正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『正法眼蔵』―脱構築から再構成へ    末木 文美士

正法眼蔵』―脱構築から再構成へ

一 本覚思想と道元―「弁道話」

             

          ―『仏典を読む』よりー

末木 文美士

Ⅰ 修行は必要か

 

 修行と悟りはひとつでないと思うのは、外道の見解である。仏法では、修行と悟りはひとつである(修証これ一等なり)。いまも悟った上での修行(証上の修)であるから、初心の修行がそのまま本来の悟りの全体である。(弁道話)

 

 「弁道話」は、厳密には「正法眼蔵」には含まれないが、通常「正法眼蔵」の冒頭におかれ、その入門のような役割を果たしている。寛喜三年(1231)、道元三十二歳の作である。この前年、道元建仁寺から深草安養院に移っている。「弁道話」は、いわば道元の独立宣言とも言うべきもので、若く一途な気概に溢れ、「坐禅弁道」この仏道の根本であることを説いている。因みに、「弁道」(仏道を行ずること)は正しくは「辦道」で。「辦」は「弁」の本字の「辨」と異なっているが、今日ではしばしば混用されている。

 そこで説かれる考えは、ひとつは、修行を進めてだんだんと悟りに近づき、やがて悟りに至るという段階論。もうひとつは、もともと悟っているのであるから、わざわざ修行する必要もないという修行不要論である。修行はしなければならない。しかし、修行が終わって始めて悟りに達する訳ではなく、修行そのものが悟りなのだというのが、道元の修証一等論である。

 そう言ってしまうと、何となく分かったような感じで、それだけのことか、と云う事になりそうだが、それが結構厄介だ。そもそも日本の仏教は、最澄が悉有仏性説を全面的に受容し、空海が即身成仏論を立てるなど、当初から悟りを手近かな処に見ようという傾向が強かった。それ故、悟りをはるか彼方の目標として設定して、それに向って長い時間をかけて修行して行くという段階論的な発想が弱かった、三大阿僧祇劫と云う無限に長い時間の修行の後で、初めて仏の悟りに至ると云う法相宗の主張は、傍流に追いやられていく。無限の生死の果てに悟るなどと云うのは、日本人の想像力を超えたことで、具体的なイメージを掴めなかったのであろう。

 そうした現実主義的とも云うべき傾向の最も極端まで

行き着いたものが本覚(ほんがく)思想である。本覚思想は、もともと衆生は悟っているのであるから、改めて修行する必要はないとする修行不要論にまで極端化する。そのような傾向は、天台宗を中心に十二世紀頃から盛んになり、天台以外にも及び、当時の仏教界のおおきな潮流となっていた。代表的な本覚思想文献である『三十四箇事書(かのことがき)』では、端的に次のように言う。

 

  最高の円満な教え(円教)では、衆生が転換して仏に成るとは言わない。衆生衆生のままで、仏界は仏界のままで、ともに永遠である。

 

 この世界はそのまま永遠の仏の世界である。地獄は地獄のまま、草木は草木のままで成仏

しているのであり、それを改める必要はない。当然修行も必要ない事になる。このような本

覚思想に対しては毀誉褒貶(きよほうへん)が著しい。一方からは仏教の堕落形態として否

定的に見られる事になるが、他方から見れば、現実離れした理想論ではなく、現実を見据え、

現実に立脚した新しい仏教思想の誕生ともいえる。現実の社会をそのままイデオロギー

に肯定してしまうと云う面があると同時に、無常や人間の欲望をそのまま認めることで、硬

直した現実を打破する思想とも成り得る。本覚思想はそのような多面的な重層性を持った

思想であり、これ故にこそ中世の日本に与えた影響は計り知れない。

 

