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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第十三 海印三昧 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第十三 海印三昧 註解(聞書・抄)

諸仏諸祖とあるに、かならず海印三昧なり。この三昧の游泳に、説時あり証時あり行時あり。海上行の功徳、その徹底行あり。これを深深海底行なりと海上行するなり。

流浪生死を還源せしめんと願求する、是什麽心行にはあらず。従来の透関破節、もとより諸仏諸祖の面々なりといへども、これ海印三昧の朝宗なり。

詮慧

〇衆法合成此身と、今の海印三昧と、『仏性』に一切衆生悉有仏性と云うと只同事なるべし。

〇諸経に真如ぞ、仏性ぞ、実相ぞ、一心ぞなどと云う其の名異なれども、心が一なるか。或る時は真如を為本、或る時は仏法を為本、或る時は実相を本とし、如此打ち替え打ち替えするか。又教行は各々の法あれども、証の時は只一なりなどと教家には談ず、此事不可然。教行は眼前の法と現われたれば、各別と覚え、証は不現の法なれば、おしひたたけて不知案内故に、何れも一也と云うにてこそあれ。今は教行証いづれも、漏れたる事不可有也。

〇「海」と説く事は、仏法に多くこれを挙ぐ。仏性海・覚海・毘盧蔵海・無尽法界海・無尽蔵海・薩婆若海(智慧なり)などとも云う。

〇「印」は、しるしをしてとも云う。物を定むる心なり。但物を印すると、海をやがて印と仕うとは、差別あるべし。

〇「三昧」は定門と云う、その事の有り様これ三昧也。無他事、其の事を指して三昧とは云うなり。今の三昧は海印なり、日光三昧・月光三昧・一行三昧などと云う事もあり。人間界には光を云うに日月に過ぎたるものなし、所として到らざる事なき故に三昧と云う。「諸仏諸祖とあるに必ず海印三昧也」と云う、此の三昧也と云う「なり」の詞は、教などには、大用三昧(?)ありとぞ可仕。三昧をば仏の所に為して心得べき歟。然而宗門には諸仏諸祖、やがて海印三昧と仕える故に三昧也とあるなり。「三昧の游泳に、説時(教とも云う)あり、証時あり、行時あり」と云う、証に限らず、智を云うにも、権智と云う事あり。是は化他智也、他の為なり。自行智と云うは、今の『法華経』の心、唯一仏乗実相の義なり。達磨宗の如きは冷暖自知と云う、他に依らぬ智と思いたれども、専ら吾我に対したる智也。不可用。

〇説行証とこそ打ち任すは立つを、いま証を中に置きて、証に行を立つる心地は無別義。但教家には如何にも教行証の位を取り乱して云う事あるまじきを、仏家の家常としては、教の所に行証も具し、行の所に教証を具し、三立を一所に置く時、必ず(しも)何れを前後とすべからず。故に如此終りにも置く也。但仏祖の道に、必ず教行証はあるべき也。又自証と云う事あり、教(『維摩義記』・注)にも証(は)不自他(「大正蔵」三八・五一〇中・注)と談ず、但其れも猶自証と云うばかりこそあれ、教行を先に置きて、まづ証なる故に、不自他の詞も無詮。今こなたに談ずる証こそ真実の証なれ、教行を置かざる故に自証なり。又自教自行とも談ずべし、是不次第也。

〇「海上行の功徳、その徹底行あり」と云う、説時あり、証時あり、行時ありとこそ、始めにはあけられたるに、海上行徹底行などと云うて、教証の沙汰なし如何。但教行証一なる故に、只行ばかりを挙げたるも不足の義なし、ゆえに海上行徹底行とあるなり。この「海上行徹底行」は究竟即位と心得べし。又「海上」と云い「徹底」と云えばとて、上ぞ・底ぞ、などと対して説くにはあらず。上と云うも底と云うも、ただ海印三昧のありさまを云うなり、ゆえに「深深海底行なりと海上行するなり」と云う。

〇「還源せしめんと願求する、是什麽心行にはあらず」と云うは、生死の波浪を厭い捨てて、無為寂静に帰入せんと、分限を定めて願求するにはあらず。ゆえに如何なると不審する「心行にはあらず」と云う也。

〇還源返本と談ずるに順流逆流と云う、「還源」は逆流なるべし。

〇「諸仏諸祖の面々」と云うは、始めに諸仏諸祖とあるに、必ず海印三昧也と云う同事也。

経豪

  • 此の打ち立ての諸仏諸祖とあるに、必ず海印三昧の言、てにをはも合わぬように聞こゆ。諸仏諸祖とあるはとも、諸仏諸祖なる時はとも云いたき様に覚え、然而諸仏諸祖が、海印三昧と云わるる道理は、今の言不足なるべきにあらず。「此の三昧の游泳に説時あり、証時あり、行時あり」と云う、此の「游泳」の言は、海の字のたよりなる付けて出さるるか。所詮此の三昧の正当恁麽時には、説も証も行もあるなり。海を以て証とし、行とする故なり。ゆえに「海上行の功徳、その徹底行あり」と云う也。「徹底行」とは滞る物なく、そこまで徹りたる心なり。徹底証とも云うべし、仏法の言、皆徹底の道理なるべし。「深深海底行」と云うも、徹底行の同心なり。所詮涯際なき心なるべし。
  • 誠に「流浪生死を還源せしめんと願求する、是什麽心行にはあらざるべし、従来の透関破節」とは、関(せき)を透し、節を破すとは解脱の言也。「諸仏諸祖の面々」もとより透関破節也と云えども、今海印三昧の一時の現成の時は、「海印三昧の朝宗」と云わるる也。

 

仏言、但以衆法、合成。起時唯法起、滅時唯法滅。此法起時、不言我起。此法滅時、不言我起。前念後念、念々不相待。前法後法、法法不相対。是即名為海印三昧。この仏道、くはしく参学功夫すべし。得道入証はかならずしも多聞によらず、多語によらざるなり。多聞の広学はさらに四句に得道し、恒沙の徧学つひに一句偈に証入するなり。

いはんやいまの道は、本覚を前途にもとむるにあらず、始覚を証中に拈来するにあらず。

おほよそ本覚等を現成せしむるは仏祖の功徳なりといへども、始覚・本覚等の諸覚を仏祖とせるにはあらざるなり。

仏言、但以衆法、合成此身。起時唯法起、滅時唯法滅。此法起時、不言我起。此法滅時、不言我起。前念後念、念々不相待。前法後法、法法不相対。是即名為海印三昧。

詮慧

〇「衆法」と云う、衆の字(を)心得る方さまざまありぬべし。衆生と云うにも各々あるべし、人衆生・畜衆生、各々也とも云うべし。人衆生の内、猶又業報の善悪によりて、各別さまざまなるべし。又総属別名と談じて、多かる総てに仰せて、衆生と云う文字を置けども、この内一を云わんとして衆生の名あるべし。経に一衆と云う詞もあり、「衆」と云うは、多く集まるに尽きたる詞なり、諸と云う同心なるべし。然而一衆生と談ず、今の「衆法合成」の義もよくよく可心得、三界唯一心を衆法と云うべしや。

〇この「衆法」は、万法・諸法・百草などと云う同じ詞也、「合成此身と云う」。合成此法とも云うべし。「身」と云わば又、尽十方界真実人体の身なるべし。此の「合成」は際限あるべからざるなり。総ては衆法不合成時刻不可有也。「合成此身」と云うを吾我の身と不可思、合成法身とも云うべし。

