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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第一四 空華 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第一四 空華 註解(聞書・抄)

詮慧

○「空華」を説く時は、在るまじき物なるを、一翳眼に在る時、妄見のあまり華の乱墜すると、覚ゆと云う心地する也。非爾、地・水・火・風・空の五大等しかるべし。地華・水華あらんに、空華なかるべしと不可心得。又衆生の見の及ばぬ事多し、今、人間界の眼に見えねばなむど(などとー以下同)云うべからず。分々の見区なる事(は)華に限らず。天竺国に仏の出世せしめ給うをば、人界に仏の出で給うと衆生は思えども、仏は是をこそ仏国とはとらるれ(とられん)。又此の国土を仏身と説く、三界を唯心と説く。衆生見の外なれども、唯心と聞くを無不用也。地居天空居天あり、この相違(は)最(も)遥かなり。水中を行(く)龍魚あり、陸地に遊(ぶ)禽獣あり。此の見(は)互いに疑うべからず、衆生の法(は)皆以各別也。これにて空華をも測り知るべし。火中の華、今の優鉢羅華これなり、優鉢羅華とは蓮華を云う事あり。仏出世し、輪王出世する時、優鉢羅華ありと云う。火裏火時に優鉢羅華あるべければ、火華と云うべし。蓮華をば、やがて又蓮華蔵世界と説く事あり。火裏に生ぜば、今の火世界と可心得歟。然者世間の華(は)、皆火裏の華とも可心得。一切(の)華(は)空華にあらざるなし。空華と云う故に色即是空、空即是色と云うが故に。此の火中華と云う事、教家には不談歟。此(れ)宗門に云う火裏華と談ずる時(は)、此の華(は)凡見には不可見と、華ばかりを怪しむ(は)倉卒也。火裏も人間界の火とは不可思。

 

高祖道、一華開五葉、結果自然成。この華開の時節、および光明色相を参学すべし。

詮慧

○「一華開五葉」と云う、此の五葉は開無量葉也。『無量義経』には、一法出生無量義「法華経開示抄二十八帖之内第五」(「大正蔵」五六・二九四中)と説く。『法華経』には無量を一法也(「法華義疏巻第二」(「大正蔵」三四・四六七下)と説く也。一葉の重は五葉也と云い、重は葉と可心得。

○「自然成」と云う自然(じねん)とは、もと無かりつるものの、、俄かに一華開けて果を結ぶを、自然と云えり。故に万劫の修行を経て、成仏すとも云うとも自然と可心得。外道の八万劫の先を知らずして、八万劫より現ずるを、自然と云うが如くにはあるべからず。

経豪

  • 是は初祖(達磨)の御詞也。「此の華開の時節」とは「一華開五葉」の言を指す。此の「一華」の上の「光明色相等を参学すべし」と也。

 

一華の重は五葉なり、五葉の開は一華なり。一華の道理の通ずるところ、吾本来此土、伝法救迷情なり。

光色の尋処は、この参学なるべきなり。結果任你結果なり、自然成をいふ。自然成といふは、修因感果なり。公界の因あり、公界の果あり。この公界の因果を修し、公界の因果を感ずるなり

詮慧 結果任你結果也

〇「公界の果あり」と云う(は)世間の法にあらず、仏果にて云う也。因果を前後に置く事は、外道の見也、因中摂果も外道(の)見也。修因感果のありて、待たるるにはあらず、因果修感なるべし。教行証三位ひとつなるが如し。

○「五葉」は南嶽・青原の五家に、為りたるを云うと会釈する義あり。此の事(は)未来記(聖徳太子日本国未来記か)に似たり、不可然。但五葉が一華なる道理なれば、一仏法中、五家となる程の事を指して、心得んも当たらざるにあらず。

○「伝法救迷情」は「吾本来此土」也。「伝法救迷情」は、非汝非誰義なり。

経豪

  • 「一華の重は」五葉なり、五葉の開は一華なり」とあり、打ち任せたる数に関わらぬ条、顕然なり。詮は此の「一華の道理」(を)、五葉とも一華とも云わるる也。此の「一華の道理、吾本来此土、伝法救迷情」と云わるるなり。吾は達磨、此土は震旦、伝法は般若多羅尊者に伝法し、ましゝし事。救迷情は衆生済度の事歟。是が「一華の道理」と云わるべし。
  • 此の「光色の尋処も、この参学なるべきなり」とは、伝法救迷情の詞也。「結果任你結果なり」とは、打ち任せては菱さきて結果す。是は華は華に任せ、結果は結果に所を「自然成」と云う也。南嶽の詞に「妙法蓮華経、是大摩訶衍、衆生如教行、自然成仏道」(『法華経安楽行義』「大正蔵」四六・六九八下)と云う。是は如教行を自然成仏道と指す歟。自然と云う事は、何ともなくて物のふと出で来たるを自然とは云う歟。今は修因感果の道理を以て自然と名づく。因と云うも公界の因、是わたくしにあらず。果と云うも公界の果、私に非ず。公界の因果に任ずる時、吾にあらず、汝にあらぬ道理あるなり。

 

自は己なり、己は必定これ你なり、四大五蘊をいふ。使得無位真人のゆゑに、われにあらず、たれにあらず。このゆゑに不必なるを自といふなり。然は聴許なり。

詮慧

○「自は己なり、己は必定これ你なり」と云う、己と你とを指して必定と云う也。但「われにあらず、たれにあらず、このゆへに、不必なるを自と云う也」とあり、自然成を心得るにも、二(つ)の義あるべし。一(つ)には無華(に)して、結果せんこそ自然(と)なるべけれ。一華五葉に開いてる上は、自然の結果と難云義あり。二(つ)には華より先に結果する事もあるべし、かかる世界もなかるべきにあらず。

○吾本来此土と云う、此土(は)必ずしも其所を指すべきにあらず。玄沙の詞に達磨不来東土と云いし土なるべし。仏は又、身土と不二と被仰、方々いづれの所を土と難定。伝法救迷情と云う、伝法の仁(は)達磨なるべき歟。迷情は慧可に当たるべきか、今達磨に勝(すぐ)るる故に。伝法は救迷情、救迷情は伝法なるべし。又汝亦如是、吾亦如是と心得る時は、達磨与慧可両人とも難云。是を自は己也、己は必定これ你也と云う。「われにあらず、なんぢ(たれ)にあらずと云う故に、不必なるを自と云う」とあれば、自然の自も是程に可心得。自然と云うは、修因感果也とあれば、いつかは自然なると覚ゆれども、「公界の因あり、公界の果あり」と云う(は)、世間の法にはあらず、仏果にて云うなり。

○「使得無位真人」と云うは、証道人の事也。不必の自也。

経豪

  • 世間にも自とは思えども、他は你と云う道理あり、況や仏法に(は)吾にあらず、你にあらず、你にあらざる道理尤(も)

 

自然成すなはち華開結果の時節なり、伝法救迷の時節なり。

たとへば、優鉢羅華の開敷の時は火裏火時なるがごとし。鑽火焔火、みな優鉢羅華の開敷処なり、開敷時なり。

もし優鉢羅華の時處にあらざれば、一星火の出生するなし、一星火の活計なきなり。しるべし、一星火に百千朶の優鉢羅華ありて、空に開敷し、地に開敷するなり。過去に開敷し、現在に開敷するなり。

火の現時現処を見聞するは、優鉢羅華を見聞するなり。優鉢羅華の時処をすごさず見聞すべきなり。古先いはく、優鉢羅華火裏開。しかあれば、優鉢羅華はかならず火裏に開敷するなり。

火裏をしらんとおもはば、優鉢羅華開敷のところなり。人見天見を執して火裏をならはざるべからず。疑著せんことは、水中に蓮華の生ぜるも疑著しつべし。枝仏に諸華あるをも疑著しつべし。また疑著すべくは、器世間の安立も疑著しつべし。しかあれども疑著せず。仏祖にあらざれば華開世界起をしらず。

