正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

道元の霊夢の中での大梅法常との出会いと修証観               石井   修道                         石井   修道

  道元霊夢の中での大梅法常との出会いと修証観

                                       石井   修道

 

  道元の修証観の特色は、本証妙修とか、証上の修と呼ばれている(1)。その主張はかの『弁道話』の次のような一説に見られる。

   それ、修証はひとつにあらずとおもへる、すなはち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証をまつおもひなかれとをしふ、直指の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきはなく、証の修なれば、修にはじめなし。ここをもて、釈迦如来・迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師・大鑑高祖、おなじく証上の修に引転せらる。仏法住持のあと、みなかくのごとし。(2)

  すでに証をはなれぬ修あり、われらさいはひに一分の妙修を単伝せる、初心の弁道すなはち一分の本証を無為の地にうるなり。しるべし、修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ。妙修を放下すれば本証手の中にみてり、本証を出身すれば妙修通身におこなはる。(岩波文庫本一―二八〜二九頁)

  この文は『弁道話』の中にある十八問答の第七問答であり、その問答は次のように締め括られている。

  きかずや祖師のいはく、「修証はすなはちなきにあらず、染汚することはえじ」。又いはく、「道をみるもの、道を修す」と。しるべし、得道のなかに修行すべしといふことを。

(同三〇頁)

  二つの祖師の言葉の前半は六祖慧能と南嶽懐譲との問答であり、これが本証妙修説の根拠となっていることは周知のことである。再びこのことについては後に取り上げることとしたい。

  後半の語は、『景徳伝燈録』巻五の六祖慧能の法嗣の司空本浄(六六七―七六一)の語とされるものである(3)。

師、乃ち「無修無作の偈」を説いて曰く。道を見ては方(はじ)めて道を修するも、見ざれば復た何をか修せん。道の性は虚空の如し、虚空は何をか修する所あらん。徧く道を修する者を観るに、火を撥(はら)いて漚浮(うたかた)を覓(もと)むるがごとし。但(た)だ儡傀(かいらい)を弄するを看るのみにして、線、断(き)れて一時に休(や)む。

〈師乃説無修無作偈曰、見道方修道、不見復何修。道性如虚空、虚空何所修。徧観修道者、撥火覓浮漚。但看弄傀儡、線断一時休。〉(禅文化本八二頁)

  司空本浄は、仏は仮名で、道も妄立であり、強いて仏と道の二名を立てるのは、二乗の見解であると否定し、その偈のタイトルが示すように、修すべき道はないと言っているのである。趣旨は道を修するのは、むなしい努力であるとすら言っていて、道元が引用したい趣旨とはかけ離れているのである。その為に道元は「見道」と「修道」の間の「方」を省略して文を完結させ、「見道」と「修道」は同時でなければならないとするのである。

  さて、前半に戻ってみると、六祖慧能と南嶽懐譲との問答についても同様のことを言うことができる。道元が引用したのは、『中国禅宗史話』(禅文化研究所、一九八八年)で指摘するように、下記の『天聖広燈録』巻八の「南嶽懐譲章」を基本に、『景徳伝燈録』巻五の「南嶽懐譲章」と合糅したことに間違いないのである。

  乃ち直に曹渓に詣(いた)り六祖を礼す。祖問う、「什麼の処より来る」。師云く、「嵩山安禅師の処より来る」。祖云く、「什麼物与(よ)麼(も)に来る」。師、無語。八載を経(へ)て、忽然として省有り。乃ち祖に白(もう)して云く、「甲某(それがし)、箇の会処有り」。祖云く、「作麼生(そもさん)」。師云く、「一物を説似するに即ち中(あた)らず」。祖云く、「還(は)た修証を仮るや」。師云く、「修証は即ち無きにあらず、敢て汚染せず」。祖云く、「秖だ此の不汚染、是れ諸仏の護念するところなり。吾も亦た是の如し、汝も亦た是の如し」。(中略)師侍奉すること一十五載なり。

〈乃直詣曹渓礼六祖。祖問、「什麼処来」。師云、「嵩山安禅師処来」。祖云、「什麼物与麼来」。師無語。経于八載、忽然有省。乃白祖云、「某甲有箇会処」。祖云、「作麼生」。師云、「説似一物即不中」。祖云、「還仮修証也無」。師云、「修証即不無、不敢汚染」。祖云、「秖だ此不汚染、是諸仏之護念。吾亦如是、汝亦如是」。(中略)師侍奉一十五載。〉(宋版。中文出版社本四〇四頁)

 『遍参』や『永平広録』巻五・七・八などを参照すれば、道元が引用するに当たって、「汚染」を「染汚」に語句を入れ替えた外に道元の創意はなく、最後に「乃至西天祖師亦如是」の語の道元の付加があっても単なる強調とみて差し支えないであろう。道元は原典の「経于八載、忽然有省」を金沢文庫本真字『正法眼蔵』第一則には、「於是執侍八年、方省前話〈是(ここ)において執侍すること八年、方(まさ)に前の話を省(あき)らむ〉」とあって、「忽然として」「悟る」ことが強調されていない点は見逃せない。特にこの話の「不染汚」の語に注目すれば、『正法眼蔵随聞記』巻六の次の説に道元の主眼があると理解可能である。

  是レまではいまだ百尺の竿頭をはなれず、とりつきたるごとし。ただ身心を仏法になげすてて、更に悟道得法までものぞむ事なく修行しゆく、是レを不染汚の行人と云フなり。(趙州ノ)「有仏の処にもとどまらず、無仏の処をもすみやかにはしりすぐ」と云フ、この心なるべし。

ちくま学芸文庫三九四頁)

