正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

黙 照 禅 の 本 質    酒 井 得元

黙 照 禅 の 本 質

酒 井 得元

    一

  褝堂と僧堂とは同一視されている現在、これは異を唱えるのはいささか、時代錯誤の感がないわけではない。しかしこの相違いが修道の相違でもあるとあっては、簡単に見逃すわけには行かない。しかし今更に何故にそんなことに開き直らなけれはならないかと思われることでもあろう。

 

面山和尚によれば「僧堂は聖僧を安ずる号にて、聖僧堂の上略」、(曹洞宗全書清規一四頁) とあって、僧堂は聖僧を中心にして、衆僧が起居を共にして修行する道場である。必ずしも坐褝のみの道場ではない。したがって僧堂での禅僧の修道は、坐禅を中心とした生活全般が修道であったのである。修道が生活全般であって見れは、その中心道場も、そのような性格にそったものでなけれはならないのは当然である。そこに生れたものが僧堂である。

当山始めて僧堂あり。是れ日本国始めてこれを聞き、始めてこれを見、始めてこれに入り、始めてこれに坐す、学仏道の人の幸運なり(永平広録四巻ー十九巻原漢文)

 

したがって僧堂の存在と、その活動は禅門の命脈であったのである。即ち僧堂によって、禅門の宗旨は実践されたのである。したがって道元神師が我国で始めて僧堂が建立された喜びは、想像に余りあるものがある。これが僧堂の性格である。

 

これに対して禅堂は、己事を究明するところに生れたものであって、全生活の道場とは言われない。即ち己事究明のためには、すべてを犠牲にした、手段を選ばぬ猛進の宗旨が生んだものが禅堂であったとも言えることであろう。これはまことに大雑把な言い方ではあるが、 この僧堂と禅堂によって表現されるこの異なったニュアンスに、所謂る禅二派と称する、看話褝、即ち臨済褝と、黙照褝、即ち曹洞褝なるものの性格の相違をうかがうことが出来るようである。ここでその修道の根本的性格の相違を明確にすることは、同時にこの二派の相違を判りとさせるものであって、この両者の混雑混行は、却って仏道を誤るものであるので、この点を追求してみようと思う。

 

この二派の潮流はただ同じ褝の異なった方向に向ったものであって、帰するところは同一であると一般に安易に見られている。また両派の人達の殆んどが、斯様な安易な考え方をしているから、互に批評し合っている。即ち一方は片方を不徹底といい、他方は悟り病患者という、これらはいずれも、両者の本質的な相違を知らないことから起っているものであると言わなければならないのである。

 

看話褝は一つに己事究明にすべてをかけている、そのために生活全般のことも、大して顧みられていないために、黙照側からは面密でないと批判される。黙照禅は全生活そのものが、真実実践の場であってみれば、「日々の行持が諸仏の行持」でなけれはならないというのであるから、看話側からそんなことでどうして褝機が開発されるであろうかと、物言ひがつくのは当然である。したがって、この両者の調和合一は全くあり得ることではないと言える。

 いずれも「さとり」を問題にして修行する仏教であることには相違はないが、実はその「さとり」なるものが本質的に相違していることを明確しなけれはならない。門題の葛藤は、異なるものを同なるものとして見るところにあるのであって、それを互に他を激しく誹謗し合い、憎しみ合って、それで解決されることではなかったのである。

 

故に「さとり」の本質的相違、即ち宗旨の相違が明確にされなけれはならない。この相違は同一水平上線のことではなく、全く次元を異にしているということである。したがって、 この両禅門は、禅門ということで安易に比較すべきことではなかったのである。同じく達磨を初祖と仰き、慧能を六祖と頂いてはいるが、その宗旨を全く異にしているのである。したがって、その修道生活の形態は、確かに他門より非常に共通点は多い。しかし、その宗旨を異にしているのであるからその修道の内容も、その形態も全く対照的であるのは、当然なことと言わなけれはならないのである。

 

   二

  宗旨があって、そこに自らその修道の性格が決定づけられるものであるから、ここで一応の宗旨の相違を述べておかなけれはならない。一般的には、褝宗史家もそうであるが、一つのものの、二つの性格の異った潮流であると簡単に片付けられている。それは初期にあっては全く同一であったからしてこの見方も無理からぬことであったが、趙宋以後になって、二つの潮流というのには余りも相違して来たのである。そして全く別の宗旨のものとして発展したといってよい。つまりそれはいすれかが偏向していったからである。或は両者共に偏向したのかも知れない、そして結局は帰結を異にするものとなったのである。

 

