正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

明治の大御代 平泉 澄

明治の大御代

平泉 澄

 

 明治天皇の知ろしめた明治時代は、わが国の歴史に於いて、内治外交ともに、最も光彩陸離たる、いはば黄金時代であつた。古くは延喜・天暦の御代が、聖代としてたたへられて、その聖代に復す事が、政治の理想とせられたが、明治の大御代は、その深刻なる改革の徹底といひ、その雄大なる発展の規模といひ、もとより他に例類の無いものであつた。

 しかも明治の大御代は、直ぐその前の、文久・元治・慶応までが、対外的には萎縮姑息であり、而して内は分裂抗争がつづいてゐたのであるから、その分裂から全国を打つて一丸とする大同団結が生れ、その萎縮から奮起して世界的雄飛となつたのは、殆んど一夜の変異の観があり、之を謎とし、之を奇蹟としても、決して無理では無いであらう。

 慶応三年(1867)正月九日、明治天皇践祚の礼を行ひ給うた。嘉永五年(1852)の御降誕であるから、今慶応三年には、御年十六歳であらせられた。その十月十四日、徳川慶喜上表して、政権の奉還を請うた。その文に、保元平治の乱以来、政権武門に移り、徳川氏に至つて二百余年相承して今に至るといへども、政刑、当を失ふこと少なからず、

  況や当今外国の交際、日に盛なるにより、いよいよ愈朝権一途に出で申さず候ては、綱    紀立ちがたく候間、従来の旧習を改め、政権を朝廷に帰し奉り、広く天下の公議を尽くし、聖断を仰ぎ、同心協力、共に皇国を保護仕候へば、必ず海外万国と並立すべく候、

云々とある。政権の武門に移つたのは、正に保元平治の乱からの事ではあるが、しかし平家の時代には、平家は朝廷の内にあり、朝廷の重臣として政権をとつてゐたのであるから、外形よりいへば政権はまだ朝廷の内に存した。それが朝廷の外に、別に政府を立て、朝廷を凌ぐ権威をほしいままにするに至つたのは、源頼朝からであつて、時をいへば、文治元年(1185)の冬であつた。それは頼朝みづから十分に意識して、「今度は天下の草創なり、尤も淵源を究め行はるべく候」といつて居るによつて明かである。されば今、慶応三年十月の上表は、文治元年以来六百八十二年の幕府政治を否定し、保元元年(1156)以来七百十一年に及ぶ武家の専横を改めようとするものであつて、正に破天荒の改革といはなければならぬ。

 しかも朝廷はこの上表を許されると共に、猶之を以て足れりとせず、十二月九日、王政復古の大号令を発して、神武創業の始にもとづき、従来驕惰の汚習を一洗すべく、摂関幕府等を廃絶し、仮りに総裁・議定・参与の三職を置かれ、実質的に徳川宗家の政議参与を否定せられた。これ即ち小御所会議の論争起る所以であるが、その会議に於いて、徳川宗家の締出しは、決定的なものとなつた。

 事の行はれた後より見る時は、当然の事が順当に運んだやうに思はれやすいが、将軍みづから大政の奉還を請ひ、朝廷之を許されると共に、徳川宗家、幕府の主脳は、一切今後の政治に関与せしめず、完全に之を締出されるに就いては、幕府に於いても、親藩一門のうちにも、諸藩のうちにも、之を喜ばず、むしろ之を憤つて、武力を以ても之を阻止したいと考へる者がすくなくなかつた。即ち彼らは

  御連枝、御譜代、臣子の面々より論じ奉り候へば、九重(明治天皇)御幼冲、輦下御動   揺の折柄、御祖宗奕世の御大業、卒然一朝御辞解に相成候段、いかでか坐視傍観奉るべき、悲憤痛惋、此事に候。

となげき、

  嗚呼歳寒うして松柏の後凋を知る。誰か幕府と君臣の大義を明にし、むしろ忘恩の王臣ならんより、全義の陪臣となり、益砥不節奮武の目的相立候へば、即ち依然たる徳川氏失はせられず、世運挽回の期もこれあるべきやと存ぜられ候。

