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現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵 第二十五 渓声山色 註解(聞書・抄)

 正法眼蔵 第二十五 渓声山色 註解(聞書・抄)

 

 阿耨菩提に傳道授業の佛祖おほし、粉骨の先蹤即不無なり。斷臂の祖宗まなぶべし、掩泥の毫髪もたがふることなかれ。各々の脱殻うるに、從來の知見解會に拘牽せられず、曠劫未明の事、たちまちに現前す。恁麼時の而今は、吾も不知なり、誰も不識なり、汝も不期なり、佛眼も覰不見なり。人慮あに測度せんや。

詮慧

〇凡そ題目は法譬等に依りて云う也。今の「妙法蓮華経」、妙法は法の義、蓮華は譬えと聞こゆ。或いは人に仰せても題目とす。今「正法眼蔵」と云うは、ただちに法の義を表す。「見成公案」と云うは、正法眼蔵の見成する也。「摩訶般若」、「仏性」などと云う、是も法の義也。「授記」などと名づく、やがて授記なるゆえなり。「画餅」ぞ「渓声山色」などと云うぞ、譬えと聞こゆる。但し法性・真如と云うも、山流・山不流と云うも、ただ同じ丈にて法を表すぞ。教に答える所にもあるべき、三界唯一心と云うも、三界所捨の法とのみ学す。無詮事なり。一心唯一心、三界唯三界と体脱すべき也。是を画餅不充飢の道理にも、「渓声山色」の謂われにも可心得合。

〇「阿耨菩提の伝道授業の仏祖多し、・・恁麼時は、吾も不知、誰も不識也、汝も不期也」と云う、「粉骨」の時を悟りとも定めず、「断臂」の時を悟りとも不定。然而如此なる信心さとりなるゆえに、今「現前する」にてある也。「吾も不知、誰も不識」と云う、此の「吾・誰」は、吾亦如是、汝亦如是程の、吾誰なる上は、疑うべきならねど、猶「仏眼も覰不見也」と云う時は、又仏の不見やはあるべきと、立ち帰る疑がわるれども、仏眼は本より不見なるべし、尽十方眼なるゆえに。

〇凡そ「阿耨菩提」の法、始終前後あるべからず。衆生の依正なる三界未脱の時は隔たり、已脱の時、即現と云うべからず。刹那も此の菩提無不具足時、然者未脱已脱、何是何非ゆえに、「吾も不知、仏眼も不見なり」、「曠劫未明」の理を説く時、仏も不見なるなり。

経豪

  • 祖師の仏法を打ち任せて、先(の)教家に替えたると云うは、仏性ぞ実相ぞ真如ぞ乃至三昧陀羅尼などと云うを、法文と云いて、付之引経論等談之。是等はあまりに事旧たる事不珍。或いは画餅或いは渓声山色、或いは蚯蚓或いは狗子などと打ち任すは、法文なるべしとも不覚。世間の調度に取りても如此。仮りに徒らなる名目等を取り出して談之じて、法体を表す。是が先(の)大段大いに替えたりと聞こゆ。今の「阿耨菩提に伝道授業の仏祖多し」と云えば、今の無上菩提の教えを、祖師等(の)「伝道授業」して、他人にも授くるように聞こゆ。今の「阿耨菩提」の当体をやがて「祖師とも伝道授業とも」談ず也。努々能説の法、所説の祖師とで不可各別也。「粉骨の先蹤即不無、断臂の祖宗」などと被引事は、先達如此参禅学道不等閑し所を被挙也。「掩泥の毫髪」とは、釈尊の因位に泥に御髪を敷きて、燃灯仏を被奉通たりき。此の先蹤を被引也。
  • 脱穀」とは、解脱の詞に仕う也。解脱を得る時、実に「従来の知見解会に拘牽せらるまじき」条勿論也。「曠劫未明事、忽ち現前すべき」条、又不可疑事也。
  • 「恁麽時」とは、脱穀の時節を指す也。此理現前の時は、「不知不識」なるべし。是れ則ち知不知に関わらぬ理なるべし。「仏眼も覰不見也」と云う詞(と)不被心得。仏眼覰不見なるまじき道理にて道理にてこそあれども、真実に仏眼の至極する道理の時は、「仏眼覰不見なるべき」理也。千手を談ぜん時、不見一法名如来と云いしが如し。此の上は又「人慮も測度すべからざる」也。

 

 大宋國に、東坡居士蘇軾とてありしは、字は子瞻といふ。筆海の眞龍なりぬべし、佛海の龍象を學す。重淵にも游泳す。曾雲にも昇降す。あるとき、廬山にいたれりしちなみに、谿水の夜流する聲をきくに悟道す。偈をつくりて、常總禪師に呈するにいはく、

  谿聲便是廣長舌  山色無非清淨身

  夜來八萬四千偈  佗日如何擧似人

 この偈を總禪師に呈するに、總禪師、然之す。總は照覺常總禪師なり、總は黄龍慧南禪師の法嗣なり、南は慈明楚圓禪師の法嗣なり。

 居士、あるとき佛印禪師了元和尚と相見するに、佛印、さづくるに法衣佛戒等をもてす。居士、つねに法衣を搭して修道しき。居士、佛印にたてまつるに無價の玉帶をもてす。ときの人いはく、凡俗所及の儀にあらずと。

