正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

語録の言葉と文体 入矢義高

語録の言葉と文体

入矢義高

私はこれから禅の語録について、もっぱらその言葉と文体について述べようと思う。しかも、もっぱら唐代の語録を中心資料として述べることにしたい。というのは、唐代の禅には、宋以後の禅に見られるような宗派の別によるセクショナリズムがほとんどない上に、国家権力による統制とか、またはなんらかの政治体制への附和といった事態はほとんどなかったから、禅家は文字通り自由に、おのれの信ずるがままに語り、かつ行動することができた。従ってそれらの記録は、宋代以後のものに比べて、遙かに個性色が豊かであり、溌刺としている。それぞれの禅師の一言一句も、その人ならではの言葉として提出されたものであり、その人の全人格によって裏打ちされている。紋切り型の、ありふれた常套句を使うことは全くないと言ってよい。

しかし、説法にせよ、問答にせよ、それを記録にとどめるのは、当の禅師ではなくて、その弟子たちであった。彼らは師の説法や答話を聴いたあとで、忘れぬうちにそれを書き留あたものと思われるが、その記録がたとい師の語った言葉通りの再現ではなかったにしても、果して師の法の真実を誤りなく、かつ過不足なく伝えたものになり得ていたかどうか。それを疑い始めたら、収拾がつかなくなる。

一つは、記録者その人の、求道者としての力量の問題があり、第二には、その人の表現力の問題がある。さらに第三には、師の説きかたそのものが、いわゆる「対機説法」的に、相手の機根に応じての親切な解説であったか、或はそうでなしに、一切の方便を介在させぬ真っ向からの第一義の開示であったかという問題がある。特にこの後者の場合―例えば趙州禅師に最も特徴的に見られるようにーそれの受け手・聞き手の力量の如何によって、それの記録のしかたは大きく左右される。しかも、その第一義の開示にしても、常に真っ向からの言い方によって提示されるとは限らないのであるから、問題は更に複雑である。

更にもっと複雑なケースがある。それは、平たく言えば、師に対する弟子の思い入れが余りにも深すぎるため、師が実はそこまでは言っていないと思われるのに、彼の聞き取りかたの方が、内的な増幅によって、師も驚くであろうような言葉に飛躍して記録されるという場合がある。それに似た例を私は三十数年前に経験したことがある。それは西洋哲学を学んでいた熱心な友人であったが、彼は当時スピノザに深く打ちこんでいた。あるとき、彼は私の部屋にはいって来るなり、目を輝かせながら言った。「スピノザは、人間が死ぬことができるのも神の恩寵だ、と言っていますよ」と。これには私は仰天してしまった。私の知る限りでは、スピノザにそういう表白があろうとは、およそ考えられないことだった。私は彼にその原典の提示を求めた。しかし結局、彼はその原據を探し当てることはできなかった。その言葉は、実は彼のスピノザへの思い入れが肥大しすぎたところから生まれた、つまりは彼自身の言葉だったのである。その時、もちろん彼はそのことに気付いてはいなかった。

求道の心が深まれば深まるほど、おそらく人はだれでもこうなるものであろう。そしてそれは、その人の成長にとって貴重な経験として生きつづけることであろう。しかし、それが或る古人の一時期の体験として進行形でなしに記録され、その後の歩みと切り離された形で定着してしまうと、後世の読者は真実を見失うことになりかねない。

もう一つ厄介な問題がある。それは、同じ一人の禅師の語録で、前と後とで矛盾する言葉が出てくる場合である。具体的に一例を挙げるならば、『臨済録』に三回出てくる「円頓」の教えについての評価である。そのうちの二例は、伝統的な教学の立場に立つオーソドックな位置づけであって、これを大乗最高の境地として定位する。しかし他の一例では、これを「禅宗」の立場の対極に据え、根本にあぐらをかいた低次元のものでしかないとして斬って捨てる。しかも、その「円頓」捨遣の言葉は、『臨済録』の始めの部分に最初に現れる。となると、この『臨済録』の編集は臨済自身の円頓観の進展の過程に応じた編集にはなっていない、ということになる。となれば、この不統一の責任は、もっぱら編集者に帰せらるべきことになろう。しかし果してそうなのか。或るいは臨済自身の説法そのものが、その場の状況と対応した論旨の運びのなかで、把住(ひきしめ)と放縦(ゆるめ)、捨遣と表顕の両様のスタイルを使い分けたのであったのかも知れない。そのどちらとも決め難いのである。

さらに注意すべきこととして、『臨済録』に収められた多くの説法は、それらが行われた年代の違いは捨象されているものの、その文体は大別して二種類に分けられるという点である。一つは、もとの語りくちを出来るだけ忠実に再現しようとして口語を豊富に交え用いた文体。もう一つは、文語体を基調にして修辞に意を用いた簡潔な文体である。編集者はおそらく一人ではあるまい。ここで大事なことは、或る同じ趣旨が語られている右のような二種の記録がある場合、趣旨は両者同じであっても、その文体が異なるからには、述べかたの違いは内容の理解のしかたに大なり小なり影響するはずだという点である。論旨の流れの中でのアクセントの強弱や、主要な各術語が提示される時の語気の緩急や、屈折した言い廻しの際の陰翳の移ろいかたなどが、実は論旨そのものの把えかたを大きく左右することは、決して珍しいことではない。そして、こうした事例は別に『臨済録』に限ったことではなくて、ほとんどすべての語録に一般的に見られる通例である。

