正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

十二巻本『正法眼蔵』―『八大人覚』の「奥書」をどう読むか

十二巻本『正法眼蔵』―『八大人覚』の「奥書」をどう読むか   石井修道

 

十二巻本『正法眼蔵』の問題で、その性格を考えるのに重要な手掛かりを与えてくれるのが『八大人覚』の懐弉の「奥書」である。残念ながら、この「奥書」は永光寺本にはなく、秘本にある「奥書」に基づけば次のようである。但し秘本には句読訓点は全くない。

 

建長五年正月六日書于永平寺

 如今建長七年乙卯解制之前日、令義演書記書冩畢。同一校之。

 右本、先師最後御病中之御草也。仰以前所撰假名正法眼藏等、皆書改、幷新草具都盧壱佰巻、可撰之云々。

 既始草之御此巻、當第十二也。此之後、御病漸々重増。仍御草案等事即止也。所以此御草等、先師最後教勅也。我等不幸不拝見一百巻之御草、尤所恨也。若奉戀慕先師之人、必書此十二巻、而可護持之。此釋尊最後之教勅、且先師最後之遺教也。懷弉 記之。

 

 ここで、道元の『正法眼蔵』百巻の撰述意図があったことが知られ、特に「(a)以前所

撰假名正法眼藏等、(b)皆書改」とは、何を意味するかを巡って、研究者間で大問題を惹起することになったのである。十二巻本に対してであるから、(a)は七十五巻本を指すと考えられる。そこで、(a)(b)の関係を大久保道舟編『道元禅師全集』上巻では、「前に撰したまう所の仮字正法眼藏等、皆書き改めらる」と訓じ、次のように解釈した。

  所撰の仮字の「正法眼蔵」(旧草)を書き改められ、それから更に新草十二巻を編成して最後に「八大人覚」を著わされたというのである。

 つまり、七十五巻本を決定稿としたのである。十二巻本は新草で未完成なるがゆえに、

七十五巻本が主で十二巻本は従と考えられたのである。最古の詮慧、経豪の「聞書」「抄」

は、七十五巻本のみの注釈であり、しかも、権威と伝統のあるものとされて来たから、道元

の中心思想は七十五巻本にあることは、当然視されたのである。

 これに対して、主従を逆転した新たな提言が杉尾玄有氏の「道元の哲学(上)」によりな

された。

  旧草七十五巻結集は、単に暫定的便宜的でしかなく、おそらくあらためて新草十二巻の

  延長上に旧草七十五巻が吸収せられ、結集しなおしされて、全百巻になるはずだったのである。

 袴谷憲昭氏はさらに杉尾説よりも徹底して、『本覚思想批判』三四五頁で、次のように述

べている。

  『正法眼蔵』の編纂史を「決定的視点」から見るならば、道元唯一の新輯である十二巻

本の本覚思想批判を、六十巻本と七十五巻本とが寄って集まって隠蔽しようとした歴史で

もあったかのように、映じて来るのを如何ともなし難い。

 杉尾・袴谷両説について、早速に、鏡島元隆氏は「十二巻本『正法眼蔵』について」で反

論した。批判しながらも、両氏が十二巻本の意義を高めた点を素直に認めると共に、十二巻

本にある「自未得度先度他」の衆生済度の論理が曹洞宗史の中で欠落していった事は、「宗

門にとって不幸なことであった」と述べるのである。さらに「(b)皆書改」について、「(杉

尾説のように)新草の上に旧草が配列し直され、または(袴谷説のように)解消されるべき

ものではなく、旧草は旧草として、新草は新草として、それぞれ異なる趣旨のもとに合わせ

て百巻の撰述を」道元が意図したというのである。旧草を「弘法篇」、新草を「救済篇」と

名付けて二つの編集を等視するする考えが出され、「前者は「仏」の眼をもって諸法の有り

様を述べたものであり、後者は「衆生」の立場に立って衆生の有るべきようを示したもので

あって、それぞれ異なった性格のもの」としたのである。鏡島説に対しては多くの指示があ

り、最も一般的と言って良いであろう。旧草の重視説、新草の重視説、新旧の等視説の代表

的な流れは、以上のようなものである。

 ここで、十二巻本が注目されるようになったもう一つの袴谷氏の提言を見逃す事は出来

ないであろう。それは袴谷氏の本覚思想批判であり、この問題提起によって、その後の世界

の仏教研究者に激震が走ったのである。

 袴谷氏が本覚思想批判を最初に展開したのは、「差別を生み出した思想的背景に関する私

見」(『本覚思想批判』大蔵出版、1989年)であり、この論文の元は1985年10月2

6日に部落解放センターで口頭発表したものである。口頭発表は、曹洞宗の差別戒名問題を

含め、その差別的体質が如何なる処から発生するのかを、問題提起したものである。それゆ

えに、袴谷氏の「本覚思想」の定義は、次のように狭義のものではない。

  (本覚思想とは)蛇足ながら辞書的説明を付け加えますならば、本覚とは現象世界を超えた根元的覚りのことで、その覚りとは、本来すべての人々に普遍的に具わっていて常住であるが、それを自覚しない間は現象として変化生滅しているに過ぎない、という点

