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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第一〇 大悟 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第一〇 大悟 註解(聞書・抄)

仏々の大道、つたはれて綿密なり。祖々の功業、あらはれて平展なり。

このゆゑに大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟し、失悟放行す。これ仏祖家常なり。

詮慧

〇「仏々の大道伝われて」と云う(は)、仏々と重ぬればとて、毘婆尸仏尸棄仏などと相伝を立つるにはあらず。只毘婆尸仏の法道は毘婆尸仏の法道の如く、尸棄仏の法道は尸棄仏の如しと云わんように、「仏々」とは列なる也。彼是の差別なき所を仏々と云う也。辺際あらん法は、大道の詞(に)詮なし、「故に大悟現成し、不悟至道し、失悟放行」などと云う也。

〇「綿密」と云うは、弛ゆる所なく、伝わる事の厳しきとなり。密は隠す義にてはなし、厳しき也。「祖々の功業」と云う、是も上の心なるべし。「功業」によりて、いかなる賞を待つと云わず、故に「平展」と説くなり。『大明録』(大慧宗杲著)などには、悟の姿を種々に立て、勝劣を判ず(は)不可然事歟。

〇雲門の三句などと云いて談ずるには所謂、随波逐浪(修行者の個性に随い闊達無礙な接化法)・函蓋乾坤(箱と蓋が合するように、修行者の機根に合う接化法)・裁断衆流(有無なく、煩悩を談ず接化法)これ三也。是を教に云わんには、随波逐浪は和光同塵などと云い、函蓋乾坤は境智冥合などと云い、裁断衆流は法身の理なり。非青黄赤白・非長短方円などと云わんずる也。今禅宗などと号する輩も、又言語に拘わらず無分別なる所が禅なる故に、裁断衆流とは云うぞなどと心得(は)然にはあらず。一者・三界を唯一心と説き、二者・一心唯三界と説き、三者・三界唯三界と説かんぞ、雲門の三句なるべきと、こなたには心得也。しかあれば則(ち)一句是三句也、千句一句これ三句にあらざるなり。高下大小なく平らに展べたりと也。例えば綿密の詞と同じ、尽界と仕う程の詞也。「仏々と云うより、平展也」と云うまでは、総表の詞なり。仏々と云うが、やがて大道綿密の義にもあたる也。

〇「仏々の大道」と云うより「平展なり」と云うまで一段、「この故に」と云うより「家常なり」と云うまで一段、「挙拈する」と云うより「弄精魂」と云うまで一段、以上三段を見分くべし。

〇六塵の説法と云う事あり、所謂六恨也。其中此界耳根利也、但根境相の時こそあれ、一仏葉の時は能所なし。今の仏々相伝の大道は六根皆同じ、然而六根を無しと聞くも声塵也、耳根利なると云うべし。但又、理の如く云う時は六塵に拘われず。平展のとき根境識と云う差別もあるべからず。

経豪

  • 「仏々の大道」とは、仏は能所にて所行の行の別にあるように聞こゆるを、今は仏々をやがて大道と談ずる也、故に能行所行不可各別。
  • 是は大悟の上の「不悟・省悟・弄悟・失悟・放行」なり。大悟不悟は会不会なるべし。打ち任せては失悟は悪しき詞と聞こゆ(は)、大悟の上の失悟・善悪に関わるべからざる歟。

 

挙拈する使得十二時あり、抛却する被使十二時あり。さらにこの関棙子を跳出する弄泥団もあり、弄精魂もあり。

詮慧

〇「挙拈する使得十二時あり、抛却する被使十二時あり」と云う。これは省悟・弄悟などと云うたけ(丈)を挙拈とも、失悟・放行と云う丈を抛却とも仕う也。仕い得ると仕わるるという(は)共に、十二時の上に説く。これ大道の伝わるを、大悟現成と云い、弄悟・失悟とも放行とも云わるる如く、使得し被使するなり。大悟の上と、十二時の上と変わらざる也。此の仕わると云う事、誰人が何を仕うと云わず、平展至道ぞ仕うにてあるべき。又今の十二時は午・未・子・丑などを数えんとにはあらず。所詮諸法が実相を使得し、実相が諸法に被使得程也。又諸法諸法也、実相実相也とも云い、或(いは)弄泥団とも弄精魂とも云う、これなり。一心即一心なり、三界を借るべからず。但又一心(は)一心にあらず、三界(は)三界にあらずとも云いつべし。

〇「弄泥団・弄精魂」と云う(は)、泥のまろ(円)かし、又我等が魂を弄(もてあそ)ぶと見たり。然而仏々の大道、祖々の功業には是を下し、是を挙ぐる事なし。諸法仏法なる時節には、仏あり衆生ありと云う心地にて、今は弄泥団・弄精魂と云う也。例えば大地を弄し、虚空を弄し、山河を弄すとも云わん同(じ)丈なり。弄精魂などと云えば、我等が肉身が事と聞こゆ。今は仏道の上に心得べき也。

経豪

  • 「挙拈」は大悟にあつ。大悟現成の時は、不悟・省悟等は隠るべし。この隠る所を、蹔(らく)「抛却」とは仕うなり。「十二時」とは解脱の詞也、「十二時を仕い十二時に仕わるる」(は)、只同事也。是は「この関捩子」の時は、大悟・不悟・省吾等に限らず、如何なる詞も出でくべき謂われなり。

 