 そのような状況を考えるとき、道元の修証一等論は、段階的修行論に対すると云うよりも、

本覚思想的な修行不要論をどう受け止め、どう乗り越えるか、と云う面の方がおおきな問題

だったと思われる。そもそも中国でも禅の頓悟は、段階的修行論に対する批判として生まれ

たものであり、特に新たに問題にしなければならないような事ではなかった。

 本覚思想的な修行不要論に関しては、確かに中国にも、あるがままで善しとする無事禅と

謂われる流れがあり、圜悟の『碧巌録』もそのような動向を厳しく糾弾している。しかし、

道元はより切実な問題として日本の本覚思想を受け止めていたと思われる。伝承ではある

が、道元は叡山で勉強していた時に、「本来本法性。天然自性身」(もともと真理の本性その

ままであり、あるがままで自己の本性を実現している)と云う本覚思想を表す言葉に疑問を

持つように成ったという。それならば、どうして修行が必要なのか、と云うのである。そこ

から、叡山を離れ、禅に向かうように成ったのである。

 道元は「弁道話」の中でも、「仏法には、心がそのまま仏である(即心是仏)という主旨

を十分に理解したならば、口に経典を読誦せず、身に仏道を行じなくても、まったく仏法に

欠けたところがない。ただ仏法ははじめから自分にそなわっていると知るのが、完全に得る

ことである。この他にさらに他人に向って求めるべきでない。まして坐禅修行をわざわざす

ることがあろうか」という問いを立てて、本覚思想的な修行不要論を批判している。

 このような本覚思想に対する道元の姿が、修証一等と云うことであった。道元は、「その

まま仏」と云う事のレベルをずらす。何もしないで、そのままで善いと云う訳ではない。坐

禅修行は不可欠である。しかし、修行の結果、仏に成るというのでもない。坐禅修行してい

ること、それが悟りであり、そこに仏の世界が全開する。「弁道話」の言葉を用いれば、「こ

の法は、人々(にんにん)の分上(ぶんじょう)にゆたかにそなはれりといども、いまだ修

せざるにはあらはれず、証せざるにはうることなし」と云うことで、ただあるがままでいれ

ば善いという訳ではない。

 つまり、本覚思想の「そのまま仏」ということの実現を、ひとつレベルを上げて、修行中

の状態に移すのである。確かに「そのまま仏」ということが出来、その点では本覚思想と近

似している。というよりも、極めて本覚思想であると云ってよい。しかし、それは何もしな

いままで善いというのではなく、坐禅修行に入った時に初めて顕現する事だと云うのであ

り、そこに本覚思想との相違が出てくる。修行は不可欠だが、それは悟りを求める為ではな

く、修行する処に悟りが直ちに実現しているからなのだ。道元の、少なくとも初期の思想は、

そのことを中核としている点で一貫している。

 

Ⅱ 達磨宗と道元

 ところで、本覚思想にはもう一つの面がある。それは「本覚」という言葉からも知られる

ように、何か悟りの本性が衆生の心の中に実在し、それを自覚するだけで悟りが実現すると

いう発想である。例えば、「生死を嘆くことはない。生死を出離する非常にすみやかな道が

ある。いわゆる心の本性が永遠であるという理法を知ることである」(弁道話)と云うよう

な考え方である。このような本性は、「霊性」とか「霊知」とかいう言い方もされている。

初期の道元は、このような発想も極めて厳しく批判している。

 道元がこのようなタイプの本覚思想を批判するのには、はっきりとした目的があったと

思われる。それは当時流行していた達磨宗を批判する必要があったということである。鎌倉

時代の禅というと、栄西南宋から臨済宗をもたらしたのが、その最初であると考えられ

がちである。しかし、それ以前に、比叡山出身の大日能忍が唱えた達磨宗という一派が、実

はかなり大きな影響力を持っていたようである。能忍は特別の師匠はなく、恐らくは当時伝

わっていた中国禅宗の語録などに目を通して、自分で工夫して禅の修行を積んだ先駆者で

あり、本覚思想の影響も強く受けている。

 しかし、達磨宗の禅はその先駆性の故に様々な批判を受ける事になった。栄西もまた、達

磨宗の禅は修行不要論を主張しているとして批判し、自らの禅がそれとは違うと云うこと

を強調している。栄西はそれに対して、厳しい戒律厳守の基礎の上に禅の実践を打ち立てよ

うとしたのである。

 道元にとっても、達磨宗の問題は他人事ではなかった。というには、能忍の高弟覚晏(か

くあん)の弟子懐奘(えじょう)が道元に入門して、道元の一番弟子とも云うべき位置を

占める事になったからである。懐奘は道元の言行録『正法眼蔵随聞記』の著者であり、永平

寺第二世として道元の後継者となった。それだけでなく、後には懐鑑(えかん)ら、他の達

磨宗のグループも道元門下に投じ、その中から永平寺第三世の義价も出ている。このように、

達磨宗のグループは道元門下の中核を成す事になるのである。道元が「弁道話」を著わした

時、まだ懐奘は入門していなかったと思われるが、その後まもなく入門するのであり、すで

道元は達磨宗とかなり密接な関係を持っていたものと考えられる。

 達磨宗のグループがこのように道元に入門する事になるのは、それだけ達磨宗と道元

の間に思想的な親近性があったという事であろう。道元の思想がかなり濃密に本覚思想的

な要素を持っている事は先に述べた。それにも拘らず、道元が本覚思想的な発想を極めて厳

しく批判する事になるのは、達磨宗から入ってきた門人たちに、達磨宗との相違を明確に

示さなければならなかったからである。

 今日、達磨宗に関する資料が順次発見されつつあるが、それらによると、達磨宗は心の本

性を悟ることを重視し、「霊知」という言葉も用いている。道元の霊知説批判は、直接には

達磨宗に向けられ、それを通して最終的には本覚思想的な発想に向けられていたと云うことが出来る。初期の道元の思想的課題は、自らも濃厚に本覚思想の影響を受けながら、達磨宗と対決する中で、それを批判していくと云う処に、最大のポイントが置かれていたのである。