黙照禅も看話禅も、いずれも正当な名称とは言えないだろう。例えは黙照禅は、看話褝の大成者と目されている大慧褝師宗杲(一〇三九ー一一六三)が、黙照邪褝と激しく罵ったところから、この呼称が始まったと言われている。大慧褝師のこの誹謗に応じた宏智禅師正覚は、却って黙照銘を作って自己の褝の実態が黙照であることこそ正法である所以を明確にしようとした。これは反論したのではなく、全面的にその誹謗を受入れたものであった、即ちその誹謗が却って正法の関棙子であったというのである。黙照褝は看話の側からの、黙照の外に、枯木の徒、死灰の徒というような誹謗を受けている、 しかしこれをいずれも返上するのではなく、却ってそれを肯定している。したがって、誹謗に対して受けて立ち法論をいどむということはなかった。もっともこれは法によって黒白のつけられるものではなかったからである。然し、誹謗されるということが、つまり誹謗者の敵意ある意地悪い、指弾が、却って宗旨の本質的なものであったので、かくてそれが宗旨を挙揚することとなっていたのである。

 

   三

  大慧書は看話禅の性格を最もよく表明しているので、この書を取上げてみる。この書を見る我々はそれのあまりの人間臭さに圧倒されるのである。つまりそこには貪慾飽くことを知らない貪婪そのままの灰汁の強さが漲っている。即ち大慧が如何に個性の強い人間であったかが、全面に横溢している。その禅はこの個性から誕生したとも言えるであろう、つまりその修道は効果的反応を極度に追求するものである。ここで考えて見なけれはならないことは、人間というものは常に効果的反応を追求しているものである。そして彼は、それが得られるということには無条件に納得するということである。これが人間性というものである、即ちこの人間性の灰汁は人によってその強さには程度の差はあるとしても、これは万人の共通性である。私は特にこれを人間性と呼びたい、つまり人間の行動はいつ如何なる場合にあってもこの人間性に動かされているので、その行動はいつも効果的反応をねらい、それを満足させることによって充足感を感じ、果ては生き甲斐を得るものである。斯様な人間性を生のまのままに、むき出しに罷り通したものが、大慧書の雰囲気であり、看話禅の性格であったのである。

 

効果的反応をねらうものには、その結果はいつも経験的でなければならない。経験的であるということは、そこにはっきりした変化が表われなけれはならないということである。変化が表われるには、それに至る経過がある、即ちその経過にしたがって色々と変化が表われるのである。したがってその修行は、つまり変化をその都度表わしては、進んでいくものである。故にその修行には目安や標準、即ち機関といったものが、当然生じなけれはならないのである。逆に標準や機関を設けて修行を進ませるといった技術も生れて来るのである。故にその修道も技術的である。このような効果的反応をねらう修行は、初めて大慧褝師から発したとは言い切ることは出来ない。寧ろこの傾向は大慧禅師に限らず、人間性そのものの中に、本来あるものである。したがって普通の人間は自然の要求に従って行動している時、この傾向のみで終始しているのである。私はこれを称して人間性と言うのである。仏法はこの人間性を否定し、これを超えたものであるのである。したがって仏法は常にこの本能的傾向による危機の中にあるわけである。仏道修行において最も誡めなけれはならなかったものは放逸であったのは、人間性の危機が一つに放逸によって惹起されるからであった。したがって厳密な修行と、厳格なる指導者によってのみ、これへの偏向が防がれて仏法の伝灯は伝えられて来たのである。人間的個性の強い人は特にこの偏向への危機の契機を、特にに自己の中に蔵している。その最もよい好適例として大慧禅師が挙げられるであろう。

 

古人の話題が禅者の間で学はれて、その修道生活の指針とされたことは、既に大慧禅師以前からあったことである。即ち雪竇頌古などはその例である。つまりこれに褝の修道者の日常の生活の姿勢を学ぶものであって、坐禅を表業とするならば、古則の拈提はどこまでも裏業であったのである。もっとも褝の修道が、単なる心理的なものではなく、全人格的なものであるから、この全人格的な立場からは古則はまことによい公案であったわけである。公案とは、後世では坐中にエ夫する問題となったが、私がここで言っている公案はそういう意味ではなく、正法眼蔵『現成公案』の抄による意味である。

 

ここでいささか論旨から脱線しているようであるが、一応この公案の原始的意味を知っておくのも便宜であると思う。普通、公案の意味は中峰明本の『山房夜話』の公府案牘の意に解することになっている。然し中峰明本(一二六三ー一三二三)のこの解釈より、私は経豪の正法眼蔵『抄』(一三〇八)の方が古意を伝えていると思うので、敢えて正法眼蔵『抄』の解釈を採用することにしている。