それの唯一の例外は、黄檗禅師の『伝心法要・宛陵録』である。これは、その篤実な弟子であり居士であった裴休(はいきゅう)が、親しく聴聞した師の説法を、あとで「家へ引きとってから書き留めた」ものであった。さすがに教養の豊かなこの人の手に成るものだけに、黄檗のこの語録は、精審な論旨の運びが注意深く再現されており、また修辞を整えることに過度に傾かないよう、抑制を効かせた叙述になっていて、それでいながら語り手その人の語りくちの特徴を可能な限り再現しようと努めている。全く申し分のない記録である。こういう見事なものが出来たわけは、逆説ではなしに、彼がプロの禅者ではなくて文学者だったからである。

唐の李商隠の作と伝えられる『義山雑纂』を宋代の王君玉が続作した『続雑纂』のなかに、「少道理」(筋の通らぬもの)という項目があって、それの五つの例が挙げてある。その一つに「和尚が撰した碑記」(僧侶が作った碑文)というのがある。それは通例、或る高僧の一代記と、その徳を頌(たた)え言葉から成るが、それが一般の人から見ると、「筋の通らぬもの」の一典型とされているのである。僧侶の世界では通じても、一般の世間では理解されにくい内容と言い廻しに終始していては、これは広く人に読み伝えられるものとはならない。中国古来の通念では、広く万人に読まれ永く後世に伝わる作品というものは、その内容が立派であるとともに文章も立派でなくてはならない。どちらか一方が不十分であっては、それは名作としての値打はない。従って、いま「道理少(な)し」とされた僧侶の碑文も、甘く採点すれば「その内容はともかく、まず文章が悪い」という批判か、厳しく採点すれば「中味も文章もどちらも頂けない」という批判かのどちらかになる。おそらく後者であろう。ちゃんとした道理は、ちゃんとした文章で表明されねばならぬからである。斐休はその両方で見事だった。

唐代の末期、九世紀後半に、福建を基盤として大教団を作り上げた雪峰禅師にも、『雪峰語録』が残っている。現存のテクストは明代の改編本であるが、その巻下の冒頭に、「大王が師と玄沙を請(しょう)じて、内(宮中)に入りて仏心印を論ぜしめし録」という二千字余りの記録が載っている。大王とは、このとき独立政権を建てて閩王を称していた王審知である。彼は雪峰の熱心な帰依者であったが、光化元年(八九八)に禅師とその高弟の玄沙とを宮中に招請して、禅の根本義についての法話を聴いた。そのとき、王の命によって三人の内尚書(王の秘書官)が帳(とばり)のうしろに控え、禅師と玄沙の説法を「言に随って之を録した」という。つまりこの三人が速記したのである。同じ記録は『玄沙広録』巻下にも載っているが、『雪峰語録』には、上記の標題のあとに「妙徳編」という付記がある。つまり、上述の三人による速記録を雪峰の弟子(おそらく記室という役の文書係)妙徳が整理しリライトして文章化したのであろう。そのため、この法話はほとんど完全に文語体に仕立て直されており、その当然の結果として、もとの語りくちの肉声は削ぎ落とされ、全体として〈禅学概説〉的な講義調になってしまっている。たとい王を前にしての進講という状況を考慮しても、あの裴休の筆録のしかたと比べて、なんと味気ない文章であろう。もしわれわれが雪峰や玄沙の禅を語ろうとする時、右の進講の記録を、それが本人自身によって要約された綱要としての形を具えているという理由だけで、これを第一資料として用いたならば、この両禅師の禅をそのあるがままに語り明かしたことにはなりにくいであろう。

 すでに述べたように、禅の語録に限らず、およそ古人の語を読むときは、そこに何が語られているかを読み取るだけでなく、それがどう語られているかを併せて読み取らねばならない。同じ一つの理念でも、取り上げる人ひとによって、その表明の仕方に微妙な、時には格段の違いがあることが多いからである。一例を唐の薬山禅師(七五一-八三四)のエピソードに取ろう。まず最も古い『祖堂集』巻四の記録によると、薬山が或るとき経を読んでいたところ、僧が問いかけた、

「和尚は日ごろから、経を読むことを禁じておられるのに、なぜご自分が経をお読みになるのです」。薬山、「わしは目の相手をさせておるのだよ」。

「私も和尚に倣って経を読んでよいでしょうか」。

薬山、「君がもしわしに倣って経を読んだら、きっと牛の革さえ穴があくだろう」。この問答のなかで、注意せねばならぬ言葉の第一は、薬山の最初の答え「目の相手をさせておる」である。その原文は「遮眼」であるが、これは「目を遮(さえぎ)る」「目をふさぐ」という意ではない。薬山に代わってパラフレーズすれば、「せっかく目があるのだから、経巻にそのお相手をさせておるのだ」ということである。

