正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

十二巻本 第七 「深信因果」を読み解く   二谷正信

十二巻本 第七 「深信因果」を読み解く

二谷正信 

   一

 百丈山大智禪師懷海和尚、凡参次、有一老人、常隨衆聽法。衆人退老人亦退。忽一日不退。師遂問、面前立者、復是何人。老人對曰、某甲是非人也。於過去迦葉佛時、曾住此山。因學人問、大修行底人、還落因果也無。某甲答曰、不落因果。後五百生、墮野狐身。今請和尚代一轉語、貴脱野狐身。遂問曰、大修行底人、還落因果也無。師曰、不昧因果。老人於言下大悟、作禮曰、某甲已脱野狐身、住在山後。敢告和尚、乞依亡僧事例。師令維那白槌告衆曰、食後送亡僧。大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無病人、何故如是。食後只見、師領衆、至山後岩下、以杖指出一死野狐。乃依法火葬。

 師至晩上堂、擧前因縁。黄蘗便問、古人錯祗對一轉語、墮五百生野狐身。轉々不錯、合作箇什麼。師曰、近前來、與儞道。蘗遂近前、與師一掌。師拍手笑曰、將謂胡鬚赤、更有赤鬚胡在。

 この一段の因縁、天聖廣燈録にあり。しかあるに、參學のともがら、因果の道理をあきらめず、いたづらに撥無因果のあやまりあり。あはれむべし、澆風一扇して祖道陵替せり。不落因果はまさしくこれ撥無因果なり、これによりて惡趣に墮す。不昧因果はあきらかにこれ深信因果なり、これによりて聞くもの惡趣を脱す。あやしむべきにあらず、疑ふべきにあらず。近代參禪學道と稱ずるともがら、おほく因果を撥無せり。なにによりてか因果を撥無せりと知る、いはゆる不落と不昧と一等にしてことならずとおもへり、これによりて因果を撥無せりと知るなり。

 

「百丈山大智禅師懷海和尚、凡参次、有一老人、常随衆聴法。衆人退老人亦退。忽一日不退」<百丈山大智禅師懷海和尚、凡そ参ずる次でに、一老人有り、常に衆に随って聴法す。衆人退すれば老人も亦た退く。忽ち一日(あるひ)不退>

「師遂問、面前立者、復是何人」<師遂に問う、面前に立つ者は、復た是れ何人ぞ>

「老人対曰、某甲是非人也。於過去迦葉仏時、曾住此山。因学人問、大修行底人、還落因果也無。某甲答曰、不落因果。後五百生、堕野狐身。今請和尚代一転語、貴脱野狐身」<老人対(こた)えて曰く、某甲(それがし)は是れ非人也。過去迦葉仏の時に於て、曾て此の山に住す。因みに学人問う、大修行底の人、還た因果に落つや也(また)無しや。某甲答えて曰く、不落因果。後に五百生まで、野狐身に堕す。今請すは和尚に代って一転語せよ、貴すは野狐身を脱せんを>

「遂問曰、大修行底人、還落因果也無」<遂に問うて曰く、大修行底の人、還た因果に落つや也無しや>

「師曰、不昧因果」<師曰く、因果に昧(くら)まされず>

「老人於言下大悟、作礼曰、某甲已脱野狐身、住在山後。敢告和尚、乞依亡僧事例」<老人言下に於て大悟し、礼を作して曰く、某甲已に野狐の身を脱し、山後に住在す。敢えて和尚に告ぐ、乞う亡僧の事例に依らんを>

「師令維那白槌告衆曰、食後送亡僧」<師は維那に令せしめ白槌して衆に告げて曰く、食後に亡僧を送るべし>

「大衆言議、一衆皆安、涅槃堂又無病人、何故如是」<大衆言議するに、一衆は皆安なり、涅槃堂には又病人無し、何故是の如くか>

「食後只見、師領衆、至山後岩下、以杖指出一死野狐。乃依法火葬」<食後に只見る、師は衆を領して、山後の岩下に至り、杖を以て一の死んだ野狐を指出し。乃ち法に依りて火葬す。>

「師至晩上堂、挙前因縁」<師は晩に至り上堂し、前の因縁を挙す>

黄檗便問、古人錯祗対一転語、堕五百生野狐身。転々不錯、合作箇什麼」<黄檗便ち問う、古人錯り一転語を祗対し、五百生野狐身に堕す。転々に錯らなければ、箇の什麼にか作り合う>

「師曰、近前来、与你道」<師曰く、近前来、你が与に道う>

「檗遂近前、与師一掌」<檗遂に近前し、師に一掌(ビンタ)を与う>

「師拍手笑曰、将謂胡鬚赤、更有赤鬚胡在」<師は拍手して笑って曰く、将(まさ)に胡の鬚は赤いと謂えば、更に赤い鬚の胡在ること有り>

「この一段の因縁、天聖広灯録にあり。しかあるに、参学のともがら、因果の道理を明らめず、いたづらに撥無因果の誤りあり。憐れむべし、澆風一扇して祖道陵替せり。不落因果はまさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣に堕す」

 この古則は「旧草本」『大修行』にて詳述されたものであるが、そこでは「いまだかつて落不落の論あらず、昧不昧の道あらず。不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし」(「大正蔵」八二・二五六a八)と示されるが、ここでは「撥無因果のあやまり」つまり「不落因果」に断定する文意となる。

 「この一段の因縁、天聖広灯録にあり」と記されるが、引用典籍は『大修行』同様に『真字正法眼蔵』(三百則)中二と考えられる。その「三百則」の底本は『統要集』三と推察されている。

