正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

後鳥羽天皇を偲び奉る                         平泉澄

     後鳥羽天皇を偲び奉る

                        平泉澄

 

   一

 後鳥羽天皇はまことに御不運の御一生を御送り遊ばされました。一天万乗の君として、思ひも寄らず逆賊の為に遠く隠岐の小島に遷幸遊ばされ、孤島の御幽居十有九年の長きに亙り、遂に其の儘彼の島に於いて崩御遊ばされました御不運は今更いふまでもなく、その遷幸の原因となりました承久討幕の御企そのものに就きましてさへ、天皇の御動機に対し奉つて驚くべき誤解が、昔より一般に存し、而してその誤解は今日に至りましても、猶十分に解けてゐないのであります。

 所謂誤解とは何であるかと申しますに、それは天皇が兵を挙げて幕府を討たうと遊ばされたのは、些々たる一婦人の所領問題より起つた事であるとし、従つてそれは決して国体の根本より御考え遊ばされた訳ではなく、同時に朝廷の御計画は至つて軽卒であり粗漏であつて、十分慎重に準備される所がなかつたといふ風に解し奉つてゐる事をいふのであります。即ち、従来一般に説かれて居ります所では、承久御挙兵の原因は、亀菊といふ婦人の申請に任せて、摂津国長江・倉橋両庄の地頭職を停止するやう、前後二回に亙つて幕府に御命令が下つたに拘らず、北条義時は之に随ひ奉らなかつたので、天皇いたく御逆鱗あり、遂に幕府を討伐しようと思召立たれたといふのであります。此の説の基づく所は『吾妻鏡』でありますが、其の承久三年(1221)五月十九日の条を見ますと、

  「武家、天気に背くの起りは、舞女亀菊の申状に依り、摂津国長江・倉橋両庄の地頭職を停止すべきの由、二箇度院宣を下さるゝの処、右京兆諾(うべな)ひ申さず、是れ幕下将軍の時、勲功の賞に募り定補せらるゝの輩は、指したる雑怠無くして改め難きの由之を申す、仍て逆鱗甚だしき故也と云々」

とあります。而して右両庄に就いて幕府に御命令のありましたのが、やはり此の年の春の事  であつた事は、同書同年三月九日の条によつて知られるのであります。若し之を其の儘信用するとしますれば、当時討幕の御企は、一婦人の所領問題より事起り、早くとも承久三年三月以後に端を発したものであり、従つて官軍の活動を開始した五月十五日まで、僅に二箇月ばかりの準備期間があつただけとなり、動機よりいへば浅薄、用意よりいへば軽卒の非難を免れないのであります。

 しかるに、事実は決してそうではなかつたのであります。そうでなかつたといふ事は、討幕の御計画が、それより遥か以前、実に十数年以前に始まつてゐる事によつて、証明せられるのであります。一体此の承久の役に、官軍の主力となつて活動した人々は、公卿に於いては権大納言藤原忠信、前権中納言藤原光親、同源有雅、同藤原宗行、参議藤原範茂、同藤原信能等であります。素より是等は平素朝廷に御仕へ申上げて居る人々でありますから、是は直ぐにも糾合し得るのであつて、是は先づ問題になりません。ところが其の外に、僧侶に於いては、二位法印尊長、熊野法印快実、刑部僧正長賢、観厳等、武士に於いては、能登藤原秀康、その弟河内判官藤原秀澄、左衛門尉後藤基清、筑後守五条有範、右衛門佐藤原朝俊、前民部少輔大江親広、山城守佐々木広綱、その子惟綱、山田重忠、三浦胤義、左衛門尉大江能範、河野通信、菊地能隆、筑後知尚、佐々木経高大内惟信、宮崎定範、糟屋有久、同久季、仁科盛遠、錦織義継、神地頼経、多田基綱、筑後有長、小野盛綱等の人々が、御召しによつて錦旗の下に馳せ参じてゐるのであります。此の顔触を見れば、近畿の住人もありますが、遠く関東や九州に人々もあり、之と連絡をとり、之を糾合するといふ事は非常に困難な事であり、それには十分の歳月が必要であつて、決して二、三ヶ月のよくする所ではないのであります。

