正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

十二巻本 第一 「出家功徳」を読み解く     二谷正信               

十二巻本 第一 「出家功徳」を読み解く

                        二谷正信

    一

 龍樹菩薩言、問曰、若居家戒、得生天上、得菩薩道、亦得(至)涅槃。復何用出家戒。答曰、雖倶得度、然有難易。居家生業、種々事務。若欲專心道法家業則癈、若專修家業道事則癈。不取不捨、能〔乃〕應行法、是名爲難。若出家、離俗絶諸忿〔粉〕亂、一向專心行道爲易。復次居家、憒鬧多事多務。結使之根、衆罪〔悪〕之府、是爲甚難。若出家者、譬若有人出在空野無人之處、而一其心、無心〔思〕無慮。内想既除、外事亦去。如偈説。

  閑坐林樹間 寂然滅衆惡 恬澹得一心 斯樂非天樂

  人求富貴利 名衣好床褥 斯樂非安穏 求利無厭足

  衲衣行乞食 動止心常一 自以智慧眼 觀知諸法實

  種々法門中 皆以等觀入 解慧心寂然 三界無能及

以是故知、出家修戒行道、爲(×)甚易。

 復次出家修戒、得無量善律儀、一切具足滿。以是故、白衣等應當出家受具足戒

 復次佛法中、出家法第一難修。

 如閻浮呿提梵志問舎利弗、於佛法中、何者最難。舎利弗答曰、出家爲難。又問、出家有何等難。答曰、出家(×)内樂(法)爲難。既得内樂、復次何者爲難。修諸善法難。以是故應出家。

 復次若人出家時、魔王驚愁言、此人諸結使欲薄、必得涅槃、墮僧寶數中。

 復次佛法中出家人、雖破戒墮罪、罪畢得解脱、如優鉢羅比丘尼本生經中説。佛在世時、此比丘尼、得六神通阿羅漢。入貴人舎、常讚出家法、語諸貴人婦女言、姉妹、可出家。諸貴婦女言、我等少壯、容色盛美、持戒爲難、或當破戒。比丘尼言、破戒便破但出家。問言、破戒當墮地獄、云何何破。答言、墮地獄便墮。諸貴婦女笑之言、地獄受罪、云何可墮。比丘尼言、我自憶念本宿命時、作戲女、著種々衣服而説舊語。或時著比丘尼衣、以爲戲笑。以是因縁故、迦葉佛時、作比丘尼。自恃貴姓端正、心生憍慢、而破禁戒。破(×)禁戒罪故、墮地獄受種々罪。受(罪)畢竟値釋迦牟尼佛出家、得六神通阿羅漢道。以是故知、出家受戒、雖復破戒、以戒因縁故、得阿羅漢道。若但作惡無戒因縁、不得道也。我乃昔時、世々墮地獄、(×)從地獄出爲惡人。惡人死還入地獄、都無所得。今以此證知、出家受戒、雖復破戒、以是因縁、可得道果。

 復次如佛在祇桓、有一醉婆羅門。來到佛所、求作比丘。佛勅阿難、與剃頭著法衣。醉酒既醒、驚怪己身忽爲比丘、即便走去。

 諸比丘問佛、何以聽此(醉)婆羅門作比丘。佛言、此婆羅門、無量劫中、初無出家心、今因醉故、暫發微心。以此〔是〕因縁故、後當出家得道。如是種々因縁、出家之功徳無量。以是白衣雖有五戒、不如出家。

これは『大智度論』巻十三(「大正蔵」二五・一六〇c二八~一六一b二四)からの引用文でありますが、多少の字句の異同がある。本文にその箇所を書き記すが、筆者が参考にした文献は『SAT』「大正大蔵経テキストデータベース」を用いた(()に示すは「大正」に加字あり、〔〕は上記の文字に代わるもの、(×)は下字なし、↔は上下入れ替わり、以下、同)。

 次いで各々に訓読する(『正法眼蔵』四「岩波文庫」水野弥穂子校注を参照、以下同)

「龍樹菩薩言、問曰、若居家戒、得生天上、得菩薩道、亦得涅槃。復何用出家戒。答曰、雖倶得度、然有難易。居家生業、種々事務。若欲専心道法家業則癈、若專修家業道事則癈。不取不捨、能応行法、是名為難。若出家、離俗絶諸忿乱、一向専心行道為易。」

<龍樹菩薩言く、問うて曰く、居家戒の若きは、天上に生ずるを得、菩薩道を得、亦た涅槃を得。復た何ぞ出家戒を用いんや。答えて曰く、倶に得度すと雖も、然も難易有り。居家は生業に、種々の事務あり。若し道法に専心せんと欲せば家業は則ち癈す、若し家業を専修すれば道事は則ち癈す。取らず捨てずして、能く応に法を行ずべし、是れを名づけて難と為す。若し出家なれば、俗を離れて諸の忿乱を絶し、一向専心に行道するを易と為す。>

「復次居家、憒鬧多事多務。結使之根、衆罪之府、是為甚難。若出家者、譬若有人出在空野無人之処、而一其心、無心無慮。内想既除、外事亦去。如偈説。閑坐林樹間、寂然滅衆悪、恬澹得一心、斯楽非天楽。人求富貴利、名衣好床褥、斯楽非安穏、求利無厭足。衲衣行乞食、動止心常一、自以智慧眼、観知諸法実。種々法門中、皆以等観入、解慧心寂然、三界無能及。以是故知、出家修戒行道、為甚易。」

<復た次に居家は、憒鬧(かいにょう)にして多事多務なり。結使之根は、衆罪之府なり、是れを甚だ難と為す。出家は、譬えば若し人有りて出でて空野無人之処に在りて、其の心を一にして、心無く慮無きが若し。内想既に除き、外事亦た去りん。偈に説く如し。林樹の間に閑坐すれば、寂然として衆悪を滅す、恬澹(てんたん)として一心を得たり、斯くの楽しみは天の楽しみには非ず。人の富貴の利、名衣・好い床褥(じょうじょく)を求む、斯くの楽しみは安穏には非ず、利を求めば厭足(えんそく)は無し。衲衣にて乞食を行ぜば、動止し心は常に一なり、自ら智慧の眼を以て、諸法の実を観知す。種々の法門の中に、皆以て等しく観入す、解慧の心の寂然として、三界に能く及ぶもの無し。是れを以ての故に知る、出家して戒を修し行道するを、甚だ易しと為す>

「復次出家修戒、得無量善律儀、一切具足満。以是故、白衣等応当出家受具足戒。復次仏法中、出家法第一難修。如閻浮呿提梵志問舎利弗、於仏法中、何者最難。舎利弗答曰、出家為難。又問、出家有何等難。答曰、出家内楽為難。既得内楽、復次何者為難。修諸善法難。以是故応出家。復次若人出家時、魔王驚愁言、此人諸結使欲薄、必得涅槃、堕僧宝数中。」

<復た次に出家して戒を修すれば、無量の善律儀を得、一切具足にして満つ。是れを以ての故に、白衣等は応当(まさ)に出家して具足戒を受くべし。復た次に仏法の中には、出家の法は第一に修し難し。閻浮呿提(えんぶかだい)梵志(ぼんじ)の舎利弗に問う如き、仏法の中に於ては、何者が最も難しと。舎利弗が答えて曰く、出家は難しと為す。又問う、出家の何等の難き有りや。答えて曰く、出家は内楽を難しと為す。既に内楽を得れば、復た次には何者をか難しと為す。諸の善法を修すは難し。是れを以ての故に応に出家すべし。復た次に若し人が出家する時には、魔王の驚愁して言く、此の人は諸の結使の薄らぐを欲して、必ずや涅槃を得て、僧宝の数中に墮すべし。>

「復次仏法中出家人、雖破戒堕罪、罪畢得解脱、如優鉢羅比丘尼本生経中説。仏在世時、此比丘尼、得六神通阿羅漢。入貴人舎、常讃出家法、語諸貴人婦女言、姉妹、可出家。諸貴婦女言、我等少壮、容色盛美、持戒為難、或当破戒。比丘尼言、破戒便破但出家。問言、破戒当堕地獄、云何何破。答言、堕地獄便堕。諸貴婦女笑之言、地獄受罪、云何可堕。」

<復た次に佛法中の出家人は、破戒して墮罪すと雖も、罪畢れば解脱を得るは、優鉢羅比丘尼本生経の中に説くが如し。仏の在世時は、此の比丘尼は、六神通阿羅漢を得たり。貴人の舎(いえ)に入りて、常に出家の法を讃めて、諸の貴人婦女に語りて言く、姉妹(しまい)、出家す可し。諸の貴婦女の言く、我等は少壮(わかく)して、容色盛美なり、持戒を難しと為す、或いは当に破戒す。比丘尼の言く、戒を破らば便ち破し但だに出家すべし。問うて言く、破戒すれば当に地獄に堕す、云何(いかん)が何(いずれ)を破すや。答えて言く、地獄に堕せば便ち堕すべし。諸の貴婦女は之を笑い言く、地獄では罪を受く、云何が堕す可しか。>

比丘尼言、我自憶念本宿命時、作戲女、著種々衣服而説旧語。或時著比丘尼衣、以為戲笑。以是因縁故、迦葉仏時、作比丘尼。自恃貴姓端正、心生憍慢、而破禁戒。破禁戒罪故、堕地獄受種々罪。受畢竟値釈迦牟尼仏出家、得六神通阿羅漢道。以是故知、出家受戒、雖復破戒、以戒因縁故、得阿羅漢道。若但作悪無戒因縁、不得道也。我乃昔時、世々堕地獄、従地獄出為悪人。悪人死還入地獄、都無所得。今以此証知、出家受戒、雖復破戒、以是因縁、可得道果。」

<比丘尼が言く、我れ自ら本宿命(過去世)の時を憶念するに、戲女と作(な)り、種々の衣服を著して而して旧語(昔語り)を説く。或る時に比丘尼は衣を著して、以て戲笑を為す。是の因縁を以ての故に、迦葉仏の時に、比丘尼と作る。自らの貴姓端正を恃(たの)んで、心に憍慢を生じ、而も禁戒を破す。禁戒を破る罪の故に、地獄に堕し種々の罪を受く。受け畢竟(おわ)りて釈迦牟尼仏に値うて出家し、六神通阿羅漢道を得たり。是を以ての故に知る、出家受戒すれば、復た破戒すと雖も、戒の因縁を以ての故に、阿羅漢道を得る。若し但だに悪を作して戒の因縁が無くば、道は得ざる也。我れ乃ち昔時には、世々に地獄に堕し、地獄より出ては悪人と為る。悪人の死して還た地獄に入りて、都て所得無し。今此れを以て証知す、出家受戒すれば、復た破戒すと雖も、是の因縁を以て、道果を得る可し。>

「復次如仏在祇桓、有一酔婆羅門。来到仏所、求作比丘。仏勅阿難、与剃頭著法衣。酔酒既醒、驚怪己身忽為比丘、即便走去。諸比丘問仏、何以聴此婆羅門作比丘。仏言、此婆羅門、無量劫中、初無出家心、今因酔故、暫発微心。以此因縁故、後当出家得道。如是種々因縁、出家之功徳無量。以是白衣雖有五戒、不如出家。」

<復た次には仏が祇桓(ぎおん)に在すが如き、一(ひとり)の醉婆羅門が有り。仏の所に来り到りて、比丘と作るを求む。仏は阿難に勅して、剃頭と法衣を著せしむ。醉酒から既に醒めて、己が身の忽ちに比丘と為るを驚怪して、即ち便ちに走り去る。諸比丘が仏に問うに、何を以て此の婆羅門を聴(ゆる)して比丘と作ると。仏が言うには、此の婆羅門は、無量劫中に、初めより出家の心は無く、今は醉に因るが故に、暫く微心を発(おこ)す。此の因縁を以ての故に、後には当に出家得道すべし。是(かく)の如くの種々の因縁の、出家の功徳は無量なり。是れを以て白衣に五戒有りと雖も、出家には如(し)かず。>

   二

 世尊すでに醉婆羅門に出家受戒を聽許し、得道最初の下種とせしめまします。あきらかにしりぬ、むかしよりいまだ出家の功徳なからん衆生、ながく佛果菩提うべからず。この婆羅門、わづかに醉酒のゆゑに、しばらく微心をおこして剃頭受戒し、比丘となれり。酒醉さめざるあひだ、いくばくにあらざれども、この功徳を保護して、得道の善根を増長すべきむね、これ世尊誠諦の金言なり、如來出世の本懷なり。一切衆生あきらかに已今當の中に信受奉行したてまつるべし。まことにその發心得道、さだめて刹那よりするものなり。この婆羅門しばらくの出家の功徳、なほかくのごとし。いかにいはんやいま人間一生の壽者命者をめぐらして出家受戒せん功徳、さらに醉婆羅門よりも劣ならめやは。

 轉輪聖王は八萬歳以上のときにいでて四洲を統領せり、七寶具足せり。そのとき、この四洲みな淨土のごとし。輪王の快樂、ことばのつくすべきにあらず。あるいは三千界統領するもありといふ、金銀銅鐵輪の別ありて、一二三四洲の統領あり。かならず身に十惡なし。この轉輪聖王、かくのごときの快樂にゆたかなれども、かうべにひとすぢの白髪おひぬれば、くらゐを太子にゆづりて、わがみ、すみやかに出家し、袈裟を著して山林にいり、修練し、命終すればかならず梵天にむまる。このみづからがかうべの白髪を銀函にいれて、王宮にをさめたり。のちの輪王に相傳す。のちの輪王、また白髪おひぬれば先王に一如なり。轉輪聖王の出家ののち、餘命のひさしきこと、いまの人にたくらぶべからず。すでに輪王八萬上といふ、その身に三十二相を具せり、いまの人およぶべからず。しかあれども、白髪をみて無常をさとり、白業を修して功徳を成就せんがために、かならず出家修道するなり。いまの諸王、轉輪聖王におよぶべからず。いたづらに光陰を貪欲の中にすごして出家せざるは、來世くやしからん。いはんや小國邊地は、王者の名あれども王者の徳なし、貪じてとゞまるべからず。出家修道せば、諸天よろこびまぼるべし、龍神うやまひ保護すべし。諸佛の佛眼あきらかに證明し、隨喜しましまさん。

 戲女のむかしは信心にあらず、戲笑のために比丘尼の衣を著せり。おそらくは輕法の罪あるべしといへども、この衣をそのみに著せしちから、二世に佛法にあふ。比丘尼衣とは袈裟なり。戲笑著袈裟のちからによりて、第二生迦葉佛のときにあふたてまつる。出家受戒し、比丘尼となれり。破戒によりて墮獄受罪すといへども、功徳くちずしてつひに釋迦牟尼佛にあひたてまつり、見佛聞法、發心修習して、ながく三界をはなれて大阿羅漢となれり、六通三明を具足せり、かならず無上道なるべし。

 しかあればすなはち、はじめより一向無上菩提のために、清淨の信心をこらして袈裟を信受せん、その功徳の増長、かの戲女の功徳よりもすみやかならん。いはんやまた、無上菩提のために菩提心をおこし出家受戒せん、その功徳無量なるべし。人身にあらざればこの功徳を成就することまれなり、西天東土、出家在家の菩薩祖師おほしといふとも、龍樹祖師におよばず。醉婆羅門戲女等の因縁、もはら龍樹祖師これを擧して衆生の出家受戒をすすむ、龍樹祖師すなはち世尊金口の所記なり。

 これより本則に対する拈提でありますが、新草本といわれる『十二巻』は明らかに『七十五巻』とは説き方が異なるようである。『七十五巻』は原則的には古則公案と云う禅宗特有なる本則を基本に、聴衆を前にした講義形式と考えられるが、『十二巻』では従来の禅録等も使用されるが、多くはアビダルマ等の仏伝類を使用するは、建長二年(1250)の恐らくは年初に、波多野氏から送附された「大蔵経」をベースに執筆されたのであろう。この「大蔵経安置当山之書到」(通番号361)上堂の経緯は知り難いものの、推測を逞しくすれば宝治二年(1248)三月十四日の鎌倉より帰山(永平寺)の山内衆僧たちの態度から、新たな『正法眼蔵』構想の考えから波多野氏に懇請し、二年の歳月を要して待望の『大蔵経』到来であったろうと考え及ぶ処である。