「公按とは、今の正法眼蔵を云なり」とあり、「平不平名日公」がその公の意であり、「守分名日按」かその按、即ち案の意である。(曹洞宗全書注解一ー一)かくてその公按を「平不平一と心得ぬる上は、不平をなおして平するは難云。守分も分際あるべくは、こなたの仏とは、不可取者也、全機の不平守分なるべし」(全書注解一ー二下)と、かく解するのである。 つまり、如何なる時であっても、それが全機であることに変りはなく、即ちその時の状態の如何に拘らないというのである。即ち全機であるから、絶対の事実であるという意味において、真実であるというのである。したがって公案は真実の意味である。

 

古則はあらゆる場合の、その時その時のあり方を、即ち真実の相をいうのである。故にその意味で古則が公案であったのである。したがって古則としての公案は、修道者の全人格的行にとってはよき手本であり亀鑑であったのである。故に後世の褝者達がこれを拈提して、学道の資糧とするのは当然のことである。

 

    四

本来、学道の資糧であった公案は、いつのまにか、「さとり」を経験的に求めて、技術的になった人達によって、それは 「さとり」の規準となり、そして「さとり」経験への通路となったのである。そしてそれは「さとり」 の機関となったのである。したがってこの人達の修行は、遂には坐禅もさることながら、公案の透過が目的となってしまうのである。かくて古来いつも現実的であり具体的であった漢民族によって、仏道の「さとり」は、具体的なものとして印度仏教が作り替えられて、原始禅宗となったのであるが、更にそれをより現実的にしたのがこの公案である。それが余りにも現実的具体的であるということは、人間性を超えていなけれはならぬ仏法を、却って人間性に引き戻す結果となり、遂に「さとり」を経験的なものにしてしまったのである。そうして、それは古則公案の透過をのみを、修道の本道としてしまったのである。かくて修行者はこれによって「さとり」の目安が得られたことになったので、非常に「さとり」 の追求を容易にしたのである。かくて人間性は露骨に跳梁することと相成って、手段を選はず、これを追求して、「さとり」を意識するようになったのである。私達は看話禅を見る時に、先ず第一に気がつく特長は、余りにもこの褝が「さとり」を意識し過きていることである。この 「さとり」を意識し過きていることを、私は人間性の露骨な跳梁というのである。

 

「さとり」 の目安がさだまった修行者は、それからそのエネルギーを専注する対象を持っことが出来るようになった。この自己の全エネルギーを専注することが出来るということは、本人に充足感を感ぜしめ、更に生きる喜びをもたらすものである。彼等にとっては「さとり」は恰も賭けのようなものでもあったのである。この人間性の露骨な跳梁は、他の人間性の共感を呼ぶものである。したがってこの間の褝は、隆盛の一路を辿ることになるのである。どんなに他から誹謗されようとも、その根柢をなしている人間性の変らない限りは、

この宗旨は減亡することはあり得ないであろう。人間はある事に専注することが出来る時、その専注の度合に比例して満足感に浸ることが出来る。即ちそれの実は陶酔し得ての効果である。陶酔によるものは麻痺である、この麻痺の魅惑には、人間は弱い、 これがこの宗旨の魅力でもあり、同時にこれが魔性であるとも言うことが出来る。

 

これは経験的なものであるから修練を重ねることによって容易にこの心境に到達することになるのである。故にその人は自ら修練に身が入れは入るに従って、熱気をおびるようになるのである。修練のあるところ必ず上達がある、上達のあるところには究極地が存在する。かくて修練は一歩一歩向上を重ねて、やがて最後的なものに到着するのである。即ちかくては修練には到達すべき究極地がなければならないのである。したがって究極地のある修練は、その究極を極めつくすことが出来なけれは、それは修練とはならなかったのである。

故にどうしても彼等は悟らなけれはならないのである。

 

ここで問題としなければならないのは究極地ということである。これが単なる陶酔境による満足感たけであってはならない、なぜならはそれだけであるならは精神的麻痺であり独善に過きない、それが宗教であるためには、そこで宗匠印可が必要である。即ちそれが単なる陶酔による独善でないためには、明眼の宗匠の洞察力を煩わさなけれはならない。そこで弟子は師僧に就いて、自分の悟りが許されるまで、苦修練行をしなけれはならない。したがって、この師僧と弟子との間には、いつでも「さとり」という究極地が問題となっているのである。

 

