正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

清風白雲を送るー大智禅師を偲ぶー 水 野 弥穂子

     清風白雲を送るー大智禅師を偲ぶー

                       元東京女子大学教授 水 野  弥穂子

 

大正十年東京生まれ。東北大学法文学部国語科卒。国立国語研究所所員、駒沢大学教授、東京女子大学教授を経て、昭和六十二年退任。「正法眼蔵」を中心とした難解な道元禅師の現代語訳と註解に専念、仏教文化に貢献した。著書に「『正法眼蔵随聞記』の世界」「日本の禅語録ー大智」「道元禅師のお袈裟」「道元禅師の人間像」ほか

 

                        き き て    白 鳥  元 雄

 

ナレーター: 熊本県菊池市、市の中心部から北東へ十数キロ、迫間川(はさまがわ)を遡ると鳳来(ほうぎ)という里に着きます。その山間(やまあい)を深く上ると、聖護寺(しょうごじ)という禅のお寺があります。今から六百五十年前、菊池武重(たけしげ)候の帰依を受けた大智(だいち)禅師が創建された禅のお寺で、近年復興され、電気もガスも電話もない環境の中で、修行が続けられていると聞き、大智禅師にお詳しい水野弥穂子さんとお訪ね致しました。

 

白鳥:  もうここへ来るだけでも、もう随分人里から離れた感じですね。

 

水野:  そう、ほんとに文字通り人里を離れております。

 

白鳥:  空気の美味しいこと。

 

水野:  空気はいいし、日差しもいいし。

 

白鳥:  ほんとに白雲が風に送られて行きますね。

 

水野:  そうでございますね。

 

白鳥:  杉木立の中から、ほんとに綺麗に青空が見えて。六百年も前によくこんな山の奥のほうにね。

 

水野:  ここを見付けて、そしてここで坐禅をしようなんてお考えになった方がいらっ しゃったわけなんです。

 

白鳥:  さあ、それじゃ、もう一息・・・ほんとに綺麗な石段で、おみ足気を付けて、

 

水野:  はい。大丈夫です。

 

ナレーター: 大智禅師が二十年を過ごされたこの聖護寺の復興は、昭和十七年に故(こ)村上素道(そどう)老師の手で始められました。石碑には大智禅師の偈(げ)から、

     吉峯(きっぽう)の路(ろ)は鳳山(ほうざん)の塢(う)に入(い)る

と刻まれ、道元禅師が『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』を書かれた越前吉峯の路(みち)はここに連なると述べています。本堂右手には「雲堂(うんどう)」と呼ばれる坐禅堂が建っています。数名の修行僧が日々坐禅に勤(いそ)しんでいる他、夏には海外からも修行者を受け入れる国際禅道場にもなっています。電気もガスもないランプの生活では、冬の厳しさが思われました。境内(けいだい)南側には世界平和を祈念する「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が建てられ、北側には開山堂があります。

 

白鳥:  ここが開山堂?

 

水野:  そうでございますね。

 

白鳥:  大智禅師のご像?

 

水野:  はい。坐禅をしていらっしゃるお姿ですね。

 

白鳥:  素晴らしいですね。

 

水野:  昭和二十年頃に芸大の先生にお願いして、お造りになった、と言われるものなんですけれども、

 

白鳥:  じゃ、戦争の火の中をきっと潜っておるんでしょうね。

 

水野:  そうなんですね。

 

白鳥:  幾つ位の時のお像なんですかね?

 

水野:  どうでしょうか?

 

白鳥:  こちらは?

 

水野:  沢木興道(さわきこうどう)老師(1880-1965)のお軸で、詩は大智禅師の詩なんですね。 絵もそうでございます。老師自身大変お好きでございましてね。

     幸作福田衣下身

     乾坤贏得一閑人

     有縁即住無縁去

     一任清風送白雲

     沙門興道翁録

 

白鳥:  この偈が、

 

水野:  ご自身の生き方と似ているとお感じになったんでしょうね。いろいろお話伺いました。

     幸いに福田衣下(ふくでんえか)の身(み)と作(な)りて

     乾坤(けんこん)贏(か)ち得(え)たり一閑人(いっかんじん)

     縁あれば即ち住(とどま)り 縁なければ去る

     清風(せいふう)の白雲(はくうん)を送るに一任(いちにん)す。

 

白鳥:  「清風の白雲を送るに一任す」。この絵の方がまさに、

 

水野:  編み笠一つ、錫杖(しゃくじょう)一本ですね。それで、どこへでもお出でになった沢木老師のお姿と、それで大智禅師の自由なお姿とが重なるんです。

 

白鳥:  このお話はまた後ほど前庭で伺いましょう。有り難うございます。

 

ナレーター: 大智禅師がおられた時代のものは何も残っていません。裏の林の中にひっそりと禅師を偲ぶお墓がありました。

 

白鳥:  本堂の前庭で、丁度もう秋深くなって、いい日溜まりになっていますですね。

 

水野:  ほんとに気持のいい、気候と言い、お天気と言い、いい時でございました。

 

白鳥:  さて、早速にお話を伺いますが、大智禅師という方はどういうお方なんですか。

 

水野:  この方は一二八九年、熊本の宇土(うと)郡不知火(しらぬひ)町という海辺のところで生まれた方なんですね。子供の時から、大変利口な方で、七つの時には、道元禅師の直接の法を受けたとされる寒厳義尹(かんがんぎいん)禅師(1217-1300)という方が熊本の大慈寺(だいじじ)というところにお出でになったんですけれども、自分から、「あのお師匠さんのところで出家したい」なんて言ったわけです。そして、「じゃ、小さい子供でもなかなか賢いから、小智(しょうち)と名付けてやろうか」と言ったら、「小智は出世を妨げます。どうか大智(だいち)と名付けてください」と言ったくらいの大変頭のいい、優れた方だったようなんです。

 

白鳥:  「小智」でなく、「大智」である、と。成る程。

 

