正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

中国禅と道元禅 石井 修道

退任記念講演

中国禅と道元

               

―その連続面と非連続面とについて―

石井 修道

 

 ただいま金沢篤学部長先生からご紹介がありましたように、私は平成二十六年三月末をもって定年退職いたします。今日、最終講義の日を迎え、どういう形式で行ったらよいのかよく分かりませんが、私が今年度の仏教学部の授業で担当しました科目の「禅思想概説」と「中国禅宗史」の講義を、どのようなねらいで行ったか、その成果としてどのようなことを期待しているかを、配布した資料に基づいて話したいと思います。

 まず、最初の(A)(B)(C)の資料をご覧下さい。

 

【資料】(A) 担当科目「禅思想概説」「中国禅宗史」の講義のねらい

 

(イ)   道元禅師をさかのぼって中国禅宗史を学ぶといけない

(ロ)   中国禅はなぜ唐代禅ではなく宋代禅が日本へ定着したか

(ハ)   道元禅師はなぜ禅宗曹洞宗の呼称を嫌って、正法を伝えたことを強調するのか

 

﹇参考﹈鎌田茂雄著『日本仏教のふるさと』(東京大学出版会、一九七八年)

(同じく漢訳大蔵経にもとづいて成立した東アジア仏教圏であっても)とくに日本人の感覚でこれをおしはかると、とんでもないことになることを銘記しなければならぬ。なかでも中国や朝鮮の仏教を考えるときには、中国人の民族性や、朝鮮人の民族性というものを十分に考慮してこれを考えなければならない。とくに危険なのは、日本の仏教学者や宗学者が、日本仏教の宗派の開祖から遡源させて、中国の仏教を理解するやり方である。たとえば道元からさかのぼって中国の曹洞宗禅宗を均質性としてとらえたり、親鸞法然から遡源させて、中国浄土教の祖師、曇鸞(どんらん)、道綽(どうしやく)、善導の思想を理解しようとする態度は厳に戒めなければならない。(同書五頁)

 

【資料】(B)担当科目「禅思想概説」の講義の配付資料=本日の総論(「道元霊性批判―鈴木大拙霊性と関連して」『道元禅の成立史的研究』所収、大蔵出版、一九九一年)

 

鈴木大拙のいう支那における(A)〜(Gの画期の禅思想=この説は妥当と考える⇆道元

 

  • 達摩大師が始めて支那へ来られて壁観安心の法門を伝へてこのかた、(B)六祖慧能の見性、(C)荷沢神会の「知之一字」(D)馬祖道一の大機大用、(E)曹洞下の正偏回互、それから宋に入りて(F)看話禅の創唱、元明を経て(g)念仏禅の流行―これらは何れも支那における画期の禅思想である。(「不生禅概観」『鈴木大拙全集』第一―七頁)

 

【資料】(C)本日の最終講義「中国禅と道元禅―その連続面と非連続面とについて―」=各論=修証論を中心として=「鏡島宗学」を継承する「新」宗学(方法論)。『道元禅師と引用経典・語録の研究』(木耳社、一九六五年)

 

 【資料】(A)の「担当科目の講義のねらい」に書きましたように、講義のねらいを、「道元禅師(以下、道元のみ尊称の禅師を残す)をさかのぼって中国禅宗史を学ぶといけない」というのが一番目。二番目は、「中国禅はなぜ唐代禅ではなく宋代禅が日本へ定着したか」という課題をもって進め、更に三番目は周知の「道元禅師はなぜ禅宗曹洞宗の呼称を嫌って、正法を伝えたことを強調するのか」を明らかにすることを念頭におきました。私は一九六四年、東京オリンピック開催の年に鎌田茂雄先生に出会い、卒業論文を指導していただきました。先生は中国禅宗史を勉強するならば、【資料】(A)(イ)を念頭に置きながら進めなさい、といわれました。先生の考えは資料の﹇参考﹈に掲げた通りです。この文は、後に鎌田先生がフィールドワークの成果を出された上で書かれたものですが、私が接したころも先生の持論であり、むしろこの本に同じ内容が書かれていることを見つけて、大変嬉しくなったという記憶があります。主要なところを読みますと、「とくに危険なのは、日本の仏教学者や宗学者が、日本仏教の宗派の開祖から遡源させて、中国の仏教を理解するやり方である。たとえば道元からさかのぼって中国の曹洞宗禅宗を均質的としてとらえたり…………する態度は厳に戒めなければならない」といわれています。

私もこの説を肝に銘じてきました。

 【資料】(B)の説明に入る前に、別綴じの「最初の講義の時の配布資料」をご覧下さい。

【禅思想史概説 最初の講義の時の配布資料】

道元禅はどこから生まれたか―道元の正法とは何か―禅と言えるのか(「宗学禅宗史と新宗学」㈠(『宗学と現代』第二号、曹洞宗宗学研究所、一九九八年)

図表 ㈢                

主観A仏祖への信念・個別的→客観B仏教学(過去)→D新「宗学」(現在)→C教化学(未来)・体系的・法則的

衛藤宗学がD面に入ることは、もともと岸本説から応用したものですから、それを重ね合わせば合致しますので、ある程度その位置づけは許されるかと思います。もちろん、反論を認めないわけではありません。次に鏡島宗学をここに位置づけることには、鏡島先生が私の説に対して多くの反論を現在だされている以上、予想として鏡島先生から拒否されるかもしれません。つまり、衛藤宗学の継承者を自認し、その至たらなさを反省されていることを知っている私どもにとって、衛藤宗学から鏡島宗学への流れは誰もが認めうると思います。私は鏡島宗学の継承者と自認している一人ですので、鏡島宗学から新「宗学」への流れは私はあると思っています。たとえ鏡島先生から拒否されたとしても、鏡島宗学の原典である渉典研究の方法論の確立は、継承していますから、D面に位置づけたいと思っています。ここには、個別の問題でいろんな意見の相違をみますが、これらの点については、次回以降で具体的に検討していきたいと思っています。つけ加えるべきことは、むしろその意見の相違を認めあい、より完成された宗学を目指すのが、他ならぬ私の言いたい新「宗学」と言っておきたいと思います。それ故に、新「宗学」の「新」は、「伝統宗学」や「批判宗学」に対して「新」なのではなく、如何なる提言にも謙虚に耳を傾け、自己の安住から脱却しようと自己を否定し、常に「新」でありつづけたいという願いを含めています。「新」とは、永遠に「新」でなければなりませんし、「新」を求めつづけねばならないものと考えています。

 

  第二節 鈴木大拙道元禅のとらえ方の問題点(『道元禅の成立史的研究』大蔵出版、一九九一年) 

 

鈴木大拙が「日本禅における三つの思想類型」の項で、その一つに道元禅をあげたことはよく知られている。

禅思想史―殊に日本禅における盤珪禅の意義と地位とを考へて、その特性につき十分鑑賞をしようと思ふときは、日本禅における三つの異なつた思想類型とでも云ふものを区別しなければならぬ。思想類型とは、禅の本質を作り上げて居る悟りに対する思想的態度の型を云ふのである。此態度の相異は、また悟りそのものを思想的に、如何に鑑賞し如何に表現するかの相異である。これはやがて悟りを実現させる方法、技術の相異を将来し、又悟るとは何の事かと云ふ解釈の相異をも意味する。而して是等の諸相異に三つの類型があると云へるのである。三つと云ふは、道元禅と白隠禅と盤珪禅である。

道元禅は支那の曹洞禅に只管(しくわん)打(た)坐(ざ)禅と『正法眼蔵』禅とを加味した道元独自のものである。白隠禅は臨済禅を看(かん)話(な)禅的に組織して、今日の日本的臨済禅を作り上げたものである。盤珪禅は「不生」の二字で禅体験を一般思想化して而かも禅の直観性をその中にはたらかせることを忘れなかつた。(『鈴木大拙全集』巻一―五七頁)

 さらに、道元禅の性格について「盤珪禅の再叙」の項で次のように述べている。

(A)道元禅は明かに「曹洞」宗ではない。支那における系統は天童如浄のを引いて居ても、道元禅師が日本へ帰つてから唱道した禅は道元禅である。道元個人が創始したもので、しかも道元の人格が中心になつて居る。日本の曹洞宗道元を繞つて出来上つて居る。それから宗風も必ずしも支那における曹洞宗的ではない。

(B)日本の曹洞宗から道元とその『正法眼蔵』を取り去ると、跡には何も残らぬ。それ故、日本の曹洞宗道元を開祖として居る、道元がその宗派での崇敬の中心となつて居る。此点では日本の臨済宗と大いにその趣きを異にして居る。(同―三三五頁)

前半(A)の意見は、ここだけの文であれば、筆者も大いに賛成したし(1)、近年、鏡島元隆博士によって意欲的に解明された部分である。(2)

 後半(B)については、「たてまえ」であって、できれば日本の曹洞宗もこうあって欲しいと筆者も願わずにはおれない。というのも、大拙が次のように心配して「ほんね」を述べているからである。

道元は徹底的アカデミックであつた。それは時代の影響もあらうが、個人的性格にも由来すること大であつた。文学としての『正法眼蔵』の価値を知らないが、如何に高遠幽妙の思想でも、今少しわかりよく書けなかつたものかとも思ふ。彼の時代には彼以外にもあんな文体を用ゐたものがあつたであらうか、わしは不幸にしてそれを知らんが、彼の漢文は邦文のよりはわかり易いやうである。それは何故か、わからぬが、『正法眼蔵』も彼の直弟子の間で、どの程度に領解せられたものであらうか。『眼蔵』の決定版が今でもまだ出来ず、又その書誌学的・歴史的研究の方面も伝統の外一歩をも出て居ないところなどを見ると、道元禅は『眼蔵』を離れて親参実究せられたものでなからうか。とに角、永平本全部がそのまま参学の教科書として用ゐられないで、その幾分かが伝授せられたものかも知れず、一方では只管打坐が唱へられ、他方では『眼蔵』が研究せられたことはあるまい。何か看話に似たやうなものが道元禅にもあつたと信じたい。これは固より臆測の範囲を出て居ないが。日本の曹洞宗道元宗で、彼の人格を廻ぐつて出来上つた日本禅と云つて可ならんか。盤珪の日本禅と並べて見ると、面白き対比が成り立つ。(同―一八八頁) 

残念ながら、日本の曹洞宗が「『眼蔵』を離れて」発展したことは認めざるを得ないのである。

 ところで、大拙道元禅を把えた時期と最近の研究では大きな相違が見られる。しかも、先に言うように道元霊性批判を考えると、大拙の禅との異質が考えられる。その結果、大拙の言う道元禅には、限界と偏向と誤解がないかどうか検討する必要がある。

 大拙盤珪の不生禅を高く評価したことはよく知られているが、「不生禅概観」の項で、中国禅と盤珪禅の関係を次のように述べる。

盤珪禅師の不生禅は禅思想史における最も注意すべき事項の一つである。(A)達摩大師が始めて支那へ来られて壁観安心の法門を伝へてこのかた、(B)六祖慧能の見性、(C)荷沢神会の「知之一字」、(D)馬祖道一の大機大用、(E)曹洞下の正偏回互、それから宋に入りて(F)看話禅の創唱、元明を経て(G)念仏禅の流行―これらは何れも支那における画期の禅思想である南宋の頃、禅が日本に渡来して、道元禅が唱へられた。これが日本の曹洞宗と云はれるところのものであるが、これは事実上道元禅で、道元禅師の著述『正法眼蔵』を廻(めぐ)りて発展した日本禅である。所謂る臨済宗では、南宋禅の系統を云へた外、別にこれと云ふべき特殊の禅思想の挙揚はなかつた。江戸時代中期に至りて、白隠禅師の看話禅において、禅修行の方法上技術上の新展開及び或る意味での禅思想の体系化を見たが、これより少し前に当りて、盤珪禅師あり、その不生禅なるものにおいて、始めて達摩大師以来の創見が唱道せられた。不生禅は実に禅思想史上において最も異色ある思想である。禅師は実に日本が生んだ禅匠中の最も偉大なる一人と謂はなくてはならぬ。

「身どもが年二十六の時、はじめて一切事は、不生でとゝのふといふ事をわきまへましたより此かた四十年来、仏心は不生にして霊明なものが仏心に極つたといふ事の不生の証拠をもつて、人に示して説事(とくこと)は、身どもが初て説(とき)出(だ)しました」(『盤珪禅師語録及行業記』岩波文庫本、三五頁 )。これが盤珪の声明である。(同―七頁)

 大拙が「禅思想史」なるものを完成したいと望んだことは前に触れたが、この文は筆者が禅思想史を考える場合に、極めて重要な示唆を得た箇所である。まず中国禅思想の特色は、簡にして要を得た解説となっている。しかし、道元の中国禅のとらえ方は、次のようであって、道元禅と中国禅とは、思想史的に言って非連続に近いのである。

(A)釈迦如来・迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師・大鑑高祖、おなじく証上の修に引転せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。(『弁道話』、『道元禅師全集』巻上―七三七頁)

所謂(いわゆ)る坐禅は習禅にあらず、唯だ是れ安楽の法門なり、菩提を究尽するの修証なり。

所謂坐禅非習禅也、唯是安楽之法門也、究尽菩提之修証也。(『普勧坐禅儀』、同巻下―一六五頁)

ある漢いはく、釈迦老漢、かつて一代の教典を宣説するほかに、さらに上乗一心の法を摩訶迦葉に正伝す、嫡嫡相承しきたれり。しかあれば、教は赴機の戯論なり、心は理性の真実なり。この正伝せる一心を、教外別伝といふ。三乗十二分教の所談にひとしかるべきにあらず。一心上乗なるゆゑに、直指人心、見性成仏なりといふ。この道取、いまだ仏法の家業にあらず(3)。(『仏教』、同巻上―三〇六〜三〇七頁)

しるべし、祖道の皮肉骨髄は、浅深にあらざるなり。たとひ見解に殊劣ありとも、祖道は得吾なるのみなり。(『葛藤』、同―三三二頁)

(B)仏法いまだその要(かなめ)見性にあらず。七仏・西天二十八祖、いづれのところにか仏法ただ見性のみなりとある。六祖壇経に見性の言あり、かの書これ偽書なり。附法蔵の書にあらず、曹谿の言句にあらず。仏祖の児孫、またく依用せざる書なり。(『四禅比丘』、同

―七〇八頁)

(C)宗密の道(い)う知の一字衆妙の門は、未だ外道の坑(あな)を出でず。

宗密道、知之一字衆妙之門、未出外道之坑。(『永平広録』巻六、同巻下―一一六頁)

(D)又一類の漢あり、坐禅弁道は、これ初心晩学の要機なり、かならずしも仏祖の行履にあらず、行亦禅、坐亦禅、語黙動静体安然なり、ただいまの功夫のみにかかはることなかれ。臨済の余流と称するともがら、おほくこの見解なり。仏法の正命つたはれることおろそかなるによりて、恁麽道するなり。(『坐禅箴』、同巻上―九一頁)

南獄ノ磚(かわら)ヲ磨シテ鏡ヲ求メシモ、馬祖ノ作仏ヲ求メシヲ戒メタリ、坐禅ヲ制スルニハ非ル也。坐ハスナハチ仏行ナリ、坐ハ即不為也。是レ即チ自己ノ正体也。此ノ外別ニ仏法ノ可(キ)レ求ム無キ也。(『正法眼蔵随聞記』巻三、同巻下―四五五頁)

馬祖道の尽是法性、まことに八九成の道なりといへども、馬祖いまだ道取せざるところおほし。(『法性』、同巻上―四一七頁)

(E)かつて仏法の道閫(だうこん)を行李せざるともがら、あやまりて洞山に偏正等の五位ありて人を接すといふ。これは胡説乱説なり、見聞すべからず。(『春秋』、同―三二八頁)

