正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『仏祖』『嗣書』『面授』考 石井  修道

『仏祖』『嗣書』『面授』考

石井  修道

一 はじめに

曹洞宗秋田県宗務所・禅センター主催の「講座『祖録に親しむ』」で、二十八巻本正法眼蔵の講義を継続している。平成十九年十一月三十日に第十二回目を迎えた時に『嗣書』となった。講義の準備の為に桜井秀雄監修・小坂機融・河村孝道編集『永平正法眼蔵蒐書大成』全二七巻(二五巻、別巻〈道元禅師真蹟関係資料集〉、別巻総目録)『同続輯』全一〇巻(大修館書店、一九七四―一九八二年、一九八九―二〇〇〇年)が公刊されているので、別巻の『道元禅師真蹟関係資料集』(一九八〇年一一月)の『嗣書』をコピーし、河村孝道博士の次の「修訂本正法眼蔵嗣書解題」を確認しておいた。

○本文三七―九三頁

京都市故里見忠三郎氏旧蔵

○冊子本・粘葉装(でっちょうそう)・鳥ノ子紙・古金襴表装〈但シ後世ノ改装〉

縦23・5㎝ 横14・5㎝

本書は、大正十三年に伊予松平家より売立に出され〈「売立目録」大正十三年・六月号・長田義雄氏蔵。引用者注、「松平家出品目録附載『嗣書』」冒頭写真あり〉、後に京都市古美術商・故里見忠三郎氏に所蔵され、昭和二十八年頃に大久保道舟氏〈当時、東大史料編纂所勤務〉へ貸与され、その際に撮影されて以後、世に紹介されて注目を浴びたものである〈大久保道舟『道元禅師伝の研究』〉。

原本は、道元禅師の遠忌のあった昭和二十八年頃に里見氏より売りに出され、時の宗門の要路に購入方の依頼がなされたが、戦後の宗門の経済情勢がそれを許さず、他所へ売却されるのを傍観せざるを得ず、以後その売却先やその行方は杳(よう)として知れない。倖いな事に、大久保氏が専門写真技師を通して撮影され、有縁の方(岸沢惟安・衛藤即応・橋本恵光氏)へ提供したものが現存し、本書にはその一部で岸沢惟安師所蔵の影写本に依って収録した〈岸沢氏は原本と寸分相違ないように専門技師に依頼して撮影せしめたとか聞く〉。

本書には、江戸期の古筆鑑定家・牛庵法橋随世に依る「道元和尚真蹟無疑似者也」と証明する寛文三年の極札(きわめふだ)があり、他に当時に於ける『嗣書』の価格について評定した牛庵の添書がある。

嗣書全部一冊者、曹洞宗開山道元和尚之真跡也。代物之儀不案内御座候ヘ共、弐百貫程可仕(つかまつル) 候、其御心得可被成候。

恐惶謹言。九月十二日。随世(印)。

〈端書〉後藤覚兵衛様〈人々御申之〉 畠山牛庵随世

右の鑑定書・評価添書より推考して、後藤覚兵衛より寛文年中に松平家へ売却され、大正十三年に売立てられて里見氏に所蔵されるに至ったものであろうか。『嗣書』は、仁治二年興聖寺に於いて示衆されたが、約三年後の寛元元年九月二十四日、北越吉峰寺に於いて再治修訂し浄書されたものが本書の里見旧蔵本で、『秘密正法眼蔵』所収の『嗣書』奧書には懐奘の「寛元元年十月廿三日、以越州御書本交文云云」の識語があるが、曾て大久保氏が推定されたように、懐奘が用いたのは、この越州御書本であったと思われる。そして本書は各種編輯・謄写本『嗣書』の範拠たる定本として重要である。

この『嗣書』と密接に関連する「草案本正法眼蔵嗣書断簡」の解説が続いており、参考に付しておこう。

本書は、草案本『嗣書』断簡十四切の集成である。前項解説の修訂本『嗣書』〈寛元元年本・里見氏旧蔵〉に先行する初稿本と見られるもので、仁治二年(一二四一)道元禅師四十二歳、山城興聖寺に於いて記述されたものの自筆本の断簡を集成したものである。この草稿本は、寛元元年(一二四三)越前吉峰寺に移られてから再び推敲修訂されて里見氏旧蔵本の『嗣書』として完成した。今日一般に流布している『正法眼蔵嗣書』は、この寛元修訂本の系統である。自筆草稿本は、江戸期に至って二十六葉に解柬截断されて、道元禅師の道風を慕う有縁の者に分施された。本書収録の十四切の断簡類は、その解柬分施されたもので、今日に残るものを広く探索して集成したものである。

草案本『嗣書』原本の体裁は、片面六行、一紙十二行、全文二十九紙から成る粘葉綴本である。この初稿本の体裁をその儘に伝える資料に、広島県香積寺所藏『嗣書』の副本、及びその副本の末尾には解柬截断行数、分施先を記した記事が併記されており(写真あり)、『嗣書』断簡の所在を知る貴重な手掛りとなっている。分施先の写真記事を次に印字しておく(省略)。

  従来この『嗣書』の分施は道元禅師の煖皮肉として禅師を偲ぶよす(ゝ)が(ゝ)として護持すべく、有縁の道心者に施与されたものと言われているが、その事と共に、『嗣書』に限っては、その所蔵者安叟自隠の加賀屋〈大濱家〉が、亡父〈青源院安叟自隠上人〉の菩提の為に縁故者及び有縁の寺主達へ分截・寄進したものである〈(11)参照〉。

分施された断簡類は、所蔵者が更に分截して有縁者に分施したりしていて、当初の二十六葉の断簡は今日では相当数に上っている。また二十六葉の分施先も、今日ではその施与先に無い場合が多く、それは時に他者の私蔵に流れたり、時に分施先の寺院・在家の没落や断絶・焼失等で、必ずしも記事通りの処に所在するとは限らない。従って全部の断簡を探索蒐集することは不可能である。本叢書には、従来判明しているものに、今回新たに発見した断簡を加えて計十四点を収録した。(以下、十四種の各種断簡解説と『嗣書』〈修訂本・草案本・副本・諸種写本〉諸本対照校異は省略。同内容は河村孝道正法眼蔵の成立  史的研究』春秋社、一九八七年二月も参照されたい)

このように準備している中で、駒澤大学禅文化歴史博物館の伊藤隆寿館長より選定委員の一人である筆者に、近々の十二月十一日に選定委員会を開催したいとの連絡を受けた。そしてその購入予定候補の中に「行方が杳として知れない」とされている里見本と呼ばれる『嗣書』が審議にかけられるとの話を聞いた。既に予算処置も万全だと聞き、冷静さを装うことができず、高鳴る興奮を抑えられない日々を送った。もちろん、秋田の講義の時には、口外したい気持ちに駆られつつも、慎重に内密にして、選定委員会の決定を待ち望んだ。筆者はその『嗣書』が道元禅師の真筆だと断定する専門分野の研究者ではないが、河村孝道博士が基づかれた大久保道舟博士の「真蹟「正法眼蔵嗣書」について」(『〈修訂増補〉道元禅師伝の研究』所収、筑摩書房、一九六六年五月、初版は岩波書店、一九五三年三月)の詳細な論文が存在している(1)。選定委員会に持ち込まれた参考資料には、先の畠山牛庵随世の鑑定書等や漆塗杉箱の「嗣書 曹洞宗開山道元和尚真蹟」の箱書き、大久保道舟博士の里見氏へ旧版の岩波文庫本『正法眼蔵』(衛藤即応校注)口絵写真使用の願いの手紙などの添付資料の外に、河村孝道博士(2)や小坂機融名誉教授(3)の真蹟評価添書があった。委員会が選定を決定したことはいうまでもない(4)。以下、駒澤大学禅文化歴史博物館所蔵本の『嗣書』については、「禅博本」と略称することにしよう。

筆者も興奮しながら白い手袋をはめて実物を拝見し、その吸い込まれるような錯覚を覚える筆蹟の見事さと共にその場にいることができる幸せを感じていた(5)。道元の代表的著述が『正法眼蔵』であることは周知のことであるが、真筆で完本はこの『嗣書』以外に知られていないだけに、極めて貴重な書であることは間違いない(6)。しかも、先に示すように草案本の断簡の真筆の存在も知られていてその価値をより一層高めている。

この論文は、以前と同様に『嗣書』の試訳を提示し、『嗣書』が既に在宋中の道元の行状について重要であることは「道元の大梅山の霊夢の意味するもの―宝慶元年の北帰行―」(『道元禅の成立史的研究』所収、大蔵出版、一九九一年八月)で述べたことはあるが再提示し、『仏祖』と『面授』の試訳を加え、道元の嗣法観を中心に関連するいくつかの諸問題をまとめたものである。

『嗣書』の位置づけを仁治三年八月五日の『如浄禅師語録』の到来と絡めて、仁治二年と仁治三年の『正法眼蔵』の諸巻の示衆年月日を入れて見てみると次のようになる。 

仁治二年(一二四一)正月三日   『仏祖』

三月二十七日 『嗣書』

夏安居    『法華転法華』・『心不可得』・『別本心不可得』

九月九日   『古鏡』

九月十五日  『看経』

十月十四日  『仏性』

十月中旬   『行仏威儀』

十一月十四日 『仏教』

十一月十六日 『神通』

仁治三年(一二四二)正月二十八日 『大悟』

三月十八日  『坐禅箴』

三月二十三日 『仏向上事』

三月二十六日 『恁麼』

四月五日   『行持』

四月二十日  『海印三昧』

四月二十五日 『授記』

四月二十六日 『観音』

五月十五日  『阿羅漢』

五月二十一日 『栢樹子』

六月二日   『光明』

〈八月五日、『如浄禅師語録』が宋より到来、翌日、上堂あり〉。

九月九日   『身心学道』

九月二十一日 『夢中説夢』

十月五日   『道得』

十一月五日  『画餅

(十一月七日 『仏教』重衆ヵ)

十二月十七日 『全機』

これらの『正法眼蔵』(7)は九十五巻『正法眼蔵』(=本山版)の配列の一五から四一のままとなっている。本山版九十五巻本は、版橈晃全(はんどうこうぜん)(一六二七―一六九三)が、道元の示衆年次に従って結集した九十五巻本を基とし、寛政七年(一七九五)に、玄透即中(げんとうそくちゅう)(一七二九―一八〇七)が永平寺五十世に晋住し、道元の五五〇回大遠忌の記念事業として『正法眼蔵』の開板を発願して、享和(きょうわ)二年(一八〇二)にそれを再編し、穏達(おんたつ)、俊量(しゅんりょう)らによって文化十三年(一八一六)に大本山永平寺版として公刊されたものである。但し、この時は、この論文で取り上げる『仏祖』と『嗣書』及び『受戒』『伝衣』『自証三昧』の計五巻は謄写の為の白紙本であって開板されてはいないのである。示衆年次から考えても『仏祖』と『嗣書』が密接に関連して示衆されたことは明らかである。現在の『正法眼蔵』の編輯出版は明らかに江戸時代の編輯である本山版を使用されることはない。そして七十五巻本が道元の親修であることはほぼ定説といってよいと思われるが、その編輯の時期や編集過程(8)は不明な面を残している。ここで問題としようとしている『仏祖』『嗣書』『面授』の三巻について七十五巻本では興味ある関係が見出される。道元は、寛元元年(一二四三)に瑞長本『建撕記』に「七月十六日のころ、京都を御立ちありて、御下向かと覚ユルナリ」(河村孝道編著『〈諸本対校〉永平開山道元禅師行状建撕記』所収、大修館書店、一九七五年四月)とあるように、越前に向かわれ、越前の吉峰寺に到着された。鏡島元隆博士はこの京都を立たれた月日が、宝慶三年(一二二七)の七月十七日に示寂された天童如浄の月日と深い関係があることを強調され、入越を如浄の遺戒と結びつけておられる。その年の冬に禅師峰に半年ばかり移られて、再び吉峰寺に戻られることになる。この越前の最初の禅師峰以前の吉峰寺時代の『正法眼蔵』の示衆は次のようになっている。〈( )内の数は七十五巻本の列次番号〉

 寛元元(一二四二)年 閏七月一日   『三界唯心』 (四一)

不詳      『説心説性』 (四二)

九月      『諸法実相』 (四三)

九月十六日   『仏道』 (四四)

九月二十日   『密語』 (四五)

九月二十四日  『嗣書』修訂 (三九)

九月      『仏経』 (四七)

十月二日    『無情説法』 (四六)

十月      『法性』 (四八)

不詳      『陀羅尼』 (四九)

十月二十日   『洗面』重衆 (五〇)

十月二十日   『面授』 (五一)

十一月     『坐禅儀』 (一一)

十一月六日   『梅華』 (五三)

十一月十三日  『十方』 (五五)

入越以降の『正法眼蔵』の巻々が七十五巻ではほぼ年代順に排列されていることは、多くの研究者の指摘するところであるが、七十五巻本の『嗣書』が草案本の示衆年次によって三九に列次され、『面授』が五一に置かれた時に『仏祖』を五二に配列された意味は、『坐禅儀』が『坐禅箴』の前に移されたと同様に、『仏祖』『嗣書』『面授』の三巻が密接に関連をもって示衆されたり、その後に編集されたことは認めてよいと思われる。

ところで、『嗣書』といえば、『正法眼蔵』の一巻ではなく、永平寺に所蔵されている「嗣書図」(9)とも密接に関連することを容易に思い浮かべることができる。真ん中に釈迦牟尼仏の名があり、真下に摩訶迦葉と結ばれ、時計回りに一周して「新道元」となり、歴代祖師の諱が書かれ、諱の下には「勃陀勃地」が全てに付されている。勃陀勃地とは、梵語のbuddha-bodhiの音写語で能覚の仏と所覚の菩提で、師資一体の覚の意味とされている。その円相図の下には、「仏祖命脈、証契即通、道元即通。大宋宝慶丁亥。住天童如浄(花押)」と書かれている。この「嗣書図」は近年、『道元禅師七百五十回大遠忌記念出版 永平寺史料全書 禅籍編 第一巻』(大本山永平寺、二〇〇二年六月)の中の冒頭にカラー写真で、全体・上半部・下半部の三枚が収められて出版されている。その道元が如浄から授けられたと伝承されてきた重文の「嗣書図」について、高橋秀栄氏の「解説」では、三ヶ所の「仏法僧宝」の朱の印肉と色合いを同じくする「如浄」の花押の上の朱の印影について、「如浄が道元禅師のために署名され、かつ花押を認められた時点のものではなく、ましてや中国で捺されものではない」と疑問を出している(同―九九三頁)。

この「嗣書図」と『仏祖』の祖師名を比較すると、『仏祖』には過去七仏があり、「勃陀勃地」が「大和尚」となっている外は、「嗣書図」では、

摩訶迦葉。阿難陀。商那和修。優婆 多。提多迦。弥遮迦。婆須蜜。仏陀難提。伏駄蜜多。波栗湿縛。富那夜奢。阿那菩底。迦毘摩羅。那伽閼羅樹那。迦那提婆。羅 羅多。僧迦難提。迦耶舎多。鳩摩羅多。闍夜多。婆修盤頭。摩拏羅。鶴勒那。獅子菩提。婆舎斯多。不如蜜多。般若多羅。菩提達磨。慧可。僧。道信。弘忍。慧能。行思。希遷。惟儼。曇晟。

良价。道膺。道丕。観志。縁観。警玄。義青。道楷。子淳。清了。宗。智鑑。如浄。(新)道元

とある。これによれば、インドの十二祖の馬鳴が「阿那菩底」となっているところに問題が残ることになる(10)。果たして伝承の「嗣書図」と『嗣書』の関係は相互に一致するかどうかは今のところ疑問と言わざるをえないのである。

今回の論文は、先に言うように、『嗣書』の内容を中心に『仏祖』及び『面授』と関連づけて問題にしてみよう。

 

二 試訳『仏祖』

『仏祖』の構成は三段とした。(下段の数は各段の岩波文庫本(三)の頁数)

(一)仏祖と礼拝                         一六〇頁

(二)過去七仏・西天二十八祖・東土二十三代            一六〇頁

(三)仏祖の礼拝の究尽                      一六五頁

正法眼蔵第五十二 仏祖

(一)宗(そ)礼(れ)。仏祖の現成は、仏祖を挙拈して奉覲するなり。過現当来のみにあらず、仏向上よりも向上なるべし。まさに仏祖の面目を保任せるを拈じて、礼拝し相見す。仏祖の功徳を現挙せしめて住持しきたり、体証しきたれり。

正法眼蔵第五十二 仏祖 

﹇訳﹈それ(全仏祖に礼す)

仏祖の目の前の顕現は、仏祖を取り上げて見たてまつるのである。過去・現在・未来だけではなく、仏の上よりも上でなければならない。正しく仏祖の面目を保ち維持したものを取り上げて、礼拝し相見するのである。仏祖が積み重ねて得られた力を目の前に取り上げて保持してきたものであり、身をもって現してきたものである。

(二)毘婆尸仏大和尚。此云広説。尸棄仏大和尚。此云火。毘舎浮仏大和尚。此云一切慈。拘留孫仏大和尚。此云金仙人。拘那含牟尼仏大和尚。此云金色仙。迦葉仏大和尚。此云飲光。釈迦牟尼仏大和尚。此云能忍・寂黙(11)。摩訶迦葉大和尚。阿難陀大和尚。商那和修大和尚。優婆 多大和尚。提多迦大和尚。弥遮迦大和尚。婆須蜜多大和尚。仏陀難提大和尚。伏駄蜜多大和尚。波栗湿縛大和尚。富那夜奢大和尚。馬鳴大和尚。迦毘摩羅大和尚。那伽閼剌樹那大和尚。又龍樹、又龍勝、又龍猛(12)。伽那提婆大和尚。羅 羅多大和尚。僧伽難提大和尚。伽耶舎多大和尚。鳩摩羅多大和尚。闍夜多大和尚。婆修盤頭大和尚。摩拏羅大和尚。鶴勒那大和尚。獅子大和尚。婆舎斯多大和尚。不如蜜多大和尚。般若多羅大和尚。菩提達磨大和尚。慧可大和尚。僧 大和尚。道信大和尚。弘忍大和尚。慧能大和尚。行思大和尚。希遷大和尚。惟儼大和尚。曇晟大和尚。良价大和尚。道膺大和尚。道丕大和尚。観志大和尚。縁観大和尚。警玄大和尚。義青大和尚。道楷大和尚。子淳大和尚。清了大和尚。宗 大和尚。智鑑大和尚。如浄大和尚〈東地廿三代〉。

﹇訳﹈毘婆尸仏大和尚。中国では広説という。尸棄仏大和尚。中国では火という。毘舎浮仏大和尚。中国では一切慈という。拘留孫仏大和尚。中国では金仙人という。拘那含牟尼仏大和尚。中国では金色仙という。迦葉仏大和尚。中国では飲光という。釈迦牟尼仏大和尚。中国では能忍・寂黙という。摩訶迦葉大和尚。阿難陀大和尚。商那和修大和尚。優婆 多大和尚。提多迦大和尚。弥遮迦大和尚。婆須蜜多大和尚。仏陀難提大和尚。伏駄蜜多大和尚。波栗湿縛大和尚。富那夜奢大和尚。馬鳴大和尚。迦毘摩羅大和尚。那伽閼剌樹那大和尚。又た龍樹、又た龍勝、又た龍猛という。伽那提婆大和尚。羅 羅多大和尚。僧伽難提大和尚。伽耶舎多大和尚。鳩摩羅多大和尚。闍夜多大和尚。婆修盤頭大和尚。摩拏羅大和尚。鶴勒那大和尚。獅子大和尚。婆舎斯多大和尚。不如蜜多大和尚。般若多羅大和尚。菩提達磨大和尚。慧可大和尚。僧 大和尚。道信大和尚。弘忍大和尚。慧能大和尚。行思大和尚。希遷大和尚。惟儼大和尚。曇晟大和尚。良价大和尚。道膺大和尚。道丕大和尚。観志大和尚。縁観大和尚。警玄大和尚。義青大和尚。道楷大和尚。子淳大和尚。清了大和尚。宗 大和尚。智鑑大和尚。如浄大和尚〈中国の廿三代である〉。

 

(三)道元、大宋国宝慶元年乙酉夏安居時(13)、先師天童古仏大和尚に参侍して、この仏祖を礼拝頂戴することを究尽せり。唯仏与仏なり。

正法眼蔵第五十二 仏祖

爾時仁治二年辛丑正月三日、書于日本国雍州宇治県観音導利興聖宝林寺而示衆。

﹇訳﹈道元(わたくし)は、大宋国宝慶元年乙酉(一二二五)夏安居の時、先師天童古仏大和尚に参じて学び、これらの仏祖を礼拝し頂戴することを究め尽した。それは唯だ仏から仏への境界である。

正法眼蔵第五十二 仏祖

その時、仁治二年辛丑(一二四一)の正月三日、日本国雍州宇治県観音導利興聖宝林寺において書いて示衆した。

 

三 試訳『嗣書』

『嗣書』の構成を次のように十二段とし、一端「嗣書」の尾題が付された後に、補筆された十三段の一段を加えた全体を十三段に分ける(下段の数字は各段の岩波文庫(二)の頁数)。岩波文庫本の本文は、「凡例」に「思想大系『道元』上下に拠り」とあり、思想大系の「凡例」には底本は「真筆本」なっている。もちろん「正法眼蔵第三十九嗣書」の総題「正法眼蔵」及び「第三十九」は七十五巻本の巻数であるから、真筆本には無く「嗣書」の題のみである。尾題も当然同じ。また、ここでは真筆本の本文に対し、草案本の断簡の箇所を本文に相当する前後に番号及び所蔵者等を参考に付す。