 殊に是等の人々の中に於いて、中心となつて働いたのは、僧侶では、二位法印尊長、武士では能登藤原秀康でありましたが、此の二人に就いて調べて参りますと、討幕の御計画が十数年も前から立つて居り、その十数年の間に、極めて秘密の中に、準備が進められてゐた事が分るのであります。今先づ法印尊長より説きますれば、此の人は其の兄弟(参議信能)や甥(少将能氏、左中将能継)が多く承久の変に殺されて居りますので、一家一族を挙げて参画し奮闘した事明かであり、而して事変の終りました後に、幕府は此の人の逮捕に最も力を入れ、その捜索の為に色々乱暴が行はれた程であり、それにも拘らず尊長は七年といふ長い年月を逃廻り、それも只逃廻つただけではなく、其の間に奇謀をめぐらしてあくまで幕府の転覆を計り、北条義時頓死の原因は明瞭ではないが、恐らく此の尊長の計画にかゝつて毒殺せられたのであらうと思はれ、以上の諸点を綜合して考へますと、此の人は討幕の御企に最も重く関係して居つたと察せられ、『吾妻鏡』が此の人の事を、「承久三年合戦の張本」と記してゐるのは、蓋し事実であらうと思はれます。さればこそ承久三年六月、事いよ〱危急に瀕した時に、後鳥羽上皇は、土御門順徳両上皇を伴ひ給ひ、此の法印尊長の押小路の宅に御移り遊ばされ、こゝに於いて諸方防戦の御相談があつたのであります。然らば此の尊長が後鳥羽上皇の御信任を得て討幕の計画を立てるのは何時頃かと申しますに、何分幕府の目をくらます為に、すべて極秘の中に進められましたので、今日之を跡付ける事は容易でありませんが、幸に其の一つの目標となるものは、白河の最勝四天王院であります。この最勝四天王院といひますのは、上皇の御所の中心に立てられ、道法法親王を以てその検校(総裁)とし、尊長を以てその寺務(事務長官)とせられたのでありますが、元来四天王は護国の神と考へられ、之に祈るは必ず国家の重事についてであり、現にその落成の翌年には守護国界経法結願の行はれました事が記録に見えて居るのでありますから、此の最勝四天王院こそは幕府調伏の祈願であり、それを中心に建てられたる白河の御所が、即ち討幕の参謀本部であつたと察せられます。しかるに其の最勝四天王院の建てられましたのは、承元元年(1207)十一月の事であり、承久の変より数ふれば、実に十四年以前に当るのであります。

 次には、能登藤原秀康に就いて考へませう。秀康が武士の中で中心に立つ人物であつた事は、『尊卑分脈』に「院の御方の惣大将」と記されてゐるによつても明瞭であります。『六代勝事記』にも、

  「秀康は官禄涯分に過ぎて富有比類なし、五箇国の竹符を併せて追討の棟梁たりき。」と見えて居ります。その秀康は早くより上皇の御信任を辱うして居つたので、承元元年三年には上皇の高野御幸申上げ、当時殊に御愛顧を受けてゐた事は、『明月記』にくはしく見えて居ります。承元元年は前に述べました最勝四天王院の建立せられた年であります。されば当時、秀康既に討幕の密議に参与して居つた事と推察せられるのであります。且また諸国の武士を京都へ御集めになります為には、前々からあつた院の北面の武士の外に、更に西面の武士を置かれたのでありますが、『明月記』を見るに、承元元年正月三十日、殿上人及び西面北面の人々うぃ集め、之を左右二組に分つて笠懸の勝負を競はしめ給うた事があります。この笠懸に出ました殿上人は、忠信、有雅、信能、範茂等、いづれも承久の錚々たる人物でありまして、事敗れて忠信は越後に流され、その他の人々は皆斬られたのであります。その笠懸に西面の武士が出てゐるのでありますから、院に西面の衆を置かれましたのは、承元元年以前の事である事いふまでもありません。

 是によつて之を観れば、討幕の準備の段々ととのつてゆきますのは、承元元年に既に明瞭にその後を窺ふ事が出来、其の発端は必ずや更にそれより前に遡らねばならぬ事明かであります。即ち討幕の御計画は、承久三年の御事挙げより遥か前、少くとも十四年前、恐らくは十五年前に立つて居た事を知るべきであります。従つてその原因が、『吾妻鏡』などにいふやうに、承久三年の長江・倉橋両庄の問題に在るのでない事はいふまでもありません。

 

   二

 承久討幕のの原因が、長江・倉橋両庄の問題に在るのではない事は、既に明瞭になりました。しからば真の原因は一体どこに在つたのであるかと申しますに、其れを推測します為には、承元元年前後既に討幕の御計画が立ちました時より、承久三年に至る十数年の間に於いて、後鳥羽上皇の御関心が那辺におはしましたかを知らなければならないのであります。今、之を当時の日記によつて見ますに、此の間に於いて、文武両道を御奨励遊ばされました事は、極めて顕著であります。先づ文に於いては、公事の論義及び習礼が瀕󠄀々と行はれて居ります。是は朝廷に於ける重大なる儀式が、漸次すたれてゆき崩れてゆく傾向のある事を歎かせ給ひ、之をその正しい姿に戻さうとして討論研究せしめ、実演練習せしめ給うたのであります。而して、其の瀕󠄀々として記録に現れるのは、建暦元年(1211)二年の間でありますが、その概略は次の通りであります。

  建暦元年三月廿二日節会習礼

      五月 一日旬習礼

      七月二十日公事竪義

      九月 二日大嘗会習礼

      同 廿四日任大臣大饗習礼

      同 廿五日大嘗会論義

  建暦二年三月 五日系図論義

      同 十二日臨時祭習礼

       同 廿四日白馬(おおうまの)節会(せちえ)習礼

而して之と併せ考ふべきものは、『世俗深浅秘抄』であります。此書は上下二巻あり、朝廷の御儀式其の他の作法故実に就いて記された書物でありますが、従来その著者明らかでなく、或は菩提院基房の作といひ、或は衣笠内大臣家良の著といひ、又は一条禅閣兼良の記す所として居つたのでありますが、野宮定基、速水房常、藤貞幹等は之を以て後鳥羽天皇の御撰であるとし、而して之を天皇の御撰とする説は、近頃和田英松博士の精密なる研究によつて、疑なき確証を得たのであります。即ち、その内容によつて先づ臣下の筆でない事が考えられ、更に上皇の御撰なる事も窺はれ、而して之を『花園院御記』や、『後伏見院御記』と対照する事によつて、後鳥羽天皇の御撰なる事が分り、また一条兼良の『桃華蘂葉(ずいよう)』によつて、その事いよいよ確認せられるのであります。此の