 

二 深層の世界へー「現成公案」「仏性」など

 

Ⅰ冥想の言語化

 道元が師章の明全(栄西のでし)と共に入宋したのは貞応(じょうおう)二年(1223)、二十四歳の時のことであった。宋で明全が客死するなど厳しい状況の中で、道元は遂にこの人こそと云う師匠の如浄に出会い、そのもとで「身心脱落」の経験をする。身心がそのまま抜け通ってしまったような体験―それこそ、その後の道元の原点となる体験であった。中国禅の言い方でいえば、「見性」(自己の内なる仏性を徹見する悟りの体験)であるが、道元にとっては、そこで悟って終りというものではなかった。むしろそれこそが本当の修行の始まりであった。

 安貞元年(1227)帰国。帰国後の最初の仕事は「普勧坐禅儀」の撰述であり、それはまさしく、宋で学んできた正しい坐禅の仕方を日本に伝えようと云う意欲に満ちたものであった。建仁寺から深草に移り、「弁道話」を執筆し、、興聖寺を開いて、いよいよ本格的にその活動を開始する。

 『正法眼蔵』の多くの巻は示衆(弟子たちへの説法)の記録で、生涯にわたって記し続けられるが、それもこの時期から始まった。ただし、道元の思想のエッセンスとも云うべき「現成公案」の巻は、示衆ではなく、九州の俗弟子に宛てられており、緊張感に満ちた名文で、その境地が見事に表現されている。

 

  自己をはこびて万法を修証するを迷とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。

迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず、しかあれども証仏なり、仏を証しもてゆく。

 

 あまりにも有名な一節であり、現代語訳したり、解説したりすると、その名文のリズムが伝わってこないので、原文のまま引用する。ここでは「修証一等」が単なる理屈ではなく、道元自身の禅定の体験に基づくものである事が端的明瞭に示されている。『正法眼蔵』の大きな課題は、このような道元自身の瞑想体験をどのように言語化し、表現して伝えていくかという点にあった。しかしその際、道元が選んだのは、当時日本でも公的な言語として通用していた漢語ではなく、和語であった。自分自身の体験を、もっとも納得のいく形で表現するには、自分に一番親しい言語を用いなければならない。

 だが、そもそも中国の禅においても「不立文字」というのは、単なる言語の否定ではなく、むしろ日常の言語の意味を破壊し、その隙間から異形の他者を現出させる手法であった。禅の言語はすでに日常性を逸脱している。道元はそこにさらに、中国語と日本語の相違という言語のずれの問題を導入する。敢えて異なる言語をぶつける事によって、禅の言語の屈折に、もうひとつ乱反射される要因を意図的に持ち込むと云うことなのだ。そこに『正法眼蔵』の言語の難解さが生まれる。

 

 例として「仏性」の巻(仁治二年、1241)を見てみよう。どうの仏性論として、「悉有仏性」(〔一切衆生に〕悉く仏性有り)を、「悉有は仏性なり」と読み替えたことはよく知られている。その事がすでに極めて無理な読み方であり、言語構造の暴力的な破壊である。さらに、「仏性」という言葉の意味を転換する。「仏性」は仏となる潜在的な可能性という元々の意味ではなく、仏の本性がすでに実現している事であり、端的に言えば仏そのものと云う事である。それ故、「悉有仏性」は、未来的な成仏の可能性ではなく、「一切の存在はみな仏」(の本性の実現)である」という、今ここでの実現の表現となる。

 あるがままの世界を、そのまま悟りの世界として肯定することーこれはまさに本覚思想そのものである。しかし、すでに見たように、道元は、」時節至れば(時節若至)、仏性現前す」という『涅槃経』に基づく言葉の、「時節若至」を「時節既至」と読み替える。「時節」はいつかやって来ると云う仮定の条件ではない。いまここにすでに実現しているのだ。だからこそ、それを見逃してはならない。すでに実現していると云う事は、それならばもう放っておいてもいいではないか、と云う事ではなく、だからこそ、それをいまここで受け止めなければならないと云う、厳しい当為に結びつく。「十二時中不空過」(一日中、いつもむなしく過ごしてはならない)ということである。

 それが「修証一等」と云う事であり、「現成公案」(ありのままの現実がそのまま真理の世界)と云う事なのだが、そのようにスローガンにしてしまえば、もはや日常的意味の中に埋もれた死んだ文字と化してしまう。道元が敢えて言葉をぼうりょくてに読み替えていくのは、恣意的にしたい放題の解釈をしているのではない。そうではなく、それは表層の日常的意味の中に隠れ、埋れた言葉の深層を浮かび上がらせる作業である。だから、道元は言葉の固定化を嫌い、様々な言い換えによって、言葉を解体していく。例えば、次のような表現を見てみよう。ここでも、道元の言葉の勢いを知るために、原文のまま引用する。