 しかあれば、聞谿悟道の因縁、さらにこれ晩流の潤益なからんや。あはれむべし、いくめぐりか現身説法の化儀にもれたるがごとくなる。なにとしてかさらに山色をみ、谿聲をきく。一句なりとやせん、半句なりとやせん、八萬四千偈なりとやせん。うらむべし、山水にかくれたる聲色あること。又よろこぶべし、山水にあらはるゝ時節因縁あること。舌相も懈惓なし、身色あに存没あらんや。しかあれども、あらはるゝときをやちかしとならふ、かくれたるときをやちかしとならはん。一枚なりとやせん、半枚なりとやせん。從來の春秋は山水を見聞せざりけり、夜來の時節は山水を見聞することわづかなり。いま、學道の菩薩も、山流水不流より學入の門を開すべし。

 この居士の悟道せし夜は、そのさきのひ、總禪師と無情説法話を參問せしなり。禪師の言下に飜身の儀いまだしといへども、谿聲のきこゆるところは、逆水の波浪たかく天をうつものなり。しかあれば、いま谿聲の居士をおどろかす、谿聲なりとやせん、照覺の流瀉なりとやせん。うたがふらくは照覺の無情説法話、ひびきいまだやまず、ひそかに谿流のよるの聲にみだれいる。たれかこれ一升なりと辦肯せん、一海なりと朝宗せん。畢竟じていはば、居士の悟道するか、山水の悟道するか。たれの明眼あらんか、長舌相、清淨身を急著眼せざらん。

詮慧

〇東坡居士段、渓声便是広長舌・・云々。

「渓声も広長舌、山色も清浄身」と云う、非可驚。されば教にも「一色一香無非中道」(『妙法蓮華経玄義』一上「大正蔵」三三・六八三a七・注)と云う、ゆえに但し今の意は異なるべし。

〇「渓声」は説法と聞こゆ。「声」と云うに付けて、「山色」は現身と覚ゆ。「色」と云うゆえに、但「渓声」の所に「現身説法」と現われ、「山色」の所にも「現身説法」と現わるるなり。四季並び四方等を例えて、発心修行菩提涅槃と云う事あり。これを今の心にはあらず。「渓声山色」等は日来見し所、説法現身こそ今聞く所さとりなれと云う不是也。その見ると許すは、世間の見也。もとより非所談、見ると謂わば、「渓声山色」とも見聞し、不見不聞と云わん時は、「渓声も山色も、現身も説法も」、不可見也。「聞渓は悟道、現身は説法なり」。「渓声と山色」とを取るべし、「広長舌、清浄身」とは詞の飾りなるべし。

〇「他日如何挙似人」と云うは、此の「人」(は)自歟他歟と先ず可不審也。いづれの日を本として、「他」と云うにはあらず。ただ何れの日か、この事を挙似せんと云う心也。人に挙似すと云えば、自他あり。人に挙似すと云うべくは、自にも挙似すべき也。

〇「存没」にあらんや」と云うは、存没あらぬ所を「現るる時をや近しと習う。隠れたる時をや近しと習う」と云う也。

〇「見聞すること纔か也」と云うは、物の小分けなるを云うにはあらず。見聞が必ず本体と取るべきならぬ所を、纔かと仕う。又始めて見聞し出だすにあらざれば、今の詞には纔かにと説く。もとより尽界皆見聞なるゆえに。