水野:  はい。それがお名前の由来なんです。そして、ただ寒厳義尹禅師はもうお歳でございまして、大智禅師が十二歳の時、寒厳義尹禅師は八十四歳で亡くなられるんです。それでそれまでにもきっとしっかり仕込んで頂いたと思われますけれども、その翌年の十三歳の時から、京都とか、鎌倉とか、そういうところへ師を訪ねて行脚(あんぎゃ)に出られるわけです。そして十三の頃には、加賀の大乗寺(だいじょうじ)に瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)(1268-1325)という方がお出でになります。この方は皆さんご存じの通りと思いますが、道元禅師、それから孤雲(こうん)懐奘(えじょう)禅師、その次が徹通義介(てっつうぎかい)禅師、そして瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)。この方にお会いになりまして、教えを受けていたんですけれども、二十六歳の時から三十六歳までの十年間、元(げん)国に―中国が当時は元でしたから―元の国へ渡ってしまわれるんです。

 

   永平道元―孤雲(こうん)懐奘(いじょう) ―徹通義介(てっつうぎかい) ― 瑩山紹瑾(けいざんじょうきん) ―明峰素哲(めいほうそてつ) ―祗陀大智(ぎだだいち)    

 

白鳥:  中国へ行かれたわけですか。

 

水野:  はい。そして十年間です。お一人で歩き回って、勿論、道元禅師のお師匠様の如(にょ)浄(じょう)禅師のお墓もお詣りなさるし、それまでに日本に伝わっていなかった禅録なんかも持っていらっしゃるんです。中国語は勿論不自由なくお使いになったと思いますし、そういう点で、とても国際的な方なんです。そして十年経って、日本へお帰りになる。途中で船が漂着しまして、当時の高麗(こうらい)の国なんですけれども、朝鮮半島に漂着しました。そうするとやっぱり国から出るには国王の許可がいるわけですね。そうすると、「どうぞ国へ帰して下さい」なんていう詩を作ってお願いした。それが残っているわけです。それから高麗の国の仏教者と交通しまして、いろいろ話し合いまして、詩のやり取りをしています。そうすると、多分朝鮮の言葉もお出来になったと思うし、非常に国際的な方だと思うんですね。

 

白鳥:  インターナショナルと言う。

 

水野:  そうなんです。それで、しかも日本へ帰られるや真っ直ぐに瑩山禅師のところへ帰られるんです。

 

白鳥:  加賀で修行された時の。

 

水野:  瑩山禅師はあの時は加賀の大乗寺で、その時は能登の永光寺(ようこうじ)というところに移っていらっしゃるんですけれども、そこへ真っ直ぐ帰られる。これは偉いと思うんですよ。中国で、兎に角、十年も居て、なんやかんやご自分のものを持って来てもいい筈です。元(げん)は、その点では宋(そう)よりはいろんな意味で純粋の仏教なんかも継ぐ人は少なかったかも知れないですけれども、外国へ行って十年したら、「これが自分のもの」なんて言って、帰ってきそうですが、それがほんとに真っ直ぐ瑩山禅師の所へいった。そのお気持と、それからそれ程に信じられた本当の師匠というのはこの人、と思われた瑩山紹瑾の偉さというものを改めて本当に感じるんでございますね。そしてそこで瑩山禅師のお弟子になって、法を継ぐということになるわけです。ところが、その時既に瑩山禅師は沢山のお弟子を持っていらっしゃいまして、特にその中でも峨山韶碩(がざんじょうせき)という方と明峰素哲(めいほうそてつ)という二人の高弟の方がいらっしゃいました。その他で沢山のお弟子がいらっしゃいますから、瑩山禅師のお弟子になると、終いの方の弟子になってしまうわけですね。

 

白鳥:  十年の空白がありますからね。

 

水野:  それもございます。それで明峰素哲さんに次いでのお弟子にして、六代目にするわけです。つまり瑩山禅師まで、永平道元から四代で、そして、

 

白鳥:  明峰素哲が五代目、

 

水野:  そうです。それで六代目を誰が継がれるか、という。

 

白鳥:  六代目というのは、なんか意味があるんですか?

 

水野:  そうなんです。中国に仏教が入ってきて、ほんとにお釈迦さんの時から、直通の仏法が入ってくるのは、菩提達磨尊者がお出でになってからです。

 

白鳥:  達磨さんですね。

 

水野:  はい。いわゆる達磨さんですけれども。それでその時はほんとにたった四人しかお弟子がなかったというくらいで、それでも二祖慧可(えか)大師、三祖鑑智僧璨(かんちそうさん)大和尚、四祖大医道信(だいいどうしん)大和尚、五代目が大満弘忍(だいまんこうにん)大和尚という方なんですね。その頃には七百人もお弟子がいたと言うんです。そこまで法が伝わるについては、勿論師匠と弟子とで、「宜しい」「宜しい」ということで伝わるんですけれども、やっぱりまだ、どういう法であるかというのが一般の人には分かりませんから、達磨さんの御袈裟と達磨さんの応量器(おうりょうき)―鉢ですね―を伝法(でんぽう)の印として与えていらっしゃった。

 

 菩提達磨(ぼだいだるま) ―神光慧可(しんこうえか) ―鑑智僧璨(かんちそうさん) ―大医道信(だいいどうしん) ―大満弘忍(だいまんこうにん) ―大鑑慧能(だいかんえのう)

 

白鳥:  法がしっかりこの人に伝わっているよ、と。

 

水野:  確かにこれだ、と。御袈裟と応量器(おうりょうき)(鉢)を持って確かに法が伝わったということにしていたわけなんです。それで第五祖大満弘忍のところで、次の六祖は誰になるかということが、お弟子の間でもう盛んに噂になっているわけですよ。そうすると、神秀上座(じんしゅうじょうざ)という、学問と言い、修行の仕方と言い、誰から見ても、「多分あの人だろう」なんて言われる人もいたわけですね。ところが大鑑慧能(だいかんえのう)大和尚という方なんですけど、薪を拾って町に売りに行って、僅かにお母さんを養うというような生活をしていた。

 

白鳥:  非常に貧しい?

