正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

現成公案の意義 古 田 紹 欽

現成公案の意義

古 田 紹 欽

 

一  

道元は正法眼藏の隨處に現(見)成の語を用ひたが、公案との關係に於て 「見成の公案」 (正法眼蔵、坐禪箴・諸惡莫作) とか、「見成する公案」(同、空華・授記)とか、「見成せる公案」(同、諸悪莫作)とか、「公案の見成」(同)とか、「現成公案す」「見成公案する」(同、現成公案・密語)とか、或は「公案現成する」(同、大修行・安居)とかとも屡々述べてゐる。それに正法眼藏には現成公案の一卷さへも存して、この現成なり公案なりは、道元の思想の極めて重要な一面をなしてゐるのである。

一體このやうに道元が述べてゐる見成と公案との連關思想は果して道元の創めて唱へた所であらうか。

現成公案の語が初めて用ひられたのは黄檗希運の法嗣である睦州蹤によってであると云はれるやうに、少くとも現成公案の思想は唐代に存したし、「公案現成」と呼ぶことも宋代に存したし、それに現成公案の思想が宋代の禪者間に於て多く唱へられたことを思ふと、この思想は道元の重要な一思想であり、且っ特色ある思想を帶びたとしても、このことを考へる已前、その淵源する所を深く究めるべきではなからうか。

 

  二

睦州はその語録(古尊宿語録卷六「続蔵」六八・三九a19)の傳へる所や、睦州の傳(景德傳燈録 十二「大正蔵」五一・二九一b一七) に見えるゆ所るによると、一僧の來るのを見て「見成公案、汝に三十棒を放す」と云ったと云はれる。睦の云った現成公案の思想がどのやうな意味を含むものであるかは、この一語以外に何事も述べてゐない所から、意味内容が必ずしも明確ではないが、雲門がこの語を引いてゐる(雲門廣録卷上「続蔵」六八・九三b八)趣意や、碧岩録の評唱(第十則「大正蔵」四八・一五〇b四)に圜悟が述べてゐる趣意によると無媒介にただちに悟入しなければならない端的のところを指示してゐるものと解されよう。公案と云ふ禪の術語が何時成立したかは判然とせず、大よそ睦州の頃成立したであらうと推測されるが、公案はもともと現成公案として成立したのではなからうか。

 

所で唐末五代を經て宋代に至ると公案を思量ト度の對象とする所謂公案禪が次第に形成されて來て、公案は払ずしも現成公案とはならなかったのである。公案禪は公案の本來的意味を歪曲する方向をともすれば辿って行ったのである。宋代に於ける進歩的禪者達は公案禪の眞實の有り方として、公案は現成公案であり、又は公案現成でなければならないと主張

したのであるが、このことは睦州が初めて現成公案を唱へたであらうその思想に連なるものであり、且つ公案禪の革新論でもあったのである。慈明楚圓はその語録(古奪宿語録卷十一「続蔵」六八・六八a四) のうちに「公案現成誰恢懼」と云ってゐるが、慈明の師である汾陽善昭あたりから公案禪が思量ト度の對象となりつつあったことを思ふと、慈明は公案現成を唱へてこの傾向に抗した如くであり、慈明とほば同時代の人で古則としての公案

集成に大きな役割を果した雪竇重顯もまた見成公案を云って「未だ母胎に出でず見成公案」(雪竇語録卷二)と述べてゐることからすると、この傾向に抗した如くであらう。公案が古則として固定化の様相を呈したのは恐らく十世紀の頃からであり、公案の性格は古則的なものを持つものに漸ゝに變って行き、所詮古則を思量ト度する傾向を生ずることにならざるを得なかったのであるが、慈明や雪竇は公案の古則化のうちにも古則を飽くまで現成公案として捉へようとしたのではなからうか。

 

このことは五祖法演を經て、圜悟克勤になると明白に云ふことが出來るのであり、五祖法演に舒州白雲山にあって受帖した時、拈起示衆して「大衆、只恁麼に會し得るや、宗風を埋沒し、過犯小からず、幸に見成公案有り、請ふ維那、衆に對して宣讀せよ」(五祖法演禪師語録卷上)と云ひ、又上堂の語 (同、中)にも、自贊の語(同、 下)にも見成公案を云ひ、公案は「擧則公案、事事辨を成す、外に向って馳求するは、癡漢癡漢」(同、卷下)と云ってゐるやうに事事辧めて外に向って馳求してはならないとしてゐるのである。公案は「見成公案無事不辧」と自贊の語にあるやうに辧めるべきものではなくて辧めてはならないものとしてゐるのである。