と云つた。「忘恩の王臣」は、「徳川家の恩を忘れて朝廷に仕へるよりは」の意味であり、「全義の陪臣」は、徳川家に仕へて朝臣より陪臣といはれようとも、それによつて義を全くしたいといふのである。

 親藩の一つが、かやうに云へば、外様大名も亦云ふ、

  私に於いても、二百余年の御恩沢、いかでか遺失仕るべきや。憚りながら領知差上候と   も、一分の忠勤相励み候志に御座候。

 かやうにして当時二条城に会集する所の諸隊は皆武装し、慶喜の号令一たび下れば、奮進血戦して、二百余年の徳川家の大恩に報ぜん事を期するものの如くであつたといふ。かくの如き状態の下に、将軍の大政奉還が行はれ、更に王政復古の名の下に、摂関と共に幕府を否定し、そして実質的に徳川宗家を追放し畢つた事は、殆んど不思議といふの外は無い。

 不思議といへば、鳥羽伏見の戦も亦不思議である。古来京都の攻防戦、攻める者に勝利あつて、守る者に不利なるを通例とする。木曽の入る時、平家之を防ぎ得ず、義経の入る時、木曽之を防ぎ得ず、承久に関東の軍勢乱入すれば、官軍之を防いで利あらず、元弘に官軍攻入る時は、六波羅やぶれて東走し、延元に足利攻入れば、官軍は防御の法を失つた。京を守つて勝つた例は極めてすくなく、わづかに元治の禁門の変をその著例とするであらうが、それは長州一藩の攻撃を多数の雄藩連合して撃退したに過ぎない。しかるに慶応三年十二月十二日、一たん二条城を出でて大阪に去つた徳川慶喜が、翌明治元年(1868)正月三日、再び兵をひきゐて入京しようとして、鳥羽伏見の戦となるや、幕府の軍勢は一万五千、之を防ぐ薩長の兵数は四千未満であつたのに、幕府脆くもやぶれて、慶喜は海路東帰するの外無かつた。是れも亦不思議の戦である。

 更に驚くべきは、明治四年の廃藩置県である。戊申の役、慶喜の恭順にとつて、江戸は鎮定し、ついで奥羽の諸藩も降り、それぞれ削封の処分があつて、県を置かれた所も多いが、しかも藩の多くは依然として存した。今、明治三年の列藩一覧を見るに、当時の諸藩は左の通りであつた。

   大藩(百万石より四十万石)

 加賀の前田(百二万五千石)、薩摩の島津(七十七万八百石)、静岡の徳川(七十万石)、尾張の徳川(五十六万四千五百石)、紀伊の徳川(五十五万五千石)、肥後の細川(五十四万石)、筑前の黒田(五十二万三千百石)、安芸の浅野(四十二万六千五百石)、以上八藩

   中藩(三十九万石より十万石まで)

 長州の毛利(三十六万九千石)、肥前の鍋島(三十五万七千三十六石)、水戸の徳川(三十五万石)、伊勢の藤堂(三十二万二千九百五十石)、鳥取の池田(三十二万石)、越前の松平(三十二万石)、岡山の池田(三十一万二千九百五十石)、仙台の伊達(二十八万石)、阿波の蜂須賀(二十五万七千九百石)、土佐の山内(二十四万二千石)、久留米の有馬(二十一万石)、秋田の佐竹(二十万五千八百石)、彦根の井伊(二十万石)、松江の松平(十八万六千石)、前橋の松平(十七万石)、郡山の柳沢(十五万千二百八十八石)、松山の久松(十五万石)、高田の榊原(十五万石)、姫路の酒井(十五万石)、豊前の小笠原(十五万石)、米沢の上杉(十四万七千二百石)、盛岡の南部(十三万石)、高松の松平(十二万石)、羽前の酒井(十二万石)、柳川の立花(十一万九千六百石)、佐倉の堀田(十一万石)、福山の阿部(十一万石)、小浜の酒井(十万三千五百五十八石)
、淀の稲葉(十万二千石)、津山の松平(十万石)、弘前津軽(十万石)、忍の松平(十万石)、宇和島の伊達(十万石)、大聖寺の前田(十万石)、富山の前田(十万石)、松代の真田(十万石)、大垣の戸田(十万石)、中津の奥平(十万石)、新発田の溝口(十万石)、対馬の宗(十万石)、以上四十藩

