正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

清涼山天龍寺と松尾芭蕉

 

   清涼山天龍寺松尾芭蕉

                     青園謙三郎

  一、芭蕉永平寺

 元禄二年(1689)と云えば今から330年ほど前になる。松尾芭蕉が「奥の細道」の大旅行の帰り路、加賀の国から越前の国へ入り、一日目は松岡の天龍寺で一泊。翌日は永平寺へ参詣して福井に出た。福井では旧友の等栽(とうさい)の家で二日間泊まっている。この辺りのことは「奥の細道」に次のように書いているから、まずは原文から紹介する。

 

 越前の境(さかい)、吉崎の入り江を棹(さをさ)して、汐越(しおこし)の松を尋ぬ。

 終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて、月をたれたる汐越の松   西行

此一首数景尽たり。もし一弁を加るものは、無用の指を立てるがごとし。

 丸岡天竜寺の長老、古き因あれば、尋ぬ。又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて、此處までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今、既(すでに)別に望みて、

                 物書(かき)て扇引(ひき)さく余波(なごり)哉

五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦(は)機(うき)千里を避(さけ)て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。

 福井は三里斗(ばかり)なれば、夕飯したゝめて出(いづ)るに、たそがれの路、たどくし。爰(ここ)に等栽(とうさい)と云(いふ)古き隠士有(あり)。いづれの年にか江戸に来りて予を尋(たづぬ)。遥(はるか)十とせ餘り也。いかに老(おい)さらぼひて有(ある)にや、将(はた)、死(しに)けるにやと人に尋侍(たづねはべ)れば、いまだ存命して、そこくと教ゆ。市中ひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家に、夕顔(ゆふがほ)・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木々に戸ぼそをかくす。さては、此うちにこそと、門を扣(たたけ)ば、侘(わび)しげなる女の出(いで)て「いづくよりわたり給ふ道心(だうしん)の御坊にや。あるじは、此あたり何がしと云(いふ)ものゝ方に行(ゆき)ぬ。もし用あらば尋(たづね)給へといふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかゝるふぜい はべ  たづね    いへ ふたよ

風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにと

たび立。等栽も共に送らんと、裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立。

 

 芭蕉は文中で「丸岡天竜寺」と書いているのは、明らかにかれの記憶違いである。芭蕉は吉崎から丸岡を経て松岡へやって来たものと思われるので、おそらく「松岡」と「丸岡」をメモで書き誤ったものと考えてよい。事実、丸岡には天龍寺というお寺はないが、松岡には現在も天龍寺がある。

 さて芭蕉永平寺へお詣りした元禄二年(1689)には、大本山永平寺は、どれ程の規模であったかが気になる所だが、最も古い建物である山門が寛延二年(1749)の改築であるから、芭蕉は参拝した年から六十年後に新築されたものである。つまり芭蕉がやって来た頃の建物は何一つ現在は残っていない事になる。

 永平寺の五世である義雲禅師(1253―1333)は中興の祖と仰がれているが、義雲禅師は永平寺の境内に杉の樹を植え、これが現在では七百年近い樹齢を誇り天を摩している。おそらく芭蕉が来訪した時にも。この杉は四百年以上の巨木に成長したはずである。

 もう一つ、義雲禅師は梵鐘をつくられた。嘉暦二年(1327)の銘があるので「嘉暦(かりゃく)の梵鐘」と呼ばれている。いまは宝物殿「聖宝閣」に納まっているが、芭蕉は多分に、この鐘の美しい音色を聞いた事であろう。

 しかし、芭蕉がせっかく永平寺に参拝しながら、一句も残していないのは、何とも寂しい限りである。

 

   二、天龍寺との因縁

 私は中学時代から俳句をかじっていた。祖父が松岡町で獅子門の文台を嗣いで「養松軒呼月」と号していた。父も下手ながら俳句を作ったが、その頃は「俳句」というより「発句」という者が多かった。俗にいう「月並み派の俳諧」であり、正岡子規(1867年10月14日〈慶応3年9月17日―1902年〈明治35年〉9月19日〉の俳句改革によって、これらの月並み派は「文字の遊び」として徹底的に批判された。いわゆる「堕落した俳句」であった。しかし子供心の私には何もわからず、家庭的な環境に従がって五、七、五を作っていたに過ぎない。

 金沢の四高に入学してからは、クラスメートの沢木欣一(東京藝術大学名誉教授。金沢で原子公平らとともに「風」を創刊。1919年―2001年)らと本格的に俳句をやり、最初の頃は水原秋櫻子氏の「馬酔木」(あしび)に投稿していた。しかし間もなく加藤楸邨1905年(明治38年)―1993年(平成5年))氏の「寒雷」へ熱心に投稿するようになった。しかし私は句作と同時に、俳諧史へ興味を感ずるようにたってきた。

四高のドイツ語教授で、しかも俳句研究家であった大河良一先生(号を寥々といい、『加能俳諧史』(1974年)の著者から「俳句会」で教えを受けているうちに、越前に於ける芭蕉の足跡を研究して見ようという気になった。この興味は、私(青園謙三郎)が東京帝大へ進んで日本史を専攻するようになって、ますます強くなってきた。

 松尾芭蕉が越前へ足を踏み入れて、最初に泊まったのが松岡の天龍寺であることは、すでに「奥の細道」ではっきりしているが、その中で芭蕉が自ら書いている「天竜寺の長老、古き因あれば尋ぬ」という一節にまず疑問を抱いた。というのは「天竜寺の長老」とは一体だれのことなのか、という点だ。芭蕉は実名を挙げず「長老」としか書いていないが、どのような人物なのか。もう一つ「古き因」とは、芭蕉と長老とが、何時、何処で、どのような交遊が有ったのか、という点である。これを徹底的に調べて見ようと思い立った。

 なぜ「天竜寺の長老」の解明にそれ程の意欲を燃やしたかについては、私なりに不思議な理由があった。それは、冒頭に紹介した話や死の父母「養松軒呼月」が俳句の宗匠であったことと同時に、実名を青園鉄英と云い、天龍寺の十六代目住職をしていた人物であった。没後、天龍寺では「天龍十六世玄林鉄英大和尚」という法名で、天龍寺の歴代住職の一人に加えられている。

 また松岡の柴神社(通称春日神社)境内の一隅には、俳句の弟子たちによって、大正十年に建てられた句碑が現在もある。「飛こんだ音はともあれ鳴かわづ」と彫られたこの句碑は「鳴蛙塚」とも呼ばれている。

 

   三、養松軒呼月のこと

 福井市俳人で、また有名な俳諧史の研究家であった石川銀栄子編の「越前俳諧提要」(昭和39年7月刊)には、養松軒呼月(青園鉄英)に関しては、このように紹介している。

 「呼月、松岡五代。青園鉄英、天龍寺十六世。玄林大和尚。養松軒、大正十一年十月二日没、八十二。(水音の枝折・尽ぬなかれ・寿音集・散るさくら・夏の月・山斜九羅)早わら握りこぶしも憎からず(桜の懐古)」

 手元にある資料から青園鉄英の略歴を少し追加しよう。彼は福井藩の下級武士・横山清右ヱ門(切米八石二人扶持)の二男として天保十二年(1841)一月六日に生まれた。数え年七歳で福井藩士の大西忠平に書道を習い、八歳から同藩士の末松覚平について漢学の勉強を始めた。しかし故あって(別項・天龍寺略史、出家章)嘉永六年(1853)八月、数え年十三のとき天龍寺十四世舜隣甫童について得度をうけて出家し、鉄英と法名をつけられた。

 天龍寺で八年間修行していたが、文久元年(1861)二十一歳のとき全国行脚に出かけ、江戸の駒込吉祥寺で五年間修行のかたわら漢学を学び、慶応三年(1867)から三年間は近江国彦根名刹清凉寺で鴻雪爪(おおとり せっそう)について参禅勉学した。そして明治六年(1873)三十三歳で松岡の宝岸寺住職となり、同八年(1875)五月、三十五歳で天龍寺の十六世住職になった。

 しかし明治二十年(1887)五月には、わずか数え年四十七歳で天龍寺住職を辞任し、隠居する。これには複雑な理由があったようで、天龍寺内の派閥争いで失脚したわけだが、詳細は『天龍寺略史』を参照のこと。

 もともと青園鉄英は武士の子に生まれ、不本意ながら家の事情で出家させられた為か、人格円満な僧侶には為り切れず、いわば学僧として、専ら漢学や俳諧に楽しみを感じていた一面があったようである。明治維新後は、僧侶も町人も百姓も姓を名乗ることになったものの、鉄英は実家の姓の横山に戻らず出家僧として新たな姓を作って青園と名乗ることにした。「鉄」の字から「青」を「英」の字から「園」を連想し、青園鉄英と称したという。

 彼は天龍寺住職を辞任した後も松岡に住み、町の人々に漢学や俳諧を教えて生計を立てていた。俳諧の弟子たちが彼の為に建ててくれたのは、死亡前年の大正十年(1921)のことだ。そして大正十一年(1922)十月二日、数え年八十二歳でなくなった。

 聊か私事に渡り過ぎたが、以上のような因縁から「天龍寺の長老」を調べる事が義務のようにも感じられた次第である。

 

  三、雄峰智英について

 芭蕉の「奥の細道」の研究は、昔からいろんな俳人や学者たちによって続けられてきた。しかし、それらのすべては「天龍寺の長老」とは天龍寺二世の雄峰智英の事であろうと推測し、誰もが疑わなかった。その理由は次のような推理からである。

 天龍寺は承応二年(1653)松岡藩の初代藩主松平昌勝が、祖母の清涼院(北の庄城主で福井藩初代藩主結城秀康の夫人)のために創建した寺であった。そして住職には武蔵国品川天龍寺の三代目住職をしていた斧山宝鈯(ふざんほうとつ)を迎えた。松岡の天龍寺が「清涼山天龍寺」と号するのは「清涼院」と「品川天龍寺」にあやかっての命名である。斧山宝鈯はのち、近傍に宝岸寺・白龍寺を建ててその開祖になったが、寛文五年(1665)六月七日、数え年七十九歳でなくなった。

 天龍寺過去帳を見ると、二代目の住職になったのは雄峰智英である。雄峰智英はいつ住職になったかは書かれていないが、正徳六年(1716)二月十一日になくなっている。このため常識的に考えれば、芭蕉が訪れた元禄二年(1689)は、初代の斧山宝鈯が遷化したあとで、二代目の雄峰智英が存命中の時だから、智英を「天龍寺の長老」と推定するのは当然である。

 しかし、この推理はおおきな間違いである事が後でわかるが、学生時代の私(青園謙三郎)には、そのような才覚はなかった。とは云っても、雄峰智英が芭蕉とどのような「古き因」があったのかを調べなければと考えた。そこで私は昭和十七、八年頃に、天龍寺住職の細川靠山師(二十一世)を訪ねて、寺の記録をすべて見せてもらい、雄峰智英と芭蕉とが何処で繋がっているかを探してみた。

 天龍寺過去帳には「正徳六丙申年、当山二世雄峰智英大和尚、二月十一日示寂、卍山禅師同室人ナリ」と記入してあるだけで、何歳で亡くなったかもわからなかった。

 このほかに天龍寺には徳川光圀から送られてきた手紙が一通、掛け軸に表装されていた。内容は抹茶を贈られたお礼の手紙であった。あて名は「智円和尚大禅師」とある。「智英」と「智円」では一字違う。おそらく徳川光圀が書き誤ったのかも知れない。しかし、芭蕉と交遊のあった「長老」が、徳川光圀とも知り合いであったとすれば、ふさわしい傍証資料の一つになるでありうと、当時は考えた。

 「智円和尚大禅師」と書かれた徳川光圀の手紙を、雄峰智英に宛てたものだろう、と推定している芭蕉研究書もいくつかあった。そこで、所縁の糸を手繰ろうと、私は東京品川の天龍寺まで足を伸ばして見ることにした。

 

   四、島田和三郎氏の功績

 昭和十七、八年ころ、私は東京帝国大学で勉強していたので、暇をみて品川天龍寺を訪れ、斧山宝鈯や雄峰智英について、何か繋がりがないかと調べてみた。すると松岡の天龍寺開祖の斧山宝鈯は確かに品川天龍寺の三世で、のちに松岡へ移った事はわかったが、雄峰智英も品川天龍寺に居た事があるという事が判明した。しかも智英和尚はそれ以前に、江戸浅草に近い鳥越の里で一寺(寺の名前は忘れる)を建立して、その住職をしていた事もわかった。

 私は鳥越の寺を訪ねた処、その寺は確かに雄峰智英を開山としているのに命日さえわからないので、供養もできないと嘆いていた。私は智英和尚が松岡の天龍寺二世として正徳六年(1716)二月十一日に亡くなっていると教えると、大変喜ばれたものの、芭蕉との交遊は全くわからなかった。しかし、芭蕉も当時深川あたりに住んでいたので、ひょっとしたら、この頃智英と芭蕉が知り合いになったのではないかと推定した。しかしこれは単なる推測に過ぎなかった。

 昭和十八年(1943)、私は学徒出陣で敦賀連隊に入営、間もなく中国戦線へ従軍した為、「天龍寺の長老」の研究は一時中断せざるを得なかった。不思議に命長らえた私は昭和二十一年(1946)の初夏、中国から復員し、肉親が疎開していた松岡へ住みついた。しかし、昭和二十三年(1948)の福井震災で松岡の家が全壊した為、また福井へ出たものの、生活に追われて芭蕉の足跡まではとても手が出なかった。

 ところが昭和二十六年(1951)の暮ごろ、松岡町誌第二編として「奥の細道と松岡」という題の小冊子が出版されたのを見て、本当にびっくりした。筆者は松岡在住の郷土史家・島田和三郎氏(昭和二十九年(1954)、七十二歳で死去)だったが、島田氏は天龍寺の古記録を調べているうちに、極めて重要な資料を発見し、それを紹介しておられたからである。