〇地水火風等の四大已下、諸法を取り合わせて「身」と云うにはあらず。衆法の「衆」は只一と心得べし。但以衆法合成此挙頭とも、但以衆法合成此鼻孔とも、乃至拄杖払子とも云わんが如し。此の問いの一切の詞を、今の此身の「身」に取り替えて心得べし。衆与一は一多相即の義なるべし。

〇「衆法合成」と云わん時は、起滅の詞もあるべからざる也。何を「起」とも「滅」とも云うべきぞや。

〇「起時唯法起、滅時唯法滅。此法起時、不言我起」と云う、「此法起時、不言我起」と云う(は)、法(の)外に我と云う事不可有ゆえに不言也。但「いわず」と云うも、云うに対して云う故に、なお不道にはあらずと云う。この法より外に我あるべからず、ゆえに「不言我起」なり。此法滅時不言我起の義(は)同上、起三界一心なれば不言一心也と云わんが如し。不言と云えばとて、嫌う心地にて不言と云うにはあらず。起滅唯法なれば必ず不言我起とも不言我滅とも云わるる也。唯法の上はすべて我と云う事なき故に、不言の詞出でく。或人疑日、教家には会不会・覚不覚・悟不悟などと云う詞を用いるには、必ず会はさとり是れ仏の位、不会は迷い是れ凡夫の位と定む。仏法の上には会不会共(に)仕うなり、如然ならば今「不言我起」と云う、又言我起とも云うべきか。答日、誠(に)不の字を置不置事、仏家の故実なれば、言我起とも云わぬべけれども、ここには尤も不言と云いて、言とばかり云わんと云う風情は不可有。其の故は此の「不言」の詞は、我に付けて云い出す詞也。唯法と云う上は、我と云う事跡を削りて不可寄。其の上は不言も言も不可有ゆえに。又引き分けて言我起と云わんと、云う義不可有(不言あるべからざらん上、まして、言我起あるべからず)。抑も此法と起滅を取り伏せぬる上は、我も法の上に置いて、法我とはなどか云わざらんと云う義もありぬべし。法の我は大我なるべし。或いは法身周遍法界と説き、或いは尽十方界真実人体の我なるべし。小我は外道の見なり、常楽我浄の四顛倒なり、此我なるべし。起は生なり、滅は死也と、覚えたれども、さにはあらざるべし。

〇此の「起滅」は我等が生死にあらず。我が身につきて云わん邪見也。世間に云う起滅は、只一時の見也。物一を置いて、それに付けて起滅をば心得也。今の起滅は法の起滅なる故に、際限なき也。

〇「此法起時、不言我起。此法滅時、不言我滅」と云うは、起時滅時唯法ならんには、我と云われ難し。

〇「前念後念不相待、前法後法法々不相対」と云うは、此の前後の字は不用にて、念の字ばかりを取る故に、念とは云うなり。法々又同。

〇嶺南人段、『仏性』の談の時、仏性は成仏より先に具足せるにあらず、成仏より後に具足する也、仏性必ず成仏と同参する也と云う。この道理に通じぬる時は、成仏より先に具足する云わんも心得ぬべし。今の前後も是程也、しかあれども前後の詞出で来ぬれば、相待相対する心地なるを、重ねて念々とも法々とも云う時、相待相対する事あるべからず。たとい対すと云うとも大乗因者諸法実相也、大乗果者亦諸法実相也と云う。因果程の事也。

〇「得道入証は必ずしも多聞によらず」と云う、一師の下にて遍参すと云うにて可心得合。「四句に得道し一句証入す」と云う。たとえば周利盤特が守口摂意身莫犯、如是行者得度也と云うが如し。此の一句に了達しき(或三年或一夏間、此文覚ゆと云々)、千経万論を多聞広学すとも必ず(しも)得道すべきにあらず。四句にても可足、一句にても可証。又一巻『金剛般若(経)』を聞学せんをば、多聞広学と立て、ただ若以色見我、以音声求我(「大正蔵」八・七五二上・注)等の四句許りを聞学せば、少聞狭学とも云うべし。但所詮四句にてもあれ、一偈にもあれ得道入証せば多聞広学なるべし、不可謂小聞哉。

〇「恒沙の徧学ついに一句偈に証入するなり、いわんやいまの道は」と云う此の「道」は、但以衆法合成の事也。

〇「始覚本覚」縦い始覚にもあれ本覚にもあれ、前途に位を置いて拈来せんは、仏祖の道には不足也。ゆえに是をくだして「始覚本覚等の諸覚を、仏祖とせるにはあらざる也」と云い、仏祖の方よりは始覚本覚等の道理を、明らむれば「仏祖の功徳也」と云うなり。

〇教に始覚は本覚に冥すと云う、又始本不二(『五教章通路記』三「大正蔵」七二・三一六中・注)と談ず。この宗門には釈迦文仏、三十にして成道し御し時、大地有情同時成道と被仰。ゆえに始覚と取り難し、今又成道し御せば本覚と難云。始覚本覚を共に超越したる成道と云うべき也。如此云えば、又さればこそ冥すと云えど心得る族ありぬべし。然而冥と云うは、猶始覚本覚ともに立て合わせて、冥と云う時に相対能所の見、難離也。

経豪

  • 是は如文。まことに仏法得悟、広学多聞によるべからざるか。「得道入証」の縁は、実に広学多聞にもよるべからず、四句一句に得道するなり。徳山の十二擔の書籍も、老婆子が一問にこそ閉口したりしか、其の例多し。
  • 是は海印三昧の姿なり。実(に)本覚を待つにあらず、始覚沙汰に不及道理あきらけし。
  • 仏祖の道に、本覚等の詞を現成せしむる事ありと云えども、「始覚・本覚等の諸覚を仏祖とせるにはあらず」と云う也。これ則ち本覚と云う詞は、ゆめゆめ捨つべきにあらざれども、教家論師等の所詮の如く、不談所を「仏祖とせるにあらず」と嫌わるるなり。
  • はじめに所被出の文を、重ねてここに又文字一も不違被書出事、尤も不審なり。逐此不審可決定也。是より後は右に所出の「仏言但以衆法合成此身」の一段を、文々句々に被釈也。左に云うが如し。

 

いはゆる海印三昧の時節は、すなはち但以衆法の時節なり、但以衆法の道得なり。このときを合成此身といふ。衆法合成せる一合相、すなはち此身なり。此身を一合相とせるにあらず、衆法合成なり。合成此身を此身と道得せるなり。

詮慧

〇「いわゆる海印三昧の時節」と云う段。「合成此身と云う」は、三界唯一心の心と、此身の身とは同可心得合。

〇「一合相」と云うは、教に打ち任し談ずるには、五蘊等の一合したるを人身と為す、是は不可然。但以衆法合成此身を一合相と云う。必ずしも身とのみ不可心得、衆法身なるべし。此の壊身を指して一合相と云う。さればとて、又嫌いて云わじとにはあらず。「此身」と云うは、尽十方界真実人体と云わん時は、此身をば取り出だすまじ、衆法合成の此身なり。

〇「一合相は此身也、此身を一合相とせるにあらず」と云う心地は、此法起時、不言我起法と云わんが如し。如此可心得合也、或又三界一心也。一心は三界に非ずと云わんが如し。