   小藩(九万九千石より一万石まで、ここには一々の石数を省略した)

 土浦の土屋、豊橋の松平、高崎の大河内、河越の松平、明石の松平、古河の土井、笠間の牧野、小田原の大久保、小城の鍋島、宇都宮の戸田、岡の中川、延岡の内藤、宮津の本庄、新庄の戸沢、島原の松平、平戸の松浦、鶴田の松平、岩国の吉川、鶴舞の井上、松本の戸田、膳所の本多、笹山の青山、西尾の松平、中村の相馬、唐津の小笠原、舘林

の秋元、大洲の加藤、亀山の石川、棚倉の阿部、桑名の松平、柴山の太田、上田の松平、岸和田の岡部、久居の藤堂、蓮池の鍋島、丸亀の京極、竜野の脇坂、飫肥の伊藤、村上の内藤、臼杵の稲葉、丸岡の有馬、亀岡の松平、山形の水野、菊間の水野、豊浦の毛利、秋月の黒田、岡崎の本多、三春の秋田、二本松の丹羽、郡上の青山、津和野の亀井、関宿の久世、徳山の毛利、大野の土井、長尾の本多、尼崎の桜井。鯖江の間部、田辺の安藤、三田の九鬼、高槻の永井、新宮の水野、花房の西尾、今治の久

松、沼田の土岐、犬山の成瀬、高瀬の細川、舞鶴の牧野、高遠の内藤、加納の永井、福知山の朽木、杵築の松平、西条の松平、出石の仙台、岩村の松平、安中の板倉、壬生の鳥居、平の安藤、鳥山の大久保、久留里の黒田、高島の諏訪、広瀬の松平、鳥羽の稲垣、館の松前、高須の松平、宇土の細川、陸奥の松平、鹿奴の池田、吉田の伊達、村松の堀、重原の板倉、大村の大村、大田喜の大河内、佐土原の島津、高鍋の秋月、一の関の田村、上の山の松平、園部の小出、水口の加藤、日出の木下、松岡の中山、高取の植村、足守の木下、鴨方の池田、長岡の牧野、刈谷の土井、真島の三浦、岩槻の大岡、勝山の小笠原、松嶺の酒井、人吉の相良、府内の大給、半原の阿部、本庄の六郷、大溝の分部、石岡の松平、八戸の南部、守山の松平、下館の石川、挙母の内藤、赤穂の森、佐伯の毛利、木幡の松平、与板の井伊、今尾の武腰、長島の増山、飯山の本多、高梁の板倉、飯野の保科‘鹿島の鍋島、庭瀬の板倉、柏原の織田、伊勢崎の酒井、岩崎の佐竹、綾部の九鬼、泉の本多、亀田の岩城、新見の関、黒羽の大関、天童の織田、西大路の市橋、飯田の堀、結城の水野、矢田部の細川、竜岡の大給、佐貫の阿部、佐野の堀田、福江の五島、矢島の生駒、須坂の堀、神戸の本多、小諸の牧野、鶴牧の水野、岩村田の内藤、豊岡の京極、三日月の森、生坂の池田、若桜倉の池田、湯長谷の内藤、伯太の渡辺、山上の稲垣、萩野山中の大久保、宮川の堀田、一の宮の加納、土佐の支藩山内、成羽の山崎、森の久留島、田原の三宅、三上の遠藤、六浦の米倉、加知山の酒井、多古の久松、大田原の大田原、小久保の田沼、峰山の京極、小泉の片桐、菰野の土方、足利の戸田、三根山の牧野、大網の米津、村岡の山名、福本の池田、西端の本多、岡田の伊藤、志筑の本堂、山家の谷、苗木の遠山、牛久の山口、七日市の前田、堀江の大沢、田原本の平野、麻田の青木、麴山の酒井、柳本の織田、新谷の加藤、平戸新田の松浦、小野の一柳、米沢新田の上杉、宍戸の松平、但南の高木、三池の立花、黒石の津軽、芝村の織田、三草の丹羽、野村の戸田、三日市の柳沢、千束の小笠原、母里の松平、西大平の大岡、高富の本庄、清崎の松平、多度津の京極、安志の小笠原、柳生の柳生、吹上の有馬、生実の森川、椎谷の堀、林田の建部、小松の一柳、浅尾の蒔田、桜井の滝脇、小見川の内田、館山の稲葉、櫛羅の永井、高徳の戸田、下妻の井上、高岡の井上、麻生の新庄、清末の毛利、山崎の本多、黒川の柳沢、七戸の南部、喜連川の足利、