(F)此の坐禅や仏仏相伝し、祖祖直指して、独り嫡嗣する者なり。余者は其の名を聞くと雖も、仏祖の坐禅に同じからざるなり。所以(ゆえ)はいかん。諸宗の坐禅は、悟を待ちて則と為す。譬如(たとえ)ば船筏を仮りて大海を度(わた)るに、海を度れば船を抛(なげう)つべしと将謂(おも)えり。吾が仏祖の坐禅は然らず、是れ乃ち仏行なり。

坐禅也、仏仏相伝、祖祖直指、独嫡嗣者也。余者雖聞其名、不同仏祖坐禅也。所以者何。諸宗坐禅、待悟為則。譬如仮船筏而度大海、将謂度海而可抛船矣。吾仏祖坐禅不然、是乃仏行也。(『永平広録』巻八、同巻下―一六一頁)

 しかあればしるべし、宗杲禅師は減師半徳の才におよばざるなり。ただわづかに華厳・楞厳等の文句を暗誦して伝説するのみなり、いまだ仏祖の骨髄あらず。宗杲おもはくは、大小の隠倫(おんりん)わづかに依草附木の精霊にひかれて保任せるところの見解、これを仏法とおもへり。これを仏法と計せるをもて、はかりしりぬ、仏祖の大道いまだ参究せずといふことを。圜悟よりのち、さらに他遊せず、知識をとぶらはず。みだりに大刹の主として、雲水の参頭なり。のこれる語句、いまだ大法のほとりにおよばず。(『自証三昧』、同巻上―五五八頁)

(G)〔参考(4)〕いま杜撰の狂者、いたづらに仏道を軽忽するは、仏道所有の法を決択することあたはざるによりてなり。しばらくかの道教儒教をもて仏教に比する、愚痴のかなしむべきのみにあらず、罪業の因縁なり、国土の衰弊なり。三宝の陵夷なるがゆゑに。(『仏経』、同―四一一頁)

又、読経・念仏等のつとめにうるところの功徳を、なんぢしるやいなや。ただしたをうごかし、こゑをあぐるを仏事功徳とおもへる、いとはかなし。仏法に擬するにうたたとほく、いよいよはるかなり。(中略)口声をひまなくせる、春の田のかへるの昼夜になくがごとし、つひに又益なし。(『弁道話』、同―七三三〜七三四頁)

 わずかな道元の文言より比較するだけでも、中国禅の主流つまり大拙の言う画期をなす禅思想と道元禅との間には、断絶および異質性がみられ、道元の主張は明らかに歴史を無視し、また誤史を展開した面が知られるのである(5)。最近の道元研究の成果によれば、道元禅の成立過程は大拙の把握したものとは異なっており、その成果から見て、大拙の言う道元禅には、限界と偏向と誤解が見られるのである。この点を次に考えてみよう。

 最近の研究成果を踏まえて道元禅の成立過程を考えると、次のイロハの三つに図示できるであろう。Pdf原稿からワード化するにあたり図解出来ず。詳しくは「駒澤大学佛教學部論集 第四十五號 平成二十六年十月」を参照願いたい。(二谷・記す)

 

            ↔看話禅―白隠

  • 唐代禅(本覚)→ 黙照禅↔ 道元

        如浄禅(道元による理想化された禅・超歴史化) 日本達磨宗

           盤珪

  • 中国禅+華厳思想

荷沢禅―華厳禅(宗密の教禅一致説) ―天台宗山外派(『首楞厳経』重視)

                  ―天台宗山家派―道元

                  ―智顗の老荘批判(―道元禅)

 

無為自然(撥無因果)↔深信因果

➁自利為先↔利他為先

➂言語軽視↔言語重視(道得)

 筆者の『宋代禅宗史の研究』(大東出版社、一九八七年)は、特にイについて検討を試みんとしたものである(6)。大拙をはじめ多くの臨済系の宋代禅の解説者は、まず黙照禅の位置づけが極めて低いのが一般である。大拙は「六祖壇経、慧能慧能禅につきて」の項で次のように言う。

神秀派が定と慧とを峻別して、定慧不二となし、慧を離れて定を修せんとするところに、後来黙照禅となるべき素地を作つたと見てよい。(『鈴木大拙全集』巻二―三一九頁)

 このように唐代の北宗禅と宋代の黙照禅の類似性が指摘される(7)。それ故に「慧能以後における悟るの道」の項において、黙照禅は大慧が批判した黙照邪禅にしか位置づけられない。

それから公安制はまた学人のために悟る途を拓くことにもなるのである。「直指人心、見性成仏、不立文字語句、謂之教外別行、単伝心印」と云ふことが、禅宗の標榜となつても、何とかしてこの端的に悟入する技術がほしい。そんなものは始めから有るべきでないと云つても、どうも取り付く島がなくてはならぬ。一切の言語文字、一切の造作計較はみな人為の所作で虚妄であると斥けても、言語に依りて何か道ふところがなくてはならぬ。無言無説、それでよいと云つて、その無言無説の処に住在すれば、それは清浄禅、黙照禅、「坐」禅であつて、却て一種の造作であらう、心意識の所変にすぎぬのである。それで、どうしても何かそこに言語文字的即ち概念的に計較の道を開かぬもので、而かも黙照底に沈まぬ指針がほしい。即ち公案がほしい。狗子無仏性の話とか、竹箆子背触の話とか云ふやうな古則又は話頭がほしい。此話頭も禅者の云ふやうに「大火聚のやうなもので、蚊蚋螻蟻の泊まるところでない」。即ち「下語することを得ず、思量することを得ず、挙起の処に向つて会することを得ず、又口を開く処に去つて承当することを得ざれ」と云ふのである。が、但 只麽(しも)に挙し来り挙し去り、日に月に浸久なると、遂には、「忽然として心之(ゆ)くところなく、覚えず、噴地一発する」のである。この「噴地一発」が悟るである。心理的経験の事実である。悟りはその形而上学的内容である。悟るは個人意識の上の出来事で、悟りは普遍性をもつた真実である。心理的に云ふと、一回挙すれば一回新たなりで、悟りはいつも創造性を以て感性の上に表はれて来る。が、それは亦「旧時相識底の人と相見する如く」、又「自家屋裡に去つて行くこと一遭する如く」で、一向に新しいことがない。即ち悟りは哲学的一般性を持つたもので、心理的個人性の問題でなくなる。それで悟りと悟るとを分けて、悟りは哲学性をもち、悟るは心理性をもつとも云ふのである。而して公案禅の技術は、悟るの心理に充てられるのである。(同巻一―一七五〜一七六頁)

黙照禅に造作を認めると黙照禅は成立しない。筆者の著書で述べたように、大慧はむしろ自分の禅が唐代禅と逆の立場に立つことを認めている(8)。つまり唐代禅が本覚に立つならば、看話禅は始覚に立ち、まったく逆の立場なのである(9)。逆の立場とは、悟りへの導き方は異なるが、思想構造は表裏の関係にあって根本的立場には近い面がある。黙照禅は北宗禅とは異なって本覚に立つ唐代禅と同じで、唐代禅の流れから言えば正統に属する(10)。日本の臨済禅は、大拙が先に「所謂る臨済宗では、南宋禅の系統を伝へた外、別にこれと云ふべき特殊の禅思想の挙揚はなかつた」と言うように、中国の看話禅とは全く思想構造は変りはない。従来より誰もが指摘するように道元禅と看話禅は全く異なるということは正しいし(11)、筆者も自明のことと認める。筆者の主張の特殊な面は、道元禅の成立において黙照禅の克服こそ道元が果たしたことではなかったかということにある。看話禅から黙照邪禅と批判された時に、黙照禅は確かに自然外道に陥る傾向にあった。その為に、証上の修による道元禅が成立しなければならなかったと考えるのである。

 

 これが授業の最初に配る資料です。その資料の最後のところにある図の中で、特に図の(イ)に当たる部分が、私が、ずっと禅宗史を研究してきて、中国禅と道元禅の関係において考えている総論に当たるものです。それが今回の最終講義の骨格と考えています。この総論を導くにあたって、鈴木大拙先生が「支那における画期の禅思想」と書かれている文章に注目しました。

 次に今回の最終講義用の【資料】(B)鈴木大拙先生の項目を読んでみます。

(A)達摩大師が始めて支那へ来られて壁観安心の法門を伝へてこのかた、(B)六祖慧能の見性、(C)荷沢神会の「知之一字」、(D)馬祖道一の大機大用、(E)曹洞下の正偏回互、それから宋に入りて(F)看話禅の創唱、元明を経て(G)念仏禅の流行―これらは何れも支那における画期の禅思想である。 

 私はこの鈴木先生のいう中国の禅思想として画期である説に全く同感です。同感なのですが、それでは道元禅師はこれらの画期と言われている禅思想に対して、どんな考え方を提示しているのか、ということを具体的にみたのが最初の講義の時の配布資料(『道元禅の成立史的研究』大蔵出版、一九九一年)です。それによると、ほぼ道元禅師は中国の画期の禅思想を認めていないのです。

 そこで今回、最終講義にあたり、【資料】(C)のところで、その総論を具体的に各論で話して行きたいと思います。

 まずは次の資料にある連続面から進めます。

 

【資料】一 連続面=信条=遡源可能なもの=道元禅の面からのみ言えるもの

 

  • 『仏祖』『面授』『嗣書』等の巻の存在
  • 青原系の主張=『仏道』等=無際大師石頭希遷の位置づけ

 

無際大師は青原高祖の一子なり、ひとり堂奥にいれり。曹谿古仏の剃髪の法子なり。しかあれば、曹谿古仏は祖なり、父なり。青原高祖は兄なり、師なり。仏道祖席の英雄は、ひとり石頭庵無際大師のみなり。仏道の正伝、たゞ無際のみ「唯達」なり。道現成の果々条々、みな古仏の不古なり、古仏の長今なり。これを正法眼蔵の眼睛とすべし、自餘に比准すべからず。しらざるもの、江西大寂に比するは非なり。(岩波文庫本Ⅲ二〇頁)

 

  • 天童如浄の位置づけ=『弁道話』等

 

予、かさねて大宋国におもむき、知識を両浙にとぶらひ、家風を五門にきく。つひに太白峰の浄禅師に参じて、一生参学の大事こゝにをはりぬ。それよりのち、大宋紹定(しようてい)のはじめ、本郷にかへりしすなはち、弘法救生をおもひとせり。なほ重担をかたにおけるがごとし。(岩波文庫本I一二〜一三頁)

 

 ここでは、「中国禅から道元禅は生まれてこない」というのが私の持論です。「連続面」とはあくまでも道元禅師側からの信条として遡源可能な世界、と私は押さえます。それは資料(イ)の、禅師の主要な『正法眼蔵』の『仏祖』の巻、『面授』の巻、『嗣書』の巻等の存在です。更に臨済系を認めない(ロ)の「青原系の主張」があります。たとえば、「仏道」の巻の「無際大師石頭希遷の位置づけ」ですが、「仏道の正伝、たゞ無際(=石頭希遷)のみ『唯達』なり」と書かれ、更に「しらざるもの、江西大寂に比するは非なり」と続きます。「大寂」とは馬祖道一ですから、このように曹洞系だけが良いという考え方を言い得るのは、道元禅師側からの遡源可能な部分だろうと思います。

 更に道元禅と言えば、師の天童如浄に出会われて確立した禅ですので、資料の(ハ)の天童如浄をどう位置づけるのかが重要です。これは大変難しい問題が存在するのですが、この結論を、私は鏡島先生の説を継承して、中国人としての天童如浄と道元禅師が伝える如浄とは一致しない立場を取っています。つまり、『如浄語録』と、道元禅師が如浄に出会って書いた『宝慶記』との間には、必ずしも一致しない部分があるのを通して、如浄はやはり中国禅の流れの中にあるという、考えてみれば当たり前のような考え方です。だが、これを明らかにするには大変難しい問題があります。信仰の上では当然のごとく天童如浄と道元禅師とは師資一体でなければならないという立場があるからです。

 既に(B)で述べましたように、総論としては「中国禅と道元禅は非連続」であると私は考えていますので、ここの各論では連続面について、これ以上深く立ち入らないことにしたいと思います。そこで宋代禅と唐代禅のそれぞれと道元禅の関係を述べたいのですが、重点は唐代禅に置きたいと思います。と申しますのは、実は四津谷孝道先生の依頼によりまして、昨年の十一月と十二月の四回にわたって同じ内容を検討した土曜の公開講座がありました。その時に取り挙げたのは、特に唐代の南嶽系の禅者の六祖慧能―南嶽懐譲―馬祖道一―百丈懐海―黄檗希運臨済義玄です。その成果を踏まえて、最終講義にその全体のまとめを目論んでいた訳です。それは中国禅と道元禅の関係の最大の課題でもあったからです。そのように唐代禅と道元禅を中心に据えるとはいうものの、入宋された道元禅師にとって宋代禅との関係は重要ですから、まずは、宋代禅と道元禅の非連続の面を資料にそって述べてみましょう。

 

【資料】二 非連続面 宋代禅と道元

 

(イ) 看話禅との関係

 看話禅

× (さとりへの坐禅)以悟為則(待悟為則)

  • 修のほかに証をまつおもひなかれ(『弁道話』同二八頁)

②諸宗の坐禅は、悟りを待つを則(のり)と為す。譬えば船筏を仮りて大海を度(わた)るが如し。海を度りて船を抛(なげう)つべしと将謂(おも)えり。(『永平広録』巻八「法語」春秋社版Ⅳ一六四頁)

  • 又た曰く、始覚と本覚と合するを之れを仏と謂う。言(いうこころ)は如今(いま)の始覚を以て本覚に合す。往往黙照の徒は、無言黙然を以もて始覚と為し、威音王那畔を以て本覚と為す。固より此の理に非ず。既に此の理に非ざれば、何者か是れ覚なる。若し全て是れ覚ならば、豈に更に迷い有らんや。若し迷い無しと謂わば、釈迦老子の明星現わるる時、忽然として便ち覚し、自家の本命元辰元来(もとよ)り這裏(ここ)に在るを知得(し)るを争奈(いかん)せん。所以に言く、始覚に因りて本覚に合す、と。禅和子家の忽然として鼻孔を摸著するは、便ち是れ這箇の道理なり。然も此の事は人人分上に具足せざるは無し。〈又曰、始覚合本覚之謂仏。言以如今始覚合於本覚。往往黙照之徒、以無言黙然為始覚、以威音王那畔為本覚。固非此理。既非此理、何者是覚。若全是覚、豈更有迷。若謂無迷、争奈釈迦老子於明星現時忽然便覚、知得自家本命元辰元来在這裏。所以言、因始覚而合本覚。禅和子家忽然摸著鼻孔、便是這箇道理。然此事人人分上無不具足。〉(四巻本『大慧普説』巻四、東洋文庫本―三丁左)。

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 道元

○ (さとりからの坐禅

本証妙修(証上の修)

(a) 先師よのつねに衆にしめしていはく、参禅は心身脱落なり、待悟為則に不是(あらず)。〈参禅者心身脱落也、不是待悟為則。〉(草案本『大悟』春秋社版Ⅱ六〇九頁)

(b) すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。ここをもて、釈迦如来・迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師・大鑑高祖、おなじく証上の修に引伝せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。(『弁道話』同二九頁)

 

(ロ) 宏智禅と道元

 