「世尊すでに酔婆羅門に出家受戒を聴許し、得道最初の下種とせしめまします。あきらかにしりぬ、むかしよりいまだ出家の功徳なからん衆生、ながく仏果菩提うべからず。この婆羅門、わづかに酔酒のゆゑに、しばらく微心をおこして剃頭受戒し、比丘となれり。酒酔さめざるあひだ、いくばくにあらざれども、この功徳を保護して、得道の善根を増長すべきむね、これ世尊誠諦の金言なり、如来出世の本懷なり。一切衆生あきらかに已今當の中に信受奉行したてまつるべし。まことにその発心得道、さだめて刹那よりするものなり。この婆羅門しばらくの出家の功徳、なほかくのごとし。いかにいはんやいま人間一生の寿者命者をめぐらして出家受戒せん功徳、さらに酔婆羅門よりも劣ならめやは」

 これは本則後部に示される「復次如仏在祇桓~不如出家」を元に拈ずるものでありますが、七十五巻『出家』にも同類文である「復次如仏在祇桓、有酔婆羅門~不為解脱」が見られるが、当巻『出家功徳』の出典は『大智度論』に対し『出家』では『止観輔行伝弘決』が採用されるが、『出家』と『出家功徳』との連関性は明らかである。

転輪聖王は八万歳以上のときにいでて四洲を統領せり、七宝具足せり。そのとき、この四洲みな浄土のごとし。輪王の快楽、ことばのつくすべきにあらず。あるいは三千界統領するもありといふ、金銀銅鉄輪の別ありて、一二三四洲の統領あり。かならず身に十悪なし。この転輪聖王、かくのごときの快楽にゆたかなれども、かうべにひとすぢの白髪おひぬれば、くらゐを太子にゆづりて、わがみ、すみやかに出家し、袈裟を著して山林にいり、修練し、命終すればかならず梵天にむまる。このみづからがかうべの白髪を銀函にいれて、王宮にをさめたり。のちの輪王に相伝す。のちの輪王、また白髪おひぬれば先王に一如なり。転輪聖王の出家ののち、餘命のひさしきこと、いまの人にたくらぶべからず。すでに輪王八万上といふ、その身に三十二相を具せり、いまの人およぶべからず。しかあれども、白髪をみて無常をさとり、白業を修して功徳を成就せんがために、かならず出家修道するなり。いまの諸王、転輪聖王におよぶべからず。いたづらに光陰を貪欲の中にすごして出家せざるは、来世くやしからん。いはんや小国辺地は、王者の名あれども王者の徳なし、貪じてとゞまるべからず。出家修道せば、諸天よろこびまぼるべし、龍神うやまひ保護すべし。諸仏の仏眼あきらかに証明し、随喜しましまさん」

 「転輪聖王」とは「偉人の相好としての三十二相を具えた者で、出家すれば仏陀となり、世俗に於いては転輪王と称ずる」(『禅学大辞典』下巻(九〇三頁)。「転輪聖王は八万歳以上~一二三四洲の統領あり」の出典は、『俱舎論』一二(「大正蔵」二九・六四b二五)からの取意で、以下、「随喜しましまさん」)までは、直接的引用ではないにしろ、先の『俱舎論』文をベースに、自身の詞として展開される文体である。

「戲女のむかしは信心にあらず、戲笑のために比丘尼の衣を著せり。おそらくは軽法の罪あるべしといへども、この衣をそのみに著せしちから、二世に仏法にあふ。比丘尼衣とは袈裟なり。戲笑著袈裟のちからによりて、第二生迦葉仏のときにあふたてまつる。出家受戒し、比丘尼となれり。破戒によりて堕獄受罪すといへども、功徳くちずしてつひに釈迦牟尼仏にあひたてまつり、見仏聞法、発心修習して、ながく三界をはなれて大阿羅漢となれり、六通三明を具足せり、かならず無上道なるべし」

 これは本則「復次仏法中出家人~可得道果」に対する拈提であるが、この本則文はすでに『袈裟功徳』(仁治元年(1240)開冬日)にて同文が示されるが、同年同日つまり十月一日に書かれた『伝衣』を七十五巻に、新草十二巻には『袈裟功徳』が編入せられる。

 比丘尼に関する道元禅師(以下、道元と略す)の言動(明)を幾つか扱うならば、『礼拝得髄』にて示される、「志閑禅師と末山尼了然」「仰山慧寂と妙信尼」との関係性、さらには道元在宋時に於ける「比丘尼の掛搭」状況等が延応二年の三月七日には興聖寺にて記され、また越前大仏寺では寛元四年(1246)の四月乃至五月頃の上堂(通番号161)には「恵信比丘尼」が自身の先考(亡父)に対する説法を請い、さらには晩年に於ける永平寺での上堂にても、「懐義比丘尼」は自身の先妣(亡母)に対する説法を道元に請う上堂(通番号391)が、建長二年(1250)九月下旬頃に筆録された状況等を思い浮かべるならば、道元の道場には通時処に於いて「比丘尼」は共々に比丘僧と同等に参学辦道した事実が明らかとなる。

 道元の生きた十三世紀の禅界に於いて然る状況であるにも拘らず、現今の二十一世紀の世に於いては、右の状況を知ってか知らずか、曹洞宗大本山と称される永平寺山内に於いては、掛搭した「比丘尼」は見受けられず、却って雲衲が視座する「比丘尼」は性対象としての女人である事実は如何に捉えるべきであろうか。

「しかあればすなはち、はじめより一向無上菩提のために、清浄の信心をこらして袈裟を信受せん、その功徳の増長、かの戲女の功徳よりもすみやかならん。いはんやまた、無上菩提のために菩提心をおこし出家受戒せん、その功徳無量なるべし。人身にあらざればこの功徳を成就することまれなり、西天東土、出家在家の菩薩祖師おほしといふとも、龍樹祖師におよばず。醉婆羅門戲女等の因縁、もはら龍樹祖師これを挙して衆生の出家受戒をすすむ、龍樹祖師すなはち世尊金口の所記なり」

 前処では比丘尼となる因縁譚として比丘尼衣つまり「袈裟」の重要性が説かれ、引き続き此処でも「清浄の信心をこらして袈裟を信受せん」と、論題を袈裟に振り向け、さらには「無上菩提のために菩提心をおこし出家受戒せん」と示唆する論調は、次(第二)に説く「受戒」そして第三の「袈裟功徳」に対する伏線としての語法と推察できるものであり、本則に対する最終の言としては「衆生出家受戒をすすむ(は)、龍樹祖師すなはち世尊金口の所記なり」と、結語される次第である。

   三

世尊言、南洲有四種最勝。一見佛、二聞法、三出家、四得道。あきらかにしるべし、この四種最勝、すなはち北洲にもすぐれ、諸天にもすぐれたり。いまわれら宿善根力にひかれて最勝の身をえたり、歡喜隨喜して出家受戒すべきものなり。最勝の善身をいたづらにして、露命を無常の風にまかすることなかれ。出家の生々をかさねば、積功累徳ならん。

「世尊言、南洲有四種最勝。一見佛、二聞法、三出家、四得道」

この出典録は『資行鈔』「食残宿食戒」三十八での「問、北方無仏法、何有残宿食。答、北方無法多分為言、不妨仏化通被四州。業疏云、南州具四縁、且拠一相耳、一見仏、二聞法、三出家、四得道」(「大正蔵」六二・六二二b一八)からの文言「南州具四縁」→「南洲有四種最勝」に改変させての提出となる。

「あきらかにしるべし、この四種最勝、すなはち北洲にもすぐれ、諸天にもすぐれたり」

 この拈提部は前出「北方無法」を承けてのものと思われるが、筆者の少分の知見にては、この本則出典を明言した眼蔵解説書はなく、これも「SAT大正大蔵経テキストデータベース」を利用しての御蔭であります。

 ここでも先程と同様に「歓喜随喜して出家受戒すべきものなり」と次巻での「受戒」に言及され、七十五巻とは別趣の文意を伴うもののようです。

「いまわれら宿善根力にひかれて最勝の身をえたり、歡喜隨喜して出家受戒すべきものなり。最勝の善身をいたづらにして、露命を無常の風にまかすることなかれ。出家の生々をかさねば、積功累徳ならん」

文の如くに解すれば良い。このフレーズは『修証義』に見出される処である。

 

 世尊言、於佛法中、出家果報不可思議。假使有人起七寶塔、高至三十三天、所得功徳、不如出家。何以故。七寶塔者、貪惡愚人能破壞故。出家功徳無有壞毀。是故若教男女、若放奴婢、若聽人民、若自己身、出家入道者、功徳無量。

 世尊あきらかに功徳の量をしろしめして、かくのごとく校量しまします。福増これをきゝて、一百二十歳の耄及なれども、しひて出家受戒し、少年の席末につらなりて修練し、大阿羅漢となれり。

 しるべし、今生の人身は、四大五蘊、因縁和合してかりになせり、八苦つねにあり。いはんや刹那刹那に生滅してさらにとゞまらず、いはんや一彈指のあひだに六十五の刹那生滅すといへども、みづからくらきによりて、いまだしらざるなり。すべて一日夜があひだに、六十四億九萬九千九百八十の刹那ありて五蘊生滅すといへども、しらざるなり。あはれむべし、われ生滅すといへども、みづからしらざること。この刹那生滅の量、たゞ佛世尊ならびに舎利弗とのみしらせたまふ。餘聖おほかれども、ひとりもしるところにあらざるなり。この刹那生滅の道理によりて、衆生すなはち善惡の業をつくる、また刹那生滅の道理によりて、衆生發心得道す。

 かくのごとく生滅する人身なり、たとひをしむともとゞまらじ。むかしよりをしんでとゞまれる一人いまだなし。かくのごとくわれにあらざる人身なりといへども、めぐらして出家受戒するがごときは、三世の諸佛の所證なる阿耨多羅三藐三菩提、金剛不壞の佛果を證するなり。たれの智人か欣求せざらん。これによりて、過去日月燈明佛の八子、みな四天下を領する王位をすてて出家す。大通智勝佛の十六子、ともに出家せり。大通入定のあひだ、衆のために法華をとく、いまは十方の如來となれり。父王轉輪聖王の所將衆中八萬億人も、十六王子の出家をみて出家をもとむ、輪王すなはち聽許す。妙莊嚴の二子ならびに父王夫人、みな出家せり。

 しるべし、大聖出現のとき、かならず出家するを正法とせりといふこと、あきらけし。このともがら、おろかにして出家せりといふべからず、賢にして出家せりとしらば、ひとしからんことをおもふべし。今釋迦牟尼佛のときは、羅睺羅阿難等みな出家し、また千釋の出家あり、二萬釋の出家あり、勝躅といふべし。はじめ五比丘出家より、をはり須跋陀羅が出家にいたるまで、歸佛のともがらすなはち出家す。しるべし、無量の功徳なりといふこと。

 しかあればすなはち、世人もし子孫をあはれむことあらば、いそぎ出家せしむべし。父母をあはれむことあらば、出家をすゝむべし。かるがゆゑに偈にいはく、

  若無過去世 應無過去佛 若無過去佛 無出家受具

 この偈は、諸佛如來の偈なり、外道の過去世なしといふを破するなり。しかあればしるべし、出家受具は過去諸佛の法なり。われらさいはひに諸佛の妙法なる出家受戒するときにあひながら、むなしく出家受戒せざらん、何のさはりによるとしりがたし。最下品の依身をもて、最上品の功徳を成就せん、閻浮提および三界の中には最上品の功徳なるべし。この閻浮の人身いまだ滅せざらんとき、かならず出家受戒すべし。

 

「世尊言、於仏法中、出家果報不可思議。仮使有人起七宝塔、高至三十三天、所得功徳、不如出家。何以故。七宝塔者、貪悪愚人能破壊故。出家功徳無有壊毀。是故若教男女、若放奴婢、若聴人民、若自己身、出家入道者、功徳無量」

<世尊言わく、仏法の中に於ては、出家の果報は不可思議なり。仮使(たと)い人が有って七宝の塔を起て、高さ三十三天に至るも、得る所の功徳は、出家には如(し)かず。何を以ての故に。七宝の塔は、貪悪の愚人が能く破壊するが故に。出家の功徳は壊毀すること有る無し。是の故に若しは男女を教え、若しは奴婢を放(ゆる)し、若しは人民を聴(ゆる)し、若しは自己の身にて、出家入道するは、功徳無量なり>

 この出典籍は『賢愚経』四と考えられるが、「(世尊言)、於仏法中出家果報不可思議。乃至涅槃、福故不尽。仮使有人起七宝塔高至三十三天所得功徳不如出家何以故七宝塔者貪悪愚人能破壊故」(「大正蔵」四・三七六b一一)+(〔出家功徳無有壊毀、是故〕は道元独自の添文)+「爾時世尊、讃歎出家、功徳因縁其甚多。男女若放奴婢若聴人民若自己身出家入道者功徳無量」(「大正蔵」四・三七六b六)とする混合文によるものである。

「世尊あきらかに功徳の量を知ろ示して、かくの如く校量しまします。福増これを聞きて、一百二十歳の耄及なれども、しひて出家受戒し、少年の席末に連なりて修練し、大阿羅漢となれり」

 本則だけを分析しても、此処での「福増これを聞きて、一百二十歳」の文言は理解できず、出典籍より下方に掲載される「爾時世尊、在王舍城迦蘭陀竹園。時王舍城、有一長者。名尸

利苾提、秦言福増、其年百歳。聞出家功徳如是無量」(「同」三七六c一五)を承けての解説でありましょうが、拈提文では「一百二十歳」と記載することから、現在の我々が利用する「大蔵経」とは異なる版本を用いたのであらう。

「知るべし、今生の人身は、四大五蘊、因縁和合して仮りになせり、八苦常にあり。いはんや刹那刹那に生滅してさらに止まらず、いはんや一弾指の間に六十五の刹那生滅すといへども、みづから暗きによりて、未だ知らざるなり。すべて一日夜が間に、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて五蘊生滅すといへども、知らざるなり。あはれむべし、われ生滅すといへども、みづから知らざること。この刹那生滅の量、たゞ仏世尊ならびに舎利弗とのみ知らせたまふ。餘聖多かれども、ひとりも知るところにあらざるなり。この刹那生滅の道理によりて、衆生すなはち善悪の業をつくる、また刹那生滅の道理によりて、衆生発心得道す」

 「今生の人身」とは、現在を生かされている「身体」の成り立ちは「四大五蘊」つまり「地・水・火・風」に代表される最小単位と「色・受・想・行・識」と謂われる身体に附随した感覚器官が、それぞれに「因縁和合」しての仮りの現象であり、そこには「生・老・病・死」の根源的苦+「愛別離・怨憎会・求不得・五蘊盛」とする生活上の苦の「八苦」が常在している。と説明されるが、現今に於ける我々の科学的(常識的)知識に基づけば、この人体を構成する素粒子を結び付けているのは「強い力(グルーオン)と云われ、そう簡単には分離できず、その強力な「因縁和合(電磁気力の100倍)」を強引に分裂させた副産物が核兵器であり、原子炉による発電である事を考えれば、単なる「因縁和合」ではない事に気付くはずです。

 さらに「刹那刹那に生滅して、さらに止まらず」とは、世上で謂われる動的平衡(dynamic equilibrium)なる状態とも置き替えられ、まさに生滅(生死)は分割して考えるものではなく、生滅不二である訳です。その状況下では「一弾指(一秒間)の間に六十五の刹那生滅」とは一秒間に65回の入れ替わりがあり、その数の総量は「六十四億九万九千九百八十の刹那あり」と説かれるのであるが、(65×60×60×24)として計算すると(5616000)五百六十一万六千刹那となるが、この場合の「六十四億」は、無量数を喩えるものであるから、問題はなかろう。