(一) 嗣法とは何か                三七〇頁

(二) 曹渓慧能のいう仏祖正嗣           三七二頁

(三) 嗣法の時に嗣書がある            三七三頁

(四) 菩提達磨のみ嗣法を伝えた          三七五頁

(五) 法眼門下の嗣書―惟一西堂より拝覧      三七五頁     

(六) 雲門門下の嗣書―宗月長老より拝覧      三七七頁

(七) 当時のある臨済門下の連中の乱嗣         三七八頁

(八) 仏眼清遠(楊岐派)系の嗣書―伝蔵主より拝覧 三八〇頁

(九)天童如浄の示された嗣書・嗣法観           三八一頁

(十)臨済門下の嗣書―智庚より拝覧した無際了派の嗣書    三八二頁

(十一)万年寺の元 の嗣書―大梅法常との因縁と霊夢           三八五頁

(十二)洞山門下の嗣書                            三八八頁

(十三)天童如浄の示された嗣法                        三八九頁

 

正法眼蔵第三十九 ①嗣書(14)                 観音導利興聖宝林寺 

(一)仏仏かならず仏仏に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する、これ証契なり、これ単伝なり。このゆゑに無上菩提なり。仏にあらざれば仏を印証するにあたはず。仏の印証をえざれば、仏となることなし。仏にあらずよりは、たれかこれを最尊なりとし、無上なりと印することあらん。

仏の印証をうるとき、無師独悟するなり、無自独悟するなり。このゆゑに、仏仏証嗣し、祖祖証契すといふなり。この道理の宗旨は、仏仏にあらざればあきらむべきにあらず。いはんや十地等覚の所量ならんや。いかにいはんや経師論師等の測度するところならんや。たとひ為説すとも、かれらきくべからず。

仏仏相嗣するがゆゑに、仏道はたゞ仏仏の究尽にして、仏仏にあらざる時節あらず。たとへば、石は石に相嗣し、玉は玉に相嗣することあり。菊も相嗣あり、松も印証するに、みな前菊後菊如如なり、前松後松如如なるがごとし。かくのごとくなるをあきらめざるともがら、仏仏正伝の道にあふといへども、いかにある道得ならんとあやしむにおよばず、仏仏相嗣の祖祖証契すといふ領覧あることなし。あはれむべし、仏種族に相似なりといへども、仏子にあらざることを、子仏にあらざることを。

﹇訳﹈正法眼蔵第三十九 嗣書        観音導利興聖宝林寺 

仏から仏へは必ず仏から仏に嗣法し、祖から祖へは必ず祖から祖に嗣法するのであり、これが証の契(ちぎ)りであり、これが真実人が真実人となること(単伝)である。このことから無上の菩提(さとり)なのである。仏でなければ仏をはっきりと証明することはできないし、仏からはっきりとした証明を得なければ、仏となることはないのである。仏でなければ、誰がこれを最も尊いものとし、無上であると認証することがあろうか。

仏の証明を得る時、(証明する)師も無くして独り悟るのであり、(証明される)自も無くして独り悟るのである。このことから、仏から仏に証を承け嗣いだとし、祖から祖への証の契りというのである。この道理の根本の主旨は、仏と仏とでなければ明らめるはずはないのである。ましていわんや十地の菩薩や仏位前の等覚の推量するところと言えようか。どうして経師や論師等が思い測るところとなろうか。たといかれらに説明したとしても、かれらは聞くはずはないのである。

仏から仏に互いに嗣法するから、仏道は正しく仏と仏とが究め尽くしたもので、仏と仏とでない時はないのである。たとえば、石は石に互いに嗣法し、玉は玉に互いに嗣法することがあり、菊も互いに嗣法する場合に、また、松も認証する場合に、すべての前の菊と後の菊とがありのままとなり、前の松と後の松とがありのままとなるようなものである。このようになることを明らめない連中は、仏から仏へと正しく伝わった言葉に出遇うと言っても、どのような言語表現になるであろうと怪しむことには及ぶことなく、仏から仏へ互いに嗣法することが祖から祖への証の契りであるという理解をすることはないのである。

仏の同族に似てるといっても、仏の子ではないし、子という仏ではないことを哀れに思わなければならない。

 

(二)曹渓あるとき衆にしめしていはく、「七仏より慧能にいたるに四十祖あり、慧能より七仏にいたるに四十祖あり(15)」。①/

この道理、あきらかに仏祖正嗣の宗旨なり。いはゆる七仏(16)は、過去荘厳劫に出現せるもあり、現在賢劫に出現せるもあり。しかあるを、四十祖の面授をつらぬるは、仏道なり、仏嗣なり。

しかあればすなはち、六祖より向上して七仏にいたれば四十祖の仏嗣あり、七仏より向上して六祖にいたるに四十仏の仏嗣なるべし。仏道祖道、かくのごとし。証契にあらず、仏祖にあらざれば、仏智慧にあらず、祖究尽にあらず。仏智慧にあらざれば、仏信受なし、祖究尽にあらざれば、祖証契せず。しばらく四十祖といふは、ちかきをかつ  挙するなり。

これによりて、仏仏の相嗣すること、深遠にして、不退不転なり、不断不絶なり。その宗旨は、釈迦牟尼仏は七仏以前に成道すといへども、ひさしく迦葉仏に嗣法せるなり。降生より三十歳、十二月八日に成道すといへども、七仏以前の成道なり。

諸仏斉肩、同時の成道なり。諸仏以前の成道なり、一切諸仏より末上の成道なり。

さらに迦葉仏釈迦牟尼仏に嗣法すると参究する道理あり。この道理をしらざるは、仏道をあきらめず。仏道あきらめざれば仏嗣にあらず。仏嗣といふは、仏子といふことなり(17)。

*①永平寺切。

﹇訳﹈曹渓慧能があるとき修行者に示して言った、「七仏から慧能に到るまでに四十祖がいて、慧能から七仏に遡って四十祖がいる」。

この道理は、明らかに仏祖が正しく承け嗣がれた根本の主旨である。いわゆる七仏は、過去荘厳劫に出現された仏(毘婆尸仏尸棄仏毘舎浮仏)もあり、現在賢劫に出現された仏(拘留孫仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏釈迦牟尼仏)もあるのである。そうした中で、四十祖が面(まのあた)り伝授を連ねるのは、仏道であり、仏の嗣法なのである。

そうであれば、六祖から向上(うえ)なる受けにより七仏に到れば四十祖の仏の嗣法があり、七仏から向上なる授けにより六祖に到れば四十仏の仏の嗣法なのである。仏道と祖道とは、このようなのである。証の契りでもなく、仏祖でもなければ、仏の智慧でないし、祖の究尽ではない。仏の智慧でなければ、仏の信受ではないし、祖の究尽でなければ、祖の証の契りは成り立たない。とりあえず四十祖というのは、近きをぽつりぽつりと取り上げたのである。

このことから、仏から仏への互いに嗣法することは、深遠であって、退くこともなく転ずることもなく、断つこともなく絶することもないのである。その根本の主旨は、釈迦牟尼仏は七仏以前に成道すといっても、永い年月を経て迦葉仏に嗣法されたのである。降誕より三十歳にして、十二月八日に成道すといっても、七仏以前の成道なのである。諸仏と斉肩にして、同時の成道なのである。諸仏以前の成道なのであり、一切諸仏より最後の成道なのである。

このことにより迦葉仏釈迦牟尼仏に嗣法すると参究する道理がある。この道理を知らないのは、仏道を明らめていないのである。仏道を明らめていないならば、仏の嗣法ではない。仏の嗣法というのは、仏の子ということなのである。

 

(三)釈迦牟尼仏、あるとき阿難にとはしむ(18)、「過去諸仏、これたれが弟子なるぞ」。釈迦牟尼仏いはく、「過去諸仏は、これ我釈迦牟尼仏の弟子なり」。

諸仏の仏儀、かくのごとし。この諸仏に奉覲して、仏嗣し、成就せん、すなはち仏仏の仏道にてあるべし。

この仏道、かならず嗣法するとき、さだめて嗣書あり。もし嗣法なきは天然外道なり。仏道もし嗣法を決定するにあらずよりは、いかでか今日にいたらん。これによりて、仏仏なるには、さだめて仏嗣仏の嗣書あるなり、仏嗣仏の嗣書をうるなり。その嗣書の為体(ていたらく)は、日月星辰をあきらめて嗣法す、あるいは皮肉骨髄を得せしめて嗣法す。あるいは袈裟を相嗣し、あるいは拄杖を相嗣し、あるいは松枝を相嗣し、あるいは払子を相嗣し、あるいは優曇花を相嗣し、あるいは金襴衣を相嗣す。 靸鞋(そうあい)の相嗣あり(19)、竹篦の相嗣あり。

これらの嗣法を相嗣するとき、あるいは指血をして書嗣し、あるいは舌血をして書嗣す。あるいは油乳をもてかき、嗣法する、ともにこれ嗣書なり。嗣せるもの、得せるもの、ともにこれ仏嗣なり。まことにそれ仏祖として現成するとき、嗣法かならず現成す。現成するとき、期せざれどもきたり、もとめざれども嗣法せる仏祖おほし。嗣法あるはかならず仏仏祖祖なり。

﹇訳﹈釈迦牟尼仏が、あるとき阿難に質問させた、「過去の諸仏は、誰の弟子ですか」。

釈迦牟尼仏は答えた、「過去の諸仏は、他ならぬ我が釈迦牟尼仏の弟子である」。

諸仏における仏の嗣法の手本はこのようなのである。この諸仏にまみえて、仏に嗣法し、成就しようとすることは、仏から仏への仏道なのである。

この仏道には、必ず嗣法する時に、決まって嗣書が存在する。もし嗣法なきは天然外道である。仏道がもし嗣法を定めてなかったならば、どうして今日に到ろうか。このことから、仏から仏になるには、必ず仏が仏に嗣法する時の嗣書があるのであり、仏が仏より嗣法した時に嗣書を得るのである。その嗣書のありようは、日月星辰を明らめて嗣法し、あるいは皮肉骨髄を獲得させて嗣法するのである。あるいは袈裟を互いに受け継ぎ、あるいは  杖を互いに受け継ぎ、あるいは松の枝を互いに受け継ぎ、あるいは払子を互いに受け継ぎ、あるいは優曇花を互いに受け継ぎ、あるいは金襴衣を互いに受け継ぐのである。 靸鞋を互いに受け継ぐことがあり、竹篦を互いに受け継ぐことがあるのである。

これらの嗣法で互いに受け継ぎする時、あるいは指の血で書いて嗣法し、あるいは舌の血で書いて嗣法する。あるいは油乳で書いて嗣法する、すべて嗣書なのである。嗣書を受け継いだものも得たものも、ともに仏の嗣法である。まことに仏祖として目の前に顕現する時、嗣法は必ず目の前に顕現するのである。目の前に顕現する時、期待しなくとも来たり、求めなくとも嗣法した仏祖は多いのである。嗣法があるのは必ず仏仏祖祖なのである。

 

(四)第二十八祖、西来よりこのかた、仏道に嗣法ある宗旨を、東土に正聞するなり。それよりさきは、かつていまだきかざりしなり。西天の論師法師等、およばずしらざるところなり。および十聖三賢の境界およばざるところ、三蔵義学の呪術師等、あるらんと疑著するにもおよばず。かなしむべし、かれら道器なる人身をうけながら、いたづらに教網にまつはれて透脱の法をしらず、跳出の期を期せざることを。かるがゆゑに、学道を審細にすべきなり、参究の志気をもはらすべきなり。

﹇訳﹈第二十八祖菩提達磨は、インドより来てから、仏道に嗣法があるという根本の主旨を、中国に正しく知らせたのである。達磨より以前は、いまだ曾て聞かなかったのである。インドの論師や法師などは、それに達せず、知らないことなのである。および十聖(十地)三賢(十住・十行・十回向)の境界も達しないところであり、三蔵の教えを学ぶ呪術師などは、嗣法があるだろうかと疑うことにも達していないのである。悲しいことではないか、かれらは仏道を学べる器である人間の身を受けながら、いたずらに教のとらわれの網に纏い付かれて透り脱ける方法を知らず、跳び出る時期を期待できないとは。このことから、仏道を学ぶことを審細にすべきであり、参究すべき志気を専念すべきである。

 

(五)②道元在宋のとき(20)、嗣書を礼拝することをえしに、多般の嗣書ありき。そのなかに、惟一西堂(21)とて、天童に掛錫せしは、越上の人事なり、前住広福寺の堂頭なり。先師と同郷人なり。先師つねにいはく、「境風は一西堂に問取すべし」。

あるとき西堂いはく、「古蹟の可観は人間の珍玩なり、②/いくばくか見来せる」。

道元いはく、「見来すくなし」。

ときに西堂いはく、「吾那裏に壱軸の古蹟あり。甚麼次第なり、与老兄看」といひて、携来をみれば、嗣書なり。法眼下のにてありけるを、老宿の衣鉢のなかよりえたりけり。惟一長老のにはあらざりけり。かれにかきたりしは、

「初祖摩訶迦葉、悟於釈迦牟尼仏釈迦牟尼仏、悟於迦葉仏」。

かくのごとくかきたり。

道元これをみしに、正嫡の正嫡に嗣法あることを決定信受す。未曾見の法なり。仏祖の冥感して児孫を護持する時節なり。

感激不勝なり。

*②永平寺切。

﹇訳﹈道元(わたし)が在宋の時、嗣書を礼拝することができた折に、多くの嗣書があった。その中に、惟一西堂という人が、天童に掛錫していたが、彼は越州浙江省)の出身であり、前に住持した広福寺の堂頭和尚であった。先師天童如浄と同郷の人である。

先師は常に言われた、「この土地の様子については、一西堂に聞くがよい」。

ある時、西堂が言った、「古い墨蹟で観るべきものは、世間で重宝している、どれほど見て来たか」。

道元が答えた、「見て来たものは少ないです」。

その時、西堂は、「わたしのところに一軸の古い墨蹟がある。そのようなことから、あなたに看せよう」と言って、携え来たるのを看ると、嗣書であった。法眼門下のもので、ある老宿の残した持ち物の中から手に入れたものである。惟一長老の嗣書ではなかった。その嗣書に書いてあったのは、

「初祖摩訶迦葉、悟於釈迦牟尼仏釈迦牟尼仏、悟於迦葉仏〈初祖摩訶迦葉釈迦牟尼仏のところで悟る。釈迦牟尼仏迦葉仏のところで悟る〉」と。

このように書いてあった。

道元はこれを看た時に、正嫡から正嫡に嗣法があることをはっきり信じた。いまだ曾て見たことのないものであった。仏祖からの目にみえない不思議なはたらきで児孫を護られた場合であった。感激にたえなかった。

 

(六)③雲門下の嗣書とて、宗月長老(22)の天童の首座職に充せしとき、道元にみせしは、いま嗣書をうる人のつぎかみの師、および西天東地の仏祖をならべつらねて、その下頭に、嗣書うる人の名字あり。諸仏祖より直にいまの新祖師の名字につらぬるなり。しかあれば、如来より四十余代、ともに新嗣の名字へきたれり。たとへば、おのおの新祖にさづけたるがごとし。③/④摩訶迦葉・阿難陀等は、余門のごとくにつらなれり。

ときに道元、宗月首座にとふ、「和尚、いま五家宗派をつらぬるに、いさゝか同異あり。そのこゝろいかん。西天より嫡々相嗣せらば、なんぞ同異あらんや」。④/

宗月いはく、「たとひ同異はるかなりとも、たゞまさに雲門山の仏は、かくのごとくなると学すべし。釈迦老子、なにによりてか尊重他なる。悟道によりて尊重なり。雲門大師、なにによりてか尊重他なる。悟道によりて尊重なり」。

道元この語をきくに、いさゝか領覧あり。

*③大乗寺切。*④香積寺切。

﹇訳﹈雲門門下の嗣書といって、宗月長老が天童の首座職であった時に、道元に看せたものは、いま嗣書を得た人のすぐ前の師と、およびインドと中国の仏祖を並べて書いて、その下に、嗣書を得た人の名字があった。諸仏祖より直接にいまの新祖師の名字に書き連ねたものである。そのことから、如来より四十余代、全部、新しい嗣法の名字の所へ連なって来たものである。具体的に言えば、それぞれが新祖に授けたようになっている。摩訶迦葉・阿難陀などは、別の門派のごとく書き連ねられている。

その時、道元は、宗月首座に問うた、「和尚よ、いま五家宗派(潙仰宗・臨済宗曹洞宗雲門宗法眼宗)を書き連ねるのに、いささか同異があります。その訳はどうしてですか。インドよりまっすぐに相承して受け継がれていれば、どうして同異がありましょうか」。

宗月は答えた、「たとい同異が大きくとも、ただまさに雲門山の仏は、このようであると学ぶがよい。釈迦老子が、なぜ他より尊重されるのか。それは悟道によりて尊重されるのである。雲門大師は、なぜ他より尊重されるのか。それは悟道によりて尊重されるのである」。

道元はこの語を聞いて、多少は納得した。

 

(七)いま江浙に大刹の主とあるは、おほく⑤臨済・雲門・洞山等の嗣法なり。しかあるに、臨済の遠孫と自称するやから、まゝにくはだつる不是あり。いはく、善知識の会下に参じて、頂相壱副(ママ)・法語壱軸を懇請して、嗣法の標準にそなふ。しかあるに、一類の狗子あり、尊宿のほとりに法語・頂相等を懇請して、かくしたくはふることあまたあるに、⑤/晩年におよんで、⑥官家に陪銭し、一院を討得して、住持職に補するときは、法語・頂相の師に嗣法せず、当代の名誉のともがら、あるいは王臣に親附なる長老等に嗣法するときは、得法をとはず、名誉をむさぼるのみなり。かなしむべし、末法悪時、かくのごとくの邪風あることを。かくのごとくのやからのなかに、いまだかつて一人としても仏祖の道を⑥/夢にも見聞せるあらず。

おほよそ法語・頂相等をゆるすことは、教家の講師および在家の男女等にもさづく、行者・商客等にもゆるすなり。そのむね、諸家の録にあきらかなり。あるいはその人にあらざるが、みだりに嗣法の証拠をのぞむによりて、壱軸の書をもとむるに、有道のいたむところなりといへども、なまじひに援筆するなり。しかのごときのときは、⑦古来の書式によらず、いさゝか師吾のよしをかく。近来の法は、たゞその師の会にて得力すれば、すなはちかの師を師と嗣法するなり。かつてその師の印をえざれども、たゞ入室・上堂に咨参して、⑦/⑧長連牀にあるともがら、住院のときは、その師承を挙するにいとまあらざれども、大事打開するとき、その師を師とせるのみおほし。

*⑤神応寺切。*⑥永光寺切。*⑦円通寺切。

﹇訳﹈いま江蘇省浙江省地方の大きな寺院の住持は、多く臨済・雲門・洞山などの法を嗣いだ者である。しかし、臨済の遠孫と自ら称する連中で、時々よからぬことを企てる者がいる。彼らは言っている、優れた指導者の門下に参学して、頂相一幅・法語一軸をしきりにお願いして、嗣法の証拠として準備するのである。ところが、あるまじき連中がいて年長の徳の高い方の周辺で法語・頂相などをしきりにお願いして、沢山こっそり隠しておいて、晩年になって、朝廷にお金を納めて、一つの寺院を手に入れ、住持になる時は、法語・頂相の師に嗣法しないで、その時代の名誉ある連中か、あるいは王臣に親しい長老などに嗣法する時は、悟りを得たかを問題とせずに、名誉のみを貪ろうとするのである。何と悲しいことか、末法悪世に、このような間違った風習があるとは。このような連中は、誰一人として仏祖の道を夢にさえ一度たりとも見聞したことはないのである。

そもそも、法語・頂相などを与える場合は、教家の講師および在家の男女などにも与え、行者(あんじゃ)(未剃髪の寺の雑役をする者)・商人などにも与えるのである。そのことは、いろいろの人々の記録で明らかなのである。あるいはその資格のない人が、みだりに嗣法の証拠を望んで、一軸の書を求める為に、道心の有る人が心をいためるのだが、うかつに筆を取りて書き与えるのである。その場合は、古来の書式によらないで、ただ、「わたしを師とする」の事情を少し書くのである。近来のやり方は、ただその師の下で悟りを得れば、その師を師として嗣法するのである。かつてその師の印可を得なくとも、専一に入室参禅し、上堂の説法を聞き、長連牀の僧堂で修行する者が、住院する時、誰の法を継承したかを取り上げ述べる機会はないが、参学の大事にけりがついた時は、その師を師として嗣法することが多いのである。

 

(八)また龍門の仏眼禅師清遠和尚(23)の遠孫にて、伝といふものありき。かの師伝蔵主(24)、また嗣書を帯せり。嘉定のはじめに、隆禅⑧/上座(25)、日本国人なりといへども、かの伝蔵やまひしけるに、隆禅よく伝蔵を看病しけるに、勤労しきりなるによりて、看病の労を謝せんがために、嗣書をとりいだして、礼拝せしめけり。「みがたきものなり。与你礼拝」といひけり。

それよりこのかた、八年ののち、嘉定十六年癸未あきのころ、道元はじめて天童山に寓直するに、隆禅上座、ねんごろに伝蔵主に請じて、嗣書を道元にみせし。その嗣書の様は、七仏よりのち、⑨臨済にいたるまで、四十五祖をつらねかきて、臨済よりのちの師は、一円相をつくりて、そのなかにめぐらして、法諱と花字とをうつしかけり。新嗣はをはりに、年月の下頭にかけり。臨済の尊宿に、かくのごとくの不同ありとしるべし。⑨/

*⑧陽松庵切。*⑨禅定寺切。

﹇訳﹈また、龍門の仏眼禅師清遠和尚の遠孫で、伝という人がいた。蔵主であったその伝という人も、また嗣書を所持していた。嘉定のはじめ(一二〇八〜)に、日本人の隆禅上座が、かの伝蔵主が病気となった時に、伝蔵主をよく看病し、大変骨を折ってくれたので、看病のお礼に、嗣書を取り出して、礼拝させてくれた。その時、「滅多に見られないものですよ。あなたに礼拝させましょう」と言った。

