正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

『正法眼蔵有時』 考 鈴木 格禅

正法眼蔵有時』 考

鈴木 格禅

 

   一

正法眼蔵有時』は、古来より難解な巻として知られ、また、「存在と時間」に関する哲学的思惟の、一つの極限を示す眼蔵中の白眉として、珍重せられてきた。                

しかしそれが、単に「存在と時間」 の問題を解明する思弁の書でないということは、 心ある学者の指摘するとおりである。「有時」は、道元における只管の行証を契機とし、打坐において明確にせられた宗教世界の開陳である。

正法眼蔵有時』は、その劈頭に古仏の語として「有時高々峯頂立、有時深々海底行、有時三頭八臂、有時丈六八尺、有時控杖払子、有時露柱燈籠、有時張三李四、有時大地虚空」と八句を連ね、つづいて、「いはゆる有時は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり」と述べる。「時すでにこれ有なり、有はみな時なり」という表詮において、道元の目的は達せられている。当然のことながら、「有時」と題する 一巻の始終は、この語の内容に関する横説竪説である。

冒頭に掲げられた四連八句の語は、もとより八句に限定されるものではない。『御抄』が「是八尽十方界有時ナルへシ、有時外更不可有別法」(曹全・註解一)と註せるごとく、道元は、諸法の実相は「時」であり、そのほかにあまれる法はないというのである。「この尽界の頭々物々を、時なりと覲見すべし」(『有時』)といい、「有草有象ともに時なり、時々の時に尽有尽界あるなり、 しばらくいまの時にもれたる尽有尽界ありやなしやと観想すべし」(同上)といい、尽時を尽有と究尽 するのみ、さらに剰法なし」(同上)等というのは、いずれもこのことを示すものである。

ここでは「有」は、単なる「存在」という意味に限定せられてはいない。「有」は吾々が思惟し感覚し知覚し判断し記憶し認識しうるところの、あらゆる現象、すなわち、事象、事件、事柄、物柄、様相、様態、状況等はもとより、知覚や感覚ないし認識の埒の中に入り来らぬことがらの一切をも尽すものであり、尽地尽法尽時尽界をその量とするはたらきの現成した当体であるといってよいであろう。

しかしそれはなお、思弁に捉えられ、対象的に把握せられた「有」についての理解であるにすぎず、抽象化された観念的「有」であることを免れ得ない。

 

道元は『正法眼蔵有時』において、何よりもまず、歴史的現実に生きる具体的存在としての自己自身の根源的在処を問い、その生の実際について、徹底的な自覚的省察を試みている。而して、その透徹した省察の果てに、もはや対象化され尽している。このことは、吾々の自己およびその生が、当該個人の所有に属するものではないということの闡明である。吾々は生きているのではなく、生かされているのである。 

おほよそ、蘿籠とどまらず有時現成なり、いま右界に現成し、左方に現成する天王天衆、いまもわが尽力する有時なり。その余外にある水陸の衆有時、これわが尽力して現成するなり。冥陽に有時なる諸類諸頭、みなわが尽力現成なり、尽力経歴なり。わがいま尽力経歴にあらざれば、一法一物も現成することなし、経歴することなしと参学すべし (『有時』)

 

というのは、「時」において生かされている脱自的自己にしてのみ、はじめて道得しうる宗教的世界の消息であり景観である。

一般に、生きるという事実における「求め」は、常に外側に対して行われる。「求め」の方向は必ず外に面している。それは原本的に、対象的にものを捉えようとする生物的必然であるといってよいであろう。したがって、自己について、どれほど真剣に省察がなされたとしても、それが思惟によるかぎり、吾々の自己は真に具体的であるということはできない。

道元が究尽し超克したのは、かかる生物的必然としての、意識(もしくは心性の方向に関する問題をも含む) の堅牢な壁であった。道元は、自己の全体を、「時」に実践的にほどくことにおいて、真に具体的に生きるものとなった。それは、もはや対象化され得ない永遠なる自己の確立であるということができるであろう。道元においてその事実は、 如浄の膝下に身心脱落したとき、すでに成就せられている。只管打坐の法門はここに誕生する。

 

道元はさきに『正法眼蔵現成公案』において、非連続の連続として不可逆的にはたらく時の流れを、薪と灰のたとえを以って示し、これを不生不滅の理として教説した。道元にと

って不生不滅は、客観的に把握せられた世界の実相であるのではなく、自己自身の存在の根拠であり実相であった。自己は「時」の外にあって「時」を眺めるものではなく、「時」の現成における不生不減の存在として「時」の中にある。自己は不生不滅の「時」の事実としての存在である。

「時すでに有なり、有はみな時なり」と道得せられた世界の宗教的実践においては、得処が覚知にまじわるをもって証則であるということはできない。したしき会得は相対を絶し対待を超越したところに現成する。されば得処かならず自己の知見となって、慮知にしられんとならってはいけないのである。しかし、それにもかかわらず一塵をうごかさす一相をやぶらずして甚深微妙の仏化をなし、無尽法界のなかに、去来現に常恒の仏化道事を成満しているということになる。