 

水野:  貧しいも貧しいも一番貧しいところです。だから学問する機会がないから字は読めないんです。だけど、人間が自己の本質を考えるなんていうことは、文字と関係ないんですよね。それで、ある時、薪を売りに行った。買ってくれるお客さんのところへ行ったら、そこで、『金剛般若経(こんごうはんにゃきょう)』というのを読んでいた、と言うんですね。それを聞いて、ハッと感じるところがあった。これは大変だというわけで、そこからお母さんの養育も、他の人が引き受けてくれることになって、真っ直ぐに家を出て、五祖の大満弘忍(だいまんこうにん)禅師のところへ行ってしまうんです。ところがお坊さんでもなしに、ただ来た人ですから、仕方がないんですね。五祖さんが慧能に会って、「これは!」と思ったけれども、まだ坊さんにもなっていないし、学問はないし、勉強出来ない。勉強というか、文字の学問がありませんから。それで、「まあ仕方がないや、米臼をつく、米搗(つ)きの部屋に入っておれ」と。

 

白鳥:  下働き?

 

水野:  そうです。俗体でそういう仕事を、お寺の中の仕事をする人達というのがまた沢山いたらしいんですね。そこで、「米を搗いておれ」ということで、八ヶ月米搗(つ)いていたんです。そうして八ヶ月目になって、五祖さんが米搗きの慧能さんのところへ行きまして、「米は白くなったか」と言うんですね。「お前さん、ほんとに分かってきたか」という。「はい。分かりました。米は白くなりました。篩(ふるい)にかかっておりません」と。篩というと、日本人ではちょっと話が分かりにくいんですけれども、中国語で、「篩」というのは、竹冠に「師匠」の「師」なんです。それで、「し」と言うんですね。つまり、お師匠さんに、「〝それでいいんだよ〟と言ってもらうことが出来ておりませんから」と言うんです。つまりこの教え示しで法が伝わるという。師匠から見て、「宜しい」。弟子の方から、「こうでございますね」という、それがピッタリと合って、「その通り」「その通り」と言うた時に伝わる、とこういうことになっておりましてね。だから、五祖さんの方は、「今晩お出で」と。

 

白鳥:  つまり、その受け答えの中で、両方で、いわゆる禅問答と言いますか、禅のやり取りがピシッと合ったわけですね。

 

水野:  はい。両方とも、境界がピタッと合ったわけなんです。それで夜中に和尚のところへ呼びまして、「大丈夫だ」というわけで、「六祖になるのはお前さんだ」と。「但し、今ここであんたがこのお袈裟と応量器を貰ったということが分かったら、七百人もいて、みんなが、誰があれを貰うか、貰うか、と言っている時に、あんたが貰ったんでは、ただでは済まないから逃げなさい」。ほんとに師匠の五祖が、「あの辺はクリークが多いですから船に乗せて、今度は私が船を漕いでお前を渡してやるんだ」と言って、夜逃げさせるんです。

 

白鳥:  それが六祖の慧能さん、

 

水野:  そんなにしてでも、慧能さんのところにお袈裟と応量器(鉢)が渡った。これは何かと言いますと、学問とか、いろんな他の名誉とかでなしに、本当に人間の真実を仏法の上から見極めることが出来るのは、あれでいいんだ、というのが決まったわけです。それでほんとに中国の人達が、本当の仏法を自分のものにすることが出来るように、その流れというのは、六祖さんがあったればこそ、ということなんです。

 

白鳥:  成る程。道元禅師は中国へ渡られて、その仏法を日本へ招来された。で、道元 禅師から数えて六代目、

 

水野:  達磨から六代目の慧能にその法は確かに伝わってきたんだけれども、日本に伝わった道元禅師から「六代目は誰か」と。瑩山禅師の後にして、五代目にするよりは六代目がいい、と。この人はやっぱりそれだけの方だったんでしょうね。それで六代ということに拘って、と言ったらいいでしょうか。

 

白鳥:  成る程。単に沢山いらっしゃったから、順番に回したということではなくて、

 

水野:  周囲の方もそういうふうにお思いになったんですね。

 

白鳥:  六代目であるという、

 

水野:  そうです。

 

白鳥:  水野先生が大智禅師をお知り合いになったのは、どういう?

 

水野:  大智禅師のことはまあ何とか知っていたんですけれども、ほんとに私が、大智禅師のことを深く知るようになったのは、大正から昭和にかけて―昭和四十年に八十六歳で亡くなりましたけど、沢木興道という方にお会いしてからです。この方は、生涯寺持たず、家庭持たず、勿論、お弟子も持たない。何にもないんですよ。「お弟子にして下さい」と言って、なる人はいるけれども、ご自身が寺を持っていませんから、どっかのところへ預けて、一人前にして貰えるより他ない。それでご自身は一カ所に三日泊まると、その家に迷惑になるから、と。だから長くとも二泊だと。そして日本全国を回って、道元禅師の坐禅を説いて、実践させ指導して歩かれた。この方が素晴らしい方で、もっとも私が出会ったのは七十歳の時です。澤木禅師は参禅会の時の一等最初に必ず「大智禅師発願文(ほつがんもん)」を唱えるんですよ。七十ですから、ちょっと節くれだった声で、「大智禅師発願文・・・」と。凄いんです。あの方はお腹から力いっぱいの声を出される方なんです。それで始まりますと、みんなそれ聞いただけでも、すうっと背骨がピンとなっちゃう。それから、「願はくは我れ父母所生(しょしょう)の身を以て三寶の願海(がんかい)に回向(えこう)し、一動一静(いちどういちじょう)法式(ほっしき)に違(え)せず、今身従り佛身に至るまで、其(その)中間に於いて、生々世々(しょうしょうせせ)出生入死(にゅうし)佛法を離れず・・・」と、老師の後について参会者一同が声を合わせて、それを唱えていく。

 

白鳥:  沢木老師のイメージの中には、大智禅師のイメージが凄く強かったということですかね。

 

水野:  両方一緒になっているくらいですね。それで、また「日本の禅語録」というシリーズで、私が大智禅師のことを一冊の本に纏めるという役を仰せつかることになっちゃったんですよ。それで改めて調べてみましたら、本当に道元禅師の教えを、しっかり、真っ直ぐ伝えて、それを実行してお出でになった方であった、ということが分かって、一層、大智禅師という方は素晴らしい方だと思わずにいられなくなってきているんです。道元禅師の教えはしっかりと六代目の大智禅師に本当に伝わっていたと思います。その頃の肥後の殿様に菊池武時(たけとき)という人がいたわけですね。この人は平安時代からの名門の方なんですけれども、丁度、時代で言えば、あと数年で、後醍醐(ごだいご)天皇を中心にして、鎌倉幕府を攻め滅ぼそうという時代で、