注意すべき第二の言葉は、薬山の最後の答え「きっと牛の革さえ穴があくだろう」である。その原文は「牛皮也須穿過」。しかし『景徳伝灯録』巻十四では「牛皮也須看透」となっていて、「経を読む」の原文「看経」と照応させた表現に変えている。そのため、この言葉は従来、「経を読むなら、牛の革をも貫くほどの眼光で読まねばならぬ」と誤解されてきた。

この問答は、右の『伝灯録』よりも古い『宗録鏡』巻一にも記録されていて、その書き出しは、「薬山和尚は一生『大涅槃経』を看(よ)みて、手より巻を釈(はな)さざりき」とあり、その僧に対する答えは、「汝もし看(よ)まば、牛皮をも須らく穿つべし」となっている(『五灯会元』巻五も同じ)。ここで、もう一つ注意すべきことは、上記の『祖堂集』『宗鏡録』と『五灯会元』に見られる「須」は、当為・命令を表す「すべからく……べし」ではなくて、「きっと・まちがいなく」の意の副詞だということである。「須」にはこの両様の用法がある。ところが『伝灯録』の文では、指摘したように、最後の薬山の決めつけの一句を「牛皮也須看透」としているため、その文脈では、「須」は当為を表わすことになり、「牛の革をも貫くほどに眼光紙背に徹して読め」と命じたことになる。そもそも薬山その人の禅の体質からしても、こういう指示が出されるはずはないのであるが、ここではその点には深入りしない。要するに、『伝灯録』の改悪が後世の人を誤らせる因を作ったのであって、例えば『従容録』第三則の天童の頒に、「経を看むに那(いかん)ぞ牛皮を透(うが)つに到らん」というのは、明らかに右のような誤解を前提したコメントである。

さすがに明代の代表的な書家董其昌は、その『画禅室随筆』にこの薬山の語を引いて、『伝灯録』の文を採らずに、古いテクストによって『牛皮也須穿」とし、そしてこう続ける、「今人の古帖を看るは、みな牛皮をも穿つの喩えなり」と。当世の人たちに見られる古い法帖の鑑賞態度は、全くこの喩えどおりの愚かなやり方であって、「古人の神気」が現前している「妙処」を見て取ろうとしない、というのである。

董其昌という人は、その生きた万暦時代の文人の例に漏れず、禅の熱心なディレッタントであった。まさにそのことのために、後世の書論や画論の専門家や、プロの禅家から、その禅の誇示癖の浅薄さが指弾されることも多い。しかし、右に挙げた例に関する限り、その見識は正鵠を得ており、かえって一般の禅家の方に趣旨を取りちがえた者が多いのである。

それともう一つ、右の誤解例から教えられることがある。右の例に則していえば、「眼光紙背に徹すべし」という命題が初めから至上のものとして立てられたことが、あのような誤解を生んだ原因だったのである。その結果、「須」の意味をあのように取りちがえ、さらには薬山の禅そのものからも乖離することになった。そもそも禅は、いかに至高の理念であれ、それを振りかざし、それを金科玉条とすることを嫌うはずである。薬山和尚の教えは「眼光紙背に徹して経を読め」ということでは全然なかったのである。

 

ここで話題を転じて、宋代の禅問答の実態を示すエピソードニつを、南宋の曽敏行(?―一一七五)の随筆『独醒雑志』巻十から引いて紹介しよう。その第一は次のような話である。

禅僧の問答の言葉は俳(だじゃれ)に近い。こういう話がある。或る禅寺で、新任の住職が就任式で説法を行うたびに、いつも一人の役者に〔問答を仕掛けられて〕困らされるのが常だった。それからは住職が替わるたびに、前もって彼に賄賂(まいない)を送っておくと、おとなしく言うままになっていた。というのは、就任式に参列した人たちは、この人物の問答のやりとりで新住職の力量を判定したからである。のちにまた住職の交替があった。そこで周りの者が、例の手を打っておいてはと進言した。しかしその僧は言った、「それが何の役に立とう。彼がやってきたら、知らせてくれ」。果して翌日(就任式の当

彼がやってきた。僧はその姿を見るや否や、「衣冠済々(さいさい)、儀貌𨪙々(そうそう)タリ、彼ハ何人ゾ斯(や)」と言った。その男は、この一言で自分の素性をばらされてしまったのが恥ずかしく、そこで袖から白い石を一つ取り出して、「薬石(お茶うけ)を進ぜましょう」と問いかけた。すると僧は答えた、「わしは年を取ってな。歯がぐらついて、そんなのは食べられぬ。どうかそなた、そいつを粉にして下され」。見物人はみんな大笑い。その男は恥じ入って降参した。

