正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

仮名『正法眼蔵』の成立過程と編集    石井修道

仮名『正法眼蔵』の成立過程と編集

                  石井修道

一 はじめにー発表の機縁

二〇一六年一二月一六日にフランス国立東方学院のフレデリック・ジラー( FrédéricGirard )先生か ら、パリで講演をしてみないかとメールでお誘いを受けた。ヨーロッパに一度も行ったことがなかったので魅力を感じたものの、個人的な言語能力の問題とフランス語の発表資料の準備のことで躊躇した。連絡を密にする内に、日本語で発表可能で、ジラール先生が要点をフランス語で解説して下さるとのことで話は進んだ。曹洞宗総合研究センターの小早川浩大氏にも同行の声をかけ、講演を含めて、パリにあるヨーロッパ国際布教総監部(佐々木悠嶂総監)の職員の輝元泰文氏にお世話していただき、パリの観光も堪能することができた。また、ジラール先生のお宅にも招待されて、奥様の手料理をご馳走になった。中でも、弟子丸泰仙師が一九六七年にシベリア経由でフランスに渡ってから、二〇一七年はヨーロッパ布教五〇年に当り、記念行事が五月に予定されていた。その行事を終えた日程で、輝元氏と共にフランス中部のブロワ近郊にある禅道尼苑を訪ね、弟子丸泰仙師の墓に詣でることができたことは貴重な体験であった。

講演は六月一二日にパリのソルボンヌ大学内の高等学院歴史学文献学部の一室で行うことができ、聴講者は一二、三名であった。午前一〇時から三時間近く講演をし、昼食をはさんで、更に二時間以上、談話が続いた。

講演内容はジラール先生からは私の駒澤大学の最終講義のまとめでよいのではと言われた。ジラール先生は二〇一四年一月二四日の最終講義を聴いていただいた上に、懇親会では過分の高評をして下さったこともその理由であったと思われた。ただ、既にその内容は公表済みであった。

  • 石井修道「〈退任記念講演〉中国禅と道元禅―その連続面と非連続面とについて」(『駒澤大学仏教学部論集』第四五号、二〇一四年一〇月)

渡仏の話が進行している内に、道元(一二〇〇~一二五三)の『宝慶記』の研究であるジラール先生の七五〇頁にも上る『 Les dialogues de Dōgen en Chine』 ( Rayon Histoire de la Librairie Droz, 2016)が送られてきた(残念ながら私には充分には読みこなせないが)。同時に、二〇一六年四月二日のシアトルで開催されたAAS( Association for Asian Studie)の学術大会と同時開催のSSJR( Society for the Study of Japanese Religions )において、若山悠光氏と二人で行った学会発表も『駒澤大学禅研究所年報』第二八号 (二〇一六年一二月)に活字化できた。

② 若山悠光「 The Formation of Kana Shōbōgenzō ― Tracing back Beppon ( Draft edition Shinfukatoku (仮名『正法眼蔵』はどのように成立したか―別本『心不可得』を手がかりとして―)」

③ 石井修道「 On the Origins of Kana “ Shōbōgenzō”(仮名『正法眼蔵』はいつ成立したか)」

これらは英文に翻訳されているので、聴講者に抜き刷りを配布し、むしろ道元の『正法眼蔵』の研究に絞って成果を更にまとめるのがよいのではないかと思い、講演資料を作成した。因みに、若山悠光氏のSSJRの発表と同時進行していた別本三部作は、今回の発表と密接に関連し、しかもその成果はこの分野で画期的なものであった。それ故にその成果も取り入れながらのものであった。

㈠「別本『心不可得』の課題―『心不可得』と『他心通』への再治について―」(『駒澤大学禅研究所年報』第二七号、二〇一五年)及び「『永平広録』巻一、第一七上堂考―別本『心不可得』、『他心通』と関連して―」(『印度学仏教学研究』第六四巻第二号、二〇一六年)

㈡「別本『仏向上事』の性格―『永平広録』巻八法語一一と関連して―」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』第四九号、二〇一六年)及び「別本『仏向上事』考」(『曹洞宗総合研究センター学術大会紀要(第一七回)』二〇一六年)

㈢「『正法眼蔵』再治の諸相―「大悟」巻の再治をめぐって―」(角田泰隆編著『道元禅師研究における諸問題』所収、春秋社、二〇一七年)

以上、私の論文を含めた①②③の三つの論文を中心に講演し、それをまとめたものが、今回の論文である。

講演に先がけて道元の『正法眼蔵』の研究における二つの近年の成果に触れてみた。第一は、私の研究成果を踏まえて、唐代禅と宋代禅の相違と、道元禅の位置づけの問題である。かつて『宋代禅宗史の研究―中国曹洞宗道元禅―』(大東出版社、一九八七年)で、看話禅の大成者と言われる大慧宗杲(一〇八九~一一六三)の禅の性格は、「始覚門」と分析した。それは大慧宗杲自身が四巻本『大慧普説』巻四の「妙心居士孫通判請普説」の中に、張商英撰『注清浄海眼経』(=『首楞厳経』の補注刪修)の「八成就(如是我聞一時仏在)」の「仏」の釈を引用した次のように述べるところに明確である。

又た曰く、始覚と本覚と合するを之れを仏と謂う。言 (いうこころ)は如今 (いま)の始覚を以て本覚と合す。往往に黙照の徒、無言黙然を以て始覚と為し、威音王那畔を以て本覚と為す。固 (もと)より此の理にあらず。既に此の理にあらざれば、何者か是れ覚。若し全く是れ覚なれば、豈に更に迷い有らんや。若し迷い無しと謂わば、釈迦老子の明星現わるる時において忽然として便ち覚し、自家の本命元辰の元来這 裏( ここ)に在るを知 し 得るを争 (いかん)奈せん。所以 (ゆえ)に言う、始覚に因りて本覚に合す、と。禅和子家、忽然と鼻孔を摸著するは、便ち是れ這 (こ) 箇の道理なり。然も此の事は人人分上に具足せざるということ無し。

〈又曰、始覚合本覚之謂仏。言以如今始覚合於本覚。往往黙照之徒、以無言黙然為始覚、以威音王那畔為本覚。固非此理。既非此理、何者是覚。若全是覚、豈更有迷。若謂無迷、争奈釈迦老子於明星現時忽然便覚、知得自家本命元辰元来在這裏。所以言、因始覚而合本覚。禅和子家、忽然摸著鼻孔、便是這箇道理。然此事人人分上無不具足〉(東洋文庫本三丁左。『宋代禅宗史の研究』三四三~五頁。)

これは、宋代禅の「不共戴天の讎 (かたき) 」(西巌了恵の語)とまで呼ばれる二大思潮の大慧宗杲の看話禅と宏智正覚(一〇九一~一一五七)の黙照禅の相違を述べたものでもある。私は更にこの文に続いて、次のようにも分析した。

大慧も「此事人人分上無不具足」と述べるように、原理としては本覚門に立つものである。しかし、現実としては「以如今始覚合於本覚」を強調するのである。南宗禅として成立した唐代禅では、本来、本覚と始覚と分けて考える人間把握を否定しようとしたのであるが、大慧は徹底した現実肯定を主張した唐代の禅とは異なる不徹底な亜流の禅者を実際に見聞したのである。そこで已むを得ざる 立場において時勢を批判したのであり、大慧はあえて 始覚門に立つのである。

大慧禅は修行者は悟らねばならぬという経験主義(=忽然摸著鼻孔)に基づいており、極めて主張は明確である。釈尊の成道を一般説に従って三五歲とすると、悟る前は迷いであり、悟りの経験以後を悟りとするというのは、誰でもが納得するものであろう。それ故に、「もとよりさとり(本覚)」の説は二つの理解が可能となり、圭峰宗密(七八〇~八四一)の『裴休拾遺問』等を参考にすれば、唐代禅は大慧の看話禅に対して、本覚門となり、禅の表裏の関係と言ってよいのである。

つまり、私は「然も此の事は人人分上に具足せざるということ無し」と大慧が認めていることを注視するのである。始覚は本覚を前提とし、始覚門と本覚門とは表裏であることが大事なのである。私はこの主張を参考にして、従来、しばしば次のように図式化してきたのであり、宋代禅における看話禅の悟りの過程の構造を、本覚→不覚→始覚→本覚としてみた。

唐代禅(→黙照禅) 徹底的自己肯定(本覚肯定)=絶対的自己肯定(本覚現成)

看話禅      相対的自己肯定(不覚)→否定(始覚)→絶対的自己肯定(本覚回帰)

それでは道元禅はどう位置づけたらよいであろうか。同書において、禅の歴史の上にあらわれた禅の修証観を三つに要約したのである。

A本来ほとけであるから、あらゆる行為(行住坐臥)はすべてさとりのあらわれである。

B本来ほとけであるからこそ坐禅が必要である。坐禅のときにさとりがあらわれる。

C本来ほとけであるが(理として)、現実は迷っているので(事として)、さとらねばならない。(同書三八二頁)

Aは中国唐代の禅の特色である。臨済義玄は『臨済録』で次のように説いている。

道流、仏法は用 功の処無し。祇だ是れ平常無事、屙 屎 送  尿  、著衣喫飯、困  じ来たれば即ち臥す。愚人は我を笑う、智は乃ち焉 (これ) を知る。古人云く、「外に向かって功夫を作す、総に是れ痴頑の漢」と。你、且らく随処に主と作れば、立処皆な真なり。境来たれども回 換 することを得ず。(柳田聖山『臨済録』九六頁、大蔵出版、一九七二年一一月)。

 大慧が本覚と始覚に分けた言葉を借りれば、A・Bは本覚門に属し、Cは始覚門に属す。大慧は已む を得ざる 理由によりCに立つ。Bはすでにみたように道元禅の特色である。A・Bは微妙な違いではあるが、宏智の禅はAの中国禅に傾き、積極的なBの主張をなしえなかった。Aは自己肯定が徹底している間は、唐代禅として特色を保ちえた。しかし、宋代にはAの誤った禅として、無事禅だおれの禅に陥った。Cは誤ったAを救うにあった。宏智の禅はBの特色をもちながらも、その集団は、誤ったAの禅と同じ流れに属した。大慧が黙照邪禅と言う理由も、悪しきAの禅を指したのである。道元禅は、AとCが対立するかぎり、Aの流れの誤りの克服が必要であって、徹底したBを強調した。BとCとは異なる立場をとりながらも、もはやCから攻撃を受けるAの陥りやすい危険性を克服したのである。ゆえにAとCは、並列の関係でない独自の存在があったのであるが、道元の眼に映じたものは、Aの悪しき流れであり、AとCの対立する立場であった。悪しきAを克服しようとする点では、BもCも同じであるが、BとCは修証観が全く異なっていた。如浄がCであったのも、悪しきAを克服する点で、大慧と同じであったが、一方でCに立脚してBの要素を黙照禅の系譜としてもっていたものである。道元はCのみ大勢を占めていた中にあって、修行の必要性を強調する如浄が、A・Bを含み得ていたがゆえに師資契合したのである。それは如浄の身体を通しての思想であり、道元は宗教仮名『正法眼蔵』の成立過程と編集的人格を如浄の上に見たのである。しかし道元が自然外道に類似する天台本覚法門への疑滞を持ったのに対して、如浄は禅宗内のさとりに安住する坐の克服にあった訳であるから、日本仏教の課題における道元の疑滞の深さは如浄には存在しなかったと言ってよかろう。(同書三八二~三八三頁)

このように、Aは唐代禅、Cは宋代の看話禅、そして、Bを道元禅としたのである。この私の結論は基本的には今日まで変わらずに到っている。しかし、BとAとの相違は修証論の相違であり、中国禅の思想史にあらわれたのは、A・Cこそ禅思想の特色であった。

第二は、道元禅を考える場合、公案禅と看話禅とは同義語と考えるのは問題があるという点である。小川隆氏の『禅思想史講義』(春秋社、二〇一五年)は最も参考になるので、その著を抜萃して引用してみよう。