  • 挙す。雪峰、僧に問う、「甚(いずれ)の処に去(ゆ)くや」。僧云く、「普請し去く」。雪峰云く、「去け」。雲門云く、「雪峰、語に因りて人を識る」。宏智云く、「道著すること莫かれ。道著すれば三十棒。什麼(なん)の為にか此(かく)の如し。皓玉、瑕(きず)無し、文(あや)を彫りて徳を喪(うしな)う」。師云く、「三位の尊宿、恁麼に道(い)うと雖も、大仏老漢、又た且(か)つ然(しか)らず。大衆諦聴し、善く之れを思念せよ。皓玉、瑕無し、琢磨すれば輝(かがや)きを増す」。〈挙。雪峰問僧、甚処去。僧云、普請去。雪峰云、去。雲門云、雪峰因語識人。宏智云、莫道著。動著三十棒。為什麼如此。皓玉無瑕、彫文喪徳。師云、三位尊宿雖恁麼道、大仏老漢又且不然。大衆諦聴、善思念之。皓玉無瑕、琢磨増輝。〉(『水平広録』巻二、一三五「冬至上堂」。春秋社版Ⅲ八二頁)(拙著『宋代禅宗史の研究』三六八頁参照。大東出版社、一九八七年)

 

②(a)「坐禅箴」(勅諡宏智禅師正覚撰)

仏々の要機、祖々の機要。事の触れずして知り、縁に対せずして照す。〈仏々要機、祖々機要。不触事而知、不対縁而照。〉

(b)「坐禅箴」(道元禅師)

仏々の要機、祖々の機要。不思量にして現じ、不回互にして成ず。〈仏々要機、祖々機要。不思量而現、不回互而成。〉

 

 宋(九六〇〜一二七九)の時代の禅をどう考えるか。一般に看話禅と黙照禅の二大思潮があったと言います。看話禅との関係は、簡単に言うならば、看話禅は「以悟為則」であり、道元禅はそれを全く認めないのです。「以悟為則」を看話禅の中心主張とすれば、道元禅師は『弁道話』で「修のほかに証をまつおもひなかれ」といい、また「諸宗の坐禅は、悟りを待つを則(のり)と為す。譬えば船筏(せんばつ)を仮りて大海を度(わた)るが如し。海を度りて船を抛(なげう)つべしと将謂(おも)えり」と反論します。将謂とは、思い込む、勘違いするの意味です。そのように、悟りを目的とする禅の特色を宋代の看話禅は持っていました。看話禅は臨済宗の大慧宗杲(一〇八九―一一六三)によって大成されますが、この大慧が敵対したのが曹洞宗の黙照禅で、大慧はそれを「黙照邪禅」として認めないのです。その違いを資料(イ)の③に取り挙げました。この資料は大慧が張商英の『清浄海眼経(=首楞嚴経)』の「仏」を注釈したところを引用したものです。「仏とは何か」、それは「始覚をもって本覚に合するを仏と謂(い)う」といいます。もし黙照禅が言うように悟りが無いと言うならば、釈尊が十二月八日に明星が現れた時に、パッと悟られたのは一体何なのかと疑問を提示します。悟られたということは、迷いが無いとは言えないではないかというのです。大変分かり易い大慧の考え方です。このように悟りが必要というのが看話禅の一つの特色です。それに対して、道元禅師は、現在知られている『大悟』の巻にはない文ですが、名古屋の真福寺に所蔵されている草稿本の『大悟』には、「先師(如浄)よのつねに衆にしめしていはく、参禅者心身脱落也、不是待悟為則」とあります。つまり、「待悟為則ではない」と書かれてます。ただ、この語が他の著作に伝えられていないので、日頃、本当に如浄が言っていたものか、道元禅師の「参禅者心身脱落也」の解釈なのか不明です。(b)の資料は、有名な本証妙修説の根拠ですが、大慧は釈尊は悟ったと強調しますが、『弁道話』では釈尊も「証上の修に受用」せられていたといい、修行がそのまま悟りであり、悟りの経験を強調されなかったのです。

 それでは看話禅と対立する曹洞系の宏智の黙照禅と道元禅は違わないのではないか、道元禅は宏智禅と一致するのではないか、という説が一般化していました。しかし私は、道元禅が看話禅と違うのは当たり前のことであって、改めて取り挙げるまでも無いが、むしろ道元禅はこの宏智禅との違いを強調されるところに特色があったのではないか。これが私の博士論文の『宋代禅宗史の研究』(大東出版社、一九八七年)のひとつの課題であったわけです。その宏智正覚(わんししようがく)(一〇九一―一一五七)との違いを、有名な二つの言葉でしばしば述べています。「皓玉瑕(こうぎよくきず)無し、文(あや)を彫(ほ)れば徳を喪(うしな)う(皓玉無瑕、彫文喪徳)」―これが宏智禅の立場です。元々優れた綺麗な玉には傷が無い、傷が無いのにわざわざ美しくしようとして文様を彫ってしまえば、その本来の玉は傷ついてしまうというのです。だからわざわざ文様を彫るような無駄なことはするなということを意味します。ところが道元禅師は「皓玉瑕無し(皓玉無瑕)」というのは同じですが、「琢磨(たくま)すれば輝きを増す(琢磨増輝)」と言い換えられます。つまり、「その瑕の無い玉をそのまま放っておいてはいけない、玉は磨けば磨くほど輝いてますます美しさが表れてくるのだ」というのです。本来仏であるとは、修行し続ける時にのみ仏が現れるということを意味します。この主張が禅師の宏智禅に対する立場です。石井清純先生は、これを「ダイナモ発電機」に譬えて説明し、本来光を出す機能は備わっていても、放っておくのではなく、常に休み無く動かさなければ光は出てこないというのです。つまり、従来の禅師の言葉で言えば、本証であるには妙修が必要であって、本証のままでは自然主義に陥ってしまった黙照邪禅が生まれ、大慧から批判される面があるのです。ここが道元禅と宏智禅とは違う立場があるのだと分析したのです。また周知のように、道元禅師の『坐禅箴』の巻では、宏智の『坐禅箴』を特別に賞賛されています。だが、資料の②の(a)(b)のように、やはり違いがあるのではないか。宏智の『坐禅箴』は「仏々の要機、祖々の機要。事に触れずして知り、縁に対せずして照す」とありますが、禅師はそのまま受け取らずに、「仏々の要機、祖々の機要」は同じですが、「不思量にして現じ、不回互にして成ず」と言い換え、「現」「成」という修行を強調された世界を展開しておられます。以上のように、看話禅と黙照禅は宋代の二つの大きな禅思想の流れですが、これら二つの思想に対しても、道元禅とは非連続の面があります。

 次に唐代禅と道元禅の関係について、まず資料の三で、南嶽系の(イ)南嶽懐譲、(ロ)馬祖道一、(ハ)百丈懐海の順序で、三人それぞれについて具体的な資料を見てみましょう。

 

【資料】三 非連続面 唐代禅と道元

 

(イ)六祖慧能(六三八―七一三) ― 南嶽懐譲(六七七―七四四)

  ― 従来何も疑わずに道元禅師との深い関係として指摘されたもの ―

  • 道元禅師との問題点―『弁道話』の本証妙修説

すでに証をはなれぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を単伝せる、初心の弁道すなはち一分の本証を無為の地にうるなり。しるべし、修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば、妙修通身におこなはる。(中略)きかずや祖師のいはく、(a)「修証はすなはちなきにあらず、染汚(ぜんな)することはえじ」。又いはく、(b)「道をみるもの、道を修す」と。しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。(岩波文庫本I二九〜三〇頁)

 

道元禅師の仏法として理解―『正法眼蔵随聞記』巻六

 

是レまではいまだ百尺の竿頭をはなれず、とりつきたるごとし。ただ身心を仏法になげすてて、更に悟道得法までものぞむ事なく修行しゆく、是レを不染汚の行人と云フなり。(趙州ノ)「有仏の処にもとどまらず、無仏の処をもすみやかにはしりすぐ」

と云フ、この心なるべし。(ちくま学芸文庫三九四頁)

③(b)「道をみるもの、道を修す」は、司空山本浄(六六七―七六一)(嗣六祖慧能)の『景徳伝燈録』巻五の説。

* 司空山本浄の説の本来の意味=道元禅師の引用とは全く異なるもの

 

師乃ち無修無作偈を説いて曰く、

道を見て方(はじ)めて道を修す、見ざれば復(は)た何をか修せん。道性は虚空の如く、虚空何の修する所あらん。

遍く道を修する者を観るに、火を撥(はら)いて浮漚(ふおう)を覓(もと)む。但(も)し傀儡(くぐつ)を弄するを看ば、線断ちて一時に休す。

〈師乃説無修無作偈曰、見道方修道、不見復何修。道性如虚空、虚空何所修。遍観修道者、撥火覓浮漚。但看弄傀儡、線断一時休。

(禅文化本八二頁)

 

④(a)「修証はすなはちなきにあらず、染汚することはえじ」。『天聖広燈録』巻八「南嶽懐譲章」。道元禅師の引用出典

(A)乃ち直に曹渓に詣(いた)り六祖を礼す。祖問う、「什麼(いずれ)の処より来たる」。師云く、「嵩山安禅師の処より来たる」。祖云く、「什麼物与麼に来たる」。師、語ること無し。八載を経て、忽然として省有り。乃ち祖に白して云く、「某甲、箇の会処有り」。祖云く、「作麼生(そもさん)」。師云く、「一物を説似するに即ち中(あた)らず」。〈乃直詣曹渓礼六祖。祖問、什麼処来。師云、嵩山安禅師処来。祖云、什麼物与麼来。師無語。経于八載、忽然有省。乃白祖云、某甲有箇会処。祖云、作麼生。師云、説似一物即不中。〉

(B)祖云く、「還た修証を仮る也無」。師云く、「修証は即ち無きにあらず、敢えてかく汚染せず」。祖云く、「祇だ此の不汚染、是れ諸仏の護念したもうところなり。吾も亦た是の如し、汝も亦た是の如し。西天二十七祖般若多羅、汝を讖して曰く、震旦闊(ひろ)しと雖も別路無し、要(かなら)ず児孫の脚上を仮りて行く。金鶏解(よ)く一粒の米を㘅(ふく)み、什邡(じゆうほう)の羅漢僧に供養す」。(中略)師、侍奉すること一十五載なり。〈祖云、還仮修証也無。師云、修証即不無、不敢汚染。祖云、祇此不汚染、是諸仏之護念。吾亦如是、汝亦如是。西天二十七祖般若多羅讖汝曰、震旦雖闊無別路、要仮児孫脚上行。金鶏解㘅一粒米、供養什邡羅漢僧。(中略)師侍奉一十五載。〉(宋版。中文出版社本四〇四頁)

 

⑤『景徳伝燈録』巻二八の馬祖道一の示衆こそがその注釈とすべきではないか

江西の大寂道一禅師、衆に示して云く、「道は修を用いず、但だ汚染すること莫かれ。何をか汚染と為す。但有(あらゆ)る生死の心、造作趣向、皆な是れ汚染なり。若し直に其の道を会せんと欲せば、平常心是れ道なり。謂く、平常心は造作無く、是非無く、取捨無く、断常無く、凡無く聖無し。経に云く、凡夫の行に非ず、賢聖の行に非ず、是れ菩薩行なり、と。只だ如今(いま)の行住坐臥、応機接物、尽く是れ道なり。道は即ち是れ法界なり。乃至(ひい)ては河沙の妙用も法界を出でず」。〈江西大寂道一禅師示衆云、道不用修、但莫汚染。何為汚染。但有生死心、造作趣向、皆是汚染。若欲直会其道、平常心是道。謂平常心無造作、無是非、無取捨、無断常、無凡無聖。経云、非凡夫行、非賢聖行、是菩薩行。只如今行住坐臥、応機接物、尽是道。道即是法界。乃至河沙妙用不出法界。〉(禅文化本五七六頁)

(拙稿「中国初期禅宗の無修無作説と道元の本証妙修説」『東洋の思想と宗教』第二九号所収、二〇一二年)

 

 それでは唐代禅と道元禅師との関係はどうでありましょうか。まず、最初に資料の三の(イ)の本証妙修の根拠と言われている六祖慧能と南嶽懐譲との出会いをみてみましょう。その話自体は資料の④の(A)(B)にあります。六祖のところに来た南嶽懐譲に「おまえどこから来たか」と聞くと、懐譲は「嵩山安禅師のところからやって来ました」と答えます。更に六祖は「什麼物恁麼来(なにものかいんもらい)」(「什麼物与麼(よも)来」も同じ意味)、つまり、「何者がこのようにやって来たのか」と問いかけます。その時、懐譲は答えられず、八年を経て、「一物を説似するに即ち中(あた)らず(説似一物即不中)」という大変有名な言葉で答えます。「それについてあれこれと言挙げすると、そのとたんに的(まと)はずれになる」と言語表現するのです。更に「そこに修行や証悟はいらないのか(還仮修証也無)」と問われて、懐譲は「修行や証悟は無いとはいいませんが、それによって汚染したくないのです(修証即不無、不敢汚染)」と答えます。ここが大変有名な本証妙修説の根拠で、①の(a)に「修証はすなはちなきにあらず、染汚(ぜんな)(原文は汚染(おせん))することはえじ」とあり、先に確認したように南嶽懐譲の言葉です。もう一つの本証妙修説の根拠の引用の(b)の「道をみるもの、道を修す」とは司空山本浄(六六七―七六一)の言葉です。だが、この司空山本浄の言葉は、原典を見ますと、③のように、本来は「無修無作偈」と名付けられていて、修行は寧ろ強調しない説としてあったものを、禅師は「修行は必要だ」と言います。①のように、「修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ」という文へと、読み換えています。司空山本浄のことを詳細に検討したのは、私の最近の早稲田大学の講演の記録の「中国初期禅宗の無修無作説と道元の本証妙修説」(『東洋の思想と宗教』第二九号、二〇一二年)が最初だと思います。そのことから推測しますと、少なくとも南嶽懐譲と六祖慧能の問答は従来、そのまま受け取って来ましたが、この南嶽懐譲の言葉もやはり中国の禅宗思想史に立ち返ってみる必要があります。最後の⑤の馬祖道一の示衆、これこそが中国禅の立場であり、禅師の本証妙修の言葉の解釈の元になる考え方ではないかと思います。波線も付した、「道は修を用いず、但だ汚染すること莫かれ(道不用修、但莫汚染)」の「道は修を用いず」という考え方こそ中国禅の立場であって、それを禅師は「修行こそしきりにやるべきだ」という修行強調の言葉へと読み換えられているわけです。このことを馬祖道一の有名な「磨塼作鏡(ませんさきよう)」の話で更に確認してみましょう。

【資料】 (ロ) 馬祖道一(七〇九―七八八) 「磨塼作鏡」の話を巡って

×も (さとりへ(4)の坐禅

若し坐相に執著すれば、さとりに達することはできない。〈若執坐相、非達其理。〉

磨塼=不作鏡  坐禅=不成仏

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○(さとりからの坐禅

若(なんじ)が坐禅を徹底的にすれば、さとりはますます(非達)現れてくる〈若(なんじ)の執坐相(しゆうざそう)は、非達(ひたつ)の其理(ごり)なり=推測の訓読〉

磨塼=作鏡   坐禅=成仏

 

 

南岳の磚を磨して鏡を求めしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり。坐禅を制するにはあらざるなり。坐ハすなはち仏行なり。坐ハ即チ不為なり。是レ即チ自己の正体なり。こノ外別に仏法の求ムべき無きなり。(ちくま学芸文庫二一六頁)

* この一文があることによって、禅師の解釈の独自性を読みとる方向が定まってくる。鏡島宗学では「原文では修行の発足点と到達点とが異時として示されたものが、同時として読みなおされている例」(『道元禅師と引用経典・語録の研究』六九頁)とする。道元は「密受心印」は結果ではなく、結果先取りの後の「南嶽磨塼作鏡の話」としたのである。道元の主張を貫く為には、それ以外にはなかったのである。

