正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

十二巻本『正法眼蔵』―『大修行』と『深信因果』の関係

 

十二巻本『正法眼蔵』―『大修行』と『深信因果』の関係

石井修道

 

 ここでは十二巻本で論争の発端となり、最も重要な問題として取り上げられている『大修行』と『深信因果』の問題であろう。両巻に共通の公案に「百丈野狐の話」があり、その解釈が全く異なる事が指摘され続けている。

 寛元二年(1244)三月九日に吉峰寺で示衆された『大修行』では、

  大修行を摸得するに、これ大因果なり。この因果かならず円因満果なるがゆゑに、いま

だかつて落不落の論あらず、昧不昧の道あらず。不落因果もしあやまりならば、不昧因果もあやまりなるべし。

とあったのが、『深信因果』では、

  しかあるに、参学のともがら、因果の道理をあきらめず、いたづらに撥無因果のあやまりあり。あはれむべし、澆風一扇して祖道陵替せり。不落因果はまさしくこれ撥無因果なり、これによりて悪趣に墮す。不昧因果はあきらかにこれ深信因果なり、これによりて聞くもの悪趣を脱す。あやしむべきにあらず、疑ふべきにあらず。近代参禅学道と称ずるともがら、おほく因果を撥無せり。なにによりてか因果を撥無せりと知る、いはゆる不落と不昧と一等にしてことならずとおもへり、これによりて因果を撥無せりと知るなり。

とあって、『大修行』では、「不落因果」を否定していなかったが、『深信因果』では、これ

を「撥無因果」と断定されるに至る。これを道元の思想の変化とするか、示衆対象を異にし

ての別々の意図とするかで意見が分かれる事になる。鏡島元隆(1912―2001)氏は

「十二巻本『正法眼蔵』の位置づけ」(『道元禅師とその宗風』)で次のように言う。

  『大修行』巻は、不落不昧一等の立場から不落因果の道理を説いたものであり、『深信

因果』巻は、不落不昧対立の立場から不昧因果の道理を示したものである。(中略)『大修行』巻と『深信因果』巻は、一方を捨てなければ他方が成り立たない二者択一的な関係ではなく、互いに相補的な関係にあるのである。

 同じような説が多くの研究者から出され、『大修行』には『大修行』を説いた意図を認めて、『深信因果』があっても、それを放棄するような性格ではないのである。

 確かに寛元二年の『大修行』の示衆の時点で、「大」修行を論じ、「大」因果を論じ、「円因満果」が問題にされたので、不落不昧一等と説かれたのである。だが、十二巻本が示衆されたその時点では、その説を認める事が出来なくなったのではなかろう歟。

 ここで、十二巻本がいつ書かれ、なぜ書かれるに至ったかの問題を絡めて取り上げる。そこには、鎌倉行化が深く関わると考えられる。

 かつて『正法眼蔵随聞記』巻三では、

  また、ある人すすみて曰く、「仏法興隆のため関東に下向すべし」と、

  答えて曰く、然らず。若し仏法に志あらば、山川江海を渡っても、来って学すべし。その志ならん人に、往き向ってすすむとも、聞き入れん事不定なり。ただ我が資縁のため、人を誑惑せん、財宝を貪らんためか。其れは身の苦しければ、いかでも、ありなんと覚ゆるなり。

とあるように、関東への教化は認めていなかったはずであるが、道元は四十八歳の八月三日

より四十九歳の三月十三日まで、鎌倉に下向したのである。その間に『涅槃経』「梵行品」

を引用した『鎌倉名越白衣舎示誡』(現存部分は外道説のみであるから、逆説として使用し

たか、後半の耆婆の説が欠けたかであろう)が残っている。そして『永平広録』巻三・二五

一上堂が帰山上堂となるのである。

  宝治二年《戊申》(1248)三月十四日の上堂。云く、山僧、昨年(1248)八月初三の日、山を出でて相州鎌倉郡に赴き、檀那俗弟子の為に説法す。今年今月昨日寺に帰って、今朝、陞座す。這の一段の事、或いは人有って疑著す。幾許の山川を渉りて、俗弟子の説法する、俗を重んじ、僧を軽んずるに似たりと。又た疑う、未だ曾て説かざるの法、未だ曾て聞かざるの法有りやと。然れども都(すべ)て未だ曾て説かざるの法、未だ曾て聞かざるの法無し。只だ他の為に、修善の者は昇り、造悪の者は堕つ、修因感果、塼を抛って玉を引くと、説くのみ。是の如くなりと雖然(いえど)も、這の一段の事、永平老漢、明得し、説得し、信得し、行得す。大衆、這箇の道理を会せんと要すや。良久して云く、尀耐(ほない)たり、永平が舌頭、因を説き果を説くに由無し。功夫耕道多少の錯りぞ。今日憐れむべし水牛と作ること。這箇は是れ説法の句、帰山のく作麽生が道(い)わん。山僧出て去る半年の余。猶お孤輪の太虚に処(お)るが若し。今日山に帰れば雲、喜びの気あり。山を愛するの愛は初めよりも甚だし。

