正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 坐禅儀

 

正法眼蔵 第十一 坐禅

    序言

七十五巻配列に従うと『坐禅儀』は第十一に配され、次いで『坐禅箴』は第十二に配置される。奥書によれば寛元元年(1243)十一月に吉峰精舎で大衆に提唱したとする。一方で『普勧坐禅儀』と称される漢文体の四六駢儷体による書体で書かれたものは文字数七五六文字。「当巻」は850文字で和語にて表現されたもので、七十五巻眼蔵では最も短い巻である。

    一

参禅は坐禅なり坐禅は静処よろし。坐蓐あつくしくべし。風烟をいらしむる事なかれ、雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛のうへに坐し、盤石のうへに坐する蹤跡あり、かれらみな草をあつくしきて坐せしなり。坐処あきらかなるべし、昼夜くらからざれ。冬暖夏涼をその術とせり。諸縁を放捨し、万事を休息すべし。善也不思量なり、悪也不思量なり。心意識にあらず、念想観にあらず。作仏を図することなかれ、坐臥を脱落すべし。

「参禅は坐禅なり。坐禅は静処よろし。坐蓐厚く敷くべし。風烟をいらしむる事なかれ、雨露を漏らしむる事なかれ、容身の地を護持すべし」

『普勧坐禅儀』(以下『普勧』と略称)では「夫参禅者静室宜焉」と記されるが、冒頭に「参禅は坐禅なり」と断言する意図は、看話禅との差違を言わんが為のもので、公案を額に掛けての坐禅と面壁の打坐とを強調するものであろう。『普勧』では「尋常坐処厚敷坐物」とする所を「坐蓐厚く敷くべし」と簡略化する。「風烟・雨露」といった外界の刺激を直接身体に受けず、坐禅処を清潔に保ちなさい。との冒頭言です。

「曾て金剛の上に坐し、盤石の上に坐する蹤跡あり、彼ら皆、草を厚く敷きて坐せしなり。坐処明らかなるべし、昼夜暗からざれ。冬暖夏涼をその術とせり」

『仏本行集経』二十七の「爾時菩薩、見魔波旬作如是言、鋪草而坐、内心思惟、発如是願、我今坐彼往昔過去諸仏所坐金剛之処」(「大正蔵」三・七七八中)に於けるー部を参照。ときに坐禅時に部屋を暗くし、数息観的手法を用いる坐禅指導や、過度な空調機能を活用する向きもあるようだが、適度が大切である。

「諸縁を放捨し、万事を休息すべし。善也不思量なり、悪也不思量なり。心意識にあらず、念想観にあらず。作仏を図する事なかれ、坐臥を脱落すべし」

『普勧』では「放捨諸縁、休息万事。不思善悪、莫管是非。停心意識之運転、止念想観之測量。莫図作仏、豈拘坐臥乎」に該当される。

この処を道元の直下で聴聞した詮慧による註解では「諸縁を放捨し、万事を休息すべしとあれば、諸の縁務を払いて、万事を抛て可坐禅と云うように聞こえたり。実に此分を傍らになかるべきにあらねども、一向如此心得れば、取捨の法に聞こゆ。又悪を制し善を教えたるにも似たり。只此の詞をば坐禅の姿が諸縁を放捨し、万事を休息したる姿なり。乃至心意識を離れ念想観等を離れたる姿なり。諸悪を置いて是非と制したるに非ず、諸悪の姿が莫作也と心得るが如し」(「註解全書」七・二二三)と、解説されます。さらに「同箇所」にて「坐臥を脱落すべしとは、坐禅が坐臥にあらざる事を知るを、脱落すべしと云う也」との解釈です。

 

    二

飲食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃をはらふがごとく坐禅をこのむべし。黄梅山の五祖、ことなるいとなみなし、唯務坐禅のみなり坐禅のとき、袈裟をかくべし、蒲団をしくべし。蒲團は全跏にしくにはあらず、跏趺の半よりはうしろにしくなり。しかあれば、累足のしたは坐蓐にあたれり、脊骨のしたは蒲團にてあるなり。これ佛々祖々の坐禅のとき坐する法なり。あるいは半跏趺坐し、あるいは結跏趺坐す。結跏趺坐は、みぎのあしをひだりのもゝの上におく。ひだりの足をみぎのもゝのうへにおく。あしのさき、おのおのもゝとひとしくすべし。參差なることをえざれ。半跏趺坐は、たゞ左の足を右のもゝのうへにおくのみなり。衣衫を寛繋して齊整ならしむべし。右手を左足のうへにおく。左手を右手のうへにおく。ふたつのおほゆび、さきあひさゝふ。兩手かくのごとくして身にちかづけておくなり。ふたつのおほゆびのさしあはせたるさきを、ほぞに對しておくべし。正身端坐すべし。ひだりへそばたち、みぎへかたぶき、まへにくゞまり、うしろへあふのくことなかれ。かならず耳と肩と對し、鼻と臍と對すべし。舌は、かみの腭にかくべし。息は鼻より通ずべし。くちびる齒あひつくべし。目は開すべし、不張不微なるべし。

