正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『正法眼蔵抄』『授記』の巻について 石 島 尚 雄

正法眼蔵抄』 の考察

―特に『授記』の巻についてー

石 島 尚 雄

 

一、序

私は、拙稿『道元褝師と引用天台典籍の研究(1)』で、『正法眼蔵抄』の中には、『法華経』あるいは天台教学と関連性がある巻があることを摘指した。今回は、それを受けて『授記』の巻について述べてみたい。

 

二、『法華経』をめぐる解釈について

法華経』巻第四法師品第十に、

爾時世尊。因薬王菩薩。告八万大士。薬王。汝見是大衆中無量諸天竜王夜叉乾闥婆阿修羅迦楼羅緊那羅摩猴羅伽人与非人。及比丘比丘尼。優婆塞優婆夷。求声聞者。求辟支仏者。求仏道者。如是等類咸於仏前。聞妙法華経一偈一句。乃至一念随喜者。我皆与授記。当得阿耨多羅三藐三菩提。仏告薬王。又如来減度之後。若有人聞妙法華経乃至一偈一句一念随喜者。我亦与授阿耨多羅三藐三菩提記(2)。

というのがある。この部分は、道元褝師の『授記』の巻でも『正法眼蔵抄』授記でも、天台三大部の中の『法華文句』でも詳しく論じられている。まづは、年代の早い『法華文句』巻第八上釈法師品を見ると、

咸於仏前者明共時節。値仏在座也。一句一偈者。聞法極少也。乃至一念者。時節最促也。皆与記当得菩提者。明其聞極少時極促随喜之功遂得仏果。・・聞一句一偈者。聞少解浅之類今皆与記。少者尚記況復多深。以少況多普広若此。下周既爾中上亦然。可以意知不俟更説 (3)

と述べている。ここでは、仏前に於いて『一句一偈』という極めて聞法が少ないものでも、時が極めて促っていても、随喜した功徳によって仏果を得ると、説明している。また「聞一句一偈」という様な聞少なく解浅きの類にも授記するのであるから、中上も授記することは云うまでもないということになろう。

さて、道元禅師の方は、どうかというと、次の様に述べている。・・、たれか妙法にあらざらん一句一偈をきかしめむ。いかならんなんちが乃至一念も、他法を随喜せしめん。「如是等類」といふは、これ法華類なり。「咸於仏前」といふは、咸於仏中なり。・・。如是等類は、「我皆与授記」なり。我皆与授記の頭正尾正なる、すなはち「当得阿耨多羅三藐三菩提」なり(4)。

ここでは、「一句一偈」というのは、決して聞法が少ないという意味ではない。また、咸於仏中という「前」から「中」 への表現変化は、仏に値う座があるというような特定の場ではないことが知られる。また、

いふべし、「聞法華経」はたとい甚深無量なるいく諸仏智慧なりとも、きくにはかならず「一句」なり、きくにかならず「一偈」なり、きくにかならず「一念随喜」なり。このとき、「我亦与授阿耨多羅三藐三菩提記」なるべし。亦与授記あり、皆与授記あり(5)。

と述べている。 つまり、多少の問題ではなく、聞法の絶対的形式として「一句」「一偈」を捕えているのである。したがって、 機根の上中下の問題ではなく、「授阿耨多羅三藐三菩提記」つまり「授記」は、絶対的事実という意味合いが出て来ていると云えるのである。それでは、ここをもとにした『正法眼蔵抄』授記を、みてみよう。

まづ、   

但法華ノ心地ハ、能説ノ釈尊所説ノ法ヲ聴法ノ衆各別ニヲカルへシヤ、ユへニ・・、誰カ妙法ニアラサラムトハ云也、是皆法華同体ナルユへ也、一句一偈又多少ニカカハルへカラス、法華ノ全体ヲ以テ一偈一句トトルへシ(6)、

と云う文があるのであるが、『法華文句』の立場と違って、「聴法の衆生は皆法華と同体であるので皆妙法ならざることはない」という立場である。また、「多少の問題ではなく、法華の全体が一偈一句である」という立場であることが知られる。つまり、ここでは、明きらかに、『法華文句』の「聞少解浅之類」ということを暗に批判していることが知られる。また、

法華ノ上ノ一偈一句、総多少浅深アルへカラス、一微塵トトクモ、無量億劫ト云ハムモ、数量ニトトコホルへカラス、所詮今ノ法華ヲ若有人聞ト指也(7)、

と云い、「多少浅深」の問題ではないと強調している。また、『御聴書』を見ると、

法華経ノ説時ヲ聞ニ、只上中下根ノサトリヲ得ル差別許也、 愚蒙ノヤカラ、法華経読誦、 一句一偈ヲキキツレハ、コレコソ一念随喜ナレ、コレ授記也ト了見シ、無所聞ヲ為レ詮ナレハ、サラハキカテアリナムナムト云、浅猿事也(8)、

と述べている。ここでも、いはゆる『法華文句』の立場と見られることに対して、「浅猿(アサマジキ)事也」と批判していることが看取されるのである。

 

三、結論

「授記」については、一般的には、「仏が弟子に与える成仏に関しての記別」ということになるのであるが、『法華文句』や「正法眼蔵』『正法眼蔵抄』では、更に深い内容を見出すことができる。

そして、その特徴を見ると、『法華文句』は、相対的具体的に解釈しているけれども、道元褝師では、「一句一偈」は聞法ということの絶対的形式なのであり、多少という相対的見地を越えていることが知られる。そして、「授記」は、絶対的事実であるという見地であることが知られる。この意味で「授記」の伝統的解釈から抜出ていると云える。   

また、『正法眼蔵』の注釈である『御抄』『御聴書』を見ると、『法華文句』の「聞少解浅之類」を暗に批判している。従ってこの『授記』の巻では、同じ『法華経』の経文に、『法華文句』では、具体的、相対的解釈をなすことが知られ、他方『眼蔵』では全体的絶対的解釈がなされ、その注釈書を見ると、『法華文句』を批判している文面があることが知られる。以上のことから、『法華経』の解釈をめぐって、『正法眼蔵』及び『正法眼蔵抄』が『法華文句』を批判するというマイナスの関係が見出されると云える。

 

これは『印度學佛教學研究』/32 巻 (1983-1984) 1 号からのpdf論文を

ワード化したものであり、一部訂正を加えた。

(タイ国にて 二谷 記)