正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

麻三斤 入矢義高

麻三斤

入矢義高

僧、洞山に問う、「如何なるか是れ仏」。

洞山云く、「麻三斤」。

周知のように禅門では古来はなはだ有名な公案となって、『雪贅頒古』『碧巌録』『無門関』『空谷集』などで取り上げられ、また多くの禅僧による拈頌が伝えられている。この「麻三斤」が従来どのように理解されてきたかは、ここでは問わない。ただ、なぜ「麻三斤」または「三斤の麻」という具体的なモノが答えとして呈示されたのか、という基本的な点については、不思議なことに、従来だれ一人として問題とした者はない。日本の禅僧はなおさらそうで、なかには麻を胡麻(ごま)だと言い張ったり、「三斤とは仮の数で、十斤でも百斤でも同じことだ」などといった強弁で押し通す人もあったし、現在もそういった紋切り型で片付けてしまう師家が多い。しかし洞山の言う「麻」は、実はゴマではなくて麻糸なのであり、しかも「三斤」という枠付きのそれである。私が先に「基本的な点」といったのは、まさにこのことなのである。

私は以前かち、「麻三斤」は麻糸か麻布の量のユニット(単位数量)ではないかと疑っていた。それは「三寸舌」とか「三尺水」とかいった類似表現からの類推であった。ところが昨年五月、禅文化研究所での真字『正法眼蔵三百則』の定例研究会で、京都大学の吉川忠夫氏から、私のこの類推をヒントにして見付け出された基本資料を提示せられた。それは、唐の玄宗勅撰の法典集『大唐六典』巻三の戸部尚書の条に見える左の文で、租庸調の徴収法の原則を説いた一条である。いま近衛家本に拠って掲げる。

課戸は丁毎に粟二石を租す(上納する)。其の調は、郷土の産する所に随って、綾・絹・絁各おの二丈、布(あさぬの)は五分の一を加う。綾・絹・絁を輸(おさ)むる者は、綿三両〔を兼ね調す〕。布を輸むる者は、麻三斤〔を兼ね調す1〕。

「兼ね調す」とは、正規の徴収額に更に上乗せして取り立てることで、例えば綾・絹・絁などの絹地を納入する場合は、その各二丈のほかに綿(まわた)三両を付加的に追加納入することである。同様に布(あさぬの)で納入する場合は、正規の二丈プラス五分の一のほかに麻(あさいと)三斤を追加納入する、という規定である。

ここからして、「麻三斤」とは製品化された麻糸の分量(ここでは重さ)のユニットであることが確認できる(綿三両も同様である)。そしてこれは恐らく税法上だけでの基準規定量なのではなく、麻糸が一般に商品として取引きされる場合の単位量でもあったらしいことは、後文で示す『大唐六典』巻三の金部郎中の条と『通典』巻六(賦税下)の文から推定できる。   次に掲げる『唐会要』八十三(租税上)の文は、上述の『大唐六典』の規定を踏まえたものではあるが、この税法が均田制の施行の上に立って制定されたものだったことを明示している。

武徳七年三月二十九日、始めて均田の賦税を定む。凡そ天下の丁男には田一頃(けい)を給し……、丁毎に歳に粟二石を入る。調は則ち郷土の産する所に随って、綾・絹・絁各おの二丈、布は五分の一を加う。綾・絹・絁を輸むる者は、綿三両を兼ね調す。布を輸むる者は、麻三觔(=斤)〔を兼ね調す2〕。

そしてこの「三斤」や「三両」が麻糸や真綿(まわた)の単位数量であったらしいことは、次に掲げる『大唐六典』巻三の金部郎中の条に、絹地・布・綿・糸・麻のおのおのについて単位名が与えられていることで、一層はっきり確認できる。

凡そ縑帛の類は、必ず其の長短広狭の制(きまり)と端匹屯綟(れつ)の差を定む。〔原注〕羅錦綾段、紗穀絁紬の属(たぐい)は、四丈を以て匹と為し、布は則ち五丈を以て端と為し、綿は則ち六両を屯と為し、糸(きぬいと)は則ち五両を絢と為し、麻(あさいと)は乃ち三斤を綟となす。

『通典』巻六(賦税下)にも、調の制を述べた文に疋・端・屯・絢・綟の各単位名は襲用されており、そこでも「麻三斤を綟と為す」と注記している。

「綟」とは、糸状のものを捩(ねじ)ること、またその製品をいう。和語では「縒」または「撚」の字を用い、絹糸や麻糸の縒(よ)って仕上げた製品の一単位を一巻きという。「麻三斤」とは、つまり一巻きに仕上げた麻糸であり、三斤とはその基準の目方に他ならない。従ってこれを「麻一綟(ひとより)」または「一綟麻」と称することも可能であろう。