〇「流瀉」とは説法の事也。昼夜流瀉辦などと云う詞も、古くよりあるなり。

〇「一升とやせん、一海也とやせん」と云うは、照覚禅師与居士の見すでに悟道也。此の法水をば「一升」とも難定く、「一海」とも分際を云うべきならぬ所を云うなり。

〇「居士の悟道するか、たれの明眼あらんか、長舌相、清浄身」と云うは、是皆一つの悟り也。にょらの大地有情同時成道と被仰義是也。説教には此の悟道の様は不談事歟。

経豪

  • 東坡悟道次第見于文。所詮今の悟道の詞は、仏の四辦八音の説と云うは、今の「渓声也、山色也」と云う。三十二相八十種好の姿是なり。此の「渓声則ち八万四千偈也」と云うなり。此の「他日如何挙似人せん」とは、法の道理(は)他人に挙似すと云うべきにあらず。何が仏と問うに、如何仏と答えせし程の道理なり。法体が「如何挙似人」と云わるるなり。此外如文。
  • 此の「渓声を居士の聞きて悟道」したれば、居士の上の得益許りこそ思うべきを、今の「渓声山色の道理」が居士一人に不可限、「晩流の潤益なる」道理なり。実に幾たびか、現身説法の化儀に漏れたるが如くなる。何としてか今山色を見、渓声を聞く顕然事也。此の山色の姿、渓声の道理が、一句なるべきか半句なるべきか、八万四千偈なるべきか。詮はいづれの義にも当るべき也。今渓声を聞かざる程は、隠れたる声色なり。実に恨むべし。今渓声を聞きて悟道する時節因縁、まことに悦ぶべき時節なるべし。如文。
  • 「舌相」とは渓声也。「身色」とは山色也。此の山色渓声の理、「懈惓存没」に関わるべき物にあらぬ所を、如此被釈也。
  • 「近しと習い、隠れたる時、現れたる時」と云うも、隠顕存没に拘わらぬ所を如此云也。近と云うも、遠と云うも、隠るると云うも、現るると云うも、一枚も、半枚も只「渓声山色」の理なるべし。「わづか」の詞(は)立耳様なれども、是又多少の義あるべからず。広と云うも纔か也と云うも只同心也。
  • 山は不流、水は流とこそ思い付きたる所を、逆に聞こゆ。但し此の詞を如此談ずるが、「学人の門を開する」にてあるべき也。
  • 近来禅僧(の)以詞談ずは徒事也。只惘然として功夫し、至れば悟来也と云いぜし力にてこそ、今さとりをも得しが、参師聞法せずして、争か悟道すべき。返々此義不可然事也。実に禅師の言下にてこそ、忽ち翻身せざりしかども、先の夜の談ぜし力にてこそ、渓声の聞こゆる所にも、悟道せしかと云う也。
  • 居士の悟道、照覚禅師の無情説法話の響きなるべし。然者「渓声也とやせん、照覚の流瀉とやせん」と云う道理也。「渓声の夜の声に乱れ入る」程の理の上には、「一升なりとも一海也」とも、多少の論を今は超越したる義也。
  • 如文。此の道理(は)、「居士の悟道」と云うべきか、「山水の悟道」なるべき歟。詮は「明眼あらん、長舌相、清浄身と急著眼すべき」なり。

 

 又香嚴智閑禪師、かつて大潙大圓禪師の會に學道せしとき、大潙いはく、なんぢ聰明博解なり。章疏のなかより記持せず、父母未生以前にあたりて、わがために一句を道取しきたるべし。

 香嚴、いはんことをもとむること數番すれども不得なり。ふかく身心をうらみ、年來たくはふるところの書籍を披尋するに、なほ茫然なり。つひに火をもちて、年來のあつむる書をやきていはく、畫にかけるもちひは、うゑをふさぐにたらず。われちかふ、此生に佛法を會せんことをのぞまじ、たゞ行粥飯僧とならんといひて、行粥飯して年月をふるなり。行粥飯僧といふは、衆僧に粥飯を行益するなり。このくにの陪饌役送のごときなり。

 かくのごとくして大潙にまうす、智閑は心神昏昧にして道不得なり、和尚わがためにいふべし。

 大潙のいはく、われ、なんぢがためにいはんことを辭せず。おそらくはのちになんぢわれをうらみん。

 かくて年月をふるに、大證國師の蹤跡をたづねて武當山にいりて、國師の庵のあとにくさをむすびて爲庵す。竹をうゑてともとしけり。あるとき、道路を併淨するちなみに、かはらほどばしりて竹にあたりて、ひゞきをなすをきくに、豁然として大悟す。沐浴し、潔齋して、大潙山にむかひて燒香禮拝して、大潙にむかひてまうす、大潙大和尚、むかしわがためにとくことあらば、いかでかいまこの事あらん。恩のふかきこと、父母よりもすぐれたり。つひに偈をつくりていはく、

  一撃亡所知 更不自修治 動容揚古路 不墮悄然機

  處々無蹤跡 聲色外威儀 諸方達道者 咸言上々機

 この偈を大潙に呈す。大潙いはく、此子徹也。

詮慧

〇「画にかけるもちゐは、うえをふさぐにたらず」と云うは、是は悟道の先の詞也。実にも不充飢と心得べき也。又充飢とも云うべし、悟道と云う是也。

〇「なんぢが為に云わん事を辞せず、恐らくは後にわれを恨みん」と云うは、居士の悟道するか、山水の悟道するかと云う程の詞なり。

〇香厳悟道の後、「大潙山に向いて焼香礼拝して、大潙に申す、昔我が為に説く事あらば、いかでか今この事あらん」と云う、そのかみの不道は、いまの悟道と云う也。昔の百不当は、いまの一当と云うべし。

〇「一撃亡所知」(一撃と云うは、互の竹に当る事也。一撃の所が、やがて所知を亡ずる也)。

「更不自修治」(已前に亡所知なる上は、更修治すべき事なしとなり)。「動容揚古路」(動も容も、ただ古路を揚ぐれば、新しき法のあるにてなし、ゆえに揚古路と云う也)。「不墮悄然機」(古路を揚ぐれば、又悄然の機に不墮なり)。「処々無蹤跡」(処々〔ところどころ〕蹤跡なきと云うは、たとえば一心と談ずる心地也)。「声色外威儀」(世間の外、仏向上事也)。

「諸方達道者」(人の事を云うに似たれども、人人に不可限、尽界是悟りと云う程の事也)。「咸言上々機」(上の詞、ただ物に対して、其の物よりも、上と云うまでは、非仏法。又何れにても云いぬべし、今の上々機と云うは、中下にも対し、又其の物よりも、嵩(かさ)みたるを云うに非ず。以向上の機也)。

