正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

旧家 平泉澄

旧家

平泉澄

 

 アッチラ(五世紀中頃のフン族)の劫掠(きょうりゃく)とサラセン(イスラム帝国)の侵入とは、恐るべき脅威として、西欧の記録する所である。しかるに我等は、残虐なる事それに幾倍する侵寇(しんこう)を受けた。わづかなる例外を除いて、都市という都市は、一望の焦土と化し、中には原爆の為に、一瞬にして完全に死滅せるものもあつた。しかも更に苛酷一層の加えたるものは、足掛け八年に亙る、史上空前の戦後占領であつた。物心両面の圧迫は、山河為に形をかへ、草木為に色を変ずるかとさへ思はれた。十年の前と、十年の後とを比較する時、それは殆んど世界を異にする感じである。

 しかるに此の大いなる変動にも拘らず、我国はなほ多くのものを保存し、保有してゐる。幸にしてこの災厄を免れたる物を見る時、我等の感慨は深い。ましてこの試練に耐へて、毫(わずか)もたじろがざりし心に対しては、真に感慨やむ能はざるものがある。是等はこれ史家の、特に注意して、後世の為に記録すべきところである。焼けたものは何々であつたか。残つたものは何々であつたか。敵に通牒したものは誰々であつたか。降伏し慴伏(しょうふく)し阿諛(あゆ)し迎合したものは誰々であつたか。屈する事なく恐るゝ所なく、その所信を枉(ま)げざりしものは誰と誰とであつたか。正にこれ史家の筆を執るべき好題目では無いか。

 歴史をかへりみるに、大変動大災厄は、百年二百年三百年を隔てゝ、しばしば到来してゐる。幕府の瓦解、大阪城の陥落、応仁の大乱、更に遡っては、建武である、承久である、寿永である。それらは、それぞれに、世の中の情勢の、驚天動地の大変転であつた。従つて其の転変に耐へて、よく古きを保持しつゞけて来たものは、松柏の操節、偉なりとしなければならぬ。私はかねてよりかゝる旧家うぃ捜索し、調査し、之に就いて一書を著さうと念願して、よりより資料を集めてゐたが、それは大抵戦災の為に烏有に帰した。よつてこゝには、不完全ながら、いくつかの例を挙げて、その一斑を説き、あとは更に博雅の士の指示を仰ぎ、後賢の研究にゆだねたいと思ふ。

 戦後を故山に隠退してゐた私としては、自由に四方をかけ廻る便宜をもたないので、自然身近いところから、話を始める事にする。先づ福井である。福井は最近に二度も災害を受けた。一度は戦災である。戦災は、此の町の九割五分を焼いたと伝へられた。しかるに其の災禍の中に、やうやくにして起ち上つたところを、ふたゝび震災に見舞はれた。震災は火災を伴ひ、町はかさねて焦土と化した。町の容貌は、こゝに於いて一変せざるを得ぬ。三百数十年に亙る城下町の、想出多き町通りや家並の情趣は、今は何処に求めてよいであらうか。しかるに仔細に見てゆくと、こゝにも災厄に失はれずして、生きのびてゐるものが段々ある、たとへば木田神社を中心として、その周囲一帯は、不思議に戦災、震災いづれの火災をも免れて、幸に旧態を残したが、その中に、橘家がある。橘家は、歌人として有名な橘曙覧(1812―1868)の本家に当り、戦国時代より著聞した名誉の旧家であつて、家には弘治三年(1557)を始めとし、元亀・天正以降数多くの古文書を伝へてゐる。

 一体この福井といふ町は、古くは北の庄と呼ばれてゐたが、それが越前の中心として、大きく発展するに至つたには、第一には朝倉氏滅亡(天正元年・1573)の後、一乗谷の社寺民家を此処へ吸収し、一乗谷に代つて、政権の所在地となつたからであり、第二には結城秀康(1574―1607)こゝへ封ぜられるに及んで、その養家の根拠地であつた下総の結城から、寺院を移し。家臣を転住せしめたからであつた。従つて福井の町は、大きく分けるならば三つの種類の集合である、即ち北の庄固有のもの、一乗谷伝来にもの、及び結城より移転のもの。是れである。寺院に於いて之を見れば、心月寺(曹洞宗)、安養寺(浄土宗西山禅林寺派)、西山光照寺天台宗真盛派)、岡西光寺(天台宗真盛派)、長運寺(天台宗真盛派)、西念寺真宗大谷派)、西厳寺(天台宗)、法興寺浄土宗西山禅林寺派)、本妙寺法華宗)、妙経寺(法華宗)、顕本寺法華宗)等は、いづれ一乗谷もしくは其の周辺の地より、移転し来つたものであり、而して孝顕寺(曹洞宗・単立)、不動院、医王寺、普賢寺(天台宗真盛派)、常福寺真宗三門徒派)、安穏寺(曹洞宗)、華蔵寺(臨済宗妙心寺派)、乗国寺(曹洞宗)、妙国寺法華宗)等は、下総の結城から移されたものであるといふ。寺がかやうに移されてゐる程であるから、従臣家士隷卒商賈の、伴随移動した様子も、大概推測せられるであらう。之に対して、前に述べた橘家の如きは、北の庄固有の旧家であつて、蓋し第一種の中の錚々たるものといふべきであらう。

 橘家を第一種の中の錚々たるものとすれば、第二種の白眉としては三崎家を挙ぐべきであらう。三崎氏は元来朝倉の支族である。系図によれば、朝倉広景の子に高景、高景の子に氏景・弼景の二人があつて、兄の氏景は朝倉の本家をつぎ、弟の弼景は分かれて三段崎氏を名乗つた。之を三段崎(みたざき)氏の第一代として、六代目の安指、初め松之丞(じょう)と称したが、この人医学を一栢に受け、その養嗣となり、姓を改めて三崎といつた。これが今の三崎家の第一代である。一栢といふは、戦国時代に於いて有名なる学者であり、すぐれたる医師であつた。天文年間鉄砲の伝来を記録した有名なる『鉄砲記』は文之玄昌の作つたものであるが、その文之玄昌の文集である『南浦文集』の下巻に、僧徒に寄する詩を載せて、その序に、

  「予生れて六歳の時、老父予をして天沢老師の室に入れて以て僧となさしむ、それよりこの方指を屈するときは、則ち殆んど五十七年なり、不幸にして老師早く予を弃(す)てゝ物故す、時に老師六十一歳にして予十四歳なり、老師といふは何人ぞ、即ち前(さき)の建長雲夢大和尚の徒弟にして、其の諱を崇春といふ、十九歳にして東関の郷校に赴いて隷止するもの五六年、学徒の時、崇春を改めて不閑と名づく、しばらくあつて越の前州一栢上人の門に入つて、典籍を学ぶもの十有余年、功成り名遂げて、四十九歳にして日州の肥水南陽の故里西光の枌(そぎ)寺に帰つて、蓍室(ししつ)(卜筮の部屋)を目井の延命古寺に造り、占筮の学を業とす、予の僧苗となるは此の時なり」

とある。文中東関の郷校といふは、蓋し下野の足利学校であらう。即ち是れ戦国時代に於ける唯一の 大学であつた。さればこそ天沢崇春は、九州の果、日向より、千里を遠しとせずして、こゝに赴き学んだのである。しかるに天沢は、足利学校に学ぶこと五六年、こゝに満足する能はずして、転じて越前一乗谷に赴き、一栢を師として学び、随従十有余年、遂に功成り名遂げたといふのである。若し足利学校を大学といふべくんば、一栢の教室は正にだ御学院に当るであらう。一栢が当時の学界に於ける地位。以て察すべきである。