ここで「役者」と訳した原文は「伶官」。当時の「雑劇」という芝居の俳優のことである。このころの雑劇は、簡単な所作を交えた、わが国の狂言に似た演出であったが、しかしその俳優たちは、身分は賎民ではあるものの、なかなかの博識で機智に富み、しばしば時世を鋭く諷刺したり、権力者を揶揄したりした。宋代の記録には、そうした彼らの警抜な弁舌と頓智を痛快がっているものが多い。なまやさしい禅僧では太刀打ちできない相手だったのである。しかし、ここで最後に登場した新任の住職は、相手の身分を逆手に取って利用した。「衣冠済々」云々は、すべて『詩経』の句を交え用いた古典的言い廻しで、実は雑劇役者が好んでやらかす、ふざけた衒学ぶりの口真似にほかならない。この男が「この一言でおれの素性をばらされてしまった」と思ったのは、つまり見事にその僧にお株を奪われてしまったからである。

つぎに、かねて用意の白い石を薬石にと差し出したというのは、おそらく古詩の「白石爛兮(らんたり)」のイメージを裏打ちした所作だったのであろうが、この奥の手も、この僧に軽くいなされてしまった。この巧妙な「下げ」も、実は当時の役者の得意としたお家芸だったのであり、つまりはこの僧の方が役者が一枚上だったわけである。「わしは年を取っ

てな」とは言っているものの、それも一つの演出なのであって、この僧なかなかの強(したた)かもの、芝居にもけっこう通じていたと見受ける。

「その石を粉にしてくれ、そしたらお茶うけに頂こう」という切り返しは、実はこれも一つの型である。胡釘鋏(こていこう)という鋳掛師(いかけし)の名人が、宝寿和尚(唐末の禅僧)に参見した時、「お前さんは〔世間で評判の〕胡釘鋏だな」と言われて「どう致しまして」と答えると、和尚が訊ねた、「さて虚空を鋳掛けられるかな」。彼は答えた、「ひとつ虚空を打ち割って下さい。そしたら鋳掛けて見せますよ」(『伝灯録』巻十二・『趙州録』)。

第二の挿話は次のようなお笑いである。

或る僧は、もとは屠家(肉屋)の生まれだったが、僧になってからは、禅学(原文のまま)を鼻に掛けていた。或る人がその鼻を折ってやろうと考え、その説法の時をねらって、仲間の一人を出向かせて、こう質問させた、「肉屋の板台(ばんだい)にも禅あり」。即座にその僧は答えた、「精肉を二斤切ってくれ」。その人は、次の句を教えてもらっていなかったので、とっさに二の句が出なかった。そこで笑いながら僧に言った、「あんた食いたいのかね」。それを聞いた人たちは笑いころげた。

この質問「肉屋の板台にも禅あり」(売肉牀頭也有禅)も、やはりモデルがあって、雲門禅師(八六四ー九四九)の『雲門広録』巻上に、「羊肉を売買する案頭(ばんだい)に、還(は)た超仏越祖の道理ありや」という問いかけがあり、巻下にも「猪肉(ぶたにく)の案頭に還た超仏越祖の談ありや」と問いかけている。唐末の禅界にはやった、仏祖をも乗り超えようとする禅、いわゆる「仏向上」・「法身向上」の霞導。transcedentalism一辺倒に対する、これは雲門の痛烈な反問なのであった。しかしここでは、あの男の問いは定型のクリシェに過ぎなかったにしても、相手の僧が屠殺をも兼ねる肉屋の出であることへ引っかけた意地わるい問いであった。この「禅学」自慢の僧の内実がどうであったかはさて置き、出身が肉屋とか猟師とか漁師とかだった禅僧には、なみの禅僧とは違った、一筋縄ではゆかぬくせ者が多かった。この僧の答え「精肉を二斤切ってくれ」(精底斫二斤来)も、いきなり主客を転換した形で、まさに彼の〈本色(きじ)〉まる出しのまま、ごく自然にすっと出てきた答えだったのであり、これを前にしては、あの紋切り型の常套句は、とたんに色褪せるほかはなかったのである。

この肉屋の喩えで思い出したので、もう一つ、実際の肉屋についての話を紹介しよう。それは、馬祖の法を嗣いだ盤山宝積にまつわる逸話で、『聯灯会要』巻四と『宗門統要集』巻三などに載っている。この禅師が或るとき町なかを歩いていると、肉屋で一人の客が豚肉を買おうとして、「精肉を一斤切ってくれ」(精底割一斤来)と注文した。すると、肉屋のおやじは包丁を下に置き、会釈して言った、「旦那、どれが精(せい)でないものでしょうか」。この一言を耳にして、禅師はハッと気づいたという。

どう気づいたのか、注釈する必要はないであろうが、つまりは聖なるもの・清浄なるもののみへの一辺倒が、凡なるもの・汚濁したものを対置してそれを拒否するという形で、実はみずからを硬直させ枯槁させていたことーいわば求道者が"聖職者"に堕ちこんでいたことの無自覚さに気づいたのである。この禅師は初心を喚び醒まされて慄然としたに相違ない。