以上二百三十二藩

 

今その石数を計るに、大藩五百十万四千九百石、中藩七百二万五百三十二石、小藩六百五

十五万四千百二十三石、以上全部を合計すれば千八百六十七万九千五百五十五石となる。是等の諸藩、版籍奉還と称し、大名の名を改めて藩知事といふにしても、多年土地人民を私有し、世襲の勢、牢固たるものがあつたのに、明治四年七月十四日、突如として之を招集し、只一片の辞令を以て、一切之を免職せられたのは、真に空前の大改革、未曾有の重大事といはねばならぬ。而して当時の詔書にその目的を述べて、「内以て億兆を保安し、外以て万国と対峙せん」が為である事を明かにして居られるのは、期する所、雄大豪快、明治四十五年間の大飛躍、大発展を約束せられたものといつてよい。 

 廃藩置県の大事を、いはば写真を見るが如くに、ありありと我等に情景を示すもの、グリフィスの『ザ・ミカドス。エムパイヤ(Griffis The Mikados Empire)』に若くは無い。彼れは明治四年十月一日、越前福井に於いて、藩主が藩の廃止を告げ、藩士に訣別する式に参列するを許された。彼れは記していふ、

 是の日早朝より、侍は裃を着用して、城内の大広間に集合し、訣別の用意をしてゐた。私  が入つていつたのは、九時であつた。私は此の印象的な光景を決して忘れないであらう。部屋部屋を仕切る襖(ふすま)はすべて 取払はれて、一つの大座敷となつてゐた。それぞれの地位階級によつて並び、儀式用のこはばつた装束をつけ、月代(さかやき)を剃り、

 髻(まげ)を結ひ、正座して前に一刀を立て、その柄(つか)に手をかけてゐる福井一藩の侍は、総数三千と注せられた。彼等は頭を垂れてゐるが、事の重大さを感じて胸中には

 万感往来してゐる。それは彼等の封建君主との訣別以上のものであつた。それは過去七百年間、父祖代々生きて来た制度の厳粛なる葬式であつた。彼等は或は過去を回想し、或は未来を模索するかの如く、瞑想的であつた。 

  私は彼等の心が読めたやうに思つた。刀は侍の魂である。しかるに今やそれは、商人の

 インク壺と元帳とに座を譲つて、名誉を奪はれ、無用の道具として棄去られるべきであるか。武士は今や商人にも劣るものとなつたのであるか。名誉は金銭に若(し)かないのであるか。日本の魂は、日本の富を吸取りつつあるむさくるしき外国人と同列にまで低下せらるべきであるか。我々の子供は将来どうなるのであるか。彼等はあくせくと働いて、おのれのパンを得なければならないのであるか。我等の世襲の禄高が廃止せられるか、又は乞食へのめぐみ程に減額せられる時、我等は何とすべきであらうか。名誉ある武士の子孫として、その血と魂とを継承せる我等は、希望も無く一般民衆の中に混入しなければならないのであるか。商家に娘を嫁せしめるよりは、むしろ名誉ある貧困の中に餓死するを欲した我等も、今やその生命を救ひ胃袋を満たさんがために家族の縁をけがさなければならないのであるか。我等の将来は一体どうなるのであるか。

  主君の出座を待つ家臣の顔は、かやうな思案で曇つてゐるやうに見えた。やがてその主君の来られた事が告げられると、その後は、一本の針を落しても聞えるだらうと思はれる静粛さであつた。