「不昧因果は明らかにこれ深信因果なり、これによりて聞くもの悪趣を脱す。怪しむべきにあらず、疑ふべきにあらず」

 「不昧因果」とは因果に昧(くら)まされず。の意であるから、明らかに因果律に従う、との意であるが、今一度古則話頭での黄檗が問い質した「古人(老人)は錯って不落因果という一転語を対語した事で、五百生野狐身に堕したが、元々(転々)錯りがなければ、百丈和尚が示した不昧因果はどうなっていたのですか」との黄檗の問いに対して、師である百丈に弟子の黄檗がビンタ(一掌)を与えた意味合いは、「不落・不昧」なるコトバの世界を超克した事象が「因果」の本体である。との黄檗の意を汲んでの「将謂胡鬚赤、更有赤鬚胡在」つまり、上には上が居るものだと云う、百丈が黄檗を認めた話頭であるとすると、明らかに仏法を限定的・決定論的意味合いで説くものであろう。これを「旧草」『大修行』と対比して読み解くには些か論点のズレを感ずる。

「近代参禅学道と称ずるともがら、多く因果を撥無せり。何によりてか因果を撥無せりと知る、いはゆる不落と不昧と一等にして異ならずと思へり、これによりて因果を撥無せりと知るなり」

 「近代参禅学道と称ずるともがら」とは、一体だれを指すのであろうか。「近代」と云うと、此の巻が仮に建長二年(1250)執筆とすると、それから二十年前の1230年代となり、帰朝して間もなくの興聖寺・吉峰寺・大仏寺・永平寺の各時代となろうが、その期間には興聖寺では三十名程度が常時安居して居たと思われ、永平寺に於いても同数程度が山内雲衲となり、その間には当然ながら入れ替えがあったであろう。ここでは具体的な個人名は挙げられないが、筆者推察するに、この「ともがら」は鎌倉行化以後の永平寺山内の乱れぶりを示唆するものであろうと思われる。

 その証左が義价(永平三祖)が残した『永平室中聞書』(又は『御遺言記録』の記録の中に建長七年(1255)正月六日条には「義价先年同一類の法内の所談に云く、仏法の中に於て諸悪莫作、衆善奉行の故に、仏法中に諸悪は元来莫作なるが故に、一切行皆仏法なり、所以に挙手動足一切の所作、凡そ諸法の生起する皆な仏法と云々、此の見正見なりや。和尚(懐奘)答て云く。先師門徒の中、此の邪見起こす一類有る故に、在世の時、義絶し畢り、門徒を放たること明白なり、此の邪義を立てたるに依る也、若し先師の仏法を慕はんと欲する輩は、共に語り同座すべからず、是れ則ち先師の遺戒なり」(『大本山永平寺諸禅師略伝』「永平寺三世・徹通義价禅師、参照」)と、ー部で示した「邪見起こす一類」が即ち「因果を撥無し、不落と不昧を混同」し、その最たる出来事が「玄明首座の擯出」ではなかったかと筆者は推測する次第である。

 

   二

 第十九祖鳩摩羅多尊者曰、且善惡之報、有三時焉。凡人但見仁夭暴壽、逆吉義凶、便謂亡因果虚罪福。殊不知、影響相隨、毫釐靡忒。縱經百千萬劫、亦不磨滅。

 あきらかにしりぬ、曩祖いまだ因果を撥無せずといふことを。いまの晩進、いまだ祖宗の慈誨をあきらめざるは稽古のおろそかなるなり。稽古おろそかにしてみだりに人天の善知識と自稱するは、人天の大賊なり、學者の怨家なり。汝ち前後のともがら、亡因果のおもむきを以て、後學晩進のために語ることなかれ。これは邪説なり、さらに佛祖の法にあらず。汝等が疎學によりて、この邪見に墮せり。

 今神旦國の衲僧等、まゝにいはく、われらが人身をうけて佛法にあふ、一生二生のことなほしらず。前百丈の野狐となれる、よく五百生をしれり。はかりしりぬ、業報の墜墮にあらじ。金鎖玄關留不住、行於異類且輪廻なるべし。大善知識とあるともがらの見解かくのごとし。この見解は、佛祖の屋裡におきがたきなり。あるいは人、あるいは狼、あるいは餘趣のなかに、生得にしばらく宿通をえたるともがらあり。しかあれども、明了の種子にあらず、惡業の所感なり。この道理、世尊ひろく人天のために演説しまします。これをしらざるは疎學のいたりなり。あはれむべし、たとひ一千生、一萬生をしるとも、かならずしも佛法なるべからず。外道すでに八萬劫をしる、いまだ佛法とせず。わづかに五百生をしらん、いくばくの能にあらず。

 近代宋朝の參禪のともがら、もともくらきところ、たゞ不落因果を邪見の説としらざるにあり。あはれむべし、如來の正法の流通するところ、祖々正傳せるにあひながら、撥無因果の邪儻とならん。參學のともがら、まさにいそぎて因果の道理をあきらむべし。今百丈の不昧因果の道理は、因果にくらからずとなり。しかあれば、修因感果のむね、あきらかなり。佛々祖々の道なるべし。おほよそ佛法いまだあきらめざらんとき、みだりに人天のために演説することなかれ。