 

  しるべし、いま仏性に悉有せらるる有は、有無の有にあらず。悉有は仏語なり、仏舌なり。仏祖眼睛なり、衲僧鼻孔なり。悉有の言、さらに始有にあらず、本有にあらず、妙有等にあらず。いはんや縁有・妄有ならんや。心・境・性・相等にかかはれず。しかあればすなはち、衆生悉有の依正、しかしながら業増上力にあらず、妄縁起にあらず、法爾にあらず、神通修証にあらず。もし衆生の悉有それ業増上および縁起法爾等ならんには、諸聖の証道および諸仏の菩提、仏祖の眼睛も業増上力および縁起法爾なるべし。しかあらざるなり。

 

 「仏性に悉有せらるる有」という表現はいかにも日本語としておかしいが、いっさいの存

在が仏に包接されてしまっているということだ。「現成公案」の巻の言葉を使えば、「万法す

すみて自己を修証する」という世界である。一切の存在はそのまま仏の言葉であり、仏の眼

の玉であり、禅定に入った僧の鼻柱である。だから、そのような存在は、すべての規定を超

え、否定によってしか表現できない。衆生はすでにただの衆生ではなく、仏そのものなのだ。

だから、もはや業とか縁起によって束縛された世界には所属しない。それが禅定の瞑想の中

で実現されると云うのである。

 

Ⅱ 言語の解体と深層の意味

 もっともこの程度であれば、道元の思想の基本を理解すれば、その意味を汲み取る事はそ

れほど困難ではない。厄介なのは、道元が祖師の言葉を取り込んで解釈するところだ。いわ

ゆる「公案」であり、『正法眼蔵』はある意味では、『碧巌録』と同じように、祖師の公案

どう受け止めるかと云う、公案解釈書とも云える性質のものだ。

例えば「仏性」の巻には、四祖道信と五祖弘忍の初対面の問答が取り上げられている。四

祖が「汝何姓」(お前の姓は何か)と問うたのに対して、子供である五祖は「姓即有、不是常姓」(姓はあるにはあるが、ふつうの姓ではない)と答える。四祖がさらに「是何姓」(どういう姓か)と問うと、五祖は「是仏性」(仏性という姓〔=性だ〕と答え、四祖の「汝無仏性」(お前には仏性などない)という追い打ちに、五祖は「仏性空故、所以言無」(仏性は空であるから無というのだ)と切り返したという問答である。

 やや理屈っぽいが、それだけに分かりにくい問答ではない。初対面の際に相手の名を問う事によって、その境地を伺うと云うのは、禅の常套手段である。それに対して、五祖が「仏性」を持ち出したのは、子供ながらになかなかのものである。だが、それだけでは所詮は

概念としての理解でしかない。そんな「仏性」など何の役にも立たない。それ故、四祖は「汝無仏性」と突き放した。五祖の「仏性は空であるから無というのだ」と云うのは、これも如何にも理屈っぽく、たしかに見所はあるが、まだまだこれからと云う所であろう。あくまで五祖入門の時の問答であり、本当の悟りにはまだ遠い。

 これを「碧巌録」風に公案として読み込むと、どうなるだろうか。「狗子仏性」という趙州の有名な問答と同じで、四祖の「汝無仏性」が眼目となろう。それは「仏性がない」という単純な否定ではなく、「有」と「無」という二項対立的な言語への囚われを取り払うことだ。「仏性」とか「有」とか「無」とか云う言葉に付された日常的な意味を剥奪して、そこに露呈された事態そのものに、飛び込む事が求められる事になるだろう。

 それでは、道元はこの公案をどう見るのだろうか。道元は先ず四祖の「汝何姓」という冒頭の問いに注目する。これは単純な疑問文ではない。「なんぢは何姓(かしょう)と為説するなり」(お前は「何」という姓だと言っているのだ)と解する。つまり、「何」は疑問詞ではなく、「何」という言い方でしか表せない根源の事態なのだ。道元はそれを「吾亦如是(ごやくにょぜ)、汝亦如是(にょやくにょぜ)」(わしもその通り、お前もその通り)と云うのと同じだと言う。「何」とは、「如是」(その通り)と言われるように現実の事態そのものである。

 五祖の答の「姓即有、不是常姓」の「姓即有」も、単純に「姓ならばある」と云うだけの意味ではない。この「有」は「悉有」の「有」であり、「姓即有」は「有即姓」とも言い換えられる。「姓」は単なる姓名の姓ではない。存在そのものの露呈である。だから、「常姓」(ふつうの姓)ではあり得ない。