 因みに「一弾指の間に六十五の刹那」は『俱舎論疏』十二「亦不能顕刹那極少無前後分、如一弾指頃六十五刹那」(「大正蔵」四一・六二〇b二〇)、「すべて一日夜が間に、六十四億九万九千九百八十の刹那ありて五蘊生滅す」は『阿毘達磨大毘婆沙論』三十九「謂一昼夜總有六十四億九万九千九百八十刹那五蘊生滅。若一一刹那皆有屍骸」(「大正蔵」二七・二〇二c七)が該当する典籍である。

 道元の解説によれば、この刹那生滅の正体を知り得る者は釈尊ならびに舎利弗のみであり、我々衆生(凡俗)のしり及ばざる領域であるが、「この刹那生滅の道理によりて、善悪の業をつくる」こともあれば、一方では「此の道理によりて、発心得道」の因縁をも為すものである。と、一見矛盾めいた言い方ではあるが、謂わんとする趣意は、「善悪の業」は悪、「発心得道」は善。とのレッテル貼りには意味はなく、現今の時空間では「善悪」も「虚実」もなくメビウスの帯の如くに、常に「生滅」が入れ替わり恒常性を保ち続ける状況を見極める修行をせよ。との深読みは、悪業を作り得る道理でありましょうか。

「かくのごとく生滅する人身なり、たとひ惜しむともとゞまらじ。昔より惜しんで留まれる一人いまだ無し。かくの如くわれにあらざる人身なりといへども、めぐらして出家受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提、金剛不壊の仏果を証するなり。たれの智人か欣求せざらん。これによりて、過去日月灯明仏の八子、みな四天下を領する王位を捨てて出家す。大通智勝仏の十六子、ともに出家せり。大通入定のあひだ、衆のために法華を説く、いまは十方の如来となれり。父王転輪聖王の所将衆中八万億人も、十六王子の出家を見て出家を求む、輪王すなはち聴許す。妙荘厳の二子ならびに父王夫人、みな出家せり」

 これまで詳述して来たように、生滅を繰り返すことで今生の人身が維持できる訳であるから、「昔より惜しんで留まれる一人いまだ無し」は誰もが納得済みである。理性が納得しなくても真実なる人体が納得し続けているのであります。

このように瞬時に入れ替わる時処には自我が存在し得ないことを「われにあらざる人身」とは云いつつも、機縁を巡らして「出家受戒するならば、仏果を証するなり」とは、『修証義』にて在家信者を説き伏せる論法ではあるが、『修証義』では単なる言列の表態である為、道元の説かんとする言霊とは言い難しの観である。

「過去日月灯明仏の八子、みな四天下を領する王位を捨てて出家す」とは、『法華経』「序品」で云う「次復有仏、亦名日月灯明・・其最 後仏未出家時、有八王子。一名有意、二名

善意・・是八王子、威徳自在、各領四天下。是諸王子・・悉捨王位亦随出家、発大乗意、常修梵行」(「大正蔵」九・三c二六)を云い、「大通智勝仏の十六子、ともに出家せり」とは「化城喩品」での「仏告諸比丘、大通智勝仏、寿五百四十万億」(「同」二二b一九)+「見十六王子出家、亦求出家、王即聴許」(「同」二五a二六)の合楺とし、「大通入定のあひだ、衆のために法華を説く、いまは十方の如来となれり。父王転輪聖王の所将衆中八万億人も、十六王子の出家を見て出家を求む、輪王すなはち聴許す」は同品中の「大通智勝仏、過八万四千劫已。従三昧起、往詣法座、安詳而坐・・説是妙法蓮華経・・於十方国土。現在説法」(「同」二五b一〇)+「爾時転輪聖王、所将衆中、八万億人、見十六王子出家、亦求出家王即聴許」(「同」二五a二五)と合成した文章とし、「妙荘厳の二子ならびに父王夫人、みな出家せり」は「妙荘厳王品」からの「其王即時、以国付弟、与夫人二子、并諸眷属、於仏法中、出家修道」(「同」六〇b二六)。

 このように『賢愚経』の本則を用いながら「法華文」を縦横に使い分ける辺りは、いかにも法華に精通した道元の面目躍如たる処でありましょう。

「知るべし、大聖出現のとき、必ず出家するを正法とせりといふこと、あきらけし。このともがら、愚かにして出家せりといふべからず、賢にして出家せりと知らば、等しからんことを思ふべし。今釈迦牟尼仏のときは、羅睺羅阿難等みな出家し、また千釈の出家あり、二万釈の出家あり、勝躅といふべし。はじめ五比丘出家より、をはり須跋陀羅が出家に至るまで、帰仏のともがら即ち出家す。知るべし、無量の功徳なりといふこと」

 法華で説く「日月灯明仏・大通智勝仏・妙荘厳王」などの例が示すように、これらの大聖たちの出現時には、「出家」が伴うことは明らかな事実である。釈迦仏在世時には実子「羅睺羅」(らごら・パーリ語ではラーフラ)、従弟「阿難」(あなん・パーリ語ではアーナンダ)などの大聖の出家がある。

 「千釈の出家、二万釈の出家あり」の出典は『善見律毘婆沙』十七「是時央伽(アンガ)摩竭(マガダ)国、有十千比丘。従迦維羅衛国来、迎仏者、有十千比丘。都合二万比丘、皆得阿羅漢」(「大正蔵」二四・七九〇c一三)を援用し、これらの「勝躅」つまり「すぐれたあとかた」であると云う。

 「はじめ五比丘出家より」の文言は「同経」十七からの「往波羅㮈国、転四諦法輪、度阿若憍陳如等五人出家、今住摩竭国」(「同」七九〇b一三)、最後の仏弟子である「須跋陀羅」(スバッダラ)に関しても「同経」である『善見律毘婆沙』一には「如来初成道、於鹿野苑四諦法輪、最後説法度須跋陀羅」(「同」二四・六七三b二三)と記されるが、このように釈尊に帰依する人々=出家は「無量の功徳なり」と各出家譚を説かれる。

「しかあれば即ち、世人もし子孫を哀れむことあらば、急ぎ出家せしむべし。父母を哀れむことあらば、出家を勧むべし。かるがゆゑに偈にいはく、若無過去世、応無過去仏。若無過去仏、無出家受具。この偈は、諸仏如来の偈なり、外道の過去世なしといふを破するなり。しかあれば知るべし、出家受具は過去諸仏の法なり。我ら幸いに諸仏の妙法なる出家受戒する時に逢いながら、虚しく出家受戒せざらん、何の障りによると知り難し。最下品の依身をもて、最上品の功徳を成就せん、閻浮提および三界の中には最上品の功徳なるべし。この閻浮の人身いまだ滅せざらん時、必ず出家受戒すべし」

 ここでの「若無過去世、応無過去仏。若無過去仏、無出家受具」(若し過去世が無いなら、応に過去仏も無い。若し過去仏が無いなら、出家の受具も無し)。この偈の出典は『阿毘達磨大毘婆沙論』(以下『毘婆沙論』と略称)七十六での「若無過去、応無過去仏。若無過去仏、無出家受具」(「大正蔵」二七・三九三b一五)の文言を引用するものであるが、「執」→「無」に改変するは、原文では「過去が無いことに執着」し、過去と現世を比較対象とする観方を払拭する為に、敢えて原文を変えたのであろうか。因みに中途にて『毘婆沙論』を引用する意図は、次に説く本則に対する伏線とも云うべきもののようです。

 再三述べるように、原文の『毘婆沙論』での「若執」では物足りなく、敢えて「若」に改変してまで、「過去世なし」の見方には従えず、過去から現在、そして未来へと仏種の嗣続されるを理想世としたのであろう。因みに「出家受具」なる語は『SAT』にて検索すると、七百か所以上に引載されて居り、如何に仏道に於ける具足戒を受する事が出家である。とは、自然外道的な修道者とは一線を画する道元の言い分であろう。

 ここで気になる文章がある。「最下品の依身をもて、最上品の功徳を成就せん」とする文意自体は理解できるものの、旧来の七十五巻では随処に真実人体なる語で以て正法を解き明かす、キーワードとして使用されたが、謂わゆる新草十二巻では一フレーズの使用もなく、却って「最下品」に位置づける手法は、いかなる趣意であろう歟。

   四

古聖云、出家之人、雖破禁戒、猶勝在俗受持戒者。故經偏説、勸人出家、其恩難報。復次、勸出家者、即是勸人修尊重業。所得果報、勝琰魔王輪王帝釋。故經偏説、勸人出家、其恩難報。勸人受持近事戒等、無如是事、故經不證。

 しるべし、出家して禁戒を破すといへども、在家にて戒をやぶらざるにはすぐれたり。歸佛かならず出家受戒すぐれたるべし。出家をすゝむる果報、琰魔王にもすぐれ、輪王にもすぐれ、帝釋にもすぐれたり。たとひ毘舎首陀羅なれども、出家すれば刹利にもすぐるべし。なほ琰魔王にもすぐれ、輪王にもすぐれ、帝釋にもすぐる。在家戒かくのごとくならず、ゆゑに出家すべし。

 しるべし、世尊の所説、はかるべからざるを。世尊および五百大阿羅漢、ひろくあつめたり。まことにしりぬ、佛法におきて道理あきらかなるべしといふこと。一聖、三明六通の智慧、なほ近代の凡師のはかるべきにあらず、いはんや五百の聖者をや。近代の凡師らがしらざるところをしり、みざるところをみ、きはめざるところをきはめたりといへども、凡師らがしれるところ、しらざるにあらず。しかあれば、凡師の黒闇愚鈍の説をもて、聖者三明の言に比類することなかれ。

 婆沙一百二十云、發心出家尚名聖者、況得忍法。しるべし、發心出家すれば聖者となづくるなり。

 

「古聖云、出家之人、雖破禁戒、猶勝在俗受持戒者。故経偏説、勧人出家、其恩難報。復次、勧出家者、即是勧人修尊〔貴〕業。所得果報、勝琰魔王輪王帝釈。故経偏説、勧人出家、其恩難報。勧人受持近事戒等、無如是事、故経不〔説〕」

<古聖が云うには、出家之人は、禁戒を破ると雖も、猶お在俗にて戒を受持する者にも勝る。故に経に偏(ひとへ)に説く、人に勧めて出家せしむは、其の恩は報い難し。復た次に、出家を勧める者は、即ち是れは人を勧めて尊重業を修せん。所得の果報は、琰魔王・輪王・帝釈にも勝る。故に経に偏に説くは、人を勧めて出家せしむる、其の恩は報い難し。人を勧めて近事戒等を受持せしめんには、是の如くの事は無く、故に経には証せず>

 この出典籍は前言に同じく『毘婆沙論』六十六(「大正蔵」二七・三四三b二九)ですが、―部「貴」→「重」に、「説」→「証」と二か所のみの改変となります。

「知るべし、出家して禁戒を破すといへども、在家にて戒を破らざるには勝れたり。帰仏必ず出家受戒すぐれたるべし。出家をすゝむる果報、琰魔王にもすぐれ、輪王にもすぐれ、帝釈にもすぐれたり。たとひ毘舎首陀羅なれども、出家すれば刹利にもすぐるべし。なほ琰魔王にもすぐれ、輪王にもすぐれ、帝釈にもすぐる。在家戒かくのごとくならず、ゆゑに出家すべし」

 このように説かるる論理は未だに会得できぬ処であるが、その極端な例が、日本仏教界では破れ大乗とも称され、〔出家の破戒は在家の持戒より勝れたり〕の言上が一寺の僧侶と称さる人物から得意げ(ドヤ顔)に聞き及ぶは、まことに天上に唾を吐くものである事を自覚し得ない外道漢と言うべきでありましょう。もちろん此処では、経文の解釈ですから、「帰仏」つまり仏法に帰依するは必然的に「出家受戒」に直結するとの、道元解釈が理に叶ったものであります。

 「出家を勧むる果報は、琰魔王・輪王・帝釈にもすぐる」は経意の通りでありますが、「たとひ毘舎・首陀羅なれども、出家すれば刹利にもすぐるべし」とは道元のコメントでありますが、つまり「毘舎・首陀羅・刹利」とはインド・カースト(ジャーティ)の呼称である「バラモン(婆羅門)・クシャトリヤ(刹利)・ヴァイシャ(毘舎)・シュードラ(首陀羅)」を云うが、シュードラは昔は奴隷または隷民階級などと称されたが、現在では「労働者」と訳されるようである。

 「なほ琰魔王にもすぐれ、輪王にもすぐれ、帝釈にもすぐる」の文句は重言されて居り、これは書写ミスにより重複された文言が伝写されたものであろう歟。在家であるならば、世の常態であるヒエラルキーを超過し得るハタラキはないのであるから、「出家すべし」と果報の道理を説かる。

 現在のインド文化圏の国々では、法律的にはカースト制は禁止されてはいるものの、筆者が四十数年前に滞在した「ネパール王国(2023年現在は「ネパール」と表記)」に於ける其の当時(法律では差別は禁止されていた)は、極度にカースト(彼らはjatiと呼んでいた)を意識し、公言はしないまでも暗黙の諒解の元では、同カーストしか共食はしない。サヒ(肉屋、屠殺業)と云うカーストとは友人であろうが、家族が集う台所(最上階に位置する)には案内しない。と云った慣習が四十年前の「ネパール」では顕在化していた事が想い出される。

「知るべし、世尊の所説、はかるべからざるを。世尊および五百大阿羅漢、広くあつめたり。まことに知りぬ、仏法におきて道理あきらかなるべしといふこと。一聖、三明六通の智慧、なほ近代の凡師のはかるべきにあらず、いはんや五百の聖者をや。近代の凡師らが知らざるところを知り、見ざるところを見、きはめざるところをきはめたりといへども、凡師らが知れるところ、知らざるにあらず。しかあれば、凡師の黒闇愚鈍の説をもて、聖者三明の言に比類することなかれ」

 「世尊の所説、はかるべからざるを。世尊および五百大阿羅漢、広くあつめたり」とは、「『毘婆沙論』二百巻もの大部は、紀元百~百五十年の頃に、迦湿弥羅有部の宗義を確立する為、大阿羅漢によって、造られた」(『正法眼蔵』四・水野弥穂子校注・「岩波文庫」・七十五頁)であるとの記載を参照する。

 「近代の凡師」は誰を比定されるのか、北宋時代の大慧宗杲(1089―1163)もしくは日本に於ける天台僧徒のような本覚ぼこりを指すかは定かではないが、その「凡師」は三明(宿命明・天眼明・漏尽明)六通(神足通・天眼通・天耳通・他心通・宿命通・漏尽通)の智慧は明らかに出来ず、

な師匠の黒闇愚鈍な説明と、聖者の三明を明らめた言辞とは比べものにならないのである。

「婆沙一百二十云、発心出家尚名聖者、況得忍法。知るべし、発心出家すれば聖者と名づくるなり」

 これは『毘婆沙論』一百二十(「同」六二六a二一)からの引用になる。

   五

釋迦牟尼佛五百大願のなかの第一百三十七願、我未來、成正覺已、或有諸人、於我法中欲出家者、願無障礙。所謂羸劣失念、狂亂憍慢、無有畏懼、癡無智恵、多諸結使、其心散亂、若不爾者、不成正覺。第一百三十八願、我未來、成正覺已、若有女人、欲於我法出家學道、受大戒者、願令成就。若不爾者、不成正覺。第三百十四願、我未來、成正覺已、若有衆生、少於善根、於善根中、心生愛樂、我當令其於未來世、在佛法中、出家學道。安止令住梵淨十戒。若不爾者、不成正覺。しるべし、いま出家する善男子善女人、みな世尊の往昔の大願力にたすけられて、さはりなく出家受戒することをえたり。如來すでに誓願して出家せしめまします、あきらかにしりぬ、最尊最上の大功徳なりといふことを。