〇香厳の焼く所の章疏(は)、章疏のあやまりにはあらじ。了見の不及ざるゆえに焼く所也。三十七品菩提分法の詞捨てられず。況や多くの経書の中に、争か父母未生前の道得なからん。画にかける餅(は)飢えを塞ぐに足らずと云う画の詞にも迷わぬ、充ぞ不充ぞと、煩うべからず。ただし父母未生前の事を、数番せし功、年来蓄うる所の書籍を火に焼きし信心、行粥飯僧とならんと誓いし志にて、武当山にも住せしかば、其の功虚しからず。瓦ほとばし(迸)りて、竹に当る響きを聞くに、豁然として大悟す。只いたづらに只の響きを聞きて、大悟する事あるべからず。又無其証拠者也。香厳の後(あと)を追うべし。居士悟道の因縁を尋ぬるにも総禅師と先の日、無情説法の話を参問せし力なり。すべて師匠にも随うべからず、言語にも拘わるべからず。ただ公案を額に掛けよと、近代の師の示さるる事、先規には不可相似者也。

経豪

  • 此一段、文に分明也。無殊子細。
  • 此偈無殊御釈。我れ誓う、此の生に仏法を会せん事を望まじ。ただ行粥飯僧とならん。此の詞は退屈したるように聞きぬべけれども、只至りて志の深きゆえに、此の詞もありけるやらん覚束なし。又「和尚我が為に云うべし、大潙の云く、我為汝云わん事を辞せず。恐らくは後に汝、我れを恨みん」云々、此の問答の詞も不被心得。其の故は、「為我云え」しとあれば、尤一句可被指示とこそ覚ゆるに、「云わん事を不辞、恐らくは後に汝我れを恨みん」とあり。師(が)為弟子法を示さん、何としてか恨むべき、旁問答よう不審也。但「章疏の中より記持せず、父母未生以前にあたりて、我が為に一句を道取し来たるべし」と云いし詞が、やがて法を指示せる詞にてもや有るらん。又何と今云わずとも、やがて可得道仁(人?)にてありと見てもや示さざりけん。大潙の所存不審也。御釈不分明の上は、無左右、難決けれども、今義も強ち不可違歟。香厳則ち父母未生の体也、不可求外。香厳の道不得なる姿も、父母未生の理には不可背歟。又竹声を聞きて香厳の悟道は有りき、抑も又香厳の悟道と可云歟。竹声の悟道と可心得歟。竹の竹を聞きて悟道すともや心得、香厳の香厳を聞きて悟道すともや云うべからん。是等(の)道理(を)能々閑(に)可功夫也。

「一撃亡所知」は、今の竹の瓦に迸(ほとばし)りて響きたる事也。「動容揚古路」は今の父母未生の面目などとに当てて可心得歟。「不墮悄然機」なるべし。所詮「声色外威儀」の詞が、此文の肝心なるべし。渓声も山色も竹声も只「声色」の内とこそ心得たりつれ。是が今は悉く広長舌清浄身なりける道理が、「声色外威儀」也ける道理にてあるなり。詮は此理を参学せん「上々機」なるべき也。「此子徹也」とは許可(の)詞なり。

 

 又、靈雲志勤禪師は三十年の辦道なり。あるとき遊山するに、山脚に休息して、はるかに人里を望見す。ときに春なり。桃花のさかりなるをみて、忽然として悟道す。偈をつくりて大潙に呈するにいはく、

  三十年來尋剣客  幾回葉落又抽枝

  自從一見桃花後  直至如今更不疑

 大潙いはく、從縁入者、永不退失。

 すなはち許可するなり。いづれの入者か從縁せざらん、いづれの入者か退失あらん。ひとり勤をいふにあらず。つひに大潙に嗣法す。山色の清淨身にあらざらん、いかでか恁麼ならん。

詮慧

〇霊雲志勤禅師段

「尋剣客」とは、乗船のとき落入剣於浪中、後に求むとて船の端(はた)を刻みたる事ありき。「幾回葉落又抽枝」と云うは、三十年春秋の事也。この時刻は猶迷いて、「自従一見桃花」悟りに成りたる間、「直至如今更不疑」と云うにてなし。「三十年来」も悟り也、悟りに前後あるべからず。尋剣客と云うより三十年も悟りなる也。喩えとは不可心得。

〇「従縁入者、永不退失」と云うは、不対縁こそ仏道の心地なれ。「従縁」と云えば、嫌う所に似たり。但しここを心得には、三界唯一心と云う。「従縁」は三界に当る、「入者」(は)一心に当る。然者「従縁入者」は、やがて仏法なり、三界は一心と体脱するがゆえに、世間に心得たる縁にてはなし。庭前柏樹子を、境を以て人に示すと心得しかども、非境して説きし時も、庭前柏樹子と云う此心也。「縁」も是程の縁なり。

〇「山色の清浄身にあらざらんや」と云うは、見桃花也、悟道の証拠也。

経豪

  • 「三十年来尋剣客」(剣客と云うは善き客なり、剣客は知識にあたる)時分は、いたづらなりつる時分歟。但し「一たび桃花を見し」時分と同じかるべし。又「大潙の従縁入者、永不退失」の詞は、「従縁」と云うは、今の桃花が自是彼に入ると不可談。能入所入の義あるべからず。全桃花の時節也。此の道理が、「永不退失」と云わるる也。詮は桃花の法界を尽す道理、三十年来の捨つべき時分もなく、退失すべき事なき道理を以て、如此云う也。何れもありて、何れを(も)退失すと云われざる也。
  • 是は「入者」と「縁」とが各別なる様に聞こゆ。而今の「入者」を「従縁」と談ずる間、「従縁せざらん」と云う。今の「入者が退失あらん」と云わるる也。此の「退失」の姿(が)、退失すべき理あらざるゆえに、此理又「ひとり勤許りを云うにあらず」、何れに仰せても此理あるべしとなり。