 龍樹祖師云、如外道人、破世間因果、則無今世後世。破出世因果、則無三寶四諦四沙門果。

 あきらかにしるべし、世間出世の因果を破するは外道なるべし。今世なしといふは、かたちはこのところにあれども、性はひさしくさとりに歸せり、性すなはち心なり、心は身とひとしからざるゆゑに。かくのごとく解する、すなはち外道なり。あるいはいはく、人死するとき、かならず性海に歸す、佛法を修習せざれども、自然に覺海に歸すれば、さらに生死の輪轉なし。このゆゑに後世なしといふ。これ斷見の外道なり。かたちたとひ比丘にあひにたりとも、かくのごとくの邪解あらんともがら、さらに佛弟子にあらず。まさしくこれ外道なり。おほよそ因果を撥無するより、今世後世なしとはあやまるなり。因果を撥無することは、眞の知識に參學せざるによりてなり。眞知識に久參するがごときは、撥無因果等の邪解あるべからず。龍樹祖師の慈誨、深く信仰したてまつり、頂戴したてまつるべし。

 

第十九祖鳩摩羅多尊者曰、(何足疑乎)且善悪之報、有三時焉。凡人見仁夭暴寿、逆吉義凶、便謂亡因果虚罪福。殊不知、影響相随、毫釐靡忒。縱経百千万劫、亦不磨滅」(『景徳伝灯録』二「大正蔵」五一・二一二c二八、―部「第十九」は原なし、―部「何足疑乎」は原あり、―部「但」は原「恒」<第十九祖鳩摩羅多尊者曰く、且く善悪之報に、三時有り。凡そ人は但だ仁は夭に暴は寿く、逆は吉義は凶なりとのみ見て、便ち因果を亡じ罪福虚しと謂えり。殊に知らず、影響相随いて、毫釐も忒うこと靡きを。縱い百千万劫を経るとも、亦た磨滅せず>

 「仁(じん)」は慈しみや憐れむこと。「夭(よう)」は若死すること。「暴」は相手を損ない破る様。「寿」は命の長いこと。「逆」は道に逆らうこと。「義」は道に順うこと。

「明らかに知りぬ、曩祖いまだ因果を撥無せずと云ふことを。いまの晩進、いまだ祖宗の慈誨を明らめざるは稽古の疎かなるなり。稽古おろそかにして妄りに人天の善知識と自称するは、人天の大賊なり、学者の怨家なり。汝ち前後のともがら、亡因果のおもむきを以て、後学晩進の為に語ることなかれ。これは邪説なり、さらに仏祖の法にあらず。汝等が疎学によりて、この邪見に堕せり」

 「曩祖いまだ因果を撥無せず」の「曩祖」とは「鳩摩羅多」を云うが、これは次巻である『三時業』へと連なる布石となる意味合いと成るものであろう。そこでは「善悪の報には三時あり」と示し、その「三時」を「一者順現法受、二者順次生受、三者順後次受」と『三時業』で述べられる。つまり因果は歴然と厳現し「百千万劫も亦磨滅せず」と鳩摩羅多は言う。ところが今の後輩(晩進)たちは、因果を明らかにしない事実は、曩祖たちの考え(稽古)を真剣に受け止められず、疎かであるからでる。

 そのような人たちの謳い文句は「人天の善知識」と自身で称ずるは、人天の大賊であり、仏道修行者(学者)にとっては仇敵(怨家)である。そこで「汝ち」と呼び掛けがあるが、これは建長二年(1250)前後に於ける永平寺山内衆への老婆親切語とでも言えようか。彼らに対し因果を無しとする主張(おもむき)で以て、後輩の学人(後学晩進)の為には語ることなかれ。と厳しく口宣し、さらには「祖宗の慈誨を明らめざる」汝等の、学びを疎かにする態度が、このような邪見に堕ちる原因であると、疎学による因果の撥無を誡めらるものである。

「今神旦国の衲僧等、まゝに云はく、我らが人身を受けて仏法に会ふ、一生二生の事なほ知らず。前百丈の野狐となれる、よく五百生を知れり。測り知りぬ、業報の墜堕にあらじ。金鎖玄関留不住、行於異類且輪廻なるべし。大善知識とある輩の見解かくの如し。この見解は、仏祖の屋裡に置き難きなり」

 「神旦国の衲僧」と云うのは、「金鎖玄関留不住、行於異類且輪廻」(『景徳伝』二十九「大正蔵」五一・四五五c一二)<金鎖の玄関に留まれども住せず、異類に行じて且く輪廻す>を提唱した「同安常察」を指すのであろうか。この偈は同安による「十玄談(心印・祖意・玄機・塵異・演教・達本・還源・廻機・転位・一色)の中の「転位」から抜書されたものである。因みに法系は「薬山惟𠑊(745―828)」―「道吾円智(768―835)」―「石霜慶諸(807―888)」―「九峰道」―「同安常察」と、薬山から派生した人物である。

 右に説いた衲僧などは、時々(まま)に云うには、受け難き人身を得て仏法に巡り会う訳ですから、一生二生の事などは知る由もない。前百丈の老人が野狐と成ったといっても、よくも五百生を知り得たものか、ですから「業報の墜堕にあらじ」とは、因果の道理には縛られない、つまり因果の法則は無い。と云うのが先ほどの同安常察などの「大善知識の見解」であるから、「仏祖の屋裡」には置けない。と云うのが、道元の意向となる。

「或いは人、或いは狼、或いは余趣の中に、生得にしばらく宿通を得たる輩あり。しかあれども、明了の種子にあらず、悪業の所感なり。この道理、世尊広く人天の為に演説しまします。これを知らざるは疎学の至りなり。憐れむべし、たとひ一千生、一万生を知るとも、必ずしも仏法なるべからず。外道すでに八万劫を知る、いまだ仏法とせず。わづかに五百生を知らん、いくばくの能にあらず」

