正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

修 証 義を考察する ―正法眼蔵から読み解くー

修 証 義を考察する

   ―正法眼蔵から読み解くー

第一章 総 序

生を明らめ死を明らむるは仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、 但生死即ち涅槃と心得て、生死として厭ふべきもなく、涅槃として欣ふべきもなし、 是時初めて生死を離るる分あり、唯一大事因縁と究尽すべし。(第1節)

(諸悪莫作)あはれむべし、居易、なんぢ道甚麼なるぞ。仏風いまだきかざるがゆゑに。三歳の孩児をしれりやいなや。孩児の才生せる道理をしれりやいなや。もし三歳の孩児をしらんものは、三世諸仏をもしるべし。いまだ三世諸仏をしらざらんもの、いかでか三歳の

孩児をしらん。対面せるはしれりとおもふことなかれ、対面せざればしらざるとおもふことなかれ。一塵をしるものは尽界をしり、一法を通ずるものは万法を通ず。万法に通ぜざるもの、一法に通ぜず。通を学せるもの通徹のとき、万法をもみる、一法をもみるがゆゑに、一塵を学するもの、のがれず尽界を学するなり。三歳の孩児は仏法をいふべからずとおもひ、三歳の孩児のいはんことは容易ならんとおもふは至愚なり。そのゆゑは、生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり。古徳いはく、なんぢがはじめて生下せりしとき、すなはち獅子吼の分あり。師子吼の分とは、如来転法輪の功徳なり、轉法輪なり。

(生死)生死の中に仏あれば生死なし。又云く、生死の中に仏なければ生死にまどはず。こころは、夾山定山といはれしふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。

(生死)生死をはなれんとおもはん人、まさにこのむねをあきらむべし。もし人、生死のほかにほとけをもとむれば、ながえをきたにして越にむかひ、おもてをみなみにして北斗をみんとするがごとし。いよいよ生死の因をあつめて、さらに解脱のみちをうしなへり。ただ生死すなはち涅槃とこゝろえて、生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分あり。

(法華転法華)法達禅師の曹谿に参ぜし因縁、かくのごとし。これより法華転と転法華との法華は開演するなり。それよりさきはきかず。まことに仏之知見をあきらめんことは、かならず正法眼蔵ならん仏祖なるべし。いたづらに沙石をかぞふる文字の学者はしるべきにあらずといふこと、いまこの法達の従来にてもみるべし。法華の正宗をあきらめんことは、祖師の開示を唯一大事因縁と究尽すべし、余乗にとぶらはんとすることなかれ。いま法華転の実相実性実体実力、実因実果の如是なる、祖師より以前には、震旦国にいまだきかざるところ、いまだあらざるところなり。

 

人身得ること難し、仏法値ふこと希なり、今我等宿善の助くるに依りて、 已に受け難き人身を受けたるのみに非らず遇ひ難き仏法に値ひ奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし、最勝の善身を徒らにして露命を無常の風に任すること勿れ。(第2節)

(帰依仏法僧宝)かくのごとくなるがゆゑに、いたづらに邪道に帰せざらんこと、あきらかに甄究すべし。たとひこれらの戒にことなる法なりとも、その道理、もし孤樹制多等の道理に符合せらば、帰依することなかれ。人身うることかたし、仏法あふことまれなり。いたづらに鬼神の眷属として一生をわたり、むなしく邪見の流類として多生をすごさん、かなしむべし。はやく仏法僧三宝に帰依したてまつりて、衆苦を解脱するのみにあらず、菩提を成就すべし。

(帰依仏法僧宝)これを天帝拝畜為師の因縁と称ず。あきらかにしりぬ、仏名法名僧名のきききがたきこと、天帝の野干を師とせし、その証なるべし。いまわれら宿善のたすくるによりて如来の遺法にあふたてまつり、昼夜に三宝の宝号をききたてまつること。

(出家功徳)しかあるを、人間にむまれながら、いたづらに官途世路を貪求し、むなしく国王大臣のつかはしめとして、一生を夢幻にめぐらし、後世は黒闇におもむき、いまだたのむところなきは至愚なり。すでにうけがたき人身をうけたるのみにあらず、あひがたき仏法にあひたてまつれり。いそぎ諸縁を拋捨し、すみやかに出家学道すべし。

(袈裟功徳)まことに無量恒河沙の三千大千世界を統領せんよりも、仏衣現在の小国に王としてこれを見聞供養したてまつらんは、生死のなかの善生、最勝の生なるべし。仏化のおよぶところ、三千界いづれのところか袈裟なからん。

(出家功徳)あきらかにしるべし、この四種最勝、すなはち北洲にもすぐれ、諸天にもすぐれたり。いまわれら宿善根力にひかれて最勝の身をえたり、歓喜髄喜して出家受戒すべきものなり。最勝の善身をいたづらにして、露命を無常の風にまかすることなかれ。出家の生々をかさねば、積功累徳ならん。

 

無常たのみ難し、知らず露命いかなる道の草にか落ちん、身已に私に非ず、 命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いずこへか去りにし、尋ねんとす るに蹤跡なし、つらつら観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、 無常忽ちに到るときは国王大臣親暱従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり、己れに随い行くは只是れ善悪業等のみなり。(第3節)