 

白鳥:  「建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)」と言われた時代なんですかね。

 

水野:  そうです。その三年位前に、熊本に玉名(たまな)郡というところに広い土地を寄進なさいまして、そこに広福寺(こうふくじ)が出来たということになっております。それで、こちらへお出でになったんですね。それで、武時という人は建武の中興の前年です。先ず一等最初に、九州で天皇方の兵を挙げまして、そして幕府の九州探題という出先の機関を攻めるんです。やっぱり幕府の勢力も強い時ですから、自分も、自分の弟も、三百余騎の馬に乗って闘って、みな戦死した、と。こういう方です。ここから後に、南朝北朝と分かれますけれども、菊池氏は南朝の方につくわけです。一家の運命をかけてでも、天皇の為に尽くそうという方針が出て来ているんですね。そしてその武時が死ぬ時には、みんな死んじゃったらいけませんから、跡継ぎの武重(たけしげ)という人を逃がすんですね。そして菊池の土地を守るようにさせておいたわけです。この武重という人が聖護寺を寄付するんです。

 

白鳥:  この一帯を?

 

水野:  はい。これはもうほんとに草庵一つという感じですよね。それでもう絶対に山から下りていかない。山から下りて行かなかった、とご自分で詩の中に書いていらしゃいます。そうやって坐禅一筋だった。まあきっとお寺との連絡とかなんかはあったけれども、ここでご自身は坐禅中心の生活で十分という。

 

白鳥:  その頃のことですから、今よりももっと人影のない土地だったでしょうね。

 

水鳥: 全然ないでしょうね。

 

白鳥:  坐禅堂としてのお寺だったんですかね。

 

水野:  ご自分が坐禅する為のお寺だった、と考えるより他ないんですね。お弟子さんを何人か呼べば、やっぱり広くしなければなりませんからね。それでこの聖護寺が始まり、そして二十年続く。

 

白鳥:  そうですか。しかし、さっき六代という話もあったし、随分いろんなものを残されたんでしょうね。

 

水野:  それがですね、普通のそういう方ですと、語録とか上堂(じょうどう)の言葉とか、いろんなものがあるわけなんですけれども、何を思いになられたのか、七十八歳で亡くなられる時に、「自分の今まで書いたものは全部焼け」という命令を出されたんです。そして全部焼かせたんですね。だから、いわゆる上堂とか、お説法の言葉というものは残っていないんです。ただ、詩が―詩偈(しげ)と言いますけれども、見事なものでして、それを、大抵そういうのは人に与えたりしておりますから、皆さんがもっているわけです。それを集めましたら、二百九十位集まったんです。

 

白鳥:  先生のご本はその僅かに人に与えられて残った偈頌(げじゅ)を纏められたんですね。偈頌と、それから法語というのがありましたね。

 

水野:  いわゆる説法の言葉は残らないけれども偈頌が残った。それから後、法語が二つ程残るんです。

 

白鳥:  その残された偈頌というものは貴重なものなんでしょうけれども、これが江戸時代、各年代出版された、殆どこれ木板で、中には手書きで、写本もありましたですね。

 

水野:  これの注釈をした人がいて、そうすると出版までいかないんですね。筆記したものを借りて、また筆記すると。こんなふうにしてでも一生懸命勉強された。まあこのお宗旨の方で、大智禅師の偈頌というのは、殆どの方が諳(そら)んじる位じゃないでしょうか。

 

水野:  元禄(げんろく)の版もあるし、文政(ぶんせい)の版もあるし、明和(めいわ)の版もあった。しかも見てみましたら、長い線を入れられてあるし、欄外には全部細かく注釈を書いたりされていますね。

 

水野:  多分、これは師匠の話を聞いて書いたのを、また借りて、自分の本に書き込んで、そして大事に勉強したものだと思います。

 

白鳥:  そうですね。これだけ教えに繋がる方々は大事にしたご本なんですね。先生が現代語訳をして下さったので、私どもは読めるんですけどもね。

 

水野:  足りないことばっかりでございますけれどもね。

 

白鳥:  ちょっと読ませて頂きましょう。最初は、「山居(さんきょ)」を詠った歌からいきましょうかね。

 

    山居

 方袍円頂僧做形、 方袍円頂僧形(ほうほうえんちょうそうぎょう)となり

 何用波波(はは)競利名。 何の用ぞ波波(はは)として利名(りみょう)を競(きそ)ふ。

 山上有柴(しば)谿(たに)有水、 山上に柴(しば)有り 谿(たに)に水有り、

 林間最好養残生。 林間最も好(よ)し 残生(ざんしょう)を養(やしな)ふに。

(方袍(けさ)かけて頂(あたま)まるめて僧形となり、波波(そわそわいらいら)利益と名誉、求め競うて何になる。山上に柴(しば) 谿(たに)に水、林の間(なか)の山居こそ残生(よせい)養(すご)すに最も好い。)

 

水野:  これなんかは聖護寺の地を寄進されて、ご自身は理想の坐禅の生活に入られて、いい生活に入ったなあとお思いになって、それがせっかくこういう生活が出来るのに、お坊さんたちが名誉だ利益だと言って、追っかけられているのは可哀想だなあくらいの気持で、もっといいものなんだよということをお示しになりたくて、お書きになったと思うんですね。

 

白鳥:  「方袍円頂」というのは?

