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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第六十一 龍吟(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵 第六十一 龍吟(聞書・抄)

舒州投子山慈済大師、因僧問、枯木裏還有龍吟也無。師曰、我道、髑髏裏有師子吼。

枯木死灰の談は、もとより外道の所教なり。しかあれども、外道のいふところの枯木と、仏祖のいふところの枯木と、はるかにことなるべし。

外道は枯木を談ずといへども枯木をしらず、いはんや龍吟をきかんや。外道は枯木は朽木ならんとおもへり、不可逢春と学せり。仏祖道の枯木は海枯の参学なり。海枯は木枯なり、木枯は逢春なり。木の不動著は枯なり。

詮慧

〇外道の「枯木」は灰身滅智なり、二乗の「枯木」は滅尽定無余涅槃也。仏は是を嫌わせおわしまして、枯木再び花咲くべからず。永不成仏とは被仰也。

〇菩薩を談ずるに、単提の菩薩とて衆生を度し果てずば、永不可成仏と願する也。是は又、仏の二乗を嫌わせおわします、永不成仏には不可似仏法にはすでに衆生仏也と談ず。此の時は菩薩の願已前仏には成るかとも聞こゆ。又三界唯一心とも、諸法実相とも談ずる時は如何なるべきぞ、能々可了知ものなり。外道もし今の「枯木の義」を知ると云わば、外道とは名づくべからず。

〇爾前の教えには二乗の成仏を許されぬ也。そかれば煎りたる程、枯れたる木に喩えらる。法花開会しぬれば、煎りたる種も萌(きざ)し、枯れたる木にも花咲くと覚ゆる。この故に、「枯木裏龍吟」ありというも云われたり。此の上又「髑髏裏師子吼あり」と云う。同じ事と覚えたれども、僧の問いにつきて答えあるべきは、龍吟有りとも無しとも答えらるべきに、有無の詞はなくて「髑髏裏有師子吼」とある、不心得。然而祖師の言語如此、只有無の語許りならば、二乗の枯木に対し龍吟を成仏と心得ぬべし、非本意。成仏の時は、無二乗都彼是能所なきこそ、祖師の本意なれ。枯木をやがて龍吟と心得たり。髑髏が師子吼なる云われを心得よとなり。

〇「外道は枯木は朽木ならんと思えり、不可逢春と学せり」と云う、枯木とても、なじかは不可逢春哉、生木も枯木も、春には逢うべし。但かれながら逢わんは、非本意所を云う。人の仏法に逢うとは云えども、不知仏法は逢わざるが如し。

〇「我道髑髏裏有師子吼」と云う、先に「龍吟ありやいなや」と云いつる答えかとぞ覚ゆれども非爾ざるべし。枯木裏龍吟を有りと不答、無と不答。「我道」とて重ねて此の詞あり。所詮先の枯木裏龍吟の理を重ねて説かるる也。

〇「海枯の参学也」と云う、海枯尽くる事あるべからず。「枯木」を是程に心得てこそ、龍吟の詞も掛け合うべけれ。但海徳にて広く大なれば、枯れ尽くさまじなどと云わんは、又世間の心地なるべし。仏性海と談じ不宿死屍などと云う時、海ならぬ所なければ尽界を海と説く。枯れ・枯れずという差別にも不及。ただ海の上に、枯と云う詞のあるにてこそあれ、鏡の上に破ると云う詞のあるが如し。「海枯」の詞(は)、人に対して云わば人、作仏作祖すれば人身は破れずと云う程の事也。かく云うも又作業に似たれども、其の義にてはなし、身心脱落すると也。この時は何を棄てて脱落すと云わず、「海枯」の姿も如此。

〇「枯木」とて仏二乗を嫌わせおわしませども、後には記別にあづかる。たとえば眼睛を談ずる時、瞎眼と云うが如し。破鏡不重照、落花難上樹と云うも皆祖師の詞なれども、悟らざる時はただ如文読之、枯木と朽木と心得しが如し。「龍吟」と云うも、不群とあれば、宮商角徴羽の声にあらず。但かく心得ぬる上は、又宮商角徴羽の詞も、龍吟の其れ一二子なるべし。

