正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼藏第十二 「坐 禪 箴」を読み解く

正法眼藏第十二 「坐 禪 箴」を読み解く                       

                                             

藥山弘道大師、坐次有僧問、兀々地思量什麼師云、思量箇不思量底僧云、不思量底如何思量。師云、非思量。

 大師の道かくのごとくなるを證して、兀坐を參學すべし、兀坐正傳すべし。兀坐の佛道につたはれる參究なり。兀々地の思量ひとりにあらずといへども、藥山の道は其一なり。いはゆる思量箇不思量底なり。思量の皮肉骨髓なるあり、不思量の皮肉骨髓なるあり。

 僧のいふ、不思量底如何思量。まことに不思量底たとひふるくとも、さらにこれ如何思量なり。兀々地に思量なからんや、兀々地の向上なにによりてか通ぜざる。賤近の愚にあらずば、兀々地を問著する力量あるべし、思量あるべし。

 大師いはく、非思量。いはゆる非思量を使用すること玲瓏なりといへども、不思量底を思量するには、かならず非思量をもちゐるなり。非思量にたれあり、たれ我を保任す。兀々地たとひ我なりとも、思量のみにあらず、兀々地を擧頭するなり。兀々地たとひ兀々地なりとも、兀々地いかでか兀々地を思量せん。しかあれ

ばすなはち、兀々地は佛量にあらず、法量にあらず、悟量にあらず、會量にあらざるなり。

 藥山かくのごとく單傳すること、すでに釋迦牟尼佛より直下三十六代なり。藥山より向上をたづぬるに、三十六代に釋迦牟尼佛あり。かくのごとく正傳せる、すでに思量箇不思量底あり。

 しかあるに近年おろかなる杜撰いはく、功夫坐禪得胸襟無事了、便是平穏地也。この見解、なほ小乘の學者におよばず、人天乘よりも劣なり。いかでか學佛法の漢といはん。見在大宋國に恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪かなしむべし。

 又一類の漢あり、坐禪辦道はこれ初心晩學の要機なり、かならずしも佛祖の行履にあらず。行亦禪坐亦禪、語黙動靜體安然なり。たゞいまの功夫のみにかゝはることなかれ。臨濟の餘流と稱するともがら、おほくこの見解なり。佛法の正命つたはれることおろそかなるによりて恁麼道するなり。なにかこれ初心、いづれか初

心にあらざる、初心いづれのところにかおく。

 しるべし、學道のさだまれる參究には、坐禪辦道するなり。その榜様の宗旨は、作佛をもとめざる行佛あり。行佛さらに作佛にあらざるがゆゑに、公案見成なり。身佛さらに作佛にあらず、籮籠打破すれば坐佛さらに作佛をさへず。正當恁麼のとき、千古萬古、ともにもとよりほとけにいり魔にいるちからあり。進歩退歩、したしく溝にみち壑にみつ量あるなり。

 江西大寂禪師、ちなみに南嶽大慧禪師に參學するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禪す。南嶽あるとき大寂のところにゆきてとふ、大徳、坐禪圖箇什麼

 この問、しづかに功夫參究すべし。そのゆゑは、坐禪より向上にあるべき圖のあるか、坐禪より格外に圖すべき道のいまだしきか、すべて圖すべからざるか。當時坐禪せるに、いかなる圖か現成すると問著するか。審細に功夫すべし。彫龍を愛するより、す

ゝみて眞龍を愛すべし。彫龍眞龍ともに雲雨の能あること學習すべし。遠を貴することなかれ、遠を賤することなかれ、遠に慣熟なるべし。近を賤することなかれ、近を貴することなかれ、近に慣熟なるべし。目をかろくすることなかれ、目をおもくすることなかれ。耳をおもくすることなかれ、耳をかろくすることなかれ、耳目をして聰明ならしむべし。

 江西いはく、圖作佛。この道、あきらめ達すべし。作佛と道取するは、いかにあるべきぞ。ほとけに作佛せらるゝを作佛と道取するか、ほとけを作佛するを作佛と道取するか、ほとけの一面出兩面出するを作佛と道取するか。圖作佛は脱落にして、脱落なる圖作佛か。作佛たとひ萬般なりとも、この圖に葛藤しもてゆくを圖作佛と道取するか。