  福井藩主越前侯松平茂昭公(明日よりは単に一人の貴族となるべき)は、広い廊下を通つて大広間へ入つて来られた。公は恐らく三十五歳、厳格な容貌であつた。その袴は紫の襦子、着物は白の襦子、羽織は濃い鼠色の絹で、背にも胸にも徳川一門の葵の紋が縫取られてゐた。その腰に帯びたる脇差の柄は、純金で飾られてゐた。白足袋をはいたその足は、畳の上を音も無く進んだ。その通るや、人々は頭を下げ、刀を伏せて右側に置いた。公は外には現はさないが、深い感動で、家来の列の中を進んで、大広間の中央へ来た。家老が簡潔にして荘重なる告示を読上げて、藩の歴史、主従の関係、明治元年の御一新によつて、王政の復古するに至り、藩の廃せられた事を、簡単に、しかし雄弁に述べた。その結論に於いて、公はその家来がすべて、今後は天皇と皇室とに忠節をつくすやう厳命した。そして各人の成功と幸福とを祈りつつ、上品にして適切なる言葉で、厳粛なるお別れの挨拶があつた。

  侍の側では、一人が代表として答辞を述べ、元の君主に対して懇切なる感謝を捧ぐるとともに、今後は天皇と皇室とに忠節をつくす事を誓つた。儀式はここに終つた。前藩主と家老とは城を去つた。

  その翌日、前藩主は、多年住み馴れた福井を引上げて、東京に向ふ。人々は名残りを惜しんで群集し、その熱心なる者は、あとについて武生(たけふ)までも随行する。封建制度の最後の日の姿の、如実の描写として、グリフィスの記述は、千金の価をもつ。

 

まことに雄大にして深刻なる大改革であつた。されば当時英国公使パークスは、之を聞いて驚歎し、ヨーロッパに於いてかくの如き大事を成そうとすれば、幾年かの兵力を用ゐなければなるまいに、日本に在つては、天皇詔書一たび下れば、忽ち二百余藩の実権を収め得るといふは、世界未曾有の盛時であつて、天皇は真に神の如し、人間の企て及ぶ所ではない、と云つたといふ。正にその通りである。七百年にわたる因襲であり、現に今、明治四年に於いて、藩をかぞへて二百八十、石数をつもれば千八百万石、一国の大部分を占拠してゐる封建諸侯を、只一片の辞令を以て免官し、藩を全廃して県とし、朝廷の直轄として、土地にして王土にあらざるは無く、人にして臣民にあらざるは無き大理想を、一瞬にして実現し給うたのであるから、明治天皇御一代の盛時、之を以て頂点とし、これ以前の改革は、ここに到る道程であり、これ以後の壮挙、日清・日露の二大戦役にしても、憲法の発布、教育勅語の下賜にしても、すべて此の点より出発して内は以て億兆を保安し、外は以て万国と対峙しようとせられたもの、つまり是れよりの発展に外ならぬであらう。

米人グリフィスは、外人なるが故に、特に鋭敏にして新鮮なる感覚を以て、廃藩置県の重大にして深刻なる改革の一瞬を、さながら今も目に見、耳に聞くが如くに、写取つた。そして彼は、その表面に現れたる変化を叙述したに止まらずして、その根本の動力が、そもそも如何なるものであるかを看破した。そして其の結果、彼は其の日本見聞記に題するに、The Mikados Empireを以てし、特に漢字を併記して、『皇国』とした。これこそ明治維新の本質を、最も簡潔に、最も的確に表現したものであり、同時に明治の大御代の、あの花々しい雄飛、かがやかしい発展を、最も雄弁に説明するものと云はなければならぬ。

皇国といふ言葉は、尊王家勤王家の間には、はやくより用ゐられて来たが、注意すべきは、慶応三年十月十四日、将軍慶喜が「大政奉還の上表文」に、

 臣慶喜謹で皇国時運の沿革を考候に

云々とある事であつて、大政の奉還も、鳥羽伏見の敗退も、江戸城の開渡も、静岡への転封も、すべて幕府の首脳部に、皇国の自覚があつた為である事が考へられるであらう。

 即ち明治維新の大業は、その積極面にも、消極面にも、皇国の自覚が滲透した結果、一時に発露して来たものであるが、之を統率し、之に決断を下し給うたのは、いふまでも無く明治天皇であらせられる。明治天て皇おはしまさずしては、維新の大事、明治の鴻業は、あり得ないのである。功臣あり、名将ありとしても、之を採択し、之を用捨し、之に決断を下さるるは、一に天皇の御徳にある。