  (宋代は)禅門共有の古典として収集・選択された先人の問答の記録である「公案」、それを所与の 教材として参究することが修行の中心となっていったのです。「公案」の参究の方法は、大まかに「文字禅」と「看話禅」の二つに分けて考えることができます。「文字禅」は、公案の批評や再解釈を通して禅理を闡  明  しようとするもの。(『碧巌録』は「文字禅」の精華と称すべき書物です。)いっぽう、「看話禅」は、特定の一つの公案に全身全霊を集中させ、その限界点で心の激発・大破をおこして決定的な大悟の実体験に到ろうとする方法です。その際、最も重視され多用された公案が「趙州無字」の話  でした。

  「公案禅」という呼称がこれまで広狭さまざまな意味で使われ、混乱のもとになってきました。と くに「公案禅」と「看話禅」を不用意に同義語として用いてきたことが、話をややこしくしています。「只管打坐」といいながら道元公案を用いているではないか。とか、公案に反対していた道元公案集の著作があるのはナゼか、とか……。しかし、「公案禅」は「公案」を扱う禅の総称、「文字禅」と「看話禅」はその下位区分、と整理して考えれば、そういう問いのおかしさが解ります。道元が反対していたのは「看話禅」であって、「公案禅」一般ではありません。大著『正法眼蔵』は、「看話禅」に反対しながら、むしろ、和文による新種の「文字禅」を展開したものと看るべきでしょう。(同書一一七~一一九頁)

公案禅」と「看話禅」の混乱を正した見事な「公案禅」の解説だと私には思われ、この論文を進める上で重要な視点となること間違いないといえよう。もちろん、『正法眼蔵』を「文字禅」の語で表現することに反対する人も出てくるかもしれないが、要は小川隆氏によって禅思想史の解明に有意義な整理がなされたことを重要視すべきであろう。

以上の二点を前提として、『正法眼蔵』の成立過程と編集をみていくことにしよう。

 

二 漢字文献から仮名文献へー真字『正法眼蔵』の性格(その一)「庵主渓深柄長」話

道元の代表的な著述が、『正法眼蔵』であることはよく知られている。そしてその『正法眼蔵』は和文で書かれたものであることは言うまでもない。ところが、道元の著述として、今一つ漢字で書かれた『正法眼蔵』が道元の研究上で注目をあつめてきた。共に『正法眼蔵』の総題であるから、前者を仮 字 (仮 名 )『正法眼蔵』(従来より私の論文では仮名を使用)と呼ぶのに対して、区別して後者を真 字  (真 名 )『正法眼蔵』(従来より私の論文では真字を使用)と呼んでいる。真字『正法眼蔵』の著作は、古くから『正法眼蔵三百仮名『正法眼蔵』の成立過程と編集則』とか『三百則正法眼蔵』と称して伝承し、一般には、その内容をふまえ、あるいは江戸時代に刊行された『拈 評  三百則不能 語 』が流行したことにより『三 百 則  』と通称している。道元の『正法眼蔵』には、このように仮名と真字の二種が存在するのである。私も『中国禅宗史話―真字「正法眼蔵」に学ぶ』(禅文化研究所、一九八八年)を出版し、真字『正法眼蔵』に関心を持ち続けてきた。また、編集責任者として『道元集〈中世禅籍叢刊第二巻〉』(臨川書店、二〇一五年)を刊行し、金沢文庫本真字『正法眼蔵』(担当池上光洋)の重要性を改めて再認識することができた。ただ、私が「真字『正法眼蔵』の基づく資料について」(『曹洞宗研究員研究生研究紀要』第三号、一九七一年)で引用出典を発表した頃とは異なり、原典資料の新たな貴重本の刊行やデータ資料のCBETの利用が可能となり、研究環境が格段の進歩を遂げた。道元のより正確な出典研究において、大正大蔵経の禅籍に問題があることについては、『中国禅籍集二〈中世禅籍叢刊第九巻〉』(臨川書店、二〇一六年)の「解題〈総説〉」で述べた通りである。

真字『正法眼蔵』の研究史は前著にまとめておいたが、圭室諦成「金沢文庫正法眼蔵について」(『中外日報』一九四〇年八月三一日・九月一・三・四日)の紹介により、多くの研究者の注目を引き、大きく研究が発展することとなった。野村瑞峰「『金沢文庫正法眼蔵』―第二十二則について」(『金沢文庫研究』通巻一一七号、一九六五年)は、二二則「玄則丙丁童子」と『弁道話』の引用の密接な関係を具体化した。私もこの顕著な例を、既に『道元禅の成立史的研究』(大蔵出版、一九九一年)の中で、金沢文庫本二二則「玄則丙丁童子」の出典の宋版『宏智録』巻一(一一~一二頁。名著普及会、一九八四年)とこの話の道元の全ての著述で検討し、漢字文献から仮名文献への移行を詳細に述べたことがある。

ここでは、まずは『正法眼蔵』の成立過程を考えるのに、重要な問題提起のできる次の金沢文庫本真字『正法眼蔵』八三則「庵主渓深柄長」を取り上げることにする。

 雪峰山畔、有一僧卓庵。多年不剃頭。自作一柄木杓、去渓辺舀水喫。時有僧問、如何是祖師西来意。菴主云、渓深杓柄長。僧帰挙似雪峰。峰云、也甚奇怪。雖然如是、須是老僧勘過始得。峰一日、同侍者将剃刀去訪他。纔相見便問、道得即不剃汝頭。菴主便将水洗頭。峰便与他剃却。

右の金沢文庫本による訓読文(カタカナのふりがなは原典。〈 〉は補)

雪峰山の畔 ほとりに、一の僧有 あ〈り〉て庵を卓 タつ。多年剃 テイ頭せず。自ら一柄(ヒン)の木杓(サウ)を作 ツクりて、渓辺に去 ユきて水を舀 クむて で喫 ノむ。時に僧有〈り〉て問〈ふ〉、「如 いかにあらんか 何是 これ祖師西来意」。菴主云〈く〉、「渓 タニ深 ふか(シム)けれは ば杓 しやく (サウ)の柄 エ(ヒム)長 ナカ (シヤム)し。僧帰〈り〉て雪峰に挙似す。峰云く、「也 ま (ヤ)た甚 はな (シム)はた だ奇 キ怪 クワイ なり。然 しかも是 かくの如 ごとく なりと雖 いへど も、須 すべか らく是れ老僧勘 かんがへ 過 スご して始 はじめ て得 ウへ べし」。峰一日、侍者同 ト剃刀を将 モて去 サりて他 カレ を訪 とぶら ふ。纔 わづか に相見するに便ち問ふ、「道得ならは ば即〈ち〉汝か が頭を剃 ソらシ じ」。菴主便ち水を将 モて頭を洗ふ。峰便ち他 カレ か が与 タメ に剃 テイ 却す。(臨川書店本四五七頁)

その道元の出典は、以前指摘した通り、次の大慧『正法眼蔵』巻上であり、改めてCBETAで関連ある全資料で確認したところ、間違いないことが判明した。

雪峰山畔、有一僧卓菴。多年不剃頭。自作一柄木杓、去渓辺舀水喫。時有僧問、如何是祖師西来意。菴主云、渓深杓柄長。僧帰挙似雪峰。峰云、也甚奇怪。雖然如是、須是老僧勘過始得。峰一日、同侍者将剃刀去訪佗。纔相見便問、道得即不剃汝頭。菴主便将水洗頭。峰便与佗剃却。(宋版八丁左。『禅学典籍叢刊第四巻』所収、臨川書店、二〇〇〇年参照)

この著の撰者の大慧宗杲は看話禅の大成者であり、道元が徹底的に批判していることはよく知られているが、私も「『説心説性』『自証三昧』考」(『駒澤大学仏教学部研究紀要』第六七号、二〇〇九年)で述べたことがある。大慧も道元も共に、なぜ『正法眼蔵』と命名したのかの問題については、後述する。禅籍の仮名『正法眼蔵』の成立過程と編集中には一字も相違しない文献は多く存在するが、同様に真字『正法眼蔵』の出典が大慧『正法眼蔵』であることに断定できるものは、金沢文庫本に限れば、五六則「霊雲驢事馬事」が挙げられる。なお、金沢文庫本は中巻のみで、しかも完本ではないのであるが、私は金沢文庫管理の『百丈禅師広説・法門大綱』の写本に、この話を含めて真字『正法眼蔵』の引用があることを新たに発見することができた(『稀覯禅籍集〈中世禅籍叢刊第十巻〉』臨川書店、二〇一七年)。これは金沢文庫本の真字『正法眼蔵』が伝承されたことを意味する重要な問題となる。

こうしてできあがった真字『正法眼蔵』がやがて仮名『正法眼蔵』となるのである。なお、真字『正法眼蔵』は、先にいうように『弁道話』(一二三一年成立)に金沢文庫本二二則「玄則丙丁童子」の引用があり、『現成公案』(一二三三年成立)に金沢文庫本二三則「宝徹無処不周」(出典は『宗門統要集』巻三、宋版二一丁右)の引用があることから、道元の早い時期の手控えが存在したと考えられるが、現在のところ真字『正法眼蔵序』の成立した嘉禎元年(一二三五)に一応の完成を認めてよいと思っている。

仮名文献として成立した『正法眼蔵道得』は、二つの公案を中心に構成されている。前者は「趙州不離叢林」の話で、真字『正法眼蔵』には無く、『聯灯会要』巻六「趙州従諗章」が原典である。

示衆云、你若一生不離叢林、不語十年五載、無人喚你作唖漢、已後仏也不奈你何。(『五山版中国禅籍叢刊第二巻灯史2上』九丁左~一〇丁右。続蔵巻一三六―二六四左下参照)

この語はほぼそのまま『正法眼蔵行持』(一二四二年)に次のように引用されている。

あるとき衆にしめしていはく、「你若一生不離叢林、不語十年五載、無人喚你作唖漢、已後諸仏也不奈你何」。これ、行持をしめすなり。(岩波文庫本㈠三一四頁)

これが元来の道元のテキストであったと思われる。そして『行持』は、この語の前に趙州従諗(七八八~八九七)の行持を示し、結局、不離叢林の行持を讃歎するものである(『道元禅師正法眼蔵行持に学ぶ』一四四頁以下参照。禅文化研究所、二〇〇七年)。ところが、それを踏まえて同年の一〇月五日に『正法眼蔵道得』に一部語句を変更して引用されるが、この語句の変更は主題を貫徹するためのものであったと思われる。

趙州真際大師示衆云、「你若一生不離叢林、兀坐不道十年五載、無人喚作你唖漢、已後諸仏也不及你哉」。(岩波文庫本㈡二八五頁)

「不語」を「兀坐不道」に改めたのは、もちろん「道得」を主張するためであり、原典の不立文字に徹する主張に対して、「不語」とは「兀坐不道」、つまり坐禅することであるとするのである。そのことは本文で、「しかあれば、一生不離叢林は、一生不離道得なり。兀坐不道十年五載は、道得十年五載なり」(同二八六頁)と述べる通りである。更に「兀坐は一生、二生なり。一時、二時にあらず。兀坐して不道なる十年五載あれば、諸仏もなんぢをないがしろにせんことあるべからず。まことにこの「兀坐不道」は、仏眼也覰不見なり、仏力也牽不及なり。諸仏也不奈你何なるがゆゑに」とある。

ここは二つの興味あることが知られる。一つは『道得』に引用された「已後諸仏也不及你哉」の道元のテキストは、元来、『行持』と同じく「諸仏也不奈你何」であったことを知った上での改めであることである。いま一つは趙州の説の中には元来、「道得」の語もなく、「道得」が主題でもなかったが、「兀坐不道」は「道得」であり、それは「仏向上事」であることを示したものである。入矢義高氏は『龐居士語録』(筑摩書房、一九七三年)の中に、「わが道元禅師が強調する「道得」は、本当の悟りは、その悟りの当体が同時に言葉に定着できるということでなくてはならぬ、という趣旨」(七三頁)と述べている。それ故に一二四二年の三月二三日以前に示衆された別本『仏向上事』とその日に示衆した『仏向上事』と関係して述べたと言ってよいであろう。この話は真字『正法眼蔵』には、洞山良价の語として①上巻一二則「洞山仏向上事」と②上巻七二則「洞山仏向上事」の二つが存在する。