 島田和三郎氏の「奥の細道と松岡」によると、天龍寺の初代住職斧山宝鈯と、二代目の雄峰智英の間には五人の住職代理が相次いで留守を守っていたことが判明、しかも雄峰智英は元禄六年(1693)の六月二十四日、初めて天龍寺の住職になったと書かれていることだった。ということは、芭蕉来訪の時(元禄二年)には雄峰智英はまだ天龍寺には居なかったことになり、これまでの芭蕉研究家による「長老=雄峰智英」の推定は根本から覆ることになる。これは芭蕉研究にとって大発見ともいうべき功績である。

 島田氏はさらに五人の住職代理のうち五人目の「木夢」という人物が貞享四年(1687)から元禄六年(1693)まで足掛け七年、天龍寺で住職代理をしていたのだから、芭蕉が訪ねてきた「天龍寺の長老」は「木夢和尚」であろうと推定されていた。

 私は島田和三郎氏の功績に心から敬意を表すとともに、例の貴重な記録を直接見たいと考え、すぐ天龍寺へ駆けつけ、住職の細川靠山師に依頼して古記録を拝見した。心がわくわくしたのを今でも覚えている。私が戦前の昭和十六。七年ごろ天龍寺の記録類を総て見せてもらった時、どうしてこの記録が見当たらなかったのだろうか。そうすれば、もっと早く私の疑問も解決するはずであった。しかし、松岡の郷土史家である島田和三郎氏が最初の紹介者であったことが、せめてもの幸いであり、不思議な因縁を感じないわけにはいかなかった。

 

  五、長老は大夢和尚と判明

 天龍寺で私が見せてもらった資料は「清涼山指南録」(録の字だけが不鮮明)と題した江戸時代の記録であった。天龍寺の住職経歴や覚書、制札控、年中行事控など、天龍寺に関する重要メモが記録してあるが、書体および筆跡などから推して、二世雄峰智英和尚の時代に大部分が書かれ、その後享保十年(1725)までの覚書が追加されたものと見られる。裏表紙には「天龍寺重要記録也」としたためられている。

 そして、この清涼山指南録の最初三枚に開山斧山宝鈯から二代目雄峰智英和尚に至るまでの歴代住職の経歴が列記してある。しかも、これによると雄峰智英和尚のことを「現住雄峰」と書いてあるので、少なくともこの部分は雄峰智英和尚の時代に書写されたものと考えてよい。亡くなった島田和三郎氏には申し訳ないが、島田氏の著「奥の細道と松岡」には大事な処が何か所か誤読があるので訂正しておきたい。

 きわめて重要な部分なので、煩雑ではあるが、まず原文のまま転載しよう。

 「当院開山斧山和尚諱号宝鈯、越中射水郡人也、其家世々・為猪股氏之股肱、薙髪之後有故厚蒙清涼院殿撫育、因是前中書法名鉄関公創立当院、請為開祖、初住干武陽品川県天龍寺而為第四世矣、天龍者駿府大谷県大祥寺四世一庭和尚之所開而大源和尚之法流也、当院開闢者承応二巳暦、至今元禄十六未、都五十年歟、開山示寂寛文五乙巳六月七日也

前住宝逸、寛文五巳暦入院、在住八九年之間、因事退院、相次一年宝岸、白龍両主看院

前住俊益、延宝二年入院、在住七年、同七年之冬移席於若州織田芳春寺

前住覚林瑞 延宝七年、自同州中津原少林寺入院、在住三年乎、因事退院、欲移錫於摂州大坂法輪寺、未住而化、相次三年無住、宝岸看院

前住海音、天和二年入院、貞亨四年移席於武陽勢田谷高徳寺

前住大夢、貞亨四年入院在住七年、元禄六年二月移席於上州木崎大通寺

現住雄峯、元禄六酉六月念四日入院

龍頓、丹龍、禅波、文慶相次住、延宝四年檀施無資、衣鉢貧瘻、而僊□山之勤、因訟吉禅役局請為本院塔司、因是 □山三十一世愚門和尚、有付当院之証文、右因伝説記焉、前住入院年号在住年算、恐有差誤、請考官庁、簿書則明如指掌」

 右の記録によって、芭蕉のやって来た元禄二年(1689)には「大夢」という住職代理が天龍寺に居たことがはっきりした。残念なことに島田和三郎氏はこの「大夢」の文字を「木夢」と誤読して「奥の細道と松岡」に紹介した為、原点を読まずにこの著書を孫引きした多くの芭蕉研究家は、みな間違いを犯した。

 

  六、わからぬ「古き因」の内容

「清涼山指南録」の発見によって、芭蕉が訪ねて来た天龍寺の「長老」とは、住職代理の大夢和尚であることが確実となったのは芭蕉研究家にとって大きな喜びである。と同時に天龍寺の寺史にとっても、これまで伝えられて来たことの誤りを訂正する意義が極めて大きい。

 天龍寺過去帳によると、開山は斧山宝鈯和尚であり、二世は雄峰智英和尚となっているが、実際は寛文五年(1665)に斧山宝鈯和尚が亡くなって後、二世の雄峰智英和尚が在職になる元禄六年(1693)まで二十八年間には、五人の住職代理が相次いで在住している。

 宝逸、俊益、覚林、海音、大夢の五人がそれであった。この五人は二世雄峰和尚からは、いずれも同様に「前住」と尊称されているが、過去帳によると正式な住職には数えられていない。それはどのような理由からであろうか。

 当時はまだ松岡藩(五万石)が厳然として存在し、藩主松平氏菩提寺という格式が与えられている以上、天龍寺の住職になる為に相当の資格が必要であったと思われる。

 芭蕉が「方丈」と書かずに「長老」という表現を使って、「奥の細道」に記録しているのも、それなりの微妙なニュアンスがあったのかも知れない。ところで「天龍寺の長老」が大夢和尚であることはほとんど確実になったが、芭蕉とは一体どのような「古き因」があったのだろうか。

 私は昭和三十二、三年(1957・8)ごろ群馬県新田郡新田町の大通寺(太田市新田木崎町1391-1)へ照会してみた。「天龍寺指南録」によれば「元禄六年(1693)二月移席於上州木崎大通寺」と書いてあり、大夢和尚が天龍寺から大通寺へ移ったことが判明したからである。

 しかし、当時の大通寺住職の松尾俊応師(二十二世)からは期待した返事は来なかった。ただ大夢和尚は大通寺の六世として在住し、元禄十三年(1700)七月十四日に示寂された事だけが新しく判明した。芭蕉が亡くなった元禄七年(1694)十月十二日より遅れること約六年である。

 今の所、芭蕉と大夢との交遊関係を裏付ける資料は何もわからない。今後、あるいは新しい資料が偶然発見されて、芭蕉研究家を喜ばせてくれるかも知れない。その反対に、永遠の謎になるかも知れない。

 

   七、曽良随行日記

 越前の国へ足を踏み入れた芭蕉のコースを、もう一度ふり返ってみよう。元禄二年(1689)の春三月二十七日、弟子の河合曽良を伴って江戸を出発した芭蕉は、奥州、北陸を約五カ月もの長い「奥の細道」の旅をつ続けた後、ようやく加賀の国、山中温泉までやって来た。ところがここで曽良が病気になってしまった。

 師匠の足手まといになっては・・と、曽良芭蕉より一足先に出発した。幸い、金沢からついて来た立花北枝が一緒に居てくれたので、芭蕉は心細い中にも自分を元気づけていた。

 「曽良は腹を病て、伊勢の長島と云所にゆかりあれば、先立て行に

  行き行てたふれ伏とも萩の原」        曽良

 と書置たり、行ものの悲しみ残もののうらみ、雙鳧(そうふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又今日よりや書付(かきつけ)消さん笠の露」

 芭蕉は「奥の細道」にこのように書いている。

 昭和十六、七年(1941、2)ごろ、河合曽良自筆の「奥の細道随行日記」が発見され、出版された。芭蕉研究家にとっては、小踊りするほどうれしい発見であった。この随行日記には曽良の詳しいメモが記入してあって、芭蕉自身の記憶違いが訂正されたばかりか、奥の細道にも書いていない多くの事実がはっきりして来たからである。

 しかし、残念ながら越前通過の時期は曽良芭蕉は別々だったので、曽良随行日記によって、芭蕉の足跡を確かめる事は不可能である。だが、曾良の日記によって極めて興味深い事実も浮き彫りにされる。それは病気の為に先発した曽良ではあるが、途中、各地へ立ち寄っては、後から来る芭蕉の為に、いろんな準備をしているらしい事だ。以下、簡単に随行日記の中から越前に関する部分を現代文に直して紹介する。

 

 八月五日、朝曇、夜になって雨、大聖寺の全昌寺で宿泊。(全昌寺は曹洞宗で、現在も大聖寺にある。当時の住職は第三世白湛和尚と推定される)

 八月六日、雨、全昌寺に滞在、雨が未の刻(午後2時)に止んだので、菅生石天神社に参拝。(芭蕉は三日遅れて、九日の夜、全昌寺に泊まっているから、曽良が何か準備していたものらしい)

 八月七日、快晴、全昌寺を出発して吉崎へ出る。ここから塩越なで半道ばかり。(塩越とは汐越の松のある処で、現在の芦原ゴルフ場あたり、芭蕉もここへ立ち寄っている)またこの村はずれまで帰って北潟という処へ出る。一里ばかりなり。海路二里ばかりで三国が見える。北潟より渡し舟で越え、一里で金津へ出る。三国へ二里余り。申の下刻(午後4時半)森岡につき、六良兵衛という家で泊る。(森岡とは曽良の記憶違いで、森田らしい。曽良は松岡へも寄らず、もちろん永平寺へも参拝していない)

 八月八日、快晴、森岡(森田)を日の出に発って船橋へ渡り、右の方二十町ばかり行くと道明寺(灯明寺らしい)がある。少し南に三国街道がある。福井の方へ十町ほど行くと左の方に新田塚がある。これより黒丸は見渡して十三、四町西の方にある。新田塚から福井まで二十町ばかり。巳の刻(午前10時)までに福井へ出た。府中(武生)へ着いたら未の上刻(午後1時半)だった。小雨になったが間もなく止み、申の下刻(午後4時半)今庄に着いて泊る。(福井の等栽の家で芭蕉は2日泊っているが、曽良は立ち寄っていない)

 八月九日、快晴、日の出過ぎに出発。今庄の宿はずれ、板橋のつめから右へ折れて、木ノ芽峠に行く谷間に入る。右は燧ケ城(ひうちがじょう)。十町ほど行って左、鹿蒜(かへる)山あり。下の村は帰(かえる)という。未の刻(午後2時)敦賀に着く。まず気比へ参詣して宿屋へ行く。唐人橋の大和久太夫のところだ。食事が終わって金ヶ崎へ至る。山上まで二十四、五丁、夕方に宿屋へ帰った。河野への船を借りて色ヶ浜へ着く。海上四里。陸は難所と聞く。塩焼の男に導かれて本隆寺へ行き泊めてもらう。翌朝浜に出て詠む。(色ヶ浜へは芭蕉も訪れている。おそらく曽良芭蕉はスケジュールについて事前に詳しい打ち合わせをしたものと思われる)

 八月十日、快晴、日蓮上人の御影堂を見る。巳刻(午前10時)便船があったので上宮(いまは常宮と書く)へ赴く。二里。これから敦賀へも二里だが、路は難所である。帰りに西福寺へ寄って見物した。申の中刻(午後4時)敦賀へ帰る。夜、出船の前に出雲屋弥市良を尋ねたら隣だった。金子一両を芭蕉翁が来たら渡してほしいと頼んで預けておいた。夕方から小雨だったが、やがて止んだ。

 八月十一日、快晴、天屋五良右衛門を訪ねて、芭蕉翁宛の手紙を書き預けておいた。あいにく天屋五良右衛門に会えなかった。巳の上刻(午前9時半)敦賀を出発、午の刻(正午)から曇り、涼しい。申の中刻(午後4時)木ノ本へ着く。

 

五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷へ趣。明日、於ニ小松ニ、生駒万子為出会也。従順シテ帰テ、艮(即)刻、立。大正侍ニ趣。全昌寺へ申刻着、宿。夜中、雨降ル。 六日 雨降。滞留。未ノ刻、止。菅生石(敷地ト云)天神拝。将監湛照、了山。 七日 快晴。辰ノ中刻、全昌寺ヲ立。立花十町程過テ茶や有。ハヅレより右ヘ吉崎へ半道計。村分テ、加賀・越前領有。カヾノ方よりハ舟不出。越前領ニテ舟カリ、向へ渡ル。水、五六丁向、越前也。(海部二リ計ニ三国見ユル)。下リニハ手形ナクテハ吉崎へ不越。コレヨリ塩越、半道計。又、此村ハヅレ迄帰テ、北潟ト云所ヘ出。壱リ計也。北潟 より渡シ越テ壱リ余、金津ニ至ル。三国へ二リ余。申ノ下刻、森岡ニ着。六良兵衛ト云者ニ宿ス。八日 快晴。森岡ヲ日ノ出ニ立テ、舟橋ヲ渡テ、右ノ方廿丁計ニ道明寺村有。少南ニ三国海道有。ソレヲ福井ノ方へ十丁程往テ、新田塚、左ノ方ニ有。コレヨリ黒丸見ワタシテ、十三四丁西也。新田塚ヨリ福井、廿丁計有。巳ノ刻前ニ福井へ出ヅ。苻(府)中ニ至ルトキ、未ノ上刻、小雨ス。艮(即)、止。申ノ下刻、今庄ニ着、宿。九日 快晴。日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右へ切テ、木ノメ峠ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火 うチガ城、十丁程行テ、左リ、カヘル山有。下ノ村、カヘルト云。未ノ刻、ツルガニ着。先、気比へ参詣シテ宿カル。唐人ガ橋大和や久兵へ。食過テ金ケ崎へ至ル。山上迄廿四五丁。夕ニ帰。カウノヘノ船カリテ、色浜へ趣。海上四リ。戌刻、出船。夜半ニ色へ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺へ行テ宿。 朝、浜出、詠ム。日連(蓮)ノ御影堂ヲ見ル。十日 快晴 巳刻、便船有テ、上宮趣、二リ。コレヨリツルガヘモ二リ。ナン所。帰ニ西福寺へ寄、見ル。申ノ中刻、ツルガヘ帰ル。夜前、出船前、出雲や弥市良へ尋。隣也。金子壱両、翁へ可渡之旨申頼預置也。夕方ヨリ小雨ス。頓而止。十一日 快晴。天や五郎右衛門尋テ、翁へ手紙認、預置。五郎右衛門ニハ不逢。巳ノ上尅、ツルガ立。午ノ刻ヨリ曇、涼シ。申ノ中刻、木ノ本へ着。(曾良随行日記の原文を記す・二谷・2022年)

