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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第三十五 神通 註解(聞書・抄)

正法眼蔵 第三十五 神通 註解(聞書・抄)

 

かくのごとくなる神通は、佛家の茶飯なり、諸佛いまに懈倦せざるなり。

詮慧

〇「如此(かくのごとく)なる神通」と始めに挙す事、物を云い終りて結する詞にてこそあれども、諸経にも如是我聞と挙げて、序正流通までも説くが如し。如是我聞とは、阿難仏の在世に説法し給うを、如此聞きてと挙げて、一経を説き終るなり。仏の在世に阿難に教えて、我諸法を説かん時、如是我聞と云うべしと教え御ます。阿難の仏在世に侍者たりし事は廿五年聞かざりし事を、如是我聞とは云い難(にく)し。但仏の教勅ばれば子細あるべし。且又今説法の主と成りて説く上は、如是我聞無疑哉。如此心得る相違あるべからず。又此の宗門の心地は、此の神通の様、辺際なきゆえに、如此なる神通とも云いつべし。仏を説くに、如何なるか是れ仏と云う程の事也。

〇「仏家の茶飯」と云う事、仏家と云う程ならば、法性とも、真如とも、陀羅尼とも、三昧とも云うべきかと覚えたるに、「茶飯」の詞打ち任せば、然し宗門には家常の茶飯とも云い、或いは鼻孔とも、眼睛とも仕い、或いは払子拄杖とも云い、いづくにも亘る詞なるべし。

経豪

  • 先ず「神通」と云う事、凡見の如くは、我が身になき所行の現ずるを神通と思い習わしたり。身上出火、身下出水し、或いは虚空を駆けり、或いは水上を走る。如此なる不思議の所行を神通自在などと名づけたり。但し我より劣なる禽獣畜類の族も空を飛び、地の下を走り、乃至虫までも天井に逆さまに取り付いて居たり、是等皆可謂神通歟。如何、是等顕然に仏通には現わるなるべし。

経初めに、左に所挙の説を指して、如是と説き、今の「如此なる」と云う。打ち立つの詞は、更に左をも指さず、今は神通を指すと可心得歟。仏家の風儀に「茶飯」と云う事あり。是れ常の法則なり、此の定めに仏法の「神通」と云う事あり。是れを「仏家の茶飯」と云う程の丈に云うと可心得歟。但し此の茶飯がやがて神通なる道理もや有るべからん。能々可思案事也。

仏の上の能に、神通を持たせて談ずるにあらず。今の「神通」は以諸法談神通也。然而仏祖の行住坐臥、動容進止、造次顛諦を以て、神通と可取なり。ゆえに「諸仏の懈倦なじか」はあるべき勿論事也。

 

これに六神通あり、一神通あり。無神通あり、最上通あり。朝打三千なり、暮打八百なるを爲體とせり。

詮慧

「六神通」と云う事、打ち任せて教に数うるには、天眼通、他心通、宿命通、漏尽通(煩悩を尽す也)、神境通、又作意神通と云う事なり。これは六神通の中の事にてはなし、そうさうの義也。神通は随教に変わるべし。二諦と説くもあり、三諦と説く方もあり。かように皆変わるなり。一神通と云えども、無辺際神通也。六神通の内の一を取りて、一神通と云うにはあらず。諸乗を一乗と説く程の義也。

〇「一神通、無神通、最上神通」、これは教にも談ず。且無神通菩薩の身量有際限ありと云う論議を設くるなり。

〇「無神通」と云えば、総神通のあるまじきかと聞こゆ。非爾、世間に談ずる神通は、日来なかりつる事の、俄かに出で来るように思い習わしたりつるを、その神通にてはなしと云うが、仏神通なる道理を説くにてある也。

〇十八変と云う神通あり、如提婆習う是なり。十八に変ずるなり、十四変と云う事もあり。是は四禅につきて立つるなり。

法華経』妙荘厳王品に説くは、於虚空中、行住坐臥、身上出水、身下出火、身下出水、身上出火、大身小身(而復現小?)、少復現大、於空中滅、忽然在地、入地如水、履水如地(「大正蔵」九・六〇a六・注)。「六神通あり、一神通あり、無神通あり、最上神通あり」と云う、此の神通共を挙げたる内に、最上通に至りて、「神」字なし。義あるべきかと不審なれども、六神も必ず(しも)「神」の字不具して「通」とも云う無別義。

〇六神通と云うより、最上通と云うまでを挙げて、「朝打三千也、暮打八百なるを為体とせり」と云う、世間に談ずる所には、すでに変わりぬ。世間に見ゆる所の境界、朝暮の振舞、是を仏神通なりと云うなり。又報得の神通、修得の神通と云う事もあり。報得と云うは、たとえば天上の果報を得て生じぬれば、修し習わざれども飛行の徳をも具し、空にも居する事、我等が地に居たるが如し。如此なるを報得と云うべし。修得は修して得る事あり。此の両神通を超越したる仏神通なるべし。

〇「朝打三千、暮打八百」と云うは、別に世間の朝暮が大切なるべきにあらず。「神通を朝打とも暮打とも」仕う也。「三千も八百」も又数の大切にはあらず、前三々後三々とも仕い、七通八達ぞ、或いは張三李四とも云う程の義也。神通を説く姿(を)如此、「為体とせり」と云うにて心得べし。「朝打三千、暮打八百」は、六祖の昔の有り様を云うにも此の詞あり。「三千」の字はただ朝打に収まり、「八百」の字(は)暮打に聞こゆべし。

経豪

  • 「六神通」は多く、「一神通」は少なく、「最上通」と云えば猶勝りて殊勝なる神通。「無神通」と云うは、神通欠けて有るまじきなどと不可心得。只神通の上に「六・一・無・最上」等の詞を付けて談ず也。非勝劣多少義也。「朝打三千」は多く、「暮打八百」は少なしと思うべからず。只同事を如此云う也。祖師の詞に常(に)此の詞を被用。是は三千ぞ、八百ぞの要にはあらず。只朝暮と仕う詞に此の詞を被引出也。所詮雖有多少詞、非勝劣也と可心得也。

 

與佛同生せりといへどもほとけにしられず、與佛同滅すといへどもほとけをやぶらず。上天に同條なり、下天にも同條なり、修行取證、みな同條なり。同雪山なり、如木石なり。

詮慧

〇「与仏同生せりと云えども、ほとけに知られず、与仏同滅すと云えども、ほとけを破らず」と云う、此の「同生」は仏与神通を二に為して同生と云うにはあらず。神通をやがて仏と説くゆえに、「仏に不被知」と云う、まさしく生ずる物あらんには、仏に知られずと難云。又「与仏同滅」と云うも、積聚の離散するを滅と仕うにてなし。離散の義ならんには、破るるにてこそ有るべけれ。「不破」と云うと「不被知」と云うと同程の詞也。以仏全面、神通と仕うか不破なり。「同生同滅」の「同」の字、并「与仏」と仕う「与」の字、何れも不用なるべし。「同」と云い、「与」とも云うまで、いかにも能所あるに似たり。「仏に不被知、仏を破らず」と説く時、神通も仏も親切なるなり。