①筠州洞山悟本大師〈嗣雲岩、諱良价〉示衆云、体得仏向上事、方有些子語話分。僧便問、如何是語話。師曰、語話時闍梨不聞。僧曰、和尚還聞否。師曰、待我不語話時即聞。(春秋社版『道元禅師全集第五巻』一三二頁)

②洞山云、須知有仏向上事。僧問、如何是仏向上事。師曰、非仏。雲門曰、名不得、状不得、所以言非。(同一六二頁)

①の出典は『景徳伝灯録』巻一五「洞山良价章」(禅文化本二九九頁参照)であり、そのまま『正法眼蔵仏向上事』(岩波文庫本㈡一二八頁)の冒頭に取り上げられる。

②の出典は大慧が『雲門広録』巻中(大正蔵巻四七―五五八a)から引用した次の大慧『正法眼蔵』巻上(=『大慧語録』巻七、大正蔵巻四七―八四〇a)である。

洞山云、須知有仏向上事。僧問、如何是仏向上事。師曰、非仏。雲門曰、名不得、状不得、所以言非。(宋版一四丁左~一五丁右)

しかし、道元が『仏向上事』にこの話を引用するに当たっては、次のように別本『仏向上事』の冒頭では、①と合糅したか、後に引用する『景徳伝灯録』の語を「仏向上人」ではなく、「仏向上事」の説として取り上げている。

洞山悟本大師の云、すべからく仏向上の事あることをしるべし。仏向上の事あることをしりて、正に語話の分あるべし。(春秋社版『道元禅師全集第二巻』五六九頁)

このことを踏まえるが故に、②の雲門文偃の語を残しながら『仏向上事』の引用は更に出典を複雑にしている。

高祖悟本大師、示衆云、「須知有仏向上人」。時有僧問、「如何是仏向上人」。大師云、「非仏」。雲門云、「名不得、状不得、所以言非」。保福云、「仏非」。法眼云、「方便呼為仏」。おほよそ仏祖の向上に仏祖なるは、高祖洞山なり。(岩波文庫本㈡一三二頁)

この則は、もともと『景徳伝灯録』巻一五「洞山良价章」の別の話を引用しようとしたものである。師謂衆曰、知有仏向上人、方有語話分。時有僧問、如何是仏向上人。師曰。非常。〈保福別云、仏非。法眼別云、方便呼為仏〉(禅文化本三〇〇頁。道元の参照したテキストは「非仏」であった可能性あり)

ただし、この『仏向上事』に引用された『景徳伝灯録』の話は、「道得」の説を離れて「方有語話分」の語も削除されているし、雲門文偃の語はないので、必ずや真字『正法眼蔵』の上巻七二則が合糅されたことが判明しよう。

『道得』に引用された前者の「趙州不離叢林」が仮名文献となるには、複雑な成立過程があることが知られた。第一にその話にはもともと「道得」の語はなく、道元がその話によって「道得」を強調して示衆しようとしたものである。

ところがここで取り上げようとする後者の「庵主渓深柄長」の話には、「道得」が語られていた。それ故に、後者の展開は、問答に添って詳細な解説がなされており、『道得』を撰述するに当たっては、重要な公案だったのである。次のように展開するのである。

 

雪峰の真覚大師の会に一僧ありて、やまのほとりにゆきて、草をむすびて庵を卓す。としつもりぬれど、かみをそらざりけり。庵裡の活計たれかしらん、山中の消息悄然なり。みづから一柄の木杓を仮名『正法眼蔵』の成立過程と編集つくりて、渓のほとりにゆきて水をくみてのむ。まことにこれ飲渓のたぐひなるべし。

 かくて日往月来するほどに、家風ひそかに漏泄せりけるによりて、あるとき僧きたりて庵主にとふ、「いかにあらんかこれ祖師西来意」。庵主云、「渓深杓柄長」。とふ僧おくことあらず、礼拝せず、請益せず。やまにのぼりて雪峰に挙似す。雪峰ちなみに挙をきゝていはく、「也甚奇怪、雖然如是、老僧自去勘過始得」。雪峰のいふこころは、「よさはすなはちあやしきまでによし、しかあれども、老僧みづからゆきてかんがへみるべし」となり。かくてあるに、ある日、雪峰たちまちに侍者に剃刀をもたせて卒しゆく。直に庵にいたりぬ。わづかに庵主をみるに、すなはちとふ、「道得ならばなんぢが頭をそらじ」。

この問、こゝろうべし。「道得不剃汝頭」とは、「不剃頭は道得なり」ときこゆ。いかん。この道得もし道得ならんには、畢竟じて不剃ならん。この道得、きくちからありてきくべし。きくべきちからあるもののために開演すべし。ときに庵主、かしらをあらひて雪峰のまへにきたれり。これも道得にてきたれるか、不道得にてきたれるか。雪峰すなはち庵主のかみをそる。

この一段の因縁、まことに優曇の一現のごとし。あひがたきのみにあらず、きゝがたかるべし。七聖十聖の境界にあらず、三賢七賢の覰 しよ けん にあらず。経師論師のやから、神通変化のやから、いかにもはかるべからざるなり。仏出世にあふといふは、かくのごとくの因縁をきくをいふなり。しばらく雪峰のいふ「道得不剃汝頭」、いかにあるべきぞ。未道得の人これをきゝて、ちからあらんは驚疑すべし、ちからあらざらんは茫然ならん。仏と問著せず、道といはず、三昧と問著せず、陀羅尼といはず、かくのごとく問著する、問に相似なりといへども、道に相似なり。審細に参学すべきなり。しかあるに、庵主まことあるによりて、道得に助発せらるゝに茫然ならざるなり。家風かくれず、洗頭してきたる。これ仏自智恵、不得其辺の法度なり。現身なるべし、説法なるべし、度生なるべし、洗頭来なるべし。ときに雪峰もしその人にあらずは、剃刀を放下して呵々大咲せん。しかあれども、雪峰そのちからあり、その人なるによりて、すなはち庵主のかみをそる。まことにこれ雪峰と庵主と、唯仏与仏にあらずよりは、かくのごとくならじ。一仏二仏にあらずよりは、かくのごとくならじ。龍と龍とにあらずよりは、かくのごとくならじ。驪珠は驪龍のをしむこゝろ懈倦なしといへども、おのづから解収の人の手にいるなり。

しるべし、雪峰は庵主を勘過す、庵主は雪峰をみる。道得不道得、かみをそられ、かみをそる。しかあればすなはち、道得の良友は、期せざるにとぶらふみちあり。道不得のとも、またざれども知己のところありき。知己の参学あれば、道得の現成あるなり。

正法眼蔵道得第三十三 仁治三年壬寅(一二四二)十月五日、書于観音導利興聖宝林寺 沙門 同三年壬寅十一月二日書写之   懐弉(岩波文庫本㈡二八七~二九二頁)

和語化とは、具体的にいかなるものかを知ることができると共に、この話を通して道元のいう「道得」の世界が判明するのである。

先にいうようにこの話は大慧『正法眼蔵』から引用されたことを再確認した。道元の仮名『正法眼蔵命名の由来を考えると、既に真字『正法眼蔵』として道元の初期の著述にあることが知られるが、大慧を全く認めない道元がなぜ大慧『正法眼蔵』と同名の著を著すに到ったのであるかは、既に従来の研究で述べてはいるが、このことも再論しておこう。

大慧『正法眼蔵』の成立過程も大慧の伝記も、北宋の滅亡と深く関係している。大慧は宣和七年仮名『正法眼蔵』の成立過程と編集(一一二五)に北宋の都の東 京 (開  封  )において、師の圜  悟 克  勤  (一〇六三~一一三五)の下で大悟している。その当時といえば、靖康元年(一一二六)一一月には、北宋女真族の金に都を陥れられ、その翌年、徽 宗  ・欽宗以下の皇族と官僚など数千人は北方へ拉致されて、北宋は滅ぶことになる(靖康の変)。一一二七年五月に、幸い北従を免れていた、徽宗の第九子、康王趙構が、南京(応天府)で即位して高宗となり、宋の王朝は再興された。南宋の成立である。東京が陥落する以前の八月に南下していた大慧が、後に同じく南下した圜悟克勤に雲居山で出会ったのが、一一二八年一〇月のことである。翌年、圜悟は故郷の四川に帰る時に、大慧には政情不安を理由に、大寺に住して修行者を指導することをしばらく留まるように伝えていた。圜悟の指示通りにしばらく江西省に留まっていた大慧が、紹興四年(一一三四)に福建省を訪れるのである。この年、大慧は洋嶼の雲門庵に留まり、曹洞宗の真歇清了(一〇八八~一一五一)の雪峰寺の集団に対して黙照邪禅の攻撃を行い、それと同時に看話禅が成立するのである。圜悟の訃報が届いたのが一一三六年で、大慧が泉州の雲門庵に住していた時のことである。その時、大慧は圜悟の遺言を知るのである。やや政情が落ち着きを取り戻したので、大寺に住持して参禅指導して臨済の禅を復興して欲しいということであった。そこで大慧は一一三七年七月二一日に径  山  の受請上堂を行うのである。大慧の四九歳の時である。当時の平和は秦  檜 (一〇九一~一一五五)の結んだ金の臣下となる屈辱的な条約で保たれていたのである。この状況に不満をもった金との戦いをも辞さない主戦論者もいたが、秦檜はこれらの人々への弾圧を加えていたのである。たまたま一一四一年に、五三歳の大慧と交流していた主戦論者の張九成(一〇九二~一一五九)との関係が密議と疑われて、僧籍を剥奪されて流罪となるのである。これを「神  臂 弓 事件」と呼ぶ。最初の配所は衡州(湖南省)であり、この時に『正法眼蔵』は成立するのである。上巻の冒頭の「琅邪和尚」の項の大慧の長文の拈語の一部に次のように示すのである。

予、罪に因りて衡陽に居す。門を杜じて循省するの外、用心する所無し。間 に衲子の請益する有り。已 むを得ず之 れが与  に酬酢するに、禅者沖密、慧然、手に随いて抄録す。日月浸久して一巨軸と成る。沖密等、持ち来たりて、其の題を名づくるを乞う。後来に昭示して仏祖の正法眼蔵をして不滅ならしめんと欲  す。予、因りて之れに目 づけて正法眼蔵と曰う。即ち琅邪を以て篇首と為す。故に尊宿の前後次序、宗派殊異の分無し。但だ向上の巴鼻を徹証し、人に与えて粘を解き縛を去り正眼を具えるに堪えることを取らしむのみ(臨川書店本二丁右左)

『大慧普覚禅師年譜』によれば、紹興一七年(一一四七)の大慧五九歳の時の完成とし、その時、既に刊本も存在したことを伝えている。その後、一一五〇年に流罪地が梅州(広東省)へと移ったのである。一一五五年一〇月二二日に秦檜が没したために、翌年の一一五六年に、復僧が許され流罪が終わるのである。大慧は既に六八歳となっていた。その年一一月、天童寺に住持していた黙照禅の大成者の宏智正覚(一〇九一~一一五七)の推挙によって、大慧は育王寺に住することになる。その後、径山に再住し、隆興元年八月一〇日、七五歳で示寂するのである。

先の「琅邪」の項の長文の拈語で知られるように、修行者に転迷開悟(=以悟為則)させる話を随意に選んだもので、『正法眼蔵』三巻の全六六三則(従来の六六一則説を改める)の公案集からなるものである。その公案の利用方法は次の『大慧書』の「富枢密〈季申〉に答う」に明確である。

但だ妄想顛倒の心、思量分別の心、好生悪死の心、知見解会の心、欣静厭鬧の心を将 て、一時に按下せよ。只だ按下の処に就いて箇の話頭を看よ。「僧、趙州に問う、狗子に還  た仏性有り也  無。州云く、無」と。此の一字子は、乃ち是れ許多の悪知悪覚を摧く底  の器仗なり。有無の会を作すこと得ざれ、道理の会を作すこと得ざれ、意根下に向  て思量卜度すること得ざれ、揚眉瞬目の処に向て挅根すること得ざれ、語路上に向て活計を作すこと得ざれ、無事甲裏に颺  在  することを得ざれ、挙起の処に向て承当すること得ざれ、文字中に向て引証すること得ざれ、但だ十二時中四威儀内に向て、時時に提撕し、時時に挙覚せよ、「狗子に還た仏性有る也無、云く、無」と。日用を離れずに、試みに此の如くの工夫を做 し看よ。月の十日に便ち自ら見得せり。一郡千里の事も、都  て相い妨げず。

