月

 

これは『平泉澄博士神道論抄』より抜粋しワード化したものである。忠実に再録したつもりではあるが、パソコン不慣れの為、一部改変を施した。

 

平泉先生に御目にかかったのは、恩師稲川誠一先生に同伴させて頂いた、昭和五十三年の楠公祭と記憶する。小拙の出身が松岡である為、郷土の哲人として先生の文体、文章の語勢を感得すべく、ここに公開するものである。2023年四月吉日 タイ国にて・二谷 記す

旧家 平泉澄

旧家

平泉澄

 

 アッチラ(五世紀中頃のフン族)の劫掠(きょうりゃく)とサラセン(イスラム帝国)の侵入とは、恐るべき脅威として、西欧の記録する所である。しかるに我等は、残虐なる事それに幾倍する侵寇(しんこう)を受けた。わづかなる例外を除いて、都市という都市は、一望の焦土と化し、中には原爆の為に、一瞬にして完全に死滅せるものもあつた。しかも更に苛酷一層の加えたるものは、足掛け八年に亙る、史上空前の戦後占領であつた。物心両面の圧迫は、山河為に形をかへ、草木為に色を変ずるかとさへ思はれた。十年の前と、十年の後とを比較する時、それは殆んど世界を異にする感じである。

 しかるに此の大いなる変動にも拘らず、我国はなほ多くのものを保存し、保有してゐる。幸にしてこの災厄を免れたる物を見る時、我等の感慨は深い。ましてこの試練に耐へて、毫(わずか)もたじろがざりし心に対しては、真に感慨やむ能はざるものがある。是等はこれ史家の、特に注意して、後世の為に記録すべきところである。焼けたものは何々であつたか。残つたものは何々であつたか。敵に通牒したものは誰々であつたか。降伏し慴伏(しょうふく)し阿諛(あゆ)し迎合したものは誰々であつたか。屈する事なく恐るゝ所なく、その所信を枉(ま)げざりしものは誰と誰とであつたか。正にこれ史家の筆を執るべき好題目では無いか。

 歴史をかへりみるに、大変動大災厄は、百年二百年三百年を隔てゝ、しばしば到来してゐる。幕府の瓦解、大阪城の陥落、応仁の大乱、更に遡っては、建武である、承久である、寿永である。それらは、それぞれに、世の中の情勢の、驚天動地の大変転であつた。従つて其の転変に耐へて、よく古きを保持しつゞけて来たものは、松柏の操節、偉なりとしなければならぬ。私はかねてよりかゝる旧家うぃ捜索し、調査し、之に就いて一書を著さうと念願して、よりより資料を集めてゐたが、それは大抵戦災の為に烏有に帰した。よつてこゝには、不完全ながら、いくつかの例を挙げて、その一斑を説き、あとは更に博雅の士の指示を仰ぎ、後賢の研究にゆだねたいと思ふ。

 戦後を故山に隠退してゐた私としては、自由に四方をかけ廻る便宜をもたないので、自然身近いところから、話を始める事にする。先づ福井である。福井は最近に二度も災害を受けた。一度は戦災である。戦災は、此の町の九割五分を焼いたと伝へられた。しかるに其の災禍の中に、やうやくにして起ち上つたところを、ふたゝび震災に見舞はれた。震災は火災を伴ひ、町はかさねて焦土と化した。町の容貌は、こゝに於いて一変せざるを得ぬ。三百数十年に亙る城下町の、想出多き町通りや家並の情趣は、今は何処に求めてよいであらうか。しかるに仔細に見てゆくと、こゝにも災厄に失はれずして、生きのびてゐるものが段々ある、たとへば木田神社を中心として、その周囲一帯は、不思議に戦災、震災いづれの火災をも免れて、幸に旧態を残したが、その中に、橘家がある。橘家は、歌人として有名な橘曙覧(1812―1868)の本家に当り、戦国時代より著聞した名誉の旧家であつて、家には弘治三年(1557)を始めとし、元亀・天正以降数多くの古文書を伝へてゐる。

 一体この福井といふ町は、古くは北の庄と呼ばれてゐたが、それが越前の中心として、大きく発展するに至つたには、第一には朝倉氏滅亡(天正元年・1573)の後、一乗谷の社寺民家を此処へ吸収し、一乗谷に代つて、政権の所在地となつたからであり、第二には結城秀康(1574―1607)こゝへ封ぜられるに及んで、その養家の根拠地であつた下総の結城から、寺院を移し。家臣を転住せしめたからであつた。従つて福井の町は、大きく分けるならば三つの種類の集合である、即ち北の庄固有のもの、一乗谷伝来にもの、及び結城より移転のもの。是れである。寺院に於いて之を見れば、心月寺(曹洞宗)、安養寺(浄土宗西山禅林寺派)、西山光照寺天台宗真盛派)、岡西光寺(天台宗真盛派)、長運寺(天台宗真盛派)、西念寺真宗大谷派)、西厳寺(天台宗)、法興寺浄土宗西山禅林寺派)、本妙寺法華宗)、妙経寺(法華宗)、顕本寺法華宗)等は、いづれ一乗谷もしくは其の周辺の地より、移転し来つたものであり、而して孝顕寺(曹洞宗・単立)、不動院、医王寺、普賢寺(天台宗真盛派)、常福寺真宗三門徒派)、安穏寺(曹洞宗)、華蔵寺(臨済宗妙心寺派)、乗国寺(曹洞宗)、妙国寺法華宗)等は、下総の結城から移されたものであるといふ。寺がかやうに移されてゐる程であるから、従臣家士隷卒商賈の、伴随移動した様子も、大概推測せられるであらう。之に対して、前に述べた橘家の如きは、北の庄固有の旧家であつて、蓋し第一種の中の錚々たるものといふべきであらう。

 橘家を第一種の中の錚々たるものとすれば、第二種の白眉としては三崎家を挙ぐべきであらう。三崎氏は元来朝倉の支族である。系図によれば、朝倉広景の子に高景、高景の子に氏景・弼景の二人があつて、兄の氏景は朝倉の本家をつぎ、弟の弼景は分かれて三段崎氏を名乗つた。之を三段崎(みたざき)氏の第一代として、六代目の安指、初め松之丞(じょう)と称したが、この人医学を一栢に受け、その養嗣となり、姓を改めて三崎といつた。これが今の三崎家の第一代である。一栢といふは、戦国時代に於いて有名なる学者であり、すぐれたる医師であつた。天文年間鉄砲の伝来を記録した有名なる『鉄砲記』は文之玄昌の作つたものであるが、その文之玄昌の文集である『南浦文集』の下巻に、僧徒に寄する詩を載せて、その序に、

  「予生れて六歳の時、老父予をして天沢老師の室に入れて以て僧となさしむ、それよりこの方指を屈するときは、則ち殆んど五十七年なり、不幸にして老師早く予を弃(す)てゝ物故す、時に老師六十一歳にして予十四歳なり、老師といふは何人ぞ、即ち前(さき)の建長雲夢大和尚の徒弟にして、其の諱を崇春といふ、十九歳にして東関の郷校に赴いて隷止するもの五六年、学徒の時、崇春を改めて不閑と名づく、しばらくあつて越の前州一栢上人の門に入つて、典籍を学ぶもの十有余年、功成り名遂げて、四十九歳にして日州の肥水南陽の故里西光の枌(そぎ)寺に帰つて、蓍室(ししつ)(卜筮の部屋)を目井の延命古寺に造り、占筮の学を業とす、予の僧苗となるは此の時なり」

とある。文中東関の郷校といふは、蓋し下野の足利学校であらう。即ち是れ戦国時代に於ける唯一の 大学であつた。さればこそ天沢崇春は、九州の果、日向より、千里を遠しとせずして、こゝに赴き学んだのである。しかるに天沢は、足利学校に学ぶこと五六年、こゝに満足する能はずして、転じて越前一乗谷に赴き、一栢を師として学び、随従十有余年、遂に功成り名遂げたといふのである。若し足利学校を大学といふべくんば、一栢の教室は正にだ御学院に当るであらう。一栢が当時の学界に於ける地位。以て察すべきである。

 安指は天文元年(1532)十八歳にして此の一栢の養嗣となり、その医学を受け、その秘伝をついだ。従つて一栢蔵する所の重要なる医書は、この一系に伝へられた。安指は初め松軒と号したが、後に玉雲軒と改めた。それより後、代々玉雲軒の号を襲ひ、以て今日に至つてゐるのである。初代の玉雲軒、即ち安指は、慶長十二年(1607)十二月七日、九十五歳にして歿した。二代玉雲軒、諱は宗晴、正保二年(1645)七月十二日に歿した、享年実に一百二歳であつた。三代は宗益、越前藩主松平光通の侍医となつて禄三百石を賜はり、元禄八年(1695)七月二十五日、八十歳にして亡くなつた。次は道庵、享保十八年(1733)八十七歳にして卒し、弟宗伯家をついだ。宗伯の卒したのは享保十九年、七十八歳であつたといふ。代々の長寿、いかにも名医の家らしく、ゆかしい話である。

 福井市の中央を流れてゐるのは足羽(あすわ)川である。足羽川に架するところの橋、いくつかある中に、古くして名高いものは、九十九(つくも)橋であつて、普通に大橋とよばれてゐる。今は形も変り、趣も失はれたが、元はその半を石橋として堅固に造り、半を木橋として普通に架けてあつた。それは大洪水の時に、全体崩れないで、木橋ばかり流失するやうにして置けば、あとの再興が容易であるからといふ慮による事で、「大なる橋は、いづかたの橋もかくなしたきものなり」と、橘南谿(1753―1805)は『東遊記』の中で感心をした事であつた。其の大橋のあたり、川の左右両岸、みな両度の災厄を受けた中に、足羽山に近く吃立する鉄筋コンクリートの建物が目につく。猛火は之をも包んだ為に、外壁はいたく損じたが、主体は無事に残つた。これ即ち玉雲軒三崎家の偉観である。今以て名医のほまれあり、家には一栢伝来の医書と秘法を伝へ、一栢以来の良薬を練って、済生の大事を担当して居られるのである。医書のうち最も注意すべきは、天文五年版の『八十一難経』三冊であつて、これは朝倉孝景(十代目当主・1493―1548)が資を投じて出版上木せしめたものであり、一乗谷の文化を語る重要なる遺品である。我等は未だ此の本の他所にあるを聞かないのであるが、若し果たして他にはでんはつてゐないとすれば、これは天下の孤本といふべきであらう。但しこの本に就いては、別に紹介する機会があるであらうから、こゝには省略しよう。

 次に一栢伝来の良薬といふのは、牛黄円のの如き、その最も有名なるものである。牛黄円といふ薬は、室町時代には頗る珍重せられたもので、関白(一条)兼良(1402―1481)の作といはれる『尺素往来』には、牛黄円は、蘇合円、至宝丹、脳麝円などと共に、「当世人々の火燧(ひうち)袋の底、面々の小薬器の中に、必ず之をつゝみもち、貯へざるを以て耻辱となし候」と書いてある。即ちこれは中世文化人の必需必携の薬であつたわけである。室町幕府の沙汰人である蜷川新右衛門尉親俊(―1569)の(親俊)日記を見ると、天文年間(1532~1555)の事であるが、牛黄円を贈答してゐる記事が散見してゐる。その牛黄円の秘法が今に三崎家に伝はつてゐる事は、珍重しなければならぬ。(玉雲軒三崎家に関しては(https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=010-290059-0)〔筆録者・注〕)

 このあたりで福井と別れて、敦賀に目を転じよう。敦賀も戦災の痛手をうけた町である。惜しい事には、気比神宮も災厄にあはれた。しかし佐渡の山から伐り出した榁(むろ)の樹を以て造られたといふ、正保二年(1645)の大鳥居は、幸にして火をまぬがれ、朱の色もあざやかに、日に映えて立つてゐる。市外へ出れば、流石に大抵昔のまゝに残つてゐるところが多い。一体加賀越前は、戦国紛乱の時代に、一向一揆の跳梁によつて、古いものが皆破壊せられたのであつて、其の災禍の広く且つ深い事は、意想外に及んでゐる。就中加賀は、守護の富樫(とがし)政親(1455―1488)が、はやくも長享二年(1488)に亡びた為に、それより八九十年の間は、一揆の自専にに委ねるのやむなきに至つた。時の天台座主青蓮院門跡尊応准后(―1514)、之を憂ひて本願寺に制止を加へるやう要求した事は、『華頂要略』に見え、本願寺蓮如(1415―1499)も門下の悪行を言語道断の次第として停止を厳命し、今後かくの如き乱行を為す者は、永く「聖人の御門徒中」より追放する旨を宣言した事は、「光徳寺文書」や「真念寺文書」に見えてゐるが、猶彼等の跳梁を如何ともする事が出来なかった。之に反して越前の方は、朝倉の武力よく一揆を撃退し鎮圧するに堪へたので、加賀に比すれば八十数年遅れたが、八十数年たつて天正元年(1573)、朝倉義景(第十一代当主・1533―1573)の亡びた隙に、忽ち一揆の侵入暴発を見、間もなく織田信長(1534―1582)の武威によつて鎮圧せられたとはいへ、一たび破壊せられたものは、また之を復旧する術が無かつた。かやうにして加賀越前は、古き文化のあとを尋ねようとして、手がかりの多く失はれた事を歎かねばならないのであるが、若狭に入ると情勢は一変する。即ちこゝには加越の如き破壊が無く、旧物旧慣のよく保存せられてゐるのを見るのである。而して敦賀郡の如きは、あだかも其の中間に位して、戦禍を受けてゐるが、古いものも随分残つてゐるやうである。