 しるべし、大寂の道は、坐禪かならず圖作佛なり、坐禪かならず作佛の圖なり。圖は作佛より前なるべし、作佛より後なるべし、

作佛の正當恁麼時なるべし。且問すらくは、この一圖、いくそばくの作佛を葛藤すとかせん。この葛藤、さらに葛藤をまつふべし。このとき、盡作佛の條々なる葛藤、かならず盡作佛の端的なる、みなともに條々の圖なり。一圖を迴避すべからず。一圖を迴避するときは、喪身失命するなり。喪身失命するとき、一圖の葛藤なり。

 南嶽ときに一塼をとりて石上にあててとぐ。大寂つひにとふにいはく、師作什麼まことに、たれかこれを磨塼とみざらん、たれかこれを磨塼とみん。しかあれども、磨塼はかくのごとく作什麼と問せられきたるなり。作什麼なるは、かならず磨塼なり。此土佗界ことなりといふとも、磨塼いまだやまざる宗旨あるべし。自己の所見を自己の所見と決定せざるのみにあらず、萬般の作業に參學すべき宗旨あることを一定するなり。しるべし、佛をみるに佛をしらず、會せざるがごとく、水をみるをもしらず、山をみ

るをもしらざるなり。眼前の法さらに通路あるべからずと倉卒なるは、佛學にあらざるなり。

 南嶽いはく、磨作鏡。この道旨あきらむべし。磨作鏡は、道理かならずあり。見成の公案あり、虚設なるべからず。塼はたとひ塼なりとも、鏡はたとひ鏡なりとも、磨の道理を力究するに、許多の榜様あることをしるべし。古鏡も明鏡も、磨塼より作鏡をうるなるべし、もし諸鏡は磨塼よりきたるとしらざれば、佛祖の道得なし、佛祖の開口なし、佛祖の出気を見聞せず。

 大寂いはく、磨塼豈得成鏡耶。まことに磨塼の鐵漢なる、佗の力量をからざれども、磨塼は成鏡にあらず、成鏡たとひ聻なりとも、すみやかなるべし。

 南嶽いはく、坐禪豈得作佛耶。あきらかにしりぬ、坐禪の作佛をまつにあらざる道理あり、作佛の坐禪にかゝはれざる宗旨かくれず。

大寂いはく、如何即是。いまの道取、ひとすぢに這頭の問著に相似せりといへども、那頭の即是をも問著するなり。たとへば、親友の親友に相見する時節をしるべし。われに親友なるはかれに親友なり。如何即是、すなはち一時の出現なり。

 南嶽いはく、如人駕車、車若不行、打車即是、打牛即是。しばらく車若不行といふは、いかならんかこれ車行、いかならんかこれ車不行。たとへば、水流は車行なるか、水不流は車行なるか。流は水の不行といふつべし、水の行は流にあらざるにもあるべきなり。しかあれば、車若不行の道を參究せんには、不行ありとも參ずべし、不行なしとも參ずべし、時なるべきがゆゑに。若不行の道、ひとへに不行と道取せるにあらず。打車即是、打牛即是といふ、打車もあり、打牛もあるべきか。打車と打牛とひとしかるべきか、ひとしからざるべきか。世間に打車の法なし、凡夫に打車の法なくとも、佛道に打車の法あることをしりぬ、參學の眼目なり。たとひ打車の法あることを學すとも、打牛と一等なるべからず、審細に功夫すべし。打牛の法たとひよのつねにありとも、佛道の打牛はさらにたづね參學すべし。水牯牛を打牛するか、鐵牛を打牛するか、泥牛を打牛するか。鞭打なるべきか、盡界打なるべきか、盡心打なるべきか、打迸髓なるべきか、拳頭打なるべきか。拳打拳あるべし、牛打牛あるべし。