〈但将妄想顛倒底心、思量分別底心、好生悪死底心、知見解会底心、欣静厭鬧底心、一時按下。只就按下処看箇話頭。僧問趙州、狗子還有仏性也無。州云、無。此一字子、乃是摧許多悪知悪覚底器仗也。不得作有無会、不得作道理会、不得向意根下思量卜度、不得向揚眉瞬目処挅根、不得向語路上作活計、不得颺在無事甲裏、不得向挙起処承当、不得向文字中引証、但向十二時中四威儀内、時時提撕、時時挙覚、狗子還有仏性也無、云、無。不離日用、試如此做工夫看。月十日便自見得也。一郡千里之事、都不相妨。〉(大正蔵巻四七―九二一c)

この全身全霊の無字への取り組みこそ看話禅の方法であった。それに対して、別本『大悟』で言えば、道元は全く正反対の「先師ヨノツネニ衆ニシメシテイハク、参禅者心身脱落也、不是待悟為則」(臨川書店本四八七頁)の語によって、大慧と対立していることが判明できよう。それ故に、道元の「正法眼蔵」の語は、『正法眼蔵優曇華』などの次の語からきているのである。

霊山百万衆前、世尊拈優曇華瞬目。于時摩訶迦葉、破顔微笑。世尊云、「我有正法眼蔵涅槃妙心、附属摩訶迦葉」。

七仏諸仏はおなじく拈華来なり、これを向上の拈華と修証現成せるなり。直下の拈花と裂破開明せり。(岩波文庫本㈢三三九頁)

大慧も道元も書名に『正法眼蔵』を使用したが、その公案の使用方法は全く異なるものであった。故に真字『正法眼蔵』の名は大慧の命名とは反定立といえるのである。その命名がやがて仮名『正法眼蔵』の命名に継承されることになり、道元の世界へ開花していくのである。

 

三 漢字文献から仮名文献へ

―真字『正法眼蔵』の性格(その二)―『正法眼蔵仏性』の成立過程

道元の『正法眼蔵』は、草案本のままではなく、再治を重ねて中書・清書されているが、そのなまなましい再治の痕跡を残した唯一の書写本が永平寺に所蔵される懐奘筆の『仏性(『道元禅師真蹟関係資料集』「 On the Origins of Kana “ Shōbōgenzō ” (仮名『正法眼蔵』はいつ成立したか)」も参照)。これほど『正法眼蔵』の成立過程を 検討するにふさわしい文献はない。そこでここでは『正法眼蔵仏性』の成立過程を中心に、真字『正法眼蔵』の性格に言及してみよう。『仏性』に取り入れられた真字『正法眼蔵』の公案は、仮名『正法眼蔵』の順に直していえば、「大潙衆生無仏」「趙州狗子仏性」「長沙莫妄想縁」の次の三つがある。

    A 金沢文庫本一五則「大潙衆生無仏

大潙嘗示衆云、一切衆生無仏性。因塩官或示衆云、一切衆生有仏性。塩官会有二僧、遂特詣師会探之。既到、所聞説法、莫測其涯、若生軽慢。一日在庭中坐次、見仰山来、遂勧曰、師兄、切須勤学仏法、不得容易。仰山遂作一円相托呈、却抛向背後、復展両手就二僧索。二僧茫然不知所措。仰山乃勧云、直須勤学仏法、不得容易。珍重便去。二僧逮返塩官、将行三十里。一人忽然有省。自嘆云、当知潙山云一切衆生無仏性、誠不錯也。却廻潙山。一人又行数里。因渡水亦有省処。自嘆云、潙山道、一切衆生無仏性。灼然有他与麼道。亦返潙山。(臨川書店本四四二~四四三頁。出典は『統要集』巻四の「大潙霊祐章」、宋版三五丁右左)

    B 金沢文庫本一四則「趙州狗子仏性」

僧問趙州、狗子還有仏性也無。州云、有。僧云、既有、為什麼却撞入這箇皮袋。州云、為他知而故犯。有僧問、狗子還有仏性也無。州云、無。僧云、一切衆生皆有仏性。狗子為什麼却無。州云、為伊有業識在。(同四四二頁。出典は『宏智録』巻二、名著普及会本八八頁)

    C 真字『正法眼蔵』巻上二〇則「長沙莫妄想縁」

長沙県景岑禅師、因竺尚書問、蚯蚓斬為両段、両頭倶動。未審仏性在阿那箇頭。師曰、莫妄想。書曰、争奈動何。師曰、会即風火未散。書無対。師却喚尚書。書応諾。師曰、不是尚書本命。書曰、不可離却即今祗対有第二箇主人公也。師曰、不可喚尚書作今上也。書曰、与麼則総不祗対和尚、莫是弟子主人公否。師曰、非但祗対不祗対老僧、従無始劫来、是箇生死根本。乃示頌云、学道之人不識真、祗為従前認識神。無始劫来生死本、癡人喚作本来人(春秋社版一三六頁。出典は『統要集』巻四の「長沙景岑章」、宋版一七丁左~一八丁右)。

これら A BC に対応する仮名『正法眼蔵』が、以下の⒜⒝⒞の展開である。    

⒜『正法眼蔵仏性』(岩波文庫本㈠一〇六~一一〇頁)

杭州塩官県斉安国師は、馬祖下の尊宿なり。ちなみに衆にしめしていはく、「一切衆生有仏性」。

いはゆる「一切衆生」の言、すみやかに参究すべし。一切衆生、その業道依正ひとつにあらず、その見まちまちなり。凡夫外道、三乗五乗等、おのおのなるべし。いま仏道にいふ一切衆生は、有心者みな衆生なり、心是衆生なるがゆゑに。無心者おなじく衆生なるべし、衆生是心なるがゆゑに。しかあれば、心みなこれ衆生なり、衆生みなこれ有仏性なり。草木国土これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。日月星辰これ心なり、心なるがゆゑに衆生なり、衆生なるがゆゑに有仏性なり。国師の道取する有仏性、それかくのごとし。もしかくのごとくにあらずは、仏道に道取する有仏性にあらざるなり。いま国師の道取する宗旨は、「一切衆生有仏性」のみなり。さらに衆生にあらざらんは、有仏性にあらざるべし。しばらく国師にとふべし、「一切諸仏有仏性也無」。かくのごとく問取し、試験すべきなり。「一切衆生即仏性」といはず、「一切衆生、有仏性」といふと参学すべし。有仏性の有、まさに脱落すべし。脱落は一条鉄なり、一条鉄は鳥道なり。しかあれば、一切仏性有衆生なり。これその道理は、衆生を説透するのみにあらず、仏性をも説透するなり。国師たとひ会得を道得に承当せずとも、承当の期なきにあらず。今日の道得、いたづらに宗旨なきにあらず。又、自己に具する道理、いまだかならずしもみづから会取せざれども、四大五陰もあり、皮肉骨髄もあり。しかあるがごとく、道取も、一生に道取することもあり、道取にかゝれる生々もあり。

大潙山大円禅師、あるとき衆にしめしていはく、「一切衆生無仏性」。これをきく人天のなかに、よろこぶ大機あり、驚疑のたぐひなきにあらず。釈尊説道は「一切衆生悉有仏性」なり、大潙の説道は「一切衆生無仏性」なり。有無の言理、はるかにことなるべし、道得の当不、うたがひぬべし。しかあれども、「一切衆生無仏性」のみ仏道に長なり。塩官有仏性の道、たとひ古仏とともに一隻の手をいだすににたりとも、なほこれ一条拄杖両人舁なるべし。

いま大潙はしかあらず、一条拄杖呑両人なるべし。いはんや国師は馬祖の子なり、大潙は馬祖の孫なり。しかあれども、法孫は、師翁の道に老大なり、法子は、師父の道に年少なり。いま大潙道の理致は、「一切衆生無仏性」を理致とせり。いまだ曠然縄墨外といはず。自家屋裏の経典、かくのごとくの受持あり。さらに摸摸 鎍すべし、一切衆生なにとしてか仏性ならん、仏性あらん。もし仏性あるは、これ魔儻なるべし。魔子一枚を将来して、一切衆生にかさねんとす。仏性これ仏性なれば、衆生これ衆生なり。衆生もとより仏性を具足せるにあらず。たとひ具せんともとむとも、仏性はじめてきたるべきにあらざる宗旨なり。張公喫酒李公酔といふことなかれ。もしおのづから仏性あらんは、さらに衆生にあらず。すでに衆生あらんは、つひに仏性にあらず。

このゆゑに百丈いはく、「説衆生有仏性、亦謗仏法僧。説衆生無仏性、亦謗仏法僧」。しかあればすなはち、有仏性といひ無仏性といふ、ともに謗となる。謗となるといふとも、道取せざるべきにはあらず。

且問你、大潙、百丈しばらくきくべし。謗はすなはちなきにあらず、仏性は説得すやいまだしや。たとひ説得せば、説著を罣礙せん。説著あらば聞著と同参なるべし。また、大潙にむかひていふべし。一切衆生無仏性はたとひ道得すといふとも、一切仏性無衆生といはず、一切仏性無仏性といはず、いはんや一切諸仏無仏性は夢也未見在なり。試挙看。    

⒝『正法眼蔵仏性』(同一一七~一二二頁)

 趙州真際大師にある僧とふ、「狗子還有仏性也無」。この問の意趣あきらむべし。狗子とはいぬなり。かれに仏性あるべしと問取せず、なかるべしと問取するにあらず。これは、鉄漢また学道するかと問取するなり。あやまりて毒手にあふ、うらみふかしといへども、三十年よりこのかた、さらに半箇の聖人をみる風流なり。趙州いはく、「無」。

この道をきゝて、習学すべき方路あり。仏性の自称する無も恁麼なるべし、狗子の自称する無も恁麼道なるべし、傍観者の喚作の無も恁麼道なるべし。その無わづかに消石の日あるべし。僧いはく、「一切衆生皆有仏性、狗子為甚麼無」。いはゆる宗旨は、一切衆生無ならば、仏性も無なるべし、狗子も無なるべしといふ、その宗旨作麼生、となり。狗子仏性、なにとして無をまつことあらん。趙州いはく、「為他有業識在」。この道旨は、「為他有」は「業識」なり。「業識有」、「為他有」なりとも、狗子無、仏性無なり。業識いまだ狗子を会せず、狗子いかでか仏性にあはん。たとひ双放双収すとも、なほこれ業識の始終なり。

趙州有僧問、「狗子還有仏性也無」。この問取は、この僧、搆得趙州の道理なるべし。しかあれば、仏性の道取問取は、仏祖の家常茶飯なり。趙州いはく、「有」。この有の様子は、教家の論師等の有にあらず、有部の論有にあらざるなり。すゝみて仏有を学すべし。仏有は趙州有なり、趙州有は狗子有なり、狗子有は仏性有なり。僧いはく、「既有、為甚麼却撞入這皮袋」。この僧の道得は、今有なるか、古有なるか、既有なるかと問取するに、既有は諸有に相似せりといふとも、既有は孤明なり。既有は撞入すべきか、撞入すべからざるか。撞入這皮袋の行履、いたづらに蹉過の功夫あらず。趙州いはく、「為他知而故犯」。この語は、世俗の言語としてひさしく途中に流布せりといへども、いまは趙州の道得なり。いふところは、しりてことさらをかす、となり。この道得は、疑著せざらん、すくなかるべし。いま一字の入あきらめがたしといへども、入之一字も不用得なり。いはんや欲識庵中不死人、豈離只今這皮袋なり。不死人はたとひ阿誰なりとも、いづれのときか皮袋に莫離なる。故犯はかならずしも入皮袋にあらず、撞入這皮袋かならずしも知而故犯にあらず。知而のゆゑに故犯あるべきなり。しるべし、この故犯すなはち脱体の行履を覆蔵せるならん。これ撞入と説著するなり。脱体の行履、その正当覆蔵のとき、自己にも覆蔵し、他人にも覆蔵す。しかもかくのごとくなりといへども、いまだのがれずといふことなかれ、驢前馬後漢。いはんや、雲居高祖いはく、「たとひ仏法辺事を学得する、はやくこれ錯用心了也」。しかあれば、半枚学仏法辺事ひさしくあやまりきたること日深月深なりといへども、これ這皮袋に撞入する狗子なるべし。知而故犯なりとも有仏性なるべし。