「つゐに大潙に嗣法す。山色の清浄身ならずは、争か此理あるべき」と、此理の符合する所を、被挙也。清浄身なる道理の上にてこそ、如此も云わるれとなり。

 

長沙景岑禪師に、ある僧とふ、いかにしてか山河大地を轉じて自己に歸せしめん。

 師いはく、いかにしてか自己を轉じて山河大地に歸せしめん。

 いまの道趣は、自己のおのづから自己にてある、自己たとひ山河大地といふとも、さらに所歸に罣礙すべきにあらず。

詮慧

〇長沙景岑禅師段、・・無殊事略也。

経豪

  • 是は「山河大地与自己」の至りて親しき道理也。山河大地是自己なり、自己是山河大地なり。是が彼に帰すると云うも、彼が是に帰すると云うも只同事也。別なる物を置きて、是に帰せんと云うにはあらず。たとえば、如何にしてか仏性をして狗子に帰せしめんとも、蚯蚓に帰せしめんとも云わんが如し。
  • 是は只自己は自己也。かかる自己の上には、「たとい山河大地と云うとも、所帰に罣礙すべきにあらず」と云う也。

 

 瑯琊の廣照大師慧覺和尚は南嶽の遠孫なり。あるとき、教家の講師子璿とふ、清淨本然、云何忽生山河大地。

 かくのごとくとふに、和尚しめすにいはく、清淨本然、云何忽生山河大地。

 こゝにしりぬ、清淨本然なる山河大地を山河大地とあやまるべきにあらず。しかあるを、經師かつてゆめにもきかざれば、山河大地を山河大地としらざるなり。

 しるべし、山色谿聲にあらざれば拈花も開演せず、得髓も依位せざるべし。谿聲山色の功徳によりて、大地有情同時成道し、見明星悟道する諸佛あるなり。かくのごとくなる皮袋、これ求法の志気甚深なりし先哲なり。その先蹤、いまの人、かならず參取すべし。いまも名利にかゝはらざらん眞實の參學は、かくのごときの志気をたつべきなり。遠方の近來は、まことに佛法を求覓する人まれなり。なきにはあらず、難遇なるなり。たまたま出家兒となり、離俗せるににたるも、佛道をもて名利のかけはしとするのみおほし。あはれむべし、かなしむべし、この光陰ををしまず、むなしく黒暗業に賣買すること。いづれのときかこれ出離得道の期ならん。たとひ正師にあふとも、眞龍を愛せざらん。かくのごとくのたぐひ、先佛これを可憐憫者といふ。その先世に惡因あるによりてしかあるなり。生をうくるに爲法求法のこゝろざしなきによりて、眞法をみるとき眞龍をあやしみ、正法にあふとき正法にいとはるゝなり。この身心骨肉、かつて從法而生ならざるによりて、法と不相應なり、法と不受用なり。祖宗師資、かくのごとく相承してひさしくなりぬ。菩提心はむかしのゆめをとくがごとし。あはれむべし、寶山にむまれながら寶財をしらず、寶財をみず、いはんや法財をえんや。もし菩提心をおこしてのち、六趣四生に輪轉すといへども、その輪轉の因縁、みな菩提の行願となるなり。

 しかあれば、從來の光陰はたとひむなしくすごすといふとも、今生のいまだすぎざるあひだに、いそぎて發願すべし。

 ねがはくはわれと一切衆生と、今生より乃至生々をつくして正法をきくことあらん。きくことあらんとき、正法を疑著せじ、不信なるべからず。まさに正法にあはんとき、世法をすてて佛法を受持せん、つひに大地有情ともに成道することをえん。

 かくのごとく發願せば、おのづから正發心の因縁ならん。この心術、懈惓することなかれ。

 又この日本國は、海外の遠方なり、人のこゝろ至愚なり。むかしよりいまだ聖人むまれず、生知むまれず、いはんや學道の實士まれなり。道心をしらざるともがら、道心ををしふるときは、忠言の逆耳するによりて、自己をかへりみず、佗人をうらむ。

 おほよそ菩提心の行願には、菩提心の發未發、行道不行道を世人にしられんことをおもはざるべし、しられざらんといとなむべし。いはんやみづから口稱せんや。いまの人は、實をもとむることまれなるによりて、身に行なく、こゝろにさとりなくとも、佗人のほむることありて、行解相應せりといはん人をもとむるがごとし。迷中又迷、すなはちこれなり。この邪念、すみやかに抛捨すべし。