 「人・狼・余趣」とは六道輪廻に喩え得るもので、その中には「宿通を得たる輩」とは、五百生野狐の老人に比定されよう。これを「悪業の所感」と表現されるが、この「悪業」を人間性と捉えれば、ここでの「余趣」とはパラレルワールド(異次元)的な概念ではなく、我々の日常態が「人・狼・余趣」なのであろう。

 「この道理」とは、世尊が広く説き示された「一念三千」の説法(演説)であろうが、参学の未徹底なる学人は此の一念三千の論理に至らず、「一千生・一万生」に執著し、これを仏法と錯覚する。翻って見れば「外道は八万劫」を認得しても、仏法では無いわけであるから、「五百生野狐」の能力などは、喩うにも当らずであろう。

「近代宋朝の参禅のともがら、もとも暗き処、たゞ不落因果を邪見の説と知らざるにあり。憐れむべし、如来の正法の流通する処、祖々正伝せるに会ひながら、撥無因果の邪儻とならん。参学のともがら、まさに急ぎて因果の道理を明らむべし」

 「近代宋朝の参禅のともがら」とは、如何なる人物で在るか、少し許り尋ねたい。これは道元の在宋時の交友関係から考察しよう。先ずは➀貞応二年(1223)最初の天童寺安居に於ける無際了派(1149―1224)・惟一西堂・宗月首座・伝蔵主・智庚・師広。➁径山寺浙翁如琰(1151―1225)・盤山思卓。➂万年寺元鼎(げんす)。➃宝慶元年(1225)再安居に於ける長翁如浄(1162―1227・伊藤秀憲説)会下の雲衲。とすると、➀➁➂時点での幾人かが「最も昧(くら)く、不落因果を邪見」とは認得せず、「撥無因果の邪儻」で在ったのであろう歟。

「今百丈の不昧因果の道理は、因果に昧からずとなり。しかあれば、修因感果の旨、明らかなり。仏々祖々の道なるべし。おほよそ仏法いまだ明らめざらん時、妄りに人天の為に演説することなかれ」

 いま一度「今百丈の不昧因果の道理」について考えてみよう。これは「昔百丈(野狐)不落因果」↔「今百丈(懐海)不昧因果」との二項分立的に野狐身を脱した、とするならば「正」↔「邪」の関係性で収斂されようが、黄檗が指摘した「転々不錯、合作箇什麽」つまり元々錯まりが無ければ、懐海和尚の不昧も不必要ではないか。と解し、懐海は黄檗に対し「近前来、与你」と再びコトバで解く事に対して、黄檗は「与師一掌」と、コトバ以前の因果律をビンタと云う行で示した事実に対し、百丈懐海は拍手し笑いながら「将謂胡鬚赤、更有赤鬚胡在」つまりは、黄檗の一掌は什麽にも通達する旨を上には上が居るものだと、黄檗に対し印可を与えたような「拍手」なのである。

 これらの考察から『深信因果』では因果の究明が浅く、『大修行』では因果の参学が深いような印象を与え得るが、この違いは鏡島元隆(1912―2001)氏も指摘されるように「『大修行』巻は、不落不昧一等の立場から不落因果の道理を説き、『深信因果』巻は、不落不昧対立の立場から不昧因果の道理を示したものであり、互いに相補的な関係にある」(『道元禅師とその宗風』)と解すれば、この表記の差異は対機説法の違いによるものと、筆者は推察する。

 

   三

 龍樹祖師云、如外道人、破世間因果、則無今世後世。破出世因果、則無三寶四諦四沙門果。

 あきらかにしるべし、世間出世の因果を破するは外道なるべし。今世なしといふは、かたちはこのところにあれども、性はひさしくさとりに歸せり、性すなはち心なり、心は身とひとしからざるゆゑに。かくのごとく解する、すなはち外道なり。あるいはいはく、人死するとき、かならず性海に歸す、佛法を修習せざれども、自然に覺海に歸すれば、さらに生死の輪轉なし。このゆゑに後世なしといふ。これ斷見の外道なり。かたちたとひ比丘にあひにたりとも、かくのごとくの邪解あらんともがら、さらに佛弟子にあらず。まさしくこれ外道なり。おほよそ因果を撥無するより、今世後世なしとはあやまるなり。因果を撥無することは、眞の知識に參學せざるによりてなり。眞知識に久參するがごときは、撥無因果等の邪解あるべからず。龍樹祖師の慈誨、深く信仰したてまつり、頂戴したてまつるべし。

 

龍樹祖師云、如外人、破世間因果、則無今世後世。破出世因果、則無三宝四諦四沙門果」(『摩訶止観』三下「大正蔵」四六・三一a一六、―部「龍樹祖師」は原「中論」、―部「道」は原なし)<龍樹祖師云く、外道の人の如く、世間の因果を破せば、則ち今世後世無し。出世の因果を破せば、則ち三宝四諦・四沙門果無し>

 「三宝」とは仏法僧であるが、「僧」が僧伽つまり4人以上の比丘の集団を、僧と略したものである。「四諦」は苦・集・滅・道。「四沙門果」は須陀洹果(預流果)・斯陀含果(一来果)・阿那含果(不還果)・阿羅漢果(無学果)。