  ⒞『正法眼蔵仏性』(同一二二~一二六頁)

長沙景岑和尚の会に、竺尚書とふ、「蚯蚓斬為両段、両頭倶動。未審仏性在阿那箇頭」。師云、「莫妄想」。書云、「争奈動何」。師云、「只是風火未散」。いま尚書いはくの「蚯蚓斬為両段」は、未斬時は一段なりと決定するか。仏祖の家常に不恁麼なり。蚯蚓もとより一段にあらず、蚯蚓きれて両段にあらず。一両の道取、まさに功夫参学すべし。「両頭倶動」といふ両頭は、未斬よりさきを一頭とせるか、仏向上を一頭とせるか。両頭の語、たとひ尚書の会不会にかゝはるべからず、語話をすつることなかれ。きれたる両段は一頭にして、さらに一頭のあるか。その動といふに倶動といふ、定動智抜ともに動なるべきなり。「未審仏性在阿那箇頭」。「仏性斬為両段、未審蚯蚓在阿那箇頭」といふべし。この道得は審細にすべし。「両頭倶動、仏性在阿那箇頭」といふは、倶動ならば仏性の所在に不堪なりといふか。倶動なれば、動はともに動ずといふとも、仏性の所在はそのなかにいづれなるべきぞといふか。師いはく、「莫妄想」。この宗旨は、作麼生なるべきぞ。妄想することなかれ、といふなり。しかあれば、両頭倶動するに妄想なし、妄想にあらずといふか、たゞ仏性は妄想なしといふか。仏性の論におよばず、両頭の論におよばず、たゞ妄想なしと道取するか、とも参究すべし。「動ずるはいかゞせん」といふは、動ずればさらに仏性一枚をかさぬべしと道取するか、動ずれば仏性にあらざらんと道著するか。「風火未散」といふは、仏性を出現せしむるなるべし。仏性なりとやせん、風火なりとやせん。仏性と風火と、倶出すといふべからず、一出一不出といふべからず、風火すなはち仏性といふべからず。ゆゑに長沙は蚯蚓に有仏性といはず、蚯蚓無仏性といはず。たゞ「莫妄想」と道取す、「風火未散」と道取す。仏性の活計は、長沙の道を卜度すべし。風火未散といふ言語、しづかに功夫すべし。未散といふは、いかなる道理かある。風火のあつまれりけるが、散ずべき期いまだしきと道取するに、未散といふか。しかあるべからざるなり。風火未散はほとけ法をとく、未散風火は法ほとけをとく。たとへば一音の法をとく時節到来なり。説法の一音なる、到来の時節なり。法は一音なり、一音の法なるゆゑに。又、仏性は生のときのみにありて、死のときはなかるべしとおもふ、もとも少聞薄解なり。生のときも有仏性なり、無仏性なり。死のときも有仏性なり、無仏性なり。風火の散未散を論ずることあらば、仏性の散不散なるべし。たとひ散のときも仏性有なるべし、仏性無なるべし。たとひ未散のときも有仏性なるべし、無仏性なるべし。しかあるを、仏性は動不動によりて在不在し、識不識によりて神不神なり、知不知に性不性なるべきと邪執せるは、外道なり。無始劫来は、癡人おほく識神を認じて仏性とせり、本来人とせる、笑殺人なり。さらに仏性を道取するに、拕泥滞水なるべきにあらざれども、牆壁瓦礫なり。向上に道取するとき、作麼生ならんかこれ仏性。還委悉麼。三頭八臂。

正法眼蔵仏性第三

ここでは詳細に内容を検討することができないが、成立過程を考えるに、⒜ ⒝ が真字『正法眼蔵』の金沢文庫本の一五則と一四則であることは偶然ではなく、既に『仏性』の撰述が構想されてその重要な公案が選択されたものと思われる。『仏性』の構成が構想されて、更に具体化して、釈迦牟尼仏・仏・馬鳴・五祖弘忍・六祖慧能・六祖示行昌・龍樹円月相・塩官斉安・潙山霊祐・百丈懐海・黄蘗希運・趙州従諗・長沙景岑の順に整然と公案が展開したのである。特に先に示した大慧宗杲の無字の多用は、それとは異にする ⒝ であり、仏性有と仏性無を一つの公案としたのは、道元にとって『宏智録』巻一以外にあり得なかったのである。また、『仏性』は⒝と⒞は、連続しているが、⒞の癡人の「識神」説の否定は、道元の仏性観の重要な課題と言うことができる。先の三つの公案に留まらず、『仏性』と真字『正法眼蔵』に使用された用語との関係は、他の道元の著述と共に次のように一三の則が指摘できる。

①下巻一則の「達磨皮肉骨髄」と『仏性』(同七三頁)。その他『永平広録』巻一、四六上堂・『行仏威儀』・『葛藤』・『三十七品菩提分法』。

金沢文庫本一則「南嶽説似一物」と『仏性』(同七三頁)。その他『永平広録』巻一、三上堂・巻五、三七四上堂・巻七、四九〇上堂・巻八、小参一三・小参一七・巻九、頌古五九則・『恁麼』・『古鏡』・『画餅』・『仏経』・『法性』・『遍参』・『発菩提心』・別本『遍参』。

③上巻五八則「石霜徧界不蔵」と『仏性』(同七四頁)。その他『永平広録』巻一、五三上堂・巻八、小参一二・『行仏威儀』・『坐禅箴』・『授記』・『夢中説夢』・『阿羅漢』・別本『大悟』。

金沢文庫本二七則「文殊前三後三」と『仏性』(同八〇頁)。その他『永平広録』巻一〇、偈頌六二・『空華』・『都機』・『大修行』。

⑤上巻八八則「居士明明祖意」と『仏性』(同八〇頁)。その他『永平広録』巻一、九上堂・巻四、二九六上堂・三二九上堂・巻八、法語五・巻九、頌古五則・『行仏威儀』・『光明』・『授記』。『都機』・『夢中説夢』。

⑥上巻四一則「石頭問取露柱」と『仏性』(同八五頁)。その他『永平広録』巻五、三五六上堂・『礼拝得髓』・『道得』。

⑦下巻八八則「趙州四大五蘊」と『仏性』(同一〇〇頁・一〇七頁)。その他『永平広録』巻二、一四〇上堂外多数。

⑧下巻七則「臨済你是俗漢」と『仏性』(同一〇一頁)。

⑨上巻三九則「道怤年頭仏法」と『仏性』(同一〇九頁)。その他『永平広録』巻一、三二上堂・巻三、二二七上堂・巻四、三一〇上堂。

⑩中巻五七則(金欠)「潙山有句無句」と『仏性』(同一一六頁)。

⑪上巻五七則「南泉智不到処」と『仏性』(同一一七頁)。その他『永平広録』巻一、五上堂・巻八、法語五・『身心学道』・『一顆明珠』・『道得』・『眼睛』・『三十七品菩提分法』。

金沢文庫本三九則「仰山郎中看経」と『仏性』(同一二〇~一二一頁)。その他『永平広録』巻五、四〇一上堂・『行仏威儀』・『見仏』。

金沢文庫本二六則「大巓良久機縁」と『仏性』(同一二三頁)。

もちろん問題はただ中国禅籍の引用に留まらず、むしろ、道元の仏性説との相違が重要であろう。たとえば、『仏性』に有名な次の引用がある。

仏言、「欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、仏性現前」。(同七七頁)

その出典は仏典にあるのはなく、『聯灯会要』巻七の次の「潙山霊祐章」に基づくのである。

福州長谿趙氏子。侍立百丈、夜深。丈云、看炉中。有火也無。師撥云、無。丈躬至炉辺、深撥得少火、夾起示之云、儞道無、這箇鎖。師於此大悟、作礼、呈其所解。丈云、此乃暫時岐路耳。経云、欲識仏性義、当観時節因縁。時節若至、其理自彰。便知、己物不従外得。祖師云、悟了同未悟、無心亦無法。只是無虚妄、凡聖等心。本来心法、元自備足。汝今既爾、善自護持。(臨川書店本二丁左~三丁右。続蔵巻一三六―二七〇左下参照)

しかし、これとて道元の引用と全同ではない。『統要集』巻四「潙山霊祐章」を合糅したと考えられる。

潭州大潙祐禅師〈嗣百丈〉、在百丈時、夜侍立次、丈云、看炉内、有火也無。師看来報云、無。丈躬自至、炉深撥忽得少火、夾起云、爾道無、這箇聻。師因而契悟。丈云、欲知仏性義、当観時節因縁。時節若至、其理自契。便知、己物不従外得、汝善護持。(宋版二五丁左~二六丁右)

少なくとも道元が百丈懐海自身の語ではなく、「仏」の語であるとして引用したことは重要であるが、それよりももっと重要なのは、原意を離れて解釈していることである。そのために次のように言わざるを得なかった。

しるべし、「時節若至」は、十二時中不空過なり。「若至」は、「既至」といはんがごとし。時節若至すれば、仏性不至なり。しかあればすなはち、時節すでにいたれば、これ仏性の現前なり。あるいは其理自彰なり。おほよそ時節の若至せざる時節いまだあらず、仏性の現前せざる仏性あらざるなり。(同七九頁)

それを踏まえて、道元の「仏性」観は完結するのである。

おほよそ仏性の道理、あきらむる先達すくなし。諸阿笈摩教および経論師のしるべきにあらず。仏祖の児孫のみ単伝するなり。仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。仏性かならず成仏と同参するなり。この道理、よくよく参究功夫すべし。三二十年も功夫参学すべし。十聖三賢のあきらむるところにあらず。衆生有仏性、衆生無仏性と道取する、この道理なり。成仏以来に具足する法なりと参学する正的なり。かくのごとく学せざるは仏法にあらざるべし。(同八七頁)

このような自由な解釈は、残念ながらこの話の場合は真字『正法眼蔵』にはない。ただ、既に真字『正法眼蔵』でも、準備が完了している例を私は上巻八則の「南嶽磨塼打車(=磨塼作鏡)」の話で指摘したことがある。

洪州江西馬祖大寂禅師〈嗣南嶽、諱道一〉、参侍南嶽、密受心印、蓋抜同参。住伝法院、常日坐禅。南嶽知是法器、往師所問曰、大徳坐禅図箇什麼。師曰、図作仏。南嶽乃取一塼、於師庵前石上磨。師遂問、師作什麼。南嶽曰、磨作鏡。師曰、磨塼豈得成鏡耶。南嶽曰、坐禅豈得作仏耶。師曰、如何即是。南嶽曰、如人駕車、車若不行、打車即是、打牛即是。師無対。南嶽又示曰、汝為学坐禅、為学坐仏。若学坐禅、禅非坐臥。若学坐仏、仏非定相。於無住法、不応取捨。汝若坐仏、即是殺仏。若執坐相、非達其理。師聞示誨、如飲醍醐。(春秋社版一二八~一三〇頁)

この真字『正法眼蔵』の話は、その出典はもはや中国禅籍には存在しない。道元による『景徳伝灯録』巻六「馬祖道一章」(禅文化本―八八頁)と同巻五「南嶽懐譲章」(同七六~七七頁)の合糅による創作である。つまり「磨塼作鏡」の話より先に既に馬祖道一は南嶽懐譲より「密受心印」されていることが前提とされていることに気づかされる。このことは『中国禅宗史話〈真字「正法眼蔵」に学ぶ〉』(一二四頁以下、禅文化研究所、一九八八年)以来、「道元の「密受心印よりこのかた」について」(『駒澤大学禅研究所年報』第二四号、二〇一二年)等で詳細に論じ、主張し続けたことである。中国禅では「塼」を「磨」いても、「鏡」に「作」れない話であるが、『正法眼蔵古鏡』では次のように説示される。