 

水野:  つまり、「方」というのは「四角い」ですね。それから「袍(ほう)」というのは「上の着物」、正式に朝廷の正式な着物としては、一番上に着る着物なんですね。これが仏教で言いますと、お袈裟になるんです。お袈裟は四角で、一番上に掛けるものですから、それで「方袍(ほうほう)」というわけですね。お袈裟をかけて、ただ、「円頂」は頭を丸めて、そして僧形となる。「仏・法・僧」の僧になるということも、一番大事なことだけれども、なる人も少ないという。道元禅師でもおっしゃっていらっしゃいます。それを言っている。こんないい境涯、お袈裟かけて、頭剃って、お坊さんになっている。これで十分じゃないか、と。なんで、他の人達は、その上に利益を欲しがったり、名誉を欲しがっているのはどういうことだ、と。「波波」というのは、次々とやむ時もなく、そんなことばっかり考えている、というわけですね。私の山上の―山中の生活というのは、こうなんだよと。「山上に柴あり」これはもう薪ばっかりですから、燃料の心配が要らないんですよ。自然に落っこちて来ています。で渓にはこの通り清らかな水が流れていて、汲んだって尽きないんですよ。自分の生活十分と。そして、「林間最も好し残生を養うに」こういう山奥の林の間、こういうところで、これからの生活を送るというのは最もいいんだよ、と言っていらっしゃる。ここで、ちょっと「残生(ざんしょう)」という言葉に気を付けて頂きたいんですけれども、今なんとなく、「残生」とか「余生(よせい)」というと、大事なことをなし終わった後の余りの生活という感じがしますね。だけども、これ、つまりここへお入りになったのは五十歳位の時ですよ。後二十年あるわけです。それにしても、これで終わったからではない。ここから広福寺は広福寺で、立派なお弟子さん達がいて、ちゃんとやっている。その先に自分の一番いい生活をするんだ。考えてみたんですね、私も。これは残りという意味は、残り物、余りものじゃないんですね。私達の生活というものは、いろんな後ろからのものを頂いて、知恵も経験も知識も、そういうものを全部持ってここまできているんです。そういう知恵を、これから前向きに、向こうの残っている生涯というのは、実は一番貴重な生涯で、そういうものを全部注ぎ込んで、一番いい生活が出来る時が残生(ざんせい)、残生(ざんしょう)なんです。

 

白鳥:  ついつい私はこれを読む時に、先生が最初にご指摘になったように、定年後の何年か、というふうに思いましたけれども。

 

水野:  それはつまり社会的に働いて、それから家族を養うだけのことをして、というのは、それは一生の中のある時期の仕事であっていいわけですよ。だけど、人間として生きていくのは、これから後のことは、ちょっとどうにもならない。ここにある残されている時間、自分が一番使える時間なんです。これを一生懸命やっていく。そしてそこから人生を全うする。だって、例えば絵描きさんでも、音楽家でも、そういう方たちというのは、歳取る程に円熟するじゃありませんか。歳を取って、衰えるのはほんとに力がなくなった人ですよ。それで私達だって、人間は歳取れば歳取る程、円熟した人間で生きていく道を考えるべきだと思うんです。

 

白鳥:  そうですね。その力強いお言葉なんだけど、

 

水野:  大智禅師としては、ほんとの坐禅を、寺だってあんなに立派に出来て、菊池氏も一生懸命外護(げご)(族親檀越が衣服飲食を供するをいう)してくれるし、弟子達もいい人達がいて、守っているけれども、私の坐禅は、私がやるより他ないという、それがこの先の自分を生かす道であるという、こういう考え方ですね。

 

白鳥:  一種の決意表明でもあるわけですね。

 

水野:  そうなんです。それで何の不足もない。  

 

白鳥:  それでは、大智禅師の偈頌の第二と参りましょうか。

 

  鳳山山居(ほうざんさんきょ)

  草屋単丁二十年 草屋単丁(そうおくたんてい)二十年、

  未持一鉢望人煙 未(いま)だ一鉢(いっはつ)を持(じ)して 人煙(じんえん)を望まず。

  千林果熟携籃捨 千林(せんりん) 果熟(かじゅく)して 籃(かご)を携(たずさ)へて拾ふ、

  食罷谿辺枕石眠 食罷(じきは) 谿辺(けいへん) 石を枕にして眠る。

(草屋(くさのいおり)に単提(ただひとり)、枯淡きわまる二十年。人煙(ひとざと)に托鉢をしたこともなし。鳳儀の山の千林に 熟す果(このみ)を籃(かご)に拾(と)り、食(じき)し罷(おわ)れば谿辺(たにがわ)の石を枕に眠るのみ。)

 

水野:  これがこの「鳳山山居」。まさにこの聖護寺で、お一人で坐禅をなさって、僅かな草の庵の中で過ごしておられた時のお言葉なんですね。しかも二十年続くんですよ。

 

白鳥:  「草屋単丁二十年」、

 

水野:  そうなんです。だから大体五十歳から七十歳までの間、もうこの通りですね。たった一つの草の庵。ここで二十年。そして粗末な生活していても、応量器を持って、托鉢に出て、大抵なら、その日の最少限度の食事というものは貰いに行くというようなことをするわけですけれども、それも要らない。先程の「山上に柴有り、谿に水有り」と同じで、この山の中の豊かなことと言ったら、「千林、果塾して」なんですね。木の実、草の実で十分だ、と。実際には広福寺とのお弟子さんの交通なんかはあったと思いますけれども、托鉢してまで余所へ貰いにいくことはなんにも要らないんだ。またそれがご自身の、それから私達の生活の仕方として、考えてみればかなり足りているんですよ、私達ね。

 

白鳥:  「食罷(じきは)」というのは?

 

水野:  「食罷(じきは)」というのは、こういう時でも、この宗旨では、朝はいつ頃起きる。大体はお釈迦様時代から、白白(しらしら)明けになって、手の筋が見えるようになった時に、お粥を頂く。お釈迦様時代から決まっているんですよ。電気なんか点けませんから、外の光が射してきて、手の筋が見えるようになった時にお粥を頂く。お粥は軽くなんですよね。そしてお昼は太陽が南に来る直前までの間に、正式な食事をする。応量器を使ってするわけですね。それで夜は薬石(やくせき)と申しまして、身体を温める為に、薬の意味で食べるけど、食べないでもいいと。道元禅師の興聖(こうしょう)寺時代はどうも夕飯はなかったようですよ。ここは寒いですからね。道元禅師も永平寺へ行かれてからは、「夕飯は食べないと寒いから、あるものがあったら食べなさい」と、おっしゃっていますから、多分あったと思います。勿論、間に坐禅をしながらですから、そういう規則的な生活というものがあるわけです。「食(じき)」というのは正式の食事ということです。そこでお腹一杯一日分頂くわけですね。その後は先程の「谿に水有り」というふうに、谿のところへ下りて行って、そして石を枕に―もう世間で考えると、石の枕では固いだろうにと思って、もっといい枕、と言うけれど、いや、ここにあるものでグッスリ眠れます、と。なんともこの山居のご自身が十分満足していらっしゃる。こんな生活だって出来るんだよ、ということをお示していらっしゃるんですね。