(重雲堂式)嘆かざらめや、嘆かざらめやば、無常たのみ難し。知らず露命いかなる道の草にか落ちむ、誠に憐れむべし。

(恁麽)いはゆる身心ともに盡界にあらはれて、われにあらざるゆゑにしかありとしるなり。身すでにわたくしにあらず、いのちは光陰にうつされてしばらくもとゞめがたし。紅顔いづくへかさりにし、たづねんとするに蹤跡なし。つらつら観ずるところに、往事のふたゝびあふべからざるおほし。赤心もとゞまらず、片々として往来す。たとひまことありといふとも、吾我のほとりにとゞこほるものにあらず。

(出家功徳)国王大臣、妻子眷属は、ところごとにかならずあふ、仏法は優曇花のごとくにしてあひがたし。おほよそ無常たちまちにいたるときは、國王大臣、親伺従僕、妻子珍宝たすくるなし、たゞひとり黄泉におもむくのみなり。おのれにしたがひゆくは、たゞこれ善悪業等のみなり。人身を失せんとき、人身ををしむこころふかかるべし。

 

今の世に因果を知らず業報を明らめず、三世を知らず、善悪を弁えざる邪見のともがらには群すべからず、大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち修善の者は陞る、 豪釐も忒わざるなり、 若し因果亡じて虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。(第4節)

(三時業)これもまた、世尊はるかに第二十祖は闇夜多なるべしと記しましませり。しかあればすなはち、仏法の批判、もともかくのごとくの祖師の所判のごとく習学すべし。いまのよに因果をしらず、業報をあきらめず、三世をしらず、善悪をわきまへざる邪見のともがらに群すべからず。いはゆる善悪之報有三時焉といふは、三時、一者順現法受。二者順次生受。三者順後次受。これを三時といふ。

(深信因果)因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見をおこして、断善根とならんことを。おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは墮し、修善のものはのぼる、毫釐もたがはざるなり。もし因果亡じ、むなしからんがごときは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず、おほよそ衆生の見仏聞法あるべからざるなり。因果の道理は、孔子老子等のあきらむるところにあらず。

 

善悪の報に三時あり、一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受、これを三時という、

仏祖の道を修習するには、其最初より斯三時の業報の理を効い験らむるなり、爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり、但邪見に堕つるのみに非ず、 悪道に堕ちて長時の苦を受く。(第5節)

(三時業)善悪之報有三時焉といふは、三時、一者順現法受。二者順次生受。三者順後次受。これを三時といふ。仏祖の道を修習するには、その最初より、この三時の業報の理をならひあきらむるなり。しかあらざれば、おほくあやまりて邪見に堕するなり。ただ邪見に堕するのみにあらず、悪道におちて長時の苦をうく。続善根せざるあひだは、おほくの功徳をうしなひ、菩提の道ひさしくさはりあり、をしからざらめや。

 

当に知るべし今生の我身二つ無し、三つ無し、徒らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん、 惜しからざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依 りて悪の報を感得せざるには非ず。(第6節)

正法眼蔵内18箇所で確認・特定不可)まさにしるべし。

(三時業)まづ因果を撥無し、仏法僧を毀謗し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。まさにしるべし、今生のわが身、ふたつなしみつなし。いたづらに邪見におちて、むなしく悪業を感得せん、をしからざらんや。悪をつくりながら悪にあらずとおもひ、悪の報あるべからずと邪思惟するによりて、悪報の感得せざるにはあらず。悪思惟によりては、きたるべき善報も転じて悪報のきたることもあるなり。

 

第二章 懺悔滅罪

仏祖憐みの余り広大の慈門を開き置けり、是れ一切衆生を証入せしめんが為なり、人天誰か入らざらん、 彼の三時の悪業報必ず感ずべしと雖も、懺悔するが如きは重きを転じて軽受せしむ、又滅罪清浄ならしむるなり。(第7節)

(辦道話)しめしていはく、おほよそ、仏祖あはれみのあまり、広大の慈門をひらきおけり。これ一切衆生を証入せしめんがためなり、人天たれかいらざらむものや。ここをもて、むかしいまをたづぬるに、その証これおほし。

三時業)世尊のしめしましますがごときは、善悪の業つくりをはりぬれば、たとひ百千万劫をふといふとも不亡なり。もし因縁にあへばかならず感得す。しかあれば、悪業は懺悔すれば滅す。また転重軽受す。善業は髄喜すればいよいよ増長するなり。これを不亡といふなり。その報なきにはあらず。

(袈裟功徳)生福滅罪感人天

(洗面)澡浴し、浣洗するに、身量心量を究尽して清浄ならしむるなり。たとひ四大なりとも、たとひ五蘊なりとも、

 

然あれば誠心を専らにして前仏に懺悔すべし、恁麼するとき前仏懺悔の功徳力我を拯いて清浄ならしむ、 此功徳能く無礙の浄信精進を生長せしむるなり。浄信一現するとき、自佗同じく転ぜらるるなり、其利益普く情非情に蒙ぶらしむ。( 第8節)