それより八年の後の嘉定十六年癸未(一二二三)の秋の頃、道元ははじめて天童山に掛錫した時に、隆禅上座は、親切に伝蔵主にお願いして、嗣書を道元に見せてくれた。その嗣書の様子は、七仏より臨済に至るまで、四十五祖を連続して書き、臨済より後の師は、一円相を描いて、その中にぐるっと、法諱と花押とを書写してあった。新しい嗣法者は最後に、年月の下に書いてあった。臨済の年長の徳の高い方に、このような違いがあると知らねばならない。

 

(九)⑩先師天童堂頭、ふかく人のみだりに嗣法を称ずることをいましむ。先師の会は、これ古仏の会なり、叢林の中興なり。みづからもまだらなる袈裟をかけず。芙蓉山の道楷禅師の衲法衣つたはれり(26)といへども、上堂陞座にもちゐず。おほよそ住持職として、まだらなる法衣、かつて一生のうちにかけず。こゝろあるも、物しらざるも、ともにほめき。真善知識なりと尊重す。

先師古仏、上堂するに、つねに諸方をいましめていはく、「近来おほく祖道に名をかれるやから、みだりに法衣を搭し、長髪をこのみ、師号に署するを出世の舟航とせり。あはれむべし、⑩/たれかこれをすくはん。うらむらくは、諸方長老無道心にして学道せざることを。嗣書・嗣法の因縁を見聞せるものなほまれなり、百千人中一箇也無。これ祖道陵遅なり」。

かくのごとくよのつねにいましむるに、天下の長老うらみず。

しかあればすなはち、誠心辦道することあらば、嗣書あることを見聞すべし。見聞することあるは学道なるべし。

*⑩青龍寺切。

﹇訳﹈先師天童寺の堂頭如浄禅師は、人がみだりに嗣法を称することをかたく誡められた。先師の道場は、古仏の道場であり、叢林の中興といえるものである。ご自身も高価な布の接ぎ合わせの袈裟をかけることはなかった。芙蓉山の道楷禅師の禅宗の袈裟が伝わっていても、上堂陞座においても用いられなかった。およそ住持として、高価な布の接ぎ合わせの袈裟を一生のうちに一度もかけられなかった。思慮ある者も、物を知らない者も、共に讃歎した。真のすぐれた指導者であると尊重した。

先師古仏は、上堂する毎に、いつも修行者達を誡めて言われた、「近年、達磨の教えに名をかりる連中は、みだりに高価な法衣を着け、長髪を好み、禅師号を肩書きとすることを出世の手始めとしている。哀れに思わなければならない、誰がこれらを救おうか。諸方の長老は道心が無くて、仏道を学ばないことを遺憾に思うのである。嗣書・嗣法のことを見聞している者はなおさら稀で、百人千人の中に一人もいないのである。これは達磨の教えの衰えの何ものでもない」。

このようにいつも誡められても、全土の長老は恨むことはなかった。

それ故に、誠心誠意仏道を修行することがあれば、嗣書があることを見聞しなければならない。見聞することがあることは、仏道を学ぶことなのである。

 

(十)⑪臨済の嗣書は、まづその名字をかきて、「某甲子われに参ず」ともかき、「わが会にきたれり」ともかき、「入吾堂奥」ともかき、「嗣吾」ともかきて、ついでのごとく前代をつらぬるなり。かれもいさゝかいひきたれる法訓あり。いはゆる宗趣は、嗣はをはりはじめにかゝはれず、たゞ真善知識に相見する的々の宗旨なり。臨済にはかくのごとくかけるもあり。まのあたりみしによりてしるす。⑪/

了派蔵主者、威武人也(27)。今吾子也。徳光参侍径山杲和尚、径山嗣夾山勤、勤嗣楊岐演、演嗣海会端、端嗣楊岐会、会嗣慈明円、円嗣汾陽昭、昭嗣首山念、念嗣風穴沼、沼嗣南院顒、顒嗣興化弉。弉是臨済高祖之長嫡也〈了派蔵主は、威武の人なり。今吾が子なり。徳光は径山杲和尚に参侍し、径山は夾山勤に嗣し、勤は楊岐演に嗣し、演は海会端に嗣し、端は楊岐会に嗣し、会は慈明円に嗣し、円は汾陽昭に嗣し、昭は首山念に嗣し、念は風穴沼に嗣し、沼は南院顒に嗣し、顒は興化弉に嗣す。弉は是れ臨済高祖の長嫡なり〉。

これは、阿育王山仏照禅師徳光、かきて派無際にあたふるを、天童の住持なりしとき、小師僧智庚、ひそかにもちきたりて、了然寮にて道元にみせし。ときに大宋嘉定十七年甲申正月二十一日、はじめてこれをみる、喜感いくそばくぞ。すなはち仏祖の冥感なり、焼香礼拝して披看す。

この嗣書を請出することは、去年七月のころ、師広都寺、ひそかに寂光堂にて⑫道元にかたれり。

道元ちなみに都寺にとふ、「如今たれ人かこれを帯持せる」。

都寺いはく、「堂頭老漢那裏有相似。のちに請出ねんごろにせば、さだめてみすることあらん」。

道元このことばをきゝしより、もとむるこゝろざし、日夜に休せず。このゆゑに今年ねんごろに小師の僧智庚を□(口+屈)請し、一片心をなげて請得せりしなり。

そのかける地は、白絹の表背せるにかく。表紙はあかき錦なり。軸は玉なり。長九寸ばかり、闊七尺余なり。閑人にはみせず。⑫/

道元すなはち智庚を謝す、さらに即時に堂頭に参じて焼香、礼謝無際和尚。

ときに無際いはく、「遮一段事、少得見知。如今老兄知得、便是学道之実帰也〈この一段の事、見知すること得るもの少なし。如今老兄知得せり、便ち是れ学道の実帰なり〉」。

ときに道元喜感無勝。

*⑪瑞雲院切。*⑫長田切

﹇訳﹈臨済門下の嗣書は、まずその名字を書いて、「某甲(なにがし)はわれに参ず」とも書き、「わが会下に来たれり」とも書き、「吾の堂奥に入れり」とも書き、「吾に嗣ぐ」とも書いて、順序通りに前の世代をつらねるのである。臨済門下にもいささか言い伝えてきた訓(おしえ)がある。その大事な趣旨とするところは、嗣法は始終に関係なく、ただ真のすぐれた指導者に相見したところに明らかな根本の意味があることである。臨済門下にはこのように書いたものもある。これはまのあたりに見てきたものであるから書き記しておこう。

了派蔵主は、威武(福建省福州)の出身の人である。今は吾が仏照徳光の弟子である。徳光は径山宗杲和尚に参学し、径山は夾山克勤に嗣法し、克勤は楊岐法演に嗣法し、法演は海会守端に嗣法し、守端は楊岐方会に嗣法し、方会は慈明楚円に嗣法し、楚円は汾陽善昭に嗣法し、善昭は首山省念に嗣法し、省念は風穴延沼に嗣法し、延沼は南院慧顒に嗣法し、慧顒 は興化存弉(ママ)に嗣法す。存弉は臨済義玄高祖の長嫡である。

これは、阿育王山仏照禅師徳光が、書いて派無際(無際了派)に与えたのを、天童の住持であった時に、その弟子の智庚が、人に知られないように持ってきて、了然寮で道元に見せたのものである。大宋嘉定十七年甲申(一二二四)の正月二十一日の時で、わたしははじめてこれを見た時、その喜びはいかばかりであったろうか。その縁は仏祖の知らず知らずの感応であり、焼香礼拝して開いて拝看した。

この嗣書の拝覧を願い出たのは、前の年の七月の頃で、師広都寺が、ひそかに寂光堂で道元に語ったものである。

道元は都寺に問うた、「如今(いま)は誰がこれをお持ちですか」。

都寺が答えた、「堂頭(了派)老漢のところに有るようだ。後に丁重に拝覧を願い出れば、必ず見せてくれるであろう」。

道元はこの言葉を聞いてから、拝覧を求むる気持ちは、昼も夜も止まなかった。このことから今年丁重に弟子の智庚に無理にお願いして、真心込めて願い出たのである。

嗣書を書いた素地(きじ)は、白絹で裏打ちしたものに書かれている。表紙は赤い錦である。軸は玉である。長さは九寸ばかりであり、闊さは七尺余である。いわれのない人には見せない。

道元は智庚に感謝し、その後すぐに堂頭に参じて無際和尚に焼香し、礼謝した。

その時、無際が言った、「この一連の事は、拝見し知っているものは少ない。如今老兄(あなた)は知ることができた、これは仏道を学ぶ時の実に決着のところである」。

その時、道元は喜びに堪えなかった。

 

(十一)のちに宝慶のころ、道元、台山・鴈山等に雲遊するついでに、平田の万年寺にいたる。ときの住持は福州の元鼒和尚(28)なり。宗鑑長老(29)退院ののち、 和尚補す、叢席を一興せり。

人事のついでに、むかしよりの仏祖の家風を往来せしむるに、大潙 ・仰山の令嗣話(30)を君挙するに、長老いはく、「曾看我箇裏嗣書也否〈曾て我が箇裏の嗣書を看るや〉」。

道元いはく、「いかにしてかみることをえん」。

長老すなはちみづからたちて、嗣書をさゝげていはく、「這箇はたとひ親人なりといへども、たとひ侍僧のとしをへたるといへども、これをみせしめず。これすなはち仏祖の法訓なり。しかあれども、元鼒ひごろ出城し、見知府のために在城のとき、一夢を感ずるにいはく、大梅山法常禅師(31)とおぼしき高僧ありて、梅花一枝をさしあげていはく、「もしすでに船舷をこゆる実人あらんには、花ををしむことなかれ」といひて、梅花をわれにあたふ。元鼒おぼえずして夢中に吟じていはく、「未跨船舷、好与三十(32)〈未だ船舷を跨せざるに、好し、三十を与へんに〉」。しかあるに、不経五日、与老兄相見〈五日を経ずに、老兄と相見す〉。いはんや老兄すでに船舷跨来、この嗣書また梅花綾にかけり。大梅のをしふるところならん。夢草と符合するゆゑにとりいだすなり。老兄もしわれに嗣法せんともとむや。たとひもとむとも、をしむべきにあらず」。

道元、信感おくところなし。嗣書を請ずべしといへども、たゞ焼香礼拝して、恭敬供養するのみなり。ときに焼香侍者法寧といふあり、はじめて嗣書をみるといひき。

道元ひそかに思惟しき、この一段の事、まことに仏祖の冥資にあらざれば見聞なほかたし。辺地の愚人として、なんのさいはひありてか数番これをみる。感涙霑袖。ときに維摩室・大舎堂等に、閑闃無人なり。

この嗣書は、落地梅綾のしろきにかけり。長九寸余、闊一尋余なり。軸子は黄玉なり、表紙は錦なり。

道元、台山より天童にかへる路程に、大梅山護聖寺の旦過に宿するに、

大梅祖師きたり、開花せる一枝の梅花をさづくる霊夢を感ず。祖鑑もとも仰憑するものなり。その一枝花の縦横は、壱尺余なり。梅花あに優曇花にあらざらんや。夢中と覚中と、おなじく真実なるべし。道元在宋のあひだ、帰国よりのち、いまだ人にかたらず。

﹇訳﹈その後、宝慶のころ(一二二五〜二七)、道元は、天台山・雁蕩山などに遊山した折りに、平田の万年寺に行った。その時の住持は福州の元鼒和尚であった。宗鑑長老が退院の後に、元鼒和尚が跡を継がれ、寺院を復興された。

初対面の挨拶の折りに、昔から仏祖の家風について問答をかわして、大潙霊祐と仰山慧寂の令嗣話を取り上げたところ、長老が言われた、「わたしのところの嗣書を看たことがありますか」。

道元は答えた、「どうして看ることができましょうか」。

長老は立ちあがって、嗣書を手にし、捧げて言われた、「これはたとい身内の人であっても、たとい侍者で年月を経たものでも、嗣書を看させない。それが仏祖の訓なのである。だが、元鼒、先ごろ都市に出て、県知事に会う為に都市にいた時、一つの夢を見た。それによると、大梅山法常禅師と思われる高僧がおられて、梅花の一枝をかざして、「もし航海してやってきた真実の人がいた場合には、花を惜しまず与えよ」と言って、梅花をわたしに与えられた。元鼒は思わず夢の中でかの徳山宣鑑の語を口ずさんだ、「いまだ船に乗らなくとも、三十棒をくらわすにもってこいだ」。ところが、五日も経たないのに、老兄(あなた)と相見した。ましていわんや老兄は船に乗ってきていて、この嗣書もまた梅花綾に書いてある。大梅が教えたことに違いない。夢の話と符合したから取りだしたのである。老兄がもしわれに嗣法したいと求めますか。もし求めるなら、惜しまずに与えよう」。

道元は、感激があふれた。嗣書をいただくこともできたのだが、ただ焼香し礼拝するだけで、恭しく敬い供養するだけであった。その時、焼香侍者の法寧という人がいて、はじめて嗣書を見ると言っていた。

道元はひそかに思った、この一件の出来事は、誠に仏祖の知らず知らずの加護でなければ見聞すらできないことだと。遠く離れた日本の愚かなわたくしが、何の幸いがあってか幾度も嗣書を見ることができたのであろうか。感激の涙が袖を潤した。その時、維摩室(33)・大舎堂などは、ひっそりとして人はいなかった。

その嗣書は、地に落ちた梅花模様の白い綾絹に書かれていた。長さが九寸余り、闊さが一尋(ひろ)余りであった。軸は黄玉であり、表紙は錦であった。

道元は、天台山より天童に帰る道すがら、大梅山護聖寺の旦過寮に宿泊すると、大梅法常祖師が来て、開花せる一枝の梅花を授ける不思議な夢を見た。祖師の手本として最大に仰ぎみるものである。その一枝の梅花の縦横は、一尺余りである。梅花とは優曇花でないことがあろうか。夢の中と目覚めの中と、共に同じく真実であるに違いない。道元はこのことを在宋の間も、帰国して後も、いまだ人に語ったことはない。

 

(十二)いまわが洞山門下に、嗣書をかけるは、臨済等にかけるにはことなり。仏祖の衣裏にかゝれりけるを、青原高祖したしく曹渓の几前にして、手指より浄血をいだしてかき、正伝せられけるなり。この指血に、曹渓の指血を合して書伝せられけると相伝せり。初祖・二祖のところにも、合血の儀おこなはれけると相伝す。これ、「吾子参吾」などはかゝず、諸仏および七仏のかきつたへられける嗣書の儀なり。

しかあればしるべし、曹渓の血気は、かたじけなく青原の浄血に和合し、青原の浄血、したしく曹渓の親血に和合して、まのあたり印証をうることは、ひとり高祖青原和尚のみなり。余祖のおよぶところにあらず。この事子をしれるともがらは、仏法はたゞ青原のみに正伝せると道取す。

⑬嗣 書

﹇訳﹈いま、わが洞山門下で、嗣書を書く場合は、臨済門下等で書いているのとは異なっている。仏祖の衣裏にある宝珠である正法を、青原行思高祖は親しく曹渓慧能の机の前で、手の指より出した浄血で書き、嗣書で正伝されたのである。この指の血に、曹渓の指の血を合せて書き伝えられたと互いに伝えているのである。初祖菩提達磨と二祖慧可のところでも、合血の儀が行われたと互いに伝えている。これは「吾が弟子は吾に参ず」などとは書かないで、諸仏および七仏が書き連ねられた嗣書の樣式である。

そうであるから次のことを知らねばならない、曹渓慧能の血は、かたじけなくも青原行思の浄血に和合し、青原の浄血は、親しく曹渓の親血に和合して、面前で印証を得たことは、ただ高祖青原和尚のみであることを。余の祖師の及ぶところではない。この事を知っている人々は、仏法はただ青原行思のみに正しく伝わっているというのである。

 

嗣 書

 

(十三)先師古仏天童堂上大和尚、しめしていはく、「諸仏かならず嗣法あり、いはゆる 釈迦牟尼仏者、迦葉仏に嗣法す、迦葉仏者、拘那含牟尼仏に嗣法す、拘那含牟尼仏者、拘留孫仏に嗣法するなり。かくのごとく仏仏相嗣して、いまにいたると信受すべし。これ学仏の道なり」。

ときに道元まうす、「迦葉仏入涅槃ののち、釈迦牟尼仏はじめて出世成道せり。いはんやまた賢劫の諸仏、いかにしてか荘厳劫の諸仏に嗣法せん。この道理いかん」。⑬/

⑭先師いはく、「なんぢがいふところは聴教の解なり、十聖三賢等の道なり、仏祖嫡々の道にあらず。わが仏仏相伝の道はしかあらず。釈迦牟尼仏、まさしく迦葉仏に嗣法せり、とならひきたるなり。釈迦仏の嗣法してのちに、迦葉仏は入涅槃すと参学するなり。釈迦仏もし迦葉仏に嗣法せざらんは、天然外道とおなじかるべし。たれか釈迦仏を信ずるあらん。かくのごとく仏仏相嗣して、いまにおよびきたれるによりて、箇々仏ともに正嗣なり。つらなれるにあらず、あつまれるにあらず。まさにかくのごとく仏仏相嗣すると学するなり。諸阿笈摩教のいふところの劫量・寿量等にかゝはれざるべし。もしひとへに釈迦仏よりおこれりといはば、わづかに二千余年なり、ふるきにあらず。相嗣もわづかに四十余代なり、あらたなるといひぬべし。

この仏嗣は、しかのごとく学するにあらず。釈迦仏は迦葉仏に嗣法すると学し、迦葉仏は釈迦仏に嗣法すると学するなり。かくのごとく学するとき、まさに諸仏諸祖の嗣法にてはあるなり」。

このとき道元、はじめて仏祖の嗣法あることを稟受するのみにあらず、従来の旧 をも脱落するなり。

 

于時日本仁治二年歳次辛丑三月二十七日、観音導利興聖宝林寺、入宋伝法沙門道元記。⑭/寛元癸卯九月二十四日、掛錫於越州吉田県吉峰古寺草庵。(花押(34))

 

*⑬興聖寺切。「嗣書。仁治二年辛丑三月二十七日書」デ始マル。*⑭興聖寺切。「于時仁治二年歳次辛丑三月廿七日、観音導利興聖宝林寺 沙門道元記。仁治二年辛丑十二月十二日子時書。学人是法受持」デ終ワル。

﹇訳﹈先師古仏天童堂上大和尚は、示して言われた、「諸仏には必ず嗣法がある。つまり、釈迦牟尼仏は、迦葉仏に嗣法し、迦葉仏は、拘那含牟尼仏に嗣法し、拘那含牟尼仏は、拘留孫仏に嗣法するのである。このように仏から仏へと互いに受け継いで、現在に至ったと信受すべきである。これが仏法を学ぶ道である」。

その時、道元は申し上げた、「迦葉仏が涅槃に入られた後に、釈迦牟尼仏は初めて世に出て成道されました。まして更に現在賢劫の諸仏(拘留孫仏・拘那含牟尼仏・迦葉仏釈迦牟尼仏)が、どうして過去荘厳劫の諸仏(毘婆尸仏尸棄仏毘舎浮仏)に嗣法することがありましょうか。この道理はどうでしょうか」。

先師は言われた、「あなたが言っているのは経文の解釈で聞いた理解であり、十聖三賢等の道であり、仏祖が正しく次々に伝えられた道ではない。わが仏から仏へと互いに伝えた道はそうではない。釈迦牟尼仏は、正しく迦葉仏に嗣法された、と身につけて学んできたものである。釈迦仏が嗣法して後に、迦葉仏は涅槃に入られたと学ぶのである。釈迦仏がもし迦葉仏に嗣法しないとするのは、天然外道の説と同じとなるのである。誰が釈迦仏を信ずることがあろうか。このように仏から仏へと互いに受け継ぎ、現在に及んできたからこそ、一人一人の仏も正しい嗣法の人なのである。連続しているのでもなく、一つに集まっているのでもない。正しくこのように仏から仏へと互いに受け継いだと学ぶのである。諸の阿含教が説く劫量・寿量等に関わってはならない。もしただ釈迦仏より起こったと言えば、わずかに二千余年である、古いことではない。互いに受け継いだのもわずかに四十余代であり、新しいと言うべきである。この仏からの嗣法は、このように学ぶのではない。釈迦仏は迦葉仏に嗣法すると学び、迦葉仏は釈迦仏に嗣法すると学ぶのである。このように学ぶ時、正しく諸仏諸祖の嗣法だと言えるのである」。

この時、道元は、はじめて仏祖の嗣法があることを受け取るだけでなく、いままでの疑問もすっかり消えたのである。

時に日本仁治二年歳次辛丑(一二四一)の三月二十七日に、観音導利興聖宝林寺において入宋伝法沙門道元記す

寛元癸卯(一二四三)の九月二十四日に越州吉田県吉峰古寺の草庵に掛錫す。(花押)

 

四 試訳『面授』

『面授』の構成は、一旦擱筆されるまでの(A)の十八段とその後の付説(B)の九段に大きく二つに分け、全体を分かりやすくする為に細かに分段して項目名を付して全体を二十七段とした(下段の数は岩波文庫本(三の頁数)。

(A)