「明らかに知るべし、世間出世の因果を破するは外道なるべし。今世なしと云ふは、形はこの処にあれども、性は久しくさとりに帰せり、性便ち心なり、心は身と等しからざるゆゑに。かくの如く解する、便ち外道なり。あるいは云はく、人死する時、必ず性海に帰す、仏法を修習せざれども、自然に覚海に帰すれば、さらに生死の輪転なし。このゆゑに後世なしと云ふ。これ断見の外道なり」

 「世間・出世の因果を破するは外道なるべし」の文言であるが、「外道」は「内道」に対する語で、仏道以外の法を「外道」と規定するものであるから、外道でありうが仏道であろうが、同じ真実人体を駆使しての行法の中から業報因果が生ずるものであるから、此処では此の文体は不適当と感ずる。

 次いで「外道」の定義として、主客分立つまり身体と本性に分割し、その本性がさとりに帰す、と唱う族を「すなはち外道なり」と。ここで仮名にて「さとり」のコトバが登場したが、ある寺院のユーチューブ提唱録を拝見していた所、花園大学にて教授をされた先生が言うには、この「さとり」は梵語―bodhiから漢語―悟・覚、和語の早敏から「さとり」に転化されたようであり、また「さとり」の語は鎌倉時代(文治元年<1185>以降)から使用され始めたとの提唱でありました。

 別の事例では、「人間が死ねば必ず性海に帰し、生死は輪転せず、死すれば後世なし」と云う考えは、インドでは古くから懐疑論者として知られ、これを「断見の外道」とする。この懐疑論者として知られる人物にはサンジャヤ・べーラッティプッタが居り、その弟子が釈尊教団の二大弟子と称されたサーリプッタ舎利弗)とモッガラーナ(目連)で、二人の弟子と共に集団帰投した関係で、原始仏教僧伽が成立したのであるが、これは初期の道元教団に義介・義演等の日本達磨宗の集団帰依が、其の後の日本曹洞宗を見れば、この二つの聯関には通底するものがあろう。

「形たとひ比丘に相似たりとも、かくの如くの邪解あらん輩、さらに仏弟子にあらず。まさしくこれ外道なり。おほよそ因果を撥無するより、今世後世なしとは誤るなり。因果を撥無することは、真の知識に参学せざるによりてなり。真知識に久参するが如きは、撥無因果等の邪解あるべからず。龍樹祖師の慈誨、深く信仰したてまつり、頂戴したてまつるべし」

 外見は当時の懐疑論者たちと釈尊は、同じ行者と云うカテゴリーに在ったわけで、釈尊はむしろ後発(後輩)であった訳であるから、僧形と云うよりは頭陀形であったのであろう。舎利弗釈尊に帰依した機縁は、釈尊の五大弟子の一人であるコンダンニャの形象を見て、その威風堂々たる姿形に導かれたように、おのづと現身説法の喩えのように薫香が漂うのであろう。

 「因果の撥無」つまり因果を蔑ろにする人の特徴としては、「今世後世なし、真の知識に参学しない」ようである。これらを踏まえた龍樹祖師に対する慈誨を深く信仰し頂戴しなさい、と結語する。

 この「今世後世」を拝聞し気づいたことは、この辺りから『生死』や『道心』の執筆に連関するのであろう。

 

   四

 永嘉眞覺大師玄覺和尚は、曹谿の上足なり。もとはこれ天台の法華宗を習學せり。左谿玄朗大師と同室なり。涅槃經を披閲せるところに、金光その室にみつ。ふかく無生の悟を得たり。すゝみて曹谿に詣し、證をもて六祖に告す。六祖つひに印可す。のちに證道歌をつくるにいはく、豁達空撥因果、漭々蕩々招殃禍。あきらかにしるべし、撥無因果は招殃禍なるべし。往代は古徳ともに因果をあきらめたり、近世には晩進みな因果にまどへり。いまのよなりといふとも、菩提心いさぎよくして、佛法のために佛法を修學せんともがらは、古徳のごとく因果をあきらむべきなり。因なし、果なしといふは、すなはちこれ外道なり。

 

「永嘉真覚大師玄覚和尚は、曹谿の上足なり。もとはこれ天台の法華宗を習学せり。左谿玄朗大師と同室なり。涅槃経を披閲せるところに、金光その室に充つ。深く無生の悟を得たり。すゝみて曹谿に詣し、証をもて六祖に告す。六祖つひに印可す」

 「永嘉真覚(675―713)」は曹谿つまり慧能(638―713)の法嗣四十三人中の十五位に列せらる上足である。「天台の法華宗を習学せり」とは、『景徳伝灯録』五に於ける「精天台止観円妙法門」(「大正蔵」五一・二四一a二八)、また「左谿玄朗大師と同室なり」も前述同様に「後因左谿朗禅師激励」(「同」a二九)が比定されよう。この「左谿玄朗」については、『天台九祖伝』に於て「八祖左渓尊者・諱玄朗。字慧明。姓伝氏」(「大正蔵」五一・一〇二a一二)と記載される如くに天台宗第八祖に列する人物である。また『正法眼蔵』四「水野弥穂子校注」を抜書すると「左谿玄朗(673―754)。天台宗第八祖の唐代、婺州東陽の人。天台慧威を師として天台の秘奥を究め、のち浦陽県左谿山に隠棲すること三十年。門下に荊渓湛然があり、著書に法華科文二巻がある」(二九二頁)と注記される。