(300箇所例文在り)しかあれば

(谿声山色)心も肉も、懈怠にもあり、不信にもあらんには、誠心をもはらして、前仏に懺悔すべし。恁麼するとき、前仏懺悔の功徳力、われをすくひて清浄ならしむ。この功徳、よく無礙の浄信精進を生長せしむるなり。浄信一現するとき、自佗おなじく転ぜらるゝなり。その利益、あまねく情非情にかうぶらしむ。その大旨は、願くはわれたとひ過去の悪業おほくかさなりて、障道の因縁ありとも、仏道によりて得道せりし諸仏諸祖、われをあはれみて、業累を解脱せしめ、学道さはりなからしめ、その功徳法門、あまねく無尽法界に充満弥淪せらんあはれみをわれに分布すべし。仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。

 

其大旨は、願わくは我れ設い過去の悪業多く重なりて障道の因縁ありとも、仏道に因りて得道せりし諸仏諸祖我れを愍みて業累を解脱せしめ、学道障り無からしめ、其功徳法門普く無尽法界に充満弥綸せらん、哀れみを我に分布すべし、仏祖の往昔は吾等なり、 吾等が当来は仏祖ならん。(第9節)

(谿声山色)その大旨は、願くはわれたとひ過去の悪業おほくかさなりて、障道の因縁ありとも、仏道によりて得道せりし諸仏諸祖、われをあはれみて、業累を解脱せしめ、学道さはりなからしめ、その功徳法門、あまねく無尽法界に充満弥淪せらんあはれみをわれに分布すべし。仏祖の往昔は吾等なり、吾等が当来は仏祖ならん。

 

我昔所造諸悪業、皆由無始貧瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔、是の如く懺悔すれば必ず仏祖の冥助あるなり、 心念身儀発露白仏すべし、発露の力罪根をして銷殞せしむるなり。(第10節)

(教授戒文)我昔所造諸悪業、皆由無始貧瞋痴、従身口意之所生、一切我今皆懺悔

(谿声山色)龍牙のいはく、昔生未了今須了、此生度取累生身。古仏未悟同今者、悟了今人即古人。しづかにこの因縁を参究すべし、これ証仏の承当なり。かくのごとく懺悔すれば、かならず仏祖の冥助あるなり。心念身儀発露白仏すべし、發露のちから罪根をして銷殞せしむるなり。これ一色の正修行なり、正信心なり、正信身なり。

 

第三章 受戒入位

次には深く仏法僧の三宝を敬い奉るべし、生を易え身を易えても三宝を供養し敬い奉らんことを願うべし、 西天東土仏祖正伝する所は恭敬仏法僧なり。(第11節)

(道心)法をおもくして、わが身、我がいのちをかろくすべし。法のためには、身もいのちもをしまざるべし。つぎには、ふかく仏法僧三宝をうやまひたてまつるべし。生をかへ身をかへても、三宝を供養し、うやまひたてまつらんことをねがふべし。ねてもさめても三寶の功徳をおもひたてまつるべし、ねてもさめても三宝をとなへたてまつるべし。

(帰依仏法僧宝)禅苑清規曰、敬仏法僧否。一百二十門第一。あきらかにしりぬ、西天東土、佛祖正傳するところは、恭敬佛法僧なり。帰依せざれば恭敬せず、恭敬せざれば帰依すべからず。この帰依仏法僧の功徳、かならず感応道交するとき成就するなり。

 

若し薄福少徳の衆生三宝の名字猶ほ聞き奉らざるなり、何に況や帰依し奉ることを得んや、徒に所逼を怖れて山神鬼神等に帰依し、或いは外道の制多に帰依すること勿れ、彼は其帰依に因りて衆苦を解脱すること無し、早く仏法僧の三宝に帰依し奉りて 衆苦を解脱するのみに非ず菩提を成就すべし。(第12節)

(帰依仏法僧宝)かくのごとくの三宝に帰依したてまつるなり。もし薄福少徳の衆生は、三宝の名字なほききたてまつらざるなり。いかにいはんや帰依したてまつることえんや。法華経曰、是諸罪衆生、以悪業因縁、過阿僧祇劫、不聞三宝名。

(帰依仏法僧宝)世尊あきらかに一切衆生のためにしめしまします。衆生いたづらに所逼をおそれて、山神鬼神等に帰依し、あるいは外道の制多に帰依することなかれ。かれはその帰依によりて衆苦を解脱することなし。おほよそ外道の邪教にしたがうて、

(帰依仏法僧宝)人身うることかたし、仏法あふことまれなり。いたづらに鬼神の眷属として一生をわたり、むなしく邪見の流類として多生をすごさん、かなしむべし。はやく仏法僧三宝に帰依したてまつりて、衆苦を解脱するのみにあらず、菩提を成就すべし。

 

其帰依三宝とは正に浄信を専らにして或いは如来現在世にもあれ、或いは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して口に唱えて云く、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧、仏は是れ大師なるが故に帰依す、法は良薬なるが故に帰依す。僧は勝友なるが故に帰依す、仏弟子となること必ず三帰に依る、何れの戒を受くるも必ず三帰を受けて其後諸戒を受くるなり、然あれば則ち三帰に依りて得戒あるなり。(第13節)