 明治天皇の御降誕は、嘉永五年九月二十二日であつたが、その時、御安産の御祈祷を捧げたのは、大阪座摩(いかすり)神社の祝部(はふりべ)、佐久良東雄であつた。そしていよいよ御降誕遊ばれたと承つて、中山忠能卿までささげまつつた歌は、左の二首であつた。

  名に高き その中山の 姫松

   天津日の影 とよさかのぼる

  天照らす 日つぎのみこの みことぞと

   深く思へば なみだし流る

佐久良東雄は、深く幕府の専横を憎み、国民一般の無自覚をなげき、何とかして王政の古にかへしたいと念願し、此の熱烈なる念願に一生を終始した人であつた。

  まつろはぬ やつこことごと 束の間に

   やきほろぼさむ 天の火もがも

は、幕府の専横を憤るのである。

  大皇(おおきみ)に まつろふ心 なき人は

   何を楽しと 生きてあるらむ

は、同胞の無自覚をなげくのである。

  死にかはり 生きかへりつつ もろともに

   橿原の御代に かへさざらめや

  おきふしも ねてもさめても 思ひなば

   立てし心の とほらざらめや

は、王政復古を念願するのである。

 ひとり佐久良東雄のみでは無い。明治天皇の御降誕、明治の大御代の出現は、安政万延より文久を経て元治慶応に至る間、数多くの志士の祈りに答へられての事であつた。否、ひとり安政以来と云はぬ。その御英明、「後鳥羽院このかた」と人々の歎称し奉つた桃園天皇以来、君臣の間の祈願、また当時古を援(ひ)いて今を論じ、正気を公卿の間に扶植した竹内式部の熱祷に答へられての事であつた。

 豈ひとり宝暦以来と云はうや。明治元年はやくも湊川神社の創建を仰せいだされ、翌年には鎌倉に護良親王を祀り、井伊谷宗良親王を祀らせ給うた事は、明治維新の大業が直ちに建武の御精神を承けさせ給うた事を示すものである。

 更に驚くべきは、承久の昔との深い関係である。今その一例を、順徳天皇の神霊奉迎に見よう。明治六年、明治天皇の思召により順徳天皇の神霊を佐渡より迎へ奉つて、後鳥羽天皇土御門天皇と共に、水無瀬宮にお祀り申上げる事となり、翌七年三月、奉迎使並に随員の発令があつた。奉迎使を仰付けられたのは、式部権助兼大掌典橋本実梁であつた。一行は四月二十日に東京を出発し、五月六日佐渡に渡り、同十日奉迎の式をあげた。御生前御還幸の御希望をとげさせ給はず、

  むすびあへぬ 春の夢路の 程なきに

   幾たび花の 咲きて散るらむ

  人ならぬ 岩木も更に 悲しきは

   みつの小島の 秋の夕暮

  爪木(つまき)こる 遠山人は 帰るなり

   里まで送れ 秋の三日月

  かこつべき 野原の露も 虫の音も

   我より弱き 秋の夕暮

など、数々の悲しき御歌を残して、御在島足かけ二十二年、仁治三年(1242)に四十六歳を以て崩御遊ばされたる順徳天皇は、承久以来六百五十余年にして、再び海を渡らせ給うたのである。鳳輦の水無瀬宮に着御、御鎮座あらせられたのは、六月十三日であつた。

 かくの如く承久に遠島に移らせ給うた上皇方の奉迎が、明治維新の直後、百事猶混乱のうちに行はれた事は、明治の大御代の源泉が、遠く六百数十年の昔に存するを明示するものである。

 之を要するに、明治の大御代の奇蹟とまでに思はれる輝かしき出現は、わが国の歴史を一貫する精神の発露であり、国家理想の実現であり、而して幾百年にわたる君臣の熱烈なる祈祷に答へての成就であつた。

                              昭和四十年十一月

 

これは『平泉澄博士神道論抄』より抜粋しワード化したものである。忠実に再録したつもりではあるが、パソコン不慣れの為、一部改変を施した。

 

平泉先生に御目にかかったのは、恩師稲川誠一先生に同伴させて頂いた、昭和五十三年の楠公祭と記憶する。小拙の出身が松岡である為、郷土の哲人として先生の文体、文章の語勢を感得すべく、ここに公開するものである。2023年四月吉日 タイ国にて・二谷 記す