正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵第六六 三昧王三昧 註解(聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵第六六 三昧王三昧 註解(聞書・抄)

驀然として尽界を超越して、仏祖の屋裏に太尊貴生なるは、結跏趺坐なり。外道魔儻の頂□(寧+頁)を踏飜して、仏祖の堂奥に箇中人なることは結跏趺坐なり。仏祖の極之極を超越するはただこの一法なり。このゆゑに、仏祖これをいとなみて、さらに余務あらず。

詮慧

〇この名目は教にも如此三昧とは称之。是禅定を三昧と云う也。「王」と云うは三昧の中に取りても勝れたる心地なり。仍って今の打坐を「三昧王三昧」と云う也。但王も大国の王あり小国の王あり。一州を領し、或いは四州を領す。是等を相対するには劣なる王もあれども、其所に取りては勝れたる王と云うべし。仏家には如来・覚王などと称え、三昧も常には定門に付けてこれを云う。或いは海印三昧とも云い、日照三昧・月照三昧などとも云う。今の坐王三昧は尽界を超越して、太尊貴生なりと謂えり。結跏趺坐、又必ず坐禅なるべき条如何。然者又坐禅も何(ぞ)坐(に)限るべき、禅定は外道声聞用之。坐(の)詞(は)世間にもあり。

〇欣上厭下ぞ、数息観、息慮凝心ぞなどと云う。面々禅定とは思えども、今の坐禅には異なるべし。

経豪

  • 是は無別子細。只坐禅を被讃嘆御釈なり。如文。

 

まさにしるべし、坐の尽界と余の尽界と、はるかにことなり。この道理をあきらめて、仏祖の発心・修行・菩提・涅槃を辦肯するなり。

正当坐時は、尽界それ竪なるか横なるかと参究すべし。正当坐時、その坐それいかん。飜巾斗なるか、活々地なるか。思量か不思量か。作か無作か。坐裏に坐すや、身心裏に坐すや。坐裡身心裏等を脱落して坐すや。恁麼の千端万端の参究あるべきなり。

身の結跏趺坐すべし、心の結跏趺坐すべし。身心脱落の結跏趺坐すべし。

詮慧

〇「坐の尽界と余の尽界と、はるかに異なる也」と云うは、余と云うは坐禅の外なり。この坐の時節は、三昧王三昧也。所詮「尽界」と云う詞は、無始無終なり、悟也、坐の尽界と云う是也。不坐尽界とは、世間の事不可及。

〇「それ竪なるか横なるか」と云う、竪横共に坐時は超越の法也。発心・修行・菩提・涅槃も尽界なるべし、仏の修行は尽界也、仏の発心は尽界なりと云うべし。竪横の詞は吾我に対して云わる、定まれる竪横はあるべからず、東西を立てる程の事也。何れも傍らより見る時は、邪(よこさ)まなりと覚ゆるを、立ち廻りて首尾より見る時は、竪横(たてざま)なるなり。

〇「飜巾斗・活鱍々地」と云う事、飜巾斗・活鱍々地ならぬ坐は、世間の坐なるべし。但解脱の上、飜巾斗も不可用となり。正当坐時は必ず飜巾斗と云うべからず。世間に相対して云う時は、飜の字、尤有其謂。今は脱落の上は飜用不得也、何を飜となくとも飜巾斗と可仕。思量も不思量も、作も無作も是程也、飜巾斗・不飜巾斗とも云いぬべし。作も尽界、無作も尽界と談ずべし。身心脱落と云う上は、身裏に生ずやと云わるる也、故に「身の結跏趺坐・心の結跏趺坐・身心脱落の結跏趺坐」と云う也。「脱落」と云う詞は、尽界坐禅の儀を云う也。