(帰依仏法僧宝)その帰依三宝とは、まさに浄信をもはらにして、あるいは如来現在世にもあれ、あるいは如来滅後にもあれ、合掌し低頭して、口にとなへていはく、我某甲、今身より仏身にいたるまで、帰依仏、帰依法、帰依僧。帰依仏両足尊、帰依法離欲尊、帰依僧衆中尊。帰依仏竟、帰依法竟、帰依僧竟。

(道心)三宝をとなへたてまつり、南無帰依仏、南無帰依法、南無帰依僧。ととなへたてまつらんこと、わすれず、ひまなく、となへたてまつるべし。

(帰依仏法僧宝)いはゆる帰依とは、帰は帰投なり、依は依伏なり。このゆゑに帰依といふ。帰投の相は、たとへば子の父に帰するがごとし。依伏は、たとへば民の王に依するがごとし。いはゆる救済の言なり。仏はこれ大師なるがゆゑに帰依す、法は良薬なるがゆゑに帰依す、僧は勝友なるがゆゑに帰依す。

(帰依仏法僧宝)優婆塞。仏言、摩男、若受三帰、及受一戒、是名一分優婆塞。仏弟子となること、かならず三帰による。いづれの戒をうくるも、かならず三帰をうけて、そののち諸戒をうくるなり。しかあればすなはち、三帰によりて得戒あるなり。法句経云、昔有天帝、自知命終生於驢中、愁憂不已曰、救苦厄者、唯仏世尊。便至仏所、

 

此の帰依仏法僧の功徳、必ず感応道交するとき成就するなり、設い天上人間地獄鬼畜なりと雖も、感応道交すれば必ず帰依し奉るなり、已に帰依し 奉るが如きは生生世世在在処処に増長し、必ず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり、知るべし三帰の功徳其れ最尊最上甚深不可思議 なりということ、世尊已に証明しまします衆生当に信受すべし。(第14節)

(帰依仏法僧宝)あきらかにしりぬ、西天東土、佛祖正傳するところは、恭敬佛法僧なり。歸依せざれば恭敬せず、恭敬せざれば歸依すべからず。この歸依佛法僧の功徳、かならず感應道交するとき成就するなり。たとひ天上人間、地獄鬼畜なりといへども、感應道交すれば、かならず帰依したてまつるなり。すでに帰依したてまつるがごときは、世々生々、在々処々に増長し、かならず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するなり。おのづから悪友にひかれ、魔障にあふて、しばらく断善根となり、一闡提となれども、つひには続善根し、その功徳増長するなり。帰依三宝の功徳、つひに不朽なり。

(帰依仏法僧宝)過去世に出家せしとき、かつて三帰をうけたりといへども、業報によりて餓龍となれるとき、餘法のこれをすくふべきなし。このゆゑに三帰をさづけまします。しるべし、三帰の功徳、それ最尊最上、甚深不可思議なりといふこと。世尊すでに証明しまします、衆生まさに信受すべし。十方の諸仏の各号を称念せしめましまさず、たゞ三帰をさづけまします。仏意の甚深なる、たれかこれを測量せん。

 

次には応に三聚浄戒を受け奉るべし、第一摂律儀戒、第二摂善法戒、第三摂衆生戒なり、次には応に十重禁戒を受け奉るべし、第一不殺生戒、第二不偸盗戒、第三不邪婬戒、第四不妄語戒、第五不酤酒戒、第六不説過戒、第七不自讃毀佗戒、第八不慳法財戒、第九不瞋恚戒、第十不謗 三宝戒なり、上来三帰三聚浄戒、十重禁戒、是れ諸仏の受持したまう所なり。(第15節)

(受戒)より抜き書きしたものである。

 

受戒するが如きは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊の仏果を証するなり、誰の智人か欣求せざらん、世尊明らかに一切衆生の 為に示しまします、衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同うし已る、真に是れ諸仏の子なりと。(第16節)

(出家功徳)かくのごとくわれにあらざる人身なりといへども、めぐらして出家受戒するがごときは、三世の諸仏の所証なる阿耨多羅三藐三菩提、金剛不壊の仏果を証するなり。たれの智人か欣求せざらん。これによりて、過去日月燈明仏の八子、みな四天下を領する王位をすてて出家す。大通智勝仏の十六子、ともに出家せり。

(帰依仏法僧宝)世尊あきらかに一切衆生のためにしめしまします。衆生いたづらに所逼をおそれて、山神鬼神等に帰依し、あるいは外道の制多に帰依することなかれ。

 

諸仏の常に此中に住持たる、各各の方面に知覚を遺さず、群生の長えに此中に使用する、各各の知覚に方面露れず、是時十方法界の土地草木牆壁瓦礫皆仏事を作すを以って、其起す所の風水の利益に預る輩、皆甚妙不可思議の仏化に冥資せられて親き悟を顕わす、是を無為の功徳とす、是を無作の功徳とす、是れ発菩提心なり。 (第17節)