 

白鳥:  成る程。

 

  草屋単丁二十年

  未だ一鉢を持して 人煙を望まず。

  千林 果熟して 籃を携へて拾ふ、

  食罷 谿辺 石を枕にして眠る。

 

水野:  もう何とも言えない、字に書いて、どこへ飾ってもいいものです。

 

白鳥:  そうですね。三番目、

 

 事に因(よ)る

 幸ひに福田衣下(ふくでんいか)の身(み)と作(な)りて、

 乾坤(けんこん)、贏(か)ち得(え)たり一閑人(いちかんじん)

 縁有れば即ち住(とどま)り縁無ければ去る

 清風(せいふう)の白雲を送るに一任(いちにん)す     

(幸いに福田衣(けさ)のかかった身となって、乾坤間(てんちいっぱい)この身の自由、一閑人(ひまにんげん)。縁が有ったら住(とどまって)って、縁が無ければ去るばかり。清しき風が白雲を送るに一任(まかす)境涯よ。)

 

水野:  これは、聖護寺の山の中で一人坐禅して、これこそ本当の我が生涯と思っていらっしゃるのに、やっぱり世の中は建武の中興の前後でございまして、それで建武の時には幕府を倒すところまでは、天皇方が良かったんですけれども、後醍醐(ごだいご)天皇建武(けんむ)の中興(ちゅうこう)をなさった翌年には、尊氏の方が勢力を得て、また戦争が始まっちゃうわけですね。南朝北朝という二つに分かれまして.菊池方は常に南朝に忠誠を尽くすということでやっておりましたけど、なにせ負け戦は負け戦なんですよね。菊池の跡継ぎというのは、次々に討ち死にするやら、それから病気で死ぬやら、それでも代わり代わり菊池の跡を継ぎながら、南朝に尽くすという、こういう時代なんです。いろんなことがあったんでしょう。何があったか分かりませんが、「事に因る」という名前に、なんかこんな山の奥で、この方一人が坐禅しているのが思う通りにいかない、というのは、菊池さんとなんかあったんでしょうね。とても分かりませんけれども。それでいよいよここを引き払うということになったわけですね。その時に大抵なら、大智禅師が「此処が十分よろしい」と言って、何も他のことをするんじゃない。坐禅する為だけに二十年もいたんじゃないか。何で、というのが普通なら出てくるんです。その時のお気持ちがすがすがとしているんですよね。この詩が開山堂に飾ってありました。沢木興道老師もお好きなんです。飄々(ひょうひょう)として、草の庵さえ捨てて出ていらっしゃる。大智禅師とご自分と重なったんでしょうね。ほんとに力強く読まれたのが、今でも耳に残るんですけど、忘れられない詩なんですよね。

 

白鳥:  さっきの軸にも、ああいうふうにお書きになったんですね。

 

水野:  笠と杖と。それで、「幸いに福田衣下の身となりて」、

 

白鳥:  「福田衣」というのは袈裟(けさ)のことですね。

 

水野:  そうです。袈裟かける身になって、と。「乾坤、贏(か)ち得たり」。「乾坤」というのは天地いっぱいなんですよね。天地の中に、一人の―この場合は何ににも制約されない。ここで出て行けば、何も言われることないんですから。「一閑人」自分の身は自分の身になって好きなように出来るようになったぞ。普通だったら、こんなこと言いませんよ。「ああ、これまでやってきたのに、なんだって、追い出すのか」ぐらいに思うんですが、全然そうじゃない。そしてその後が良いですね、「縁あれば住(とどま)る」と。本当に縁あるからこうやって二十年、好きな、と言ったらなんだけど、思う存分に坐禅をして、それから縁が無くなったから出なければならないようになったんでしょうね。そのまま、「はい、さようなら」で、出て行けばいいんだと。それを「清風の白雲を送るに一任す」。こんな気持ちでどんな境遇にもすがすがと行くんですよ。

 

白鳥:  思わず空を仰いでしまうような、

 

水野:  これだけみていますと。ご自分で菊池家との関係を書かれた書状とか、それから最後に禅古(ぜんこ)さんに与えられた文書(もんじょ)なんていうのを見ないとわからない。「そうですか、さようなら」と。笠一つ、杖一本で下りて行って、肥前加津佐(かづさ)という、海岸の側の町へ行かれるんです。そこで、「水月庵(すいげつあん)」というところへよる。そこで静かにこうしていたかと思うんですけど、これはそうではないんです。この方というのは、加津佐というところでは、別に「有馬真澄」なんという文書で出てきますけど、寄進する人があるんです。それから、「年貢の一つを差し上げます」なんていうのも出てきましてね。やっぱりそういう時には外護の人が出てくるわけなんですね。そうして何をしたかと言うと、みんなの面倒を見ていた。それが坐禅する人ですね。坐禅はやっぱり一人だけやっているのもいいけど、初めにやる時には、みんなと一緒にやるのがいいわけです。それには纏まった坐禅堂があれば一番いいんですけど、そういうものが必要ないんですね。それらの面倒を見て、当時では中国から来るお坊さんがあり、日本からも向こうにいくお坊さんもあった。永平寺の方からも、道元禅師の坐禅をしたいと言って来る人や、行く人があるとしたら、それの面倒を見なければならない。

 

白鳥:  それを最晩年におやりになっていた。

 

水野:  そうなんです。ずうっと最晩年と言うか、最後までやっていたわけです。その事務的なことは禅古(ぜんこ)さんといういいお弟子さんがいましたから、その人にやらせていたわけなんです。「わしが生きていても、これだけ大変なんだから、死んでいなくなったら、お前、苦労するだろうけど、これはやってくれよ」と。そういうご遺言で、翌日亡くなるんですよ。だから、最後まで、ほんとうに前向きに、自分の生きている限りのところは、自分のやるべきことをやっていらっしゃった。これはつまり中国の方も来るわけでしょう。国際禅道場の元ですよ。