 

釈迦牟尼仏五百大願のなかの第一百三十七願、我未来、成正覚已、(或有諸人、於我法中欲出家者、願無障礙。所謂羸劣失念、狂乱憍慢、無有畏懼、癡無智恵、多諸結使、其心散乱)、若不爾者、不成正覚」(()部『悲華経』六(「大正蔵」三・二〇八b一五)

<我れ未来に、正覚を成じ已らんに、或(も)し諸人有って、我が法中に於て出家せんと欲(おも)う者は、願う障礙無からん。所謂、羸劣(るいれつ)・失念・狂乱・憍慢にして、畏懼(いく)有ること無く、癡にして智恵無く、諸の結使多く、其の心は散乱す。若し爾(しか)らざる者は、正覚は成ぜず>

 此処よりは『悲華経』を引用する訳であるが、この経典は、道元の引用のなかでは特異な位置づけが出来得るものである。先ずは<悲華経>について簡略な説明をするに、「<悲華経>は阿弥陀仏や阿閦仏等の浄土を選び取る諸仏に対して、穢土成仏を誓う釈迦仏の優位を宣説する経典」(『<悲華経>の研究―釈迦五百誓願を中心として』石上和敬氏、博士論文、冒頭を参照)であり、また「『悲華経』の教説の中心は、阿弥陀仏と釈迦仏の本生説話を物語ることで、宝海梵志は一人、五百の誓願を発して、五濁悪世の穢土に成仏することを願い、穢土を摂取するものこそ、分陀利の如きものであるとして、宝海梵志を大悲菩薩と讃える。また明恵(1173―1232)上人の『摧邪輪』には「依悲華経意・・弥陀如来、依釈迦勧化、値宝蔵仏、発菩提心」と説いて『悲華経』の本生説話を引く」(「親鸞と『悲華経』」菅野隆一著・参照)とある二氏の論説を紹介した。

 最初に提示した原文に引いた前後のー部は道元の添加したもので、「或有諸人~其心散乱」部は『悲華経』六(「大正蔵」三・二〇八b一五)に該当する。

第一百三十八願、我未来、成正覚已、若有女人、欲於我法出家学道、受大戒者、願令成就。若不爾者、不成正覚」(「同」二〇八b一七)

<第一百三十八願に、我れ未来に、正覚を成じ已らんに、若し女人有りて、我が法に於て出家学道し、大戒を受けんと欲(ねが)う者は、願いを成就せしめん。若し爾わざる者は、正覚は成ぜじ>

 此処は前処の続きで、五百大願の第138番目が示されるもの。「願令成就」は「SATデータベース」では「成就大願」と入れ替える形を取る。(―部は道元によるもの)

第三百十四願、我未来、成正覚已、若有衆生、少於善根、於善根中、心生愛楽、我当令其於未来世、在仏法中、出家学道。安止令住梵浄十戒若不爾者、不成正覚」(「同」二一一b六)

<第三百十四願に、我れ未来に、正覚を成じ已らんに、若し衆生有りて、善根に少(か)け、善根の中に於て、心は愛楽を生ず、我れ当に令其をして未来世に於て、仏法の中に在ては、出家学道せよ。安止して梵浄の十戒に住せしめよ。若し爾らざる者は、正覚を成ぜず>

 最初は第137願と第138願と連番の扱いであったが、一気に178願越えの第314願の五百大願になった訳だが、この137・138・314の番号(カウント)は当然ながら、道元が参考にした大蔵経(これは恐らく波多野幕閣が建長二年(1250)初頭永平寺に寄進した蔵経が底本であったろう)には書き添えてあったとは考えづらく、自身が一項目毎に通し番号を附したものか、この点いかがなものか。

 また『悲華経』を用いた「巻」は当巻以外では新草十二巻本中の『袈裟功徳』(「大正蔵」三・二二〇a一〇)のみであるが、『袈裟功徳』と同類に当る『伝衣』とは共に仁治元年(1240)開冬日に於いて、『袈裟功徳』は示衆として、『伝衣』は記として示された事が奥書にて確認できる。

 そこで問題の『悲華経』であるが、これは先程の幕閣であった波多野義重(―1258)が寄進した大蔵経を底本としたのであれば、『袈裟功徳』の奥書の日付とは齟齬が生じる事になるのであるが、『袈裟功徳』を新草本に組み込むに当り、仁治元年当時の草稿に手を加えたのではと、考える次第である。

 いま一つの見直しは、『伝衣』にて説く「九条衣、三長一短」「十五条衣、四長一短」の箇所が、『袈裟功徳』にてはー部を「両長一短三長一短」にと詳しく述べる根拠は、『根本説一切有部百一羯磨』巻十(「大正蔵」二四・四九七a一七)を利用した事情から察すると、この『百一羯磨』経典も波多野請来の大蔵経を援用したものと考えられるのである(もちろん旧草七十五巻では『百一羯磨』の引用は見られない)。

 このように『悲華経』に関する考察を長々と述べている理由は、旧草七十五巻と新草十二巻との関係を分断して考える向きの人達も居るが、『悲華経』の眼蔵引用の例からも窺いすれる如くに、京都興聖―越前吉峰―大仏―永平の各時代に於ける道元正法眼蔵に対する態度には、少なからずも一貫した連続性が見られる様子を記す次第である。

「知るべし、いま出家する善男子善女人、みな世尊の往昔の大願力に助けられて、さはりなく出家受戒することを得たり。如来すでに誓願して出家せしめまします、明らかに知りぬ、最尊最上の大功徳なりといふことを」

 『悲華経』を出典とする五百大願での主題は、「出家(学道)」を踏まえた大願である為(137願・出家、138・出家学道、314・出家学道)、「出家する善男子善女人、世尊の大願力に助けられて、出家受戒することを得たり」との文意に導くものである。

   六

 佛言、及有依我剃除鬚髪、著袈裟片、不受戒者、供養是人、亦得乃至入無畏城。以是縁故、我如是説。あきらかにしる、剃除鬚髪して袈裟を著せば、戒をうけずといふとも、これを供養せん人、無畏城にいらん。

 又云、若復有人、爲我出家、不得禁戒、剃除鬚髪、著袈裟片、有以非法惱害此者、乃至破壞三世諸佛法身報身、乃至盈滿三惡道故。佛言、若有衆生、爲我出家、剃除鬚髪、被服袈裟、設不持戒、彼等悉已爲涅槃印之所印也。若復出家、不持戒者、有以非法、而作惱亂罵辱毀呰、以手刀杖打縛斫截、若奪衣鉢、及奪種々資生具者、是人則壞三世諸佛眞實報身、則挑一切人天眼目。是人爲欲隱没諸佛所有正法三寶種故。令諸天人不得利益墮地獄故。爲三惡道増長盈滿故。

 しるべし、剃髪染衣すれば、たとひ不持戒なれども、無上大涅槃の印のために印せらるゝなり。ひとこれを惱亂すれば、三世諸佛の報身を壞するなり、逆罪とおなじかるべし。あきらかにしりぬ、出家の功徳、たゞちに三世諸佛にちかしといふことを。

 

「仏言、及有依我剃除鬚髪、著袈裟片、不受戒者、供養是人、亦得乃至入無畏城。以是縁故、我如是説」(『大方等大集経』五十三「大正蔵」一三・三五四c二〇)

<仏言く、及び我れに依りて鬚髪を剃除し、袈裟片を著して、受戒せざらん者有るは、是の人を供養すも、亦た乃至無畏城に入るを得ん。是の縁を以ての故に、我れ是の如く説かん>

「あきらかに知る、剃除鬚髪して袈裟を著せば、戒を受けずといふとも、これを供養せん人、無畏城に入らん」

此処からは『大方等大集経』を用いての提唱でありますが、この経典も旧草七十五巻では此用されず、鎌倉より帰山して二年後の建長二年以降に執筆されたようであり、同じく新草に当る『帰依仏法僧宝』にて援用されるのみである。ここは「出家と袈裟」との相即不離なる論理を説かんとするもので、第三に定立される『袈裟功徳』を意識したもの歟。

「又云、若復有人、為我出家、不得禁戒、剃除鬚髪、著袈裟片、有以非法悩害此者、乃至破壊三世諸仏法身報身、乃至盈満三悪道故」(「同」三五四c二二)

<又云く、若し復た人有りて、我が為に出家して、禁戒を得ざりも、鬚髪を剃除し、袈裟片を著せん、非法を以て此れを悩害する者有らば、乃至三世諸仏の法身報身を破壊するなり、乃至三悪道盈満するが故に>

 この経文に対する文意の解釈は省略されているが、ここでは出家=持(保)戒の同体性を説くものですが、「SATデータベース」ではー部に示した「不」は「不」となるものの、前後の文字配列から考えると、「不得」は「不持」とすべき処を書写ミスの可能性もあろう歟。

「若復出家、不持戒者、有以非法、而作悩乱罵辱毀呰、以手刀杖打縛斫截、若奪衣鉢、及奪種々資生具者、是人則壊三世諸仏真実報身、則挑一切人天眼目。是人為欲隠没諸仏所有正法三宝種故。令諸天人不得利益堕地獄故。為三悪道増長盈満故」(「同」三五四a二六)

<若し復た出家して、戒を持たない者は、非法を以て、悩乱・罵辱(めにく)・毀呰(きし)を作し、手には刀杖を以て打縛斫截(しゃくせつ)し、若しは衣鉢を奪い、及び種々の資生の具を奪う者有り、是の人は則ち三世諸仏の真実の報身を壊す、則ち一切の人天の眼目を挑(くじ)くなり。是の人は諸仏所有の正法や三宝の種を隠没せんと欲(ねが)う為の故に。諸の天人をして利益を得ず地獄に堕す故に。三悪道を増長盈満するが為の故に>

 此処に於いても一か所―部「天人」が「人天」と記載されるが、これは先ほど同様、前後の記載状況から勘案すれば、書写ミスと判断して良かろう。

「知るべし、剃髪染衣すれば、たとひ不持戒なれども、無上大涅槃の印のために印せらるゝなり。ひとこれを悩乱すれば、三世諸仏の報身を壊するなり、逆罪と同じかるべし。明らかに知りぬ、出家の功徳、たゞちに三世諸仏に近しといふことを」

 「剃髪染衣」なる語句は、現代の良寛和尚あるいは異色の禅僧(湯川秀樹1907―1981)研究室に在籍)とも称された村上光照(1937―2023)老僧が常日頃に説き示されたものであるが、その由来は参学師であった沢木興道(1880―1965)に聞き及ぶのである。そこでは「髪を剃って袈裟(染衣)を著(つ)け坐禅すれば、それでおしまい」が日常態であったようで、その語源が「剃髪染衣」であったわけだ。この語句は『身心学道』ならびに『帰依仏法僧宝』に各一回づつ散見される。

 ここでの解説も文字通りのものですが、「出家の功徳、ただちに三世諸仏に近し」とは、まさに道元の願望的思惟であろう。

   七

佛言、夫出家者、不應起惡。若起惡者、則非出家。出家之人、身口相應。若不相應、則非出家。我棄父母兄弟妻子眷屬知識、出家修道。正是修集諸善覺時、非是修集不善覺時。善覺者、憐愍一切衆生、猶如赤子。不善覺者、與此相違。それ出家の自性は、憐愍一切衆生、猶如赤子なり。これすなはち不起惡なり、身口相應なり。その儀すでに出家なるがごときは、その徳いまかくのごとし。

 

「仏言、夫出家者、不応起悪。若起悪者、非出家。出家之人、身口相応。若不相応、則非出家。我棄父母兄弟妻子眷属知識、出家修道。正是修〔習〕諸善覚時、非是修〔習〕不善覚時。善覚者、憐愍一切衆生、猶如赤子。不善覚者、与此相違」(『大般涅槃経』二十三曇無讖訳「大正蔵」一二・四九八c一三)

<仏言く、夫れ出家は、応に悪を起すべからず。若し悪を起す者は、則ち出家には非ず。出家之人は、身口に相応すべし。若し相応せざれば、則ち出家に非ず。我れ父母・兄弟・妻子・眷属・知識を棄てて、出家修道す。正に是れ諸の善覚を修集すべき時なり、是れ不善覚を修集すべき時に非ず。善覚者は、一切衆生を憐愍すること、猶赤子の如し。不善覚者は、与此(これ)とは相違す>

 此の処は『大般涅槃経』二十三「光明遍照高貴徳王品第十之三」からの引用ですが、―部「集」が「SATデータベース」では「習」となる。後処―部は道元による創作ではあるが、後に読み解く。

「それ出家の自性は、憐愍一切衆生、猶如赤子なり。これすなはち不起悪なり、身口相応なり。その儀すでに出家なるが如きは、その徳いまかくの如し」

 先には「憐愍一切衆生、猶如赤子」は道元による創作と述べた処ではあるが、それは『涅槃経』本文に続くものでは無い為の事で、『同経』(曇無讖訳)「一切知見憐愍衆生猶如赤子、已離煩悩能抜衆生三毒利箭」(「同」四七四c一九)と、同じく『同経』(慧厳訳)十七(「同」七一七c一〇)にも見出すことが出来る。

   八

 佛言、復次舎利弗菩薩摩訶薩、若欲出家日、即成阿耨多羅三藐三菩提、即是日轉法輪、轉法輪時、無量阿僧祇衆生、遠塵離垢、於諸法中、得法眼淨、無量阿僧祇衆生、得一切法不受故、諸漏心得解脱、無量阿僧祇衆生、於阿耨多羅三藐三菩提、得不退轉、當學般若波羅蜜

 いはゆる學般若菩薩とは祖々なり。しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成熟するなり。しかあれども、三阿僧祇劫に修證し、無量阿僧祇劫に修證するに、有邊無邊に染汚するにあらず。學人しるべし、

 佛言、若菩薩摩訶薩、作是思惟、我於何時、當捨國位、出家之日、即成無上正等菩提、還於是日、轉妙法輪、即令無量無數有情、遠塵離垢、生淨法眼。復令無量無數有情、永盡諸漏、心慧解脱、亦令無量無數有情、皆於無上正等菩提、得不退轉。是菩薩摩訶薩、欲成斯事、應學般若波羅蜜。これすなはち最後身の菩薩として、王宮に降生し、捨國位、成正覺、轉法輪、度衆生の功徳を宣説しましますなり。

 

「仏言、復次舎利弗菩薩摩訶薩、(×)欲出家日、即成阿耨多羅三藐三菩提、即是日転法輪、転法輪時、無量阿僧祇衆生、遠塵離垢、(×)諸法中、得法眼浄、無量阿僧祇衆生、(×)一切法不受故、諸漏心得解脱、無量阿僧祇衆生、於阿耨多羅三藐三菩提、得不退転、当学般若波羅蜜」(『摩訶般若波羅蜜経』(鳩摩羅什訳)一(「大正蔵」八・二二〇c二九)

<仏言く、復た次に舎利弗菩薩摩訶薩は、若し出家の日に、即ち阿耨多羅三藐三菩提を成じ、即ち是の日に転法輪し、転法輪の時には、無量阿僧祇衆生は、遠塵離垢し、諸法の中に於て、法眼浄を得、無量阿僧祇衆生は、一切法不受を得るが故に、諸漏の心の解脱を得て、無量阿僧祇衆生は、阿耨多羅三藐三菩提に於ては、不退転を得んと欲わば、当に般若波羅蜜を学すべし>

 ここよりは『般若経典』からの考察になるが、語句の異同では―部の文字は原文では無し。

「いはゆる学般若菩薩とは祖々なり。しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提は、必ず出家即日に成熟するなり。しかあれども、三阿僧祇劫に修証し、無量阿僧祇劫に修証するに、有辺無辺に染汚するにあらず。学人しるべし」