 安指は天文元年(1532)十八歳にして此の一栢の養嗣となり、その医学を受け、その秘伝をついだ。従つて一栢蔵する所の重要なる医書は、この一系に伝へられた。安指は初め松軒と号したが、後に玉雲軒と改めた。それより後、代々玉雲軒の号を襲ひ、以て今日に至つてゐるのである。初代の玉雲軒、即ち安指は、慶長十二年(1607)十二月七日、九十五歳にして歿した。二代玉雲軒、諱は宗晴、正保二年(1645)七月十二日に歿した、享年実に一百二歳であつた。三代は宗益、越前藩主松平光通の侍医となつて禄三百石を賜はり、元禄八年(1695)七月二十五日、八十歳にして亡くなつた。次は道庵、享保十八年(1733)八十七歳にして卒し、弟宗伯家をついだ。宗伯の卒したのは享保十九年、七十八歳であつたといふ。代々の長寿、いかにも名医の家らしく、ゆかしい話である。

 福井市の中央を流れてゐるのは足羽(あすわ)川である。足羽川に架するところの橋、いくつかある中に、古くして名高いものは、九十九(つくも)橋であつて、普通に大橋とよばれてゐる。今は形も変り、趣も失はれたが、元はその半を石橋として堅固に造り、半を木橋として普通に架けてあつた。それは大洪水の時に、全体崩れないで、木橋ばかり流失するやうにして置けば、あとの再興が容易であるからといふ慮による事で、「大なる橋は、いづかたの橋もかくなしたきものなり」と、橘南谿(1753―1805)は『東遊記』の中で感心をした事であつた。其の大橋のあたり、川の左右両岸、みな両度の災厄を受けた中に、足羽山に近く吃立する鉄筋コンクリートの建物が目につく。猛火は之をも包んだ為に、外壁はいたく損じたが、主体は無事に残つた。これ即ち玉雲軒三崎家の偉観である。今以て名医のほまれあり、家には一栢伝来の医書と秘法を伝へ、一栢以来の良薬を練って、済生の大事を担当して居られるのである。医書のうち最も注意すべきは、天文五年版の『八十一難経』三冊であつて、これは朝倉孝景(十代目当主・1493―1548)が資を投じて出版上木せしめたものであり、一乗谷の文化を語る重要なる遺品である。我等は未だ此の本の他所にあるを聞かないのであるが、若し果たして他にはでんはつてゐないとすれば、これは天下の孤本といふべきであらう。但しこの本に就いては、別に紹介する機会があるであらうから、こゝには省略しよう。

 次に一栢伝来の良薬といふのは、牛黄円のの如き、その最も有名なるものである。牛黄円といふ薬は、室町時代には頗る珍重せられたもので、関白(一条)兼良(1402―1481)の作といはれる『尺素往来』には、牛黄円は、蘇合円、至宝丹、脳麝円などと共に、「当世人々の火燧(ひうち)袋の底、面々の小薬器の中に、必ず之をつゝみもち、貯へざるを以て耻辱となし候」と書いてある。即ちこれは中世文化人の必需必携の薬であつたわけである。室町幕府の沙汰人である蜷川新右衛門尉親俊(―1569)の(親俊)日記を見ると、天文年間(1532~1555)の事であるが、牛黄円を贈答してゐる記事が散見してゐる。その牛黄円の秘法が今に三崎家に伝はつてゐる事は、珍重しなければならぬ。(玉雲軒三崎家に関しては(https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=010-290059-0)〔筆録者・注〕)

 このあたりで福井と別れて、敦賀に目を転じよう。敦賀も戦災の痛手をうけた町である。惜しい事には、気比神宮も災厄にあはれた。しかし佐渡の山から伐り出した榁(むろ)の樹を以て造られたといふ、正保二年(1645)の大鳥居は、幸にして火をまぬがれ、朱の色もあざやかに、日に映えて立つてゐる。市外へ出れば、流石に大抵昔のまゝに残つてゐるところが多い。一体加賀越前は、戦国紛乱の時代に、一向一揆の跳梁によつて、古いものが皆破壊せられたのであつて、其の災禍の広く且つ深い事は、意想外に及んでゐる。就中加賀は、守護の富樫(とがし)政親(1455―1488)が、はやくも長享二年(1488)に亡びた為に、それより八九十年の間は、一揆の自専にに委ねるのやむなきに至つた。時の天台座主青蓮院門跡尊応准后(―1514)、之を憂ひて本願寺に制止を加へるやう要求した事は、『華頂要略』に見え、本願寺蓮如(1415―1499)も門下の悪行を言語道断の次第として停止を厳命し、今後かくの如き乱行を為す者は、永く「聖人の御門徒中」より追放する旨を宣言した事は、「光徳寺文書」や「真念寺文書」に見えてゐるが、猶彼等の跳梁を如何ともする事が出来なかった。之に反して越前の方は、朝倉の武力よく一揆を撃退し鎮圧するに堪へたので、加賀に比すれば八十数年遅れたが、八十数年たつて天正元年(1573)、朝倉義景(第十一代当主・1533―1573)の亡びた隙に、忽ち一揆の侵入暴発を見、間もなく織田信長(1534―1582)の武威によつて鎮圧せられたとはいへ、一たび破壊せられたものは、また之を復旧する術が無かつた。かやうにして加賀越前は、古き文化のあとを尋ねようとして、手がかりの多く失はれた事を歎かねばならないのであるが、若狭に入ると情勢は一変する。即ちこゝには加越の如き破壊が無く、旧物旧慣のよく保存せられてゐるのを見るのである。而して敦賀郡の如きは、あだかも其の中間に位して、戦禍を受けてゐるが、古いものも随分残つてゐるやうである。

 敦賀より船に乗れば、しばらくして常宮に達する。常宮は本来ツネノミヤであつたらうが、後世は専ら音読してジヤウグウと呼んでゐる。神功皇后を祀る神社として著聞してゐるが、その拝殿の海中に突出して、さながら浮御堂のやうに浪に浮んで見えるのは、頗る神韻に富むものと云つてよい。社宝の中に「太和七年三月日菁州蓮池寺鐘成云々」の銘のある朝鮮鐘があつて、人のもてはやすところとなつてゐる。人によつては、之を我が国孝徳天皇の御代白雉四年(653)に当るとしてゐるが、それは誤であらう。蓋しその説は、太和を以て新羅の真徳王の年号と見るのであるが、真徳王の代には、太和の年号はあるにはあるものゝ、それは三年もしくは四年にして廃止せられたのであつて、太和七年とはいはなかつた筈である。即ち『三国史記』の「新羅本記」を見るに、真徳王の元年秋七月改元して太和といふとあり、同書の年表に於いては、真徳王の二年改元して太和といふとあり、同じ書物の中に両様の記載があるが、しかし同王の四年遂に新羅独自の年号を廃して、唐の正朔を奉ずるに至つたといふ点では、本記も年表も一致してゐるのであるから、太和三年又は四年はあり得るが、七年はあるべきでなく、それは永徽󠄀四年又は五年と書かるべきであらう。従つて今の鐘に見る太和七年は、唐の文宗の年号であつて、我が天長十年(833)癸丑に当るとしなければならぬ。それにしても一千一百二十余年の歳月を経過してゐて、頗る珍重に価するものである。『東遊記』を見ると、橘南谿は此の鐘をよろこび、其の音を聞きたいと思つたが、撞(つ)く事禁制とあつて、撞くわけにはゆかず、日暮には入相(いりあい)の鐘をつくといふので、それを聞かうと思ひ、それまでの間を山登りしたところ、帰つて来た時は既に入相を過ぎて、遂に聞く事が出来なかつたといひ、「残念いふばかりなし」と記してゐる。

 太和の鐘も古いが、更に古いのは、この常宮の浦に見る上小屋・下小屋である。古いと言つても、無論小屋の建物そのものをいふのでは無く、其の風習をさすのである。即ち此の村には、村全体として、上小屋を一つ、下小屋を一つ、建てゝある。下小屋は産婦出産の時に、三週間ばかりの間、こゝに籠るのであり、上小屋は、婦人が月の障りの間、こゝへ来て炊事をするのである。下小屋の方は、居を別にするのであり、上小屋の方は、火を別にするのが、主眼だといふ事である。海辺のなぎさに、鵜の羽を茸草にして、産屋を造り、其のいまだ茸きあへぬに、産屋に入りました昔の偲ばれる、古い風習といはねばならぬ。このやうな小屋の、最も原始的であるのは、立石岬(敦賀市立石)の村々だといふ事であるが、次に説く東浦村〔現在は敦賀市編入、筆録者・注〕江良の刀禰(とね)家の如きは、自家専用の産屋をもつてゐたのである。(刀禰家に関しては(https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=010-291165-0)〔筆録者・注〕)