 敦賀より船に乗れば、しばらくして常宮に達する。常宮は本来ツネノミヤであつたらうが、後世は専ら音読してジヤウグウと呼んでゐる。神功皇后を祀る神社として著聞してゐるが、その拝殿の海中に突出して、さながら浮御堂のやうに浪に浮んで見えるのは、頗る神韻に富むものと云つてよい。社宝の中に「太和七年三月日菁州蓮池寺鐘成云々」の銘のある朝鮮鐘があつて、人のもてはやすところとなつてゐる。人によつては、之を我が国孝徳天皇の御代白雉四年(653)に当るとしてゐるが、それは誤であらう。蓋しその説は、太和を以て新羅の真徳王の年号と見るのであるが、真徳王の代には、太和の年号はあるにはあるものゝ、それは三年もしくは四年にして廃止せられたのであつて、太和七年とはいはなかつた筈である。即ち『三国史記』の「新羅本記」を見るに、真徳王の元年秋七月改元して太和といふとあり、同書の年表に於いては、真徳王の二年改元して太和といふとあり、同じ書物の中に両様の記載があるが、しかし同王の四年遂に新羅独自の年号を廃して、唐の正朔を奉ずるに至つたといふ点では、本記も年表も一致してゐるのであるから、太和三年又は四年はあり得るが、七年はあるべきでなく、それは永徽󠄀四年又は五年と書かるべきであらう。従つて今の鐘に見る太和七年は、唐の文宗の年号であつて、我が天長十年(833)癸丑に当るとしなければならぬ。それにしても一千一百二十余年の歳月を経過してゐて、頗る珍重に価するものである。『東遊記』を見ると、橘南谿は此の鐘をよろこび、其の音を聞きたいと思つたが、撞(つ)く事禁制とあつて、撞くわけにはゆかず、日暮には入相(いりあい)の鐘をつくといふので、それを聞かうと思ひ、それまでの間を山登りしたところ、帰つて来た時は既に入相を過ぎて、遂に聞く事が出来なかつたといひ、「残念いふばかりなし」と記してゐる。

 太和の鐘も古いが、更に古いのは、この常宮の浦に見る上小屋・下小屋である。古いと言つても、無論小屋の建物そのものをいふのでは無く、其の風習をさすのである。即ち此の村には、村全体として、上小屋を一つ、下小屋を一つ、建てゝある。下小屋は産婦出産の時に、三週間ばかりの間、こゝに籠るのであり、上小屋は、婦人が月の障りの間、こゝへ来て炊事をするのである。下小屋の方は、居を別にするのであり、上小屋の方は、火を別にするのが、主眼だといふ事である。海辺のなぎさに、鵜の羽を茸草にして、産屋を造り、其のいまだ茸きあへぬに、産屋に入りました昔の偲ばれる、古い風習といはねばならぬ。このやうな小屋の、最も原始的であるのは、立石岬(敦賀市立石)の村々だといふ事であるが、次に説く東浦村〔現在は敦賀市編入、筆録者・注〕江良の刀禰(とね)家の如きは、自家専用の産屋をもつてゐたのである。(刀禰家に関しては(https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=010-291165-0)〔筆録者・注〕)

 東浦村は敦賀湾の東海岸一帯に、帯のやうに長く連つてゐる村であつて、そのうち赤崎といふは、小浜の支藩酒井氏一万石の麴山陣屋のあつたところであり、五幡(いつはた)おいふは、大伴家持(かへるみの道行かむ日はいつはたの坂に袖振れ我をし思はゞ 万葉集巻十八)以来しばしば歌に詠まれたところであるが、その赤崎と五幡との中間にあるのが、江良であり、刀禰家はその江良の北端にある。刀禰といふのは、『延喜式』や『朝野群載』などにも見えて、古い称呼であるが、簡単にいへば世襲の村長といつてよいであらう。敦賀郡には、その刀禰を氏とする旧家がいくつか残つてゐるやうであるが、江良の刀禰氏は、文書記録の徴証すべきものを、かなり多く相伝してゐる。就中注意すべきものは、元禄十五年(1702)に刀禰吉家、時に六十二歳であつたが、代々の掟を書きするして、後世子孫の誡とした「家法」一冊である。今少しく之を紹介するに、

  • 親兄弟相果申とても、持方へ入申間敷候」

持方といふのは、後文に「刀禰家持申者」とあると照し合せて、家督を相続してゐる当主の住居するところ、即ち本家をさすのであらう。「一、                 親兄弟相果てても持方へ入れてはならぬといふは、この家不浄を忌み、死の穢を避けるのであらう。

  • 産の女、刀禰家にて子をうみ申間敷候」

これは上に述べた常宮の下小屋の風習と同じく、産婦は之を別の建物に移したのである。

  • 女たや有之内は、別家にて食をたべ可申候事」

これは常宮の上小屋に当る定である。「たや」は蓋し「他屋」であつて、月の障りある間、別室に於いて食事をするところから起つて、やがてさはりそのものを、「たや」と呼ぶに至つたものである。

  • 四足二足の鳥けだ物を、刀禰家持申者は、たべ申間敷候」

鳥獣の肉食を禁ずるのであるから、この家の当主は、常に精進料理である。葷酒山門に入り、寺内に鋤焼の香のする世の中に、戒律の厳重なる生活を、かゝるところに見出した事は、私にとつて一つの驚きであつた。

  • 刀禰家持申者は、かん(寒)の入りより正月朔日迄、かんこり(寒垢離)と申而、毎日朝、水をあび申事也、若老か、又は病気候は、かん入に一日、正月一日迄かつゑ(?)、極月廿四日のあさより、正月一日迄、日数九日、水あび可申者也」

寒の入りは、今は正月の六日ごろであるが、それは太陽暦による為であつて、昔の太陰暦では、十二月の初めに来る筈である。従つて寒の入りより正月朔日までの寒垢離といへば、小寒大寒を通じて一ヶ月の苦行である。その寒垢離、毎朝水をあびるのだと書いてあるが、実は家のうしろ、山の下に小さな池があつて、こゝへ入つて水垢離をとるのださうであるから、戸外といひ、山の湧き水といひ、寒冷骨身にこたへるに相違ない。刀禰の当主として、家を相続してゆく事、また難しといはねばならぬ。次に一条省略して、その次は

  • 霜月朔日と、正月朔日には、氏神山王権現え(へ)御供そなへ申事也、霜月には何にても御ぜんさい壱ツ、大かたは、もみな也、御せん弐ぜん、壱ぜんは氏神、壱ぜんは伊勢天照大神宮、気比天神宮、又は常宮権現様へ、そなへ申事也、おがみやうは、天下大へひ、国土あんおん、村中息災とおがみ申事、

正月朔日には、御せん弐せん、刀禰さらとて、壱ぜんに七ツづゝ、何にてもそなへ物とゝのへ次第也、御供は、白米壱升三合か、縦(たとい)何升にても、は米(端米)は三合也、御せんにもり、是をきやうと名付、中お(を)わらにておひ仕候」

尚このあとに、神前の御供に就いて、懇々と法式が説かれてゐるが、今は省略‘しよう。

 氏神山王の祠は、水垢離をとる池から見上げる山の中腹にある。この「家法」の前文に、「若相背者於之は、氏神刀禰の先祖山王権現の御ばち」を蒙るであらうと書いてあり、また寛文十一年(1671)六月十日に、奉行所へ書上げた覚書にも、「江良氏神山王権現は、我等の先祖にて御座候」とあつて、実に此の家の先祖と考へられてゐるのである。その先祖の神に祈るに、天下泰平、国土安穏、村中息災を以てして、少しも一家の私事に及ばないのは、注意すべき点であらう。「是をきやうと名付」の「きやう」は、恐らく「饗」であらうか。若し果してさうであれば、それは『源氏物語』(たとへば桐壺の巻に、光源氏元服の時、「所々のきやうなど(中略)きよらをつくしてつかうまつれり」とある)等に見えて、古い語である。それは元来は饗応即ちもてなしの意であらうが、やがて直ちに料理を差し膳部を指すに至つた事は、『源平盛衰記』巻四十二、金仙寺観音講の事の条に、「本尊は観音、所の名主百姓が集まりて、月次(つきなみ)の講営とて、大饗盛(も)り竝(なら)べ盃居(す)ゑて、既に行はんとしけるが、長(おとな)百姓は善(よし)とのめ、若者共は悪(あしゝ)ときらふ」とあるなどによつて知られる。

 何といふ敬虔にして謹厳なる生活であらうか。その家は、産のけがれを忌み、月の障りを忌み、死のけがれを忌み、而してその当主は四足を遠ざけ、二足を嫌ふ。寒中一ヶ月は池に入つて水垢離を取り、祖神を祭るには、きびしく古法を守り、神前にぬかづいては、専ら天下泰平、国土安穏、村中息災を祈願する。つゝしみ深くして、清らかに、しかも剛直不屈の生活態度といはざるを得ない。私は弱冠二十五歳の時、一たび此の家をおとづれたが、老人頗る頑固であつて、古文書記録を見る事は許さなかつた。その後三十五年を経て、最近ふたゝび往訪の機会を得た時には、当主は快く相伝の文書を見せてくれられた。その中には別の意味で面白いものも随分あつたが、私の最も感歎し随喜したのは、実に此の「家法」一冊であつた。

 転じて若狭び入る。こゝに一つ、旧家の廃絶して、私の胸をいたましむるものがある。そ

れは遠敷(おにゅう)郡遠敷村(現在は小浜市編入・〔筆録者・注〕)若狭彦若狭姫神社の

旧神官牟久氏である。同社は、『延喜式』に、若狭比古(ひこ)神社二座、名神大とあり、

『三代実録』貞観元年(859)正月二十七日の条に、若狭比古神に正二位、若狭比咩(ひ

め)神に従二位を授けられた事が見え、比古神は当国一宮と呼ばれ、比咩神は二宮と呼ばれて、頗る尊信せられた神社であるが、両社創立以来の神主として社務を執行したのは、笠の朝臣と称する牟久氏であつた。而して其の系図は一巻、今も伝はつてゐるが、それは古い部分と、後代の書入の部分とから成つて居り、古い部分は正平六年(〔観応二年〕1351)直後のものと思はれる。しかるに此の系図とは別に今一巻、絵系図と呼ばれるものがあつて、代々の社務神主の肖像を列ね、一代は神の姿に、次の一代は凡人の形に、交互して描いてゐる。それは「従五位下朝臣景尚 歳七十、従五位下朝臣景継歳二十五」といふに終つてゐるが、景尚が七十歳にして卒したのは、建長四年(1252)の事であり、景継はその子で、十二代目の神主に任ぜられたが、元久二年(1205)に生れて正安元年(1299)九十五歳を以て卒してゐる。かやうに鎌倉時代に描かれた歴史の肖像画一巻と、吉野時代に書かれて、更に後代の書継ぎを添えた系図一巻とが備はつてゐて、旧家たるを示すに申分のないに拘らず、其の家、折角(せっかく)明治維新まで伝はつて来て居りながら、明治に入つて遂に退転して了つたといふは、惜しむべき事ではないか。

 一宮の神主笠朝臣の家は不幸にして絶えたが、こゝに旧家の連綿として伝はるもの大音(おおと)家がある。所は三方郡三方町神子(みこ)(現在は三方上中郡若狭町編入・〔筆録者・注〕)、元は西浦と呼ばれ、それが田井と合併して西田村となり、更に三方町と成つたもので、町といつても商店櫛比の市街ではなく、うしろに山を負ひ、前に海をひかへ、晴れては舟をあやつり、降れば網をつくろふ漁村であるが、こゝに大音といふ旧家があつて、八百年の来歴を徴証すべき古文書を襲蔵してゐる。その古文書の中に、一巻の系図があつて、書風から見て吉野時代と考へられ、内容から推定して正平九年(〔文和三年〕1354)後、間もない頃に書かれたものと思はれるが、それによれば大音氏は本来伊香氏であつて、本貫は近江の伊香郡伊香具村大字大音であつたらしい。「当氏根本者、伊香大社王子神伊香尊也、(中間三字ばかり虫喰欠字)自社伊香尊十八世孫也」と書起して、近江国香大社神主安助に数人の子があつて、長男助吉は父祖の後を承けて伊香の神主となり、四男神四郎安宗、若狭国三方郡内御賀尾常神両浦開発の領主となり、嘉応二年(1170)十月、院庁の下文を賜はつたが、源兵庫頭頼政の息女若狭尼御料の御下知以下の重書は、去る文和三年(1354)十二月十日の夜□(一字欠、恐らく討の字であらう)の時、敵の方へ取られて了つたと書いてある。(大音家文書に関しては(https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=010-291358-0)〔筆録者・注〕)