 「涅槃経を披閲」に関しては、先の『景徳伝灯録』では確認できない。「無生の悟を得たり」に関しては、「同書」では「祖日、何不体取無生了無。日、体即無生了本無速。祖日、如是如是」<祖日く、何ぞ無生を体取し了ぜざる無し。日く、体すれば即ち無生にして、了ずれば本、無速なりと。祖日く、如是如是と>(「同書」二四一b四)と同定できよう。

「のちに証道歌を作るに云はく、豁達空撥因果、漭々蕩々招殃禍。明らかに知るべし、撥無因果は招殃禍なるべし。往代は古徳ともに因果を明らめたり、近世には晩進みな因果に惑へり。今の世なりと云ふとも、菩提心いさぎよくして、仏法のために仏法を修学せん輩は、古徳の如く因果を明らむべきなり。因なし、果なしと云ふは、即ちこれ外道なり」

 「証道歌」は永嘉の代表的著作で、247句1814字よりなり、「君不見、絶学無為閑道人」より始まり「莫将管見謗蒼々、未了吾今為君訣」<管見を将て蒼々と謗ずる莫れ、未だ了ぜざれば吾は今君が為に訣せん>(『景徳伝灯録』三十「大正蔵」五一・四六〇a一五)で終わり、その中に「一顆円明非内外、豁達空撥因、漭漭蕩蕩招殃禍」<一顆の円明は内外に非ず、豁達の空は因を撥う、漭漭蕩蕩として殃禍を招く>(「同」c四)が呈示された「因果」に関する句を抽出したのである。

 ここで永嘉の謂わんとした処は「空」の深淵性を説くものではあるが、敢えて「撥無因果は招殃禍なるべし」と置き替えた形態を用いる。また「仏法のために仏法を修学せん」は、『学道用心集』「有所得の心を用いて仏法を修すばからざる事」にて「夫れ仏法修行は、猶お自身の為にせず、況や多聞利養の為に之を修せんや。但だ仏法のために之を修すべきなり」(「大正蔵」八二・三a二五)と示す事項が底本となろう。結語として「古徳(永嘉)のように因果を明らめ」「因なし果なしと云うは外道なり」と改めて外道の排斥をする。

 

   五

 宏智古佛、かみの因縁を頌古するにいはく、一尺水、一丈波、五百生前不奈何。不落不昧商量也、依前撞入葛藤窠。阿呵々。會也麼。若是儞洒々落々、不妨我哆々和々。神歌社舞自成曲、拍手其間唱哩囉。いま不落不昧商量也、依前撞入葛藤窠の句、すなはち不落と不昧と、おなじかるべしといふなり。おほよそこの因縁、その理、いまだつくさず。そのゆゑいかんとなれば、脱野狐身は、いま現前せりといへども、野狐身をまぬかれてのち、すなはち人間に生ずといはず、天上に生ずといはず、および餘趣に生ずといはず。人の疑ふところなり。脱野狐身のすなはち、善趣にうまるべくは天上人間にうまるべし、惡趣にうまるべくは四惡趣等にうまるべきなり。脱野狐身ののち、むなしく生處なかるべからず。もし衆生死して性海に歸し、大我に歸すといふは、ともにこれ外道の見なり。

 

「宏智古仏、かみの因縁を頌古するに云はく、一尺水、一丈波、五百生前不奈何。不落不昧商量也、依前撞入葛藤窠。阿呵々。会也麼。若是你洒々落々、不妨我哆々和々。神歌社舞自成曲、拍手其間唱哩囉。いま不落不昧商量也、依前撞入葛藤窠の句、すなはち不落と不昧と、同じかるべしと云ふなり」(『宏智広録』二(「大正蔵」四八・一九a二五、―部「洒々」は原「灑々」)<一尺の水、一丈の波は、五百生前奈何ともせず。不落不昧商量するも也(また)、依前として葛藤窠に撞入す。阿呵々。会也麼。若し是れ你が洒々落々ならば、妨げず我が哆々和々なるを。神歌社舞自ら曲を成し、其の間に拍手して哩囉を唱う>

 これは道元の敬慕する宏智正覚(1091―1157)による「百丈野狐」の話則に対し、宏智が詩形で答えた形態の頌古八則が底本となるが、これには「百丈野狐」後半の「黄檗」は登場しない。

 いま因みに宏智の頌を現代語訳を試みよう。「一尺の水が、一丈の波に、五百生以前は、奈何ともならず。不落や不昧を商量すれば、葛藤(コトバ)の迷路に入るのみ。ワハハ(笑い声)、会すや。もし君がサッパリと大らかであれば、私は口をモグモグしても構わない。神社の歌舞は自づと曲(しらべ)と成り、手拍子でラーラと合いの手を入れよう」と和訳できた。

 宏智の謂わんとする主旨は、「不落・不昧」の断定的・決定論的論調ではなく、「不落・不昧」以前では尽十方界真実の如く、おのづと自然(じねん)の因果に従属されて居る、と解釈するならば、宏智の頌古も此処では言及されていないが、黄檗の云う「転々不錯、合作箇什麽」に依拠した頌古のようである。

「おほよそこの因縁、その理、いまだ尽さず。そのゆゑ如何となれば、脱野狐身は、いま現前せりと云へども、野狐身を免かれて後、則ち人間に生ずと云はず、天上に生ずと云はず、および余趣に生ずと云はず。人の疑ふ処なり」