道元は諸法の実在を「時」におき、その実相を「時」として説著した。諸法実相は有時であり、有時は諸法実相である。されば「時すでに有なり」というとき、「有」は時に成就されたるもの、時に総持せられたるものとしての「有」であり、「有はみな時なり」というとき、「時」は万有の実相であり、万有それ自身である。「時」は「有」においてのみ自己を現わし、「有」は「時」によってのみ自己を成ずる。ここにおいて「時」と「有」は、隔別することはできない。

「是ハ有モ尽十方界ヲ以テ有ト仕、時モ以尽十界時ト取也、故有与時非可各別、只同物ナリ」と『御抄』(同前掲書)はいう。「有時」は「有」と「時」ではない。「有」が「時」であり、「時」が「有」である。 このことは、「有」というときは「時」が「有」にかくれ、「時」という場合には「有」が「時」に尽くされるということである。したがって「有時」は、「有時」と一息に読まなければ意味をなさない。而して「有時」は、遂に自己自身の実相であり正体である。

然らば道元は、何故「時」をもって自己および尽有尽界を説かんとしたのか。次にそれをみてみたい。

 

 二

伝によれば道元は、八歳の冬慈母の死にあう。これについて『永平寺三祖行業記』は、「承元元丁卯冬、八歳而遇慈母之喪、観香火之煙、潜悟世間之無常、深立求法之大願」(曹全書・史伝・上)と記述している。香煙の縷々として上るをみ、そこに無常を観じたというのが伝記者の修飾であるとしても、幼少の道元がもったこの悲痛な体験は、きわめて重要である。生とは何か、死とはどういうことなのか、人間は何処からきて何処へゆくのか、人間とは畢竟いかなるものであるのか、たといそれがどれほど稚く不完全な型のものであったとしても、人間の生と死に直接する根本的な疑間が、強烈に少年道元の心魂に刻みこまれたであろうことは想像に難きない。

道元にとって慈母の死は、「はかなきもの」「うつろいゆくもの」として、対象的に捉えられた客観的世界の事件という理解のみには、到底とどまり得ぬ深刻な印象を与えたであろうことに疑を容れない。道元自身、「我初メテマサニ無常ニヨリテ聊カ道心ヲ発シ」(『随聞記』第五・岩波大系本)と述懐している。慈母の死は道元に、「はかなきもの」「うつろいゆくもの」への直参の道を開いたといえる。道元は人生の悲哀を、生きているかぎり避くることのできない精神の負の痕跡として、時の経過のなかに風化させることを強烈に拒んだ。無常(時)は道元の宗教的求めの根源的動機となり力となった。

 

かくて出家した道元は、叡山に顕密の教観を学ぶが、はしなくも本覚法門の根本問題に関わる一大疑団に逢着する。伝記者はこれについて、「宗家之大事、法門之大綱、本来本法性、天然自性身、顕密両宗、不出此理、大有疑滞、如本来本法性者、諸仏為甚麼、更発心修行」(同前掲書)と記述している。「この身が本来成仏しているというならば、 ことさらに発心修行する必要はないではないか」という疑問である。道元はこれを、顕密の明匠、法界の竜象と称揚せられた三井の公胤に質ねるが、なぜか公胤は「此問輙不可答、雖有家訓訣未尽美」(『行業記』前掲書)といって即答をさけ、「須参建仁寺栄西ト指揮」(訂補『建撕記』)する。当時における叡山の腐敗堕落の様相は、史家の指摘するごとき状況であったであろうけれども、一方にはこれらの他にあって研鑽修学に専念するゆゆしき学匠もおわした筈であり、当宗のよってたつ宗教的根本問題に答えられないほど教観が荒廃していたとは、とうてい考えられない。公胤が直答を回避し、新仏教としての禅流を指示斡旋したのは、道元の人物性向を見透した上での、適切な判断に基く措置であったと解すべきであろう。それは、法を重くし人を尊ぶ公胤の親切であったというべきではないか。かくて叡山を下り禅門に転じた道元は、やがて入宋し如浄のもとに「一生参学の大事」を了畢する。「一生参学の大事」ということについて、従来、それは道元が叡山修学中に抱いた一大疑団であるとのみ解され

てきた。もちろん、そのことにいささかの相違もないのであるが、わたくしは、 その疑団と共により深く、「無常(時)」についての疑間が、道元の内にあったのではないかと考える ことができるようにおもう。

道元が公胤に問うた疑問は、本覚法門に関わる教理上の問題である。それは、宗教的理想を実現し完成させるために不可欠な、実践の動機ないし契機に関する知的疑問であり、論理的当惑であるといってよいであろう。しかし道元は、それより以前に、きわめて深刻なかたちにおいて、人生経験としての無常に対する疑問を抱いている。この疑問は、人間存在の根本に直接する生命的な疑問であり、いのち自身のおのずからなる呼び声である。それは知的疑団に先行し、かつ優先するものであるということができるのではないか。かりに道元が、「本来本法性、天然自性身云云」という問題ではなしに、全く別個の内容をもった疑団に逢着したとしても、無常に関する疑問と関心は、いささかの変異をも示すことはなかったにちがいない。道元における「時」の問題は、慈母の死を契機としてその内面に、強く刻みこまれた宗教的インプリントであるということができるのではないか。