〇「上天の同条也、下天に同条也」と云う、惣(すべ)て八相の義。託胎、出胎、出家までは、凡天地に同ずるように聞こえれども、それも仏の上にて有る時に、大地有情同時託胎、大地有情同時出胎と可心得。然者託胎も神通也、出胎も神通なり。業力所感の引く所の「上天下天」にあらざるべし。「修行取証皆同条也」と云う。

〇「同雪山、如木石」と云う事、古き詞にて云い習わしたり。此の詞を証に引く事は、神通与仏が二にあらざる証(は)、「雪山」と引き「木石」と引く也。「雪山

は雪山と同じく、「木石」は木石の如しと云うなるべし。たとえば『諸悪莫作』の草子に春松は有にあらず、無にあらず、作らざる也(「大正蔵」八二・四三b一・注)と云いしが如く可心得。又「雪与木石」が大切なる事はなし。土山と云わんも同じかるべし。谿ぞ、溝ぞと云わんも同じかるべし。春松秋菊皆莫作也、松ぞ菊ぞに向いて、何れを(も)作ることなかれと云うべきにあらず。

経豪

  • 仏与神通、不可相対(の)道理を如此云う也。仏と談ぜん時は、神通は隠れ、神通と云わん時は、仏は隠るべし。「与仏と同生、与仏同滅、仏に知られず、仏を破らず」と云う、此心なるべし。一方を証すれば一方はくらき(『現成公案』「大正蔵」八二・二三c一九・注)心也。「上天に同条、下天に同条」と云うは、八相事也。所詮「上天下天」等の八相の姿(は)、是神通なるべし。「同条也」と云うは、「余仏同生、与仏同滅」と云う(は)、同事也と云う心地也。「修行も取証も」皆神通と取るなり。「雪山も木石も」神通なるべし。

 

過去の諸佛は釋迦牟尼佛の弟子なり、袈裟をさゝげてきたり、塔をさゝげきたる。このとき釋迦牟尼佛いはく、諸佛神通不可思議なり。しかあればしりぬ、現在未來も亦復如是なり。

詮慧

〇「諸仏の神通」は持ち来るべき物を持ち来るが、「神通」と云う事は顕然に聞きたり。但し「我弟子也」と被仰る御詞は、神通の証に成るらん事不審なり。しかあれども師と云い、弟子と云うは、皮肉骨髄通じての上の事也。ゆえに釈迦も過去の仏も同じ皮肉骨髄也。神通与仏のあわいも、又如此、ゆえに被引也。凡そ師弟の事、今始めて云うにはあらず。仏新成し御座(おわ)しませども、顕本する時、久遠実成と被仰。五百塵点劫のあなたの仏となり、文殊は仏の御弟子なれども、仏は我が九代の祖師也とも被仰。観音も仏の御弟子と聞けども、正法明如来也とこそ説かるる時に、師弟の義不及論前後。又三世の仏をば、分身と云う事あり、いま出世の釈迦を本として、過去未来の諸仏を釈迦の弟子と謂わん、不可有其難。又仏に三世なしと談ずるゆえに、師弟ともに一仏なれば、弟子とも仕い、師とも謂わん。障りあるべからず。但し今は別の師弟の沙汰にはあらず、神通と仏との親切を説くなり。

〇世間の人に神通と云うは、外道の小神通也。

身上出火、身下出水程の事也。仏の大神通は仏の八相より、世間の法皆神通也。三界唯一心と説き、唯有一乗法と説く。是こそ大神通の至極なれ。世間の神通と思うは、ただ我が境界離れぬ事をば、神通と知る、甚だ小神通也。業力の至す所なれば、各々差別あり、水に生じ火に生ずるものあり。地に住む物あり、人畜如此、空に居するものあり、空居天是也。如此の類い甚だ多し。非大神通、毛呑巨海、芥納須弥と説くも、皆世間の法に相対して説く。只大小広狭の差別許り也、非大神通。

経豪

  • 打ち任すは釈迦牟尼仏の弟子とは難云。過去七仏次第に相嗣する時は、釈迦牟尼仏の師也とぞ云いたき。但し此の師資のあわい、今更事旧了、始非可驚事。今袈裟を捧げ、塔を捧げて来る、是を今は神通と談ず也。仏言顕然也。「現在未来も亦復如是」とは、過去の諸仏は釈迦牟尼仏の弟子也と云う、然者過去許りに不可限。現在未来も、亦復如是なるべしと云う也。

 

 大潙禪師は、釋迦如來より直下三十七世の祖なり、百丈大智の嗣法なり。いまの佛祖、おほく十方に出興せる、大潙の遠孫にあらざるなし、すなはち大潙の遠孫なり。

 大潙あるとき臥せるに、仰山來參す。大潙すなはち轉面向壁臥す。仰山いはく、慧寂これ和尚の弟子なり、形迹もちゐざれ。大潙おくるいきほひをなす。仰山すなはちいづるに、大潙召して寂子とめす。仰山かへる。大潙いはく、老僧ゆめをとかん、きくべし。仰山かうべをたれて聽勢をなす。大潙いはく、わがために原夢せよ、みん。仰山一盆の水、一條の手巾をとりてきたる。大潙つひに洗面す。洗面しをはりてわづかに坐するに、香嚴きたる。大潙いはく、われ適來寂子と一上の神通をなす。不同小々なり。香嚴いはく、智閑下面にありて、了々に得知す。大潙いはく、子、こゝろみに道取すべし。香嚴すなはち一椀の茶を點來す。大潙ほめていはく、二子の神通智恵、はるかに鶖子目連よりもすぐれたり。

 佛家の神通をしらんとおもはば、大潙の道取を參學すべし。

 不同小々のゆゑに、作是學者、名爲佛學、不是學者、不名佛學なるべし。嫡々相傳せる神通智恵なり。さらに西天竺國の外道二乘の神通、および論師等の所學を學することなかれ。

詮慧 大潙禅師原夢段

〇「十方に出興せる、大潙の遠孫にあらざる、すなわち大潙の遠孫なり」と云う(過去諸仏は釈迦牟尼仏の弟子と云う心地なり)、是れは師資相承する事こそなけれども、百丈の仏法等しければ、皆大潙の遠孫にあらざるも、大潙の遠孫と心得よとなり。但し一の難疑有りぬべし、其の故は嗣書の事を云う時は、仏法我心得たれば同じ事也。嗣書によらずなれと許すべからず。半時刹那也とも、時刻相違して不面授者、不可嗣法と云う。この義ならば、大潙の遠孫と称せんも、其の難有りぬべし。但し其れ異なり、一定得道と許す証人もなくして、自称して嗣法すと云えばこそ、許さね。これは大潙の悟り等しくば、十方仏祖何れも同じかるべきゆえに、大潙の必ず(しも)、血ならずとも、遠孫とは云うべき也。嗣書の方にこそあれ、随語情解なるべし。たとい青原流也とも、仏法同じく悟道せば、大潙の遠孫なるべしとなり(南嶽流、馬祖孫、百丈禅師の子也)。

〇慧寂は大潙の弟子也。礼せざるべしと云うなり。「形迹」と云うは礼也。「転面向壁」は怖其人心也、ゆえに如此云う。又師弟は皮肉同じければ、「形迹もちいざれ」と云うとも心得ぬべし。