  中国の禅籍の元来の「修証即不無、不敢汚染(修行と証悟が無用とはいいません。それによって手垢をつけたくないのです)」のみでは、この『正法眼蔵随聞記』の説のように「更に悟道得法までものぞむ事なく修行しゆく」ことを強調したとは思われない。同様に『弁道話』の前述の「修をはなれぬ証を染汚せざらしめんがために、仏祖しきりに修行のゆるくすべからざるとをしふ」と理解することはできないであろう。

  更に南嶽懐譲の修証観を考える時に重要な問答として、南嶽懐譲と馬祖道一との間の問答の「磨塼作鏡」の話がある。このことについては、「なぜ道元禅は中国で生まれなかったか」(『道元禅師正法眼蔵行持に学ぶ』所収、禅文化研究所、二〇〇七年)で指摘した通り、話は中国禅籍に基づきながら、道元独自のテキストで展開したもので、中国にその話を遡及することは不可能だったのである。つまり、『景徳伝燈録』は、まず、まだ悟っていない馬祖道一が坐禅するところから話は始まっている。その後に磨塼しても作鏡はできないように、坐相に執著しているからには、坐禅しても作仏はできないことを南嶽懐譲が諭(さと)したものであった。その諭しで始めて馬祖道一は禅とは行住坐臥の一つの坐にとどこおるべきではないと悟るのである。ところが、道元は「密受心印」つまり南嶽懐譲に悟りを認められて以後に馬祖道一は坐禅していた話とするのである。そのことは、道元のこの話の全ての引用に共通するのであり、たとえば『正法眼蔵古鏡』は次のように示している。

江西馬祖、むかし南嶽に参学せしに、南嶽かつて心印を馬祖に密受せしむ。磨塼のはじめのはじめなり。馬祖、伝法院に住してよのつねに坐禅すること、わづかに十余歳なり。(岩波文庫本二―四一頁)

  道元の出典研究に先鞭をつけられた鏡島元隆氏の分類では、「原文では修行の発足点と到達点が異時として示されたものが、同時として読みなおされている例」(『道元禅師と引用経典・語録の研究』六九頁。木耳社、一九六五年)とするのである。このことから『正法眼蔵随聞記』巻三に存在する次の一文で、道元の解釈の独自性を読みとる方向が確定するのである。

   南岳の磚を磨して鏡を求めしも、馬祖の作仏を求めしを戒めたり。坐禅を制するにはあらざるなり。坐ハすなはち仏行なり。坐ハ即チ不為なり。是レ即チ自己の正体なり。こノ外別に仏法の求ムべき無きなり。(ちくま学芸文庫二一六頁)

 このように道元が説く馬祖道一の坐禅は仏作仏行と捉えなければならないのである。

ところで、道元自身の大悟はどのように表現され、大悟の性格はどのようなものであったのであろうか。杉尾玄有氏が言われる「叱咤時脱落」が道元の悟り体験と伝えられていることはよく知られている。道元記『如浄禅師続語録跋』に次のようにあるからである。

  師(=如浄)因みに入堂し、衲子の坐睡するを懲(こ)らしめて云く、「夫れ参禅は身心脱落なり、只管に打睡して作麼(なに)かせん」。予(=道元)此の語を聞きて豁然として大悟す。径(ただ)ちに方丈に上りて焼香礼拜す。師云く、「礼拜の事作麼生」。予云く、「身心脱落し来る」。師云く、「身心脱落、脱落身心」。予云く、「這箇は是れ暫時の伎倆なり、和尚乱りに印すること莫(な)かれ」。師云く、「我れ乱りに你を印せず」。予云く、「如何なるか是れ乱りに印せざる底の事」。師云く、「脱落、脱落」。予乃ち休す。

〈師因入堂、懲衲子坐睡云、夫参禅者身心脱落。只管打睡作麼。予聞此語、豁然大悟。径上方丈、焼香礼拜。師云、礼拝事作麼生。予云、身心脱落来。師云、身心脱落、脱落身心。予云、這箇是暫時伎倆。和尚莫乱印。師云、我不乱印你。予云、如何是不乱印底事。師云、脱落脱落。予乃休。〉(大正巻四八―一三六c)

  同様の話は『元祖・孤雲・徹通三大尊行状記』をはじめ、けんぜいき『伝光録』、明州本『建撕記』等に伝えられて道元の大悟の話と言われてきたのである。この話の内容は、正しく道元の嫌う典型的な転迷開悟の話なのである。この話に対して鏡島氏は『天童如浄禅師の研究』(三五頁以下。春秋社、一九八三年)で、『如浄禅師続語録跋』は道元の真撰ではないと論証された。近年、何燕生氏も『道元と中国禅思想』(法蔵館、二〇〇〇年)で『如浄禅師続語録』自体が江戸時代の僞撰と主張している。

  杉尾玄有氏は「御教示仰ぎたき二問題―「面授時脱落」のこと及び『普勧坐禅儀』の書風のこと」(『宗学研究』第一九号、一九七七年)で、これらの話を「伝記作者の誤解ないし虚構」と主張し、私もこの説を承けて、『道元禅の成立史的研究』(大蔵出版、一九九一年)に「叱咜時脱落の話は史実と認めないし、道元禅の核心を誤らせるものだ」(同四四〇頁)等と忠告しつづけている。しかし、その説を主張するに当たって、その素材が道元の著述になかったと言っている訳ではない。如浄が坐睡する僧を叱咜して只管打坐を勧められたことは、むしろ日常茶飯事の経験として道元によって伝えられている。特に、私は名古屋の真福寺所蔵の草稿本『正法眼蔵大悟』の近似の語句は、重要な素材になったであろうことを認めているのである。