まことにしりぬ、磨塼の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、坐禅すみやかに坐禅となる。かるがゆゑに、塼を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる。(岩波文庫本㈡四三頁)

こうして道元は「塼」を「磨」いて「鏡」を「作」る話となるのである。詳細は前掲の論に譲ることにしよう。

以上で真字『正法眼蔵』から仮名『正法眼蔵』への成立過程のいくつかの事例をまとめることができた。その事例は全てではないことはもちろんではあるが、主な特色を紹介できたと思う。

四 若山悠光の画期的な別本三部作の新研究

正法眼蔵』の漢字文献から仮名文献へと完成する過程において、真字『正法眼蔵』の重要な性格としては、私の研究はもっぱら仮名『正法眼蔵』の台本の役割としての特色として分析してきた。ここに最初に掲げた若山悠光氏による画期的な別本三部作が出現した。詳細はそれらの論文を参照されたいが、特に今回の問題において、「別本『仏向上事』の性格―『永平広録』巻八法語一一と関連して―」(『駒澤大学大学院仏教学研究会年報』第四九号、二〇一六年)は注目すべき内容を含んでいる。ここでいう別本とは、一般に知られる『正法眼蔵仏向上事』(岩波文庫本㈡一二八頁以下)の草案本に当たり、永平寺に所蔵される二十八巻本(秘本とも称す)に所収されているものである(活字化は春秋社版第二巻)。たとえば、この別本『仏向上事』(=秘本)について、代表的な説として次の河村孝道氏の説がある。

この秘本の『仏向上事』は、本文頭初が洞山仏向上事語話の本文数行から成っている所からの按名と思われ、実際には本文内容は「仏向上事・身心学道・行仏威儀・古仏心・観音」等の諸巻を草稿されるに当たっての考想メモの一種としてあったものを、秘本各巻を筆者した人物に依って合収書写され、その際に当初の仏向上事話の文から『仏向上事』と按名したものではないかと推考される。(『正法眼蔵の成立史的研究』五四〇頁、一九八七年、春秋社。若山論文三九頁)

この説に対して、若山氏は「個別的主題の寄せ集めではなく、思想の流れが認められ」「一つのまとまりがある」とするのである。そこで、別本を八段に分け、それぞれの八段には、仁治三年(一二四二)前後に成立した『正法眼蔵』と密接な関係があるとし、各段の一と『仏向上事』、二と『光明』、三と『坐禅儀』、四と『身心学道』及び『坐禅箴』、五と『古心』、六と『身心学道』、七と『行仏威儀』、八と『観音』とに見られる類似の思想を比較検討するのである。最初の洞山良价の示衆との関係は、既にこの論文の中の『道得』のところで検討して、複雑な引用関係にあることを述べたが、要は別本にこの示衆がある故に、別本も『仏向上事』と呼ばれるに到ったことは誰一人認めない者はいない。ここでは二段と『光明』の関係の指摘のみ紹介しておこう。

別本の文面には次の文がある。

しかあれば、生死去来の、仏音声を通ずるあり、風雨水火の、仏音声をあぐるあり。厨庫・山門の、ひろく其声を開演し、僧堂・仏殿、たかくその声を重説す。しかのみにあらず、諸法いづれもこの仏音声のなかばをきかしめ、三界おのおの、この仏音声の少許をわすれざるなり。(春秋社版五七〇頁)これが『光明』において次のように展開しているのである。あるとき、上堂示衆云、「人々尽有光明在、看時不見暗昏々、作麼生是諸人光明在」。衆無対。自代云、「僧堂・仏殿・厨庫・山門」。いま大師道の「人々尽有光明在」は、のちに出現すべしといはず、往世にありしといはず、傍観の現成といはず。「人々、自有、光明在」と道取するを、あきらかに聞持すべきなり。(岩波文庫本㈠二九一~二九二頁)

もちろん、後に問題にするように、これらが次の真字『正法眼蔵』上巻八一則に基づくことは言うまでもない。

雲門示衆云、人人尽有光明在。看時不見暗昏昏。作麼生是光明在。衆無対。自代云、僧堂・仏殿・厨庫・三門。又云、好事不如無。(春秋社版一六六頁)

更に漢文文献(中国禅)から仮名文献(道元禅)の和語化を課題にし続けた私にとって驚愕した若山氏の分析は、仮名『正法眼蔵』の草案本である別本が、次の漢文であった『永平広録』巻八に所収される「法語」一一の全体が密接に関連しているというのである。この法語を若山氏は現代語訳と注を付して詳細に検討するが、彼女に従って五段に分ける。

一、⒜全体本然、誰逗処所。通身親切、豈尋蹤由。既超一句、焉労三乗。撒手兮便当、翻身兮即露。実是①霊山破顔以後、四七未得添一糸毫。②少林徹髄以来、二三何堪減一糸毫者哉。不渉言宣、唯証契。無滞念想、是直指。是以室峰九年之面壁、声名遠聞。黄梅三更之伝衣、風光顕赫。彼③倶胝一指、④黄檗三頓、⑤百丈払、臨済喝、⑥洞山麻三斤、雲門乾屎橛、未拘生仏之階梯、已超迷悟之辺際者也。何比待証悟於他者、認影終非吾、存知見於体者、逐塊未為人者乎。

二、誠夫仏祖単伝之旨、言外領略之宗者、不在先哲公案之処、古徳証入之処、不在語句論量之処、問答往来之処、不在知見解会之処、思量念度之処、不在談玄談妙之処、説心説性之処。唯放這柄、不留瞥地、当処団欒、故能満眼矣。脳後豁開真密路、面前不識好知音。

三、⒝大師釈尊正法眼蔵、西天東地分附来多時也。界畔不識在。所謂分附来多時者、這一片田地也。這一片田地者、吾等直下之田地也。古人称之大道者歟。既云多時、不能算数、不可籌量。事旧時遥、四至界畔雖不暁了、住持理就保任日新。此日新事、自有際断也。

四、就中有行有教有証。⒞彼行者、功夫坐禅也。此行到仏尚不退者例也、所以被仏行也。教証準而可撿歟。此坐禅也、仏仏相伝、祖祖直指、独嫡嗣者也。余者雖聞其名、不同仏祖坐禅也。所以者何、諸宗坐禅、待悟為則。譬如仮船筏而度大海、将謂度海而可抛船矣。吾仏祖坐禅不然、是乃仏行也。

五、⒟所謂仏家為体者、宗説行一等也、一如也。宗者証也、説者教也、行者修也。向来共存学習也。応知、行者行於宗説也、説者説於宗行也、宗者証於説行也。行若不行説不行証、何云行仏法。説若不説行不説証、難称説仏法。証若不証行不証説、争名証仏法。当知⒠仏法者初中後一也、初中後善也、初中後無也、初中後空也。⒡這一段事、未是人之強為、本自法之云為也。既知於仏法中有教行証。一刹那田地、無不多時。日来所貴中間樹子、也有不可惜。教既如是、行亦如是、証亦如是。正当恁麼、不管自管得、自管不得、教也、行也、証也。所通達処、豈得非仏法乎。(春秋社版一六〇~一六四頁)

この法語は、真字『正法眼蔵』を素材としているとし、①下巻五三則、②下巻一則、③下巻四五則、④上巻二七則、⑤上巻五四則、⑥金沢文庫本七二則が指摘される。更に別本と、法語の⒜と六段(春秋社版五七三頁)、⒝と八段(同五七九頁)、⒞と三段(同五七一頁)、⒟と六段(同五七四頁)、⒠と二段(同五七〇頁)、⒡と六段(同五七三頁)の関係を指摘するのである。分かりやすい顕著な例として三段の⒝との関連を例にあげると、ここは真字『正法眼蔵』ではないが、『玄沙広録』中巻(続蔵巻一二六―一八九左下)を引用して別本では次のようになっているのである。

ふるき人のいはく、この一印の田地、なんぢにうり、あたふることひさし。然あるを四至界畔しられざることあり。ひごろは田地はのこらずあたへしかども、中心にありつる樹子は、いまだあたへざりつるを、いまよりは樹子をもをしむべからずといへり。これを参学するには、この田地をさづけられてひさしくなりにけることをわすれざるべし。界畔をたひらかにして四至あきらかなり。遊戯するところにことごとく瑞をなし祥をなす。まことにわれらにつきにける田地、かくのごとくありけるとおもひあはすべし。(春秋社版五七九頁)

このように「法語」全体から考えると、まず真字『正法眼蔵』を素材にして漢文の「法語」が成立し、その「法語」から仮名『正法眼蔵』へと成立していった過程が、研究史上始めて明らかにされたことになるのである。

もちろん更に別本から再治の段階においても、当然のことながら真字『正法眼蔵』が素材として成立するのである。金沢文庫本九一則「石頭不得不知」(臨川書店本四六〇頁)が、再治の『仏向上事』(岩波文庫本㈡一四〇~二頁)に、長文で展開するのがその代表的な例である。このことの詳細については、ここでは資料を示すことは割愛しておこう。また別本と真字『正法眼蔵』の関係についても、若山氏の論文には別本の現代語訳と共に詳細な注があるので、ここで再説する必要はあるまい。則名のみ挙げると、上巻一二則「洞山仏向上事」、上巻八一則「雲門人人光明」、上巻八八則「居士明明祖意」、金沢文庫本二九則「薬山不思量底」、上巻一九則「南泉平常是道」、金沢文庫本一則「南嶽説似一物」、下巻七七則「厳陽一物不将」、金沢文庫本九二則「長慶見色見心」、金沢文庫本一二則「玄沙三界唯心」、下巻五七則「雲門聞声悟道」、金沢文庫本二五則「曹山如井覰驢」、上巻五七則「南泉智不到処」、金沢文庫本五五則「霊雲桃花悟道」、上巻一七則「香厳撃竹大悟」がある。その中で、一つ興味深い例を挙げるとすると、別本の次の例がある。

長慶といひし、保福和尚に問、いろをみるは、すなはちこころをみるといふ、また、ふねをみるや。保福云く、みる。長慶の云く、ふねはしばらくおく、いかにあらんかこれ心。保福ゆびして、ふねをさす。(春秋社版五七六頁)

この引用は金沢文庫本九二則「長慶見色見心」の話である。

長慶問保福、見色便見心、還見船子麼。福曰、見。慶云、船子且致、作麼生是心。福却指船子。(臨川書店本四六〇頁)

この則は実は別本のみに引用されたもので、その後の道元の撰述に引用されることはない。断定はできないが、別本のこの引用が金沢文庫本九二則「長慶見色見心」であり、先に指摘した再治された『仏向上事』の引用が金沢文庫本九一則「石頭不得不知」で、両者が連続していることは無関係であるとは思われない。恐らく別本の九二則から再治の時に九一則に入れ替えられて、内容的に「仏向上事」の説が強調されたのではなかろうか。なお、岩波文庫本は石頭の答えを「不得不知」(同一四〇頁)とするが、ここは金 沢文庫本のように「不レ得、不レ知」とすべきで、訓読では「得ず、知らず」とするのがよいであろう。

正法眼蔵』の成立過程から見ると、若山氏の別本『仏向上事』の研究は、以上のように注目すべき内容であった。彼女の他の別本『心不可得』と別本『大悟』の研究もすばらしいが、ここでは簡単にまとめておこう。

まず別本『心不可得』の問題である。この別本『心不可得』(仁治二年頃)の成立が、やがて『心不可得』(寛元元年)と『他心通』(寛元三年)に分かれて成立したことは、多くの研究者の指摘してきたことである。

若山氏の独創的な説をここでは二つにまとめておきたい。別本『心不可得』の第一は「別本の段階で、他心通の公案が記されなければならなかった」とする。先ず『永平広録』巻一の第一七上堂に取り上げられる大証国師南陽慧忠と大耳三蔵の問答である「大耳心通」の話の問題である。この上堂は仁治元年の一〇月か一一月頃のものであるが、道元の示した五位尊宿名(趙州・玄沙・海会・雪竇・仰山。出典は『宗門統要集』巻二が基本)が、編者の詮慧に全く理解されずに実際は四位尊宿名(仰山・玄沙・玄覚・趙州。出典は『景徳伝灯録』巻五)と記録され、道元の拈語に「五位尊宿」の語を残して矛盾していること。それは元来、別本が『神通』の布石であり、上堂の内容と同じであったこと。別本が分かれて成立した『他心通』は、七十五巻本でいえば、寛元三年七月四日に示衆されて第七三に編集されるが、「心不可得」の主張、つまり『神通』『王策仙陀婆』等の主張を失った訳ではないことである。