 四祖はそれに対して「是何姓」と改めて問い返す。ここで道元は、「何(か)は是なり。是を何(か)しきたれり」という奇妙な日本語を持ち出す。「何」を動詞として使っているのである。要は、「是」も「何」も根源で働く事態なのだ。だから、静的な名詞としてだけでなく、動詞としても働くことになる。「姓は是也(ぜや)、何也(かや)なり」と言われるように、「姓」も「是」も「何」もすべて同じことであり、敢えて言えば、それこそが「仏性」なのである。そこに五祖の「是仏性」と云う答が呼び出されてくる。

 しかし、「仏性」と云われる時、もちろんそれは固定的な何ものかを示すわけではない。「是」=「何」=「仏性」=「仏」ではあるが、それは「脱落しきたり、透脱しきたるに、かならず姓なり。その姓すなはち周なり」と云うのであって、「周」(五祖の実際の姓)という個に再び戻ってくる。しかし、その個は、「父にうけず、祖にうけず、母氏(もし)に相似ならず」と、現実の業や縁起を超えた所で受け止められた個である。だからこそ、それはまた「仏性」だけでなく、「無仏性」とも言われるのである。「無仏性」と云うのは、「仏性がない」と云う事ではなく、「無」という仏性のあり方であり、「無仏性」と云う仏性のあり方なのだ。

 何だか頭が、ごちゃごちゃになってしまいそうだが、道元公案に対する態度が、『碧巌録』などに見られる中国禅の扱い方と似ていながら、正反対の方向を向いている事が分かるだろう。中国の公案禅では、言葉の日常的な意味を解体し、意味的な言語で表現しようのない事態そのものへと突き落とす。ところが、道元は同じように日常的な意味を解体しながらも、直ちに言語の意味を捨て去る事をしない。むしろ言語の表層の意味を解体する事によって、深層の意味、根源の事態が浮かび上がり、開示されるのである。日常言語の構造を脱構築しながら、道元は単なる否定ではなく、根源的な肯定へと向かうのである。

 

 三 脱構築から再構築へー十二巻本『正法眼蔵

 

Ⅰ 日常性の再建

 『正法眼蔵』と云うと、ただちに「現成公案」や「仏性」など、難解で複雑な思想の展開された巻が思い浮かべられる。確かにそれらの巻は、今日の哲学の場に持ち出しても十分に通用する深い思索の結晶であり、道元の天才とも言うべき特異な才が際立っている。しかし、『正法眼蔵』がそのような巻ばかりで成り立っていると思ったら間違いである。「弁道話」に先立って、まず『普勧坐禅儀』を著わして正しい坐禅の仕方を示したように、道元は常に日常の正しい規律・方法を重視している。

 確かに「弁道話」では、戒律を護る方が善いとしながらの、「いまだ戒をうけず、又戒を破れる者、その分なきにあらず」として、必ずしも戒律の厳守は求めていない。それどころか、「男女貴賎をえらぶべからず」と、在家者であっても、男女を問わず坐禅をしさえすれば善いと、極めてラディカル(急進的)で自由な姿勢を示している。

 しかし、嘉禎三年(1237)には『出家授戒作法』を著わしており、戒律への関心は早くから強くもっていた。そればかりか、『正法眼蔵』の中にも「現成公案」や「仏性」とずいぶん傾向を異にした巻がある。例えば、「洗浄」(延応二年、1239)では、爪の切り方、大小便の仕方、用便後の処理や手の洗い方まで細かく規定し、「洗面」(同年)では、顔の洗い方や歯磨きの仕方まで、これまた事細かに記している。

 例えば、「洗面」では、歯磨きに楊枝を使うべき事を説く。ところが、どうやら当時、中国では楊枝を使う習慣が廃れていたらしい。「大宋国いま楊枝たえてみず・・しかあれば、天下の出家在家、ともにその口気はなはだくさし。二三尺をへだててものいふとき、口臭きたる。かぐものたえがたし」と、極めて具体的で、潔癖な道元が辟易する様が如何にも如実に窺われて面白い。それに対して、「日本一国朝野の道俗、ともに楊枝を見聞す、仏光明を見聞するならん」と、日本で楊枝が使われていた事を讃える。ただ、それが正しい正しいやり方で為されていないと指摘するのである。

 このような生活のこまごました規定は、単に戒律上の事ではない。それが、基本的に仏祖以来正しく伝えられて来た方法である事が大事である。仏祖以来の伝統に対する道元の執着には、些か驚かされる程の処がある。禅の師匠から印可されると、法を継承した事を証明する嗣書を授けられるが、道元は宋に滞在中に、様々な禅僧からその嗣書を見せてもらおうと手を尽し、たまたま見せてもらう機会があると、感激して礼拝している。「嗣書」の巻(仁治二年、1241)にはその一々の様子を記し、ある場合には「ときに道元喜感無勝」とまで書いている。