(一)七仏より天童如浄への面授正法眼蔵                         一四二頁

(二)天童如浄と道元との面授の法門の現成                        一四三頁                

(三)面授の道理                                                         一四四頁

(四)師資の意気投合                                                一四四頁

(五)釈尊を見守り・釈尊から見守られる                           一四五頁

(六)過去七仏以来の面授                                                 一四五頁

(七)面授仏の面授仏に面授                                             一四六頁

(八)倶時の面授                                                         一四七頁

(九)正伝の面授                                                         一四七頁

(十)面皮は諸仏の大円鏡                                                 一四八頁

(十一)面授の正伝                                                     一四八頁

(十二)八塔の礼拝                                                     一四九頁

(十三)八塔の功徳                                                     一五〇頁

(十四)八塔に勝る面授の功徳                                        一五〇頁

(十五)仏法の好時節                                                一五一頁

(十六)正法眼蔵面授・汝得吾髄面授                                    一五二頁

(十七)面授面受・受面授面                                             一五二頁

(十八)再び面授の現成・保任                                        一五二頁

(B)

(十九)薦福承古の面授の誤り                                        一五三頁

(二十)薦福承古に面授なし                                             一五六頁

(二十一)雲門は黄檗の法孫                                             一五七頁

(二十二)嗣法の時間は長短に関わらず                                一五七頁

(二十三)雲門に嗣法する者とは                                    一五七頁

(二十四)薦福承古の参学すべき話頭                                     一五八頁

(二十五)雲門の法嗣に薦福承古を載せる『建中靖国続燈録』は誤り                 一五八頁

(二十六)経書の悟道も正師の印可が必要                            一五九頁

(二十七)薦福承古は『雲門語録』を見ていない

                                 一五九頁

正法眼蔵第五十一 面授(35)

〈爾の時に釈迦牟尼仏、西天竺国霊山会上、百万衆の中にして、優曇花を拈じて瞬目したまふ。時に摩訶迦葉尊者、破顔微笑せり。釈迦牟尼仏言はく、「吾に正法眼蔵涅槃妙心有り、摩訶迦葉に附嘱す」。〉

これすなはち、仏々祖々、面授正法眼蔵の道理なり。七仏の正伝して迦葉尊者にいたる、迦葉尊者より二十八授して菩提達磨尊者にいたる、菩提達磨尊者、みづから震旦国に降儀して、正宗太祖普覚大師慧可尊者に面授す。五伝して曹渓山大鑑慧能大師にいたる。一十七授して先師大宋国慶元府太白名山天童古仏にいたる。

﹇訳﹈正法眼蔵第五十一 面授

その時、釈迦牟尼仏は、西インド国の霊鷲山の法会で、百万の大衆に対して、優曇花を取って目をまばたきされた。その時、摩訶迦葉尊者のみは、にっこりと微笑された。それを見て、釈迦牟尼仏は言われた、「わたしは正法眼蔵涅槃妙心がある、これを摩訶迦葉に伝えゆだねる」。

この事実は、仏から仏へ祖師から祖師へ、面(まのあたり)に授けられた正法眼蔵の道理である。七仏の正伝を経て迦葉尊者にいたったものであり、迦葉尊者より代々二十八祖に授けられて菩提達磨尊者にいたったものである。菩提達磨尊者は、ご自身で中国においてこの世に身をもって伝えて、正宗太祖普覚大師慧可尊者に面(まのあたり)に授けられた。それは五伝して曹渓山大鑑慧能大師にいたった。さらに一十七代授けられて先師大宋国慶元府太白名山天童古仏の如浄禅師にいたった。

  • 大宋宝慶元年乙酉五月一日、道元はじめて先師天童古仏を妙高台に焼香礼拝す。先師古仏はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにいはく、「仏々祖々、面授の法門現成せり(37)」。

これすなはち霊山の拈花なり。嵩山の得髄なり。黄梅の伝衣なり、洞山の面授なり。これは仏祖の眼蔵面授なり。吾屋裡のみあり、余人は夢也未見聞在なり。

﹇訳﹈大宋宝慶元年乙酉(一二二五)五月一日、道元はじめて先師天童古仏を妙高台において焼香礼拝した。先師古仏はその時はじめて道元をみる。その時、道元に身をもって面(まのあたり)に授けて言われた、「仏から仏へ祖師から祖師への、面(まのあたり)に授けられる法門がここに目の前に完成した」と。

この事実は、霊鷲山での釈迦牟尼仏から摩訶迦葉への拈花微笑であり、嵩山での菩提達摩から太祖慧可への礼拜得髄である。

また、黄梅山での大満弘忍から大鑑慧能への伝衣付法であり、洞山良价が雲巌曇晟より伝法した面授である。これは仏仏祖祖の正法眼蔵面授である。わたしの屋内のみにあるものであり、余の人々は夢にさえ未だ見聞したことがないものなのである。

 

  • この面授の道理は、釈迦牟尼仏まのあたり迦葉仏の会下にして面授し護持しきたれるがゆゑに、仏祖面なり。仏面より面授せざれば諸仏にあらざるなり。釈迦牟尼仏まのあたり迦葉尊者をみること親附なり。阿難・羅睺羅といへども迦葉の親附におよばず。諸大菩薩といへども迦葉の親附におよばず、迦葉尊者の座に坐することえず。世尊と迦葉(38)と、同坐し同衣しきたるを、一代の仏儀とせり。迦葉尊者したしく世尊の面授を面授せり(39)、心授せり、身授せり、眼授せり。釈迦牟尼仏を供養恭敬、礼拝奉覲したてまつれり。その粉骨砕身、いく千万変といふことをしらず。自己の面目は面目にあらず、如来の面目を面授せり(40)。

﹇訳﹈この面授の道理は、釈迦牟尼仏が「じきじきに」迦葉仏の門下として、面(まのあたり)に授けられ護持してこられたからこそ、仏であり祖であるところの「まのあたり(面)」なのである。仏自身の面よりまのあたり(面)に授けられなければ諸仏とは言われないのである。釈迦牟尼仏が「じきじきに」迦葉尊者をみることが、自身が身をもってする付嘱なのである。世尊の身の回りの世話をした阿難や実子の羅睺羅であっても、自身が身をもって迦葉に付嘱するのには及ばないのである。諸大菩薩といっても自身が身をもって迦葉に付嘱するのには及ばないし、迦葉尊者の座に坐ることはできないのである。世尊と迦葉と、同じ座に坐し同じ衣を着てきたことを、一代の仏の儀式とするのである。迦葉尊者は自ら世尊から面(まのあたり)に授けられるという伝法を、面として授けられたのであり、心として授けられたのであり、身として授けられたのであり、眼として授けられたのである。釈迦牟尼仏を供養し恭しく敬い、礼拝したてまつり、お目にかかったのである。その骨をも粉々にし身をも砕くほどの面授は、何千何万という自己の変革の面授であることを知ることはできない。自己の面目は単なる面や目ではなく、如来の面目を面(まのあたり)に授けられたのである。

 

(四)釈迦牟尼仏まさしく迦葉尊者をみまします。迦葉尊者まのあたり阿難尊者をみる。阿難尊者まのあたり迦葉尊者の仏面を礼拝す。これ面授なり。阿難尊者この面授を住持して、商那和修を接して面授す。商那和修尊者まさしく阿難尊者を奉覲するに、唯面与面(41)、面授し面受す。かくのごとく代々嫡々の祖師、ともに弟子は師にみえ、師は弟子をみるによりて面授しきたれり。一祖一師一弟としても、あひ面授せざるは仏々祖々にあらず。たとへば、水を朝宗せしめて宗派を長ぜしめ、燈を続して光明つねならしむるに、億千万法するにも、本枝一如なるなり。また啐啄(そつたく)の迅機なるなり。

﹇訳﹈釈迦牟尼仏は、まさしく迦葉尊者をみられた。迦葉尊者はじきじきに阿難尊者をみられた。阿難尊者はじきじきに迦葉尊者の仏面を礼拝された。これらが面授なのである。阿難尊者はこの面(まのあたり)の授けを保ち維持して、商那和修を教え導いて面(まのあたり)に授けられた。商那和修尊者はまさしく阿難尊者にお目にかかり、ただ面と面とをもって、面(まのあたり)に授け、まのあたり受けられた。このようにして代々正しく受け継いだ祖師は、どの弟子も師にまみえ、師は弟子をみるによりて、面(まのあたり)に授けてこられたのである。一人の祖、一人の師、一人の弟子としても、互いに面(まのあたり)に授けられなければ、仏々祖々ではないのである。たとえば、どの川をも海に流れさせるように、根本から派生して長大させ、燈を継続させて光明を常に輝かせるのに、億千万のあり方があっても、根本と枝末は一つの真実なのである。また、親子の鳥が機を一つにして雛がかえるように、師資のぴたりとしたすばやい機縁の意気投合なのである。

 

(五)しかあればすなはち、まのあたり釈迦牟尼仏をまぼりたてまつりて一期の日夜をつめり。仏面に照臨せられたてまつりて一代の日夜をつめり。これいく無量を往来せりとしらず。しづかにおもひやりて随喜すべきなり。

﹇訳﹈だからこそ、じきじきに釈迦牟尼仏を見守って、一生涯の日夜を積み重ねてきた。仏の面に見守られて、一代の日夜を積み重ねてきた。この見守り見守られる関係をどれほど多くなしてきたかは全く分からない。しずかに思いしのんでこの善き事を喜ぶがよいであろう。

 

(六)釈迦牟尼仏の仏面を礼拝したてまつり、釈迦牟尼仏の仏眼をわがまなこにうつしたてまつり、わがまなこを仏眼にうつしたてまつりし仏眼睛なり、仏面目なり。これをあひつたへていまにいたるまで、一世も間断せず面授しきたれるはこの面授なり。而今の数十代の嫡々は、面々なる仏面なり。本初の仏面に面受なり。この正伝面授を礼拝する、まさしく七仏釈迦牟尼仏を礼拝したてまつるなり。迦葉尊者等の二十八仏祖(42)を礼拝供養したてまつるなり。

﹇訳﹈釈迦牟尼仏の仏の面を礼拝したてまつり、釈迦牟尼仏の仏の眼をわがまなこに映したてまつり、わがまなこを仏の眼に映したてまつった、仏の眼睛であり、仏の面目なのである。これを互いに伝えて今に至るまで、一世代もとぎれることなく、面(まのあたり)に授けて来たのは、この述べて来た面(まのあたり)の授けなのである。而(い)今(ま)の数十代の正しき継承は、面と面とによる仏の面なのである。最初の仏の面をまのあたりに受けたものである。この正しく伝った面(まのあたり)の授けを礼拝することは、正しく七仏と釈迦牟尼仏とを礼拝したてまつることなのである。迦葉尊者等の二十八代の「仏祖」を礼拝し供養したてまつることなのである。

 

(七)仏祖の面目眼睛かくのごとし。この仏祖にまみゆるは、釈迦牟尼仏等の七仏にみえたてまつるなり。仏祖したしく自己を面授する正当恁麼時なり。面授仏の面授仏に面授するなり。葛藤をもて葛藤に面授してさらに断絶せず。眼を開して眼に眼授し、眼受す。面をあらはして面に面授し、面受す。面授は面処の受授なり。心を拈じて心に心授し、心受す。身を現じて身を身授するなり。他方他国もこれを本祖とせり。震旦国以東、たゞこの仏正伝の屋裏のみ面授面受あり、あらたに如来をみたてまつる正眼をあひつたへきたれり。

﹇訳﹈仏祖の面目と眼睛はこのようなものである。この仏祖にまみえるならば、釈迦牟尼仏等の七仏に見られたてまつることである。仏祖自らが自己を面(まのあたり)に授ける正にその時そのものである。面(まのあたり)に授ける仏が、面(まのあたり)に授ける仏に、面(まのあたり)に授けるのである。真実(葛藤)をもって真実(葛藤)に面(まのあたり)に授けて絶対に断絶しないのである。眼を開いて眼に正しく(眼)に授け、正しく(眼)に受けるのである。面(かお)をあらわして面(かお)に正しく(面)に授け、正しく(面)に受けるのである。面(まのあたり)に授けるのは、正しい(面)のところにおいて、受けることであり、授けることなのである。心をつまみ上げて心に正しく(心)に授け、正しく(心)に受けるのである。身を現わして身に正しく(身)に授けるのである。諸国諸地方もこの面授を本当の祖とするのである。中国以東は、ただこの仏の正しい伝えの家にのみ面(まのあたり)に授け、面(まのあたり)に受けるのであり、今新しく如来を見たてまつる正しい眼を互いに伝えてきたのである。

 

(八)釈迦牟尼仏面を礼拝するとき、五十一世ならびに七仏祖宗、ならべるにあらず、つらなるにあらざれども、倶時の面授(43)あり。一世も師をみざれば弟子にあらず、弟子をみざれば師にあらず。さだまりてあひみ、あひみえて、面授しきたれり。嗣法しきたれるは、祖宗の面授処道現成なり。このゆゑに、如来の面光を直拈しきたれるなり。

﹇訳﹈釈迦牟尼仏の面を礼拝する時、五十一世や七仏以来の宗祖が、横に並ぶのではないし、縦に連なるのでもないが、時を同じくして面(まのあたり)に授けるのである。一世代でも師を見なければ弟子ではなく、弟子を見なければ師ではない。必ず互いに見、互いに見られて、面(まのあたり)に授けてきたのである。嗣法してきたのは、宗祖が面(まのあたり)に授けた処の道が、目の前で顕現したのである。このことから、如来の面の光を直接に撮み取ってきたのである。

(九)しかあればすなはち、千年万年、百劫億劫といへども、この面授これ釈迦牟尼仏の面現成授なり。この仏祖現成せるには、世尊・迦葉、五十一世、七代祖宗の影現成なり、光現成なり。身現成なり、心現成なり。失脚来なり、尖鼻来なり。一言いまだ領覧せず、半句いまだ不会せずといふとも、師すでに裏頭より弟子をみ、弟子すでに頂□(寧+頁)より師を拝しきたれるは、正伝の面授なり。

﹇訳﹈そうであれば、千年万年、いや百劫億劫であっても、この面(まのあたり)の授けは、釈迦牟尼仏が「面の目の前で顕現した授け」なのである。この仏祖が目の前で顕現したのは、世尊・迦葉、五十一世、七代の宗祖のその「影」の目の前の顕現であり、「光」の目の前の顕現である。「身」の目の前の顕現であり、「心」の目の前の顕現である。足なくして来たり、鼻を尖らして来たるのである。たとえ一言もいまだにつかみ取ることを用いず、半句もいまだに会に徹(不会)していないと言っても、面(まのあたり)の授けにおいて、師は内より弟子を見、弟子は五体投地して頭の頂より師を礼拝してきたからには、正しく伝った面(まのあたり)の授けなのである。

 

(十)かくのごとくの面授を尊重すべきなり。わづかに心跡を心田にあらはせるがごとくならん、かならずしも太尊貴生なるべからず。換面に面受し、廻頭に面授あらんは、面皮厚三寸なるべし、面皮薄一丈なるべし(44)。すなはちの面皮、それ諸仏大円鏡なるべし。大円鑑を面皮とせるがゆゑに、内外無瑕翳なり(45)。大円鑑の大円鑑を面授しきたれるなり。

﹇訳﹈このような面(まのあたり)の授けを尊重すべきである。わずかに心の動きの跡かたを心の内に現わしたようなものであろう、必ずしもはなはだ尊きことなのではない。面を取り替えて面(まのあたり)に受け、頭を振り向いて面(まのあたり)に授けることがあるのは、面の皮の厚さ三寸にちがいないし、面の皮の薄さ一丈にちがいない。つまり、面の皮は、諸仏の大きな円い鏡にちがいないのである。大きな円い鏡を面の皮とするから、内も外もきずも翳りもないのである。大きな円い鏡が大きな円い鏡を面(まのあたり)に授けてきたものなのである。

 

(十一)まのあたり釈迦牟尼仏をみたてまつる正眼を正伝しきたれるは、釈迦牟尼仏よりも親曾なり。眼尖より前後三々の釈迦牟尼仏を見出現せしむるなり。かるがゆゑに、釈迦牟尼仏をおもくしたてまつり、釈迦牟尼仏を恋慕したてまつらんは、この面授正伝をおもくし尊宗し、難値難遇の敬重礼拝すべし。すなはち如来を礼拝したてまつるなり。如来に面授せられたてまつるなり。あらたに面授如来の正伝参学の宛然なるを拝見するは、自己なりとおもひきたりつる自己なりとも、他己なりとも、愛惜すべきなり、護持すべきなり。

﹇訳﹈「じきじきに」釈迦牟尼仏を見たてまつる正しい眼を正しく伝えてきたのは、釈迦牟尼仏自身よりもずっと親しくしてきたのである。眼の先端から無数の釈迦牟尼仏を見るということを出現させるのである。このことから、釈迦牟尼仏を重んじたてまつり、釈迦牟尼仏を恋慕したてまつるには、この面(まのあたり)の授けの正しい伝えを、重視し尊重し、難値難遇の思いを敬重し礼拝すべきである。それは如来を礼拝したてまつることなのである。如来より面(まのあたり)に授けたてまつられることなのである。新しく面(まのあたり)に授けられた如来の正しい伝えとそのままの参学を拝見するのは、自己であると思ってきたところの自己であろうとも、他己であろうとも、いとおしくすべきであり、大切に護持すべきである。

 

(十二)屋裏に正伝しいはく、八塔を礼拝するものは(46)罪障解脱し、道果感得す。これ釈迦牟尼仏の道現成処を生処に建立し、転法輪処に建立し、成道処に建立し、涅槃処に建立し、曲女城辺にのこり、菴羅衛林にのこれる(47)、大地を成じ、大空を成ぜり。乃至声香味触法色処等に塔成せるを礼拝するによりて、道果現成す。この八塔を礼拝するを、西天竺国のあまねき勤修として、在家出家、天衆人衆、きほうて礼拝供養するなり。これすなはち一巻の経典なり。仏経はかくのごとし。いはんやまた、三十七品の法(48)を修行して、道果を箇々生々に成就するは、釈迦牟尼仏の亙古亙今の修行修治の蹤跡を、処々の古路に流布せしめて、古今に歴然せるがゆゑに成道す。

﹇訳﹈仏祖の屋裏に正伝して、八塔を礼拝する者は、罪障を解消し、菩提道の果を感得する、という。これは釈迦牟尼仏の道の目の前に顕現した処である、生処に建立し、転法輪処に建立し、成道処に建立し、涅槃処に建立し、曲女城辺に残る処、菴羅衛林に残っている処に、大地を成立し、大空を成立する処、ひいては声香味触法、色の処等に塔が成る処を礼拝するによりて、道果が目の前に顕現するのである。この八塔を礼拝するのを、西インド国はどこでも勤めて修むべきこととして、在家も出家も、天衆も人衆も、競って礼拝供養するのである。これはそのまま一巻の経典である。仏経はこのようなものである。いわんやまた、三十七品の法を修行して、道果をひとつひとつに成就するのは、釈迦牟尼仏の古から今に至るまで切れ目なく続いている修行を修めた跡を、いろいろの所の真実の路に流布させて、古今に歴然として残っているから、それによって成道するのである。

 

(十三)しるべし、かの八塔の層々なる、霜華いくばくかあらたまる。風雨しばしばをかさんとすれど、空にあとせり、色にあとせるその功徳を、いまの人にをしまざること減少せず。かの根力覚道、いま修行せんとするに、煩悩あり、惑障ありといへども、修証するに、そのちからなほいまあらたなり。

﹇訳﹈このことから次のようなことが分かる、かの八塔が幾層にもなっていて、いく星霜かが経過してしまった。風雨がしばしば破壊しようとしたけれど、空として形を残し、ものとして形を残した、その積み重ねて得られた力を、今の人におしみなく与えて減ることはない。かの五根・五力・七覚支・八正道を、今、修行しようとして、煩悩があり、四障の一つの迷いの障害があると言っても、修がそのまま証となると、その力はより一層、今、新たになるのである。

 

(十四)釈迦牟尼仏の功徳、それかくのごとし。いはんやいまの面授は、かれらに比準すべからず。かの三十七品菩提分法は、かの仏面仏心、仏身仏道、仏尖・仏舌等を根元とせり。かの八塔の功徳聚、また仏面等を本基とせり。いま学仏の漢として、透脱の活路に行履せんに、閑静の昼夜、つらつら思量功夫すべし、懽喜随喜すべきなり。

﹇訳﹈釈迦牟尼仏の積み重ねて得られた力は、そもそもこのようなものである。ましていわんや、今の面(まのあたり)の授けは、それら八塔に比べものにならない。かの三十七品菩提分法は、かの仏の面、仏の心、仏の身、仏の道、仏の眼の尖、仏の舌等を根源としている。かの八塔の積み重ねて得られた力の集積は、また仏の面等を本来の基としている。今、仏道を学ぶ者として、突き抜けた活路を実行する場合、静かな昼夜に、よくよく思量し考えるべきであり、歓喜し自らのように喜ぶべきである。

 

(十五)いはゆるわがくには他国よりもすぐれ、わが道はひとり無上なり。他方にはわれらがごとくならざるともがらおほかり。わがくに、わが道の無上独尊なるといふは、霊山の衆会、あまねく十方に化導すといへども、少林の正嫡まさしく震旦の教主なり。曹渓の児孫、いまに面授せり。このとき、これ仏法あらたに入泥入水(49)の好時節なり。このとき証果せずは、いづれのときか証果せん。このとき断惑せずは、いづれのときか断惑せん。このとき作仏ならざらんは、いづれのときか作仏ならん。このとき坐仏ならざらんは、いづれのときか行仏ならん。審細の功夫なるべし。

﹇訳﹈世間ではわが国の仏縁は他国よりもすぐれ、わが仏道は正しく無上であると、言われている。他の地方にはわれわれのようでない仲間は多い。わが国、わが仏道が無上であり独り尊いというのは、霊鷲山での説法の集まりは、あまねく十方に教え導くと言っても、嵩山少林寺の正しい後継ぎの達磨は、まさしく中国の開祖である。曹渓の児孫は、今に面(まのあたり)に授けている。この時、仏法が新たに仏法まみれ(泥水)となって教えを受ける好時節となっている。この時、証の果を得なければ、いつ証の果を得る時があろうか。この時、惑を断ち切らねば、惑を断ち切る時があろうか。この時、仏と作らなければ、いつ仏と作る時があろうか。この時、坐して仏を顕現しなければ、いつ歩く仏となる時があろうか。よくよく考えなければならない。