大悟より仏祖かならず恁麼現成する参学を究竟すといへども、大悟の渾悟を仏祖とせるにはあらず、仏祖の渾仏祖を渾大悟なりとにはあらざるなり。仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり。

詮慧

〇「大悟より仏祖必ず恁麼現成する参学を究竟すと云えども、大悟の渾悟を仏祖とせるにはあらず、仏祖の渾仏祖を渾大悟なりとには、あらざるなり」と云うは、この究竟と云う心地は、「仏祖は大悟の辺際を跳出し、大悟は仏祖より向上に跳出する面目なり」と云う心なり。必ず悟を用いんとにはあらず、失悟放行と云う故に。

経豪

  • 「大悟より仏祖の現成する事」は勿論也。しかれども「大悟の渾悟を仏祖とせるにはあらず、仏祖の渾仏祖・渾大悟なりとにはあらず」とは、ただ大悟は大悟仏祖は仏祖にてあるべし。「かならず大悟より仏祖は現成す」とひきしろいて(他動詞ハ行四段活用・引きずって・徒然草一七五段参照)云わずとも有りなんと云う義也。是れ則ち一方を証すれば一方は暗き義歟。「仏祖の大悟なる条」(は)不及子細、然而「仏祖は大悟也と云う事をしばらく云わじ」。仏祖は仏祖の、大悟は大悟にて置かんの一通りの義也。「仏祖の談」の時も、衆生衆生、仏性是仏性と云いしだけなり。

 

しかあるに、人根に多般あり。いはく、生知。これは生じて生を透脱するなり。いはゆるは、生の初中後際に体究なり。いはく、学而知。これは学して自己を究竟す。いはゆるは、学の皮肉骨随を体究するなり。いはく、仏知者あり。これは生知にあらず、学知にあらず。自佗の際を超越して、遮裏に無端なり、自佗知に無拘なり。

経豪

  • 此の「人根に多般あり」と云うは、生知仏知者、学知無師知等を指すなり。「生じて生を透脱す」とは、全機の生の事也、故に「生の初中後際に体究なり」と云うなり。

「是は学して知」となり、此の学も尽十方界の上の学なり。故(に)「学の皮肉骨髄を体究す」と云う也。

「これ生知学知にあらず、遮裏に無端なり、自佗知に無拘なり」(は)如文。

 

いはく、無師知者あり。善知識によらず、経巻によらず、性によらず、相によらず、自を撥転せず、佗を回互せざれども露堂々なり。

詮慧

〇「無師知者あり。善知識によらず、経巻によらず、性によらず、相によらず」と云う。『法性』の草子には「或いは知識にしたがい、或いは経巻に随って参学するに、無師独悟す」とあり。今は「善知識によらず、経巻によらず」と云う(は)不同なり、如何。この疑(い)尤(も)有其謂、無師独悟と無師知者と(は)必ず一と心得べき歟、又然らざるか、蹔承けて置くべし。『法性』に(は)「経巻に随う」ある(と)云う。経巻は『法華経』の「十方仏土中唯有一乗法」(方便品)の心なるべし。然らば何れの経に随い、如何なる知識に逢うとも云い難し。此の前には無師独悟とこそ悟らるれ、仏は我行無師法と被仰、此の上は外道(は)仏を詰め(?)奉るべき詞なし。又無師知者は、衆生如教行自然成仏道(『法華経安楽行義』)の自然に可心得合。

〇此の「生知学而知・仏知者・無師知者」と置いて云う時に、先只父に対して無師と云わん時は、「経巻によらず、知識によらず」と心得て可置也、始終道理に叶うべき也。「経巻知識等によらず」と云う詞を、潔きに取り、入は「性によらず相によらず」と云う(は)、性相又いか程の義なるべきぞ。一句の詞なれば、ただ詞の如く可心得。

〇「無師知者」とは、前終行久学の者(で)、今の龍女(の)如きか。無師知者は又いわば、尽十方界真実人体なるべき歟。

経豪

  • 「無師知者とあれば、善知識にも、経巻にもよらず」とあり、然而専ら、経巻知識に随うを如此云う也。其の故は、経巻を自己と不知の故に、随は悪しく自ら悟るを解脱とす。今は、経巻これ自己なる道理を参学する上は、随わぬ道理明らめし、故に如此云うなり。「露堂々」と巍々堂々などと云う程の詞也。麗しく、正しき義歟。

 

これらの数般、ひとつを利と認じ、ふたつを鈍と認ぜざるなり。多般ともに多般の功業を現成するなり。

しかあれば、いづれの情無情か生知にあらざらんと参学すべし。生知あれば生悟あり、生証明あり、生修行あり。

しかあれば、仏祖すでに調御丈夫なる、これを生悟と称じきたれり。悟を拈来せる生なるがゆゑにかくのごとし。参飽大悟する生悟なるべし。拈悟の学なるがゆゑにかくのごとし。

経豪

  • 「利純」の二を立つるに学而知は「純」、生知・仏知者・無師知等は「利」に当つ。この大悟の道理の上は、「利純」の取捨する事なかれと云う也。「数般」とは上の生知・学知・無師知等を指すなり。「多般ともに多般の功業を現成す」とは、この数般の一つに多般の功あるべしと云う心地なり。
  • 「生知」と云えば、生まれつきより物を知ると心得たり。今の生知(は)其の義にあらず、全機の生なるが故に「生知の上に、生悟も生証明も生修行」も、無尽の詞あるべし。学而知の上には学悟・学証明・学修行、乃至仏知者の上には仏悟・仏証明・仏修行等、面々(に)此の道理あるべき也。
  • 仏祖の功徳を取り集めたる是を「生悟」と云い、人の思いたる生知の道理には非ず。此の「生」は実にも「悟を拈来せる生」也、是れ全機の生也。「参飽大悟」とあり、生まれつきの知とは難云、参学の姿を「悟する生悟なるべし」となり。

