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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第三十一 諸悪莫作  註解(聞所・抄)

正法眼蔵 第三十一 諸悪莫作  註解(聞所・抄)

 

 古佛云、諸惡莫作、衆善奉行、自淨其意、是諸佛教。

 これ七佛祖宗の通戒として、前佛より後佛に正傳す、後佛は前佛に相嗣せり。たゞ七佛のみにあらず、是諸佛教なり。この道理を功夫參究すべし。いはゆる七佛の法道、かならず七佛の法道のごとし。相傳相嗣、なほ箇裡の通消息なり。すでに是諸佛教なり、百千萬佛の教行證なり。

『御聴書抄』には「聞書とあるは聖人御聴書也、私云とあるは予聴書なり」との注あり。倉石義範氏『正法眼蔵抄・諸悪莫作に関する問題について』結論部に於いて私云は詮慧であることを論証され、詮慧と寂光の二人で著わす。とすることから、〇「私云」は詮慧に△「聞云」は寂光とする。但し第三『仏性』巻註解に於いては「私云」を寂光と記すが、未だ結論には未到。

〇私云、名目を「諸悪莫作」と云う心如何。「衆善奉行」と云う句もあり、「自浄其意」と云う句もあり。必ず(しも)「諸悪莫作」の句を取りて、名目に付くる事不審也。但し四句ながら取らば、さのみ長き名目あるべからず。初めの四句を取りて付けたると見えたり。次々の句を付けたらんも、又此の難はありぬべし。然而実には「諸悪莫作」の道理が、響きて「衆善奉行とも、自浄其意とも、是諸仏教」とも云わるる時に、尤も「諸悪莫作」と可付ものなり。

〇此の文は『阿含経』(『増一阿含経』「大正蔵」二・五五一上・注)より出でたり。阿含経は一向小乗也、何として此文をしも(て?)、七仏通戒と云うや。同じは大乗経の中ならん文の、真如とも、実相とも説きたらんぞ。七仏通戒とも云うべきと覚えたる今の「諸悪莫作」の詞も、「衆善奉行」と云うも、ともに作業に付けたる因位の詞と聞こゆ。「自浄其意」と云うも、自己の心地す。「是諸仏教」と云うも、「教」と云えば、なお行もありぬべし。証を待つにも似たり。かたがた七仏これを通戒と云い難けれども、三乗十二分教をも、皆此の宗門に入りてこそ、下語せらるれば、阿含経の説を必ず小乗とて、取らざるべきにあらず。三性の中の悪性にて、はては誠(に)教家とも、小乗とも、下すべけれども、「七仏の法道、必ず七仏の法道の如しと云う、箇裡の通消息也と云わるる是諸仏教也、又百千万仏の教行証也」。阿耨多羅三藐三菩提と云う上は、不可為小乗義之条顕然也。

仏法は言語不及と云うべきにあらず。すでに七仏通戒の偈あり。何故にか此義いでくべき。世間に云う仏法は言語に謂われし程の事、総て仏法にてなしと談ず、此事僻事也。抑も小乗の法の言語をもて、大乗至極の道に引き込んでは、難心得けれども、余門に物を心得様には心得べからず。されば今の義聞き分くべき也。「七仏の法道は必ず七仏の法道の如し」と云うを、教に前仏後仏体皆同じなどと如談は心得まじ。仏所具の法は前後なし、如三世諸仏説法之儀式などとも云うは、はたして如しちも同じとも説く。不可然、是は只まさしく七仏の道は七仏の定めにあるべしと也。たとえば黄色に苦き味具したればとて、同じと難云。色は眼に付き、味は舌に付く。其体一にして親切なれども、是は等しからず。千里万里を隔たりとも、黄なる色と黄なる色とこそ親しくして、一なる味は猶別なるべし。争か一なるべきや、尤可分別也。

△聞云、「祖宗」と云うは「七仏のみにあらず」、以前以後にも通ずべし。「通戒」と云うは、常には七仏に各々の自証を述ぶ。「諸悪莫作」の偈は、七仏一切衆生に蒙ぶらしめて、誡むるがゆえに、「通戒」と云うと心得也。今の心はしかあらず、仏に通別の法なし。通別は仏の法なり、故に付法の心(こころ)誡めの詞となれるを、通戒の偈とは云うべき也。

〇私云、通別は仏の法也と云う。通別は「諸悪莫作」を通とも別とも仕うべし。是程の通別也。仏に通別の法なしと云うは、能所彼是の差別を置いて、通と云い別と云う也。

〇無上菩提の上は、諸悪不可有、只「莫作」也。人と悪と能所を置くべからず。作るべき諸悪のあるを、作る事なかれと云うにてはあらず。大海を説く時、不審死屍と云うが如し。死屍はなけれども、大海不宿死屍の道理あり。仏性海を説く時は、莫妄想と云うが如し、妄想なる事の有るにてはなけれども、莫妄想とは云わるる也。妄法無故と云う事もあり、是妄想なるべし。

〇「戒」は制止と云えば、諸悪の作られぬべきを、制して「莫作」と云うに似たれども、然るにはあらざるべし、諸悪を別に置きて、莫作と制するにはなし。やがて諸悪が莫作なる也。

仏戒を諸仏の本源行菩薩道の根本と云うゆえに、「仏教」なるべし、教と下すまじ。「一戒光明金剛宝戒と云う、一切仏本源仏性種子」(『梵網経』「大正蔵」二四・一〇〇三c二二・注)と云う、しかれば「七仏通戒」は此心なるべし。制止ばかりに思うべからず。如此云う時は、又「是諸仏教」とのみは云うべからず。是諸仏行とも、是諸仏証とも云うべし。「教」と云えばとて、因位に置きて果位を待つにあらず。又「七仏通戒」とのみ不可云、七仏通教とも、七仏通行とも、七仏通証とも云うべし。所詮「通戒」とは是無上菩提也、阿耨多羅三藐三菩提也。無上菩提は諸悪莫作と云えども、又諸悪莫作を無上菩提と難云、このゆえは人天三乗等の心得る諸悪莫作は非無上菩提也。

△聞云、仏祖の法門は、相伝を以て、その実を定む。正伝者前仏より後仏にまさしく伝えしなり。是によりて今の釈迦の法は、弥勒菩薩に付属すと云うこと、応仏一化のおもて也。しかあるに釈尊すでに、吾有正法眼蔵、付属摩訶迦葉と宣説しまします。迦葉後付属阿難、阿難亦付属商那和修云々、如此正伝し来る事、至于今たゆる事なし。此の正伝なき物は、われ法門を心得たりと名称すとも云えども、理として当らざるなり。外道の邪見と云うも、みづから諸法を置いて、推度して見を起こす、此のゆえに諸々の外道見解みな異なり。仏法はしかあらず、「相伝相嗣」確かなるゆえに、時に随い、よりに依りて、その詞異なるに似たれども、その理聊かも違わぬなり。いま此の「七仏の偈」、異なりと云えども、其理一なるが如し。しかあるに「相伝」と云うに付きて、先(の)「前仏後仏」と云う事を、能々明らむべし。常に是を心得には、因位の行願満足して、智断究竟する時、仏果の功徳すでに現る。仏の一期所に従い、機に依りて住世に久近あり、一期すでに終りぬれば、法を後仏に付属して、前仏は涅槃に入り給いぬ。過去遠々より如此成仏し、涅槃する仏々前後に無量也。是に依りて前仏の化道尽きぬれば、亦後仏に付属す。如此なるゆえに、仏々前後に出入し給えども、法門は今に伝わりて、絶えずと云うなり。かように云う常の習い也。今宗門の前仏後、仏前、仏後とらの義、後の詞に聞こゆ。

△或人疑い日く、前仏入滅と云えども、法を後仏に付属すと云うに、何の咎かあるか。答日、法と仏と久近同時なるべし。前仏入滅して、後仏に留むと云うは、仏は生滅し、法は常住なると云う咎ありぬべし。如何、重ねて疑い日く、応仏の習いは機に随いて久近あり、故に前後あり、生死あるに似たり。若其無前後と云わば、不可謂応仏。今の義の如くならば、法身常住也と云う道理なり。教云、三身に内外を立て、法身は常住にして、応身は無常也と云う、猶浅近の教也。非実教意、況哉今の宗門の心、不可有内外。仏法には総前後なし、又伝嗣の義なし。そのゆえには伝えぬ、尽きぬる時は、前後を置かざるなり。ゆえに「前仏より後仏に正伝す、後仏より前仏に相嗣す」と云うなり。

〇私云、又この「正伝相嗣」と云う事、『坐禅箴』にあるが、薬山如此単伝する事、すでに釈迦牟尼仏より直下三十六代なり。薬山より向上を断つるに、三十六代に釈迦牟尼仏ありと云う。是は下に対したる向上にあらず、上に対したる直下にあらず、世間の上下には異なるべし。ただ同じき上に、上とも説き下とも云うべし。たとえば釈迦牟尼仏より直下に三十六代に釈迦牟尼仏あり、薬山より向上三十六代薬山ありと云わんが如し。前仏後仏体皆同じとも云い、又過去の諸仏は我弟子也と釈迦は被仰き(右には前仏後仏皆同じと云う詞をば嫌い、ここには引之如何)。

〇私云、持戒と云うに向けても、可心得方々あり。止持作持(『四分律行事鈔』「大正蔵」四〇・九一c四・注)と教には談ずるなり。たとえば悪を止むべしと、持つ持もあり、これ止持なり。可成事を可成と持つ持もあり、この作持なり。又仏果上の止悪修善もあるべし、無上菩提これ也。

〇ただ「七仏」のみにあらず、「是諸仏教」也と云う。『阿含経』に、七仏を挙ぐるゆえに、「七仏」とは云えども、必ず(しも)七に滞るべからず、「是諸仏教」と云うゆえに。

〇いわゆる七仏の法道、必ず七仏の法道の如し」と云う。

△聞云、是は「前仏後仏の正伝相嗣」の様を述ぶるなり。これに付けて先ず疑いあり。たとえば毘婆尸仏より尸棄仏に正伝し、尸棄仏より毘舎浮仏に正伝。如此なるを、「前仏より後仏に正伝す」とは聞こゆ。しかあれば毘婆尸仏の法道は、尸棄仏の法道の如しと云うべきを、前仏より後仏に正伝する義を述ぶるに、「七仏の法道は七仏の法道の如し」と、七仏を同時に並べらるる義、如何義云。まことに前後を常に断つるには、いまの前後は同じからず。今仏家に前後を云うには、前必ず後に対せず、後必ず前に待たれず。前に三世あり、後に三世あり。前より先なる後あるべし。前に七仏あり諸仏あり、後にも七仏あり諸仏あり。前三三なり、後三三なり。かるがゆえに毘婆尸仏の法道は七仏の法道に同じきがゆえに、「七仏の法道は七仏の法道の如し」、「前仏後仏の正伝相嗣」この道理にてあるなり。

〇私云、前に三世あり、後に三世有りと云うは、前後なしと云う心なり。前三三後三三と云うも、前後なき詞也。此の道理に付けて、「前仏とも後仏」とも云わるるなり。

〇「七仏の法道必ず七仏の法道の如し」と云う、「七」の字は毘婆尸仏より今の釈迦までを数えて「七仏」と云う時に、釈迦より後に出で来らん仏の時は、毘婆尸仏を捨つべきか。又迦葉仏の世には如何なる仏をいづくに加えて、七仏とは数うべきぞ。毘婆尸仏の上に仏を一つ置くか不審也。所詮「諸仏の法道は諸仏の法道の如し」と心得べきをや。

△聞云、「相伝相嗣なお箇裏の通消息也」と云う、相伝相嗣、非前非後、他より自らに伝わるにあらず。自法を他に嗣するにあらず。前仏箇裏の消息は、親しく前仏の箇裏に通じ、後仏箇裏の消息は、必ず後仏の箇裏に通ず。このゆえに全後際断して、前仏も出世し、際断前後して、後仏も出世す。相見せざれども、面授正伝し、面授せざれども相見相嗣する道理なり。このゆえに「前仏より後仏に相伝し、後仏より前仏に相伝する、箇裏の通消息也」。自仏他仏、新仏古仏、しかしながら「箇裏の通消息也」。

△吾有正法眼蔵、付属摩訶迦葉、「箇裏の通消息也」。皮肉骨髄の汝吾全得なる、豈「箇裏の通消息」にあらざらんや。

〇私云、「正伝も相嗣」も只同じ詞也、別に思うべきにあらず。但しさあらんには、此の御詞頗る似無詮。「前仏より後仏に相伝す」と云うは、常の義也。「後仏は前仏に相嗣せり」と云う詞を、世間の如くには不心得して、後仏が前仏へ逆さまに付くように心得べきか。しかにはあらず、前仏も後仏も房ねて七仏一仏と云わんが如し。

△聞云、「すでに是諸仏教なり、百千万仏なり」と云う事、先に「ただ七仏のみにあらず、是諸仏教也」と云うは、七仏の数を諸仏と増する心(こころ)あり。いまは「すでに是諸仏教」と云うがゆえに、是諸仏行也、是諸仏証なり。「教行証」はもとより諸仏の上に置く。教行は因位にして、証を果上に立てざるゆえなり。しの心次々に見えたり。初めの段に「七仏祖宗の通戒として」とある是一。「前仏より後仏に正伝す、後仏は前仏に相嗣せり」と云う是二。「ただ七仏のみにあらず、是諸仏教なり」と云う是三、已上三箇条也。しかるを「この道理を功夫参学すべし」とて、いわゆる「七仏の法道必ず七仏の法道の如し、相伝相嗣、なお箇裏の通消息也。すでに是諸仏教なり、百千万仏の教行証なり」とありこれを挙げて心得は。

「七仏祖宗の通戒」と云う釈には七仏の法道必ず七仏の法道の如しと云う、「正伝相嗣」の釈には、箇裏の通消息也と云う。「是諸仏教」釈には、百千万仏の教行証なりと云う。但立ち帰りて、又あつるには「七仏のみにあらず」と云う詞を、相伝にも相嗣にも、箇裏の通消息にも、是諸仏教にもあつべし。聊かも不可相違也。

