正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

記号活動としての言語    井筒俊彦

記号活動としての言語

井筒俊彦

 

 ものは何でも、見る人の見方で、実にいろんな風に見えるものである。

 例えば一個の桃がある。腹が空いていれば、うまそうだ、と思うだろう。画家は静物画のモデルにいいと考えるかも知れないし、俳人は、これは風情があると一句ひねりだすつもりになるかも知れない。食べものとして、美的鑑賞の対象として、又は科学的分析の対象として、等々、その用途目的の側から考えただけでも、実にさまざまで、更にそれに他の要素、例えばその時々の気分などが入って来ると益々千変万化である。そのものズバリの一個のでさえこうである。物は同じでも、それを扱う態度によって今まで全然気づいてもみなかった新しい面が現われ出て来ることは、学問についても同様である。

 言語学は、日常我々が意識しないでそれをしゃべり、それで考えている言葉を対象としているが、その対象が卑近なだけに、それだけ、それを扱う態度なり角度なりは複雑である。尤も、新しい角度、新しい視野と云っても、勝手気儘に、何でも自由な見方が取り入れられ得る、又取り入れられたと云うのでは勿論ないので、やはり常に、時代の動きに応じ、時代的な制約のもとで展開して来たことは事実だけれども。

 

 現代の学問的動きの全般にわたる一番大きな特色は、機能的(ファンクショナル)ということである。機能的な見方は必然的に実験的研究、観察を伴ない、それは又、諸学の相互提携、綜合を促進する。そして近年の言語理論はその対象の性質上、他の精神科学諸分野に先がけて、最も顕著にこの傾向を取りつつある。

 言語の記号学的見方がこれである。記号活動は何も人間のみに止まらない。動物、植物、更には細胞間、細胞内にすら見られる現象で、従って、言語はこれを機能的見地から記号として見た場合、従来の人間固有のものとしての孤立を脱し、学問的には、はるかに広い視野が開け、より深い考察が可能になったのである。

 刺激(ステイミュラス)―反応(レスポンス)、生物乃至生体に於けるこの現象を、一般に行動(ビヘイヴィア)と云っているが、ビヘイヴィアの或る特定のものが記号活動である。或る生物に対して、或る刺激Aが与えられたとき、その生物が刺激Aに反応するだけでなく、Aに反応することにより、もひとつ別のものBに反応するように導かれる。即ち、実際上は、Aを通してBに、結果的には直接Bに反応したことになった場合、そのとき、AはBの記号としての資格で働いたと考える。つまりこの刺激Aは、単なる刺激ではなく記号性を帯びた刺激としてのこの生物に働いたのであり、AはBの記号と呼ばれるのである。

 記号活動の比較的プリミティヴで簡単な例を一つ考えてみよう。

 広い牧場に羊の群れが草を食んでいる。のどかな風景だ。突然地平線に黒雲の層が湧き上がったと見る間に、すごい速さで青空を覆い始める。と、今までのんびり草を食んでいた羊の群れは、一斉に退避を開始するのである。羊が雨宿りの場所を得て落ち着いたと思われる頃、案の定、沛然たる豪雨がやって来る。と云う訳である。こんな例は牧人にとっては日常の見聞であろう。この場合、羊は黒雲を見て、それに反応しただけだと考える人もあるだろう。実際上はたしかにそうである。羊はまだその雨の大粒に、ぴしりと鼻先を一つすらお見舞されない先に行動したのだから。だが結果的に見ると、羊はたしかに、その後に起こった雨に対して退避の行動を起こした。つまり羊は黒雲の後には雨があると察知(したかどうかは、神ならぬ身の羊の内心まで知る由もないが)結果的に、黒雲自体は羊にとって何の害もないのに反して、羊だって大雨に濡れることはたまらぬだろうし、第一病気の原因になる訳で、種族保存の本能から云っても、この場合、結果的に、羊は黒雲を避けたわけではなく、その後に続く雨を避けたと考えるのが妥当である。羊にとって黒雲は刺激A、雨はBとなり、Aはこの場合記号性を帯びて働いた、つまりAはBの記号であった。黒雲はこの場合、雨の記号である。(この場合はと註をつけて置こう。黒雲は常に雨の記号としてのみ働くと考えてはならないからー客観的、外面的自然現象としてはそうだがー他の生物の場合、又他のシチュエーションでは黒雲は雨とは別の、何かの記号ともなり得ることが考えられる。)