 大寂無對なる、いたづらに蹉過すべからず。拋塼引玉あり、回頭換面あり。この無對さらに攙奪すべからず。

 南嶽、又しめしていはく、汝學坐禪爲學坐佛。この道取を參究して、まさに祖宗の要機を辦取すべし。いはゆる學坐禪の端的いかなりとしらざるに、學坐佛としりぬ。正嫡の兒孫にあらずよりは、いかでか學坐禪の學坐佛なると道取せん。まことにしるべし、初心の坐禪は最初の坐禪なり、最初の坐禪は最初の坐佛なり。

坐禪を道取するにいはく、若學坐禪禪非坐臥。 いまいふところは、坐禪は坐禪なり、坐臥にあらず。坐臥にあらずと單傳するよりこのかた、無限の坐臥は自己なり。なんぞ親疎の命脈をたづねん、いかでか迷悟を論ぜん、たれか智斷をもとめん。

 南嶽いはく、若學坐佛、佛非定相。 いはゆる道取を道取せんには恁麼なり。坐佛の一佛二佛のごとくなるは、非定相を莊嚴とせるによりてなり。いま佛非定相と道取するは、佛相を道取するなり。非定相佛なるがゆゑに、坐佛さらに迴避しがたきなり。しかあればすなはち、佛非定相の莊嚴なるゆゑに、若學坐禪すなはち坐佛なり。たれか無住法におきて、ほとけにあらずと取捨し、ほとけなりと取捨せん。取捨さきより脱落せるによりて坐佛なるなり。

 南嶽いはく、汝若坐佛、即是殺佛。いはゆるさらに坐佛を參究するに、殺佛の功徳あり。坐佛の正當恁麼時は殺佛なり。殺佛の

相好光明は、たづねんとするにかならず坐佛なるべし。殺の言、たとひ凡夫のことばにひとしくとも、ひとへに凡夫と同ずべからず。また坐佛の殺佛なるは有什麼形段と參究すべし。佛功徳すでに殺佛なるを拈擧して、われらが殺人未殺人をも參學すべし。

 若執坐相、非達其理。 いはゆる執坐相とは、坐相を捨し、坐相を觸するなり。この道理は、すでに坐佛するには、不執坐相なることえざるなり。不執坐相なることえざるがゆゑに、執坐相はたとひ玲瓏なりとも、非達其理なるべし。恁麼の功夫を脱落身心といふ。いまだかつて坐せざるものにこの道のあるにあらず。打坐時にあり、打坐人にあり、打坐佛にあり、學坐佛にあり。たゞ人の坐臥する坐の、この打坐佛なるにあらず。人坐のおのづから坐佛佛坐に相似なりといへども、人作佛あり、作佛人あるがごとし。作佛人ありといへども、一切人は作佛にあらず、ほとけは一切人にあらず。一切佛は一切人のみにあらざるがゆゑに、人かならず佛にあらず、佛かならず人にあらず。坐佛もかくのごとし。

 南嶽江西の師勝資強、かくのごとし。坐佛の作佛を證する、江西これなり。作佛のために坐佛をしめす、南嶽これなり。南嶽の會に恁麼の功夫あり、藥山の會に向來の道取あり。しるべし、佛々祖々の要機とせるは、これ坐佛なりといふことを。すでに佛々祖々とあるは、この要機を使用せり。いまだしきは夢也未見在なるのみなり。おほよそ西天東地に佛法つたはるゝといふは、かならず坐佛のつたはるゝなり。それ要機なるによりてなり。佛法つたはれざるには坐禪つたはれず、嫡々相承せるはこの坐禪の宗旨のみなり。この宗旨いまだ單傳せざるは佛祖にあらざるなり。この一法あきらめざれば萬法あきらめざるなり、萬行あきらめざるなり。法々あきらめざらんは明眼といふべからず、得道にあらず。いかでか佛祖の今古ならん。こゝをもて、佛祖かならず坐禪を單傳すると一定すべし。

 佛祖の光明に照臨せらるゝといふは、この坐禪を功夫參究するなり。おろかなるともがらは、佛光明をあやまりて、日月の光明ごとく、珠火の光燿のごとくあらんずるとおもふ。日月の光耀は、わづかにこれ六道輪廻の業相なり、さらに佛光明に比すべからず。佛光明といふは、一句を受持聽聞し、一法を保任護持し、坐禪を單傳するなり。光明にてらさるゝにおよばざれば、この保任なし、この信受なきなり。