  それでは、特徴ある道元の本証妙修説を道元自身の悟りと関係して捉えるとするとどのように考えたらよいであろうか。

  道元の悟りを考えるとすれば、天童如浄と深い因縁のある馬祖道一の法嗣の大梅法常(七五二―八三九)を除いて外に考えらないように思われる。

 『正法眼蔵諸法実相』に「身心骨髄に銘じきたれり。かのときの普説入室は、衆家おほくわすれがたしとおもへり」と伝える宝慶二年(一二二六)の三月の如浄の普説は、その中に次の記述が残されている。

   大梅の法常禅師住山の因縁挙せらる。衣荷食松のところに、衆家おほくなみだをながす。(岩波文庫本二― 四五一頁)

 『諸法実相』は、寛元元年(一二四三)の峰吉(きっぽう)寺(じ)での示衆であるが、「(如浄の普説)それよりこのかた、日本寛元元年癸卯にいたるに、始終一十八年」とあり、十八年前の大梅法常の行持の説示は涙を流して聞いた忘れがたい思い出の話だったのである。

  今一つ禅師の伝記において、大梅法常との不思議な因縁が示されている『正法眼蔵嗣書』の巻がある。

  のちに宝慶のころ、道元、台山・鴈山等に雲遊するつげんいでに、平田の万年寺にいたる。ときの住持は福州の元鼒(す)和尚なり。宗鑑長老退院ののち、鼒和尚補す、叢席を一興せり。人事のついでに、むかしよりの仏祖の家風を往来せしむるに、大潙・仰山の令嗣話を君挙するに、長老いはく、「曾看我箇裏嗣書也否〈曾て我が箇(こ)裏(こ)の嗣書を看るや〉」。道元いはく、「いかにしてかみることをえん」。長老すなはちみづからたちて、嗣書をささげていはく、「這箇はたとひ親人なりといへども、たとひ侍僧のとしをへたるといへども、これをみせしめず。これすなはち仏祖の法訓なり。しかあれども、元鼒ひごろ出城し、見知府のために在城のとき、一夢を感ずるにいはく、大梅山法常禅師とおぼしき高僧ありて、梅花一枝をさしあげていはく、「もしすでに船舷をこゆる実人あらんには、花ををしむことなかれ」といひて、梅花をわれにあたふ。元鼒おぼえずして夢中に吟じていはく、「未跨船舷、好与三十〈未だ船舷を跨(こ)えざるに、好し、三十(棒)を与えんに〉」。しかあるに、不経五日、与老兄相見〈五日を経ざるに、老兄と相見せり〉。いはんや老兄すでに船舷跨来、この嗣書また梅花綾にかけり。大梅のをしふるところならん。夢草と符合するゆゑにとりいだすなり。老兄もしわれに嗣法せんともとむや。たとひもとむとも、をしむべきにあらず」。道元、信感おくところなし。嗣書を請ずべしといへども、たゞ焼香礼拝して、恭敬供養するのみなり。ときに焼香侍者法寧といふあり、はじめて嗣書をみるといひき。道元ひそかに思惟しき、この一段の事、まことに仏祖の冥資にあらざれば見聞なほかたし。辺地の愚人として、なんのさいはひありてか数番これをみる。感涙霑袖。ときに維摩室・大舎堂等に、闃閑(かんげき)無人(ぶじん)なり。この嗣書は、落地梅綾のしろきにかけり。長九寸余、闊一尋余なり。軸子は黄玉なり、表紙は錦なり。(岩波文庫本二―三八五〜三八七頁)

  万年寺の元鼒から嗣書をみせてもらったことに感謝しながらも、道元が元鼒の嗣法を拒否した理由は何だったのであろうか。道元は元鼒が嗣法について無眼子であったからだと私は分析している。それは大・仰山の令嗣の話に関わり、その話は真字『正法眼蔵』一〇三則のことである。

大潙山の大円禅師霊祐が坐しておられた時に、仰山慧寂が傍に控えて立っていた。潙山、「寂子よ、ちかごろ宗門で嗣法はどうなのだ」。仰山、「たしかにこの事を疑っているものがおります」。潙山、「寂子(あなた)は、どうなのだ」。仰山、「わたくしは、ただ、疲れたら眼を閉じ、元気なときには坐禅をするだけのことです。ですから、この事については言ったことはありません」。潙山、「この境地に到ることさえ、なかなか難しいのだ」。仰山、「わたくしの考えでは、この一句語をそえることさえできません」。潙山、「あなたは一人を教化することさえできぬわい」。仰山、「昔からの聖人もみなこんなふうでした」。潙山、「たしかにあなたがそのように答えるのを笑っているものがいるぞ」。仰山、「わたくしを笑うことのできるものは、わたくしと同参のものです」。潙山、「現われ出た場合はどうなのだ」。仰山は禅牀のまわりを一周した。潙山、「古今を引き裂きおった」。

〈大潙山大円禅師坐次、仰山侍立。師云、寂子、近日宗門中令嗣作麼生。仰曰、大有人疑著此事。師云、寂子又作麼生。仰云、某甲祗管困来合眼、健即坐禅。所以未曾説著。師云、到這田地也難得。仰曰、拠某甲見処、著一句語亦不得。師云、子為一人也不得。仰云、自古聖人尽皆如是。師云、大有人笑汝与麼祗対。仰云、解笑某甲是某甲同参。師云、出頭作麼生。仰遶禅牀一匝。師云、裂破古今。〉(春秋社版一四―一六二頁)

  この話によれば、嗣法とは何であるか。仰山慧寂の次の語に示されている。

  某甲、祗管に困じ来れば眼を合し、健なれば即ち坐禅す。所以に未だ曾て説著せず。

 これはすでに道元禅の核心であり、元鼒に出会った時に道元の境界は既に高まっていたのであり、元鼒にはそのことが全く理解されていなかったということであろう。(4)