 この場合は例を羊にとり、記号も謂ゆる自然記号(ナチュラル・サイン)とよばれるが、このように自然を記号に読み取ることは勿論、人間に於いても、人間が動物である限り、その自然的環境に順応して行く上に必要であるばかりではなく、更に高次な、人間が人間として行う認識活動の場で随所に活用しているところでもある。

 

 碧巌録第一巻、第一則に、

 「山を隔てて煙を見て、早くも是れ火なることを知り、牆(かき)を隔てて角を見て、便ち是れ牛なることを知る」

とある。

 記号活動とは謂わば又スイッチの切り換えに譬えられよう。記号になるものは、先ず自分が相手の注意を自分の上に引き寄せ、相手がそれを認知した途端に、それを他に流す役をするのである。従って、例えば道しるべの指の絵などは、あまり美しく画き過ぎては却って具合が悪い。絵の指が指輪をはめていたり、泰西名画だったりしたのでは、其処で行われる筈のスイッチの切り換え(記号活動)が電光石火の早さでスムースに行かなくて、指の示す方向よりも、むしろその指に注意力が少しでも長く留まる事になってしまうからである。

 このように、生物、例えば人間や動物が、或るもの(物でも事態でも、ともかく記号的に一単位となるようなもの)を認知した場合、これに直接反応しないで他の一定の単位に反応すると云う記号活動パタンが、集団的、社会的に出来ていて、これに従うことは、よりよく自己をその環境に順応させて行くという、生物学的意義を持っているのである。

 さて、ここにあげた黒雲、道しるべの二例の間には、ある重要な差異が認められる。前者の記号(黒雲)には発信者がいないが、後者の道しるべは、(その場に折合さないにしても背後に)発信者が居ると云うことである。記号を学問的に取り扱う人たちは、前者を自然記号と呼んで前段階的な、プリミティブな記号とし、一般に記号と云う時は、特に発信者のあるものを指すのが普通である。言語記号活動は、勿論後者に属するのである。

 人間は言語を単にそれだけのものとして見ずに、もっと広い記号活動の一種として見るという見方は、既に今世紀のはじめ、ジュネーブ大学の言語学者ソシュールによって提唱

されたが、それは漠然とした単なる提唱におわり、又彼の後継者によっても何ら具体的な成果を生まなかった。

 言語学を記号の一部として位置づけ、言語学に新たな記号学的視野が開かれたのは極く最近のことで、しかも直接には言語学者の手によってではなかった。言語学は、その対象自体の観察だけでは容易に見出されなかったものを、多くの生理学、心理学、生物学、更には生化学や物理学等、諸分野の実験的成果から学んだのである。これ等の実験によって、細胞内に又細胞間に、更に同種生体間、異種生体間に於いて等しく同じ型のビヘイヴィア、つまり記号的活動が存在することが認められるに至った。言語に関する、こういう記号学的見方の発達の直接の動機となったのは、ソ連のの生理学者、パブロフの条件反射の研究、アメリカのビヘイヴィアリズムの哲学、テクノロジーの理論、英国のエムピリシズム、それに数理哲学者達の創始した記号論理学、等々であって、これ等の綜合と相互提携が期せずして、言語学に新たな記号学的視野の端緒を開くに至ったのである。