 長男助吉の継いだ本家は、近江の伊香郡に今も存してゐて、私は思ひよらず当主豊太郎翁に、近江神宮で会ふ事が出来た。白髯豊かに垂れて、いかにもかゝる旧家にふさはしい風貌である。本家の方は元のまゝに氏を伊香といふ、氏は伊香と書いてイカとよみ、山の名は伊香胡と書いてイカゴと呼び、神社と村名とは共に伊香具と書いてイカグとよみのだといふ。郡の名も伊香と書いて、今はイカと呼んでゐるが、『和名抄』に伊香古とあるを見れば、本来すべてイカゴであつて、それが転訛してイカグとなり、省略してイカとなつたものであらう。神社は『延喜式』に伊香具神社名神大とある。祭神は、意富杼(おふと)王と伝へてゐるが、しからば継体天皇の御祖父に当られる筈である。即ち『釈日本記』に引く所の「上宮記」によれば、応神天皇の御子若野毛二俣王、その御子大郎子、一名意富富等王、その御子汙斯王(うしのおおきみ)、一名彦主人王、その御子乎富等大公王、即ち男大迹(おおと)天皇とあつて、応神天皇には皇孫に当り、継体天皇には御祖父に当られるのである。而して汙斯王は、弥乎国(みおのくに)高島宮にゐましたとあるが、是れ即ち伊香郡の隣郡高島郡の内であらう。また継体天皇の御母は振姫、三国坂井県の御生まれであり、よつて天皇は御父汙斯王のなくなられて後は、御母と共に里方へ移られ、多加牟久の村で育てられたといふのである。坂井県は即ち越前坂井郡であり、多加牟久の村は、蓋し高椋村であらう。してみれば汙斯王の御父が近江の伊香郡に坐した事も、自然とうなづける所である。

 意富富等(おふふと)王と書くも、意富杼(おふと)王と書くも、いづれも同一の御方を指し、この王を祀つてゐるところから、大音といふ大字の名も出たのであらうが、この王を祀る神社が伊香神社であり、而して其の神主が王の子孫であつて伊香を氏の名とするといふのである。『古今集』巻八離別歌に、

  あづまの方へまかりける人によみて遣はしける

              いかご あつゆき

  思へども身をし分けねばめにみえぬ心を君にたぐへてぞやる

とある、その「いかごあつゆき」は、恐らくは此の家の人であらう。そして幾代か後、助吉の代に及んで、弟の安宗若狭に移り、御子の浦に住するに至つたのであらう。それが嘉応二年(1170)以来の重書(じゅうしょ)を相伝して、今も大切に保存してゐるのである。嘉応二年といへば源頼朝の兵を挙げた治承四年(1180)より十年前に当り、正に平家全盛の時代であつて、今よりかぞへて七百八十余年の昔である。即ち大音家の神子の浦に占居するや、実に八百年になんなんとするのである。八百年の歳月を経過して、その屋敷も変らず、重代の文書記録を相伝して失はないのは、之を珍重しなければならぬ。

 近江伊香郡の伊香氏が、意富杼王以来の名家である事、その支族である若狭三方郡の大音(おおと)氏が、神子(みこ)の浦に入つてより今日まで、八百年になんなんとする長の年月を、退転せず、移動する事なくして、屋敷と重代の文書とを相伝して来た事は、既に述べた通りである。而して其の古文書を検するに、神々に対する信仰、神社に対する奉仕の、いちじるしきものあるを見る。こゝに其の二三を挙げよう。

 第一には、常神の社である。先きに神子の大音家の初代神四郎安宗が、嘉応二年こゝに来り、御賀尾(みかのお)・常神(つねかみ)両浦の開発(かいほつ)の領主となつたと記したが、その御賀尾は、やがて神子(みこ)であり、而して常神は、実に常神の社の鎮坐によつて其の名を得てゐる隣村である。常神の社は、『延喜式』にも載つてゐるが、殊に『朝野群載』の記事を注意しなければならぬ。即ち同書巻第六に、神祇官の御体御卜奏二通を収めてあるが、その一は白河天皇の承歴三年(1079)六月十日付であり、その二は、堀河天皇の康和五年(1103)六月十日付であつて、共に諸国の諸社に社司等の過あり、神事をけがすに依つて、神の祟ありとして、使を遣して祓はしむべき事を奏上してゐる中に、若狭の国に於いては、前に若狭比古神と常神と、後に宇波西神と多大神と常神とをあげてゐる。即ち常神は、承歴にも。康和にも、二度とも使を遣はされてゐるのである。大音家は、その初代が既に御賀尾と常神と二つの浦の開発の領主となつたといふのであるから、常神神社との関係は、嘉応以来深かつた筈である。後になると常神の浦は、別の刀禰の支配する所となつて、大音家とは離れたらしく、その年代が承久の変直後に在つたかと思はれるのは、大音文書のうちに、五月廿五日付、高屋原宛の書状があつて、年代も差出人も明記されてゐないが、その中に、

  「承久の時は、常神も御賀尾も、我等がせんそ(先祖)の物にて、両浦と一円に致候所にて候を、今の常神の刀禰のせんそ(先祖)にわけ(分)候てとらせ(取らせ)候程に、常神には、文書の一通もあるまじく候」

云々とあるからである。かやうに常神の浦が別の刀禰の支配に帰して了へば、常神神社と大音家との関係は疎遠になるのが普通であるが、大音氏は常神神社に対する奉仕を、決して怠つて居なかつたらしく、それは同社の棟札の記すところから推察せられる。即ち先づ寛正四年(1463)の棟札を見るに、「勧進上人長門国住人、能満寺智俊、十穀断、真言宗、今田井保龍泉寺住也」とあつて、この勧進上人の奔走により諸方の力を合せて造営が出来たのであるけれども、大音家も亦協力を惜しまなかつた事は、「御賀尾大音殿万事取合アリ」と記し、馬一匹、酒一度、同家より寄進した事を記してゐる。また天文二十年(1551)の棟札を見るに、此度は寄進の主力は、領主南部出雲守源膳行であつたらしく、遷宮の時には、その孫亀寿の代参があり、神前へ太刀一腰、馬一匹を献じてゐるが、大音氏も亦わづかながら参加した旨が記されてゐる。次に天正三年(1575)の棟札にも、大音七郎左衛門尉より帯一筋奉加した事が記されてゐる。此の寛正四年といひ、天文二十年といひ、また天正三年といひ、大音氏の奉加は、全体の上から見れば、わづかなものに過ぎないけれども、既に自分の手から離れて、一応縁のきれてゐる常神の浦であるにも拘らず、常神神社の造営となれば、毎々欠かさず寄進している点を注意したのである。

 縁のうすくなつた常神に対してすら、かやうに奉加してゐるのであるから、御賀尾浦にあつて縁の深い山王十禅師宮に対しては、率先して寄進してゐる事いふまでの無い。山王十禅師宮は、叡山より勧請せられたものに違いないが、「日吉社神道秘密記」を見るに、天津彦々穂瓊々杵尊をまつるといふ。御賀尾浦へ勧請せられた年代は明らかでないが、去年(昭和28年・1953年〔筆録者・注〕)の春、慶運寺(三方上中郡若狭町神子5-3〔筆録者・注〕)の門の傍の小祠で、偶然発見した懸仏の背銘に、

  日吉十禅神 

  奉懸金□□地蔵□

  右志者為比丘尼阿蓮現世安穏後生

  善処所寄進如

   弘安六年五月日比丘尼阿蓮敬白

とあつて、弘安には既に此の社の存した事、明瞭である。更にしの弘安六年(1283)より遡ること二十三年、正元二年(1260)即ち文応元年に十禅師社の既に存した事は、左記「大音文書」によつて明らかである。

  宛行 辺津浜山山守職□

   合壱処者 但北方堺限峯

  右件山者、日吉十禅師宮社領也、

  而三河浦百姓等、依□申請旨、所

  宛行也、有限御年貢□事、任

  例、毎年無懈怠、可弁備

  状如

   正元二年三月二日

        使 為前(花押)

こゝに三河浦とあるは、御賀尾浦、やがて神子浦と、所を同じうして、而して文字を異にするものに過ぎない。永仁四年(1296)二月の注進にかゝる「若狭国倉見庄永仁三年実検田目録」(大音文書)には、神田のうちに三御賀尾浦十禅師一反をあげてゐるので、浦の名が色々の文字で表はされた事も知られ、また此の社の神田が一反あつた事も知られるが、やがて「歴応五年(1342)二月十六日助六譲状」(大音文書)に、刀禰職と共に、十禅師のはうりしき(祝職)及びわたの神田壱反、ゐさの田百八十歩の譲られてゐるのを見ると、大音氏が此の社の祝(はふり)職を相伝し、神田を管理してゐた事、また前の永仁三年の「実検田目録」に、三御賀尾浦十禅師一反とあるにつゞいて、同浦高森百八十歩とあるも、やはり此の社の神田に外ならぬ事が知られる。

 さて此の社の古い棟札としては、応仁二年(1468)のものと、天正二年(1574)のものとが、残つてゐる。その応仁の棟札によれば、常神、世久見、小川等、他村の有力者も参加してはゐるものゝ、願主は大音資則、生年四十六歳と特筆大書せられた。天正二年の棟札は、項目を分つて収支を明記してゐるために、頗る重要な史料と思はれるが、今その大綱をあげると、左の通りである。

  弐貫参百文  大工料

  壱貫弐百文  釘かすかいの代

  壱貫文    おかひきのちん

   右此時いひの数六百十七盃也、米にして参石弐斗也、代物之算用弐貫文之分也、

  上茸入目之事 尤檜皮(ひはだ)大工七十人にて調之

         飯之数弐百十盃也

  弐貫伍百文  檜皮榑之代

  弐百文    篠板之代

  壱貫五百文  檜皮大工料

  布六端   

  五斗     やねの祝儀 但第三百文之分也

  七斗     酒之米

  弐斗     御供

  弐百七十文  板付けたかすかひ

  此外、棰壱荷、大鰒三喉、餅百、

之に対して寄進の方は、常神惣中として、米五斗、銭壱貫文、御賀尾浦其他は個別にあげられてゐるが、その主力は大音一門に在つた。

  壱貫文幷御幣 大音七郎左衛門尉資栄

  米壱斗帯一筋 大音彦九郎

  もんめん一端 大音彦四郎

  百文     彦四郎

その他三百文二百文百文五十文と段々列挙してあるが、こゝには省略しよう。この棟札に裏面には、珍しく御賀尾浦の人数書があつて、当時の戸数と人口との大概を察する事が出来る。

    御賀尾浦人数書之事

  大音七郎左衛門尉資栄。同息彦三郎。御愛女卯歳。幷戊歳之。御虎女。御竹丸。長鶴丸

  乙夜叉女。新発意丸。御岩女。息女千代女。彦左衛門。太郎大夫(まゝ)。彦太郎。助三郎。同女。ちい。姫。初。以上』

  大音掃部助。同女御祢々。松千代丸。御上女。孫太郎。御市。ほゐ。以上』

  大音彦九郎。同女御方御菊。御松。御姫。助四郎。鍋。をはかゝ。菊満。鶴法師。市女。小上。已上』

  彦六。亀鶴。御まめ。以上』

  太郎大夫。向うは。与三郎。虎千代。龍千代丸。菊。同娘。』

  大音半五郎。同女とら。石小法。以上』

  初女。虎女。已上』

  孫三郎。菊。千代。岩満丸。』

  大音彦四郎。同はゝ。御よめや屋。法師。同。』

  興道寺左近。同女御才。同娘。御亀。あこ丸。あこ弟。以上』

  大音記兵衛尉。同女千代。乙丸。』

  彦右衛門。同女。鶴満丸。禅門。こませ。杢之介。同女鶴。』

  三郎左衛門。同女あいや。左衛門次郎。亀姫。鶴。太郎。乙丸。以上』

  九郎右衛門。千代鶴。猿法。菊千代丸。四郎大夫。同女うは。四郎五郎。太郎丸。』

  北彦兵衛。同女才。九郎三郎。菊。松。鶴。御鶴。以上』

  三郎大夫。同女千代石。孫九郎。若石。猿若。上をんほ。小をんほ。以上』

  林書記。玉蔵主。性金。』

  興道寺九郎左衛門尉。同女御夜叉。道国。同女虎。已上』

  三善出雲守。同女御才女。』

但し此の棟札の書法は雑然として、名も何処で切つてよいか、何処へつゞけてよいか、判然としないところがあり、家も「以上」とある所は、そこで一家が終り、次に別の家となる事、明かであるが、「以上」と記してゐないところにも、家の別になるところがあつて、その辺頗る判断に苦しむところもあるが、今大概を推測して考察するには、このやうな整理でも、先づ先づ役に立つであらうか。

 さて之を見て感ずる事は、鶴とか、亀とか、菊とか、松とか、千代とかいふ、長寿を祝福した名の、極めて多く、或はそれを重ねて、亀千代といひ、菊千代丸といひ、千代鶴といひ、長鶴丸といひ、或は一家の中に、鶴とお鶴とあつて怪しまない如き、いかに縁起のよい名が喜ばれたかといふ事である。『漢書』を見るに、杜周の子に延年があり、丞相に車千秋あり、御史大夫に陳万年あれば、義成侯に甘延寿あり、東郡太守には韓延寿があり、その他、田延年といひ、厳延年といひ、李延年といひ、長寿を希望し期待した名の多いのが目につくが、今見る天正二年山王十禅師の棟札も、時に古今の隔たりがあり、国に東西の別はあるが、人情に於いて趣を同じうするものと云つてよいであらう。それは兎も角、この棟札の人数書によつて、戦国の末期に於ける御賀尾浦の実情、殊に大音家の様子が、かなり明かに推測し得られる事は、之を喜ばねばならない。