『世俗深浅秘抄』と相並ぶものは、天皇の皇子にましまし、承久討幕の御企を共にし給へる順徳天皇の御撰にかゝる『禁秘御抄』であります。これは古くより順徳天皇の御撰と伝へて異説はなく、はやく慶安年中に版行せられ、『群書類従』其の他にも収められて、世にひろく知られてゐる所であります。されば承久討幕の御事挙げに先づ十数年に於いて、朝廷文事を奨励し給ひ、公卿殿上人をして討論研究せしめ給ふのみならず、後鳥羽天皇順徳天皇御自ら筆を執つて御著作遊ばされた事は、之によつて明かであります。

 次に、武道の方面はどうであつたかと申しますに、『六代勝事記』には、後鳥羽天皇文武の二つを学び給ひし中に、比較しては殊に武道を重んじ給ひ、弓馬に長じ給ひ、御譲位の後の御幸には、京都の郊外に於いては行軍の形を取らしめ給うたと見えて居ります。天皇御みづから武芸に秀で給ふた事は、この外にも『古今著聞集』や『承久記』に散見して居る所によつては拝察せられますが、更に之を公卿殿上に勧め給ひ、まして北面西面の武士に御奨励遊ばされました事は、『増鏡』に見えて、

  「あけくれ弓矢兵仗のいとなみより外の事なし、剣などを御覧じ知ることさへ、いかで習はせ給ひたるにか、道のものにも、やゝたちまさりて、かしこくおはしませば、御前にてよきあしきなど定めさせ給ふ」

とあります。刀剣に就いては、こゝには只御鑑識の御事のみを説いて居りますが、実は天下のすぐれたる刀鍛冶を集めて打たしめ給ひ、御みづからも之を好ませ給うたので、その刀を世に御所鍛といひ、それを多く武士に賜はつたといふ事は、『承久記』に見えて居り。御番鍛冶の名は、長く世に伝はつてゐるのであります。

 しからば、当時かくの如く文武両道にいそしみ給ひ、又之を御奨励遊ばされたのは何故であつたかと申しますに、先づ『世俗深浅秘抄』を拝見しますと、大抵昔の儀式と今の作法とを比較せられまして、中には「古今の作法異也。時儀に依るべき事也」と今日の作法を承認し給うた所もありますが、多くは「中古以往」の「古儀」「故実」と「近代」「末代」の実情とを対比して、今日古き伝統のすたれた儀式作法の乱れてゐるを慨(なげ)かせ給ひ、現状を「案内知らざる事也」、「其のいはれなきか」、「其の由なきに似たり」、「甚だ奇怪也」と批判し給うたのであります。次に『禁秘御抄』を拝見しますと、こゝにも同様「上古」と「近代」とを比較せられまして、近代の然るべからざるを歎かせ給ふのであります。されば其の御研究・御鍛練・御奨励の目的は、一にかゝつて現代衰頽の世を上古隆盛の時にかへす事、即ち王政復古に存した事明瞭であります。是に於いて想出されますは、『増鏡』に見えて有名なる後鳥羽上皇の左の御製であります。

  おく山のおどろの下もふみわけて

   道ある世ぞと 人にしらせむ

『増鏡』は此の御製に就いて、「まつりごと大事と思されけるほど、しるく聞えて、いといみじうやむごとなく侍れ」と述べてゐるだけでありますが、此の御製の作られましたのは、何時の御事かといふに、『新古今集』には、之を住吉の歌合によませ給うたと見えて居り『後鳥羽院御集』には明瞭に、承元二年三月住吉歌合と記されてあります。承元二年といへば、既に討幕の御準備の段々と進められつゝあつた時であります。されば、此の御製は政治の大方針を示し給うたものと拝察せられます。即ち、今や世は北条氏の跳梁跋扈によつて、皇国の正しき道の失はれたる事、たとへていへば奥山に荊棘生ひ茂つて踏みわける道もなき有様に似てゐるのであるが、之を踏みわけて其の荊棘を切り棄て、皇国日本の道義・道徳は斯くの如きものであるぞ、かくの如く儼存するものであるぞといふ事を、国民一般に知らしめようと仰せられたものと拝察せられるのであります。

 かくて、従来此の討幕の御企が、瑣々なる一婦人の所領の問題より事起り、僅か二、三ケ月の準備を以て、軽々しく兵を挙げられたとしたのは非常な誤であつて、実は惑乱の世に道義を再興し、皇国日本を正しい姿に戻そうとする、王政復古の大理想の為に起り、十数年に亙る惨憺たる御苦心御用意の後に、承久三年愈々時至り機熟して、北条氏討伐の大旆(たいはい)を翻されたのである事は、こゝに明瞭になつたのであります。

 

   三

 然らば、かくの如く遠大なる御理想の下に、かくの如く慎重なる音用意を以て、敢然実行に移されたる討幕運動は、如何様に進展し、如何様に結局したのであるか、これよりその概略を申述べようと思ひます。