経豪

  • 仏言の但以衆法合成此身を、打ち任せて人の心得様は、以衆法此身を合成すと云うは、地水火風等の諸の法を以て、此理を合成すと被心得ぬべし、非爾。今此身と云わるる「身」は、尽十方界の全身也。而今(の)「合成此身」とは諸の物を取り集めて、造作したる様にはあらず。尽十方界全身の上には、是に漏れたる一法あるべからず。始めて強為して集めたる義に非ず、以此道理合成此身とは云う也。今の海印三昧の詞が、やがて「但以衆法の道得」とは云わるる也。又「衆法を合成せる一合相即此身也、此身を一合相とせるにあらず」。「衆法合成也」とは只同事を打ち替えたるなり。是は此身の道理の欠けたる所なく、円満したる道理を被述なり。「合成此身を此身と道得せる也」とは、上には衆法合成此身と云えば、猶物の集めたるように聞こゆ、今は合成此身とあり。知りぬ此身を合成と云う事を、衆法が此身なりける道理顕然也。

 

起時唯法起。この法起、かつて起をのこすにあらず。

このゆゑに、起は知覚にあらず、知見にあらず、これを不言我起といふ。

我起を不言するに、別人は此法起と見聞覚知し、思量分別するにあらず。

さらに向上の相見のとき、まさに相見の落便宜あるなり。

詮慧

〇「起をのこすに非ず」と云う、是は法起なる故に残すに非ずと云う也。法の起なれば知覚知見にあらず。法がやがて起なれば起のこさざる也。我起は法也、法と起とを置いて、こなた・かなたへ取るにあらず。起法は此身と可心得、別人なし此身一人也。

〇「落便宜」と云う、たとえば便宜を得たりなどと云わんが如し。

経豪

  • 是は「起時唯法起」の道理の外に、又残すべき起なき道理を如此被釈也。
  • 知覚知見にあらざる所が、今「不言我起」とは云わるるなり。
  • 「我起を不言」とは、実(に)別人ありて「此法起と見聞覚知し、思量分別する」人不可有之に如此云うなり。
  • 「不言我起」の上に又相見を許さば、起は起と相見し、滅は滅と相見する道理あるべき所を、如此云う也。

 

起はかならず時節到来なり、時は起なるがゆゑに。いかならんかこれ起なる、起也なるべし。すでにこれ時なる起なり。皮肉骨髄を独露せしめずといふことなし。

起すなはち合成の起なるがゆゑに、起の此身なる、起の我起なる、但以衆法なり。声色と見聞するのみにあらず、我起なる衆法なり、不言なる我起なり。

不言は不道にはあらず、道得は言得にあらざるがゆゑに、起時は此法なり、十二時にあらず。此法は起時なり、三界の競起にあらず。

詮慧

〇「いかならんかこれ起なる、起也なるべし」と云う、是は時節の到来、不到来の差別なき程を云わんとて、起也なるべしと云う。

〇「起時は此法なり、十二時にあらず。此法は起時なり、三界の競起にあらず」と云う、十二時にあらず、三界の競起にあらずと云う事を、等しめて三界の事を云うかと覚えたれども、ここには起時と云う時ばかりをこそ沙汰する時に、十二時と三界の競起とをあらずと云う事を、等しめて心得んとにはあらず。ゆえに如此云う「十二時は此法起時の時にあらず」、又「三界競起とも不可云う」。三界の競起にあらずと云う成劫懐劫などと云う世間の起ぞ、三界競起と云う時に今はあらずと云う也。

〇「我起なる但以衆法なり、声色と見聞するのみにあらず」と云う、衆法が声色とも量法とも云わるる也。

〇「不言は不道にはあらず、道得は言得にあらず」と云う、仏法の上の詞には起滅を生死とも取らず、同とも取らず。同と云うも、物二を並べて同と云わねば、不同と云う詞も又世間に物を二並べて、不同と云うにてなければ同不同・会不会何れも障りなく可仕。所詮生も死も同も不同も、如何ようにも引きなして仕う。是れ言語に拘わらぬ本意なり。

経豪

  • 「起の時節」とは、今海印三昧並起の時節なるべし。「いかならんか是起なる、起也なるべし」とは、起なる時節は起也。起の外に余物なき故に、起与時は取り放たるべからざる道理也。
  • 起与時(は)一物なる故に、至りて親しき故に「皮肉骨髄を独露せしむ」と云う也。汝得吾皮肉骨髄の心地なり。
  • 初めには合成此身と云う、今は起の上に衆法合成の言を付けて、但以衆法合成起と可云也。此身の無辺際様に、起も又海印三昧の起なる故に、辺際あるべからず。又向上の上には「声色見聞する」義もあるべしと如前云。
  • 「不言」と云えばとて、詞なきにあらず。「道得」と云えばとて、云いたるにあらざるなり。又「起時」と云うは、十二の時にあらず此法なり、此法とは起時なり。此の「起時」は、三界の内に物の競い起こりたる義にてはなき也と云う心地也。又此法を起時と云えば「十二時にはあらず」。起時を此法と談ずる時は、此の「三界の競起にあらず」とは、三界唯心の三界なるべし、只世間の十二時を嫌いたるように心得れば、猶取捨法の心地失せざるなり。

 

古仏いはく、忽然火起。この起の相待にあらざるを、火起と道取するなり。

古仏いはく、起滅不停時如何。しかあれば起滅は我我起、我我滅なるに不停なり。この不停の道取、かれに一任して辨肯すべし。

この起滅不停時を仏祖の命脈として断続せしむ。起滅不停時は是誰起滅なり。是誰起滅は応以此身得度者なり、即現此身なり、而為説法なり。過去心不可得なり、汝得吾髄なり、汝得吾骨なり。是誰起滅なるゆゑに。

詮慧

〇「忽然火起」と云う(『法華経』譬喩品此文あり)、あい対する事なく早く起こると也。これ法華の姿が、かく云わるるなり。「この起の相待にあらざるを火起と道取する也」と云えり、顕然也。

〇「古仏云、起滅不停時如何」と云うは、不停は無尽の義也、生也全機現の心也。世間の道理にはやがて、起滅の法を不停なるものと心得、起は生、滅は死と心得る故に、今はさはあるまじ。心不可得を心得るにも、心を三界と体脱しぬる上は、可得とも不可得とも沙汰の限りにあらず。只心は不可得と可心得、三世不可得は只一心不可得也。一心過去也、一心現在也、一心未来也。三世に対して過ぐるぞ、留まらぬぞと不可云うが如く、我々起、我々滅と云う時に不停也、不言・不待・不言ぞに取り替える許り也。起の上にても不停、又滅の上にても不停也。

〇「かれに一任して」と指すは、我々起の事也。

〇「起滅不停時を仏祖の命脈として断続せしむ」とは、これ何れを断じ、何れを続せしめんと云うにあらず。この起滅不停時の道理を、仏祖の命脈として取捨せよなどと云わんが如し。起滅共に法なれば、起のとき滅とも仕うべし、初中後滅なる故に。

経豪

  • 此の「忽然火起」は『法華(経)』の譬喩品の文なり。三車を儲けて火宅の門を致さんと被儲。方便尤相待の法と云いつべし。然而一乗の法の上の相待(は)、相待にあらざるべし。「忽然」と云えば俄か物の、ふと出で来たるように聞こゆ。「この起の相待にあらざるを、火起と道取する也」とあれば、不可及不審。詮は衆法合成此身の上の起なるべし。
  • 「起滅不停時如何」と云うは、起滅の姿(が)不停時なるべし。其の故は起の姿、いづくを初終と難取、無辺際の起なるべし。滅(も)又同之、此の道理が不停時なるべき也。諸法皆不停時の道理なるべし。此の道理が如何とは、例の云わるるなり。「起滅は我我起、我我滅なるを不停時」と云う、如文。「此の不停の道取、彼に一任して辨肯すべし」とは、起滅を彼と指すか。
  • 「この起滅不停時を仏祖の命脈として断続せしむ」とあり、如文。此の「起滅不停時の道理が是誰起滅」と云わるる也。其の故は起滅の不停時をば、たれありて起滅とも、不停時とも見るべきを、起滅をば起滅が見、不停時をば不停時が見るべきが故に、「是誰起滅」と云わるる也。