 このような所には、坐禅にひたすら打ち込み、その瞑想の世界を哲学的に深めていくのとは、些か異なる道元の姿がある。しかし、それが全く別の事なのかと云うと、そうではない。どちらも仏祖に由来し、仏祖の道を伝えるものだからこそ大事なのだ。恣意的に自分で工夫して満足しているのは外道でしかない。仏祖の道を正しく伝える事こそ、道元の求める処である。それ故、道元には謂わば仏教原理主義とも云うべき処がある。

 それがさらに徹底していくのが、晩年の道元である。寛元元年(1243)、興聖寺を離れ、越前の山中に移り、やがてそこに永平寺を創建する。その過程で、道元の思想は大きく転換する。それが十二巻本『正法眼蔵』である。

 

Ⅱ 『正法眼蔵』の諸本と十二巻本

 ここまで、『正法眼蔵』というテキストについて、特に説明してこなかったが、ここで基本的な事に立ち戻って、テキストの問題に触れておこう。それは専門家が重箱の隅をつつくような問題ではなく、道元の思想解釈の根本に関わる処があるからである。

 「正法眼」という言葉は、仏の正しい教えの眼目ということで、それを収めているから「蔵」である。もともと、仏が摩訶迦葉に禅の教えを伝えた時に、「我が正法眼蔵摩訶迦葉に伝えた」と言ったというのが最初である。道元以前にも、すでに宋の大慧宗杲が『正法眼蔵』という名の書を著わしている。これは六百六十一則の公案を集めた公案集である。大慧は、『碧巌録』の著者圜悟克勤の弟子で、公案禅の確立者として知られるが、実は道元は大慧系の公案禅に対して極めて強い批判的な態度を取っていた。それと同じ書名を道元が採用したのは不思議に思われるかも知れないが、大慧を超えて、釈迦の正しい教えを伝えるのは自分だと云う強い自負があったのであろう。

 道元にも、通常云われる『正法眼蔵』とは別の、もうひとつの『正法眼蔵』がある。此れは三百の公案を集めたもので、『正法眼蔵三百則』とは、すべて漢字(真字)で書かれているので『真字正法眼蔵』とも呼ばれる。公案集という性格からして、大慧の本との関係をより強く感じさせる。

これまで考察してきた『正法眼蔵』は、仮名で書かれているので『仮名正法眼蔵』とも呼ばれるが、その編集には大きな問題がある。しばらく以前まで、もっとも広く用いられてきたのは、九十五巻本のテキストであった。これは『正法眼蔵』として知られる全ての巻を撰述年代順に集めたもので、非常に便利なものだる。しかし、そのような形で編集されたのは江戸時代の後半まで下り(1795―1811)、従って古い根拠のないものである。それ以前、中世に遡る形態としては、十二巻本・二十八巻本・六十巻本・七十五巻本・八十三巻本・八十四巻本など、様々な形態があるが、その中で近年注目を浴びているのが、十二巻本である。

どうして十二巻本がそれほど重視されるようになったのであろうか。十二巻本の最後の「八大人覚」の巻は建長五年(1253)、道元の亡くなる数箇月前に書かれたものである事が知られているが、その最後に懐奘の奥書がある。それによると、この巻は十二巻本の最後に当るが、道元はその後、以前に著わした『正法眼蔵』の巻を総て書き改めて百巻にする計画であったと言う。それが、病の為に実現しなかったと云うのである。そうとすれば、この十二巻本こそは、道元が病の中で自らの新しい立場に基づいて書き、自ら編集したもので、晩年の新しい思想展開を伺う唯一の手掛かりと云うことになる。

それに対して、十二巻本以前の形態としては、今日、七十五巻本が多く用いられる。七十五巻本には十二巻本と重複する巻がなく、十二巻本とセットになる事が明らかである。しかも、道元滅後、その門弟たちによって伝持されていた形態であるから、両者をセットにして用いる事は十分に根拠のある事と考えられる。しかし、七十五巻本の最初の方の巻立てはある程度決まっていたようであるが、後の方の順は必ずしも根拠のあるものではなく、なお問題を残している。

このように、十二巻本のみが道元自身の意図に基づくもので、しかも晩年の思想を伝える重要なものであるが、長い間、顧みられる事がなかった。それは、九十五巻本では、十二巻本に収録された諸巻が最後の方に纏められ、撰述年代未詳とされていた為に注目されなかったと云う事と、その内容が七十五巻本の始めの方の哲学的な巻とあまりに違いすぎて、その観点からすると、見劣りがするように思われたからである。

その十二巻本が注目されるようになったのは、批判仏教の運動により所が大きい。批判仏教は、曹洞宗の大学である駒沢大学の袴谷憲昭、松本史郎らによって主唱されたもので、本覚思想やその元になる如来蔵思想を、本来の仏教でないものとして、厳しく批判した。彼らは、道元の思想を如来蔵=本覚思想の批判という観点から高く評価した。すでに見てきたように、初期の道元にとって本覚思想の批判は大きな課題で、そこから「修証一等」の立場を打ち立てようとしたが、それは実際にはかなり濃厚に本覚思想の影響を受けたもので、それと紙一重の所がある。それに対して、十二巻本は本覚思想の影響が徹底していると云う事で、批判仏教はの論者たちによって高く評価されたのである。