 學道のとき見聞することかたきは、正法の心術なり。その心術は、佛々相傳しきたれるものなり。これを佛光明とも、佛心とも相傳するなり。如來在世より今日にいたるまで、名利をもとむるを學道の用心とするににたるともがらおほかり。しかありしも、正師のをしへにあひて、ひるがへして正法をもとむれば、おのづから得道す。いま學道には、かくのごとくのやまふのあらんとしるべきなり。たとへば、初心始學にもあれ、久修練行にもあれ、傳道授業の機をうることもあり、機をえざることもあり。慕古してならふ機あるべし、訕謗してならはざる魔もあらん。兩頭ともに愛すべからず、うらむべからず。いかにしてかうれへなからん、うらみざらん。いはく、三毒三毒としれるともがらまれなるによりて、うらみざるなり。いはんやはじめて佛道を欣求せしときのこゝろざしをわすれざるべし。いはく、はじめて發心するときは、佗人のために法をもとめず、名利をなげすてきたる。名利をもとむるにあらず、たゞひとすぢに得道をこゝろざす。かつて國王大臣の恭敬供養をまつこと、期せざるものなり。しかあるに、いまかくのごとくの因縁あり、本期にあらず、所求にあらず、人天の繋縛にかゝはらんことを期せざるところなり。しかあるを、おろかなる人は、たとひ道心ありといへども、はやく本志をわすれて、あやまりて人天の供養をまちて、佛法の功徳いたれりとよろこぶ。國王大臣の歸依しきりなれば、わがみちの見成とおもへり。これは學道の一魔なり、あはれむこゝろをわするべからずといふとも、よろこぶことなかるべし。

 みずや、ほとけのたまはく、如來現在、猶多怨嫉の金言あることを。愚の賢をしらず、小畜の大聖をあたむこと、理かくのごとし。又、西天の祖師、おほく外道二乘國王等のためにやぶられたるを。これ外道のすぐれたるにあらず、祖師に遠慮なきにあらず。

 初祖西來よりのち、嵩山に掛錫するに、梁武もしらず、魏主もしらず。ときに兩箇のいぬあり、いはゆる菩提流支三藏と光統律師となり。虚名邪利の、正人にふさがれんことをおそりて、あふぎて天日をくらまさんと擬するがごとくなりき。在世の達多よりもなほはなはだし。あはれむべし、なんぢが深愛する名利は、祖師これを糞穢よりもいとふなり。かくのごとくの道理、佛法の力量の究竟せざるにはあらず、良人をほゆるいぬありとしるべし。ほゆるいぬをわづらふことなかれ、うらむることなかれ。引道の發願すべし、汝是畜生、發菩提心と施設すべし。先哲いはく、これはこれ人面畜生なり。

 又、歸依供養する魔類もあるべきなり。

 前佛いはく、不親近國王王子大臣官長婆羅門居士。

 まことに佛道を學習せん人、わすれざるべき行儀なり。菩薩初學の功徳、すゝむにしたがうてかさなるべし。

 又むかしより、天帝きたりて行者の志気を試験し、あるいは魔波旬きたりて行者の修道をさまたぐることあり。これみな名利の志気はなれざるとき、この事ありき。大慈大悲のふかく、廣度衆生の願の老大なるには、これらの障礙あらざるなり。

 修行の力量おのづから國土をうることあり、世運の達せるに相似せることあり。かくのごとくの時節、さらにかれを辦肯すべきなり。かれに瞌睡することなかれ。愚人これをよろこぶ、たとへば癡犬の枯骨をねぶるがごとし。賢聖これをいとふ、たとへば世人の糞穢をおづるににたり。

 おほよそ初心の情量は、佛道をはからふことあたはず、測量すといへどもあたらざるなり。初心に測量せずといへども、究竟に究盡なきにあらず。徹地の堂奥は初心の淺識にあらず。ただまさに先聖の道をふまんことを行履すべし。このとき、尋師訪道するに、梯山航海あるなり。導師をたづね、知識をねがふには、從天降下なり、從地涌出なり。

 その接渠のところに、有情に道取せしめ、無情に道取せしむるに、身處にきゝ、心處にきく。若將耳聽は家常の茶飯なりといへども、眼處聞聲これ何必不必なり。見佛にも、自佛佗佛をみ、大佛小佛をみる。大佛にもおどろきおそれざれ、小佛にもあやしみわづらはざれ。いはゆる大佛小佛を、しばらく山色谿聲と認ずるものなり。これに廣長舌あり、八萬偈あり。擧似逈脱なり、見徹獨抜なり。このゆゑに俗いはく、彌高彌堅なり、先佛いはく、彌天彌淪なり。春松の操あり、秋菊の秀ある、即是なるのみなり。

 善知識この田地にいたらんとき、人天の大師なるべし。いまだこの田地にいたらず、みだりに爲人の儀を存ぜん、人天の大賊なり。春松しらず、秋菊みざらん、なにの草料かあらん、いかゞ根源を截斷せん。

 又、心も肉も、懈怠にもあり、不信にもあらんには、誠心をもはらして、前佛に懺悔すべし。恁麼するとき、前佛懺悔の功徳力、われをすくひて清淨ならしむ。この功徳、よく無礙の淨信精進を生長せしむるなり。淨信一現するとき、自佗おなじく轉ぜらるゝなり。その利益、あまねく情非情にかうぶらしむ。その大旨は、

 願はわれたとひ過去の惡業おほくかさなりて、障道の因縁ありとも、佛道によりて得道せりし諸佛諸祖、われをあはれみて、業累を解脱せしめ、學道さはりなからしめ、その功徳法門、あまねく無盡法界に充滿彌淪せらんあはれみをわれに分布すべし。