 

② その主張の為の準備。道元のテキストは中国に存在しない。それは『景徳伝燈録』巻六「馬祖道一章」(禅文化本―八八頁)と巻五「南嶽懐譲章」(同―七六〜七頁)の合糅という新たな話であったからである。=真字『正法眼蔵』第八則(嘉禎元年

〈一二二五〉)

 

洪州江西の馬祖大寂禅師〈南嶽に嗣(つ)ぐ、諱(いみな)は道一〉、南嶽に参侍し、密に心印を受け、同参に蓋抜(がいばつ)たり。伝法院に住して、常日坐禅す。南嶽、是れ法器なるを知りて、師の所に往きて問うて曰く、「大徳、坐禅して箇の什麼をか図(はか)る」。師曰く、「仏と作(な)るを図る」。南嶽乃ち一塼を取り、師の庵前の石上に於て磨(みが)く。師遂(かく)て問う、「師、什麼(なに)をか作す」。南嶽曰く、「磨いて鏡と作す」。師曰く、「塼を磨いて豈に鏡と成すを得んや」。南嶽曰く、「坐禅して豈に仏と作るを得んや」。師曰く、「如何(いかに)せば即ち是(ぜ)ならん」。南嶽曰く、「如(も)し人の車に駕(の)るに、車若し行かずんば、車を打つが即ち是か、牛を打つが即ち是か」。師、無対。南嶽又た示して曰く、「汝為(は)た坐禅を学ぶや、為(は)た坐仏を学ぶや。若し坐禅を学ばば、禅は坐臥に非ず。若し坐仏を学ばば、仏は定相に非ず。無住の法に於て、応(まさ)に取捨すべからず。汝、若し坐仏せば、即ち是れ殺仏なり。若し坐相に執すれば、其の理に達するに非ず。師、示誨を聞いて、醍醐を飲むが如し。〈洪州江西馬祖大寂禅師〈嗣南嶽、諱道一〉、参侍南嶽、密受心印、蓋抜同参。住伝法院、常日坐禅。南嶽知是法器、往師所問曰、大徳坐禅図箇什麼。師曰、図作仏。南嶽乃取一塼、於師庵前石上磨。師遂問、師作什麼。南嶽曰、磨作鏡。師曰、磨塼豈得成鏡耶。南嶽曰、坐禅豈得作仏耶。師曰、如何即是。南嶽曰、如人駕車、車若不行、打車即是、打牛即是。師無対。南嶽又示曰、汝為学坐禅、為学坐仏。若学坐禅、禅非坐臥。若学坐仏、仏非定相。於無住法、不応取捨。汝若坐仏、即是殺仏。若執坐相、非達其理。師聞示誨、如飲醍醐。〉(春秋社本Ⅴ一二八〜三〇頁、訓読は『馬祖の語録』禅文化研究所、一九八四年一〇月参照)

 

➂ その後におけるこの話の道元禅師の一貫した解釈の特色―密受心印以後の坐禅

 

(1)『古鏡』

 江西馬祖、むかし南嶽に参学せしに、南嶽かつて心印を馬祖に密受せしむ。磨塼のはじめのはじめなり。馬祖、伝法院に住してよのつねに坐禅すること、わづかに十余歳なり。(同Ⅱ四一頁)

(2)      『坐禅箴』

 江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅。(同I二二九〜二三〇頁)

(3)      『行持』

江西馬祖の坐禅することは二十年なり。これ南嶽の密印を稟受するなり。伝法済人のとき、坐禅をさしおくと道取せず。参学のはじめていたるには、かならず心印を密受せしむ。(同I三〇九頁)

 

まことにしりぬ、磨塼の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、坐禅すみやかに坐禅となる。かるがゆゑに、塼を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる。(同―四三頁)

(拙著「磨塼作鏡は何を意味するか―中国禅と道元禅との相違―」(『中国禅宗史話』一二四頁以下。禅文化研究所、一九八八年、及び「なぜ道元禅は中国で生まれなかったか」(『道元禅師 正法眼蔵行持に学ぶ』五五六頁以下。禅文化研究所、二〇〇七年)

 

 この有名な資料三の(ロ)の馬祖道一の「磨塼(磚)作鏡」の話は、授業の中でも何度も詳しく繰り返して説明してきましかわらた。元来の中国での話は、「塼を磨いても鏡にならないように、坐禅しても仏にはならないぞ」という戒めの言葉であり、それ以外に解釈することは不可能です。塼とはこの場合、敷瓦を指します。この一文で特に有名な箇所が、「若(も)し坐相に執すれば、其の理に達するに非(あら)ず(若執坐相、非達其理)」という文章です。そのまま読み取れば、決して坐禅を強調したとは言えないのですが、鏡島先生の説を踏まえれば、道元禅師はこれを「もし(若し)」という仮定法ではなくて、「なんじ(若)」が坐禅を徹底すれば、ますます悟りは現れてくる、の意味に解釈されたと推測されます。それ故に、塼を磨いたら鏡にでき、坐禅すれば仏になれるというのです。このことは(ロ)の①の『随聞記』に明確に次のようにあります。

南岳の磚を磨して鏡を求めしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり。坐禅を制するにはあらざるなり。坐ハすなはち仏行なり。坐ハ即チ不為なり。是レ即チ自己の正体なり。こノ外別に仏法の求ムべき無きなり。

 この受け取り方を、鏡島先生の『道元禅師と引用経典・語録の研究』では、「原文では修行の発足点と到達点とが異時(時系列)として示されたものが、同時として読みなおされている例」として取り挙げられます。私は「結果先取り」の言葉を使いながら、それを説明してきました。

 そこで、禅師はそのように解釈可能にするために、中国の話を新たなテキストに書き換えられました。それが②の真字『正法眼蔵』第八則です。この著は一般に嘉禎元年(一二三五)の禅師の早い時期の作と言われます。禅師はこの『景徳伝燈録』巻五「南嶽懐譲章」の「磨塼作鏡」の話が始まる前に『景徳伝燈録』巻六「馬祖道一章」の「参侍南嶽、密受心印、蓋抜同参」の語句を加えます。つまり、密に心印を受けてから坐禅している時に、この「磨塼作鏡(塼を磨いて鏡を作る)」の話が生まれたとします。その証拠には、③に書きましたように、『正法眼蔵』の巻々には、例外なく次のようにあります。

江西馬祖、むかし南嶽に参学せしに、南嶽かつて心印を馬祖に密受せしむ。磨塼のはじめのはじめなり。馬祖、伝法院に住してよのつねに坐禅すること、わづかに十余歳なり。(『古鏡』)

江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかた、つねに坐禅。(『坐禅箴』)

江西馬祖の坐禅することは二十年なり。これ南嶽の密印を稟受するなり。伝法済人のとき、坐禅をさしおくと道取せず。参学のはじめていたるには、かならず心印を密受せしむ。(『行持』)

 興味深い内容は、馬祖の歴史的な記述だけでは無く、参学する道元門下においても必ず心印を密受した後に坐禅させるべきだと勧めておられることです。このように「磨塼作鏡」の話が密受心印後の話だというテキストを創作して、自己の主張を展

開しているのです。その結果、④の『古鏡』には

まことにしりぬ、磨塼の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、坐禅すみやかに坐禅となる。かるがゆゑに、塼を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる。

とあり、「塼を磨けば鏡になることは古仏の骨髄に住持せられてきた」ことだと禅師はこの話を展開します。

 次に馬祖道一の法嗣(はつす)の百丈懐海を取り挙げましょう。

 

【資料】(ハ)百丈懐海(七四九―八一四)『仏性』の巻の『聯燈会要』巻七「大潙霊祐章」の潙山大悟の機縁の百丈懐海の語を巡って

 

× (さとりへの坐禅

時節若至、仏性現前(時節若し至らば、仏性現前す) …………………………………………………………………………………………………………

○ (さとりからの坐禅

時節既至、仏性現前(時節既に至れり、仏性現前す=仏性かならず成仏と同参)

 

➀ 百丈懐海の説と道元禅師の仏性説=『正法眼蔵仏性』

 

(a)「時節若至」の道を、古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり。(中略)「時節若至」といふは、「すでに時節いたれり、なにの疑著すべきところかあらん」となり。疑著時節さもあらばあれ、還我仏性来〈我れに仏性を還し来れ〉なり。しるべし、「時節若至」は、十二時中不空過なり。「若至」は、「既至」といはんがごとし。時節若至すれば、仏性不至なり。しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理自彰なり。おほよそ時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。(岩波文庫本I七八〜七九頁))(b) 仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。(中略)成仏以来に具足する法なりと参学する正的なり。かくのごとく学せざるは仏法にあらざるべし。かくのごとく学せずは、仏法あヘて今日にいたるべからず。(同八七頁)

 

  •  道元禅師の「修行観」の参学の了畢=『典座教訓』→天童如浄の「参禅者身心脱落」

 

× (さとりへの坐禅

﹇入宋前﹈本来本法性、天然自性身。諸仏為甚麼更発心修行哉。

この場合、修行が「前」で、悟りが「後」と考えられ、修行は当然としてさとりを目的としているとの一般説を前提とする。

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○ (さとりからの坐禅

﹇入宋後﹈「他不是吾」「更待何時」=疑滞の解決

修行は「君」がやらずして「誰」がやる。「いま」やらずして「いつ」やる。

 

  •  道元禅師の『聯燈会要』「大潙霊祐章」の引用の問題点

                

福州長谿の趙氏の子なり。百丈に侍立す、夜深ける。丈云く、「爐中を看よ。火有る也無」。師撥(はら)いて云く、「無し」。丈躬(みずか)ら爐辺に至り、深く撥いて少火を得て、夾起(きょうき)して之れを示して云く、「儞、無しと道(い)う。這箇聻(に)」。師、此(ここ)に於て大悟して礼を作し、其の所解を呈す。丈云く、「此れは乃れ暫時の岐路なるのみ。経に云く、『仏性の義を識らんと欲せば、当(まさ)に時節因縁を観ずべし。時節若(も)し至らば、其の理自(おの)ずから彰(あら)わる』。便ち知りぬ、己物は外より得るにあらず、と。祖師云く、『悟り了らば未悟に同じ、心も無く亦た法も無し』。只是だ虚妄凡聖等の心無ければ、本来の心法、元自り備足せり。汝今ま既に爾り、善く自ら護持せよ」。

〈福州長谿趙氏子。侍立百丈、夜深。丈云、看爐中。有火也無。師撥云、無。丈躬至爐辺、深撥得少火、夾起示之云、儞道無。這箇聻。師於此大悟作礼、呈其所解。丈云、此乃暫時岐路耳。経云、欲識仏性義、当観時節因縁。時節若至、其理自彰。便知己物不従外得。祖師云、悟了同未悟、無心亦無法。只是無虚妄凡聖等心、本来心法、元自備足。汝今既爾、善自護持。〉(続蔵巻一三六― 二七〇左下)

 

(α)道元禅師は「其理自彰」の語を知っていて「仏性現前」の語に改めた。       

(β)『景徳伝燈録』巻九の「潙山霊祐章」の百丈懐海の語である「師、発悟して礼謝し、其の所解を陳ぶ。百丈曰く、「此れは乃ち暫時の岐路なるのみ。経に云く、『仏性を見んと欲せば、当に時節因縁を観ずべし』。時節既に至らば、迷いの忽ち悟るが如く、忘れの忽ち憶(おぼ)ゆるが如くして、方(はじ)めて省す、己物は他より得るにあらず、と。故に祖師云く、『悟り了らば未悟に同じ、心も無く亦た法も無し』。只是だ虚妄凡聖等の心無ければ、本来の心法、元自より備足せり。汝今ま既に爾り、善く自ら護持せよ。〈師発悟礼謝、陳其所解。百丈曰、此乃暫時岐路耳。経云、欲見仏性、当観時節因縁。時節既至、如迷忽悟、如忘忽憶、方省己物不従他得。故祖師云、悟了同未悟、無心亦無法。只是無虚妄凡聖等心、本来心法、元自備足。汝今既爾、善自護持。〉」(禅文化本一三三頁)を参考にすれば、原典の百丈懐海の語は完全に転迷開悟の説であることが一層判明する。

 

 百丈懐海といえば、禅宗史上の最初の清規制定者として有名であります。百丈がその制定の立場を「大小乗に局(かぎ)るに非(あら)ず、大小乗に異なるに非ず〈非局大小乗、非異大小乗〉」と言ったのを、道元禅師は認めないで、「大小乗に局るに非ざるに非ず、大小乗に異なるに非ざるに非ず〈非非局大小乗、非非異大小乗〉」と言われた『永平広録』巻五の三九0上堂の両者の違いは、ここでは『道元禅師 正法眼蔵行持に学ぶ』(禅文化研究所、二00七年二月)の一三一〜一三二頁に譲ることにしましょう。

 そこで、今回は潙山霊祐が百丈懐海の下で悟った時の話を資料(ハ)で取り挙げました。百丈は「時節若至、仏性現前」といいます。原典はその①に棒線を引きましたように、③の『聯燈会要』の「時節若至、其理自彰」であったことを、禅師は知った上での引用であることが判ります。当然、『仏性』の巻ですから、禅師は「仏性現前」に書き換えられますが、内容的にそこは大きくは変わりません。問題は、禅師がこの言葉の「時節若至」を「時節既至」と読まれて、「時節既に至れり、仏性現前す」とあり、仏性の考え方から言えば、仏性かならず成仏と同参するの意味で取り挙げます。そのことを①(a)には、「時節若至」の道を、古今のやから往々におもはく、仏性の現前する時節の向後にあらんずるをまつなりとおもへり。

ともあり、

「時節若至」といふは、「すでに時節いたれり、なにの疑著すべきところかあらん」となり。

と言います。「時節若至」とは、普通に読めば「若し」ですから、時節はまだ来ていないわけですが、「すでに時節いたれりし」ことは、疑うべき事は一つも無いといいます。つまり、

時節若至は十二時中不空過なり。「若至」は、「既至」といはんがごとし。

とあり、『仏性』の巻の中でも最も有名な語句に遭遇します。そのことを、(b)では、

仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。……成仏以来に具足する法なりと参学する正的なり。

と述べ、仏性とは未来のことではなくて、既に我々に現れ、そして坐禅したときに成仏(仏性を現すための坐禅を含む)できるのだという主張を、禅師はこの百丈の言葉を介して展開します。 

このことを周知の道元禅師の入宋前の比叡山での大疑滞と関連づけてみましょう。禅師の大疑滞とは、「もともと悟っているならば、諸仏は何ゆえに更に発心修行するのか」、つまり、「既に悟っているなら改めて修行する必要は無いのではないか」というのです。この考え方は修行が前にあり、悟りが後にあって、修行するとは当然悟りを目的とするものと解釈した上での修行観です。それが入宋後には有名な典座との話の中に「他は是れ吾れにあらず(他不是吾)」「更に何時(いつ)をか待たん(更待何時)」という形で疑滞は解決されたと解釈できます。私は授業で「修行は君がやらずして誰がやる、今やらずしていつやる」という今流行(はや)りの言葉で紹介しています。そのように解すると、如浄に出会わなくても、ある程度その解決への道へ向かっておられたのだと思います。典座との出会いによって、修行観は全く改められていきます。

 南嶽系はこれらの例で終わりにして、次は資料三の(ニ)として青原系の悟りの機縁について取り挙げたいと思います。

 

【資料】 (ニ) 天皇道悟(七四八―八〇七)―龍潭崇信(生没年不詳) 龍渾崇信の大悟=金沢文庫本『正法眼蔵』第六則(出典、『景徳伝燈録』巻一四「龍潭崇信章」)を巡って