 「学般若菩薩」とは道元による造語と思いきや、『普勧坐禅儀』にて「而獲大自在者也、学般若菩薩、詎不随順者乎」(大正蔵)八二・二a一四)と示されるが、『普勧坐禅儀』と称されるものには二種が存在する。「自筆本」(天福本)と「流布本」であり、自筆本は国宝(昭和27年指定)であり、道元が帰朝した嘉禄三年(1227)に撰述(八八一字)したものを、天福元年(1233)の中元日(七月十五日)に深草の観音導利院にて清書されたものを云う。それに対して「流布本」(七五六字)と云われるものは、天福元年「自筆本」を道元自ら推敲修正されたものとされるが、僧堂内にて坐禅終了時に雲衲が一斉に読み上げるものが「流布本」である。因みに栄西の『興禅護国論』(「大正蔵」八〇・三a二)には三か所、『雲門広録』(「大正蔵」四七・五五〇c二三)上堂では二か所にわたり「学般若菩薩」なる心地よい語感なる語が列記される。

 「阿耨多羅三藐三菩提」とは無上正等覚であるが、出家即日に阿耨菩提を成熟する」とは聊か早計すぎるようにも感じられるが、とにかく此処では出家の因縁(縁起)の重要性を後進に訴える悲壮感とも観ずる語勢である。

「仏言、若菩薩摩訶薩、作是思惟、我於何時、当捨国位、出家之日、即成無上正等菩提、還於是日、転妙法輪、即令無量無数有情、遠塵離垢、生浄法眼。復令無量無数有情、永尽諸漏、心慧解脱、亦令無量無数有情、皆於無上正等菩提、得不退転。是菩薩摩訶薩、欲成斯事、応学般若波羅蜜(多)」(『大般若波羅羅蜜多経』(玄奘訳)三(「大正蔵」五・一六b一〇)

<仏言く、若し菩薩摩訶薩、是の思惟を作す、我れ何れの時に於て、当に国位を捨て、出家之日は、即ち無上正等菩提を成ず、還た是の日に於て、妙法輪を転じ、即ち無量無数の有情をして、遠塵離垢し、浄法眼を生ず。復た無量無数の有情をして、永く諸漏を尽し、心慧の解脱す、亦た無量無数の有情をして、皆無上正等菩提に於ては、不退転を得す。是の菩薩摩訶薩は、斯の事を成ぜんと欲わば、応に般若波羅蜜を学すべし>

 此処は同じ「般若経」でも玄奘訳の六百巻大品般若経典である『大般若波羅蜜多経』三を引用する訳であるが、この引用典籍は旧草七十五巻『出家』に同文がある。そこでの拈提部と『当巻』とを比べてみよう(―部「多」は原あり)。

 「おほよそ無上菩提は、出家受戒のとき満足するなり。出家の日にあらざれば成満せず。しかあればすなはち、出家之日を拈来して、成無上菩提の日を現成せり。成無上菩提の日を拈出する、出家の日なり。この出家の翻筋斗する、転妙法輪なり。この出家、すなはち無数有情をして無上菩提を不退転ならしむるなり。しるべし、自利利佗こゝに満足して、阿耨菩提不退不転なるは、出家受戒なり。成無上菩提かへりて出家の日を成菩提するなり。まさにしるべし、出家の日は、一異を超越せるなり。出家の日のうちに、三阿僧祇劫を修証するなり。出家之日のうちに、住無辺劫海、転妙法輪するなり。出家の日は、謂如食頃にあらず、六十小劫にあらず。三際を超越せり、頂寧(寧+頁)を脱落せり。出家の日は、出家の日を超越せるなり。しかもかくのごとくなりといへども、籮籠打破すれば、出家の日すなはち出家の日なり。成道の日、すなはち成道の日なり」

 この拈提文に対して『出家功徳』では、

 「これすなはち最後身の菩薩として、王宮に降生し、捨國位、成正覺、轉法輪、度衆生の功徳を宣説しましますなり」

と、「出家文」の389文字に対し、わづかに52字に縮められ、またその内容としては、釈迦の法行を羅列的に述べたものに過ぎず、いかにも見劣りする註釈文であり、「出家文」との連関性は見受けられないが、先の拈提文である「かならず出家即日に成熟するなり」は「出家文」での「出家の日にあらざれば成満せず」に相対し、『出家』「出家の日にあらざれば成満せず」の廻頭的解釈から、『出家功徳』「かならず出家即日に成熟するなり」と即的解釈に変更せられる状況を勘案すると、『出家』文の哲学的な難解な文体を敢えて、『出家功徳』文では平易に理解させる方途として、同類なる般若経典で以て二分割し、まさに出家による功徳のエッセンスを提示したものであろう。

 もちろん其の理由としては、旧草七十五巻的説示法では誤解を招き易く、あまりに本覚ぼこり的な解釈をする山内衆に配慮した結果であろう。

   九

悉達太子、從車匿邊、索取摩尼雜餝莊嚴七寶把刀、自以右手、執於彼刀、從鞘抜出、即以左手、攬捉紺青優鉢羅色螺髻之髪、右手自持利刀割取、以右手擎、擲置空中。時天帝釋、以希有心、生大歡喜、捧太子髻、不令墮地、以天妙衣、承受接取。爾時諸天、以彼勝上天諸供具、而供養之。

これ釋迦如來そのかみ太子のとき、夜半に踰城し、日たけてやまにいたりて、みづから頭髪を斷じまします。ときに淨居天きたりて頭髪を剃除したてまつり、袈裟をさづけたてまつれり。これかならず如來出世の瑞相なり、諸佛世尊の常法なり。

 三世十方諸佛、みな一佛としても、在家成佛の諸佛ましまさず。過去有佛のゆゑに、出家受戒の功徳あり。衆生の得道、かならず出家受戒によるなり。おほよそ出家受戒の功徳、すなはち諸佛の常法なるがゆゑに、その功徳無量なり。聖教のなかに在家成佛の説あれど正傳にあらず、女身成佛の説あれどまたこれ正傳にあらず、佛祖正傳するは出家成佛なり。

 

「悉達太子、従車匿辺、索取摩尼雑(飾)荘厳七宝把刀、自以右手、執於彼刀、従鞘抜出、即以左手、攬捉紺青優鉢羅色螺髻之髪、右手自持利刀割取、以(左)手擎、擲置空中。時天帝釈、以希有心、生大歓喜、捧太子髻、不令墮地、以天妙衣、承受接取。爾時諸天、以彼勝上天諸供具、而供養之」(『仏本行集経』十八「大正蔵」三・七三七c三)

<悉達太子は、車匿(しゃのく)が辺(ほとり)従り、摩尼雑餝荘厳の七宝の把刀を索取し、自ら右手で以て、彼の刀を執り、鞘(さや)従り抜き出し、即ち左手を以て、紺青の優鉢羅色の螺髻(らけい)之髪を攬捉(とり)て、右手に自ら利刀を持ちて割取、右手を以て擎(ささ)げ、空中に擲置(てきち)せり。時に天帝釈は、希有の心を以て、大歓喜を生じ、太子の髻(もとどり)を捧げて、地に墮さしめず、天の妙衣を以て、承受し接取す。爾の時に諸天は、彼の上天に勝れたる諸も供具を以て、而して之を供養す>

 ここでは『仏本行集経』十八を引用しての「悉達太子」つまり釈尊の幼名であるシッダルタ太子の出家譚が説かれる(―部「餝」原は「飾」、「右」原は「左」)。

 用語の説明としては「車匿(しゃのく)」とは梵(サンスクリット)語ではchandakaと筆記されるが、日本語訓読みではチャンダカであり、この人物は釈尊の出家の際には愛馬kanthakaカンタカと共にアノーマー河畔まで随伴した人物である(『禅学大辞典』上巻(四七五頁参照)が、この因縁譚では何を物語っているかと云うに、「出家」とは一人の行為では無く、それぞれの機縁が作用して悉達―車匿―白馬(カンタカ)の等時・等同性を喩うものでありましょう歟。

 「摩尼雑荘厳」は宝珠で装したものありますから、「餝」は恐らくはコピーミスを伝来したものと考えられる。このような七宝で装飾した手刀を従僕であるチャンダカから受け取り、悉達自身の髻(もとどり)を切り落とした行為そのものが、悉達から出家つまりは太子という階級(カースト・ジャート)から出家という無差別に転換(conversion)するの暗喩(メタファー)とも受け取れる説話である。

 また「手に自ら利刀を持ちて」「手を以て擲置せり」では、明らかに文脈とは適わず、原文「」に置き換えてよかろう。さらには「時に帝釈天~天の妙衣を以て~供養せり」の解釈も先ほどの如く「天」―「地」―「人」の一体性で以て、インド伝来のバラモンヒエラルキー)的世界からの脱却を目途としたインド仏教の考え方を表徴するのだろう歟。

「これ釈迦如来そのかみ太子の時、夜半に踰城し、日たけて山に到りて、みづから頭髪を断じまします。時に浄居天きたりて頭髪を剃除したてまつり、袈裟をさづけたてまつれり。これ必ず如来出世の瑞相なり、諸仏世尊の常法なり」

 先ほどの『仏本行集経』に示された経文に対する解釈的説明ではありますが、「浄居天きたりて頭髪を剃除」云々の語句は、先の経典に続く「爾時浄居諸天大衆~剃去髮鬚」(「同」七三七c一〇~c二三)に集約され、続く「袈裟をさづけ」云々の条項は先に続く「身著袈裟染色之衣」(「同」c二七)からの経文に照らしてのものと思われるものであります。

「三世十方諸仏、みな一仏としても、在家成仏の諸仏ましまさず。過去有仏のゆゑに、出家受戒の功徳あり。衆生の得道、必ず出家受戒によるなり。おほよそ出家受戒の功徳、即ち諸仏の常法なるがゆゑに、その功徳無量なり。聖教のなかに在家成仏の説あれど正伝にあらず、女身成仏の説あれどまたこれ正伝にあらず、仏祖正伝するは出家成仏なり」

 ここで扱う「在家成仏」なる語は、「大正蔵テキストデータベース」にて検索する限りでは、『法華義疏』九(「大正蔵三四・五九二b二九」のみがヒットし、「七十五巻」ならびに「十二巻」共々四十三万余字ある文字群にても「当巻」に於ける二か所のみの使用例となる。また「出家成仏」について「大正大蔵経」中には三十五か所にわたり言及されるものの、先の「旧草+新草」眼蔵では「出家成仏」なる語は「当巻」のみの記載となることから考察するに、一般的表現法と思いきや実は特殊な語句である事が確かめられる次第であります。

また「女身成仏の説」とは『法華経』「提婆達多品」で云う処の「龍女成仏」(「大正蔵」九・三五c二一)、また『大般涅槃経』四に云う「示現於閻浮提女身成仏」(「大正蔵」一二・三八九b二四)などを示唆すると思われるが、敢えて「女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず、仏祖正伝するは出家成仏なり」と言断する所に道元の骨頂が見出されるものである。なお此処で扱った『仏本行集経』は第五『供養諸仏』にても使用される。

   十

 第四祖優婆毱多尊者、有長者子、名曰提多伽。來禮尊者、志求出家。尊者曰、汝身出家耶、心出家。答曰、我來出家、非爲身心。尊者曰、不爲身心、復誰出家。答曰、夫出家者、無我我所故、即心不生滅。心不生滅故、即是常道。諸佛亦常心無形相、其體亦然。尊者曰、汝當大悟心自通達。宜依佛法僧紹隆聖種。即與出家受具。

 それ諸佛の法にあふたてまつりて出家するは、最第一の勝果報なり。その法すなはち我のためにあらず、我所のためにあらず。身心のためにあらず、身心の出家するにあらず。出家の我我所にあらざる道理かくのごとし。我我所にあらざれば諸佛の法なるべし。たゞこれ諸佛の常法なり。諸佛の常法なるがゆゑに、我我所にあらず、身心にあらざるなり。三界のかたをひとしくするところにあらず。かくのごとくなるがゆゑに、出家これ最上の法なり。頓にあらず、漸にあらず。常にあらず、無常にあらず。來にあらず、去にあらず。住にあらず、作にあらず。廣にあらず、狹にあらず。大にあらず、小にあらず、無作にあらず。佛法單傳の祖師、かならず出家受戒せずといふことなし。いまの提多伽、はじめて優婆毱多尊者にあふたてまつりて出家をもとむる道理かくのごとし。出家受具し、優婆毱多に參學し、つひに第五祖師となれり。

 

「第四祖優婆毱多尊者、有長者子、名曰提多伽。来礼尊者、志求出家。尊者曰、汝身出家耶、心出家。答曰、我来出家、非為身心。尊者曰、不為身心、復誰出家。答曰、夫出家者、無我我所故、即心不生滅。心不生滅故、即是常道。諸仏亦常心無形相、其体亦然。尊者曰、汝当大悟心自通達。宜依仏法僧紹隆聖種。即与出家受具」

<第四祖優婆毱多尊者には、長者子有り、名は提多伽と曰う。来りて尊者を礼し、出家を志求す。尊者の曰く、汝は身の出家耶(や)、心の出家や。答えて曰く、我れ来りて出家するは、身心の為に非ず。尊者の曰く、身心の為にあらずは、復た誰の出家や。答えて曰く、夫れ出家は、我と我所と無きが故に、即ち心は生滅せず。心が生滅せざる故に、即ち是れ常道なり。諸仏も亦た常に心や形相は無く、其の体も亦た然り。尊者の曰く、汝は当に大悟して心の自ら通達すべし。宜しく仏法僧に依りて聖種を紹隆すべし。即ち与(ため)に出家受具せしめり>

 この出典録は『景徳伝灯録』一であろうが多少の異同が認められるので、原文を記載する。「()は当巻あり」

「第四祖波毱多者、―中略―最後長者子。名曰香衆。来礼尊者志求出家尊者汝身出家(耶)、心出家答曰我来出家非為身心尊者曰不為身心復誰出家答曰夫出家者無我我(所)。無我我故、即心不生滅心不生滅即是常道諸仏亦常心無形相其体亦然尊者曰汝当大悟心自通達宜依仏法僧紹隆聖(与出家)為剃度受具足戒」(「大正蔵」五一・二〇七b一―中略―b二八)

「それ諸仏の法にあふたてまつりて出家するは、最第一の勝果報なり。その法すなはち我の為にあらず、我所の為にあらず。身心の為にあらず、身心の出家するにあらず。出家の我我所にあらざる道理かくの如し。我我所にあらざれば諸仏の法なるべし。たゞこれ諸仏の常法なり」

 此処での「優婆毱多」章から引用した理由は何をもって選別したのであろうか。『景徳伝灯録』全巻に於ては百七十か所以上もの「出家」項が出現する訳だが、七百余字あまりの短い「優婆毱多」章の中では六回もの頻度で取り扱われ、道元の眼に留まったのであろう歟。

 拈提としては、経文の文意のままに説かれ、「即是常道、諸仏亦常」を「諸仏の常なる法」に差し替えてのものです。

「諸仏の常法なるがゆゑに、我我所にあらず、身心にあらざるなり。三界の型(かた)を等しくする所にあらず。かくの如くなるがゆゑに、出家これ最上の法なり。頓にあらず、漸にあらず。常にあらず、無常にあらず。来にあらず、去にあらず。住にあらず、作にあらず。広にあらず、狹にあらず。大にあらず、小にあらず、無作にあらず。仏法単伝の祖師、必ず出家受戒せずといふことなし。今の提多伽、はじめて優婆毱多尊者にあふ奉りて出家を求むる道理かくの如し。出家受具し、優婆毱多に参学し、つひに第五祖師となれり」