  も含意しておりますので、それは同事に「心常相滅」説をも意味しうる訳です。しかし、この本覚思想を上ッ面から眺めますと、すべての人々に普遍な根源的覚りを認めているが故に、これは即座に平等思想を表していると考えられがちなのですが、現実は如何ようにもあれ、それは迷妄であって、真実は一元的な根源的覚りの内にこそ求められなければならぬという、安易で押しつけがましいこの本覚思想こそが、実は差別思想を温存してきた元凶なのだと厳しく反省しなければならない体質を持っていたのであります。(同・142頁)

 袴谷氏の定義は、狭義の「天台本覚思想」の「天台」をはずしたものであり、別の論文では次のように定義している。

  「本覚思想」とは、ありとあらゆる現象を「包括するもの」としての一(hen)なる「本覚」(包括的な根源的覚り)が全(pan)なる「包括されるもの」としての一切の根底にあって実在していると主張する思想である。しかも、その「本覚」の実在は言葉によっては論証されえない自明の出発点とされているために、その実在との合一は言葉を離れた各人の体験によってのみ可能とされる。その可能性を実現することが、旧来の用語で言えば「始覚」であるが、重視なことは、「本覚」と「始覚」とは対立し平行する二つの相異なる考え方ではないということである。「本覚」は「包括するもの」として「始覚」を始めとする一切の「包括されるもの」を包括し尽している一個のそれ自体で完結している無限大の円のごときものであって、その円の中では一切の対立も時間も無(な)みされているものと考えなければならない。この場合の「包括するもの」と「包括されるもの」との関係を従来の術語で示せば、前者は「本覚」「本」「体」「理」「性」、後者は「始覚」「迹」「用」「事」「相」などに相当しようが、これらの二系統は従来ややもすれば互いに相反する二つの思想傾向と見做される場合もあったにせよ、私の「本覚思想」の定義によれば、前者が後者を包括する関係において、すべてが説明され尽くされていることが根本的であり、二系列本質的に相違するものではないという事になる。(「道元と本覚思想・仏性とはなにか」162―163頁)

 この広義の「本覚思想」の定義でこそ、曹洞宗の差別思想を抉り出すという、袴谷氏の重

要な問題提起があったと思われる。

 袴谷氏は差別思想の背景を、本覚思想と捉えた論文を発表した同じ年に、それでは道元は本覚思想とどのように関わるかを論じた。それが「道元理解の決定的視点」(『宗学研究』

第28号、1986年)である。この論文の主張は、自らが言うように、「本稿は、道元

師独自の思想的立場を理解する上で、禅師の本覚思想批判こそが決定的視点になりうるこ

とを、『正法眼蔵』そのものに基づいて明らかにしようとするものであり、この本覚思想批

判という、恐らくは道元禅師が生涯を貫いて主張したと思われる根本的立場から見れば、一

般に道元禅もしくは曹洞宗の宗旨として人口に膾炙している「本証妙修」などというスロー

ガンは、禅師理解の決め手になるどころか、むしろ安易な理解を助長させる事にしかなって

いない、という事を指摘せんとするものである」(『本覚思想批判』319頁)と明解である。

これが袴谷氏が「本証妙修」を宗旨とする事への批判を問題提起した最初であった。

 この論文は宗学大会で発表されたものであるが、翌年にはその反論が現れた。伊藤秀憲氏

の「『正法眼蔵』理解の視点」(『宗学研究』第29号、1987年)と角田泰隆氏の「道元

禅師の修証観に関する問題について」(同)がそれである。前者は、『辦道話』の批判は、天

台本覚法門のみではなく、教団内の日本達磨宗をも意識したもので、本覚思想批判だけに限

定できないこと、道元の「本証」の語は先尼外道の説と同一視されるような意味ではないこ

と、『正法眼蔵』の使用される諸仏の「本覚」の語は凡夫の「本覚」とは異なって否定され

ていない事を明らかにし、そのことにより、道元は生涯を通じて一貫して本覚思想批判をし

たのではなく、只管打座を実修すること(妙修)こそが、本証を実修することであると言わ

んとしたと反論した。後者は「本証妙修」の語を袴谷氏は「安易な理解を助長させるもの」

と言うが、第一に、道元の修証観として、なぜ多くの宗門人が使用してきたか、第二に、い

かなる意味でしてきたかを解明しないで、簡単にスローガンは捨てられないと言うのであ

る。後半には同時に発表された袴谷説への疑問も開陳する。

 すなわち、同年には袴谷氏は「『辦道話』の読み方」(『宗学研究』第29号、1987年)