 

白鳥:  そうですね。今このお寺が目指している。

 

水野:  もう出来ちゃっているんですよ。この聖護寺に国際禅道場と言って、世界中から、五、六、七の三ヶ月の間には集まって、ちゃんとした修行をなさるわけです。

 

白鳥:  これは開創の大智禅師以来のものなんですね。

 

水野:  大智禅師のお志が、ちゃんと実現されていることなんですね。大智禅師というのはほんとに素晴らしい人なんです。

 

白鳥:  では、もう一つ、

 

     元旦

 新年頭有祖師禅、 新年頭(しんねんとう)に祖師禅あり、

 興国正当辛巳年。 興国正当辛巳(こうこくしょうとうしんし)の年。

 四海浪平龍眠穏、 四海浪平(しかいなみたい)らかにして 龍(りゅう)の眠り穏(おだ)やかなり、

 九州不見起狼煙。 九州に見ず狼煙(ろうえん)を起こすことを。

(新年頭に祖師禅有り。正当(ことし)興国辛巳年(だいにねん)。四海の波は平らかに、龍の眠りも穏やかに、九州(てんか)に狼煙(のろし)の起こる見ず。)

 

水野:  これが、先ず、「辛巳(しんし)」の年ですけれども、これが一三四一年で、お歳にして五十三歳です。ここへ入られてから、二、三年です。その前後というのは菊池氏は天皇方について、次々と病気するやら、討ち死にするやら、加勢しても負けたり勝ったり、いずれは後醍醐天皇の王子を迎えて、兎に角、九州平定までいく。それにはあと百年位かかるわけですよ。そういう時なんです。

 

白鳥:  「四海浪平らかにして 龍の眠り穏やかなり」、

 

水野:  その時に、だけど元旦ってあるんですね。お正月というのはなんか長閑(のどか)でしょう。私達も戦争の経験がありまして、四年間、五年間というものは戦争で、特に東京空襲が始まってからは、まるで毎日毎日空襲のない日はないぐらい、空襲警報が鳴らない時はないぐらいで、というんだけど、私は正月の初詣に行った経験ありますよ。誰もいないけどね。やっぱり静かなんです。

 

白鳥:  でも穏やかな日があったんですね。

 

水野:  そうなんですね。ましてや、この聖護寺ですよ。ここでです。だから新年だなあという気持はあるわけです。で、お祖師さん達は大抵やるんですよ。「新年と仏法有りや、無しや」なんて言ってね。「有り」と答えたり、「無い」と答えたり、いろんなことをしながら。新年というのはやっぱり特別なものなんですよね。だけど、一年中真実は真実なんですね。なんで新年に特別な気持を持つか。やっぱり全部真実なんだけど、新年は新年だし、ものがあるじゃないか、というようなことをやるんですよね。それで、「新年頭に祖師禅有るか無いか」と言ったら、「有るんだよ」と。そして、「興国正当辛巳の年」今年、年が改まったなあ、元旦なんですね。それを山の中に居ても、それから世の中が戦争だなんて言ってたって、穏やかでない、と言ったって、有るんです。ここのところには。よく考えてみたら、平和というのは何か。ここにあるんです。私一人が平和である。例えば、私達、東京空襲で隣まで焼けた。私の家の隣まで焼けたんですよ。そうすると、慌てて他の都市へ行って、空襲にあって焼けちゃったなんていう人もあるわけで、平和というものは、今ここで平和であるかどうか、ということを自己に反省する。よく自己を見極める。そこから始まるんですね。今ここが平和である。これが世界に及ぼしていったならば、世界が平和になるわけです。これしかない。出掛けて行って、戦争をして、治めて、そして平和になるというものじゃない。特にお坊さんの場合はね。

 

白鳥:  ここで、「九州に見ず狼煙を起こすことを」と書いていますね。

 

水野:  この「九州」というのが、つい近畿地方、四国に対する九州という考え方がありますけれども、中国的な言葉の用法としては、中国の禹王の時、天下を九州に分けたことから、天下を意味する、という使い方があるんです。ですから、世界の中央の国という考え方で、世界全体の中、全世界という意味なんです。だから、これはある種の祈りなんですよ。ここに平和がある。戦争は続いている。でもほんとに毎日やっていないんですよね。平和な正月を迎えること、元旦を迎えることが出来たにあたっては、よく考えて見ると、ここで龍が穏やかに眠っているように静かなもんじゃないか。この静かさを世界全体に及ぼすならば、世界の平和はここからくる。こういうお考えなんです。

 

白鳥:  一種の祈り、平和への祈り、

 

水野:  はい。こう読まなければ、菊池さんが命かけて戦っている。なんでこの人だけ坐禅していればいいというのか。そうじゃないんです。それでなければ、ご出家の方が戦争をして、平和にするというわけにいかない。ご出家の一人が、これこそ本当の平和だ、ということを掴まえる。そこから世界の平和がくる。こういうことなんですね。

 

白鳥:  それだからこそ、菊池家の人々も大智禅師に帰依した?

 

水野:  そうなんです。だから菊池が勝ったら良いとか、負けちゃいけないけれども、どっちがどっち勝ったって、戦争というものは、必ず犠牲者が出るわけで、それをこういう立場から、菊池が武士としてこちらに付いたら、それをずうっと貫くより仕方ない。これが武門の運命(さだめ)であると言うか、武門の行くべき道である、ということからやっていかれたわけです。

 

白鳥:  もう一つは水野さんのこのご本を読んでいましたならば、後ろの方に仮名交じり文の「十二時法語」というのが出てまいりますね。

 

水野:  そうですね。これを菊池武時がお弟子になって、寂阿(じゃくあ)という法名を貰っている時に、坐禅を指導するにあたって、お与えになった法語ということになったわけです。お弟子ではあるけれども、相手はお殿様ですから、鄭重に、いい言葉を使っていらっしゃるんですね。「候(そうろう)」なんていうのが、いわゆる丁寧語でございますね。それで、しかもよく話の筋の通るようなお言葉を使っていらっしゃる。名文だと思います。昔風に十二時―子、丑、寅で数えて、十二なんです。

 

白鳥:  あの時の数え方を、十二時と言っておる。

 