「もし本来本法性天然自性身ならば、諸仏はなんとしてか発心修行するや」という命題を、道元は「時」において究極的に解決した。道元は、発心修行を「時」において捉えた。菩提涅槃も「時」において掌握した。それは道元が、本質的にもとめた宗教的要求に対する根本的解答であった。「有時」は「契機となる時」「機縁となる時」を内包すると共に「相見の時」「出合いの時」「邂逅の時」であり、「成熟の時」「契合の時」「決定の時」であり、「証悟の時」である。宗教体験は「時」においてはじまり「時」において醇熟し、「時」において成就される。道元における知的求めと生命的求めは、ここに完全に一致する。

「本来本法性」は、「時」を与えられることによって、教学上の観念的世界から解放され、動的なものとして現実にいきいきとその姿をあらわし、「天然自性身」は枯渇し干涸びた理念の中に閉鎖されることをやめ、具体の場に如々としてはたらくものとなった。

「本来本法性、天然自性身」という観念的措定においては、具体的に求め得られなかった発心の機縁、修行の契機の問題は、「自己の時なる道理」(『有時』)によって、その解決をみた。『正法眼蔵有時』はこれについて

われを排列しおきて尽界とせり。この尽界の頭々物々を、時々なりと覰見すべし。物々の相礙せざるは、時々の相礙せざるがごとし。このゆへに同時発心あり、同心発時なり。および修行・成道もかくのごとし。恁麽の道理なるゆへに、尽地に万象百草あり、一草一象おのおの尽地にあることを参学すべし。かくのごとくの往来は、修行の発足なり。

 

といい、また

それ尽界をもて尽界を界尽するを、究尽するとはゆふなり。丈六金身をもて丈六金身するを、発心・修行・菩提・涅槃と現成する、すなはち有なり、時なり。(中略)凡夫の有時なるに一任すれば、菩提・涅槃もわづかに去来の相のみなる有時なり

 

と述べている。

正法眼蔵有時』の撰述は、仁治元年(一二四〇)十月である。はじめに引用した文中にある「われ」が、無常仏性として論述展開されるのには、翌仁治二年十月の『正法眼蔵仏性』の成立を俟たねばならぬ。

後に道元は、「発心」すなわち菩提心をおこすということについて

 この心、もとよりあるにあらず、いまあらたに歘起するにあらず。一にあらず、多にあらず。自然にあらず、凝然にあらず。わが身のなかにあるにあらず、わが身は心のなかにあるにあらず。この心は、法界に周遍せるにあらず。前にあらず、後にあらず。なきにあらず。自性にあらず、佗性にあらず。共性にあらず、無因性にあらず。しかあれども、感應道交するところに、發菩提心するなり。諸佛菩薩の所授にあらず、みづからが所能にあらず、感應道交するに發心するゆゑに、自然にあらず。(『正法眼蔵菩提心』)

 

とのべる。

 この文言の中に「時」という字は使用されていないが、その全体は「時」において語られ、「時」において表出せられている。「感応道交するところに発菩提心するなり」というとき、 その「ところ」は、発菩提心の場所であると同時に「時」 の意である。 また「感応道交するに、発心するゆゑに自然にあらず」という表現において、「感応道交するに」は「感応道交する(とき)」の意である。さらにいえば「感応道交」ということそれ自身もまた「時」の現成であり、「有時」である。而してその「時」は、個人に所有せらる意味での「時」でも、対象認識論的に吾みの意識によって理解され把握せらるるところの「時」でもない。それゆえ「直趣無上菩提、しばらくこれを恁麼といふ」(『正法眼蔵恁麼』)といったのである。この「恁麼」という語の内容的中核は「有時」であり、その実践的性格もまた「有時」である。

 

   三

 嘉禄三年(一一三七)宋より帰朝した道元は、『普勧坐禅儀』を撰する。その頭首の一段は、道元の宗教意識と問題の所在を示すものとして興味深い。それと共に、「無常」を強調した末尾の一段もまた、道元の宗教意識の所在を顕わすものとして重要である。天福元年浄書せられた真筆本『普勧坐禅儀』と流布本との間に、この箇所における文章の改修は無きに等しい。天福本は嘉禄本を修訂したものと推度されているが、おそらく嘉禄本にもこの部分だけは、一貫した表現をもってその首尾を荘厳していたに相違ない。道元が批判しながらも、その素材として依用した宗蹟の『坐禅儀』には、これに類する字句の使用は皆無である。

 『正法眼蔵随聞記』に、「無常」を語る箇所は三十余を数える。「無常」について語るとき、道元は熱心であり饒舌となる。「無常」についてのべる道元の文は美しい。道元は「無常」の中に絶対の世界を開展した。

 『正法眼蔵有時』の根底にあるのは、生きた人間道元が、必死で求めた実存的苦悩であるということができる。

 

これは『印度學佛教學研究』30 巻 (1981-1982) 2 号からの

Pdf資料をワード化したものであり、一部修訂を加えた。

 

2022年10月6日(タイ国にて記 二谷)