 

しかあればすなはち、三界を拈じて大悟す、百草を拈じて大悟す、四大を拈じて大悟す、仏祖を拈じて大悟す、公案を拈じて大悟す。みなともに大悟を拈來して、さらに大悟するなり。その正当恁麼時は而今なり。

詮慧

〇「正当恁麼時は而今なり」と云う。正当と云うは古き詞なり。十五日以前、十五日以後(を)正当十五日と云う也。これは前後を立つるに似たれども、只十五日上に前後をば置く也。正当は而今也。

経豪

  • 「三界を拈じて大悟す、乃至百草四大仏祖」等を経ぬしとて、是より大悟が伝わりて、発明するように心得ぬべし。非其義に三界則大悟也、百草則大悟也、乃至四大仏祖等、皆是大悟也、故に如此云也。又「公案を拈じて大悟す、皆共に大悟を拈来して、さらに大悟する也」とあり、而近来の禅僧と称する族ら、只公案を額に懸けて疑いたれば、さとり来ると多分云歟、今の義には違せり。不可の用義、是は大悟を而今と指すなり。

 

臨済院慧照大師云、大唐国裏、覓一人不悟者難得。いま慧照大師の道取するところ、正脈したれる皮肉骨髄なり、不是あるべからず。

大唐国裏といふは自己眼睛裏なり。尽界にかゝはれず、塵刹にとゞまらず。遮裏に不悟者の一人をもとむるに難得なり。自己の昨自己も不悟者にあらず、佗己の今自己も不悟者にあらず。山人水人の古今、もとめて不悟を要するにいまだえざるべし。学人かくのごとく臨済の道を参学せん、虚度光陰なるべからず。

しかもかくのごとくなりといへども、さらに祖宗の懷業を参学すべし。

いはく、しばらく臨済に問すべし、不悟者難得のみをしりて、悟者難得をしらずは、未足為足なり。不悟者難得をも参究せるといひがたし。

たとひ一人の不悟者をもとむるには難得なりとも、半人の不悟者ありて面目巍々、堂々なる、相見しきたるやいまだしや。

たとひ大唐国裏に一人の不悟者をもとむるに難得なるを究竟とすることなかれ。一人半人のなかに両三箇の大唐国をもとめこゝろみるべし。難得なりや、難得にあらずや。

この眼目をそなへんとき、参飽の仏祖なりとゆるすべし。

詮慧 慧照大師段 臨済院慧照大師云大唐国

〇「不悟者難得」につきて二(途の云い)あり。悟者のみありて、不悟者なしと心得る方もあるべし。又不悟者の面目がやがて難得と云わるる也。例えば心不可得の心也。『心不可得』の草子に不可得裏と云いしが如く、今は難得裏なるべし。

〇「尽界に拘われず、塵刹に留まらず」とある。日来の見解悉く相違す。国土と云う程にては、争か尽界に拘われず、又塵刹に留まらぬ事あるべきなれば、旁(かたがた)被心得ねども「眼睛・尽界・塵刹」この三を「大唐国裏」と指すべき也。此の三に各裏の字を付けても難得なるべき也。然者又、悟不悟の是程にこそ可心得。時に悟らざる者を求むるに不得と云えばとて、我等が不得のように心得(る)まじ。「不悟者難得」は、不悟至道(と)同じ詞也。「悟者難得」は、弄悟省悟とも心得(る)べし。抑(も)「難得」はあるべきものか、なきものか。『法華経』に「難解難入」(方便品)と説く、「唯仏与仏」(方便品)と説く上、一条の法外に難解難入の者あるべしや。論帖(『妙法蓮華経憂波提舎』巻上(「大正蔵」二六.四下?)の経には難覚難知の詞を加うる也。「難得」と云えばとて、得がたきにはあらず。喩えば心不可得の詞程也。実相の理をば難解難入と説く也。

〇すべて悟りは「難得」の法と云うべきをや。

〇「自己の昨自己」と云うは、過去・未来・現在(の)三世を指す也。此の詞(は)自余他、昨与今(を)入れ違えて云う。いかなる様あるべきぞと覚ゆれども、「不悟者にあらず」9とは)、所なき道理ばかり也。

〇「一人半人」は悟者不悟者也。不悟者の上に悟者ある事を、今「半人」とは云う也。人裏に国を求むる事、悟と不悟と同じくば、又難得難得とならずと心得合わすべし。すべて国与悟・人と各別に不心得上は、人の裏に国求め難しと疑うべからず。教(経)にも身土不二(『仏説阿弥陀経要解』(「大正蔵」三七・三六四中)とは談ず、故に普賢色身如虚空、依身而住非国土(『諸回向清規』天倫楓隠撰「普賢身相如虚空依身而住非国土。随諸衆生心所欲、示現普身等一切」と云いて、身依って国土によらずなどと云う義もあり。所詮国中に国あり、人人の中に人ありとも、又求むとも云うべし。