それにしても、この『独醒雑志』の著者が始めに言うように、「禅僧の問答の言葉は俳(だじゃれ)に近い」と一見思われるものが多い。一義的に型にはまることを嫌う禅は、とかく型破りな発言をしたがる。そして、その型破り方式がまた新たな型となって、一種特有の禅臭を発散することになる。しかもそうした禅臭をまず固着させるのが、ほかならぬ言葉であった。世にいうところの「禅語」なるものには、一読してその臭みの匂ってくるものが少なくない。俳に似て実は然らざるものを読み分けるためには、まずこうした匂いを消し去ることが必要である。はなはだ品(ひん)のない禅語ではあるが、「自屎は臭きを覚えず」というのがある。自分の垂れた糞の臭みを最も敏感に嗅ぎとらねばならぬのは、まさに禅僧その人でなくてはならぬはずなのだが……。

 禅臭というものは、なんらかの型(シェーマ)・図式にはまり切って、しかもそのことの自覚なしに、その枠のなかで自己完結したところから匂い出る。よく知られている「雲門花薬欄」を例に取ろう。僧が「清浄法身とはどういうものですか」と問うたところ、雲門は「花薬欄だ」と答えた。柵で囲われて燦爛と咲きほこっている庭前の芍薬を指ざして、「あれだ」と答えたのである。清浄法身といえば、あまねく世界を照らして燦然と輝く毘盧舎那仏のイメージであるが、ここでは同時に雲門その人の法身が問われてもいる。それを彼は即座に眼前の芍薬と等置した。正面切った堂々たる自己顕示である。これはその『雲門広録』巻上に出ているから、その編集の体例から見て、雲門の初期に属する風格である。

ところが、雲門の先輩に当たる玄沙の語録に、やはり同じ問いを受けた玄沙は、「膿滴々地」と答えている。その法身からは膿(うみ)がタラタラ垂れているというのである。考えてみれば、そもそも法身に〈清浄〉という修飾を施すこと自体が余計なことなのであるが、一旦そういう修飾語が固着してしまうと、言葉というものの宿命として、不清浄なものとの相対関係に引きこまれることになって、〈清浄〉そのものさえ色褪せてくる。そこを玄沙は衝(つ)いて、敢えて法身を腐爛させたのであり、同時にまた、ひたすら〈清浄法身〉をのみ希求して流しつづける相手の涎(よだれ)をウミに転化してやったのでもある。

ところが、大慧の編んだ『正法眼蔵』巻上に、同じ玄沙に関する次のような逸話を載せている。

玄沙が誤って薬を服(の)んだため、全身が赤く爛(ただ)れてしまったことがある。そのとき僧が皮肉な質問を発した、「堅固法身とはどういうものでしょうか」。

答え、「膿滴々地」。

 「金剛にも喩えられる堅固法身とやらも、それ、見ての通りウミがたらたらだ。『証道歌』に〈幻化の空身は即法身〉とあるが、実はこの不浄とも見える我が肉身こそは法身を離れてあるのではないのだ」という示唆であろう。

さきの雲門における花薬欄は、日本での従来の解釈では、便所のまわりに臭気を消すために植えこまれたモクセイなどの生け垣だとされ、つまり「清浄」なものについての問いに「不浄」なもので答えたところが見事なのだと説かれてきた。そしてこれが逆措定という型の愛用癖を生むに至っている。しかし、さきに紹介した玄沙の例でも、いかにも「不浄」でもって答えてはいるが、しかしそれは決して正に対する反といった紋切り型の反措定ではないこと、すでに見た通りである。

しかし次の例ではどうであろう。それは、雲門の法を嗣いだ洞山守初(九一〇―九九〇)の場合であるが、やはり同じ清浄法身についての問いに対して、「醤甕(みそがめ)の裡(なか)の蛆児(うじむし)」と答えている(『古尊宿語要』巻四)。どう見ても、これは雲門の「茆坑(べんつぼ)の裏(なか)の虫子(うじ)」のパロディに過ぎず、上に述べた型の踏襲をすでに示している。「情(こころ)に聖量を存するなかれ」とは禅の基本的な教えである。いかにも、聖なるもの・有りがたいもの・絶対なるものといった至高価値意識を先立ててしまっては、求道は成就しないであろう。だからといって、そういうものの対極をすぐさま推し立てることで事を処理するのも、これまた実は裏返された至高への価値意識の定立にほかならない。このことを己に課せられた痛切なジレンマとして先ず自らに背負いこむことから禅の修行は始まるはずなのであるが、その苦渋の軌跡を語り明かしている禅僧は案外に多くはないのである。

 

右に挙げた例では、聖量を反価値に転ずることによって、それからの束縛(理障)を断ち切ろうとする行き方に見られる一つの「型」を指摘した。

次に挙げる例は、まだその理障(または法執)に縛られたままでいる人の、心の貧しさを物語る。しかも、間接的ながら言葉に関わる問題を含む。原文は『碧嚴録』第四十則に見える次のような問答である。

陸亘大夫が南泉禅師(七四八―八三四)と語りあっていた時、彼は言った、「肇法師は『天地は我れと同根、万物は我れと一体』と言いましたが、なんと奇怪(きっかい)なことを言ったものですね」。すると南泉は庭前の花を指ざして言った、「大夫よ、今の世の人は、あの〔見事な〕一株の花を見ても、夢の中のようなものとしか見ていない」。