経豪

  • 如文、無殊子細。「祖宗」とはただ七仏を云うなり。別に人師を祖と挙ぐるにあらず。「前仏より後仏に正伝し、後仏より前仏に相嗣する道理」、唯仏与仏の姿なり。此道理まことに七仏のみに限るべからず。
  • 是は「七仏の法道、必ず七仏の法道の如し」とは、此の「諸悪莫作」の詞は一にて、毘婆尸仏より、乃至釈迦牟尼仏まで七仏代々此の詞を相伝相嗣し、乃至釈迦牟尼仏釈迦牟尼仏相伝相嗣すと可心得也。是を「箇裏の通消息也」とは云う也。「是諸仏の教なりと云い、百千万仏の教行証なり」とは、先に是諸仏教と云う、教の詞許りに可滞にあらず。是諸仏行とも、是諸仏証とも云うべしとなり。

 

 いまいふところの諸惡者、善性惡性無記性のなかに惡性あり。その性これ無生なり。善性無記性等もまた無生なり、無漏なり、實相なりといふとも、この三性の箇裡に、許多般の法あり。諸惡は、此界の惡と佗界の惡と同不同あり、先時と後時と同不同あり、天上の惡と人間の惡と同不同なり。いはんや佛道と世間と、道惡道善道無記、はるかに殊異あり。善惡は時なり、時は善惡にあらず。善惡は法なり、法は善惡にあらず。法等惡等なり、法等善等なり。

「いま云う所の諸悪は、善性悪性無記性の中に悪性あり。その性これ無生なり。善性無記性等も又無生也、無漏なり、実相也と云うとも」

△聞云、これより下は、しばらく諸悪の詞を述べらるるなり。但しこの段に総て、「善・悪・無記の三性、無生・無漏・実相也とも」と云うは、諸法実相也、諸法無生なりなどと云う程の事なり。

〇私云、此段は諸悪莫作の諸悪を挙ぐる許り也。但し「無生・無漏・実相」を云い表す事は、始終落ち立つべき事を云い置くなり。

〇「性これ無生也」と云うなど、悪性の「悪」の字を捨つるぞと覚えたれども、「善性・無記性等も又無生なり、無漏也、実相也」とあれば、悪性の「性」の字許りを取りて云う、何難かあらんや。抑も「無生・無漏」とあれば、悪性は中あしく聞こゆれども、「三性の箇裏に、許多般の法有りとて、諸悪は此界の悪と他界の悪と同不同あり」、「仏道と世間と、道悪・道善・道無記はるかに殊異有り」と見えたり。仏法の上にては、諸悪と関わらずと心得て、逃れんは非本意。三界を到して一心と云うべき様なし。諸法を置きて実相と云うべき様なし。雖然大乗至極の法を説く詞には、三界唯一心とも、諸法実相とも云うが如し。いまも又諸悪莫作と云う也。又三性の内、「無記」と云うは、人のはたえを指すなり。このゆえは、何と定むべき事なきを云う也。心意識に付けたる無記もあるべし。

〇「諸悪莫作」の言は、大乗小乗共に用之、止悪修善これなり。大乗の心地には悪として留むべきなり。善として修すべきなしと云いて、悪見を起こす事あり、能々可参学。四教の配立にも依るべし。又この「諸悪莫作」の詞に付きても、法文をやがて心得べきにあらず。法文道理に付きてこそ、此文をば心得べけれ。悪作る事なかれ、善を奉行すべしと、必ず(しも)読むべきにあらず。この談の始終は、只「莫作」と云わるるなり。「莫作」をば作る事なしと読むべきか。諸悪は作業なれば、作る事なかれと、仏誡めをばしますと覚えたり。是も止悪の為はあしからねど、此義にてはなし。悪の作業を誡むるにあらず。「諸悪は莫作也」、諸悪と莫作と二つの詞とは不可心得。しかあれば作る事なしとぞ読むべけれども、作る事なかれと読みてなしと心得か、正説にてあるべき也。なかれと誡むる詞にてなしと心得ぬる上は、やがてなかれと云う也。だれが磨塼と見ざらん、だれが磨塼と見んと云う心地なり。此義は磨塼の外に誰なきゆえ也。誰かなからんには不見と云うに不及、誰なきゆえに、見えからずと也。

〇万像百草を仏也と談じ、庭前柏樹子を祖意と説く。これ諸法を押しひたたけて仏法と云うに似たれども、さにはあらず。麻三斤と云うも諸法の中の万像の一つを云う様に聞こゆれども、是又不可然、万像広からず、一塵少なきにあらず。庭前柏樹子と云う、牆壁瓦礫、仏身と説けば、柏樹子祖師の意と云わざるべきにあらずと心得は、なお非本意。ただ柏樹と説くか、こなたの道理にてある也。

〇諸法実相と談ずるに、其義非一。或いは仏法を云うに、諸法を強為して是実相也と心得る輩あり。又諸法の本性もとより理なれば、事にこそ諸法と分けて見ゆれども、理と解脱するとき実相也とも云う。如此は心得まじ、実相諸法なりと可心得、実相実相なり、諸法諸法なりと可心得。是等の丈にて、作るべき諸法を別に置かねども、作る事なかれと云う詞も云わるる也。

「この三性の裏箇に、許多般の法有り」と云う。

△聞云、誠(に)無生・無漏・実相の道理の上は、善悪無記等の差別あるべからずと云えども、まづ「三性の箇裏に許多般の法ある」ことを述ぶるなり。

〇私云、裏箇・箇裏と、この二字を打ち替えて云う、箇裏は此の内の読みて分際あり、表裏の義なり。さかい(境)ありて聞こゆ。裏箇と云うは、ただ引き合いて、これと可心得。たとえば裏面などと云うが如し。

「諸悪は此界の悪と他界の悪と同不同あり」

△聞云、諸悪はと云うよりは、諸悪の多般なる事を述ぶるなり。「此界他界の同不同」と云うは、衆生の作業差別あるは、世界の善悪不同あり。いわゆる東西南北の四州、その果報勝劣あり。たとえば南洲の善悪、余州の善悪にあらざる也。又四州通じて悪となり、善となるもあるべき也。

「先時と後時と同不同あり」

△聞云、造作の法の習いに、時に随いて替わるゆえに、前時後時同する事もあり、不同なることもある也。

「天上の悪と人間の悪と不同也」

△聞云、人間界の同果報に善悪あるがゆえに、同不同あり。天上の果報は人間の果報に答えたるゆえに、「天上の善悪は人間の善悪と不同也」と云いて、「同」の詞なきか、厚薄の差別あるゆえに「同」のなき歟。但し薄く聞くこそあれ、人間の善悪の天上にあるもあるべし。

「いわんや仏道と世間と、道悪、道善、道無記はるかに殊異あり」

△聞云、先には世間に付けて、此界他界、前時後時、天上人間の同不同、皆造作の故に、所により時による同不同なり。今仏道と世間とは、境界はるかに異なるがゆえに、一向「殊異」と云う、是も不同の一分也。

〇私云、此の「道悪、道善」などと云う「道」の字は、別に仏道の道を云わんとにはあらず。只悪と云い、善と云い、無記と云うに可心得なり。道(みち)導(みちびく)噵(いう)、此の噵の字と又口の字を略して「道」の字を「云う」と常に読むなり。

「善悪は時なり、時は善悪にあらず」と云う。

△聞云、此の道理にては、善悪は界也、界は非善悪とも云うべし。然而時は一切に通ずるがゆえに、彼此の所前後の同不同ある事を結する也。

「善悪は法なり、法は善悪にあらず」

△聞云、先には時与界に付いて、善悪の同不同ある事を結し、いまは法は付いて善悪の法の同不同を結する也。善悪の体これ法也。此の善悪の法は、界と時とに渡りて同不同あるがゆえ也。この心、許多般の法ありと云うに聞こえたり。

「法等悪等なり、法等善等なり」

△聞云、法の悪なるあり、法善なるあるに付けて、法等なれば善悪も等し也と聞こゆ。その故はすでに、此の三性の裏箇に許多般の法ありと云えり。

経豪

  • 是は「善性、悪性、無記性の三性の中に悪性あり。其の性これ無生なり。善性、無記性等、是又無生也、無漏也、実相也と云う」ゆえに、悪性已下の三性等、皆無性の理也。我等が日来思いつる三性等にはあらざるべし。「この三性の裏箇に、許多般の法あり」とは、只無生也、無漏也、実相也と許り限るべからず。法性也、真如なり、三昧也、陀羅尼也とも、幾らも云わるべき道理ある所を、「許多般の法あり」と云う也。
  • 諸悪実(に)此界他界の悪、同不同あるべし。此界の悪を他界には善とし、他界の悪を此界には善とする事もあるべし。天上人間の悪、又以同、三界六道の見、猶以如此。まことに仏道と世間との道悪、道善、無記等はるかに殊なるべき条、其理顕然勿論事也。
  • 是に二意あるべし。「善悪は時也」とは、人に蒙ぶらしめたる詞也。時に善時悪時と云う時、不可有。法又如此、是悪法は人に蒙ぶらしめたる詞なり。法に善悪あるべからざる道理、是一。次には如此云えば、猶諸悪莫作の上に、別に人を置き時を置くように聞こゆ。不可然、只是は諸悪の上の善、諸悪の上の悪、諸悪の上の法なるべし。「あらず、あらず」と云わるるは、一方を証すれば、一方は暗き道理なるべし。所落居の義如此なるべし、ゆえに「法等悪等也、法等善等也」とは云うなり。此道理ならでは、争か「法等悪等」とは云わるべき。

 

 しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提を學するに、聞教し、修行し、證果するに、深なり、遠なり、妙なり。この無上菩提を或從知識してきき、或從經巻してきく。はじめは、諸惡莫作ときこゆるなり。

「しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提を学するに、聞教し、修行し、証果するに、深なり、遠なり妙なり」

△聞云、此段より下は正しく諸悪莫作の説の道理也。いまの学は菩提を耳根として聞教し、菩提を身根として修行し、菩提を心として証果するゆえに、教行証同じく菩提也。しかあれば則ち、菩提深なれば教行証も深也、菩提妙なるゆえに教行証も妙也。おおよそ「深・妙・遠」の三字は、菩提一道の功徳なり。菩提一道の功徳は、「教行証」の全面なり。深も浅に対し、遠も近に対し、妙も麤に対したる詞なれば、阿耨多羅三藐三菩提の上には、云うべきならねど、詞となる時は、又「深・遠・妙」と云わざるべきにあらず。

「此の無上菩提を、或従知識して聞き、或従経巻して聞く。はじめは諸悪莫作と聞こゆる也」

△聞云、知識の諸悪莫作と聞かしむる正当恁麽時、身を以て聞かしめ、心を以て聞かしむる。経巻諸悪莫作を聞かしむる、全経を以ても聞かしめ、半巻を以ても聞かしむ。又はじめ諸悪莫作に聞くのみにあらず、終りにも諸悪莫作と聞く也。

〇私云、此道理は諸悪莫作(は)、則ち諸悪莫作と聞く也。「或従知識、或従経巻すべき」様は、是什麽物恁麽来と云う詞を聞くには、ただ如何なるものの、何処より来たるぞと聞くに、「或従知識、或従経巻」して聞くには、仏性と聞く。説似一物即不中と聞く時は、一物に摂似するに、即ち中らずと聞けば、いたづらに止みぬべきを、「或従知識、或従経巻」して聞く時、仏性の道理あきらけし。同じ詞なれども、尤も或従知識すべきなり、或従経巻すべきなり。此の或従知識して聞くは初めは、諸悪莫作と聞こゆと云う、諸悪莫作は、すでに仏道の上の諸悪莫作なり。世間に非如思也。

経豪

  • 此の「聞教・修行・証果する」人は、誰ぞと覚えたれども、能聞所聞、能行所行、能証所証等の人あるべからず。以阿耨菩提、聞教・修行・証果と可談也。ゆえに「深也、遠也、妙也」と云うなり。打ち任せて始めて法を聞く姿、修行の姿を深遠妙とは如何が云うべき。此の「無上菩提を或従知識して聞き、或従経巻して聞く」も、別人あるべからず。以無上菩提、知識とも経巻とも談ずなり、聞とも談ずべき也。此理諸悪莫作なるべし。

 

 諸惡莫作ときこえざるは、佛正法にあらず、魔説なるべし。しるべし、諸惡莫作ときこゆる、これ佛正法なり。この諸惡つくることなかれといふ、凡夫のはじめて造作してかくのごとくあらしむるにあらず。菩提の説となれるを聞教するに、しかのごとくきこゆるなり。しかのごとくきこゆるは、無上菩提のことばにてある道著なり。すでに菩提語なり、ゆゑに語菩提なり。無上菩提の説著となりて聞著せらるゝに轉ぜられて、諸惡莫作とねがひ、諸惡莫作とおこなひもてゆく。諸惡すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまちに現成す。この現成は、盡地盡界、盡時盡法を量として現成するなり。その量は莫作を量とせり。

「諸悪莫作と聞こえざるは、非仏正法、魔説と知るべし、諸悪莫作と聞こゆる、仏正法也」

〇「諸悪莫作と聞こえざる」と云うは、世間の如くの諸悪莫作なるべし。

「無上菩提の説著となりて、聞著せらるるに転ぜられて、諸悪莫作と願い、諸惡莫作と行いもてゆく、諸悪すでに作られずなりゆくところに、修行力たちまちに現成す」

△聞云、無上菩提の全体すなわち説著となり、聞教となり、転となるがゆえに、願いも莫作の願いにして、後を待つにあらず。行うも莫作の行いなるがゆえに、非待証、諸悪すでに作られず成りぬる時も、作りつる諸悪の始めて作られず成りぬるにあらず。見成の修行力、始め終りに拘わらぬなり。

〇私云、「諸悪の作られずなる」とは、三界唯一心と体脱するを云うべし。

「この見成は、尽地尽界、尽時尽法を量として現成するなり。その量は莫作を量とせり」

△聞云、莫作は無上菩提也。この菩提尽地に見成して余る事なし、足らざる事なし。尽界に見成して初中後善なり。尽時に見成して過現当を接す、尽法に見成して転ぜざる一塵なし。このゆえに「見成は量なり、量は莫作」也。