 しかあればすなはち、古來なりといへども、坐禪を坐禪なりとしれるすくなし。いま現在大宋國の諸山に、甲刹の主人とあるもの、坐禪をしらず、學せざるおほし。あきらめしれるありといへども、すくなし。諸寺にもとより坐禪の時節さだまれり。住持より諸僧ともに坐禪するを本分の事とせり、學者を勸誘するにも坐禪をすゝむ。しかあれども、しれる住持人はまれなり。このゆゑに、古來より近代にいたるまで、坐禪銘を記せる老宿一兩位あり、坐禪儀を撰せる老宿一兩位あり。坐禪箴を記せる老宿一兩位あるなかに、坐禪銘、ともにとるべきところなし、坐禪儀、いまだその行履にくらし。坐禪をしらず、坐禪を單傳せざるともがらの記せるところなり。景徳傳燈録にある坐禪箴、および嘉泰普燈録にあるところの坐禪銘等なり。あはれむべし、十方の叢林に經歴して一生をすごすといへども、一坐の功夫あらざることを。打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見せざることを。これ坐禪のおのれが身心をきらふにあらず、眞箇の功夫こゝろざゝず、倉卒に迷醉せるによりてなり。かれらが所集は、たゞ還源返本の様子なり、いたづらに息慮凝寂の經営なり。觀練薫修の階級におよばず、十地等覺の見解におよばず、いかでか佛々祖々の坐禪を單傳せん。宋朝の録者あやまりて録せるなり、晩學すててみるべからず。

坐禪箴は、大宋國慶元府太白名山天童景徳寺、宏智禪師正覺和尚の撰せるのみ、佛祖なり、坐禪箴なり、道得是なり。ひとり法界の表裏に光明なり、古今の佛祖に佛祖なり。前佛後佛この箴に箴せられもてゆき、今祖古祖この箴より現成するなり。かの坐禪箴は、すなはちこれなり。

 坐 禪 箴           勅謚宏智禪師 正覺 撰

佛々要機、祖々機要。不觸事而知、不對縁而照。不觸事而知、其知自微。不對縁而照、其照自妙。其知自微、曾無分別之思、 其照自妙、曾無毫忽之兆、 曾無分別之思、其知無偶而奇。曾無毫忽之兆、其照無取而了。水清徹底兮、魚行遲々。空闊莫涯兮、鳥飛杳々。

 いはゆる坐禪箴の箴は、大用現前なり、聲色向上威儀なり、父母未生前の節目なり。莫謗佛祖好なり、未免喪身失命なり、頭長三尺頸長二寸なり。

佛々要機。佛々はかならず佛々を要機とせる、その要機現成せり、これ坐禪なり。

 祖々機要。先師無此語なり。この道理これ祖々なり。法傳衣傳あり。おほよそ回頭換面の面々、これ佛々の要機なり。換面回頭の頭々、これ祖々の機要なり。

 不觸事而知。知は覺知にあらず、覺知は小量なり。了知の知にあらず、了知は造作なり。かるがゆゑに、知は不觸事なり、不觸事は知なり。遍知と度量すべからず、自知と局量すべからず。その不觸事といふは、明頭來明頭打、暗頭來暗頭打なり、坐破嬢生皮なり。

 不對縁而照。この照は照了の照にあらず、靈照にあらず、不對縁を照とす。照の縁と化せざるあり、縁これ照なるがゆゑに。不對といふは、遍界不曾藏なり、破界不出頭なり。微なり、妙なり、回互不回互なり。其知自微、曾無分別之思。思の知なる、かならずしも佗力をからず。其知は形なり、形は山河なり。この山河は微なり、この微は妙なり、使用するに活溌々なり。龍を作するに、禹門の内外にかゝはれず。いまの一知わづかに使用するは、盡界山河を拈來し、盡力して知するなり。山河の親切にわが知なくば、一知半解あるべからず。分別思量のおそく來到するとなげくべからず。已曾分別なる佛々、すでに現成しきたれり。曾無は已曾なり、已曾は現成なり。しかあればすなはち曾無分別は不逢一人なり。