 

  • 龍潭和尚、餅を作るを業と為す。天皇和尚を礼して出家す。皇謂(い)いて曰く、「汝、吾れに執侍すべし、已後(のち)に汝が為に心要法門を説かん」。凡そ一載を経るに、師曰く、「来りし時、和尚、心要法門を説かんと許したまいき、今に至るまで未だ指示を蒙(こうむ)らず」。皇曰く、「吾れ汝が為に説き来れること久し」。師曰く、「何(いず)れの処か是れ和尚某(それがし)の為に説く」。皇曰く、「你、若し不審せば、我れ則ち合掌す。我れ若し坐する時は、汝則ち侍立す。汝、茶を擎(ささ)げ来らば、吾れ汝が為に受く」。師良久す。皇曰く、「見るは則便(すなわ)ち見る、思いを擬(ぎ)すれば即ち差(たが)う」。師乃ち大悟す。〈龍潭和尚作餅為業。礼天皇和尚出家。皇謂曰、汝執侍吾、已後為汝説心要法門。凡経一載、師曰、来時和尚許説心要法門、至今未蒙指示。皇曰、吾為汝説来久矣。師曰、何処是和尚為某説。皇曰、你若不審、我則合掌。我若坐時、汝則侍立。汝擎茶来、吾為汝受。師良久。皇曰、見則便見、擬思即差。師乃大悟。〉(春秋社版V一八二頁参照)

 

  • 一日間うて曰く、「某到来してより心要を指示するを蒙らず」。悟曰く、「汝が到来してより、吾れ未だ嘗て汝に心要を指示せざることあらず」。師曰く、「何の処にか指示する」。悟曰く、「汝、茶を擎げ来らば、吾れ汝が為に接す。汝、食を行(くば)り来らば、吾れ汝が為に受く。汝、和南する時、吾れ便ち低首す。何の処にか心要を指示せざる」。師低頭して良久す。悟曰く、「見るは則ち直下に見る、思いを擬すれば即ち差う。師当下に開解す。乃ち復た問う、「如何(いかに)して保任せん」。悟曰く、「性に任(まか)せて逍遥(しようよう)し、縁に随いて放曠(ほうこう)す。但(た)だ凡心を尽くせば、別の勝解無し」。〈一日間曰、某自到来不蒙指示心要。悟曰、自汝到来、吾未嘗不指示汝心要。師曰、何処指示。悟曰、汝擎茶来、吾為汝接。汝行食来、吾為汝受。汝和南時、吾便低首。何処不指示心要。師低頭良久。悟曰、見則直下見、擬思即差。師当下開解。乃復問、如何保任。悟曰、任性逍遥、随縁放曠。但尽凡心、無別勝解。〉(禅文化本二七七頁。正確に言えば真字『正法眼蔵』の出典未詳)

 

 

  • 『信心銘』「性に任せて道に合(かな)い、逍遥として悩を絶す。〈任性合道、逍遥絶悩。〉」(禅文化本六一六頁)

 

  • 『五台山鎮国大師澄観答皇太子問心要』「若し無心にして照を忘れば、則ち万慮都(すべ)て捐(うしな)う。若し任運にして寂知ならば、則ち衆行爰に起こる。放曠して其の去住を任せ、静鑑して其の源流を覚す。語黙、玄微を失わず、動静、未だ法界を離れず。〈若無心忘照、則万慮都捐。若任運寂知、則衆行爰起。放曠任其去住、静鑑覚其源流。語黙不失玄微、動静未離法界。〉」(禅文化本六二二頁)

 

 

⑤             『永平広録』巻七―四七二上

 

上堂。挙す。三祖大師云く、「至道無難、唯嫌揀択」と。這箇を見聞して知らざる者は則ち云く、「諸法善悪無し、一切邪正無し、但だ性に任せて逍遥し、縁に随いて放曠す。所以に一切の善悪邪正、揀択せずして趣向するなり」と。あるいは云く、「謂わゆる揀択せずというは、言語を用いて道(い)わざるなり。但だ円相を打し、払子を豎起し、一拄杖を卓(た)て、拄杖を擲(なげう)ち、一掌を掌(う)ち、一喝を喝し、蒲団を拈来し、拳頭を拈来して対すれば便ち得(よ)し」と。恁麼の見解、未だ凡夫の窟を出でず。若し人、永平に「作麼生か是れ唯嫌揀択底の道理」と問わば、祇だ他に道うべし、「金翅鳥王は生龍にあらざれば食せず、補処の菩薩は兜率にあらざれば生ぜず」と。(原漢文、春秋社版Ⅳ五六頁)

* 道元禅師が天皇道悟の「性に任せて逍遥し、縁に随いて放曠す」という説を認めなかったのは、この説が明かに「自然外道説」と捉えたに違いないのである。

⑥ 道元の対機の問題=日本達磨宗批判。『御遺言記録』(一二五五年の条)

 

義介、啓問して云く、「義介、先年、同一類(の者)の法内に談ずる所(を聞く)に、『仏法の中において諸悪作すことなし、衆善は奉行すべしと。故に仏法中にては諸悪は元来莫作なり、故に一切の行はみな修善なり。所以に挙手・動足の一切の作すところ、凡て一切諸法の生起にして、みな仏法なり、云々』と。この見は正見なるや」。

和尚(懐奘)、答えて云く、「先師(道元)の門徒の中に、この邪見を起こせし一類あり、故に在世の時に義絶し畢(おわ)りぬ。門徒を放たるること明白なり。この邪義を立つるに依りてなり。もし先師の仏法を慕わんと欲するの輩ならば、共に語り同(とも)に坐す

べからず、これ則ち先師の遺誡なり」。(春秋社本七― 一九三頁)

 

 青原系として、まず、龍潭崇信の悟りの機縁を見てみたいと思います。資料 三の(ニ)の①は、金沢文庫本の真字『正法眼蔵』第六則です。

龍潭和尚、餅を作るを業と為す。天皇和尚を礼して出家す。皇謂(い)いて曰く、「汝、吾れに執侍すべし、已後(のち)に汝が為に心要法門を説かん」。凡そ一載を経るに、師曰く、「来りし時、和尚、心要法門を説かんと許したまいき、今に至るまで未だ指示を蒙(こうむ)らず」。皇曰く、「吾れ汝が為に説き来れること久し」。師曰く、「何(いず)れの処か是れ和尚某の(それがし)為に説く」。皇曰く、「你、若し不審せば、我れ則ち合掌す。我れ若し坐する時は、汝則ち侍立す。汝、茶を擎(ささ)げ来らば、吾れ汝が為に受く」。師良久す。皇曰く、「見るは則便(すなわ)ち見る、思いを擬(ぎ)すれば即ち差(たが)う」。師乃ち大悟す。

 この金沢文庫本の真字『正法眼蔵』の文は龍潭崇信の大悟で終わっています。私が問題にしたいのは、その続きの問答ですが、それは『景徳伝燈録』巻一四の資料②のところにあります。②を①の重複のところを省略して、その後を読みますと、「乃ち復た問う、如何(いかに)して保任せん。」とあります。指示された心要法門は判りましたが、それをどのように日常生活の中で具現していけばいいかという質問です。それに対して、天皇道悟は「性に任せて逍遥し、縁に随いて放曠す」と答えています。更に「但だ凡心を尽くせば、別の勝解無し」というのです。この考え方は、③の『信心銘』の「性に任せて道に合(かな)い、逍遙として悩を絶す」とか、④の清涼澄観が皇太子に答えた心要の中などにも見られる基本的な唐代禅の主張です。

 これらの主張に対して、⑤の『永平広録』巻七の四七二上堂は、どのように述べられているでしょうか。この上堂は禅師の五十歳の時の十一月頃のようで、鎌倉の行化後の晩年の説です。

  上堂。挙す。三祖大師云く、「至道無難、唯嫌揀択」と。這箇を見聞して知らざる者は則ち云く、「諸法善悪無し、一切邪正無し、但だ性に任せて逍遥し、縁に随いて放曠す。所以に一切の善悪邪正、揀択せずして趣向するなり」と。あるいは云く、「謂わゆる揀択せずというは、言語を用いて道(い)わざるなり。但だ円相を打し、払子を豎起し、一拄杖を卓(た)て、拄杖を擲(なげう)ち、一掌を掌(う)ち、一喝を喝し、蒲団を拈来し、拳頭を拈来して対すれば便ち得(よ)し」と。恁麼の見解、未だ凡夫の窟を出でず。若し人、永平に「作麼生か是れ唯嫌揀択底の道理」と問わば、祇だ他に道うべし、「金翅鳥王は生龍にあらざれば食せず、補処の菩薩は兜率にあらざれば生ぜず」と。

この上堂を見ますと、禅師が、天皇道悟が悟った内容の「性に任せて逍遥し、縁に随いて放曠す」という説を認めなかったことになります。それは恐らくこの説が明らかな自然外道説に近いと捉えたに違いないのです。このことは永平寺で起こった門下の義絶事件で有名な⑥の私の同年の石川力山先生の担当だった『御遺言記録』に全く同じだといえましょう。

  義介、啓問して云く、「義介、先年、同一類(の者)の法内に談ずる所(を聞く)に、『仏法の中において諸悪作すことなし、衆善は奉行すべしと。故に仏法中にては諸悪は元来莫作なり、故に一切の行はみな修善なり。所以に挙手・動足の一切の作すところ、凡て一切諸法の生起にして、みな仏法なり、云々』と。この見は正見なるや」。

和尚(懐奘)、答えて云く、「先師(道元)の門徒の中に、この邪見を起こせし一類あり、故に在世の時に義絶し畢(おわ)りぬ。門徒を放たるること明白なり。この邪義を立つるに依りてなり。もし先師の仏法を慕わんと欲するの輩ならば、共に語り同(とも)に坐すべからず、これ則ち先師の遺誡なり」。

 取り挙げた天皇道悟と龍潭崇信の問答などから窺われる唐代禅の考え方は、やがて禅師の門下の中に自然外道見へ陥った人々がいたことを想記させます。義絶者の出身者は、恐らく日本達磨宗の人であっただろうと考えられます。なぜ、道元禅が唐代禅と非連続であるかは、このように唐代禅の性格に自然外道見へ陥る危険性を察知されたことと、実際に門下の中に唐代禅を自然外道見のように受用した人がいたことが考えられます。

 次に以上の課題を別の角度から南陽慧忠の南方禅批判と絡めて見てみましょう。

 

【資料】 四 南陽慧忠の南方禅批判と道元禅師=『即心是仏』の巻=作用即性説及び心常相滅説批判

 

外道のたぐひとなるといふは、西天竺国に外道あり、先尼となづく。かれが見処のいはくは、大道はわれらがいまの身にあり、そのていたらくは、たやすくしりぬべし。いはゆる苦楽をわきまへ、冷煖を自知し、痛癢を了知す。万物にさへられず、諸境にかゝはれず。物は去来し境は生滅すれども、霊知はつねにありて不変なり。(中略)

大唐国大証国師慧忠和尚、僧に問ふ、「何れの方よりか来れる」。僧曰く、「南方より来る」。師曰く、「南方に何なる知識か有る」。僧曰く、「知識頗(すこぶ)る多し」。師曰く、「如何が人に示す」。僧曰く、「彼方の知識、直下に学人に即心是仏と示す。仏は是れ覚の義なり、

汝今、見聞覚知の性を悉具せり。此の性善能く揚眉瞬目し、去来運用す。身中に徧く、頭に挃るれば頭知り、脚に挃るれば脚知る、故に正遍知と名づく。此れを離るるの外、更に別の仏無し。此の身は即ち生滅有り、心性は無始より以来、未だ曾て生滅せず。身、生滅するとは、龍の骨を換ふるが如く、蛇の皮を脱し、人の故宅を出づるに似たり。即ち身は是れ無常なり、其の性は常なり。南方の所説、大約此の如し」。

師曰く、「若し然らば、彼の先尼外道と差別有ること無けん。彼が云く、「我が此の身中に一の神性有り、此の性能く痛癢を知り、身壊する時、神則ち出で去る。舎の焼かるれば舎主出で去るが如し。舎は即ち無常なり、舎主は常なり」と。審すらくは此の如きは、邪正弁ずるなし、孰(いか)んが是とせんや。吾れ比(そのかみ)遊方せしに、多く此の色を見き。近尤(いまもっと)も盛んなり。三五百衆を聚却(あつめ)て、目に雲漢を視て云く、「是れ南方の宗旨なり」と。他の壇経を把つて改換して、鄙譚(ひたん)を添糅し、聖意を削除して後徒を惑乱す、豈に言教を成さんや。苦なる哉(かな)、吾が宗喪びにたり。若し見聞覚知を以て是を仏性とせば、浄名は応に「法は見聞覚知を離る、若し見聞覚知を行ぜば是れ則ち見聞覚知なり、法を求むるに非ず」と云ふべからず」。大証国師は曹谿古仏の上足なり、天上人間の大善知識なり。国師のしめす宗旨をあきらめて、参学の亀鑑とすべし。先尼外道が見処としりてしたがふことなかれ。(岩波文庫本I 一四一〜一四五頁)

①拙稿「南陽慧忠の南方宗旨の批判について」(『〈鎌田茂雄博士還暦記念論集〉中国の仏教と文化』所収、大蔵出版、一九八八年)

  • 索羅寧「南陽慧忠(?〜七七五)及其禅思想―『南陽慧忠語録』―西夏文本与漢文本比較研究」(『中国多文字時代的歴史文献研究』社会科学文献出版社、二〇〇四年)によると『壇経』批判の文は存在しない。

 

 私は冒頭に鎌田茂雄先生に学部の卒業論文を指導していただたことを述べましたが、論題は「唐代中期の禅思想史の研究― 南陽慧忠を中心として―」という壮大なものでした。中心に取り挙げたのは南陽慧忠です。南陽慧忠は『弁道話』に出てきて最初に接した唐代禅者でしたので取り組みました。その南陽慧忠には南方禅批判があります。資料の四の棒線の「彼方の知識」以下をご覧下さい。

 

彼方の知識、直下に学人に即心是仏と示す。仏は是れ覚の義なり、汝今、見聞覚知の性を悉具せり。此の性善能く揚眉瞬目し、去来運用す。身中に徧く、頭に挃(ふ)るれば頭知り、脚に挃るれば脚知る、故に正遍知と名づく。

 これは一般に作用即性説といわれる馬祖禅の特色とされる説です。また、「此の身は即ち生滅有り、心性は無始より以来、未だ曾て生滅せず」というように、体は「滅ぶ」が、しかし心性(=魂)は「滅びない」という、これを心常相滅説といいます。この南方禅の批判はまずは作用即性説と心常相滅説の二つにまとめられます。道元禅師は、南方の禅がもしそうであれば、先尼外道の見と全く同じだといいます。禅師は南陽慧忠を「天上人間の大善知識なり」と高い評価をされていて、南方禅で代表される唐代禅の批判に禅師も同調されていたと思います。私も鎌田先生の還暦記念論文集に資料①の「南陽慧忠の南方宗旨の批判について」を書きましたが、卒論の課題はその後の研究にとってもよい論題を選んだと思っています。最近出ました資料 ②の索羅寧氏の西夏本の南陽慧忠の語の論文によりますと、南方禅批判の三つ目の『六祖壇経』批判の部分は無かったようです。私も鎌田先生の論文集の中で『祖堂集』と比較してその部分は付加ではないか述べておきました。『壇経』批判の問題は、重要ではありますが、ここでは割愛いたします。

 ここまで中国禅と道元禅との相違を修証論を中心に述べて話を進めていますので、ここで坐禅観について考えてみたいと思います。

 