 佛祖の往昔は吾等なり、吾等が當來は佛祖ならん。佛祖を仰觀すれば一佛祖なり、發心を觀想するにも一發心なるべし。あはれみを七通八達せんに、得便宜なり、落便宜なり。このゆゑに龍牙のいはく、

  昔生未了今須了  此生度取累生身

  古佛未悟同今者  悟了今人即古人

 しづかにこの因縁を參究すべし、これ證佛の承當なり。

 かくのごとく懺悔すれば、かならず佛祖の冥助あるなり。心念身儀發露白佛すべし、發露のちから罪根をして銷殞せしむるなり。これ一色の正修行なり、正信心なり、正信身なり。

 正修行のとき、谿聲谿色、山色山聲、ともに八萬四千偈ををしまざるなり。自己もし名利身心を不惜すれば、谿山また恁麼の不惜あり。たとひ谿聲山色八萬四千偈を現成せしめ、現成せしめざることは夜來なりとも、谿山の谿山を擧似する盡力未便ならんは、たれかなんぢを谿聲山色と見聞せん。

詮慧

〇瑯琊広照大師段。先の自己を転じて山河大地に帰せしめんと云う段に、同じかるべし。衆生の見にも、「清浄本然なり云何忽生山河大地」と心得、仏見にも「清浄本然なるは、山河大地」と心得。ただ「清浄本然」と云う詞と、「山河大地」と云う詞とを、各別にして迷也、依正一如、身土不二などと談ず也。習いぬる上は、不可有不審、尽十方界真実人体、自己光明、眼睛などとも云う。始めて不可驚。「清浄本然」は迷悟なく、隠顕なく、生滅なし。「山河大地」は猶迷法也とは差別すべからず。ただここには皆清浄本然なりと、習う時に押し返して、又「清浄本然也」とは云うなり。

〇「伝道授業の機を得る事もあり、機を得ざる事もあり、慕古して習う機あるべし、訕謗して不習魔もあらん。両頭共に不可愛、不可恨」と云うは、機を得る事も有りと云い、訕謗して不習魔も有ると云うを、「両頭」と挙ぐる也。又「愛すべからず」と云うは、機を得る事をも不可愛、又訕謗し不習も不可恨と也。伝道授業の機を得る事をなどが不愛べき、訕謗の魔を恨みぬ事はさもやと覚ゆ。然而機を得る事は、仏道の定まりたる云為なれば、いま始めて愛すべからずと云う也。愛すべからずと云う恨みに対して、愛すべからずとは誡めらる。不触事而愛は、仏法の上の愛なれば不可嫌也。