経豪

  • 是は慧照大師の詞を被讃なり。
  • 「大唐国裏」と云えば、打ち任せては唐土の内に「一人も不悟者を求むるに難得也」と云えば、皆悟りたる者許(ばかり)ありと聞こえたり。大方も此の詞(は)覚束なし。争(か)大唐国中に、皆得法悟道の者許あるべきと難心得。而如御釈者、自己眼睛裏を以て、大唐国とは可心得。然者、実に尽界に拘わらず、塵刹に留まらざるべき道理必然なり。「自己の昨自己も不悟者にあらず、他己の今自己も不悟者にあらず」と云うは、自己も他己も、昨も今も皆悟なり。不悟者一人も不可有、又「山人水人」の山水の詞は不用也。只「一人の不悟者を求むるに難得也」とある詞の、人の詞を取らん料(ばかり)に出で来たる山水也と可心得。
  • 是は臨済を被不審御詞也。「不悟者難得の詞許を知りて、悟者難得を知らずば、未足為是也」と、被嫌なり。悟者難得の道理あるべくは、不悟者難得の理も、今少し強く親切なるべしとなり。「悟者難得・不悟者難得」は会。不会程の理也。
  • 「一人の不悟者」と云うに付けて、「半人」と云う詞は出で来たり。余に委被釈之時、「半人の不悟者」と云う道理も出で来たるなり。是は半人と云えば半なる人があるべきに非ず。今は一人を半人と心得、乃至悟者を半人とも可心得。かかる「半人の不悟者ありて、面目巍々堂々なる」をば慧照大師は相見するか、未だし来たるかと被不審也。是等はいかさまにも詞ごとに、臨済の詞を被疑許されざる心地歟。
  • 是は臨済の詞の、「大唐國裏に覓一人不悟者難得也」の詞を、是許は「究竟とする事なかれ、一人半人の中に両三箇の大唐国を覓め心見るべし」と云う道理もありと也。臨済は「大唐国裏に一人の不悟者を覓めるに難得也」とあり、方丈の御詞には「一人半人の中に、両三箇の大唐国を覓むべし」とあり、水火の詞と聞こえたり。大唐国と云えば、猶住所と聞こえたり。「両三箇の大唐国を一人半人の中に覓め心見よ」とあれば、悟不悟の道理も顕われ、大唐国と一人との間(あわい)も被解脱、日来の旧見は破なり。仏法は如此親切に談ぜねば、見解の様も聞こえず、いかにも親切なる理が顕われぬなり。
  • 是は臨済を被不審御詞なり。六祖已下の祖師等の詞を挙げて、其の道理の響く所を、方丈取りて様々(に)詞を付けて被釈之。是は彼の祖師等の理の無きにはあらず。彼の詞の余れる所を被釈事多し。然者此の臨済の詞も、如此心得ば何の不是あるべき、其の上(に)不足あるべからず、正脈し来たらんなどと被許上は、弥(いよいよ)此の道理必然なるべきを、臨済の詞(に)、いかなる子細の有やらん。方丈不被許之、仍って所々に臨済・徳山の非所及と被述之間、ここの御釈も暫く許さるる面はあれども、いかにも有子細と可心得なり。随って奥(の)御詞にも「此の眼目備えん時、参飽の仏祖也と許すべし」、などと受けられたる也。

 

京兆華厳寺宝智大師嗣洞山諱休静 因僧問、大悟底人却迷時如何。師云、破鏡不重照落花難上樹。いまの問処は、問處なりといへども示衆のごとし。華厳の会にあらざれば開演せず、洞山の嫡子にあらざれば加被すべからず。

まことにこれ参飽仏祖の方席なるべし。

詮慧

〇大悟底人(は)、破鏡不重照。三界に住する人、一心を悟る時、如何にと云わんも是程の事なるべし。

経豪

  • 先(ず)今の「大悟底人却迷時如何」の詞(は)不審也。大悟の人の又迷事(は)争か、さる事あるべき。不可有尽期、還作衆生の者ありやと、教に談ずる事あるか。是は此の義あるべからず、但今の「大悟却迷」の詞、これは遠くは『現成公案』に「諸法仏法の時節に、迷あり悟あり」と云う。近くは今の『草子』の始めに「大悟現成し、不悟至道し、省悟弄悟し、失悟放行す」とあり。此の道理を忘るる時、此の「迷悟」の詞に迷うなり。始めて非可驚。故に「今の問処は示衆の如し」とあるなり。大悟与迷の道理を示衆するなりと可心得。

―百千破鏡不重照事。一度の破鏡も百千の破鏡と何事か有相違乎。大悟底人却迷時と有返答なれば破鏡不重照と云う。時に大悟底人は、又迷事あるまじき答歟と覚ゆる所に不然。大悟底人又迷不迷の事を答するに非ず、破れたる鏡も只われと一を挙げ、落花難上樹もわれ一の事を云う。さらに悟りの人も、又迷は又迷になると云わぬ如く心得ぬる時に、今又、百千破鏡不重照とある(は)甚不心得。然而百千破鏡とは尽界悉破鏡なる事を明かす詞也。破鏡と云いては尽界破鏡と可心得也。参飽仏祖の方席なるべし。―「註解全書」四・二〇頁より補。

  • 是は宝智大師を被讃御詞也。

 

いはゆる大悟底人は、もとより大悟なりとにはあらず、余外に大悟してたくはふるにあらず。大悟は公界におけるを、末上の老年に相見するにあらず。自己より強為して牽挽出来するにあらざれども、かならず大悟するなり。不迷なるを大悟とするにあらず、大悟の種草のためにはじめて迷者とならんと擬すべきにもあらず。