 東浦村は敦賀湾の東海岸一帯に、帯のやうに長く連つてゐる村であつて、そのうち赤崎といふは、小浜の支藩酒井氏一万石の麴山陣屋のあつたところであり、五幡(いつはた)おいふは、大伴家持(かへるみの道行かむ日はいつはたの坂に袖振れ我をし思はゞ 万葉集巻十八)以来しばしば歌に詠まれたところであるが、その赤崎と五幡との中間にあるのが、江良であり、刀禰家はその江良の北端にある。刀禰といふのは、『延喜式』や『朝野群載』などにも見えて、古い称呼であるが、簡単にいへば世襲の村長といつてよいであらう。敦賀郡には、その刀禰を氏とする旧家がいくつか残つてゐるやうであるが、江良の刀禰氏は、文書記録の徴証すべきものを、かなり多く相伝してゐる。就中注意すべきものは、元禄十五年(1702)に刀禰吉家、時に六十二歳であつたが、代々の掟を書きするして、後世子孫の誡とした「家法」一冊である。今少しく之を紹介するに、

  • 親兄弟相果申とても、持方へ入申間敷候」

持方といふのは、後文に「刀禰家持申者」とあると照し合せて、家督を相続してゐる当主の住居するところ、即ち本家をさすのであらう。「一、                 親兄弟相果てても持方へ入れてはならぬといふは、この家不浄を忌み、死の穢を避けるのであらう。

  • 産の女、刀禰家にて子をうみ申間敷候」

これは上に述べた常宮の下小屋の風習と同じく、産婦は之を別の建物に移したのである。

  • 女たや有之内は、別家にて食をたべ可申候事」

これは常宮の上小屋に当る定である。「たや」は蓋し「他屋」であつて、月の障りある間、別室に於いて食事をするところから起つて、やがてさはりそのものを、「たや」と呼ぶに至つたものである。

  • 四足二足の鳥けだ物を、刀禰家持申者は、たべ申間敷候」

鳥獣の肉食を禁ずるのであるから、この家の当主は、常に精進料理である。葷酒山門に入り、寺内に鋤焼の香のする世の中に、戒律の厳重なる生活を、かゝるところに見出した事は、私にとつて一つの驚きであつた。

  • 刀禰家持申者は、かん(寒)の入りより正月朔日迄、かんこり(寒垢離)と申而、毎日朝、水をあび申事也、若老か、又は病気候は、かん入に一日、正月一日迄かつゑ(?)、極月廿四日のあさより、正月一日迄、日数九日、水あび可申者也」

寒の入りは、今は正月の六日ごろであるが、それは太陽暦による為であつて、昔の太陰暦では、十二月の初めに来る筈である。従つて寒の入りより正月朔日までの寒垢離といへば、小寒大寒を通じて一ヶ月の苦行である。その寒垢離、毎朝水をあびるのだと書いてあるが、実は家のうしろ、山の下に小さな池があつて、こゝへ入つて水垢離をとるのださうであるから、戸外といひ、山の湧き水といひ、寒冷骨身にこたへるに相違ない。刀禰の当主として、家を相続してゆく事、また難しといはねばならぬ。次に一条省略して、その次は

  • 霜月朔日と、正月朔日には、氏神山王権現え(へ)御供そなへ申事也、霜月には何にても御ぜんさい壱ツ、大かたは、もみな也、御せん弐ぜん、壱ぜんは氏神、壱ぜんは伊勢天照大神宮、気比天神宮、又は常宮権現様へ、そなへ申事也、おがみやうは、天下大へひ、国土あんおん、村中息災とおがみ申事、

正月朔日には、御せん弐せん、刀禰さらとて、壱ぜんに七ツづゝ、何にてもそなへ物とゝのへ次第也、御供は、白米壱升三合か、縦(たとい)何升にても、は米(端米)は三合也、御せんにもり、是をきやうと名付、中お(を)わらにておひ仕候」

尚このあとに、神前の御供に就いて、懇々と法式が説かれてゐるが、今は省略‘しよう。

 氏神山王の祠は、水垢離をとる池から見上げる山の中腹にある。この「家法」の前文に、「若相背者於之は、氏神刀禰の先祖山王権現の御ばち」を蒙るであらうと書いてあり、また寛文十一年(1671)六月十日に、奉行所へ書上げた覚書にも、「江良氏神山王権現は、我等の先祖にて御座候」とあつて、実に此の家の先祖と考へられてゐるのである。その先祖の神に祈るに、天下泰平、国土安穏、村中息災を以てして、少しも一家の私事に及ばないのは、注意すべき点であらう。「是をきやうと名付」の「きやう」は、恐らく「饗」であらうか。若し果してさうであれば、それは『源氏物語』(たとへば桐壺の巻に、光源氏元服の時、「所々のきやうなど(中略)きよらをつくしてつかうまつれり」とある)等に見えて、古い語である。それは元来は饗応即ちもてなしの意であらうが、やがて直ちに料理を差し膳部を指すに至つた事は、『源平盛衰記』巻四十二、金仙寺観音講の事の条に、「本尊は観音、所の名主百姓が集まりて、月次(つきなみ)の講営とて、大饗盛(も)り竝(なら)べ盃居(す)ゑて、既に行はんとしけるが、長(おとな)百姓は善(よし)とのめ、若者共は悪(あしゝ)ときらふ」とあるなどによつて知られる。

 何といふ敬虔にして謹厳なる生活であらうか。その家は、産のけがれを忌み、月の障りを忌み、死のけがれを忌み、而してその当主は四足を遠ざけ、二足を嫌ふ。寒中一ヶ月は池に入つて水垢離を取り、祖神を祭るには、きびしく古法を守り、神前にぬかづいては、専ら天下泰平、国土安穏、村中息災を祈願する。つゝしみ深くして、清らかに、しかも剛直不屈の生活態度といはざるを得ない。私は弱冠二十五歳の時、一たび此の家をおとづれたが、老人頗る頑固であつて、古文書記録を見る事は許さなかつた。その後三十五年を経て、最近ふたゝび往訪の機会を得た時には、当主は快く相伝の文書を見せてくれられた。その中には別の意味で面白いものも随分あつたが、私の最も感歎し随喜したのは、実に此の「家法」一冊であつた。

 転じて若狭び入る。こゝに一つ、旧家の廃絶して、私の胸をいたましむるものがある。そ

れは遠敷(おにゅう)郡遠敷村(現在は小浜市編入・〔筆録者・注〕)若狭彦若狭姫神社の

旧神官牟久氏である。同社は、『延喜式』に、若狭比古(ひこ)神社二座、名神大とあり、

『三代実録』貞観元年(859)正月二十七日の条に、若狭比古神に正二位、若狭比咩(ひ

め)神に従二位を授けられた事が見え、比古神は当国一宮と呼ばれ、比咩神は二宮と呼ばれて、頗る尊信せられた神社であるが、両社創立以来の神主として社務を執行したのは、笠の朝臣と称する牟久氏であつた。而して其の系図は一巻、今も伝はつてゐるが、それは古い部分と、後代の書入の部分とから成つて居り、古い部分は正平六年(〔観応二年〕1351)直後のものと思はれる。しかるに此の系図とは別に今一巻、絵系図と呼ばれるものがあつて、代々の社務神主の肖像を列ね、一代は神の姿に、次の一代は凡人の形に、交互して描いてゐる。それは「従五位下朝臣景尚 歳七十、従五位下朝臣景継歳二十五」といふに終つてゐるが、景尚が七十歳にして卒したのは、建長四年(1252)の事であり、景継はその子で、十二代目の神主に任ぜられたが、元久二年(1205)に生れて正安元年(1299)九十五歳を以て卒してゐる。かやうに鎌倉時代に描かれた歴史の肖像画一巻と、吉野時代に書かれて、更に後代の書継ぎを添えた系図一巻とが備はつてゐて、旧家たるを示すに申分のないに拘らず、其の家、折角(せっかく)明治維新まで伝はつて来て居りながら、明治に入つて遂に退転して了つたといふは、惜しむべき事ではないか。

