正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

雲門の禅・その〔向上〕ということ 入矢 義高

雲門の禅・その〔向上〕ということ

入矢 義高

 

 唐代の末期、九世紀後半から十世紀にかけて、中国の禅の主流は北と南に二分していた。「北に趙州あり、南に雪峰あり」という当時の通り言葉が示すように、河北の趙州禅師(778―897)と福建の雪峰禅師(822―908)とが、南北の禅を代表する双璧であった。そしてこの両者は、絶えず相手を意識し、しばしば対抗的でさえあった。しかし、というよりは、むしろその為にこそ、修行僧たちは相互に南から北へ、北から南へと絶えず往来し、情報の交換を通じて相手と自らの禅を検証することを怠らなかった。そのことを証するデータは、双方の残した語録類に少なからず見出されるが、時には鋭い批判の矢が放たれる事もあれば、率直に相手に脱帽する事もあって、概してプライドの高い禅僧の多かったこの世界にあって、この時期は実に多様で特異な人間模様を開示してくれる。

 では、当時の中国禅を二つに分けた趙州と雪峰とは、一体どのような禅観ないし宗風の違いが有ったのであろうか。つまり、両者の禅はどこがどう違っていたのか。となると、一口でそれを言い留めることは大変むつかしい。しかし、何とかそこを決めておかないと、両者の緊張関係は浮かび上がってこない。

 『趙州録』を読めば誰でも気付くように、彼は長々と説法することはしない。僧の問いに対する答えは常に直截で端的であり、しかもその言葉は、機根の勝れた者でなければ理解できない、格調の高い内容のものであった。つまり、上根の者のみを相手にした答えであって、中根・下根の者は対象外であり、そういう相手はあっさり門前払いを食わせるのが常であった。彼の禅が「口唇皮禅」と呼ばれたのはその為であり、また彼が常に言葉のみを用いて、棒た喝を用いなかったからでもあった。

 雪峰には、趙州のような調べの高い直截さは乏しい代りに、中根・下根の者をも広く包容する教育者的なタイプが特徴であって、その門下は常に千人を超える大教団を形成していた。彼は棒や喝を教導の手段として用いたほかに、木で作った三つのボールを愛用し、新参の僧がやって来ると、いきなり目の前にゴロゴロとそれを転がし、それをどう処理するかでテストするという好みがあって、「雪峰の木毬」とあだ名が付いたという。僧の問いに対する彼の答え方は、相手の機根に応じた親切な内容と言い廻しで、意表を突くような逆説や、高飛車の決めつけなどはほとんどやらない。謂ってみれば、いつも模範解答で答えを提示する人であった。その点で、いかにも彼は理想的な禅の指導者であったと言えようか。

 ここに一つ、趙州が雪峰の教団に対して、どのような見方をしていたかを具体的に示す霊がある。あるとき趙州はこう語った。

  わしは三十年この趙州にいるが、いまだかつて、これというような禅師がここに来たことはない。たといやって来ても、一晩泊って飯を食って急いで出かけ、居心地のいいところを目ざして行ってしまう。

 ここで「居心地のいいところ」というのは、原文は「軟暖処」(「続蔵」六八・七八c九)で、明らかに福建の雪峰教団を指している。この地方に独立王国を建てていた王氏一族の篤い庇護を受けて、経済的にも恵まれていたし、そのうえ模範的な教師である雪峰の親切な指導も受けられるとあれば、まさに「軟暖」(ほんわかとした)場所だったのである。これと正反対の状況だった趙州のところは、とかく敬遠されたものらしい。彼は右の言葉に続けてこう言う。

  もし南から修行者がやって来たら、そいつが背負っている荷物を下ろしてやる。また、もし北から修行者がやって来たら、逆に荷物をのっけてやる。(同「続蔵」c一二)

 北から来た者に趙州がのっけてやる荷物が、一体何であるかはさて置き、南から来た者が肩に担いで来た荷物とは、言うまでもなく、雪峰によってのっけられた〔仏法〕という荷物、または端的には〔雪峰禅〕というお荷物のことである。趙州から見れば、雪峰の禅は模範解答でしかない禅であった。趙州はまた、雪峰の所から来た別の僧に向って、「わしの処には仏法はない。仏法は悉く南に在る。だから君は南に帰るがよい」と諭(さと)してもいる。「法として人に与え得るような法は、実は法ではないのだ」という根源的な立場に趙州は立っている。型通りの正解の理解の仕方は、彼が絶対に許容しないものであった。