△「量」と云うには、有量の無量あり、無量の無量あるべし。有量の無量と云うは、恒河沙の沙の数を無量と云うが如し。一定恒河沙の量はあるべし。恒河はただ河にしてこそあれ、其の外の世界多かるべし。ただ大河の沙が多くを、此の人界に数えぬにてこそあれ、されば半恒河沙とも、一恒河沙とも、二恒河沙とも、乃至無量恒河沙とも云うべし。無量の無量と云うは、今の「莫作の量」なるべし、無際限ゆえに。

経豪

  • 如文。日来我等が心得たりつる諸悪莫作の理なるべくは、争か仏正法とは云わるべき、顕然事也。凡夫始めて造作して制するにあらず。此の諸悪莫作の詞、已に「菩提の説となれるを聞教するに如此聞こゆる」也。無上菩提の道著にて、此の諸悪莫作の詞あるゆえに、「菩提語」と云わる。故に又「語菩提也」と云うなり。諸悪莫作の詞が、則ち菩提也とは云わるるなり。
  • 此の諸悪莫作が「無上菩提の説著となるを聞著するに転ぜらる」と云うは、莫作の理現前する時、日来の莫作と心得たりつる莫作は被解脱也。「願い行う」と云うも、誰ぞと聞こゆ、莫作が願いも、行いもすべき也。此の菩提の説著の諸悪莫作の理が作られざる道理なる間、是を「作られず成り行く所に、修行が忽ちに現成する」とはある也。是も諸悪すでに作られず成り行く所にとあれば、是以前は猶作られて、此の詞現成する後、作られず成りぬるかと覚えぬべし。又「現成」の詞も、今の詞のふと出で来たる所を現成と談ずるに似たり。非爾、莫作の理、全て前後古今に関わるべからず。現成(は)又三世九世を可超越、ゆえに「見成は、尽地尽界、尽時尽法を量として現成する也」と云う也。「地」を云えば尽地、「界」を云えば尽十方界。時に約すれば「尽時」、法に約すれば「尽法」、此理を「量として現成」とは云うなり。

 

 正當恁麼時の正當恁麼人は、諸惡つくりぬべきところに住し往來し、諸惡つくりぬべき縁に對し、諸惡つくる友にまじはるににたりといへども、諸惡さらにつくられざるなり。莫作の力量見成するゆゑに。諸惡みづから諸惡と道著せず、諸惡にさだまれる調度なきなり。一拈一放の道理あり。正當恁麼時、すなはち惡の人ををかさざる道理しられ、人の惡をやぶらざる道理あきらめらる。

「正当恁麼時の正当恁麼人は、諸悪作りぬべき所に住し往来し、諸悪作りぬべき縁に対し、諸悪つくる友に交わるに似たりと云えども、諸悪さらに作られざるなり」

△聞云、縁、人を引き、人、縁に染せられん時は、正当恁麼時の時にあらず。諸悪莫作の正当恁麼時は人の吾なし。縁の誰なき時なり、この道理を述ぶるに、諸悪作りぬべき所と、縁と友とを挙ぐるに似たれども、所も莫作也、縁も莫作也。友も莫作なるゆえに、正当恁麽人の面目は、諸悪莫作見成するなり。

〇私云、此条勿論也。尽地尽界等を量としたる正当恁麽時、并人なれば作られず。是莫作の力量也。この時、諸悪莫作の本意あらわるべし。善悪無記等の三性と云いし諸悪にてはあるべからず。所詮三界唯一心の道理に心得合すべし。

「莫作の力量見成するゆえに諸悪みづから諸悪と道著せず、諸惡に定まれる調度なき也」と云うは、説似一物即不中の心なるべし。

△聞云、たとえば仏成道の時節は、春秋冬夏の時節にあらずと云わんが如し。諸悪の字不用のゆえに、又春松秋菊は非有非無と云いし心地なり。

「莫作の力量見成するゆえに」、道著すべき諸悪なし。調度と定むべき諸悪なきなり。

「一拈一放の道理あり」

△聞云、拈也も、一放也も一の道理あり。

〇私云、「拈」ずれば尽地を拈じ、「放」は尽界を放つべき也。拈一は諸悪莫作、放一は衆善奉行に当るべしとも可心得。其の故は無上菩提の詞となる時、諸悪莫作とも聞こゆ、衆生奉行とも聞こゆるゆえに。

「正当恁麼時、すなわち悪の人を犯さざる道理知られ、人の悪を破らざる道理あきらめらる」

△聞云、今悪と人とを挙ぐる心は、莫作の力量現成する正当恁麽時は、彼此の犯し犯され、自他の破り破らるるにあらざる事を表すのみ也。挙ぐと人との様にはあらざるべし。

〇私云、無上菩提の悪、阿耨多羅三藐三菩提の悪ならんには、人を犯すと難云、又破る人もあるべし。すでに悪与人、彼此能所の差別なにかあらん。無上菩提に能所あるべからざるゆえに、仏は三界に流転す。三界は仏の外になし、「悪の人の犯さざる道理」と云うは是程の事也。

経豪

  • 「諸悪作りぬべき所に住し、諸悪作りぬべき縁に対し、諸悪作りぬべき友に交れば」、諸悪莫証とも云うべき道理あり。蹔く諸悪莫行と云う詞を云わん時を「一拈」とは可云歟。此の時は自余の詞は、「一放」と成りぬべし。但し是は等しと不相応、只「諸悪を一拈とも一放」とも仕うべし、拈一放一の道理なるべし。
  • 此の「人」と云うは、尽十方界真実人体の「人」なるべし。但し諸悪の「悪」と今の「人」と只一物なるゆえに、此の悪を犯すべき人なし。又犯さるべき人あらず。又此の「人の悪を破るべからざる道理」尤其謂あるべし。此の人与悪のあわい犯されず、破れざるべき道理なり。

 

 みづからが心を擧して修行せしむ、身を擧して修行せしむるに、機先の八九成あり、腦後の莫作あり。なんぢが心身を拈來して修行し、たれの身心を拈來して修行するに、四大五蘊にて修行するちから驀地に見成するに、四大五蘊の自己を染汚せず、今日の四大五蘊までも修行せられもてゆく。如今の修行なる四大五蘊のちから、上項の四大五蘊を修行ならしむるなり。山河大地、日月星辰にても修行せしむるに、山河大地、日月星辰、かへりてわれらを修行せしむるなり。一時の眼睛にあらず、諸時の活眼なり。眼睛の活眼にてある諸時なるがゆゑに、諸佛諸祖をして修行せしむ、聞教せしむ、證果せしむ。諸佛諸祖、かつて教行證を染汚せしむることなきがゆゑに、教行證いまだ諸佛諸祖を罣礙することなし。このゆゑに佛祖をして修行せしむるに、過現當の機先機後に廻避する諸佛諸祖なし。衆生作佛作祖の時節、ひごろ所有の佛祖を罣礙せずといへども、作佛祖する道理を、十二時中の行住坐臥に、つらつら思量すべきなり。作佛祖するに衆生をやぶらず、うばはず、うしなふにあらず。しかあれども脱落しきたれるなり。

「みづからが心を挙して修行せしむ、身を挙して修行せしむるに」

△聞云、修行者今の無上菩提の修行なり。此の修行の八面玲瓏なる時、修行を自とし、修行を他とし、心を自とし、自の全体を修行ならしむる道理なり。

「機先の八九成あり、脳後の莫作ある」

△聞云、「機」者、たとえば仏になるべき機、二乗の機等也。しかあれば、機は未だ仏に成らざる先を云うなり。しかあるを「機の先」と云えば、仏必ず機によらぬ道理聞こゆるなり。詮は成仏初中後なき心なるべき也。これによりて「機先」と云いつれば、成仏も作祖も説法も利生も、前後に拘わらぬ道理にてある也。「八九成」も不足の員にはあるべからず。十成を非可期也。「脳後の莫作」と云うも、莫作すでに造作に対せず。菩提を莫作と云うと心得る上は、廻頭転脳と云う。この身心皮肉を廻転する。しかあるを転脳とは云わで、「脳後」とあるは、「機先」に対して云うなり。又宗門に前後を立つる事、先仏後仏の所にあらわれたり。

〇私云、又「機」は可発を以て機とすと云う。その心(こころ)さきに見えたり。十界互いに具と云えども、一界に残りの九界去ればとて現れず。人界の時、仏界も地獄界も現れず。成仏すれば仏界、堕獄すれば地獄界也。仍て有界有分際、造作の法也。「機先」というとき脱落す、父母未生前と云う心地也と云う時、「機の先」より成仏を不隔也。

山河大地の修行、山河大地日月星辰却りて我を修行せしむと云う道理にて、機をも心得に可発と待つべきにあらざる也。

「なんぢが心身を拈来して修行し、たれの身心を拈来して修行するに」

△聞云、今修行は仏祖の上に立てつるゆえに、此の修行をもてなんぢをも摂し、たれをも尽すなり。又身心をして修行ならしむるは、修行の身心なるがゆえに、身心これ脱落なり。

「四大五蘊にて修行するちから、驀地に見成するに、四大五蘊の自己を染汚せず」

△聞云、「四大五蘊にて修行す」と云うがゆえに、修行の四大五蘊なり。この修行なんぞ「四大五蘊の自己を染汚せん」、すでに修行と自己と共に四大五蘊なるゆえに、もし染汚すと云わば、四大五蘊却りて四大五蘊を染汚し、自己即自己を染汚し修行す。亦修行を染汚すべし、故に染汚にあらざるなり。

「今日の四大五蘊までも修行せられもてゆく。如今の修行なる四大五蘊のちから、上項の四大五蘊を修行ならしむるなり」

△聞云、四大五蘊に古今あり、古今これ四大五蘊なる道理あれば、修行亦彼此に異ならざるべし。

〇私云、「上項」と云うは、向上の心なり。仏は古今に拘わらず。しかれども久成あり、新成あるが如し。新成の仏も三世を尽し、久成の仏も三世を尽す。

〇四大五蘊・上項・古今・今日・如今・修行、皆此、彼此も世間の彼此にあらず、修行の彼此也。

「山河大地、日月星辰にても修行せしむるに、山河大地、日月星辰、かへりて我等を修行せしむる也」

△聞云、修行の山河大地なるゆえに、わが修行は山河大地也。われと修行と、山河となんぢにあらず、たれにあらず。染汚なし、罣礙なき也。

「一時の眼睛にあらず、諸時の活眼なり。眼睛の活眼にてある、諸時なるがゆえに、諸仏諸祖をして修行せしむ、聞教せしむ、証果せしむ」

△聞云、「一時の眼睛にあらずと云うは、諸時の活眼」と云えばとて、各々にならんずるにてはなし。諸法の仏法なる時節とて、『見成公案』の経にある、面々挙げらるる詞ぞ、今の同心なるべき、活眼なるゆえ也。「眼睛活眼の諸時」は、諸仏祖ある時は修行の眼を開き、ある時は証果の眼を開く也。おおよそ山河大地、日月星辰、自己他己、教行証の時々の活眼なり。このゆえに、「眼睛活眼にてある、諸時なるがゆえに、諸仏諸祖をして、修行聞教証果せしむる」と也。

〇私云、上に挙ぐる所の修行、四大五蘊、山河大地。日月星辰等の一一を「一時の眼睛にあらず、諸時の活眼なり」と云うなり。修行も凡夫地にて修行して証果すべきかと覚えたれども、しかあらず。やがて諸法諸祖まで修行すと見えたり。しからば又凡夫はいたづらにて、果上の沙汰許りかと覚えども、教行証ともに究尽せずと云う事なければ、凡夫を捨て去るべし。但し又去ればとて、先師凡夫を即仏也、流転の行やがて証果とは仰せられず。この事はり(理?)を能々可了見也。「活眼」とは仏祖眼なり。衆生の眼をやがて活とは難云、仏眼を「活眼」と云うゆえに、眼睛裏にして諸仏なるがゆえに。

「諸仏諸祖、かつて教行証を染汚せしむる事なきがゆえに、教行証いまだ諸仏諸祖を罣礙することなし」

△聞云、心は計量、諸仏祖即教行証なれば、教行証即諸仏諸祖也と云わんが如し。

「このゆえに仏祖をして修行せしむるに、過現当の機先機後に廻避する諸仏諸祖なし」

△聞云、「過現当の機先機後」には、諸仏諸祖すなわち諸仏諸祖を廻避せず。修行是行なるがゆえに。

〇私云、この「過現当」は、機先脳後の過現当なり教行証は諸仏諸祖の面目たるゆえに、「廻避する諸仏諸祖なし」と云う也。

衆生作仏作祖の時節、日頃所有の仏祖を罣礙せずと云えども、作仏祖する道理を、十二時中の行住坐臥に、つらつら思量すべきなり。作仏祖するに衆生を破らず、奪わず、失うにあらず。しかあれども脱落しきたれる也」