 ここでも「常法の場所では我々所はない」と力説するは前来の繰り返しになるものであるが、「出家は最上の法」であることを文字面で説くに当り、「常↔無常」「来↔去」「広↔狭」と二項分立的思考から抜け出させる為の「あらず・あらず」との文言結論は、「必ず出家受戒せよ」との文面に導くものではあるが、単なる「出家受戒」とは余りに抽象的であり、この場面に於ては、「あらず・あらず」の結語よりは「打坐」に連関させて、「仏法単伝の祖師、只管に打坐し、必ず出家受戒せずと云うことなし」と言明した方が文体に強弱を伴い、具体性・実修性に勝れた眼文に変じる可能性ありと考えられるが、穿った思考でありましょう歟。

   十一

 第十七祖僧伽難提尊者、室羅閥城寶莊嚴王之子也。生而能言、常讚佛事。七歳即厭世樂、以偈告其父母曰、稽首大慈父、和南骨血母。我今欲出家、幸願哀愍故。

父母固止之。遂終日不食。乃許其在家出家、号僧伽難提、復命沙門禪利多、爲之師。積十九載、未甞退倦。尊者毎自念言、身居王宮、胡爲出家。

一夕天光下屬、見一路坦平。不覺徐行約十里許、至大岩前有石窟焉。乃燕寂于中。父既失子、即擯禪利多、出國訪尋其子、不知所在。經十年、尊者得法授記已、行化至摩提國。

 在家出家の稱、このときはじめてきこゆ。たゞし宿善のたすくるところ、天光のなかに坦路をえたり。つひに王宮をいでて石窟にいたる。まことに勝躅なり。世樂をいとひ俗塵をうれふるは聖者なり。五欲をしたひ出離をわするるは凡愚なり。代宗肅宗、しきりに僧徒にちかづけりといへども、なほ王位をむさぼりていまだなげすてず。盧居士はすでに親を辭して祖となる、出家の功徳なり。龐居士はたからをすててちりをすてず、至愚なりといふべし。盧公の道力と龐公が稽古と、比類にたらず。あきらかなるはかならず出家す、くらきは家にをはる、黒業の因縁なり。

 

「第十七祖僧伽難提者、室羅閥城宝荘厳王之子也。生而能言、常讃仏事。七歳即厭世楽、以偈告其父母曰、稽首大慈父、和南骨血母。我今欲出家、幸願哀愍故」(『景徳伝灯録』二「大正蔵」五一・二一二a二五)(―部「尊」は原なし)

<第十七祖僧伽難提尊者は、室羅閥(しゃらば・舎衛)城の宝荘厳王之子也。生れて能くは言い、常に仏事を讃ず。七歳で即ち世楽を厭い、偈を以て其の父母に告げて曰うには、稽首(頭面礼拝)す大慈父、和南(稽首と同義、敬礼)す骨血母。我れ今出家せんと欲う、幸(こい)願わくは哀愍す故に>

「父母固止之。遂終日不食。乃許其在家出家、号僧伽難提、復命沙門禅利多、為之師。積十九載、未退倦。尊者毎自念言、身居王宮、胡為出家」(―部「甞」は原「曾」)

<父母は固く之を止む。遂には終日不食。乃ち其の家に在りて出家するを許す、僧伽難提と号し、復た沙門の禅利多に命じて、之を師と為す。十九載を積むも、未だ甞て退倦せず。尊者は毎(つね)に自ら念じ言うには、身は王宮に居す、胡(いづく)んぞ出家と為す>

「一夕天光下属、見一路坦平。不覚徐行約十里許、至大前有石窟焉。乃燕寂于中。父既失子、即擯禅利多、出国訪尋其子、不知所在。経十年、尊者得法授記已、行化至摩提国」(―部「岩」は原「巌」)

<一夕、天光下り属し、一路坦平なるを見る。覚えず徐(おもむ)ろに行くこと約十里許りで、大岩の前に至る石窟有り焉。乃ち中に燕寂す。父は既に子を失い、即ち禅利多を擯し、国を出て其の子を訪尋するも、所在を知らず。十年を経て、尊者は得法授記し已りて、行化して摩提(マガダ)国に至る>

 この出典籍は先の「第四祖」と同様『景徳伝灯録』二(「大正蔵」五一・二一二a二五)となる。第四祖から「第十七祖」を扱う由は解せぬが、『景徳伝灯録』全体を「出家」にて検索するに、インド国内にての祖師方の項目では「出家」の文字は頻繫には目に付かず、「十七祖」項に至って四か所、その内の三か所が今回の「本則」部である。因みに「第二十五祖波舎斯多」項にても「出家」の字面は五か所、その内四か所は「第四祖」「第十七祖」同様に集約的に記載さる状況である。

「在家出家の称、このとき始めて聞こゆ。たゞし宿善の助くるところ、天光のなかに坦路を得たり。つひに王宮を出でて石窟に至る。まことに勝躅なり。世楽を厭ひ俗塵をうれふるは聖者なり。五欲を慕ひ出離を忘るるは凡愚なり」

 ここでは驚くべき道元の炯眼について見なければならない。「在家出家の称、このとき始めて聞こゆ」とは、「十七祖」の代になり「出家」に対する「在家」の概念が始まる。釈尊時代から僧伽難提の頃までは、「出家者」の息吹きに触れた時点で、家庭生活を営んでいたとしても「出家」と同類視された為に、「仏伝」に云う処の「六万二千苾芻得阿羅漢」(『仏説七仏経』「大正蔵」二・一五一c一六)などとの言説が生じたものであろう。筆者、当初は『金剛般若波羅蜜経』での「与大比丘衆千二百五十人俱」(「大正蔵」八・七四八c二一)や、先ほどの「六万二千苾芻」などの数字は説話・物語的な作り話と思い込んでいたのであるが、広く海外に目を転じてみると、「タイ」や「ミャンマー」などの上座仏教での僧院等には、正午前の正式な食法に於ては数百は言うに及ばず、数千の単位での食事風景などを垣間見た実体験からすると、あながち奇異な数字とは言えないのである。

 さて本題の炯眼であるが、『景徳伝灯録』全巻を検索すると「在家」の文句は三か所のみ。最初に先の➀「乃許其在家」(「同」五一・二一二b一)、次いで➁「杭州招賢寺会通禅師」章「汝当為在家菩薩」(「同」二三〇c二〇)、最後に③「三十三祖慧能大師」章「従東方来、一在家一出家、同時興化建立吾宗」(「同」二三六c四)のみが記録されるが、対比としての「出家」語は釈尊「年十九欲出家」(「同」二〇五b一二)~第三十巻天童宏智和尚「出家行脚」(「同」四六五c二九)までの一百七十五項目に亘り言語化されるのである。

 このような状況を把握しての「在家出家の称、この時はじめて聞こゆ」と註解するは、如何に道元の観察眼・論点が勝れたものかを窺い知らるるものであります。そして「五欲を慕い出離を忘るるは凡愚なり」の凡愚とは、先述の「師の黒闇鈍の説をもて、聖者三明の言に比類することなかれ」を再言したものでありましょう。

「代宗肅宗、しきりに僧徒に近づけりと云へども、なほ王位を貪りて未だなげ捨てず。盧居士はすでに親を辞して祖となる、出家の功徳なり。龐居士は宝を捨てて塵を捨てず、至愚なりと云ふべし。盧公の道力と龐公が稽古と、比類に足らず。明らかなるは必ず出家す、暗きは家にをはる、黒業の因縁なり」

 「代宗」(726―779<762~779在位>は肅宗の長男。「肅宗」(711―762<756~762在位>は玄宗の三男。ともに仏教を信奉し南陽慧忠(675―775)に師事する。「盧居士」とは六祖慧能(638―713)の在俗時の名称である。「龐居士」とは龐蘊(―808)であり『景徳伝灯録』八には「龐居士」章(「大正蔵」五一・二六三b三)が立篇せられ、七十五巻『神通』にては「龐居士蘊公は、祖席の偉人なり。あるときいはく、神通并妙用、運水及搬柴」(「大正蔵」八二・一一一c一四)と道元の讃歎せられた人物で、インドの維摩詰居士と同格もしくは、それ以上の力量ある仏法者として取り上げられる。また『龐居士語録』はシリーズ本(禅の語録7)として筑摩書房から著者・入矢義高氏で昭和四十八年に出版される。

 やや「龐居士」に対する論述に時を費やしたが、此処での道元の評価は、「盧公」つまり慧能は道力あり出家を選び、一方「龐公」は生涯出家せず、妻子と共に竹漉を製して業とした稽古とでは、比べものにならず、「黒業の因縁なり」とは手厳しい言評であるようだ。このように道元は、あくまで仏法の護持・嗣続には「かならず出家す」と一途に問いかけるのである。

   十二

南嶽懷譲禪師、一日自歎曰、夫出家者、爲無生法、天上人間、無有勝者。いはく、無生法とは如來の正法なり、このゆゑに天上人間にすぐれたり。天上といふは、欲界に六天あり、色界に十八天あり、無色界に四種、ともに出家の道におよぶことなし。

 

「南嶽懷譲禅師、一日自歎曰、夫出家者、為無生法、天上人間、無有勝者」

<南嶽懷譲禅師が、一日(ある日)自ら歎じて曰く、夫れ出家は、無生法の為にす、天上人間に、勝る者有ること無し>

南岳大惠禅師、諱懷譲―中略―依弘景律師出家、通天二年受戒、後習毘尼蔵、一日自歎曰夫出家者為無天上人間無有勝者、時有同学坦然」(『続蔵』一三五・六五〇a三・二)

 出典籍は『天聖広灯録』であるが、原文では「無為法」とある処を「無法」に変える。因みに『景徳伝灯録』では「南嶽懷譲禅師者姓杜氏、金州人也。年十五往荊州玉泉寺、依弘景律師出家、受具之後、習毘尼蔵、一日自歎曰、夫出家者、為無法、時同学坦然」(「大正蔵」五一・二四〇c七)となり、やはり『天聖広灯録』と同じく「無法」とある。

「いはく、無生法とは如来の正法なり、このゆゑに天上人間にすぐれたり。天上といふは、欲界に六天あり、色界に十八天あり、無色界に四種、ともに出家の道に及ぶことなし」

 「無為法」→「無生法」に改変しての拈提とする訳だが、『禅学大辞典』によると「無為」とは任運無作、没蹤跡の行履を云い、「君不見、絶学無為、閑道人」(1199頁参照)、また「無生」とは世間生滅の相を離れた当体とし、「知生即是無生法、無離生法説有無生」(1207頁参照)であると説明するが、却って「無為法」が理に叶った語法であると思われるが、ともかくも「無生法が如来の正法」と説かるる次第である。ですから「天上人間にすぐれたり」とは文意のままであるが、これは先ほど『景徳伝灯録』にても確認のように、「天上人間、無有勝者」なる語意は『天聖広灯録』のみの筆跡である。

 ここで「六天」(➀四天王➁忉利天➂夜摩天➃兜史多天⑤化楽天他化自在天)「十八天」(➀梵衆天➁梵輔天➂大梵天➃小光天⑤無料光天➅光音天⑦少浄天⑧無量浄天⑨遍浄天⑩無雲天⑪福生天⑫広果天⑬無想天⑭無煩天⑮無熱天⑯善見天⑰善現天⑱色究竟天)「無色界」(➀空無辺処➁識無辺処➂無所有処➃非想非非想処)〔これらの列記は『正法眼蔵』四水野弥穂子校注九二頁引用〕などの概念世界に生きる者(学者)などには「出家の道に及ぶことなし」と実践を伴う「出家の功徳」を、短文ではあるが懷譲を例に説くものである。

   十三

盤山寶積禪師曰、禪徳、可中學道、似地擎山、不知山之孤峻。如石含玉、不知玉之無瑕。若如是者、是名出家。佛祖の正法かならずしも知不知にかゝはれず、出家は佛祖の正法なるがゆゑに、その功徳あきらかなり。

 

「盤山宝積禅師曰、禅徳、可中学道、似地擎山、不知山之孤峻。如石含玉、不知玉之無瑕。若如是者、是名出家」(『景徳伝灯録』七「大正蔵」五一・二五三b二〇)

<盤山宝積禅師曰く、禅徳、可中(たとえば)学道は、地の山を擎(ささ)げて、山の孤峻を知らざるに似たり。石に玉を含んで、玉の瑕(きず)無きを知らざるが如し。若し是の如くは、是れを出家と名づく>

 これは『景徳伝灯録』「盤山」章からの引用になるが、語録では途中に他の問答等が記載される。『都機』にて援用された「心月孤円、光呑万象。光非照境、境亦非存。光境俱亡、復是何物」(「大正蔵」五一・二五三b一五)<心月孤円は、光や万象を呑む。光は境を照らすに非ず、境は亦た存すに非ず。光境は俱に亡ず、復た是れ何物ぞ>が本則として取り上げられ、また『仏向上事』では「向上一路、千聖不伝」(「同」二五三b一三)が本則に援用される。また『永平広録』九「頌古」六十七にては「盤山、見一客人買猪肉」が記録され、同時期に編纂と思われる『真字正法眼蔵(三百則)』にても「上」二十一則にて同則が記載されることから、興聖寺の最初期から越前移錫前に於いても、常に盤山の存在は気を引かるるものであったようである。

「仏祖の正法必ずしも知不知にかゝはれず、出家は仏祖の正法なるがゆゑに、その功徳明らかなり」

 「七十五巻」に於ける拈提に比べると余りにも不量であるが、新草「十二巻」の性格からしては仕方がないものの、「出家」=「正法」との究極の仏法観であろうか。

   十四

 鎭州臨濟院義玄禪師曰、夫出家者、須辨得平常眞正見解、辨佛辨魔、辨眞辨僞、辨凡辨聖。若如是辨得、名眞出家。若魔佛不辨、正是出一家入一家、喚作造業衆生。未得名爲眞正出家。

 いはゆる平常眞正見解といふは、深信因果、深信三寶等なり。辨佛といふは、ほとけの因中果上の功徳を念ずることあきらかなるなり。眞僞凡聖をあきらかに辦肯するなり。もし魔佛をあきらめざれば、學道を沮壞し、學道を退轉するなり。魔事を覺知してその事にしたがはざれば、辦道不退なり。これを眞正出家の法とす。いたづらに魔事を佛法とおもふものおほし、近世の非なり。學者、はやく魔をしり佛をあきらめ、修證すべし。

 

「鎮州臨済院義玄禅師曰、夫出家者、須辨得平常真正見解、辨仏辨魔、辨真辨偽、辨凡辨聖。若如是辨得、名真出家。若魔仏不辨、正是出一家入一家、喚作造業衆生。未得名為真出家」(『臨済録』「大正蔵」四七・四九八a二四・―部「正」は原なし)

<鎮州臨済院義玄禅師曰く、夫れ出家は、須く平常真正の見解を辨得し、辨仏辨魔、辨真辨偽、辨凡辨聖すべし。若し是の如く辨得すれば、真の出家と名づく。若し魔仏辨ぜざれば、正に是れ一家を出でて一家に入るなり、喚んで造業の衆生と作す。未だ名づけて真正の出家と為すを得ず>

 これは『臨済録』からの引用だが、この「語録」も興聖寺時代から携行されていたもののようで、「七十五巻」では『大悟』『行持』『神通』『仏道』での各巻にて『臨済録』の援用が行われていた事から推察できる。此処では道元臨済評価に触れる余裕はないが、「七十五巻」四十三万余字に亘る道元の術語には「臨済」の言表は七十三回にも及ぶ。

「いはゆる平常真正見解といふは、深信因果、深信三宝等なり。辨仏といふは、ほとけの因中果上の功徳を念ずる事あきらかなるなり。真偽凡聖を明らかに辦肯するなり。もし魔仏を明らめざれば、学道を沮壊し、学道を退転するなり。魔事を覚知してその事に従はざれば、辦道不退なり。これを真正出家の法とす。いたづらに魔事を仏法と思ふ者多し、近世の非なり。学者、はやく魔を知り仏を明らめ、修証すべし」