 次に諏訪社に就いても簡単に述べて置かう。御賀尾浦に、諏訪下宮の勧請(かんじょう)せられたのは、鎌倉時代の末、延慶三年(1310)の事であつて、大願主左衛門尉藤原盛世の寄進状が、「大音文書」の中に存してゐる。当時は、諏訪大明神を御賀尾浦に勧請し、加野に於いて二反の神田を寄進したのであつたが、数年後に、田地の交換を行ひ、正和三年(1314)よりは御賀尾浦で二反の神田を寄進したのであつた。それよりして諏訪の本社へ毎年御贄(みにえ)として、干鯛十、魚六十、刀禰に於いてあづかり置き、便宜を以て社家へ運送するやうに定められた事が、正和四年(1315)九月九日の下知状によつて知られ、間もなく浦人の歎きによつて毎年の運送をゆるくして、三四年に一度と改められた事が、正和五年九月十八日の下知状(すべて大音文書)によつて知られる。これが刀禰の責任となると、信州諏訪までの運送容易で無かつたに相違ないが、大音氏よくつとめたりといふべきであらう。(藤原盛世の寄進状に関してはhttps://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=011-500300-0〔筆録者・注〕)

 かやうに神々に対して忠実に奉仕して来た家だけあつて、今もその家の庭には、丘の上に小さな祠があつて、それが庭の中心となつてゐる。庭としては規模の小さい、飾りの無い庭で、簡素に過ぎる庭ではあるが、丘あり、池あり、白梅の老木あれば、紅梅の若木もあつて、樟や楊梅と共に、つゝましやかに小祠を守つてゐる趣は、金に飽かして巨巌名木を集めたものよりも、却つて風情ある心地がする。

 大音氏伝ふるところの古文書は、どれほどの数にのぼるであらうか、私はまだ其の全貌を見てゐないが、その中に一つ仁治元年(1240)六月の売渡証文を紹介して置かう。

  重沙汰渡塩山証文事

    合壱所 字辺津山

   四至 東限小島南限大谷 西限赤石北限大海サヲタチ

  右件山者、先年之此、古江大夫末正尓、限永代、小袖壱両売渡畢、然彼証文ヲ、鳥羽上     座 申入、以下人奪取云々、事実者、甚以不思議次第也、其罪科不軽者哉、若猶々令背此状、致自由之狼藉沙汰者、全以不承引、且者此子細在地明白也、敢不他人之妨、仍為後日沙汰一ㇾ之、重証文以解之状如件

   仁治元年六月日

即ち山壱個所を、小袖壱両に換えたのである。仁治元年といへば、鎌倉時代の中頃、今より七百十数年の昔である。(但し此の文書、仁治元年六月日といふに就いては、一言弁じて置かねばならない事がある。仁治の改元は、七月十六日であつたから、六月にはまだ仁治とはいはず、延応二年(1240)とあるべきところである。それをこゝに仁治元年と書いてゐるのは、元々延応二年とあつたものを、写して副本を作る際に改めたものであらうか。文書は正本ではなく、年号にかやうな齟齬はあるものゝ、内容に於いては各別偽作の疑を容れないであらう。)

 若狭には此の外に旧家も多いが、今は割愛して丹後へ移らう。丹後の旧家は、与謝郡府中村大垣、籠神社の宮司海部家を以て第一とするであらう。籠神社は、一に籠守神社とも書く。いづれにしても、よみは一つ、コモリノ神社である。府中村大垣(現在の宮津市の北部地域の南端にあたる〔筆録者・注〕)などといへば、縁の遠い感じがするが、実はこれ天の大橋である。籠神社といへば、これもむつかしいが、名だたる丹後の一宮に外ならぬ。『延喜式』には、「名神大、月次新甞」と特記せれれてゐる。海部氏は代々その宮司として聞えた旧家であるが、家伝によれば、始祖天照国照彦火明命より現在の当主に至つて、八十一代、代々男系相承して、曾て中絶してゐないといふ事である。目ざましいのは、此の家の系図である。それは紙を長くつないで、つないだ方向に縦(たて)書きにした所謂竪系図または柱系図の様式であつて、様式の上から見ても古い時代のものであるが、その初めに「丹後国与謝郡従四位下名神」とある神階が、この系図の作られた年代を考へる有力なる手がかりとなる。即ち『三代実録』を見るに、清和天皇貞観十三年(871)六月八日、丹後国正五位下籠神に従四位下を授けたまふとあり、やがて陽成天皇の元慶元年(877)十二月十四日には、従四位下籠神に従四位上を授けたまふとあつて、籠神の神階が、従四位下であつたのは、貞観十三年六月八日以後、元慶元年十二月十四日以前、凡そ六年半ほどの間であつたから、此の系図従四位下と書いてある以上、それは当然此の六年半ほどの間に作られたものでなければならぬ。さればこれを之を貞観の古系図と呼んで珍重するのである。三井寺に伝はる和気系図が、承和初年の作といふに比すれば、三十数年おくれる事にはなるものゝ、今より数へて一千七八十年前の系図が、その直系の子孫によつて守られて、今の𠑊存するは、壮観としなければならぬ。

 丹後を去つて伯耆へゆけば、こゝには名和氏がある。名和氏は名和長年の忠誠、天下にかくれないが、そのいえ連綿として今に伝はり、重代の古文書も存すれば、凡そ五百年ばかり前の古系図も伝はつてゐる事は、一般にはしられてゐないやうである。されば是も説述すべきであるが、それに就いては拙著『名和世家』平泉澄『名和世家』 (日本文化研究所 昭和29年(1954年)1月、皇學館大学出版部 昭和50年(1975年)9月〔筆録者・注〕)に詳記したので、こゝには省略する事にしよう。

 伯耆から海を越えて隠岐へ渡れば、こゝには隠岐国造家がある。隠岐は島前(とうぜん)と島後(とうご)とに分れ、相距る事、六里ばかりである。その島後の周吉(すき)郡磯村大字下西(しもにし)(昭和44年(1969年)4月1日 - 周吉郡・穏地郡・海士郡・知夫郡の区域をもって隠岐郡が発足。同日周吉郡消滅〔筆録者・注〕)は、昔国府のあつたところであるといふが、そこに玉若酢(わかす)神社(島根県隠岐隠岐の島町下西701〔筆録者・注〕)といふ古社がある。この神社の古い事は、境内に八百杉といふ大木の存するによつても、考へられる。それは昔若狭の国から比丘尼が来て神前に杉を植飢ゑ、八百年の後また来るであらうと言ひのこして去つたので、此の比丘尼八百比丘尼といひ、此の杉を八百杉といふのだといふ伝説である。目通九メートルといへば、杉の大木として、天下稀に見る所であらう。昭和四年に天然記念物として指定せられたのは、当然の事である。その玉若酢神社の南方、神社と並んで東方に、宮司億岐家があり、その由緒に於いて、八百杉よりも古い伝統をうけついでゐる。

 億岐家(国は隠岐とかくが、この家の名は億岐の字を用ゐてゐる)の初祖とするところは、十挨(とおえ)命である。『旧事紀』の「国造本紀」を見ると、軽島豊明の朝、即ち応神天皇の御代に、観松彦伊呂止命五世の孫十挨彦命を意岐(おき)の国造に定めたまふとあるが、それが即ち此の家の初代で、二代は広禰、三代は忍比古、忍比古より三代目を豊名といつて大宝中の人であるが、以後歴代相承して当主有寿に至り、実に四十五代にのぼるといふ。

 不幸にして此の家には文書の古いものを伝へてゐない。それは曾て重書(じゅうしょ)を京都へもつていつて、帰途島の近くで暴風にあひ難船したために、一命は助かつたけれども、古文書は遂に流失して了つたのだといふ事である。古文書は斯様にして失はれたけれども、幸にして伝家の重宝いくつか遺つた。それは第一に隠岐の倉印である。諸国の正倉所用の印、今に其の宝物を存するもの極めて稀であるのに、隠岐の分がこの家にのこつた事は、之を珍重しなければならぬ。しかし一層重視すべきものは、第二の駅鈴である。駅鈴の事は、はやく「大化改新の詔」に見え、詳細の規定は、「公式令」に見えてゐるが、王制の陵夷と共に衰へて、平安時代の末には、もはや実用せられず、たま〱あれば、珍しく思はれる程になつた。そして曾て数多くあつた駅鈴は、いつしか皆失はれて了(しま)つたが、幸にして此の隠岐の国造家に、その実物を伝へてゐる。『万葉集』巻十八に、大伴家持の面白い歌が載つてゐる。即ち越中の史生尾張少咋(おくい)が、本妻を奈良に残して越中へ赴任してゐるうちに、遊女左夫流(さぶる)に馴れ染んで了つた、家持は歌を作つて之を諭し、

  紅は うつらふものぞ つるばみの

  馴れにし衣(きぬ)に 猶如(し)かめやも

と戒めたが、間もなく本妻は事情を察知したものか、夫の招きを待たずに、自発的に恐らく突然追かけて来た。その時に家持のよんだ歌が、

  左夫流児が いつきし殿に 鈴かけぬ

  駅馬(はゆま)下れり 里もとゞろに

といふのである。だしぬけに本妻に来られて、少咋のあわてたさまも想はれて面白い歌であるが、当時官人の官命を帯びての旅行に、鈴の音高らかに駅馬を徴発しつゝ上下した様子も、之で偲ばれるであらう。しかも其の誇らかなる鈴の音も、伊勢大神宮の堺に入れば、飯高郡下樋󠄀小河に到つて、之を止めねばならない規定であつた事は、『延喜式』巻四に見え、神域に於ける謹慎静粛、まことにゆかしく思はれるのであるが、其の駅鈴の残つてゐるもの、今日のところ此の隠岐国造家に伝ふるを、唯一無二とするのである。次に此の家の誇りの第三は、伝符である。伝符の事も「公式令」にくはしく見えて居りながら、その実物の確認せられずにあつたところ、先年この国造家に於いて発見せられた。私が往いて同家をたづねたのは、昭和十年の秋であつたが、その時の話で、三四年前の発見といふ事であつた。

 伝符の方は近年の発見であるが、駅鈴は曾て西依成斎(1702―1797・江戸時代中期の山崎闇斎派の儒学者〔筆録者・注〕)に示したところから、遂に天聴に達し、寛政二年(1790)宮中に召されて天覧をたまはつた。その時に成斎が億岐幸生へ贈つた歌が伝はつてゐる。

  雲の上に のぼるむまやの 鈴の箱

  ふたゝび開く 世々の古道

 隠岐を此のあたりで切上げて、次は出雲へ移らう。出雲は名だゝる旧家名門、いはゞ甍を並べて存するところである。殊に其の筆頭第一としては、出雲国造家をあげなければならない。しかしそれは余りにも有名である上に、私も亦別の機会に同家に就いて記した事があるので、こゝには朝山氏の事を説かう。朝山氏といふのは、八束(やつか)郡佐太村(平成23年(2011年)8月1日 - 東出雲町松江市編入。同日八束郡消滅〔筆録者・注〕)の佐太神社、即ち『延喜式』にいふ秋鹿郡佐陀神社、細川幽斎(1534―1610、幽斎は雅号〔筆録者・注〕)の「九州道の記」に所謂佐陀の大社の宮司家である。幽斎は天正十五年(1587)、秀吉の九州征伐に参加する為に、山陰道を海路博多へ赴いた時、こゝへ立寄つて、「木深くて、山のたゝずまひ、たゞならぬ社」と驚歎し、遂にこゝに「やどり求めてとゞまり、」

  千早振 神のやしろや 天地と

  わかち初(そ)めつる 国の御柱

と詠じたのであつたが、たとへ今は入道の身ではあつても、もと〱丹後の国主細川兵部大輔藤孝(細川幽斎と同一人物〔筆録者・注〕)やどりを求めたのは、必ずや朝山家であつたらう。今の佐太神社は、貞享四年(1687)に造替せられたものであり、その貞享の造替には、境内に多少の模様換が行はれたので、幽斎が参詣した天正の昔とは、いくらか趣を異にしてゐるが、木深き山のたゝずまひ、たゞならぬ崇厳さは、依然として変るところが無い上に、貞享の模様変は、大工武内宇兵衛貴行原案を立て、養老年中建立以来の境内図と、自分の考で今度の造替に修正を加ふべき箇所とを、比較対照して松江藩奉行所へ提出し、その許可を得て実行に移したのであつて、竹内宇兵衛の慎重なる、ひとり之を上司に報告して指揮を仰いだばかりでなく、正神主朝山吉成の命によつて、之を板に書付けて残してくれた為に、棟札と設計図と現状とを対照すれば、古今の変化、掌をさすが如く明かであり、幽斎参詣の日のありさまも髣髴(ほうふつ・あざやかに)として之を偲ぶ事が出来るのである。