華開といふは、前三三後三三なり。この員数を具足せんために、森羅をあつめていよゝかにせるなり。

詮慧

○「火裏」と云うは、火焔裏に説法すと云う火裏なり、非人界火。「一星火」と云うは、如星ただひとつの火也と云う心なり。「前三三後三三」と云うは、森羅の諸法を指す也、非数。

経豪

  • 「自然成」と云うは、華開結果の時節・伝法救迷の時節を云うなり。
  • 優鉢羅華の開敷の時処は、火裏火時なるが如し」と云えり、火の中に優鉢羅華の老いるように心得て、如何が去る事のあるべきと覚ゆ。今は此の優鉢羅華をやがて火と談ずる也。華与火(は)一物なり、故(に)「鑽火焔火、みな優」鉢羅華の開敷処なり、開敷時なり」とは云うなり。
  • 優鉢羅華の時処にあらざる処、一星ほどもあるべからず、一星火の活計なかるべしと也。「一星火に百千朶の優鉢羅華ありて、空に開敷し、地に開敷す」(の)、百千朶とは枝ゝ(えだえだ)と云う心也。一星火に優鉢羅華の枝ゝあるべしと也。「空地過去現在等に開敷する」とは、此の一星火の百千朶が如此。無尽に云わるるを枝ゝと談ずる也。
  • 是は無別子細。火の現時現処を見聞する、優鉢羅華を見聞すると也。火与優鉢羅華(は)非両物故(に)、如此云わるるなり。火焔与三世諸仏の程の事なるべし。
  • 是は如文可心得。。
  • 是は無別子細。無風情火裏与優鉢羅華(は)、至って親しき間(を)如此云わるる也。火裏をば誰人か知らんぞと覚えたり。火裏が火裏を知り、優鉢羅華が優鉢羅華を知る道理なうべし。火裏に華咲くと云う詞を、驚疑怖畏するは、人見天見を執する故也。此の人天見を執して、仏法の火裏を不習事なかれと云う也。
  • 如文可心得。「前三三後三三」と云う詞、数量に関わらざる詞なり。「員数を具足する」とは、森羅をあつめて、いよよかに、せる也、数量に関わらぬ。「員数」とは前三三後三三を云う也。森羅の諸法の姿も、前三三後三三の道理なるべし。

 

この道理を到来せしめて、春秋をはかりしるべし。たゞ春秋に華果あるにあらず、有時かならず華果あるなり。華果ともに時節を保任せり、時節ともに華果を保任せり。このゆゑに百草みな華果あり、諸樹みな華果あり。金銀銅鉄珊瑚頗梨樹等、みな華果あり。地水火風空樹みな華果あり。人樹に華あり、人華に華あり、枯木に華あり。かくのごとくあるなかに、世尊道、虚空華あり。

詮慧 「森羅をあつめていよゝかにせるなり。此の道理を到来せしめて、春秋をはかりしるべし」

〇今時の結果の華は、世間の非華、これ春秋を測り知る也。一切ここに具足せずと云う事まき、道理をいよよかに、せるなりと有るなり。有時の華果と云うは、仏道の華果也、華果の所に時節ある也。時節に華果の生ずるとは不可云。此の果必(は)因果ならず、仍って華に華有りと云う。

「地水火風空樹みな華果あり、人樹に華あり」と云う、此の人樹とは何物ぞやと覚ゆ。三草二木などと云う事あり、三乗二乗等に喩ゆ。人樹ともなどか云わざらん、但今(は)三乗二乗に譬えんとにはあらず。

○「枯木に華あり」と云うは、二乗成道に当たる歟。大方は又枯木やがて華咲くbwし、三界唯心の道理ある故に、諸華あれば空華などか無からん。色即是空の故に、この枯木も日来の我見の枯木も不可思、空華を見るは翳也。大悟底人却迷時如何と云う程の事也。人の空華を覚知する事はなし、空華に人は被覚知也。空華より見るには見人なし、開華なし。般若の空は実法を(指)して空と云い、人天外道の教には虚しきを空と談(じ)、今はやがて華を以て空とするなり。達磨宗の談に同分相似妄見と云う事あり、仏出世説法の時刻なり、この時刻をも妄見と云う也。不可用也。

経豪

  • 春秋に華果ありとのみ、我等は知る。今は華果を以て春秋とするなり。故に「華果は時節を保任し、時節は華果を保任す」と。打ち替えて云わるには、時節与華果、ただ一物なる故に、如此云わるるなり。
  • 「百草・諸樹・金・銀・銅・鉄・珊瑚・頗梨樹等に、みな華果あり」と云う、打ち任せては金銀銅鉄等に華あるべしとは覚えず、但是は人天のいたす所也。仏法には必ず是等に華果あるべきなり、人樹に華ありとは人華あるべしと云う歟。所詮空華の時、総(ては)仏ゝ祖ゝ、尽十方界森羅万像、華ならぬ時節あるべからず。如此、華の道理の無尽にある中に、今「世尊道虚空華あり」と云う事を云い出さん料也。

 

しかあるを、少聞小見のともがら、空華の彩光葉華いかなるとしらず、わづかに空華と聞取するのみなり。しるべし、仏道に空華の談あり、外道は空華の談をしらず、いはんや覚了せんや。たゞし、諸仏諸祖、ひとり空華地華の開落をしり、世界華等の開落をしれり。空華地華世界華等の経典なるとしれり。これ学仏の規矩なり。仏祖の所乘は空華なるがゆゑに、仏世界および諸仏法、すなはちこれ空華なり。

詮慧

○国土に出づる仏、国土を以て身とす。空華と云うもやがて、華を以て空とも地とも可仕。空華は所詮、華とばかり思うべきにあらず、仏見には観見法界草木国土悉皆成道と云う、草木国土を悉皆成仏と見、悉皆成仏を観見法界と云うべし。迷と取り悟と取り、大小の教に付けて差別ある事は、無常転変とて、是を離れんと思い、能見所見共に妄想見なれば翳人も妄想なり。諸法に於いて実相と云う、諸法を嫌う事を捨てて、仏法には実相と云わんずるかと思えども、さにてはなし。仏の覚の上、翳人とも空とも云う、衆生はもとより悟なり。迷と云うは本の悟を重ねて求(む)を剰法と云う。頭上安頭と云う教えには、悟上に悟を求(む)を剰法と云わず、大悟の上(に)却迷を立て、仏果の功徳を見れば、流転の生死なしとも云う。

経豪

  • 如文可心得。

以是等華云経典、只日来は黄紙朱軸の経巻をこそ経と存ずれ、今(の)義(は)大(い)に相違せり、但仏道の所談(を)始めて不可驚事歟。

 

しかあるに、如来道の翳眼所見は空華とあるを、伝聞する凡愚おもはくは、翳眼といふは、衆生の顛倒のまなこをいふ。病眼すでに顛倒なるゆゑに、浄虚空に空華を見聞するなりと消息す。

この理致を執するによりて、三界六道、有仏無仏、みなあらざるをありと妄見するとおもへり。この迷妄の眼翳もしやみなば、この空華みゆべからず。このゆゑに空本無華と道取すると活計するなり。

詮慧

○謗となると云えども、有無なきにあらず。空華を見るも同じ、空華を見るに能所ありや。諸法実相をも見、畢竟皆空をも、此の空華にて明らむべし。余門に翳人を不知と云うは、病人と許(ばかり)思うゆえに。

経豪

  • 「翳眼」と云えば、眼に病ある時、空になき華をあやまりて、有華と見(るは)、是れ眼の病也。

仍(って)虚しき喩えには空華と出すと思い付きたり。此の故に「如来道翳眼」も、此の道理を被仰と心得たり。委如御釈、如文可心得。今仏祖の道取する空華、更非今義、仏道と等しかるべし。

  • 如文。是は凡見の悪しきを被嫌也。邪見なり不可用義也。

 