【資料】 五 道元禅師の中国の坐禅観への反論=『坐禅箴』

 

  • 南宗禅の特色の頓悟とは

 

神会は頓悟を主張したというが、それは迷の克服でも悟への到達でもなく、ただ自己の本来相のそのままの是認(ぜにん)であり、何らの質的変化・発展をも含意しないものだったのである。(小川隆「荷沢神会の人と思想」(四七頁、『禅学研究』六九号所収、一九九一年)

 

  • 馬祖禅の特色とは

 

唐代禅の基調は馬祖によって定められた。(中略)馬祖禅の考え方は、 一「即心是仏」、二「作用即性」、三「平常無事」の三点に要約できる。一「即心是仏」は、自らの心がそのまま仏であるということ。二「作用即性」は、自己の身心の自然なはたらきはすべて仏性の現われであるということ。三「平常無事」は、人為的努力を廃して、ただ、ありのままでいるのがよい、ということである。説明の便宜のためにかりに三点に整理はしたが、実際にはこれらはひとつの考えである。すなわち、自己の心が仏なのであるから、自身の営為はすべてそのまま仏作仏行にほかならず、したがって、ことさら聖なる価値を求める修行などやめて、ただ「平常」「無事」でいるのがよい、と。要するに、あるがままの自己の、あるがままの是認、それが馬祖禅の基本精神であった。(小川隆「はじめに」『続・語録のことば―『碧巌録』と宋代の禅』ⅲ頁、禅文化研究所、二〇一〇年。

神会と洪州宗の相違については、小川隆『神会』二三五頁、臨川書店、二〇〇七年)

 

  • 永嘉玄覚の説=『証道歌』

 

行もまた禅、坐もまた禅。語黙動静体安然。

 

  • 坐禅箴』―その(一)

 

しかあるに、近年おろかなる杜撰(ずさん)いはく、「功夫坐禅、得胸襟無事了、便是平穏地也〈功夫坐禅は、胸襟無事なることを得了(おわ)りぬれば、便ち是れ平穏地なり〉」。この見解、なほ小乗の学者におよばず、人天乗よりも劣なり。いかでか学仏法の漢といはん。見在大宋国に恁麼の功夫人おほし、祖道の荒蕪かなしむべし。

又一類の漢あり、「坐禅弁道はこれ初心晩学の要機なり、かならずしも仏祖の行履にあらず。行亦禅、坐亦禅、語黙動静体安然〈行もまた禅、坐もまた禅、語黙動静体安然〉なり。たゞいまの功夫のみにかゝはることなかれ」。臨済の余流と称ずるともがら、おほくこの見解なり。仏法の正命つたはれることおろそかなるによりて恁麼道するなり。なにかこれ初心、いづれか初心にあらざる、初心いづれのところにかおく。(岩波文庫本I二二八〜三二九頁)

 

  • 坐禅箴』―その(二)

 

しかあればすなはち、古来なりといへども、坐禅坐禅なりとしれるすくなし。いま現在大宋国の諸山に、甲刹の主人とあるもの、坐禅をしらず、学せざるおほし。あきらめしれるありといへども、すくなし。諸寺にもとより坐禅の時節さだまれり。住持より諸僧ともに坐禅するを本分の事とせり、学者を勧誘するにも坐禅をすゝむ。しかあれども、しれる住持人はまれなり。このゆゑに、古来より近代にいたるまで、坐禅銘を記せる老宿一両位あり、坐禅儀を撰せる老宿一両位あり。坐禅箴を記せる老宿一両位あるなかに、坐禅銘、ともにとるべきところなし、坐禅儀、いまだその行履にくらし。坐禅をしらず、坐禅を単伝せざるともがらの記せるところなり。景徳伝燈録にある坐禅箴、および嘉泰普燈録にあるところの坐禅銘等なり。あはれむべし、十方の叢林に経歴して一生をすごすといへども、一坐の功夫あらざることを。打坐すでになんぢにあらず、功夫さらにおのれと相見せざることを。これ坐禅のおのれが身心をきらふにあらず、真箇の功夫こゝろざさず、倉卒に迷酔せるによりてなり。かれらが所集は、たゞ還源返本の様子なり、いたづらに息慮凝寂の経営なり。観練薫修の階級におよばず、十地等覚の見解におよばず、いかでか仏々祖々の坐禅を単伝せん。宋朝の録者あやまりて録せるなり、晩学すててみるべからず。(同二四一〜二四二頁)

 一般に南宗禅の特色とは「頓悟」だと言われています。やがて滅亡した北宗禅の「漸悟」に対して、禅宗の主流となった南宗禅を「頓悟」として唐代禅が説明されます。この「頓悟」とは何か、ということについては、鈴木大拙先生の次の説に基づいて説明しています。

頓は時間的意味を持つたものではない。時間の連続性を絶対に否定する非連続性の義であると云ふとき、それはまたそのままで悟りを叙するのであると云へるのである。(『鈴木大拙全集』第一巻八七頁)

 授業では更に資料の(イ)の若い頃の小川隆先生の文章に魅せられてずっとこれを使っております。

神会は頓悟を主張したというが、それは迷の克服でも悟への到達でもなく、ただ自己の本来相のそのままの是認であり、何らの質的変化・発展をも含意しないものだったのである。

 この頓悟禅は馬祖道一に引き継がれて行きます。馬祖につきましては、入矢義高先生の『馬祖の語録』(禅文化研究所)の「序」を紹介するのが常であります。

中国の禅は、実質的には馬祖から始まった。禅をもって仏教の帰結とする理念が明確な自覚として宣明されたからであり、しかもその自覚が、教義の解釈や研究という形でなしに、具体的な日常の営為のなかで実践的に形成され体認されたものだったからである。

 更に馬祖禅とは何かというのを、入矢義高先生の続きで紹介しています。

馬祖禅の核心は何であったかという問いに関わってくる。いま馬祖自身の言葉と、彼が弟子たちを接化した記録、また弟子たちが彼について語った言葉などから帰納して、敢えて一言でその端的をいうならば、「作用即性」または「日用即妙用」ということになろう。

 授業では、そのことをまとめた小川隆先生の資料の(ロ)を紹介しています。

唐代禅の基調は馬祖によって定められた。(中略)馬祖禅の考え方は、 一「即心是仏」、二「作用即性」、三「平常無事」の三点に要約できる。一「即心是仏」は、自らの心がそのまま仏であるということ。二「作用即性」は、自己の身心の自然なはたらきはすべて仏性の現われであるということ。三「平常無事」は、人為的努力を廃して、ただ、ありのままでいるのがよい、ということである。説明の便宜のためにかりに三点に整理はしたが、実際にはこれらはひとつの考えである。すなわち、自己の心が仏なのであるから、自身の営為はすべてそのまま仏作仏行にほかならず、したがって、ことさら聖なる価値を求める修行などやめて、ただ「平常」「無事」でいるのがよい、と。要するに、あるがままの自己の、あるがままの是認、それが馬祖禅の基本精神であった。

 このような馬祖禅が坐禅をどのように主張していたか。それはさきほどの中国の主流である南嶽系の禅で検討したように、「磨塼作鏡」の話に出る「若し坐禅を学ばば、禅は坐臥に非ず」という坐禅の定義に行き着きます。この定義は『六祖壇経』以前の、元を考えれば神会に由来します。それを踏まえて言われる有名な言葉は、資料の(ハ)の永嘉玄覚の『証道歌』にある「行もまた禅、坐もまた禅。語黙動静体安然」ということになりましょう。この考えは資料の(ニ)の『坐禅箴』において、「無事禅」の批判と共に、「行もまた禅、坐もまた禅。語黙動静体安然」の説が批判されます。今一つの資料の(ホ)の『坐禅箴』には、坐禅について書かれた中国の書物は、全てが「還源返本思想」、つまり、本源に還るという考え方であり、道元禅師はこれを批判しています。この会場に花野充道先生がおられますが、たとえば「仏教思想の本覚的展開」(『第一回中日仏教会議論文集』、二〇〇四年)によると、先生は、我が同級生の袴谷憲昭先生の本覚思想批判は、「本覚思想という問題を学界に提起した意味においては大変な功績があったけれども、あの説によって厳密な天台の本覚思想の定義に混乱を生んだ」と要約されました。私はその言われる意味を十分承知しているつもりです。しかし一方で、先ほどの大慧宗杲が始覚・本覚を使っていたのに対し、道元禅師は「本源に還る」というような考え方を批判されていますので、私は袴谷先生の「本覚思想批判」の提起は、「差別思想を生んだ根本原因の問題」と共に、非常に重要だったと思っています。「還源返本」の批判は、『首楞厳経』を禅師が重んじられない理由にも関わってくると思いますが、ここでは明らかにそのような坐禅観を批判されているわけです。

 残りの時間も少なくなってきましたので、唐代禅と道元禅に関して残された課題、特に薬山惟儼との関係に触れてみたいと思います。

 

【資料】 六 今後の課題―薬山惟儼の「非思量」をどのように位置づけるか

 

  • 真字『正法眼蔵』二七一則「青原聖諦不為」(=『永平頌古』一九則)

 

青原思禅師、六祖に問う、「当(は)た何の所務か即ち階級に落ちざるを得るや」。祖曰く、「汝曾(かつ)て什麼を作し来たる」。師云く、「聖諦も亦た為さず」。祖云く、「何の階級に落ちるや」。師云く、「聖諦すら尚お為さず、何の階級か之(こ)れ有らん」。祖云く、「如是如是、汝善く護持せよ」〈青原思禅師問六祖、当何所務即得不落階級。祖曰、汝曾作什麼来。師云、聖諦亦不為。祖云、落何階級。師云、聖諦尚不為、何階級之有。祖云、如是如是、汝善護持〉。(春秋社本Ⅴ二五〇頁)

 

  • 石頭の「不為の坐禅」(『景徳伝燈録』巻一四「薬山惟儼章」)=道元禅師の引用はない。

 

一日、師坐する次(おり)、石頭之れを覩(み)て問うて曰く、「汝、這裏に在りて麼(なに)をか作す」。曰く、「一切為さず」。石頭曰く、「恁麼ならば即ち閑坐なり」。曰く、「若し閑坐ならば即ち為すなり」。石頭曰く、「汝、為さずと道(い)う、且(か)つ箇の什麼をか作さざる」。曰く、「千聖も亦た識らず」。石頭、偈を以て讃じて曰く、「従来共に住して名を知らず、任運に相(あ)い将(ひき)いて只麼(しも)に行く。古えよりの上賢すら猶お識らず、造次の凡流、豈に明かすべけんや」〈一日師坐次、石頭覩之問曰、汝在這裏作麼。曰、一切不為。

石頭曰、恁麼即閑坐也。曰、若閑坐即為也。石頭曰、汝道不為、且不為箇什麼。曰、千聖亦不識。石頭以偈讃曰、従来共住不知名、任運相将只麼行。自古上賢猶不識、造次凡流豈可明〉。(禅文化本二七二頁)

 

  • 『五祖法演語録』巻下

 

小参。挙す。薬山初めて石頭に参じて問うて云く、「三乗十三分教、某甲粗(ほ)ぼ知る。訪聞(たずねき)く、南方に直指人心見性成仏という、実に未だ明了ならず」。石頭云く、「恁麼も也た得(よ)からず、不恁麼も也た得からず、恁麼不恁麼総(すべ)て得からず」。薬山措(お)くこと罔(な)し。一日、坐する次、石頭遂(かく)て問うて云く、「汝、此(ここ)に在りて什麼をか作す」。山云く、「一物も也た為さず」。頭云く、「恁麼ならば則ち閑坐なり」。山云く、「閑坐ならば則ち為すなり」。頭云く、「儞為さずと道う、箇の什麼をか為さざる」。山云く、「千聖も亦た識らず」。石頭遂て頌有りて云く、「従来共に住して名を知らず、任運に相い将いて只麼に行く。古よりの上賢すら猶お識らず、造次の凡流、豈に明め易からんや」。師云く、大衆、須是らく祖師の関を過ごし得、鳥道の玄路を会して始めて此般の説話を会すべし。石頭恁麼の垂示は、便ち趙州の庭前栢樹子、洞山の麻三斤、雲門の超仏越祖の談に類す。五祖も亦た一頌有り。任運に名を知らず、軽軽に眼を著けて聴く。水上青青の緑、元来(もとよ)り是れ浮萍〈小参。挙。薬山初参石頭問云、三乗十三分教、某甲粗知。訪聞南方直指人心見性成仏、実未明了。石頭云、恁麼也不得、不恁麼也不得、恁麼不恁麼総不得。薬山罔措。一日坐次、石頭遂問云、汝在此作什麼。山云、一物也不為。頭云、恁麼則閑坐也。山云、閑坐則為也。頭云、儞道不為、不為箇什麼。山云、千聖亦不識。石頭遂有頌云、従来共住不知名、任運相将只麼行。自古上賢猶不識、造次凡流豈易明。師云、大衆、須是過得祖師関会鳥道玄路始会此般説話。石頭恁麼垂示、便類趙州庭前栢樹子、洞山麻三斤、雲門超仏越祖之談。五祖亦有一頌。任運不知名、軽軽著眼聴。水上青青緑、元来是浮萍〉。(大正巻四七―六六四c〜六六五a)

 

  • 『大慧普覚禅師語録』巻二九「答厳教授〈子卿〉」

 

真実に疑わざるの地に到らば、渾鋼打就(こんこうだじゆう)、生鉄鋳成(さんてつちゆうじよう)なるが如し。直饒(たと)い千聖出頭し来るも、無量の殊勝境界を現ず。之れを見るも亦た見ざるが如し。況んや此に於て奇特殊勝の道理を作すをや。昔し薬山坐禅する次、石頭問う、「子(なんじ)、這裏に在りて甚麼をか作す」。薬山云く、「一物も為さず」。石頭云く、「恁麼ならば則ち閑坐なり」。薬山云く、「閑坐ならば則ち為すなり」。石頭之れを然(しか)りとす。看よ他の古人。一箇の閑坐も也た他を奈何(いかん)ともし得ず。今時の学道の士、多く閑坐の処に在りて打住す。近日の叢林の鼻孔無き輩、之れを黙照と謂うは是(こ)れなり〈真実到不疑之地者、如渾鋼打就生鉄鋳成。直饒千聖出頭来、現無量殊勝境界。見之亦如不見。況於此作奇特殊勝道理耶。昔薬山坐禅次、石頭問、子在這裏作甚麼。薬山云、一物不為。石頭云、恁麼則閑坐也。薬山云、閑坐則為也。石頭然之。看他古人。一箇閑坐也奈何他不得。今時学道之士、多在閑坐処打住。近日叢林無鼻孔輩、謂之黙照者是也〉。(大正巻四七―九三六c)

 

  • 『大慧普覚禅師語録』巻二六「答富枢密〈季申〉」

 

我が此の門中、初機晩学とを論ぜず、亦た久参先達とを問わず。若し真箇の静を要せば、須是(すべか)らく生死の心破すべし。工夫を做すに著せず。生死の心破らば、則ち自ずから静なり。先聖の説く所の寂静方便とは、正に此を為すなり。是れより末世の邪師の輩、先聖の方便の語を会せざる耳(のみ)。左右(みなさん)、若し山僧を信得及すれば、試みに鬧処(どうしよ)に向(おい)て狗子無仏性話を看て、未だ悟不悟を説かず、正当に方寸に擾擾ならざる時に、謾りに提撕し挙覚し看よ。還た静を覚る也無、還た得力を覚る也無。若し得力を覚らば、便ち放捨を須(もち)いず〈我此門中、不論初機晩学、亦不問久参先達。若要真箇静、須是生死心破。不著做工夫。生死心破、則自静也。先聖所説寂静方便、正為此也。自是末世邪師輩、不会先聖方便語耳。左右、若信得山僧及、試向鬧処看狗子無仏性話、未説悟不悟、正当方寸擾擾時、謾提撕挙覚看。還覚静也無、還覚得力也無。若覚得力、便不須放捨〉。(同九二二a)