 「修善の者は昇り、造悪の者は堕つ」の説が『深信因果』の「おほよそ因果の道理、歴然

としてわたくしなし。造悪のものは堕し、修善のもにはのぼる、毫釐もたがはざるなり」と

結びつくことは、多くの研究者の指摘するところである。この帰山上堂を分析すると、鎌倉

行化は失敗と挫折であった事への反省であろう。鎌倉行化は、『出家』の示衆の翌年に当た

ることからも。これが十二巻本の撰述の動機の遠因と考えられる。しかしながら、帰山後は、

永平寺の僧団の清規についての撰述を含めて、中国風の叢林の定着に努め、「行」を強調す

るに至ったと考えるものである。それ故に、十二巻本の撰述時期については、建長元年(1

249)の八月二十五日と思われる三四六上堂と、それに続く九月一日の三四七上堂より後

の巻五以降と考えている。『永平広録』の巻二から巻四の侍者懐弉編から、巻五から巻七の

侍者義演編に偏者が替わる時期とも重なり合うのである。鏡島元隆氏等よりは、異論が出さ

れてはいるが、筆者(石井修道・注)は、この年の九月十日に著わされた『尽未来際不離吉

祥山示衆』に注目しているのである。

  (建長元年)九月初十日、師、衆に示して云く、「今日より尽未来際、永平老漢恒常に山に在って、昼夜当山の境を離れず、国王の宣明を蒙ると雖も、亦た誓って当山を離れず。其の意如何。唯だ昼夜間断無く精進し、経行し、積功累徳せんと欲するが故なり。此の功徳を以て、先ず一切衆生を度さんとして、見仏聞法せしめて仏祖の窟裏に落とさんとするなり。其の後、永平、大事を打開して、樹下に坐して魔破旬を破り、最正覚を成ぜん」と。

  重ねてこの義を宣べんと欲して、偈をもって説いて云く、

    古仏の修行多く山に有り、春秋冬夏亦た山に居す、

    永平、古の蹤跡を慕わんと欲して、十二時中常に山に在り。

 『弁道話』の「弘法救生」の願いを果すために、正法の弘通には「王勅をまつ」とした思

いを間然に断ったのである。宝治元年六月十日の異例の後深草天皇聖節上堂を残しながら

も続いて起った鎌倉行化の失敗は、改めての誓願が必要だったのであろう。つまり、『発菩

提心』にいう、

  菩提心をおこすといふは、おのれいまだわたらざるさきに、一切衆生をわたさんと発願

  しいとなむなり

であり、また、

  「発心」とは、はじめて「自未得度先度他」の心をおこすなり、これを初発菩提心といふ。この心をおこすよりのち、さらにそこばくの諸仏にあふたてまつり、供養したてまつるに、見仏聞法し、さらに菩提心をおこす、雪上加霜なり。