あはれむべし、かくのごとくのやから、如来道の空華の時節始終をしらず。諸仏道の翳眼空華の道理、いまだ凡夫外道の所見にあらざるなり。

諸仏如来、この空華を修行して衣座室をうるなり、得道得果するなり。拈華し瞬目する、みな翳眼空華の現成する公案なり。正法眼蔵涅槃妙心いまに正伝して断絶せざるを翳眼空華といふなり。菩提涅槃法身自性等は、空華の開五葉の両三葉なり。

詮慧

○実相の詞(は)第一義とは知れども、空華の第一義なるを知らねば、第一義も不知也。

○「衣座室」と云うは仏の所証也、仏体也。虚空座と云う時は、仏与虚空(は)同体の身となり。

経豪

  • 如文。
  • 「諸仏如来の空華を修行す」と云う詞も、ぢっと立耳様也。諸仏の法をこそ人有って可修行に、さしも妄が中の妄に思い付き、云い習わしたる空華を、諸仏修行する(は)、いかなるべきぞと不審也。但此の修行によりて、衣座室をも得、得道得果すと云い知りぬ。日来思い以付きたる、妄法の空華にあらざる道理顕然なり。是則(ち)諸仏如来の当体を空華と談ずる也。故に以此道理修行と云い、衣座室と名づけ、得道得果すとも、皆今の空華の道理を云う也。拈華瞬目の姿、しょうほう涅槃妙心、皆翳眼空華の道理也と云うも、此の意なるべし。今の「菩提涅槃法身自性等」をしばらく、「空華の開五葉の両三葉也」とは談(ずる)なり。又今の「翳眼」とは眼の病にて悪しき喩えに、凡夫は思い習わしたり、眼の病は誠の眼の為、悪しかるべき物也。「仏道の翳眼は、この空華を修行して、衣座室を得道得果す」とあり。此の病によりて、入証得果すべき上は、此病非可疑歟、能ゝ閑可了見也。

 

釈迦牟尼仏言、亦如翳人、見空中華、翳病若除、華於空滅。この道著、あきらむる学者いまだあらず。空をしらざるがゆゑに空華をしらず、空華をしらざるがゆゑに翳人をしらず、翳人をみず、翳人にあはず、翳人ならざるなり。

翳人と相見して、空華をもしり、空華をみるべし。空華をみてのちに、華於空滅をもみるべきなり。

ひとたび空華やみなば、さらにあるべからずとおもふは、小乗の見解なり。空華みえざらんときは、なににてあるべきぞ。たゞ空華は所捨となるべしとのみしりて、空華ののちの大事をしらず、空華の種熟脱をしらず。

いま凡夫の学者、おほくは陽気のすめるところ、これ空ならんとおもひ、日月星辰のかゝれるところを空ならんとおもへるによりて仮令すらくは、空華といはんは、この清気のなかに、浮雲のごとくして、飛華の風にふかれて東西し、および昇降するがごとくなる彩色のいできたらんずるを、空華といはんずるとおもへり。

能造所造の四大、あはせて器世間の諸法、ならびに本覚本性等を空華といふとは、ことにしらざるなり。また諸法によりて能造の四大等ありとしらず、諸法によりて器世間は住法位なりとしらず、器世間によりて諸法ありとばかり知見するなり。

眼翳によりて空華ありとのみ覚了して、空華によりて眼翳あらしむる道理を覚了せざるなり。

詮慧

〇「華空に滅す」とはと云うは、仏(の)実相を説く也。衆生随類各得解なれば、空華を妄法と見るべし、仏見には常住の法とも見るべし。

○以仏見見仏、以法見見法が如く、空華をば翳眼にて見るべし。華の空に滅するは翳病の除するなるべし。仏を不見一法名如来と云う、一法をも見ずと習う上は、空華をも不可見、見る時は翳病の眼にてあるべし。「翳」と云えば病とて、やがて悪しきものと心得事不可有。故に華の空に滅するは、翳病の眼にてあるべし。「翳」と云えば病とて、やがて悪しきものと心得事不可有。故に華の空に滅するは、翳病の除するなるべしと云うなり。

○三界滅せば一心も滅すべし。三界不滅は一心も不可滅、三界滅蹤跡は一心なるべし。華の滅は空也、以空為華也。「空華を見て後に、華於空滅をも可見也」と云うは、衆生成仏すと云う程の事也。「空華の種熟脱を不知」と云うは、仏衆生に種を下し、熟させて得脱するを云う智慧也。一切智慧を種熟脱とは云う也。

○「器世間」の事、凡見には器世間の上に諸法ありと見る。仏見には諸法の上に器世間あるなり。諸法の中に仏法あり、正法あり、住法位なり、器世間に限らず。

経豪

  • 此の「仏言」は、ただ日来の吾我の見に少しも違わず。先文の面は見たり、但翳人とはいか程なる人と定め、空中華と云うも何程に可落居哉。「翳眼空滅の仏言」も可有子細を、只倉卒に我見を先として、仏言を無左右、凡見に引き入れて心得る事、甚不可然事也。故に此の道著(を)「明らむる学者あらず」とは被示也。
  • 是已下(の)詞(は)如文。
  • 「翳人と相見して、空華をも知る」とは、翳人と翳人と相見する道理もあるべし。是も翳人の外物なき道理は聞こゆれども、猶二を呼び出して相見などと云えば、両物相対の旧見も残る心地す。只翳(人)究尽の道理を「相見」と云うべきなり。此の道理にて「華於空滅の道理」をも知るべき也。
  • 「空華止みなば、更にあるべからずと思うは、(まことに)小乗の見解なり」、三界の惑を断じぬれば、得くべき生所なしとて、死して後は灰身滅智と云う(は)、是れ二乗の見解也。此の義に同じかるべき歟。仍被嫌之也。只空華は所捨の法とのみ知りて、空華の大事、乃至種熟脱を知らず」とは、凡見の迷いたる事を嫌いたるる也。「空華の種熟脱」とは尋常に思い習わしたるにはあらず、空華の上の種熟脱と云う也。
  • 已下如文。是は凡見の空華を思い習わしたるようの悪しきを被挙也。
  • 「四大合わせて、器世間の諸法ならびに本覚本性等を空華と云う」とは、凡夫是を不知也。「又諸法によりて、能造の四大等ありと知らず、諸法によりて器世間は住法位なりと知らず、(ただ)器世間によりて、諸法ありと許り(凡夫は)知見するなり」。如文。
  • ただ眼の病によりて、無き華を有るぞとのみ、凡夫は是を心得、「空華によりて眼翳ある道理をば不知」と也。空華(は)妄見にあらず、眼翳病にあらざる道理、能々可参学也。

 

しるべし、仏道の翳人といふは本覚人なり、妙覚人なり、諸仏人なり、三界人なり、仏向上人なり。おろかに翳を妄法なりとして、このほかに真法ありと学することなかれ。しかあらんは少量の見なり。

翳華もし妄法ならんは、これを妄法と邪執する能作所作、みな妄法なるべし。ともに妄法ならんがごときは、道理の成立すべきなし。成立する道理なくば、翳華の妄法なること、しかあるべからざるなり。

悟の翳なるには、悟の衆法、ともに翳荘厳の法なり。迷の翳なるには、迷の衆法、ともに翳荘厳の法なり。

しばらく道取すべし、翳眼平等なれば空華平等なり、翳眼無生なれば空華無生なり、諸法実相なれば翳華実相なり。過現来を論ずべからず、初中後にかゝはれず。生滅に罣礙せざるゆゑに、よく生滅をして生滅せしむるなり。