(辦道話)この法は、人人の分上にゆたかにそなはれりといへども、いまだ修せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし。はなてばてにみてり、一多のきはならんや。

かたればくちにみつ、縦横きはまりなし。諸仏のつねにこのなかに住持たる、各各の方面に知覚をのこさず。群生のとこしなへにこのなかに使用する、各各の知覚に方面あらはれず。

 いまをしふる功夫弁道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり。

(辦道話)ひろく仏向上の機にかうぶらしめて、よく仏向上の法を激揚す。このとき、十方法界の土地・草木・牆壁・瓦礫みな仏事をなすをもて、そのおこすところの風水の利益にあづかるともがら、みな甚妙不可思議の仏化に冥資せられて、ちかきさとりをあらはす。この水火を受用するたぐひ、みな本証の仏化を周旋するゆゑに、

(発無上心)しかあれば、而今の造塔造仏等は、まさしくこれ発菩提心なり。直至成仏の発心なり、さらに中間に破癈すべからず。これを無爲の功徳とす、これを無作の功徳とす。これ真如観なり、これ法性観なり。これ諸仏集三昧なり、これ得諸仏陀羅尼なり。

(発無上心)坐禅辦道これ発菩提心なり。発心は一異にあらず、坐禅は一異にあらず、再三にあらず。

 

第四章 発願利生

菩提心を発すというは、己れ未だ度らざる前に一切衆生を度さんと発願し営むなり、設い在家にもあれ、 設い出家にもあれ、或は天上にもあれ、或いは人間にもあれ、苦にありというとも楽にありというとも、早く自未得度先度他の心を発すべし。 (第18節)

(発菩提心この慮知をすなはち菩提心とするにはあらず、この慮知心をもて菩提心をおこすなり。菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに、一切衆生の導師なり。

(発菩提心しかあればすなはち、たとひ在家にもあれ、たとひ出家にもあれ、あるいは天上にもあれ、あるいは人間にもあれ、苦にありといふとも、樂にありといふとも、はやく自未得度先度佗の心をおこすべし。衆生界は有辺無辺にあらざれども、先度一切衆生の心をおこすなり。これすなはち菩提心なり。

 

其形陋いやしというとも、此心を発せば、已に一切衆生の導師なり、設い七歳の女流なりとも即ち四衆の導師なり、 衆生の慈父なり、男女を論ずること勿れ、此れ仏道極妙の法則なり。(第19節)

(発菩提心菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願しいとなむなり。そのかたちいやしといふとも、この心をおこせば、すでに、一切衆生の導師なり。

(礼拝得髄)仏法を修行し、仏法を道取せんは、たとひ七歳の女流なりとも、すなはち四衆の導師なり、衆生の慈父なり。たとへば龍女成仏のごとし。供養恭敬せんこと、諸仏如来にひとしかるべし。これすなはち仏道の古儀なり。

(礼拝得髄)得道はいづれも得道す。たゞし、いづれも得法を敬重すべし、男女を論ずることなかれ。これ仏道極妙の法則なり。又、宋朝に居士といふは、未出家の士夫なり。

 

若し菩提心を発おこして後、六趣四生に輪転すと雖も、其輪転の因縁皆菩提の行願となるなり、然あれば従来の光陰は設い空しく過ごすというとも、今生の未だ過ぎざる際だに急ぎて発願すべし、設い仏に成るべき功徳熟して円満すべしというとも、尚廻らして衆生の成仏得道に回向するなり、或いは無量劫行いて衆生を先に度して自らは終に仏に成らず、但し衆生を度し衆生を利益するもあり。(第20節)

(谿声山色)あはれむべし、宝山にむまれながら宝財をしらず、宝財をみず、いはんや法財をえんや。もし菩提心をおこしてのち、六趣四生に輪転すといへども、その輪転の因縁、みな菩提の行願となるなり。しかあれば、従来の光陰はたとひむなしくすごすといふとも、今生のいまだすぎざるあひだに、いそぎて発願すべし。ねがはくはわれと一切衆生と、今生より乃至生々をつくして正法をきくことあらん。

(発菩提心自未得度先度佗の心をおこせるちからによりて、われほとけにならんとおもふべからず。たとひほとけになるべき功徳熟して円満すべしといふとも、なほめぐらして衆生の成仏得道に回向するなり。この心、われにあらず、佗にあらず。

(発菩提心菩提心をおこしてのち、三阿僧祇劫、一百大劫修行す。あるいは無量劫おこなひてほとけになる。あるいは無量劫おこなひて、衆生をさきにわたして、みづからはつひにほとけにならず、たゞし衆生をわたし、衆生を利益するもあり。菩薩の意楽にしたがふ。おほよそ菩提心は、いかゞして一切衆生をして菩提心をおこさしめ、仏道に引導せましと、ひまなく三業にいとなむなり。

 