 言語活動は、それ自体、全体的に見れば、非常に高級、複雑なものであるが、基礎構造的には、我々の躰の内部で絶えず造られている様々なホルモンの働きや、アセチルコリンなどの化学的物質の分泌による筋肉の収縮や、蟻や蜜蜂の記号活動、更に昆虫と花の間に行われている記号活動と何ら異なる所がない。言語は言語によらない他の様々な「伝達」(コミュニケーション)の手段と、記号であると云う点では全く同じである。

 否と云う代わりに首を振ったり、止れ、進めと云う代りに赤、青のランプを点じても、その効果、反応は言語による場合と全く同じである。言語記号を、このように言語以外の諸記号と置き換える事が可能である場合が非常に多い。事実、我々の実際生活に置いては、言語のこのような使い方が非常に重要な且つ主要な部分を占めているのである。

 

 しかし言語記号には、言語によらぬ他の諸記号と同列に断ずる事の出来ぬ独特の面があり、それが言語を他の諸記号から判然と分かち、又それを操作する人間を他の生物から区別し、人間を人間たらしめているのであると云っても決して過言ではない。

 もし、ネコと云う二シラブルの音で、我々がその音にではなく猫に反応したならば、このネコは一つの言語記号となって働いたのである。だがこの場合のネコに対する反応は、交通信号の青、赤や「止れ」「進め」に対する程端的、簡単なものではない。ネコと云う言葉から、我々は、今現に存在している猫。昨日見た猫、更には想像上の長靴をはいた猫など、そのいずれを頭に思い浮かべる事も自由自在である。ネコは全てこれらの猫に対して共通に用いられるのである。現実の猫だけでも、三毛あり、虎毛あり、ぶちあり、足の長いのや、顔の大きいのや、世界中に一匹として厳密には全く同じ猫は存在しない。にも拘らず、あのぶち、この三毛は我々にとって等しく猫である。云いかえれば、ネコと云う言葉は決して具体的な個々の猫を指してはいないし、それを指し示す何等の手段をも兆候をも含んではいない。猫と云う言葉で把握し、表現されるものは、謂わば人間の精神内に取り入れられ、その内部操作によって精神化され主観化された猫であって、厳密には現実に存在する一匹一匹の猫とは決して同一のものではない事に気付くだろう。

 地球上の全ての猫とまではいかなくとも、ともかく手当たり次第、近隣のノラやタマやミイをその形状、啼き声などから分類し、一つに纏める事だけならば、我々人間にとって何も言語的把握に依らなくても経験的次元で可能な事である。だが分類した一群のものを何かの名で呼ばなくては、我々にとってこれは無意味な分類であって、ましてやその分類の成果を操作する事など不可能だ。だが一旦それをネコと名づけさえすれば、地球上に存在する、空想上の、又現実の、あらゆる猫をその名で包含する事が出来る。人間は、このように言語によって初めて外在物を人間の心内にまで取り入れる事が出来、謂わば、外界を内在化する強力な手段を言語によって与えられているのだと云えるのである。

今仮、ネコと云われれば、我々はたとえその場に猫が居なくても、猫なるものを直ちに理解し、猫を頭に思い浮かべる事が出来る。つまり我々人間は、現に身を置く具体的状況から完全に独立して心を働かせることが可能なのだ。これがドイツ人の云う精神(ガイスト)的な働きであり、そうした内的操作の積み重ねによって出来上がった世界が、すなわち「ガイスト」の世界である。どのような未開状態にある人間でも、たとい野獣と紙一重の生き方をしている野蛮人でも、およそ人間と呼ばれ得るものにおいては、このガイスト的な働きが必ずはっきり現れている。それの最も幼稚な文化的現れが神話(ミュトス)の発生である。ミュトスのことは此処では暫くおくが、この精神的多次元的世界は人間ふぁけに特有のものであり、その成立を可能ならしめるに至った、又可能ならしめているじゅう要素として、人間の言語記号活動を除外して考える事は出来ないのである。

 