 

(十六)釈迦牟尼仏かたじけなく迦葉尊者に付嘱面授するにいはく、「吾有正法眼蔵、付嘱摩訶迦葉」とあり。

嵩山会上には、菩提達磨尊者まさしく二祖にしめしていはく、「汝得吾髄(50)」。

はかりしりぬ、「正法眼蔵」を面授し、「汝得吾髄」の面授なるは、たゞこの面授のみなり。この正当恁麼時、なんぢがひごろの骨髄を透脱するとき、仏祖面授あり。大悟を面授し、心印を面授するも、一隅の特地なり。伝尽にあらずといへども、いまだ欠悟の道理を参究せず(51)。

﹇訳﹈釈迦牟尼仏はかたじけなくも迦葉尊者に伝えゆだねて面(まのあたり)に授けて言われた、「われに正法眼蔵がある、摩訶迦葉に伝えゆだねる」と。

嵩山の法会では、菩提達磨尊者は正しく二祖に示して言われた、「君が得たわが髄」と。

このことから判明する。「正法眼蔵」を面(まのあたり)に授け、「君が得たわが髄」を面(まのあたり)に授けられたのは、ただこの面(まのあたり)の授けだけである。この正にその時こそ、君がひごろの骨髄を通り抜ける時の、仏祖による面(まのあたり)の授けが成り立つのである。大悟を面(まのあたり)に授け、心印を面(まのあたり)に授けるのも、仏法全体の一隅の特別の事なのである。伝え尽したのではないと言っても、いまだ悟の徹底(欠悟)の道理を参究してはいないのである。

 

(十七)おほよそ仏祖大道は、唯面授面受、受面授面のみなり。さらに剰法あらず、虧闕あらず。この面授のあふにあへる自己の面目をも、随喜懽喜、信受奉行すべきなり。

﹇訳﹈およそ仏祖の大道は、ただ面(まのあたり)の授けと、面(まのあたり)の受けとがあり、受という面(まのあたり)と、授という面(まのあたり)のみがあるのである。絶対にその外の真実はないし、欠けたるものもない。この面(まのあたり)の授けに出会える自己の面目をも、自らのように喜び歓喜し、受け入れ大事にしなければならない。

 

(十八)道元、大宋宝慶元年乙酉五月一日、はじめて先師天童古仏を礼拝面授す、やゝ堂奥を聴許せらる、わづかに身心を脱落するに(52)、面授を保任することありて日本国に本来せり(53)。

正法眼蔵第五十一

爾時寛元元年癸卯十月二十日、在越宇吉田県吉峰精舎示衆。

﹇訳﹈道元、大宋宝慶元年乙酉(一二二五)五月一日、はじめて先師天童古仏を礼拝し、面(まのあたり)の授けあり。少しく堂奥に入ることを許され、身心を脱落するやいなや、面(まのあたり)の授けを保ち維持することができて、日本国に帰ってきた。

正法眼蔵第五十一

その時、寛元元年癸卯(一二四一)十月二十日、越宇の吉田県吉峰精舎において示衆す。

 

(十九)仏道の面授かくのごとくなる道理をかつて見聞せず、参学なきともがらあるなかに、大宋国仁宗皇帝の御宇、景祐年中に薦福寺の承古禅師(54)といふものあり。

上堂云(55)、雲門匡真大師、如今現在、諸人還見麼。若也見得、便是山僧同参。見麼々々。此事直須諦当始得。不可自謾。且如往古黄蘗、聞百丈和尚挙馬大師下喝因縁、他因大省。百丈問、「子向後莫嗣大師否」。黄蘗云、「某雖識大師、要且不見大師。若承嗣大師、恐喪我児孫」。大衆、当時馬大師遷化、未得五年。黄蘗自言不見。当知黄蘗見処不円。要且祇具一隻眼。山僧即不然。識得雲門大師、亦見得雲門大師、方可承嗣雲門大師。祇如雲門、入滅已得一百余年。如今作麼生説箇親見底道理。会麼。通人達士、方可証明。眇劣之徒、心生疑謗、見得不在言之、未見者、如今看取不。請久立珍重。

〈上堂に云く、雲門匡真大師、如今現在せり、諸人還た見るや。若也し見得ならば、便ち是れ山僧と同参ならん。見るや、見るや。此の事直須(すべか)らく諦当して始めて得(よ)し。自ら謾ずべからず。且如(たとえ)ば往古の黄蘗の百丈和尚の馬大師の下喝の因縁を挙するを聞いて、他因みに大省せり。百丈問ふ、「子(なんじ)向後に大師に嗣すること莫(な)しや」。黄蘗云く、「某、大師を識ると雖も、要且つ大師を見ず。若し大師に承嗣せば、恐らくは我が児孫を喪(ほろ)ぼさん」。大衆、当時馬大師遷化して未だ五年を得ざるなり。黄蘗自ら「見ず」と言ふ。当に知るべし、黄蘗が見処円(まどか)ならざるなり。要且つ祇だ一隻眼を具せるのみ。山僧は即ち然らず。雲門大師を識得し、亦た雲門大師を見得して、方(はじ)めて雲門大師を承嗣すべし。祇如(たとえ)ば雲門は、入滅して已に一百余年を得たり。如今作麼生か箇の親見底の道理を説かん。会すや。通人達士にして方めて証明すべし。眇劣の徒らは心に疑謗を生ず。見得は之を言ふこと在らず。未見の者、如今看取すや。請すらくは久立珍重。〉

いまなんぢ雲門大師をしり、雲門大師をみることをたとひゆるすとも、雲門大師まのあたりなんぢをみるやいまだしや。雲門大師なんぢをみずは、なんぢ承嗣雲門大師不得ならん。雲門大師いまだなんぢをゆるさざるがゆゑに、なんぢもまた「雲門大師われをみる」といはず。しりぬ、なんぢ雲門大師といまだ相見せざりといふことを。

﹇訳﹈仏道の面(まのあたり)の授けがこのような道理であることを一度たりとも見聞しないし、参学しない連中の中で、大宋国仁宗皇帝の御世である景祐年中(一〇三四〜三八年)に、薦福寺の承古禅師という者がいた。

上堂して言った、「かの雲門匡真大師は、如(い)今(ま)、現に居られるぞ、諸君らは、さて、見るや。もし見ることができるならば、わしと同参となろう。見たか、見たか。この大事はぴたりとツボをおさえなくてならない。自らごまかしてはならぬ。たとえば、昔、黄蘗は、百丈和尚が馬大師の下で怒鳴られた因縁を取り上げられたのを聞いた折りに、大いなるうなずきが生じた。百丈は問うた、『君は今後、馬大師に嗣法することはないか』。黄蘗は答えた、『わたくしは、馬大師を見分けたと言っても、ともかく馬大師を見てはいません。もし馬大師に嗣法したならば、きっとわが児孫を喪(ほろぼ)すことになりましょう』。諸君、その時、馬大師が遷化してまだ五年を経てはいなかった。黄蘗は自ら『見ていない』と言っている。知らねばならない、黄蘗の見処は完全ではなかったということを。ともかくただ片方の眼を具えていたにすぎない。わしはそうではない。雲門大師を見分けることができ、また、雲門大師を見ることができて、そこで始めて雲門大師に嗣法することができる。たとえば、雲門は、入滅して已に一百余年を経ている。如(い)今(ま)どのように親しく見たかの道理を説こう。分かるか。そこは道に通達した人が始めて証明することができる。目の見えない修行者らは心に疑いとそれへの誹謗を生ずる。見ることのできた人はそのようなことを言うことはない。いまだ見たことのない者は、如今看取ったか。ながらく聴法して、ごくろうさん」。

いま、薦福よ、お前が雲門大師を見分け、雲門大師を見たことをたとえ認めたとしても、雲門大師はじきじきにお前を見ているや。雲門大師がお前を見ていないというならば、お前は雲門大師に嗣法することはできないであろう。雲門大師はいまだお前を認めないから、お前もまた「雲門大師がわれを見る」とは言えない。そのことから判明する、お前は雲門大師といまだ相見してはいなかったことを。

 

(二十)七仏諸仏の過去現在未来に、いづれの仏祖か師資相見せざるに嗣法せる。なんぢ黄蘗を「見処不円」といふことなかれ。なんぢいかでか黄蘗の行履をはからん、黄蘗の言句をはからん。黄蘗は古仏なり、嗣法に究参なり。なんぢは嗣法の道理かつて夢也未見聞参学在なり。黄蘗は師に嗣法せり、祖を保任せり。黄蘗は師にまみえ、師をみる。なんぢはすべて師をみず、祖をしらず。自己をしらず、自己をみず。なんぢをみる師なし、なんぢ師眼いまだ参開せず。真箇なんぢ見処不円なり、嗣法未円なり。

﹇訳﹈七仏諸仏の過去・現在・未来に、どの仏祖が師資相見しないで嗣法したであろうか。お前は黄蘗を「見処は完全ではなかった」と言ってはならない。お前がどうして黄蘗の行履を測り知れようか、黄蘗の言句を測り知れようか。黄蘗は古仏である、嗣法を究め尽くしている。お前は嗣法の道理を一度たりとも夢にもいまだ見聞し参学してはいないぞ。黄蘗は師に嗣法しており、祖を保ち維持している。黄蘗は師に見(まみ)え、師を見ている。お前は全く師を見ていないし、祖を見分けていない。自己を見分けていないし、自己を見ていない。お前を見る師はいないし、お前は師としての眼をいまだ参じて開くことをしていない。真にお前は見処は完全ではないし、嗣法はいまだ完全ではない。

 

(二十一)なんぢしるやいなや。雲門大師はこれ黄蘗の法孫なること。なんぢいかでか百丈・黄蘗の道処を測量せん。雲門大師の道処、なんぢなほ測量すべからず。百丈黄蘗の道処は、参学のちからあるもの、これを拈挙するなり。直指の落処あるもの、測量すべし。なんぢは参学なし、落処なし。しるべからず、はかるべからざるなり。

﹇訳﹈薦福よ。お前は知っているか。雲門大師は黄蘗の法孫であることを。お前がどうして百丈・黄蘗の言うところを測り知れようか。雲門大師の言うところは、お前はなお一層測り知れまい。百丈・黄蘗の言うところは、参学の力がある者が、これを取り上げるのである。ズバリけりがついた者が、測り知れる。お前は参学はないし、けりがついてはいない。それ故に、見分けることはできないし、測ることはできないのである。

(二十二)「馬大師遷化未得五年なるに、馬大師に嗣法せず」といふ、まことにわらふにもたらず。たとひ嗣法すべくは、無量劫ののちなりとも嗣法すべし。嗣法すべからざらんは、半日なりとも須臾なりとも、嗣法すべからず。なんぢすべて仏道の日面月面(56)をみざる暗者愚蒙なり。

﹇訳﹈お前は「馬大師が遷化していまだ五年を経ていないのに、馬大師に嗣法していない」という、真に笑うにも価しない。たとい嗣法するのは、無量劫の後であっても嗣法することができる。嗣法できないであろう時は、半日であっても、一瞬であっても、嗣法することはできない。お前は全く仏道の日面(永遠の)仏も月面(一瞬の)仏も見ない、実に暗い者であり、愚かな者である。

 

(二十三)「雲門大師入滅已得一百余年なれども雲門に承嗣す」といふ、なんぢにゆゝしきちからありて雲門に承嗣するか。三歳の孩児よりはかなし。一千年ののち雲門に嗣法せんものは、なんぢに十倍せるちからあらん。われいまなんぢをすくふ、しばらく話頭を参学すべし。

﹇訳﹈「雲門大師が入滅されて已に一百余年を経たけれども雲門に嗣法する」という、お前に勇ましい力があって雲門に嗣法するのか。実際は三歳の子供より劣っている。一千年の後に雲門に嗣法しようとする者は、お前より十倍の力があろう。わたしはお前に救いの手を差しだそう、まあ!しばらく話頭を学ぶべきである。

 

(二十四)百丈の道取する「子向後莫承嗣大師否」の道取は、馬大師に嗣法せよといふにはあらぬなり。しばらくなんぢ獅子奮迅話(57)を参学すべし、烏亀倒上樹話(58)を参学して、進歩退歩の活路を参究すべし。嗣法に恁麼の参学力あるなり。黄蘗のいふ「恐喪我児孫」のことば(59)、すべてなんぢはかるべからず。「我」の道取および「児孫」の人、これたれなりとかしれる。審細に参学すべし。かくれずあらはれて道現成せり。

﹇訳﹈百丈が言い切った「君は今後に馬大師に嗣法するのか」の言葉は、馬大師に嗣法しなさいと言うのではないのである。まあ!しばらくお前は「獅子奮迅の話」を学ぶがよいし、「黒い亀が倒さまに樹に登る話」を学んで、進歩し退歩する活路を究め尽くすがよかろう。嗣法にはこのような参学の力があるのである。黄蘗がいう「恐らくは我が児孫を喪すことになろう」という言葉は、お前は全く測り知ることはできない。「我」の言葉、および「児孫」の人、これは誰であると見分けるのだ。よくよく細かに学ばねばならない。隠れずに表面に言葉が目の前の顕現したのである。

 

(二十五)しかあるを、仏国禅師惟白といふ、仏祖の嗣法にくらきによりて、承古を雲門の法嗣に排列せり(60)、あやまりなるべし。晩進しらずして、承古も参学あらんとおもふことなかれ。

﹇訳﹈それなのに、仏国禅師惟白という者は仏祖の嗣法に暗くて、『建中靖国続燈録』に承古を雲門の法嗣として並べて載せたのは、誤りなのである。後進の者は知らずに、承古も禅を学んだにちがいないと思ってはならない。

 

(二十六)なんぢがごとく文字によりて嗣法すべくは、経書をみて発明するものはみな釈迦牟尼仏に嗣法するか、さらにしかあらざるなり。経書によれる発明、かならず正師の印可をもとむるなり。

﹇訳﹈お前のように文字によりて嗣法するのであれば、経書を見てさとった者はみな釈迦牟尼仏に嗣法するというのか、全くそうではないのである。経書によってさとった者は、必ず正師の印可を求めるものなのである。

 

(二十七)なんぢ承古がいふごとくには、なんぢ雲門の語録なほいまだみざるなり。雲門の語をみしともがらのみ雲門には嗣法せり。なんぢ自己眼をもていまだ雲門をみず、自己眼をもて自己をみず、雲門眼をもて雲門をみず、雲門眼をもて自己をみず。かくのごとくの未参究おほし。さらに草鞋を買来買去して、正師をもとめて嗣法すべし。なんぢ雲門大師に嗣すといふことなかれ。もしかくのごとくいはば、すなはち外道の流類なるべし。たとひ百丈なりとも、なんぢがいふがごとくいはば、おほきなるあやまりなるべし。

﹇訳﹈承古、お前が言うようであれば、お前は雲門の語録すらいまだ見てはいない。雲門の語を見た仲間のみ雲門には嗣法するのである。お前の(真実の)自己の眼でいまだ雲門を見てはいないし、(真実の)自己の眼で自己を見ていない。また、雲門の眼で雲門を見ていないし、雲門の眼で自己を見ていないのである。このように未だ参じ究めていないことは多い。これから草鞋をつぎつぎに買入して、正師を求めて嗣法しなければならない。お前は雲門大師に嗣法すると言ってはならない。もしこのように雲門大師に嗣法したと言うならば、外道の仲間にならねばならない。たとい百丈が「大師に嗣法するや」と言ったとしても、お前の言うように答えるならば、大いなる誤りとしなければならない。

 

五 おわりに

 

「面授」と言えば、最も重要な問題は、「面授」と「身心脱落」の関係であり、身心脱落時点のことである。この問題を詳細に述べるのが今回の論文の目的ではないが、避けて通ることもできないので簡単にまとめておこう。この『正法眼蔵研究史上、極めて重要な問題提起をしたのは、杉尾玄有氏の「御教示仰ぎたき二問題―「面授時脱落」のこと及び『普勧坐禅儀』の書風のこと」(『宗学研究』第一九号、一九七七年三月)である。『面授』の冒頭と末尾の「宝慶元年五月一日」が何を意味するのかを問題提起したのである。杉尾説とは、五月一日=面授=堂奧聴許=身心脱落であり、これが面授時脱落の日であり、道元禅確立の日であったというのである。そのことを「面授も堂奧聴許も身心脱落も、同日の、しかもほぼ同時のことであったと考えるほかはない」(三四頁)といい、さらに次のようにまとめられている。

「大宋宝慶元年乙酉五月一日」という日が『面授』の巻に二度も特筆大書されているのは、それが単に如浄と初相見の日であったからではない。むしろ、まさに特筆大書さるべき面授時脱落の日であり、道元禅確立の日であったからにほかなるまい。(三五頁)

杉尾説が参考にした説が衛藤即応博士の『宗祖としての道元禅師』「面授嗣法」(岩波書店、一九四四年七月)であった。

当時の道元禅師としては、此の初相見は終生忘れ難き感激の場面であつたには相違ない。が然し、此の時は未だ面授の巻に提唱せられてゐるごとき深い意味を自覚せられたものとは考へられない。此の時若し「おほよそ仏祖大道は、唯面授面受、受面授面のみなり、さらに剰法あらず、虧闕あらず。この面授のあふにあへる、自己の面目をも、随喜・歓喜・信受・奉行すべきなり。」といひ得たならば、天童会下の粉骨砕身の修行はなくともよい筈である。然るに其の後の祗管打坐の修行に依つて、坐睡の僧に対する天童の垂誨を偶然の機縁として、身心脱落し得た道元禅師が、改めて初相見を追懐するに、此の時已に大事は了畢してゐたことに気づかされたのである。初相見の当時は、只正師を得たる感激の相見といふに過ぎなかつたのであるが、身心脱落して後の道元禅師は、「仏仏祖祖面授の法門現成せり。」の語に、仏法の全道を見出し得たのであると思ふ。然らば「打坐を打坐としる」といふ天童の打坐の仏法は、身心脱落の道元禅師を生み、身心脱落の道元禅師は面授を基調として、仏法を仏法と保任する本証妙修の正伝の仏法に展開したといふべきであらう。(同書三二五頁)

しかし、杉尾説はこの衛藤博士の解説の中の「坐睡の僧に対する天童の垂誨を偶然の機縁として、身心脱落し得た」の説を「叱咤時脱落」と命名し、徹底的に否定することにあったのである。これを別の角度から否定したものに、鏡島元隆博士の説がある。一般に「叱咤時脱落」の説の根拠の一つに道元記『如浄禅師続語録跋』がある。

師(=如浄)因みに入堂し、衲子の坐睡するを懲(こ)らしめて云く、「夫(そ)れ参禅は身心脱落なり、只管に打睡して作麼(なに)かせん」。予(=道元)此の語を聞きて豁然として大悟す。径ちに方丈に上りて焼香礼拝す。師云く、「礼拝の事作麼生」。予云く、「身心脱落し来る」。師云く、「身心脱落、脱落身心」。予云く、「這箇は是れ暫時の伎倆なり、和尚乱りに印すること莫かれ」。師云く、「我れ乱りに を印せず」。予云く、「如何なるか是れ乱りに印せざる底の事」。師云く、「脱落、脱落」。予乃ち休す。(大正巻四八―一三六c)

同様の話は『元祖孤雲徹通三大尊行状記』をはじめ『伝光録』、明州本『建撕記』等に伝えられて道元の大悟の話と言われてきたのである。これに対して鏡島氏は『天童如浄禅師の研究』三五頁以下で道元の真撰ではないと論証されている。近年、何燕生氏の『道元と中国禅思想』(法蔵館、二〇〇〇年一月)は『如浄禅師続語録』自体が江戸時代の偽撰と主張している。

杉尾説の「叱咤時脱落」説が「伝記作者の誤解ないし虚構」の主張を承けて、筆者も『道元禅の成立史的研究』「叱咤時脱落の虚構―身心脱落の誤解」に「叱咤時脱落の話は史実と認めないし、道元禅の核心を誤らせるものだ」(同四四〇頁)等と忠告しつづけている。ただ、その説を主張するに当たって、その素材が道元真福寺本『大悟』(草稿本)にあることを拙著『正法眼蔵行持に学ぶ』四八七頁以下でも検討している。その後において杉尾氏は自身の説を継承してはいないし(61)、杉尾説へのその後の反論もあるが、問題提起が重要であったことに変わりはない。

「五月一日」の面授の意味と脱落の年月について、伊藤秀憲博士の『道元禅研究』(大蔵出版、一九九八年一二月)の説だけは紹介する必要があろう。『御遺言記録』の類似性に着目し、義介と懐奘の「建長七年正月二日の方丈における拝は、伝法を前提とした入室が許されて、はじめて行なわれた師と資としての拝である」とし、「これが、正に道元禅師においては、宝慶元年五月一日であった」(同書一〇七頁)というのである。伊藤説は嘉定十七年七、八月頃に道元は如浄に出会い、宝慶元年五月一日に伝法を前提とした入室が許され、師資の拝が行われた。それ以後、『宝慶記』の記録のはじまる七月二日以前に、叱咤時脱落で大悟したことは不明であるとしても「身心脱落の話」により大悟し、伝法が行われた。更に九月十八日に『仏祖正伝菩薩戒作法』を受け、宝慶三年に「嗣書」を受けたというのである。筆者は『道元禅の成立史的研究』の中で、杉尾氏が命名された道元伝の「叱咤時脱落」は、杉尾氏が言われるように「伝記作者の誤解ないし虚構」として全面的に賛成したが、面授時脱落説はもともと杉尾氏と全同ではなかった。叱咤時脱落説に伴う誤解を否定することに努めたものであり、「道元伝の関心は、もっぱら「いつ」身心脱落したのかを追求するのに急で、「悟道是本期」とする道元の全面否定の方向を認める立場へ暴走してはいなかったであろうか」と述べたのである。(同書―九一頁)