  ところが、『嗣書』には、続いて大梅法常にまつわるもっと不思議な霊夢が示されている。

   道元、台山より天童にかへる路程に、大梅山護聖寺の旦過に宿するに、大梅祖師きたり、開花せる一枝の梅花をさづくる霊夢を感ず。祖鑑もとも仰憑するものなり。その一枝花の縦横は、壱尺余なり。梅花あに優曇花にあらざらんや。夢中と覚中と、おなじく真実なるべし。道元在宋のあひだ、帰国よりのち、いまだ人にかたらず。(同―三八七〜三八八頁)

  この記述についても、私は「道元の大梅山の霊夢の意味するもの―宝慶元年の北帰行―」(『道元禅の成立史的研究』所収)で取り上げたことがある。中でも夢中で出会った大梅法常が与えた一枝の梅華は、優曇華である、ということに注目したいのである。優曇華とは、言うまでもなく、拈華微笑の話に基づいて、釈尊がインドの禅宗の第一祖の摩訶迦葉へ伝法した品であり、『正法眼蔵優曇華』に示す通りである。そして更に「夢中と覚中と、おなじく真実なるべし」と道元は言うのであるから、無実体なのではないのである。しかも、重要と思われることがあるのである。大梅法常から伝法されたのは、いつであったか。私は宝慶元年(一二二五)夏安居以前と推測しているが、確認する確実な資料はないので、ここでは嘉定一七年(一二二四)を含めて、宝慶元年五月一日の天童如浄への面授以前であるとしておこう。両年中であることは多くの研究者が認めていることである。『正法眼蔵面授』には、『正法眼蔵』では特異な年次を入れた文が、冒頭と末尾に二度も出てくるのである。

  大宋宝慶元年乙酉五月一日、道元はじめて先師天童古仏を妙高台に焼香礼拝す。先師古仏はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにいはく、「仏々祖々、面授の法門現成せり」。

  これすなはち霊山の拈花なり、嵩山の得髄なり。黄梅の伝衣なり、洞山の面授なり。これは仏祖の眼蔵面授なり。吾屋裡のみあり、余人は夢也未見聞在なり。(岩波文庫本三―一四三頁)

再び、この年次は取り上げられて、『面授』は結ばれている。

  道元、大宋宝慶元年乙酉五月一日、はじめて先師天童古仏を礼拝面授す、やゝ堂奥を聴許せらる、わづかに身心を脱落するに、面授を保任することありて日本国に本来せり。(同一五二〜三頁)

  この面授が単に道元と天童如浄との出会いを意味しないことは、「霊山の拈花」などになぞらえられていることから明らかである。いわゆるこの事実は伝法である。その伝られた法とは何か。『正法眼蔵三昧王三昧』などに伝えられる天童如浄の語に当たるのである。

  先師古仏云(いわく)、「参禅者身心脱落也、祗管打坐始得。不要焼香・礼拝・念仏・修懺・看経〈参禅は身心脱落なり、祗管に打坐して始めて得(よ)し。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を要せず〉」(岩波文庫本三―三五四頁)

  ここに道元にとって、大梅法常と天童如浄の二人の師より伝法があったことが、道元自身によって語られていることになる。これは何を意味するのであろうか。

さて、先の『正法眼蔵』の『諸法実相』と『嗣書』の二つの巻を見ただけでも、道元と大梅法常の因縁は極めて特異なものと思われる。先の大梅法常の出会いは、後の天童如浄の出会いによって確認されたものではなかったであろうか。

  ところで、大梅法常の機縁の原典は、『正法眼蔵行持に学ぶ』に指摘したように『景徳伝燈録』巻七と断定できよう。

明州大梅山法常禅師は、襄陽の人なり。姓は鄭氏。幼歳にして師に荊州玉泉寺に従う。初め大寂(禅師馬祖道一)に参ず。問う、「如何なるか是れ仏」。大寂云く、「即心是仏」。師即ち大悟す。唐の貞元中(七八五〜八〇五)、天台山の余姚の南七十里の梅子真の旧隠に居す。時に塩官(斉安)の会下に一僧あり。山に入りて拄伺を採らんとす。路を迷(みうしな)いて庵所に至る。問うて曰く、「和尚、此の山に在り来たりて多少の時ぞ」。師曰く、「只だ四山の青又た黄なるのみを見る」。又た問う、「山を出づる路は什麼の処に向かいて去(ゆ)くや」。師曰く、「流れに随いて去け」(5)。僧帰りて、塩官に説似す。塩官曰く、「我れ江西に在りし時、曾て一僧に見ゆ。自後、消息を知らず。是れ此の僧なることに莫(あら)ずや」。遂(かく)て僧をして去きて請うて師を出ださしむ。師偈有りて曰く、「摧残の枯木、寒林に倚(よ)る、幾度か春に逢うて心を変えず。樵客之れに逢うて猶お顧みず、郢人那ぞ苦(ねんごろ)に追尋することを得ん」。大寂、師の住山するを聞きて、乃ち一僧をして到りて問わしめて云く、「和尚、馬師に見えて箇の什麼をか得て、便ち此の山に住するや」。師云く、「馬師、我れに向かいて即心是仏と道(い)いて、我れ便ち這裏に向(お)いて住す」。僧云く、「馬師の近日の仏法又た別なる」。師云く、「作麼生か別なる」。僧云く、「近日又た非心非仏と道う」。師云く、「這の老漢、人を惑乱すること未だ了日有らず。任(た)汝(と)い非心非仏なるとも、我れは只管に即心即仏なるのみ」。其の僧迴りて馬祖に挙似す。祖云く、「大衆、梅子熟せり」。