 これまでの短評な拈提とは異なり、やや長めの拈評である。此処で云う「平常真正見解」とは平常心是道に置き換え可能であろうが、「平常」=「深信因果」=「深信三宝」の等式が成立すると断言される。「深信因果」とは第七で説く『深信因果』巻を指し、「深信三宝」は第六で述べる『帰依仏法僧宝』巻を示すものであろうが、因果歴然の法を示唆するものであろう。その背景には、鎌倉行化と称される在俗接化の問題で、関東在住六ヶ月の間に勃興した永平寺山内の混乱。つまり「因果律における不落・不昧」の問題が関係していると考えられるが、今は追求しない。

 「辨仏」とは仏を辨ずる、つまり修行というは「因中果上」所謂は、仏果(さとり)の途上であろうと果上(悟後)であろうが、「仏の功徳を念ずること」謂うは四六時中修行中だる事「あきらかなるなり」。と云うは、山内分裂の衆徒には、さとりに対する履き違えの僧が少なからず在し、それらに対する警策とでも言うべき言句であろう。

 「真偽凡聖」を明らかに辦肯しなさい。とは当たり前の言い分であろうが、「七十五巻」的内容を倉卒に理解するならば、本覚ぼこり的思考が芽生えても不思議ではなかろう。

 「魔仏」とは、先の本覚法門的な考えの族(やから)の信奉する(すべてが真実・ほとけ)考えを魔仏と称したのであろう。「魔事を覚知」とは、真偽凡聖の区別が出来れば、おのづと辨道は退かずであり、「真正なる出家の法」と口をすぼめて説かる。

 「いたづらに魔事を仏法と思ふ者」とは、玄明を指すもの歟。これは伝説に近いものではあろうが、〔道元永平寺帰山の折に玄明首座なる者が、北条時頼からの寄進状を得意げに触れ廻り、道元の怒りを蒙り、玄明の坐禅単の土を根こそぎ排出した〕と云う話(『建撕記』河村本、六九頁、面山訂補)ではあるが、その痕跡が昭和五十年代に永平寺内にて確認された。と云う記事を読んだ記憶がある。

 このような事情を勘案して、後事を託す山内衆に対し「はやく魔を知り仏を明らめ、修証すべし」と結論に帰す訳であるが、これには興聖―大仏―吉嶺―永平と説き続けた自身の眼蔵内容の非を認めた言い分であろう歟。

   十五

 如來般涅槃時、迦葉菩薩、白佛言、世尊、如來具足知諸根力、定知善星當斷善根。以何因縁、聽其出家。佛言、善男子、我於往昔、初出家時、吾弟難陀、從弟阿難調達多、子羅睺羅、如是等輩、皆悉隨我出家修道。我若不聽善星出家、其人次當王得紹王位、其力自在、當壞佛法。以是因縁、我便聽其出家修道。善男子、善星比丘、若不出家、亦斷善根、於無量世、都無利益。令出家已、雖斷善根、能受持戒、供養恭敬耆舊長宿有徳之人、修習初禪乃至四禪。是名善因。如是善因、能生善法。善法既生、能修習道。既修習道、當得阿耨多羅三藐三菩提。是故我聽善星出家。善男子、若我不聽善星比丘出家受戒、則不得稱我爲如來具足十力。善男子、佛觀衆生、具足善法及不善法。是人雖具如是二法、不久能斷一切善根、具不善根。何以故、如是衆生、不親善友、不聽正法、不善思惟、不如法行。以是因縁、能斷善根、具不善根。

 しるべし、如來世尊、あきらかに衆生の斷善根となるべきをしらせたまふといへども、善因をさづくるとして出家をゆるさせたまふ、大慈大悲なり。斷善根となること、善友にちかづかず、正法をきかず、善思惟せず、如法に行ぜざるによれり。いま學者、かならず善友に親近すべし、善友とは、諸佛ましますととくなり、罪福ありとをしふるなり。因果を撥無せざるを善友とし、善知識とす。この人の所説、これ正法なり。この道理を思惟する、善思惟なり。かくのごとく行ずる、如法行なるべし。

 しかあればすなはち、衆生は親疎をえらばず、たゞ出家受戒をすゝむべし。のちの退不退をかへりみざれ、修不修をおそるゝことなかれ。これまさに釋尊の正法なるべし。

 

如来般涅槃時、迦葉菩薩、白仏言、世尊、如来具足知諸根力、定知善星当断善根。以何因縁、聴其出家」(『大般涅槃経』三十三「大正蔵」一二・五六二c二八)

<如来の般涅槃する時、迦葉菩薩は、仏に白して言く、世尊、如来は諸の根を知る力を具足す、定んで善星は当に善根を断ずべきを知る。何の因縁を以て、其の出家を聴(ゆる)す>

 「善星」とは、本則に扱う範囲内に於ては、二十回あまり出現し、同「迦葉菩薩品十二之一」冒頭部では「善星比丘是仏菩薩時子、出家之後、受持読誦分別解説十二部経―略―是一闡提厮下之人」(「同」五六〇b一三)とあり、釈尊太子時代の実子とする。因みに『臨済録』にての「長地獄業、如善星比丘」(「大正蔵」四七・五〇二c一八)と引用あり。

「仏言、善男子、我於往昔、初出家時、吾弟難陀、従弟阿難調〔〕達多、子羅睺羅、如是等輩、皆悉随我出家修道。我若不聴善星出家、其人次当得紹王位、其力自在、当壊仏法。以是因縁、我便聴其出家修道」(「同」五六三a一・―部「婆」は原あり、―部「王」は原なし)

<仏言く、善男子、我れ往昔に於て、初めて出家する時、吾が弟の難陀、従弟の阿難、調達多、子の羅睺羅、是の如き等の輩は、皆な悉く我れに随って出家修道す。我れ若し善星の出家を聴さざれば、其の人は次に当に王として王位を紹ぐを得て、其の力の自在にして、当に仏法を壊す。是の因縁を以て、我れは便ち其の出家修道を聴す>

 「吾弟難陀」は、父を浄飯王、母を摩訶波闍波提とすることから、釈尊から見れば異母兄弟(パーリ語表記ではスンダラ・ナンダと云う)。「従弟阿難」は、釈尊の父親である浄飯王の弟である白飯王(諸説あり)の子であるから従弟に当る。「調達多」は提婆達多とも称されるが、阿難の弟とも兄とも云われる。「子羅睺羅」は、釈尊の実子3人(善星・優婆摩耶・羅睺)のうちの末子(パーリ語表記はラーフラ)。

「善男子、善星比丘、若不出家、亦断善根、於無量世、都無利益。令出家已、雖断善根、能受持戒、供養恭敬・耆旧・長宿・有徳之人、修習初禅乃至四禅。是名善因。如是善因、能生善法。善法既生、能修習道。既修習道、当得阿耨多羅三藐三菩提。是故我聴善星出家。善男子、若我不聴善星比丘出家受戒、則不得称我為如来具足十力」(「同」五六三a六)

<善男子、善星比丘が、若し出家せずとも、亦た善根を断じ、無量世に於て、都て利益無し。出家し已れば、善根を断ずと雖も、能く戒を受持し、耆旧(ぎきゅう)・長宿・有徳之人を供養し恭敬し、初禅乃至四禅を修習す。是れを善因と名づく。是の如くの善因は、能く善法を生ず。善法既に生ずれば、能く道を修習す。既に道を修習すれば、当に阿耨多羅三藐三菩提を得る。是の故に我れは善星の出家を聴す。善男子、若し我れが善星比丘の出家受戒を聴さずば、則ち我れを称して如来の具足十力と為すを得ず>

「知るべし、如来世尊、明らかに衆生の断善根となるべきを知らせ給ふと云へども、善因を授くるとして出家をゆるさせ給ふ、大慈大悲なり。断善根となること、善友に近づかず、正法を聞かず、善思惟せず、如法に行ぜざるによれり」

 文意の如くでありますが、これは釈尊在世の時勢に於ける道理を示すものと思われる。当時(紀元前350年頃)のガンジス河中流域における社会状況は、経済活動が活発に流通し、人々の信仰生活は従来のバラモン的考えから、釈尊ならびにその周縁勢力によるカーストの否定、アートマン(輪廻)否定により、人々の意識が改められ、ブッダダルマに従随する人々が多数派となる世上にて説かれた事情を見失ってはならない。

「いま学者、必ず善友に親近すべし、善友とは、諸仏ましますと説くなり、罪福ありと教ふるなり。因果を撥無せざるを善友とし、善知識とす。この人の所説、これ正法なり。この道理を思惟する、善思惟なり。かくの如く行ずる、如法行なるべし」

 此処では「因果を撥無せざる」つまり「因果関係はないと、しない」とは、善因善果、悪因悪果の法は歴然である。との見識であるが、この表現に至った背景には、寛元二年(1244)の吉峰時代に示された『大修行』での「落不落の論あらず、昧不昧の道あらず」(「大正蔵」八二・二五六a八)との優柔不断(どっちつかず)的な、却って不落因果を支持するような自身の言動の不備を是正するかの如くに、「因果を撥無せざるを善友とし、善知識とし、如法行なるべし」と断言される事情が十二巻本執筆の動機のようにも思われるが、さらに此の「因果の道理」を明らかに精魂を注いだ巻が『深信因果』での「百丈野狐」の話則となる訳である。

「しかあれば即ち、衆生は親疎を選ばず、たゞ出家受戒を勧むべし。後の退不退をかへりみざれ、修不修をおそるゝことなかれ。これまさに釈尊の正法なるべし」

 このように因果の法則は、厳然とするのであるから、「酔婆羅門」や「貴婦女」のように「おそるゝことなかれ」と出家受戒を提言するものであります。

   十六

 佛告比丘、當知、閻羅王、便作是説、我當何日脱此苦難、於人中生、以得人身、便得出家、剃除鬚髪、著三法衣、出家學道。閻羅王尚作是念。何況汝等、今得人身、得作沙門。是故諸比丘、當念行身口意行、無令有欠。當滅五結、修行五根。如是諸比丘、當作是學。爾時諸比丘、聞佛所説、歡喜奉行。

 あきらかにしりぬ、たとひ閻羅王なりといへども、人中の生をこひねがふことかくのごとし。すでにむまれたる人、いそぎ剃除鬚髪し、著三法衣して、學佛道すべし。これ餘趣にすぐれたる人中の功徳なり。しかあるを、人間にむまれながら、いたづらに官途世路を貪求し、むなしく國王大臣のつかはしめとして、一生を夢幻にめぐらし、後世は黒闇におもむき、いまだたのむところなきは至愚なり。すでにうけがたき人身をうけたるのみにあらず、あひがたき佛法にあひたてまつれり。いそぎ諸縁を捨し、すみやかに出家學道すべし。國王大臣、妻子眷屬は、ところごとにかならずあふ、佛法は優曇花のごとくにしてあひがたし。おほよそ無常たちまちにいたるときは、國王大臣、親伺從僕、妻子珍寶たすくるなし、たゞひとり黄泉におもむくのみなり。おのれにしたがひゆくは、たゞこれ善惡業等のみなり。人身を失せんとき、人身ををしむこゝろふかかるべし。人身をたもてるとき、はやく出家すべし、まさにこれ三世の諸佛の正法なるべし。

 

「仏告比丘、当知、閻羅王、便作是説、我当何日脱此苦難、於人中生、得人身、便得出家、剃除鬚髪、著三法衣、出家学道。閻羅王尚作是念。何況汝等、今得人身、得作沙門。是故諸比丘、()当念行身口意行、無令有欠。当滅五結、修行五根。如是諸比丘、当作是学。爾時諸比丘、聞仏所説、歓喜奉行」(―部「以」は原「已」、―部「常」は原あり。『増一阿含経』二十四「大正蔵」二・六七六b二〇)

<仏、比丘に告ぐ、当に知るべし、閻羅王は、便ち是の説を作す、我れ当に何(いづ)れの日にか此の苦難を脱し、人中に生じ、以て人身を得て、便ち出家し、剃除鬚髪し、三法衣を著して、出家学道を得る。閻羅王すら尚お是の念を作す。何(いか)に況んや汝等、今は人身を得て、沙門と作ることを得るや。是の故に諸比丘は、当に身口意行の行を、欠くる有るを無しと念ず。当に五結を滅し、五根を修行すべし。是の如く諸比丘は、当に是の学を作せ。爾の時に諸比丘は、仏の所説を聞いて、歓喜奉行す>

 「閻羅王」とは閻魔王であるが、バラモンヒンドゥー)の神話であるヤマ(Yama)天とヤミ(Aami)妃が死者に結びつく事から、仏教に取り込まれて冥界神となる。「三法衣」とは三条衣・七条衣・九条衣を云うが、南方仏教(温暖地方)と大乗仏教(寒冷地方)ではその著衣法に差違あり。「五結」とは「五下分結」を云い、煩悩の総称である。「下分」とは下の領域を指し欲界のこと。「結」は束縛のこと。アビダルマ(論)によれば➀貪欲(kama-raga)➁瞋恚(patigha)➂慢(mana)➃嫉(ねたみ・issa)⑤慳(物惜しみ・macchariya)

「五根」とは『三十七品菩提分法』に説かれる。➀信根(sadha)➁精進根(viriya)➂念根(sati)➃定根(samadhi)⑤慧根(panna)。

「明らかに知りぬ、たとひ閻羅王なりといへども、人中の生をこひねがふことかくの如し。すでにむまれたる人、急ぎ剃除鬚髪し、著三法衣して、学仏道すべし。これ余趣に勝れたる人中の功徳なり」

 「閻羅王」は元来はバラモンで生きた天神であった訳だが、瞿曇僧伽提婆訳である『阿含アーガマ)経』が成立した時点では、ばらの教説が仏教化した証左であろう。

「しかあるを、人間にむまれながら、いたづらに官途世路を貪求し、むなしく国王大臣のつかはしめとして、一生を夢幻にめぐらし、後世は黒闇に赴き、未だ頼む処なきは至愚なり。すでに受け難き人身を受けたるのみにあらず、あひがたき佛法にあひたてまつれり」

 これは道元の単眼視的考察であるが、人間界を僧(聖)↔世間(凡)に単純化して見るならば、互いの世界は可逆的な訳であるから、それぞれは合縁に依って成り立つものであるから、一概に固着した道理は嫌われていた道元ではあったが、ここでは敢えて自身の立場、当巻の主題からしての発現であろう。

「急ぎ諸縁を捨し、すみやかに出家学道すべし。国王大臣、妻子眷属は、所ごとに必ずあふ、仏法は優曇花の如くにしてあひがたし。おほよそ無常たちまちにいたる時は、国王大臣、親伺従僕、妻子珍宝たすくるなし、たゞひとり黄泉に赴くのみなり」

 此部の後半部は、明治期に創られた『修証義』

の一節であるが、この在家接化の教本と称して声高に吟ずる寺院衆もあるが、「無常」の什麽かをも会せずして、大声を放つ徒衆に読み聞かせたい箇所である。

「おのれに従ひゆくは、たゞこれ善悪業等のみなり。人身を失せん時、人身を惜しむこゝろ深かるべし。人身を保てる時、はやく出家すべし、まさにこれ三世の諸仏の正法なるべし」

 「人身を保てる時、はやく出家すべし」を承けてか、昔から日本では「授(受)戒会」と称し、一定期間(一週間もしくは三日間)縁に応じて宿泊可能な寺院にて、在家得度する行法が盛んに行持されるが、筆者が住するタイ国にても、大規模な僧院(タンマカーイ寺院)では、入安居(カオパンサー)の前には数百名が得度出家の儀を行ない、僧院内には常時何百、時には何千もの出家在家ともどもの行持が見られるものである。仏法を信奉する国土に於ては、東西南北・上下四方に拘わりなく「出家すべし」の事法が、理法と共に生活の規範となっているようである。