この點、圜悟は一脣明確に云ってゐるのであり、「當陽顯示直截現成」(圜悟語録、卷七「大正蔵」四七・七四二b一)と云って直截現成を云ひ、現成公案を唱へて( 巻一、巻二、卷四、卷五、卷六)、「現成公案、觸處圓成」(同、卷九「大正蔵」四七・七五一c二四) であるとしてゐるのである。圜悟は睦州の見成公案の語を語録のうちに引くこと一再ではないが、要は公案は觸處圓成でならなければならないと云ふ趣意を説いてゐるに外ならないのであり、又「現成公案、一絲毫を隔てず、普天匝地、是れ一箇の大解脱門」(同、十二「大正蔵」四七・七六九a二八)とも云ってゐるが、觸處圓成と同じ趣意をこれまた説いてゐるに外ならないであらう。

 

更にこの現成公案を詳述して、

「・・・更に一絲毫をも剩さず、 亦一絲毫も缺かさず。淨裸裸赤灑灑、見成公案、若し更に躊婀四顧し、有と説き無と證き、得を論じ失を論じ、會有り不會有り、得有り不得有らば二に落ち三に落ち去る也」(同、卷九「大正蔵」四七・七五四a五)

 

と説き、現成公案は思量ト度に亘るべきではないとし、究極に於ては見成公案そのことも否定し、ただ觸處圓成し、淨裸裸赤灑灑であるものを云はうとさへしてゐるのである。例へば「現成公案を斷盡する」(同、卷六「大正蔵」四七・七三九b二六)と云ひ、「見成公案を道ふを用ひず」(同、卷十一「大正蔵」四七・七六四a一六)と云ったりしてゐるのである。圜悟は古則としての公案が思量ト度の對象となることを瞿れたばかりでなく、見成公案そのことがそのやうな對象になることも懼れたのである。

圜悟は公案禪の形成に重大な位置を占めはしたが、しかし古則としての公案に對しての見解は「・・・更に佛法の商量す可き無し。既に佛法無し、却って箇の古人の公案を擧せんや」(同、卷七「大正蔵」四七・七四二c二八)と云ふ一語に盡きるのであり、見成公案さへ も斷盡すると云ふのに古人の公案を思量ト度の對象として是認しよう筈はないのである。「爾若し只言を覓め、句を覓め、玄を覓め、妙を覓む、何の時が得了せん」(同、 十三「大正蔵」四七・七七二b六)で、公案の言句を持釋し、情識をもって玄旨をもとめてはならないとするのである。

圜悟の云ふ公案は「則ち古入の一言牛句、其の意は唯人の直下に本來の大事因縁を契證せんを要するのみ。所以に修多羅敎は月を標す指の如し」(同、卷十五、示樞禪人「大正蔵」四七・七八一c二一)とあるやうに月を標す指としてのみ意義を持つものであり、又「此れ箇の公案は乃ち是れ心地を開き、匙子を鑰する」(同、示張國大「大正蔵」四七・七八五a二三) と云はれるやうに鎗匙子としてのみ意義をもつものに過ぎないのである。云はば方便として古則としての公案を認めたにとどまったのであり、公案は「只言外の領旨を明了にするを要するのみ」(同) のものであったのではある。「金剛の正體獨露、一得永得間斷有る無し。古今の言敎機縁公案間答作用並びに全て此れを明かす」(同、卷十四、示世祚禪人「大正蔵」四七・七七八c二二)とあるやうに、「公案は此れを明かす」手段的なものであったのである。

 

勿論、圜悟が公案を月を標す指、或は鍮匙子として認めたと云っても、このやうな公案が払要とせられたことが公案禪の成立を促したことを思ふと、圜悟のこのやうな考へこそ重視すべきであるが、圜悟のこのやうな考への根底には現成公案の思想の存したことを決して見逃してはならないのである。圜悟は思量ト度に亘らない現成公案の意味を古則として公案を通路として理解の便を計らうとしたのではなからうか。圜悟の公案禪は確かに古則としての公案の必要性を認めたが、その公案は飽くまで現成公案であり、その現成公案さへも超える直截現成の公案であったのである。

 

圜悟の思想を繼承し、公案禪を大成したのは大慧宗杲であるが、大慧は圜悟のやうに屡臺現成公案を唱へず、睦州の云った現成公案の語を引いて僅かにこれを云ふにとどまったけれども、大慧の主張した所は同じく現成公案の趣旨をまた出でなかったのである。例へば趙州無字の公案を擧示すること一再ではなかったが、「但だ只だ箇の無字を看よ、但だ只だ看よ」(大慧語録卷二十七、答宗直閣「大正蔵」四七・九二九a一九)と云ってゐることは無字の直截現成を看よと云ふことと全く變りないことであったのである。