 

此法滅時、不言我滅。まさしく不言我滅のときは、これ此法滅時なり。滅は法の滅なり。滅なりといへども法なるべし。法なるゆゑに客塵にあらず、客塵にあらざるゆゑに不染汚なり。

ただこの不染汚、すなはち諸仏諸祖なり。汝もかくのごとしといふ、たれか汝にあらざらん。

あるはみな汝なるべし。吾もかくのごとしといふ、たれか吾にあらざらん。前念後念はみな吾なるがゆゑに。

経豪

  • 「此法滅時は不言我滅」と云わるるなり。此法滅時の外に余物なき故に、此法滅時と不言我滅と別ならざる故に、まさしく「不言我滅の時は、是れ此法滅時なり」と云わるる也。此の「滅」、我々が生滅の滅にあらざる故に滅と云う。生滅の滅にあらざる所が「滅也と云えども法なるべし」と云わるるなり。「法なる故に客塵に非ざる」条勿論也。「客塵にあらざる故に不染汚」と云う非可疑。
  • 「この不染汚すなわち諸仏諸祖也、汝も如此と云う」、是は六祖の南嶽を印可し給いし御詞を被引出也。汝亦如是と云う時、汝に漏るる一法あるべからず、故に「誰か汝にあらざらん」。「前念後念も皆汝なるべし」、汝と云う詞に、前念後念を持たせて談ずれども、打ち任せて身の中に心意識を置いて、念慮知覚を云う義にあらず。前念後念も汝も、只一なりと可心得。吾と云う時も、只汝程の道理なるべし、聊かも不可違也。

 

この滅に多般の手眼を荘厳せり。いはゆる無上大涅槃なり、いはゆる謂之死なり、いはゆる執為断なり、いはゆる為所住なり。いはゆるかくのごとくの許多手眼、しかしながら滅の功徳なり。

滅の我なる時節に不言なると、起の我なる時節に不言なるとは、不言の同生ありとも、同死の不言にはあらざるべし

すでに前法の滅なり、後法の滅なり。法の前念なり、法の後念なり。為法の前後法なり、為法の前後念なり。不相待は為法なり、不相待は法為なり。不相対ならしめ、不相待ならしむるは八九成の道得なり。

滅の四大五蘊を手眼とせる、拈あり収あり。滅の四大五蘊を行程とせる、進歩あり相見あり。

詮慧

〇「滅の我なる時節に不言なると、起の我なる時節に不言なるとは、不言の同生ありとも、同死の不言にはあらざるべし」と云う、起の二の法に似たれども、不言の方を取りて同生と云う不言の詞は、同じと云えども起滅の方は不同なるが故に、しばらく同死の不言にはあらずと云うなり。相待相対の詞あるべきにあらず、しかれども如此つかうなり。

経豪

  • 「この滅の上に多般の手眼を荘厳せり」とは、右に云う所の「無上大涅槃・並謂之死・執為断・為所住」等の詞なり、此の外千万の詞あるべし。是は六祖の無上大涅槃・円明常寂照・凡夫謂之死・外道執為断と被仰、御詞を被引也。是はさしも殊勝なる無上涅槃を、凡夫は是を死と見、外道は断せんとす。ゆえに嫌いたる御詞かと聞こゆ。但此の御詞を今は滅の荘厳とせり、然者全く嫌う詞と思うべからず、是を「滅(の)功徳」と云うべし。
  • 是は滅の時の不言と起の時の不言と、打ち任せては起滅は替われども、不言の詞は起滅ともに同じと被心得ぬべし。其れを起の時の不言は起に付け、滅の時の不言は滅に付けて、各引きしろはせしと云う心なり。ゆえに「不言の同生」とは、起滅の不言は滅に付け、起の不言は起に付けんと云う義なり。
  • 是は法の上の前後、法の上の前念後念なり。「為法の前後法、為法の前後念」(は)、為の言の替わりたる許り也、只同心なるべし。「不相待は為法也、不相待は法為なり」とは、不相待(と)不相待、聊か違い似たれども、心(は)同じかるべし。法の道理不可相待、不可相対也。此の道理が為法・法為と云わるる也。「不相対ならしめ、不相待ならしむるは八九成の道得也」とは、不相待の詞も、不相対の言も、ともに満足の道得也と云う心なり。
  • 八九成の道、十成に及ばざればとて、不足也と不可云、満足の詞也。
  • 起には四大五蘊と云う事もありぬべし。滅の四大五蘊と云う事名目不被心得。但一法究尽の上に何れの詞か漏れん。所詮滅の上に「四大五蘊・拈・収・進歩」等あるべし。又「相見あり」と云えり。此の相見いかなるべきぞや、滅が滅に相見すべきなり。

 

このとき、通身是手眼還是不足なり、遍身是手眼還是不足なり。おほよそ滅は仏祖の功徳なり。

詮慧

〇「還是不足」と云うは、世間に云い用いるが如く、物の足らぬ事を不足と仕うべし。これ足らざるにはあらず、通身是手眼を又不足と可仕。これも満足と云わまほし、けれども不足と云うべからず。故に不足と云う(は)、非可驚。上に進と云うも、前に進むにてなし、ゆえに不足と仕う。相見と云えども両人相見にてなし、是程の不足也。通身遍身と云う程にては、手眼とばかり、とりわき不可云ゆえに不足と云うとも心得ぬべし。但此の「手眼」は又無際限手眼なる時に、不是とも満足とも難云、滅の手眼、滅の行程手眼も又如是。

経豪

  • 此の言実には争か不足なるべきなれども、起滅の徳を賞翫せんとて如此云也。

 

いま不相対と道取あり、不相待と道取あるは、しるべし、起は初中後起なり。官不容針、私通車馬なり。滅を初中後に相待するにはあらず、相対するにあらず。

従来の滅処に忽然として起法すとも、滅の起にあらず、法の起なり。法の起なるゆゑに不対待相なり。

また滅と滅と相待するにあらず、相対するにあらず。滅も初中後滅なり、相逢不拈出、挙意便知有なり。

従来の起処に忽然として滅すとも、起の滅にあらず法の滅なり。法の滅なるがゆゑに不相対待なり。

詮慧

〇「官不容針、私通車馬」とは、この語世俗より出でたり。たとえば公け事には、針をも容れじとし、私には車馬をも通ずれば、わたくし勝ちたる詞と聞こゆるを、いま所引は起は初中後起なれば、又他を不交る所の証に「官不容針」と仕い、滅又初中後滅にて他を不交る所の証に、初中後を通ぜさせて「私通車馬」と云う也。所詮「容・通」之二字を為取也。