〈明州大梅山法常禅師者、襄陽人也。姓鄭氏。幼歳従師於荊州玉泉寺。初参大寂。問、如何是仏。大寂云、即心是仏。師即大悟。唐貞元中、居於天台山余姚南七十里梅子真旧隠。時塩官会下一僧。入山採拄伺。迷路至庵所。問曰、和尚在此山来多少時也。師曰、只見四山青又黄。又問、出山路向什麼処去。師曰、随流去。僧帰、説似塩官。塩官曰、我在江西時、曾見一僧。自後不知消息。莫是此僧否。遂令僧去請出師。師有偈曰、摧残枯木倚寒林、幾度逢春不変心。樵客遇之猶不顧、郢人那得苦追尋。大寂聞師住山、乃令一僧到問云、和尚見馬師得箇什麼、便住此山。師云、馬師向我道即心是仏、我便向這裏住。僧云、馬師近日仏法又別。師云、作麼生別。僧云、近日又道非心非仏。師云、這老漢惑乱人未有了日。任汝非心非仏、我只管即心即仏。其僧迴挙似馬祖。祖云、大衆、梅子熟也。〉(禅文化本一一〇頁)

  この因縁を取り上げた天童如浄の語が『永平広録』巻四の三一九上堂にある。この上堂は晩年の建長元年(一二四九)ではあるが、先に示した寛元元年(一二四三)の示衆の『諸法実相』と同様に天童山の如浄の忘れがたい普説と共通するものであったか、同じ普説を改めて取り上げたものとも考えられる。

  上堂。仏仏祖祖の正伝の正法は、唯だ打坐のみなり。先師天童、衆に示して云く、「汝等、大梅法常禅師の江西の馬大師に参ずる因縁を知るや。他、馬祖に問う、『如何なるか是れ仏』。祖云く、『即心即仏』。便ち礼辞し、梅山の絶頂に入りて、松華を食し、荷葉を衣(き)て、日夜、坐禅して一生を過ごす。将に三十年になんなんとするに、王臣に知られず、檀那の請に赴かず。乃ち仏道の勝躅なり」と。測り知りぬ、坐禅は是れ悟来の儀なり。悟は只管だ坐禅のみなることを。当山始めて僧堂あり、是れ日本国にて始めて之れを聞き、始めて之れを見、始めて之れに入り、始めて之れに坐す。仏道を学ぶ人の幸運なり。後に僧あり、大梅に向かって道う、「和尚、馬大師に見えて、何の道理を得てか便ち此の山に住する」。大梅道く、「馬祖、我に向かって『即心即仏』と道えり」。僧云く、「馬祖の仏法、近日又た別なり」。大梅云く、「作(い)麼(か)生(ん)が別なる」。僧云く、『近日、『非心非仏』と道えり」。大梅道う、「這の老漢、人を惑乱すること未だ了期あらざるぞ。任(たと)他(い)非心非仏なるも、我れは祗管だ即心即仏なり」。僧、帰りて祖に挙似す。祖云く、「梅子熟せり」。然れば則ち即心即仏を明らめ得る底の人、人間を抛捨して深く山谷に入り、昼夜に坐禅するのみなり。当山の兄弟、直須(すべか)らく専一に坐禅すべし。虚しく光陰を度(わた)ること莫かれ。人命は無常なり、更に何れの時をか待たん。祈祷、祈祷。〈上堂。仏仏祖祖正伝正法、唯打坐而已。先師天童示衆云、汝等知大梅法常禅師参江西馬大師因縁也不。他問馬祖、如何是仏。祖云、即心即仏。便礼辞、入梅山絶頂、食松華衣荷葉、日夜坐禅而過一生。将三十年、不被王臣知、不赴檀那請。乃仏道之勝躅也。測知、坐禅是悟来之儀也。悟者只管坐禅而已。当山始而有僧堂、是日本国始聞之、始見之、始入之、始而坐之。学仏道人之幸運也。後有僧、向大梅道、和尚見馬大師、得何道理便住此山。大梅道、馬祖向我道即心即仏。僧云、馬祖仏法近日又別。大梅云、作麼生別。僧云、近日道非心非仏。大梅道、這老漢、惑乱人未有了期在。任他非心非仏、我祗管即心即仏。僧帰挙似祖。祖云、梅子熟也。然則明得即心即仏底人、抛捨人間深入山谷、昼夜坐禅而已。当山兄弟、直須専一坐禅。莫虚度光陰。人命無常、更待何時。祈祷祈祷。〉(春秋社本三―二〇六〜八頁)

  天童如浄が大梅法常を馬祖の下での大悟の後に、三十年大梅山で「日夜、坐禅して一生を過ごす」と示されていたのを、道元もほぼ同内容を『正法眼蔵行持』に取り上げている。

大梅山は慶元府にあり。この山に護聖寺を草創す、法常禅師その本元なり。禅師は襄陽人なり。かつて馬祖の会に参じてとふ、「如何是仏」と。馬祖いはく、「即心是仏」と。法常このことばをききて、言下大悟す。ちなみに大梅山の絶頂にのぼりて人倫に不群なり、草庵に独居す。松実を食し、荷葉を衣とす。かの山に少池あり、池に荷(はちす)おほし。坐禅弁道すること三十余年なり。人事たえて見聞せず、年暦おほよそおぼえず、四山青又黄のみをみる。おもひやるにはあはれむべき風霜なり。師の坐禅には、八寸の鉄塔一基を頂上におく、如戴宝冠なり。この塔を落地却せしめざらんと功夫すれば、ねぶらざるなり。その塔いま本山にあり、庫下に交割す。かくのごとく弁道すること、死にいたりて懈(け)惓(げん)なし。(拙著一六三頁) 