「・・・近年已來、此の道衰微し、高座に據って人師と爲る者、只だた人の公案を以って、或は褒し或は貶し、或は密室傳授して禪道と爲す者、或は默然無言を以って、威音那畔空劫已前の事と爲し、禪道と爲す者、或は眼見、耳聞擧覺提撕を以って禪道と爲す者、或は猖狂妄行、撃石火閃電光を以って、擧了便ち會了、一切揆無し、禪道と爲す者、此の如き等既に非なり。却って那箇か是れ著實の處、若し著實の處有れば則ち此等と何そ異ならん。具眼の者、擧起して便ち知れ」(同、 十九、示智通居士「大正蔵」四七・八九三b八)

 

とも云って、この著實の處をも認めようとしなかったことは、恰かも圜悟が「見成公案を道ふを用ひざれ」 (圜悟語録卷十一「大正蔵」四七・七六四a一六)と云ひ、「現成公案を斷盡す」(同、六「大正蔵」四七・七三九b二六)と云って現成公案をも越えた直截現成を唱へたやうに、大慧の云ふ所もまた同じ意味のことを云はうとしたのに外ならなからう。大慧が古則としての公案の必要性を強調したことは圜悟以上であったことはその禪が看話禪と呼ばれたことからも明かであるが、大慧はたた公案を「看來り看去る」(大慧語碌卷二十九、答曹宗丞「大正蔵」四七・九三五c一五)ことを説き、公案を搏量ト度することを排したことも亦、從って圜悟以上ではなかったであらうか。

大慧に双んで世に現れ、互に交渉があった人に宏智正覺があるが、宏智も亦現成公案を主張したのである。一般に大慧の禪を看話禪と呼び、宏智の禪を默照禪と呼び、この二つの禪が相容れないもののやうに考へるのは誤りであり、同じ趣意のことを異なった立場から唱えたと見るべき面が極めて多いが、その一つの現れが宏智の現成公案の主張でもあらう。 

宏智は「・・・根根塵塵、佛事に非ざる無く、行行歩歩、皆是道場、恰恰現成、一絲毫も移易する處無し」(宏智禪師廣録卷一「大正蔵」四八・一五a七)と云ってゐ るが、この恰恰現成は「頭頭和合因縁、恰恰現成公案」(同「大正蔵」四八・九b二一)と云ってゐることと變りはなからう。宏智の現成公案の思想は「若し些子の佛法の道理有らば、又却って一切の心縁妄識の交識を成す、見成公案子、是れ須らく徹根微源し去るべし。若し如許多の心縁妄想無くんば、自然に一頭地を出づ」(同、卷五「大正蔵」四八・六七a一六)と云ってゐるやうに、一切の心縁妄識の働かない徹根徹源し去ったそのままの當體を指すものの如くであり、思量ト度に亘らなかったら、「・・・根根塵塵、佛事に非ずを無く、行行歩歩、皆是れ道場」となり、思量ト度に亘れば些子の佛法が有ると云っても心縁妄識の働く所となるやうなものであらう。「現成家法」(同、巻二「大正蔵」四八・二四b一二)と云ひ、「只箇の家風、處處現成」(同、巻七「大正蔵」四八・八〇a一九)と云ってゐるのも思量ト度から離れた所を説かうとしてゐるのであり、この外に現成公案と云ってゐる場合も同じことであらう。 

宏智は靜坐默究を説いたが決して古則としての公案を用ひなかったわけではなく、「記得す古人一則の公按、諸入に擧似す、試みに商量して看よ」(同、卷五「大正蔵」四八・七二b二八)とか、「且らく擧す、一則の公案、大家商量して看よ」(同「大正蔵」四八・七三b二)とかと見えてゐるやうに公案の商量をすすめてもゐるのであり、その公案を大慧のやうに看來り看去るとは説かなかったにしてもとにかく現成公案として詭いたことは疑ふ餘地のないことであらう。「送慧禪入往上江糴麻米」と題する偈頌に「雲門糊餅趙州茶、裏許明明に些を著得す、公案見成知味の底、 一千二百の衲僧家」 (同、卷八「大正蔵」四八・九三a七)とよんでゐるが、雲門糊餅、趙州喫茶去の公案を事實、見成公案として見てゐるのである。

現成公案の思想は圜悟によって殊に力説され、大慧、宏智の禪、即ち看話、默照の兩禪のその何れに於ても又説かれたことを思ふと、この思想は宋代に於ける公案禪の重大な問題であったに相違ないのである。