空中に生じ、空中に滅す。翳中に生じ、翳中に滅す。華中に生じ、華中に滅す。乃至諸余の時処もまたまたかくのごとし。

詮慧

○「翳眼平等なれば空華平等也」と云うは、翳眼に空を不交、空華に不交翳眼事を云うなり。

○「翳眼無生なれば空華無生なり」の翳眼と云うは、迷妄の法と聞こゆれども、仏向上無上也と云うなり。

○「空中に生じ、空中に滅す」と云うは、見の同品なるを云う無差別。

経豪

  • 文に分明也、吾我の見にあらざる道理顕然なり。
  • 如文分明也。
  • 「翳人とは本覚人なり・妙覚人なり・諸仏人」(を)云う。今は又「悟を以て翳と取る時は、悟の衆法が皆、翳莊嚴の法となる」也。「迷の翳」も同之。
  • 「翳」は眼の病とのみ心得るに、「諸法与翳眼」ひとしめて同じと被釈。「過現来・初中後等に拘わらざる、翳眼なるべし、生滅に罣礙せず」と云えり、実(に)凡夫の生死に、争(いかで)か此の空華を等しむべき。空華の上の生滅、又なかるべきにあらず。故に「生滅をして生滅せしむ」とはあるなり。生死去来にあらざる故に、生死去来也と云う程の詞也。
  • 「空中に生滅する」(の)生滅は、いかなる生滅ぞ、よくよく可了見。「翳中に生じ、翳中に滅する」生滅(は)又如何。所詮「華中に生じ、華中に滅する」道理也。全機生全機滅なる故に、如此云わるる也。又此の空華翳華等に、必ず「諸余の時処も如此の道理」あるべしと也。

 

空華を学せんこと、まさに衆品あるべし。翳眼の所見あり、明眼の所見あり。仏眼の所見あり、祖眼の所見あり。道眼の所見あり、瞎眼の所見あり。三千年の所見あり、八百年の所見あり。百劫の所見あり、無量劫の所見あり。これらともにみな空華をみるといへども、空すでに品々なり、華また重々なり。

詮慧

○「三千年の所見・八百年の所見・百劫の所見・無量劫の所見」などと云うは、ただ見のまちまちなる事を云う也。

経豪

  • 「空華を学(する)に衆品あるべし」とて、様々被出之。中に「翳眼の所見あり」と云々、是は尤有其謂て聞こゆ。已(すでに)なき華を有と見る(は)、妄見なれば翳眼の所見と云わるる理也。「明眼の所見、乃至仏眼・祖眼・道眼」などとある不被心意。「瞎眼」とは、すがみ(かすみ)たる目歟。
  • 仏道の翳人と云うは、本覚人・妙覚人、乃至仏向上人とあり、今更不可驚、瞎眼又非失明眼、仏眼と同事なるべし。是等(は)皆空華の所見也と云えども、空も如此品々あり、華も重々也。

 

まさにしるべし、空は一草なり、この空かならず華さく、百草に華さくがごとし。この道理を道取するとして、如来道は空本無華と道取するなり。

経豪

  • 其の中に今の空は一の華也。「この空に必ず華さく、百草に華のさくが如し」とは、此の空の道理、百華に華のさくが如くあるべき中に、此の空は一草也とは云う也。但此の一草と談ずる時(は)、余草不可残、百草と談ぜん時、空の一草(は)不可各別也。只所詮、妄見の方の空華(の)詞を不改して、仏道に談ずる空華の理をさまざま被釈なり。只空華(を)妄法とのみ凡夫は思い習わしたるを、此の空華の直指する様を被述也。此の道理を「如来道は空本無華と道取するなり」と云い、此の空華をば、日来(ひごろ・ふだん)凡見の定めに心得て、仏道に所談の理は、つやつや教うる知識もなし、口伝を不承(の)間、只妄見にてのみ一生を空しく暮らす条、返々損がましき事也。不限此空華、一切仏法皆如此、書籍一を見、経文を披いて只日来の妄見にのみ心得て、仏々祖々正伝の義をば、曾不見聞、可恨々々可悲々々。

 

本無華なりといへども、今有華なることは、桃李もかくのごとし、梅柳もかくのごとし。梅昨無華、梅春有華と道取せんがごとし。しかあれども、時節到来すればすなはち華さく、華時なるべし、華到来なるべし。

この華到来の正当恁麼時、みだりなることいまだあらず。梅柳の華はかならず梅柳にさく。華をみて梅柳をしる、梅柳をみて華をわきまふ。桃李の華、いまだ梅柳にさくことなし。梅柳の華は梅柳にさき、桃李の華は桃李にさくなり。空華の空にさくも、またまたかくのごとし。さらに余草にさかず、余樹にさかざるなり。

詮慧

○「本無華也と云えども、今有華なること、桃李も如此」と云う(は)、一切仏性無仏性程の空華也。此の「本無華」の詞は、「今有華」に対して云う時(の)世間の詞也。

○「空華の空にさく」と云うは、仏の仏に成ると云う程の事也。

経豪

  • 世間にも、桃李梅柳等の華もさかざる時刻は、無華なるべし。華さきぬれば今有華、世間の道理すら猶如此、況や仏道の空本無華の道取、能々可参学事也。「梅昨無華なれども、梅春有華」なる道理あり。仏道の有華無華は、尽界無華なるべし、又尽界有華なるべし。世間の有無に異なるべし、故に仏道なり仏法なり。
  • 如文可心得。桃李梅柳等の、世間の華によそへて(添えて)被釈之。此の定めに仏道の「空華の空にさく」道理を強く云わん時の潤色に被引出、世間の道理、猶如此と云う証拠也。

 

空華の諸色をみて、空菓の無窮なるを測量するなり。空華の開落をみて、空華の春秋を学すべきなり。

空華の春と余華の春と、ひとしかるべきなり。空華のいろいろなるがごとく、

春時もおほかるべし。このゆゑに古今の春秋あるなり。

詮慧

○「空華の春と余華の春と、等しかるべきなり」と云う、是「等し」と云う詞は、其の体が似て等しと云うにはあらず。例えば、鳥の足と馬の足と等しと云う事あるべし、鳥は足二(脚)あり、馬は四(脚)あり。毛の様も爪のさまも極めて不似なり、只足のある事を同じと云う也。能々可心得事也。

○「春の時多かるべし」と云うは、昼夜なき世界あり、華の開、萎(しぼ)むを昼夜とするもあり。如此なれば「多し」と云う也。空華桃李(を)同じく心得ると云うは、其の上の分かつ事なり。桃李の華さくは、翳人の所見なり、空華(も)同じかるべし。

経豪

  • 是は空華の諸色の道理、掛からん上は又、空菓と云う道理なかるべき様なし。凡そ華果打ち任せて(普通)は変わるべし。是は華果可同也。空華の上の開落の道理にて、空華の春秋をも知るべしとなり。
  • 「空華の春と餘華の春と、ひとしかるべからず(べきなり歟)」と云わるべけれども、是は空華を談ずる時は、三世諸仏・諸代・祖師已下尽地尽界(は)皆空華也。又春になりて華さく時節は、尽世界春なる方の一筋を取る詞なり、時節与華取は、なたるまじき(不明)道理なり。
  • 「春時も多かるべし」とは、諸色も多きように、春時も多かるべしと云う也。其れ春時のようと云うは、春に尽きたる詞とも、無尽に云わるべき所を如此云う也。

 

空華は実にあらず、余華はこれ実なりと学するは、仏教を見聞せざるものなり。空本無華の説をきゝて、もとよりなかりつる空華のいまあると学するは、短慮少見なり。進歩して遠慮あるべし。

詮慧

○「空本無華の説を聞きて、元より無かりつる空華の今あると学するは、短慮少見なり」とあるは、此の空本無華の「無」は無仏性の無に習うべし。

経豪

  • 「空華は非実、余華は是実也」と(の)文は、凡見の方を嫌うなり。

 