衆生を利益すというは四枚の般若あり、一者布施、ニ者愛語、三者利行、四者同事、是れ即ち薩埵の行願なり、其布施というは貪らざるなり、 我物に非ざれども布施を障えざる道理あり、其物の軽きを嫌わず、其功の実なるべきなり、然あれば即ち一句一偈の法をも布施すべし、 此生佗生の善種となる一銭一草の財をも布施すべし、此世佗世の善根を兆す、法も財たからなるべし、財も法なるべし、但彼が報謝を貪らず自らが力を頒つなり、 舟を置き橋を渡すも布施の檀度なり、治生産業固より布施に非ざること無し。(第21節)

(発菩提心衆生を利益すといふは衆生をして自未得度先度佗のこころをおこさしむるなり。

(摩訶般若波羅蜜また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意、色声香味触法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また四枚の般若あり、苦集滅道なり。また六枚の般若あり、

(菩提薩埵四摂法)一者、布施。二者、愛語。三者、利行。四者、同事。その布施といふは不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。

(辦道話)これすなはち仏家の心性をしれる様子なり。

(菩提薩埵四摂法)同事の道理あるがゆゑに、同事は薩埵の行願なり。ただまさに、やはらかなる容顔をもて一切にむかふべし。

(菩提薩埵四摂法)その布施といふは不貪なり。不貪といふは、むさぼらざるなり。

(菩提薩埵四摂法)面々に布施に相応する功徳を本具せり。我物にあらざれども、布施をさへざる道理あり。そのもののかろきをきらはず、その功の実なるべきなり。道を道にまかするとき、得道す。得道のときは、道かならず道にまかせられ

(菩提薩埵四摂法)しるべし、ひそかにそのこゝろの通ずるなりと。しかあればすなはち、一句一偈の法をも布施すべし、此生佗生の善種となる。一錢一草の財をも布施すべし、此世多世の善根をきざす。法もたからなるべし、財も法なるべし。願楽によるべきなり。

(菩提薩埵四摂法)まことにすなはち、ひげをほどこしては、もののこころをととのへ、いさごを供じては王位をうるなり。たゞかれが報謝をむさぼらず、みづからがちからをわかつなり。舟をおき、橋をわたすも、布施の檀度なり。もしよく布施を学するときは、受身捨身ともにこれ布施なり、治生産業もとより布施にあらざることなし。はなを風にまかせ、鳥をときにまかするも、布施の功業なるべし。

 

 

愛語というは、衆生を見るに、先ず慈愛の心を発し、顧愛の言語を施すなり、慈念衆生猶如赤子の懐いを貯えて言語するは愛語なり、 徳あるは讃むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面いて愛語を聞くは面を喜ばしめ、 心を楽しくす、面わずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず、愛語能く廻天の力あることを学すべきなり。(第22節)

(菩提薩埵四摂法)六波羅蜜のはじめに檀波羅蜜あるなり。心の大小ははかるべからず、物の大小もはかるべからず。されども、心転物のときあり、物転心の布施あるなり。愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。おほよそ暴悪の言語なきなり。

(菩提薩埵四摂法)仏道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。慈念衆生、猶如赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語を

(菩提薩埵四摂法)世々生々にも不退転ならん。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり。

(菩提薩埵四摂法)愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを学すべきなり、ただ能を賞するのみにあらず。

 

 利行というは貴賤の衆生に於きて利益の善巧を廻らすなり、窮亀を見病雀を見しとき、彼が報謝を求めず、唯単に利行に催さるるなり、愚人謂わくは利佗を先とせば自らが利省れぬべしと、爾には非ざるなり、利行は一法なり、普ねく自佗を利するなり。(第23節)

(菩提薩埵四摂法)利行といふは、貴賤の衆生におきて、利益の善巧をめぐらすなり。たとへば、遠近の前途をまぼりて、利佗の方便をいとなむ。

(菩提薩埵四摂法)窮亀をあはれみ、病雀をやしなふし、窮亀をみ、病雀をみしとき、かれが報謝をもとめず、たゞひとへに利行にもよほさるゝなり。愚人おもはくは、利佗をさきとせば、自が利、はぶかれぬべしと。しかにはあらざるなり。利行は一法なり、あまねく自佗を利するなり。むかしの人、ひとたび沐浴するに、みたびかみをゆひ、ひとたび飡食するに、みたびはきいだいしは、ひとへに佗を利せしこゝろなり。

 

同事というは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり、譬えば人間の如来は人間に同ぜるが如し、佗をして自に同ぜしめて後に自をして佗を同ぜしむる道理あるべし、自佗は時に随うて無窮なり、海の水を辞せざるは同事なり、是故に能く水聚りて海となるなり。(第24節)

(菩提薩埵四摂法)同事といふは、不違なり。自にも不違なり、佗にも不違なり。たとへば、人間の如来は人間に同ぜるがごとし。人界に同ずるをもてしりぬ、同余界なるべし。同事をしるとき、自佗一如なり。

(菩提薩埵四摂法)たとへば、事といふは、儀なり、威なり、態なり。佗をして自に同ぜしめてのちに、自をして佗に同ぜしむる道理あるべし。自佗はときにしたがうて無窮なり。