 一宮の神主笠朝臣の家は不幸にして絶えたが、こゝに旧家の連綿として伝はるもの大音(おおと)家がある。所は三方郡三方町神子(みこ)(現在は三方上中郡若狭町編入・〔筆録者・注〕)、元は西浦と呼ばれ、それが田井と合併して西田村となり、更に三方町と成つたもので、町といつても商店櫛比の市街ではなく、うしろに山を負ひ、前に海をひかへ、晴れては舟をあやつり、降れば網をつくろふ漁村であるが、こゝに大音といふ旧家があつて、八百年の来歴を徴証すべき古文書を襲蔵してゐる。その古文書の中に、一巻の系図があつて、書風から見て吉野時代と考へられ、内容から推定して正平九年(〔文和三年〕1354)後、間もない頃に書かれたものと思はれるが、それによれば大音氏は本来伊香氏であつて、本貫は近江の伊香郡伊香具村大字大音であつたらしい。「当氏根本者、伊香大社王子神伊香尊也、(中間三字ばかり虫喰欠字)自社伊香尊十八世孫也」と書起して、近江国香大社神主安助に数人の子があつて、長男助吉は父祖の後を承けて伊香の神主となり、四男神四郎安宗、若狭国三方郡内御賀尾常神両浦開発の領主となり、嘉応二年(1170)十月、院庁の下文を賜はつたが、源兵庫頭頼政の息女若狭尼御料の御下知以下の重書は、去る文和三年(1354)十二月十日の夜□(一字欠、恐らく討の字であらう)の時、敵の方へ取られて了つたと書いてある。(大音家文書に関しては(https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=010-291358-0)〔筆録者・注〕)

 長男助吉の継いだ本家は、近江の伊香郡に今も存してゐて、私は思ひよらず当主豊太郎翁に、近江神宮で会ふ事が出来た。白髯豊かに垂れて、いかにもかゝる旧家にふさはしい風貌である。本家の方は元のまゝに氏を伊香といふ、氏は伊香と書いてイカとよみ、山の名は伊香胡と書いてイカゴと呼び、神社と村名とは共に伊香具と書いてイカグとよみのだといふ。郡の名も伊香と書いて、今はイカと呼んでゐるが、『和名抄』に伊香古とあるを見れば、本来すべてイカゴであつて、それが転訛してイカグとなり、省略してイカとなつたものであらう。神社は『延喜式』に伊香具神社名神大とある。祭神は、意富杼(おふと)王と伝へてゐるが、しからば継体天皇の御祖父に当られる筈である。即ち『釈日本記』に引く所の「上宮記」によれば、応神天皇の御子若野毛二俣王、その御子大郎子、一名意富富等王、その御子汙斯王(うしのおおきみ)、一名彦主人王、その御子乎富等大公王、即ち男大迹(おおと)天皇とあつて、応神天皇には皇孫に当り、継体天皇には御祖父に当られるのである。而して汙斯王は、弥乎国(みおのくに)高島宮にゐましたとあるが、是れ即ち伊香郡の隣郡高島郡の内であらう。また継体天皇の御母は振姫、三国坂井県の御生まれであり、よつて天皇は御父汙斯王のなくなられて後は、御母と共に里方へ移られ、多加牟久の村で育てられたといふのである。坂井県は即ち越前坂井郡であり、多加牟久の村は、蓋し高椋村であらう。してみれば汙斯王の御父が近江の伊香郡に坐した事も、自然とうなづける所である。

 意富富等(おふふと)王と書くも、意富杼(おふと)王と書くも、いづれも同一の御方を指し、この王を祀つてゐるところから、大音といふ大字の名も出たのであらうが、この王を祀る神社が伊香神社であり、而して其の神主が王の子孫であつて伊香を氏の名とするといふのである。『古今集』巻八離別歌に、

  あづまの方へまかりける人によみて遣はしける

              いかご あつゆき

  思へども身をし分けねばめにみえぬ心を君にたぐへてぞやる

とある、その「いかごあつゆき」は、恐らくは此の家の人であらう。そして幾代か後、助吉の代に及んで、弟の安宗若狭に移り、御子の浦に住するに至つたのであらう。それが嘉応二年(1170)以来の重書(じゅうしょ)を相伝して、今も大切に保存してゐるのである。嘉応二年といへば源頼朝の兵を挙げた治承四年(1180)より十年前に当り、正に平家全盛の時代であつて、今よりかぞへて七百八十余年の昔である。即ち大音家の神子の浦に占居するや、実に八百年になんなんとするのである。八百年の歳月を経過して、その屋敷も変らず、重代の文書記録を相伝して失はないのは、之を珍重しなければならぬ。

 近江伊香郡の伊香氏が、意富杼王以来の名家である事、その支族である若狭三方郡の大音(おおと)氏が、神子(みこ)の浦に入つてより今日まで、八百年になんなんとする長の年月を、退転せず、移動する事なくして、屋敷と重代の文書とを相伝して来た事は、既に述べた通りである。而して其の古文書を検するに、神々に対する信仰、神社に対する奉仕の、いちじるしきものあるを見る。こゝに其の二三を挙げよう。

 第一には、常神の社である。先きに神子の大音家の初代神四郎安宗が、嘉応二年こゝに来り、御賀尾(みかのお)・常神(つねかみ)両浦の開発(かいほつ)の領主となつたと記したが、その御賀尾は、やがて神子(みこ)であり、而して常神は、実に常神の社の鎮坐によつて其の名を得てゐる隣村である。常神の社は、『延喜式』にも載つてゐるが、殊に『朝野群載』の記事を注意しなければならぬ。即ち同書巻第六に、神祇官の御体御卜奏二通を収めてあるが、その一は白河天皇の承歴三年(1079)六月十日付であり、その二は、堀河天皇の康和五年(1103)六月十日付であつて、共に諸国の諸社に社司等の過あり、神事をけがすに依つて、神の祟ありとして、使を遣して祓はしむべき事を奏上してゐる中に、若狭の国に於いては、前に若狭比古神と常神と、後に宇波西神と多大神と常神とをあげてゐる。即ち常神は、承歴にも。康和にも、二度とも使を遣はされてゐるのである。大音家は、その初代が既に御賀尾と常神と二つの浦の開発の領主となつたといふのであるから、常神神社との関係は、嘉応以来深かつた筈である。後になると常神の浦は、別の刀禰の支配する所となつて、大音家とは離れたらしく、その年代が承久の変直後に在つたかと思はれるのは、大音文書のうちに、五月廿五日付、高屋原宛の書状があつて、年代も差出人も明記されてゐないが、その中に、

  「承久の時は、常神も御賀尾も、我等がせんそ(先祖)の物にて、両浦と一円に致候所にて候を、今の常神の刀禰のせんそ(先祖)にわけ(分)候てとらせ(取らせ)候程に、常神には、文書の一通もあるまじく候」