「今の世の人」とは遠廻しな言いかたで、「あなたもそうだろう」という語気である。あなたはその肇法師のテーゼに違和を覚えながらも実は目をくらまされていて、せっかくのあの美しい花を見て取れないでいるのだ、というのである。僧肇は四-五世紀ころの代表的な仏教学者。この言葉は、その『涅槃無名論』に見える。その意味するところを現代風に言い直せば、かつて安藤孝行氏(故人)が「自我と超越存在」について述べた次の一句に要約されるであろう。

超越論的還元によって、世界を自己の中に内在化した超越論的意識が世界を再構成する。(『存在の忘却』二一四ページ。白雲山房、一九八六年)

王維の「青竜寺を過(よぎ)りて操禅師に謁す」と題する詩に、「山河は天眼の裏(うち)、世界は法身の中」というのは、この操禅師が「三千世界はすべて我が自己」(いま黄檗の語を借りる)という達観を得ていることを讃えたのであるが、まさに「世界を自己の中に内在化した」天地万物との一体化の消息である。しかし陸亘はこれに違和感を示した。そこに見られる超越志向が鼻についたからに違いない。陸亘というインテリの居士は、こういう乾いた潔癖感の持主であった。それに対して南泉が指し示した「庭前の花」は、『伝灯録』では牡丹の花となっており、おそらく満開の燦爛たる一株であった。それはまさに〈万物〉を一つに収斂して、完壁な実在のめでたさを開示している。そこが見て取れずに、あれを夢まぼろしの空華(くうげ)とのみ見流してしまうとは、なんと情けない君か。「我れの天地万物との同根一体」に違和を覚えるより前に、君自身のその「我れ」を豊かならしめよ。でなければ、君は何を見ても、「なべては空なり幻なり」というお定まりの理念の中で酔生夢死するだけだ。杜甫の晩年の詩に「老年 花は霧中に看るのみ」とある。それは老年の霞み目のせいなのだが、君の心眼は、そんなことでは、いつまでたっても霞んだままで終わってしまうだろう。これが、陸亘に向けられた南泉の痛烈な批判であった。

 ところで、『伝灯録』巻八では、右の肇法師の二句を「万物は同根、是非は一体」と変えてしまい、「我れと」(与我)という大事な言葉を取り払っている。これではもとの問答の趣旨から全くかけ離れた言葉になってしまう。鎌田茂雄氏の『中国の禅』(講談社学術文庫・一九八〇年)には、「夢幻の如し」という標題を立ててこの問答を取り上げているが、肝心の右の二句を『伝灯録』の悪しき本文に據ったため、南泉の趣旨とは乖離した解説になっているのは残念なことである。

悪いテキストに従って安易に読み流すと、たった一字の誤りに禍(わざわ)いされて、とんでもない誤解に陥ることが決して少なくはない。これは仏典や禅録に限ったことではないが、特に禅の問答では、問う者と答える者との終始緊迫した応酬にあっては、一字一句が抜き差しならぬ言葉として火花を散らせる。それを取りちがえると、火花は散ることはない。その一例を、やはり馬祖の法嗣である百丈と、その同門の南泉に参じていた趙州との問答に見よう。

百丈が趙州に問うた、「どこから来たか」。

「南泉からです」。

「南泉にはどういう言句(ごんく)があるか」。

「まだ、それをつかんでおらぬ者は、悄然(ひっそり)としておらねばならぬ(未得之人、直須悄然)〔と申されました〕」。

すると、百丈は大喝した。趙州はギョッとした。

百丈、「うむ、見事な悄然ぶりだな」。

趙州は舞を舞いながら出ていった。

右の本文は、大慧の『正法眼蔵』巻上に載せるものに従う。これは『趙州録』にも載っているが、しかし重要な語句の違いがあって、この問答全体の趣旨に関わってくる。その違いは、南泉の〈言句〉として呈示された「まだそれをつかんでおらぬ者は…」の下の句が、『趙州録』では「亦須峭然去」となっている点にある。そのため、「まだ道を得ていない者も、厳然としていなければならない」という誤訳が生まれることになった(秋月竜珉氏『趙州録』四〇〇ページ。筑摩書房、一九七二年)。

まず「亦」(…でも)では駄目で、「直」という強辞でなくてはならない。「直須」は強い当為または命令を表わす。「峭然」は実は「悄然」と同じで、峭と悄の通用は珍しいことではない。そして、ここの「悄」は文語ではなくて口語であり、物音ひとつなく静まりかえっているさまをいう。「悄々」ともいい、白居易の詩などに例は多い。ここにいう「悄然」とは、道を得ようとしてアタフタ・アクセクするのではなく、ひっそりと心を静めて、ひそとも動かぬことをいう。そして、ここでの百丈の大喝は実は南泉に向けられたものではなくて、南泉のその言葉を肯(うべな)った上で趙州がそれをどう解っているかを検証しようとしたのであった。その「悄然」を一気に打ち砕いた百丈の大音声に趙州はギョッとなったことでハッと南泉の意旨を悟った。それを見て取った百丈は、「見事な悄然ぶりだ。それでこそ南泉の子だ」と嘉賞したのである。彼が舞いながら引き上げたのは、そのうれしさの端的な表現なのであった。