十二巻本をどう評価すべきかと云うことは、いまだ十分に議論が尽くされていない。実は、十二巻本は本覚思想批判というだけに限らない。もっとスケールの大きな道元の意図が籠められていたのではないかと云うのが、最近十二巻本を読み直して、僕がいま考えていることである。まだ十分にしっかりした論証できる事ではないが、以下、些かそのアイデアを提出してみよう。

 

Ⅲ 仏教の再構築へ向けて

 十二巻本の巻名を挙げていくと、次の通りである。

 

 出家功徳・受戒・袈裟功徳・発菩提心・供養諸仏・帰依仏法僧宝・深信因果・三時業・四馬・四禅比丘・一百八法明門・八大人覚

 

 これらの巻の標題を見ていくと、出家・受戒からはじねて、仏教の基本となる実践を順次

取り上げている。七十五巻本でも、確かに諸法実相とか、三界唯心など、大乗仏教の根本と

なる概念を取り上げ、その再解釈を試みている。道元の意図は、「禅宗」という一派を立てる事ではなかった。「諸仏諸祖には禅宗と称するものはいなかった。禅宗という名称は悪魔が称するものである。悪魔の呼称を称するのは、悪魔の仲間であり、仏祖の児孫ではない」(「仏道」)と、口汚いほど強い言葉で誡めているくらいである。道元の意図する処は、仏祖の根本をどのように捉えるかと云う事であった。だから、道元は「教外別伝」(言葉にした教えの外に、不立文字の本当の禅の伝承がある)と云うような禅のスローガンを全面的に否定する(「仏教」)。

 このように、七十五巻本においても、道元の立場は狭い「禅宗」に捉われず、仏教全体をどう受け止めるかと云う処にあった。それは、もともと栄西の精神を継いでいると云う事も出来る。栄西禅宗の請来者として知られるが、「日本仏法中興願文」を著わしているように、目指す処は単に「禅宗」という一宗派の確立という事ではなかった。東大寺大勧進として、その再建に努めている事など、あたかも不純であるかのように論じられる事もある。しかし、その志が日本の仏法全体の興隆にある事を考えれば、その実践も決して単なる妥協や世俗的な野望と云うだけでない本質的なものであった。

 そして、その精神は道元にも受け継がれている。本当の仏法とは何なのか、それをどうのように実践すれば善いのかという、根本的な問題に道元は踏み込んだ。そのことは、十二巻本に至って益々ラディカルな処まで突き進んでいく。敢えて言えば、道元はここで、これまで常識とされてきた大乗仏教の優位に疑問を突きつけ、原始仏教の見直しにまで踏み込んでいるのではないだろうか。そうとすれば、本覚思想の批判と云う局限された問題にとどまらず、もっとおおきなスケールで仏教全体の再構築を図ろうとしているのではないか。十二巻本を読みながら、最近、僕はそんなふうに考えている。

 

 十二巻本では、もはや禅の祖師たちの言葉は、必ずしも中心的な主題としては取り上げられていない。そこで中心的な問題となるのは釈尊の教えであり、原始仏教以来の仏教の根本原理である。出家や受戒はもちろん、教説としても、帰依三宝や、業と因果など、大乗仏教以前とも云える基本的な教説の再評価を図っている。先に「仏性」の巻で、業や縁起(因果)を超えることが論じられていたのと較べると、ここには明らかに相違があり、あまりに素朴に仏教の基本教理が認められ過ぎているかのような印象を受けるかも知れない。

 例えば、「深信因果」の巻を見てみよう。ここでは、十二巻本の中で唯一、禅の公案が正面から取り上げられている。それは、百丈野狐という公案がある。百丈懐海の説法の席に、いつも一人の老人がいた。あるとき、百丈が「お前は何ものか」と尋ねると、「自分は人間ではない。過去の迦葉仏の時にこの山に住んでいて、ある人に『大修行をした人でも因果の法則に落ちるのか』と問われて、『因果に落ちない(不落因果)』と答えた為、五百生の間、野狐の身に堕したのである。どうか和尚よ、私の代りに一言、根本の答を与えて、野狐の身から抜け出させてください」と答えた。そこで、老人が「大修行をした人でも、因果の法則に落ちるのか」と問うた時、百丈は「因果ははっきりしている(不昧因果)」と答え、それによって老人は野狐の身を脱する事が出来た、と云う話である。

 「仏性」の巻の処で触れたように、悟りを開いたら、因果の束縛を脱するはずである。だから、老人の「不落因果」は、その限りでは間違いではない。しかし、因果に囚われないから、何でもし放題で良いのか、と云うと、そうではない。因果を無視する事は許されない。それが「不昧因果」である。「不落」と「不昧」とが共に具わらなければ本当の悟りではない。ひとまず、そのように解されよう。