〇「従来の滅処に忽然として起法す」とは、三界唯一心と談ずる程にては、起も三界、滅も三界なるべければ、滅の所を指して起とも仕うべき也、三界一心なる故に。

〇「滅与滅相待するにはあらず、相対するにあらず」とは、滅与滅と云う上は相待・相対と非可嫌と覚えたれども、世間に人与人こそ相見すれば、滅与滅もここには云わじと也。

〇「滅も初中後滅也、相逢不拈出、挙意便知有」とは、「相逢」と云えども自他相逢するにあらず。「不拈出」と云うも、何物を不拈出と聞こえず、故に不容針にあたる。「挙意便知有」と云う、挙意すればやがてある事を知る也(挙意をやがて知有とするなり)。  この有は有無の有にあらざるべし、故に私に通車馬にありたる。相逢不拈出と云う詞、やがて挙意便知有なるなり、此れ知慮知の知にあらず。上に相逢不拈出と云う心にて如此云う也。

経豪

  • 是は「起の時は初中後起なり、滅の時は初中後滅なり。官には針をも容せず、私通車馬」とあれば、私を先とし不忠なるように聞こゆ。只此文を今被引出心地は、起滅の二に此言をあつる也。官は官にて通り、私は私にて一筋通さんの義也。別無子細、是と云うも起の独立の姿を表さん為、滅の独立を示さんが為なり。
  • 是は「従来の滅処に忽然として起法すとも」、滅の起になるとは云うべからずと云う心地なり。故に「法の起なり」とあり、「法の起なる道理が不対待相」とは云わるる也。
  • 「滅は滅にて相対すべからず」と也、滅与滅相対すと云う義もあるべけれども、ここには「滅は滅にて通りて不可相待とある也、滅は初中後滅なり」。「相逢うては不拈出」とは、相逢えども誰か拈出すべしと云う事なし。「挙意便知有」とは打ち任せては以意物を知る。是は意を智と取るなり、是は起滅の相待せざる義を表さん料り也。
  • 是は前に従来の滅処に忽然として、起法すとも滅の起にはあらず。法の起也と云いつる様に、起に滅を取り替えたる許り也、同心なるべし。

 

たとひ滅の是則にもあれ、たとひ起の是即にもあれ、但以海印三昧名為衆法なり。

是即の修証はなきにあらず、只此不染汚、名為海印三昧なり。三昧は現成なり道得なり。背手摸枕子の夜間なり。夜間のかくのごとく背手摸枕子なる。摸枕子は億億万劫のみにあらず、我於海中、唯常宣説妙法華経なり。

詮慧

〇従来の滅処に忽然として起法すとも、滅の起にはあらず、法の起也と云い、今又従来の起処に忽然として滅すとも起の滅にあらず、法の滅也と云う。如此起滅を挙げられて、「たとい滅の是則にもあれ、たとい起の是即にもあれ、但以海印三昧名為衆法也。是即の修証はなきにあらず、只此不染汚、名為海印三昧也」とあり、是は起の所にも滅し滅の所にも起すとも云うべしとなり。起滅ともに法の詞なる故に、ただ起の時を是即と説き、滅の時を是即と云わんとにはあらず。起の時も滅と仕い滅の時も起と云うべし。先には起滅を不相加、今は又起の所に滅とも仕い、滅の所に起とも仕う。是即は滅の所の起なるべし、法の起滅は不染汚の起滅なり。

〇「但以海印三昧名為衆法」と云う人の三昧にてはなし、海印三昧也。海印三昧と名づけて衆法とす、この衆法を此身とす。故に海印三昧と衆法と此身と一也、不染汚を以て海印三昧とす。

〇「背手摸枕子の夜間なり。夜間のかくのごとく背手摸枕子なる。摸枕子は億億万劫のみにあらず」と云うは、「背手摸枕子」をやがて夜間と取る、回頭換面ほどの義なり。「夜間」と云うも明らかに物を見たるにあらず。「背手」と云うも、手を後ろにしたるまさしき心地ならず。「さぐる」と云うも取り得たるにあらず、「億億万劫」までも限らずとあり得る所ありとも見えず。取る所もあり、明らかなる所もありと云わば、猶起滅相対の心地もあるべし、染汚なるべし。明らかなる眼には、一塵も見えずと云う程の心地也。明眼をば背手摸枕子に心得合わすべし。此の背手摸枕子(は)、通身是手眼と云う程の事也。

〇「我於海中、唯常宣説妙法華経」と云う、此の心地は「我於海中」には、いかなる法をか説くと云う也。又「唯常宣説妙法華経」は、いかなる所にて説くぞと云う也。我於海中の詞(は)、説法華経と聞こえ、説法華経の所に海中あらわる故に、不言我起なり。法華の詞とは法華を解る所を云うなり、又この我は仏と聞こゆ。海中は如龍宮にて道場を儲(設)け、宣説妙法華経は、説法と如此分けて聞こゆれども現身説法あり。身と云うも法と不可差別、又「我於海中」は十方仏土中唯有一乗法なるべし。

経豪

  • 是は文は是即名為海印三昧とあるを、ここには「但以海印三昧名為衆法」とあり。上には衆法合成此身已下、色々の法を挙げて是即名為海印三昧とあり、今は「海印三昧名為衆法」と云えり。打ち返したり、只同心なるべし。所詮衆法合成此身已下を以て海印三昧とし、今は海印三昧を以て衆法合成此身と云うべし、只同心なり。
  • 「是即」の詞は、又総表の詞かと聞こゆるを、今は是即の詞を一の公案被出。此の「修証」は「不染汚名為海印三昧」と云う也。手眼とは千手千眼を談ぜし時、眼はあれども眼の究尽する時は、夜間にて物を見する手あれども、「背手摸枕子」にて手にあたる物なし。是れ即ち眼も手も、至極解脱する時の道理。如此今の起滅衆法合成此身已下の心地、「背手摸枕子」の道理なるべしとなり。此の「摸枕子の道理、億億万劫のみにあらず」と云う心也。「我於海中」の「我」は文殊歟。「海中」とは娑竭羅龍王宮にて、「宣説妙法華経」と云う。然者能説の文殊、所説の法華、乃至海中しなじなあるべし。「海中」とは今の文殊を云う、以今文殊又海中と可談、海中を以て宣説妙法華経と取る。文殊・海中・妙法華経(は)只一物なるべし、如此談ずる時、無能所彼此也。

 

不言我起なるがゆゑに我於海中なり。前面も一波纔動一波随なる常宣説なり、後面も万波纔動一波随の妙法華経なり。

たとひ千尺万尺の糸綸を巻舒せしむとも、うらむらくはこれ直下垂なることを。

詮慧

〇「千尺万尺の糸綸」とは法華也。直下に垂なり、但釣の糸の直下なる許りにて、釣りの得たる物ありと云うまじき道理を如此述也。

経豪

  • 「不言我起」と云う「我」は今の我於海中の我也。「前面後面」も海中の上の前後なり。「一波纔動」の詞(は)、只前後したる許り也、只同心也。海印三昧の上に如此、海の具足の詞共を取り出して被談也。
  • 是は「千万の糸筋を巻舒してすとも、直下垂なる」とは、只いづくまでも無際限一筋通りたる心地也。是解脱の義也。

 

いはゆるの前面後面は我於海面なり。前頭後頭といはんがごとし。前頭後頭といふは頭上安頭なり。

経豪

  • 以海前面後面と云うなり。「頭上安頭」とは、唯仏与仏と云う詞是なり。

 

海中は有人にあらず、我於海は世人の住処にあらず、聖人の愛処にあらず。我於ひとり海中にあり。これ唯常の宣説なり。

この海中は中間に属せず、内外に属せず、鎮常在説法華経なり。

経豪

  • 此の海印三昧の海まことに「世人の住処にもあらず、聖人の愛処にもあるべからず、我於ひとり海中にあり、唯常の宣説也」とあり、文に分明也。
  • 「海中」と云う中を被釈なり。「中間にも不属、内外にも不属、とこしなえに在説法華経」とあり。以法華、中と取るべきか。