〇「老僧夢を説かん、聞くべしと云う、仰山頭(うべを)垂れて聴勢をなす」とはあれども、何事を聞くとも見えず不審也。聴勢をやがて夢を説きたると心得也。

〇「一上の神通」と云う、一神通、最上通の両字を取り合わせて云うかと聞こゆ。必ずしも不然、ただ一と云う也。

経豪

  • 文に分明なり。所詮ここには「一盆の水、一条の手巾を持ち来る姿」、是れ神通也。又「香厳の一椀の茶を点来する」神通なるべし。「二子」とは、香厳と仰山との事也。仏家の神通如此。「不同小々」とは、不同小通と云う心なり。

 

 いま大潙の神通を學するに、無上なりといへども、一上の見聞あり。いはゆる臥次よりこのかた、轉面向壁臥あり、起勢あり、召寂子あり、説箇夢あり、洗面了纔坐あり、仰山又低頭聽あり、盆水來、手巾來あり。しかあるを、大潙いはく、われ適來寂子と一上の神通をなすと。

経豪

  • ここには一盆の水、一条の手巾を取りて来たり、大潙洗面す。又香厳一椀の天来するを、神通と談ずと見えたり。しかるを「一上の見聞ありとて、いわゆる臥次よりこのかた、転面向壁臥より乃至低頭聴、盆水来、手巾来」まで、皆神通なるべしと開山の御釈也。ただ大潙、仰山、香厳等の問答進退とこそ思いつるを、皆是神通也と可心得なり。

 

 この神通を學すべし。佛法正傳の祖師、かくのごとくいふ。説夢洗面といはざることなかれ、一上の神通なりと決定すべし。すでに不同小々といふ、小乘小量小見におなじかるべからず、十聖三賢等に同ずべきにあらず。かれらみな小神通をならひ、小身量のみをえたり。佛祖の大神通におよばず。これ佛神通なり、佛向上神通なり。この神通をならはん人は、魔外にうごかさるべからざるなり。經師論師はいまだきかざるところ、きくとも信受しがたきなり。二乘外道經師論師等は小神通をならふ、大神通をならはず。諸佛は大神通を住持す、大神通を相傳す。これ佛神通なり。佛神通にあらざれば、盆水來、手巾來せず。轉面向壁臥なし、洗面了纔坐なし。

詮慧

〇「説夢洗面と云わざることなかれ」と云う、すでに「一上の神通なりと決定すべし」と云う上は、不及子細。然而「説夢」とも「洗面」とも又云うべしと也。必ず(しも)神通と許り呼び出だすべきにあらざる心なり。

経豪

  • 是は「説夢洗面」と云えばとて、神通欠けたりと云うべからざれば、「説夢とも洗面とも云わざる事なかれ」、皆是神通なるべし。名を変えたらんによるべからずと云う心也。
  • 如文。

 

 この大神通のちからにおほはれて、小神通等もあるなり。大神通は小神通を接す、小神通は大神通をしらず。小神通といふは、いはゆる毛呑巨海、芥納須彌なり。また身上出水、身下出火等なり。又五通六通、みな小神通なり。これらのやから、佛神通は夢也未見聞在なり。五通六通を小神通といふことは、五通六通は修證に染汚せられ、際斷を時處にうるなり。在生にありて身後に現ぜず、自己にありて佗人にあらず。此土に現ずといへども佗土に現ぜず。不現に現ずといへども、現時に現ずることをえず。

詮慧

〇「大神通の力に覆(おお)われて、小神通等も有る也」と云う、たとえば三界唯一心と云い、大神通尽十方界真実人体と云う。大神通に覆われてこそ、小神通もあれと也。此の尽界の人が、身上出火とも身下出水とも神通せんは、何とあるべきぞ。世間の水火も一塵として残るまじ、亦神通ならぬ時刻不可有。

〇「五通六通、皆小神通也」と云う、「五通」は外道の見なれば、小神通問わん有謂。「六」と云う時は、仏神通を加えて六神通と云う歟。然而仏通を小神通とは下し難きを、五通に対して、六通と云うまでは、猶正しき非仏神通也。

〇「不現に現ずと云えども、現時に現ずる事をえず」と云うは、「身上出水、身下出火」ぞ不現也つるか、今現ずるにてある時に、不現の現に当るべき也。「現時に現ずる」とは、今の一盆水、一椀茶これなり。大神通也、是は不現の時節なきなり。

経豪

  • 如文。「小神通」と云うは、いかにも其の際断ありて失うのみあるなり。

 

 この大神通はしかあらず。諸佛の教行證、おなじく神通に現成せしむるなり。たゞ諸佛の邊に現成するのみにあらず、佛向上にも現成するなり。神通佛の化儀、まことに不可思議なるなり。有身よりさきに現ず、現の三際にかゝはれぬあり。佛神通にあらざれば、諸佛の發心修行菩提涅槃いまだあらざるなり。いまの無盡法界海の常不變なる、みなこれ佛神通なり。毛呑巨海のみにあらず、毛保任巨海なり、毛現巨海なり、毛吐巨海なり、毛使巨海なり。一毛に盡法界を呑卻し吐卻するとき、たゞし一盡法界かくのごとくなれば、さらに盡法界あるべからずと學することなかれ。芥納須彌等もまたかくのごとし。芥吐須彌および芥現法界、無盡藏海にてもあるなり。毛吐巨海、芥吐巨海するに、一念にも吐卻す、萬劫にも吐卻するなり。萬劫一念、おなじく毛芥より吐卻せるがゆゑに。毛芥はさらになによりか得せる。すなはちこれ神通より得せるなり。この得、すなはち神通なるがゆゑに、たゞまさに神通の神通を出生するのみなり。さらに三世の存没あらずと學すべきなり。諸佛はこの神通のみに遊戲するなり。