云々とあるからである。かやうに常神の浦が別の刀禰の支配に帰して了へば、常神神社と大音家との関係は疎遠になるのが普通であるが、大音氏は常神神社に対する奉仕を、決して怠つて居なかつたらしく、それは同社の棟札の記すところから推察せられる。即ち先づ寛正四年(1463)の棟札を見るに、「勧進上人長門国住人、能満寺智俊、十穀断、真言宗、今田井保龍泉寺住也」とあつて、この勧進上人の奔走により諸方の力を合せて造営が出来たのであるけれども、大音家も亦協力を惜しまなかつた事は、「御賀尾大音殿万事取合アリ」と記し、馬一匹、酒一度、同家より寄進した事を記してゐる。また天文二十年(1551)の棟札を見るに、此度は寄進の主力は、領主南部出雲守源膳行であつたらしく、遷宮の時には、その孫亀寿の代参があり、神前へ太刀一腰、馬一匹を献じてゐるが、大音氏も亦わづかながら参加した旨が記されてゐる。次に天正三年(1575)の棟札にも、大音七郎左衛門尉より帯一筋奉加した事が記されてゐる。此の寛正四年といひ、天文二十年といひ、また天正三年といひ、大音氏の奉加は、全体の上から見れば、わづかなものに過ぎないけれども、既に自分の手から離れて、一応縁のきれてゐる常神の浦であるにも拘らず、常神神社の造営となれば、毎々欠かさず寄進している点を注意したのである。

 縁のうすくなつた常神に対してすら、かやうに奉加してゐるのであるから、御賀尾浦にあつて縁の深い山王十禅師宮に対しては、率先して寄進してゐる事いふまでの無い。山王十禅師宮は、叡山より勧請せられたものに違いないが、「日吉社神道秘密記」を見るに、天津彦々穂瓊々杵尊をまつるといふ。御賀尾浦へ勧請せられた年代は明らかでないが、去年(昭和28年・1953年〔筆録者・注〕)の春、慶運寺(三方上中郡若狭町神子5-3〔筆録者・注〕)の門の傍の小祠で、偶然発見した懸仏の背銘に、

  日吉十禅神 

  奉懸金□□地蔵□

  右志者為比丘尼阿蓮現世安穏後生

  善処所寄進如

   弘安六年五月日比丘尼阿蓮敬白

とあつて、弘安には既に此の社の存した事、明瞭である。更にしの弘安六年(1283)より遡ること二十三年、正元二年(1260)即ち文応元年に十禅師社の既に存した事は、左記「大音文書」によつて明らかである。

  宛行 辺津浜山山守職□

   合壱処者 但北方堺限峯

  右件山者、日吉十禅師宮社領也、

  而三河浦百姓等、依□申請旨、所

  宛行也、有限御年貢□事、任

  例、毎年無懈怠、可弁備

  状如

   正元二年三月二日

        使 為前(花押)

こゝに三河浦とあるは、御賀尾浦、やがて神子浦と、所を同じうして、而して文字を異にするものに過ぎない。永仁四年(1296)二月の注進にかゝる「若狭国倉見庄永仁三年実検田目録」(大音文書)には、神田のうちに三御賀尾浦十禅師一反をあげてゐるので、浦の名が色々の文字で表はされた事も知られ、また此の社の神田が一反あつた事も知られるが、やがて「歴応五年(1342)二月十六日助六譲状」(大音文書)に、刀禰職と共に、十禅師のはうりしき(祝職)及びわたの神田壱反、ゐさの田百八十歩の譲られてゐるのを見ると、大音氏が此の社の祝(はふり)職を相伝し、神田を管理してゐた事、また前の永仁三年の「実検田目録」に、三御賀尾浦十禅師一反とあるにつゞいて、同浦高森百八十歩とあるも、やはり此の社の神田に外ならぬ事が知られる。

 さて此の社の古い棟札としては、応仁二年(1468)のものと、天正二年(1574)のものとが、残つてゐる。その応仁の棟札によれば、常神、世久見、小川等、他村の有力者も参加してはゐるものゝ、願主は大音資則、生年四十六歳と特筆大書せられた。天正二年の棟札は、項目を分つて収支を明記してゐるために、頗る重要な史料と思はれるが、今その大綱をあげると、左の通りである。

  弐貫参百文  大工料

  壱貫弐百文  釘かすかいの代

  壱貫文    おかひきのちん

   右此時いひの数六百十七盃也、米にして参石弐斗也、代物之算用弐貫文之分也、

  上茸入目之事 尤檜皮(ひはだ)大工七十人にて調之

         飯之数弐百十盃也

  弐貫伍百文  檜皮榑之代

  弐百文    篠板之代

  壱貫五百文  檜皮大工料

  布六端   

  五斗     やねの祝儀 但第三百文之分也

  七斗     酒之米

  弐斗     御供

  弐百七十文  板付けたかすかひ

  此外、棰壱荷、大鰒三喉、餅百、

之に対して寄進の方は、常神惣中として、米五斗、銭壱貫文、御賀尾浦其他は個別にあげられてゐるが、その主力は大音一門に在つた。

  壱貫文幷御幣 大音七郎左衛門尉資栄

  米壱斗帯一筋 大音彦九郎

  もんめん一端 大音彦四郎

  百文     彦四郎

その他三百文二百文百文五十文と段々列挙してあるが、こゝには省略しよう。この棟札に裏面には、珍しく御賀尾浦の人数書があつて、当時の戸数と人口との大概を察する事が出来る。

    御賀尾浦人数書之事

  大音七郎左衛門尉資栄。同息彦三郎。御愛女卯歳。幷戊歳之。御虎女。御竹丸。長鶴丸

  乙夜叉女。新発意丸。御岩女。息女千代女。彦左衛門。太郎大夫(まゝ)。彦太郎。助三郎。同女。ちい。姫。初。以上』

  大音掃部助。同女御祢々。松千代丸。御上女。孫太郎。御市。ほゐ。以上』

  大音彦九郎。同女御方御菊。御松。御姫。助四郎。鍋。をはかゝ。菊満。鶴法師。市女。小上。已上』

  彦六。亀鶴。御まめ。以上』

  太郎大夫。向うは。与三郎。虎千代。龍千代丸。菊。同娘。』

  大音半五郎。同女とら。石小法。以上』

  初女。虎女。已上』

  孫三郎。菊。千代。岩満丸。』

  大音彦四郎。同はゝ。御よめや屋。法師。同。』

  興道寺左近。同女御才。同娘。御亀。あこ丸。あこ弟。以上』

  大音記兵衛尉。同女千代。乙丸。』

  彦右衛門。同女。鶴満丸。禅門。こませ。杢之介。同女鶴。』

  三郎左衛門。同女あいや。左衛門次郎。亀姫。鶴。太郎。乙丸。以上』

  九郎右衛門。千代鶴。猿法。菊千代丸。四郎大夫。同女うは。四郎五郎。太郎丸。』

  北彦兵衛。同女才。九郎三郎。菊。松。鶴。御鶴。以上』

  三郎大夫。同女千代石。孫九郎。若石。猿若。上をんほ。小をんほ。以上』

  林書記。玉蔵主。性金。』

  興道寺九郎左衛門尉。同女御夜叉。道国。同女虎。已上』

  三善出雲守。同女御才女。』

但し此の棟札の書法は雑然として、名も何処で切つてよいか、何処へつゞけてよいか、判然としないところがあり、家も「以上」とある所は、そこで一家が終り、次に別の家となる事、明かであるが、「以上」と記してゐないところにも、家の別になるところがあつて、その辺頗る判断に苦しむところもあるが、今大概を推測して考察するには、このやうな整理でも、先づ先づ役に立つであらうか。

 さて之を見て感ずる事は、鶴とか、亀とか、菊とか、松とか、千代とかいふ、長寿を祝福した名の、極めて多く、或はそれを重ねて、亀千代といひ、菊千代丸といひ、千代鶴といひ、長鶴丸といひ、或は一家の中に、鶴とお鶴とあつて怪しまない如き、いかに縁起のよい名が喜ばれたかといふ事である。『漢書』を見るに、杜周の子に延年があり、丞相に車千秋あり、御史大夫に陳万年あれば、義成侯に甘延寿あり、東郡太守には韓延寿があり、その他、田延年といひ、厳延年といひ、李延年といひ、長寿を希望し期待した名の多いのが目につくが、今見る天正二年山王十禅師の棟札も、時に古今の隔たりがあり、国に東西の別はあるが、人情に於いて趣を同じうするものと云つてよいであらう。それは兎も角、この棟札の人数書によつて、戦国の末期に於ける御賀尾浦の実情、殊に大音家の様子が、かなり明かに推測し得られる事は、之を喜ばねばならない。