 朝山家の系図を見ると、もと〱大伴氏であつて、大伴武持十七代の子孫治部卿武安、その武安より中四代を経て、五代目政持、承和九年(842)に恒貞親王の事に坐して出雲へ流され、それより子孫この国に土着するに至つたとある。『相国寺供養記』を見ると、朝山出雲守大伴師綱とあつて、この家が大伴氏の流れであるといふ伝の古い事が知られる。『源平盛衰記』を見るに、一谷の城に籠つた人々の名をあげた中に、出雲の国には朝山記次と書いてある。系図でいへば、文治年中(1185~1190〔筆録者・注〕)鰐淵寺(がくえんじ)は、島根県出雲市別所町にある天台宗の寺院〔筆録者・注〕)の常行堂を建てたといふ

惟元に当るであらう。『吾妻鏡』建長二年(1250)三月閑院殿造営の分担者に中に、朝山右馬大夫跡とあるは、系図に惟元の子馬大夫元綱とあるのに該当すると思はれる。朝山氏が佐陀大社の神主となつたのは、建保の頃からであらうか。系図では元綱の弟祐経、建保二年(1214)さだ大社の神主に補せられ、その弟惟孝之をついだやうに見える。それより数伝して景連に至ると、丁度元弘建武に際会して、その活躍も目ざましく、『太平記』を見ると、朝山二郎景連八百余騎を率ゐて船上山へ馳参り、やがて行幸の御供して京都に入つたとある。また『鰐淵寺文書』元弘三年(1333)五月日鰐淵寺住僧讃岐房頼源軍忠状を見るに、五月七日千種忠顕京都の賊軍を追落さうとして、竹田河原幷に六波羅西門に向ひ猛攻撃を加へた時、頼源は中部彦次郎入道や朝山彦四郎等と共に、身命を惜しまず合戦の忠を致したとあるが、その朝山彦四郎は、蓋し二郎景連の弟か何か、門葉の人であらう。

 さてその景連の孫は、前にも記したやうに『相国寺供養記』に見える朝山出雲守大伴師綱であるが、この人は武将として出雲守師綱といふよりは、連歌の名人としての梵灯庵の名の方が、ひろくしられてゐる。『続群書類従連歌部には、「梵灯庵返答書」(応永二十四年後五月十八日梵灯判于時六十九歳)及び「梵灯庵袖下集」が収めてあり、同じく鷹部には、「梵灯庵鷹詞百韻連歌」が採られてゐる。応永三十一年(1424)に歿した。享年七十六歳。やがて北野の天満宮末社として祀られたが、「身はいつの煙のために残るらむ」といふ句が有名であつて、それより名を得て、煙の宮とあがめられたといふ。

かやうに朝山家歴代その名あらはれてゐる人多い中に、支流ではあるが、抜群に人物は、二郎左衛門尉善茂である。師綱が師綱では誰にも分らず、梵灯庵といへば天下に聞えてゐると同じく、善茂も善茂では一向分らないが、日乗上人といへば、知らぬ人は先づあるまい。

 善茂は初め美作の久米郡岩屋山城に拠つた。そして天文十二三年の頃、諸国の有志と共に献金して、皇居の御修理を完成し奉つた事が、既に頗る篤志の行としなければならないのに、善茂はそれを以て足れりとせず、約十年の後には、美作の城地を捨てゝ上洛し、日乗上人と名乗つて、禁裡の御造営に専念するに至つた。『甫庵本太閤記』の或問に、

  「朝山日乗は、禁中御殿破壊せしを、御修理のいとなみをつとめよと、夢のつげに任せ、重代の知行、又は譜代相伝の家人をも打ちすて、出雲国より侘しき体にて上京し、近衛龍山公ね其旨望しかば、正親町院の勅に因て参内をとげ、御修理の営みを催しはべるを、信長公聞召届けられ、其志の妙なるを感じおぼされ、召出され、一両年も試みたまひつゝ、珍しき心ばへ毎事はかも行べき者なりとて、旧功の村井長門守同前に、禁中方御修理を仰付けられにけり、万事はかの行事、流るゝ水のやうに有りしかば、城州西院にて、三千貫の地を下され候し、是は小泉と云し者、勘当を蒙り、牢人の身と成し跡しきなるを、小泉が家人等をも恩賜したまひしなり、」

とあるは、簡にして要を得た記述である。但しこゝに出雲国より上京したやうに記してあるのは、朝山氏の本拠が出雲である為で、実をいへば日乗は作州から上京したものである事は、『兼右卿記』弘治元年(1555)閏十月八日の条に、「作州朝山今度上洛」云々と記されてゐるによつて明かである。またこゝに正親町院とあるのは、恐らくは後奈良院の誤であらう。

 大阪の「四天王寺文書」を見ると、永禄二年(1569)の三月一日に出された織田信長の「選銭令」には、掃部助と日乗との二人が連署してゐる。之によつて日乗が信長の信任をうけ、ひろく政治の各方面に参与してゐた事が察せられるが、しかし日乗の主力を注いだのは、内裏の復興であつて、村井民部丞貞勝と共に其の奉行となり、弟の朝山惣佐衛門と共に日夜奔走した事は、『御湯殿上(おゆどのうえの)日記』、『言継(ときつぐ)卿記』『原本信長記』等に見えてゐる。即ち永禄十二年四月、日乗上人は番匠共を烏丸亭へ集め、内裏修理の費用総計を見積らせて、一万貫ばかりの数を得、直ちに準備に着手して、翌年正月五日手斧始を行ひ、二月二日に至つて新に村井貞勝も奉行として協同する事となり、前後三ケ年かゝつて完成した。それまで正体も無く廃壊して居つたところ、此の御修理によつて、紫宸殿(以前は檜皮(ひはだ)、このたびは瓦葺)、清涼殿(檜皮)、内侍所(檜皮)、昭陽舎、其他の見事さ、人々の目を驚かし、都鄙の貴賎男女、讃美しないものは無かつたといふ。

 事のついでに一言すべきは、ルイス・フロイスの批評である。一五六九年六月一日(永禄十二年五月十七日)付、パードレ・ルイス・フロイスが、京都より発してフイゲイレドに贈つた書翰には、口を極めて日乗を攻撃し、中傷到らざる所なき有様である。しかしこれはたま〱日乗の伝統を守らうとする精神と、その卓越せる才幹とが、キリスト教宣布の重大なる阻害となつた為に、宣教師の目には「悪魔」の如く見えただけの事であらう。フロイスと正反対の批評は、安国寺恵瓊(えけい)(1539?―1600〔筆録者・注〕)から聞く事が出来る。即ち恵瓊は、天正元年(1573)十二月十二日備前の岡山より急使を馳せ、京都方面交渉の顛末を毛利氏へ報告したが、その中に於いて信長を評して、

  「信長の代、五年三年は持たるべき候、明年あたりは、公家などに成らるべく候かと見及申候。さ候て後、高ころびにあをのけに、ころばれ候ずると見え申候、」

といひ、秀吉に就いては、

  「藤吉郎さりとてはの者にて候、」

と感歎し、而して日乗をば、

  「昔の周公旦、太公望などのごとくに候、似合たる者、出合たる御事にて候、雖然、仕すごされ候はで、今の分にて候へば、芸州の御ため、重宝にて候、今度の調も、悉皆彼仁馳走にて候、たゞあぶなく存候、〱、藤吉などの取次まで、日乗にて候、是にて御推量あるべく候、」(吉川家文書)

と評してゐる。今此の批評に就いて一々当否を吟味して見るに、明年あたりは公卿(文書に公家とあるのは、此の場合、公卿の意味である)になるだろうとの推測は、天正二年三月十八日、信長参議に任ぜられ、従三位に叙せられて、立派に公卿の列に入つたのであるから、これは的中といはねばならぬ。信長の代、五年三年は持たるべく候といふのは、実は十年持つたのであるが、これは当らずと雖も遠からずといふところであらう。その後、「高ころびに、あをのけに、ころばれ候ずると見え申候」は、天正十年六月二日、前右大臣正二位平信長、既に日本国の半以上を平定し終り、今は恐るべき何者も無く、旌旗一たび動くところ、城砦相望んで降り、殆んど疾風枯葉を捲くの勢と思はれた其の盛威の絶頂に於いて、本能寺の変に倒れて、高ころびに、あをのけに、ころんだのであるから、的中も的中、是れほど恐ろしい予言は、他に類例が無い。藤吉郎、さりとてはの者にて候とは、簡にして妙、いかにも三十代の秀吉の、一寸の隙も無く、一分の非議を許さゞる働きぶり、知謀豊にして勇気凛々、しかも自ら克く抑制して応対人をそらさない態度、之を表現するに、他に何と言ひ得やう。さりとてはうまい批評では無いか、

 ところで、その羽柴秀吉までも、日乗の取次で信長の諒解を得てゐるといふ。日乗が信長に新任せられて、羽振りのよかつた勢といひ、信長や秀吉の間に立つて、之をこなしてゆく才幹といひ、まことに想ひやられる事である。而して其の日乗の将来に就いては、「たゞあぶなく存じ候あぶなく存じ候」とくりかへして言つてゐるが、『言継卿記』永禄十三年(1570)三月二十一日の条には、日乗上人信長の勘気を蒙つたとの風聞の立つた事が見え、恐らく才気余つて自ら抑制する所が少なく、信長の怒を招く危険が多かつたのであらう。果して日乗は天正三、四年頃になると、其の名一向に現れず、やがて天正五年(1577)九月十五日、失意のうちに歿したらしい。従つてあぶないといつた恵瓊の予言は、是れ亦当つたといふべきであらう。さてそこまで当つてゐるといふのであれば、残る一つの批評、日乗を指して、昔の周公旦、太公望などのごとしと言つたのも、当らずと雖も遠からず、非凡抜群の人物であつた事は、之を察すべきである。殊に内裏の修理、皇威の興復につくした其の功績は、之を没する事は出来ない。されば彼の宣教師一派の非難は、その立場の上よりする偏執であつて、到底正論とする事は出来ないのである。

 朝山家はその後、更に一人の有名な人物を出してゐる。朝山意林庵、これである。しかし今は先づ此のあたりで止めて置かう。兎も角、かやうに歴世人物を出した朝山家は、先祖の後を承けて、今も佐太神社に奉仕し、儼然として其の「木深くて、山のたゝずまひ、たゞならぬ社」を護つて居られるのである。

 

これは平泉澄博士、昭和29年春に書上げられた論文であり、「『神道史研究』二―二・三、昭和二十九年四・七月」に掲載されたもの。後には(『寒林史筆』昭和三十九ねん七月)に再掲されたものを、ワード化し郷里(越前・松岡)を偲びつつ、恩師を慕う心奥からインターネットにアップする次第である。

                       (2023年2月14日、タイ国にて)

後鳥羽天皇を偲び奉る                         平泉澄

     後鳥羽天皇を偲び奉る

                        平泉澄

 

   一

 後鳥羽天皇はまことに御不運の御一生を御送り遊ばされました。一天万乗の君として、思ひも寄らず逆賊の為に遠く隠岐の小島に遷幸遊ばされ、孤島の御幽居十有九年の長きに亙り、遂に其の儘彼の島に於いて崩御遊ばされました御不運は今更いふまでもなく、その遷幸の原因となりました承久討幕の御企そのものに就きましてさへ、天皇の御動機に対し奉つて驚くべき誤解が、昔より一般に存し、而してその誤解は今日に至りましても、猶十分に解けてゐないのであります。

 所謂誤解とは何であるかと申しますに、それは天皇が兵を挙げて幕府を討たうと遊ばされたのは、些々たる一婦人の所領問題より起つた事であるとし、従つてそれは決して国体の根本より御考え遊ばされた訳ではなく、同時に朝廷の御計画は至つて軽卒であり粗漏であつて、十分慎重に準備される所がなかつたといふ風に解し奉つてゐる事をいふのであります。即ち、従来一般に説かれて居ります所では、承久御挙兵の原因は、亀菊といふ婦人の申請に任せて、摂津国長江・倉橋両庄の地頭職を停止するやう、前後二回に亙つて幕府に御命令が下つたに拘らず、北条義時は之に随ひ奉らなかつたので、天皇いたく御逆鱗あり、遂に幕府を討伐しようと思召立たれたといふのであります。此の説の基づく所は『吾妻鏡』でありますが、其の承久三年(1221)五月十九日の条を見ますと、

  「武家、天気に背くの起りは、舞女亀菊の申状に依り、摂津国長江・倉橋両庄の地頭職を停止すべきの由、二箇度院宣を下さるゝの処、右京兆諾(うべな)ひ申さず、是れ幕下将軍の時、勲功の賞に募り定補せらるゝの輩は、指したる雑怠無くして改め難きの由之を申す、仍て逆鱗甚だしき故也と云々」

とあります。而して右両庄に就いて幕府に御命令のありましたのが、やはり此の年の春の事  であつた事は、同書同年三月九日の条によつて知られるのであります。若し之を其の儘信用するとしますれば、当時討幕の御企は、一婦人の所領問題より事起り、早くとも承久三年三月以後に端を発したものであり、従つて官軍の活動を開始した五月十五日まで、僅に二箇月ばかりの準備期間があつただけとなり、動機よりいへば浅薄、用意よりいへば軽卒の非難を免れないのであります。