経豪

  • 此の詞(は)、一定人の悪しく心得ぬべき御釈也。其の故は坐禅する時の尽界は、座断の尽界にて所用なり。坐禅せぬ人の尽界は徒らなる時節にて、坐の尽界には異なるべしと云うと心得ぬべし。実(に)かかる一筋なかるべきにはあらず。然而如此談ずれば善悪取捨の法に聞こゆ、祖門所談の非本意。是は坐の尽界と談ずるように、眼の尽界も鼻孔の尽界も、乃至頂□(寧+頁)一切の詞に仰せて、此の尽界の道理あるべき事を如此云うなり。必ずしも坐許りの尽界と非可談所を如此云うなり。又発心・修行・菩提・涅槃等を、各別に次第浅深等を立て、談之所を「この道理をあきらめて、仏祖の発心・修行・菩提・涅槃を辦肯する也」とは云う也。発心の所に窮まりて、発心の外に修行・菩提・涅槃あるべからず。修行時は又発心も菩提も涅槃も顕わるべからず、此の道理を云う也。
  • 如御釈、此の正当坐時の姿、竪歟横歟。尽界の上、横竪いづれも其理不可違。又「正当坐時の坐飜巾斗なるか、活鱍々地なるか。思量歟、不思量歟。作か無作か」、是又如前云。正当坐時の上の今の道理、何れも尤もあるべきなり。已(に)坐禅箴の時、此の思量・不思量を坐禅の上にて談じき、今更非可不審。又「坐裏に坐すや、身心裏に坐すや、坐裡・身心裏等を脱落して坐すや」と云う詞、難心得。但「坐裏の坐」とは、只坐の姿なるべし。此の裏の詞、非表裏(の)裏(に)、以坐可云裏。「身心裏」と云うも、只打坐の姿を可云歟。尽十方界真実人体の上の打坐の姿を身心裏とも可云歟。今の道理共を指して「坐裏・身心裏等を脱落して坐す」とも云うべき也。此の道理、今被挙詞許りに限るべからず。六根をも、乃至十八界をも、無尽の詞を云うべき所を、「千端万端の参究あるべき也」とは云うなり。
  • 是は「心の結跏趺坐」と云う事は、未聞及事也。祖門の心は、三界唯心を以て為心故に、心の打坐と云うべきなり。「身心脱落の跏趺坐」と云えば、勝劣なるべきにあらず、只同心也。只身の趺坐、心の趺坐が一なる道理をあらわさん料りに、身心脱落の跏趺坐すべしとは云う也。

 

先師古仏云、参禅者身心脱落也、祗管打坐始得。不要焼香・礼拝・念仏・修懺・看経。

あきらかに仏祖の眼睛を抉出しきたり、仏祖の眼睛裏に打坐すること、四五百年よりこのかたは、ただ先師ひとりなり、震旦国に斉肩すくなし。打坐の仏法なること、仏法は打坐なることをあきらめたるまれなり。

たとひ打坐を仏法と体解すといふとも、打坐を打坐としれる、いまだあらず。いはんや仏法を仏法と保任するあらんや。

しかあればすなはち、心の打坐あり、身の打坐とおなじからず。身の打坐あり、心の打坐とおなじからず。身心脱落の打坐あり、身心脱落の打坐とおなじからず。

既得恁麼ならん、仏祖の行解相応なり。この念想観を保任すべし、この心意識を参究すべし。

詮慧 先師古仏段

〇「念仏・修懺・看経、心の打坐あり、身の打坐と不同」と云う。此の同の字は、二つの物を置きて同と云うにはあらず。一方をあげて今一方と同と仕う、蔵身と仕う程の義なり。同じと云うよりも同じからずと云うこそ、至極親切の義なれ、極之極也。身の結跏趺坐・心の結跏趺坐・身心脱落の結跏趺坐と云う。此身と心と身心と三つを被出事は、心仏及び衆生是三無差別の義なるべし、各跏趺坐となり。同じからずと仕うは、最極の同じなるべし仏に仏は同じ也。故に又不同とも云わる、努々喩えにあらず、似たるにあらざるべし。

〇「念想観を保任すべし」と云うは、世間を離れて仏法の念想観を保任せよと也。「心意識を参究すべし」と云う、又是も世間の心意識にあらざる事を参究すべしとは仕う也。

〇心意識の運転をやめ、念想観の測量をとどむ(坐禅儀の文也)の詞を聞きては、凡夫思わくは、我等が吾我の心をしばらく止むべしと、これ甚無其詮。身心脱落の義をこそ止むとも留むとも仕へ世間に准じて不可得也。

経豪

  • 此の天童の御詞は、看経の時沙汰ありき、今の御釈は天童を讃嘆の御詞也。此の「打坐の仏法なる事、仏法は打坐なる事をあきらめたる希也」とは、此の打坐の力によりて、仏道を成ずべしとのみ、打ち任せては心得たり。今所談の打坐は、成仏を待たざる打坐なるべし。故に明らめたる者まれなりと云う也。「依仏法打坐は成ずる也」と云う詞は、きと打ち任せて人の難云事也。
  • 是は打坐と仏法と一体也。然者打坐は打坐にて尽し、仏法は仏法にて在りなん。必ずしも打坐を仏法ぞと云うても、又仏法は打坐と談じても無詮。只打坐は打坐、仏法は仏法に在りなんと云う心地也。からくして(?)打坐は仏法と体解すれども、今の理を不心得所を、「打坐を打坐と知れる人未だあらず、いわんや仏法と保任するあらんや」とは被釈なり。
  • 是は如前云。心の打坐と云わん時は、身の打坐と不可同、又身の打坐と談ぜん時は、心の打坐と不可同、已前の道理なるべし。「身心脱落の打坐の時、身心脱落の打坐と同じからず」とは、迷を大悟するは諸仏也、悟に大迷なるは衆生也。さらに悟上得悟漢、迷中又迷の漢と云いし詞に同じ。「身の打坐あり、心の打坐と不同。心の打坐あり、身の打坐と不同」と云う詞は、「身心脱落の打坐あり、身心脱落の打坐と不同」と云うは、前の身心打坐の詞を、是程の理ぞと、知らせん為也、非二法。
  • 前に所挙の理を得たらんを、「仏祖の行解相応とは可云也」と也。『普勧坐禅儀』には、「心意識の運転を止め、念想観の測量をとどむ」とて嫌わる。今は「保任し参究すべし」とあり、今の念想観・心意識等は、打坐の心の念想観・心意識なるべし。仏祖行解相応の上の念想観也、心意識也。然者更に非可捨なり。