 次に諏訪社に就いても簡単に述べて置かう。御賀尾浦に、諏訪下宮の勧請(かんじょう)せられたのは、鎌倉時代の末、延慶三年(1310)の事であつて、大願主左衛門尉藤原盛世の寄進状が、「大音文書」の中に存してゐる。当時は、諏訪大明神を御賀尾浦に勧請し、加野に於いて二反の神田を寄進したのであつたが、数年後に、田地の交換を行ひ、正和三年(1314)よりは御賀尾浦で二反の神田を寄進したのであつた。それよりして諏訪の本社へ毎年御贄(みにえ)として、干鯛十、魚六十、刀禰に於いてあづかり置き、便宜を以て社家へ運送するやうに定められた事が、正和四年(1315)九月九日の下知状によつて知られ、間もなく浦人の歎きによつて毎年の運送をゆるくして、三四年に一度と改められた事が、正和五年九月十八日の下知状(すべて大音文書)によつて知られる。これが刀禰の責任となると、信州諏訪までの運送容易で無かつたに相違ないが、大音氏よくつとめたりといふべきであらう。(藤原盛世の寄進状に関してはhttps://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/archive/da/detail?data_id=011-500300-0〔筆録者・注〕)

 かやうに神々に対して忠実に奉仕して来た家だけあつて、今もその家の庭には、丘の上に小さな祠があつて、それが庭の中心となつてゐる。庭としては規模の小さい、飾りの無い庭で、簡素に過ぎる庭ではあるが、丘あり、池あり、白梅の老木あれば、紅梅の若木もあつて、樟や楊梅と共に、つゝましやかに小祠を守つてゐる趣は、金に飽かして巨巌名木を集めたものよりも、却つて風情ある心地がする。

 大音氏伝ふるところの古文書は、どれほどの数にのぼるであらうか、私はまだ其の全貌を見てゐないが、その中に一つ仁治元年(1240)六月の売渡証文を紹介して置かう。

  重沙汰渡塩山証文事

    合壱所 字辺津山

   四至 東限小島南限大谷 西限赤石北限大海サヲタチ

  右件山者、先年之此、古江大夫末正尓、限永代、小袖壱両売渡畢、然彼証文ヲ、鳥羽上     座 申入、以下人奪取云々、事実者、甚以不思議次第也、其罪科不軽者哉、若猶々令背此状、致自由之狼藉沙汰者、全以不承引、且者此子細在地明白也、敢不他人之妨、仍為後日沙汰一ㇾ之、重証文以解之状如件

   仁治元年六月日

即ち山壱個所を、小袖壱両に換えたのである。仁治元年といへば、鎌倉時代の中頃、今より七百十数年の昔である。(但し此の文書、仁治元年六月日といふに就いては、一言弁じて置かねばならない事がある。仁治の改元は、七月十六日であつたから、六月にはまだ仁治とはいはず、延応二年(1240)とあるべきところである。それをこゝに仁治元年と書いてゐるのは、元々延応二年とあつたものを、写して副本を作る際に改めたものであらうか。文書は正本ではなく、年号にかやうな齟齬はあるものゝ、内容に於いては各別偽作の疑を容れないであらう。)

 若狭には此の外に旧家も多いが、今は割愛して丹後へ移らう。丹後の旧家は、与謝郡府中村大垣、籠神社の宮司海部家を以て第一とするであらう。籠神社は、一に籠守神社とも書く。いづれにしても、よみは一つ、コモリノ神社である。府中村大垣(現在の宮津市の北部地域の南端にあたる〔筆録者・注〕)などといへば、縁の遠い感じがするが、実はこれ天の大橋である。籠神社といへば、これもむつかしいが、名だたる丹後の一宮に外ならぬ。『延喜式』には、「名神大、月次新甞」と特記せれれてゐる。海部氏は代々その宮司として聞えた旧家であるが、家伝によれば、始祖天照国照彦火明命より現在の当主に至つて、八十一代、代々男系相承して、曾て中絶してゐないといふ事である。目ざましいのは、此の家の系図である。それは紙を長くつないで、つないだ方向に縦(たて)書きにした所謂竪系図または柱系図の様式であつて、様式の上から見ても古い時代のものであるが、その初めに「丹後国与謝郡従四位下名神」とある神階が、この系図の作られた年代を考へる有力なる手がかりとなる。即ち『三代実録』を見るに、清和天皇貞観十三年(871)六月八日、丹後国正五位下籠神に従四位下を授けたまふとあり、やがて陽成天皇の元慶元年(877)十二月十四日には、従四位下籠神に従四位上を授けたまふとあつて、籠神の神階が、従四位下であつたのは、貞観十三年六月八日以後、元慶元年十二月十四日以前、凡そ六年半ほどの間であつたから、此の系図従四位下と書いてある以上、それは当然此の六年半ほどの間に作られたものでなければならぬ。さればこれを之を貞観の古系図と呼んで珍重するのである。三井寺に伝はる和気系図が、承和初年の作といふに比すれば、三十数年おくれる事にはなるものゝ、今より数へて一千七八十年前の系図が、その直系の子孫によつて守られて、今の𠑊存するは、壮観としなければならぬ。

 丹後を去つて伯耆へゆけば、こゝには名和氏がある。名和氏は名和長年の忠誠、天下にかくれないが、そのいえ連綿として今に伝はり、重代の古文書も存すれば、凡そ五百年ばかり前の古系図も伝はつてゐる事は、一般にはしられてゐないやうである。されば是も説述すべきであるが、それに就いては拙著『名和世家』平泉澄『名和世家』 (日本文化研究所 昭和29年(1954年)1月、皇學館大学出版部 昭和50年(1975年)9月〔筆録者・注〕)に詳記したので、こゝには省略する事にしよう。

 伯耆から海を越えて隠岐へ渡れば、こゝには隠岐国造家がある。隠岐は島前(とうぜん)と島後(とうご)とに分れ、相距る事、六里ばかりである。その島後の周吉(すき)郡磯村大字下西(しもにし)(昭和44年(1969年)4月1日 - 周吉郡・穏地郡・海士郡・知夫郡の区域をもって隠岐郡が発足。同日周吉郡消滅〔筆録者・注〕)は、昔国府のあつたところであるといふが、そこに玉若酢(わかす)神社(島根県隠岐隠岐の島町下西701〔筆録者・注〕)といふ古社がある。この神社の古い事は、境内に八百杉といふ大木の存するによつても、考へられる。それは昔若狭の国から比丘尼が来て神前に杉を植飢ゑ、八百年の後また来るであらうと言ひのこして去つたので、此の比丘尼八百比丘尼といひ、此の杉を八百杉といふのだといふ伝説である。目通九メートルといへば、杉の大木として、天下稀に見る所であらう。昭和四年に天然記念物として指定せられたのは、当然の事である。その玉若酢神社の南方、神社と並んで東方に、宮司億岐家があり、その由緒に於いて、八百杉よりも古い伝統をうけついでゐる。

 億岐家(国は隠岐とかくが、この家の名は億岐の字を用ゐてゐる)の初祖とするところは、十挨(とおえ)命である。『旧事紀』の「国造本紀」を見ると、軽島豊明の朝、即ち応神天皇の御代に、観松彦伊呂止命五世の孫十挨彦命を意岐(おき)の国造に定めたまふとあるが、それが即ち此の家の初代で、二代は広禰、三代は忍比古、忍比古より三代目を豊名といつて大宝中の人であるが、以後歴代相承して当主有寿に至り、実に四十五代にのぼるといふ。