詮慧

〇「ただ諸仏の辺に現成するのみにあらず、仏向上にても現成するなり」と云う、仏辺向上などと仕うは、総世間の辺際にてはなし。ゆえに仏神通をば如此説く也。

〇「無尽法界海」と云うは、尽界と仕い、無尽界と云うも、只同じ詞也。辺際に拘わらざる詞也。

〇「一毛とも巨海とも、一念とも万劫とも」云うは、只同位の事也。三界唯一心の上の事也。

〇「吐と呑」との詞、是れは穏没し出現しなどとする義とは云うまじ、只自在の詞に仕うべし。

経豪

  • 此の「教行証を神通」と談ずるなり。此の神通必ずしも諸仏辺許りに現成するのみにあらず。「仏向上に現成す」とは、諸法にわたりて現成すべきゆえを、如此云う也。この神通を「神通仏」と名づけたるなり。
  • 「現の三際に関わらず」とは過現来なり。三世に関わらぬ神通と云う心なり。此の「発心、修行、菩提、涅槃」是則神通なり。「有身より先に現ず」とは、辺際なき身の事也。尽十方界真実人体の上の有なるべし。
  • 「無尽法界海の常不変の姿を仏神通」と談ず。打ち任すは常不変ならぬ姿、神通なるべし。異相の現ずる神通なるべし。又「毛呑巨海のと許り云うべきにあらず」、此の道理の上には、「毛保任巨海とも、毛現巨海とも、毛吐巨海とも、毛使巨海」とも云うべしとなり。此の「一毛と尽法界」とのあわい、全非広狭多少。「尽法界」も神通、「一毛」も神通なるべし。「呑却」も神通、「吐却」も神通なり。神通が神通を呑みも吐きもすべき道理なり。又「一尽法界を如此云えばとて、是に限りて尽法界あるべからずと学すべからず」と云う也。
  • 「如此(かくのごとし)とは、前段の毛呑巨海の詞、毛保任巨海、毛現巨海とら云いつる詞を引きて「如此」と云う也。「芥納須弥も神通なり、芥吐須弥、乃至芥現法界、無尽蔵海、又毛吐巨海、芥吐巨海」等皆是神通也。「吐と云うも、呑と云うも、納と仕うも、現と談ずる」も皆神通なり。「一念も万劫も」神通なり、ゆえに一長短を」論ずべからず。只仏通の現るる所、如此云わるる也。是則解脱なり、大神通なり。
  • 如前云、此の「毛芥神通」神通なるがゆえに、「何によりてか得する、則ち是れ神通より得する」とあり。「此の得神通なるがゆえに、神通の神通を出生する」道理に落居するなり。此の道理の上には、「実に三世の存没あるべからざる」条無疑事也。

 

 龐居士蘊公は、祖席の偉人なり。江西石頭の兩席に參學せるのみにあらず、有道の宗師おほく相見し、相逢しきたる。あるときいはく、神通幷妙用、運水及搬柴。

 この道理、よくよく參究すべし。いはゆる運水とは、水を運載しきたるなり。自作自爲あり、佗作教佗ありて水を運載せしむ。これすなはち神通佛なり。しることは有時なりといへども、神通はこれ神通なり。人のしらざるには、その法の廢するにあらず、その法の滅するにあらず。人はしらざれども、法は法爾なり。運水の神通なりとしらざれども、神通の運水なるは不退なり。

 搬柴とは、たき木をはこぶなり。たとへば六祖のむかしのごとし。朝打三千にも神通としらず、暮打八百にも神通とおぼえざれども、神通の見成なり。

 まことに諸佛如來の神通妙用を見聞するは、かならず得道すべし。このゆゑに一切諸佛の得道、かならずこの神通力に成就せるなり。しかあれば、いま小乘の出水、たとひ小神通なりといふとも、運水の大神通なることを學すべし。運水搬柴はいまだすたれざるところ、人さしおかず。ゆゑにむかしよりいまにおよぶ、これよりかれにつたはれり。須臾も退轉せざるは神通妙用なり。これは大神通なり、小々とおなじかるべきにあらず。

詮慧 龐居士蘊公段(偉人也とは、祖席に取りて褒むる心なり)

〇「神通幷妙用、運水及搬柴」と云う、法性真如の悟りを得ぬれば、所現の法は悟りの用也と云う、但し今の「用」と云うは、運水搬柴をこそ妙用とは云え、又神通妙用と、運水搬柴と四つの事の様に聞こゆれども、「神通こそ妙用なれ」。又「運水搬柴」なれば、詞は四つに似たれども、只一神通也。体相用と云うは、たとえば日月天に掛かれる、これ体也。日月に光あり、これ相也。又光によりて物を見る、これ用也。この「妙用」は、ただ神通をやがて用と仕う。用は又神通の現るるなり。小神通は妙用と云われず。

〇「自作自為あり、他作教他あり」と云う、この「作為」の詞は、自の所作所為運載已下の事と覚えたれども、神通の自、神通の作、神通の為なれば、ただ一なるべし。ゆえに「自作自為」と云う也。

〇「神通仏也と知る事は有時也」と云う、「神通仏」の現われざる事はなけれども、随知識て知らるる時を「有時」と仕う。時刻間断なきゆえに、たとえば仏性現前の時節を、時節の因縁と云うが如し。「神通仏」と云う心地は、教仏行、仏証仏などと云うが如し。教行証を仏の外に置きて、教行証の三字を付けたるにあらず。やがて教行証が仏なる也。いまの「神通仏」又以同じかるべし。

経豪

  • 文に聞こえたり。此の居士由々しかりし人也、長者也。多々重宝を船に入りて、海中に沈めし人也、以此宝仏事をも修し、施行等をも引きかけて如此入海事如何と人に云われて、是程悪しき出離の敵ぞと思う者を、争か人に可施とて、皆入海了。後には笊籬と云う物を作りて、売買して、渡世して行道しけり。希代事也。
  • 「水を運び柴(たきぎ)を取る。みづからもし、人をしてもせしめん、是則神通なるべし」、此の道理を知る事は、今始めたるに似たりと云えども、神通の道理は無始本有也、欠けたるにあらず。此の故に「神通は是則神通也」と云わるる也。
  • 文に聞こえたり。人は不知とも、法体方よりは「法の廃するにあらざる也、法の滅するにもあらざる也。人は不知とも、法の道理は法爾也」と云うなり。
  • 「運水神通也」とは、争か識、相伝相嗣なくては知るべき、未聞見の理なるべし。人は不知とも、「神通の運水なる道理は不退なる」也。
  • 前に云うように、三千八百の詞、ここには不中用也。只「朝夕神通とは不知とも、是併神通の現成なり」と云う也。
  • 「運水の大神通を可学也」と云うなり。運水運柴の姿、実(に)「廃(すた)れず、人差しおかず」、朝夕の所行也。是神通なるがゆえに、「須臾も退転せざる神通妙用なり」と云う也。不知不覚の前には、総運水運柴、何れとも不思入。然而神通の方よりは、退転せざりける大神通なるべし。此理を夢也未見在にて、徒あかしぬ。今知識に逢い、経巻に逢うて、仏神通を見聞覚知す。今生の悦、何事如之乎、可悦可随喜。

 

 洞山悟本大師、そのかみ雲巖に侍せりしとき、雲巖とふ、いかなるかこれ价子神通妙用。ときに洞山叉手近前而立。又雲巖とふ、いかならんか神通妙用。洞山ときに珍重而出。

 この因縁、まことに神通の承言會宗なるあり。神通の事存函蓋合なるあり。まさにしるべし、神通妙用は、まさに兒孫あるべし、不退なるものなり。まさに高祖あるべし、不進なるものなり。いたづらに外道二乘にひとしかるべきとおもはざれ。

 佛道に身上身下の神變神通あり。いま盡十方界は、沙門一隻の眞實體なり。九山八海、乃至性海、薩婆若海水、しかしながら身上身下身中の出水なり。又非身上非身下非身中の出水なり。乃至出火もまたかくのごとし。たゞ水火風等のみにあらず、身上出佛なり、身下出佛なり。身上出祖なり、身下出祖なり。身上出無量阿僧祇劫なり、身下出無量阿僧祇劫なり。身上出法界海なり、身上入法界海なるのみにあらず、さらに世界國土を吐卻七八箇し、呑卻兩三箇せんことも、またかくのごとし。いま四大五大六大諸大無量大、おなじく出なり没なる神通なり。呑なり吐なる神通なり。いまの大地虚空の面々なる、呑卻なり、吐卻なり。芥に轉ぜらるゝを力量とせり、毛にかゝれるを力量とせり。識知のおよばざるより同生して、識知のおよばざるを住持し、識知のおよばざるに實歸す。まことに短長にかゝはれざる佛神通の變相、ひとへに測量を擧して擬するのみならんや。