詮慧

〇「大悟の種草の為に、はじめて迷者とならんと擬すべきにもあらず」と云う。大悟与迷者無差別なれば、大悟の品々ある中に、いらんとて「迷者とならんと擬すべきにもあらず」とは云う也。但「大悟の種草の為に、はじめて迷者とならんと擬すべきにもあらず」と云う。法華の時、所被機縁多かりしと云うは、皆内秘菩薩行、外現是声聞(『法華経』「五百弟子受記品」(「大正蔵」九・二八上)とこそあれば、本高迹下の義也、などが迷者ともならざらん。但是は不可然。大悟無端、却迷無端と云う。故に念仏宗には専ら此の事を引きて、法華の時、記莂に預かるも、内秘菩薩行の輩也。今の念仏往生こそ我等が得分なれと云う。尤似有謂、但如此云わば、又凡夫往生とは難云、仏往生とや云うべからん。仏すでに成道の時は、大地有情同時成道と仰せらる、定(んで)妄語にあらじ。然者何ぞ我等有情の中に入らざらん。然者仏の成道するに当たれり、凡夫往生と難云。

経豪

  • 抑も今の大悟の姿、何様なるべきぞ、能々可思惟事也。大悟もとより大悟なりつる物を、大悟したるにてもなし。又「大悟は公物(界)にてあるを、老年等有りて相見するにもあらず」、又「自己より強為して得る物にて無けれども、大悟する也」と云うは、所詮大悟人さらに大悟す、大迷人さらに大悟すと云う義に落居するなり。大迷人大悟すの詞にて知りぬべし。迷悟不可各別条顕然に明きらけし。

 

大悟人さらに大悟す、大迷人さらに大悟す。大悟人あるがごとく、大悟仏あり、大悟地水火風空あり、大悟露柱灯籠あり。いまは大悟底人と問取するなり。

詮慧

〇「大悟人さらに大悟す、大迷人さらに大悟す、大悟人あるが如く、大悟仏有」と云う。悟上得悟の漢、迷中又迷の漢と云う程の詞也。「大悟人さらに大悟す」と云うならば、大迷人さらに大迷すとも云うべけれども、大悟を題目としつる故に、「大迷人さらに大悟す」とも云う。

経豪

  • 是は「大悟」と云う詞の如く、大悟の詞の下には「地水火風空」も、「露柱灯籠」も万物皆如此云わるる道理、あるべきなりと云う也。此の理なる故に、今は暫く「大悟底人と問取する也」と云う。

 

大悟底人却迷時如何の問取、まことに問取すべきを問取するなり。華厳きらはず、叢席に慕古す、仏祖の勲業なるべきなり。

経豪

  • 是は無別子細、「大悟底人」の詞の被讃也。

 

しばらく功夫すべし、大悟底人の却迷は、不悟底人と一等なるべしや。大悟底人却迷の時節は、大悟を拈来して迷を造作するか。佗那裏より迷を拈来して、大悟を蓋覆して却迷するか。また大悟底人は一人にして大悟をやぶらずといへども、さらに却迷を参ずるか。また大悟底人の却迷といふは、さらに一枚の大悟を拈来するを却迷とするかと、かたがた参究すべきなり。

また大悟也一隻手なり、却迷也一隻手なるか。

いかやうにても、大悟底人の却迷ありと聴取するを、参来の究徹なりとしるべし。却迷を親曾ならしむる大悟ありとしるべきなり。

経豪

  • 打ち任せては悟与迷、大いに相違の法也。今の大悟底人却迷如何の迷悟は相違の法にあらず。如今云う「大悟底人の却迷は、不悟底人と一等なるべし」と可心得所を、如此云うなり。又「大悟をもて来たりて、悟(迷か)を造作するか」と云うは、迷与悟無差別物なる故に、大悟の道理を拈来して、「迷を造作する」と云う義もあるべし。又「他那裏より迷を拈来して大悟を蓋覆して却迷するか」とは、外より迷をもて来たりて、ある時は大悟は蓋い覆されて迷う許にて、大悟は隠るるかと云う義もあるべし。迷を称する時、悟は隠ると云うべし。「又大悟底人は一人にして、大悟をやぶらずと云えども、さらに却迷を参ずるか」と云うは、大悟は大悟を破らで、「却迷と云う歟」とは、大悟も大悟にて、はたらかさで置き、却迷も却迷にて共に置かんと云う心也。「又大悟底人の却迷と云うは、さらに一枚の大悟を拈来するを却迷とするか」と云うは、「大悟一枚をもて来たりて、今却迷とするかと」云う也。所詮、無尽の詞多けれども、只迷与悟却非各別物。親切なる道理を裏面になして、如此被釈なり。か、かとある詞(は)例の皆此の道理共あるべき所を、如此被述なり。是等の道理を、「かたがた可参究也」とは云うなり。
  • 是は「大悟も一隻手を出だし、却迷も一隻手を出だす」、互いに勝劣なく同じき事を云うなり。
  • 是は大悟底人と許云えば善き大悟許を談じて、悪しき却迷と云う詞をば、寄せ付けじとしたるように覚ゆ。此の条、取捨善悪の法に関わるべし。其れを「親曾ならしむる大悟ありと可知なり」とは云う也。会・不会、見・不見、聞不聞の道理なる故なり。大唐国裏に一人不悟者を求むるに難得也と云いて、悟者難得なる事を知らずと、許されざるも此の心地也。