 

 その雪峰の門下に、二人の鬼子(おにご)が生まれた。玄沙(835―908)と雲門(864―949)である。それぞれにタイプは異なるが、師の雪峰に対するラディカル(過激)な批判者であった点では共通している。玄沙にはまた臨済に対する鋭い批判があり、雲門には趙州禅に対する深い崇敬と連撃して、雪峰の禅を突き抜けてその上へ透出する境地がある。その彼の〔向上〕について、あらましを述べてみたい。

 初めに「向上」という言葉について、誤解を避けるために一言したい。これは日本語の「向上」ではない。つまり、何かの高い目標を目指して自らを高めてゆくと云う意ではない。これは中国の当時の口語で、「・・の上へ」(upwards)または「・・の上の」(upward)という意であって、例えば「仏向上人」と云えば、仏の上へ越え出た人という事であり、「仏向上事」と云えば、仏の更に上なる消息という意である。

 先にも述べたように、この二人は師への批判者として自己を形成していった。『雪峰録』を読むと、雪峰はしばしばこの二人の弟子に遣り込められており、しかもこの事が正直に記録されている。謂わば本人にとっては恥になるような事実が、その語録に率直に載せてあるという事は、おそらくこの人の隠された偉大さを証明するもので、さればこそ、この二人の鬼子は生まれ得たのだとも言えるであろう。両人とも相当の量の語録を残しているが、それを読んで驚かされる事が一つある。それは、両人とも揃って弟子たちに向って、堂々と自己批判をやっていると云う点である。玄沙の例はさて置いて、以下、雲門のそれを見てゆくことにしよう。あるとき彼は言った。

  私は今までいつも「一切の声は仏の声だ、一切の色は仏の色だ、大地全体が法身なのだ」と言ってきたが、なんと空しい〔仏法中の見〕をやらかしたものだ。今の私は、拄杖を見たらただ拄杖と言うだけ、家を見たらただ家と言うだけだ。(『雲門広録』巻中「続蔵」六八・一〇四c二三)