詮慧 洞山悟本大師段

〇「函蓋合」とは、教には法報を函蓋相応(『金剛明経文句』「大正蔵」三九・五三c二・注)と仕えども、こなたには非一非二る所を、「函蓋合」と仕うなり。

〇「神通妙用は、まさに児孫あるべし、不退なるものなり」と云う、雲巌、洞山の問答の通ずる所を「児孫」と仕う。仏法相伝を「児孫」と云うべし。

〇「高祖あるべし、不進なる者也」と云う、先に児孫と云うに対して、「高祖」と仕い、不退に対して「不進」と仕う。高祖の児孫なればとて、退も進もすべき義なし。只神通妙用の上に、高祖も児孫もあるなり。

身上身下段

〇神変神通あり」と云う、是は只同じ詞也、不可有差別。「又非身上、被身下、非身中の出水出火」と云う、是大神通也、仏通也。水火のみならず、すでに仏祖無量阿僧祇劫法界海を出入せしむ。又「世界国土吐却呑却」と云う是なり。

〇「識知の不及より同生して」と云う、神通は広くして、識知の不及にてはなし。識知がやがて神通なるゆえに「不及」と云う。三界唯一心なれば、心不及と談ぜん程の事也。人不知なればとて、法の廃するにはあらずと云う程なり。すえには「仏神通の変相、ひとへに測量を挙して、擬するのみならんや」と云う、相違して覚えれども、ともに取らず、捨てぬ心なる也。

経豪

  • 「雲巌いかなるか神通妙用と被問て、洞山叉手近前而立。重ねて只同様にいかなるか神通妙用と被尋て、珍重而出」姿が、今は神通なるべき也。「承言会宗」とは、神通妙用と云う詞を承けて、会宗したる事を云う也。「神通の事存函蓋合」とは、師資相叶えたる義歟。箱与蓋は一具にしてこそあるべきに、方なる箱に円なる蓋は不相応なるべし。今雲巌与洞山の中を「函蓋合」とは云うべきなり、讃嘆詞也。
  • 雲巌の為には、洞山は児孫と云わるべし、洞山の為には雲巌は祖と云わるべし。児孫は人を隔て、高祖は遥かに上がりたるように聞こゆれども、所詮雲巌、洞山許りに不可限。代々祖師等のあわいも、此の道理なるべし。祖師の皮肉、遠近によるべからず、師資のあわいの進み退かざる道理を如此云う也。
  • 前には身上出火(水?)、身下出水(火?)は小神通と被嫌。今は「仏道に身上身下、神変神通有り」と云う、参差(しんし・互いに入り混じる様・注)したるように聞こゆ。但し小神通の方より云う身上出火、身下出水と仏道に談ずる身上身下の様、乃至出火等の所談(の)詞は、同じと云うとも、遥かに異也。而(るに)いまは仏道に学する身上身下の神通を被明なり。抑も「身上身下」と云わるる「身」と云うは、何程なるべきぞ。「尽十方界真実人体と云わるる身」なるべし。是より出ず「水火」又何程なるべきぞ、能々可思量事也。ゆえに此の道理を「九山八海、乃至性海、薩婆若海水、併身上身下の出水也」と云うなり。是は以外広博なるべきか。小神通所談の身の出水には、天地懸隔すべき也。
  • 仏法には、いかにも会の上には不会、見仏の上には不見仏、聞の上には不聞の道理が可有なり。ゆえに此の身の上に、「非身上、非身下、非身中」と云う道理あるべき也。以之「出水」と可談也。此の身与水、非各別、是より彼を出ずちは不習也。故(に)仏神通也、「出火」の「火」も只水(と)同事也と可心得。
  • 「只水火風許りに不可限、今云う身上出仏」已下、無尽に此の道理あるべき也。如文、「世界国土を吐却七八箇也、呑却両三箇」などと云えば、様かましきように聞こえれども、世界国土を吐却とも呑却とも仕う也、是則神通の道理なるべし。
  • 「以大地虚空を吐却とも呑却とも」仕う也。芥子一毛わづか也と不可思。以今神通、芥子とも毛とも談之。ゆえに此の芥の理、毛の理の究尽するを、「芥に被転、毛にかかれる力量とせり」とは云うなり。芥ならぬ一法なく、毛ならぬ道理なき所が、「転ぜらるる力量とも、かかれる力量とも」談ず也。
  • 実(に)此の神通に識知不可及之条勿論也。

所詮今の「同生、住持、実帰等、皆識知を離れたる」と可心得也。「短長に関われざる仏通の変相」なるべし、此の測量を挙して、擬せざる也とぞありたきを、「測量を挙して擬するのみならんや」とあれば、聊か此の詞の続き違いたるように覚ゆ。但しこの意趣は一向識知と云う事を嫌いて、棄てんとにはあらず。「測量」と云う事を可用とも、今の神通の上の「測量」は、不可棄置「測量」也。此の心地を聊か尻目に懸けて被書たるとも可心得なり。

 

 むかし五通仙人、ほとけに事奉せしとき、仙人とふ、佛有六通、我有五通、如何是那一通。ほとけ、ときに仙人を召していふ、五通仙人。仙人應諾す。佛云、那一通、爾問我。

 この因縁、よくよく參究すべし。仙人いかでか佛に有六通としる。佛有無量神通智恵なり、たゞ六通のみにあらず。たとひ六通のみをみるといふとも、六通もきはむべきにあらず、いはんやその餘の神通におきて、いかでかゆめにもみん。

 しばらくとふ、仙人たとひ釋迦老子をみるといふとも、見佛すやいまだしや、といふべし。たとひ見佛すといふとも、釋迦老子をみるやいまだしや。たとひ釋迦老子をみることをえ、たとひ見佛すといふとも、五通仙人をみるやいまだしや、と問著すべきなり。この問處に用葛藤を學すべし、葛藤斷を學すべし。いはんや佛有六通、しばらく隣珍を算數するにおよばざるか。

 いま釋迦老子道の那一通、爾問我のこゝろ、いかん。仙人に那一通ありといはず、仙人になしといはず。那一通の通塞はたとひとくとも、仙人いかでか那一通を通ぜん。いかんとなれば、仙人に五通あれど、佛有六通のなかの五通にあらず。仙人通はたとひ佛通の所通に通破となるとも、仙通いかでか佛通を通ずることをえん。もし仙人、佛の一通をも通ずることあらば、この通より佛を通ずべきなり。仙人をみるに佛通に相似せるあり、佛儀をみるに仙通に相似せることあるは、佛儀なりといへども、佛神通にあらずとしるべきなり。通ぜざれば、五通みな佛と同じからざるなり。