第二は簡単にまとめるのは難しいが、別本から再治へは、先にいささか触れた『道得』の介在も認めた上で、次のように内容変化を示している。別本『心不可得』に次の語がある。

徳山このときはじめてイ画にかけるもちひはうゑをやむるにあたはずとしり、ロまた仏道修行にはかならずそのひとにあふべきとおもひしりき。ハまたいたづらに経書にのみかかはれるがまことのちからをうべからざることをもおもひしりき。(春秋社版五〇〇頁)

別本後の示衆に次の『画餅』(仁治三年一一月五日示衆)がある。

しかあればすなはち、⒜画餅にあらざれば充飢の薬なし、⒝画飢にあらざれば人に相逢せず。⒞画充にあらざれば力量あらざるなり。おほよそ、飢に充し、不飢に充し、飢を充せず、不飢を充せざること、画飢にあらざれば不得なり、不道なるなり。しばらく這箇は画餅なることを参学すべし。この宗旨を参学するとき、いさゝか転物物転の功徳を身心に究尽するなり。この功徳いまだ現前せざるがごときは、学道の力量いまだ現成せざるなり。この功徳を現成せしむる、証画現成なり。(岩波文庫本㈡一〇五~一〇六頁)

結局、先の別本の説は、次のように『画餅』の説に改められ、深められたことになる。

イ画にかけるもちひはうゑをやむるにあたはずとしり、

 ⇒⒜画餅にあらざれば充飢の薬なし、

ロまた仏道修行にはかならずそのひとにあふべきとおもひしりき。

 ⇒⒝画飢にあらざれば人に相逢せず。

ハまたいたづらに経書にのみかかはれるがまことのちからをうべからざることをもおもひしりき。

 ⇒⒞画充にあらざれば力量あらざるなり。

それ故に、別本には無かった主張の再治の『心不可得』の最後は、結局、次のように結ばれるのである。

しかあれば、参学の雲水、かならず勤学なるべし、容易にせしは不是なり、勤学なりしは仏祖なり。おほよそ心不可得とは、画餅一枚を買弄して、一口に咬著嚼尽するをいふ。(岩波文庫本㈠一九八頁)。

次に別本『大悟』の問題に移ろう。真福寺宝生院(大須観音)所蔵の別本は、この書の発見にも関わって、私も早くから注目してきたものである。虫食いの痕の残る古本も補修して影印されて臨川書店の『道元集』に収めることができた(担当伊藤秀憲)。従来、二十八巻本や『真蹟集』などに草案本の紹介はなされているが、単独の完本で別本が知られるのは、この書しかない。別本『大悟』(仁治三年)から『大悟』(寛元二年)へは、別本が大幅に削られて再治の『大悟』に整えられてはいる。がしかし、若山論文の骨格は、池田魯参説を承けて、別本も大悟現成・不悟至道・省悟弄悟・失悟放行(別本の大悟・不悟・省悟・失悟)の四段で構成されているとする。その上で、中でも「省悟(弄悟)」が大きく書き換えられ、「雪山ノ大悟」に集約された理由を、「各巻の撰述示衆年次という観点から、別本「大悟」巻に続けて書かれた「坐禅箴」巻、「仏向上事」巻とその草案本である別本「仏向上事」巻等との関係を指摘したい」(「『正法眼蔵』再治の諸相」三五一頁)として大幅削減の理由を結論するのは、新説である。

紹介すべき事はまだまだありそうであるが、紙数の関係もあって、その全てに及ぶことはできないし、その必要もなかろう。それらの論文を読んでもらえば済むことである。ただ、この三部作の研究を更なる別本に展開することが可能かというと、それほど簡単ではない。別本『大悟』のような新資料が発見されれば別であるが、現在知られる草案本の中では、以上検討したような、顕著な相違と重要な問題はなさそうである。もちろん同様の草案本の検討は残された課題であり、今後も続けていく必要性はあろうが、とりあえず、私の課題としてきた漢字文献から仮名文献への問題の大枠は、若山悠光氏の別本三部作で示されたといえよう。

ここで思い出すことがある。かつて『正法眼蔵現成公案』が「これは天福元年(一二三三)中秋のころ、かきて鎮西の俗弟子楊光秀にあたふ」(岩波文庫本㈠六一頁)とあり、『永平広録』巻八の「法語」五は「大宰府野公大夫」に与えたものであることから、同様の日本語に慣れていない中国人に対して、元来、『現成公案』は漢文の「法語」であったと推測されたことがある。更に熊谷忠興氏は「対句偈頌文体の『正法眼蔵現成公案』⑴~⑶―図表化試案―」(『傘松』七二五~七二七号、二〇〇四年二~四月)の中で、四六駢儷体の対句表現の多い作品であったとしている。漢文の『現成公案』の証拠の文は発見されてはいないが、私も元来、漢文「法語」であったという説には賛成したい。つまり、若山説に見られるように、個人に与えた漢文の「法語」に留まるものではなく、示衆としての仮名『正法眼蔵』が成立していったことを意味しているのである。仮名『正法眼蔵』の成立過程の一つの例が確認された意義は大きなものがあるといえよう。

五 おわりに―『正法眼蔵』編集と関連して

一般の言い方で従来の『正法眼蔵仏性』等の呼称を使用してきたが、道元は最初から『正法眼蔵現成公案』、『正法眼蔵摩訶般若波羅蜜』、『正法眼蔵一顆明珠』、『正法眼蔵仏性』等と命名したのではない。もともと真蹟の『嗣書』(駒澤大学禅文化歴史博物館所蔵)や『行持』(熊本県玉名市広福寺所蔵、但し、下巻のみ)と同様に『現成公案』、『摩訶般若波羅蜜』、『一顆明珠』、『仏性』と巻名はあったが、これらを『正法眼蔵』の総題の下にまとめたのは、何時なのかは明確ではなかった。この間の実情を生々しく伝えているのが、懐奘筆の『仏性』(永平寺所蔵)の奥書であり、次のようになっている。

正法眼蔵仏性第三(仏性の文字に上書き)

 仁治二年辛丑十月十四日、記于観音導利興聖宝林寺。

 同四年癸卯正月十九日、書写之。懐奘

とあり、別紙に奥書が続いている。

爾時仁治二年辛丑十月十四日、在雍州観音導利興聖宝林寺示衆。

再治御本之奥書也。

 正嘉二年戊午四月廿五日、以再治御本交合了。(『真蹟集』六九〇頁)

正確には尾題の「仏性」は見せ消ちではなく、仏性の文字に大きく重ねて「正法眼蔵仏性第三」と再治本では加筆されている。この『仏性』の全体の奥書の意味するところは、仁治四年(一二四三)正月一九日の懐奘の書写の時点では、『仏性』と草案本で書かれていたが、『正法眼蔵仏性第三』と再治本では改められ、「記」が「示衆」になっても、再治本でも仁治二年一〇月一四日の奥書は残ったということである。道元の『正法眼蔵』を考える場合に、このことは最も重要であるが、研究者を混乱させ、その結果、解釈に困難を伴うものであった。それ故に、残念ながら道元の再治の年月日はここでは知ることはできない。道元の再治の年月日がここでもし判れば、後世の研究者を悩ますことはなかったのである。結局、再治本で校合し終わったのが、道元の示寂後の正嘉二年(一二五八)四月二五日ということが判るのみである。ただ、『仏性』が『正法眼蔵』の総題を冠せられ、編集本の『正法眼蔵仏性』の第三(七十五巻本も六十巻本も同じ)の列次番号を付されたことを知ることができることは重大な問題へと発展するのである。

また、ここに同様の難問題が存在する。高橋秀榮氏の「重要文化財正法眼蔵山水経』の筆者について」(『駒澤大学仏教学部論集』第四四号、二〇一三年。『道元集』「解題」〈『中世禅籍叢刊』第二巻、臨川書店〉も参照)の論文で、全久院所蔵の『山水経』が寺伝通り道元の真蹟であることが発表された。この『山水経』が真蹟と判定された結果、その内題と尾題及び奥書が注目される。内題は、

正法眼蔵 第二十九

山水経

とあり、尾題及び奥書は、

正法眼蔵山水経第二十九

爾時仁治元年庚子十月十八日子時、在観音導利興聖宝林寺示衆。

とある。ただ、高橋秀榮氏が言うように、尾題の「正法眼蔵山水経第二十九」は別筆の一部に当たるが、内題が存在するので、『正法眼蔵』の総題が冠せられ、七十五巻本の「第二十九」の列次番号が真蹟に存在していたことは確認できる。ところが、永平寺所蔵の『正法眼蔵仏性第三』と同様に、仁治元年一〇月一八日は、示衆の年月日が残ったもので、そのまま道元が書写した年月日ではないことである。それ故に道元の書写の年月日は、残念ながら正確には不明としか言いようがない。

ところで、道元の伝記として最も古く且つまとまっているものに『建撕記』があり、その中に、「寛元三年〈乙巳〉三月六日、初めて正法眼蔵を示す」(瑞 ずい長 ちよう 本)とある記事により、この「正法眼蔵」の意味を、各巻名に『正法眼蔵』の総題が冠せられたものと理解し、私はこの説を従来、そのまま認めてきた。水野弥穂子氏の「正法眼蔵はいつ示されたか―その成立に関して―」(『駒大短大国文』第三号、一九七二年)に「寛元三年三月六日「虚空」巻が示された時、初めて「正法眼蔵」なる総題のもとにこの大著が発表された」とあったからである。私は初めて臨川書店の『道元集』の「総説」でこの問題に取り組み、この説は成立しないと考えるようになった。『建撕記』が成立した文明四年(一四七二)頃の永平寺は、『正法眼蔵』といえば、六十巻本を指すのであり、瑞長本が六十巻本に基づいた記述はこれ以外にもあり、この年の三月六日は六十巻本の第五十六の『虚空』に該当することは明らかで、七十五巻本の第七十の編集とは関係なく、「初めて」とは、大仏寺建立のために寛元二年三月九日に『大修行』が示衆されて約一年ぶりに、途絶えていた『正法眼蔵』の示衆が『虚空』で再開されたの意味となるのである。それでは、『正法眼蔵』の総題がいつ冠せられ、その編集が如 何なる体系本であったであろうか。それを示す重要な資料が、愛知県全久院の所蔵の懐奘筆の『正法眼蔵十方』なのである。この書は一見、内題が「正法眼蔵第四十五十方」(『道元集』二七八頁)とあり、尾題と奥書が次のようになっているかに見える。

正法眼蔵十方 第四十五

 爾時寛元元年癸卯十一月十三日、在日本国越州吉峰精舎示衆。

 寛元三年乙巳窮冬廿四日、在越州大仏寺侍司書写。懐奘(『道元集』三〇三頁)

ところが、原本を注意深く検討すると、内題も尾題も「四十五」の「四」字が共に書き改められた形跡があることである。二箇所であることも注目すべきことである。この書き改めについて、伊藤秀憲氏は『道元禅研究』(大蔵出版、一九九八年)二七七頁において、「四」は「五」の字を書き改めたと論証している。この研究成果は極めて重要なものである。「四十五」の列次番号は六十巻本ではあるが、明らかに「四」は書き改められているので、それを伊藤秀憲氏は「書き改める前の列次番号として考えられ得るものは、七十五巻本の「五十五」のほかにはないであろう」と結論するのである。更に「懐奘ではなく、誰かによって六十巻本の列次番号に書き改められた」といい、このことも重要なのである。なぜなら、その結果を、伊藤秀憲氏は「懐奘が書写した寛元三年十二月二十四日以前に、七十五巻の少なくとも第五十五までは列次が決定していたということになる」というのである。これは七十五巻本から六十巻本への編集の順序を示し、寛元三年(一二四五)とは、もちろん道元の生前であり、道元が総題の『正法眼蔵』を冠していて、七十五巻本の親集説が可能となるのである。私は『正法眼蔵』の編集論で伊藤説が最も信頼できる研究成果であると思っている。