を発表し、『辦道話』は道元の初期の撰述であるが、道元の初期の撰述に遡れば遡るほど曖

昧で昧渋な文体であり、道元には思想的遍歴が有ることが認められ、晩年の十二巻本の主張

は明解だとした。また坐禅よりは批判が重要であり、言葉の重視こそ道元を捉えるのに大事

であるとした。その主張は「十二巻本『正法眼蔵』撰述説再考」(『宗学研究』第30号、1

988年)に至って明確となり、十二巻本『正法眼蔵』は『辦道話』のような昧渋さがなく

なり、「決定的視点」の本覚思想批判が徹底し、十二巻本撰述の動機も明瞭に説明できると

したのである。

 袴谷提言のもう一つの契機となった松本史郎氏の業績について触れない訳にはいかない

であろう。松本氏は『縁起と空―如来蔵思想批判』(大蔵出版、1989年)を公刊し、「如

来蔵思想は仏教にあらず」と主張した。この理論根拠になった仮説に基体説(dhatu-vada)

がある。この仮説により、基体説、ひいては如来蔵思想は、仏教の縁起説と真っ向から対立

する思想であることが主張された。松本説は、道元研究も含めて、『禅思想の批判的研究』

大蔵出版、1994年)に集大成され、博士論文となった。その著の中に袴谷説批判があ

り、「本覚思想批判」がより厳密な議論として展開している。まず袴谷氏の問題提起が道元

研究において重要であることを強調する。その後に、基本的に袴谷説に対して三つの点から

疑問を提起する。第一は、「本覚思想」とは「如来蔵思想」の一形態であり、道元の批判の

対象(否定対象)を、袴谷氏は「本覚思想」という語で示すが、松本氏は「如来蔵思想(dhatu-

Vada)」という語によって表現した方が適切ではないかという。「本覚思想」は中国・日本仏

教においてのみ意味をもつものであり、インド以来の仏教思想史全体の流れの中で、その意

義が理解されなければならないものであり、道元の否定の対象は、むしろ「如来蔵思想」で

あったとした方が、袴谷氏の批判よりは論理的であり、かつ効果的になるのではないかとい

う。第二は袴谷氏の説では、道元がその初期から本覚思想、つまり、如来蔵思想の批判を自

覚的に意図していた、という意味に受けとられかねないが、松本氏は、道元には、非仏教と

して否定すべき対象(如来蔵思想)の正体も、仏教として死守すべきもの(縁起説)のあり

方も、その当初から充分明瞭に知られていた訳ではなく、自己の内部に於けるこれら二つの

矛盾する思想相互の相克という生涯の思想的苦闘を通して、ようやくにして明らかになっ

ていったもの、と言うのである。第三は、道元が仏教を深信因果とする袴谷説を極めて重要

な功績と認めるが、松本氏は、その道元の「深信因果」説は如来蔵思想的傾向を脱却できな

かった、と言うのである。

 第三の問題を補足すれば、松本氏は「声聞・独覚に対する菩薩の優越性を生得的なgotra

(種姓)の存在によって主張しようとする」ところの「菩薩gotra論」を展開し、十二巻本

にこの「菩薩gotra論」が一貫している、と言うのである。『法華経』「方便品」の散文(長

行)部分にのみ一切皆成が説かれるとし、十二巻本では、「我々が人身として生れ出家し、

袈裟を著し仏法を聞くことが出来たのは、すべて過去世に『供養諸仏』という『菩薩行』を

成したからであって、それゆえ我々は「菩薩」であり、我々には『必得作仏』が『決定』し

ている」と、言うのである。このことは、さらに『道元思想論』(大蔵出版、2000年や

法華経思想論』(大蔵出版、2010年)で詳論される。

 

これは石井修道氏による『正法眼蔵』に対する巻末に於ける「解題」としての文章を

書き改めたものであり、一部修訂を加えた。(タイ国にて・二谷)