 

釈迦牟尼仏告大衆言、若結跏趺坐、身心証三昧。威徳衆恭敬、如日照世界。除睡懶覆心、身軽不疲懈、覚悟亦軽便、安坐如龍蟠。見画跏趺坐、魔王亦驚怖。何況証道人、安坐不傾動。

しかあれば、跏趺坐を画図せるを見聞するを、魔王なほおどろきうれへおそるるなり。いはんや真箇に跏趺坐せん、その功徳はかりつくすべからず。しかあればすなはち、よのつねに打坐する、福徳無量なり。

詮慧 釈迦牟尼仏―不傾動。

〇「身心証三昧」と云う、已前の身心脱落の心となり。

〇「威徳衆恭敬」すと云う、此の「衆」は人衆にあらず、もろもろと心得也。「威徳」は坐禅の威徳、これがやがて恭敬なるなり。又坐禅を本にして、威徳を今具するにてはなし。坐する姿(が)威徳なり。

〇「除睡懶覆心」と云う、坐禅なり。故に身軽うして、不疲懈と云う也。

経豪

  • 是は無別子細、如文可心得なり。「跏趺坐を画図せるを見聞するを魔王猶敬怖す、況や真箇に跏趺坐せん、功徳はかりつくすべからず」と云うなり。又此の「福徳無量也」と云うは、世間の福徳と不可心得。今は以仏道福徳と取るべし、以成仏作祖姿(を)、福徳と可取也。経にも見六道衆生貧窮無福徳(慧)(『法華経』序品「大正蔵」九・九中)と云う。是も不知仏法の理を指す歟。

 

釈迦牟尼仏告大衆言、以是故、結跏趺坐。復次如来世尊、教諸弟子、応如是坐。或外道輩、或常翹足求道、或常立求道、或荷足求道、如是狂狷心、没邪海、形不安穏。以是故、仏教弟子、結跏趺坐直身坐。何以故。直身心易正故。其身直坐、則心不懶。端心正意、繋念在前。若心馳散、若身傾動、摂之令還。欲証三昧、欲入三昧、種々馳念、種々散乱、皆悉攝之。如此修習、証入三昧王三昧。あきらかにしりぬ、結跏趺坐、これ三昧王三昧なり、これ証入なり。一切の三昧は、この王三昧の眷属なり。

結跏趺坐は直身なり、直心なり直身心なり。直仏祖なり、直修証なり。直頂□(寧+頁)なり、直命脈なり。

いま人間の皮肉骨髄を結跏して、三昧中王三昧を結跏するなり。

世尊つねに結跏趺坐を保任しまします、諸弟子にも結跏趺坐を正伝しまします、人天にも結跏趺坐ををしへましますなり。七仏正伝の心印、すなはちこれなり。

釈迦牟尼仏菩提樹下に跏趺坐しましまして、五十小劫を経歴し、六十劫を経歴し、無量劫を経歴しまします。あるいは三七日結跏趺坐、あるいは時間の跏坐、これ転妙法輪なり。これ一代の仏化なり、さらに虧欠せず。これすなはち黄巻朱軸なり。ほとけのほとけをみる、この時節なり。これ衆生成仏の正当恁麼時なり。