 其照自妙、曾無毫忽之兆。毫忽といふは盡界なり。しかあるに自妙なり、自照なり。このゆゑに、いまだ將來せざるがごとし。目をあやしむことなかれ、耳を信ずべからず、直須旨外明宗、莫向言中取則なるは、照なり。このゆゑに無偶なり、このゆゑに無取なり。これを奇なりと住持しきたり、了なりと保任しきたるに、我卻疑著なり。

坐  禪  箴

 水清徹底兮、魚行遲々。水清といふは、空にかゝれる水は清水に不徹底なり。いはんや器界に泓澄する、水清の水にあらず。邊際に涯岸なき、これを徹底の清水とす。うをもしこの水をゆくは行なきにあらず。行はいく萬程となくすゝむといへども不測なり、不窮なり。はかる岸なし、うかむ空なし、しづむそこなきがゆゑに測度するたれなし。測度を論ぜんとすれば徹底の清水のみなり。坐禪の功徳、かの魚行のごとし。千程萬程、たれか卜度せん。徹底の行程は、擧體の不行鳥道なり。

 空闊莫涯兮、鳥飛杳々。空闊といふは、天にかゝれるにあらず。天にかゝれる空は闊空にあらず。いはんや彼此に普遍なるは闊空にあらず。隱顯に表裏なき、これを闊空といふ。とりもしこの空をとぶは飛空の一法なり。飛空の行履、はかるべきにあらず。飛空は盡界なり、盡界飛空なるがゆゑに。この飛、いくそばくといふことしらずといへども、卜度のほかの道取を道取するに、杳々と道取するなり。直須足下無糸去なり。空の飛去するとき、鳥も飛去するなり。鳥の飛去するに、空も飛去するなり。飛去を參究する道取にいはく、只在這裏なり。これ兀々地の箴なり。いく萬程か只在這裏をきほひいふ。

 宏智禪師の坐禪箴かくのごとし。諸代の老宿のなかに、いまだいまのごとくの坐禪箴あらず。諸方の臭皮袋、もしこの坐禪箴のごとく道取せしめんに、一生二生のちからをつくすとも道取せんことうべからざるなり。いま諸方にみえず、ひとりこの箴のみあるなり。

 先師上堂の時、よのつねにいはく、宏智、古佛なり。自餘の漢を恁麼いふこと、すべてなかりき。知人の眼目あらんとき、佛祖をも知音すべきなり。まことにしりぬ、洞山に佛祖あることを。

 いま宏智禪師より後八十餘年なり、かの坐禪箴をみて、この坐禪箴を撰す。いま仁治三年壬寅三月十八日なり。今年より紹興二十七年十月八日にいたるまで、前後を算數するに、わづかに八十五年なり。いま撰する坐禪箴これなり。

 坐 禪 箴

佛々要機、祖々機要。不思量而現、不回互而成。不思量而現、其現自親。不回互而成、其成自證。其現自親、曾無染汚、其成自證、曾無正偏、曾無染汚之親、其親無委而脱落。曾無正偏之證、其證無圖而功夫。水清徹地兮、魚行似魚。空闊透天兮、鳥飛如鳥。

 宏智禪師の坐禪箴、それ道未是にあらざれども、さらにかくのごとく道取すべきなり。おほよそ佛祖の兒孫、かならず坐禪を一大事なりと參學すべし。これ單傳の正印なり。

 正法眼藏坐禪箴第十二

 

  仁治三年壬寅三月十八日、記興聖寶林寺

 

正法眼蔵を読み解く坐禅箴」(二谷正信著)

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/zazenshin

 

詮慧・経豪による註解書については

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/01/12/000000

 

坐禅箴提唱―酒井得元

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/12/13/152437

 

道元の本証妙修―石井修道

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中国禅と道元禅―石井修道

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道元の修証観―石井修道

https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2022/03/29/194202

 

禅研究に関しては、月別アーカイブを参照ください。

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