 

しかあれば、認賊為子を却迷とするにあらず、認子為賊を却迷とするにあらず。大悟は認賊為賊なるべし、却迷は認子為子なり。

多処添些子を大悟とす。少処減些子、これ却迷なり。

経豪

  • 是は「認賊為子・認子為賊」などと云えば、猶各別に聞こゆ。「認賊為賊・認子為子」なるべしとは、大悟与却迷のあわい(間)、「認子為子・認賊為賊」ほどに可心得と云うなり。
  • 「多所に物を添え、少なき所には物を減ず」と云う(は)、多は多にて徹(とお)り、少は少にて斫(はつ)る也。是を大悟却迷に当てたる也。是(は)則(ち)大悟は大悟にて尽法界、却迷は却迷にて尽法界(の)義也。只一筋にて交じる物なき道理を明かさるる也。

 

しかあれば、却迷者を摸著して把定了に大悟底人に相逢すべし。而今の自己、これ却迷なるか、不迷なるか、撿点将来すべし。これを参見仏祖とす。

経豪

  • 是は喩えば「却迷者の姿を取り定めて、大悟底人に相逢すべし」となり、「却迷者与大悟底人相逢すべし」と云うは、大悟底人と却迷とが、同じ丈なる所を表わさん詞なり。是も迷・不迷同じ丈なる所を云うなり。

 

師云、破鏡不重照、落花難上樹。この示衆は、破鏡の正当恁麼時を道取するなり。しかあるを、未破鏡の時節にこゝろをつかはして、しかも破鏡のことばを参学するは不是なり。

経豪

  • 「破鏡」と云う詞に付いては、如何にも「未破鏡の時節を心に懸けるなり」。是の示衆は、全破鏡の正当恁麼時を道取するを、「未破鏡の時節を心にかけて、しかも破鏡の詞を参学するは不是也」と被嫌うなり。

 

いま華厳道の破鏡不重照、落花難上樹の宗旨は、大悟底人不重照といひ、大悟底人難上樹といひて、大悟底人さらに却迷せずと道取すると会取しつべし。しかあれども、恁麼の参学にあらず。人のおもふがごとくならば、大悟底人家常如何とら問取すべし。これを答話せんに、有却迷時とらいはん。而今の因縁、しかにはあらず。大悟底人、却迷時、如何と問取するがゆゑに、正当却迷時を未審するなり。

詮慧

〇大悟底人・却迷時如何の詞に合わせば、「破鏡」は大悟底人也、却迷時如何は「不重照」。「落花」は大悟底人、「難上樹」は却迷時如何と聞こゆ。但非爾、「破鏡」と云う時、未破のことを不談。不対縁而照と云うが如し、ただ「不重照」なるべし。鏡を像に鋳ると云う事あり、何をか写さんや。「落花難上樹」も、ただ樹なくとも、只上り難しと説かれんが如し。「不重」の不の字、「難上樹」の難の字も、ただ難得の難に可心得。今「落花」と云うも、百尺の竿頭の上に置きて、咲かんとも散らんとも、共に云わんが如し。進歩退歩、百尺の竿頭の心也。

〇所詮大悟与却迷、善悪勝劣にあらず。斉肩の上、有却迷も無却迷も皆中(あた)らずと心得べき也、不可過之。

 

恁麼時節の道取現成は、破鏡不重照なり、落花難上樹なり。落花のまさしく落花なるときは、百尺の竿頭に昇晋するとも、なほこれ落花なり。破鏡の正当破鏡なるゆゑに、そこばくの活計見成すれども、おなじくこれ不重照の照なるべし。

破鏡と道取し落花と道取する宗旨を拈來して、大悟底人却迷時の時節を参取すべきなり。

経豪

  • 是は「破鏡不重照」と談ぜん時は、いづくまでも破鏡不重照なり。「落花難上樹」と云わん時は、尽界皆落花難上樹の時節なるべしとなり。「百尺の竿頭に昇晋す」とは古き詞なり。いか程(に)高き竿に昇るも、下も横竪共に竿也と云う心地也。「落花」と談ずる時は、落花ならぬ所なく、「破鏡」と談ずる時は破鏡の外なる物なき所に、此の詞を被引也。
  • 是は如文。「破鏡と云い落花と云う、宗旨を以て、大悟底人の詞と却迷時の時節とを参取せよ」とは、破鏡の詞・落花の詞の如く、大悟底人却迷時のの詞をも参取すべしとなり。

 

これは、大悟は作仏のごとし、却迷は衆生のごとし。還作衆生といひ、従本垂迹とらいふがごとく学すべきにはあらざるなり。

かれは大覚をやぶりて衆生となるがごとくいふ。これは大悟やぶるゝといはず、大悟うせぬるといはず、迷きたるといはざるなり。かれらにひとしむべからず。

経豪

  • 是は常に人の思いたる心地を、是は被釈なり。不可用義なり、故に可学にあらずと被嫌也。●実(に)此の大悟の談ずる姿(は)如此也。如文。

 