 

 曾良の日記はまだ続いているが越前に関係がないので省略する。これを読んで読者も感づいたことだろうが、曽良は病気で山中温泉から先行したはずなのに、かなり元気であることだ。病気(腹痛)が早く治ったのか、それとも別の理由があって病気だと偽って別れたのか、よくわからない。

 さて、曽良から遅れた芭蕉は、何処をどのように歩き続けたのであろうか。

 

   八、大聖寺から吉崎へ

 河合曾良山中温泉で病気になって出発した為、止むなく芭蕉は金沢から同行して来た立花北枝と共に山中を発ち、大聖寺にある全昌寺へ泊ったのは旧暦の八月九日と推定される。「奥の細道」に

「大聖持(大聖寺の誤り)の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶、加賀の地也。曾良も前の夜此寺に泊(とまり)て、

  終宵(よもすがら)秋風聞(きく)やうらの山

と残す。一夜の隔(へだて)、千里に同じ。吾も秋風を聞(きき)て衆寮に臥(ふせ)ば、明(あけ)ぼのゝ空近う、読経すむまゝに、鐘板鳴て、食堂に入」と書いている。

全昌寺(石川県加賀市大聖寺神明町1)は曹洞宗で現在も大聖寺にある。曾良随行日記によると、曾良は八月五日と六日の二日間、全昌寺で泊ったので、芭蕉が「曾良も前の夜、此寺に泊まった」と書いているのを文字通り解釈すると、芭蕉の全昌寺宿泊は当然、八月七日ということになる。しかし、それではその後の芭蕉のスケジュールと合致しない。おそらく芭蕉の宿泊は八月九日ではなかろうか。この点については石川銀栄子著「越前俳諧史誌」も同じ説をとっており「前の夜」は必ずしも「一日前」としなくても「数日前」と解釈してよさそうだ。

明けて八月十日、全昌寺を辞した芭蕉と北枝は、いよいよ越前へと向かうのである。

 「けふは越前の国へと心早卒にして、堂下に下るを、若き僧ども紙硯(すずり)をかゝえ、階の(きざはし)もとまで追来(きた)る。

折節(をりふし)、庭中(ていちゆう)の柳散れば、

  庭掃(はき)て出(いで)ばや寺に散(ちる)柳

とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ」(「奥の細道」)

大聖寺からは間もなく吉崎である。吉崎は蓮如上人が北国布教の大根拠地にした旧跡で、いまも吉崎御坊では毎年四月二十三日から五月二日まで「蓮如忌」が盛大に催されている。蓮如上人(1415―1499)が吉崎へ来たのは文明三年(1471)七月、五十七歳の時であった。文明七年(1475)八月、吉崎を去るまで満四年間に、北陸地方真宗の金城湯地に成長した。

現在、真宗の信徒が大切にしている御文章(西本願寺系ではゴブンショウといい、東本願寺系では御文オフミと呼んでいる)は、いずれも蓮如上人の手紙だが、現在「帳内御文」として、まとめられている五帳十通のうち、ちょうど半分の四十通は吉崎で書かれたものである。いかに蓮如上人が吉崎時代に布教活動におおきなエネルギーを発揮したかが推測される。

 吉崎はいまでこそ当時の面影は残していないが、蓮如上人の時代には随分と繁栄していたはずである。現在でも吉崎区の中に石川県と福井県の県境が通っており、昔は加賀吉崎、越前吉崎と呼ばれていた。美しい北潟湖畔には吉崎温泉紫水館(現在は「あわら北潟温泉 湖畔荘 hanaゆらり」と改称)がある。

 

   九、汐越の松

 芭蕉と北枝は美しい鹿島の森と北潟湖を見て、吉崎から浜坂へ渡し船で渡った。「吉崎の入江」と奥の細道に書いてあるが、ここは入江ではなく北潟湖の一部である。しかし満潮の頃は湖の一部に海水が入り、紫水館の裏庭ではカレイなど海の魚も釣れるから、芭蕉が「入江」と感じたのも無理はない。

 現在、吉崎と浜坂間の湖が最も狭くなっている所に橋が架かっているが、吉崎側は金津町(2004年3月1日 - 芦原町と合併してあわら市が発足。同日金津町廃止)に、浜坂側は芦原町(2004年3月1日に坂井郡金津町と合併してあわら市が発足し、芦原町は廃止された)に編入されている。芭蕉も恐らくは、この辺りで渡し舟に乗ったに違いない。

 浜坂部落から西へ約一キロほど行くと汐越の松がある。さきに出発した曽良も汐越(随行日記には塩越と書いてある)へ行っているから、汐越の松、見物は芭蕉の最初からの予定のコースに組み込まれていたものと思われる。現在は芦原ゴル場の海コース、アウト9番ホールの途中左側に「汐越の松」の遺跡が残されている。

 芭蕉がわざわざ寄り道をしてまで、汐越の松を見に行ったのは、西行法師が歌に詠んだと聞いていたからである。「終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」がその歌だという。「此一首にて数景尽たり。もし、一辧を加るものは、無用の指を立るがごとし」と「奥の細道」ではこの歌を褒ている。

 しかし、残念なことに、この歌は西行法師の作ではないらしい。西行法師の歌集「山家集」にも入っていない。先人たちの研究によると、この歌は蓮如上人の作だという事だが、蓮如上人の歌集にもない。だが芭蕉西行の作だと信じ込んでいたようえある。

 もともと芭蕉は松が好きで、芭蕉の句の中にはいろんな松の句がある。二上当麻寺の松、唐崎の松、和田の笠松、須磨の鏡掛の松、阿武隈の松、松島の松、姉歯の松など。その上、芭蕉は旅の歌人西行の足跡を慕って旅行をしている位だから、西行が詠んだという「汐越の松」があると聞いては、放ってはおけなかったはずである。

 私が汐越の松を見に出かけたのは、昭和二十五年(1950)ごろであった。もちろん芦原ゴルフ場はまだ出来ていなかった。浜坂から歩いて一面の松林の中を上ったり、下ったりして、彷徨いながらも海岸近くまで辿り着いた。蓮如上人が歌に詠み、さらに芭蕉が訪れたとすれば、少なくとも五、六百年以上を経た巨木でなければならない。

 だが、現場一帯は一面の松林だったが、大きくても百年そこそこのものばかり。がっかりしながらも付近を探した処、目通しで周囲四、五メートルもあろうかと思われる老松が、根元から近い所から折れて、大蛇のように地面にのたうっていたのを発見した。注意して見ると、同じような太さのものが二本ほど、やはり枯れて倒れていた。恐らくこれだと思ったが、付近には由来を示す立札は何もなかった。

 ゴルフ場が完成して、汐越の松の遺跡が表示してあるのは誠に有り難い。私が探し歩いた時には、付近の地形が全くわからなかったが、ゴルフ場が出来てその素晴らしい景観が現れたのにはびっくりした。(芦原ゴルフ場は1960年(昭和35年)11月海コース9ホールがオープンした。ホームページより)

 

   十、天龍寺で一泊

 朝、大聖寺を出て吉崎―汐越の松―松岡というコースで、松岡へ着いたのはのう夕暮れになっていたと思われる。芭蕉は汐越の松を見てから、どの道を辿って松岡まで行ったのかはわからない。恐らく金津から丸岡に出て鳴鹿(なるか)を通り、渡し舟で東古市へ渡った後、勝山街道を通って、松岡へやって来たのではないかと推測する。

 もう一つは、丸岡から磯部へ出て五領ヶ島(渡新田村・末政村・下合月村・上合月村・兼定島村・領家村・樋爪村)へ渡り、松岡へ出たとも考えられるが、しかし、このコースは九龍竜川を二度船で渡らなければならないので、やっかいであるし、昔はこのコースは主要な道路にはなっていなかった。いずれにしても、松岡の天龍寺芭蕉は「丸岡天龍寺」と誤記しているので、丸岡を通ったのだろうという点は想像に難くない。

 芭蕉ときたは天龍寺で一泊したに違いない。長老の大夢和尚と懐旧談に夜の更けるのも忘れたことであろう。芭蕉天龍寺で一泊したとは書いていない。しかし、夕刻に着いて、そのまま北枝が引き返すはずがない。

  「丸岡天竜寺の長老、古き因あれば、尋ぬ。又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見

送りて、此處までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今、既に別に望みて、

                        物書て扇引さく余波哉」

  と「奥の細道」で書いてあるので、私は芭蕉と北枝が旧暦八月十日は天龍寺で泊り、翌十一日に北枝が別れて金沢へ戻ったという資料がないものか・・と探してみた。

 立花北枝は生年はわからないが、、享保三年(1718)芭蕉より二十四ねん遅れて死んでいる。通称を源四郎といい、金沢で刀研ぎを業としていた。芭蕉に師事したのが元禄二年(1689)というから、おそらく芭蕉が「奥の細道」の旅で金沢へ来たとき、初めて会ったのかも知れない。蕉門十哲の一人に数えられ、北陸に蕉風を広げた功労者と云われる。

 昔から芭蕉の十人の高弟を「蕉門十哲」と呼んでいるが、これが資料によってはまちまちだ。榎本其角、服部嵐雪森川許六向井去来各務支考、内藤丈草の六人だけはどの資料にも共通しているが、あとの四人はみな違う。

 「立花北枝河合曾良、志田野波、越智越人」を並べているもの、「杉山杉風立花北枝志太野坡越智越人」と書いてあるもの、「河合曾良広瀬惟然服部土芳天野桃隣」と記したもの、私にはどれが正しいのか判然としない。

 それはそれとして、北枝には「山中問答」「卯辰集」などの著がある。それらを調べて見ると、芭蕉の「物書て扇引さく余波(なごり)哉」の句に対して、北枝は「笑ふて霧にきほひ出でばや」「きほひて出ずる朝霧の中」と二種類の付句(つけく)をしている事がわかった。やはり北枝は芭蕉から形見に扇をもらい、朝霧の中で別れを惜しんだに違いない。松岡には昔「立花の茶屋」というのがあって、そこで芭蕉と北枝が別れた・・という言い伝えもある。

 

   十一、芭蕉と禅

 芭蕉は元禄二年(1689)八月十一日の朝、松岡で別れた後、永平寺へ参詣している。「奥の細道」では「五十丁、山に入て永平寺を礼す・・」と記している。同伴者のことは何も触れないので、たった一人の旅のように昔から解釈されているが、おそらく天龍寺の大夢和尚が同伴したものと考えてよい。

 天龍寺曹洞宗であり、大本山永平寺の末寺であるからだ。遠路はるばる芭蕉が「古き因」で訪ねて来たのに、しかも天龍寺の本山でもある永平寺へお詣りしようと云うのに、「では一人で行っていらっしゃい」とは言えぬはずだ。永平寺参拝後「福井は三里ばかりなれば、夕飯したためて出るに・・」と書いている処をみても、夕食は永平寺の帰りに、早めに天龍寺でとったと考えるのが当然である。

 ここで芭蕉と禅の関わりを簡単に紹介しよう。志田義秀博士著の「問題の点を主としたる芭蕉の伝記の研究」(昭和十三年刊)によると、芭蕉仏頂和尚について禅を学んだのは延宝八年(1680)から貞享元年(1684)の間であろうと推定している。芭蕉の三十七歳から四十一歳ごろまでと云う事になる。

 飯田哲二著「芭蕉辞典」(昭和34年刊)の「芭蕉年譜」には天和元年(1681)芭蕉三十八歳「このころ鹿島根本寺の仏頂和尚と相識り修禅した」と書かれているから、おおきな違いはない。

 もちろん「奥の細道」(元禄二年、1689、芭蕉四十六歳)の旅に出た時は、芭蕉が僧形であった。しかし芭蕉は完全に出家したわけではない。「僧に似て塵あり、俗に似て髪なし」(野ざらし紀行)と自らも書いているように、半僧半俗に生活に入ったのが四十歳前後であった。

 これらの点から考えても、芭蕉が松岡天龍寺の大夢和尚と知り合いになったのは、仏頂和尚について参禅した後の事と考えてもよい。

 仏頂和尚は鹿島根本寺の住職で臨済宗である。芭蕉仏頂和尚に参禅したと言われる深川にあった長渓寺は曹洞宗だから、厳格にいうと矛盾があるが、もともと芭蕉は本格的に出家して、僧侶になろうと考えたわけではないらしいので、曹洞宗臨済宗の違いは芭蕉自身にとっては、それほど深刻な問題ではなかったのかも知れない。

 ただ、芭蕉が旅を楽しむようになったこと、俳句を真の文芸の位置まで高めたのには、仏頂和尚への参禅が大きな転機になったに違いない、と学者は指摘している。

 

   十二、福井の洞哉

 福井市の左内公園の一隅に「芭蕉宿泊地」と彫った石碑が建っている。このあたりに芭蕉の泊った等栽の家があったと推定されている。芭蕉は八月十一日の夕、松岡から福井へ出て等栽の家を探して歩いた。芭蕉は長い「奥の細道」の旅の中で、松岡―福井間だけは全く一人で歩いた。