(菩提薩埵四摂法)しるべし、海の水を辞せざるは同事なり。さらにしるべし、水の海を辞せざる徳も具足せるなり。

(菩提薩埵四摂法)さらにしるべし、水の海を辞せざる徳も具足せるなり。このゆゑに、よく水あつまりて海となり、土かさなりて山となるなり。

大凡菩提心の行願には是の如くの道理静かに思惟すべし、卒爾にすること勿れ、済度摂受に一切衆生皆化を被ぶらん功徳を礼拝恭敬すべし。(第25節)

(谿声山色)おほよそ菩提心の行願には菩提心の発未発、行道不行道を世人にしられんことをおもはざるべし、しられざらんといとなむべし。

(仏経)五祖、知人の知識にあらずは、いかでかかくのごとくならん。かくのごとくの道理、しづかに思惟すべし、卒爾にすることなかれ。知人のちからをえんことをこひねがふべし。

(礼拝得髄)諸仏の大界の遍界に違越すべからざる、済度摂受に一切衆生みな化をかうぶらん、功徳を礼拝恭敬すべし。たれかこれを得道髄といはざらん。

 

第五章 行持報恩

此発菩提心、多くは南閻浮の人身に発心すべきなり、今是の如くの因縁あり、願生此娑婆国土し来れり、見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや。(第26節)

(発菩提心感応道交するに発心するゆゑに、自然にあらず。この発菩提心、おほくは南閻浮の人身に発心すべきなり。八難処等にもすこしきはあり、おほからず。

(谿声山色)かつて国王大臣の恭敬供養をまつこと、期せざるものなり。しかあるに、いまかくのごとくの因縁あり、本期にあらず、所求にあらず。

(見仏)深心信解寿命長遠のために、願生此娑婆国土しきたれり。如来の神力慈悲力寿命長遠力、よく心を拈じて信解せしめ

(見仏)いまの此経典にむまれあふ、釈迦牟尼仏をよろこばざらんや、生値釈迦牟尼仏なり。

 

静かに憶うべし、正法世に流布せざらん時は、身命を正法の為に抛捨せんことを願うとも値うべからず、正法に逢う今日の吾等を願うべし、見ずや、仏の言わく、無上菩提を演説する師に値わんには、種姓を観ずること莫れ、容顔を見ること莫れ、非を嫌うこと莫れ、行いを考うること莫れ、但般若を尊重するが故に、日日三時に礼拝し、恭敬して、更に患悩の心を生ぜしむること莫れと。(第27節)

(行持)しづかにおもふべし、正法よに流布せざらんときは、身命を正法のために拋捨せんことをねがふともあふべからず。正法にあふ今日のわれらをねがふべし、正法にあうて身命をすてざるわれらを慚愧せん。

(谿声山色)みずや、ほとけのたまはく如来現在、猶多怨嫉の金言あることを。

(礼拝得髄)釈迦牟尼仏のいはく、無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。たゞ般若を尊重するがゆゑに、日々に百千両の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし、天花を散じて供養すべし。日々三時、礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむることなかれ。かくのごとくすれば、菩提の道、かならずところあり。われ発心よりこのかた、かくのごとく修行して、今日は阿耨多羅三藐三菩提をえたるなり。

 

今の見仏聞法は仏祖面面の行持より来れる慈恩なり、仏祖若し単伝せずば、奈何にしてか今日に至らん、一句の恩尚報謝すべし、一法の恩尚報謝すべし、況や正法眼蔵無上大法の大恩これを報謝せざらんや、病雀尚恩を忘れず三府の環能く報謝あり、窮亀尚恩を忘れず、余不の印能く報謝あり。畜類尚恩を報ず、人類争か恩を知らざらん。(第28節)

(行持)いまの見仏聞法は、仏祖面々の行持よりきたれる慈恩なり。仏祖もし単伝せずは、いかにしてか今日にいたらん。一句の恩なほ報謝すべし、一法の恩なほ報謝すべし。いはんや正法眼蔵無上大法の大恩、これを報謝せざらんや。一日に無量恒河沙の身命すてんこと、ねがふべし。

(行持)古來の仏祖の古来の仏祖を報謝しきたれる知恩報恩の儀なり。病雀なほ恩をわすれず、三府の環よく報謝あり。窮亀なほ恩をわすれず、余不の印よく報謝あり。かなしむべし、人面ながら畜類よりも愚劣ならんことは。

(伝衣)祖師伝法の大恩、ねんごろに報謝すべし。畜類なほ恩を報ず、人類いかでか恩をしらざらん。もし恩をしらずは、畜類よりも劣なるべし、畜類よりも愚なるべし。

 

 其報謝は余外の法は中るべからず、唯当に日日の行持、其報謝の正道なるべし、謂ゆるの道理は日日の生命を等閑にせず、私に費やさざらんと行持するなり。(第29節)

(行持)今日われら正法を見聞するたぐひとなれり、祖の恩かならず報謝すべし。その報謝は、余外の法はあたるべからず、身命も不足なるべし、国城もおもきにあらず。

(行持)しかあれば、これを挙して報謝に擬するに不道なるべし。ただまさに日々の行持、その報謝の正道なるべし。いはゆるの道理は、日々の生命を等閑にせず、わたくしにつひやさざらんと行持するなり。そのゆゑはいかん。この生命は、前来の行持の余慶なり、行持の大恩なり。