まことに大悟無端なり、却迷無端なり。大悟を罣礙する迷あらず。

大悟三枚を拈来して、少迷半枚をつくるなり。

経豪

  • 大悟又迷、無辺際道理を如此云う也。「大悟を罣礙する迷」(は)実(に)不可有。迷をも又罣礙する大悟あるべからず。
  • 是は大悟与却迷、至って親しき時(を)如此云わるる也。「大悟三枚を持て少迷半枚を作る」とは、大悟を以て小迷を作るなり。大悟与却迷只同物なる道理を、如此云う也。「三枚」と云う詞は、大悟を三枚と仕う、「少迷半枚」も迷を半枚と仕う。迷悟互いに一物なる道理分明なり。「作」と云うも、非造作義、大悟与却迷のあわいを作とも云うなり。

 

ここをもて、雪山の雪山のために大悟するあり、木石は木石をかりて大悟す。諸仏の大悟は衆生のために大悟す、衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟す、前後にかかはれざるべし。

詮慧

〇「諸仏は衆生のために大悟す、衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟す」と云う。此の詞聊か不相応に聞こゆ。「諸仏は為衆生大悟す」と云わば、衆生は仏の為に大悟すとぞ云わまわし。けれども是は大悟の草子なる故に、大悟を旨と説く也。『現成公案』に「悟上得悟の漢、迷中又迷の漢」と云う詞の如くなるべきかと覚ゆ。但、かれは「諸法仏法なる時節と諸(万)方われにあらざる時節」とを出して、一句一句ものを等しめて云えばこそあれ、是は大悟を沙汰する所なれば也。

経豪

  • 「雪山の雪山の為に」とは、大悟は大悟の為にと云う程の義也。「雪山」は喩(えば)大涅槃(を)喩うべきを喩と云う。今の雪山と云うは大悟を指す也。「木石」の詞も同之。「諸仏の大悟は衆生の為に大悟す」とは、今の衆生と云うは大悟也。諸仏の大悟は大悟の為に大悟す」と云う程の義也。何様にも大悟と云えば、人の上に悟をば持たせて思い習わしたり。今の所談、全非其義に「衆生の大悟は諸仏の大悟を大悟す、前後に関わらざるべし」と云々。只同事を打ち替えて被釈同理也。前後に関わらざる義なり。

 

而今の大悟は、自己にあらず佗己にあらず、きたるにあらざれども填溝塞壑なり。さるにあらざれども切忌随佗覓なり。なにとしてか恁麼なる。いはゆる随佗去なり。

詮慧

〇「切忌随佗覓む」と云う、是大海不宿死屍(『海印三昧』)の道理なり。随佗事は無けれども忌むと仕う也。

〇凡そ却迷の有無は、沙汰のかぎりにあらず。その上は何の事も僻見なりと云うべし。ただ大悟と又却迷とは同じ詞と心得べき也。

経豪

  • 過去・現在・未来を置きて、過去已に過ぎぬ、未来いまだ不来、故に現在の而今と指すと心得ぬべし、今の「而今」とは大悟を指す也。「自己・他己に非ざれども」と云う、尤有其謂。「来たるに非ざれども填溝塞壑也」とは、満足したる姿、充足の義也。「去るに非ざれども切忌随佗覓」とは、随他で覓むる事を忌むと云う也。「随佗覓」と云うは、打ち任せて、人に随う様には不可心得、所詮大悟に随う也。「何として如此なる」と云えば、ここには又「随他去也」と云う。是は替えたる詞に似たれども、只同じ詞也。其の故は切忌随他覓も大悟也、随他去也も大悟也。故に詞は違すれども、只同心とは云う也。大悟の上の切忌随他覓(は)、大悟の上の随他去也。

 

京兆米胡和尚、令僧問仰山、今時人、還仮悟否。仰山云、悟即不無、争奈落第二頭何。僧廻挙似米胡、胡深肯之。いはくの今時は、人人の而今なり。令我念過去未来現在いく千万なりとも、今時なり、而今なり。人人の分上は、かならず今時なり。

あるいは眼睛を今時とせるあり、あるいは鼻孔を今時とせるあり。

詮慧 米胡段。京兆米胡和尚令僧問仰山

〇「過去・現在・未来いく千万也とも今時なり、而今なり。人々の分上は、必ず今時也」と云う。此の今時は三世なき心地也。「我をして過去・未来・現在を念ぜしむる」と云うは、過去と云うも未来と云うも、今時の人が念をやるばかりまでこそあれ。念(は)又、身には為れねば、念々具足してゆくべくは、過去も今時なるべし、未来も今時なるべしと云う心地也。人も仏道人なるべし、今時も仏法の上に心得べし。「今時の人」とは、さとりをかると云う同程事也。又「今時人」は、山人・水人・眼睛人なり。さとりをかりて大悟す、と云う詞もあり。これはさとりがさとりを仮ると云うべし、木石を仮りて大悟す、と云う程の事也。

〇三世に在りつる身とこそ思いつれども、今は我に三世あるなり。此の三世、我等が日来思うが如く、吾我に対して過ぎぬるを過去と説き、住するを現在と説き、未だ来たらざるを未来と説くは、謹かの事なり、刹那の程にも此の三世は在るべし。過去の千仏、現在の千仏、未来の千仏と説く。これは只、紙三枚を一枚を以て過去と説き、一枚を現在と説き、一枚を未来と説くべきか、不審也。心外無別法と云う時、三世いかにか分かつべき唯一心の三世には、一心が在りて説くか、傍観者の在りて定むるか。仏法には三世あたらざる也。