経豪

  • 此の「みづから」と云うは、真実人体を「みづから」と指す歟。「心を挙して身を挙して、修行せしむる」と云うは、此の身心が即修行なる所を、如此云う也。只世の常の人を置きて、法を修行するとは不可心得。此道理「機先の八九成あり」、「機先」とは機に先立ちたるを云う也。「脳後の莫作」とは、廻頭転脳と云う、同心也。只其れが其れなりと云う心地也。
  • 此の「汝が心身」も、先の人を指すか、「心身を拈来して修行す」とも、此の心身がやがて修行にてある也。誰の心身の拈来してと云うも、諸悪の上の汝なり、だれなり。此の心身の上に、又四大五蘊と云う事を又談ずる也。是又修行を以て四大五蘊とし、諸悪を以て四大五蘊とするなり。此の修行の自己を可染汚道理なき也。
  • 「今日と云い、如今と云い、上項」と云う、古今に関わりたる様なる詞と聞こゆれども、しかにはあらず。只諸悪の上の「今日、如今、上項」なるべし、此の修行又四大五蘊を以て修行と可談也。
  • 先には四大五蘊にて修行し、今は「山河大地日月星辰を以て修行せしむ」とあり。其意上に同じ、詮は此の山河大地日月星辰を指して、修行とは談ず也。ゆえに山河大地日月と我と修行と只一物なる故に、「山河大地日月星辰かへりて我等を修行せしむるなり」とは云うなり。
  • 「一時の眼睛にあらず、諸時の活眼也」とは、只此の事はり(理?)明ら様にて、出来し来たるにあらず。辺際なき道理を「諸時の活眼也」とは云う也。抑も此の「一時の眼睛にあらず」と云う詞、不足不可覚ゆ。其の故は上に述べる道理を背くべからず。此の道理一筋尤もあるべき也。然而とかく、かかる姿一順なり。彼是の詞にて法を表すゆえ也。又「眼睛活眼にてある諸時なるが故に」と被決。此心又今云う所の「一時の眼睛」の道理と同じかるべし。又「諸仏諸祖をして修行せしめ、聞教せしめ、証果せしむ」と云々、此の詞も不相応に聞こゆ。今の修行聞教の力によりてこそ、諸仏諸祖の証果をば得ると心得に、今は「諸仏諸祖をして修行せしめ、聞教せしむ」とあり。但し此の諸仏諸祖を修行とも証果とも談ずなり、修行の外に仏祖なし。聞教の外に仏祖なし、証果の外に仏祖なき也。故に「諸仏諸祖、かつて教行証を染汚する事なし」と云う也。此の道理の上には、又「教行証いまだ諸仏諸祖を罣礙することなき」道理必然なるべし。
  • 是は今の仏祖と修行と一体なる故に、「過現当の機先機後に廻避する諸仏諸祖なし」とは、此の仏祖の体、修行の有様、三世同じく仏祖也、修行也。故に「機先機後に廻避する道理なき也」とは云う也。仏祖の外、三世も機先機後も廻避の所も不可有ゆえに。
  • 此の「衆生」は諸悪の上の衆生也。非吾我に、作仏作祖の時は、衆生は破るべきかと覚えたり。然而「作仏作祖の姿、日来所有の仏祖を罣礙せず、然而作仏祖する」なり。「十二時中の行住坐臥に、つらつら思量すべき也」とは、此の道理を能々十二時むなしからず、行住坐臥に思量すべしと云うと被心得ぬべし。今は十二時中も行住坐臥も、思量も別人不可有上は、諸悪の上に仰せて可心得也。
  • 如前云、「作仏祖の道理、衆生を非破、非奪、非失」。只「脱落」の上の作仏祖なるべし。

 

 善惡因果をして修行せしむ。いはゆる因果を動ずるにあらず、造作するにあらず。因果、あるときはわれらをして修行せしむるなり。この因果の本來面目すでに分明なる、これ莫作なり。無生なり、無常なり、不昧なり、不落なり。脱落なるがゆゑに。かくのごとく參究するに、諸惡は一條にかつて莫作なりけると現成するなり。この現成に助發せられて、諸惡莫作なりと見得徹し、坐得斷するなり。

「善悪因果をして修行せしむ。いわゆる因果を動ずるにあらず、造作するにあらず」

△聞云、今「善悪」は奉行の善也、莫作の悪なり。「因果」は、仏因也、仏果也。何としてか斯くの如くなる、これ「修行の善悪因果」なるがゆえ也。

〇私云、善の因に答えて善を得、悪の因に犯されて悪果を得るこそ、「善悪因果」とは云うを、今は因果を一にして、修行せしむることは、因果の理に合わぬ心地すれども、大乗因者、諸法実相也。大乗果者、諸法実相也と云う心地をして、「因果をして修行す」とは云うなり。ゆえに「造作にあらず」と云う。

「因果ある時は、我等をして修行せしむるなり」

△聞云、因果に通ずる修行をして我ならしむるゆえに、「我をして修行ならしむる」。

「この因果の本来面目、すでに分明なる、これ莫作なり。無生なり、無常なり、不昧なり、不落なり」

△聞云、実に莫作無生の因果、いかでか分明なる、本来の面目ならざらん。

「かくの如く参究するに、諸悪は一条にかつて、莫作なりけると見成するなり」

△聞云、諸悪の一条は莫作の現成也、莫作の一条は諸悪不用なり。

「この見成に助発せられて、諸悪莫作也と見得徹し、坐得断するなり」

△聞云、この「現成に助発せらる」と云うは、助発すなわち現成也。「見得徹、坐得断」する諸悪莫作を助発するがゆえに、此の「助発」の詞は見聞などと仕い、即などと云う程の事也。

〇私云、他に助けられ、未だ発(おこ)らざるを、発すにてはなし。現成が助発と云わるる也。先に転ぜられもて往くと云う、同心地なり。何物かありて助発せられぬ、助くと云うべからず。以此意可了見也。

経豪

  • 此の「因果」(は)、果を待つ因にあらず、因に待たるる果にあらず。因円果満なるべし。此の因果則ち修行也。打ち任せる因果は、動ずるにても、造作するにてもあるべし。此の因果修行、我等皆一体なるゆえに、「因果我等をして修行せしむ」とは云う也。
  • 此の因果を所詮莫作也と云うなり。「無生、無常、真常也、不昧不落也」と云うなり。「諸悪は一条に莫作なりけると現成する也」。
  • 「此の現成に被助発」と云えば、別人ありて是に被助たるように被心得ぬべし。此の「助発」も莫作也。「見得徹し、坐得断する」とは、諸悪がみづから見得徹し、坐得断する也、別人更不可有なり。

 

 正當恁麼のとき、初中後、諸惡莫作にて現成するに、諸惡は因縁生にあらず、たゞ莫作なるのみなり。諸惡は因縁滅にあらず、たゞ莫作なるのみなり。諸惡もし等なれば諸法も等なり。諸惡は因縁生としりて、この因縁のおのれと莫作なるをみざるは、あはれむべきともがらなり。佛種從縁起なれば縁從佛種起なり。

「正当恁麼の時、初中後、諸悪莫作にて現成するなり」

△聞云、現成これ初中後を離れたるがゆえに。

「諸悪もし等なれば、諸法も等なり。諸悪は因縁生と知りて、この因縁のおのれと、莫作なるを見ざるは、哀れむべき輩也。仏種従縁起なれば、縁従仏種起なり」

△聞云、云う心は、諸悪もし莫作なれば、諸法も莫作なるゆえに、因縁生も莫作となり。仏種莫作なれば、縁起莫作なり。莫作是莫作なれば、莫作にあらざる莫作なきがゆえなり。

〇私云、仏を能観の仏として、境を所観の法として、是より仏種を起こすと心得ときこそあれ。「縁従仏種起」と説くこと、これ始めなり、縁従仏種起ならんには、諸悪なきにあらず、莫作なるのみなり。諸悪あるにあらず、莫作なるのみ也。

経豪

  • 此の「莫作」の姿、実に因縁生滅に関わるべからず。打ち任すは諸悪と諸法と等しなるべからず、大いに差別あるべし。然而今の諸悪、今の諸法、尤も等しかるべし、不可有差異。
  • 是は「諸悪は因縁生と知る」とは、凡夫の上の見なり。実にも諸悪縁より発す也。但し仏法の方より見れば、此の因縁が莫作なる理を知らず。只因縁生とのみ心得所を、「あわれむべき輩也」と云わるるなり。
  • 此文は『法華』(「大正蔵」九・九b九・注)の妙文なり。実(に)仏種尤も縁より起なり。但し是も此縁より起と云う。縁又非外物、仏種なるべし。ゆえに「縁従仏種起」と、先師被仰也。是は前の詞に、因縁生の縁がやがて莫作なる道理に引き合いて、此の「仏種従縁起」の詞をも被釈出なり。

 

 諸惡なきにあらず、莫作なるのみなり。諸惡あるにあらず、莫作なるのみなり。諸惡は空にあらず、莫作なり。諸惡は色にあらず、莫作なり。諸惡は莫作にあらず、莫作なるのみなり。たとへば、春松は無にあらず有にあらず、つくらざるなり。秋菊は有にあらず無にあらず、つくらざるなり。諸佛は有にあらず無にあらず、莫作なり。露柱燈籠、拂子拄杖等、有にあらず、無にあらず、莫作なり。自己は有にあらず無にあらず、莫作なり。恁麼の參學は、見成せる公案なり、公案の見成なり。主より功夫し、賓より功夫す。すでに恁麼なるに、つくられざりけるをつくりけるとくやしむも、のがれず、さらにこれ莫作の功夫力なり。

「諸悪なきにあらず、莫作なるのみ也。諸悪あるにあらず、莫作なるのみ也。諸悪は空にあらず莫作なり。諸悪は色にあらず莫作なり。諸悪は莫作にあらず、莫作なるのみなり」

△聞云、これは先に云い来たる理の現るる時、諸悪有無空色等にあらず、ただ「莫作なるのみなり」。

〇私云、所詮「諸悪と莫作」とのあわいを、能々心得べし。只「莫作」と謂わるべし。有無たがいに能持所持となる、有(此の有は外道の有也)に著する者には、有(此れは仏有也)を以て破すと云う事あり。著の有を無著の有(此れは仏有なり)にて破、衆生にも生滅と談じ、仏にも生滅と談ず。能破所破にてはなし、不触事而知也。

「たとへば、春松は無にあらず有にあらず、作らざるなり。秋菊は有にあらず無にあらず、作らざるなり。諸仏は有にあらず無にあらず、莫作なり。露柱燈籠、払子拄杖等、有にあらず、無にあらず、莫作なり。自己は有にあらず無にあらず、莫作なり。恁麼の参学は、見成せる公案なり、公案の見成なり」

△聞云、諸悪に於いて作不作の持犯あり。今の詞(は)諸悪作る事なかれと誡むるに似たるを、春松秋菊、仏自己等の上に作る事なかれと云いつれば、莫作誡めならず聞こえて、直に無上菩提の説著と成りて、諸悪と聞こゆる道理を表す也。ゆえに「恁麼の参学、これ見成の公案なり、公案の見成なり」。

〇私云、公案現成、現成公案と違うること、例の能所各別なき詞なり。抑も諸悪作と云う詞の釈に、「春松秋菊」を挙げて、「有にあらず、無にあらず、作らざるなり」とあるは、いかにも諸悪莫作と聞けば、諸々の挙ぐつる事なかれと、誡むる心地する所を、避けんが為に、「春松秋菊」とはいたざる。実にも松に向い、菊に向いては、何事を作るぞとも、作る事なかれども、云うべき所なし。其の上松菊に限らず、「諸仏は有にあらず、無にあらず、莫作也」とあり。又「露柱燈籠、払子拄杖等も、自己も皆莫作なり。恁麼の参学は、見成せる公案なり、公案の見成也」とあれば、「諸悪」と云う両字不用、「莫作なるなり」と可心得。たとえば『伝衣』の草子に「絹と名づくべからず、布と称すべからず、糞掃と称すべし」とあるが如し。悪(わろ)き事を作るを、作る事なかれと制するにあらざる事を、「松菊」に喩えて云う也。袈裟も着るものの類いと心得て、絹ぞ布ぞと論ず。返々不可然、絹にてもあれ、布にてもあれ、其の事をば不論。仏衣と可心得、糞掃と心得べし。「莫作」も糞掃等となるべし。

「主より功夫し、賓より功夫す」

△聞云、賓主は人に付けて云う也。。しかあるを祖門に法文を談ずるに、或時は人に対し或時は境に対し、或身心地水等に対して道得す。しかあれども、その心地余門に異なり。是によりて、賓中主、主中賓、賓中賓、主中主等の詞あり。今の主賓も前々の義、これにあらずと云う事なし。近きに付きて是を云わず、現成より功夫し、公案より功夫とら云わん心(こころ)なるべし。

〇私云、この「主賓」の詞は、臨済の四賓主と云いて、古き詞なり。所詮この能所なき詞也。現成の公案公案の現成と云うも、是程の事也。凡そ世間にも、ここ(此処)にて主と云わるる物は、かしこ(彼処)にては賓なり、難一定歟。又近きに向きてと云わば、上に云うは恁麽の参学、これ現成の公案なり、公案の現成なりと云う詞を指す也。賓中主、主中賓の詞同じきゆえに。

「すでに恁麼なるに、作られざりけるを、作りけると悔しむも、逃れず、さらにこれ莫作の功夫力なり」

〇私云、此の詞又四賓主の義に当るべし。実にも悔しむ心として、莫作の功夫力也、如文。

経豪

  • 是は「諸悪・有無・空色等にあらず」と云う。諸悪実に有とも難云、無とも乃至空とも色とも難定。但し又諸悪と談ずる上は、有無・空色等にあらずと云われん、不始于今義也。称一方は一方は暗き義也。又「諸悪は莫作にあらず、莫作なるのみ也」とは、この「あらず、あらず」と云わるる、有無・空色等を尋ぬれば、皆莫作也。ゆえに前の「諸悪なきにあらず、莫作也。諸悪あるにあらず、莫作也。諸悪空にあらず莫作也。諸悪色にあらず莫作也」と云うは、只「諸悪は莫作にあらず、莫作なるのみ也」と云う也と被釈なり。此の有無空色等、莫作なるゆえに、如此云わるるなり。
  • 莫作の詞を五蘊に仰せ、自己等に仰せて云えば、猶いかにも只制止の詞にも紛れぬべき所を、如此「春松秋菊」に仰せて云うは、莫作の理が今少ししたた(強・健)かに紛れず聞く也。右に所挙の「春松、秋菊、諸仏、露柱、燈籠、払子、拄杖等が皆莫作なる」理を一一に被明なり。此の参学が「見成せる公案にてあるなり、公案の現成也」と、打ち替えてある只同事なり。
  • 此の「賓主」の詞は、臨済の四賓主と云う事より発れり。此の賓主のあわいは、諸悪与莫作程のあわいなり。只一物なるべし、世間にだにも賓主定め事なし。我もとへ人の来る時は、我は主、人は賓也。我人の許へ行きぬれば、我は賓、他人は主也、只自他程の事也。況や仏法上の賓主只一物なるべし、此理なりけるを、「作りけると悔しむも」、所詮莫作の理なるべしと云うなり。