 しかるに、事実は決してそうではなかつたのであります。そうでなかつたといふ事は、討幕の御計画が、それより遥か以前、実に十数年以前に始まつてゐる事によつて、証明せられるのであります。一体此の承久の役に、官軍の主力となつて活動した人々は、公卿に於いては権大納言藤原忠信、前権中納言藤原光親、同源有雅、同藤原宗行、参議藤原範茂、同藤原信能等であります。素より是等は平素朝廷に御仕へ申上げて居る人々でありますから、是は直ぐにも糾合し得るのであつて、是は先づ問題になりません。ところが其の外に、僧侶に於いては、二位法印尊長、熊野法印快実、刑部僧正長賢、観厳等、武士に於いては、能登藤原秀康、その弟河内判官藤原秀澄、左衛門尉後藤基清、筑後守五条有範、右衛門佐藤原朝俊、前民部少輔大江親広、山城守佐々木広綱、その子惟綱、山田重忠、三浦胤義、左衛門尉大江能範、河野通信、菊地能隆、筑後知尚、佐々木経高大内惟信、宮崎定範、糟屋有久、同久季、仁科盛遠、錦織義継、神地頼経、多田基綱、筑後有長、小野盛綱等の人々が、御召しによつて錦旗の下に馳せ参じてゐるのであります。此の顔触を見れば、近畿の住人もありますが、遠く関東や九州に人々もあり、之と連絡をとり、之を糾合するといふ事は非常に困難な事であり、それには十分の歳月が必要であつて、決して二、三ヶ月のよくする所ではないのであります。

 殊に是等の人々の中に於いて、中心となつて働いたのは、僧侶では、二位法印尊長、武士では能登藤原秀康でありましたが、此の二人に就いて調べて参りますと、討幕の御計画が十数年も前から立つて居り、その十数年の間に、極めて秘密の中に、準備が進められてゐた事が分るのであります。今先づ法印尊長より説きますれば、此の人は其の兄弟(参議信能)や甥(少将能氏、左中将能継)が多く承久の変に殺されて居りますので、一家一族を挙げて参画し奮闘した事明かであり、而して事変の終りました後に、幕府は此の人の逮捕に最も力を入れ、その捜索の為に色々乱暴が行はれた程であり、それにも拘らず尊長は七年といふ長い年月を逃廻り、それも只逃廻つただけではなく、其の間に奇謀をめぐらしてあくまで幕府の転覆を計り、北条義時頓死の原因は明瞭ではないが、恐らく此の尊長の計画にかゝつて毒殺せられたのであらうと思はれ、以上の諸点を綜合して考へますと、此の人は討幕の御企に最も重く関係して居つたと察せられ、『吾妻鏡』が此の人の事を、「承久三年合戦の張本」と記してゐるのは、蓋し事実であらうと思はれます。さればこそ承久三年六月、事いよ〱危急に瀕した時に、後鳥羽上皇は、土御門順徳両上皇を伴ひ給ひ、此の法印尊長の押小路の宅に御移り遊ばされ、こゝに於いて諸方防戦の御相談があつたのであります。然らば此の尊長が後鳥羽上皇の御信任を得て討幕の計画を立てるのは何時頃かと申しますに、何分幕府の目をくらます為に、すべて極秘の中に進められましたので、今日之を跡付ける事は容易でありませんが、幸に其の一つの目標となるものは、白河の最勝四天王院であります。この最勝四天王院といひますのは、上皇の御所の中心に立てられ、道法法親王を以てその検校(総裁)とし、尊長を以てその寺務(事務長官)とせられたのでありますが、元来四天王は護国の神と考へられ、之に祈るは必ず国家の重事についてであり、現にその落成の翌年には守護国界経法結願の行はれました事が記録に見えて居るのでありますから、此の最勝四天王院こそは幕府調伏の祈願であり、それを中心に建てられたる白河の御所が、即ち討幕の参謀本部であつたと察せられます。しかるに其の最勝四天王院の建てられましたのは、承元元年(1207)十一月の事であり、承久の変より数ふれば、実に十四年以前に当るのであります。

 次には、能登藤原秀康に就いて考へませう。秀康が武士の中で中心に立つ人物であつた事は、『尊卑分脈』に「院の御方の惣大将」と記されてゐるによつても明瞭であります。『六代勝事記』にも、

  「秀康は官禄涯分に過ぎて富有比類なし、五箇国の竹符を併せて追討の棟梁たりき。」と見えて居ります。その秀康は早くより上皇の御信任を辱うして居つたので、承元元年三年には上皇の高野御幸申上げ、当時殊に御愛顧を受けてゐた事は、『明月記』にくはしく見えて居ります。承元元年は前に述べました最勝四天王院の建立せられた年であります。されば当時、秀康既に討幕の密議に参与して居つた事と推察せられるのであります。且また諸国の武士を京都へ御集めになります為には、前々からあつた院の北面の武士の外に、更に西面の武士を置かれたのでありますが、『明月記』を見るに、承元元年正月三十日、殿上人及び西面北面の人々うぃ集め、之を左右二組に分つて笠懸の勝負を競はしめ給うた事があります。この笠懸に出ました殿上人は、忠信、有雅、信能、範茂等、いづれも承久の錚々たる人物でありまして、事敗れて忠信は越後に流され、その他の人々は皆斬られたのであります。その笠懸に西面の武士が出てゐるのでありますから、院に西面の衆を置かれましたのは、承元元年以前の事である事いふまでもありません。

 是によつて之を観れば、討幕の準備の段々ととのつてゆきますのは、承元元年に既に明瞭にその後を窺ふ事が出来、其の発端は必ずや更にそれより前に遡らねばならぬ事明かであります。即ち討幕の御計画は、承久三年の御事挙げより遥か前、少くとも十四年前、恐らくは十五年前に立つて居た事を知るべきであります。従つてその原因が、『吾妻鏡』などにいふやうに、承久三年の長江・倉橋両庄の問題に在るのでない事はいふまでもありません。

 

   二

 承久討幕のの原因が、長江・倉橋両庄の問題に在るのではない事は、既に明瞭になりました。しからば真の原因は一体どこに在つたのであるかと申しますに、其れを推測します為には、承元元年前後既に討幕の御計画が立ちました時より、承久三年に至る十数年の間に於いて、後鳥羽上皇の御関心が那辺におはしましたかを知らなければならないのであります。今、之を当時の日記によつて見ますに、此の間に於いて、文武両道を御奨励遊ばされました事は、極めて顕著であります。先づ文に於いては、公事の論義及び習礼が瀕󠄀々と行はれて居ります。是は朝廷に於ける重大なる儀式が、漸次すたれてゆき崩れてゆく傾向のある事を歎かせ給ひ、之をその正しい姿に戻さうとして討論研究せしめ、実演練習せしめ給うたのであります。而して、其の瀕󠄀々として記録に現れるのは、建暦元年(1211)二年の間でありますが、その概略は次の通りであります。

  建暦元年三月廿二日節会習礼

      五月 一日旬習礼

      七月二十日公事竪義

      九月 二日大嘗会習礼

      同 廿四日任大臣大饗習礼

      同 廿五日大嘗会論義

  建暦二年三月 五日系図論義

      同 十二日臨時祭習礼

       同 廿四日白馬(おおうまの)節会(せちえ)習礼

而して之と併せ考ふべきものは、『世俗深浅秘抄』であります。此書は上下二巻あり、朝廷の御儀式其の他の作法故実に就いて記された書物でありますが、従来その著者明らかでなく、或は菩提院基房の作といひ、或は衣笠内大臣家良の著といひ、又は一条禅閣兼良の記す所として居つたのでありますが、野宮定基、速水房常、藤貞幹等は之を以て後鳥羽天皇の御撰であるとし、而して之を天皇の御撰とする説は、近頃和田英松博士の精密なる研究によつて、疑なき確証を得たのであります。即ち、その内容によつて先づ臣下の筆でない事が考えられ、更に上皇の御撰なる事も窺はれ、而して之を『花園院御記』や、『後伏見院御記』と対照する事によつて、後鳥羽天皇の御撰なる事が分り、また一条兼良の『桃華蘂葉(ずいよう)』によつて、その事いよいよ確認せられるのであります。此の

『世俗深浅秘抄』と相並ぶものは、天皇の皇子にましまし、承久討幕の御企を共にし給へる順徳天皇の御撰にかゝる『禁秘御抄』であります。これは古くより順徳天皇の御撰と伝へて異説はなく、はやく慶安年中に版行せられ、『群書類従』其の他にも収められて、世にひろく知られてゐる所であります。されば承久討幕の御事挙げに先づ十数年に於いて、朝廷文事を奨励し給ひ、公卿殿上人をして討論研究せしめ給ふのみならず、後鳥羽天皇順徳天皇御自ら筆を執つて御著作遊ばされた事は、之によつて明かであります。

 次に、武道の方面はどうであつたかと申しますに、『六代勝事記』には、後鳥羽天皇文武の二つを学び給ひし中に、比較しては殊に武道を重んじ給ひ、弓馬に長じ給ひ、御譲位の後の御幸には、京都の郊外に於いては行軍の形を取らしめ給うたと見えて居ります。天皇御みづから武芸に秀で給ふた事は、この外にも『古今著聞集』や『承久記』に散見して居る所によつては拝察せられますが、更に之を公卿殿上に勧め給ひ、まして北面西面の武士に御奨励遊ばされました事は、『増鏡』に見えて、

  「あけくれ弓矢兵仗のいとなみより外の事なし、剣などを御覧じ知ることさへ、いかで習はせ給ひたるにか、道のものにも、やゝたちまさりて、かしこくおはしませば、御前にてよきあしきなど定めさせ給ふ」

とあります。刀剣に就いては、こゝには只御鑑識の御事のみを説いて居りますが、実は天下のすぐれたる刀鍛冶を集めて打たしめ給ひ、御みづからも之を好ませ給うたので、その刀を世に御所鍛といひ、それを多く武士に賜はつたといふ事は、『承久記』に見えて居り。御番鍛冶の名は、長く世に伝はつてゐるのであります。

 しからば、当時かくの如く文武両道にいそしみ給ひ、又之を御奨励遊ばされたのは何故であつたかと申しますに、先づ『世俗深浅秘抄』を拝見しますと、大抵昔の儀式と今の作法とを比較せられまして、中には「古今の作法異也。時儀に依るべき事也」と今日の作法を承認し給うた所もありますが、多くは「中古以往」の「古儀」「故実」と「近代」「末代」の実情とを対比して、今日古き伝統のすたれた儀式作法の乱れてゐるを慨(なげ)かせ給ひ、現状を「案内知らざる事也」、「其のいはれなきか」、「其の由なきに似たり」、「甚だ奇怪也」と批判し給うたのであります。次に『禁秘御抄』を拝見しますと、こゝにも同様「上古」と「近代」とを比較せられまして、近代の然るべからざるを歎かせ給ふのであります。されば其の御研究・御鍛練・御奨励の目的は、一にかゝつて現代衰頽の世を上古隆盛の時にかへす事、即ち王政復古に存した事明瞭であります。是に於いて想出されますは、『増鏡』に見えて有名なる後鳥羽上皇の左の御製であります。

  おく山のおどろの下もふみわけて

   道ある世ぞと 人にしらせむ

『増鏡』は此の御製に就いて、「まつりごと大事と思されけるほど、しるく聞えて、いといみじうやむごとなく侍れ」と述べてゐるだけでありますが、此の御製の作られましたのは、何時の御事かといふに、『新古今集』には、之を住吉の歌合によませ給うたと見えて居り『後鳥羽院御集』には明瞭に、承元二年三月住吉歌合と記されてあります。承元二年といへば、既に討幕の御準備の段々と進められつゝあつた時であります。されば、此の御製は政治の大方針を示し給うたものと拝察せられます。即ち、今や世は北条氏の跳梁跋扈によつて、皇国の正しき道の失はれたる事、たとへていへば奥山に荊棘生ひ茂つて踏みわける道もなき有様に似てゐるのであるが、之を踏みわけて其の荊棘を切り棄て、皇国日本の道義・道徳は斯くの如きものであるぞ、かくの如く儼存するものであるぞといふ事を、国民一般に知らしめようと仰せられたものと拝察せられるのであります。

 かくて、従来此の討幕の御企が、瑣々なる一婦人の所領の問題より事起り、僅か二、三ケ月の準備を以て、軽々しく兵を挙げられたとしたのは非常な誤であつて、実は惑乱の世に道義を再興し、皇国日本を正しい姿に戻そうとする、王政復古の大理想の為に起り、十数年に亙る惨憺たる御苦心御用意の後に、承久三年愈々時至り機熟して、北条氏討伐の大旆(たいはい)を翻されたのである事は、こゝに明瞭になつたのであります。

 

   三

 然らば、かくの如く遠大なる御理想の下に、かくの如く慎重なる音用意を以て、敢然実行に移されたる討幕運動は、如何様に進展し、如何様に結局したのであるか、これよりその概略を申述べようと思ひます。