 十数年に亙つて秘密のうちに準備せられました討幕の御企が、いよいよ機熟して翻へされましたのは、承久三年五月十五日の事でありました。即ち、此の日幕府を代表して京都の守護に任じて居りました伊賀光季を誅戮し、直ちに宣旨を下して諸国勤王の兵を徴集し、北条義時を追討せしめ給うたのでありました。その宣旨には、近頃関東の成敗と称して天下の政務を乱る、名は将軍に託すといへども、将軍頼経は何分幼稚であるから、実はこれ義時の専権に出づる事明かであり、義時の此の行動は偏に己の威を耀かさうとして全く皇憲を忘れて居るものであり、之を政道に論ずれば謀反といふべきものである、されば今勅命を下して之を追討せしめられるのであるといふ趣が、堂々と述べられてあります。

 而して此の事挙げに先だつて、前日のうちに西園寺公経父子を幽閉せられました。公経は幕府と親しく、密接に連絡をとつてゐたからであります。是に於いて西園寺家では直ちに之を幕府に報告します。伊賀光季も亦誅戮せらるゝに当つて、飛脚を以て鎌倉へ注進します。その双方の飛脚が相前後して鎌倉へ着いたのは、五月十九日の午後でありました。此の報告を得て幕府は一時周章狼狽しますが、頼朝の未亡人にして義時の姉に当る政子は、武士を集めて述懐し、武士が頼朝によつて如何に親切に遇せられたか、また如何に其の生活を安定向上せしめられたかを説いて、「是程御情深く渡らせ給ひし御志を忘れまゐらせて、京方へ参らんとも、又留まって御方に候ひて奉公仕らんとも、只今確に申切れ」といふや、武士は私の利害と恩義とに動かされて、一人として国体を考え大義を弁ふるものなく、悉く幕府の為に粉骨砕身する事を誓つたのでありました。

 是に於いて其の日晩鐘の頃、義時諸将の主となる者を自宅に集めて軍議を凝らします。時に意見はいろいろに分れましたが、結局足柄・箱根両方の道路を固めて官軍を待受け一戦を試みようといふ案でありました。しかるに、頼朝以来政所の別当として幕府に重用せられて来ました大江広元は、此の消極的防禦策を排斥し、もしかくの如く防禦の態勢をとつて日を送るならば、必ず味方に変化を生ずるであろう、むしろ運を天に任せて京都を攻めるがよいと主張しました。義時は此の攻守両案を以て政子の決断を求めましたところ、政子は直ちに京都に進撃するがよいと、広元の説に賛成しましたので、こゝに幕府の軍勢はいよいよ京都を侵し奉る事となりました。

 しかるに、其の準備に二十日を暮らして二十一日となりますと、又もや異論が現れて、関東を手放しにして京都に進撃する事は、頗る危険ではないかといふので躊躇するに至りました。之を聞いて大江広元がいふには、既に京都に攻め上る事決定したに拘らず、かやうに異論が出るのは、準備に日を送つて直ちに進発しない為である。若しかくの如くして遷延するならば必ず変心を生ずるに至るであらうといひ、広元と相並んで頼朝に重用せられ、問註所の執事となつて居りました三善康信も期せずして同意見でありましたので、こゝに義時はその子武蔵守泰時に命じ、其の夜直ちに出発して京都に向はせる事になりました。即ち賊軍の憚る所なく京都を侵し奉るは、曾て朝廷の寵任を辱うしたる大江広元三善康信此の両人の建議によつたのであります。

 かくて泰時は終夜準備をとゝのへ、二十二日の払暁、僅に十八騎を率ゐて出発しましたが、何分にも帝都を侵し奉り、官軍と戦ふのでありますから、心中まことに安からぬものがあります。『増鏡』によりますと、鎌倉出発の翌日、泰時ひとり帰り来つて、親の義時に面会を求めます。義時胸うちさわぎ、「何事が起つたのか」と尋ねますと、泰時のいふには、「戦略に於いては、仰によつて大体承知しましたが、只一つ思案に余ります事は、官軍もし鳳輦を先立て奉り、錦の御旗をあげて厳重に臨幸遊ばされるといふ事であつたならば、その時には如何致すべきでありませうか、此の一事を尋ね申さん為に、一人馳せ帰つて来ました」と申します。義時暫く考へて居りましたが、やがて之に答へて、

 「かしこくも問へるをのこかな。その事なり。まさに君の御輿に向ひて、弓を引くことはいかゞあらむ。さばかりの時は、兜をぬぎ弓のつるをきりて、偏にかしこまりを申して、身をまかせ奉るべし、さはあらで君は都におはしましながら、軍兵をたまはせば、命をすてゝ、千人が一人になるまでも戦ふべし」

といつたと見えて居ります。『明恵上人伝記』や『梅松論』によりますと、泰時は最初父に向つて降参を勧めたが、義時之を聞き入れなかつたとあり、右の『増鏡』の記事と必ずしも一致いたしませんが、いづれにせよ義時父子といへども流石に戦慄し当惑した有様は、之によつて察せられるのであります。

 されば当時若し官軍に智謀と胆略と群を抜く名将があつて、五月十五日伊賀光季を誅戮すると共に、直ちに上皇の親征を秦請し、東海東山の両道並び進み、錦旗いちはやく箱根を越え碓氷を越えるといふ事でありましたならば、諸国の武士の靡く者も少くないばかりでなく、鎌倉の内にさへ態度を改める者が出て来たのでありませうし、それどころではなく、北条氏自身も恐れて降を乞うに至つたかも知れないのであります。惜しいかな、官軍に此の神速果敢の進撃が欠け、僅に濃尾の平野に出て、木曽川を前にあてゝ賊軍の上京を防がうとするに止まつた事は、遺憾としなければならないのであります。しかし、何分にも幕府は武威を誇つて公然と平日より戦備をととのへて居り、此の時の如きも、十九日に初めて報告を得、其の午後態度を決し、其の夕戦略を議した程でありながら、二十五日までに総勢十九万騎悉く進発したといふ程敏活に動けるのに対し、官軍は幕府の目に触れないやうに、密々に連絡を取り、準備を整へるのであつて、いよいよ兵を挙げたとしても、大軍直ちに鎌倉に向ふといふ事は中々容易でなく、出発の遅引したのはまことにやむを得なかつたのでありませう。