祖師いはく、華亦不曾生。この宗旨の現成、たとへば華亦不曾生、華亦不曾滅なり。華亦不曾華なり、空亦不曾空の道理なり。華時の前後を胡乱して、有無の戲論あるべからず。

華はかならず諸色にそめたるがごとし、諸色かならずしも華にかぎらず。諸時また青黄赤白等のいろあるなり。春は華をひく、華は春をひくものなり。

詮慧 祖師之段

〇「華亦不曾生、華亦不曾滅、華亦不曾華、空亦不曾空」と云うは、三界滅なれば一心も滅なり。

経豪

  • 是は「華亦不曾生」は、世界全華の道理なるが故に、不曾生なり。全機の生なるが故に、此の道理が「華亦不曾滅」とも云わる。全機の滅なるが故に、「華亦不曾華、空亦不曾空の道理なり」。此の道理を忘れて華が咲く時刻もありなどと云う事を嫌とて、「華時の前後を胡乱して、有無の戲論あるべからず」とは被誡也、尤有其謂。
  • 是は華の姿(は)実(に)「諸色に染めたるが如し」、其の故は世間の華を色々(と)、諸色に染めたるが如し。又空華の上の華も「華亦不曾生」とも、「滅」とも「空」とも、乃至百千万に云わるる道理を「諸色に染めたる」とは云うべし。又「諸色必ずしも華に限らず、諸時また青黄赤白等の色あるなり」とは、実に華に限らず、四季に渉りて青黄赤白等の色あり。又「春は華咲く」とのみ心得たり、「華が春を引く」道理もや有るらんとなり、春与華の間(あわい)如此なるべし。

 

張拙秀才は石霜の俗弟子なり。悟道の頌をつくるにいはく、光明寂照遍河沙。この光明、あらたに僧堂仏殿厨庫山門を現成せり。遍河沙は光明現成なり、現成光明なり。

詮慧 張拙秀才悟道頌段

○「光明寂照遍河沙」(の)遍がやがて河沙にてあるなり。現成はやがて光明なり、更(あらた)に光明を令現成にあらず、寂照不二とも説く。

○『華厳・法華』等教文も、宗々に依りて見るも又各々也。今張拙が頌も如教文に心得ん(は)、不可有相違。止を以て「寂」とし「照」を以て観とす。又「寂にして照也、照にして寂也」と云う、此の義にてもありぬべし。然而こなたに云う義には、従空入仮とも云わぬ也、従仮入空ともまた云わず。不触事而知也、不対縁而照也。教には寂と云うも、理に仰せて云う也(とは)不可然。「此の光明は僧堂仏殿厨庫山門」と云う此の光明(は)、仏の一徳也。又於人々其分々を作るべし。その故は朝に生まれ夕に死するあり。百歳千歳乃至八万劫の寿命もあり、是等はただ長短の詞にかかれり。果報の善悪是多し、皆輪転の果報也。生死の上に置きて生死の長短を論ぜんが如し。一塵と云うも仏法に云う塵土とは又別異也。「光明」も日月の光に不可類、天衆の光、猶日月の光には勝るべし、況や仏法をや。日月の類せん仏の光は只如無、仏光は一塵中にもあれ、内外の論には関わるべからず。今の「光明」は僧堂・仏殿也、光明の明らかにて仏殿を見ると云い難し。この上には普く河沙を照らすと許は不可思。又、教の心地にても「寂」なるこそ不対縁なれ。されば寂にして照なる何の相違か有らんと云うべけれども、其れも「寂」と「照」とを挙ぐ。この照、猶寂に引かれたりと聞こゆ。「光明」をやがて僧堂・仏殿と云うだけには不及也。日の暑き事と、物を照らす事と二つあれども、日の一なるが如し、「寂照」是なり。

経豪

  • 「光明」は打ち任せては、体うぃ置きて其用かと心得、仏身より光を出して十方界を照らす、摂取の光明などと名付けたり。今は雲門の詞に「僧堂・仏殿・厨庫・山門」と云い、祖門の「光明」は如此談ずる也。「遍河沙は光明現成なり、現成光明なり」(の)遍河沙の道理(を)光明現成光明と云わるる也。

 

凡聖含霊共我家。凡夫賢聖なきにあらず、これによりて凡夫賢聖を謗ずることなかれ。

詮慧

〇「凡聖含霊共我家」是(を)凡聖一如と談ずるは、教家の習い也、無相違と云いつべし。凡夫は未断惑未離欲也、生死去来を明らめず、聖位に付けて分聖極聖あり。分聖と云うは、一分の煩悩を断じ、一分の理を顕わすより分聖と云う。極聖とは煩悩を断尽し、理を顕わし終るに名づく。今の「凡聖含霊共我家」の心地は、教には異なる也。すでに「共我家」なる故に、非凡非聖心也。「含霊」とは有情猶凡夫也、凡と云い聖と云う。「含霊」などと云いて事々なれども、尽十方界真実人体と談ず。又此の草子の奥、霊訓与帰宗問答の所に、一翳在眼空華乱墜と云う詞を取り替えて、空華在眼一翳乱墜と云い、一眼在空衆翳乱墜などと云う。又翳也全機現、眼也全機現、空也全機現、華也全機現とあれば、方々凡聖不各別、更に世間の凡聖に不可習也。

経豪

  • 「凡聖」とは凡夫賢聖の事也。「含霊」とは流転の迷法を名づく。「共我家」の家は、今の空華の道理を以て家と名づく歟。此の道理の上に、凡夫賢聖の詞なきにあらず。此の凡夫賢聖は、又尋常の凡夫賢聖に不可同。故に「謗ずる事なかれ」と云うなり。

 

一念不生全体現。念念一一なり。これはかならず不生なり、これ全体全現なり。このゆゑに一念不生と道取す。

詮慧

○「一念不生全体現」、此の一念二念は一法界二法界なり。全体現を念々一々と云うなり。依念々員生念、これは心意識に関わる三界一心なる時、「全体全現なり」、是れ「一念不生

也」。抑も「不生」と談ずる上は「全体現」も無き故。然而、此の一念やがて全体也。「一念」の一の字は一に留まらざる「一」也、無量の「一」也。「念」も又以て同じ。「不生」は境起これば生、境留まれば「不生也」とにはあらず。境によりて起こらざる「一念」なる故に。

経豪

  • 「一念」を今は「念々一々」と、逆に被書きたり。是は打ち任せて、只一念と云えば普通に聞こえたり。「念々一々」と云えば、尋常の詞意に達する也。此の念の体が「不生」と云わるなり。「全体全現」是なり。

 

六根纔動被雲遮。六根はたとひ眼耳鼻舌身意なりとも、かならずしも二三にあらず、前後三三なるべし。動は如須弥山なり、如大地なり、如六根なり、如纔動なり。動すでに如須弥山なるがゆゑに、不動また如須弥山なり。たとへば、雲をなし水をなすなり。

詮慧

○「六根纔動被雲遮」と云う、此の「動」は仏を仏と説く程の動と不可心得。動き働らく「動」には異なる也。教(経)には以六境為動、仍被遮(不明)、今は我等が身に具足する六根には非ず、六根を解脱するには以六根解脱す、此の六根(は)二三にあらずと説く。此の六は三つ二を合わせたるにあらぬ所を、二三に非ずとは云う也。尽十方界一隻眼なれば、六根皆一隻とも云うべし、然者非二三也。「遮」と云う事、打ち任せて、教(経)には「法性真如の月、天に明なれども、無明業障の雲隔つ」(不明)などと云う。誠(に)業障ぞ無明ぞに、喩うる時は悪けれども、又雲雨の能ありとも云い、僧を雲に喩えて、雲衲などと云う時は善し。今の「被雲遮」の詞は、道眼の塞がるは、何(いづれ)にか遮らるると云う答に、眼にさえらるるなどと云う程の「遮」なるべし、道眼は道に被遮とも云う是れなり。「纔動」の動は動不動の動にあらず。諸法仏法なる時節に迷悟生仏ともに有り(「現成公案」)と仕う程の動なるべし。故に須弥山と云い、須弥山の動ずと云う事なきを、動と仕うにて可心得、全機の動也。又「堅執動静三世仏怨、此外別求如同魔説」(『景徳伝灯録』六百丈章「大正蔵」五一・二五〇ならびに『永平広録』六則)の動なるべし。凡そ動は劣にして、不動は善からんずるにてはなし、更(に)無勝劣也。動不動(の)須弥山なれば、尽十方界と仕う動也。「雲をなし水をなす」と云うは、威勢を施す体詞也、今(の)纔動の事を云う也。