 「福井は三里斗(ばかり)なれば、夕飯したゝめて出(いづ)るに、たそがれの路、たどくし。爰(ここ)に等栽(とうさい)と云(いふ)古き隠士有(あり)。いづれの年にか江戸に来りて予を尋(たづぬ)。遥(はるか)十とせ餘り也。いかに老(おい)さらぼひて有(ある)にや、将(はた)、死(しに)けるにやと人に尋侍(たづねはべ)れば、いまだ存命して、そこくと教ゆ。市中ひそかに引入(ひきいり)て、あやしの小家に、夕顔(ゆふがほ)・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木々に戸ぼそをかくす。さては、此うちにこそと、門を扣(たたけ)ば、侘(わび)しげなる女の出(いで)て、いづくよりわたり給ふ道心(だうしん)の御坊にや。あるじは、此あたり何がしと云(いふ)ものゝ方に行(ゆき)ぬ。もし用あらば尋(たづね)給へといふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかゝる風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと、裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立」(奥の細道

 芭蕉の文章は実に生き生きとして面白い。松岡を夕刻出ても、福井に着いた時には、かなり暗くなっていたはずだ。ようやく探し出した家には主人は居らず、女房がぶっきらぼうに答える。「亭主はこの近くの○○さんの家に居るから、そちらへ行ってみて」自分で案内しようとせずに、厄介者扱いである。

 芭蕉は、また近くの家まで出かけて等栽老人をを訪ねる。夫婦とも奇人の風采だが、それが還って芭蕉と気が合ったのか、芭蕉は二晩も泊っている。

 等栽がどうのような人物であったかについては、石川銀栄子著「越前俳諧史誌」に詳しいので、その内容を簡単に紹介しよう。

 等栽は資料によっては等哉、等載、洞哉などと書かれているが、自筆の書に「洞哉」とあるので、これが一番正しいようだ。このほか可郷、茄景などの号もある。一遊軒というのは庵号だ。

 姓は神戸で、元は武士であったらしいが、福井藩士であったかどうかもはっきりせず、禄高はもちろん、実名も生没年も不詳とのこと。しかし、芭蕉とは旧交があって、二日間も福井の自宅に泊め、敦賀までも同行しているのだから、その経歴がわからないのは、まことに惜しいことである。

 

   十三、福井の芭蕉

 江戸時代の半ばころ、福井に時雨庵祐阿(大坂屋七右衛門)という俳人がいた。寛政四年(1792)十月に「道の恩」と題する俳諧撰集を出版した。翌寛政五年(1793)がちょうど芭蕉の百回忌に当たるので、いわば「記念出版」ともいうべきものだが、その序文を祐阿が書いている。

 それによると、芭蕉が洞哉の家に泊まった時、使った木の枕を私(祐阿)が秘蔵しており、それで芭蕉の木像をつくった・・という内容である。事実かどうかわからないが、興味深いのでやさしく紹介しよう。

 「昔、奥の細道芭蕉翁が辿ってこられ、福井城下の隠士洞哉を訪ねられた。洞哉は赤貧にして夜具も充分ない程で、枕一つさえ準備がしてなかった。やむなく、近くの寺で番神堂を建立中だったので、その作事小屋から手ごろな材木の切れ端を持って来て、芭蕉翁の枕にしたという。

 このとき、翁が使われた木枕が伝えられ、ある古鉄商人に家に残っていたのを私が乞い求め、時雨庵に秘蔵しておいたが、去る天明七年(1787)末の年に九州へ旅行した時、京都で仏師に依頼して芭蕉翁の坐像に彫刻してもらったものだ。来年(寛政五年1793)は翁の百回忌に当る。私も年老いて来て、もう余生も余りないと思われるので、存命に内に聊かの法要を営みたいと、城内城外の人々と相談して、報恩のため翁の坐像の前で、心から法要を執り行うものである」

 木枕から作られた芭蕉像は、明治の中ごろまで「時雨庵」を継ぐ宗匠の家に伝えられたが、明治三十五年(1902)三月の福井市橋北の大火の時、駒屋善右衛門家で燃えてしまったらしい・・と石川銀栄子著「越前俳諧史誌」に書いてある。

 ところで、洞哉が芭蕉の為に、木枕の材料を取りに行ったと伝える番神堂は、現在、福井市左内公園の横にある顕本寺日蓮宗)の付属建物であった。顕本寺の境内には「番神堂」の建築を記念する石碑がある。大正十二年(1923)秋に建立された記念碑で、決して古いものではないが、顕本寺番神堂は元禄二年(1689)秋に勧請されたと彫ってあるので、もしこれが事実とすれば、芭蕉の来福と時期的に一致するので興味がある。

 

   十四、福井を出発

 福井の洞哉宅で二晩厄介になった芭蕉は、八月十三日の朝、敦賀へと旅立っている。十一日の夜は遅く着いたものの、十二日は丸一日を何もしないで寝ていたわけでもなかろう。おそらく市中を散策したと思われるが、芭蕉の記録には何も書かれていない。曽良が同行しておれば、随行日記に何か出てくるはずだが、残念なことだ。

 「名月はつるがのみなとにとび立。等栽も共に送らんと、裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立。漸(やうやう)、白根(しらね)が嶽(たけ)かくれて、比那(ひな)が嵩(だけ)あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江(たまえ)の蘆(あし)は穂に出(いで)にけり。鴬(うぐひす)の関を過て、湯尾(ゆのを)峠を越(こゆ)れば、燧(ひうち)が城、かへるやまに初雁を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ」(「奥の細道」)

 芭蕉は福井―敦賀間を極めてあっさりと片付け、その間で一句も詠んでいないように見える。しかし、芭蕉の句集を調べてみると、いくつかの句を道中で詠んでいる事が推定されるが、その点は後で詳しく触れる。

 また福井―敦賀間で一泊したようには「奥の細道」では表現されていないが、この長い道のりを一日で踏破したとは思われない。険しい木の芽峠もあることだし、洞哉老人も一緒だ。先発した曽良も今庄で泊っている。おそらく芭蕉と洞哉老人も湯尾か今庄あたりで泊ったに違いない。しかも十四日の夕暮れ、敦賀に着いているのだから、逆算すると福井を発ったのは十三日の朝と断定せざるを得ない。

 芭蕉は名月(旧暦八月十五日)を敦賀で見ようと、福井を洞哉と共に出発した。洞哉は「私も道案内に連れて行ってください」と着物の裾をからげて、ひょうきんなジェスチャーで付いて来た。

 名月の見所問はん旅寝せん

 この句は芭蕉が福井で洞哉に与えたものである。石川銀栄子著「越前俳諧史誌」などによると詳しい考証が行われているが、いちいち出典を明らかにしていると繁雑になるので、先人の研究を利用させてもらった事を付記して、その紹介は省略する。

 福井を出て南へ行くに従い、白根が嶽(白山のこと)が次第に隠れて、比那が嵩(日野山)が近づいてくる。芭蕉は「あさむつの橋」を渡った後、「玉江の蘆」があるように記憶違いをしているが、順序は逆であり、「玉江の蘆」から「あさむつの橋」に出るのが正しい。

     月見せよ 玉江の蘆を 刈らぬ先

 

   十五、玉江、あさむつ、日野山

 芭蕉は玉江の蘆を見てこう詠んだ。現在の福井市花堂、江守、江端にかけての一帯を昔から「玉江」と呼んでいた。

 このあたりは江端川が曲がりくねっていて排水が悪かった為、平安時代から蘆の名所であった。摂津(大阪府)にも玉江という地名があり、玉江の蘆を詠んだ和歌が多い。

     あさむつや 月見の旅の 明ばなれ

 芭蕉の「泊船集」などに収められている句で、これは「あさむつの橋」を詠んだものと考えてよかろう。「あさむつの橋」は随分古くから知られていた。平安時代の歌謡集、催馬楽(さいばら)にもすでに出ているが、最も有名なのは清少納言の「枕草子」の一節である。

 「橋はあさむつ、長柄の橋、あまびこの橋・・」と全国的に有名な橋の名を並べているが、そのトップに挙げている。麻生津、浅水などの地名も「あさむつ」から出ている。

 「太平記」には新田義貞の愛人勾当内侍が、義貞の身を心配して、この橋までやって来た所、義貞がすでに戦死したことを聞き、その場に泣き崩れたと書かれている。芭蕉はこれらの話を知っていて、この句を詠んだものと思われる。「明ばなれ」とあることから朝早くあさむつ橋を通ったらしい。

   あすの月 雨占なはん ひなが嶽

 日野山は越前富士の別名がある程に、姿の美しい山である。小健山、日永岳、雛ヶ岳などとも書かれている。比奈我他気と訓を付けられているので「ひながたけ」と発音するようだ。日野山で、明日の天候を占うと芭蕉が詠んでいる所を見ると、山に雲がかかっていたのだろうか。この日、曽良はすでに彦根の近くの鳥居本を発って、夜は関ケ原に泊まっているが、同日の天候を「雨降り、夕方やむ」と書いているので、武生方面も曇っていたのかも知れない。

 芭蕉は武生については全く触れていないが、武生は当時府中と呼ばれていた。昔、越前の国府であったが、中央集権制度が崩壊してからは、全国の国府が「府中」と呼び慣わされていたのと同様、越前の国府鎌倉時代からすでに府中と書かれていた。

 明治二年(1869)二月から府中を武生と改めた。改めたというより、昔の名称に戻ったと云った方が良いかも知れない。平安時代催馬楽に「武生(たけふ)の国府」という一節があるからだ。しかし「武生」と書いて「たけふ」と発音するのはここだけで、同じ福井県でも嶺南の上中町(旧野木村)にある武生は「むしゅう」と読んでいる。

 

   十六、湯尾峠

 「奥の細道」に「鶯の関をこえて・・」とあるが、今はもう人々から忘れられている。鶯の関という風雅な名の関所は、いったい何処に在ったのだろうか。北陸線の南条駅から旧北陸街道を南へ七、八百メートル行くと、関ヶ鼻という部落に着く。現在は南条町(2005年に今庄町・河野村と合併して南越前町が発足)に属するが、昔は南杣山村の一部落であった。この関ヶ鼻の北約三百メートルには下関という地名もあるので、関所に関係があった事がわかる。関ヶ鼻は「関ケ原」か「関の端」から変わった地名であろう。

  鶯の鳴きつる声にしきられて、行もやられぬ関の原かな  源仲正

 との歌から「鶯の関」の名が付けられたと伝えられている。芭蕉の通ったころは、すでに関所はなくなっていたのに違いないが、「鶯の関」の名は土地の人々もよく知っていたのだろう。国道八号線が武生から海岸線へ出て敦賀へ走り、高速道路も出来たので、「鶯の関」の話は益々忘れられるだろう。

  月に名を、包みかねてや、いもの神 

 この句は湯尾で芭蕉が詠んだものである。難しいので句の意味を解釈しておこう。「いも」は顔にある「あばた」で疱瘡(ほうそう)のこと。いもの神は疱瘡を流行させる神である。明るい月の光に痘神もその正体を現し、退散するだろう、と云う意味である。

 現在、湯尾トンネルが通っている山の上に湯尾峠があり、昔は必ず通らねばならなかった難所の一つである。峠には明治天皇が明治十一年(1878)北陸巡幸の際に、休息された事を示す記念碑が建っている。湯尾峠には昔、四軒の茶屋があり「孫嫡子」と云う疱瘡の御守を売っていたそうだが、いまは跡形もない。芭蕉が峠の茶屋で一服した時は、もう月が東に昇りかけていた頃に違いない。

 湯尾峠を越えると程なく今庄。先発の曾良は今庄で泊っているので、芭蕉も今庄で泊ったはずだと私は推定していた。ところが先日、今庄町今庄の後藤時次郎さん(72歳)から電話がかかってきた。「芭蕉翁が今庄で泊ったという手紙らしいものが有るので、一度見に来てほしい」と云う。私はびっくりして、早速に今庄へ出かけた。

 後藤さんの家は旧家で、古い書画類が土蔵いっぱいに陳列されており、これまでにも文化庁の財津調査官をはじめ、俳人加藤楸邨氏(1905〜1993)、石川銀栄子氏、元福井市郷土歴史館長の松平永芳氏(1915 ―2005)ら学者や研究者が多く訪れている。

 同家に伝わる芭蕉七部集の一つ「炭俵」の筆写本は、かつて新聞で報道された事があり、これが原本ではないかと推定されている。それらの夥しい文化財の事はスペースがないので割愛する。私が急いで見せてもらいたいと思ったのは、芭蕉が今庄で泊った事を示す証拠資料出会った。

 

   十七、燧ケ城

 後藤時次郎さんから見せられたのは次のような資料である。欠落した部分があって読みにくいが、判読した処こんな内容であった。

 「ころは菊月初の節、今庄なる西尾う□、饗応にて二三輩、一瓢をたすさへ燧ケ城、に登りしは誠に眼□あかす山々峰々に、竹木錦をかさね□、□清きなかれを□、裾をめ□其なかめ、云ふもさ□りむかし、新田殿の槃栄を、おしはかり即興を、侍るもおかし

          俤を、照らす錦や、秋の風」

 後藤さんの説明によると、西尾茂左衛門という家は、今庄で代々問屋をしていた素封家で、後藤さんとは親類になるが、かつて西尾家から譲られた物の中に、この手紙があったので、大切に保存していたとのこt。「はせを」の文字がないけれども、芭蕉が今庄の西尾家で一泊し、燧ケ城へ登った時のメモではなかろうかーと信じている。

 文化庁の財津調査官や、加藤楸邨氏、石川銀栄子氏にも見てもらった事がある。「菊月」は旧暦九月のことで、芭蕉がやって来たのは八月だから、時期が合わない点については「菊月初の節」と書いてあるから、「菊月の前の節」つまり八月と解釈できないか・・と後藤さんは云う。

 私は即答を避けたが、調べてみても、どうもこれは芭蕉のものではないと考えている。第一、芭蕉の筆跡とは違うようだし、その上内容が時期的に食い違っている。「菊月初の節」とは九月上旬の節、つまり「九月九日の重陽の節」の事と解釈すべきであろう。だから山へ登った時、山や峰が紅葉していたわけだ。

 芭蕉が訪れた時、とても燧ケ城へ登る暇はなかったはずだが、仮にかけ足で登ったとしても、やまやはまだ紅葉の時期ではない。その上、燧ケ城は源平合戦の古戦場であって、新田義貞の古戦場ではない。もちろん義貞の南北朝のころも、燧ケ城が戦略拠点となったが、足利軍によって占領されていた。