 道元は、この公案を七十五巻本の「大修行」の巻で扱っている。そこでは、不落・不昧の色々な議論があるが、いずれも不落・不昧の言葉の本質に達していないとして、不落・不昧の二項対立に陥ることを誡めている。元々の公案の意図からしても、その一方に偏るのは不適切であり、両者ともに認めるか、または両者を超える境地こそ、求められるべきであろう。

 だが、十二巻本の「深信因果」で、道元は全く異なる解釈をしている。「不落因果」は因果を否定する事であるから、野狐身に生まれる事になったのであり、それに対して、「不昧因果」こそは深信因果であり、これによって野狐身を脱する事が出来たのだ、と云うのである。つまり、完全に「不落因果」は誤りで、「不昧因果」のみが正いと云う解釈になっているのである。これは、禅の解釈としては、まったく不適切であり、因果を超えた禅の自由な境地を全否定する偏った解釈である。

 さらに「深信因果」に続く「三時業」の巻では、現世の行為の善悪によって、現生、未生、或いはそれ以後の生において、必ずその報いを受けることを説いており、因果の問題をさらに具体的に論じたものである。これもまた、あまりに素朴な業・輪廻観である。仏教の初歩ではあるかも知れないが、それこそ『日本霊異記』の世界であり、七十五巻本の「哲学者」道元からは遠く離れている。

 どうして道元はこのような極端な解釈に至ったのであろうか。道元のそもそもの動機が、禅という特殊な一派を求める事ではなく、仏祖の原点に戻り、原理主義的といっていいほど、仏祖以来の正しい道を綿密に踏むことにあったのを考えると、このような結論も分からない訳ではない。原点復帰の希求は、大乗仏教の曖昧さを超えて、もっとその大元の処にまで遡ってしまったのだ。知らず知らずの内に道元は、後に「原始仏教」と呼ばれて再評価されるようになる、基礎的な実践や、業・因果説に到達してしまっていたのである。

 

 原始仏教の価値が、もう一度きちんと見直されるようになるのは、ずっと時代が下ってからの事である。江戸時代になって、普寂(1707―81)と云う僧が初めて、小乗仏教として軽蔑されてきた原始仏教の見直しを図ろうとして、また、富永仲基(1715―46)によって、大乗仏教の方こそ、本当の仏説ではなく、後世に仮託されたものではないか、と云う大乗非仏説論が唱えられた。それが、近代の原始仏教再評価に繋がっていく。

 しかし、それは遥か後世のことであり、道元の頃、誰もそんな事に思い至る人は居なかった。当時、大乗仏教の「深遠さ」は仏教界の常識であり、それ以前の原始仏教など、まず殆ど振り返られる事はなかった。それは小乗仏教として蔑視され、深い大乗仏教が理解できない初心者の為に説かれた方便の教えでしかないと考えられていた。

 そのような時代に、極まれに奇妙なことを考える人が現れる。院政期に保元の乱で敗死した希代の大学者藤原頼長(1120―56)は、「大乗は末世の機に叶わず、人の学ぶべきは小乗仏教なり」と言って、盛んに因明(仏教論理学)を勉強したという(横内裕人『日本中世の仏教と東アジア』塙書房、2008、参照)。そんな事に関心を持つのは、極めて天邪鬼であり、孤独で反時代的な人でしかない。

 道元もその同類であったのかも知れない。だが、道元の関心は知的な学問ではなかった。あくまでも実践であり、仏祖以来の正しい道の追求が、彼を思いも寄らない方向へと導いて行ったのだ。他者論の錯綜が、大乗仏教の泥沼的なわけの分からなさを導いたとすれば、もう一度、すっきりした原始仏教の倫理に立ち戻ったらどうなのか。孤高の探求の果てに、道元が晩年に到達した十二巻の意図は、それまでの東アジアの大乗仏教の体系をすべて解体し、もう一度原始仏教から再構築し直そうと云う、途方もなく雄大な仏教再建計画だったのだ。そのとてつもない計画を抱きながら、全百巻のうち、十二巻まで到達して、道元は力尽きた。

 十二巻本最後の「八大人覚」は、最期の説法にふさわしく、釈尊の最期の教えと伝えられる八つの道を説いている。それは、少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅行・修智慧・不戯論である。深い哲理よりも、日常の確かな足固めこそ、道元が最期に求めた実践であった。「(この八大人覚を)いま習学して生々に増長し、かならず無上菩提にいたり、衆生のためにこれをとかんこと、釈迦牟尼仏にひとしくことなることなからん」と、道元最期の説法は結ばれている。釈迦仏こそがその模範であったのである。

(末木論文中より、道元に関するものをアップするが、字句等修訂を加えた。二谷2022)