「情然」の逆が「茫然(あたふた)」である。石臼和尚が初めて馬祖に参見したとき、馬祖は問うた、

「どから来た」。

「烏臼(うきゅう)から来ました」。

「烏臼には近ごろどういう言句があるか」。

「幾人(いくにん)か此(これ)に於て茫然たる在らん〔と申されました〕」。

「茫然はさて置き、悄然の一句はどうなのだ」。(『馬祖語録』・『伝灯録』巻八、石臼章)

ここにいう「茫然」は実は「忙然」と同じで、茫と忙の通用は、『臨済録』にも数例見られるように普通の用法であったー浄・静や亡・忘などの通用と同じように。ここで馬祖は明らかに烏臼の「忙然」に「悄然」を対置させており、烏臼が「此これ(一大事因縁)の究明について忙然(いたたまれぬ思い)をしている者が果して世に何人いようか)と嘆じた(そこでは「忙然」は勝義)のに対して、いささか意地わるな反措定をやったのである。

放り捨てた瓦礫が竹に当たって立てた音を耳にして悟りを開いたという香厳智閑(?ー八九八)は、そのとき、その開悟を偈に詠んだ。その初めの四句は

一撃所知を忘(ぼう)(亡)じ、

更に修治を仮(か)らず。

動容は古路に揚がり、

悄然の機に堕ちず。

というのであるが、この第四句が、いわば馬祖の「悄然」への反措定であることは、そこに「動」「揚」というヴァイタリティが強く打ち出されていることからも明白である。その「悄然の機」とは、寂然(じゃくねん)とした安禅静慮の境涯のこと。徳山の言葉を借りれば、「少しきを得て足れりとなして、静処に向(おい)て立ち、肯(あ)えて進前せざる」(大慧『正法眼蔵』巻上)、一種の寂静主義(キエテイスム)である。それに堕ちこむことをこの一撃によって脱し得たと香厳は宣言したわけであった。

以上を要するに、あの『趙州録』の改変された本文は、全く救いようはない。後人による本文改変も、またそれなりの意味をもつことも少なくはないが、しかし右の例はどうにもならない。そもそも「峭然」という術語は存在しないのだから、それに「厳然」という意味を当てること自体、憚られねばならぬことであろう。しかも、「まだ道を得ていない者も厳然としていなければならぬ」とは、南泉の禅のどこを突っついても出てくるはずもない言葉である。

一般的にいって、禅の言葉と文体といっても、もともと中国語(漢語)なのであるから、造語法や修辞法の基本は、一般の中国語のそれと違った何か特別なものがあるわけではない。ただ、特に問答の言葉に用いられた当時通用の口語、例えば作歴生(そもさん)とか恁麽(いんも)などという語彙が、本来は普通の話し言葉だったのに、後世それが禅の世界で愛用されるしきたりになると、あたかも禅専用のタームであるかのように世間では受け取られ、禅僧の方もその錯覚に乗っかって、あるいは自らそう錯覚して、安易にこれを濫用するという風習が生まれた。こういう悪しき風習は、言葉そのものの誤用や、意味の取り違えをさえもたらした。その一例を、上述の「恁麽」という言葉について見てみよう。

北宋の睦庵善卿が『祖庭事苑』八巻を著わしたのは、当時の参禅者に禅の基本的な術語に習熟しない者が多いことを嘆いてのことだったが、その言葉についての詳細な解説には、実は誤りが相当に多い。右の「恁麽」についての解説を見ると、二様の解を与えている。第一は「指辞」(指示詞)とする。あのように・このようにの意で、これは正しい。第二は「審辞」とする。つまり疑問詞だというのである、これは誤りである。ところが、清代初期に翟灝が著わした俗語辞典『通俗編』巻三十三では、「今言う恁麽の恁は『之を疑うの義』(何かに疑いをさしはさむ言い方)なり」と述べていて、同じ誤りを襲っている。しかもこの誤りは我が国の辞書にも踏襲され、諸橋『大漢和辞典』を始めとして、広く最近の漢和辞典のすべてに及んでいる。『仏教語大辞典』や『広辞苑』も例外ではない。ところが『祖庭事苑』ではまた、「恁麽」と同義の「与麽」の説明で、ご丁寧にも「什麽(なに)とも書く。正しくは甚麽と書くべきで、疑問詞である。また摺(氵)麽とも書く」と述べている。「与麽」は古くは「与摩」または「与没」「異没」と表記し、「恁麽」よりも古く文献に現れるが、いずれも指示詞であって、疑問詞ではない。「摺(氵)歴」はまた「熠麽」とも書き、唐末から文献に現れ始めるが、これもやはり指示詞であり、「什麽」(甚麽)とは全く別である。どうしてこういう混乱した誤解が生じたのか、その事情を今のところ適確に説き明かすことはできないが、ひとつ考えられることは、禅問答じたいの定型化・図式化に伴って、言葉の使いかたに対する厳密な心配りが弛(たる)んできた、という事情が伏在しているのではなかろうか。