〇古木枯と云う、枯木の木枯と云うは、一向枯(は)終りたる詞には使わず、木の一つの姿を枯れたりと云うばかりなり。木の上の姿に枯るとも云う也。

経豪

  • 凡そ祖門に所談の法門を人の心得ぬ事、尤有其謂、故は如何、先(の)凡夫の旧見と云う者を不失して談之。仏祖は旧見と云う事をば寄せ立てずして、一向(に)法の方より談之、故に直指単伝と称す。此の凡見の執を離れずして、仏祖の詞を我情に引きなして心得んとすれば、方なる穴に円木を入れんずるに不異なり。我今仏祖の方より枯木と談ずるは如何なる物、何程の分と云う事を能々可心得事也。迷と云うも悟と云うも善も悪も邪も正も、生死去来動揺進止、一物として仏祖所談の詞を、心と打ち任せたる談と等しかる可からざるなり。

今の枯木と云う詞、御釈に聞こえたり。二乗外道は、枯木と云えば枯れたる木、今はいたづらなる物、花も咲くべからず。故に「不可逢春」と心得たり。今祖門所談の枯木は不可有、奥に委細可被釈之。

有仏性やと云う詞と「枯木裏有龍吟」やと云う詞と只同じ詞也。聊不可違与衆生有仏性やと云う詞は、聞き慣れたるように覚ゆ。「枯木裏有龍吟」やと云えば、驚耳するように覚ゆ。是は旧見の不脱落によりてなり。「我道髑髏裏有師子吼」やと云う詞は、清浄本然ならんに、如何忽生山河大地と云いし詞に、只同じ詞を以て答え、復いかなるが仏と云いし詞にいかなるが仏と云いしに聊かも不違なり。只所詮此の道理の所落居は、枯木裏に枯木あり、髑髏裏に髑髏ありと云う程の理なり。又狗子有仏性やと問う程の詞と、枯木裏龍吟ありやと云う詞も同心なるべし。

先ず今の僧問の「枯木裏、還有龍吟也無」と云う詞を掛かるいたずらなる物の中に、有龍吟やと問したように心得よりして、大いに相違し不当也。今の所談の様は此枯木与龍吟、全非別体。此の枯木の当体を則ち龍吟と云う也。其れに「師曰我道髑髏裏有師子吼」と被答、是も答話にあらず。「我」とは大師の事歟、此の髑髏と師子吼と、又と又只前に云いつる枯木裏と龍吟と程の詞だけなるべし。所詮僧与師二度、法の理を述べられたる也、更非問答詞也。所詮此の枯木、今は以仏祖其姿とすべし、尽界枯木なるべし。尽界龍吟なるべし、枯木与龍吟、不可有差別。一物也一体也と可心得也。然者今の髑髏師子吼も、又是様に可心得なり。故に二たび、法の道理を顕わさるるなりと云う也。全樹木なる理を以て、今は不可逢春とは可談也。外道は枯木は枯れぬる。不要の物とて嫌いて、不可逢春という。仏祖は尽十方界全枯木なる道理の方より、不可逢春と談ず。故に詞(は)同じけれども、其の理はるかに異也と云うは是なるべし。

  • 如文。「海枯の参学也」とは、世間に海の枯るると云う事、総不可有歟。海枯波浪打天などと云いしように、全海の道理を以て「海枯」とは可談也。此の「木の不動著」と云うは、木を置いて掛かるとは不談。やがて此の木の当体を「枯」と談ずる故に、「木の不動著は枯也」とは云うなり。

 

いまの山木海木空木等、これ枯木なり。萌芽も枯木龍吟なり。百千万囲とあるも、枯木の児孫なり。

枯の相性体力は、仏祖道の枯樁なり、非枯樁なり。山谷木あり、田里木あり。山谷木、よのなかに松栢と称ず。田里木、よのなかに人天と称ず。依根葉分布、これを仏祖と称ず。本末須帰宗、すなはち参学なり。