〇「今時人」の今は、過去も現在も未来も、いづれの所にても今と云わるべし。今時の人、又誰と指すべきにあらず、尽十方界真実人体の人なるべし。今時人と云いつる時に、「眼睛・鼻孔」とはあるなり、別(に)子細なし。又「さとりをかる」と云う、此の悟(は)何と難云。故に静かに参究すれば、胸襟にも頂(寧+頁)にも、換却しつべし。何と指して云うべきならぬ也。祖師の詞と云うは皆以如此。

経豪

  • 「云くの今時は、人々の而今也」と云うは、今時人の人の如し。「過去・現在・未来等、いく千万也とも今時也、而今也」と云うなり、詮は三世を今時とも而今とも指す。この三世・今時・而今共に大悟也。「人の分上は必ず今時也」と云う、これ又、今時人の人也。
  • 人の詞に仰せて、「或(いは)眼睛・鼻孔等を今時とせるあり」と云うなり。今の今時人の上に眼睛をも今時とし、鼻孔をも今時と談ずべし。

 

 還仮悟否。この道をしづかに参究して、胸襟にも換却すべし、頂(寧+頁)にも換却すべし。

経豪

  • 人与悟を、いかにも各別に置きて心得。此の「還仮悟否」の詞を、静かに参究して親しく胸にも頂きにも替えて心得べしと云うなり。頂胸などと云う(は)、何事か(と)覚えたれども、是は至って親しき詞也。悟(と)別の物にあらざる道理を述ぶる詞なり。

 

近日大宋国禿子等いはく、悟道是本期。かくのごとくいひていたづらに待悟す。しかあれども、仏祖の光明にてらされざるがごとし。ただ真善知識に参取すべきを、懶惰にして蹉過するなり。古仏の出世にも度脱せざりぬべし。

詮慧

〇「古仏の出世にも度脱せざりぬべし」と云う、古仏と指す事如何。未来の新仏の出世には如何なるべきぞと一日は覚ゆれども、仏は新古に拘わらず。例えばいづれの仏の出世にも、この僻見は難被度脱となり。

経豪

  • 如文可心得、無子細。

 

いまの還仮悟否の道取は、さとりなしといはず、ありといはず、きたるといはず、かるやいなやといふ。今時人のさとりはいかにしてさとれるぞと道取せんがごとし。たとへば、さとりをうといはば、ひごろはなかりつるかとおぼゆ。さとりきたれりといはば、ひごろはそのさとり、いづれのところにありけるぞとおぼゆ。さとりになれりといはば、さとり、はじめありとおぼゆ。かくのごとくいはず、かくのごとくならずといへども、さとりのありやうをいふときに、さとりをかるやとはいふなり。

経豪

  • 已上如文。

 

しかあるを、さとりといふは、第二頭へおつるをいかんがすべきといひつれば、第二頭もさとりなりといふなり。第二頭といふは、さとりになりぬるといひや、さとりをうといひや、さとりきたれりといはんがごとし。なりぬといふも、きたれりといふも、さとりなりといふなり。しかあれば、第二頭におつることをいたみながら、第二頭をなからしむるがごとし。さとりのなれらん第二頭は、またまことの第二頭なりともおぼゆ。しかあれば、たとひ第二頭なりとも、たとひ百千頭なりとも、さとりなるべし。第二頭あれば、これよりかみに第一頭のあるをのこせるにはあらぬなり。たとへば、昨日のわれをわれとすれども、昨日はけふを第二人といはんがごとし。而今のさとり、昨日にあらずといはず、いまはじめたるにあらず、かくのごとく参取するなり。しかあれば、大悟頭黒なり、大悟頭白なり。

〇第一頭は置く義もあり、失すと心得る方もありぬべし。仏の一乗を説かせ御座します。これ二三に対したるにあらざれば、一と云う詞もありたり。仮と云い不落と云うと同じかるべし。

〇落便宜と云う詞あり。便宜あり、便宜に随うなどと云う程の事に仕う。

〇此の落を脱落の落に心得ん如何。但是は経豪私愚案也。可恐可恐、可早改早改。

〇第二と云う詞は、第二月と云う詞より云い染めたり。悟を

得るが第二頭に落つるにてあるなり。第二月と云うは、目を指して月を見れば、月二あり。これ非実月、第二の月は妄月也。この故に第二頭はさとりにあらずと云うべし。然而さにはあらざるべし、第二頭がやがてさとりなる也。第二月を迷とは心得にも、ただ第一月のみあるべし。第二月の下にこそ、やがて第一の義は現る故に如此説くなり。

〇悟道是本期と云う教えに云う待悟為則草案本のみ使用・詮慧の手元には仁治三年(草案本)が在ったのか)の心地也、非可用也。

〇「昨日のわれを我とすれども、昨日は今日を第二人と云わんが如し。而今のさとり、昨日にあらずと云わず、(いま)始めたるにあらず」と云う。如文、昨日と云い而今と云えばとて、われ不各別也。

〇「しかあれば、大悟頭黒、大悟頭白」と云う。黒白の詞変われども、所詮大悟頭の上に、二(つ)ながら置く。十二時の上に挙拈する使得とも、抛却とも被使とも云うが如し。究竟する所、さとりより外に余る所不可有と也。

〇今時人と云う今時は、頭黒なるべし。

〇仮悟否の仮悟は頭白なるべし。

経豪

  • 已下如文。是は昨日我、今日之我と云えば、只同物也。以今大悟黒とも白とも仕う也。猿の上に黒白を、談ぜしが如し。

大悟(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。