更に後半に「梅子熟せり」の話も取りあげられるが、ここでは省略しよう。鉄塔の話は、道元の直接の見聞に基づくものである。大梅の行持を通して、道元の言いたかったこととは、『永平広録』の三一九上堂にある、大梅の行持は只管打坐にあり、坐禅は悟来の儀であり、悟は只管打坐である、ということである。この「坐禅は悟来の儀」の説は、南嶽懐譲と馬祖道一話の「磨塼作鏡」の話の「密受心印」後の坐禅であったこととが深く結びついていることはいうまでもない。

  ところが、大梅法常の大悟の一般的な解釈とはどのようなものであろうか。看話禅の大成者である大慧宗杲の二つの説を見てみよう。第一は『四巻本普説』巻一の「李善友、普説を請う」の例である。

   復た云く、今日李某、在堂の慈母林氏の為に、平安を祈保し罪愆(ざいけん)を懺滌せんとして、老漢(わたし)を請して衆の為に普説せしむ。且く道え、箇の甚麼を説いて你の為にせん。人人箇の般若の種性有り。忽然(も)し一言の下に、漆桶を打破せば、直下に無心にして、林氏の三世の罪業、一時に氷釈し、寿命堅固にして、般若の種性と斉等ならん。疑うべきこと無し。其の無心の功徳は、仮(た)使(と)い大地、若しくは草、若しくは木、尽法界の一切衆生に、一音に演説して、恒河沙数の功徳有るとも、比の一念の無心の功徳は、百分の一に及ばず、千分の一に及ばず、万分の一に及ばず、百千万億分の一に及ばず、乃至、不可説不可説恒河沙数分も亦た一に及ばず。其の無心功徳は、較量の処無し。且く道え、那箇か是れ較量の処無し。昔、僧有り法常と名づく、馬(祖道一)大師に問う、「如何なるか是れ仏」。大師云く、「即心是仏」。常、言下に領悟し、便ち明州大梅山に往きて庵を卓つ。因に塩官(斉安)の会中の両僧、山に入りて拄伺を採らんとして、偶(たま)たま庵所に至りて乃ち問う、「和尚は此の山に住して多少の時ぞ」。梅云く、「只だ四山の青又た黄なるのみを見る」。又た問う、「山を出づる路は甚麼の処に向かって去(ゆ)くや」。梅云く、「流れに随って去け」。僧、帰りて塩官に挙似す。官云く、「我れ江西に在りし時、曾て一僧に見ゆ。自後、消息を知らず。是れ此の僧に莫(あら)ずや」。後に馬大師聞き得て僧をして去かしめて問う、「『和尚は馬大師に見えて、箇の甚麼をか得て、便ち此の山に住するや』と」。梅云く、「馬大師、我れに向かって道う、即心是仏、と。我れ便ち這(こ)裏(こ)に住す」。僧云く、「馬大師の近日の仏法又た別なり」。梅云く、「作麼生か別なる」。僧云く、「近日又た道う、非心非仏、と」。梅云く、「這の老漢、人を惑乱すること、未だ了日有らざるぞ。任(た)你(と)い非心非仏なるも、我れ只だ是れ即心是仏なるのみ」。僧、帰りて馬大師に挙似す。大師云く、「大衆、梅子熟せり」。這箇は豈に是れ無心の功徳にあらざらんや。

〈復云、今日李某為在堂慈母林氏、祈保平安、懺滌罪愆、請老漢為衆普説。且道、説箇甚麼為你。人人有箇般若種性。忽然一言之下、打破漆桶、直下無心、林氏三世罪業、一時氷釈、寿命堅固、与般若種性斉等。無可疑者。其無心功徳、仮使大地、若草若木、尽法界一切衆生、一音演説、有恒河沙数功徳、比一念無心功徳、百分不及一、千分不及一、万分不及一、百千万億分不及一、乃至不可説不可説恒河沙数分亦不及一。其無心功徳、無較量処。且道、那箇是無較量処。昔有僧名法常、問馬大師、如何是仏。大師云、即心是仏。常於言下領悟、便往明州大梅山卓庵。因塩官会中両僧、入山採拄伺、偶至庵所乃問、和尚住此山多少時。梅云、只見四山青又黄。又問、出山路向甚麼処去。梅云、随流去。僧帰挙似塩官。官云、我在江西時、曾見一僧。自後不知消息。莫是此僧否。後馬大師聞得令僧去問、和尚見馬大師、得箇甚麼、便住此山。梅云、馬大師向我道即心是仏。我便向這裏住。僧云、馬大師近日仏法又別。梅云、作麼生別。僧云、近日又道非心非仏。梅云、這老漢惑乱人、未有了日在。任你非心非仏、我只是即心是仏。僧帰挙似馬大師。大師云、大衆、梅子熟也。這箇豈不是無心功徳。〉(東洋文庫本巻一―六〇丁左〜六一丁左)

  この一段は「無心の功徳」を述べたものである。本具の仏性を大悟すれば、無心となり、その無心の功徳は、如何なる功徳にも勝るものであることが強調されているのである。大悟がなければ、無心も得られないと説いているのである。その無心の功徳を大梅法常の行状で例証し、大悟後の功徳が述べられているのみである。大慧宗杲が更に続いて、次のように説いていることでより一層そのことが確認される。

  馬大師、他(大梅)に向かって道う、「おだやか    即(まさ)に汝が心是れ仏なり」と。言下に於て怗怗地として便ち安穏なり。箇の(大梅)山子に住得しても、也た心地安穏にして、在在処処、一時に安楽なり。

〈馬大師向他道、即汝心是仏。於言下怗怗地便安穏。住得箇山子、也心地安穏、在在処処一時安楽。〉

  つまり、無心とは、常に心が安穏なる様を指しているのである。先に『弁道話』を引用し、道元が「得道のなかに修行すべし」と説いているのに対して、元来、司空本浄が「無修無作」を説いていたことを指摘したのと、ここは同様といえよう。大梅が修行を強調したとは全く解釈してないのである。