 芭蕉はこの歴史的事実をよく知っており次の句を詠んでいる。

 義仲の、寝覚の山か、月悲し

 右の句は「奥の細道」には書かれていないが「泊船集」「蕉翁句集」「芭蕉翁月一夜十五句」「菅菰抄附録」「昼寝の種」などに収められており、「燧ケ城」と名前が付けてあるので、今庄で泊った時に詠んだものに違いない。

 以上のような見解で、せっかく後藤さ時次郎さんの厚意だったが、この資料は芭蕉のものだ、と云うわけにはいかない。誰か別の俳人が今庄の西尾家に泊まって、燧ケ城に登った時のメモではなかろうか。しかし、芭蕉が今庄で一泊したことは確かであろうし、ひょっとすると、西尾家で泊った可能性がないでもない。芭蕉の手紙や筆跡については、項を改めて紹介したい。

 

   十八、帰山と中山

 今庄あたりから敦賀までは、たとえ木の芽峠を越えるにしても、一日あれば充分である。芭蕉と洞哉は八月十四日の朝、比較的ゆっくりと出発したとみてよい。

 今庄からまず、かへる山へ向かう。正確には鹿蒜という難しい字を書く。明治二十二年(1889)四月一日、全国に市町村制が実施され、福井県内に一市九町百六十八村が生まれた。そのとき南条郡内の十二村の一つとして誕生したのが鹿蒜村である。鹿蒜村は昭和二十六年(1951)四月一日、今庄村に合併されてしまったが、旧鹿蒜村には帰という字は違うが、発音のよく似ている部落がある。また、その近くには鹿蒜山又は帰山とも書く山がある。

 帰山(または鹿蒜山)は平安時代から知られた名所である。「帰る」という意味を掛けて、昔から歌によく詠まれた為、全国的に有名である。芭蕉もこの帰山を横に見て、木の芽峠への道を辿ったことであろう。

    中山や、越路も月は、また命

 芭蕉はこのあたりで、この句を作ったという。「芭蕉翁一夜十五句」(仮称荊口句帳)の中に含まれており、この中に収録されている芭蕉の十五句は、いずれも芭蕉が洞哉と会った後、敦賀に出るまでの作品であり、しかもほとんど「月」を詠んだものばかりである。従って右の句も当然、中山での吟という事になる。

 ところが、帰の近くには山名という地名はあるが、中山というのはなさそうだ。昔の北陸線に山中信号所があった。山中という部落もあった。北陸トンネルが開通してから過疎が進み、山中はほとんど無人に近いほど荒れ果ててしまった。おそらく芭蕉が「中山」と詠んだ地名は、「山中」の記憶違いではなかろうか。

 山中峠という峠がある。今庄から山中峠を経て五幡(いつはた)に出て敦賀に出る道もある。紫式部が父と共に越前の国府(武生)へ来る時、友達から贈られた歌がある。「ゆき巡り、誰もみやこに、かへる道、いつはたときく、ほどの遥けさ」この歌の中には「帰」「五幡」の地名が巧みに詠み込まれている。平安時代から「帰、五幡」が都まで有名であったと同時に、山中越えの道路があった事が推測される。

 しかし、芭蕉らは山中峠越えで五幡への道を辿らず、木の芽峠を越して敦賀へ出たものと私は推定している。敦賀には十四日夕刻に着いた。

 福井を出て敦賀までの道中「奥の細道」の本文中には一句も載せていないが、これまで紹介したように芭蕉は幾つもの句を残している。これは昭和三十四年(1959)、大垣市で発見されて大垣市立図書館に寄贈された新資料「芭蕉翁一夜十五句」(仮称・荊口句帳)の中に収録されているものだ。誠に貴重な発見と謂わざる得ない。(「芭蕉翁一夜十五句」については文末に掲載)

 

   十九、敦賀の宿

 「その夜、月殊に晴れたり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜

の陰晴はかりがたしと。あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す」(「奥の細道」)

 八月十四日の夕刻、芭蕉と洞哉は敦賀の港に到着、先ずは宿屋に入った。この宿屋が何処であったか、芭蕉は何も書いていない。

 だが、曽良の「随行日記」を見ると、敦賀で泊った可能性のあるのは、大和や久太夫、出雲屋弥市良、天屋五良右衛門の三ヵ所しか考えられない。

すなわち「随行日記」によると、八月九日の夕刻、敦賀へ着いた曽良は、先ず気比明神へ参詣した後、唐人橋の旅館・大和や久太夫の処で旅装を解き、食事のあと金ケ崎へ行き、再び旅館へ戻って、よる遅く色ヶ浜へ渡って本隆寺敦賀市色浜31-33)で泊っている。

 翌十日は色ヶ浜から敦賀へ帰って出雲屋弥市良を訪ね、芭蕉が来たら渡してほしい、と金子一両を預けている。この夜も大和や久太夫の処で泊っている。

 翌十一日は天屋五良右衛門を訪ねたが、不在だったので、芭蕉宛の手紙を預けて、木ノ本へ向けて出発している。

 石川銀栄子氏は「越前俳諧史誌」(昭和四十六年刊)の中で、芭蕉の泊った家は「出雲屋弥市良」であると断定しておられる。それには、曽良芭蕉のために出雲屋へ金子一両を預けておいたからであろうが、もう一つの裏付資料を紹介しよう。

 「芭蕉の旅宿については、現在敦賀市の辻野長太郎所蔵の翁宿句帖の追記(平井波丈認む)に翁宿被致候者唐人橋町出雲屋弥市良富士屋治兵衛両家相もちに致居られ縁家なり、後にいつもや中絶して今のふじやにて年忌も被勤候とある」(芭蕉辞典、飯野哲二編・昭和三十四年刊)

 さらに「越前俳諧史誌」にも出雲屋は安永八年(1779)までに絶えたので、富士屋が出雲屋のあとも併せて継いだらしい事を書いてある。

 これらを総合すると、唐人橋町には出雲屋と富士屋の二軒が並んで建っていたらしく、芭蕉をこの二軒で世話したようだ。のち出雲屋が廃業した為、富士屋で芭蕉の年忌を行なっていたらしい事が推定され、芭蕉敦賀での旅屋は出雲屋弥市良方であった事は、ほぼ間違いなさそうだ。曽良が泊った大和や久太夫も「唐人橋」と、「随行日記」には書かれているので、当時この辺りは宿屋が多かったのだろう。

 さて、「唐人橋」とは敦賀のどの辺りだろうか。敦賀市津内に住む古老・市橋新太郎氏(86歳)に聞いたところ「唐人橋と云われた所は現在の相生町地籍にあり、以前は清明という地名だった。しかし、旅館の多かったのは、昔、富貴と呼ぶ、清明の隣の地域だった」とのこと。

 なお、辻野長太郎という人物はすでに亡くなっており、「翁宿句帖」が現在、誰の手に渡っているのか、わからない。

 

   二十、気比の明神

 出雲屋に落ち着いた芭蕉と洞哉は、さっそく入浴をして早めの夕食をとったものと思う。地酒も出た。今宵は八月十四日。天気も良く美しい小望月(こもちづき)は、すでに東の山から顔を出した。芭蕉は遥々と敦賀まで月見に来たことを喜んでいた。

 「あすの名月はさぞかし美しいでしょうな」

 と芭蕉が尋ねると、宿の亭主は

 「明日のことはわかりません。今夜のうちに、お月見をしておかれた方が良いでしょう」

との返事。洞哉も同じ意見であった。芭蕉は夕食後、気比明神へ月見に出かける事にした。気比神宮は昔、気比明神とも云われていた。宿屋から気比明神までは歩いて10分とはかからない。

 「仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂、霜を敷るがごとし」(「奥の細道」)

 気比神宮には有名な朱塗りの大鳥居が現在もある。この大鳥居は正保二年(1645)に佐渡から流れて来たという榁(むろ)の巨木で造られた高さ十一メートル、柱間七メートル余の立派なもので、重要文化財に指定されている。芭蕉が来た元禄二年(1689)には、すでに此の大鳥居は建っていたはずである。

 この外の社殿は、ほとんど昭和二十年(1945)七月十二日の大空襲で焼失しているので、芭蕉当時のものはない。しかし老松は数百年を経たものがあり、芭蕉のころを知っているはずである。

 敦賀は大昔、笥飯浦(けいのうら)と呼ばれていた。日本書紀によると、第十四代仲哀天皇が皇后(神功皇后)と共に、ここに笥飯宮(けいのみや)を造られたという記録があるので、随分と古くから港として栄えていた事が推測される。

 延喜式(えんぎしき)という平安時代に編纂された書物にも、気比神宮が載っている。延喜式の中に記録されている全国の三千あまりの神社は「式内社」と呼ばれ、その由来の古さを誇っているが、気比神宮はこの中でも格式が上位の方で、「越前一の宮」として尊称されている。

 主神は伊奢沙別命(いささわけのみこと)で、御気津大神(みけつのおおかみ)とも云われ、最も古い時代からの食物の神である。このほか仲哀天皇神功皇后が本殿に祀られている。さらに別殿には日本武尊。玉妃命、武内宿祢が祀られ、合計七柱の神が合祀され、「延喜式」でも大七座(重要な七神社という意味)として数えられている。

 芭蕉が「おまえの白砂、霜を敷けるがごとし」と書いているように、社殿の前には白砂が一杯に敷かれていたようである。

 

   二十一、お砂持ち

 気比明神の白砂を見て芭蕉が感嘆していると、道案内をして来た宿屋の主人は、「ここには昔から、お砂持ちという行事がございます」と次のような話をしてくれた。

 時宗(じしゅう)というのは一遍上人によって開かれた宗派だが、この宗教は念仏を唱えながら、各地を遊行するので遊行宗とも云われている。じの第二代目真教(しんぎょう)上人は、遊行上人または他阿上人とも呼ばれたが、この上人が全国行脚中に、敦賀の西方寺(敦賀市松島町2丁目5-25)に泊まっていた。

 その頃、気比神宮の西門と西方寺との間が泥沼で参詣者が困っていた。このことを知った上人は、信徒と共に海岸から砂を運んで、立派な道路をつくった。この道を三丁畷(さんちょうなわて)と云い、今の大鳥居の往来だと言う。他阿上人の労力奉仕が縁で時宗の信者が増え、それまで真言宗だった西方寺も、時宗遊行派に改宗したとのこと。又時宗でも他阿上人の奉仕活動を手本にして、今もなお、管長が交替する時は必ず気比神宮の前で、お砂持ちの行事を行うことになっており、最近では、平成17年(2005年)5月15日に「遊行の砂持ち」が11年ぶりに行われた。

 福井県史によると、遊行上人(真教)が気比神宮前の道路改修をしたのは、鎌倉時代の正安三年(1301)と翌年の二回に分けてであった。また当時の奉仕作業を示す絵巻(他阿縁起、金蓮寺絵巻も福井県史に収められている。(文末に附録あり)

 芭蕉は、このことを「奥の細道」で、次のように書いている。

  「往昔(そのかみ)、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈り、土石を荷ひ、泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例、今にたえず。神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持(すなもち)と申し侍ると、亭主かたりける。

    月清し、遊行のもてる、砂の上」

 芭蕉が気比明神で詠んだと言われる「月清し、遊行のもてる、砂の上」の句に対して、同じ芭蕉の作として、次の二種類の句がある。

 「月清し、遊行のもてる、砂の露」

 「なみたしくや、遊行のもてる、砂の露」

 前の句は、「其袋」(そのふくろ)と題する嵐雪(芭蕉の弟子)編の俳諧撰集に入っている芭蕉の句であり、おそらく「砂の露」が初案であったのを、後に芭蕉自身が「砂の上」と改めたらしい。また後の句「なみたくしや」は現在、敦賀市の某氏が秘蔵している、芭蕉直筆と伝える短冊に書かれている。

 西方寺(藤沢山、時宗)は現在敦賀市松島にあるが、昔は気比神宮の近くにあり、気比神宮の正面に向って本堂が建っていたが、明治八年(1875)に小学校を建てる為に神楽町に移したと「敦賀名所記」に書いてある。戦災後また現在の地の松島へ移った。

 なお「福井県史」に載っている「金蓮寺絵巻」が、現在も金蓮寺(こんれんじ、時宗越前市元町2-16)にあるのかと聞いてみたところ、火災のため焼失してしまった、とのこと。

 

   二十二、雨の名月

 「十五日、亭主の詞にたがはず、雨降(ふる)。

  名月や北国日和定めなき」(「奥の細道」)

 芭蕉敦賀の名月を雨で見損ない「名月や北国日和定めなき」と詠んだことは古来有名だが、この他いくつかの「無月の句」を残している。

 「月のみか、雨に相撲も、なかりけり」

 この句は「昼寝の種」に収められている。「昼寝の種」は元禄七年(1649、芭蕉の没年)に荷兮が編集した俳諧撰集で、秋の句ばかりが集められており、芭蕉の越路の五句も入っている。このほか「泊舶集」「芭蕉句集」「芭蕉翁月一夜十五句」「菅菰抄附録」にも同じ句が載っている。

 ところが「菅菰抄附録」(簑笠庵梨一著)にだけは、「近江国長浜にて、此時勧進相撲有けるよし」という前書がついているので、芭蕉が長浜で詠んだ句ではないかという人が多かった。しかし、戦後発見された「芭蕉翁月一夜十五句」の中に、この句が入っており、「浜」という前書が付いているので、敦賀の浜で詠まれたのに違いなさそうである。

  「月いづこ鐘はしづみて海の底」

 右の句も「草庵集」にあり「中秋の日敦賀に止宿す、雨ふりければ」と前書がある。また

芭蕉翁月一夜十五句」の前書にも「中秋の夜は敦賀にとまりぬ。雨降ねれば」とあるから間違いない。ただこの句には書物によって若干の違いがあるので、参考の為に列挙する。

   「月いづこ鐘は沈める海の面」(大和紀行)

  「月いづこ鐘は沈める海の底」(白鳥集)

  「月いづこ鐘はしづめる海の底」(四幅対)

  「月いづこ鐘はしづみて海の底」(草庵集)