 

 しかあれば、莫作にあらばつくらましと趣向するは、あゆみをきたにして越にいたらんとまたんがごとし。諸惡莫作は、井の驢をみるのみにあらず、井の井をみるなり。驢の驢をみるなり、人の人をみるなり、山の山をみるなり。説箇の應底道理あるゆゑに、諸惡莫作なり。

「しかあれば、莫作にあらば作らましと趣向するは、歩みを北にして越に到らんと待たんが如し」

△聞云、別の心なし。

〇私云、「作らまし」と云う詞は、作らんと云う心地なり。邪見を指すなり、悪無礙の見なり。

「説箇の応底道理あるゆえに、諸悪莫作なり」

△聞云、「応」は仏の出世し御座しますこと。衆生の機に叶うなり、しかれば衆生に機あり、仏に応あるに名づく。今はしかあらず、衆生作仏作祖の時、日頃所有の仏祖を罣礙せず。又衆生を破らず、失わずとら云うがゆえに、生(生は衆生也)仏もとより一なるを、「応」とは云うべきなり。たとえば世の常には、相境相得して、見を断つと云えども、今はしからざるが如し。前後能々思い合すべし。

経豪

  • 是は諸悪が莫作の理ならば、作りたらんも、何か苦しかるべきと云う邪見を発す輩もありぬべき所を、如此被誡也。諸の邪見と云う、只是程の事なるべし。
  • 「井の驢を見る」と云う詞、常に祖門に用い付きたり。驢はうさぎ馬(耳が長いから・注)也、古き詞也。井の驢を見ると云う詞も被心得。せめては驢こそ井をも見るべけれ。但し此の道理の落立所に如今御釈、「井の井を見、驢の驢を見、人の人を見、山の山を見る道理」なるべし。井与驢只同物也、諸悪与莫作は井と驢と程也と可心得なり。

 

佛眞法身、猶若虚空、應物現形、如水中月なり。應物の莫作なるゆゑに、現形の莫作あり、猶若虚空、左拍右拍なり。如水中月、被水月礙なり。これらの莫作、さらにうたがふべからざる現成なり。

「応物の莫作なるゆえに、現形の莫作也」

△聞云、計量(?)応」と云うは仏也、「物」と云うは衆生也。かるがゆえに応仏と云う、法身の仏は周遍法界にして、彼此去来の差別なし。今応身と云うは色法にあらわれて、衆生に同ずるに名づく。しかあるを宗門には見聞聞法とは云えども、能所を立つる事なし、解脱の見聞也。今の「応物」の語、能所を超越す、これ莫作なり。「現形」と云うは仏身の現ずる形なり。これ又造作の現形にあらず、一仏現形すれば、諸物同時の現形也、仏身也。莫作の悉皆現形也。

「猶若虚空、左拍右拍なり」

△聞云、「仏真法身、猶若虚空」と云うは、世の常に思わん法身は、青黄赤白の色にあらず、長短方円の色にあらず、屈伸光影等の色にあらず。虚空また各々の色をば為れたるが故に、「猶若虚空」と云うなり、今は則ちしかあらず、「猶若虚空、左拍右拍なり」。猶若如鼻孔とも云いつべし。

〇私云、「左拍右拍」の詞、左右の手を打つに、響きいづれの方の声と定め難しなどと云う喩えに引き来たるにはあらず。法身は青黄赤白の色にあらず、長短方円の色にあらず。屈伸光影等の色にあらずと云う上は、「左拍右拍」も虚空也、鼻孔も虚空なりと云う義なり。

〇たとえば仏性を見るは、驢事馬事を見る也と云う程の事なり。

〇「応物の莫作、現形の莫作」と云う、応物も現形も、水も月も一切無各別義。五蘊皆一也、何ぞ虚空許りが法身の仏と云うべきぞや。色も空も同じければ、「猶若虚空、左拍右拍」と説くなり。人間の見にこそ、空はむなしと見れ、空居天などとの空に住すらん。空を地の如くこそ思うらめ、又向龍魚等に法身の仏を説かん時は、猶若大海ともや説くべからん。魚は出空しては死するゆえに、人は入海すれば死するゆえに。

「如水中月、被水月礙なり」

△聞云、是「応物現形、如水中月」と云うがゆえに、仏の衆生に応じて、形を現ずるは、天月の水中に現ずるが如しと云う也。そのゆえは、仏の大悲は縁の有無、物の善悪を嫌いましまさずと云えども、衆生の心水清ければ、応用の月影を現ずに喩うるなり。今は則ちしからず、諸仏は則ち体用を超越す。故に一仏現形の莫作なれば、諸仏現形の莫作也。衆生はまた機先の面目故に、心水清浄の莫作なれば、全月呑水の莫作なり、是等の莫作さらに疑うべからざる現成也。

〇私云、此の「如水中月」の四字は、本文なり。「被水月礙」の四字は今の下語也。水に月に礙えられ、月は水を礙うる也。礙うと云うは、非一非二ざる詞なり。

経豪

  • 是は仏の真法身は清浄離塵の姿、不来不去、不生不滅の体也。ゆえに喩虚空、然而為化度衆生、応物現形す。是則応身の姿是なり。是は「如水中月」と喩うなりと思えり。今仏祖の所談非爾、委しく先度沙汰之時、此の文事注付了。「応物」と云うは衆生なるべし、是則莫作也。「現形」と云う仏也、是則莫作也と云う也。仏与衆生一体也。仏も衆生も、共(に)莫作の理なる道理を被明也。
  • 「左拍右拍」とは只同事也、亦一物なり。「如水中月」とは喩えと成りたる詞と聞こえたるを、今は此の「水は月に被礙たるなり」、又月も水に可被礙也。是は全水全月の道理なるゆえに、如此被礙なり。

 

 衆善奉行。この衆善は、三性のなかの善性なり。善性のなかに衆善ありといへども、さきより現成して行人をまつ衆善いまだあらず。作善の正當恁麼時、きたらざる衆善なし。萬善は無象なりといへども、作善のところに計會すること、磁鐵よりも速疾なり。そのちから、毘嵐風よりもつよきなり。大地山河、世界國土、業増上力、なほ善の計會を罣礙することあたはざるなり。

「衆善奉行、この衆善は三性のなかの善性也」

△聞云、如文。此の「善」は尽十方界沙門一隻眼と仕い、通身是手眼などと云うが如く、全善なり。ゆえに「先より現成して、行人を待つ、衆善未だあらず」とはあるなり。全生全死の如く、此の「善」は心得べし。全ならんには、いづくにか行人もあるべき、前後もあるべきと也。

「善性の中に衆善ありと云えども、先より現成して行人を待つ、衆善未だあらず」

△聞云、仏道修行に赴かん初めは、まづ教理智断、行位因果等の語は、諸乗諸教に通ずと云えども、諸乗諸教の上に置いて、その義異なる事を、能々辦(わきま)うべき也。此の義を不辦輩は、善悪・因果・有無・色空等の詞、同じきをもて、仏法を談ずるを聞きては、仏法にあらずと嫌う。これ則ち仏法は善悪因果等の小量に拘わらざる義をば知るに似たりと云えども、仏法に談ずる所の、善悪因果の小乗偏局に堕在せざる義を、正伝せざると咎に依りてなり。しかあれば仏法を学せんと思わんには、まづ三宝を祈りても、正師を求むべし。すでに正師に逢いなば、邪正の義明らかならん。すでに邪正を明らめば、速やかに邪を棄て、正に趣くべし。同じ邪に従う心発らば、却りて三宝に祈るべし。その邪正の語を置く義、広しと云えども今はしばらく、諸悪莫作、衆善奉行の語に付きて、是諸仏教の金言言いたづらに成りぬべし。この道理をもて、各々の仏語を思惟すべし。すでに「衆善」と云う、なんぞ辺際あらん。辺際あることなくば、能所なかるべし。能所なくば、「待たるる行人」あるべからず。

〇私云、上に云う教理智断、行位因果と云うは、常の義は、亰と云うは(常の教行証の教なり、教に述ぶる所の理なり)。理と云うは(人界に理はなし、出世の法なるがゆえに、理は三蔵教より談ずべし)。智と云うは、智慧の智なり。断と云うは、断悪の断なり(人界には断なし、ただ留むる程の事許りなり)。行と云うは、教行証の行なり。位と云うは、(凡夫聖人菩薩等を消して、本文の字不見、又何等にも位々はある也)。因と云うは、果を待つ因、世間に常に談ずる因也。果と云うは、因に答えたる果なるべし。

是等の詞同じければとても、諸乗諸教に立つ所不同、皆異也。況や宗門の義に於いてをや、勿論事也。

「作善の正当恁麼時、来たらざる衆善なし。万善は無象也と云えども、作善の所に計会すること、磁鉄よりも速疾なり。そのちから毘嵐風よりも強き也」、作善の所に計会すると云う、作善は奉行なり。大地山河、世界国土、善の計会を罣礙せずと云うは、やがて万善無象の事也。大地山河世界が善なれば罣礙なき也。

△聞云、「作善」の「作」は、造作の作にあらず。たとえば作仏作祖の作の、造作にあらざるが如し。しかあれば造作の時、正当恁麽時と云わるべからず。「正当恁麽時」と云うは、前後去来の時に、罣礙せられざる時也。衆善辺際なきがゆえに、来たらざる一善なし。来たらざる一善なしがゆえに、衆善去来にあらず。「万善無象」と云うは、無量無辺と云わんが如し。このゆえに「作善の時に衆善来たり、万善作善の所に計会す」、しかあれば作善と衆善と、万善と十箇五雙也。このゆえに衆善の来は去来の来にあらず、万善の計会は、合会の会にあらず。

〇私云、この「磁鉄、毘嵐風」のたとえは、本よりも猶卑しき事を云う也。これをば況の義と云う。その事よりも勝りたる事を謂わんとて、劣りたる証を引くを、況の義と云う。喩えと云うは明らかなる事を謂わんとて、日月を引くなり。証は仏祖を証と云うべし。これを引証と云うなり。「磁鉄」はいかに速く寄り合えども、磁と鉄と差別あるべし。今の「作善の所に計会せん」速さは、たとえば磁は磁と寄り合い、鉄は鉄と寄り合う程の義なるべし。「万善無象の作善は、速疾の計会」かくの如し。

「大地山河、世界国土、業増上力、なお善の計会を罣礙すること能わざるなり」

△聞云、「大地等の善の計会を罣礙せざる」こと、万善の作善の所に計会するが如し。すでにこれ善の計会なり、大地世界なんぞ大地世界ならん。しかあれば大地と衆善とは八両半斤也。

経豪

  • 諸悪莫作は、已に前委しく被釈之。ここよりは又「衆善奉行」の詞を被釈なり。前に善悪無記の三性をと有りつる内の「善性也」と云うなり。「前(さき)より現成して行人を待つ衆善未だあらず」とは、衆善の外に可奉行人なし。ゆえに「行人を待つ衆善未だあらず」とは云うなり。この衆善の正当恁麽時に、残る衆善のなき道理を、「不来る衆善なし」とは云う也。
  • 「万善」の姿、実(に)作善の所に欠けたる一法なき道理を「計会」とは云う也。
  • 此の「大地山河、世界国土、業増上力」が、やがて衆善なる時に、実に「善の計会を罣礙する事不可有」道理必然なるべし。

 

 しかあるに、世界によりて善を認ずることおなじからざる道理、おなじ認得を善とせるがゆゑに、如三世諸佛、説法之儀式。おなじといふは、在世説法、たゞ時なり。壽命身量またときに一任しきたれるがゆゑに、説無分別法なり。

 しかあればすなはち、信行の機の善と、法行の機の善と、はるかにことなり。別法にあらざるがごとし。たとへば、聲聞の持戒は菩薩の破戒なるがごとし。

「世界によりて善を認ずること、同じからざる道理、同じ認得を善とせるがゆえに、如三世諸仏、説法之儀式。同じと云うは、在世説法ただ時なり。寿命・身量また時に一任し来たれるがゆえに、説無分別法なり」

〇私云、「世界によりて善を認ずる」と云う「認」は、約束するぞ、契(ちぎ)るぞ、などと云う心地也。「同じからざる道理、同じ」と云うは、諸悪莫作と衆善奉行と、其の理同じからざるゆえに、非別法と云わんが如し。『法華経』云、「如三世諸仏、説法之儀式。我今亦如是、説無分別法」(「方便品」「大正蔵」九・一〇a二二・注)。

△聞云、今「世界に依りて、善を認ず」と云う事、諸悪莫作の段に、諸悪は此界の悪と他界の悪と、先時後時・同不同あり。乃至善悪は時也、時は善悪にあらずとらの義と同じ。ただし彼は人間天上に付きて判ず、今は仏世界の此界他界、先時後時、及び信法の二機、声聞菩薩に付きて、判ずるがゆえに、其の義聊か異なり。まづ「同じからざる道理同じ」と云う事、諸仏出世して、成道するに説法寿命、身量国土、浄穢、皆異なる故は、国土に随い、衆生に同ずと習うなり。これを応仏の儀式と云う。釈尊一仏の始終に付きて、説法のように機に随い、物に依りて異なり。いかに況や、前仏後仏、此仏他仏、浄土穢土、皆以異なるべし。しかあれども、是等の異は、釈尊一代に三界を唯心と説き、諸法を実相と示し、煩悩を菩提と云い、生死を涅槃と云う程の替わりなり。況や此仏も、大地有情同時成道と宣べ、他仏も大地有情同時成道と説くのみなり。此等の義、同とも不同とも云わんに、違すべからざる道理なり。同じからざる道理を為し、同じき道理同じからざるべし。思量箇不思量底なれば、不思量底如何思量なり、しかあるに、すでに「如三世諸仏、説法之儀式」とあり。如三世諸仏在世之久近、如三世諸仏身量之大小、各々皆我今亦如是なるがゆえに、時々あい習わず。仏に相対せず、ゆえに「説無分別法なり」。説有分別法也、在世有久近、在世無久近、寿命無長短、身量無大小、身量有大小、亦又かくの如し。しかあれば説無説有の舌頭を広くし、久近有無の在世は、此仏彼仏の道に通ず。長短有無の寿命は、古仏新仏に罣礙なし。大小有無の身量は、浄穢不二の眼見に蔵身す。其の余の前後同異亦又如此。又三世諸仏説法之儀式と、諸仏三世説法之儀式と同異能々明らむべし。