経豪

  • 「六根はたとい、眼耳鼻舌身意なりとも、必ずしも二三にあらず、前後三三なるべし」とは、眼耳鼻舌身意は凡夫所生の六根に似たりとも、「二三にあらず」とは、尋常の六根ならずと云う心也。二三は六根の数なり。「前後三三」とは、例の数量に関わらぬ心なり。又「動は如須彌山なり、如大地なり」と云う、此の詞(は)不被心得。須弥山・大地などとは、不動なる証拠にこそ可被引に、今の詞(は)不相応に聞こゆ。但動不動の儀(の)、今更(に)事旧の所詮(は)、動(は)已に如須弥山なる故に、不動(も)又、如須弥山也。動不動に関わらざる道理歟。「被雲遮」とは、此の六根の無辺際(の)道理を被雲遮とは云うなり。空華の上の六根の功徳の究尽の道理(を)如此云う。世間にも物(が)至って多いは、如雲霞などと云うもあり。仏道には尽十方界の道理を、被雲遮とも如雲霞とも可仕うなり。

 

断除煩悩重増病。従来やまふなきにあらず、仏病祖病あり。いまの智断は、やまふをかさね、やまふをます。断除の正当恁麼時、かならずそれ煩悩なり。同時なり、不同時なり。煩悩かならず断除の法を帯せるなり。

詮慧

〇「断除煩悩重増病」とは、是も教に云わんには不断煩悩与入涅槃と云えば、断除せんと営まん、増病なるべしなどと云いつべし。然而此の病は仏となり祖とならんずる也。仏祖を病と仕う也、苦悩の病とは不可心得。「断除の正当恁麼時、必ず煩悩也」と云う、断除が煩悩ならんには、重増病と嫌うべからず。涅槃生死の所には、生死は真実人体也、此の涅槃生死(は)此れ「空華」と云う。

経豪

  • 今は「仏病祖病」を以て病と(し)、悪しき病にあらず、「断除を煩悩」と名づく。「断除と煩悩と同時也とも不同時也」とも云わるべし、煩悩与断除(は)、各別の法に(は)非ざる故に、「煩悩は必ず断除の法を帯せり」と云う也。

 

趣向真如亦是邪。真如を背する、これ邪なり。真如に向する、これ邪なり。真如は向背なり、向背の各々にこれ真如なり。たれかしらん、この邪の亦是真如なることを。

詮慧

〇「趣向真如亦是邪」とは、すでに向背の各々これ真如也」と云い、又「誰か知らん此の邪の亦是真如なる事を」とあり、不可疑。実相真実の法を服すれば、唯仏与仏と云う、是れ実相の甘露也。煩悩の方には実相ぞ(と)、毒なるべきを坐禅すれば、殺仏と云う程の事也。『教』にも「真如、仏性には向背なし、向かわんとせんは邪也」(不明)と談ず。但、こなたには真如はやがて邪也・邪は真如なり(と)、仍って向も真・如背も真如也。不壊世間法而談実相義と云う事もあり。深と習うは浅し、浅しと習うは深く聞こゆ。『真言教』に「山に高下あり、昇降すれども過ぎぬれば里に出づ、里に出れば本路に帰す」(不明)と云うなり。真如の向背は右にある、華亦不曾生華亦不曾滅の心地なるべし。

経豪

  • 「真如を背する」と云うも邪、「真如を向する」も邪。「真如は向背也、向背の各々にこれ真如なり」と云う歟。所詮真如の一法究尽する時、向背共に真如なり。亦「これ邪」とは被嫌詞と聞こゆ。此の邪(は)則(ち)真如也。

 

随順世縁無罣礙。世縁と世縁と随順し、随順と随順と世縁なり。これを無罣礙といふ。罣礙不罣礙は、被眼礙に慣習すべきなり。

詮慧

〇「随順世縁無罣礙」と云う。随順世縁と云えば猶、世間に従うかと聞こえ(るは)不可然。只随順と随順と也、「随順与随順世縁す」と云う。『或経』云、「仏出世成道しては、令衆生非令成仏、只涅槃与生死の二見を離れしめんが為也」(出典不明)と云えば、仏は仏に被遮也。道眼不通何にか遮えらるると云う心地なり。「随順世縁無罣礙と云い、罣礙不罣礙は、被眼礙に慣習すべきなり」とあり、此上有何不審哉。

経豪

  • 「随順世縁」と云えば、人有って世間に随うとこそ心得ぬべきを、此の随順世縁とは「世縁与世縁随順し、随順与随順世縁なる道理」なり。故に「無罣礙」と云う。「罣礙不罣礙」とは、眼に罣礙せられて不見也と云う事あり、其の定めに今の無罣礙も可心得なり。

 

涅槃生死是空。涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提なり。仏祖および仏祖弟子の所住これなり。生死は真実人体なり。

この涅槃生死は、その法なりといへども、これ空華なり。空華の根茎枝葉華菓光色、ともに空華の華開なり。空華かならず空菓むすぶ、空種をくだすなり。

いま見聞する三界は、空華の五葉開なるゆゑに不如三界見於三界なり。この諸法実相なり、この諸法華相なり。乃至不測の諸法、ともに空華空果なり、梅柳桃李とひとしきなりと参学すべし。

詮慧

〇「涅槃生死是空華」と云う此の釈に「涅槃と云うは、阿耨多羅三藐三菩提なり。仏祖および仏祖の弟子の所住也」とあり、又「今見聞する三界は、空華の五葉開なる故に、不如三界見於三界となり、諸法は実相也、又此の諸法は華相也」と、実の字を華の字に被取り替え、華と云えば無き物と心得て、妄見起こると思う(は)不可然。「空華と梅柳桃李とは等しき也」、又地華と云わん空華・地空共に開発せしむる宗旨也とあり。空華は梅柳桃李程にあるべきものと心得也。又厭生死入涅槃と云うも世間の道理、或いは生死涅槃(は)猶如昨夢とも云う。昨夢の丈(たけ)空華の丈同じき也、宗門には涅槃空華なり、生死は真実人体也と云う。

不如三界見於三界。教家には如此心得(三界の三界を見るが如くならず)

不如三界見於三界。宗門には如此心得(三界を三界と見んには如かじ)

経豪

  • 此の「是空華」の詞に付けて、今の『空華』の草子に此れを被引出也。悟る時は、涅槃生死ともに是如空華妄と、打ち任せて心得ぬべし。而今は「涅槃といふは、阿耨多羅三藐三菩提なり。仏祖および仏祖弟子の所住これなり。生死は真実人体なり」とあり、文の面(は)顕然也。涅槃生死可棄物にあらずと聞こゆ。
  • 「此の涅槃生死は、その法なりと云えども、是れ空華也」とは、涅槃ぞ・生死ぞ・法也と云えども、今は空華と取る時、もとより中あしからず、一法の道理ある故に。「涅槃生死の法」を、今は「空華也」と談ずるなりと云う也。「空華の根茎・枝葉・華菓・光色、共に空華の華開なり」と云うは、空華の上に不曾生とも不曾滅とも青黄赤白とも談ずる所を、空華の根茎・枝葉・華菓とも、空華と華開とも談ずる也。「空華必ず空種を結ぶ也」、この空種の様は、空華程の空種なるべし。
  • 「いま見聞する三界は、空華の五葉開なる故に、不如三界見於三界なり」とは、この見聞する三界とは、我々が所見の三界にあらず、空華の上の三界也。此の「三界は空華の五葉開なる」とは、只三界と見る程の道理なるべし。故に「これ諸法実相なり、これ諸法華相なり。乃至不測の諸法、ともに空華空果なり」とあり、不測の諸法とは、幾らも数多き事を云う也。故に「梅柳桃李と等しき也と参学すべし」と云う。春は梅柳桃李幾らも多し、其の定めに是も「不測の諸法」とは、春梅柳桃華の幾らもある一筋の道理を、一つ取らん為に、如此云うと可心得。