 

 

薬山和尚坐する次(おり)、有る僧問う、「兀兀地(ごつごつち)什麼をか思量す」。師云く、「箇の不思量底を思量す」。僧云く、「不思量底如何(いかん)が思量せん」。師曰く、「非思量」〈薬山和尚坐次、有僧問、兀兀地思量什麼。師云、思量箇不思量底。僧云、不思量底如何思量。

師曰、非思量〉。(『景徳伝燈録』巻一四「薬山惟儼章」、真字『正法眼蔵』(春秋社本Ⅴ一九六頁)、『(訳注)景徳伝燈録五』禅文化本等参照)

 

  • 中国禅籍でこの話を取り挙げた例は極めて少ない。『無準師範語録』巻五「頌古」

薬山坐次、僧問、和尚、兀兀地思量箇什麼。山云、思量箇不思量底。僧云、不思量底如何思量。山云、非思量。兀兀地の思量、思量を得べき無し。思量すべき無き処、真箇(しんこ)好思量なり。大庾嶺(だいゆれい)頭に六祖に逢い、鼇山店(ごうざんてん)上に曾郎に見(まみ)ゆ〈兀兀地思量、無可得思量。無可思量処、真箇好思量。大庾嶺頭逢六祖、鼇山店上見曾郎〉。(続蔵卷一二一―四七一左上)* 曾郎は雪峰義存のこと。

 

②六祖慧能と蒙山道明との問答。『景徳伝燈録』巻四

 

祖曰く、「不思善不思悪正恁麼の時、阿那箇か是れ明上座の本来の面目」。師当下に大悟し、遍体汗(あせ)流れ、泣いて礼すること数拝す〈祖曰、不思善不思悪正恁麼時、阿那箇是明上座本来面目。師当下大悟、遍体汗流、泣礼数拝〉。(禅文化本五六頁)

  • 『信心銘』(『景徳伝燈録』巻三〇所収)

虚明自照、心力を労せず。非思量の処、識情測(はか)り難し〈虚明自照、不労心力。非思量処、識情難測〉。(禅文化本六一六頁)

 

 

舎利弗。諸仏の随宜の説法は、意趣解(さと)り難し。所以(ゆえ)は何(いか)ん。我れ無数の方便、種種の因緣、譬喩言辞を以て、諸法を演説す。是の法は思量分別の能く解する所に非ず。唯だ諸仏のみ乃(いま)し能く之れを知(し)ろしめり。所以は何ん。諸仏世尊は唯だ一大事因緣を以ての故に世に出現したもう〈舎利弗。諸仏随宜説法、意趣難解。所以者何。我以無数方便、種種因緣、譬喩言辞、演説諸法。是法非思量分別之所能解。唯有諸仏乃能知之。所以者何。諸仏世尊唯以一大事因緣故出現於世〉。(大正巻九―七a)

 

  • 天童如浄との関係としても重要な大梅法常の「梅子熟せりの話」=『永平広録』巻四の三一九上堂〈禅師の五〇歳の時〉は、道元禅師の再解釈。大梅の坐禅道元禅師の解釈とは異なるものと理解する。

 

他(大梅)、馬祖に問う、「如何なるか是れ仏」。祖云く、「即心即仏」。便ち礼辞し、梅山の絶頂に入りて、松華を食し、荷葉を衣(き)て、日夜、坐禅して一生を過ごす。将に三十年になんなんとするに、王臣に知られず、檀那の請に赴(おもむ)かず。乃ち仏道の勝躅なり、と。

測り知りぬ、坐禅は是れ悟来の儀なり。悟は只管だ坐禅のみなることを。(原漢文)

 

  • 唐代禅と宋代禅、日本に定着した禅

 

阿含アビダルマ(対法)に比して、唐代禅の「問答」と宋代禅の「公案」と述べたことがある。

私のいつもの答えは「唐代禅はあまりにも中国的である」というにとどまった。

 

  • 近年、小川隆先生によってめざましい成果が発表されている。

宋代の禅は、一言でいえば禅の制度化の時代である。制度化というのは、禅宗が社会的な政治・経済の制度のうちに組み込まれたという意味と、それに応じて禅宗内部の機構や修行形態が制度的に整備・規格化されたという意味の、内外二重の意味においてである。今、修行の面についてのみ言えば、宋代の禅は「公案禅」の時代と言える。禅門共有の古典として収集・選択された先人の間答の記録「公案」、それを課題として参究することが修行の中心となる。その方法は大まかに「文字禅」と「看話禅」の二つに分けられる。(『続・語録のことば』「はじめに」ⅳ頁)

 

 さて、薬山惟儼と道元禅師の関係は難しい問題です。私もあと何年生きられるかは判りませんが、十年ばかりは長生きして勉強したいと思っています。それ故にこの問題は結論を急がないで、今後の課題としておきたいと思います。薬山の「非思量」をどのように位置づけるか。これを非連続と言うのかと問われれば、今のところ非連続だと私は答えます。先ほど言いましたように、この問題はもう少し勉強したいと思っています。そこで、この「非思量」の流れの一つの考え方として、禅師は「坐禅は不為なり」という言葉を使いました。この意味は有名な青原行思と六祖の話であり、資料の六の(イ)に次のようにあります。

青原思禅師、六祖に問う、「当(は)た何(なん)の所務か即ち階級に落ちざるを得るや」。祖曰く、「汝曾(かつ)て什麼(なに)を作し来たる」。師云く、「聖諦も亦た為さず」。祖云く、「何の階級に落ちるや」。師云く、「聖諦すら尚お為さず、何の階級か之(こ)れ有らん」。祖云く、「如是如是、汝善く護持せよ」。

この流れが次の石頭に承け継がれて、資料の(ロ)となります。

一日、師坐する次(おり)、石頭之れを覩(み)て問うて曰く、「汝、這裏に在りて麼(なに)をか作す」。曰く、「一切為さず」。石頭曰く、「恁麼ならば即ち閑坐なり」。曰く、「若し閑坐ならば即ち為すなり」。石頭曰く、「汝、為さずと道(い)う、且(か)つ箇の什麼をか作さざる」。

曰く、「千聖も亦た識らず」。石頭、偈を以て讃じて曰く、「従来共に住して名を知らず、任運に相(あ)い将(ひき)いて只麼(しも)に行く。古えよりの上賢すら猶お識らず、造次の凡流、豈に明かすべけんや」。

 ところが、よく知られたこの(ロ)の話は、調べた限りでは道元禅師は引用されてはいません。それでは、「坐は不為なり」というのはどこから来るのでしょうか。この話を問題にするとき、興味深い宋代の展開があります。看話禅の大成者の大慧宗杲の師翁の五祖法演は、資料(ロ)の①にあるように「石頭の恁麼の垂示は、便ち趙州の庭前栢樹子、洞山の麻三斤、雲門の超仏越祖の談に類す」と捉えています。石頭系の特色を認めていないし、その上、次の資料の②によりますと、大慧宗杲は「看よ他の古人。一箇の閑坐も也た他を奈何(いかん)ともし得ず。今時の学道の士、多く閑坐の処に在りて打住す。近日の叢林の鼻孔無き輩、之れを黙照と謂うは是(こ)れなり」というのです。大慧の立場から当然かも知れませんが、閑坐とは黙照禅のことだとします。閑坐は文字通り「無駄な坐禅」というのです。当時の修行者の坐禅は恰も閑坐に陥っていて、何らの悟りを強調しない人々を輩出しているといいます。更に次の資料の③では、本当の静けさ、所謂(いわゆ)る坐禅の境界というのは、悟った後に初めて可能となるというのが、大慧の主張です。初めから坐禅していることが悟りの境界だと捉えるのは誤りであって、悟るという経験を通して後に、初めて悟りの世界は獲得できるという主張です。

 さて、問題の非思量を考えてみましょう。これは周知のように資料の(ハ)にあります。

薬山和尚坐する次、有る僧問う、「兀兀地什麼をか思量す」。師云く、「箇の不思量底を思量す」。僧云く、「不思量底如何が思量せん」。師曰く、「非思量」

 この話を中国禅で話題に取り挙げたものは、CBETAなどで調べますと、ほとんどありません。禅師の時代で検索に掛かったのが、資料の(ハ)の①の無準師範(一一七七―一二四九)の語録です。無準は頌でまず次のように言います。

兀兀地の思量、思量を得べき無し。思量すべき無き処、真箇(しんこ)好思量なり。

 坐禅の思量を好思量と言っているのは、注目すべきであり、この公案を取り挙げただけでも重要と考えてよいでしょう。つづいて後半に取り挙げたのは、六祖慧能と雪峰義存の二人の話です。

 大庾嶺(だいゆれい)頭に六祖に逢い、鼇山店(ごうざんてん)上に曾郎に見(まみ)ゆ。

 大庚嶺の六祖の話は、有名な蒙山道明が六祖慧能の下で悟る時の話です。「不思善不思悪正恁麼の時、阿那箇か是れ明上座本来面目」と六祖に問われた時に、道明がハッと悟ったというものです。善悪の思量をしないという六祖の説示が、「非思量」と結びつけられたことになりましょう。もう一つの話は巌頭全豁に導かれて雪峰義存が、鰲(鼇)山で、「他後(のち)に若(も)し大教を播揚(はよう)せんと欲せば、一一自己の胸襟より流出し将(も)ち来たって、我がために蓋天蓋地し去れ」の語の下に悟った時の話を踏まえています。

 更に、「非思量」の語で思い出すのは、②の『信心銘』でしょう。

虚明自照、心力を労せず。非思量の処、識情測り難し

 これらと禅師と③の『法華経』に結びつくのかどうか、これも重要なテーマだと思います。

舎利弗。諸仏の随宜の説法は、意趣解り難し。所以は何ん。我れ無数の方便、種種の因緣、譬喩言辞を以て、諸法を演説す。

是の法は思量分別の能く解する所に非ず。唯だ諸仏のみ乃(いま)し能く之れを知(し)ろしめり。所以は何ん。諸仏世尊は唯だ一大事因緣を以ての故に世に出現したもう。

 このように『法華経』の「方便品」の解釈なども含めながら、「非思量」の問題は考えていかなくてはいけないのでないかと思います。

 唐代禅の坐禅観を別の話で考えてみましょう。坐禅を強調された禅師は、有名な大梅法常の話を重要視されています。勿論、如浄の説法とも結びついて、印象深く受け取られたという面もあります。それから実際に禅師は大梅山に行っておられます。この話は資料の(ニ)で大変有名です。

 大梅が馬祖に「如何なるか是れ仏」と質問しますと、馬祖は「即心即仏」と答えます。別のテキストでは「即心是仏」ともあります。つまり、仏とは「外ならぬ君の心が仏である(即心是仏)」というのです。法常はそのように聞いて礼拝して、大梅山の絶頂に入りて、松の実を食べ、蓮の葉を衣として日夜坐禅して一生を過ごしますが、その後、如浄の語を引いて、禅師が次のような文面で締めくくられています。

将(まさ)に三十年になんなんとするに、王臣に知られず、檀那の請に赴(おもむ)かず。乃ち仏道の勝躅なり、と。測り知りぬ、坐禅は是れ悟来の儀なり。悟は只管だ坐禅のみなることを。

 ここでは、即心是仏で悟った大梅は、それ以後の全ての坐禅は悟来の儀だというのです。私はこれは中国の話の理解ではないと思います。これもやはり道元禅師の解釈だと考えます。ただ、禅師が大梅山に行った時に、八寸の鉄塔があるのを見たと伝えています。法常は眠らないように、鉄塔を頭の上に載せて、姿勢を正して坐禅をしていたことが伝承されていたのです。その法常の坐禅を悟来の儀として、しかも坐禅のみを強調した生活を送っていたとは、私はとても思えないのです。このことについては、やはり日常の修行は平常無事を旨とした禅だったと、平成二三年四月のハワイのAAS(Association for Asian Studies)で発表し、その元原稿を「道元霊夢の中での大梅法常との出会いと修証観」(『駒澤大学仏教学部論集』第四二号、二〇一一年一〇月)で発表しております。

 以上を踏まえて、資料の最初の(A)の「禅思想概説」「中国禅宗史」の講義のねらいの(ロ)中国禅はなぜ唐代禅ではなく宋代禅が日本へ定着したかについて、資料六の(ホ)で簡単にまとめておきたいと思います。

 資料の①は確かに最初は吉津宜英先生との会話の中で言ったことかも知れませんが、私は授業の中では、インドでいう阿含アビダルマ(対法)に対応して、唐代禅の禅問答を阿含と見、宋代禅の公案アビダルマと考えるのがいいのではないかと言っています。私は、なぜ唐代禅が定着しなかったのかという疑問に、唐代禅はあまりにも中国的である、或いは日本人には受け入れられない中国人の世界があると答えてきました。その答えは少し漠然としていて(実は極めて重要だと思いますが)不十分だったと思います。

 私もまず鏡島元隆先生の「南宋禅林の一考察」(『道元禅師とその門流』、誠信書房、一九六一年一〇月)を踏まえ、その後も唐代禅と宋代禅との相違を述べてきたつもりですが、近年、小川隆先生によって目覚ましい成果が出ていますので、資料② をみてみましょう。

宋代の禅は、一言でいえば禅の制度化の時代である。制度化というのは、禅宗が社会的な政治・経済の制度のうちに組み込まれたという意味と、それに応じて禅宗内部の機構や修行形態が制度的に整備・規格化されたという意味の、内外二重の意味においてである。今、修行の面についてのみ言えば、宋代の禅は「公案禅」の時代と言える。禅門共有の古典として収集・選択された先人の問答の記録「公案」、それを課題として参究することが修行の中心となる。その方法は大まかに「文字禅」と「看話禅」の二つに分けられる。

 小川先生の特色は、公案禅は看話禅と同義ではないという主張です。つまり、公案禅を方法上から文字禅(『碧巌録』はその精華)と看話禅(無字の参究)に分けるべきだというのです。その説に基づけば、看話禅の成立が果たした宋代禅の偉大な影響が別に位置づけられます。同時に、道元禅師の『正法眼蔵』を文字禅の範疇に近いと考えると、宋代禅がなぜ定着したかの方向性に応えうるものではないかと思っています。

 ここで、大慧宗杲が公案(話頭)を使用して大成し、宋代以降の禅を席捲した看話禅と坐禅を強調する道元禅との関係を取り挙げておきましょう。

 

【資料】 七 道元禅師の公案坐禅―『正法眼蔵随聞記』巻六

 

弉問ウて云ク、打坐と看話とならべて是レを学するに、語録公案等を見ルには、百千に一つハいささか心得られざるかと覚ユる事も出来る。坐禅は其レほどの事もなし。然レどもなほ坐禅を好むべきか。

示ニ云ク、公案話頭を見て聊か知覚あるやうなりとも、其レは仏祖の道にとほざかる因縁なり。無所得、無所悟にて端坐して時を移さば、即チ祖道なるべし。古人も看話、祗管坐禅ともに進(ママ)めたれども、なほ坐をば専ら進(ママ)めしなり。また話頭を以て悟リをひらきたる人有りとも、其レも坐の功によりて悟リの開くる因縁なり。まさしき功は坐にあるべし。(ちくま学芸文庫四〇六頁)

 