〇私云、此の「三世の諸仏説法之儀式」と云い、諸仏三世説法之儀式と云うは、三世の諸仏は世間に聞きつけたり。諸仏三世と云うは、宗門の義と聞こゆ。但し相違各別の法を、「如三世諸仏、説法之儀式」と説く心地なるべし。三世に仏出づと云うべからず、仏にこそ三世はあれ。これは如三世諸仏、三世之時節、我今亦如是、三世分別と心得べし。三世を分つことなきがゆえに。

〇打ち任せて世間に心得るには、三世の諸仏の出世、成道の儀式を為し、ただし「在世説法ただ時なり、寿命身量またときに一任す」と云うは、仏の出世同じきに似たれども、説法各別なり。三乗もあり、一乗もあり、寿命又八十年の釈迦もあり、無量寿の弥陀もあり、身量又八万由旬もあり、又六八尺もあり。ただしこれは、替わるに似たれども、衆生の見にこそ如此見ゆれ。仏の方には説法は唯一仏乗のみなり、寿命の刹那無量長短の論あることなし。出世本懐と云うは、法華を説くなり、諸仏出世ごとに、『法華経』を説かざるなし。此の故を「説無分別法」と云うと心得る方あるべし。又機先脳後の理を付けて心得ときは、寿命身量も説無分別法と説く妨げなし。『法華経』(薬草喩品三巻なり)日、「一地所生、一雨所潤、而諸草木、各有差別(「大正蔵」九・一九b五・注)と説く。是は差別とあれば、さこそ心得べけれども、釈之には、無分別(の)証に引く也。故は一地一雨は一つなれども、注がるる草木は種々也。然而幾らの草木も生ぜず、一地の所生、幾らの物にも注げ、一雨の所為なるゆえに、説無分別の証となると云う。但し仏家には如此義を用いんとにはあらず。今の「如三世諸仏」の心地は、一仏の出世の時、他仏交わる事なし、たとい国土・寿命・身量、各々也とも見るべき傍観者あるべからず。誰人か定めん、ただ釈迦は釈迦の如しと云うべければ、「説無分別法なり」と心得ぬべし。仏家の心には能生所生なし、仏心平等なれば、漏るる草木あることなし。三界唯一心、心外無別法の如し。

〇教の心は仏心を一地所生、一雨所潤に充つ。諸根(声聞、縁覚、菩薩、人間を諸根と云う)は而諸草木に充つ。仏心に差別あらんと云う義なし。無差別心にてこそ、あれと云う方を取りてこそ、此の一雨所潤の喩えをも、無差別の喩えに引けども、仏家には不然。唯平等の法こそ、仏の本意なれば、而諸草木も、一地も、一雨も、只一つと心得るを、「説無分別法」と云う也。

〇或人疑日、仏家の心しかあるべしと云えども、すでに経文に正(まさ)しく、各有差別と見えたり。この現文に違する咎(とが)如何。

答日、已前に云う心は、三界唯一心なるがゆえに、一心の外に草木等あるべからざると聞こゆ。この道理を思うに、各々の法ありと云わん、何の咎かあらん。各々の法一心なるべきがゆえに、この道理にて思い合すべし、不可違経文。三界唯一心を、如何心得ると云うには、祖師椅子を喚んで為竹木と被仰、今の心なるべし。

「しかあればすなわち、信行の機の善と、法行の機の善と、はるかに異也。別法にあらざるが如し」

△聞云、「はるかに異なり」と云うは、始終ことなるなり、すでに始終ことなり。誰か別と云わん、誰か同と云わん。同と云わん吾なく、別と云わん誰なきがゆえに、又別法にあらずと云う、同と云わんとにはあらず。

〇私云、「信行の機」と云うは、鈍根の菩薩声聞に付く。「法行の機」と云うは、利根の菩薩声聞に付けて云うなり。信行の機(は)法行に廻転することもあり。しかあれども、通しは其の「機」、殊に各別なれば、「遥かに異也」と云う(は)、尤道理也。而して結する詞には、「別法にあらざるが如し」と云う。前後相違して聞こゆれども、すべて同じき事を云う時こそ等しきを、別なるとも云え。是はすべて異なる事なれば、敵対にも不及、ゆえに「別法にあらざるが如し」と云う也。仏家の詞には同不同を仕う様、如此世間に異なり。又「別法にあらず」と云えばとて、同じとは不可心得。全信行の時、法行交わらず、全法行の時、信行交わらず、ゆえに「別法にあらざるが如し」と云う。又信行の機の上にても、「別法にあらざるが如し」とも云い、法行の機の上にても、「別法にあらざるが如し」とも云うべし。この心地にても心得べし。

〇私云、仏法は非同非別と云うも、如此の道理にて可思合。

「たとえば声聞の持戒は、菩薩の破戒なるが如し」と云う。

△聞云、声聞の語(は)同じと云えども、「声聞の持戒は菩薩の破戒也」、菩薩の持戒は声聞の恐怖と成りぬべし。「信行の機の善と、法行の機と、はるかに異也。別法にあらざるがゆえに」と云う証拠に此れを引く、如何。但し犯と持との詞、同じく菩薩の上にもあり、声聞の上にもあり。然而又持も悪にあらずと云う心地也。

経豪

  • 世間にも所に随いて善を認ずる事不同事多し、況や仏法の同不同、尤もあるべし。但し世間の同不同と、仏法の同不同と、天地懸隔なるべし。世間には両物の上に同不同を立つ、仏法には一法の上に同不同あるべき也。「認得を善とせるがゆえに」とは、宝福開山(だれ?)のたまわく、すでに衆善とある上は、衆善の外に誰ありて善と認得すべき故に、認得を善とせずとあり。
  • 「在世説法、寿命身量」等の姿は、替わりたれども、其法是れ同じゆえに同也。又蹔く「在世説法時、寿命身量」等あれば、不同なる分もあるべし。然而此の同不同は、只衆善の上の同不同也、更(に)我等が非同不同義。
  • 信行は鈍根也、法行は利根也。利鈍はるかに異なれども、法は何れも別法にあらず、同じかるべき也。是等は皆同別の義を表さるるなり。
  • 声聞の方に不殺と云う事不可犯、菩薩の方には数多を殺すべき物をば殺之ゆえに、声聞の方よりは破戒になるべし。声聞戒は又菩薩の方よりは破戒と見るべき也。多くの物を殺すべきを不殺ゆえに。

 

 衆善これ因縁生因縁滅にあらず。衆善は諸法なりといふとも、諸法は衆善にあらず。因縁と生滅と衆善と、おなじく頭正あれば尾正あり。衆善は奉行なりといへども、自にあらず、自にしられず。佗にあらず、佗にしられず。自佗の知見は、知に自あり、佗あり、見の自あり、佗あるがゆゑに、各々の活眼睛、それ日にもあり、月にもあり。これ奉行なり。奉行の正當恁麼時に、現成の公案ありとも、公案の始成にあらず、公案の久住にあらず、さらにこれを奉行といはんや。

 作善の奉行なるといへども、測度すべきにはあらざるなり。いまの奉行、これ活眼睛なりといへども、測度にはあらず。法を測度せんために現成せるにあらず。活眼睛の測度は、餘法の測度とおなじかるべからず。

「衆善これ因縁生、因縁滅にあらず」

△聞云、衆善造作にあらず、何ぞまことに因縁生滅ならん。

「衆善は諸法也と云うとも、諸法は衆善にあらず」

△この「あらず」と云う詞は、嫌うにてはなし、三無差別の道理にて心得べし。

「衆善は奉行也と云えども、自にあらず、自に知られず。他にあらず、佗に知られず。自他の知見は、知に自あり、他あり、見の自あり、他あるがゆえに、各々の活眼睛、それ日にもあり、月にもあり。これ奉行なり」

△聞云、此の奉行則造作にあらざるゆえに、自他の行にあらず。自他亦造作にあらざるには、一知一見の上に、共に自他あるなり。この自この他、「各々の活眼睛なり、それ日にもあり、月にもあり」と云うは、これにおあり、かれにもありとなり。必ず日月を指すにはあらぬなり。

〇私云、「自にあらず、自に知られず」と云う心地は、この衆善奉行誰ありと云う。又ときに此の「衆善は奉行とは云えども、自に知られぬ」なり。又自他は寄せ立つべからずと思う程に、自他の知見がある時に、自の上にも他の上にも、見を置きて云う余門には異なり。皆令入仏道と云う時、願いは自にあり、化は他にありと云うべし。然而能所なき事は、化一切衆生、皆令入仏道の時は無自他、これ化一切衆生の力にて、無自他也。皆令入仏道の時は、能所の化、共に入仏道するゆえに。

△聞云、先には善悪は時也、時は善悪にあらずと云うに同心なる義もあり。たとえば諸法は広き故に、諸法の内には衆生もあるべし、生死去来の法もあるべし、三昧陀羅尼の法もあるべし、諸法何衆善ならんと云うとも心得ぬべし。今は則ちしからず、今「衆善」と云うは、奉行の衆善なるがゆえに、無上の妙法なり。何ぞ衆善に余る諸法ありて、却りて衆善を不足ならしめん。故に今云う所は、「衆善は諸法なりと云えども」、諸法は諸法にあらず、諸法は衆善也と云うとも、衆善必ず衆善也。

〇私云、これ諸法と衆善との間、広狭にあらざる道理也。諸法と衆善と勝劣なき事を云うなり。ゆえに諸法は諸法也と、今の『聞書』に載せらるるなり。諸法に於いて、善悪の諸法を云うにあらず。諸法は諸法にあらずと云う心地は、悟上得悟漢、迷中又迷の漢と云う丈也。

「因縁と生滅と衆善と、同じく頭正あれば尾正あり」

△聞云、上の諸悪莫作の段に、諸悪は因縁生と知りて、この因縁の己と莫作なるを見ざるは、憐れむべき輩也と云えり。今亦衆善これ因縁生、因縁滅、即衆善なりと明らめずば、衆善に未尽の法を置く、因縁生滅亦剰法あらんには、衆善又造作ならん。すでに造作とならば、豈無上の妙法と云わんや、故に「ともに頭正なり、同じく尾正なり」。

〇私云、この「因縁と生滅と衆善との丈」を、同程と云う也。心仏及衆生、是三無差別を心得る定めなり。ゆえに因円満じ、果円満ず、因等法等果等法等也と云う。

〇因果不二と云う、外道見。果中有因、因中有果と云う外道の見。是も皆因果対したる心地にて云う也。

「奉行の正当恁麼時に、現成の公案ありとも、公案の始成にあらず、公案の久住にあらず、さらにこれを(奉?)行と云わんや」

△聞云、この現成の隠顕出没の辺際を超えたるがゆえに、「始めたるにあらず、久しく住したるにあらず、もとよりの行にあらずと云うなり。

〇私云、すべてこの現成測度にあらず、「作善の奉行は測度にあらぬなり」。世間の道理に異なり。又「正当恁麽時」と云うも、正当ならざる時のあるに対して云うにあらず、全正当の心なるべし。いたづらなる十二時にあらず、奉行の時也。

「作善の奉行なると云えども、測度すべきにはあらざるなり」

△聞云、造作の法は必ず測度より生ず。いまの「作善」と云うは、造作にあらざるがゆえに、「測度すべきにあらず」と云うなり。

「活眼睛の測度は、余法の測度と同じかるべからず」

△聞云、先に活眼睛は測度にあらずと云うは、日来の測度を嫌う。今はまた活眼睛の上に、測度を置くゆえに、「余法の測度と同じかるべからず」と云うなり。

経豪

  • 「衆善は実に因縁生、因縁滅にあらざる」べし。但し衆善の方より云わば、衆善は衆善なるべし、因縁生滅にあらぬ道理あるべし。此理なるゆえに、「衆善は諸法也と云えども、諸法は衆善にあらず」とは云う也。すでに決する所に、「因縁と生滅と衆善と、同じく頭正尾正也」と被決勿論事也。
  • 今の衆善を以て奉行と談ずる。自他を離れたる上は、「非自、自に不被知。非他、不被知他べし。自他の知見は、知に自あり他あり、見の自あり他あり」とは、奉行の上の自他とも、知見とも云う道理のあらん時は、是皆活眼睛の上の自他知見なるべし、日来の知見にあらず。「日にもあり月にもあり」と云うは、月日の大切にあらず、只是も彼もと云う程の義也。
  • 奉行の正当恁麽時に現成の公案ありとも、此の公案始めて成りたるにもあらず、又公案の久住にもあらず、只「現成の公案也」。此の道理なるゆえに「奉行と不可云」とある也。
  • 今の「作善の奉行とするゆえに、測度すべき人なし。活眼睛の奉行は測度すべき人なき也。又奉行是活眼睛也と云えども、測度に非ず」とは、只奉行は奉行と云わんと也。必ず(しも)測度と引きしりうべき(?)にあらざるなり。実にも法を測度せん料りに現成せるにもあらざるべし。「活眼睛の時、測度と云われん、余法の測度と等しかるべからざる」条勿論事也。

 

 衆善、有無、色空等にあらず、たゞ奉行なるのみなり。いづれのところの現成、いづれの時の現成も、かならず奉行なり。この奉行にかならず衆善の現成あり。奉行の現成、これ公案なりといふとも、生滅にあらず、因縁にあらず。奉行の入住出等も又かくのごとし。衆善のなかの一善すでに奉行するところに、盡法全身眞實地等、ともに奉行せらるゝなり。

 この善の因果、おなじく奉行の現成公案なり。因はさき、果はのちなるにあらざれども、因圓滿し、果圓滿す。因等法等、果等法等なり。因にまたれて果感ずといへども、前後にあらず、前後等の道あるゆゑに。