 さても賊軍は東海、東山、北陸の三軍に分れ、三道並び進んで京都に迫ります。されば戦は諸方に起りましたが、しかし決定的な戦闘は木曽川に於いて行はれました。当時官軍の部署を見るに、大内惟信筑後有長、糟屋久季等二千余騎は大井戸渡を守り、藤原親頼、神地頼経等一千余騎を以て鵜沼渡を固め、朝日判官代頼清は一千余騎を率いて板橋を守り、関左衛門尉、土岐判官代等は同じく一千余騎池瀬を守り、摩免戸(まめど)は大手、大切の所と見えて、大将能登守秀康、山城守佐々木広綱、下総前司小野盛綱、平判官三浦胤義、佐々木判官高重等凡そ一万余騎を差向け、洲俣(すのまた)は河内判官秀澄、山田次郎重忠等一余騎を以て之を守り、市脇は伊勢守加藤光員五百余騎にて之に当れば、矢野次郎左衛門五百余騎にて薭島に向ひ、即ち総勢一万七千五百余騎、九隊に分れて木曽川の九つの瀬を固めたのでありました。『新撰美濃志』を見るに、

 「凡此川は、往古より東国西国通路立分の要害、軍用の固め第一の切所にて、天武天皇の御軍をはじめ、源平養和寿永のたゝかひ、承久暦応等の合戦、その外数度の軍に、かならず此川を以て勝敗を極め、京方墨俣の陣を破らるれば、宇治勢多等の固めはふせぎえず、必敗軍となり、又鎌倉方此川を渡りえずして引退くときは、矢矧・天龍等の固めを破られ、必ず敗軍となる事通例なり」

とあつて、此の川の軍事上の意義は、簡単明瞭に説かれてあります。さればこそ官軍は、全力を挙げて此の川を守り、その九つの瀬を固めて、攻め上る賊軍を防ぎ留めようとしたのでありました。しかし、何分にも賊軍は大勢であります。『吾妻鏡』によれば軍士すべて十九万騎、之を東海、東山、北陸の三手に分つたとありますが、『承久記』によれば其の東海道に向つたものは十万余騎、東山道五万余騎、北陸道四万余騎といひ、総計して『吾妻鏡』の記事と一致します。されば今木曾川に向つたたものは、その東海東山両道の軍でありますが、此の両道よほど巧みに連絡をとつたものと見え、丁度六月五日といふに、一斉に官軍に向ふ事となつたのであります。即ち、両道を合せて其の勢正に十五万余騎、官軍の一万七千にくらべて、十倍の勢であります。

 かくて六月五日の夕、戦は賊軍が東山道軍の主力を以て、大井戸を攻めたのに始まり、官軍も随分よく戦ひましたけれども、何分にも衆寡敵せず、大井戸先づ敗れて自余の陣も動揺し、遂に総敗軍となつて退却しました。此の時、洲俣を守つた山田次郎重忠は、味方の落ちゆく中に雄々しくも踏み留まり、苟くも勅命を受けて賊の追討に当れるものが、甲斐々々しきいくさもせずに退いては、君の御尋ねあらんに何とか答へ申すべきとて、杭瀬川の西に僅か九千余騎にて控へ、泰時の本陣の兵を迎へ討ち、激戦して散々に之を苦しめ、やがて静かに引上げたのでありました。

 木曽川の敗報京都に至るや、後鳥羽上皇は土御門順徳両上皇を伴ひ叡山に御幸あらせられ、延暦寺の武力を以て王事に勤めん事を命じ給ひましたが、延暦寺は体よく御辞退申しましたので、上皇はやがて京都へ還御あり、六月十二日に至り、大納言藤原忠信、前中納言源有雅、参議藤原範茂、右衛門佐藤原朝俊等の公卿殿上人、また藤原秀康、同秀澄、山田重忠、三浦胤義、大江親広、佐々木広綱、河野通信等の武士、加ふるに法印尊長等の僧侶にいたるまで、要するに官軍その数を尽くして、水尾崎、勢多、供御瀬、宇治、真木島、芋洗、淀、広瀬と、宇治川より淀川の一線に出動し、此の要害によつて賊軍を防がうとしたのでありました。その勢『増鏡』には六万とありますが、『承久兵乱記』には三万七千余騎と見え、『吾妻鏡』や『承久記』を参考すれば、三万数千といふ方が事実に近かつたであらうと思はれます。

 その日、賊軍は近江の野路まで進んで居り、翌十三日野路を発し、道を分けて進撃して、官軍に対しましたが、その武将足利義氏(これは高氏の先祖で、母は北条時政の女、妻はまた泰時の女であったと『足利系図』に見えて居ります)三浦泰村等、密に宇治に進出し、官軍と戦つて敗れましたので、賊軍の志気沮喪(そそう)して、