詮慧 仏言段

〇「証入三昧、王三昧」。外道の僻見に「翹足求道、或常立、或荷足」、是ら皆証據ありし事也。「足を翹(あ)ぐ」と云うは、片足にて立つ行をし、「常立」とは是も両足にて立つ行也。「荷足」とは若葦を荷って行としき。是のみならず、鶏狗の依先業、報命尽きて天上に生ぜしを、外道の通力にて見ては、天上に生ずる業は鶏狗の如くすべかりけりとて鶏狗の真似をしき。或いは仏弟子(の)身に小瘡出で来て痛みしかば衣を脱ぎて、瘡(かさ)を火に炙る事ありき。是を見ては、裸になる外道あり、是を裸形と云う。火に身を炙る者ありき、人々の僻見さまざま也。仏の道を吾我の身心に仰せて心得る、皆是程の事也。断食などと云う事(は)、世間に在り、先縦不慥、真言教(『大日経疏指心鈔』)に断食一昼夜(「不動立印儀軌云、菜食作念誦断食一昼夜、文既以一昼夜不食云、断食故」(「大正蔵」五九・六八四中)と云う事ありと云う。是も念誦を七日するに、反数多き念誦をするが、難終して、食する暇(いとま)も惜しき故に、断食一昼夜と云う歟。是に証據として、何の念誦続経せねども、断食を行と思う(は)、頗る僻見也。断食の要は不可有、唯忘他事、暇惜しむ故許り也。仏乞食しまします時、不乞食得して、鉢空しき事ありき。これは乞食の不叶にてこそあれ、断食を本意とするにあらず。乞食し御にて知るばし、乞食は可食と云う事を。

〇「直身」は脱落身也。非脱落身は曲身と云うべし。

〇「繋念在前」と云う(は)、何事を念にかけよとは云わず。在前とは脱落の義也。

〇「若身傾動令還」と云う(は)、身心脱落の心に還せとなり、唯坐禅是也。思慮念等は必ず、馳散のものなり。いま脱落のみ不動也。

〇「欲証欲入」等は、馳念散乱と云うべし。但今の義は、修するをやがて「証入三昧王三昧」と云う。証入三昧王三昧の証入は、欲証欲入の証入の詞に、超越したる証入なり、ひとしめて心得べからず。

経豪

  • 是又如文。道の所行共を一々に明かさる見于文。外道は法の理には暗くして、只身を苦しめたるを行道とのみ思う故に、徒ら事をば、外道の苦行と常には云う也。仏は結跏趺坐を教え御す。今仏言に、被説「種々馳念・種々散乱・皆悉摂之」とは、皆打坐に被摂て、修め尽す也。此の文を被引事は、三昧王三昧の詞に付けて被引出也。
  • 跏趺坐の道理、如此云わるべき也。「直」の字を皆被置くは、所詮すぐに聊かも錯まる所なく、正直の心地也。何れにも此の直の字わたるべきなり。
  • 此の「人間の皮肉骨髄」とは、我等が皮肉をやがて、三昧王三昧と談ずる也。
  • 如文。
  • 仏成仏の時、「菩提樹下に跏趺坐し給いしはしばらくの事にてこそ在りしを、今は五十小劫、六十劫等を経歴し、或いは無量劫を経歴し、或いは三七など在り」いかなるべきぞ。但此の時・分・劫等(は)長短に拘わる可らず、今更勿論(の)事也。経(『法華文句記』三中)にも六十小劫を以如食頃(「六十小劫謂如食頃」(「大正蔵」三四・二〇七中)などと被説程事也。又「転妙法輪」とは以四辯八音(『阿弥陀経略記』「大正蔵」五七・六七三下)法を説き給うとこそ心得つるを、今は「結跏趺坐、時間の跏坐、これ転妙法輪也」とあれば、今(の)打坐の姿を転法輪とも可談也。又黄紙朱軸の如文、色の経巻とこそ思い習わしつるを、是又打坐の姿を黄紙朱軸也と被釈、旧見破りぬ。「仏の仏を見る、此の時節也」とは、能見所見を置きて談ずるにあらず。今の理、仏の仏を見る道理なるべし。唯仏与仏の理(断り)也。「衆生成仏の正当恁麼時」なるべし。

 

初祖菩提達磨尊者、西来のはじめより、嵩嶽少室峰少林寺にして面壁跏趺坐禅のあひだ、九白を経歴せり。それより頂□(寧+頁)眼睛、いまに震旦国に遍界せり。初祖の命脈、ただ結跏趺坐のみなり。初祖西来よりさきは、東土の衆生、いまだかつて結跏趺坐をしらざりき。祖師西来よりのち、これをしれり。

詮慧

〇「初祖西来より後、是を知れり」と云うは、結跏趺坐事也。諸宗及び外道までも跏趺坐はあり。祖師西来已後知ると難云。然而是転法輪の内にて、坐する事を云う也。身心脱落坐禅の事なり。

経豪

  • 無殊子細、如文。

 

しかあればすなはち、一生万生、把尾収頭、不離叢林、昼夜祗管跏趺坐して余務あらざる、三昧王三昧なり。

経豪

  • 如御釈。「一生万生、把尾収頭」等の詞は、只僧の叢林に跏趺坐する姿を如此云うなり。

 

                                 三昧王三昧(終)

 

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。