筆者は『面授』における二度の宝慶元年五月一日に重要な意味があることは認めるのである。既に紹介した『仏祖』は次の文で結ばれていた。

道元、大宋国宝慶元年乙酉夏安居時、先師天童古仏大和尚に参侍して、この仏祖を礼拝頂戴することを究尽せり。唯仏与仏なり。(岩波文庫本三―一六五頁)

この宝慶元年夏安居については、実は道元は『仏性』の巻で丁寧に説き明かしていたのである。

予、雲遊のそのかみ、大宋国にいたる。嘉定十六年癸未秋のころ、はじめて阿育王山広利禅寺にいたる。西廊の壁間に、西天東地三十三祖の変相を画せるをみる。このとき領覧なし。のちに宝慶元年乙酉夏安居のなかに、かさねていたるに、西蜀の成桂知客と、廊下を行歩するついでに、予、知客にとふ、「這箇是什麼変相」。知客いはく、「龍樹身現円月相」。かく道取する顔色に鼻孔なし、声裏に語句なし。予いはく、「真箇是一枚画餅相似」。ときに知客、大笑すといへども、笑裏無刀、破画餅不得なり。すなはち知客と予と、舎利殿および六殊勝地等にいたるあひだ、数番挙揚すれども、疑著するにもおよばず。おのづから下語する僧侶も、おほく都不是なり。予いはく、「堂頭にとうてみん」。ときに堂頭は大光和尚なり。知客いはく、「他無鼻孔、対不得。如何得知」。ゆゑに光老にとはず。恁麼道取すれども、桂兄も会すべからず。聞説する皮袋も道取せるなし。前後の粥飯頭みるにあやしまず、あらためなほさず。又、画することうべからざらん法はすべて画せざるべし。画すべくは端直に画すべし。しかあるに、身現の円月相なる、かつて画せるなきなり」(岩波文庫本一―一〇三〜一〇五頁)

かつて筆者は道元伝の身心脱落において、「領覧なし」から「身現の儀は、いまのたれ人も坐せるがごとくありしなり。この身、これ円月相、現なり」(同九六〜九七頁)への「領覧」が、『弁道話』の「つひに太白峰の浄禅師に参じて、一生参学の大事こゝにをはりぬ」(同一二頁)と結びつく重要な鍵であることを指摘していたのである(『道元禅の成立史的研究』四三五〜四三七・五一一頁)。

以上、簡単に「面授」と「身心脱落」の関係と、身心脱落時点の問題を振り返ってみた。次に「面授」の語から理解される一般論としては、経験的な師と資との出会いが想定されるであろう。この理解に立てば、大陽警玄(九四三―一〇二七)と投子義青(一〇三二―一〇八三)との嗣法は成立しないことになる。歴史上は臨済宗の浮山法遠(九九一―一〇六七)の代付でもって両者は嗣法するのである。道元はその代付を認めたことが確実となった。

この問題に対して、『永平広録』巻九「頌古」三三則が問題となり、原文の本則では投子義青が大陽警玄と問答したことになっている。しかし、頌の意味は代付を認めていたと鏡島博士は指摘され、『道元禅師とその門流』(誠信書房、一九六一年一〇月)では、「俗にいう「頭かくして尻かくさず」である」(同書一二六頁)と喩えられたのである。鏡島博士の頌のみの訓読と現代語訳を参考に付しておこう。

投子青和尚、執侍大陽三年。大陽一日問師曰、外道問仏、不問有言、不問無言。世尊良久如何。青擬対。陽掩青口。青了然開悟、便乃礼拝。陽曰、汝妙悟玄機耶。青曰、設有也須吐却。時資侍者旁立曰、青華厳今日如病得汗。青回顧曰、合取狗口。

縦雖掩口何如鼻、設有未呑吐豈労。為子代師宗派遠、青天休電激星氂。

〈縦(たと)い口を掩うといえども鼻を何如(いかん)せん。設(たと)いありとも未だ呑まざるに吐くことあに労せんや。子となりて師に代わって宗派遠し。青天電休(や)み星氂(せいぼうおこ) る〉。

﹇頌の訳﹈

たとい大陽が義青の口をふさいでも、義青の鼻をどうするのか。たとい義青に悟りがあっても、悟りを呑みもしないのにどうしてわざわざ吐くことがあろう。義青は大陽の法子となって大陽に代わって宗風を高く揚げたのである。そのさまは、

青空に電光がやんでは、稲光がピカピカ激しく起こるようなものだ。(鏡島元隆訳注春秋社本一二―一七二〜三頁)

このような解釈であるから、鏡島元隆博士は『道元禅師と引用経典・語録の研究』(木耳社、一九六五年一〇月)。で、「この更改は道元禅師自身が訂正したと見るには大いに疑問があり、後人の偽改になるものでないかと思う」(同書四四頁)と推定されて、その論証を展開された。本論と最も密接な関係で言えば、鏡島博士は「禅師においてそれ(面授嗣法)は、史実を曲げなければ維持できないほど固定された宗義であったかどうかは問題」(同書四五頁)と述べられたのである。『嗣書』『面授』等を問題にする時に極めて重要な指摘と受け取ることができる。しかも、今日では、鏡島説が正しかった証拠が出現したのである。それは河村孝道博士が新たに真福寺文庫所蔵の『大悟』(草案本)を紹介されたのである。

舒州投子山義青禅師、曾謁浮山円艦禅師遠和尚。稍経三載、遠一日問師云、外道問仏、不問有言、不問無言。世尊黙〈ス如何〉。師擬スルニ開口、遠以手掩師口。師於此大作礼。遠云、汝妙悟玄機耶。師云、設有妙悟、也須吐却。

師の悟則、あきらめ、参究すべし。口をおおはれて大悟する、なきにあらず。たとひ、日ごろよ〈り〉大悟なりといへども、大悟するなり、たとひ、向〈来〉より大悟なしといふとも、大悟するなり。大悟、いまだ他人の手裏にありとも、大悟〈する〉なり、大悟、いまだ毫忽地あらはれずとも、大大悟するなり。大悟、たとひ尽大地也とも、大悟するなり、たとひ尽大道なりとも、大悟〈するなり〉。大悟、たとひ尽大悟なりとも、大悟する〈なり〉、大悟、たとひ尽自己なりとも、大悟するなり、大悟、たとひ不悟なり〈とも〉、大悟するなり。

しかあれば、今、師の道取する設有妙悟也須吐却の道、いかに道取するとかせむ。用著するか、用著せざるか。大悟は、吐却の葛藤にまかすべし、吐却は、大悟の葛藤とせるのみなり。向上道は、即未名大悟也。(春秋社版巻二―六〇八〜六〇九頁)

これで道元も確実に代付を認めていた証拠が出現したのである。周知のように、江戸時代の曹洞宗は、『面授』の主張は代付を認めないものと理解され、深刻な論争にも発展することになる。もともと門鶴本『永平広録』のように浮山法遠を大陽警玄に改竄せざるをえなかったのも狭義の面授解釈に由来するのである。極論は面山瑞方(一六八三―一七六九)であり、『洞上金剛杵』を著わして、代付を否定する論陣を張らざるをえなかったのである。

さて、『嗣書』も『面授』も一度、擱筆した後に加筆がある。『嗣書』の場合は、如浄との関係が強調されている。それも狭い意味での面授説ではない。それは冒頭の次の説の如浄への確認と言ってもよい。

仏仏かならず仏仏に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する、これ証契なり、これ単伝なり。このゆゑに無上菩提なり。仏にあらざれば仏を印証するにあたはず。仏の印証をえざれば、仏となることなし。仏にあらずよりは、たれかこれを最尊なりとし、無上なりと印することあらん。

仏の印証をうるとき、無師独悟するなり、無自独悟するなり。このゆゑに、仏仏証嗣し、祖祖証契すといふなり。この道理の宗旨は、仏仏にあらざればあきらむべきにあらず。いはんや十地等覚の所量ならんや。いかにいはんや経師論師等の測度するところならんや。たとひ為説すとも、かれらきくべからず。

仏仏相嗣するがゆゑに、仏道はたゞ仏仏の究尽にして、仏仏にあらざる時節あらず。たとへば、石は石に相嗣し、玉は玉に相嗣することあり。菊も相嗣あり、松も印証するに、みな前菊後菊如如なり、前松後松如如なるがごとし。かくのごとくなるをあきらめざるともがら、仏仏正伝の道にあふといへども、いかにある道得ならんとあやしむにおよばず、仏仏相嗣の祖祖証契すといふ領覧あることなし。あはれむべし、仏種族に相似なりといへども、仏子にあらざることを、子仏にあらざることを。

これに対して、加筆は如浄が示した道元の考える狭義の面授否定であったと言えよう。

先師いはく、「なんぢがいふところは聴教の解なり、十聖三賢等の道なり、仏祖嫡々の道にあらず。わが仏仏相伝の道はしかあらず。釈迦牟尼仏、まさしく迦葉仏に嗣法せり、とならひきたるなり。釈迦仏の嗣法してのちに、迦葉仏は入涅槃すと参学するなり。釈迦仏もし迦葉仏に嗣法せざらんは、天然外道とおなじかるべし。たれか釈迦仏を信ずるあらん。かくのごとく仏仏相嗣して、いまにおよびきたれるによりて、箇々仏ともに正嗣なり。つらなれるにあらず、あつまれるにあらず。まさにかくのごとく仏仏相嗣すると学するなり。諸阿笈摩教のいふところの劫量・寿量等にかゝはれざるべし。もしひとへに釈迦仏よりおこれりといはば、わづかに二千余年なり、ふるきにあらず。相嗣もわづかに四十余代なり、あらたなるといひぬべし。この仏嗣は、しかのごとく学するにあらず。釈迦仏は迦葉仏に嗣法すると学し、迦葉仏は釈迦仏に嗣法すると学するなり。かくのごとく学するとき、まさに諸仏諸祖の嗣法にてはあるなり」。

『面授』の擱筆後の追加は雲門文偃に嗣法したという薦福承古の批判(62)である。先にいうように、一方で大陽警玄の代付を認めるとすれば、薦福承古の説も認めざるを得なくなる。しかし、道元は薦福承古に対しては徹底批判をするのである。道元の主な薦福承古の批判には、主に二点がある。

第一点は『面授』より三十四日前に示衆された『仏道』に注目したい。その中に次の説示がある。

雲門山匡真大師、そのかみは陳尊宿に学す、黄蘗の児孫なりぬべし、のちに雪峰に嗣す。この師、また正法眼蔵雲門宗と称ずべしといはず。門人また潙仰・臨済の妄称を妄称としらず、雲門宗の称を新立せり。匡真大師の宗旨、もし立宗の称をこゝろざさば、仏法の身心なりとゆるしがたからん。いま宗の称を称ずるときは、たとへば、帝者を匹夫と称ぜんがごとし。(岩波文庫本三―三三頁)

この『仏道』の文に接する時、『面授』の次の①二十段と②二十一段とが密接に関連することは容易に知ることができよう。 ①七仏諸仏の過去現在未来に、いづれの仏祖か師資相見せざるに嗣法せる。なんぢ黄蘗を「見処不円」といふことなかれ。なんぢいかでか黄蘗の行履をはからん、黄蘗の言句をはからん。黄蘗は古仏なり、嗣法に究参なり。なんぢは嗣法の道理かつて夢也未見聞参学在なり。黄蘗は師に嗣法せり、祖を保任せり。黄蘗は師にまみえ、師をみる。なんぢはすべて師をみず、祖をしらず。自己をしらず、自己をみず。なんぢをみる師なし、なんぢ師眼いまだ参開せず。真箇なんぢ見処不円なり、嗣法未円なり。

②なんぢしるやいなや。雲門大師はこれ黄蘗の法孫なること。なんぢいかでか百丈・黄蘗の道処を測量せん。雲門大師の道処、なんぢなほ測量すべからず。百丈・黄蘗の道処は、参学のちからあるもの、これを拈挙するなり。直指の落処あるもの、測量すべし。なんぢは参学なし、落処なし。しるべからず、はかるべからざるなり。

道元には祖師の評価があって、雲門文偃(63)や黄蘗希運は高い評価がなされている。その視点からみるならば、薦福承古は認められない。つまり、薦福承古は嗣法の弟子としての資質において全く欠けているとする評価である。そのことを『面授』においても第一点に確認する必要があったと言えるのではなかろうか。

次に第二点として考えなければならないことがある。それは二十六段と関連する問題である。

なんぢがごとく文字によりて嗣法すべくは、経書をみて発明するものはみな釈迦牟尼仏に嗣法するか、さらにしかあらざるなり。経書によれる発明、かならず正師の印可をもとむるなり。

この段は恐らく道元の示衆を聴法する門下の中に日本達磨宗の人々が対機として存在したからではあるまいか(64)。日本達磨宗の批判の問題は道元の主張の根幹に関わることはしばしば指摘してきたのであるが、「正師」の問題が道元の重要な視点であることも多く言及されてきていることである。『学道用心集』の「参禅学道は正師を求むべき事」の次の説示は中でも有名である。

正師を得ざれば、学ばざるに如かず。夫れ正師というは、年老耆宿を問わず、唯だ正法を明らめて正師の印証を得るなり。文字を先と為さず、解会を先と為さず、格外の力量有り、過節の志気有り、我見に拘らわず、情識に滞らず、行解相

応する、是れ乃ち正師なり。(大久保本―二五六頁)

いかに正師が重要であることが分かろう。このことから薦福承古には正師が存在しなかったと言ってよいのである。

これらの二点を薦福承古は欠いていたが故に非難の対象となったと考えられる。『面授』とは、『行仏威儀』や『坐禅箴』の「師勝資強」の語を借りれば、その資格に「師勝資強」が必要である。このことを具体化しようとしたのが、付説を書かなければならなかった理由ではないかと思われる。

結局、嗣法とは何か。いままでの書以外で見てみると次のような説に行き着くことになろう。

『諸法実相』〈寛元元年九月日示衆〉

このゆゑに、実相の実相に参学するを仏祖の仏祖に嗣法するとす。これ諸法の諸法に授記するなり。唯仏の唯仏のために伝法し、与仏の与仏のために嗣法するなり。(同二―四三七頁)

『三界唯心』〈寛元元年閏七月初一日示衆〉

有心衆生あり、無心衆生あり。有心吾子あり、無心吾子あり。かくのごとく、吾子、子吾、ことごとく釈迦慈父の令嗣なり。十方尽界にあらゆる過現当来の諸衆生は、十方尽界の過現当の諸如来なり。諸仏の吾子は衆生なり、衆生の慈父は諸仏なり。(同―四一〇頁)

『古鏡』〈仁治二年九月九日示衆〉

はかりしりぬ、仏祖正伝の功徳、これ直指なることを。まことにしりぬ、磨塼の鏡となるとき、馬祖作仏す。馬祖作仏するとき、馬祖すみやかに馬祖となる。馬祖の馬祖となるとき、坐禅すみやかに坐禅となる。かるがゆゑに、 を磨して鏡となすこと、古仏の骨髄に住持せられきたる。(同―四三頁)

もちろんこれらの文面に限られるものでもないし、今回問題にしようとしたことは、道元の根幹に関わる主張と密接に関係することは確かである。ただ、いかに嗣法の問題が多岐わたることがあろう(65)とも、『嗣書』の冒頭の文を大きくはずれることはないことが確認されたと言ってよかろう。再びその文を掲げておきたい。

仏仏かならず仏仏に嗣法し、祖祖かならず祖祖に嗣法する、これ証契なり、これ単伝なり。このゆゑに無上菩提なり。仏にあらざれば仏を印証するにあたはず。仏の印証をえざれば、仏となることなし。仏にあらずよりは、たれかこれを最尊なりとし、無上なりと印することあらん。

以上、一端に触れて結びとしておきたい。

 

(1)真蹟……=大久保道舟博士の『嗣書』の真蹟の理由を『〈修訂増補〉道元禅師伝の研究』(三七四〜六頁。原載の論文は『道元禅師伝の研究』所収、岩波書店、一九五三年三月。初稿の論文は「道元禅師御真筆正法眼蔵嗣書に就て」雑誌『道元』昭和十二年六月号所収、道元禅師鑽仰会、一九三七年六月)より二箇所取り上げておこう。

①(『正法眼蔵仏性』(永平寺所蔵)は)懐弉が仁治四年(一二四三)正月十九日〈寛元元年〉に書写し、而してその後十五年を経て正嘉二年(一二五八)四月二十五日に再び禅師の再治本をもって校合したものである。今これを「嗣書」と比較するに、用紙の性質・寸法・行数その他の形式において完全に一致し、その外延的諸条件において禅師当時にまで遡ることの困難でないことが判明した。

②本書の核心たる筆蹟の真偽であるが、これを禅師自筆の「普勧坐禅儀」〈天福元年浄書〉及び「坐禅儀撰述由来書」并びに「明全和尚戒牒奧書」等によってその字体を吟味するに、筆法においては聊かも相違していない。……殊に書き癖の一致していること、また劃を省いた略字の使用されていること、その他文字によって運筆に遅鈍のあること等、微細な点にわたって共通していることは、本書が禅師の自筆たることに何等遜色のないことを示している。(省略)だいたい禅師の書きぶりは、書き初めが筆が重く渋滞勝ちであるが、一二字を書かれると、その後は実に流暢に筆を運ばれた。また刂(りっとう)、門(もんがまえ)、月(つきへん)のごとき上から縦に書き下すような文字は多く手の震えている跡方が見られるが、これ等は皆一つの特徴としてむしろ禅師の筆蹟鑑定の規準となるものである。

(2)河村孝道……=博士は長年にわたって道元の真蹟資料の蒐集に努められた経験を踏まえて、禅博本が道元の真蹟であるとの推薦文を寄せられた。更に博士が禅博本を実見された時に、朱筆に注目されていたとの話を聞き、私たちも朱筆の箇所を三箇所確認した。このことは大久保道舟博士も著書三七八頁で指摘済みであり、真蹟鑑定に問題ないことに言及されているが、ただ、『道元禅師全集』等の校訂には指摘はない。

岩波文庫本三七四頁三行目。底本ノ「決定するにあらより」ハ「ら」ノ右傍ニ「す」ノ朱筆アリ。

岩波文庫本三八四頁五行目。底本ノ「これ嗣書を請出」ハ「れ」ヲ消シテ朱筆デ「の」ニ訂正アリ。

岩波文庫本三九一頁一〇行目。底本ノ「この道元」ハ「道」ノ右傍ニ「とき」ノ朱筆アリ。

(3)小坂機融……=教授は、特に『秘密正法眼蔵』所収の『嗣書』奧書にある、懐奘の「寛元元年十月廿三日、以越州御書御本交之云云」の識語から、真蹟本の存在を指摘して、禅博本が「越州御書本」に相当することを強調されていた。ここでいう三種の奥書は、一度奥書を書いて擱筆し、さらに加筆がつづいて再び奥書が書かれて次のようになっている。

①草案本(興聖寺所蔵の興聖寺切)の奧書

嗣書 仁治二年辛丑春三月二十七日書

 

于時仁治二年歳次辛丑三月廿七日 観音導利興聖宝林寺沙門道元記仁治二年辛丑十二月十二日子時書 学人是法受持

②再治修訂本(禅博本)の奧書

嗣書

于時日本仁治二年歳次辛丑三月二十七日 観音導利興聖宝林寺入宋伝法沙門道元記寛元癸卯九月二十四日 掛錫於越州吉田県吉峰古寺草庵(花押)

③二十八巻本〈秘密正法眼蔵〉(永平寺所蔵)の奧書

嗣書

于時仁治二年辛丑歳次三月廿七日、観音導利興聖宝林寺 入宋伝法――記彼御本奥書曰、仁治癸卯二月廿五日、書写之於侍者寮頭、侍者恵上寛元元年十月廿三日、以越州御書御本交之云云、

(4)委員会が……=駒澤大学禅文化歴史博物館では、道元禅師真筆『正法眼蔵嗣書』収蔵記念「『正法眼蔵』と道元禅師の教え〜師から弟子へ〜」と題して、二〇〇八年六月九日〜七月二十五日まで公開展示会が開催され、六月二十五日には第一七回禅博セミナーにおいて、筆者は「『正法眼蔵嗣書』について」と題して講演を行った。その講演内容は、本論文の一部と重複する資料を利用した。なお、榑林皓堂・横井覚道編纂『影印正法眼蔵嗣書』(影印本正法眼蔵頒布会、一九六五年一月)があり、別冊附録として横井覚道氏の解題並異本対校がある。

(5)筆者も……=筆者は永平寺所蔵の『普勧坐禅儀』『明全和尚戒牒奧書』を実見したことがあり、『道元禅師 正法眼蔵行持に学ぶ』(禅文化研究所、二〇〇七年二月)及びその原載の三年半に及ぶ『傘松』誌上(第七〇〇〜七四一号、大本山永平寺、二〇〇二年一月〜二〇〇五年六月)で熊本県玉名市広福寺所蔵の下巻に相当する真蹟の『行持』(末尾に四紙を欠く)を活字化したことがあり、二〇〇八年六月二十六・二十七日の秋田の『祖録に親しむ』の講本は『諸法実相』で、これまた断簡の真蹟が知られており、共に写真版ではあるが真蹟に接する機会に恵まれた。

(6)真蹟で完本……=従来、豊橋市全久院に所蔵されている『山水経』は道元の真筆とされて来たが、古田紹欽博士が否定の見解を出され、河村孝道博士も真蹟ではないとの説であるので、筆者も新説に従いたい。