「飲食を節量すべし、光陰を護惜すべし。頭燃を払うが如く坐禅を好むべし。黄梅山の五祖、異なる営みなし、唯務坐禅のみなり」

「飲食を節量すべし」→「飲食節矣」・「光陰を護惜すべし」→「莫虚度光陰」・「頭燃を払うが如く」の用例は『行持』宏智章にて「ただ永く名利を投げ捨てて、万縁に繋縛せらるる事なかれ。光陰を過さず頭燃を払うべし」(「岩波文庫」㈠三二八)と『礼拝得髄』では「頭燃を払い、翹足を学すべし」(「同」㈡一六〇)と示されます。なお『永平広録』上堂では計九回の「頭燃」の用例が確認できます。「唯務坐禅のみなり」→「唯務打坐被礙兀地」と、それぞれ『普勧』にて示されます。

坐禅の時、袈裟を掛くべし、蒲団を敷くべし。蒲団は全跏に敷くにはあらず、跏趺の半よりは後ろに敷くなり。しかあれば、累足の下は坐蓐に当たれり、脊骨の下は蒲団にてあるなり。これ仏々祖々の坐禅の時坐する法なり」

文意のままに解する。「蒲団」はザブトンではなく尻下に敷くクッションを云う。この蒲団を使用することにより、背筋を持続的に垂直にでき、両膝を床に接地することで、長時間の坐禅にも負荷が掛からない利点がある。時として上座部系道場では蒲団を用いない所もあるが、小乗は大乗の利点を見習い、大乗は小乗の厳格性を参学し、相互の交流が求められる潮流が必要である。

「或いは半跏趺坐し、或いは結跏趺坐す。結跏趺坐は、右の足を左の腿の上に置く。左の足を右の腿の上に置く。足の先、おのおの腿と等しくすべし。参差なる事を得ざれ。半跏趺坐は、ただ左の足を右の腿の上に置くのみなり」

『普勧』では「或結跏趺坐、或半跏趺坐。謂結跏趺坐、 先以右足安左上、左足安右上。半跏趺坐、但以左足圧右矣」とするが、「当巻」による説明が詳述である。

「衣衫を寛繋して斉整ならしむべし。右手を左足の上に置く。左手を右手の上に置く。ふたつの大拇指、先相い拄う。両手かくの如くして身に近づけて置くなり。ふたつの大拇指の差し合わせたる先を、臍に対して置くべし」

「衣衫」の衣は袈裟・衫は上半身に着る袖のある僧衣を云うが、今でいう衣。「寛繋衣帯可

令斉整。次右手安左足上。左掌安右掌上。両大拇指面相拄矣」と『普勧』に云う。

「正身端坐すべし。左へそばたち、右へ傾ぶき、前に躬り、後ろへ仰のく事なかれ。必ず耳と肩と対し、鼻と臍と対すべし。舌は、上の腭に掛くべし。息は鼻より通ずべし。唇・歯相い著くべし。目は開すべし、不張不微なるべし」

「乃正身端坐不得左側、右傾前躬後仰。要令耳与肩対鼻与臍対、舌掛上腭唇歯相著。目須常開、鼻息微通」謂う処は、頭頂部から天上に吊るされるようにイメージし、力まずに自然無為に坐しなさい。との様態です。また「舌の端を腭に掛くべし」とは道教でいう気の循環を取り込んだものだと、教えられた記憶がある。「腭」はあぎ・又はあぎと(和名抄)という。

 

    三

かくのごとく身心をとゝのへて、欠気一息あるべし。兀々と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなはち坐禪の法術なり。坐禪は習禪にはあらず、大安樂の法門なり。不染汚の修證なり。

「かくの如く身心を整えて、欠気一息あるべし。兀々と坐定して思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これ乃ち坐禅の法術なり。坐禅は習禅にはあらず、大安楽の法門なり。不染汚の修証なり」

『普勧』にては多少の字句の異同が認められ「身相既調、欠気一息。左右搖振、兀兀坐定。思量箇不思量底、不思量底如何思量、非思量此乃坐禅之要術也。所謂坐禅非習禅也。唯是安楽之法門也。究尽菩提之修証也」と記述されます。

詮慧の『聞書』では「「兀々と坐定して思量箇不思量底也」とは、坐禅し、定んで、思量すべき事あるべしとにはあらず。坐禅の時は思量箇不思量底なるべし。「坐禅は習禅にあらず、大安楽の法門」とは、習禅にはあらずと云うは、教に談ずる禅定の義にはなしと云う也。大安楽と云うは、坐禅こそ大安楽なれ。教に談ずる楽は、いかにも苦に対したる故に小楽也、非大安楽。「不染汚の修証也」とは、不期成仏、脱落坐臥ぞ。不染汚なるべき故に如此云うなり」と、椅子下で聴聞した詮慧による解説ですが、いま一つ当時の東西両頭による坐禅観を詮慧が記録するので紹介すると、「当時明師東福寺長老聖一房(1202―1280)は、得旨後可坐禅と勧む。建仁寺長老道隆(1213―1278)禅師は、為得旨こそ坐禅をば勧むれ、得旨後は必(ずしも)不可好云々。此の事何れも不当(に)覚ゆ。其は江西大寂禅師・南嶽大慧禅師に参学するに、密受密(心)印よりこのかた常に坐禅すとあり。是は得旨前とも後とも見えず。密受印後とあれば、得旨後も坐禅之条辦異義。又作仏をも不図上は、旨を得んとて坐禅すべくは助法の義なるべし、両様いづれも不当(に)覚ゆ。如何坐し定て思量すべき事あるべしにはあらず、坐禅の時が思量箇不思量底なるなり」(「註解全書」七・二二四―但し『曹洞宗全書』註解一には当該所不見)と記す次第である。