「衆善、有無、色空等にあらず、ただ奉行なるのみなり」

△聞云、諸悪有無色空等にあらず、莫作なるのみ也と云いし同事也。又衆善は奉行にあらず、「奉行のみなり」ともあるべきなり。

いづれの所の現成、いづれの時の現成も、必ず奉行なり。この奉行に必ず衆善の現成あり」

△聞云、衆善は奉行を待たず、ゆえに「衆善の現成は奉行の現成也」。

「奉行の現成、これ公案なりと云うとも、生滅にあらず、因縁にあらず。奉行の入住出等も又かくの如し」

△聞云、「奉行の現成、これ公案なりと云うとも、生滅にあらず、因縁にあらず」云うがゆえに、奉行の入これ公案なり、生滅にあらず、因縁にあらず。「奉行の住と出」と、公案も又生滅にあらず、因縁にあらずとなり。

「衆善のなかの一善すでに奉行する所に、尽法全身、真実地(尽界尽地などと云う地也)等、ともに奉行せらるるなり」

△聞云、「衆善のなかの一善」と云うは、衆善は多く、一善は少なしとにはあらず。衆善の全中は、一善の全面なり。故に「一善の奉行に尽法全身、真実地等ともに奉行せらるる」と云うなり。この心にては一善の中の衆善とも云うべし。

「この善の因果同じく、奉行の現成公案なり。因は先、果は後なるにあらざれども、因円満し果円満す」

△聞云、今は「奉行の現成公案同じく、善の因とし果とす」、此の理(ことわり)にては、日頃「因は先、果は後(のち)」なれば、先の因によりて、後に果と感ずと云う義に違(たが)うが故に、因果を立てても、悪なかりぬべきを、今の心は、因果必ず前後にあらざれども、「因円満し果円満する」道理を述べらるる時、重ねて「因は先、果は後なるにあらざれども、因円満し果円満す」とあるなり。又「奉行の現成公案をば、善の因とし、善の果」とする事は、大乗因者、諸法実相也。大乗果者、亦諸法実相也と云う心なるべし。是則諸法の実相を因とし、諸法の実相を果とす。ここに人思わく、もし因も果も共に実相ならば、因果に差別なし。因果に差別なくば、因果を立てて何の詮かあると、この難、世間の因果の心なり。今大乗の因果と奉行の因果とは、世間の因果には異なるべし。

〇私云、法身の仏は非因非果也、報身応身(は)因縁果満なり。是を大乗因者諸法実相也とも云うべきなり。

「因等法等、果等法等なり。因にまたれて果を感ずと云えども、前後にあらず、前後等の道あるゆえに」

△聞云、因等なれば法等前等也、法等後等也。果等法等なれば、法等前等なり、法等後等也。

経豪

  • 衆善奉行とこそ、経にも本の詞はあれ。然而今は此の衆善が奉行する道理が、今は「衆善とも、有無色空等とも云わじ、只奉行と云わん」と云う一義也。せめても衆善と奉行とが、親しき道理如此云わるべきなり。「何れの所何れの時をも、皆奉行の道理」なるべし。
  • 奉行与衆善、一物なるがゆえに、「此の奉行に衆善の現成あり」とは云う也。「奉行の現成これ公案也と云うとも、生滅にあらず因縁にあらず」とは、奉行の現成これ公案也と云うとも、只奉行の現成公案の時は、生滅因縁にあらず。只奉行なるべしと也。又「奉行の上に入住出」と云う事ありとも、此の入住出(は)、奉行程の入住出なるべきゆえに、「生滅因縁等にあらざる道理」又「如此」とは、奉行の如しと云う心地なり。
  • 「衆善の中の一善」と云えば、数多(あまた)ある善の中に、一分の善を取り出して、奉行すべきかと被心得ぬべし。此の衆与一善、更(なる)多少の義にあらず。以衆善理を一善とすべし、一善を以て衆善と取るべし。此道理なるがゆえに、「奉行する所に、尽法全身、真実地等、共に奉行せらるるなり」とは云う也。此の奉行が尽法全身、真実地なる道理なるゆえに、如此云わるるなり。
  • 如文。
  • たとい此の理の上には修因感果と云う詞ありとも、此の因果に前後を立つ事、更(なる)不可有道理を被述也。「前後等の道あるゆえに」とは、たとい前後と云う詞、仏法には仕う時、如此可心得と云う也。

 

 自淨其意といふは、莫作の自なり、莫作の淨なり。自の其なり、自の意なり。莫作の其なり、莫作の意なり。奉行の意なり、奉行の淨なり、奉行の其なり、奉行の自なり。かるがゆゑに是諸佛教といふなり。

 いはゆる諸佛、あるいは自在天のごとし。自在天に同不同なりといへども、一切の自在天は諸佛にあらず。あるいは轉輪王のごとくなり。しかあれども、一切の轉輪聖王の諸佛なるにあらず。かくのごとくの道理、功夫參學すべし。諸佛はいかなるべしとも學せず、いたづらに苦辛するに相似せりといへども、さらに受苦の衆生にして、行佛道にあらざるなり。莫作および奉行は、驢事未去、馬事到來なり。

自浄其意段(是諸仏教釈は可聞此段者也)

〇私云、此の「自浄其意」と云うは、先の諸悪莫作衆善奉行の自浄其意なるべし。此の「自」は尽十方界自己光明程の自己也。清浄法身毘盧遮那仏と云う事あらん上は、「自」と何を云うべきぞ、「浄」とは何を浄(きよ)むるべきぞ。依善の因感善果ならん程の事をば、「是諸仏教」とは如何でか可結哉。是諸天教歟、是諸人教歟とぞあるべき。

〇一切諸悪莫作衆善奉行が、仏法の大意とは云い難し。今の道林の心得る時を、仏法の大意とは許すべし。この謂われをもて、「一切の自在天、諸仏にあらずとも、一切の転輪王仏なるにあらず」とも云う。

△聞云、今の説道理の心を案ずるに、「自」と云者、染汚の自にあらず。「意」と云者、心意識のなかの意にあらず。故に不浄の心を初めて浄ならしめんとにはあらず。この道理を思うには、みづからの浄なる、其の意也とも云うべし。これによりて、自これ莫作なれば、浄すなわち莫作なり。しでに自浄其意なれば、其意莫作なるべし。自浄奉行なれば、其意奉行なり。もし恁麽ならば、菩提すなわち菩提なれば、菩提また菩提也と云いつべし。故に是諸仏教なり、是諸仏自也、是諸仏浄なり、是諸仏其也、是諸仏意也。意(は)其の意を浄む、意(は)自らを浄むるなり。自が意を浄むるにあらず。

〇私云、所詮莫作なるのみ也と云いし心地なり。奉行も同じきゆえに、「自浄其意」の四字、何れも全自・全浄・全其・全意なるべし。ゆえに如何なる穢を慮知念覚の心にて浄むべしと云わず。これを「是諸仏教」と結す。今の「教」又諸教の教にあらず。『仏教』(「大正蔵」八二・一〇六c一六・注)の草子に談ずるが如し。

「自浄其意と云うは、莫作の自也・・かるがゆえに是諸仏教と云う也」、此の御詞に付いて、不審方々(かたがた)あり。

問、「莫作の自なり、莫作の浄」とあらば、やがて莫作の其なり、莫作の意なりとこそ有るべきに、其意の二字に至りて、何ぞ「自の其なり、自の意なり」とある哉。

答、「自浄其意」の四字、何れも莫作と心得るは、此の『草子』一帖の大意也。不及問答、されば「自の其なり、自の意也」と云う。次に、やがて「莫作の其也、莫作の意也」とあり、莫作の条は不及不審。「自の其也、自の意也」とあるは、其と云うも自もなし、意と云うも自なり。此の自不対他、やがて自を其と云い、身に具したる意にあらざれば、能所の義なく、やがて自を意と釈せんが為に如此云う。莫作も作業にあらねば、自を莫作とも仕い、浄をやがて自とも仕う也。一切を莫作とばかり押しひたたけて云うも早卒也。自浄其意が莫作にてあれば、是諸仏教と云わる勿論事也。ここには自と其意との間を取り分けて被釈也と心得べし。

問、奉行を頭(かしら)に置きて、意浄其自と取り乱して置かるる事如何。

答、此の自浄其意、さらに不可立次第。其の故は自も他に対せざれば全自也。浄も穢に対せざれば全浄也。其れも何を指して其れと云わず。意も心意識等の意にあらざれば、物に具足したる意にあらず。このゆえに仏教を習う時、能所なし、汝にあらず、誰にあらずと云う。この時こそ、是諸仏教と云え。不然ときは、諸悪莫作も自浄其意も、不可為仏教。ただ莫作は莫作なり。何れの事を作る事なかれども留めず、何れの事を奉行すべしとも云わず、このとき仏教也。

「諸仏あるいは自在天の如し。自在天に同不同なりと云えども、一切の自在天は諸仏にあらず。或いは転輪王の如くなり。しかあれども、一切の転輪聖王の諸仏なるにあらず」と云う。

〇私云、是は仏、自在天に出でて、やがて自在天の形を現じて説法しまします。しかれども、さればとて自在天の皆仏なるにてはなし。仏、転輪聖王の形を現じて説法しましまししかと、一切の転輪聖王、仏なるにはなし。

〇「受苦の衆生にして」と云うは、行仏道にあらぬ所を云う。只今苦を受けたるにはあらず。

「莫作および奉行は、驢事未去、馬事到来也」

△聞云、莫作および莫作は、驢事未去、馬事到来也。奉行および奉行は、驢事未去、馬事到来なり。仏および仏は、驢事未去、馬事到来也とも云いつべし。

〇私云、この「莫作および奉行は」とある「奉行」を、『聞書』には莫作の字に取り替えて、「莫作および莫作は」とある事如何、ただし是は莫作と奉行と、各別ならざる道理、如此引き替えられたる也。三界去去一心到来とも云うべし。所詮法性真如と説く、驢事未去馬事到来なり。

莫作及び奉行の様を知らぬまでを、仏は如何なるべしとも学せず、いたづらに苦辛して、受苦の衆生なり。行道にあらざるなりと云わる、知る時は同じ、莫作奉行の詞なれども、是諸仏教なる事を、「驢事未去馬事到来也」とは云う。「未去」と云う詞、「到来」と云う詞、ただ同じき道理を云い表すなり。「いたづらに苦辛せるに相似せりと云えども、さらに受苦の衆生にして、行仏道にあらざるなり」と云う、「苦辛せるに相似とは」など云うべきぞ、やがてただ苦辛せるゆえに、「受苦の衆生とこそ」あるべけれ。「相似るなど」と云うは、なを苦辛せざる事の様に聞こゆ。しかれども仏法にはかようの詞あり、「止観相待義似於別」(『法華玄義釈籤』一「大正蔵三三・一六b一〇・注」と云いて、天台の名目也。この「似」の字をば、両様に心得也。義似於別は、別教の心なりとも云う。又「似たり」と云うは、円教に似たりと云うと談ずるなり。今の「相似」はやがて苦辛したる心なるべし。

経豪

  • 諸悪莫作衆善奉行をば、已被釈了、今は「自浄其意」の詞を被釈也。是は諸悪をば已に止めぬ、衆善又奉行しつ、此の上は我意も浄められぬるように覚ゆ。是凡見也、非仏法。其れを今は「莫作の自也、莫作の浄也」とあり。以莫作自と取り、以莫作浄と談ず、又此の「自を其」と談じ、此の「自を意」と談ず。又「莫作の其なり、莫作意也。乃至奉行の意也、奉行の浄也、奉行の其なり、奉行の自也」と、打ち替えて、此の「自浄其意」の四字を被釈。如此心得を、「是諸仏教と云う也」と被釈なり。我等が心得る如くならば、是諸人教とも、是諸天教とも云いぬべし。是諸仏教とは難云歟。
  • 仏の応身相好の姿を現じ給うは、此の州に相応の御姿なる依りて也。さるに取りては、自在天、転輪聖王程なる、又姿あるべからず。転輪聖王等は仏の三十二相の姿を、聊かも不違現ず也、然而「彼等を諸仏とは不云也」云々。但し仏の相好と、転輪王とは、紛(まが)いぬべきを、相不正円明故に、与仏非等と『俱舎』(『阿毘達磨俱舎論』一二「大正蔵二九・六四b二四・注」には釈せり。輪王の相好は相不分明歟。此の一段の詞に付けて、又義あるべし。其の故は諸悪莫作、衆善奉行の詞、人々の了簡品々なるべし。普通の止悪衆善の心地、両祖門所談、諸悪莫作異なるべし、今の仏祖の諸悪莫作、則ち諸仏なるべし。止悪衆善の方に心得る、余方の所談は非仏。其の定めに今の自在天、転輪王等、皆仏なるべからず、自在天にっも転輪王にも同不同あるべしと云う道理もあるべし。
  • 是は今の諸悪の莫作なる理、諸悪の奉行なる所を不知か。「諸仏はいかなるべしとも嶽せず」と云わるるなり、いたづらに等覚妙覚に辛苦するを、「受苦の衆生にして、行仏道に非也」とは被嫌也。
  • 是は只同事なる事に仕う詞也。祖師詞に常被用付たる詞也。

 

唐の白居易は、佛光如滿禪師の俗弟子なり。江西大寂禪師の孫子なり。杭州の刺史にてありしとき、鳥窠の道林禪師に參じき。ちなみに居易とふ、如何是佛法大意。道林いはく、諸惡莫作、衆善奉行。居易いはく、もし恁麼にてあらんは、三歳の孩兒も道得ならん。道林いはく、三歳孩兒縱道得、八十老翁行不得なり。恁麼いふに、居易すなはち拝謝してさる。

 まことに居易は、白將軍がのちなりといへども、奇代の詩仙なり。人つたふらくは、二十四生の文學なり。あるいは文殊の号あり、あるいは彌勒の号あり。風情のきこえざるなし、筆海の朝せざるなかるべし。しかあれども、佛道には初心なり、晩進なり。いはんやこの諸惡莫作、衆善奉行は、その宗旨、ゆめにもいまだみざるがごとし。