  第二は『四巻本普説』巻四の「蘇宣教少連に示す」の「法語」の例である。

  きっぱりとした志をもってこの事を究めんと思えば、心をゆったりとさせ、対象に捕らわれることも、静寂の境界に滞らないようにしなければならない。対象に会えば、それに順応しなければならない。成道を希望する意識をもたず、日頃の対応で精神の涸渇を生じてはならない。あたかも生きたライオンが諸々の動物の中にいてもゆったりと振舞うようなもので、ある時は飛び上がり、ある時は身を翻しても、もとよりひっくり返ることはない。真実の手がかりは、ただこのようなのである。月日の経つうちに自然と悟りと一枚となるのである。

  妙喜(わたし)はいつも禅の道を学ぶ者のために説いている。禅を学ぶ者は、ただ二つの禅病がある。一を忘懐(意識の涸渇)といい、一を著意(精神の錯乱)という。精神が錯乱すれば、心が散乱し、意識が涸渇すれば、心が沈着する。この二種の禅病を除かなければ、生死の迷いを解決することはできない。それ故に、達磨大師は二祖慧可に言った、「外の対象への心のはたらきを息めさえするば、内心が喘(あえ)ぐことが無くなり、心が墻壁のごとくでありさえすれば、そのまま道に入ることができる」。二祖は達磨の言葉の下にただちに丸裸で飛び出してきた。飛び出して後にどこに安身立命したかを、さて言ってみよ。だが、もしも安身立命の処が有るというのであれば、かつて飛び出さなかったのと変わることはない。それではただ仏に作ることを知ればよい、仏として語ることが出来ないのを心配してはならない。

  聞いているだろう。昔、大梅和尚が江西にいて馬祖に問うた、「何が仏か」。馬祖「他ならぬ君の心がそうだ」。大梅は言下に外の対象への心のはたらきを息めた。外の対象への心のはたらきが息めば、心の散乱は無くなり、散乱が無くなれば、内心はじっと静かになるのである。これが内心が喘ぐことが無いということである。内心が喘ぐことが無ければ、心の安らぎの境界が目の前に現れてくる。心の安らぎの境界が目の前に現れてくれば、行住坐臥も語黙動静も雑りけのない純一になるのである。このような時こそ一つ一つの事物において自己の本地の風光でないものは無い。これを本来の面目とも言うのである。この入口の方式を知り、この事をはっきり知ってから、片隅に放り投げれば、対象に応じても、きっと有無の知見を起こす必要はないのであ。る((6))

〈既有決定志、欲究竟此事、常教方寸蕩蕩地、不著諸相、不住寂滅、遇縁則将順之。無希望成道之意、日用不須管帶。如生獅子、処群畜中、自得安逸。或跳擲、或翻身、元無落地。真実消息、但只如此。日久月深、自然打作一片矣。妙喜常為学此道者説、参禅人只有両種病。一曰忘懐、一曰著意。著意則掉挙、忘懐則昏怛。二種病不除、則不能了生死。故達磨大師謂二祖曰、汝但外息諸縁、内心無喘、心如墻壁、可以入道。二祖於達磨言下、即時赤骨力地跳出。且道、跳出後却向甚麼処安身立命。若有安身立命処、則与不曾跳出無異。但知作仏、莫愁仏不解語。不見、昔日大梅和尚在江西、問馬祖、如何是仏。祖曰、即心是仏。大梅於言下便息諸縁。諸縁既息、掉挙不生、掉挙不生、則内心寂静。夫是之謂内心無喘。内心無喘、則寂滅現前。寂滅現前、則行住坐臥、語黙動静、純一無雑。当恁麼時、頭頭物物上、無非是自巳本地風光、亦謂之本来面目。既知得此箇門戸体裁、了知是事、拈向一辺、触境遇縁、不必将作有無知見。(東洋文庫本巻四―八八丁左〜八九丁右)

  ここの大梅法常の到達した大悟も、二種の禅病である掉挙と昏怛の内、掉挙が生じなくなって、平常の無事禅が現前することを説いたものである。二つの例を見ても、「悟来の坐禅修行」が説かれることはないのである(7)。

  このように見てくると、大梅の行状は道元を通して天童如浄の説まで遡ることができるが、それを原典の『景徳伝燈録』に確認することはできないし、大きな流れの宋代の看話禅の解釈とも異なるものである。また、同じくこの説を現存する『天童如浄語録』で確認することもできない。道元が伝える天童如浄の語は、この大梅の話と同じような例が多く、『天童如浄語録』にないことは、鏡島元隆氏の『道元禅師と引用経典・語録の研究』が示す通りである。同じ話でもそこに道元の希望的説が含まれていることも確かであろう。いわゆる道元禅の日本的展開の問題である(8)。道元禅は天童如浄の延長にあるのでもなく、日本の天台本覚法門の延長でもなく、天台本覚法門が如浄によって否定された後によみがえった新たな宗教という意味である。特に興味ある大梅法常の道元の捉え方は、天童如浄に出会う以前に道元自身が大梅より伝法を承けていたことを伝えていることである。道元の天童如浄から受け継いだ坐禅は、既に大梅法常を通じて「坐禅は悟来の儀」として受用されていたとすべきであろう。それ故に大梅法常と道元霊夢の出会いは、道元禅の成立と深く関わり、道元自身の証上の修・本証妙修説とも関連して考察してよいのではなかろうか。それが道元自身が悟りを求めて坐禅修行したのではない、とする自己の行状に他ならない。

(1)筆者がこの問題を検討するにあたって、常に参考にする先行論文は、鏡島元隆氏の「本証妙修の思想的背景」(『宗学研究』第七号、一九六五年、後に『道元禅師とその周辺』に補訂再録、大東出版社、一九八五年)及び「本証妙修覚え書」(『駒澤大学仏教学部論集』第一八号、一九八七年、後に『道元禅師とその宗風』再録、春秋社、一九九四年)である。