かくのごとくなる、枯木の長法身なり、枯木の短法身なり。もし枯木にあらざればいまだ龍吟せず、いまだ枯木にあらざれば龍吟を打失せず。

詮慧

〇「海木空木」と云う掛かる木もあるべき也。然而業力によりて今の人不見空木を見る業力の方にては、山木をもさこわば疑うらめ。「山谷木を松栢と称し、田里木を人天と称す」。「依根葉分是れを仏祖と称する」ゆえ。

〇二乗三乗の事を仏は三草二木などとも被仰る、今の「田里木・人天」と称すべき歟。

〇「本末須帰宗」とは今、本末須帰宗と云う時に本不対末・末不対本ゆえに「須帰宗」という、ただ本末不相対と云うまでは、猶本末を置くに似たり。「帰宗」と云いぬれば本末の詞もなし、「帰宗」には本末あるべからず。

経豪

  • 所詮今は山も海も空も皆、枯木なるべき道理を如此被釈なり。「萌芽」と云うも、枯木の上の荘厳なるべし。「百千万囲」とは水のはたはり大なるも、枯木の児孫也と云い、此の木の無尽の詞共も、木の児孫ととるべき歟。
  • 如文。枯の相枯の性枯の力は、「仏祖道の枯樁非枯樁」と云う古き詞あり、其の詞を被引出歟。此の心地は「相も性も、乃至体・力(は)皆仏祖道の相・性・体・力は枯樁非枯樁」と云わるるの程の枯の理也と云う也。又如前云う、山谷・田里皆枯木なるべし。「其中にも松柏とも云い、人天とも称す」と云うは、枯木の道理が如此百千無量に被談所を如此云う也。所詮此理の「葉依根分布、是を仏祖と称す」とあり。今は枯木の根葉分布するより、仏祖も出でたる也と云うなり。分布といい、或いは葉依根などと云えば、猶常の詞にまがいぬべし。只今は枯木を松柏とも人天とも、葉依根分布とも可談所を如此云うなり。又「本末須帰宗」とは、本末と云う沙汰もなし。只枯木の道理の外は、余物なき所が帰宗とも云うべき也。
  • 枯木の上の長短如先、先(の)沙汰、以今朽木、龍吟と談ずる所が、「枯木も非ざれば、未龍吟」とは云わるるなり。枯木と龍吟と無差別、枯木が龍吟なる所を「打失せず」とは云うなり。是は打ち失いて物もなく成りたるにはあらず。達磨の眼睛を打失すなどと云いしように、枯木を龍吟と談ずれば、龍吟を打失せぬ道理は聞こゆるなり。

 