問題は伊藤説の『正法眼蔵十方』の寛元元年一一月一三日の示衆から懐奘の寛元三年一二月二四日の書写までの間の更なる編集の時期の絞り込みである。ここで道元の真蹟とされる永平寺所蔵の『(祖師)西来意』の断簡の末尾が参考になる。そこには次のようにある。

正法眼蔵西来意 第六十二

爾時寛元二年甲辰二月四日、在越宇深山裏示衆。(『真蹟集』一五九頁)

寛元二年二月四日の年次に、『正法眼蔵』の総題と七十五巻本の「第六十二」が、道元によって決定された可能性が認められる。なによりも、六十巻本の「第五十二」でないところが重要である。第六十二と言えば、七十五巻本であり、七十五巻の分量のほぼほとんどを占めている。この道元の真蹟の場合、道元の示衆と書写が同時か、示衆に極めて近い書写を認めてよい。越宇深山裏とは、吉峰寺のことで、道元は寛元元年七月に入越後に、しばらく時をおいて吉峰寺に入り、その年の一一月半ばから翌年の正月にかけて一時的に禅師峰に移っている。その間の『正法眼蔵』の示衆は、『見仏』『遍参』『眼睛』『家常』『龍吟』の五巻に限られている。その後、寛元二年の正月一〇日以前には再び吉峰寺に戻ったのである。ここで、仮名『正法眼蔵』の編集時期を検討するのに必要な最小限の関係の略伝をみてみよう。(◎は推定で、その頃を意味する)

仁治二(一二四一)年正月三日『仏祖』。夏安居『法華転法華』・別本『心不可得』(草案本)。◎別本『仏向上事』。一〇月中旬『行仏威儀』。一一月一四日『仏教』。一一月一六日『神通』。仁治三(一二四二)年正月二八日別本『大悟』(草案本)。三月一八日『坐禅箴』。三月二三日『仏向上事』。四月五日『行持』(下)(自筆本)。四月二六日『観音』。六月二日『光明』。九月九日『身心学道』。◎『行持』(上下)。一〇月五日『道得』。一一月五日『画餅』。一一月七日『仏教』再示。仁治四(一二四三)年正月一八日、懐奘『行持』(上下)書写。正月一九日、懐奘『仏性』(草案本)書写。寛元元(一二四三)年四月二九日『古仏心』。◎『心不可得』。入越し、吉峰寺に到着。閏七月一日『三界唯心』。◎『説心説性』。九月二四日『嗣書』(清書本)。一一月『坐禅儀』。一一月一三日『十方』。◎禅師峰下の茅庵に移る。(『見仏』・『遍参』・『眼睛』・『家常』・『龍吟』)。寛元二(一二四四)年正月◎吉峰寺に戻る。正月一一日、懐奘『説心説性』書写。正月二七日『大悟』再示。二月四日『正法眼蔵第六十二(祖師)西来意』(自筆本)。

道元は、「(寛元二年の)七月十八日、和尚を請し奉りて、(大仏寺)開堂説法せらる」(「瑞長本」)とあることから、この頃、確実に大仏寺(後の永平寺)に移ったと思われる。大仏寺の叢林がほぼ整うのは、「九月一日、法堂功成りて開堂す」(「瑞長本」)の頃であろう。

敢えて更に期間を絞って総題の『正法眼蔵』の成立を推測すれば、貴重な草案本の存在する真福寺本の別本『大悟』と再び吉峰寺に戻った後の『正法眼蔵大悟』の再治の関係が参考になろう。改めて七十五巻本の乾坤院本の内題の『正法眼蔵第十大悟』(桜井秀雄監修・小坂機融・河村孝道編集『永平正法眼蔵蒐書大成』一巻一四〇頁。全二七巻、大修館書店、一九七四~一九八二年。『眼蔵蒐成』と略称)の尾題と奥書をみてみよう。

正法眼蔵 第十

 爾時仁治三年壬寅春正月廿八日、住観音導利興聖宝林寺示衆。

 而今寛元二年甲辰春正月二十七日、錫駐越宇吉峰古寺而書示於人天大衆。 ( 『眼蔵蒐成』一巻四三頁)

二つの示衆は、別本『大悟』(草案本)と『正法眼蔵大悟』(再治本)の年月日である。更に懐奘の書写に触れるのは、同じ列次番号をもつ六十巻本系統にのみ見られるのである。洞雲寺本『正法眼蔵第十大悟』には、奥書に次のようにある。

爾時仁治三年壬寅春正月二十八日、住観音導利興聖宝林寺示衆。

而今寛元二年甲辰春正月二十七日、錫駐越宇吉峰古寺而書示於人天大衆。

同二年甲辰春三月二十日、侍越宇吉峰精舎堂奥次、書写之。懐奘(『眼蔵蒐成』六巻九五頁)

同じ列次番号をもつ六十巻本『正法眼蔵大悟』はこのように七十五巻本と同じ草案本と再治本の示衆の年月日を示しており、その書写の奥書は十分に参考になろう。別本『大悟』と『正法眼蔵大悟』の関係は、大幅な削除と加筆があって分量的には全面的に書き改めたものであった。それ故に、全面的に再治された『正法眼蔵大悟』が存在しなければ、七十五巻本の『正法眼蔵大悟』の「第十」の編集は不可能であり、この『正法眼蔵大悟』の再治は『正法眼蔵』に唯一みえる「人天の大衆に書示」されたという文字も注目していいように思われる。このように、寛元二年三月二〇日の懐奘の書写までには確実に列次番号は決定していたと考えられる。また残された清書等を考えて、この頃に吉峰寺で編集が続けられていたと見てよいのではなかろうか。先に紹介した寛元二年二月四日の七十五巻本の第六十二の『正法眼蔵西来意』の示衆につづくその書写までにはほぼ編集が固まることになる。杉尾玄有氏の『道元禅の参究』(春秋社、二〇一五年)によると、寛元元年閏七月一日に吉峰寺で示衆された第四十一に相当する入越後の最初の『三界唯心』以降は、七十五巻本の『正法眼蔵』の列次はほぼ示衆の順序に配列されているという。この説は認めてよいと思うので、それまでの興聖寺時代の配列、特に最初のいくつかと再治が行われれば七十五巻本の列次番号は自ずと決まっていったと言ってよかろう。もちろん、七十五巻本の最後は『出家』であり、「爾時寛元四年丙午九月十五日、在越宇永平寺示衆」まで完成することはない。

こうして七十五巻本の『正法眼蔵』の編集は、寛元二年の正月に吉峰寺に戻った頃から始められたと言ってよいであろう。その年の正月二七日の『正法眼蔵第十大悟』がその証拠と推測したのが私の説であるが、真蹟の存在する二月四日示衆の『正法眼蔵第六十二西来意』の時には総題の『正法眼蔵』が成立したことは確実となったといえよう。列次番号を付すことだけならば多くの時間は必要なく、杉尾玄有氏の『道元禅の参究』に指摘するように、興聖寺時代の四十巻に関しては、熟慮の末の列次であったと言ってよかろう。ただし、杉尾説は七十五巻本の『正法眼蔵』の四十巻の大系づけを道元は入越前に突如として急速に遂行したとするのであるから、私が今まで推測してきたそれを再住の吉峰寺時代とする説からは認められないが、四十巻の大系が配慮されるに当たって推測された杉尾説は参考に値しよう。

ここで常に『正法眼蔵』の編集で問題となる六十巻本の第一の『正法眼蔵現成公案』になく(『眼蔵蒐成』六巻一〇頁)、七十五巻本の第一の『正法眼蔵現成公案』にある「建長壬子拾勒」(『眼蔵蒐成』一巻一〇六頁)とは、何を意味するかの私の説を述べる必要があろう。私は道元の百巻構想を知った上で、十二巻本『正法眼蔵』の最後にある『正法眼蔵八大人覚』の奥書と関連して、新草十二巻本に対して旧草の七十五巻本の最初に『正法眼蔵現成公案』として取り纏めたと懐奘が記したものと理解したい。それ故に、旧草の七十五巻本は道元が認めた親集の『正法眼蔵』であり、道元の意を体した懐奘の考えであったと思われる。道元の示寂が現実となった時の懐奘の説の『正法眼蔵八大人覚』の奥書の文を、今回の結論を踏まえて次のように解釈する理由である。

本と云う、建長五年正月六日、永平寺に書す。如 いま 今建長七年乙卯解制の前日、義演書記をして書写せしめ畢んぬ。同じく之れを一校せり。右の本は、先師最後の御病中の御草なり。仰せには以前所撰の仮名正法眼蔵等、皆な書き改め、幷びに新草具に都盧壱佰巻、之れを撰ずべしと云々。既に始草の御此の巻は、第十二に当れり。此の後、御病漸々に重増したまふ。仍つて御草案等の事も即ち止みぬ。所以に此の御草等は、先師最後の教勅なり。我等不幸にして一百巻の御草を拝見せず、尤も恨むる所なり。若し先師を恋慕し奉らん人は、必ず此の十二巻を書して之れを護持すべし。此れ釈尊最後の教勅にして、且つ先師最後の遺教也。懐弉記之(原漢文、『眼蔵蒐成』一巻九四九頁、岩波文庫本㈣四一五~四一六頁参照)

(私釈)

原本の先師道元の『八大人覚』の奥書に言う、「建長五年(一二五三)正月六日に永平寺にて書く」と。今、建長七年乙卯のとしの夏安居の終る前日に、義演書記に原本の清書をさせて書写が終った。懐奘(私)は、同じ日に先師道元の原本と義演の書写本とを校合した。

右の『八大人覚』は、先師道元の最後の御病気中の草稿である。先師が生前に言われた所は次のようになる。「前に書いた仮字の『正法眼蔵』の巻々は(先師の吉峰寺時代の寛元二年(一二四四)に編集を始められ、寛元四年に七十五巻の撰述を一応終えられた。先師の意を体して旧草を七十五巻として、病中の先師の生前の壬子(一二五二)に確認できた)、(七十五巻の編集は暫定的であるから)全てにおいて書き改めるつもりであり(書き改めるつもりとは、ある巻は大幅に書き改め、ある巻は全面的に書き改め、ある巻は部分的に書き改め、ある巻はほとんど書き改めなくてもよいものなどがある)、それら旧草のもの(懐奘が七十五巻としたもの)と新草のもの(鎌倉行きが転機となって、新たなる意図をもって書き始めた『正法眼蔵』を編集しようとされたが、十二巻しか残らなかった)とを、全部合わせて百巻の『正法眼蔵』を書くつもりである。など、と」。

既に新たな編集に加えるために始められた草稿のこの『八大人覚』の巻は、第十二巻目に相当する。この『八大人覚』を書いた後は、先師の病気がだんだんと重くなったので、新たな巻を書き進めたり、旧草を書き改めて新たな編集に加えることは、そのまま止まってしまった。それ故に、この『八大人覚』などは、先師の最後の教えとなった。私達は不幸にして百巻の草稿は拝見できない。このことは、私達にとって最も残念に思うところである。もしも先師道元を恋慕する人は、必ずこの第十二の巻の『八大人覚』を書写して、これを護持しなさい。(なぜならば)この『八大人覚』の教えは、釈尊最後の教えであり、同時にそれはその釈尊の教えについて説かれた先師の最後に残された教えの巻であるからだ。

懐奘が以上のことを(『八大人覚』の奥書として)記す。

先の「建長壬子拾勒」やこの『八大人覚』の「奥書」は、『正法眼蔵』の編集を考察するには極めて重要であり、未だ定説がある訳ではない。私が提案した新説も今後に更に深めていく必要があろう。

最後に道元の『正法眼蔵』の百巻構想は如何なるものかというまたしても難問に直面することになった。がしかし、あらゆる可能性の推測を排除しないとしても、現時点において、道元の『正法眼蔵』研究にとってそのことを追究することに果たして意味があるのかどうかを含めて、今後の課題としておこう。

 

これは『禅文化研究所紀要』34号に於ける、石井氏による道元解釈論を

ワード化し、一部改変し提供するものである。