   十七

 その出家行法に四種あり。いはゆる四依なり。

 一、盡形壽樹下坐。二、盡形壽著糞掃衣。三、盡形壽乞食。四、盡形壽有病服陳棄藥。共行此法、方名出家、方名爲僧。若不行此、不名爲僧。是故名出家行法。

 いま西天東地、佛祖正傳するところ、これ出家行法なり。一生不離叢林なればすなはちこの四依の行法そなはれり、これを行四衣と稱ず。これに違して五依を建立せん、しるべし、邪法なり。たれか信受せん、たれか忍聽せん。佛祖正傳するところ、これ正法なり。これによりて出家する、人間最上最尊の慶辛なり。このゆゑに、西天竺國にはすなはち難陀阿難、調達阿那律、摩訶男抜提、ともにこれ師子頬王のむまご、刹利種姓のもとも尊貴なるなり、はやく出家せり。後代の勝躅なるべし。いま刹利にあらざらんともがら、そのみ、をしむべからず。王子にあらざらんともがら、なにのをしむところかあらん。閻浮提最第一の尊貴より、三界最第一の尊貴に歸するはすなはち出家なり。自餘の諸小國王諸離車衆、いたづらにをしむべからざるををしみ、ほこるべからざるにほこり、とゞまるべからざるにとゞまりて出家せざらん、たれかつたなしとせざらん、たれか至愚なりとせざらん。

 羅睺羅尊者は菩薩の子なり、淨飯王のむまごなり。帝位をゆづらんとす。しかあれども、世尊あながちに出家せしめまします。しるべし、出家の法最尊なりと。密行第一の弟子として、いまにいたりていまだ涅槃にいりましまさず、衆生の福田として世間に現住しまします。

 西天傳佛正法眼藏の祖師のなかに、王子の出家せるしげし。いま震旦の初祖、これ香至王第三皇子なり。王位をおもくせず、正法を傳持せり。出家の最尊なる、あきらかにしりぬべし。これらにならぶるにおよばざる身をもちながら、出家しつべきにおきていそがざらん、いかならん明日をかまつべき。出息、入息をまたず。いそぎ出家せん、それかしこかるべし。またしるべし、出家受戒の師、その恩徳、すなはち父母にひとしかるべし。

 

「その出家行法に四種あり。いはゆる四依なり。一、尽形寿樹下()坐。二、尽形寿著糞掃衣。三、尽形寿乞食。四、尽形寿有病服陳棄薬。共行此法、方名出家、方名為僧。若不行此、不名為僧。是故名出家行法」(―部「常」は原あり、―部「寿」は原なし。『大乗義章』七「大正蔵」四四・六〇八b二一)

<一、形寿の尽くまで樹下に坐す。二、形寿の尽くまで糞掃衣を著す。三、形寿の尽くまで乞食す。四、形寿の尽くまで病有れば陳棄薬を服す。共に此の法を行せば、方に出家と名づけ、方に名づけて僧と為す。若し此れを行ぜずば、名づけて僧と為さず。是の故に出家行法と名づく>

 これは『大乗義章』七における「黒白四業義両門分別」章での様々な分別が説かれる。「その出家行法に四種あり、いはゆる四依なり」にも「一出家衆法、二出家行法、三随行別法」に於ける「出家行法、所謂四依」を和文化したわけである。

 ここで片山一良氏(駒大名誉教授)による「衣食住と薬」なる小文を簡略的に紹介する。

 「最初期における仏教の比丘生活は、初期の諸経典によれば極めて簡素なものであった。少なくとも『経集』(スッタニパータ)によれば、「独坐と親近沙門とを学べ。独り楽しむ限り、聖者は独一と称される」(718)、「独坐の思惟と禅定とを捨てず、諸法において常に法に従って行い、諸生存の患いを思惟し、犀の角のように独り歩め」(69)

 このように『スッタニパータ』では最小限の衣食住の記述のみで、「薬」については語られないが、『長老偈』(Theragatha)では「乞食(uttithapinda)を食とし、牛溲(putimutta)を薬とし、樹下(rukkhamula)を臥坐所とし、糞掃衣(pamsukula)を衣服とする。これらを愛用する者、彼こそ四方の人である」と牛溲が薬(osadha)として述べらる。(牛溲=牛の尿であるが、筆者カトマンドゥに住し時、アサン・バザールにて牛の放尿に対し、老婆が自身に尿を降り注ぐ姿は、恰も甘露水を歓喜を以て頂く如くの光景、を見た経験あり)

「いま西天東地、仏祖正伝するところ、これ出家行法なり。一生不離叢林なれば即ちこの四依の行法そなはれり、これを行四衣と称ず。これに違して五依を建立せん、知るべし、邪法なり。たれか信受せん、たれか忍聴せん。仏祖正伝するところ、これ正法なり。これによりて出家する、人間最上最尊の慶辛なり」

 「四依の行法」とは「出家行法」からの援用であろうが、この行法が「仏祖正伝」とするは、先の片山氏の論考でも示されていたのであるが、「ダンマパダ・スッタニパータ」の時代では仏教の修行は個を重んじるものであったが、「テラガータ」や「律蔵」が成立する頃には、修行形態が個→集団へと変容した時期の状況を「西天東地、仏祖正伝するところ」と提示される訳である。

「このゆゑに、西天竺国には即ち難陀・阿難、調達・阿那律、摩訶男・抜提、ともにこれ師子頬王のむまご、刹利種姓のもとも尊貴なるなり、はやく出家せり。後代の勝躅なるべし」

 ここでは再度、難陀(釈尊の義弟)、阿難(釈尊の従弟)、調達(阿難の兄弟)、阿那律アヌルッダ釈尊の従弟)、摩訶男(マハーナーマ・五比丘の一人)、抜提(バドリカ・五比丘の一人)。これらは浄飯王(スッドーダナ釈尊の実父)の父である「師子頬王(シハハル)」から見れば六人ともども「孫」に当るわけであり、すなわち、この六人は高位のカースト(種姓)であるクシャトリヤ(刹利)出身の「最も尊貴なるなり」と、先の『大般涅槃経』からの再録とも云うべき文字群であるが、釈尊が唱えた仏法は、バラモンに抗して、階級意識を脱しようと主張する一つの文化革新運動であった訳であるから、あらためて「刹利種姓の最も尊貴なるなり」とのコメントは、如何にも自身の出自(上流階級)と照らし合わせるかのような文体であるが、『御抄』編著の経豪の詞を借りるならば、不審なる文意となろう。

「いま刹利にあらざらん輩、その身、惜しむべからず。王子にあらざらん輩、何の惜しむ処かあらん。閻浮提最第一の尊貴より、三界最第一の尊貴に帰するは即ち出家なり。自余の諸小国王諸離車衆、いたづらに惜しむべからざるを惜しみ、誇るべからざるに誇り、留まるべからざるに留まりて出家せざらん、たれかつたなしとせざらん、たれか至愚なりとせざらん」

 「刹利・王子にあらざらん輩(ともがら)」とは、社会階層に於ける高位に非ざる者たちを意味する訳であるから、その何物も持さない輩に於ては何を惜しむものがあるか?。との言は、二十一世紀的視点からすれば上から目線であり、高飛車な言行とも見て取られるが、今は問わない。

 「閻浮提最第一」の「閻浮提(jambu-dvipa)」とは人間界を指し、その最も上位とでも訳されようが、この語句はSAT「検索データベース」を駆使しても、此処のみの使用となる。「三界最第一」の表記は、当巻以外では四か所にて使用されるが、『方広大荘厳経』十二を例示すれば「太子経六年、勤苦得成道、号日天中天、三界最第一、我子在家時」(「大正蔵」三・六一四b二九)と提示されるが、「三界」は普通、「欲界、色界、無色界」を指すことから、迷いの世界とでも訳し、その既存世界もしくは執著世界からの離脱を「出家」と規定されるのでしょう。

 「自余の諸小国王諸離車衆」での「自余の諸小国王」とは釈尊在世前の古代北部インドに於ける「十六大国」と呼ばれた小国を指す。例示すれば「アンガ(Anga)国・マガダ(Magadha)国・ヴァッジ(Licchavi)国などの十六国を云う。「離車衆」は先の十六大国の一つであるヴァッジ国内のリッチャヴィ族を指すが、他にはジニャートリカ族・ヴィデーハ族などの八つの部族が連合して形成していたと伝えられる(ヴィキペディア参照)。

「羅睺羅尊者は菩薩の子なり、浄飯王のむまごなり。帝位をゆづらんとす。しかあれども、世尊あながちに出家せしめまします。知るべし、出家の法最尊なりと。密行第一の弟子として、今に至りて未だ涅槃に入りましまさず、衆生の福田として世間に現住しまします」

 ここでは釈尊の出家前に誕生した実子である羅睺羅(ラーフラ)についての出家譚を記すわけであるが、先述と同じく『大般涅槃経』を承けてのようです。一説には羅睺羅を悪魔の子と訳すこともあるようだが、ともかくも悉達太子つまり仏陀以前であるから「菩薩の子」であり、浄飯王から見れば愛しい初孫であったわけである。羅睺羅から見れば祖父である浄飯王は、王位を初孫に継承させて王位を譲ろうとするが、成道後カピラ城に帰郷した釈尊は、強いて羅睺羅には王位を継がせずに、出家に及んだとの説話であり、その法縁にて「密行第一の弟子」との称号を与えられたが、「密行」とは戒を綿密に奉行することである。つまりラーフラ十大弟子の一隅を得た訳である。他には舎利弗(シャーリープトラ・智慧第一)、目連(モッガラーナ・神通第一)、阿難陀(アーナンダ・多聞第一)等がいる。そこで羅睺羅に至っては、未入涅槃の菩薩行であり、衆生に対しては福田(ふくでん)を提供せられ、時空を超過して「現住しまします」と、特級なる讃美の詞である。

「西天伝仏正法眼蔵の祖師のなかに、王子の出家せるしげし。いま震旦の初祖、これ香至王第三皇子なり。王位を重くせず、正法を伝持せり。出家の最尊なる、明らかに知りぬべし。これらに並ぶるに及ばざる身を持ちながら、出家しつべきにおきて急がざらん、如何ならん明日をか待つべき。出息、入息を待たず。急ぎ出家せん、それかしこかるべし。また知るべし、出家受戒の師、その恩徳、すなはち父母に等しかるべし」

 此処では達磨の由来を説く。「香至王第三皇子」の呼び名は、『行持』下では「初祖は南天竺国、香至王の第三皇子なり」(「大正蔵」八二・一三六c一六)と特記されることから、自身の記憶を元に記述したものでしょうが、この表記法は二か所のみである。先述する如く羅睺羅・難陀・阿難などのように社会的地位を捨離し、「西天伝仏の祖師」となる例示を数多述べられるが、これを裏返して考えるならば、道元在世の鎌倉中世社会の仏教界の状況は、貴族社会と馴れ合いの官寺などを例にすれば理解できるように、貴族社会の階級意識が形を変えて(剃髪鬚髪)寺社会と直結していた現況をも加味し、皮肉を込めた提唱とも考え抜く事は如何でありましょう歟。

   十八

 禪苑清規第一云、三世諸佛、皆曰出家成道。西天二十八祖、唐土六祖、傳佛心印、盡是沙門。蓋以嚴淨毘尼、方能洪範三界。然則參禪問道、戒律爲先。既非離過防非、何以成佛作祖。

 たとひ澆風の叢林なりとも、なほこれ薝蔔の林なるべし。凡木凡草のおよぶところにあらず。また合水の乳のごとし。乳をもちゐんとき、この和水の乳をもちゐるべし、餘物をもちゐるべからず。

 しかあればすなはち、三世諸佛、皆曰出家成道の正傳、もともこれ最尊なり。さらに出家せざる三世諸佛おはしまさず。これ佛々祖々正傳の正法眼藏涅槃妙心、無上菩提なり。

 

「禅苑清規第一云、三世諸仏、皆曰出家成道。西天二十八祖、唐土六祖、伝仏心印、尽是沙門。蓋以厳浄毘尼、方能洪範三界。然則参禅問道、戒律為先。既非離過防非、何以成仏作祖」(『禅苑清規』一「続蔵」六三・五二三a一七)

<禅苑清規第一に云く、三世諸仏は、皆な出家成道と曰う。西天二十八祖、唐土六祖は、仏心印を伝う、尽く是れ沙門なり。蓋し以て毘尼を厳浄して、方に能く三界に洪範たり。然あれば則ち参禅問道は、戒律を先と為す。既に過(とが)を離れ非を防ぐに非ずは、何を以てか成仏し作祖とせん>

 まず引用典籍である『禅苑清規』であるが、『出家功徳』を中心に考えるなら、前の『出家』(旧草)の冒頭に同文(但し「受戒之法」の文あり)、後の『受戒』に於いても冒頭に同文を掲げ、拈提作業に入る。ここでの事柄については自著である『正法眼蔵「出家」を読み解く』に詳しく触れたので今は問わない。https://karnacitta.hatenablog.jp/entry/2020/03/15/000000_1

「たとひ澆風の叢林なりとも、なほこれ薝蔔の林なるべし。凡木凡草の及ぶ処にあらず。また合水の乳の如し。乳をもちゐん時、この和水の乳をもちゐるべし、余物をもちゐるべからず」

 「澆風」の「澆」とは廃(すた)れるの意があり衰える様を云うが、中国語には「澆風薄俗」なる四字熟語がある。つまり「澆風の叢林」とは仏祖の薫習が徐々に薄れゆく僧団(サンガ)のことであるが、それでも香気(薝蔔せんぷく、くちなしの異称)が残る叢林ではあるが「凡木凡草の及ぶ処にあらず」とは何に喩え、何を謂わんとするものであろうか。

 「また合水の乳の如し。乳をもちゐん時、この和水の乳をもちゐるべし、余物をもちゐるべからず」とは『大般涅槃経』九にて喩う「如牧牛女為欲売、貪多利故加二分水―略―乳之為味諸味中最」(「大正蔵」一二・四二一c一七)の経意を模して述べたものであろうが、これは当に、道元が帰山後に起きた永平寺山内に於ける騒動(分裂)を物語っての拈提ではないだろう歟。この状況を読み解くに当たり、鎌倉行化前にての『出家』に於ける同則拈提では、

「明らかに知るべし、諸仏諸祖の成道、ただこれ出家受戒のみなり。―略―仏を見、祖を見るとは、出家受戒するなり」とのみ記すのみで、叢林内の衰えてゆく様や、乳水和合の道理などには言及すること無く、「清規」の再録のみである。また同じく『受戒』冒頭に収められた拈提文をみると、

「西天東地、仏祖正伝し来たれる処、必ず入法の最初に受戒ありー略―戒律為先の言、すでにまさしく正法眼蔵なり」と述べる辺りは、『出家』と同視座のようである。

 これらの状況を勘案すると、この『出家功徳』殊に『禅苑清規』に対する拈提部は、宝治二年(1248)三月十四日以降の間もない山内状況を反映したものと云い得るであろう。さらに穿った見方をするならば、全体としては建長二年(1250)に到着した波多野氏からの「大蔵経」をベースに『出家功徳』は構成されるが、それまでの二年間に於いて「伝灯録章」・「盤山章」・「臨済章」等々は、すでに書上げられて居たのでは、と考える次第であります。

「しかあればすなはち、三世諸仏、皆曰出家成道の正伝、もともこれ最尊なり。さらに出家せざる三世諸仏おはしまさず。これ仏々祖々正伝の正法眼蔵涅槃妙心、無上菩提なり」

 最後の拈提としては、経文の文句に合わせ「出家成道」の「最尊・無上菩提」に連関させ、つまりは「出家成道」=「正法眼蔵涅槃妙心」と云う形容で以て、説き明かし示される訳であります。

 これまで長々に亘り、『出家功徳』と「十二巻」との聯関、「鎌倉行化」前後との関連等々を挙げ連ねた訳ですが、これらは筆者の妄想ではありますが、一縷の真実も含味するものと信じ、擱筆とする。

(終)

※石井修道著『出家』から『出家功徳』『受戒』へ

https://blog.hatena.ne.jp/nitani3246/karnacitta.hatenablog.jp/edit?entry=820878482946762679

 

2023年3月4日(タイ国盤谷北郊にて・二谷)