幾度逢春不変心は、渾枯の龍吟なり。宮商角徴羽に不群なりといへども、宮商角徴羽は龍吟の前後二三子なり。

しかあるに、遮僧道の枯木裏還有龍吟也無は、無量劫のなかにはじめて問頭に現成せり、話頭の現成なり。

投子道の我道髑髏裏有師子吼は、有甚麼掩処なり。屈己推人也未休なり。髑髏遍野なり。

詮慧

〇「有什麼掩処」と云う、是は何としてかおさふる所あらんと云う。実にも掩え難し。「髑髏裏」と云うは尽界なるべし、この獅子吼掩うべき人もなし、故に如此説く也。

〇「屈己推人也未休」という、非汝非誰などと云う程の道理なり。をのれをば屈し、人をば推すと云えば、誰ありとも覚えず。未休と云えば、又終りもあるべからず。

〇「髑髏遍野」と云う、是は遍法界と也。髑髏の詞に付けて野の字あり。「獅子吼」とは、尽十方界真実人体と云う程の詞なり。

経豪

  • 「度逢春不変心」とは法常禅師の詞に、摧残枯木倚寒林、幾度逢春不変心と云いし詞を被載也。打ち任すは木の春に逢うは、ようよう葉張り花なく、仏道の春は三世尽界、始中終に拘わらぬ道理を以て不変心とは談ずる也。全春の理を以て不変心とは云うべし。「渾枯の龍吟也」とは、尽界が枯木龍吟なる道理なり。「宮商角徴羽に不群なりと云えども、宮商角徴羽は龍吟の前後二三子也」とは、龍吟の詞に付けて、此の五音の詞に出で来るか。此の五音又尋常に心得たる五音なるべからず、龍吟の上の宮商角徴羽なり。故に龍吟の前後二三子也と云わるるなり、此の理は以龍吟、宮とも商とも、角とも、徴とも、羽とも、談ずる故に如此心得也。
  • 是は今の僧問の詞は、無量劫にも未だなかりつる詞を、はじめて此僧の云い出したるように聞こゆ、非爾。此の無量劫の間は、いたづらに此の詞の表われざりつる時分にて除くべからず。今の無量劫と指す時節も、此の僧問の枯木裏龍吟の理の外なるべからず。問頭がやがて話頭の現成なるべし、此理不始于今事也。
  • 「有甚麼掩処」とは、前の投子道の詞は、総て隠れざる所也と云う心地なり。何の掩う所か在らんと云うは、残らず云い顕わしたりと云う心也。「屈己推人也未休也」とは、たとえば一方を称すれば一方は暗しと云う程の心地なるべし。「髑髏遍野」とは、髑髏遍法界なる也と云う程の心也。髑髏尽十方界也と云う程の丈なるべし。

 

香厳寺襲燈大師、因僧問、如何是道。師云、枯木裡龍吟。僧曰、不会。師云、髑髏裏眼睛。後有僧問石霜、如何是枯木裡龍吟。霜云、猶帯喜在。僧曰、如何是髑髏裏眼睛。霜云、猶帯識在。又有僧問曹山、如何是枯木裡龍吟。山曰、血脈不断。僧曰、如何是髑髏裡眼睛。山曰、乾不尽。僧曰、未審、還有得聞者麼。山曰、尽大地未有一箇不聞。僧曰、未審、龍吟是何章句。山曰、也不知是何章句。聞者皆喪。いま擬道する聞者吟者は、吟龍吟者に不斉なり。この曲調は龍吟なり。

枯木裡髑髏裡、これ内外にあらず、自佗にあらず。而今而古なり。

猶帯喜在はさらに頭角生なり、猶帯識在は皮膚脱落尽なり。

詮慧

〇「香厳寺襲燈大師」段。石霜は青原流・石頭―薬山―道吾―石霜(四脈如此)、曹山は青原―石頭―薬山―雲巌―洞山―曹山。

〇この「枯木裏龍吟を如何是」と問う意趣は、如何三界唯一心とも、如何是諸法実相とも、問う同じ事也。枯木裏三界唯一心なる故に、又此の問いは大唐国裏と問う程の事也(無正偏あまる所なき故に)。如何是日本国と云わば、六十余国と云わんが如し。「枯木裏」の裏は道理如此。