 

東西南北に不居なりといへども、満船空載月明帰なり。この実帰は便帰来なり。

たれかこれを滞水の行履なりといはん。ただ仏道の剤限に現成するのみなり。

これを印水の印とす。さらに道取す、印空の印なり。さらに道取す、印泥の印なり。印水の印、かならずしも印海の印にはあらず、向上さらに印海の印なるべし。これを海印といひ、水印といひ、泥印といひ、心印といふなり。心印を単伝して印水し印泥し印空するなり。

詮慧

〇「満船空載月明帰」とは、此の「満船空」は我於海中也。「載月明帰」は唯常宣説妙法華経なり。我於海説法とはたとえば空与船月となり。我於海中唯常宣説なる満空は我於海中也、

載空の船とも云いつべし。この「帰」の字(は)、実帰也と云う。東西に帰るにてはなし、際限なくして帰也。

〇「満船空載月明帰也、この実帰は便帰来也」とは、実帰の「帰」は実相なるべし。実帰来と云う「来」は去来の来にはあらず、ただ実帰なり。

〇ただ仏道の際限にするのみなり」と云う、仏道には際限なしとこそ云うに、今は「際限に現成するのみ也」と云うは、世間に云う際限にこそなけれ。仏道の上にては、又際限を云わざるべきにあらず、無量の際限なり。

〇「印水の印とす、さらに道取す印空の印なり。さらに道取す印泥の印なり。印水の印かならずしも印海の印にはあらず、向上さらに印海の印なるべし」とは、「印水」と云えば水とばかり心得、「印泥」と云えば泥とばかりと心得まじ。いま大海を心得るには、内外海にあらず、重淵九淵にあらずと云う様に心得べしとなり。是をこそ海印とも水印とも泥印とも心印とも云うべけれとなり。

経豪

  • 「空」とは打ち任せて人の心得たるように、うつけとして、むなしき所を「空」と思い習わしたり。是は「満船」を以て「空」と談ず、又満船の空を「月明帰」とも可談。又月明帰を満船の空とも可心得歟。此の道理を実帰とも談ず、「実帰は便帰来也」とも云う。
  • 是は海印三昧と云えば、只海の道理を普通に心得ぬべき所を、「誰か是を滞水の行履也と云わんとあり、ただ仏道の際限に現成す」とは、今の海印三昧の上にかかる無尽の言道理、現成する所を云うなり。
  • 是は「仏道際限に現成する上に、印泥の印、印空の印、印泥の印」と云わるる道理あるべき所を、如此云わるるなり。「印水の印、かならずしも印海の印にはあらず」とは、例の印水は印水にて、印海の印とは云わじと云う心也。一法(一法)独立の道理を表さん心地也。海印三昧と云うを、ここには印海と打ち替えて云う。海印と云えば、猶海に摂入して談ずる心地する間、印海と云いぬれば能所なし。解脱の言と聞こゆるなり。「向上更に印海の印なるべし」とは、上には印海の印に非ずと嫌わるるを、ここにやがて「印海の印なるべし」と云わるるは、向上の道理なるべし。此の道理の上に「海印とも水印とも泥印とも心印」とも仕うに、ゆめゆめ(努々)障りなしと云うなり。

 

曹山元証大師、因僧問、承教有言、大海不宿死屍、如何是海。師云、包含万有。僧云、為什麽不宿死屍。師云、絶気者不著。僧云、既是包含万有、為什麽絶気者不著。師云、万有非其功絶気。この曹山は雲居の兄弟なり。洞山の宗旨、このところに正的なり。いま承教有言といふは、仏祖の正教なり。凡聖の教にあらず、附仏法の小教にあらず。大海不宿死屍。いはゆる大海は、内海・外海等にあらず、八海等にはあらざるべし。これらは学人のうたがふところにあらず。

詮慧

〇曹山元証大師段。「因僧問、承教有言、大海不宿死屍、如何是海」。

○「凡聖の教にあらず」と文。凡は実に捨つべし、聖はなどか取らざらんと覚えたれども、凡に対したる聖は嫌う所なり。

○「附仏法の小教」と云う、外道を小とは取る也。「附仏法」と云う時は、大小乗共にあるべし。必ずしも小教と下し難し。小乗も房ねて大法と云う様に、附仏法の詞はあれども、小乗と云う時は必ず外道を指すなり。四十二章経(は)小乗経也、しかれどもこれを渡すをも大法東漸などと云う事もあり。「附仏法」と云えば、外道ながら仏法に付きたる見のあるべきかと聞こゆ、不可然。外道と云わん時、すべて仏法交わるべからず、しかれども仏法の詞を借りて邪義を談ずるを、附仏法の外道とは名づくる時に、殊(に)嫌うべき外道なり。ただ己れが邪見のみならず、仏法を損ずる故に。

○「大海不宿死屍」と云うは、死屍と云えば世間の屍とは不可心得。ただ不宿と心得也。人々見ざる物也と云う上は、努々屍とばかりは云うべからず。

○三界唯一心、心外無別法と云う、然者一心には、三界不宿と云わんが如し。

○海も世間の海水許りにこそ不宿なれ。浜にも岸にも打ち上げられん時は、宿死屍なるべしや。仏法にはいづれの所も海なれば「包含」とも云われぬべし。

○「学人のうたがう所にあらず」と云う、此の学人は今の宗門の学者を指す。内海外海八海等の事をば、もとより疑いも、あるべからざる故に。

○「如何是海」と問うは、不問世間の海、仏法の海を問う。たとえば如何是眼睛とも、頂□(寧+頁)とも鼻孔とも云わんは、さすが人面ごとにあるまなこ・はななどをば、事あたらしく、いかなるかと問うべきならずと思い定むべし。

○「包含万有」と云う、一切海ならざる所がなき道理を云う也。死屍を隔てんは大海の義あるべからず、かからん時は宿死屍とも云うべし。よろづの物を兼ね含みたると不可云、ただ「包含」許りと可心得。「万有」と云えばとて、袋に一切の物を入れる様に不可思。大海は広ければ一切を含むと云わんとにはあらず、尽十方世界を大海と云うべし。「いかならん」と云うより、すでに世間の海にはあらずと聞こゆ。又一切の仏法が仏法ならんには、「不宿死屍」と云うべき様なし。

○「為什麽不宿死屍」と云うは、包含万有ならんには、不宿云われなしと云う心地也。

○「絶気者不著」と云う大海の道理には絶気不可有。大海不宿死屍と云いつる時に、絶気のものあるべからず、故に「不著」と云う也。「絶気」は死屍にあたるべし、不著不宿也。

○「既是包含万有、為什麽絶気者不著」と云う、是詞の定めに可心得。

○「万有非其功絶気」と云う「其功」とあるは、万有の事也。然者非絶気歟、被包含物非絶気。本の生死輪転の法ながらと云う義は、不可有事也。

経豪

  • 「大海不宿死屍」とは、大海の一の用にて総て不留死屍なり。これは今云う義には変るべし、故はいかん。今の大海不宿死屍は総て大海の外に死屍より付かず、全海なる道理を不宿死屍と云うを置いて「不宿」と云うにはあらず、今の僧の問いも不被心得。大海不宿死屍何なる道理ぞとこそ可問を、「いかなるか海」と問する不被心得。但今の海の道理、如此可被問答也。今の海は「内海外海八海等にあらず」とあり、非可疑。

 