 南北朝のころ、新田義貞金ヶ崎城に拠って足利軍と戦い、武運つたなく落城した時、陣鐘が金ヶ崎の海に沈んでしまった、という伝説がある。おそらく芭蕉は、この故事を詠んだ句であろうと言われている。

 このほか芭蕉敦賀の港で詠んだと思われる句が二つある。

      気比の海

  「国ぐにの八景更に気比の月」

      みなと

  「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」

 前の句は別の資料によると「国ぐにや八景さらに気比の月」となっているが、あとの句は昭和三十四年(1959)になって発見された「芭蕉翁月一夜十五句」の中に初めて出て来たもので、貴重な資料である。

 

   二十三、色の浜へ

 八月十六日は快晴になった。芭蕉はどうしても、色の浜まで行かねばならなかった。先行した曽良芭蕉の意を承けて、色の浜へ九日の夜半に着き、本隆寺敦賀市色浜31-33)で泊っている。なぜ芭蕉が色の浜に行く決心をしたか、その理由は明らかだ。尊敬する西行法師がここを訪れて、「しほそむる、ますほの小貝、ひろふとて、色の浜とは、いふにやあらむ」(山家集)と詠んでいるからであった。まず「奥の細道」の原文から紹介しよう。

 「十六日、空霽(はれ)たれば、ますほの小貝ひろはんと、種(いろ)の浜に舟を走(は)す。海上七里あり。天屋何某と云もの、破篭(わりご)・小竹筒など、こまやかにしたゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて、追風(おひかぜ)時のまに吹着(ふきつき)ぬ。浜はわづかなる海士(あま)の小家にて、侘(わび)しき法花寺(ほつけでら)あり。爰(ここ)に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのわびしさ感に堪(たへ)たり。

  寂しさや須磨にかちたる濱の秋

  波の間や小貝にまじる萩の塵

其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す」

 「種(いろ)の浜」は「色の浜」のことである。「種の浜」「色の浜」などとも書くが、色の浜が正しいと云う。芭蕉は「海上七里」と書いているが、曽良随行日記には「海上四里」とある。しかし直線距離で二里ほどしかない。初めての旅では一般に遠く感ずるものだ。「天屋(てんや)何某」という人物は、曽良が手紙を預けておいた天屋五良右衛門のことである。

 「天屋」は「点屋」とも書かれた記録があるので「てんや」と読むのが正しい。敦賀で廻船問屋をしていた豪商の家である。いまは「天屋」という家は無いそうだが、詳しい考証は石川銀栄子氏著「越前俳諧史誌」に譲る。

 「破篭」(わりご)は一種の弁当箱で、白木で折箱のように造り、内部に仕切りを作って被せた蓋を付けたもの。「小竹筒」(ささえ)は「広辞苑」によると「小筒、竹筒(ささえ)酒を入れて携帯する竹筒。竹小筒(たけささえ)」と書いてあるが、奥の細道には文字が逆に「小竹筒」と書いてある。

 芭蕉が色の浜を訪れたのは、三百三十年あまり前の元禄二年(1689)だから、舟で行かなければ行けない陸の孤島であった。現在では敦賀半島の突端近くに原子力発電所ができて、自動車で一時間もかからない内に着いてしまう。しかし、これでは余りにも便利になりすぎて趣きがない。

 

   二十四、本隆寺縁起

 私が初めて色の浜へ、芭蕉の足跡を訪ねに行った昭和二十五年(1950)ころも、ここはまだ陸の孤島と言われるほど便利の悪い所であった。当時、自動車道は沓(くつ)までしかなく、沓から海岸沿いの峠を三つ(約一里)越さねば色の浜へは行けない。その間は坂が急で、自転車にも乗れず、オートバイでなければ歩くより他に方法がなかった。だから私は漁船を借りて色の浜へ渡った。二時間近くかかったような気がする。

 本隆寺はもと金泉寺といって、曹洞宗の永厳寺(ようごんじ・敦賀市金ケ崎町15-21)の末寺であったようだ。応永三十三年(1426)の八月、尼ヶ崎本興寺兵庫県尼崎市開明町3-13)の日隆上人(1385―1464)が、生国越中からの帰途、南条郡河野浦から舟で敦賀へ入ろうとした時、暴風のため色の浜へ吹きつけられてしまった。当時、色の浜には疫病が流行して住民が苦しんでいたと言う。このとき日隆上人が海岸に座って祈ったところ、奇蹟が起こって疫病が収まった。

 村人たちは喜んで日隆上人に帰依し、金泉寺本隆寺と改めて日蓮宗に改宗したと云う。日隆上人は本隆寺の開基となり、当時、金泉寺の住職であった義承和尚も、日蓮宗に転宗して本隆寺の二世になったそうだ。色の浜の住民も現在でも日蓮宗を信じていると言う。(昭和55年時点)

 本隆寺には現在、洞哉自筆の書が掛け軸に表装して秘蔵されている。

 「気比の海のけしきにめて、いろの浜の色に移りて、ますほの小貝とよみ侍しは、西上人の形見成けらし、されは、所の小わらいまてその名を伝へて汐のまをあさり、風雅の人の心をなくさむ、下官年頃思ひ渡りにし、此たひ武江芭蕉桃青巡国の序、このはまにまうて侍る、同じ舟にさそはれて小貝を拾ひ袂につつみ、盃にうち入なんとしては彼上人のむかしをもてはやす事になむ

                越前ふくゐ洞哉書

                     桃青

  小萩ちれますほの小貝小盃

   元禄二仲秋

 洞哉直筆のこの書は、長らく本隆寺を離れて転々としていたが、戦後、所有者の敦賀市に住む林家から本隆寺へ寄贈された。

 この中に出て来る芭蕉の句「小萩ちれますほの小貝小盃」は「奥の細道」には出てこない。奥の細道にある「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」「浪の間や小貝にまじる萩の塵」のほか、芭蕉は次の句を残している。

 「衣着て小貝拾はんいろの月」

 この句は「芭蕉翁月一夜十五句」の中に「種の浜」と前書して載っている。

 

   二十五、ますほの小貝

 敦賀半島の色の浜付近には「ますほの小貝」が今でも多く捕れる。海岸に出て見ると、砂の大きさと同じようなピンク色の美しい小貝を見つける事が出来る。

 「広辞苑」には「ますお」の項に「真赭、ますほ、ますを、まそほに同じ」と書いてあり、「まさほ」の処には「赤い土、赤い色、薄(すすき)の穂」などの注がある。つまり「ますほの小貝」は赤い色をした貝の意味であろう。学名は「千鳥ますほ貝」と云うのだそうだ。二枚貝で非常に小さく、長さ2―3ミリ、厚さ2ミリ程度。色の浜が有名ではあるが、福井県下では三国、高鷲、和田の海岸にもあり、日本海側では貝殻の最も美しい種類の一つに数えられている。

 「ますほの小貝」は「貝合わせ」という遊びによく使われた。貝合わせと云うのは左右二組に分れて、いろいろ珍しい貝を出し合わせ、それに歌を詠み寄せて、優劣を競う遊戯を言うので、平安時代の「堤中納言物語」「山家集」などの物語や歌集にも見えている。三十六番貝合わせの第三番目に「ますほ貝」が使われたらしく、「ますほ貝」は三種類あるが、、ここには越前、色の浜の「ますほ貝」を使ったことが「越前国名蹟考」に書いてある。

 芭蕉、洞哉らは八月十六日の夜、色の浜の本隆寺で泊り、翌十七日に敦賀へ戻ったようだ。敦賀へはすでに弟子の露通(路通と書かれた資料も多い)が美濃国から出迎えに来ていた。もちろん福井から同行して来た洞哉は、敦賀で路通にバトンタッチして福井へ帰ったものと思われる。(敦賀での行状については文末に『福井県史』の抄文を掲載)

 「露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて、大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合(あひ)、越人(ゑつじん)も馬をとばせて、如行(じよかう)が家に入集(いりあつま)る。前川子(ぜんせんし)・荊口(けいこう)父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて

  蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」

 

 「奥の細道」は以上で終わっている。芭蕉の大旅行の最終コースが福井県であった事は、福井で生まれた私にとっては、何かの因縁と思い、その旅程、俳句、訪れた人々を、でき得る限り詳しく調べたつもりである。今後、多くの研究家によって新しい資料が発見され、旧来の誤りが訂正されることを期待したい。

 なお、「奥の細道」の原本が敦賀市新道野の旧家西村氏に保存され。敦賀市の指定文化財(昭和三十一年四月一日指定)になっている事を紹介しておきたい。この書物は昭和九年(1934)に発見され、その後、芭蕉研究家や学者によって、原本である事が確認されたものである。

 

   二十六、芭蕉の手紙と越前

 芭蕉の手紙には偽物がきわめて多い。現在、直筆と確認視されているものは、全国で二百数十通に過ぎない。多少疑わしいものを加えても、合計三百数十通といわれる。

 芭蕉の直筆は、弟子たちや崇拝者に尊重され、芭蕉の存命中から大事にされてきた。その没後は、芭蕉への限りなき思慕から、手紙の様式や書体を模写する傾向が増えてきたのは当然である。これが偽作の始まりだが、そのあたりまでは、まだ悪意はない。

 しかし次第に歳月が過ぎてくると、意識的に偽物を作る人たちが現れてくる。その最たる者は松岡大蟻の「翁反古」(おきなほご)と称する芭蕉のニセ書翰集である。これは天明三年(1783)に刊行されたもので、すべて偽物と断定されている。

 というのは、この書(翁反古)は芭蕉美濃国岐阜県)に滞在中の一年間に、同じ場所からいろんな知人に宛てた手紙類だが、芭蕉は時々に美濃へは出かけたものの、一年間も定住した事実はないので、からくりがわかってしまった。その上、元禄二年(1689)に、芭蕉が弟子の其角と江戸で会う事になっている手紙があるが、このとき芭蕉は「奥の細道」の旅行中であった。二人は決して江戸では会えないはずだ。このような矛盾が「翁反古」から発見され、偽書だと断定されるに至った。

 勝峰晋風編『芭蕉書翰集』(「岩波文庫」昭和九年初版)によると、芭蕉の書翰が全部、年代別に編集されていて興味深い。勝峰晋風(1887―1954)氏は有数の芭蕉研究者であり、素人の私にとっては同書の内容を、そのまま紹介する方が無難のようだ。この書物は昭和の初めころ、編者が自ら調査研究した結果、三百三十一通(うち確実性のあるもの二百六十四通、仮作三通、疑いのあるもの六十四通)に上る芭蕉の手紙を編集したもので、さきに紹介した偽書「翁反古」からは一通も採用していないので、極めて権威のあるものと言ってよい。

 『芭蕉書翰集』の中には、越前に関係するものが数通含まれているので、解説を加えながら紹介しよう。

 まず最初に、金沢の立花北枝に宛てた元禄二年(1689)十月十三日の手紙の一節である。

  • 松岡茶店にての句、物書て扇引さく別哉と直し申候」とあるのがおもしろい。芭蕉は「奥の細道」の原文では、松岡で北枝と別れるとき「物書て扇引さく余波哉」と詠んだことになっているが、あとで「余波哉」(なごりかな)を「別哉」(わかれかな)と訂正した事を知らせている事だ。

 このほかに松岡の茶店で別れたことも、この手紙によって推測される。松岡の「立花の茶屋」で別れたと土地の人が伝えているが、果たしてこの茶店が、どの辺りにあったのだろうか。『松岡町史』によると、上(かみ)の駅は「上門屋」(かみかどや)と云われ、椚(くぬぎ・五松橋手前左側一帯)にあったと書かれているので、あるいはこの辺りだったのではあるまいか。

 

   二十七、芭蕉の直筆

 これも元禄二年(1689)に書かれた芭蕉の「意水」宛ての手紙だが、その中で芭蕉は極めて大きな記憶違いをしている事がわかる。

 「(前文略)さてハ越前三国にていたし候は句

  小萩ちれますほの小貝小さ

  かつき

  同国禅閣に泊りて

  庭はきて帰らん寺の柳かな

  此両句致候。いかが御座候。(以下略)」

 まず「小萩ちれ・・」の句は、敦賀半島の色の浜にある日蓮宗本隆寺で詠んだものだ。この点はすでに紹介したように、洞哉とともに、色の浜へ出かけた時、ますほの小貝を見て詠んだものであり、洞哉自筆の書に収められている。にもかかわらず、芭蕉はこれを越前の三国で詠んだと錯覚している。芭蕉は三国を通った事がないのに、どうしてこのような勘違いをしたのか。

 また「同国」(越前)の禅閣に泊りて」と云っているが、これは加賀国大聖寺の全昌寺に泊った時の句である。芭蕉は「奥の細道」の中で「庭掃て出ばや寺に散柳」と詠んでいるが、「意水」宛ての手紙では「庭はきて帰らん寺の柳かな」になっており、かなり用語が違っている。

 以上の手紙は活字に印刷されているもので、私は原本が何処にあるのか知らない。しかし昭和五十四年(1979)出版された「俳人の書画美術(2)芭蕉」(井本農一著、集英社)によると、福井県内に現存する芭蕉の自筆の短冊が二枚も収録されているので、参考のために紹介しよう。

 一枚は次のように書いてある。

 「仲秋の夜ハ敦賀に泊て雨降けれハ

  月いくつ鐘は沈る海のそこ  

              かせを」

 この短冊は敦賀市常宮神社(敦賀市常宮13-11)に秘蔵されているという。おそらく敦賀で書いて誰かに与えたものが、転々として現在、常宮神社に保存されているものだろう。

 もう一枚は

 「気比のみや

 なみたしくや遊行のもてる砂の露

             はせを」

 と書いてある。これは所有者の名を明らかにしていないが、敦賀の気比明神に参詣した時の句である。すでに紹介したように「奥の細道」には「月清し遊行のもてる砂の上」となっている。初案が「なみたしくや遊行のもてる砂の露」であったのが、次に「月清し遊行のもてる砂の露」となり、最後に「月清し遊行のもてる砂の上」になったと考えられる。

 