〇「不会」と云う、龍吟聞不聞による、会不会と云わず。

〇「猶帯喜在・猶帯識在」は、流転生死の時は、不拝仏面と云えども、三界を一心とする脱落の時は、喜在識在なり。

〇「頭角生」とは、さし出て隠れざる也、よき詞に仕う也。尽十方界真実人体と脱落する、頭角生也。

経豪

  • 此の香厳寺襲燈大師の詞如文。枯木裏龍吟の詞、先段に談旧了、其心又不可違。髑髏裏獅子吼と前にはあり。眼睛の詞(は)違いしたる様なれども、其意趣只同事也。又就今僧問答・石霜の詞に猶帯喜在、又猶帯識在とあり、喜与識の詞替りたり。然而只詞同理なるべし。依此詞違、其心不可違也。枯木裏龍吟の上に、喜とも識とも可談也。又曹山の詞に血脈不断と云えり、血脈と云う事は仏祖より次第に系図を引きて昔より過去七仏より、仏祖等を次第に連ねて書きたるを血脈とは云う也、仏祖の血脈は不爾。是は以仏血脈と名づけ、以祖血脈とは云うべき也。努々彼より此に至るとは不可心得。以今曹山名血脈、さればこそ不断の詞も不断なれ。曹山の血脈不断と被仰たる心地はやがて曹山の血脈なるが、血脈と曹山とは二物なるべからず。此の道理を語脈裏の転身とは云うなり。仏経の道理も又如此なるべし。又「山日乾不尽」、是は海枯程の乾不尽也。又僧の詞に、「未審還有得聞者麽」と云うに、山答に「尽大地未有一箇不聞」文、此の得聞と云う詞も、能聞所聞に対して得聞と云うにあらず、聞不聞の得聞なるべし。「尽大地未有一箇不聞」と云うは、不聞者話と云えば、諸人聞と云う詞に似たり。此の「尽大地未有一箇不聞」の詞は、この尽大地を指して聞とも不聞とも可談也。又僧(の)詞に「未審龍吟是何章句」文、是も龍吟のように不審に相似たり。然而龍吟の道理如此云わるべき也、非不審。如何仏と云いし詞に不可違。就之「山曰、也不知是何章句」、此の詞(は)知不知に関わらぬ詞と聞こえたり。龍吟の外に知人あるべからず。故に此の詞も出で来るなり。「聞者は皆喪」文、此の龍吟の道理(は)皆喪の理なるべし。龍吟の外に物なき所を皆喪とは云うべき也。皆喪失命などと云いし程の丈なり。又「擬道する聞者吟者は、吟龍の吟者に不斉也」とは、吟と聞者とは打ち任すでは如何にも各別なるべし、今は不爾。以今龍為吟一体なる故に、龍吟に龍とは談ずる也。聞者は吟者とは一物なり。然者吟龍をば、吟者不聞、吟者は吟者可聞なり。故に不斉なるなり、詮は能聞所聞あるべからざる道理を示さん為也。「此の曲調は龍吟也」とは、此の道理を以て龍吟とは云うべき也と云う心也。
  • 今「枯木裏」の字、実(これ)内外にも自他に関わらず。「而今而古」とは亘古亘今などと云う程の詞なり。始中終に拘わらぬ心なり、以尽大地為龍吟なり。
  • 是は「猶帯喜在・猶帯識在」等の詞は、枯木龍吟の上の荘厳功徳なるべき心地を「頭角生」とは云う也。「皮膚脱落尽」の詞も、解脱の姿なり。

 

曹山道の血脈不断は、道不諱なり。語脈裏転身なり。

乾不尽は海枯不尽底なり、不尽是乾なるゆゑに乾上又乾なり。

聞者ありやと道著せるは、不得者ありやといふがごとし。

尽大地未有一箇不聞は、さらに問著すべし。未有一箇不聞はしばらくおく、未有尽大地時、龍吟在甚麼処、速道々々なり。

未審、龍吟是何章句は、為問すべし。吟龍はおのれづから泥裡の作声挙拈なり。鼻孔裏の出気なり。也不知、是何章句は、章句裏有龍なり。

聞者皆喪は、可惜許なり。

詮慧

〇「皆喪」とは、仏法を聞くは皆喪なり。見仏の時我等は喪す、聞法の時は蔵身する程の道理也。一心欲見仏、不自惜身命の心なるべし。坐禅の時喪身失命とも、又仏を坐殺すとも、皆同じかるべし。

〇「可惜許」とは、三界唯心を惜と仕い、諸法実相を惜と仕うなり。

〇「海枯の心を引き乗せて出ださる、海の乾尽事あるべからず」と云うは、我等が見解にてこそ、海が広大なれば、不可尽と思うにてこそあれ。是は最少分の見解なり、仏法には大海と仕いて、海ならぬ所なければ、乾不尽と云うなり。「乾上又乾」と云うは、悟上得悟の漢、迷中又迷の漢と、云いしにて心得べき也。