ただ不思議と云へば不思議な點は道元の師、天童如淨にこの現成公案の語が現存の上下二卷の語録による限り見られないと云ふことである。如淨は屡ゞ古則としての公案を用ふる所があったことを思ふと、現成公案の思想は當然この語録中に存して然るべきではなかったであらうか。僅かに江戸時代になって卍山道白が見たといふ丹州德雲室中所祕の梵淸自筆瑞岩義遠編、天童如淨禪師語録に唯一箇處この語が見られるだけに過ぎないのである。

 

 

それでは一體、道元の現成公案、 又は公案現成、或は「現成の公案」、「現成する公案」、「現成せる公案」、「公案の見成」、「見成公案する」、「公案現成する」等と云はれる思想はどのやうな思想背景からして唱へられるやうになったのであらうか。

道元が大慧宗杲に對して屡ゞ批難を加へてゐることは多分に看話、默照の二禪の對立的意識からであらうが、圜悟克勤に對しては圜悟が公案禪を唱へた有力者であったにも拘らず全く批難を加へず、それどころか賞揚の辭を以ってし、圜悟の思想の影響すら受けたかに窺はれるのである。

 

「圜悟禪師は古佛なり、十方中の至尊なり。黄檗よりのちは、圜悟のごとくなる尊宿いまだあらざるなり、他界にもまれなるべき古佛なり。しかあれども、これをしれる人天まれなり、あはれむべき娑婆国土なり。いま圜悟古佛の證法を擧して、宗杲上座を檢點するに、師におよべる智いまだあらず、師にひとしき智いまだあらず、いかにいはんや師よりもすぐれたる智、ゆめにもいまだみざるがごとし。しかあればしるべし、宗呆禪師は減師半德の才におよばざるなり、ただわづかに華嚴、楞厳等の文句を暗誦して傳説するのみなり。」(正法眠蔵、自證三昧「大正蔵」八二・二五四c一四)

 

と云って大慧は師の圜悟に及ばざること 「減師半德の才におよばざる」ものであるとし、圜悟こそ古佛であり、黄檗以來の不出世の尊宿であるとしてゐるのである。道元黄檗の法嗣臨濟義玄に對しても屡ゞ言及してゐるが、臨濟よりもこの圜悟を文字通り「黄檗よりのちは、圜悟のごとくなる尊宿いまだあらざるなり」として高く尊崇したのである。又 「東地の圜悟禪師は正傳の嫡嗣ある佛祖なり」(同、阿羅漢「大正蔵」八二・一五四a三) とも云ってゐるのである。從ってこのやうに圜悟を見た道元が圜悟の思想を究めなかった筈はなく、圜悟の語録はよく讀まれたものの一書ではなかったであらうか。且つその思想的影響を受けた一書ではなかったであらうか。正法眼藏には度ゞ圜悟に言及してをり、「全機」の一卷のごときは圜悟の「生也全機現、死也全機現.(圜悟語録 十七「大正蔵」四七・七九三c六)といふ語に由來して成立したものに違ひなからう。

其處で若し道元の現成と公案との様々の表現を以って稱するその思想が、朔って誰に最も多く求められる所があるかと云へば圜悟ではなからうか。上述したやうに圜悟は最も多く現成公案を唱へた入であり、道元との思想的交渉が確かに痕づけられる人でもあるのである。

ただしかし道元のやうに現成と公案との様々の表現を以ってしたのは恐らく道元以前になかったことであり、道元が現成公案の思想に獨創性を加へたことは爭へないことであらう。現成公案公案見成と呼んたことは宏智(宏智廣録 八「大正蔵」四八・九三a七) に見られる所であるが道元のやうに「現成の公案」、「現成する公案」、「現成せる公案」、「公案の見成」とか、又「見成公案する」、「公案現成する」とかと呼んだ入はなかったのである。大體、名詞を動詞化して用ふることはー例へば發菩提心するとか、全機するとかー道元の度ゞ することであり、現成なり、見成公案なり、公案現成なりを動詞として用ひたことは特例ではないが、この場合このやうな用語法は確かにこれ等の語が從來云はれて來た意味以上に一層その意味を深く、且つ明かにしたものと云へよう。

なを道元の現成公案のまとまった思想としては正法眼藏「現成公案」の一卷の存することに殊に注意しなければならないが、道元のこの思想は正法眼藏の各処に見られる如上のやうな用語例から窺って更に特色ある思想として發展したことを見逃すべきではなからう。

要するに現成公案の思想は道元の獨創ではないが、道元が獨創性を加へたことは否定出來ないであらう。

 

 

これは印度學佛教學研究第5巻第1号のpdf論文を

ワード化したものであり、一部修訂を加えた。  (タイ国にて 二谷)