さて、では、反対に、現に身を置いているシチュエーションに固く結びつけられている、とはどう云うことか、カール・フォン・フリッシュ(1886―1982)の蜂蜜の研究について、、これを考えてみよう。蜂蜜は、蜂蜜のダンスと云われる或る特定の運動によって、花蜜にかんする極めて正確な情報を仲間に伝達する事が出来る。例えば、巣から北北西に向って三粁の地点に、凡そ何匹分の蜜があり、しかもそれがどんな種類の(何の花の)蜜かを、である。だが蜂蜜は同じくそのダンスによって仲間を騙す事は有り得ないし、又出来もしない。そのダンスを仲間の前で演じて見せる為には、そのダンスの示す内容と厳密に対応するシチュエーションが事実でなければ駄目である。つまりシチュエーション・バウンド(シチュエーションに縛りつけられている)であり。しかも蜂は、蜜を探知して巣に帰ってから直ぐにこのダンスを行うので、そのダンスを、仲間に暇が出来てからなどと、翌日にまで伸ばして取って置く事は出来ないし、それを受けた仲間も又、今日は疲れたから明日行きます、と云う具合にはゆかない。つまり記号に対する反応は直接的である。そしてこの反応が又十中八九型にはまっていて多様性がない、つまり一線的である。

 これは行動的結果的に見れば、交通信号の青、赤に置換可能な場合の言語記号、「止れ」「進め」のケースに似ている。言語がそうした働き方をする場合には、それをサインと呼び、それに対するものとしてシンボルがある。

 仮に誰かが晴れた日に突然、「雨」と云う言葉を発したとする。相手が思わず窓の外を見たり、途端に洗濯物を取り入れに立ったりしたとすれば、この場合の「雨」と云う言葉はサインとして働いたのである。又相手がそれを聞いて「え? 雨がどうしたって」と反問してくるか、又は急に雨のムードに慕ってヴェルレーヌの詩でも思い出したとすれば、、その場合「雨」という言葉はシンボルとして働いた事になる。つまり前者の「雨」を相手は現実のシチュエーションに結び付け、雨と云う記号に対して直接的な反応を起こしているが、後者の場合、その相手にとって、雨と云う言葉と現実のシチュエーションとの結び付は、遥かに緩やかなものとなり、従ってその記号に対する反応は間接的、且つその人しの時によって前者よるずっと多様、多次元的である。

 サインが常に現実に結び付けられるものであるのに対して、シンボルの世界は過去、未来、更には想像上の世界にまで及ぶものである。従って結果的に云い換えれば、サインの場合、その記号Aと、記号の指示するものBが常に大体同次元に並列され得るものであるのに対して、シンボルの場合は、AとBの間に謂わば無限の次元の開きが可能である。

 

 『碧巌録』に、

 「俱胝和尚凡そ所問あれば只一指を堅つ」

とある。つまりその頃の修道僧が、仏の本質とは何ですかとか絶対とは何かなどと質問を投げかける度に、俱胝は只黙って、いつも指を一本突き出した。と云うお話である。これは極端な例だが、俱胝の突き出した指と、それによって示そうとした物の間には、全く無関係と云える程の開きがある。だが我々は又、「神」と云う言葉に託して、正にどれ程の謂わば深い、高い次元を表現する事だろうか。

 スチュアート・チェイス(1888―1985)は、犬や猫は現実主義者(リアリスト)だ、人間だけが全く禄でもない夢想家で、役にも立たぬ妄想や迷信を生み出す、と云っているが、正にその通りで、その原因になるものが、人間固有のこのシンボル的ビヘイビア(態度・振る舞い)であり、それの最も発達したもの、それの主体をなすものが言語活動である。迷信や妄想を生んだその同じものが、又宗教を、芸術を、文学を、学問を生み、文化文明を成立せしめる原因となって働いて来たのである。

 

これは井筒俊彦氏論文を道元に関連づけてワード化したものである。

なお一部修訂を加えた。(2022年・タイ国にて・二谷記す)