(7)『正法眼蔵』=『正法眼蔵』には、四種類の『正法眼蔵』編輯(①七十五巻本+十二巻本。②六十巻本+二十八巻本)がある。

(i)﹇七十五巻本﹈『現成公案』を第一とし、最後の第七十五を『出家』とするもので、最古の注釈書として伝統ある詮慧の『正法眼蔵御聞書』と経豪の『正法眼蔵抄』はこの七十五巻本の注釈である。この系統の基本となる明応四年(一四九五)の補写を含む永享二年(一四三〇)の古写本が乾坤院(愛知県)に所蔵されている。

(ii)﹇十二巻本﹈第一『出家功徳』にはじまり第十二『八大人覚』に終わる。昭和五年(一九三〇)に、孤峯智 禅師により発見され、十二巻中にそれまで知られていなかった『一百八法明門』が含まれている。この系統の基本となる文安三年(一四四六)の再写本で唯一の十二巻本の古写本が永光寺(石川県)に所蔵されている。

(iii)﹇六十巻本﹈第一『現成公案』にはじまり第六十『帰依仏法僧宝』に終わる。永平寺五世義雲(一二五三―一三三三)が編集したとする説がある。この系統の基本となる永正七年(一五一〇)の古写本が洞雲寺(広島県)に所蔵されている。(iv)﹇二十八巻本﹈永平寺に伝承された六十巻本に欠けた巻を収拾したとされる。室町期頃の写本が永平寺に所蔵され、秘密『正法眼蔵』と称されている。秘密とは永平寺の法宝として今後にも秘蔵護持、つまり大切に護持すべきとの意を込めたものと伝承されている。平成十年(一九九八)に道元の七五〇回の大遠忌(二〇〇二年)の記念出版事業として、その影印版が河村孝道博士の解題を付して刊行されている。

(i)(ii)(iii)は、それぞれを代表する三種の写本の影印本が三種の真字『正法眼蔵』の写本と共に、河村孝道博士の解説を付して正法眼蔵影印本刊行会より教行社を頒布本(もと)として公刊されている(一九九二年一月)。

(8)編輯……=伊藤秀憲「『正法眼蔵』はいかに編輯されたか」(『駒澤短期大学仏教論集』第一二号、二〇〇六年一〇月)に多くよる。特に七十五巻本と六十巻本等の対照表(論文の四・五頁)は極めて便利である。

(9)「嗣書図」=永平寺の原本は「阿那菩底」であるのに、なぜか活字化された諸本は「阿那菩提」となっている。十二祖を「馬鳴」とするのは、『仏性』においても同じである(岩波文庫本一―七九頁)。『永平広録』巻七の四八〇・五二五上堂も馬鳴となっている。ただ、大久保道舟編『道元禅師全集』下巻には「授理観戒脈」と「授覚心戒脈」の二種の戒脈が収められているが、前者の天台系と南岳系の両派を承ける栄西より明全を経て道元が理観に授ける戒脈は「馬鳴」となるも、後者の南岳―臨済系の明全と青原―曹洞系の如浄の両派を承けて道元より法燈派(覚心―心瑜)に伝承したものは「嗣書図」と同じく「阿那菩提」となっている。しかし栄西の『興禅護国論』の「宗派血脈門」も元来、「第十二馬鳴」となっている(岩波の日本思想大系本五二頁)。なお、『曹洞宗全書 室中等』の口絵には、「嗣書図」と同一図の「華蔵義曇禅師嗣書〈静岡普済寺所藏〉(応永(十三年)丙戌(一四〇六)作)」が収まっている。そもそも、祖統説で馬鳴を阿那菩提乃至阿那菩底とする中国禅籍は見出せない。

(10)馬鳴……=『仏祖』では「那伽閼剌樹那。又龍樹、又龍勝、又龍猛」とあるように、翻訳名を使用されることはあり得るし、『仏祖』の祖師名を「嗣書図」で婆須蜜多を婆須蜜に、那伽閼剌樹那を那伽閼羅樹那に、伽那提婆を迦那提婆に、僧伽難提を僧迦難提に、伽耶舎多を迦耶舎多に、獅子を獅子菩提にしているところはここでは問題ないと考える。ただ、『嗣書』には、洞山門下の嗣書には過去七仏が書かれているとあり、『仏祖』も過去七仏が見えるのに、「嗣書図」に過去七仏がないのは疑問である。まして『嗣書』の補筆には、天童如浄の過去七仏への言及もあることは注意すべきであろう。

(11)毘婆尸……=過去七仏の中国訳語は『景徳伝燈録』にはない。『律宗新学名句』巻中に「華梵七仏。一、毘婆尸〈此云広説〉。二、尸棄〈此云火〉。三、毘葉羅〈此云一切慈〉。四、拘留孫〈此云金仙人〉。五、拘那含〈此云金色仙〉。六、迦葉〈此云飲光〉。七、釈迦牟尼〈比云能仁寂黙〉」(続蔵巻一〇五―三二四左上下)とあるのに依る。『正法眼蔵』の原本の「能忍」は本山版のように「能仁」とするのが引用上もよいであろう。

(12)那伽閼剌樹那……=『仏性』に「第十四祖龍樹尊者、梵云那伽閼剌樹那。唐云龍樹亦龍勝、亦云龍猛。西天竺国人也。至南天竺国。彼国之人、多信福業。尊者為説妙法。聞者逓相謂曰、人有福業、世間第一。徒言仏性、誰能覩之」(岩波文庫本一―九二頁)と始まるのは、『景徳伝燈録』巻一が「第十四祖龍樹尊者、西天竺国人也。亦名龍勝。始於毘羅尊者得法。後至南印度。彼国之人、多信福業。聞尊者為説妙法、遞相謂曰、人有福業、世間第一。徒言仏性、誰能睹之」(禅文化本一三頁)とあるので、『釈迦方志』巻下の「有南印度那伽閼刺樹那菩薩〈此言龍猛、或云龍樹〉、来至伏諸外道始撃 。故塔名撃 也」(大正巻五一―九六一c)で補ったものであろう。これが『仏祖』にも使用されたものと思われる。後述するように、『仏祖』が『仏性』と関連することは極めて重要である。

(13)大宋国宝慶元年乙酉夏安居時=『仏性』にもこの年月が出る。これについては後述する。

(14)正法眼蔵第三十九 嗣書=真筆本及び草案本は『嗣書』であるが、七十五本では第三十九〈六十巻本には無く、二十八巻本の一つである〉と巻数が示される。「正法眼蔵」の総題がいつ付されたか。つまり、道元により編輯が構想され、具体化されたかについては、水野弥穂子氏は「正法眼蔵はいつ示されたか―その成立に関連して―」(『駒澤大学短期大学国文』第三号、一九七三年三月)で、『建撕記』(瑞長本)の「寛元三年乙巳三月六日、初メテ正法眼蔵ヲ示ス」を根拠に一二四五年より始まったとしている。伊藤秀憲博士は『道元禅研究』(大蔵出版、一九九八年一二月)二八五頁によると、ほぼ同時期説で寛元三年十二月二十四日の第五十五『十方』の懐奘の書写以前説である。筆者もこれらの説は妥当と思う。

(15)曹渓……=『仏道』にも「曹渓古仏、あるとき衆にしめしていはく、「慧能より七仏にいたるまで四十祖あり。この道を参究するに、七仏より慧能にいたるまで四十仏なり。仏々祖々を算数するには、かくのごとく算数するなり。かくのごとく算数すれば、七仏は七祖なり、三十三祖は三十三仏なり。曹渓の宗旨かくのごとし、これ正嫡の仏訓なり。正伝の嫡嗣のみ、その算数の法を正伝す。釈迦牟尼仏より曹渓にいたるまで三十四祖あり。この仏祖相承、ともに迦葉の如来にあひたてまつれりしがごとく、如来の迦葉をえましますがごとし」(岩波文庫本三―一一頁)とある。拙著『道元禅師 正法眼蔵行持に学ぶ』(禅文化研究所、二〇〇七年二月)五九頁以下参照。

(16)七仏=『景徳伝燈録』巻一の「毘婆尸仏〈過去荘厳劫第九百九十八尊。〉……〉尸棄仏〈荘厳劫第九百九十九尊。〉……毘舎浮仏〈荘厳劫第一千尊。〉……拘留孫仏〈見在賢劫第一尊。〉……拘那含牟尼仏〈賢劫第二尊。〉……迦葉仏〈賢劫第三尊。〉……釈迦牟尼仏〈賢劫第四尊。〉……」(禅文化本一〜二頁)による。

(17)仏嗣……=仏の嗣法については、『三界唯心』に「有心衆生あり、無心衆生あり。有心吾子あり、無心吾子あり。かくのごとく、吾子、子吾、ことごとく釈迦慈父の令嗣なり」(岩波文庫本二―四一〇頁)が参考になろう。

(18)釈迦牟尼仏……=出典は『宗門統要』巻一「大覚世尊釈迦文仏章」の「世尊嘗与阿難行次、見一古仏塔。世尊便作礼。阿難云、此是什麼人塔。世尊云、此是過去諸仏塔。阿難云、過去諸仏是什麼人弟子。仏云、是吾弟子。阿難云、応当如是」(宋版―一三丁左)である。

(19)靸鞋の相嗣……=大陽警玄と投子義青の代付に関連して、道元が代付を認めた説として従来問題にされたことがらである。鏡島元隆博士の『道元禅師と引用経典・語録の研究』(木耳社、一九六五年一〇月)一三頁以下参照。後に『面授』との関連でも言及する。(20)(20)道元在宋……=五段以降十三段までの嗣書拝見の記事は、瑩山紹瑾(一二六四―一三二五)の『伝光録』に引用される。『伝光録』は正安二年(一三〇〇)正月十一日より請益されたとされるので、『嗣書』の影響の大きさとその早い伝承が判明する。

(①法眼下の嗣書)大宋にて五家の嗣書を拜す。いはゆる、最初広福寺前住惟一西堂といふにまみゆ。西堂曰ク、古蹟の可観は人間の珍玩なり。汝いくばくか見来せる。師曰、未ダ曾テ見ズ。ときに西堂曰く、吾ガ那裏に一軸の古蹟あり。老兄が為にみせしめんといひて、携へ来るをみれば、法眼下の嗣書なり。西堂曰く、ある老宿の衣鉢の中より得来れり。惟一西堂のにはあらず。そのかきようありといへども、くわしく挙するにいとまあらず。

(②雲門下の嗣書)又宗月長老(は天童の首座たりし)について、雲門下の嗣書を拝す。即ち宗月に問て曰く、今五家の宗流をつらぬるにいさゝか同異あり。そのこゝろいかん。西天、東土、嫡々相承せばなんぞ同異あらんや。月曰く、たとひ同異はるかなりとも、たゞまさに、雲門山の仏法は是ノ如クなりと学すべし。釈迦老子なにゝよりてか、尊重他なる。悟道によりて尊重なり。雲門大師なにゝよりて尊重他なる。悟道によりて尊重なり。師この語をきくにいさゝか領覧あり。

(③楊岐下の嗣書)又龍門の仏眼禅師清遠和尚の遠孫にて、伝蔵主といふ人ありき。彼の伝蔵主また嗣書を帯せり。嘉定のはじめに、日本の僧隆禅上座、かの伝蔵主やまひしけるに、隆禅ねんごろに看病しける勤労を謝せんが為に、嗣書をとりいだして、礼拝せしめけり。みがたきものなり。汝が為に礼拝せしむといひけり。それより半年をへて、嘉定十六年癸未の秋のころ、師天童山に寓止するに隆禅上座ねんごろに、伝蔵主に請して、師にみせしむ。是れは楊岐下の嗣書なり。

(④無際了派の嗣書)又嘉定十七年甲申正月二十一に、天童無際禅師了派和尚の嗣書を拝す。無際曰く、この一段の事、見知ヲ得ルコト少ナシ。如今老兄知得ス。便チ是レ学道ノ実帰ナリト。時に師喜感勝ルコトナシ。                

(⑤万年元鼒の嗣書)又宝慶年中、師台山雁山等に雲遊せし序に、平田の万年寺にいたる。時の住持は福州の元鼒(げんす)和尚なり。人事の次でに、むかしよりの仏祖の家風を往来せしむるに、大潙仰山の令嗣話を挙するに元 曰く、曾テ我箇裏ノ嗣書ヲ看ルヤ也タ否ヤ。師曰く、いかにしてみることをえん。鼒自らたちて嗣書をさゝげて曰く、這箇はたとひ親き人なりといへども、たとひ侍僧のとしをへたるといへども、これをみせしめず。これ即ち仏祖の法訓なり。しかあれども、元鼒ひごろ出城し、見知府の為に在城の時、一夢を感ずるに曰く、大梅山法常禅師とおぼしき高僧あり。梅華一枝をさしあげて曰く、もしすでに船舷をこゆる実人あらんには、華をおしむこと勿れといひて、梅華をわれにあたふ。元鼒おぼえずして、夢中に吟じて曰く、未ダ船舷ニ跨ガラザルニ好シ三十棒ヲ与フルニト。しかあるに、五日ヲ経ザルニ老兄ト相見ス。いはんやすでに、船舷に跨り来る。この嗣書また梅華綾にかけり。大梅のおしふるところならん。夢中と符合するゆゑにとりいだすなり。老兄もしわれに嗣法せんともとむや。たとひもとむともをしむべきにあらず。師信感おくところなし。嗣書を請すべしといふとも、たゞ焼香礼拝して恭敬供養するのみなり。時に焼香侍者法寧といふあり。はじめて嗣書をみるといひき。時に師ひそかに思惟しき。この一段の事、実に仏祖の冥資にあらざれば、見聞なほかたし。辺地の愚人としてなんのさいはひありてか、数番これをみると。感涙ニ袖ヲ霑ス。〈岩波文庫本ハ鼒ヲ鼐ニ作ル〉

(⑥天童如浄の嗣書)この故に師、遊山の序に、大梅山護聖寺の旦過に宿するに、大梅祖師来りて開華せる一枝の梅華をさづくる霊夢を感ず。師、実に古聖とひとしく、道眼をひらく故に、数軸の嗣書を拝し、冥応のつげあり。是ノ如ク、諸師の聴許をかうむり、天童の印証を得て、一生の大事を弁じ、累祖の法訓をうけて、大宋宝慶三年、日本安貞元年丁亥歳、帰朝し、はじめに本師の遺跡建仁寺におちつき、しばらく修練す。時に二十八歳なり。(岩波文庫本二三五〜二三八頁)

(21)惟一西堂=この『嗣書』以外には知られない。無準師範の法嗣の環渓惟一説があるが誤り。

(22)宗月長老=伝不詳。

(23)龍門の……=仏眼清遠(一〇六七―一一二〇)。臨卭県(四川省)の人。俗姓は李氏。五祖法演の法嗣。舒州天寧万寿寺・龍門寺・和州褒山寺に住す。賜号を仏眼禅師という。宣和二年十一月二十二日示寂す。世寿五十四、法臘四十。

(24)伝蔵主……=伝不詳。

(25)隆禅上座=この『嗣書』の外、『宝慶記』に「問云、菩薩戒何耶。和尚示曰、今隆禅所誦戒序也」(大久保本下巻三七四頁)とあり、『永平広録』巻一〇の「与郷間禅上座」の偈頌もこの人に与えたものである。伝は不詳。

(26)芙蓉山……=芙蓉道楷(一〇四三―一一一八)。沂州(山東省)費県の人。俗姓は崔氏。投子義青の法嗣。郢州の大陽山に住す。沂州の芙蓉湖畔に華厳寺を創建す。政和八年五月十四日に示寂す。世寿七十六、法臘四十二。

(27)了派蔵主……=無際了派(一一四九―一二二四)。俗姓は張氏。建安(福建省)の人、ここでは威武(福建省福州)の人とある。仏照徳光(一一二一―一二〇三)の法嗣。慶元四年(一一九八)に常州江蘇省)の保安寺に住し、後に天童寺に移る。嘉定十七年秋示寂す。世寿七十六、法臘五十二。この嗣書に関連する小師僧智庚や師広都寺も伝不詳。

(28 )元鼒和尚=伝不詳。法系も不明。福州の人。平田万年寺の住持。万年寺は栄西が虚庵懐敞の下に参学した道場で、『興禅護国論』に「ときに炎宋淳煕十四年丁未(一一八七)の歳なり。すなわち、天台山に登って、万年寺に憩ふ。堂長和尚敞禅師に投じて師とし、参禅問答す」(前掲書五四〜五五頁)とある。帰国後に栄西が三門の両廡を再建したと伝えられている。

(29)宗観長老=伝不詳。水野弥穂子氏の脚注には月庵善果の法嗣の石霜宗鑑を推測している。

(30)大潙・仰山の令嗣話=真字『正法眼蔵』一〇三則の話であろう。

大潙山大円禅師坐次、仰山侍立。師云、寂子、近日宗門中令嗣作麼生。仰曰、大有人疑著此事。師云、寂子又作麼生。仰云、某甲祗管困来合眼、健即坐禅。所以未曾説著。師云、到這田地也難得。仰曰、拠某甲見処、著一句語亦不得。師云、子為一人也不得。仰云、自古聖人尽皆如是。師云、大有人笑汝与麼祗対。仰云、解笑某甲是某甲同参。師云、出頭作麼生。仰遶禅牀一匝。師云、裂破古今。(春秋社版五―一八〇頁)。

拙著『中国禅宗史話』「嗣法とは祇管打坐することなり」(三一五頁以下)参照。潙山霊祐(七七一―八五三)。諡号は大円禅師。福州の人。俗姓は趙氏。百丈懐海の法嗣。潭州の大潙山で活躍。大中七年正月九日示寂す。世寿八十三、法臘六十四。仰山慧寂(八〇七― 八八三)。諡号は智通大師。韶州の人。俗姓は葉氏。潙山霊祐の法嗣。袁州の仰山で活躍。中和三年二月十三日示寂す。世寿七十七。

(31)大梅山法常禅師=法常(七五二―八三九)。襄陽(湖北省)の人。俗姓は鄭氏。馬祖道一の法嗣。明州(浙江省)の大梅山護聖寺に住す。開成四年九月十九日に示寂す。世寿八十八、法臘六十九。

(32)未跨船舷、好与三十……=真字『正法眼蔵』三一則の話の「鼎州徳山見性大師〈嗣龍潭、諱宣鑑〉小参示衆云、老僧今夜不答話、問話者三十棒。時有僧出礼拝。師便打。僧曰、某甲話也未問、因甚打某甲。師云、你甚処人。僧曰、新羅人。師曰、未跨船舷、好与三十拄

杖」(春秋社版一四四頁)を指す。徳山宣鑑(七八二―八六五)。諡号は見性大師。剣南(四川省)の人。俗姓は周氏。龍潭崇信の法嗣。

朗州の徳山に住す。感通六年十二月三日示寂す。世寿八十六、法臘六十五。

(33)維摩室=栄西に与えた戒脈の「授理観戒脈奥書」によれば、「東林敞和尚在天台日、於維摩室示曰、菩薩戒禅門一大事因縁、汝航海問禅於予、因先授此戒・法衣・応器・坐具・宝瓶・拄杖・白払、不遺一物授畢。于時大宋淳煕己酉歳(一一八九)九月望日、懐敞記」(大久保本二九〇頁)とあり、方丈であったことが知られる。「授覚心戒脈奧書」にも同文が見られる。

(34)花押=道元の花押については、大久保道舟博士は「次に注意して置きたいことは、この里見本奥書に禅師の花押の存することである。そもそも禅師が眼蔵に花押を書かれたということは余りないことで、恐らくこの「嗣書」と「法華転法華」の両巻程度であるかと思う。この意味で自筆の花押の伝わったことは、実に難値難遇のことといわねばならぬ。従来禅師の花押には二つの形式が伝わっている。一つは天福元年浄書の「普勧坐禅儀」末尾記載のものであり、他の一つは「永平寺文書」の寛元四年七月十日の仏前斎粥供養侍僧文及び宝治二年十二月二十一日の庫院須知文(孰れも写し)等に書かれていて、然も従来朱印として用いられて来たものである。このうち前者は宋朝の風格を有し、原本が禅師の自筆であるから何等疑う余地はないが、後者にいたっては、文書そのものが写しであるから多少疑問をもっていたが、図らずもこの里見本の嗣書によって典拠が明かになった。即ち後者は前者に後れること十一年にして初めて表面に表れているが、禅師には一体いつ頃からこの花押を使用し始められたのであろうか、その点全く明かでない。いずれにしても前者は宋朝禅林の風を襲われたものであり、後者は当時わが国流行の形式によって案出されたことは確である〈なお本書には各葉の綴目二箇所にわたって同一花押が小さく書き込まれている。〉……」(前掲書三七八〜三七九頁)とある。これら二形式の花押の対象写真は河村孝道著二三頁に掲げて言及されている。