ということであろう。まさしく『出家功徳』に引用される『釈迦如来五百大願経』の内容や

『供養諸仏』の瓦師の発願に通じるものがある。このことは、その後の『永平広録』巻六に

ある建長三年(1251)の四三〇上堂の、

  上堂。二十五有に流転するの際(あいだ)、最も得難きの事有り。謂ゆる生れて仏法に

  値うなり。既に仏法に遇えども、菩提心を発すこと、亦た最も難きなり。既に仏法を

  得たれども、親を捨てて出家すること、亦た最も得難し。既に親を捨てて出家することを得れども、又た六親を引導して仏道に入らしむこと、亦た最も難きなり。

や、四三四上堂の、

  上堂。仏々祖々、先ず誓願を発して衆生を済度し、苦を抜いて楽を与う、乃ち家風なり。

とも通じあうであろう。

 因みに建長二年(1250)六月下旬頃の『永平広録』巻五・三八一上堂に『賢愚経』「出

家功徳尸利苾提品」より引用された長文の福増の出家物語があるが、それを前提として『出

家功徳』や『四禅比丘』が撰述された可能性もそれを裏付けるであろう。同様に考えられる

のは、同年の七月初旬の三八三上堂や翌年の正月十五日の四一二上堂における三教一致批

判と『四禅比丘』との関係などである。建長二年の年頭には、波多野義重より大蔵経を書写

して永平寺に安置したいとする手紙が届き、それに対する感謝の三六一上堂が残っている

が、その大蔵経が「十二巻本」の原典となった事も考えられる。

 ここに『大修行』と『深信因果』との関係で、取り上げられる建長四年(1252)六月

下旬頃の『永平広録』巻七・五一〇上堂を見る。

  上堂。云く、学道の人、因果を撥無することを得ること莫かれ。因果若し撥(はら)えば、修証終(つい)に乖(そむ)く。百丈野狐の話を挙し了りて、乃ち云く、或る者疑いて云く、「野狐は是れ畜生、那ぞ五百来生を知ることを得ん」と。此の疑い、最も愚なり。汝等、須らく知るべし、衆生の類、或いは畜、或いは人、生得の宿通を具すること之れ有り。或いは云く、「不落・不昧は乃ち一等なり、然れども、堕・脱は只だ是れ自然なるのみなり」と。是の如きの見解は、乃ち外道なり。今日永平、一句の語を著けん。若し不落因果を道わば、必ず是れ撥無因果、若し不昧因果と道わば、未だ他の隣珍を数うることを免れず。良久して云く、多歳住山す烏拄杖、龍と作りて、一旦、風雷を起す。

 石井清純氏の「十二巻本『正法眼蔵』と『永平広録』―「百丈野狐」の話を中心として」

(『宗学研究』30号)で述べるように、「若し不昧因果と道わば、未だ他の隣珍を免れず」

とあって、「若し不昧因果と道わば、これ深信因果なり」とは言わないが、かと言って『大

修行』の説のように並列的に肯定しているとは思われない。やはり上堂全体は、まず撥無因

果を否定し、不落不昧一等の説は外道といい、不落因果は撥無因果と説いているから、基本

的には十二巻本の主張と同様と解してよいと思っている。そのように解すれば、道元の晩年

は十二巻本の説を重視していた事は間違いないであろう。

 

 建長四年二月初旬の『永平広録』巻七・四八五上堂がそれを裏付けてくれる。

  上堂。云く、夫れ仏祖の児孫、必定して仏祖の大道を単伝す。我が仏如来言く、「仮令

  い百劫を経とも、所作の業亡ぜじ、因縁会遇せん時、果報還って自ら受く」と。第十九祖鳩摩羅多尊者、闍夜多尊者に示して日く、「且く善悪の報に三時有り。凡そ人は但だ仁なるものは夭(いのちなが)し、暴なるものは寿(いのちなが)し、逆なるものは吉にして、義なるものは凶なりとのみ見て、便ち因果を亡じ、罪福を虚しと謂(おも)えり。影響相い随うこと、毫釐も忒(たが)うこと靡(な)く、縦(たと)い百千劫を経とも、亦た磨滅せざることを知らず」と。仏祖の道は斯(か)くの如し。仏祖の児孫、直須(ただ)骨に刻み肌に銘ずべきのみ。

  外道六師の中の第一富蘭那迦葉、諸弟子の為に是の如きの言を説く、「黒業有ること無く、黒業の報い無し。白業有ること無く、白業の報い無し。黒白業無く、黒白業の報い無し。上業及以(および)下業有ること無し」と。第六尼乾陀若提子、諸弟子の為に是の如きの言を説く、「悪無く善無く、父無く母無く、今世無く、後世無く、阿羅漢無く、修道無し。一切衆生、八万劫を経て、生死の輪に於て自然に得脱す。有罪無罪、悉く亦た是の如とし」と。

  明らかに知りぬ、仏祖の所説と外道の邪見と、終(つい)に同ずべからず。謂く、業報に三種あり、一には現在受業、二には生受業、三には後受業、影と響の相い随うが如く、鏡を以て像を鋳るに似たり。

 この上堂と『三時業』が同一資料を使用し、同一の説を展開している事は、明らかな事で

あり、道元の晩年の主張は十二巻本の説を示衆していたのであり、「仏祖の児孫」への説示

は、十二巻本が単に対象として永平寺教団に入門してくる初心者にあったのではないかと

言える。『一百八法明門』にも「いま初心晩学のともがらのために、これを撰す。師子の座

にのぼり、人天の師となれらんともがら、審細参学すべし」と、あることが注目される。

 それでは、十二巻本をなぜ書かねばならなかったのかを、七十五巻本おの関わりで考える。

そのことを問題にする時に参考となるのが、徹通義介(1219―1309)と孤雲懐弉(1

198―1280)との問答を記す『御遺言記録』(1255年の条)に見出せる。

  同(正月)六日、夜参に二談有りし次(おり)、義介、諮問して云く、「義介、先年、同

一類の法内に、談ずる所に云く、『仏法の中に於て諸悪作すこと莫し、衆善は奉行すべしと。故に仏法中にては諸悪は元来莫作なり、故に一切の行は皆な衆善なり。所以に挙手・動足の一切の作す所、凡て一切諸法の生起にして、皆な仏法なり、云々』と。此の見は正見なるや」。