これは青園謙三郎著『天龍寺芭蕉』前半部の論考をワード化したものであるが、刊行年が昭和55年(1980)である為に、聊か引用著が時代に合わない感じもするが、原文のままにタイピングした。なお多少の修訂を施した事を記す。

文末にはインターネットで取集した芭蕉に関する情報を附した。

 

      敦賀での芭蕉資料1)

 十四日は今庄宿をたち、新道から二ツ屋を通り木ノ芽峠越である。『奥の細道随行日記』から想像すると、芭蕉もまた曽良と同じ道をたどったと思われる。北陸道を右に折れ、日野川の支流鹿蒜川をさかのぼり、帰村・新道村を過ぎ、道を左手に折れ支流沿いの山道を二ツ屋村に向かって登ると木ノ芽峠に着く。峠を越え、新保・葉原・樫曲・谷口村を過ぎ舞崎まで来ると敦賀の町は目と鼻の先である。敦賀ではすでに曽良が宿を用意してくれていた。曽良は大和屋久兵衛宅に泊ったが、その隣家の出雲屋弥一郎に金子一両を預け置き芭蕉へ渡してくれるように依頼している。唐仁橋町の出雲屋に着いたのは夕暮れ時であった。

 その夜は月がこうこうと照りわたり、明日の夜もこれだけ晴れわたってくれたらと思うほどの月夜であった。宿の主人に酒を勧められて体が少し暖まったところで、芭蕉等は気比社に参詣した。松の木の間から洩れ出た月の光で、神前の白砂はまるで霜が降りたかのようである。ここで一遍(遊行上人)の高弟他阿上人の故事に因んで、「月清し遊行のもてる砂の上」と詠んだ。芭蕉等は、あまりの月夜の美しさに誘われるかのように気比の松原まで足をのばした。ここでも一句、「ふるき名の角鹿や恋し秋の月」。翌十五日はあれほどまでに期待していたにもかかわらずあいにくの雨であった。この時に二句、「名月や北国日和定なき」「月のみか雨に相撲もなかりけり」。秋の夜長を宿の主人から金ケ崎の沈鐘伝説など敦賀の色々な伝説を聞いて慰めた。また一句、「月いづこ鐘はしづみて海の底」。

 十六日は幸い天気に恵まれ、潮時を待って芭蕉は、曽良が予約してくれた船で敦賀湾の西にある色浜に向かった。敦賀湊での名月は逃したが、敦賀での名所旧跡への手配は曽良が万事手抜かりなくやってくれていた。とくに敦賀の廻船問屋の天屋五郎右衛門(俳号玄流)には、置き手紙で芭蕉へのもてなしを頼んでいる。色浜へは西行も訪れたといわれており、薄紅色をした「ますほの小貝」は古来より有名であった。五郎右衛門の心尽くしで、酒やご馳走も用意され、本人自らが水先案内人となり、何人かの使用人も同伴させ色浜に赴いた。

 浜には海士の小さな家が数軒あるばかりであった。当浦にある日蓮宗本隆寺にはすでに宿泊を頼んである。酒茶を暖めて酒盛を始めたものの夕暮れ時のわびしさはひとしおである。しかし五郎右衛門・洞哉等と催した句会は芭蕉敦賀での思い出をより深めた。この時には二句が詠まれ、「寂しさや須磨にかちたる浜の秋」「浪の間や小貝にまじる萩の塵」。この日の出来事は、福井から同行してきた洞哉に書き記させてこの寺に残した。現在も本隆寺には直筆の書が残されており、その末尾に次のような句がある。「小萩ちれますほの小貝小盃」。翌十六日、芭蕉一行は常宮の社に立ち寄ってから町に戻った。芭蕉敦賀で出迎えていた八十村路通を伴い美濃国に向けて出発する。越前での滞在は七日間であった。

 

(『福井県史』通史編3近世一第五章宗教と文化 第三節学問と文芸 四芭蕉の足跡より転載)2022年 タイ国にて

 

    三 念仏系諸派の活動(資料2)

       時宗

諸国を広く遊行して時宗の布教に努めた開祖一遍智真は、弘安二年(一二七九)越前にも廻国したとされるが、越前の時宗寺院のほとんどが二祖真教(他阿弥陀仏)に帰依して開創したと伝えるように、越前における本格的な布教は、この他阿真教に始まる(一章七節三参照)。他阿真教は正応三年(一二九〇)夏に南条郡府中(武生市)の惣社に参篭し、十二月にも惣社よりの請に応じて社頭に歳末別時念仏を行ない近郷を化導した。翌四年十二月さらに翌五年秋にも惣社に参篭したため、ついに平泉寺衆徒の干渉を招き、その乱行によって加賀に移らざるをえなくなった。そののち正安三年(一三〇一)には敦賀に進出し、真言宗より改宗した西方寺に入って、ここより気比社に参篭したが、当時の気比社と西方寺との間には参詣の妨げとなっていた沼沢があったため、真教は気比神人・衆徒とともに、土砂を運んで参道を造成した(「一遍・他阿上人絵伝」)。これが歴代の遊行上人廻国時の「お砂持の神事」となって今日まで続いている。

 

福井県史』「第六章中世後期の宗教と文化・第二節 仏教各宗派の形成と動向」

からの転載。

 

原文「奥の細道」 (資料3) 

﹇ 金 沢 ﹈

卯の花山・くりからが谷をこえて、金沢は七月中の五日也。爰に大坂よりかよふ商人、何處と云者有。それが旅宿をともにす。一笑と云ものは、此道にすける名の、ほのく聞えて、世に知人も侍しに、去年の冬早世したりとて、其兄追善を催すに塚も動け我泣声は秋の風

    ある草庵にいざなはれて

「秋涼し手毎にむけや瓜茄子」

﹇ 小 松 ﹈

    途中吟

  「あかくと日は難面もあきの風」

    小松と云所にて

  「しほらしき名や小松吹萩すゝき」

此所太田の神社に詣。真盛が甲、錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士(ひらさぶらひ)のものにあらず。目庇(まびさし)より吹返しまで、菊から草のほりもの金(こがね)をちりばめ、龍頭(たつがしら)に鍬形打(くはがたうつ)たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁記にみえたり。

  「むざんやな甲(かぶと)の下のきりぎりす」

﹇ 那 谷 ﹈

山中の温泉に行ほど、白根が嶽跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふとや。那智・谷汲の二字をわかち侍しとぞ。奇石さまくに古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。

  「石山の石より白し秋の風」

﹇ 山 中 ﹈

温泉に浴す。其功有馬に次と云。山中や菊はたおらぬ湯の匂(にほひ)あるじとする物は久米之助とて、いまだ小童也。かれが父、誹諧を好み、洛の貞室、若輩のむかし、爰に来りし比(ころ)、風雅に辱しめられて、洛に帰て貞徳の門人となつて、世にしらる。功名の後、此一村、判詞の料を請ずと云。今更むかし語とはなりぬ。

曾良は腹を病て、伊勢の国長嶋と云所にゆかりあれば、先立て行に、

  「行くてたふれ伏とも萩の原」   曾良

と書置たり。行ものゝ悲しみ、残ものゝうらみ、隻鳧(せきふ)のわかれて雲にまよふがごとし。予も又

  「今日よりや書付消さん笠の露」

﹇ 大聖寺 ﹈

大聖持の城外、全昌寺といふ寺にとまる。猶、加賀の地也。曾良も前の夜此寺に泊て、

  「終宵(よもすがら)秋風聞やうらの山」

と残す。一夜の隔、千里に同じ。吾も秋風を聞て衆寮に臥ば、明ぼのゝ空近う、読経声すむまゝに、鐘板鳴て、食堂に入。けふは越前の国へと心早卒にして、堂下に下るを、若き僧ども紙硯をかゝえ、階 (きざはし) のもとまで追来る。折節、庭中の柳散れば、

  「庭掃て出ばや寺に散柳」

とりあへぬさまして、草鞋ながら書捨つ。

﹇ 汐越の松 ﹈

越前の境、吉崎の入江を舟に棹して、汐越の松を尋ぬ。

  「終宵(よもすがら)嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松」  西行

此一首にて数景尽たり。もし、一辧を加るものは、無用の指を立るがごとし。

﹇ 丸 岡 ﹈

丸岡天竜寺の長老、古き因あれば、尋ぬ。又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて、此處までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつゞけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今、既別に望みて、

                 「物書て扇引さく余波哉」

﹇ 永平寺 ﹈

五十丁山に入て、永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避て、かゝる山陰に跡をのこし給ふも、貴きゆへ有とかや。

﹇ 福 井 ﹈

福井は三里斗なれば、夕飯したゝめて出るに、たそがれの路、たどくし。爰に等栽と云古き隠士有。いづれの年にか江戸に来りて予を尋(たづぬ)。遥十とせ餘り也。いかに老さらぼひて有にや、将(はた)、死けるにやと人に尋侍れば、いまだ存命して、そこくと教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に、夕顔・へちまのはえかゝりて、鶏頭・はゝ木々に戸ぼそをかくす。さては、此うちにこそと、門を扣(たたけ)ば、侘(わび)しげなる女の出て「いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは、此あたり何がしと云ものゝ方に行ぬ。もし用あらば尋給へといふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかゝるふぜい はべ風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと、裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立。

﹇ 敦 賀 ﹈

漸(やうやう)、白根が嶽かくれて、比那(ひな)が嵩(だけ)あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。鴬の関を過て、湯尾峠を越れば、燧(ひうち)が城、かへるやまに初雁を聞て、十四日の夕ぐれ、つるがの津に宿をもとむ。その夜、月殊晴たり。あすの夜もかくあるべきにやといへば、越路の習ひ、猶明夜の陰晴はかりがたしと。あるじに酒すゝめられて、けいの明神に夜参す。仲哀天皇の御廟也。社頭神さびて、松の木の間に月のもり入たる、おまへの白砂、霜を敷るがごとし。往昔(そのかみ)、遊行二世の上人、大願発起の事ありて、みづから草を刈、土石を荷ひ、泥渟をかはかせて、参詣往来の煩なし。古例、今にたえず。神前に真砂を荷ひ給ふ。これを遊行の砂持と申侍ると、亭主かたりける。

  「月清し遊行のもてる砂の上」

十五日、亭主の詞にたがはず、雨降。

  「名月や北国日和定なき」

﹇ 種の浜 ﹈

十六日、空霽(はれ)たれば、ますほの小貝ひろはんと、種(いろ)の濱に舟を走(は)す。海上七里あり。天屋何某と云もの、破篭(わりご)・小竹筒(ささえ)など、こまやかにしたゝめさせ、僕(しもべ)あまた舟にとりのせて、追風時のまに吹着ぬ。濱はわづかなる海士(あま)の小家にて、侘(わび)しき法花寺あり。爰に茶を飲、酒をあたゝめて、夕ぐれのわびしさ感に堪(たへ)たり。

  「寂しさや須磨にかちたる濱の秋」

  「波の間や小貝にまじる萩の塵」

其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す。

﹇ 大 垣 ﹈

露通も此みなとまで出むかひて、みのゝ国へと伴ふ。駒にたすけられて、大垣の庄に入ば、曾良も伊勢より来り合、越人も馬をとばせて、如行(じよかう)が家に入集る。前川子(ぜんせんし)・荊口(けいこう)父子、其外したしき人々日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且悦び、且いたはる。旅の物うさもいまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて

  「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」

 

曽良奥の細道随行日記」(資料4)

五日 朝曇。昼時分、翁・北枝、那谷へ趣。明日、於ニ小松ニ、生駒万子為出会也。従順シテ帰テ、艮(即)刻、立。大正侍ニ趣。全昌寺へ申刻(16時)着、宿。夜中、雨降ル。 

 

六日 雨降。滞留。未ノ刻(14時)、止。菅生石(敷地ト云)天神拝。将監湛照、了山。 

 

七日 快晴。辰ノ中刻(8時)、全昌寺ヲ立。立花十町程過テ茶や有。ハヅレより右ヘ吉崎へ半道計。村分テ、加賀・越前領有。カヾノ方よりハ舟不出。越前領ニテ舟カリ、向へ渡ル。水、五六丁向、越前也。(海部二リ計ニ三国見ユル)。下リニハ手形ナクテハ吉崎へ不越。コレヨリ塩越、半道計。又、此村ハヅレ迄帰テ、北潟ト云所ヘ出。壱リ計也。北潟 より渡シ越テ壱リ余、金津ニ至ル。三国へ二リ余。申ノ下刻(16時半)、森岡ニ着。六良兵衛ト云者ニ宿ス。

 

八日 快晴。森岡ヲ日ノ出ニ立テ、舟橋ヲ渡テ、右ノ方廿丁計ニ道明寺村有。少南ニ三国海道有。ソレヲ福井ノ方へ十丁程往テ、新田塚、左ノ方ニ有。コレヨリ黒丸見ワタシテ、十三四丁西也。新田塚ヨリ福井、廿丁計有。巳ノ刻(10時)前ニ福井へ出ヅ。苻(府)中ニ至ルトキ、未ノ上刻(13時半)、小雨ス。艮(即)、止。申ノ下刻(16時半)、今庄ニ着、宿。

 

九日 快晴。日ノ出過ニ立。今庄ノ宿ハヅレ、板橋ノツメヨリ右へ切テ、木ノメ峠ニ趣、谷間ニ入也。右ハ火 うチガ城、十丁程行テ、左リ、カヘル山有。下ノ村、カヘルト云。未ノ刻(14時)、ツルガニ着。先、気比へ参詣シテ宿カル。唐人ガ橋大和や久兵へ。食過テ金ケ崎へ至ル。山上迄廿四五丁。夕ニ帰。カウノヘノ船カリテ、色浜へ趣。海上四リ。戌刻(20時)、出船。夜半ニ色へ着。クガハナン所。塩焼男導テ本隆寺へ行テ宿。 朝、浜出、詠ム。日連(蓮)ノ御影堂ヲ見ル。

 