「居易問う、如何是仏法の大意。道林云、諸悪莫作、衆善奉行・・三歳の孩児は縦道得、八十老翁行不得也」

〇私云、就居易問、道林の仏法の大意は、三界唯心ぞかし、諸法実相ぞかし、真如ぞかし、仏性ぞかしと云わましかば、「三歳の孩児も道得ならん」とは、居易不可答。蹔く又付此言語仏法を明らむる詞、争か聞かまし。道林三蔵の孩児の方人をして、「三歳の孩児はたとい道得すとも、八十の老翁は行不得」と云うにてはなし。三歳も八十も道得も只同品と心得べし。三蔵の方人の詞許り不可有詮、八十老翁行不得と誡しむる所が化道なる也。

△聞云、「諸悪莫作、衆善奉行」の一言に、居易と道林との見解はるかに異也。是の故に語によりて義を解すると、得失明らかなる者歟。見解の差別は前々の説道理に聞こえたり。いま道林、居易に示す詞、その理能々明らむべし。道林必ず(しも)言語にあらず、行不得また行なるがゆえに。しかあれば道得ある三歳の孩児、行不得の八十の老翁、面目老若にあらず。皮肉なんぞ吾汝を隔てん。しかれば、三歳は八十に余り、八十は三蔵に足らぬ道理もあるべし。三歳の父、八十の子、骨を得、髄を得ん。豈本末ならんや。ここをもて孩児の道得は汝に一任す、しかれども老翁に一任せずとら見えたり。所詮諸悪莫作を三界唯一心と心得べし、衆善奉行を諸法実相と心得べし。莫作の詞、奉行の詞(は)、只同事也。莫作は無生也、無漏也、真如也、法性也。

経豪

  • 此の道林禅師、常木の末に鳥の窠などと作りたるように搆えて坐禅す。仍号鳥窠道林禅師、居易与道林問答次第、如文。

 

 居易おもはくは、道林ひとへに有心の趣向を認じて、諸惡をつくることなかれ、衆善奉行すべしといふならんとおもひて、佛道に千古萬古の諸惡莫作、衆善奉行の亙古亙今なる道理、しらずきかずして、佛法のところをふまず、佛法のちからなきがゆゑにしかのごとくいふなり。たとひ造作の諸惡をいましめ、たとひ造作の衆善をすゝむとも、現成の莫作なるべし。

 おほよそ佛法は、知識のほとりにしてはじめてきくと、究竟の果上もひとしきなり。これを頭正尾正といふ。妙因妙果といひ、佛因佛果といふ。佛道の因果は、異熟等流等の論にあらざれば、佛因にあらずは佛果を感得すべからず。道林この道理を道取するゆゑに佛法あるなり。

△奉行の人、人に付けず、教行証の行と可心得歟。如何、火焔三世諸仏の為に説法す。三世の諸仏立地聴法する程の行なるべし。善を置きて可奉行と心得まじ。実相即実相とも、可奉行と心得べし。

△是諸仏教と云うも教々に仏あり、小乗にも仏はあり、今の仏教は尽仏教なるべし。「仏道に千古万古の諸悪莫作衆善奉行あり」と云うにて、仏教の様も心得べし仏教も様々なるべし。

△仏成道の時、すでに大地有情同時成道と云う。此の時始め終りなし。孩児を老翁ぞと云うべきあるべからず、然者初発心時辦成正覚とも云うなり。

△「異熟」と云うは、善悪の法の後に感ずるを云う、因果是也。「等流」と云うは、これにてありつる事、かしこにも等しくけんずるを云う也。

経豪

  • たとい止悪衆善の方の諸悪衆善也とも、仏法の方よりは「現成の莫作なるべし」と云う也。

 

 諸惡たとひいくかさなりの盡界に彌淪し、いくかさなりの盡法を呑卻せりとも、これ莫作の解脱なり。衆善すでに初中後善にてあれば、奉行の性相體力等を如是せるなり。居易かつてこの蹤跡をふまざるによりて、三歳の孩兒も道得ならんとはいふなり。道得をまさしく道得するちからなくて、かくのごとくいふなり。

 あはれむべし、居易、なんぢ道甚麼なるぞ。佛風いまだきかざるがゆゑに。三歳の孩兒をしれりやいなや。孩兒の才生せる道理をしれりやいなや。もし三歳の孩兒をしらんものは、三世諸佛をもしるべし。いまだ三世諸佛をしらざらんもの、いかでか三歳の孩兒をしらん。對面せるはしれりとおもふことなかれ、對面せざればしらざるとおもふことなかれ。一塵をしるものは盡界をしり、一法を通ずるものは萬法を通ず。萬法に通ぜざるもの、一法に通ぜず。通を學せるもの通徹のとき、萬法をもみる、一法をもみるがゆゑに、一塵を學するもの、のがれず盡界を學するなり。三歳の孩兒は佛法をいふべからずとおもひ、三歳の孩兒のいはんことは容易ならんとおもふは至愚なり。そのゆゑは、生をあきらめ死をあきらむるは佛家一大事の因縁なり。

「諸悪たとひ幾重なりの尽界に弥淪し、幾重なりの尽法を呑却せりとも、これ莫作の解脱也」と云うは、

〇私云、諸悪とは云えども、すでに「尽界に弥淪し、幾重なりの尽法を呑却せり」とも云うは、すでに世間の諸悪の心ならず。ゆえに「莫作の解脱」と云う也。

「孩児の才生せる道理を知れりや。もし三歳の孩児を知らん者は、三世諸仏をも知るべし」と云う。上に云う大地有情同時成道の心なり。

〇私云、才生せる孩児の道得の証は、仏出胎し御しましし始め、天を差し地を指して、天上天下唯我独尊と被仰き。何の疑いかあらん。三十成道の時は、大地有情同時成道と被仰、何ぞ道得行得不得の差別あるべきや。道林の詞不足の所なきなり。

〇「対面するは知れり、対面せざれば知らず」と云う、是は世間の道理也。但し仏家には「一塵を知るもの尽界をも知る、一法を通ずれば万法に通ず」と云う。対面不対面により、知不知あるべからずが、対面と云えども、両人相対する義にてなし。不対面と云えばとて、可対面もののあるに今不対面にてなし。只見ると云う心地也。

〇居易は対面しても不知、不対面しても不知也。道林は対面しても知り、不対面しても知る。これ不触事而知の知なり。又道林は対面しても不知、不対面しても不知なり。仏法には知不知に拘わらずと云うゆえに、『仏性』の談には「仏性は生にのみありて、死のときはんかるべし」(「大正蔵八二・一〇一a一・注」、是は生の時をも不知、死の時をも不知べしと云う。たとえば今の居易如此。

〇道得言語にあらず、皮肉骨髄を道得とも云うべきゆえに、上に才生せる「三歳の孩児を知らん者は、三世の諸仏をも知るべし」と云う心なるべし。

経豪

  • 「諸悪幾重なりの尽界に弥淪し、幾重なりの尽法を呑却せりとも、是莫作の解脱也」とは、全諸悪なる理を重なるとも弥淪とも仕う也。諸悪に呑却せられて、余法頭に指し出すべからず、是を「莫作の解脱」とは云う也。「衆善又初中後善なれば、奉行の相、奉行の体力」と云うべき也。但し此の道理は衆善の方に可付歟、奉行の方に可付歟と不審也。但し衆善与奉行只一物也、只同事なるべしと可心得。奉行には性相体力に、衆善を付ける道理もあるべし、只同事也。
  • 如文。是は居易の此道理を不知事を被明なり、先師御詞也。所詮今の三歳の孩児の様、すでに三世諸仏と等しき孩児を別に置いて非為喩、只以三世諸仏孩児と談ずる也。居易はひとえに止悪衆善の方の心地に心得て、道林の答えはあると心得て、悪をば止めよ善をば修せよと云う程の義は、三歳子也とも心得などと許り云う也。祖門直指の三歳孩児の問答、此の詞に不可滞也。
  • 「対面すれば知れりと思う事なかれ」とは、実(に)対面すればとて、必ず(しも)知る事なし。対面せざれとも知るべき事を知る事もあり。現量其謂ある事也。

 

 古徳いはく、なんぢがはじめて生下せりしとき、すなはち獅子吼の分あり。師子吼の分とは、如來轉法輪の功徳なり、轉法輪なり。

 又古徳いはく、生死去來、眞實人體なり。

 しかあれば、眞實體をあきらめ、獅子吼の功徳あらん、まことに一大事なるべし、たやすかるべからず。かるがゆゑに、三歳孩兒の因縁行履あきらめんとするに、さらに大因縁なり。それ三世の諸佛の行履因縁と、同不同あるがゆゑに。

 居易おろかにして三歳の孩兒の道得をかつてきかざれば、あるらんとだにも疑著せずして、恁麼道取するなり。道林の道聲の雷よりも顯赫なるをきかず、道不得をいはんとしては、三歳孩兒還道得といふ。これ孩兒の獅子吼をもきかず、禪師の轉法輪をも蹉過するなり。

 禪師あはれみをやむるにあたはず、かさねていふしなり、三歳の孩兒はたとひ道得なりとも、八十老翁は行不得ならんと。

 いふこゝろは、三歳の孩兒に道得のことばあり、これをよくよく參究すべし。八十の老翁に行不得の道あり、よくよく功夫すべし。孩兒の道得はなんぢに一任す、しかあれども孩兒に一任せず。老翁の行不得はなんぢに一任す、しかあれども老翁に一任せずといひしなり。

 佛法はかくのごとく辦取し、説取し、宗取するを道理とせり。

〇「古徳云く、汝が始めて生下せりし時、則ち獅子吼の分あり」と云うは、生死去来真実人体なり。

〇「孩児の道得は汝に一任す」と云うは、これに二つの義あるべし。孩児を世界の孩児等と、思うて任すと云うべきか、又孩児の道理を仏法にと、気付くを任すと云うべし。

〇孩児は大地有情同時成道し、尽十方界真実人体の孩児なり。山河大地をも、日月星辰をも一任せんずるぞ、孩児の真実の一任なるべき。

〇私云、『仏性』の草子に、「六祖道の無常は外道二乗等の測度にあらず。二乗外道の鼻祖鼻末、それ無常也と云うも、彼ら窮尽すべからざる也」(「大正蔵」八二・九五a九・注)とありし心地なり。

〇「一任せず」と云うは、孩児を世間の如く、心得べき所を、「一任せず」と説くなり。

〇「老翁の一任不任」の事、たとえば諸悪莫作は汝に一任すとも、汝に不一任と云わんが如し。所詮如上道理。

〇「行不得」の語は、この宗門に得不得を立つる事、物を得たると、不得とを二つに云うにあらず。得不を透脱したる詞なりと先ず可心得。「道得行不得」に付きて、祖師の語多し、いわゆる大慈日、説得一丈、不如行取一尺。説得一尺不如行取一尺と云う。是は説と行を並べて、行を勝りて云いたるがと聞こゆ。但さにはあらず、一丈一尺と云うも、丈尺の勝劣にあらず。説行一なるべし。教行証を三位に立てず、一と説くゆえに。世界には口にて説く事は易し、身に行ずる事は難しと云う。実にもさる事なり、然而「行不得」の道理、道林の勧むる所尤可心得。

〇洞山云、行取説不得底、説取行不得底。この時説行二也と見えず。

〇雲居日、説時無行路、行時無説路。不説不行時、合作麽生路。坐禅すれば殺仏す、作仏すれば殺人すと云う心地也。ゆえに説行二にあらず。

〇洛浦云、行説俱到、則去事無。行説俱不到、則来事在と云う。このとき説行有無到不到の心地、又不可各別歟。この四人の語を永平寺和尚上堂の御詞に、「大慈説得一丈、未有不行取。一丈者、説得一尺、未有不行取一尺者。洞山行取行不得底、説取説不得底。雲居説行倶有、放行把定。洛浦説行倶到、家国興盛。説行倶不到、仏祖証明」(『永平広録』一〇https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/eiheikouroku)すと云々。

是等の心更説行二と見えず。且上堂のはじめの御詞に、「説也至道、行也至道」とあり。行説の通ずる路かくの如し。道林の行不得の詞、尤可心得合なり。抑も道林の詞は、道得と行不得となり。大慈已下の詞は、説取行取不如等也。然而道と説との詞は同じかるべし。取と得との詞又同じ、不如の不と、不得の不と又同じ。仍いまの証に引くなり。道得の道と、行不得の行とは不可別也。

  弘長三年(1263・注)二月日

    寂光与我聞書之上、加予聞書詞也、可取捨者也

                     菩薩比丘々々

 

経豪

  • 実(に)「「生死を明らむるは仏家の一大事なるべし」。其れと云うは、生也全機現、死也全機現の生死なるべし。今の三歳の孩児、則ち獅子吼の転妙法輪なるべし。孩児の生でなく声も、則ち転妙法輪なるべし。生死去来も、真実人体の上の談也。今の三歳の孩児、生死去来の生なるべし。
  • 是は打ち任すは、三歳の孩児の行履を知るは易かりぬべし。三世の諸仏の行履は大事也とぞ覚えぬべけれども、すでに此の三歳の孩児、三世諸仏と同等の孩児なる上は、「三歳の孩児の行履と、三世諸仏の行履と同じなる道理あるべし、不同なる理あるべきなり」。
  • 是は居易の悪しく心得て、道林の道の雷よりも明らかなるを不知事を被挙也。
  • 御釈に聞こえたり。此の禅師の重ねて被示詞は、三歳の孩児は知るとも、八十老翁は不知と云うにはあらず。「三歳の孩児には道得の詞あり、八十老翁には行不得の道あり、是等を能々参究すべし」とは云う也。所詮此の詞は道得道不得の理を、禅師は被示と可心得也。
  • 是は「孩児の道得は汝に一任す」とは、居易の詞に任す。ただし「孩児には任せず」とは、孩児の道理しかにはあらずと云う也。「老翁の行不得」の詞も、同じ孩児の詞に可心得。

諸悪莫作(終)

 

2022年9月9日(タイ国にて擱筆

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。