 不幸にして此の家には文書の古いものを伝へてゐない。それは曾て重書(じゅうしょ)を京都へもつていつて、帰途島の近くで暴風にあひ難船したために、一命は助かつたけれども、古文書は遂に流失して了つたのだといふ事である。古文書は斯様にして失はれたけれども、幸にして伝家の重宝いくつか遺つた。それは第一に隠岐の倉印である。諸国の正倉所用の印、今に其の宝物を存するもの極めて稀であるのに、隠岐の分がこの家にのこつた事は、之を珍重しなければならぬ。しかし一層重視すべきものは、第二の駅鈴である。駅鈴の事は、はやく「大化改新の詔」に見え、詳細の規定は、「公式令」に見えてゐるが、王制の陵夷と共に衰へて、平安時代の末には、もはや実用せられず、たま〱あれば、珍しく思はれる程になつた。そして曾て数多くあつた駅鈴は、いつしか皆失はれて了(しま)つたが、幸にして此の隠岐の国造家に、その実物を伝へてゐる。『万葉集』巻十八に、大伴家持の面白い歌が載つてゐる。即ち越中の史生尾張少咋(おくい)が、本妻を奈良に残して越中へ赴任してゐるうちに、遊女左夫流(さぶる)に馴れ染んで了つた、家持は歌を作つて之を諭し、

  紅は うつらふものぞ つるばみの

  馴れにし衣(きぬ)に 猶如(し)かめやも

と戒めたが、間もなく本妻は事情を察知したものか、夫の招きを待たずに、自発的に恐らく突然追かけて来た。その時に家持のよんだ歌が、

  左夫流児が いつきし殿に 鈴かけぬ

  駅馬(はゆま)下れり 里もとゞろに

といふのである。だしぬけに本妻に来られて、少咋のあわてたさまも想はれて面白い歌であるが、当時官人の官命を帯びての旅行に、鈴の音高らかに駅馬を徴発しつゝ上下した様子も、之で偲ばれるであらう。しかも其の誇らかなる鈴の音も、伊勢大神宮の堺に入れば、飯高郡下樋󠄀小河に到つて、之を止めねばならない規定であつた事は、『延喜式』巻四に見え、神域に於ける謹慎静粛、まことにゆかしく思はれるのであるが、其の駅鈴の残つてゐるもの、今日のところ此の隠岐国造家に伝ふるを、唯一無二とするのである。次に此の家の誇りの第三は、伝符である。伝符の事も「公式令」にくはしく見えて居りながら、その実物の確認せられずにあつたところ、先年この国造家に於いて発見せられた。私が往いて同家をたづねたのは、昭和十年の秋であつたが、その時の話で、三四年前の発見といふ事であつた。

 伝符の方は近年の発見であるが、駅鈴は曾て西依成斎(1702―1797・江戸時代中期の山崎闇斎派の儒学者〔筆録者・注〕)に示したところから、遂に天聴に達し、寛政二年(1790)宮中に召されて天覧をたまはつた。その時に成斎が億岐幸生へ贈つた歌が伝はつてゐる。

  雲の上に のぼるむまやの 鈴の箱

  ふたゝび開く 世々の古道

 隠岐を此のあたりで切上げて、次は出雲へ移らう。出雲は名だゝる旧家名門、いはゞ甍を並べて存するところである。殊に其の筆頭第一としては、出雲国造家をあげなければならない。しかしそれは余りにも有名である上に、私も亦別の機会に同家に就いて記した事があるので、こゝには朝山氏の事を説かう。朝山氏といふのは、八束(やつか)郡佐太村(平成23年(2011年)8月1日 - 東出雲町松江市編入。同日八束郡消滅〔筆録者・注〕)の佐太神社、即ち『延喜式』にいふ秋鹿郡佐陀神社、細川幽斎(1534―1610、幽斎は雅号〔筆録者・注〕)の「九州道の記」に所謂佐陀の大社の宮司家である。幽斎は天正十五年(1587)、秀吉の九州征伐に参加する為に、山陰道を海路博多へ赴いた時、こゝへ立寄つて、「木深くて、山のたゝずまひ、たゞならぬ社」と驚歎し、遂にこゝに「やどり求めてとゞまり、」

  千早振 神のやしろや 天地と

  わかち初(そ)めつる 国の御柱

と詠じたのであつたが、たとへ今は入道の身ではあつても、もと〱丹後の国主細川兵部大輔藤孝(細川幽斎と同一人物〔筆録者・注〕)やどりを求めたのは、必ずや朝山家であつたらう。今の佐太神社は、貞享四年(1687)に造替せられたものであり、その貞享の造替には、境内に多少の模様換が行はれたので、幽斎が参詣した天正の昔とは、いくらか趣を異にしてゐるが、木深き山のたゝずまひ、たゞならぬ崇厳さは、依然として変るところが無い上に、貞享の模様変は、大工武内宇兵衛貴行原案を立て、養老年中建立以来の境内図と、自分の考で今度の造替に修正を加ふべき箇所とを、比較対照して松江藩奉行所へ提出し、その許可を得て実行に移したのであつて、竹内宇兵衛の慎重なる、ひとり之を上司に報告して指揮を仰いだばかりでなく、正神主朝山吉成の命によつて、之を板に書付けて残してくれた為に、棟札と設計図と現状とを対照すれば、古今の変化、掌をさすが如く明かであり、幽斎参詣の日のありさまも髣髴(ほうふつ・あざやかに)として之を偲ぶ事が出来るのである。

 朝山家の系図を見ると、もと〱大伴氏であつて、大伴武持十七代の子孫治部卿武安、その武安より中四代を経て、五代目政持、承和九年(842)に恒貞親王の事に坐して出雲へ流され、それより子孫この国に土着するに至つたとある。『相国寺供養記』を見ると、朝山出雲守大伴師綱とあつて、この家が大伴氏の流れであるといふ伝の古い事が知られる。『源平盛衰記』を見るに、一谷の城に籠つた人々の名をあげた中に、出雲の国には朝山記次と書いてある。系図でいへば、文治年中(1185~1190〔筆録者・注〕)鰐淵寺(がくえんじ)は、島根県出雲市別所町にある天台宗の寺院〔筆録者・注〕)の常行堂を建てたといふ

惟元に当るであらう。『吾妻鏡』建長二年(1250)三月閑院殿造営の分担者に中に、朝山右馬大夫跡とあるは、系図に惟元の子馬大夫元綱とあるのに該当すると思はれる。朝山氏が佐陀大社の神主となつたのは、建保の頃からであらうか。系図では元綱の弟祐経、建保二年(1214)さだ大社の神主に補せられ、その弟惟孝之をついだやうに見える。それより数伝して景連に至ると、丁度元弘建武に際会して、その活躍も目ざましく、『太平記』を見ると、朝山二郎景連八百余騎を率ゐて船上山へ馳参り、やがて行幸の御供して京都に入つたとある。また『鰐淵寺文書』元弘三年(1333)五月日鰐淵寺住僧讃岐房頼源軍忠状を見るに、五月七日千種忠顕京都の賊軍を追落さうとして、竹田河原幷に六波羅西門に向ひ猛攻撃を加へた時、頼源は中部彦次郎入道や朝山彦四郎等と共に、身命を惜しまず合戦の忠を致したとあるが、その朝山彦四郎は、蓋し二郎景連の弟か何か、門葉の人であらう。

 さてその景連の孫は、前にも記したやうに『相国寺供養記』に見える朝山出雲守大伴師綱であるが、この人は武将として出雲守師綱といふよりは、連歌の名人としての梵灯庵の名の方が、ひろくしられてゐる。『続群書類従連歌部には、「梵灯庵返答書」(応永二十四年後五月十八日梵灯判于時六十九歳)及び「梵灯庵袖下集」が収めてあり、同じく鷹部には、「梵灯庵鷹詞百韻連歌」が採られてゐる。応永三十一年(1424)に歿した。享年七十六歳。やがて北野の天満宮末社として祀られたが、「身はいつの煙のために残るらむ」といふ句が有名であつて、それより名を得て、煙の宮とあがめられたといふ。

かやうに朝山家歴代その名あらはれてゐる人多い中に、支流ではあるが、抜群に人物は、二郎左衛門尉善茂である。師綱が師綱では誰にも分らず、梵灯庵といへば天下に聞えてゐると同じく、善茂も善茂では一向分らないが、日乗上人といへば、知らぬ人は先づあるまい。