十日 快晴 巳刻(10時)、便船有テ、上宮趣、二リ。コレヨリツルガヘモ二リ。ナン所。帰ニ西福寺へ寄、見ル。申ノ中刻(16時)、ツルガヘ帰ル。夜前、出船前、出雲や弥市良へ尋。隣也。金子壱両、翁へ可渡之旨申頼預置也。夕方ヨリ小雨ス。頓而止。

 

十一日 快晴。天や五郎右衛門尋テ、翁へ手紙認、預置。五郎右衛門ニハ不逢。巳ノ上尅(9時半)、ツルガ立。午ノ刻(12時)ヨリ曇、涼シ。申ノ中刻(16時)、木ノ本へ着。

 

十二日 少曇。木ノ下(本)ヲ立。午ノ尅(12時)、長浜ニ至ル。便船シテ、彦根ニ至ル。城下ヲ過テ平田ニ行。禅桃留主故、鳥本ニ趣テ宿ス。宿カシカネシ。夜ニ入、雨降。

 

十三日 雨降ル。多賀へ参詣。鳥本ヨリ弐里戻ル。帰テ、摺針ヲ越、関ケ原ニ至テ宿。夕方、雨止。

 

十四日 快晴。関ケ原ヲ立。野上ノ宿過テ、右ノ方へ切テ、南宮ニ至テ拝ス。不破修理ヲ尋テ別龍霊社へ詣。修理、汚穢有テ別居ノ由ニテ不逢。弟、斎藤右京同道。ソレヨリスグ道ヲ経テ、大垣ニ至ル。弐里半程。如行ヲ尋、留主。息、止テ宿ス。夜ニ入、月見シテアリク。竹戸出逢。清明

 

奥の細道』~北 陸~(資料5)

天龍寺

天龍寺芭蕉塚がある。(松岡町指定文化財

 芭蕉塚は松尾芭蕉(1644~1695年)の百五十回忌に同好の人たちによって天保15年に建てられた。

芭蕉は松岡天龍寺大夢和尚を訪ね、元禄2年(1689年)の8月11日、芭蕉は北枝と共に天龍寺を旅立ち、町はずれの茶屋に休まれたと伝えられている。その茶屋で北枝との別れに臨み、贈答句を作った。

  「物書て扇引さく餘波哉」

昭和53年(1978年)8月、松岡町善意會建立。

 

丸岡天竜寺の長老、古き因あれば尋ぬ。又、金沢の北枝といふもの、かりそめに見送りて此処までしたひ来る。所々の風景過さず思ひつヾけて、折節あはれなる作意など聞ゆ。今既別に望みて、

もの書て扇子へぎ分(わく)る別哉

 笑ふ(う)て霧にきほひ出ばや

    北枝

となくなく申侍る。

 

 天龍寺で詠まれたとされる句がある。

天龍寺にて

「門に入は蘇鉄に蘭の匂ひかな」

『風羅袖日記』

丸岡天龍寺にいたりて

「門に入ハ蘇鉄に菊の匂ひかな」

『奥の枝折』

      丸岡天龍寺にて

「門に入ば蘇鉄に蘭の匂ひ哉」

一本に守栄院にてとあり、いづれかしらず。

芭蕉翁句解参考』

 

芭蕉翁月一夜十五句」(荊口句帖)(資料6)

 大垣藩士宮崎荊口と、その子此筋・千川・文鳥を中心とする発句・連句の書留である。

元禄2年(1689年)8月21日、路通序。

 

芭蕉翁月一夜十五句

 

    福井洞哉子をさそふ  

「名月の、見所問ん、旅寝せむ」

    阿曽武津の橋

「あさむづを、月見の旅の、明離」

    玉江

「月見せよ、玉江の芦を、からぬ先」

    ひなが嶽

「あすの月、雨占なハん、ひなが嶽」

    木の目峠いもの神也と札有

「月に名を、つゝミ兼てや、いもの神」

    燧が城

「義仲の、寝覚の山か、月かなし」

    越の中山

「中山や、越路も月ハ、また命」

    気比の海

「国々の、八景更に、気比の月」

    同明神

「月清し、遊行のもてる、砂の上」

    種の浜

「衣着て、小貝拾ハん、いろの月」

    金が崎雨

「月いつく、鐘ハ沈める、海の底」

   はま

「月のミか、雨に相撲も、なかりけり」

    ミなと

「ふるき名の、角鹿や恋し、秋の月」

    うミ

「名月や、北国日和、定なき」

   いま一句きれて見えず

 

 

芭蕉の句(資料7)

 

(1) あかあかと日は難面もあきの風

(2) 青柳の泥にしだるゝ塩干かな

(3) あけぼのやまだ朔日にほとゝぎす

(4) あけゆくや二十七夜も三かの月

(5) 紫陽花や藪を小庭の別座敷

(6) 暑き日を海にいれたり最上川

(7) あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

(8) あの雲は稲妻を待たより哉

(9) 雨折々思ふことなき早苗哉

(10)荒海や佐渡によこたふ天河

(11)あらたうと青葉若葉の日の光

(12)有難や雪をかほらす南谷

(13)有とあるたとへにも似ず三日の月

(14)粟稗にまづしくもあらす草の庵

(15)いかめしき音や霰の檜木笠

(16)いざさらば雪見にころぶ所迄

(17)いざともに穂麦喰はん草枕

(18)いざよひもまだ更科の郡かな

(19)石山の石より白し秋の風

(20)市人にいで是うらん雪の笠

(21)稲妻にさとらぬ人の貴さよ

(22)いなづまや闇の方行五位の声

(23)うき我をさびしがらせよかんこ鳥

(24)うぐひすの笠おとしたる椿哉

(25)鶯や柳のうしろ藪のまへ

(26)うたがふな潮の花も浦の春

(27)卯の花やくらき柳の及ごし

(28)馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり

(29)馬ぼくぼく我を絵に見る夏野かな

(30)馬をさえながむる雪の朝哉

(31)海くれて鴨のこゑほのかに白し

(32)むめがゝにのつと日の出る山路かな

(33)梅若菜まりこの宿のとろゝ汁

(34)うらやましうき世の北の山桜

(35)叡慮にて賑はふ民の庭竈

(36)大津絵の筆のはじめは何仏

(37)俤や姨ひとり泣月の友

(38)御命講や油のような酒五升

(39)折々に伊吹をみては冬ごもり

(40)顔に似ぬほつ句も出よはつ桜

(41)桟やいのちをからむつたかづら

(42)笠嶋はいづこさ月のぬかり道

(43)語られぬ湯殿にぬらす袂かな

(44)鐘つかぬ里は何をか春の暮

(45)鎌倉を生て出けむ初鰹

(46)傘に押わけみたる柳かな

(47)辛崎の松は花より朧にて

(48)刈りかけし田づらのつるや里の秋

(49)かれ朶に烏のとまりけり秋の暮

(50)川上とこの川下や月の友

(51)元日は田毎の日こそこひしけれ

(52)観音のいらかみやりつ花の雲

(53)象潟や雨に西施がねぶの花

(54)けふばかり人も年よれ初時雨

(55)清滝や波にちり込青松葉

(56)霧しくれ富士を見ぬ日そおもしろき

(57)草いろいろおのおの花の手柄かな

(58)艸の葉を落るより飛螢哉

(59)葛の葉のおもて見せけり今朝の霜

(60)草臥て宿かる比や藤の花

(61)雲折々人をやすむる月見哉

(62)雲霧の暫時百景をつくしけり

(63)雲の峯幾つ崩て月の山

(64)鞍つぼに小坊主乗るや大根ひき

(65)けごろもにつつみてぬくし鴨の足

(66)木がくれて茶摘も聞やほとゝぎす

(67)木枯に岩吹きとがる杉間かな

(68)此秋は何で年よる雲に鳥

(69)このあたり目に見ゆるものは皆涼し

(70)此梅に牛も初音と啼つべし

(71)此松の実ばへせし代や神の秋

(72)此道や行人なしに秋の暮

(73)木のもとに汁も膾も桜かな

(74)西行の庵もあらん花の庭

(75)西行の草鞋もかゝれ松の露

(76)咲乱す桃の中より初桜

(77)さゞれ蟹足はひのぼる清水哉

(78)さまざまのこと思ひ出す櫻哉

(79)さみだれは滝降りうづむみかさ哉

(80)五月雨をあつめて早し最上川

(81)早苗とる手もとや昔しのぶ摺

(82)しくるゝや田のあらかふの黒む程

(83)閑さや岩にしみ入蝉の声

(84)四方より花吹入てにほの波

(85)しばらくは花の上なる月夜哉

(86)しほらしき名や小松吹萩すゝき

(87)白菊の目にたてゝみる塵もなし

(88)白露もこぼさぬ萩のうねり哉

(89)城あとや古井の清水先ツ問む

(90)涼しさや直に野松の枝の形

(91)涼しさやほの三か月の羽黒山

(92)するがぢやはなたちばなも茶のにほひ

(93)其まゝに月もたのまじいぶき山

(94)蕎麦はまだ花でもてなす山路かな

(95)田一枚植て立去る柳かな

(96)たはみては雪まつ竹のけしきかな

(97)旅に病で夢は枯野をかけ廻る

(98)旅人と我名よばれん初しぐれ

(99)ちゝはゝのしきりにこひし雉の声

(100)蝶の飛ばかり野中の日かげ哉

(101) 月いつく鐘ハ沈める海の底

(102)月影や四門四宗もただ一つ

(103)月清し遊行のもてる砂の上

(104)月はやし梢は雨を持ながら

(105)寺に寝てまこと顔なる月見哉

(106)たふとがる涙やそめてちる紅葉

(107)としとしや櫻をこやす花のちり

(108)手をうてば木魂に明る夏の月

(109)ともかくもならでや雪のかれ尾花

(110)猶見たし花に明行神の顔

(111)永き日も囀たらぬひばり哉

(112)夏来てもたゞひとつ葉の一葉哉

(113)夏草や兵どもが夢の跡

(114)菜畠に花見顔なるすゝめ哉

(115)何の木の花とはしらず匂哉

(116)庭掃て出はや寺に散柳

(117)ぬれて行人もお(を)かしや雨の萩

(118)ねはん会や皺手合る数珠の音

(119)蚤虱馬の尿する枕もと

(120)野を横に馬牽むけよほとゝぎす

(121)這出よ飼屋が下のひきの聲

(122)八九間空で雨降る柳かな

(123)初さくら折しも今日はよい日なり

(124)初しぐれ猿も小蓑をほしげ也

(125)花ざかり山は日ごろのあさぼらけ

(126)花咲て七日鶴見る麓哉

(127)花に遊ふ虻なくらひそ友すゝめ

(128)花の陰謡に似たる旅ねかな

(129)花の雲鐘は上野か浅草か

(130)蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

(131)原中や物にもつかす鳴雲雀

(132)春たちてまだ九日の野山哉

(133)春なれや名もなき山の薄霞

(134)春の夜は桜に明てしまひけり

(135)春の夜や籠リ人ゆかし堂の隅

(136)春もやや気色ととのふ月と梅

(137)一里はみな花守の子孫かや

(138)一つぬいで後に負ぬ衣がへ

(139)一家に遊女もねたり萩と月

(140)人も見ぬ春や鏡のうらの梅

(141)ひばりなく中の拍子や雉子の声

(142)雲雀より上にやすろ(ら)ふ峠かな

(143)ひらひらとあぐる扇や雲の峯

(144)風流の初やおくの田植うた

(145)文月や六日も常の夜には似ず

(146)冬籠りまたよりそはん此はしら

(147)古池や蛙とびこむ水の音

(148)蓬莱に聞ばや伊勢の初便

(149)ほととぎす声や横たふ水の上

(150)ほとゝぎす消行方や嶋一ツ

(151)郭公まねくか麦のむら尾花

(152)ほろほろと山吹ちるか滝の音

(153)升買て分別かはる月見かな

(154)先たのむ椎の木も有夏木立

(155)松風の落葉か水の音涼し

(156)松風や軒をめぐつて秋暮ぬ

(157)松杉をほめてや風のかをる音

(158)まゆはきを俤にして紅粉の花

(159)三井寺の門たゝかばやけふの月

(160)道のべの木槿は馬にくはれけり

(161)身にしみて大根からし秋の風

(162)蓑虫の音を聞にこよくさのいほ

(163)都出でゝ神も旅寝の日数哉

(164)むかしきけちゝぶ殿さへすまふとり

(165)むざんやな甲の下のきりぎりす

(166)結ぶよりはや歯にひゞく泉かな

(167)名月に麓の霧や田のくもり

(168)名月の花かと見えて棉畠

(169)名月や池をめくりてよもすから

(170)名月や門に指くる潮頭

(171)名月や座に美しき顔もなし

(172)名月や北国日和定なき

(173)めにかゝるくもやしばしの渡り鳥

(174)目にかゝる時やことさら五月富士

(175)物いへば唇寒し穐の風

(176)百歳の気色を庭の落葉哉

(177)やがて死ぬけしきは見えず蝉の声

(178)薬欄にいづれの花をくさ枕

(179)やすやすと出でていざよふ月の雲

(180)やまざとはまんざい遅し梅花

(181)山路来て何やらゆかしすみれ草

(182)山中や菊はたおらぬ湯の匂

(183)闇の夜や巣をまどはしてなく鵆

(184)夕がほや秋はいろいろの瓢かな

(185)雪散るや穂屋の薄の刈り残し

(186)行駒の麦に慰むやどり哉

(187)行春にわかの浦にて追付たり

(188)行春や鳥啼魚の目は泪

(189)行春を近江の人とおしみける

(190)湯をむすぶ誓も同じ石清水

(191)よくみれば薺花さく垣ねかな

(192)世にさかる花にも念仏申けり

(193)世の人の見付ぬ花や軒の栗

(194)世を旅に代掻く小田の行きもどり

(195)両の手に桃と桜や草の餅

(196)わせの香や分入右は有磯海

 

   存 疑

(197)蝶鳥のしらぬ花あり秋のそら

(198)花の陰硯にかはるまる瓦

(199)名月や鶴脛高き遠干潟

 

   誤 伝

(200)もろもろの心柳にまかすへし

 

  支考の句

(201)牛阿る聲に鴫たつゆふべかな