 「百丈野狐」本則話に於ては確かに、野狐身を脱する為に一転語を仰いだにも拘らず、野狐身のまま依法火葬後の後日談が欠落することは、「人の疑ふ処」であろうが、『大修行』に於ても語法は違うものの、文意は「当巻」に同定さるべき「しかあれば知りぬ。悪しく祗対するによりて野狐身となり、よく祗対するによりて野狐身とならずと云ふべからず。この因縁の中に、脱野狐身の後、いかなりと云はず」(「大正蔵」八二・二五六b一八)と説く辺りは、『深信因果』と『大修行』との同等視も見えてくるが、前言に次いで「定めて破袋に包める真珠あるべきなり」との興味深い語述がある。

「脱野狐身の則ち、善趣に生まるべくは天上人間に生まるべし、悪趣に生まるべくは四悪趣等に生まるべきなり。脱野狐身の後、虚しく生処なかるべからず。もし衆生死して性海に帰し、大我に帰すと云ふは、ともにこれ外道の見なり」

 此の箇所も先ほどの文言に続く文章に「いまだ佛法を見聞せざるともがらいはく、野狐を脱しをはりぬれば、本覚の性海に帰するなり。迷妄によりてしばらく野狐に堕生すといへども、大悟すれば、野狐身はすでに本性に帰するなり。これは外道の本我にかへるといふ義なり」(「同」b二一)と『大修行』で説くものである。

 

   六

 夾山圜悟禪師克勤和尚、頌古に云く、魚行水濁、鳥飛毛落、至鑑難逃、太虚寥廓。一往迢々五百生、只縁因果大修行。疾雷破山風震海、百錬精金色不改。この頌なほ撥無因果のおもむきあり、さらに常見のおもむきあり。

 

「夾山圜悟禅師克勤和尚、頌古に云く、魚行水濁、鳥飛毛落、至鑑難逃、太虚寥廓。一往迢々五百生、只縁因果大修行。疾雷破山風海、百錬精金色不改」(『圜悟録』十九頌古下「大正蔵」四七・八〇四a一〇、―部「震」は原「振」)<夾山圜悟禅師克勤和尚、頌古に云く、魚行けば水濁り、鳥飛べば毛落つ、至鑑逃れ難く、太虚寥廓たり。一往迢々たり五百生、只因果に縁り大修行す。疾雷は山を破り風は海を震わす、百錬の精金は色改まらず>

 「圜悟克勤(1063―1135)」に関する簡略な履歴としては、諡は真覚大師、南宋の高宗から圜悟、北宋の徽󠄀宗からは張商英仏果を賜ったことから、圜悟克勤とも仏果克勤とも称す。門下には大慧宗杲や虎丘紹隆など百余人の門人があり、宋代の代表的な禅匠である。

 「至鑑難逃」とは、因果の道理は絶対的なる鑑であり、そこから逃れられない。「太虚寥廓」とは、尽界は真実の世界であり。絶対虚空の世界。「一往迢々」とは、因果の商量を誤ること。

「この頌なほ撥無因果のおもむきあり、さらに常見のおもむきあり」

 この圜悟の語言の「至鑑難逃」の句が「撥無因果」、「百錬精金色不改」が「常見」と断ずる句であろうと推察するが、筆者の小量愚見からは、圜悟も宏智も共々に、自然因果のおもむきを頌古に唱えていると思われるのだが?。

 

   七

 杭州徑山大慧禪師宗杲和尚、頌に云、不落不昧、石頭土塊、陌路相逢、銀山粉碎。拍手呵々笑一場、明州有箇憨布袋。これらをいまの宋朝のともがら、作家の祖師とおもへり。しかあれども、宗杲が見解、いまだ佛法の施權のむねにおよばず、やゝもすれば自然見解のおもむきあり。

 おほよそこの因縁に、頌古拈古のともがら三十餘人あり。一人としても、不落因果是れ撥無因果なりと疑ふものなし。あはれむべし。このともがら、因果をあきらめず、いたづらに粉紜のなかに一生をむなしくせり。佛法參學には、第一因果をあきらむるなり。因果を撥無するがごときは、おそらくは猛利の邪見をおこして、斷善根とならんことを。

 おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造惡のものは墮し、修善のものはのぼる、毫釐もたがはざるなり。もし因果亡じ、むなしからんがごときは、諸佛の出世あるべからず、祖師の西來あるべからず、おほよそ衆生の見佛聞法あるべからざるなり。因果の道理は、孔子老子等のあきらむるところにあらず。ただ佛々祖々、あきらめつたへましますところなり。澆季の學者、薄福にして正師にあはず、正法をきかず、このゆゑに因果をあきらめざるなり。撥無因果すれば、このとがによりて、漭々蕩々として殃禍をうくるなり。撥無因果のほかに餘惡いまだつくらずといふとも、まづこの見毒はなはだしきなり。しかあればすなはち、參學のともがら、菩提心をさきとして、佛祖の洪恩を報ずべくは、すみやかに諸因諸果をあきらむべし。

 

杭州径山大慧禅師宗杲和尚、頌に云、不落不昧、石頭土塊、路相逢、銀山粉碎。拍手呵々笑一場、明州有箇憨布袋」(『大慧語録』十「大正蔵」四七・八五二b一四、―部「陌」は原「驀」)<不落不昧は、石頭土塊なり、陌路に相逢うて、銀山を粉碎す。拍手し呵々と笑い一場は、明州に箇の憨布袋(かんほてい)有り>

 「大慧宗杲(1089―1163)」に関し簡略な履歴としては、「諡号を普覚禅師とし、賜号として大慧禅師と称す。圜悟克勤の法を嗣ぎ、径山寺に住したが、政治の混乱から流罪となるなど、波乱万丈な人生を送り、七十五歳にて寂」