以上の考証によって、「麻三斤」が仕上がった麻糸の目方を計量する基準単位であることは明らかとなった。では、「仏とは何か」という問いへの答えとして「麻三斤」というモノが呈示されたのは、一体どういうわけであろうか。この点について手掛かりを与えてくれるのは、次に示す雲門文優(八六四-九四九)の言葉である。いま宋版『雲門広録3』巻下の「遊方遺録」に見える原文を掲げる。

師在雪峯時、有僧問雪峯、「如何是〈触目不会道、運足焉知路〉」。峯云、「蒼天、蒼天」。

僧不明、遂問師(雲門)、「蒼天意旨如何」。師云、「三斤麻、一疋布」。僧云、「不会」。師云、「更奉三尺竹」。後雪峯聞、喜云、「我常疑箇布袖」。

雲門がまだ若いころ、雪峯和尚の門下で修行していた時の逸話である。或る僧が雪峯に訊ねた二句「目に触るるも道を会せず、足を運ぶも焉(いずく)んぞ路を知らん」(何を見ても道は分らず、歩いてはいても路は知らぬ)は、石頭和尚の「参同契」の句。道と一つに契合した者は、もはや修すべき道は持たず、道の何たるかも知らぬ。そのような道人の〈沙門行〉は、ただ日常底そのままであって、路(行ずべき在りよう)などは我れ関せず焉である、というのがその趣旨であろう。上の句についていえば、これは『荘子』の「目撃道存」や、洞山の「見色見心」を破砕ないしは透出した消息を語っており、下の句についていえば、これは黄檗の「終日飯を喫するも未だ曽て一粒の米をも咬著(かま)ず、終日行くも未だ曽て一片の地をも踏著(ふま)ず」や、洞山の「鳥道を行くべし」をも超脱した消息の開示である。「修行の痕跡を留めるな」といった次元以前の在りようである。雪峯がそれに対して「やれ悲しや、悲しや」と応じたのは、右の消息は百も心得た上で、敢えてそれを抑下して、地上に引きずり落としたのである。文字通りには「道も分らず、路も知らぬとは、やれ悲しや情けなや」と言ったわけである。このころ雪峯門下では、一種の超越志向(trancendentalism)的な風潮がはやって、何かというと「透法身の句」や、「法身向上の事」を持ち出すものが多かった。それへの端的な抑下だったのである。例の「参同契」の二句に対するこの僧のアプローチのしかたも、実はそのような紋切り型の〈超仏越祖〉的な志向癖から出たものであった。

雪峯の「やれ悲しや」の意味を問われて、雲門が「三斤の麻、一疋の布」と答えたのも、やはりその僧の在り方に対する真っ向からの、しかも具体的な痛撃であった。「三斤の麻糸で織り上がる麻布一疋」とは、まさに僧侶の衣一着分ができる材料である。ちょうど一人分の和服が作れる布地の長さの単位を一反(たん)というように。だから、この雲門の答えは、「それ、衣一着分の材料はちやんと揃えてあるぞ」という示唆に他ならない。この示唆は、さらに次のような含みを谺(こだま)として響かせる。

―なのに、それを衣に作って着る人問は不在なのか!

それでも、その僧には通じない。遂に雲門はピシャリと決めつけた、「では、三尺の竹箆(しっぺい)をおまけに進ぜよう!」

―誰かにそれでピシリと打ちすえてもらうんだな。

という含みである。

なお、『景徳伝燈録』巻十九、竜興宗靖の章に、「如何なるか是れ六通4の家風」と問われて、「一条の布衲、一斤余り有り」と答えている。彼も雲門と同じく雪峯の法嗣の一人であるが、この答えは「私の着ているこの衣は、麻三斤どころか、一斤で作っても余分が出たほどだ」という、おそろしく誇り高い独尊の気慨を語ったものである。

以上で、「麻三斤」が麻の僧衣一着分を作ることのできる材料の単位であることが確かめられた。そこで冒頭の問答は次のように翻訳できる。

問、仏とは何か。

答、衣一着分。

一着分の衣のできる材料はちゃんと揃っている。それは仏さんのために用意してあるのだ。さあ、それを衣に仕立てて仏さんに着せてやれるのは誰か。もしそれができたら、その人は「仏と同参5」なのだ。

〔注〕1「兼調」二字は原文にはないが、文意を明確にするために、『唐会要」八十三(租税上)の文を参照して補う。2『旧唐書』食貨志もほぼ同文。なお『資治通鑑』唐紀六(武徳七年)に租庸調の法を定めたことを述べた一条があり、そこの胡三省の注に引く『新唐書』食貨志の文は、ほぼ上掲の『大唐六典』戸部尚書の条と同文である。3台湾国立中央図書館に蔵する宋版『古尊宿語録』所収のテキスト。4宗靖はかって台州の六通院に住したことがある。5雲門の語「釈迦は我れと同参なり」を応用した。

 

この論文はpdf形式からワード化し一部改変したものである。