和尚(懐弉)、答えて云く、「先師(道元)の門徒の中に、此の邪見を起こせし一類有り、故に在世の時に義絶し畢(おわ)りぬ。門徒を放たるること明白なり。この邪見を立つるに依りてなり、若し先師の仏法を慕わんと欲するの輩ならば、共に語り同(とも)に坐すべからず。是れ則ち先師の遺誡なり」。

道元の門下への批判は、まさしく栄西の『興禅護国論』の日本達磨宗批判と類似する事は明らかである。

  問うて日く、「或る人、妄に禅宗を称して名づけて達磨宗と日ふ。しかしてみづから云

  く、行無く修無し、本より煩悩無く、元よりこれ菩提なり。この故に事戒を用ひず、只  

  だ応に偃臥を用ふべし。何ぞ念仏を修し、舎利を供し、長斎節食することを労せんや、と云々と。この義、如何」。

  答へて日ふ、「其の、悪として造らざること無きの類なり。聖教の中に空見と言へるもののごとき、これなり。この人と共に語り。同すべからず、応に百由旬を避くべし・・」。

 

 しかも道元の場合、門下を「義絶」するという出来事は、平穏なはずの禅宗修行道場にお

いて、特異な事件といえるであろう。道元の長年の指導にも拘らず、それが正しく伝わらな

かった事への反省は自覚されたに違いない。ここに「遺誡」の語があるが、基本的な内容を

説くこと、ではなかったのではなかろうか。それは「挙手・動足の一切の作す所、凡て一切

諸法の生起にして、皆な仏法なり」とする「邪見」の排除という具体的な示衆内容である。

『三時業』では次のようにいう。

  いまのよに因果をしらず、業報wpあきらめず、三世をしらず、善悪をわきまへざる邪見のともがらには群すべからず。

また、

  行者かならず邪見なることなかれ。いかなるか邪見、いかなるか正見と、かたちをつくすまで学習すべし。まづ因果を撥無し、仏法僧を毀謗し、三世および解脱を撥無する、ともにこれ邪見なり。

 それゆえに『出家』では、

  出家の日のうちに、三阿僧祇劫を修証するなり。出家之日のうちに、住無辺劫海、転妙法輪するなり。

とあったのを、『出家功徳』では、無限の修証を強調するのである。

  いはゆる「学般若」菩薩とは祖々なり。しかあるに、阿耨多羅三藐三菩提は、かならず出家即日に成熟するなり。しかあれども、三阿僧祇劫に修証し、無量阿僧祇劫に修証するに、有辺無辺に染汚するにあらず。学人しるべし。

 『発菩提心』においても、同様である。

  この発菩提心、おほくは南洲の人身に発心すべきなり。八難処にもすこしきはあり、おほからず。菩提心をおこしてのち、三阿僧祇劫、一百大劫修行す。あるいは無量劫おこなひてほとけになる。あるいは無量劫おこなひて、衆生をさきにわたして、みづからはつひにはほとけにならず、ただし衆生をわたし、衆生を利益するもあり。菩薩の意楽にしたがふ。

 

 このように、十二巻本の撰述の遠因として鎌倉行化の失敗と反省があり、門下の修証論の

深刻な自覚が、「邪見」の撥無因果の排除から深信因果へと向かって行った結果と言えるの

ではなかろうか。

 ただ、十二巻本について、示唆に富んだ内容分析と提言を含んだ石川力山氏の「道元

《女身不成仏論》についてー十二巻本『正法眼蔵』の性格をめぐる覚書」が指摘するように、

出家至上の立場を貫いたのは、寛元元年(1243)に京都を離れ、越前へ向かった時の決

意が、後の十二巻本の『出家功徳』へ影響した事を否定するものではない。また確かに石井

修道「『礼拝得髄』考」で述べたように、道元の魅力的な得法の男女平等論や女人結界批判

の説が存在していたにも関わらず、第一『出家功徳』では、

  聖教のなかに在家仏教の説あれど正伝にあらず、女身成仏の説あれど、またこれ正伝にあらず、仏祖正伝するは出家成仏なり。

となって展開した。このことを現代という視点で見ると、後退した説となったのは、石川氏

が結論するように、道元も変成男子説として、当時の仏教界の説を、確認した感があるのは

残念と言えよう。

 

 

これは石井修道氏による『正法眼蔵』に対する巻末に於ける「解題」としての文章を

書き改めたものであり、一部修訂を加えた。(タイ国にて・二谷)