 「我等いやしき民として、恭くも十善の帝皇に向ひ進らせ、弓を引き矢を放たんとすればこそ、兼ねて冥加も尽きぬれ」

と歎いて、敢えて進む者がなかつたと『承久記』に見えて居ります。官軍に於いては、後鳥羽上皇多年武道を御奨励遊ばされたる事前に述べた通りであり、皇子雅成親王の如きも、上皇の厳訓と称して偏に弓馬の事を好ませ給うたと『明月記』に見えてゐるのでありますから、此の時は志気頗る旺盛、例の山田重忠を始め、将士奮戦大につとめ、一時は却って河を渡つて進撃する勢でありましたが、十四日に至り賊軍勢をもりかへし、官軍は再び総崩れになつて了つたのでありました。しかしながら官軍の善く戦つて、両軍の死傷多数に上つた事は、『吾妻鏡』や『承久記』などに詳しく見えて居り、殊に藤原朝俊。佐々木惟綱、筑後知尚等は、宇治に於いて潔く戦死し、山田重忠、三浦胤義、佐々木経高等は自害して果てたのでありました。

 かやうにして、戦は遂に官軍の敗北を以て終局したのでありました。これは然し官軍の罪ではなく、国民の大多数が賊軍に与した際に於いて、大義の為に奮つて官軍に加はつた人に対しては、深く当時の事情を察します時、まことに感謝に堪へないのであります。されば清水寺の僧侶敬月法師が、官軍に属して宇治を守つた為に、捕へられて斬られようとした時、従容として一首の歌をよみ

 勅なれば身をば捨ててき武士の

  やそ宇治河の瀬には立たねど

と詠ずるや、流石に賊軍も之に感じて、遂に之を斬る能はず、その弟子の僧二人と共に放免したのでありました。

 

   四

 戦後の処分は実に苛察(かさつ)冷酷を極めます。武士僧侶は憚る所なく京都に於いて之を斬罪に処します。即ち判官代錦織義継、蔵人多田基綱、熊野法印快実等も斬られ、また西面の武士検非違使左衛門尉後藤基清、筑後守五条有範、山城守佐々木広綱、検非違使左衛門尉大江能範等は六条河原に於いて斬られました。公卿に対しては流石に遠慮があります。之を京都より引出して、地方に於いて斬るのであります。即ち按察使光親、中納言宗行は共に駿河に於いて、宰相中将範茂は相模に於いて、また宰相中将信能は美濃に於いて斬られました。

 しかも、処分はそれに止まりません。幕府は畏れ多くも上を犯し奉るのであります。是に於いて七月九日、仲恭天皇の御譲位、後堀川天皇の御受禅となり、ついで十三日後鳥羽上皇隠岐の御幸、過もなく二十一日順徳天皇佐渡の御幸、やがて閏十月十日土御門上皇土佐の御幸を拝し奉るのであります。御幸と申しましても、幕府の逆威を以て強ひ奉るところである事は、申すまでもありません。

 隠岐へ向つて御発輦の前、七月八日といふに後鳥羽上皇は鳥羽殿に於いて御剃髪遊ばされます。その御剃髪に先だつて肖像画の名人として知られたる藤原信実を召して、宸影を写さしめ給ひ、御かたみとして之を御母七条院に贈り給うたのでありました。やがて其の月十二日鳥羽殿を御発輦、水無瀬、明石を御通過、美作、伯耆を経て、二十七日出雲の大浜の湊に着かせ給ひ、これより御船に召され、八月五日隠岐の海士(あま)郡苅田郷に着御遊ばされました。悲しみの御幸に御供申上げた人々は、出羽前司藤原重房(『承久記』による、前田家本に弘房、『武家年代記』に清房とあり)内蔵頭藤原清範、婦人には西御方、伊賀局等、極めて少数でありました。この中清範は途中より呼び返されましたので、之に代つて施薬院使和気長成、北面の武士左衛門尉藤原能茂供奉を許され、後より追つて参上しました。

 隠岐の行在所の有様は、『増鏡』に記すところ、要を得て居ります。

  「このおはします所は、人はなれ里遠き島の中なり。海づらよりは少しひき入りて、山蔭にかたそへて、大きやかなる巌のそばだてるをたよりにて、松の柱に、葦ふける廊などけしきばかり、ことそぎたり。誠に柴のいほりのたゞしばしと、かりそめに見えたる御やどりなれど、さる方になまめかしく、ゆゑづきてしなさせ給へり。水無瀬殿おぼしいづるも、夢のやうになむ。はるばると見やるゝ海の眺望、二千里の外ものこりなき心ちする、今さらめきたり。潮風のいとこちかく吹きくるを聞しめして、

    我こそは新島守よ隠岐の海

     荒き浪風  心して吹け

   同じ世にまた住の江の月や見む

    今日こそよそにおきの島守」

これ即ち、今日の海士郡海士村大字海士の地、諏訪湾より入る事四五町、うしろに山を負ひ、前に海を望む所でありまして、風は北海の浪を蹴つてこゝに吹き到り、こゝに到れば更に老杉古松之に激して、海といひ、山といひ、一斉に唸りを発し怒号して止まない、その荒涼たる孤島の行在所に、上皇は寂しく永の月日を送らせ給うたのであります。而して右の「同じ世にまた住の江の月や見む」の御製に拝察し奉る如く、再び京都に御還幸遊ばれる日を、御心待ちに待ち給うたのでありましたが、幕府は何としても御迎へ申上げず、そのまゝ幾年も過ぎていつたのでありました。その間に詠みいで給うた御製『後鳥羽院遠島御百首』として伝はりますものゝ中より、幾首かを左に抄出します。