 善茂は初め美作の久米郡岩屋山城に拠つた。そして天文十二三年の頃、諸国の有志と共に献金して、皇居の御修理を完成し奉つた事が、既に頗る篤志の行としなければならないのに、善茂はそれを以て足れりとせず、約十年の後には、美作の城地を捨てゝ上洛し、日乗上人と名乗つて、禁裡の御造営に専念するに至つた。『甫庵本太閤記』の或問に、

  「朝山日乗は、禁中御殿破壊せしを、御修理のいとなみをつとめよと、夢のつげに任せ、重代の知行、又は譜代相伝の家人をも打ちすて、出雲国より侘しき体にて上京し、近衛龍山公ね其旨望しかば、正親町院の勅に因て参内をとげ、御修理の営みを催しはべるを、信長公聞召届けられ、其志の妙なるを感じおぼされ、召出され、一両年も試みたまひつゝ、珍しき心ばへ毎事はかも行べき者なりとて、旧功の村井長門守同前に、禁中方御修理を仰付けられにけり、万事はかの行事、流るゝ水のやうに有りしかば、城州西院にて、三千貫の地を下され候し、是は小泉と云し者、勘当を蒙り、牢人の身と成し跡しきなるを、小泉が家人等をも恩賜したまひしなり、」

とあるは、簡にして要を得た記述である。但しこゝに出雲国より上京したやうに記してあるのは、朝山氏の本拠が出雲である為で、実をいへば日乗は作州から上京したものである事は、『兼右卿記』弘治元年(1555)閏十月八日の条に、「作州朝山今度上洛」云々と記されてゐるによつて明かである。またこゝに正親町院とあるのは、恐らくは後奈良院の誤であらう。

 大阪の「四天王寺文書」を見ると、永禄二年(1569)の三月一日に出された織田信長の「選銭令」には、掃部助と日乗との二人が連署してゐる。之によつて日乗が信長の信任をうけ、ひろく政治の各方面に参与してゐた事が察せられるが、しかし日乗の主力を注いだのは、内裏の復興であつて、村井民部丞貞勝と共に其の奉行となり、弟の朝山惣佐衛門と共に日夜奔走した事は、『御湯殿上(おゆどのうえの)日記』、『言継(ときつぐ)卿記』『原本信長記』等に見えてゐる。即ち永禄十二年四月、日乗上人は番匠共を烏丸亭へ集め、内裏修理の費用総計を見積らせて、一万貫ばかりの数を得、直ちに準備に着手して、翌年正月五日手斧始を行ひ、二月二日に至つて新に村井貞勝も奉行として協同する事となり、前後三ケ年かゝつて完成した。それまで正体も無く廃壊して居つたところ、此の御修理によつて、紫宸殿(以前は檜皮(ひはだ)、このたびは瓦葺)、清涼殿(檜皮)、内侍所(檜皮)、昭陽舎、其他の見事さ、人々の目を驚かし、都鄙の貴賎男女、讃美しないものは無かつたといふ。

 事のついでに一言すべきは、ルイス・フロイスの批評である。一五六九年六月一日(永禄十二年五月十七日)付、パードレ・ルイス・フロイスが、京都より発してフイゲイレドに贈つた書翰には、口を極めて日乗を攻撃し、中傷到らざる所なき有様である。しかしこれはたま〱日乗の伝統を守らうとする精神と、その卓越せる才幹とが、キリスト教宣布の重大なる阻害となつた為に、宣教師の目には「悪魔」の如く見えただけの事であらう。フロイスと正反対の批評は、安国寺恵瓊(えけい)(1539?―1600〔筆録者・注〕)から聞く事が出来る。即ち恵瓊は、天正元年(1573)十二月十二日備前の岡山より急使を馳せ、京都方面交渉の顛末を毛利氏へ報告したが、その中に於いて信長を評して、

  「信長の代、五年三年は持たるべき候、明年あたりは、公家などに成らるべく候かと見及申候。さ候て後、高ころびにあをのけに、ころばれ候ずると見え申候、」

といひ、秀吉に就いては、

  「藤吉郎さりとてはの者にて候、」

と感歎し、而して日乗をば、

  「昔の周公旦、太公望などのごとくに候、似合たる者、出合たる御事にて候、雖然、仕すごされ候はで、今の分にて候へば、芸州の御ため、重宝にて候、今度の調も、悉皆彼仁馳走にて候、たゞあぶなく存候、〱、藤吉などの取次まで、日乗にて候、是にて御推量あるべく候、」(吉川家文書)

と評してゐる。今此の批評に就いて一々当否を吟味して見るに、明年あたりは公卿(文書に公家とあるのは、此の場合、公卿の意味である)になるだろうとの推測は、天正二年三月十八日、信長参議に任ぜられ、従三位に叙せられて、立派に公卿の列に入つたのであるから、これは的中といはねばならぬ。信長の代、五年三年は持たるべく候といふのは、実は十年持つたのであるが、これは当らずと雖も遠からずといふところであらう。その後、「高ころびに、あをのけに、ころばれ候ずると見え申候」は、天正十年六月二日、前右大臣正二位平信長、既に日本国の半以上を平定し終り、今は恐るべき何者も無く、旌旗一たび動くところ、城砦相望んで降り、殆んど疾風枯葉を捲くの勢と思はれた其の盛威の絶頂に於いて、本能寺の変に倒れて、高ころびに、あをのけに、ころんだのであるから、的中も的中、是れほど恐ろしい予言は、他に類例が無い。藤吉郎、さりとてはの者にて候とは、簡にして妙、いかにも三十代の秀吉の、一寸の隙も無く、一分の非議を許さゞる働きぶり、知謀豊にして勇気凛々、しかも自ら克く抑制して応対人をそらさない態度、之を表現するに、他に何と言ひ得やう。さりとてはうまい批評では無いか、

 ところで、その羽柴秀吉までも、日乗の取次で信長の諒解を得てゐるといふ。日乗が信長に新任せられて、羽振りのよかつた勢といひ、信長や秀吉の間に立つて、之をこなしてゆく才幹といひ、まことに想ひやられる事である。而して其の日乗の将来に就いては、「たゞあぶなく存じ候あぶなく存じ候」とくりかへして言つてゐるが、『言継卿記』永禄十三年(1570)三月二十一日の条には、日乗上人信長の勘気を蒙つたとの風聞の立つた事が見え、恐らく才気余つて自ら抑制する所が少なく、信長の怒を招く危険が多かつたのであらう。果して日乗は天正三、四年頃になると、其の名一向に現れず、やがて天正五年(1577)九月十五日、失意のうちに歿したらしい。従つてあぶないといつた恵瓊の予言は、是れ亦当つたといふべきであらう。さてそこまで当つてゐるといふのであれば、残る一つの批評、日乗を指して、昔の周公旦、太公望などのごとしと言つたのも、当らずと雖も遠からず、非凡抜群の人物であつた事は、之を察すべきである。殊に内裏の修理、皇威の興復につくした其の功績は、之を没する事は出来ない。されば彼の宣教師一派の非難は、その立場の上よりする偏執であつて、到底正論とする事は出来ないのである。

 朝山家はその後、更に一人の有名な人物を出してゐる。朝山意林庵、これである。しかし今は先づ此のあたりで止めて置かう。兎も角、かやうに歴世人物を出した朝山家は、先祖の後を承けて、今も佐太神社に奉仕し、儼然として其の「木深くて、山のたゝずまひ、たゞならぬ社」を護つて居られるのである。

 

これは平泉澄博士、昭和29年春に書上げられた論文であり、「『神道史研究』二―二・三、昭和二十九年四・七月」に掲載されたもの。後には(『寒林史筆』昭和三十九ねん七月)に再掲されたものを、ワード化し郷里(越前・松岡)を偲びつつ、恩師を慕う心奥からインターネットにアップする次第である。

                       (2023年2月14日、タイ国にて)