 十数年に亙つて秘密のうちに準備せられました討幕の御企が、いよいよ機熟して翻へされましたのは、承久三年五月十五日の事でありました。即ち、此の日幕府を代表して京都の守護に任じて居りました伊賀光季を誅戮し、直ちに宣旨を下して諸国勤王の兵を徴集し、北条義時を追討せしめ給うたのでありました。その宣旨には、近頃関東の成敗と称して天下の政務を乱る、名は将軍に託すといへども、将軍頼経は何分幼稚であるから、実はこれ義時の専権に出づる事明かであり、義時の此の行動は偏に己の威を耀かさうとして全く皇憲を忘れて居るものであり、之を政道に論ずれば謀反といふべきものである、されば今勅命を下して之を追討せしめられるのであるといふ趣が、堂々と述べられてあります。

 而して此の事挙げに先だつて、前日のうちに西園寺公経父子を幽閉せられました。公経は幕府と親しく、密接に連絡をとつてゐたからであります。是に於いて西園寺家では直ちに之を幕府に報告します。伊賀光季も亦誅戮せらるゝに当つて、飛脚を以て鎌倉へ注進します。その双方の飛脚が相前後して鎌倉へ着いたのは、五月十九日の午後でありました。此の報告を得て幕府は一時周章狼狽しますが、頼朝の未亡人にして義時の姉に当る政子は、武士を集めて述懐し、武士が頼朝によつて如何に親切に遇せられたか、また如何に其の生活を安定向上せしめられたかを説いて、「是程御情深く渡らせ給ひし御志を忘れまゐらせて、京方へ参らんとも、又留まって御方に候ひて奉公仕らんとも、只今確に申切れ」といふや、武士は私の利害と恩義とに動かされて、一人として国体を考え大義を弁ふるものなく、悉く幕府の為に粉骨砕身する事を誓つたのでありました。

 是に於いて其の日晩鐘の頃、義時諸将の主となる者を自宅に集めて軍議を凝らします。時に意見はいろいろに分れましたが、結局足柄・箱根両方の道路を固めて官軍を待受け一戦を試みようといふ案でありました。しかるに、頼朝以来政所の別当として幕府に重用せられて来ました大江広元は、此の消極的防禦策を排斥し、もしかくの如く防禦の態勢をとつて日を送るならば、必ず味方に変化を生ずるであろう、むしろ運を天に任せて京都を攻めるがよいと主張しました。義時は此の攻守両案を以て政子の決断を求めましたところ、政子は直ちに京都に進撃するがよいと、広元の説に賛成しましたので、こゝに幕府の軍勢はいよいよ京都を侵し奉る事となりました。

 しかるに、其の準備に二十日を暮らして二十一日となりますと、又もや異論が現れて、関東を手放しにして京都に進撃する事は、頗る危険ではないかといふので躊躇するに至りました。之を聞いて大江広元がいふには、既に京都に攻め上る事決定したに拘らず、かやうに異論が出るのは、準備に日を送つて直ちに進発しない為である。若しかくの如くして遷延するならば必ず変心を生ずるに至るであらうといひ、広元と相並んで頼朝に重用せられ、問註所の執事となつて居りました三善康信も期せずして同意見でありましたので、こゝに義時はその子武蔵守泰時に命じ、其の夜直ちに出発して京都に向はせる事になりました。即ち賊軍の憚る所なく京都を侵し奉るは、曾て朝廷の寵任を辱うしたる大江広元三善康信此の両人の建議によつたのであります。

 かくて泰時は終夜準備をとゝのへ、二十二日の払暁、僅に十八騎を率ゐて出発しましたが、何分にも帝都を侵し奉り、官軍と戦ふのでありますから、心中まことに安からぬものがあります。『増鏡』によりますと、鎌倉出発の翌日、泰時ひとり帰り来つて、親の義時に面会を求めます。義時胸うちさわぎ、「何事が起つたのか」と尋ねますと、泰時のいふには、「戦略に於いては、仰によつて大体承知しましたが、只一つ思案に余ります事は、官軍もし鳳輦を先立て奉り、錦の御旗をあげて厳重に臨幸遊ばされるといふ事であつたならば、その時には如何致すべきでありませうか、此の一事を尋ね申さん為に、一人馳せ帰つて来ました」と申します。義時暫く考へて居りましたが、やがて之に答へて、

 「かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて、弓を引くことはいかゞあらむ。さばかりの時は、兜をぬぎ弓のつるをきりて、偏にかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし、さはあらで君は都におはしましながら、軍兵をたまはせば、命をすてゝ、千人が一人になるまでも戦ふべし」

といつたと見えて居ります。『明恵上人伝記』や『梅松論』によりますと、泰時は最初父に向つて降参を勧めたが、義時之を聞き入れなかつたとあり、右の『増鏡』の記事と必ずしも一致いたしませんが、いづれにせよ義時父子といへども流石に戦慄し当惑した有様は、之によつて察せられるのであります。

 されば当時若し官軍に智謀と胆略と群を抜く名将があつて、五月十五日伊賀光季を誅戮すると共に、直ちに上皇の親征を秦請し、東海東山の両道並び進み、錦旗いちはやく箱根を越え碓氷を越えるといふ事でありましたならば、諸国の武士の靡く者も少くないばかりでなく、鎌倉の内にさへ態度を改める者が出て来たのでありませうし、それどころではなく、北条氏自身も恐れて降を乞うに至つたかも知れないのであります。惜しいかな、官軍に此の神速果敢の進撃が欠け、僅に濃尾の平野に出て、木曽川を前にあてゝ賊軍の上京を防がうとするに止まつた事は、遺憾としなければならないのであります。しかし、何分にも幕府は武威を誇つて公然と平日より戦備をととのへて居り、此の時の如きも、十九日に初めて報告を得、其の午後態度を決し、其の夕戦略を議した程でありながら、二十五日までに総勢十九万騎悉く進発したといふ程敏活に動けるのに対し、官軍は幕府の目に触れないやうに、密々に連絡を取り、準備を整へるのであつて、いよいよ兵を挙げたとしても、大軍直ちに鎌倉に向ふといふ事は中々容易でなく、出発の遅引したのはまことにやむを得なかつたのでありませう。

 さても賊軍は東海、東山、北陸の三軍に分れ、三道並び進んで京都に迫ります。されば戦は諸方に起りましたが、しかし決定的な戦闘は木曽川に於いて行はれました。当時官軍の部署を見るに、大内惟信筑後有長、糟屋久季等二千余騎は大井戸渡を守り、藤原親頼、神地頼経等一千余騎を以て鵜沼渡を固め、朝日判官代頼清は一千余騎を率いて板橋を守り、関左衛門尉、土岐判官代等は同じく一千余騎池瀬を守り、摩免戸(まめど)は大手、大切の所と見えて、大将能登守秀康、山城守佐々木広綱、下総前司小野盛綱、平判官三浦胤義、佐々木判官高重等凡そ一万余騎を差向け、洲俣(すのまた)は河内判官秀澄、山田次郎重忠等一余騎を以て之を守り、市脇は伊勢守加藤光員五百余騎にて之に当れば、矢野次郎左衛門五百余騎にて薭島に向ひ、即ち総勢一万七千五百余騎、九隊に分れて木曽川の九つの瀬を固めたのでありました。『新撰美濃志』を見るに、

 「凡此川は、往古より東国西国通路立分の要害、軍用の固め第一の切所にて、天武天皇の御軍をはじめ、源平養和寿永のたゝかひ、承久暦応等の合戦、その外数度の軍に、かならず此川を以て勝敗を極め、京方墨俣の陣を破らるれば、宇治勢多等の固めはふせぎえず、必敗軍となり、又鎌倉方此川を渡りえずして引退くときは、矢矧・天龍等の固めを破られ、必ず敗軍となる事通例なり」

とあつて、此の川の軍事上の意義は、簡単明瞭に説かれてあります。さればこそ官軍は、全力を挙げて此の川を守り、その九つの瀬を固めて、攻め上る賊軍を防ぎ留めようとしたのでありました。しかし、何分にも賊軍は大勢であります。『吾妻鏡』によれば軍士すべて十九万騎、之を東海、東山、北陸の三手に分つたとありますが、『承久記』によれば其の東海道に向つたものは十万余騎、東山道五万余騎、北陸道四万余騎といひ、総計して『吾妻鏡』の記事と一致します。されば今木曾川に向つたたものは、その東海東山両道の軍でありますが、此の両道よほど巧みに連絡をとつたものと見え、丁度六月五日といふに、一斉に官軍に向ふ事となつたのであります。即ち、両道を合せて其の勢正に十五万余騎、官軍の一万七千にくらべて、十倍の勢であります。

 かくて六月五日の夕、戦は賊軍が東山道軍の主力を以て、大井戸を攻めたのに始まり、官軍も随分よく戦ひましたけれども、何分にも衆寡敵せず、大井戸先づ敗れて自余の陣も動揺し、遂に総敗軍となつて退却しました。此の時、洲俣を守つた山田次郎重忠は、味方の落ちゆく中に雄々しくも踏み留まり、苟くも勅命を受けて賊の追討に当れるものが、甲斐々々しきいくさもせずに退いては、君の御尋ねあらんに何とか答へ申すべきとて、杭瀬川の西に僅か九千余騎にて控へ、泰時の本陣の兵を迎へ討ち、激戦して散々に之を苦しめ、やがて静かに引上げたのでありました。

 木曽川の敗報京都に至るや、後鳥羽上皇は土御門順徳両上皇を伴ひ叡山に御幸あらせられ、延暦寺の武力を以て王事に勤めん事を命じ給ひましたが、延暦寺は体よく御辞退申しましたので、上皇はやがて京都へ還御あり、六月十二日に至り、大納言藤原忠信、前中納言源有雅、参議藤原範茂、右衛門佐藤原朝俊等の公卿殿上人、また藤原秀康、同秀澄、山田重忠、三浦胤義、大江親広、佐々木広綱、河野通信等の武士、加ふるに法印尊長等の僧侶にいたるまで、要するに官軍その数を尽くして、水尾崎、勢多、供御瀬、宇治、真木島、芋洗、淀、広瀬と、宇治川より淀川の一線に出動し、此の要害によつて賊軍を防がうとしたのでありました。その勢『増鏡』には六万とありますが、『承久兵乱記』には三万七千余騎と見え、『吾妻鏡』や『承久記』を参考すれば、三万数千といふ方が事実に近かつたであらうと思はれます。

 その日、賊軍は近江の野路まで進んで居り、翌十三日野路を発し、道を分けて進撃して、官軍に対しましたが、その武将足利義氏(これは高氏の先祖で、母は北条時政の女、妻はまた泰時の女であったと『足利系図』に見えて居ります)三浦泰村等、密に宇治に進出し、官軍と戦つて敗れましたので、賊軍の志気沮喪(そそう)して、

 「我等いやしき民として、恭くも十善の帝皇に向ひ進らせ、弓を引き矢を放たんとすればこそ、兼ねて冥加も尽きぬれ」

と歎いて、敢えて進む者がなかつたと『承久記』に見えて居ります。官軍に於いては、後鳥羽上皇多年武道を御奨励遊ばされたる事前に述べた通りであり、皇子雅成親王の如きも、上皇の厳訓と称して偏に弓馬の事を好ませ給うたと『明月記』に見えてゐるのでありますから、此の時は志気頗る旺盛、例の山田重忠を始め、将士奮戦大につとめ、一時は却って河を渡つて進撃する勢でありましたが、十四日に至り賊軍勢をもりかへし、官軍は再び総崩れになつて了つたのでありました。しかしながら官軍の善く戦つて、両軍の死傷多数に上つた事は、『吾妻鏡』や『承久記』などに詳しく見えて居り、殊に藤原朝俊。佐々木惟綱、筑後知尚等は、宇治に於いて潔く戦死し、山田重忠、三浦胤義、佐々木経高等は自害して果てたのでありました。

 かやうにして、戦は遂に官軍の敗北を以て終局したのでありました。これは然し官軍の罪ではなく、国民の大多数が賊軍に与した際に於いて、大義の為に奮つて官軍に加はつた人に対しては、深く当時の事情を察します時、まことに感謝に堪へないのであります。されば清水寺の僧侶敬月法師が、官軍に属して宇治を守つた為に、捕へられて斬られようとした時、従容として一首の歌をよみ

 勅なれば身をば捨ててき武士の

  やそ宇治河の瀬には立たねど

と詠ずるや、流石に賊軍も之に感じて、遂に之を斬る能はず、その弟子の僧二人と共に放免したのでありました。

 

   四

 戦後の処分は実に苛察(かさつ)冷酷を極めます。武士僧侶は憚る所なく京都に於いて之を斬罪に処します。即ち判官代錦織義継、蔵人多田基綱、熊野法印快実等も斬られ、また西面の武士検非違使左衛門尉後藤基清、筑後守五条有範、山城守佐々木広綱、検非違使左衛門尉大江能範等は六条河原に於いて斬られました。公卿に対しては流石に遠慮があります。之を京都より引出して、地方に於いて斬るのであります。即ち按察使光親、中納言宗行は共に駿河に於いて、宰相中将範茂は相模に於いて、また宰相中将信能は美濃に於いて斬られました。