 結論を先に言えば、これは雲門が晩年に到達した見地であり、謂わばその「晩年の定論」

である。従って、ここで否定され乗り越えられている「一切の声は仏の声だ」云々は、その

中期の見地である。これの初めの二句は、同じ『雲門広録』の初めの処に、彼が拄杖を取り

上げて禅床を一打ちして言った言葉として出ている(同一〇二a一二)。この二句の趣旨は、

すでに『荘子』の斉物論に展開されている天地万物との一体観や、四世紀の僧肇の「天地は

我れと同根、万物は我れと一体」という諦観などを背景に持ち、直接には『観無量寿経』の

「水鳥も樹林もみな妙法を演ぶ」という観想から導き出されたものであろう。さらに第三句

の「大地全体が法身だ」という発言は、実は師の雪峰の愛用語「十方世界全部が我が眼(ま

なこ)だ」(『雪峰録』上「続蔵」六九・七七b一五)の変奏である。「眼」を「法身」と言

い替えたのは、理法を受肉した我が身体という気分を示す。

 しかし晩年の雲門は、これらを一括して「むなしい仏法中の見」として全否定する。「仏

法中の見」とは、〔仏法〕という枠の中で収まりかえって自己完結した見解、如何にもごも

っともな型通りの模範見解のことを云う。彼が曾て拄杖を取り上げて「一切の声は仏の声・・」

と高言した時、彼はその拄杖を彼自身の法身と化していたのであったが、しかし「今の私」

はもうそんな愚かなことはやらぬ。拄杖はまさに拄杖そのものとして存在し完結している

のだ。それを法身に昇華させる必要は全くない。個物は個物に還せ。それこそが『華厳経

にいう「塵々三昧」(個々三昧)だ、と云うのである。ここでは、彼は雪峰の禅を突き抜け

ているだけでなく、法身をも越え出ている。当時の用語で云えば「法身向上事」(法身の更

に上の世界)へ踏み出たわけである。これまでの彼は、やたらに拄杖を法身化して振り回す

ことが得意で、「そら、わしの拄杖はいま竜になって天地を呑み込んだぞ」などと言ったり、

果ては「法身は飯を食うぞ」とまで高言した。しかしこの時期になると、「拄杖は法身では

ない。飯は法身ではない。法身で以て法身を食うのだ」(『雲門広録』中「続蔵」六八・一〇

四c九)と言うまでに一変する。法身を柱に立てた今までの超越志向は、ここでは完全に消

し去られている。しかも、その自らの脱皮を明確に告知している事を、私(入矢氏)は取り

分け貴重視したいのである。中国の禅僧で、これほど明晰かつ率直に自己変革を語った者は

ほかにない。彼の同輩である玄沙にもそれは認められるけれども、この雲門ほどの決然たる

調子はない。

 というのは、雲門にはその「向上」をも更に超克しようとする志向があったからである。

では法身の向上(うえ)へ踏み出た所に有るのは何か。もしそれが法身を踏み越えたおのれ

であったとしたら、そのおのれは、また新たなウルトラ(法身)に転化すること必定である。

となれば、そのおのれも更に克服されねばならない。禅はいかなる〔聖〕の措定をも拒否す

るからである。雲門にはそこまでの見通しがあった。

 彼と同時の雲居(―902)に次のような問答がある。

  僧の問い、大いに肯(うけが)う人と、大いに捨てる人とは、同じでしょうか別でしょうか。。

  答え、別だ。

  問い、どちらが軽く、どちらが重いでしょうか。

  答え、大いに肯うのが重く、大いに捨てるのは軽い。

  問い、大いに肯う人がなぜ却って重いのですか。

  答え、其の人は自己向上事を穢物同然と見る。だから価値意識に落ち込まない。大いに捨てる人は、おのれの存在を認めぬ。それはそれで良いが、その事の為に、将来へ向けての価値意識から脱けられぬ。つまり軽いわけだ。(『祖堂集』巻八・二九八頁)

 肯う・捨てるの目的語は、仏としてよいし、法身としてもよい。第三の問いで「却って」

と云ったのは、予期した答えとは正反対の答えが返った事への意外感を示す。最後の雲居の

答えに云う「自己向上事」とは、仏へ向けて自己を高めてゆく事では勿論なく、雲門の論旨

で云えば、法身の上へ超え出た自己の、その更に上へ踏み出た処を言う。それをさへ、穢物

と同然視すると云うのは、その〔向上の自己〕をさえ、更に上へ超克せねばならぬ事、

それが出来た人こそが、「大肯定の人」であり、一切の価値の範疇の埒外にあると云うので

ある。あの道元の『正法眼蔵』「仏向上事」の巻でさえ、仏の上へ超え出るべき事は説かれ

ていても、その超え出た〔向上人〕をも更に超克すべき事までは説かれていない。石頭希遷

(700―790)は「諸々(もろもろ)の聖をも慕わず、己れの霊をも重んぜず」(『景徳

伝灯録』五「大正蔵」五一・二四〇b二一)と言った。「不慕諸聖」とは法身向上であり、

「不重己霊」とは自己向上である。

 

 雲門禅の深化の過程は、私の見るところ、三つの段階に分けられる。いま便宜上、その法

身観の変遷を軸にして述べるならば、初期は理念的な法身の探求。中期は法身の肉体化、ま

たは身体としての法身の能動化。晩期はその法身を透出して更に上へ超え出ようとする見

地、しかもそこに措定されかねない、ある種の究極絶対なものを、絶えず吹っ切って行こう

とする志向がある。その志向の落ち着く先は、平常底(または日常底)に於ける、自己をも

含めての個物の円成(えんじょう)、つまりは華厳の「塵々三昧」ではなかったか、と私は

見ている。

 右に図式的に述べた三段階は、まだ仮説の域を出ないけれども、その『雲門広録』を注意

して読めば、彼の〔向上〕深化の軌跡が前後三期に分れる事は、かなりはっきり見て取られ

る。

 ところが、今でも広く読まれている『碧巌録』は、宋代の雲門宗四世だった重顕(九八〇

―1052)が纏めたものであるのに、そこに載せられた雲門の公案十八則は、以上に述べ

た発展深化の事情には全く無知で、前後の脈絡なしに雑然と並べたものに過ぎない。しかも、

すでに雲門自身によって踏み超えられたはずのものが、あたかも、その禅の究極点であるか

のように個別に扱われている。そもそも雲門は自己完結することを嫌った人である。されば

こそ、絶えず自己を変革しながら〔向上〕への歩みを止めなかった。その人を一則ずつ完結

したものとして、個別に定着させてしまった『碧巌録』を、私は今だに好きになれない。事

は「雲門」だけに限ったことではないのであるが・・。

(一九八四年)

 

これは入矢義高氏の論考が一般化していない為、Pdfからワードとして文字化したものである。多少修訂を行なった事を記す。(2022年・タイ国にて)