海にあらざるを海と認ずるのみにあらず、海なるを海と認ずるなり。たとひ海と強為すとも、大海といふべからざるなり。大海はかならずしも八功徳水の重淵にあらず、大海はかならずしも鹹水等の九淵にあらず。衆法は合成なるべし。大海かならずしも深水のみにてあらんや。このゆゑに、いかなるか海と問著するは、大海のいまだ人天にしられざるゆゑに、大海を道著するなり。これを聞著せん人は、海執を動著せんとするなり。

詮慧

○「海に非ざるを海と認ずるのみにあらず、海なるを海と認ずる也」と云うは、仏法には世間の海にあらざるを海と認ずる也。強為の海は世間の海。「大海」とは仏法を云う也。衆法合成は大海也(仏法海は諸法実相也、三界唯心也、是程海也)。『心不可得』の草子に、不可得裏に過去現在未来の、窟籠を剜来せりと云いしが如く、今は不宿の上に、万有を剜来せりと云わんが如し。大海は衆法合成也、包含万有也、不宿也。故に剜来せりと云うべしと也。

経豪

  • 「海に非ざるを海と認ず」とは、凡夫こそ海と心得れ、仏法には尽界皆海なるべし。故に「非海を海と認ず」とは被釈也、此の上は又仏海なるを海と認ずる也。「たとい海と強為すとも、大海と云うべからず」とは、是は我等が海と思い付きたる妄海を被嫌也。此の海をも海と強為すとも、大海とは不可云、小海なるべし。「いかなるか海」と問著するは、尽十方界海と云う心地なり。「大海のいまだ人天にしられざる」と云うは、今の向上の大海を、人天いまだしらざる道理を道著すると云う也。「是を聞著せん人は、海執を動著せん」とは、如此大海を道著するを聞いては、日来思い付きたりつる「海執を動著せんとする」と云うなり。

 

不宿死屍といふは、不宿は明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なるべし。死屍は死灰なり、幾度逢春不変心なり。

死屍といふは、すべて人々いまだみざるものなり。このゆゑにしらざるなり。

詮慧

○「明頭来明頭打」と云う、大海の面を不宿と説く心也。物を置いて不宿と説くにはあらざる也。此の義を説くに明頭来明頭打と云う。只大海は不宿死屍の道理のみある云われなり。

○包含万有とは云えども其の物を含と云わず、ただ明来は明也。暗来は暗也と云う様に可心得。

○宿死屍と明頭来との詞を心得合すると云うは、此海は水とのみにあらねば陸地にても不宿死屍なるべし。海と云えば不宿死屍なるべし。明頭来も何事につきて明来と云わず明暗を並べたるにあらず。只明頭来明頭打也、故に如此云う。海と云いつれば必ず不宿死屍也。宿と云われん物は、染汚の法になりぬべき故に、不宿と云う。今明頭来明頭打と云う、物の二並ばぬ事を、たとえに云う時に不宿の詞に引き載せらるる也。大海を包含万有とは云えども、死屍を留めず大海の習いとして、包含をやがて包含すると也。他物を包含するに非ず。

○「幾度逢春不変心」と云うは、心を不変程なれば不逢春也。たとえば草木の春にあえども如不生、死屍は人々不見と云うも、不逢春と云う程の事也。

○世間の詞に不見師と云う事あり。又欲見師は可見弟子と云う。師説を慥(たし)かに不伝は不可見師、又弟子とも難云。抑も不見師と云うにも二の心あるべし。皮肉骨髄より相伝たらば師弟不可為別。故に不見義もありぬべし。春は死屍を不見なり、朽木になりぬれば春に不逢。

○「人々未だ見ざる物なり」と云う、大海がやがて不宿死屍なれば、死屍は人々見ずと云うなり。只大海万有包含なり。この「人」と云うは、悟人とも迷人とも指さず。

経豪

  • 不宿の道理を説かるるに、「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打なるべし」と云うは、不宿の道理、不宿はいづくまでも不宿にてあるべし。此れ不宿明頭来、暗頭来の道理なるべし。死屍を不宿也と云う詞とは不可心得。「死屍・死灰」と云うは、死屍死灰と談ずる時は、死屍の外物あるべからず。此の道理が幾度逢春不変心也と云わるるなり。「幾度春にあえども不変心」とは、死屍の独立の道理なるべし。
  • 此の死屍のすがた、死屍の外に能見所見あるべからず、「ゆえにしらざる也」と云うなり。

 

師いはくの包含万有は海を道著するなり。宗旨の道得するところは、阿誰なる一物の、万有を包含するとはいはず、包含万有なり。大海の万有を道著するは、大海なるのみなり。

なにものとしれるにあらざれども、しばらく万有なり。仏面祖面と相見することも、しばらく万有を錯認するなり。

経豪

  • 「包含万有は海を道著する也」とあり。分明也、不可疑。此の「包含万有」の詞を、人の心得ようは海の徳にて、よろづの物を袋に入れたるように、大海の中にあるように思い付きたり、努々非爾。是はただ海の道理(を)、包含万有と云わるる也。但以衆法合成此身と云う様に、此の包含万有をも可心得也。其の故は此海の道理が、不宿とも死屍とも明頭来とも云わるる所を、「包含万有」とも云うべきか。但是は大海の徳にて、もろもろの物を入れたると心得んには異なるべし。今云う所は「阿誰なる一物の万有を包含すと云わず、ただ包含万有也」と云う。大海の万有を包含すとは不云也、ゆえに「包含万有を道著するは、大海のみ也」と云うなり。
  • 「仏面祖面と相見することも、蹔らく万有を錯認す」とは、「仏面祖面」と云うも万有の心なるべし。「錯認」と云う詞も悪しき詞にあらず、万有仏面祖面等を錯認とも仕うべし。

 

包含のときは、たとひ山なりとも高高峰頭立のみにあらず。たとひ水              なりとも深深海底行のみにあらず。収はかくのごとくなるべし、放はかくのごとくなるべし。

仏性海といひ、毘盧蔵海といふ、ただこれ万有なり。海面はみえざれども、游泳の行履に疑著する事なし。

詮慧

○「たとい山なりとも高高峰頭立のみにあらず」と云う、万有包含したる心なり。山なる時は山包含万有、水ならん時は又、水の包含万有ならんずる心なり。不宿死屍とも包含とも絶気者不著とも可心得也。

○「毘盧蔵海」と云うは、法身也。「仏性海・毘盧蔵海」是只一事也。仏性を説きし時は内外中間にあらずと云うて、悉有は仏性也と云う。

○其の道理一なるべし、今の海又如此。しかあれば内海外海八海等にはあらずと云う。

○「ただこれ万有也」と云う、包含が万有なれば、ここには今は包含は不用なる心也。

経豪

  • 「包含の道の時は縦い山也とも高高峰頭立のみに非ず、縦い水也とも深深海底行のみにあらず」、道理も如此也と云うなり。
  • 上の海の道理を以て「仏性海・毘盧蔵海」と云うなり。まことに今海面不見とも、游泳の行履まことに不可疑云也。

 

たとへば多福一叢竹を道取するに、一茎両茎曲なり。三茎四茎斜なるも、万有を錯失せしむる行履なりとも、なにとしてかいまだいはざる、千曲万曲なりと。なにとしてかいはざる、千叢万叢なりと。一叢のています竹、かくのごとくある道理、わすれざるべし。曹山の包含万有の道著、すなはちなほこれ万有なり。