(2)「仏法住持のあと、みなかくのごとし」というのが、道元の立場とすれば、自身の行状においてどのように位置づけられているかを、今回の論文は特に問題にしようとしたものである。

(3)岩波文庫本一―三〇頁及び補注に箇所の指摘は既にある。司空本浄と『弁道話』との関係を詳しく検討したのが、今年の六月十一日に開かれた早稲田大学東洋哲学会第二十八回大会での講演の「中國初期禪宗の無修無作説と道元の本證妙修説」であり、『東洋の思想と宗教』第二九号(二〇一二年三月刊行予定)に補筆して投稿することになっている。

(4)筆者の説は、現時点でも改めることはしていないが、反論が菅原昭英氏にある。「江南禅林の期待と道元の活路」(『宗学研究』第三五号、一九九三年三月)及び「道元禅師の夢語り ―『正法眼蔵』より」(『東隆眞博士古稀記念論集  禅の真理と実践』所収、春秋社、二〇〇五年一一月)である。その説の趣旨は、道元にはその時、それに応じる資金がなかったというのである。筆者はなぜ大梅法常かを問題にしたいと思っている。

(5)小川隆氏の『語録の思想史』(岩波書店、二〇一一年)五二〜五三頁に、大梅の「随流去」についての興味深い次のような解説がある。

  「流れに随いて去(ゆ)け」が、川の流れに沿ってゆけば里に出られるという意であるのは、間違いない。現に僧はこのあと、この言葉にしたがって塩官のもとに帰り着く。だが、それと同時に、この語は我々に、よく知られた第二十二祖摩(マ)拏(ヌ)羅(ラ)尊者の次の偈(げ)を想起させる。

心随万境転〈心は万境に随いて転ず〉、転処実能幽〈その転ずる処実に能く幽なり〉。

随流認得性〈流れに随いて性を認得せば〉、無喜復無憂〈喜も無く復た憂も無し〉。

                             (『祖堂集』巻二、頁二九上・頁五六) 

ここで「流れ」は、外界に反応して転変する表層的な心意識の流れ、すなわち第二句にいう「転処」を指し、「性」は深層の本性・仏性を指す。一首の意は「性」は「流れ」を排除するのではなく、「流れ」に即してこそ悟られるということで、これは、さきに馬祖が汾州無業に言った、「即(まさ)に汝の了(さと)らざる所の心こそ即ち是れなり、更に別物無(な)し」の意とよく通じあう。僧は気づいていないようだが、「流れに随いて去け」という一言は、実は「即心是仏」の語とひそかに共鳴しあっているのである。

(6)ここを現代語訳したのは、英訳を助ける為であり、拙論「訳注『大慧普覚禅師法語〈続〉』(下)」(『駒澤大学禅研究所年報』第五号、一九九四年)による。

(7)大梅法常当時の禅者の日常修行は平常無事を旨としていたのではないか、ということについては、注(3)の講演でやや詳しく検討していみた。AASの会場には、元駒澤大学研究員で、『ORDINARY MIND AS THE WAY  The Hongzhou School and The Growth of Chan Buddism』( Oxford University Press,2007)の著者であるマリオ・ポセスキ(Mario Poceski,University of  Florida)氏がフロアに参加していたので、大梅法常の大梅山での生活についてどのように考えるかを尋ねたが、正確には解らないとの返事であった。

(8)筆者は多くこの点を鏡島元隆説を継承してきたが、とりあえず『道元禅師  正法眼蔵行持に学ぶ』(禅文化研究所、二〇〇七年二月)に所収の「附録二  なぜ道元禅は中国で生まれなかったか」を参照されたい。

﹇付記﹈この論文は四月二日にハワイのホノルル(会場:Hawai'i Convention Center)で行われたAAS(Association for Asian Studies)(大会開催日は二〇一一年三月三十一日〜四月三日)での発表の英訳前の元原稿である。既に駒澤大学大学院人文科学研究科仏教学専攻の修士課程二年のジェフェリー・コテック(Jeff rey Kotyk)氏によって、”Dōgen's Views on Practice and Realization and his Dreamed Encounter with Damei Fachang”として英訳され、その抜萃をもって発表は済んでいるので、加筆せずにそのままとした。ただし、注については、今回、補筆したものである。

  筆者の参加したパネル(Panel Number 515)は、旧知の元駒澤大学研究員であったモルテン・シュルター(Morten SchlÜtter,University of Iowa)氏の企画・司会によるもので、テーマは、Panel Description:New Directions in the Study of East Asian Zen Buddhismである。筆者以外の発表参加者と研究発表題目は次の通りである。

Ryan B. Joo(Hampshire College) : Gradual Experiences of

Sudden Enlightenment:The Varieties of Gong'an Son(Zen)

Practice in Contemporary Korea

Didier Davin(École Pratique des Hautes Études): Discovering the Doctrinal Positions in Ikkyu's Kyoun-shu

Yansheng He(Koriyama Kaisei Gakuen University) : The Zen

Oxherding Pictures and Kyoto-School Philosophy

  講評者はグリフィス・フォーク(T.Griffi  th Foulk,Sarah

Lawrence College)氏である。当日、何燕生氏は都合で欠席された。

  なお、コプフ・ゲレオン(Gereon Kopf,Luther College)氏は筆者の論文は興味深いので、英訳文は、Journal of Buddhist Philosophy(SUNY Press)で刊行するように勧められ、その話は進んでいるので、実現すると思われる。

 

駒澤大學佛敎學部論集  第四十二號  平成二十三年十月』からダウンロードした

Pdf論文をワード化したものである。(2022年・二谷・記)