 

   春

墨染めの袖の氷に春たちて

 ありしにもあらぬながめをぞする

百千鳥囀る空はかはらねど

 我身の春はあらたまりぬる

詠むれば月やは有りし月ならぬ

 うき身ぞ本の春にかはれる

物思ふにすぐる月日はしらねども

 春や暮れぬる岸の山吹

 

   夏

けふとてや大宮人のかへつらん

 むかしがたりの夏衣かな

今はとてそむきはてぬる世の中に

 何とかたらん山ほとゝぎす

みの憂きはとぶべき人もとはぬ世に

 哀に来鳴く 時鳥哉

あはれにもほのかにたゝく水鶏かな

 老のねざめの 暁の空

 

   秋

よのつねの草葉の露にしをれつゝ

 もの思ふ秋と誰かいふらん

いたづらに秋の日数はうつりきて

 いとゞ都はとほざかりつゝ

おもひやれいとゞ涙もふる里の

 あれたる庭の萩の白露

よもすがらなくや浅芽のきりぎりす

 はかなく暮るゝ秋を恨みて

 

   冬

見し世にもあらぬ袂をあはれとや

 おのれしをれてとふ時雨かな

おのづから問ひがほなりし萩の葉も

 かれがれに吹く風のはげしさ

あをむとて恨みし山の程もなく

 また霜枯の風おろすなり

ふゆごもり淋しさ思ふ朝な朝な

 つまぎの道をうづむ白雪

 

   雑

なまじひにいければうれし露の命

 あらば逢ふ瀬を待つとなけれど

問はるゝもうれしくもなし此海を

 渡らぬ人の なけの情は

とにかくに人の心も見えはてぬ

 うきや野守のかゞみなるらん

限あれば萱が軒端の月もみつ

 しらぬは人の行末の空

 

かくて孤島の御幽居、春風秋雨十九年、延応元年(1239)二月二十二日に至つて、遂に崩御遊ばされました。時に宝算六十歳。逆算すれば承久三年には、御年四十二歳におはしましたのであります。北条氏逆威をほしいまゝにし、天下只功利に就いて之に屈服して居りました時、敢然之を討伐して道義の尊厳を世に示し、皇国日本の正しい姿を顕はさうとの御志も遂に空しく、北海の怒涛に安き御寝もならせられず、御憂愁の月日を送らせ給ふ事十九年にして、後鳥羽上皇崩御遊ばされたのであります。

 

   五

 後鳥羽上皇崩御の後、その御ゆかりの地、摂津水無瀬に御影堂が立てられ、上皇を御祀り申上げる事となりました。水無瀬は今の大阪府三島郡島本村であります。此の地は山城の乙訓郡山崎と隣接して居ります。山崎といへば其の地勢大抵想像されるでありませうが、一方に天王山、一方に男山、山々南北より相迫るところ、淀の大河之を衝いて西に流れて居るのでありますが、山河の此の形勢は、山崎を自ら京都の咽喉たらしめ、山陽西海南海三道に往返する者、此の路に遵はざるはなしと古記に述べて居りますやうに、昔より交通の要衝となつて居り、而して一旦兵乱に及べば、此の地は必ず敵味方争奪の目標となつたのであります。たとへば羽柴秀吉明智光秀を討つに当つては、光秀先づ山崎を扼して之が防がんとし、而して秀吉は之を衝いて進まんとし、両軍此の地に於いて火花を散らして戦つたのでありました。かやうに交通の要衝であり、両軍の基地であるばかりでなく、山河相依つて、自然の美を発揮し、山崎は古来景勝を以て謳はれたのであります。されば、古くは河陽の離宮此の地に設けられたのでありました。従つてそれに隣接せる水無瀬も古くより著れ、寛平の菊合には最初に山城皆瀬の菊が歌はれ、(皆瀬は即ち水無瀬であります)『伊勢物語』には、惟喬親王の御殿水無瀬に在り、在原業平宮の御供してこゝに遊び、有名なる、

  世の中に絶えて桜のなかりせば

   春の心はのどけからまし

といふ歌をよんだ事が見えて居ります。後鳥羽天皇は此の地の風景を深く愛し給ひ、こゝに離宮を建てゝしばしば行幸遊ばされました。『増鏡』にも、

  「猶又、水無瀬といふ所にえもいはずおもしろき院づくりして、しばしば通ひおはしましつゝ、春秋の花紅葉につけても、御心ゆくかぎ   り、世をひゞかして、あそびをのぞみしたまふ。所がらも、はるばると川にのぞめる眺望、いとおもしろくなむ。元久の頃、詩に歌をあらせられしにも、とりわきてこそは、

    見わたせば山もとかすむみなせ川

     ゆふべは秋となに思ひけむ

  かやぶきの廊、渡殿など、なるばると、艶にをかしうせさせ給へり。御前の山より、滝おとされたる石のたゝずまひ、苔深きみ山木に、枝さしかはしたる庭の小松も、げにげに千世をこめたる霞の洞なり」