「作麽生」や「恁麽」などはもともと禅語ではない。だから、われわれはまずそれの本来の意味どおりに解すればよい。「本来の」とは、日常の普通の使われかたのことである。「作麽生」は「どのように」の意、「恁麽」は「このように」または「そのように」の意である。ところが、馬祖が「平常心が道である」と言ったように、日常性がそのまま本来性との相即において提示された場合、日常語はそのままで禅語に昇華する。大陽和尚(馬祖の弟子)の言葉に、

近ごろ一般の禅師は、目前のことを目前で指し示して解らせるという教えかたをする(『伝灯録』巻八)

とあって、これが禅の教化の一般的スタイルとなっていたこと証している。先に紹介した雲門の「花薬欄」や「庭前一株の花」も、まさに目前の事物に即して理法を明かそうとしたものであった。

南嶽懐譲が初めて六祖慧能に参見したとき、六祖はこう問いかけた(『伝灯録』巻五)、

什麽物恁麽来(なにものが、そのように来たのか)

「恁麽」は、『祖堂集』では古い表記の「与摩」となっている。「什麽物」は「什麽人(なにびと)」ではない。ここへお前を来させたものをどう主体的に把えているか、目前のその在りようをそのように在らしめているものが何であるかを言い留めてみよ、という問いかけであった。その「恁麽」は「そのもの」の顕現にほかならぬ以上、そう在るべくしておのずからにそう在る当体を自ら言い留めてみよ、という難問であった。ここに至って、「恁麽」という日常語は、言語や論理を超えた深奥の消息を語る高次の言葉に昇華して、いわゆる〈禅語〉として定着する。

もっとも、上文で紹介した大陽和尚は、先に引いた指摘「目前で指し示して解らせるという教えかた」を批判して、こう続ける「そういう一般の禅師は、果して〈文彩(もんさい)の未だ兆(きざ)さざる時〉を会得しているだろうか」と。文彩(紋彩)とは、そとに現れ出て、それと見て取られる徴標のこと。つまり、「恁麽」にそこに現前したそれのサインであ

る。そういうしるしがまだ形を取って兆さない、原初の玄奥の消息を会得することが先決の問題だ、と大陽和尚は抉(えぐ)るのである。

ここで新たに「文彩」という言葉が禅語として定着することになる。例えば「猶お這箇の文彩の在(のこ)れるあり」とか、平たく言えば、「まだシミがのこっている」「まだシッポがふっ切れていない」ということで、後には「なお蹤跡を存す」とも言い換えられる。幸田露伴の句に

猶ほ這箇の在るあり残る暑さかな

というのは、天道がまだ夏の暑さをふっ切れずに残暑という文彩を引きずっているという、揶揄の気分をこめた句である。「這箇」がふっ切れずにいるために「恁麽」(これ、このとおり)が露呈して、完全な「没蹤跡」になりきれない。それは求道者としての至高のありかたではない、というのが洞山禅師の教えであった。

牛頭法融(五九四-六五七)は初め南京の南の牛頭山に隠れ住み、巌窟のなかで修行に打ちこんだ。すると、たくさんの鳥が花をくわえてその座前に献げた。その修行のめでたさが野鳥にも感応して、花を供えて荘厳させるに至ったのである。しかし、のちに彼が四祖道信に師事することで、その修行を更に深あるようになると、鳥は一羽も飛んで来なくなった。修行の痕跡さえも留めぬに至ったからである。「百鳥花を啣(くわ)う」という霊験は、まだ彼が百鳥にさえ見て取られるような〈文彩〉を残存していたからであった。それが完全にふっ切れた段階で、その奇蹟は消滅した。そのことが彼の修行の成就を証明するものであったのである。百丈や黄檗に、「神通なき菩薩こそ、至高の菩薩である」という発言があるのも同じ趣旨であって、至高の理を体得しようとする求道者も、爪足(つまあし)立つのでなく、「脚は実地を踏む」のでなくてはならぬ、という示唆もここから導き出される。

宋代以後、儒家の間にも禅ディレッタントは増えつづけたが、また一方、禅の超世間志向を強く批判する人たちも少なくはなかった。それらの人々が共通して用いた批判用語は、禅はもっぱら「空霊」を貴ぶという指摘であった。異次元への超越志向を空疎なものとする見方である。しかし、一義的な〈向上〉志向は、例えば玄沙や雲門によってすでに乗り超えられていた。とはいっても、禅の心酔者だけでなく、プロの禅家のなかにさえ、禅を何かfantasticな教えとして把える向きがあって、それが語録の読みかたに露呈している例が少なくはない。

私のこの一文が、いささかポレミックな調子を帯びてしまったのは、右に述べたことへの私なりの提言を、この機会に申し述べたかったからである。          一九八七年八月稿

 

 

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