 たちまちに那一通をとふ、なにの用かある、となり。釋迦老子こゝろは、一通をもとふべし、となり。那一通をとひ、那一通をとふべし、一通も仙人はおよぶところなし、となり。しかあれば、佛神通と餘者通とは、神通の名字おなじといへども、神通の名字はるかに殊異なり。

詮慧 五通仙人問答段

〇たとえば「仏の一神通」と云うは、無量也。戒に一分受菩薩、二分受菩薩と云う事あり。但し是も第一不殺生戒を持て、仏寿の長遠を得たらん身に、盗も妄語もあるべからず。其上諸仏根源、行菩薩の根本と云う。此の時の戒には、一分二分と挙ぐべからず。非色、非心、非有、非無、非因、果報と云う、五通六通とも難分哉、只「爾問我」なるべし。

〇「五通仙人を見るや未だしや」と云うは、釈迦牟尼仏名毘盧遮那遍一切処と習う上には、何を誰が見るべき、仍五通仙人見難き也。「見其人」と云うは、只眼処対に現るる所の面貌許りを見て、見たりと云うべからず。其の人の才芸いか程とも、心操いか也と見るを「見」と云うべし。仏をば仏見ならでは難見、世間の眼にては纔かに色相許り歟。然者眼処対と成りぬべし。仏見は吾我の心身を立てざれば、仏を見るは仙人をも見るべし。仏を不見は又仙人をも見ざるべしとなり。愛すれども知其失、悪とも知其徳、是を知人とは云う也。

〇迷と云うは我に迷なり。見我は又可見仏、見仏は可見我也。

〇「用葛藤を学すべし、葛藤断を学すべし」と云う、是は葛藤(をうゑて)葛藤を纏う(『夢中説夢』「大正蔵」八二・一六一b二一・注)と云う心なり。見与仏のあわい、如此「断」と云うも同じ詞と可心得。このとき葛藤外のものなし。仍て「断」なり。「見仏の用葛藤、見仏の葛藤断」なり。

〇「隣珍を算数するに不及」と云う、仏通は「隣珍」となり。

〇「那一通を問い、那一通を問うべし」と云う、是は只同じ詞なるように聞こゆれども、「いづれの通をも問うべし」と云うなり。仙人が通は皆仏通に異なるゆえに、十善戒と云い、十戒と云い、五戒と云う。名字は似たれども其理玄隔なり。仏に三十二相あり、提婆にも三十相ありと云う。一二の勝劣かと聞こゆれども、三十相ながら異なるなり。仏の六通、外道の五通、今の一の勝劣に似たれども、一一皆異なり。

〇「神通の名字同じと云えども、神通の名字はるかに殊異也」と云う、是れ別の名字とも云いぬべし。外道方には天眼・天耳・他心・宿命等を立つ。仏家にはすでに色声香等を立つ。是れ異なり。「神通の名字同じ」と云うは、仙人をも神通と云う。仏をも神通と云えば、神通の名字同じと云う、其理ありぬべし。此義に付いて云わば、神通の名字同じと云えども、神通の義はるかに殊異ありとぞ云うべきに、「神通の名字」と云う詞は、ただ同様にて、同と云い殊異と云う(は)、心得られず。但し仏通をばすでに無量神通知恵と云う、何を差(指?)して神通といわず。しかあれば仏の上には神通と云う名もあるべからず。六入無迹亦名六神通などと云う時に、あと(後)なからん上は、名字も立てがたかるべし。是等の義を「殊異」と云うべし、四教にも皆仏とは説けども、教々の仏又殊異なり。

経豪

  • 文に委細也。詮は「仙人我れに五通あり、仏に六通あり。今一通はいかなるぞと、仏に奉問に、仏被仰ようは、那一通爾問我」と、此の仏言も難心得。一通を仙人問い申し上げる上は、其の一通のようをも被示べきに、今の御詞不審也。子細あるかと聞こゆ、仙人が所存は、我には五通あり、仏六通あり。今一通、仏は勝り給いたり、其の勝り給う一通とは、如何なるぞと尋ね申すか。仏有六通の様、仙人曾て不可知。「仏有無量神通ゆえ也、ただ六通のみにはあらざるべし」と云う也。たとい六通とは云うとも、六通さらに際限あるべからず、其の余の神通、仙人夢にも不可見と云う也。しばらく「問」と云う御言は、開山の御詞也。蹔く彼に替りて、「仙人に問うべし」と云う御詞也。「仙人たとい釈迦老子を見ると云うとも、見仏すやいまだしやと云うべし」とは、仏に奉仕せん仙人、争か仏を不奉見。但し只三十二相八十種好の装いを、仙人奉見は、真(の)見仏にあらず。此の心地にて「見仏すやいまだしや」とは可云也。「たとい見仏すと云うとも、釈迦老子を見るやいまだしや」とは、先に云う心地なるべし。又「たとい釈迦老子を見る事を得、たとい見仏すと云うとも、五通仙人を見るやいまだしや、と問著すべきなり」とは、たとい仙人釈迦老子を見ると云うとも、仙人ありて仏を奉見は、仏通の道理には可背。能見所見に拘わるゆえに、仏(は)仏を見、せ(は)仙人を見る、是見仏の真実なるべし。此の道理を云うに、「用葛藤、葛藤断」とは云わるる也。葛藤が葛藤を巻く道理なるべし。「葛藤断」とは解脱の詞也。
  • 仙人通、仏通水火の上は、「若し五通の中に一通をも仏通と通ずる事あらば、此の通より仏を通ずべき也」と云う也。仙人仏通に相似せる振舞もあり、仏儀に仙通に相似せる姿あるは仏儀也と云うとも、仏神通にはあらずと知るべし」とある也。「通ぜざるゆえに、五通みな仏と不同」と被嫌なり。
  • 是は仏の「那一通、爾問我」の御詞の御釈なり。
  • 如文。

 

 臨濟院慧照大師云、古人云、如來擧身相、爲順世間情。恐人生斷見、權且立虚名。假言三十二、八十也空聲。有身非覺體、無相乃眞形。儞道、佛有六通、是不可思議。一切諸天神仙阿修羅大力鬼、亦有神通、應是佛否。道流莫錯、祗如阿修羅與天帝釋戰、戰敗領八萬四千眷屬、入藕孔中藏。莫是聖否。如山僧所擧、皆是業通依通。夫如佛六通者不然。入色界不被色惑、入聲界不被聲惑、入香界不被香惑、入味界不被味惑、入觸界不被觸惑、入法界不被法惑。所以達六種色聲香味觸法、皆是空相、不能繋縛。此無依道人、雖是五蘊漏質、便是地行神通。道流、眞佛無形、眞法無相。儞祗麼幻化上頭作模作様、設求得者、皆是野狐精魅、竝不是眞佛、是外道見解。

 しかあれば、諸佛の六神通は、一切諸天鬼神および二乘等のおよぶべきにあらず、はかるべきにあらざるなり。佛道の六通は、佛道の佛弟子のみ單傳せり、餘人の相傳せざるところなり。佛六通は佛道に單傳す、單傳せざるは佛六通をしるべからざるなり。佛六通を單傳せざらんは、佛道人なるべからずと參學すべし。