 この『正法眼蔵随聞記』の箇所について、大変印象深い思い出があります。以前、毎年の曹洞宗宗学大会は、駒澤大学が会場でした。共に亡くなられましたが、水野弥穂子先生と杉尾玄有先生と私と三人で、大会が終わった後に大学の近くのロマンという店でお茶を飲みました。その時、二人の意見が、懐奘の評価を巡って対立しました。杉尾先生は、懐奘は道元禅師にとても及ばない人物だと評価されました。『四馬』の巻に出る龍馬は、懐奘に当たらないといわれました。水野弥穂子先生は、長円寺本『正法眼蔵随聞記』のこの最後の記録は、公案と打坐のどちらが重要か質問したら、公案ではなくて坐禅だと決着が付いたところに、懐奘の道元禅師の門下としての素晴らしさがあると言われました。杉尾先生は「あんな幼稚な質問を最後までやっておらたのですか」と反論されたので、この話が大変印象深いわけです。しかし考えてみると、公案坐禅とどちらが重要かという問いに対して「坐禅」と言い切った道元禅師は、やはり禅師の世界を持っておられたと思います。この箇所は臨済系の禅を奉じている人にとっては、極めて考えさせられるところだと聞いたことがあります。

 次の話題はもちろんこの最終講義と深く関係することです。最近、ヨーロッパへ旅行された岡部和雄先生から聞いたことですが、フランスで「身」を重視する道元禅師が注目されているという世界的な話題について述べたいと思います。

 

【資料】八 道元禅師の悟りは「身」によるか、「心」によるか―なぜ日本達磨宗の所依としての黄檗希運『伝心法要』や永明延寿『宗鏡録』を重視しないのか。『正法眼蔵随聞記』巻三

 

また云ク、得道の事は心をもて得るか、身を以テ得るか。教家等にも「身心一如」と云ツて、「身を以テ得(う)」とは云へども、なほ「一如の故に」と云フ。正(まさ)シく身の得る事はたしかならず。今我が家は、身心倶に得ルなり。そノ中に、心をもて仏法を計校する間は、万劫千生にも得ベカラず。心ヲ放下して、知見解会を捨ツル時、得るなり。見色明心、聞声悟道ノごときも、なほ身を得ルなり。然れば、心の念慮知見を一向すてて、只管打坐すれば、今少し道は親シミ得るなり。然レば道を得ル事は、正(まさ)シく身を以て得ルなり。是レによりて坐を専ラにすべしと覚ユルなり。(ちくま学芸文庫二三二頁)

 

  • 唐代禅の特色―「坐」の解放=六祖慧能の説=『曹渓大師伝』

道は心に由りて悟る、豈に坐に在らんや。

 

 

「悟るというけれども、いったい何が悟るんですか」ときかれて、道元が「自分もそれを疑問に思っていた。考えてみると、心が悟るのではなくて、からだが悟るんだ」と言うわけです。つまり、からだの上に現われてこなくては悟りではないと、はっきりと言っている。これは仏教思想史のうえでは革命的な思想です。インドの古い仏典を見ますと、何が解脱するのかというと、たいてい心が解脱するとなっているのです。いろいろと束縛されている心が解き放たれるという具合に説いている。それに対して、道元の表現は、ひじょうに革命的です。(「こころと身体」九六頁『人生を考える』所収、青土社、一九九一年。岡部和雄先生のご教授による)

 

 資料(八)も『正法眼蔵随聞記』の一文です。「身」によって悟るのか、「心」によって悟るのかという重要な問題です。これにはもう一つの問題がありまして、中国禅では重要な典籍の中に、黄檗希運の『伝心法要』があります。更に鎌倉の初期の代表的な栄西も非常に重要視し、また日本達磨宗も重要視した永明延寿の『宗鏡録』があります。栄西は『興禅護国論』の「序」の冒頭で、「大いなる哉、心や」と言います。大日能忍は『成等正覚論』の中心思想で、「自心即仏」の主張をします。ところが、道元禅師は『伝心法要』や『宗鏡録』をほとんど重要視していないし、むしろ無視に近い訳です。これは一体何を意味するのかいう問題です。まず、資料の(八)の『正法眼蔵随聞記』をみてみましょう。

また云ク、得道の事は心をもて得るか、身を以テ得るか。教家等にも「身心一如」と云ツて、「身を以テ得(う)」とは云へども、なほ「一如の故に」と云フ。正(まさ)シく身の得る事はたしかならず。今我が家は、身心倶に得ルなり。そノ中に、心をもて仏法を計校する間は、万劫千生にも得ベカラず。心ヲ放下して、知見解会を捨ツル時、得るなり。見色明心、聞声悟道ノごときも、なほ身を得ルなり。然れば、心の念慮知見を一向すてて、只管打坐すれば、今少し道は親シミ得るなり。然レば道を得ル事は、正(まさ)シく身を以て得ルなり。是レによりて坐を専ラにすべしと覚ユルなり。

 このように禅師は「身」を強調されています。これが禅師の立場ですが、先にみましたように、唐代禅の特色は「坐」の解放にあるといえます。もっと多くの例を挙げればいいのですが、資料の①に挙げた『曹渓大師伝』の一語で言えば、悟りは「心」によって悟る、原文でいう「道は心に由(よ)りて悟る、豈(あ)に坐に在(あ)らんや、」というのが、中国禅の立場と言っていいと思います。ところが、先の『正法眼蔵随聞記』には、禅師はさとるのは「心ではなくて身だ」と言います。このことについて、岡部和雄先生から資料②の中村元先生の説を教授していただきました。その中に大変興味深い事を言っておられ、仏教のインド思想では、「心が解脱する」と大抵説いているが、道元禅師は「からだが悟るんだ」と説いている。この説は「仏教思想史のうえでは革命的な思想です」、と「革命的」という言葉まで使って中村先生は言われます。少なくとも中国禅と道元禅との比較からは、禅師は「からだが悟るんだ」ということを重視されたことは言えるでしょう。仏教思想史に造詣の深い中村先生が、このことを仏教の歴史の中でも革命的だといわれていることは注目してよいでしょう。

 これまで述べてきたことについて、身近な問題としてまとめておきたと思います。

【資料】 九 道元禅師の初心学道の弁道・修証観―私は道元禅師のどこに救われたか。『正法眼蔵随間記』巻一=授業で訴え続けたこと「人は生まれによって決まるのではなく、行為によって決まる」「人はだませても、自分はだませない」

 

初心の学道の人は、ただ衆に随ツて行道すべきなり。修行の(用)心故実等を学し知らんと思ふ事なかれ。用心故実等も、ただ一人山にも入り市にも隠れて行ぜん時、錯(あやまり)なくよく知りたらばよしと云ふ事なり。衆に随ツて行ぜば、道を得べきなり。譬へば舟に乗りて行クには、故実を知らず、ゆくやうを知らざれども、よき船師にまかせて行けば、知りたるも知ラざるも彼岸に到るがごとし。善知識に随ツて衆と共に行ジて私なければ、自然に道人なり。

学道の人、若し悟を得ても、今は至極と思ウて行道を罷(やむ)ル事なかれ。道は無窮なり。さとりてもなほ行道すべし。良遂座主、麻谷(まよく)に参ゼし因縁を思ふべし。(前掲書二四頁)

 

* 良遂の因縁とは=金沢文庫本二一則「麻谷鋤頭鋤草」の話=洎錯承当禅の提唱

つづく二二則「玄則丙丁童子」話が『弁道話』に、二三則「宝徹無処不周」話が、『現成公案』に唯一取り挙げられるのは、意味深長である。

寿州良遂座主、初めて麻谷に参ず。谷、来たるを見て、便ち鋤頭を将て去いて草を鋤(す)く。師、草を鋤く処に到る。谷、殊に顧みず、便ち方丈に帰りて、門を閉却ず。師、次の日、復た去く。谷又た関を閉ず。師遂に門を敲く。谷乃ち問う、「阿誰そ」。師曰く、「良遂」。纔(わず)かに名字を称するに、忽爾(たちまち)に契悟す。乃ち曰く、「和尚、良遂を瞞ずること莫かれ。良遂若し来たりて和尚を礼拝せずば、洎合(あやう)く経論に一生を賺過せられなまし」。講肆に帰るに及びて、開演して云えること有り、「諸人の知る処、良遂総て知る。良遂が知る処、諸人は知らず」。終に講を罷め、徒を散ず〈寿州良遂座主。初参麻谷。谷見来便将鋤頭去鋤草。師到鋤草処。谷殊不顧、便帰方丈、閉却門。師次日復去。谷又閉関。師遂敲門。谷乃問、阿誰。師曰、良遂。纔称名字、忽爾契悟。乃曰、和尚、莫瞞良遂。良遂若不来礼拝和尚、洎合被経論賺過一生。及帰講肆、開演有云、諸人知処、良遂総知。良遂知処、諸人不知。終罷講徒散〉。

 

 ここは最終講義なので、道元禅師の修証観を学んで、私の生き方の中で、どこが救われたかをまとめてみたいと思います。資料(九)の『正法眼蔵随聞記』に次のように述べられているところがあります。私を含めて「初心の学道」者は、仏道を学ぶとは、「善知識に従ツて衆と共に行ジて私(わたくし)なければ」よいし、その「道は無窮」であり、「さとりてもなほ行道すべし」という語を自戒にすればよいと思います。

 私が授業で訴えていることは、人は生まれによって決まるのではなく行為によって決まる、ということを何度も強調してまいりました。生まれながらの泥棒は一人もいない。人の物を盗むという行為があって初めて泥棒と言われる。だから、仏教は大変怖い教えだと訴えます。なぜ怖いか。それは一生涯、泥棒と呼ばれたくなければ、人の物を盗まないという行為を続けなければならない。そこに怖さがあるといっています。次は非常に便宜的ですが、私は出席カードを授業の最後頃に配りますが、多くの人がその直前に来て、出席カードを出すためにだけに来ているのです。そこで、「あなた達は人は騙せても、自分は騙せませんよ」と、これを何度も口酸っぱく言うんですが、多くは聞き入れてくれません。ここに道元禅師の私に教えてくれた問題があるのではないかと思っています。

 このことの具体的例として、『正法眼蔵随聞記』では「良遂座主、麻谷(まよく)に参ゼし因縁を思ふべし」とあります。この良遂の因縁というのは大変印象深くて、実は禅師はこの話を他の正法眼蔵等の著述で取り挙げられていません。この話は金沢文庫本の二一則にある話です。麻谷に参じた良遂はなかなか自己を確立出来なくて、師の麻谷宝徹に相手にされずにいらいらした時を過ごします。最後に門を敲いた時に、「誰だ」と言われて、「良遂です」と答えた時にハッと自分自身に気づくわけです。その時に「あなたに出会わなければ、危うく経論に一生を騙され続けたに違いない」といいます。つまり、師の麻谷に出会うことができたので生涯を無駄に過ごさずに済んだというのです。金沢文庫本はこの二一則を中心として、なかなか面白い道元禅師の世界を展開しています。二二則は「玄則丙丁童子」の話があり、『弁道話』に唯一、この話が引用されています。それから『現成公案』には、二三則の麻谷宝徹の「宝徹無処不周」の話が引用されます。『現成公案』にこれまた唯一取り挙げられた話です。このように真字『正法眼蔵』の二一、二二、二三の各則は、密接な関係を持っています。麻谷宝徹は、風が行き渡っているという原理を知っていても、やはり風が至らざるところ無しという事実を知らないのだといいます。それでは、「至らざるところ無し」とは、どういう意味かと問うた時に、麻谷は「唯だ扇を使うのみ」、つまり、「扇を使う」という実際の行為にこそ、真の自己確立があり得るのだ、という話です。このように良遂座主の話は禅師の他の著述には出てきませんが、注目しても良い話ではないかと思います。私は「洎錯承当(きさくじようとう)禅」(『道元禅の成立史的研究』八頁以下)を禅の分類として提案したことがあります。禅の分類の中では、宗密の五種禅の分類は大変有名ですが、最上乘禅にとどまっていたのでは、道元禅師の世界、或いは石頭系の禅は分類出来ないという主張をしたのです。「洎錯承当(きさくじようとう)禅」という言葉を使って、腰を落ち着けない禅、境界にあぐらをかかない禅、つまり、これでいいという世界は無いんだということを主張したかったのです。安身の境界に腰を落ち着けそうになったけども、腰を落ち着かせずに済んだという世界を、何とか私は、今後、余命幾ばくかは分かりませんが、そういう生き方を続けていきたいと思っています。

 最終講義を一緒にするはずの吉津宜英先生が亡くなられたので、それができなくなりました。そこで、最後に彼のことを付け加えて、終わりにしたいと思います。

 

【資料】 十 吉津宜英先生の提言の実現を―「禅学」の勃興

 

①未来学(教化学)の重視

②伝統宗学にあらず

  • 忽滑谷快天『禅学思想史』参照
  • 鈴木大拙の認めたZEN BUDDHISM 参照
  •  

 吉津宜英先生が何を最終講義で言いたかったかは判りません。それは判りませんが、永いつきあいの私との会話の中で、彼は盛んに「禅学を勃興させなくてはいけない」と言っていました。その禅学というのは、少なくとも大枠の話は、資料(十)の四項目のうちの前の①②の二つであったと思います。彼は「未来学(教化学)を重視」すべきだと言っていました。経典で言えば、序分・正宗分・流(る)通分(ずうぶん)の中の流通分を重要視すべきだというのが、彼の持論でした。もう一つは、伝統宗学の枠ではだめで、禅学の勃興を実現したいと言っていました。禅学とは他の社会に窓が開かれ、他からの十分な批判に耐えうる内容という意味でした。

 そのような意見を持ったのは、私の想像ですが、おそらく資料の③④の二項目と関係するものと思います。山内舜雄先生は私たちの禅学科の一年生のクラス主任で、大きな影響を受けると同時に随分かわいがって頂きました。その山内先生が京都留学の時に、「柳田聖山先生が、忽滑谷快天先生に『禅学思想史』という本があるけども、あの本はすばらしい、と言われた」と教えて下さいました。確かに『禅学思想史』のような、所謂る、元・明・清に至るまでの中国禅宗史をしっかり書いた本は、未だに出ていないと思います。それ故に、吉津先生の禅学について考える時に、この『禅学思想史』の問題も考えなくてはいけないと思います。それから最後の④の問題は、彼は著書『華厳禅の思想史的研究』(大東出版社、一九八五年)の中で、鈴木大拙先生の「『六祖壇経』に「自」の強調があると言われるような「自」、さらには臨済の基本思想としての「人」に、今私のいう「宗」は全く一致しているのである」と述べ、「いわば、自己の責任をもって信ずる原理を人々の前に提示して、仏典による「教」と対峙させることが「宗」である」と言っています。入学当初、私たちは、鈴木大拙先生にあこがれを持っていました。これも推測に過ぎませんが、『禅学入門』などの英訳に対して、鈴木大拙先生は“ZEN BUDDHISM”という言葉を使っていいと言われたと聞いています。「禅は仏教ではない」という考え方は、一方では確かにあるでしょうが、新しい禅学の中に「禅は仏教だ」という世界を構築することも、吉津先生が言っていた方向かも知れないと思います。そのような受け取り方でよいのかを、彼に質問したい気持ちはありますが、彼はもういませんので、それは不可能でしょう。だが、彼が禅学ということに拘(こだわ)っていたことだけは確かですし、その禅学が盛んになることを願っていたことも確かなので、このことをお伝えして、私の最終講義を終わりたいと思います。どうも永い間、ご静聴いただきまして有り難うございました。

(この論文は平成二六年一月二四日(金)に深沢校舎のアカデミーホールで開催された駒澤大学仏教学会主催の最終講義を基に加筆補正したものである)

 

駒澤大学佛教學部論集 第四十五號 平成二十六年十月』からのpdf論文から

ワードに書き替え、多少の修訂を加えた。(二谷・2022年)