 

大宋国福州芙蓉霊訓禅師、初参帰宗寺至真禅師而問、如何是仏。帰宗云、我向汝道、汝還信否。師云、和尚誠言、何敢不信。帰宗云、即汝便是。師云、如何保任。帰宗云、一翳在眼、空華乱墜。いま帰宗道の一翳在眼空華乱墜は、保任仏の道取なり。しかあればしるべし、翳華の乱墜は諸仏の現成なり、眼空の華果は諸仏の保任なり。翳をもて眼を現成せしむ、眼中に空華を現成し、空華中に眼を現成せり。空華在眼、一翳乱墜。一眼在空、衆翳乱墜なるべし。こゝをもて、翳也全機現、眼也全機現、空也全機現、華也全機現なり。乱墜は千眼なり、通身眼なり

詮慧 霊訓禅師段。大宋国福州芙蓉山。帰宗日、一翳在眼空華乱墜。

〇「一翳在眼空華乱墜」と云う詞あり、就之被引載此草子と覚ゆ。然而「如何是仏」の詞より事、起こるべし、専ら仏法を示す詞也。「一翳在眼」と云うならば、翳なからんものは、空華は見るまじきに当たれり。然者、諸法実相とも三界唯心とも見るまじき歟、非仏法本意。此の問答の詞を心得るに、世間に云わんと、いますが、(は)家常に云うと遥かに異なるべし。芙蓉与帰宗寺程の両位の尊宿、争か事新しく法報応の三身の仏ぞ。若しくは毗婆尸仏・尸棄仏ぞ、迦葉仏・釈迦仏ぞ、程の事(に)有不審(は)可被問と先(の)心を可付也。有為報仏は夢中権果、無作三身は覚前の実仏(「有為報仏、夢裏権果。無作三身、覚前実仏。夫真如妙理有両種義」(最澄・守護国界章・巻下之中「大正蔵」七四・二二二下)などと云う。又「若以色見我、以音声求我。是人行邪道、不能如来」(金剛般若経「大正蔵」八・七五二上)などと云う時に、今始めて教に談ずる仏を問う事あるべからず。

〇「芙蓉問如何是仏」。世間には、いかなるかこれ仏と読んで、仏を不審すると心得。此の宗門にはやがて以問為答、いかなるもこれ仏と云うべし。仏の面目現成して、一塵の上にも法界の上にも顕わるる也。仏の辺際なき道得の所を「如何是仏」と問(す)。是れすでに知不知に渉りて心得ぬべし。(ぬべしは連語で、完了助動詞+推量助動詞べしの連語語で、は強調の用法)、問となり答となる此の仕いを知るべき也。

〇「帰宗寺云、我向汝道、汝還信否」。これも又世間には、「我なんぢに向いて云わん、汝信ずやいなや」と読みて、猶仏法を示す詞とは難聞を、宗門に云うは「われ、なんぢに云うと心得べし。云わんと云いて、云うべきを先途に置くにあらず。我与汝(は)更無別、非汝非誰と云う故に「信」は仏也明也。故に「仏を問う」時なんぢと云い、信と云う所に表わるる也。「信ずや否や」と云うは、此の詞にて信不信(を)不可定。彫龍を愛して真龍の来時の如く、仏の有様が如何様に解すべしと云う事(は)、定まらざるなり。

〇「芙蓉云、和尚誠言、何敢不信」。是も和尚の言をば「いかが信ぜざらん」と云うと心得ぬべし。、今は不然。この詞は非汝非誰と云う「汝」なれば、又此の「信」は和尚の上にある歟、三世の諸仏も六代の祖師も、和尚の誠言なる也。

〇「帰宗云、即汝便是」(不待此詞、我向汝道信否の詞の時、仏は顕わるるなり)。是又、世間に心得うべき、即ちにてなし、にてもなし。「即汝」は非汝非誰汝也。「便是」は仏なり。

〇「芙蓉云、如何保任」。これ又、保任し保任せざることのあるを、如何にして保任すべきと云うぞと世間には心得也、今の仏法には不然。便是を仏と心得ぬる上は保任も仏也、故に「空華乱墜は、保任仏の道取なり」とあり、「即汝便是」と云わざるもあれ。「保任」が暗きと聞こゆれども然にはあらず、の詞は又似不信れども、是も又「我向汝道」と云う詞が、やがて仏なるなり。は明也・伝也。「我向汝道」の詞こそ、信なれ明なれ伝なれ。汝得吾皮肉骨髄と云う物を得たるに似たり。我向汝道の詞こそ道得なれ。是如何是仏也、無残処也。

〇「帰宗云、一翳在眼空華乱墜」。世間には病目にあれば、空華乱墜と心得、今は不可然。も仏の病なるべし、も仏眼なるべし、乱墜も皆仏也、全機也。「乱墜」がいたづらに落ちて、損じぬるように聞こゆ(は)不可然。もしいたづらならば、作仏作祖もいたづらなるべし。又作仏作祖の作(は)、昨日までなかりしが今日作難云。「乱墜」は諸仏の現成する也。一仏の身(は)法界なれば、仏身(は)塵々重々(に)示現する、これ諸仏現成也。

経豪 

  • 霊訓禅師与至真禅師問答、如文。「一翳在眼空華乱墜の詞は、保任仏の道取なり」と誉めらる。「可知翳華の亂墜は諸佛の現成なり」とあり、一翳とありつる翳を、ここには「翳華の乱墜は諸仏の現成なり」と説かる。詮は「一翳」とて、眼の一つの病と心得つるが、今は諸仏の現成なりと云わる。又「眼空華果」と云う言い出く、是又「諸仏の保任也」と云い、「以翳眼を現成せしむ」とら云う。是は所詮、「翳眼・空華」等の只一物なる道理をあなた・こなたへ入れ違えて、とかく被釈之。此の道理の所落居(は)、「空華在眼、一翳乱墜。一眼在空、衆翳乱墜なるべし。是以、翳也全機現、眼也全機現、空也全機現、華也全機現なり。乱墜は千眼なり、通身眼なり」。凡そ一眼の在時在処、必ず空華あり。所詮(は)即心是仏を、とかく入れ違えて、かかるに同じ。「翳も全機現、眼も全機現、空も全機現、華も全機現なる」道理に可落居也。「乱墜は又千眼通身眼也」とあり、是は観音を談ぜし時、尽界眼也。故に不見の道理なり。「通身眼」又同じく乱墜と云えば、乱れ散りたるように被心得ぬべし。千眼程の乱墜の理なるべし、飛乱落華の乱なるべし。

 

およそ一眼の在時在処、かならず空華あり、眼華あるなり。眼華を空華とはいふ、眼華の道取、かならず開明なり。このゆゑに、瑯琊山広照大師いはく、奇哉十方仏、元是眼中華。欲識眼中華元是十方仏。欲識十方仏、不是眼中華。欲識眼中華、不是十方仏。

於此明得、過在十方仏。若未明得、声聞作舞、独覚臨粧。

しるべし、十方仏の実ならざるにあらず、もとこれ眼中華なり。十方諸仏の住位せるところは眼中なり、眼中にあらざれば諸仏の住処にあらず。

眼中華は、無にあらず有にあらず、空にあらず実にあらず、おのづからこれ十方仏なり。

いまひとへに十方諸仏と欲識すれば眼中華にあらず、ひとへに眼中華と欲識すれば十方諸仏にあらざるがごとし。かくのごとくなるゆゑに、

明得未明得、ともに眼中華なり、十方仏なり。欲識および不是、すなはち現成の奇哉なり、大奇なり。

詮慧 広照大師段。

〇「瑯琊山広照大師云、奇哉十方仏、元是眼中華。若未明得、声聞作舞、独覚臨粧」。十方仏眼中華と一と心得ぬれば「不是十方仏」とも「不是眼中華」とも云わるる也。

〇「於此明得、過在十方仏」と云う。仏に過ぎたらん事(は)心得難く、仏に増滅なし、際限なし、何(の)過(とが・あやまち)在すべきや。但仏法には有無善悪・会不会・得不得(を)分く事なし。破鏡不重照・落花難上樹とも云い、大悟底人却迷時如何(『大悟』巻「華厳休静話頭」)とも云いしだけなるべし、不可驚。