「これらを今の宋朝の輩、作家の祖師と思へり。しかあれども、宗杲が見解、いまだ仏法の施権の旨に及ばず、ややもすれば自然見解のおもむきあり」

 「これら」とは、宋朝禅界の重鎮である宏智・圜悟・大慧を指すのであろうが、これらの人の因果に対する見識を「自然見解」と酷評するものではあるが、筆者推測するに『大修行』での「不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし。将錯就錯すといへども、堕野狐身あり、脱野狐身あり」および「不落因果たとひ迦葉仏時にはあやまりなりとも、釈迦仏時はあやまりにあらざる道理もあり不昧因果たとひ現在釈迦仏のときは脱野狐身すとも迦葉仏しかあらざる道理も現成すべきなり」。この件(くだり)を、鎌倉より帰山の永平寺山内では、「自然見解」の如くに唱うる衆徒の言辞を勘案して、右の三人の「因果」に対する見解を、ハッキリしない優柔不断な「自然見解」と解したものと推考するものである。

「おほよそこの因縁に、頌古拈古のともがら三十余人あり。一人としても、不落因果是れ撥無因果なりと疑ふ者なし。憐れむべし。この輩、因果を明らめず、いたづらに粉紜の中に一生を虚しくせり。仏法参学には、第一因果を明らむるなり。因果を撥無するが如きは、恐らくは猛利の邪見をおこして、断善根とならんことを」

 此処に来て、先ほどの三人を含め、三十数人もの禅僧による「百丈野狐」に対する因果の取り扱い方を否定するものであるが、謂わば中国仏教界の「因果論」に対する「道元的なる因果論」の構築とも言うべき事態であろうか。この考え方について一つの指標になる思考法が、『坐禅箴』での「南嶽・馬祖」の問答に言及されよう。つまり「江西大寂禅師、ちなみに南嶽大慧禅師に参学するに、密受心印よりこのかたつねに坐禅す。南嶽あるとき、大寂のところにゆきてとふ、大徳坐禅図箇什麽」(「大正蔵」八二・一一七a一一)。この話則は『景徳伝灯録』五南嶽章での「馬祖大師、也住伝法院常日坐禅。師(南嶽)知是法器、往問曰、大徳坐禅図什麼」(「大正蔵」五一・二四〇c一九)がベースになりが、『坐禅箴』では「同」江西章での「唯師(馬祖)密受心印、譲之一猶思之遷也」(「同」二四五c二七)の合楺された語で、中国人が読むならば決して存在しない文体なのである。つまり道元の思考法には予め想定されたストーリーがあり、巧みに構成された説法技法なのである。決して此れは道元を批難するものではなく、よくもこれまで禅の構造体を解体し、我々に提示してくれたものと讃美するものである。

 右に示した如くに、『深信因果』執筆時には、日頃から敬信する宏智であろうが、それ以外の三十余人つまり中国禅界が「不落・不昧」徹底究明しないならば、道元自らが「不昧・不落」の徹底参学に転じよう、と「重担を肩に置けるが如し」(『辦道話』「大正蔵」八二・一五b一三)の思いも、あったのではなかろう歟。

「おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪の者は堕し、修善の者は昇る、毫釐もたがはざるなり。もし因果亡じ、虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず、おほよそ衆生の見仏聞法あるべからざるなり」

 この箇所も『修証義』にて日常的に唱えていると、いやが応にも暗唱せられ、何の疑点も持たなくなるが、「造悪・修善」の定義についても『諸悪莫作』の如くに、「善悪は時なり、時は善悪にあらず。善悪は法なり、法は善悪にあらず」(「大正蔵」八二・四二b七)と、いま一度確認を求めたいが、「当巻」の趣旨からは「因果」―「善」=上、「悪」=下、との論調に留まるだろう。

「因果の道理は、孔子老子等の明らむる処にあらず。ただ仏々祖々、明らめ伝へまします処なり。澆季の学者、薄福にして正師に会はず、正法を聞かず、このゆゑに因果を明らめざるなり。撥無因果すれば、この咎によりて、漭々蕩々として殃禍を受くるなり。撥無因果のほかに余悪未だ作らずと云ふとも、まづこの見毒甚だしきなり。しかあれば則ち、参学のともがら、菩提心を先として、仏祖の洪恩を報ずべくは、速やかに諸因諸果を明らむべし」

 この文言にて「当巻」の結語となるが、此処に来て「孔子老子」を引き合いに出すが、これは『四禅比丘』にて援用される『論語』で以ての「孔老は三世の法を知らず、因果の道理を知らず」に聯関する文体構成でありましょう。結語として「澆季」つまり末法仏道修行者(学者)のようにはならず、「菩提心」つまりは求道心を最優先に、「因果」の真態を究尽せよ、と我々に問われ、我々に因果の実態を「速道、速道」と、眼前に面坐せる姿態があるような筆勢であります。

 この『深信因果』では➀「百丈野狐」➁「鳩摩羅多」➂「龍樹」➃「永嘉」⑤「宏智」➅「圜悟」⑦「大慧」と多くの語録を取り上げ、「因果」について語られたが、その多くが「百丈野狐」に繋がる拈語でありました。時間に余裕が出来ましたら、『大修行』巻との文体比較を行いたいものであるが、現今、六十余歳の老境の為に身通し立たず。

 

※石井修道著 十二巻本『正法眼蔵』―『大修行』と『深信因果』の関係

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2023年5月23日、雨季の季節を迎えたタイ国にて