詮慧 臨済院慧照大師段

〇「大師云、古人云、如来挙身相、為順世間情。恐人生断見・・是外道見解」。

臨済の詞とて、先師所々被下之。且多在此段歟。其の故は「仮言三十二、八十也空也声なり」、有身をば嫌う心地にて、「無相を真形也」と取らる。臨済の心地はしばらく置く、未学了の人この詞を了見せば、ひとえに空の見に堕しぬべし。「仏に有六通不可思議也とて、一切諸天・神仙・阿修羅・大力鬼等の神通を出だして被非れば」、仏法とは覚えれども、猶「入色界不被色惑、入声界不被声惑」などと説きて、「皆是空相也」と被結。「真仏無形也、真法無相也」とあるも、空の心得差し出でて覚えたるなり。能々可了見者歟。色にも声にも不被惑と云わん事は、生也全機現と談ずる時こそ、さわさわとは惑いせられね。

〇「如来挙身相、為順世間情」と云う、是は今の応仏の義なり。応衆生也、随順世間なり。

〇「恐人生断見、権且立虚名」と云う、これ「断見」と云うは外道が云う所の断にはあるべからず。仏の涅槃を「断」と云う也。また生を受くべからざるゆえに、しばらく「断」と云う也。

〇「仮言三十二」と云う、今の仏の三十二相なり。

〇「八十也空声なり」と云う、仏八十の寿命事也。「有身非覚体」と云う、是は同じ人(の)類(に)して、出世給うをば「非覚体」と云う。但し三十二相の御姿を捨てよとは説かず。そのゆえは仏体は応仏に限らず、山河大地牆壁瓦礫をも指すなり。

〇「無相乃形也」と云う、法身を指すかとも覚えたり。但し只今是をも心法身とは指さず、この無相なお不離有無見歟。臨済の詞、雖可信、於此詞者、難取信。今被引用事は、只外道の神通与仏道、差別の証し許り也と可知なり。

〇「仏有六通、是不可思議也」と云う、是は誠(に)仏法と覚えたれども、始終の詞を校合すれば、不可思議の詞も難取。「不可思議」とは非外道通を指すなり。

〇「道流莫錯」と云う、「道流」は学人事也。

〇「莫是聖否」と云う、上に小神通を挙げて「莫是聖否」と云えば、聖にてはなしとも心得ぬべし。又小にもあれ大にもあれ、いま神通を挙げ連ねて云う時、聖ならじやと云う心もあるべし。

〇「山僧所挙、皆是業通依通」と云うは、「一切諸天、神仙、阿修羅、大力鬼」是業通なり。各随果報具神通これ「業通」なり。又随果報は是「依通」也、皆小神通なり。

〇「夫如仏六通と云うより、達六種色声香味触法」までは、これ仏法と聞こゆ。但し「空相」と結する詞を案ずるに、此の「空」の意旨難知。大小乗并世間にも「空」と談ずる詞あるゆえに。

〇「不被惑」と云う、この「惑」の分際も教々に相変わるべし。三蔵教にも三界の内の惑には「不被惑」と云う。是は猶「惑」を置きて厭棄するにてあり。仏法には尽十方界しゃもん一隻眼と云う時、眼にこそ色界は被惑るれ、色には不被惑。尽十方界沙門一隻声と云わん時、声こそ被惑るれ、声には不被惑也。已下以之可准知也。色相も仏色なり、仍不被惑也。

〇「不能繋縛。此無依道人」と云う、如詞。

〇「雖是五蘊漏質、便是地行神通」すと云う、「五蘊漏質」は、煩悩具足之身也。「地行」と云うは地を行く地行、夜叉を云うにはあらず。この「地行」は行とは必ず(しも)不可心得。ただ其の所に仰せて「神通」あるなり。不可限「地行」也。

〇「道流真仏無形なり、真法無相なり」と云う、学人まことの仏法を知れとなり。

経豪

  • 是は此の身の上に、様々の神通等を為せども、皆是野狐の化けたるようなる事なり。非真仏、是外道の見解なりと被嫌也。是は打ち任せて、今の神通と思い習わしたる振舞どもを如此嫌う也。仏道さらに彼に等しむべからざるなり。

 

 百丈大智禪師云、眼耳鼻舌、各々不貪染一切有無諸法、是名受持四句偈、亦名四果。六入無迹、亦名六神通。祗如今但不被一切有無諸法礙、亦不依住知解、是名神通。不守此神通、是名無神通。如云無神通菩薩、蹤跡不可得尋、是佛向上人、最不可思議人、是自己天。

 いま佛々祖々相傳せる神通、かくのごとし。諸佛神通は佛向上人なり、最不可思議人なり、是自己天なり、無神通菩薩なり。知解不依住なり、神通不守此なり、一切諸法不被礙なり。いま佛道に六神通あり、諸佛の傳持しきたれることひさし。一佛も傳持せざるなし、傳持せざれば諸佛にあらず。その六神通は、六入を無迹にあきらむるなり。無迹といふは、古人のいはく、六般神用空不空、一顆圓光非内外。非内外は無迹なるべし。無迹に修行し、參學し、證入するに、六入を動著せざるなり。動著せずといふは、動著するもの三十棒分あるなり。

 しかあればすなはち、六神通かくのごとく參究すべきなり。佛家の嫡嗣にあらざらん、たれかこのことわりあるべしともきかん。いたづらに向外の馳走を歸家の行履とあやまれるのみなり。又、四果は、佛道の調度なりといへども、正傳せる三藏なし。算沙のやから、跰のたぐひ、いかでかこの果實をうることあらん。得小爲足の類、いまだ參究の達せるにあらず。たゞまさに佛々相承せるのみなり。いはゆる四果は、受持四句偈なり。受持四句偈といふは、一切有無諸法におきて、眼耳鼻舌中々不貪染なるなり。不貪染は不染汚なり。不染汚といふは、平常心なり、吾常於此切なり。

 六通四果を佛道に正傳せる、かくのごとし。これと相違あらんは佛法にあらざらんとしるべきなり。しかあれば、佛道はかならず神通より達するなり。その達する、涓滴の巨海を呑吐する、微塵の高嶽を拈放する、たれか疑著することをえん。これすなはち神通なるのみなり。

詮慧 百丈大智禅師段

〇「禅師云、眼耳鼻舌、各々不貪染一切有無諸法・・是自己天(仏を指すなり)。まづ余門の談に違する事、此段に顕然也。「是名受持四句偈、亦名四果。六入無迹、亦名六神通」と云う、ゆえに四句偈を神通とは此門にいま云う所なり。

〇「四句偈」とは、たとえば若以色見我、以音声求我、是人行邪道、不能如来(『金剛般若波羅蜜経』「大正蔵」八・七五二a一七・注)などと云う、四句偈事也。此偈を能く心得ん四果なるべし。神通なるべしとなり。

〇「四果」と云う(或四沙門果とも云う、これ等小乗に談ずる所也)。此の「四果」と云うは、四禅等の因果にあらず、只四句と云う詞と同じと可心得なり。須陀洹道(亦預流果と云う、初果也。これまでは在家なり)。斯陀含道(又一来、二果なり)。阿那含道(又不還果、三果なり)。阿羅漢道(四果)。四向とは、この四果を次第に証せんとする初めの時刻なり。四相八輩と云うは、この四向と四果とを取り合わせて八輩と云うなり。