 

光陰は矢よりも迅かなり、身命は露よりも脆し、何れの善巧方便ありてか過ぎにし一日を復び還し得たる、徒に百歳生けらんは恨むべき日月なり、悲しむべき形骸なり、設い百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、其中一日の行持を行取せば一生の百歳を行取するのみに非ず、百歳の佗生をも度取すべきなり、此一日の身命は尊ぶべき身命なり、貴ぶべき形骸なり、此行持あらん身心自からも愛すべし、自からも敬うべし、我等が行持に依りて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり、然あれば即ち一日の行持是れ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。(第30節)

(行持)堂奥にいるといらざると、師決をきくときかざるとあり。光陰は矢よりもすみやかなり、露命は身よりももろし。師はあれどもわれ参不得なるうらみあり、参ぜんとするに師不得なるかなしみあり。

(行持)一生百歳のうちの一日は、ひとたびうしなはん、ふたゝびうることなからん。いづれの善巧方便ありてか、すぎにし一日をふたたびかへしえたる。紀事の書にしるさざるところなり。

(行持)しかあれば、一日はおもかるべきなり。いたづらに百歳いけらんは、うらむべき日月なり、かなしむべき形骸なり。たとひ百歳の日月は声色の奴婢と馳走すとも、そのなか一日の行持を行取せば、一生の百歳を行取するのみにあらず、百歳の佗生をも度取すべきなり。この一日の身命はたふとぶべき身命なり、たふとぶべき形骸なり。かるがゆゑに、いけらんこと一日ならんは、諸仏の機を会せば、この一日を曠劫多生にもすぐれたりとするなり。

(行持)いまこの行持、さだめて行持に行持せらるるなり。この行持あらん身心、みづからも愛すべし、みづからもうやまふべし。大慈寰中禅師いはく

(行持)佗もしらず、われもしらずといへども、しかあるなり。このゆゑに、諸仏諸祖の行持によりてわれらが行持見成し、われらが大道通達するなり。われらが行持によりて諸仏の行持見成し、諸仏の大道通達するなり。われらが行持によりて、この道環の功徳あり。

(行持)いまといふ道は、行持よりさきにあるにはあらず、行持現成するをいまといふ。しかあればすなはち、一日の行持、これ諸仏の種子なり、諸仏の行持なり。この行持に諸仏見成せられ、行持せらるゝを、行持せざるは、諸仏をいとひ、諸仏を供養せず。

 

謂ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏なり、過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏となるなり、是れ 即心是仏なり、即心是仏というは誰というぞと審細に参究すべし、正に仏恩を報ずるにてあらん。(第31節)

(即心是仏)即心是仏を開演する正師を見ざるなり。いはゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去現在未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。

(王索仙陀婆)たとへば、如何是仏といふがごとき、即心是仏と道取する、その宗旨いかん。これ仙陀婆にあらざらんや。即心是仏といふはたれといふぞと、審細に参究すべし。たれかしらん、仙陀婆の築著磕著なることを。

(礼拝得髄)仏化を学すべし、仏界にいるべし。まさに仏恩を報ずるにてあらん。如是の古先、なんぢ結界の旨趣をしれりやいなや。

 

 曹洞宗門内にて日常経典として読誦される『修証義』に引用される『正法眼蔵』は、七十五巻本からは「諸悪莫作・恁麽・洗面・谿声山色・発無上心・礼拝得髄・摩訶般若波羅蜜・仏経・見仏・行持・即心是仏・王索仙陀婆」の十二巻、十二巻本からは「帰依仏法僧宝・出家功徳・袈裟功徳・三時業・深信因果・受戒・発菩提心」の七巻、さらに眼蔵としては収録されない二十八巻本からは「生死・法華転法華・重雲堂式・辦道話・道心・菩提薩埵四摂法」の六巻と「教授戒文」による計二十六巻にて合楺形成される。

 冒頭部に説かれる「生をあきらめ死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり」とは、白居易(772―846)と鳥窠道林(741―824)との問答(『景徳伝灯録』四「大正蔵」五一・二三〇中)に於ける白居易の力量不足を拈じられたものであり、このような例言は『三十七品菩提分法』に於ける「一黙せざるは維摩よりも劣なりとおもへるともがらのみあり。さらに仏法の活路なし」にも通底する言句であろう。

 このように『正法眼蔵』各巻は其の巻ごとに完結された文体であり、時処に応じ参随する学道者に仏法を説く形態であるが、『修証義』が提示する文言は道元禅師が説き示された主意を度返しにし一般化に供したものであり、立教開宗に相当する『辦道話』(寛喜三(1231)年八月)から晩年(建長元(1249)年以降)に編集された十二巻まで遍く各部位を収録されるが決して一貫性があるとは思われず、宗祖と仰がれる道元和尚の心中では「皆一心合掌、欲聴受仏語、是等聞此法、則生大歓喜」(『法華経』「方便品」・「大正蔵」九・七上)と、親しまれた法華の文言を聴聞しているのであろうか。