詮慧

○「多福一叢の竹」と云う「多福」は所の名なり。「一叢」と云う心地は衆法合成の義也。

○「曹山は包含万有の道著、すなわち猶是万有也」と云う、是は曹山の詞を誉めたるなり。「万有」と云うとも万有ならぬ心地もありぬべき所を、謂うべきを云いたりと誉むるなり。「疑著」と云うは、世間に云う不審の疑にあらず、仏道の上の詞なるべし。此の疑は何としてか大海なる、何としてか仏なると云う程の事也。疑著の面目とは、僧の云う為什麽絶気者不著の詞を指す。いま「是什麽心行なるべし」とあれば、釈したるに当たれども、為什麽絶気と云うも、是什麽心行と云うも只同事に聞こゆ。如何是仏と云う問いに、如何是仏と答せん程の事歟。為什麽とこそ僧は云う時に、何事を疑と聞こえず。故に此の「疑」は疑いにあらざる也。

経豪

  • 「一叢の竹を道取するに、一茎両茎曲、三茎四茎ななめ也」と云うは、まがれるも斜めなるも、一茎両茎乃至三茎四茎も、一叢竹の上の道理也。「万有を錯失せしむる行履也」とは、一叢竹に如此多くの理あり。其の定めに、万有の上に如此の道理ある証しに被引出也。「錯失」とは、あやまりにあらず、将錯就錯の錯なるべし。又「千曲万曲・千叢万叢」と云う道理も云わざるとて、重ねて此の理を開山述べ給う也。一叢の竹の上に如此、色々の道あり。今の不宿死屍・包含万有等の、海の道理の無尽なる潤色に被引なり。今「曹山の包含万有と道著する」道著が「則ち万有也」と云う也。此の上は万有と道著する師も万有なるべき歟。

 

僧日、為什麽絶気者不著は、あやまりて疑著の面目なりといふとも、是什麽心行なるべし。従来疑著這漢に相見するのみなり。

什麽処在に為什麽絶気者不著なり。為什麽不宿死屍なり。這頭にすなはち既是包含万有、為什麽絶気者不著なり。しるべし包含は著にあらず、包含は不宿なり。

詮慧

○「是什麽心行なるべし」と云う、是は為什麽絶気者不著の返事に似たれども、此の返事に不限、包含万有の道理を皆解する也。

○「従来疑著這漢」と云う、是れ疑いにてなし。疑著這漢に相見と云うと可心得。たとえば迷中又迷の漢と云うが如し。

経豪

  • 僧の問いは、包含万有の徳を備えたる海は、絶気者不著なるぞと不審したるように聞こゆ。是は為什麽の詞、例の非不審。なにとしても不著なる道理を重ねて述べるなり。故に「あやまりて疑著の面目也と云うとも、是什麽心行なるべし」と云うは、今の詞(の)疑に似たれども、いかなるも不著なる道理が、是什麽心行とは云わるるなり。是什麽物恁麽来の詞にあたる、説似一物即不中の道理なるべし。此の草子のはじめに、「流浪生死を還源せしめんと願求する、是什麽心行にはあらず」とは、嫌わるる詞也。ここの「是什麽心行」の詞は、用うべき詞と可心得。又「従来疑著這漢なる時は、従来疑著這漢に相見するのみ也」とは、為什麽絶気者不著の詞が、疑著に似たれども是什麽心行なる疑著也。ゆえに従来疑著這漢なる時は、従来疑著這漢に相見する程の道理にてあるなりと云う也。
  • 我等が此の娑婆世界に居たるも、我見こそかく思えども什麽処在の道理なるべし。故は如何、天竺震旦に居すともや云わん。乃至仏性・法性等に処在するか。仏見難測、只我等が執著したりつる前にこそ、如此覚ゆれども都難定事也。是則什麽処在の道理なるべし。此の定めに為什麽絶気者不著なる道理なり。いかなるゆえに不著と難定、只海の道理如此。「為什麽絶気者不著、為什麽不宿死屍」と云わるる也。「包含万有、為什麽絶気者不著」と云わるる「包含は著に非ず、包含は不宿」の道理也。海の全面を包含と談じ、万有と談ずる上は、実に包含も著にあらざるべし。包含も不宿なるべし。

 

万有たとひ死屍なりとも、不宿の直須万年なるべし。

不著の這老僧一著子なるべし。

詮慧

○「死屍なりとも、不宿の直須万年也」と云うは、三界一心也とも解脱三界也ともと云わんが如し。

○「這老僧一著子」と云う、不著の詞を這老僧と云うなるべし、一仏と云う程の事也。誰人と、指して云うにはあらざるなり。

経豪

  • ここには又「万有たとい死屍なりとも」と云う、「万有」は海を指し「死屍」は不宿也と云う時に、中あしかるべき万有死屍とこそ思う程に、又「「万有たとい死屍なりとも」と云う。所詮万有・死屍・包含・不宿等、只海の上の所談なる故に、或る時は嫌われ或る時は一也と説かる。是則海の道理、至りて親切なる時如此云わるるなり、相互不向背也。嫌うも用うも共に海上の功徳なる故に、「直須万年なる」とは、いつまでも不宿の道理なる所を云うなり。
  • 仏ぞ祖ぞなどと云う程の義也。一仏とも一祖とも云う心なり。

 

曹山の道すらく、万有非其功絶気。いはゆるは、万有はたとひ絶気なりとも、不著なるべし。死屍たとひ死屍なりとも、万有に同参する行履あらんがごときは包含すべし、包含なるべし。

詮慧

○「万有非其功絶気。いはゆるは万有はたとひ絶気也とも、不著なるべし。死屍たとい死屍なりとも、万有に同参す」と云うは、「絶気」とは死屍を云うべし。然者「絶気は不著なるべけれども、すでに死屍也とも万有に同参する行履あらんが如きは包含すべし」と許さるるものなり。諸法実相と談ぜんぞ、絶気者不著にあたるべき。包含万有には絶気なし、実相の外に諸法なし。

経豪

  • 此の詞は「万有非絶気」と云えば、海と絶気と別なるを、万有を指して非絶気と云うと心得ぬべし。只万有の上には絶気とも不絶気とも云え、只不著の道理なるべしとなり。「死屍又死屍也とも、万有と同参する程の行履あらんは包含すべし、包含なるべし」となり。

 

万有なる前程後程その功あり、これ絶気にあらず、

いはゆる一盲引衆盲なり。一盲引衆盲の道理は、さらに一盲引一盲なり、衆盲引衆盲なり。衆盲引衆盲なるとき、包含万有、包含于包含万有なり。さらにいく大道にも万有にあらざる、いまだその功夫現成せず、海印三昧なり。

詮慧

○「一盲引一盲」と云う、大海を総てに置いて包含すと云わぬ道理を説くに、ただ盲は盲なるべしとなり。この故を一盲引一盲と云う也。

○「包含万有、包含于包含」と云うは、物を兼ね含むにてなきゆえに、兼ね含むが、やがて兼ね含む也とは云うなり。

経豪

  • 此れ程の詞は不可大切、只万有なる前後万有なるべし。絶気とは不可云うと也。
  • 是は世間に、一盲衆盲を引く也と云う喩えあり。一人の盲目か、あまたの盲目を引くは、衆盲となると云う、是は非爾。一盲は一盲を引き、衆盲は衆盲を引くなり。仏は仏を引き、祖は祖を引く。乃至包含は万有を引くと云わん程の道理也。此の道理が包含万有か包含万有を包含する程の理にあたるなり。是れ則ち「いく大道にも万有にあらざる、いまだその功夫現成せず、海印三昧也」と云うなり。

                                  海印三昧(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。