経豪

  • 「血脈不断」の詞(は)委注先の「道不諱」の詞は、此の道理を説くに不忌と云い、義理を述べ表わす心なり。「語脈裏転身」とは、語の内に転身すると也。其と云うは如前云い、血脈と云う語がやがて仏とも祖とも人々を置いて不云。やがて以曹山為血脈(の)道理が、如此語脈裏転身とは、云わるべき也。
  • 如前云う、「乾不尽」の乾は「海枯不尽底」程の心なり。所詮全乾なるべし、此の理が「乾上又乾」と云わるるなり。悟上得悟、迷中又迷の詞と同じかるべき也。
  • 「聞」の詞(は)先々沙汰旧了。是は此の「聞者」ありやとは得ざるもの有りやと云う程の義也となり。所詮龍吟ならぬ物なき道理を如此いうなり。
  • 是は尽大地は別にて、其中の聞著するもの有る様に覚ゆ。但是は「しばらく置く、尽地あらざらん時、龍吟いづれの所にあるべきぞ」と云う也。所詮、尽地与龍吟非別、以尽地為龍吟、以龍吟為尽地(の)故なり。
  • 是は「泥裏の作声・鼻孔裏の出気」などと云えば、何事ぞと、事々教えるように覚えたれども、所詮龍吟ならぬ所が、今は無しと云う心なり。其を古き詞を引き寄せて、被書き出でたるなり。只尽地・尽界(は)龍吟と可心得也。
  • 是は「知是何章句」とは、龍吟の外(に)知る者あるべからず、故に「問(聞)著皆喪」とは云わるべき也。「章句裏に有龍也」とは、此の章句がやがて龍なる理、別に不相対所を如此云うなり。
  • 全て龍吟の姿を可云「皆喪」、故に此の吟声を可聞ものなし。此の声を聞くものなき道理か。しばらく「可惜許」とは云わるる也。

 

いま香厳石霜曹山等の龍吟来、くもをなし、水をなす。不道道、不道眼睛髑髏。只是龍吟の千曲万曲なり。

猶帶喜在也蝦□(虫+麻)啼、猶帶識在也蚯蚓。これによりて血脈不断なり、

葫蘆嗣葫蘆なり。乾不尽のゆゑに、露柱懷胎生なり、燈籠対燈籠なり。

詮慧

〇「血脈不断」とは髑髏乾不尽の不断なる故に「葫蘆嗣葫蘆」と云う也。

〇「蝦□(虫+麻)啼・蚯蚓鳴」は、枯木龍吟・髑髏獅子吼に引き替えて云うなり。枯木龍吟・髑髏獅子吼等は、あるまじき事を強為して云う様なる、今の蝦□(虫+麻)啼・蚯蚓鳴はやがて鳴きぬべきものに仰せて、云う是程に枯木龍吟をも可心得也。「猶帶喜在也蝦□(虫+麻)啼・猶帶識在也蚯蚓鳴」と云う故に。

〇「乾不尽」とは、「露柱懷胎生・燈籠対燈籠」と云うべし。枯木には龍吟と云う事あるまじき、心地のする所を海枯に喩える上は、今又露柱懷胎と同じ心也。又燈籠に燈籠を対する同じ心なり、枯木は髑髏と獅子吼と同じきに対するなり。

経豪

  • 今の詞は龍吟と云うに付けて、「雲水」等の詞たよりある上は、所右挙の祖師等の詞を褒むる詞なるべし。彼(の)面々(の)詞「不道道・不道・眼睛・髑髏」等の詞も皆是「龍吟の上の千曲万曲なるべしと云う也。祖師の道(は)詞の替わりたるように面は見れども、只龍吟の道理を重ねて被述と云う心なるべし。
  • 此の詞(は)眼睛の草子にも被出できたり。所詮此の「猶帶喜在也蝦□(虫+麻)啼、猶帶識在也蚯蚓鳴」(は)、枯木龍吟の詞に同じ。がまていの啼、蚯蚓鳴の鳴、龍吟の吟(は)不可差別。又龍吟は勝るものにて、かえる・みみずは劣也などと、勝劣を立て不可差別。蝦□(虫+麻)も蚯蚓も龍も、参学の方よりは一体也、一物也。其理不可違也、以此道理、「血脈不断」とは云わるなり。
  • 右の祖師の問答、無尽に入り組みれども、只其理は「葫蘆は嗣葫蘆」道理也。「乾不尽」の姿も只「葫蘆嗣葫蘆」の理也。「露柱懷胎生」と云わんも露柱の胎生は燈籠なるべし、「燈籠対燈籠」の理なり、又余物不交、其が其なる理、外(に)又別の義なきなり。

(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。