〇六根とは、眼根、耳根、鼻根、舌根、身根、意根。六境と云うは、色・声・香・味・触・法。六識とは、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識。是を都合して十八界とも云う、又六塵とも云う。外六塵これなり、或六門とも云う、内六門是也。五根と説く時は不加意也。五蘊と説く時は色・受・想・行・識也。

〇神通の六あるにあらず、「六入無迹を神通と名づく許り也。尽十方界沙門一隻眼、一隻鼻孔、一隻舌とも云わん同事也。如此ならん「六入これ無迹」なるべきがゆえに、この無迹は「迹(あと)無し」と読むを空なるぞとは心得べからず。三界唯一心の道ぞ、無迹には当るべき能所を置かねば「無迹」なり。「亦名六神通」と云う、又「一切有無諸法に礙へられず」と云う、「又不依住知解、是名神通」(「」は草案本にはなく、詮慧グループによる加筆か。『古尊宿語録』「続蔵」六八・一三a一〇・注)

〇「祗如今但不被一切有無諸法礙、亦不依住知解、是名神通」(「」は前述同様)

此の詞能々可了見事也。「無不依住知解」とある、この「無」字頗る背く義あまりたる様なり。然而上の詞に已に「一切有無諸法に礙へられず」とある時に、この「無」の字に煩う事不可有、神通なるべし。「不依住知解」こそ神通と覚うに、「無」の字を被加迷惑也。然而「礙へられず」は不可有失也。付き下(の)詞に「不守此神通、是名無神通」とあれば、さては又神通なかるべきかと総物に了見せらるれども、無しと心得るは「無」の字に被礙べし。仍大海不宿死屍程の無と可心得。さればこそ「如云無神通菩薩、蹤跡不可得尋」置きて、「是仏向上人なり、最不可思議人、是自己天」なり、「仏々祖々相伝せる神通、如此。諸仏神通は仏向上人なり、最不可思議人也、是自己天也、無神通菩薩也。知解不依住也、神通不守此也、一切諸法不被礙也」とはあれ、尤可了見合者也。

〇「不守此神通、是名無神通」と云う、此の「不守」は不可得の詞に等しめて可心得。不守其事と云うにはあらず。上に「不被一切有無諸法礙、不依住知解、是名神通」(ここでの「」も前掲同様)と云いて、次に「不守此神通、是名無神通」と云う。此の「無神通」の詞は「不守」の詞に付きて出でぬれば、邪と聞ける方ありぬべし。然而「如云無神通菩薩、蹤跡不可得尋」と云う時は、仏法と聞こゆ。「是仏向上人、最不可思議人也、是自己天也」と云う、「自己天」とは云仏、非天云云天。

〇「動著せずと云うは、動著するもの三十棒分あるなり」と云う、此の「棒」は賞罰共に仕う。動著不動著共に「無迹」の義なり。動不動を二と不習は、たとい動ずとも無迹なるべし。

〇「平常心」と云う(は)、仏法心也。「平常心」と云えばとて、世間の世の常の心にはあらず。

〇「吾常於此切」と云う、たとえば上の平常心の心なり。「切」は親切之義也。何れの所にても親切なるを、「吾常於此切」と説く。ここには仏道に切なるなり。

〇「涓滴の巨海を呑吐する、微塵の高嶽を拈放する」と云う、是は小神通の時も談ずるに似たれども、いまは仏神通に談ずるは、枯れたる木に花咲き、いりたる種、再び生ずる程の事也。二乗仏種なけれども、法華のとき已成仏すべしと聞く。毛呑巨海をも仏神通と談ずるなり。

経豪

  • 「眼耳鼻舌の四を受持四句偈と云い、又云四果」となり、珍事也。「四果」と云うは、打ち任すは預流、一来、不還、阿羅漢を云四果。今は「眼耳鼻舌を四果」と云う事は聞きなれぬ様也。身意の二が欠けたる不審也。但し眼にも五根具足すべし、耳にも乃至耳鼻舌等に各皆可具足。然者闕けたりと非可云。又身意の二なければとて、何不云六根。強ちに六の数なければ、六根とは謂わしめんと云わんは、文字の法師の類いなるべし。「六入無迹」とは、「六入」は六根の事也、「無迹」はあとなしと也。如前云、眼の法界を尽し、乃至耳鼻舌等の究尽せん時、無迹なるべし。是を今は「名六神通」也。又第二『摩訶般若』の草子に、六根を六枚般若と談じ、五大を五枚の般若(「大正蔵」八二・二二b二七・注)などと談じき。然者今、眼耳鼻舌を「受持四句偈」と名づく事、強ち不可驚事也。
  • 「一切有無諸法を不被礙を名神通」とあり。又「不依住知解」(この「」も同前掲)とは、「知解に住するに依らず」とは、有智無智を不可論と云う心地歟。「不守此神通、是名無神通」と云うは、「無神通」と云えばとて、神通あるまじとは不可心得、只神通の上に、しばらく「無神通」と云う詞もあるべき也。仏非定相の非の詞程に、此の「無」も可心得歟。又「無神通菩薩」と云う事も、かかる菩薩形像も色相も別にあるべきにはあらず。只神通のしばらく「無神通菩薩」とも云わるべき歟。「自己天」とは指仏歟。
  • 此の神通の上に如此無尽に被談なり。只智解に不住などとくむに云うべきにあらず。「智解不依住、神通不守此」と云う道理なるべしとなり。
  • 「六般」とは、眼耳鼻等六根事也。空の上に不空理なるなり、「一顆円光実非内外」なるべし。
  • 今の「修行参学、証入皆無迹ならん」とは、六入を動著すと云う事不可有。「動著するは三十棒分」とは、此の「三十棒」の詞、迷悟共に仕う詞也。此の「三十棒分」は迷棒なるべしと許りは取り伏すべからず。
  • 文(に)分明也。実に家へ帰らんには、家へ向いて可馳走。「向外馳走して帰家す」と思わん、大いなるあやまりなるべし。今の神通余方に心得たるようは、只向外を帰家と思う程の事なるべし。仏通を夢にも不可見也。
  • 如文。
  • 文に分明也。此の「不染汚」と云うは、只其の物を置いて彼に不染汚と云うにはあらず。「不貪染の姿が不染汚」と云わるる也。「平常心」と云うも、仏法の上の平常心也。「吾常於此切」と云うは、只それがそれと云う程の詞なり。解脱の詞なるべし。
  • 「一(涓)滴」は少なく、「巨海」は多く、「微塵」は狭少なり、「高嶽」は大なりと云うべからず。ただ神通の上の「涓滴巨海」、神通の上の「微塵高嶽」なり。此理を以て「呑却とも拈放」とも仕う也。ゆえに無尽の詞あるようなれども、只一法究尽する道理が如此云わるる也。実(に)「誰か是れを疑著せん」、疑著する人不可有。ゆえに疑著すべくは、只神通の神通を疑著する理のみ也。

神通(終)

(2022年10月5日 擱筆 タイ国にて)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。