と見えて居ります。されば隠岐御遷幸の際にも、途中この地を過ぎさせ給ひて、御感慨一層‘であらせられたのであり、また隠岐へ移らせ給うて後は、水無瀬殿の荒廃を憂へさせ給ひ、

  水無瀬山わがふるさとは荒れぬらむ

   まがきは野らと人もかよはで

と歌はせ給うたのでありました。

 それ故に隠岐御遷幸の後は、この御殿は水無瀬信成、親成父子が、勅を承つて之を之を守り奉り、御還幸の日を御待ち申上げて居つたのでありました。水無瀬家は藤原氏北家、道隆の流であつて、後鳥羽天皇の御生母七条院の御里方に当ります。その七条院の兄内大臣信清の子、権大納言忠信は、承久討伐の御企に参画して、事敗れたる後越後に流されましたが、其の子が即ち参議信成でありました。尤も実際は一族親兼の子でありましたが、後鳥羽天皇の勅によつて、忠信の養嗣子となり、水無瀬一流の嫡家となつたのでありました。

 さて延応元年二月九日、後鳥羽上皇崩御の前十四日に当り、特に御手印の御置文を信成、親成父子に賜ひ、御所労の次第に重りていよいよ御最期の近づきしを告げ給ひ、多年の忠節を嘉賞し給はんとして、しかも万事叡慮のまゝならず、やむなくたゞ水無瀬井内両所を賜はる間、長く此の地を領して天皇を祀り奉るべしと仰せ下されたのでありました。而してやがて崩御遊ばされるや、御遺骨は能茂之を首に懸け奉り、京都へ御供申上げ、大原に葬り奉つたのでありました。能茂は即ち前の北面の武士左衛門尉能茂、今は入道して西蓮法師、十九年の隠岐の御幽居に、終始御側近く御仕へ申上げた人であります。

 是に於いて信成、親成父子は、水無瀬の御所のうちに御影堂を設け、ここに天皇の御影を掲げ奉つて、御祭り申上げました。御影は先きに承久の役の直後、藤原信実を召して描かしめ給ひ、御母七条院に贈り給うた一幅の外に、隠岐御在島の砌、御みづから鏡をとつて写さしめ給うた法体の御像一幅、併せて二幅あり、それに前に述べました御手印の御置文を御一緒に神殿に納めて祭り奉つたのであります。その御祭の儀式を見ますに、殆んど御在世の君に仕へ奉るが如き感じであります。たとへば其の御供物の如き、三月三日には赤飯の外に桃の花と菱餅とを掲げ、五月五日には黄白の強飯の外に菖蒲と粽とを奉り、秋には瓜に茄子、また栗を供へ奉るといふ風でありました。水無瀬家がかくの如き真情至誠を以て謹んで奉斎し、親より子に伝へ、孫より曾孫に至り、時移り代替るといへども、一意専心後鳥羽天皇にお仕へ申上げ、代々奉仕して七百年の長きに亙り、以て今日に至つたいふ事は、まことに尊く有難い事と申さねばなりません。

 然るに天皇崩御の後約百年、その御精神を受け伝へ給うて、後醍醐天皇は遂に北条氏を討ち亡ぼし、幕府を覆して王政を古に復し給うたのであります。後鳥羽天皇が天がけりて之を御満悦遊ばされました事、拝察に余りある所であります。されば軈(やが)て正平年中、後村上天皇は宸筆の御願文を水無瀬の御影堂に納め、御影堂を造替して荘厳なる神宮とし、慇懃の報賽を致し奉らんとの叡慮を述べ給うたのでありました。然しながら南風競はず、天下再び逆賊の跳梁する所となつて、此の御願は遂に之を果し給う事が出来なかつたのであります。

 やがて明応三年(1494)に至り、後土御門天皇は、天下の擾乱静謐の御願の為に、水無瀬神と申す神号を贈らせ給ひました。明応といへば丁度応仁文明の大乱の直後でありまして、万民私利を競ひ、四海の動乱いつ果つべしとも見えなかつた時でありまして、その為に宸襟を安んじ給はず、かやうに御祈願のありました事は、まことに恐懼に堪へない所であります。

 さても後鳥羽天皇の御志は、一旦後醍醐天皇建武の中興によつて成し遂げられたやうに見えながら、しかも惜しいかな足利の出現によつて再び敗れましたが、六百年の後明治天皇の維新の大業によつて見事果たされました。明治維新の原動力が建武の中興に在る事は、天下の周(あまね)く知る所であります。しかるに建武の中興は、承久の御企をその先蹤とするのであります。従つて明治維新の原動力としては、承久の御企が強く働いて居る事を知らなければならないのであります。さればこそ愈々維新の大業が成就いたしまするや、明治天皇は勅を下し給ひ、水無瀬宮を以て官幣社に列し給ひ、後鳥羽天皇の外に、土御門順徳両天皇を合せ祀り給うたのであります。時に明治六年(1873)でありました。

 其の後御神徳愈々輝き、今年丁度その七百年の大祭を前にして、去る三月一日特に神宮の嘉号を贈り給ひ、官幣大社に列せらるゝ旨仰出されました事は、まことに畏(かしこ)き極みであります。

 

                               (『後鳥羽上皇うぃ偲び奉る』昭和十四年三月、水無瀬神宮社務所

 

これは、吾が郷里福井の碩学である平泉澄博士の諸論文を、老先生の遺徳を偲んで提出するものである。一部改変を施したが、論述の主旨は原文通りである。