〇「如来現在、猶多怨嫉」と云うは、是は仏を仇(あだ)む人もありし事を挙げて云う也。

〇「春松の操、秋菊の秀」と云うは、仏法は善悪に犯されぬ所を。たとえば「春松・秋菊」共に、霜に犯されぬ事を譬うる也。

〇「龍牙の云う」と云う「龍牙」は、祖師名也。道を学せんには先ず貧を可学と云いし祖也。

〇「渓山の渓山を挙似する尽力未便」と云うは、「誰か汝を谿声山色と見聞せん」ぞと云う也。

経豪

  • 前の長沙景岑禅師与僧問答は、いかにしてか、山河大地を転じて、自己に帰せしめんとある。答えに、いかにしてか自己を転じて山河大地に帰せしめんと打ち替えて問答あり。ここには只同じ詞にて被問答。面は替わりたるようなれども、其心同これ。此の問いの心地は、「清浄本然也」とは、法性真如の妙理、是則清浄離塵なる物なるを、「忽生山河大地如何」と不審したるようなり。此の「清浄本然」の姿と、今の「山河大地」の姿と不可違、浅深軽重の義不可有。「山河大地こそ清浄本然」の姿なれ、全非別物。此の道理なるゆえに、答えも只同じ詞を以て「清浄本然なる、山河大地を山河大地とあやまるべきにあらずや」とは被釈也。是は山河大地は清浄本然ならずと、浄穢を立てたる見解を被嫌也。
  • 「渓声山色の功徳」の無辺際なる道理が、如此彼是に向けて被談也。釈尊の拈華瞬目、二祖の得髄依位而立の姿、大地有情同時成道等、皆「渓声山色の功徳」なるべしと云う也。此れ已下皆如文。
  • 是は「正師に逢うとも」、まことしく仏法を参学せざらんは、「真龍を愛せる」程の事也と云うなり。已下如文。
  • 「為法求法の志なきに依りて、真法を見るとき真龍を怪しみ、正法に逢うとき正法に厭わるる也と云いて、此の身心骨肉、かつて従法而生ならず」とは、まことしく為法求法なき「身心骨肉を指して従法而生ならず」とは、被嫌也。「是によりて法と不相応、法と不受用也」とは、避けらるる也。「祖宗師資、かくのごとく相承して久しく成りぬ」とは、此の被嫌道理の方を相承して、年経たりと云う也。被嫌詞なり。
  • 菩提心」を別に置きて、是を得るぞ、得ぬぞなどと云う所を「昔の夢」と探る也。已下如文。
  • 「発菩提心の後、六趣四生に輪転す」と云う事、不相応の詞に聞こゆ。但し此の「発菩提心の後の輪転」と云う事、只我等が見解の分にはあらざるべし。仏菩薩も化度衆生の為には、「六趣四生に出現」し給う事、不始于今。仏の本意は只衆生化度の為也。道理に仰ぐは此の「六趣四生の姿」皆渓声山色なるべし、ゆえに「輪転の因縁皆菩提の行願となる也」と云う。非可不審、已下如文。
  • 已下皆如文分明也。
  • 「道心」を教うる時は、実(げ)に実(げ)に(なるほど・本当に・注)しき教えをば不信して、他人を恨むる事也。真実の「菩提心を発さん時は、菩提心の発未発、行道不行道等を世人に知られざるべし」と也。今の人の心操には相違すべし。つやつや(まったく・注)発心せぬ者も、発心したるよし造りて振舞う。是即無道心の至るなるべし。能々可知慮事也。
  • 「正法の心術」とは、今の「仏光明とも仏心とも」談ずる、則ち「心術」也。
  • 是は真実の道心を知らざる輩の事を指すなり。「両頭ともに不可愛、恨むべからず」とは此事也。
  • 已下如文、無別子細。
  • 文に分明也。西天に外道二乗等の為に、多く法を破れたる事ありき、其の事を被載歟。然而「外道の勝れたるにあらず、祖師に遠慮なきにあらず、初祖を菩提流支三蔵と光統律師とが奉失と図りし事」を、今被挙也。見于文。三度まで初祖に毒を奉与しき、二度まではつつが無かりき(平穏無事・注)、第三度に当りて、ついに入滅し給いき、不可説事也。
  • 是は次第次第に「学道すすまば、重なるべき」条、勿論事也。
  • 修行の力量おのづから大証国師の乗車して入内す。帝則ち自ら車を引きて入り給う。如此風情世運の達したるに相似せる事もあれども、努々彼を羨(うらや)む事なかれと云う也。「愚人是を悦ぶ、癡犬の枯骨を舐(ねぶ)る」、是は被喩也。已下如文。
  • 「初心に測度せられねばとて、究竟究尽すべからず」と不可思、弥(いよいよ)辦道功夫すべき也と云う心也。「徹地の堂奥は初心の浅識に非ず」とは、方丈の内外などとも可心得歟。然而詮は「徹地の堂奥」とは、仏法究尽の理を可云也。
  • 是は麗しく、真実の心を以て「尋師訪道する」には、「天よりも下り、地よりも涌出す」と云う也。「その接渠の所」とは、法を示す事を云う也。「有情に道取し、無情に道取す。身処に聞き、心処に聞く」、是は打ち任せぬ事也。以耳根聞之常儀也。「身心を以て聞く事」、実に非仏ずは難聞詞也。其の故は、此の「身心を以て、やがて聞と談ずる」とは、是は打ち任せたる聞き様也。「眼処聞声これ何必不必也」とは、「眼処聞声の道理が、何必不必」と云わるる也。是什麽物恁麽来の詞(と)同じ也。「何必不必」の詞は只同じ詞也。「若将耳聴」も、只尋常の心得ようとて、任旧見談ずべきにあらず。以何必理若将耳聴とも可心得也。
  • 此の「自仏他仏、大仏小仏」(は)、皆山色渓声の上の仏也。仍て「驚きを恐れ煩う事なかれ」と云う也。
  • 此の「広長舌、八万偈」の詞は、始めの居士悟道の詞也。渓声山色を見聞して、居士此偈を被結ぬる上は、「渓声山色に広長舌も、八万偈もあるべき」条、無疑。「挙似逈脱、見徹独抜」とは、居士悟道の偈に、夜来八万四千偈、他日如何挙似人とあり。此の「挙似」の詞を被挙也。此の「挙似」の姿が「逈脱なる」也。挙似独立の姿なるべし。「見徹」も又如此。挙似の姿(は)見徹(と)同之也。
  • 「春松秋菊」の詞、ふと出で来るように聞けれども、詮は今は以渓声山色の理、「春松とも秋菊とも」可談也、非凡見。
  • 如文。「此の田地」とは、此の道理に到らん時と云う心地也。已下如文。
  • 文に聞こえたり。「仏祖は一仏祖也、発心も一発心也。此の道理七通八達」と云わるべきか。強為の法にあらず、無始本有の理にあらわるる所が「得便宜とも落便宜」とも云わるる也。
  • 如文可心得。
  • 是は「正信心、正信身、正修の時」とは、真実の発菩提心を指す也。此の時は「渓声山色、又八万四千偈を惜しまざる也」と云うは、我れ懇ろなれば、彼も惜しまぬ道理ある也と云う也。「自己名利身心を不惜すれば、渓山また恁麼の不惜あり」とは、只前の道理なるべし。渓声山色とあるを、ここには「渓声渓色山色山声」とあり、色与声を取り違えたるなり。詮は渓声与山色(の)親切なる時、如此云わるるに相互に障りなきなり。
  • 如文。「たとい現成せしめ、現成せしめずとも云え、渓山の渓山を挙似する」とは、居士の渓山を見聞して、悟道したる道理が、「渓山が渓山を挙似する尽力」と云わるる也。此理なからんは、誰が渓声山色を心得たりと許さんと云う也。

渓声山色(終)

タイ仏歴2565年 入安居日を過ぎし7月15日。 記

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。