水野:  はい。今なら二十四時間。

 

白鳥:  それで、「寅の時」とか、出てくるんですね。ちょっと読んでみます。

 

 仏祖の正伝(しょうでん)は、ただ坐(ざ)にて候。

 坐禅とまをすは、手をくみ足をもくみ、

 身をもゆがめず、正しく持(たも)たせたまひて、

 心に何ごともおもふことなく、

 たとひ仏法なりとも心にかけずして御座候べし。

 それを仏にもこえたるとまをし候なり。

 いはんや生死(しょうじ)の流転(るでん)をや。

(仏祖の正伝は、ただ坐禅でございます。坐禅と申すのは、手を組み、足をも組み、身をもゆがめず、正しい姿勢をおとりになって、心に何事も思うことなく、よしんば仏法ということも、心にかけないでおいでになさいませ。それを仏にもこえた境涯と申すのでございます。まして生死(まよいのなか)の流転(あれこれ)など心にかけることではありません。)

 

水野:  つまり、これが本当の道元禅師の坐禅の教え、そのままなんですね。道元禅師の坐禅というのはよく無所得、無執着と言いますけれども、凡夫が仏になる為に坐禅するんじゃないんです。みんな仏であると。ましてや、発心して、坐禅した人というのは、みんな仏。仏が仏になるだけなんです。だから何にもしないで、何にも考えないで、仏になろうという気持もなしで、ただ、自分も仏になっちゃって、仏そのままなんだから、それ以上の説明も何も要らないわけなんです。これだからこそ、楽に坐れるんですよね。何にも要らない。ちゃんと坐り、手を組んで、足を組んでそれだけで宜しいですよ、と。

 

白鳥:  成る程。

 

水野:  それを大智禅師が、菊池さんに言われた。これは今でもこれでいいんです。

 

白鳥:  「寅の時、丑の時」と、こう続いていて、そこにお粥のことが書いてありますね。

 

 粥の時は、身もこころも、ただ粥の用心にて、

 坐禅も余のつとめも、心にかけられまじく候。

 是は粥の時節をあきらめ、かゆのこころをさとると申し候なり。

 此の時仏祖のこころ、のこるところなくさとることにて候。

お粥がこれ程、意味があるとは知らなかったんです。

 

水野:  つまり、一日中初めから仏でやっているんですから途切れないんです。道元禅師の教えと言うか、お釈迦様の教えというのがまさにそれなんです。お粥を頂く時間というものが決まっている。お釈迦様時代からの決まりの通り、そしてやっぱり応量器というものを使いますから、お箸の上げ下ろし、いろいろあるんです。それだけは一生懸命覚えてやりますけども。勝手に啜(すす)り込むということはしてはいけないんですけれども。そうしたらそれをお粥―仏さんのご飯を頂くという気持になって、仏さんの作法をそのまま自分もやるという気持になる。それだけであって、それ以上のものは要らない。それが仏法だ、と。仏祖の心というものは、そこにあるんだ、と。

 

白鳥:  もう時間がありませんので、最後のところへ飛ばして頂きますが、

 

 寅(とら)の時よりはじめ、

 丑(うし)の時の終りまで、

 一日一夜を過(す)ぐるに、

 仏祖の行持(ぎょうじ)のごとく、

 たがふ時なく候。

  (十二時法話

(寅の時からはじめて、丑の時の終わりまで、一日一夜をすごしますと、仏祖の行持(おこない)のとおりで、それにそむく時はございません。)

 

水野:  それだけなんですね。一日中と雖も、生きている全体が仏法の中で修行の生活に入っていくだけですから。初め坐禅している時だけがいいとか、休んでいる時はなんとか割引がないわけです。そしてその時その時というのが道場毎に決まっております。寅の時から坐禅に入る。この日は坐禅始め、子、丑―夜中ですね―その次は寅ですから、子丑寅と、これから始まるんなら、その時から坐禅は始まりますけれども、その時の決まりに合わせてやっていけば、それが仏祖の行持(ぎょうじ)。そして一日一夜、一日中過ごすと、それだけで宜しいのです。これが仏祖の生活、その通り毎日毎日やっていけば、一生仏祖の生活が続くと。

 

白鳥:  成る程。

 

水野:  こういうことなんです。もうこれしかないんですよ、ほんとに。それをいろんな境遇に合わせてさまざまな表現をなさるだけで。それに付けても美しい言葉が、十分に並ぶわけなんですね。

 

水野:  非常に、「美しい言葉が並ぶ」と、今おっしゃったけど、ほんとにそういう感じでしたね。

 

白鳥:  道元禅師という人が、如浄禅師から習うんですけど、如浄禅師もまた一番どこが元だと言えば、お釈迦様だというのを、ちゃんと知っているわけなんです。お釈迦様から真っ直ぐ伝わった法というものが、今ここで実現出来るという。このことを道元禅師は中国から持ってきたんです。それをどこからやったらいいかと言えば、まさにこの「十二時法語」のような生活をすればいいだけで、それをいろんな境遇の中でもって、どう処していって、どんな生涯を送ればいいかと言えば、山を下る時もあれば、山に入って、千林の木の実を頂いて、水はたっぷり頂いて。実は私達はそういう恵まれたものを、まだまだ自分で考えればあるんです。足りない足りないで、欲しいというものじゃないんですよ。そうして暮らしていくことが出来るんだ、と。思いがけないことがあって、今まで住み慣れたところを離れたって、清風白雲を送るようなものなんだから、静かに出て行けばいいんですよ、と。こういうその時その時、とらわれない生活の仕方というものを、いろんな時に教えて下さっている。やっぱり世界の平和というものは、私達の心が平和な、ここから始まる。そういうことを言っていらっしゃる。

 

白鳥:  それを漢詩で、そしてまた時にはこういう法語というような形で、しかも詩も美しい日本語で書かれている。

 

水野:  美しいです。

 

白鳥:  深いお話だったんですね。今日は有り難うございました。

 

水野:  いや、どうも失礼致しました。

 

     これは、平成十年十一月二十二日に、NHK教育テレビの

     「こころの時代」で放映されたものである。

 

http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-mokuji.htm ライブラリーよりコピーし一部改変ワード化したものである。