(35)面授=この語については、『摩訶止観』巻一の灌頂の記の「此の止観は、天台智者、己心中所行の法門を説きたまう」(大正巻四六―一b)を注釈した荊渓湛然『輔行伝弘決』巻一之一に述べる。「説己心中所行法と言うは、即ち章安密かに大師に従って所行の法を得ることを説くなり。故に所行を挙げて以て所伝を顕わすなり。若し伝えて習わずんば、言有りて行無からん。将た何を以てか所伝の空ならざるを弁ぜん。故に知りぬ、所伝は即ち己が所行。亦た後代をして行言に違わざらしむ。所以に一部並な行相と為す。他の云く、三の外に別に心要を伝えば、則ち三部の文便ち無用と為らん。従(たと)い面授口決の言有るも、但だ是れ証を将て私かに師に呈す。安心の観門は此の文に自ら足る。況んや此れ後学は面授を蒙らず。此れを離れての外(ほか)何の云う所かあらんや。故に応に此れを信ずべし、即ち是れ所伝なり。故に遺嘱して云く、止観は伝授を須いざれ。私かに記す時人の為に説けと。私かに記すとは即ち章安の記す所の十巻を指す是れなり。嘱の意、正言に面授するは、意多く周ねからず。私かに記すは言旨全く備わる。故に知りぬ、大師の所伝の止観は、機に随いて面授するは、後代の堪うる所にあらず。是を以て臨終に殷勤に遺嘱す。験(あきら)かに知りぬ、別に伝うことを。斯の言謬れり」(大正巻四六 ―一四七bc)また、圭峰宗密『禅源諸詮集都序』巻下に「心を以て嗣(でし)に伝うるは、唯だ達磨宗のみ。心は是れ法源、何れの法か備わらざらん。修むる所の禅行は一門に局(かぎ)るに似たるも、伝うる所の心宗は、実に三学に通ず。況や復た其の始を尋ぬれば、〈始とは迦葉、阿難なり〉親しく釈迦に禀けて、代代相伝し、一一面授して、三十七代、〈有るいは西国に已に二十八祖有りと云うは、下の祖伝の序の中にて即ち具(つぶ)さに分析せん〉、吾が師に至れるをや〈緬(はる)かに思うに、何の幸いありてか釈迦三十八代の嫡孫たり〉」(石井修道・小川隆「『禅源諸詮集都序』の訳注研究」(『論集』三〇号、七四頁)とある。衛藤即応『宗祖としての道元禅師』(岩波書店、一九四四年七月)三二七頁に、この『都序』の文を「面授」の語の初出というも、密教経典『吽迦陀野儀軌』巻中「但此品内真言不授伝、見人面授。是法此是天王大悪心咒」(大正巻二一―二四八a)にも使用される。また、経豪の『正法眼蔵抄』には、「面授口訣と云フ事、師資相イ対してあるべき事ナリ。今の面授の儀も、其ノ姿なきにはあらず。但ダ此ノ面授の道理は、只ダ一面と談ズルナリ。釈尊と迦葉と拈華瞬目の姿を以て、はしにあげらるるが如く面授とす。迦葉は釈尊ニ蔵身し、釈尊は迦葉に蔵身す。是を一面の面授とは云フナリ。たとへば経巻知識に随ヒて参学するとき、無師独悟といひ、吾亦如是、汝亦如是と云フ程の面授の道理なるべし」(『曹全 注解二』九五七頁)とある。

(36)爾時釈迦牟尼仏……=拈華微笑の話については、『永平広録』巻九―頌古一則に次のようにある。

世尊在霊山百万衆前拈華瞬目、迦葉破顔微笑。世尊告衆曰、吾有正法眼蔵涅槃妙心、付嘱摩訶迦葉。流布将来勿令断絶。仍以金縷僧伽梨衣附迦葉。

この則を基本に『面授』、『優曇華』、『仏道』、『永平広録』巻六―四二八上堂、『永平広録』巻九―頌古一則に展開している。この話は一般に『大梵天問仏決疑経』が出典とされるが、道元の場合は『天聖広燈録』巻二(続蔵巻一三五―三〇六左上)である。当時の禅宗も同じ傾向であって、例えば、『無門関』六則「世尊拈花」は『宗門統要集』巻一(宋版―六丁裏)なのである。この問題については、石井修道「拈華微笑の話の成立をめぐって」(『平井俊榮博士古稀記念論文集『三論教学と仏教諸思想』所収、春秋社、二〇〇〇年一〇月)及び「『大梵天王問仏決疑経』をめぐって」(『駒澤大学仏教学部論集』第三一号、二〇〇〇年一〇月)を参照されたい。

(37 )そのとき、道元に指授面授する……=如浄の語を「仏々祖々、面授の法門現成せり」までと解釈する。拈花・得髄・伝衣は『仏経』(岩波文庫本二―七七〜七八頁)参照。特に洞山の面授とは、次の『行持 上』よりほぼ間違いないと考えられる。

雲巌和尚と道吾と、おなじく薬山に参学して、ともにちかひをたてて、四十年わきを席につけず、一味参究す。法を洞山の悟本大師に伝付す。洞山いはく、「われ、欲打成一片、坐禅辨道、已二十年なり」。いまその道、あまねく伝付せり。(同一―三一〇頁)

これを踏まえれば、雲巌が面授において洞山へ嗣法したことになる。その話として『無情説法』が撰述されている。『無情説法』には次の語がある。

正伝の面授あらざるを、正師にあらずとはいふ。仏仏正伝しきたれるは、正師なり。(同三―六六〜七頁)

なお、拙稿「仏仏祖祖の嗣法の話の成立過程―道元禅師の引用例と関連して―」(『七百五十回大遠忌記念 道元禅師研究論集』所収、大本山永平寺、二〇〇二年八月)参照。

(38)世尊と迦葉と……=詮慧の『正法眼蔵聞書』には、「但ダ得吾皮肉骨髄程の義ナリ。座と衣とに限ルべからず、行住坐臥の儀式ト同ジと云フべし」(前掲書九六六頁)とある。

(39)迦葉尊者したしく……=衛藤即応博士は「面授とは、二箇の人格が直接相触れて一人格に融合し、恰も一の燈光が直接相触れて光が他方に転ずる如く、一の生命が他に伝つて無限に相続して行くことである」(前掲書三〇二頁)という。

(40)自己の面目……=同著に「全自己を挙げて師の前に帰投する、其の時、弟子の生命は師の生命の中に融け込んで、自己の面目は立たないから、「自己の面目は面目にあらず」である。……されば面授を一言にしていへば、自己に死して如来の生命に甦生(そせい)することである」(三〇二〜三〇三頁)。

(41)唯面与面=『法華経』「方便品」の「唯仏与仏、乃能究尽」(大正巻九―五c)に依る。『諸法実相』の巻参照。

(42)二十八仏祖……=『仏道』の冒頭の文参照。注(15)に既出。

(43)倶時の面授=衛藤即応博士は同著に「「倶時の面授」とは、如来に依る統一と弟子に依る統一とが、前後二重にあるのではなく、引く力が同時に引かるる力であるから、此の二重の統一は同時に行はれて、面授が現成するといふのである。具体的にいへば、師資相ひ見、相ひまみえての礼拝である」(三〇九頁)という。

(44)面皮厚三寸……=『正法眼蔵聞書』に「是レ又タ面皮の厚薄、寸ト丈ト勝劣無キところをあかさるるナリ。あつきかたには寸ととき、薄き方には丈ととく、是レ差別無キ儀ナリ」(前掲書九六七頁)とある。

(45)諸仏大円鏡……内外無瑕翳=両句は『古鏡』(仁治二年九月九日示衆)に「あるとき出遊するに、僧伽難提尊者にあうて、直にすゝみて難提尊者の前にいたる。尊者とふ、「汝が手中なるは、まさに何の所表かある」。「有何所表」を問著にあらずとききて参学すべし。師いはく、「諸仏大円鑑、内外無瑕翳。両人同得見、心眼(しんとめと)皆相似」。しかあれば、「諸仏大円鑑」、なにとしてか師と同生せる。師の生来は大円鑑の明なり。諸仏はこの円鑑に同参同見なり。……このかがみ、「内外にくもりなし」といふは、外にまつ内にあらず、内にくもれる外にあらず。面背あることなし、両箇おなじく得見あり。「心と眼とあひにたり」。「相似」といふは、人の人にあふなり」(岩波文庫本二―一三〜四頁)とある。出典は『景徳伝燈録』巻二の「僧伽難提章」による。

(46)八塔を礼拝……=『大乗本生心地観経』巻一に「又此光中影現如来不可思議八大宝塔。①拘娑羅国浄飯王宮生処宝塔。②摩伽陀国伽邪城辺菩提樹下成仏宝塔。③波羅奈国鹿野園中初転法輪度人宝塔。④舎衛国中給孤独園与諸外道六月論議得一切智声名宝塔。⑤安達羅国曲女城辺昇 利天為母説法共梵天王及天帝釈十二万衆従三十三天現三道宝階下閻浮時神異宝塔。⑥摩竭陀国王舎城耆闍崛山説大般若法華一乗心地経等大乗宝塔。⑦毘舎離国菴羅衛林維摩長者不可思議現疾宝塔。⑧拘尸那国跋提河辺娑羅林中円寂宝塔。如是八塔大聖化儀。人天有情所帰依処。供養恭敬為成仏因」(大正巻三―二九四ab)に依る。道元は他にも『心地観経』の引用があり、『正法眼蔵抄』もこの経を指摘。また、『仏説八大霊塔名号経』にも、「第一迦毘羅城龍弥 園是仏生処。第二摩伽陀国泥連河辺菩提樹下仏証道果処。第三迦尸国波羅奈城転大法輪処。第四舎衛国祇陀園現大神通処。第五曲女城従忉利天下降処。第六王舎城声聞分別仏為化度処。第七広厳城霊塔思念寿量処。第八拘尸那城娑羅林内大双樹間入涅槃処」(大正巻三二―七七三a)とあり、栄西の『興禅護国論』にも「又た次いで伝教大師の『仏法相承譜』を見て我が山に稟承有ることを知る。畜年罷まず二十年を経、方今(いま)、予、西天の八塔を礼せんことを懐(おも)いて、日本文治三年丁未歳(一一八七)春三月、郷を辞す」(前掲書五四頁)とある。

(47)生処に建立……=『大乗本生心地観経』に当てはめると、以下、八塔の内、①③②⑧⑤⑦の六塔に相当する。

(48)三十七品の法=『三十七品菩提分法』の巻を参照。

(49)入泥入水=『雲門広録』巻中に「僧問、如何是学人自己。師云、老僧入泥入水。僧云、某甲粉骨碎身去也。師喝云、大海水在爾頭上。

速道速道。僧無語。師代云、也知和尚恐某甲不実」(大正巻四七―五五七a)などとある。また、『正法眼蔵抄』に「入泥入水の好時節也とは、此ノ面授の道理のあまねく及ボす事を云ナリ」(前掲書九六二頁)とある。

(50)汝得吾髄=『葛藤』に「しるべし、たとひ二祖に為道せんにも、「汝得吾皮」と道取すべきなり。たとひ「汝得吾皮」なりとも、二祖として正法眼蔵を伝附すべきなり。得皮得髄の殊劣によれるにあらず。また、道副・道育・総持等に為道せんにも、「汝得吾髄」と道取すべきなり。吾皮なりとも、伝法すべきなり。祖師の身心は、皮肉骨髄ともに祖師なり。髄はしたしく、皮はうときにあらず」(岩波本二―三六二頁)とある説も参照すべきであろう。

(51)一隅の特地なり。伝尽……=『正法眼蔵抄』は「伝尽にあらずとは、大悟心印の外に、椅子竹木にも払子拄杖にも乃至山河大地、日月星辰等にも面授せむ、何の子細かあらむと云フ心地なり。但ダ伝尽に非ずと云へども、欠悟の道理を参究せずとは、たとへば心印を面授と云フ詞の外に、多の面授の詞、右に挙グるが如くあるべき所を、伝尽せずとは云ナリ」(前掲書九六二〜九六三頁)といい、また、

正法眼蔵聞書』は「伝尽にあらずといへば、不尽ときこゆれども、これは一隅といふ詞に付ケて、伝尽せずといふ。但ダ欠悟の道理を参究せずといふにて心得べし。不尽にてはなし。不尽は欠悟あるべきナリ」(同九六八頁)という。

(52)はじめて先師……=ここは重大な問題箇所で解釈も諸説あるので、試訳も問題を含んでいるであろう。後にも取り上げるように、身心脱落の時点をめぐっては、杉尾玄有「御教示仰ぎたき二問題―「面授時脱落」のこと及び『普勧坐禅儀』の書風のこと」(『宗学研究』第一九号、一九七七年三月)以来、大きな問題となった箇所である。衛藤即応博士は「「やや」といひ、「わづかに」といふは、いふまでもなく謙遜の辞である」(前掲書三二六頁)と言われる。『正法眼蔵抄』は「堂奥を聴許せらるとは、只ダ堂中ノ若キは、方丈の内外なむどを、縦横に出入リあらむずるにてはなし。時刻ヲ嫌ワズ、心ニ任カセテ法を訪フ事を、堂奥を聴許するとは云ナリ。身心を脱落するにとは、故方丈、天童に相見悟道の御詞、参禅者身心脱落と云フなり。其レをいま書キ載セラレシ歟」(前掲書九六三頁)と釈す。中世古祥道氏は、その著『道元禅師伝研究』「身心脱落」(国書刊行会、一九七九年一月)の中で、「礼拝面授」と「堂奥聴許」と「身心脱落」を同時のこととしてみる読み方は無理であるとして、「はじめて」と「やや」と「わづかに」の間には時間的経過をおいて解さねばならぬ、と杉尾玄有説に反論している。中世古氏は、身心脱落の年時を禅師が如浄から「仏祖正伝菩薩戒作法」を受けた宝慶元年九月八日よりほど遠からぬ一日としている。

(53)日本国に本来せり=本来の語は、菩提達磨の伝法偈の「吾本来此土、伝法救迷情。一華開五葉、結果自然成」を踏まえ、『空華』に取り上げられる。拙著『正法眼蔵行持に学ぶ』二八三頁以下でも強調したように、この伝法偈は道元菩提達磨観において重要である。

(54)薦福寺の承古禅師=承古(?―一〇四五)、道元は後に、次の『建中靖国続燈録』巻二の伝を問題にする。

饒州薦福承古禅師。操行高潔、稟性虚明。参大光敬玄禅師、乃曰、祇是箇草裡漢。遂参福厳雅禅師、乃曰、祇是箇脱洒衲僧。由是終日黙然。深探先徳洪規。一日覧雲門禅師対機、忽然発悟。乃曰、却較此子。自此韜蔵、不求名聞。栖止雲居山弘覚禅師塔中。四方学者奔湊。因曰古塔主也。景祐四年冬、范公仲淹出守饒陽。聞師道徳、遣便請居薦福、開闡宗風。慶暦五年仲冬四日、陞堂説偈云、天地本同根、鳥飛空有跡。雪伴老僧行、須弥撼金錫。乙酉冬至四、霊光一点赤。珍重会中人。般若彼羅蜜。言畢坐逝。(以下、上堂等省略)(続蔵巻一三六―二七右下〜左上)。

出身等については、『禅林僧宝伝』巻一二の前半に、「薦福古禅師。禅師名承古、西州人、伝失其氏。少為書生、博学有声。及壮、以郷選至礼部、議論不合。有司怒裂其冠。従山水中来、客潭州 山。見敬玄禅師、断髮従之游。已而又謁南岳雅禅師。雅洞山之子、知見甚高、容以入室。後游廬山、登欧峰、愛宏覚塔院閑寂、求居之。清規凜然、過者肅恭。時叢林号古塔主。初説法於芝山、嗣雲門。景祐初、范文正公仲淹守饒。四年十月、迎以住薦福。(以下略)」(続蔵巻一三七―二四五右下〜左上)とある。

(55)上堂云……=前註の『続燈録』(二八右上)。

(56)日面月面=馬祖道一の語。『一顆明珠』参照。

(57)獅子奮迅話=この公案が何を指すのか重要であるが、正確には不明である。筆者は『圜悟語録』巻一八の「女子出定の話」を獅子奮迅三昧の話と受け取ったのではないかと思うが、それが正しいとしても、道元の取り上げた意図を筆者は明確にできないでいる。

挙す。霊山会上に一女子有り。仏前に於て入定す。仏、文殊に勅して之れを出ださしむ。文殊、女子を遶ること三遭して、指を鳴すこと一下す。女子入定して儼然たり。文殊遂(かく)て神力を運らして托げて梵天に至りて撲下す。女子亦復たも儼然たり。仏云く、「但だ汝一人のみに非ず、此の女子の定より出だすこと得ず。設使(たと)い百千万億の文殊も亦た出だし得ず。下界に罔明菩薩有り。能く此の定より出だす」。仏の語未だ竟らざるに、罔明、地より涌出す。仏勅して定より出ださしむ。罔明、女子を遶ること三匝し、指を鳴らすこと一下す。女子遂て定より出づ。老宿徴して云く、「文殊は是れ七仏の師なり。什麼が為(ため)にか女子の定より出だし得ず。罔明は什麼が為にか却って出だし得る」。

大定は虚空に等し。廓然として誰か的を弁ぜん。女子と瞿曇と、令に拠りて何の條か直し。師子奮迅や乾を揺がし坤を蕩かす。象王回旋するや余力を資(たす)けず。孰か勝ち、孰か負けん、誰か出で、誰か入らん。雨散り雲収まり、青天白日なり。君見ずや、馬駒、

天下の人を踏殺す。臨済未だ是れ白拈の賊ならず。(大正巻四七―七九八c)

(58)烏亀倒上樹話=この話が『続燈録』巻七の「香山蘊良章」等に見られる次の公案であることは間違いない。

問う、「馬祖陞堂し、百丈捲席す、意旨如何」。師云く、「蚊子の鉄牛に上る」。僧曰く、「畢竟如何」。師云く、「烏亀倒さまに樹に上る」。僧曰く、「古之今之」。師云く、「你に放す、三十棒」(続蔵巻一三六―六〇左下)。

(59)黄蘗のいふ……=『正法眼蔵抄』に「喪我児孫と云へば、我弟子は皆ナうせむずると云フ様に聞コゆ。是は黄檗已下、我児孫等も皆ナ百丈に蔵身するなり。此ノ道理を喪せんとは云フなり。あしく成リて、うする様には心得ベカラズ、例ヲ外ニ求ムベカラズ。嗣法せざる咎に依リて、承古此ノ如ク僻見あるなり。此ノ理かくれず、あらはれて現成せりと云フナリ」(前掲書九六五頁)と釈す。

(60)仏国禅師惟白と……=雲門下七世、仏国惟白の編『建中靖国続燈録』。『景徳伝燈録』『天聖広燈録』の後を承ける禅宗燈史の一つ。建中靖国元年(一一〇一)に成り、上進して徽宗の序を賜わり、入蔵を許された。全体を、正宗、対機、拈古、頌古、偈頌の五門に分類編集している。編者の所属する雲門宗の資料に詳しい。惟白、賜号は仏国禅師。法雲法秀の法嗣。汴京法雲寺や天童山に住す。拙論「宋代禅宗史の特色―宋代の燈史の系譜を手がかりとして」(『東洋文化』八三号所収、二〇〇三年三月)参照。

(61)その後において杉尾氏……=杉尾玄有氏の主張は変化しており、「道元禅師の万象刻々一斉生滅の身心脱落と阿育王寺再訪」(『宗学研究』第三八号、一九九六年三月)によると、「道元禅の面目をいま「万象刻々一斉生滅」の身心脱落と把握し(脱落は叱咤時か面授時かの議論はもはや無用)、さらに「大透脱」と把握しなおそう」(一二頁)といい、道元禅の成立は、『仏性』の巻にある龍樹の円月相の画を「領覧」できた事実に注目し、阿育王寺の「六殊勝地」(=烏石奧)を特に問題とされている。その反論の一端は前註(52)の中世古説参照。

(62)薦福承古の批判=このことは、「道元の面授について―薦福承古の批判を中心にして―」(『竹貫元勝博士還暦記念論文集 禅とその周辺学の研究』所収、永田文昌堂、二〇〇五年三月)参照されたい。

(63)雲門文偃=雲門文偃は、「臨済」と一括して批判される語も無いわけではないが、称讃の一端は『光明』を見ればあきらかであろう。

雲門山大慈雲匡真大師は、如来世尊より三十九世の児孫なり。法を雪峰真覚大師に嗣す。仏衆の晩進なりといへども、祖席の英雄なり。たれか雲門山に光明仏の未曾出世と道取せん。(岩波文庫本一―二九一頁)

道元の祖師評価の問題では、伊藤秀憲「『正法眼蔵』に見られる祖師評価」(『道元禅研究』所収、大蔵出版、一九九八年一二月)が注目されるが、薦福承古については検討されてはいない。

(64)日本達磨宗日本達磨宗については、石井修道「日本達磨宗の性格」(『松ヶ岡文庫研究年報』第一六号、二〇〇二年三月)や『道元禅の成立史的研究』(前掲書)等に言及した。七月十八日〜二十一日に名古屋大学のグローバルCOEプログラム「テクスト布置の解釈学的研究と教育」の第四回国際研究集会が「日本における宗教テクストの諸位相と統辞法」の課題で行われ、十八日には「栄西と初期禅宗に関する新出聖教断簡の復原」のワークショップが末木文美士座長の下で行われた。そこで真福寺大須文庫の日本達磨宗の文献が紹介された。この面の研究の進展が期待される。

(65)嗣法の問題……=嗣法の喩えに「一器の水を一器に瀉(うつ)す」とよく言われ、道元も『行持』に

南嶽大慧禅師懐譲和尚、そのかみ曹渓に参じて、執侍すること十五秋なり。しかうして伝道授業すること、一器水瀉一器〈一器の水を一器に瀉す〉なることをえたり。古先の行履、もとも慕古すべし。十五秋の風霜、われをわづらはすおほかるべし。(以下省略)

と南嶽懐譲章に使用する。筆者は『道元禅師 正法眼蔵行持に学ぶ』(前掲書)に「南嶽懐譲の行状が、何に基づくかは明確ではない」(同二二二頁)としたが、その一端が次の『禅林宝訓』巻一であることは確実であるから、補正しておきたい。

夫観探詳聴之理、固非一朝一夕之所能。所以南岳譲見大鑑之後、猶執事十五秋。馬祖見譲之時、亦相従十余載。是知先聖授受之際、固非浅薄所敢伝持。如一器水伝於一器、始堪克紹洪規。如当家種草、此其観探詳聴之理明験也。豈容巧言令色。便僻諂媚而充選者

或(円悟書)(大正巻四八―一〇一八c〜一九a)

 

 

これは石井修道著「『仏祖』『嗣書』『面授』考」(『駒澤大学仏教学部論集』三九

Pdf資料をワード化し提供するものである。(タイ国にて・二谷)