 しかも、処分はそれに止まりません。幕府は畏れ多くも上を犯し奉るのであります。是に於いて七月九日、仲恭天皇の御譲位、後堀川天皇の御受禅となり、ついで十三日後鳥羽上皇隠岐の御幸、過もなく二十一日順徳天皇佐渡の御幸、やがて閏十月十日土御門上皇土佐の御幸を拝し奉るのであります。御幸と申しましても、幕府の逆威を以て強ひ奉るところである事は、申すまでもありません。

 隠岐へ向つて御発輦の前、七月八日といふに後鳥羽上皇は鳥羽殿に於いて御剃髪遊ばされます。その御剃髪に先だつて肖像画の名人として知られたる藤原信実を召して、宸影を写さしめ給ひ、御かたみとして之を御母七条院に贈り給うたのでありました。やがて其の月十二日鳥羽殿を御発輦、水無瀬、明石を御通過、美作、伯耆を経て、二十七日出雲の大浜の湊に着かせ給ひ、これより御船に召され、八月五日隠岐の海士(あま)郡苅田郷に着御遊ばされました。悲しみの御幸に御供申上げた人々は、出羽前司藤原重房(『承久記』による、前田家本に弘房、『武家年代記』に清房とあり)内蔵頭藤原清範、婦人には西御方、伊賀局等、極めて少数でありました。この中清範は途中より呼び返されましたので、之に代つて施薬院使和気長成、北面の武士左衛門尉藤原能茂供奉を許され、後より追つて参上しました。

 隠岐の行在所の有様は、『増鏡』に記すところ、要を得て居ります。

  「このおはします所は、人はなれ里遠き島の中なり。海づらよりは少しひき入りて、山蔭にかたそへて、大きやかなる巌のそばだてるをたよりにて、松の柱に、葦ふける廊などけしきばかり、ことそぎたり。誠に柴のいほりのたゞしばしと、かりそめに見えたる御やどりなれど、さる方になまめかしく、ゆゑづきてしなさせ給へり。水無瀬殿おぼしいづるも、夢のやうになむ。はるばると見やるゝ海の眺望、二千里の外ものこりなき心ちする、今さらめきたり。潮風のいとこちかく吹きくるを聞しめして、

    我こそは新島守よ隠岐の海

     荒き浪風  心して吹け

   同じ世にまた住の江の月や見む

    今日こそよそにおきの島守」

これ即ち、今日の海士郡海士村大字海士の地、諏訪湾より入る事四五町、うしろに山を負ひ、前に海を望む所でありまして、風は北海の浪を蹴つてこゝに吹き到り、こゝに到れば更に老杉古松之に激して、海といひ、山といひ、一斉に唸りを発し怒号して止まない、その荒涼たる孤島の行在所に、上皇は寂しく永の月日を送らせ給うたのであります。而して右の「同じ世にまた住の江の月や見む」の御製に拝察し奉る如く、再び京都に御還幸遊ばれる日を、御心待ちに待ち給うたのでありましたが、幕府は何としても御迎へ申上げず、そのまゝ幾年も過ぎていつたのでありました。その間に詠みいで給うた御製『後鳥羽院遠島御百首』として伝はりますものゝ中より、幾首かを左に抄出します。

 

   春

墨染めの袖の氷に春たちて

 ありしにもあらぬながめをぞする

百千鳥囀る空はかはらねど

 我身の春はあらたまりぬる

詠むれば月やは有りし月ならぬ

 うき身ぞ本の春にかはれる

物思ふにすぐる月日はしらねども

 春や暮れぬる岸の山吹

 

   夏

けふとてや大宮人のかへつらん

 むかしがたりの夏衣かな

今はとてそむきはてぬる世の中に

 何とかたらん山ほとゝぎす

みの憂きはとぶべき人もとはぬ世に

 哀に来鳴く 時鳥哉

あはれにもほのかにたゝく水鶏かな

 老のねざめの 暁の空

 

   秋

よのつねの草葉の露にしをれつゝ

 もの思ふ秋と誰かいふらん

いたづらに秋の日数はうつりきて

 いとゞ都はとほざかりつゝ

おもひやれいとゞ涙もふる里の

 あれたる庭の萩の白露

よもすがらなくや浅芽のきりぎりす

 はかなく暮るゝ秋を恨みて

 

   冬

見し世にもあらぬ袂をあはれとや

 おのれしをれてとふ時雨かな

おのづから問ひがほなりし萩の葉も

 かれがれに吹く風のはげしさ

あをむとて恨みし山の程もなく

 また霜枯の風おろすなり

ふゆごもり淋しさ思ふ朝な朝な

 つまぎの道をうづむ白雪

 

   雑

なまじひにいければうれし露の命

 あらば逢ふ瀬を待つとなけれど

問はるゝもうれしくもなし此海を

 渡らぬ人の なけの情は

とにかくに人の心も見えはてぬ

 うきや野守のかゞみなるらん

限あれば萱が軒端の月もみつ

 しらぬは人の行末の空

 

かくて孤島の御幽居、春風秋雨十九年、延応元年(1239)二月二十二日に至つて、遂に崩御遊ばされました。時に宝算六十歳。逆算すれば承久三年には、御年四十二歳におはしましたのであります。北条氏逆威をほしいまゝにし、天下只功利に就いて之に屈服して居りました時、敢然之を討伐して道義の尊厳を世に示し、皇国日本の正しい姿を顕はさうとの御志も遂に空しく、北海の怒涛に安き御寝もならせられず、御憂愁の月日を送らせ給ふ事十九年にして、後鳥羽上皇崩御遊ばされたのであります。

 

   五

 後鳥羽上皇崩御の後、その御ゆかりの地、摂津水無瀬に御影堂が立てられ、上皇を御祀り申上げる事となりました。水無瀬は今の大阪府三島郡島本村であります。此の地は山城の乙訓郡山崎と隣接して居ります。山崎といへば其の地勢大抵想像されるでありませうが、一方に天王山、一方に男山、山々南北より相迫るところ、淀の大河之を衝いて西に流れて居るのでありますが、山河の此の形勢は、山崎を自ら京都の咽喉たらしめ、山陽西海南海三道に往返する者、此の路に遵はざるはなしと古記に述べて居りますやうに、昔より交通の要衝となつて居り、而して一旦兵乱に及べば、此の地は必ず敵味方争奪の目標となつたのであります。たとへば羽柴秀吉明智光秀を討つに当つては、光秀先づ山崎を扼して之が防がんとし、而して秀吉は之を衝いて進まんとし、両軍此の地に於いて火花を散らして戦つたのでありました。かやうに交通の要衝であり、両軍の基地であるばかりでなく、山河相依つて、自然の美を発揮し、山崎は古来景勝を以て謳はれたのであります。されば、古くは河陽の離宮此の地に設けられたのでありました。従つてそれに隣接せる水無瀬も古くより著れ、寛平の菊合には最初に山城皆瀬の菊が歌はれ、(皆瀬は即ち水無瀬であります)『伊勢物語』には、惟喬親王の御殿水無瀬に在り、在原業平宮の御供してこゝに遊び、有名なる、

  世の中に絶えて桜のなかりせば

   春の心はのどけからまし

といふ歌をよんだ事が見えて居ります。後鳥羽天皇は此の地の風景を深く愛し給ひ、こゝに離宮を建てゝしばしば行幸遊ばされました。『増鏡』にも、

  「猶又、水無瀬といふ所にえもいはずおもしろき院づくりして、しばしば通ひおはしましつゝ、春秋の花紅葉につけても、御心ゆくかぎ   り、世をひゞかして、あそびをのぞみしたまふ。所がらも、はるばると川にのぞめる眺望、いとおもしろくなむ。元久の頃、詩に歌をあらせられしにも、とりわきてこそは、

    見わたせば山もとかすむみなせ川

     ゆふべは秋となに思ひけむ

  かやぶきの廊、渡殿など、なるばると、艶にをかしうせさせ給へり。御前の山より、滝おとされたる石のたゝずまひ、苔深きみ山木に、枝さしかはしたる庭の小松も、げにげに千世をこめたる霞の洞なり」

と見えて居ります。されば隠岐御遷幸の際にも、途中この地を過ぎさせ給ひて、御感慨一層‘であらせられたのであり、また隠岐へ移らせ給うて後は、水無瀬殿の荒廃を憂へさせ給ひ、

  水無瀬山わがふるさとは荒れぬらむ

   まがきは野らと人もかよはで

と歌はせ給うたのでありました。

 それ故に隠岐御遷幸の後は、この御殿は水無瀬信成、親成父子が、勅を承つて之を之を守り奉り、御還幸の日を御待ち申上げて居つたのでありました。水無瀬家は藤原氏北家、道隆の流であつて、後鳥羽天皇の御生母七条院の御里方に当ります。その七条院の兄内大臣信清の子、権大納言忠信は、承久討伐の御企に参画して、事敗れたる後越後に流されましたが、其の子が即ち参議信成でありました。尤も実際は一族親兼の子でありましたが、後鳥羽天皇の勅によつて、忠信の養嗣子となり、水無瀬一流の嫡家となつたのでありました。

 さて延応元年二月九日、後鳥羽上皇崩御の前十四日に当り、特に御手印の御置文を信成、親成父子に賜ひ、御所労の次第に重りていよいよ御最期の近づきしを告げ給ひ、多年の忠節を嘉賞し給はんとして、しかも万事叡慮のまゝならず、やむなくたゞ水無瀬井内両所を賜はる間、長く此の地を領して天皇を祀り奉るべしと仰せ下されたのでありました。而してやがて崩御遊ばされるや、御遺骨は能茂之を首に懸け奉り、京都へ御供申上げ、大原に葬り奉つたのでありました。能茂は即ち前の北面の武士左衛門尉能茂、今は入道して西蓮法師、十九年の隠岐の御幽居に、終始御側近く御仕へ申上げた人であります。

 是に於いて信成、親成父子は、水無瀬の御所のうちに御影堂を設け、ここに天皇の御影を掲げ奉つて、御祭り申上げました。御影は先きに承久の役の直後、藤原信実を召して描かしめ給ひ、御母七条院に贈り給うた一幅の外に、隠岐御在島の砌、御みづから鏡をとつて写さしめ給うた法体の御像一幅、併せて二幅あり、それに前に述べました御手印の御置文を御一緒に神殿に納めて祭り奉つたのであります。その御祭の儀式を見ますに、殆んど御在世の君に仕へ奉るが如き感じであります。たとへば其の御供物の如き、三月三日には赤飯の外に桃の花と菱餅とを掲げ、五月五日には黄白の強飯の外に菖蒲と粽とを奉り、秋には瓜に茄子、また栗を供へ奉るといふ風でありました。水無瀬家がかくの如き真情至誠を以て謹んで奉斎し、親より子に伝へ、孫より曾孫に至り、時移り代替るといへども、一意専心後鳥羽天皇にお仕へ申上げ、代々奉仕して七百年の長きに亙り、以て今日に至つたいふ事は、まことに尊く有難い事と申さねばなりません。

 然るに天皇崩御の後約百年、その御精神を受け伝へ給うて、後醍醐天皇は遂に北条氏を討ち亡ぼし、幕府を覆して王政を古に復し給うたのであります。後鳥羽天皇が天がけりて之を御満悦遊ばされました事、拝察に余りある所であります。されば軈(やが)て正平年中、後村上天皇は宸筆の御願文を水無瀬の御影堂に納め、御影堂を造替して荘厳なる神宮とし、慇懃の報賽を致し奉らんとの叡慮を述べ給うたのでありました。然しながら南風競はず、天下再び逆賊の跳梁する所となつて、此の御願は遂に之を果し給う事が出来なかつたのであります。

 やがて明応三年(1494)に至り、後土御門天皇は、天下の擾乱静謐の御願の為に、水無瀬神と申す神号を贈らせ給ひました。明応といへば丁度応仁文明の大乱の直後でありまして、万民私利を競ひ、四海の動乱いつ果つべしとも見えなかつた時でありまして、その為に宸襟を安んじ給はず、かやうに御祈願のありました事は、まことに恐懼に堪へない所であります。

 さても後鳥羽天皇の御志は、一旦後醍醐天皇建武の中興によつて成し遂げられたやうに見えながら、しかも惜しいかな足利の出現によつて再び敗れましたが、六百年の後明治天皇の維新の大業によつて見事果たされました。明治維新の原動力が建武の中興に在る事は、天下の周(あまね)く知る所であります。しかるに建武の中興は、承久の御企をその先蹤とするのであります。従つて明治維新の原動力としては、承久の御企が強く働いて居る事を知らなければならないのであります。さればこそ愈々維新の大業が成就いたしまするや、明治天皇は勅を下し給ひ、水無瀬宮を以て官幣社に列し給ひ、後鳥羽天皇の外に、土御門順徳両天皇を合せ祀り給うたのであります。時に明治六年(1873)でありました。

 其の後御神徳愈々輝き、今年丁度その七百年の大祭を前にして、去る三月一日特に神宮の嘉号を贈り給ひ、官幣大社に列せらるゝ旨仰出されました事は、まことに畏(かしこ)き極みであります。

 

                               (『後鳥羽上皇うぃ偲び奉る』昭和十四年三月、水無瀬神宮社務所

 

これは、吾が郷里福井の碩学である平泉澄博士の諸論文を、老先生の遺徳を偲んで提出するものである。一部改変を施したが、論述の主旨は原文通りである。