〇「若未明得、声聞作舞、独覚臨粧」と云う。是も又、世間には明らめ得たらん時は、十方の仏にも過ぎ、明らめ得ざらんとは声聞縁覚なるべきかと覚えたれども、すでに「明得未明得、ともに眼中華なり、十方仏なり」とあれば不可疑。但表に見る所は、まことに明らめ得たるは仏、未だ明らめ得ずは声聞と聞こゆ。声聞の詞に就きて「作舞」とも云うか。迦葉威儀を破りて、緊那羅が琴の声に立ちて舞う事ありき、此の事を引き寄せて被書載歟(『法華文句記』二下「大正蔵」三四・一八六下)。

経豪

  • 「一眼の在時在処、必ず空華あり、眼華あるなり」。眼を以て華と談ず、故に眼華と云う。「眼華の道取、必ず開明なり」と云う也。
  • 「眼中華」は翳眼の所為、妄法の至極とこそ思いつるを、今は「十方仏、もと是眼中華」とあり、誠(に)奇哉。又「欲識十方仏、不是眼中華。欲識眼中華、不是十方仏」とは、十方仏は十方仏、眼中華は眼中華なるべしと也。例の一方(を)証するとき(は)暗き義也。
  • 「明得すれば、十方仏に過在す」とあれば、是は善き詞かと聞こゆ。「もし未明得は、声聞作舞、独覚臨粧なり」とあれば、是は二乗に堕在し、悪しく成りたるようの詞に聞こえたれども、更に不可有其義。明得未明得共に不可有得失、声聞独覚更(に)無勝劣也。此の声聞・独覚・十方仏(は)同じかるべし。過在と云う詞(は)過ぎたるように聞こえ、仏向上などと云う程の過在なり。
  • 「十方仏の眼中華なる」道理以前に分明也。「十方仏の住位眼中也」と云うは十方仏と眼中と、唯一体なる道理(を)如此云わるる也。
  • 「眼中華有無空実にあらず、只十方仏」の道理なり。
  • 是(は)又、一方は隠るる道理也。無殊子細。
  • 先段に(云う)「明得過在十方仏、若未明得、声聞作舞、独覚臨粧」の詞を、如此被釈也。「欲識も不是も現成の奇哉也」と云う也。

 

仏々祖々の道取する空華地華の宗旨、それ恁麼の逞風流なり。空華の名字は経師論師もなほ聞及すとも、地華の命脈は仏祖にあらざれば見聞の因縁あらざるなり。地華の命脈を知及せる仏祖の道取あり。

大宋国石門山の慧徹禅師は、梁山下の尊宿なり。ちなみに僧ありてとふ、如何是山中宝。この問取の宗旨は、たとへば、如何是仏と問取するにおなじ、如何是道と問取するがごとくなり。師いはく、空華従地発、蓋国買無門。この道取、ひとへに自余の道取に準的すべからず。

詮慧

〇「仏々祖々の道取する空華地華」と云う此の空華は前に聞く所也。「地華」とは、いかなるべきぞ、四季に咲く世間の華こそ地より生ずる。樹草に咲く事なればと云うかと覚えたれども、さにはあるまじ。空を云うにも地を云うにも、仏法には大空大地と立つ。今の「地華」の地は大地なるべし。大と仕う程に成りぬれば、空与地(の)差別する事なし、一に仕う也。地に倒れる物、空に依りて置くなどと云いし談に可心得合。空華を眼中華とも仏とも、仕えつるだけの地華なるべし。さればこそ、「経師論師も地華は、見聞の因縁あらざるなり」とも見えたれ。

〇慧徹禅師段。「大宋国石門山の慧徹禅師因僧問、如何是山中宝」。此の意は委見草子。所詮、山中は無不審。世間の山(の)なかと心得て、宝をいかなる物ぞと(の)問いに似たり、但不可然。此の山中宝の三字は、仏と云わん一字と可心得意。山中と宝と彼是・能所の各別にはあらず、「翳与華・空・地」(は)不可各別道理に心得うべしとなり。

経豪

  • 「空華」と云う事、真妄の二に付いて談ずる詞也。然而「地華」と云う事(は)、祖門の外(に)不云詞歟。「経師論師は空華の詞を談ず」。其れも迷妄の法とのみ談之が、此の地華の姿(は)空華に不可違なり。
  • 如文。「如何是山中宝」此の詞不被心得。山中宝とは何を云うべきぞと覚えたり。但「仏と問取し道と問取するが如し」とあり、非可不審。「山中」と云えばとて、打ち任せたる山中と不可心得、尽界とも可心得。宝(は)又、金銀珍宝等の宝にあらず、仏法僧の中の宝とも可心得歟。又「空華従地発、蓋国買無門」の詞の空華従地発とは空華地華一法なる道理を以て「空華従地発」とは云う歟。「蓋国買無門」とは、たとえば全国と云わんが如し。祖師の詞に常買と云う詞を仕え付けたり(常買の語は「我曹売客常買売生活」(『四分律』十五「大正蔵」二二・六六四上)。所詮、全国なる道理を以て「買」とも「無門」とも云う道理は、買の外に又物なき道理が、如此云わるる也。出入無門などと云う同じ心なるべし。

 

よのつねの諸方は、空華の空華を論ずるには、於空に生じてさらに於空に滅するとのみ道取す。従空しれる、なほいまだあらず。いはんや従地としらんや。たゞひとり石門のみしれり。従地といふは、初中後つひに従地なり。発は開なり。

この正当恁麼のとき、従尽大地発なり、従尽大地開なり。

蓋国買無門は、蓋国買はなきにあらず、買無門なり。従地発の空華あり、従華開の尽地あり。しかあればしるべし、空華は、地空ともに開発せしむる宗旨なり。

詮慧

〇「蓋国買無門」と云うは、国を買うに無直物程の事也。何物か国中を離れて、別に直物なるべきとなり。「空華地より生ずる」上は似無直物。

〇空の上にてこそ開滅もあれ、やがて空が華と知らぬなり。衆生と説けば仏性かくれ、坐禅すれば殺仏なる程の事なり。

経豪

  • 「空華の空華を論ずる」と云う詞(は)不審なり、空華の外に誰人ありて空華を可談乎。所詮、空華を詮ずる所が、空華の空華を談ずるにてあるなり。「空に生じて空に滅すとのみ談ず」、是は凡見の見解也。「従空なお知らず、況や従地を知らんや」とあるは、従空と云えば彼此去来の法と聞こゆ。此の「従」は只空の道理の従地の上の従なり。故に「従地」と云うは、初中後ついに従地なり。「発は開なり」と云うなり。
  • 此の道理は尽大地を「発」と仕い、尽大地を「開」と仕うなり。「従」は先々如談、大地の上の従なり、伝わる儀にあらず。
  • 「蓋国買は無きにあらず、買無門なり」とは、蓋国の道現成する時は、買無門なるなり。「従地発の空華あり、従華開の尽地あり」とは、「従」も「発」も「空華」も「聞」も「尽地」も只一物なる道理を例えと、各取りなし入れ違えて書かれたり。只所詮一法究尽の理が、無尽に相互に枝葉華果荘厳と成りて、被談也と可心得。故に被決(する)詞に、「空華は地空共に開発せしむる宗旨なり」とは被決也。

                                    空華(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。