宗匠は弟子を自分の境地に引上けるように手段を弄することになるし、弟子は宗匠の境地になり、或はそれを超えて宗匠の認許を取付けようとする。かくてそこに自然にこの人間関係は白熱化して来るのである。そしてその修行も猛烈になつて来る、人間というものは必ずある目的を持ち、それに対して意欲を燃せば燃す程に、その行動には猛烈さが加速度的に激しくなって行くのである。それは衝動的意欲的人間の生のままの姿であったのである。即ちそれは人間的要求のプレーキ無しのままであったのである。

 

一意専心に「さとり」の追求に集中する意欲的人間の行動は、如何なる形であれ、常に自己の満足を求めている、つまりその行動では自我が主体である。この自我を主体とするこの行動は、本能的で、即ち衝動的であって、そのための特別の媒介を要しないので、これは誰れにでも共感を起させることが出来る。しかもそれが強烈であれはある程、魅力的である。

 

大慧書にはこのような人間的魅力的な、麻痺させるような雰囲気が横溢している。 つまり人間臭が強烈に感ぜられるのである。ここで言えることは、大慧褝師の 「さとり」は人間の「さとり」ではあっても、仏の 「さとり」ではなかったということである。即ち、それはそれで人間が満足して安心立命するものであるから、立派な人間の宗教の一形態として成立っている。この点に関しては、とやかく批評すべきことではあるまい。

 

しかしこの「さとり」に対して積極的に、極めて意欲的追求をなすことは、それは余りにも利己的である契機によるものであることは否めないことである。利己的であるために、自らその追求に巧智が生れて来ることは当然である。その巧智がやがて技術を生んで、能率のよい修道の軌道を作出す結果となるものである。その軌道に採用されたものが古則の公案であったのである。この公案による「さとり」への軌道は、これまでの大乗仏教の修道者には予想もされなかったものである。かくて古人の修道生活のエピソードを、「さとり」 の軌道に作り上げたのは、一つに何事にも現実的であり実利的である中国人の積極性である。したがってこのような看話褝は、彼等が自分達のために生んだ独自の仏教であったのである。故に看話褝は黙照禅に比してより中国人的であると言えるであろう。

 

    

かくては公案において、その 「さとり」の軌道を開発して、それを直進することに、その修行の方途を決定した看話禅は、その公案工夫がその修行の全てであった。そしてそれはその公案工夫に最も効果的な方法を開発したものである。それは現在も生きている「動中の工夫は、静中の工夫に勝ること百千倍」ということである。この語の当然生れるような契機の創始者は大慧書であったことは何人も認めざるを得ないであろう。そしてその語は如何にして能率的に工夫するかに腐心する修行者の間に語り伝えられ、それは実践されて来ている。即ちこれは、「さとり」に対する積極性が生んだ独特の修道生活の形態を、最もよく表現したものである。

この事は有心を以て求むべからず、無心を以て得べからず、語言を以ていたるべからず、寂黙を以て通ずべからず(大慧書上ー十一左原文漢文)

というのは、インド以来の大乗仏教の修道のオーソドックスであった。しかしこの語を、大慧褝師にあっては、老婆の説話としてしか認めようとしない。即ち彼にあっては、この言葉通りに修行するならば、その修行者は何の道理も得られないであろうというのである。凡そこの言葉は、全く大慧禅師の効果的反応を求めて止まないものにとっては、無意味であったであろう。つまりそのような無底の修行は、全く反応が得られないであろうから、無意味なことであったに相違ないのである。

 

そこでこのような無意味なものは、骨のある求道者であるならば、ただちに大勇猛心を奮い起して金剛王宝剣で、バッサリと一刀のもとに截断しなけれはならないと大慧はいうのである。かくて生死・凡聖・計較思量・得失是非などを全く断絶した痛快極まる特別の境地があるというのであるから、その言動はいかにも男性的であると言えるかも知れなし。したがって、この修行者達に必要なのは猪突的猛進な勇気であり、それは彼等の独特な表現によれは憤志することである。かくては見性の一事をなしとけなけれは、死すともこの坐を立ずといった強烈な意欲を燃すことなど珍しいことではない。また斯様にしなけれは実際になしとけることの出来ない見性の一事の性格であったのである。この看話褝にあっては修行者は「さとり」 の擒となり切ってしまい、完全に見性に憑かれてしまわなければならないのである。これはどの宗教にもあるところの一面でもあるから、かく看話褝者がこの一事に全身心を捧げ尽すことは当然のことであったのである。その上、この見性の一事がそれ程にしなければ、所期は得られないというのであるから、より熱狂的でなけれはならなかったのである。とにかく古来有名無名のこの褝の褝匠達は、皆なこのコースを通って来た人達であったのである。

 

ここで注目しなけれはならぬことは、必ずこの修行においては、見性の一事が、所期のものであったということである。つまり、その修行はいつもその所期のものに引っぱられていたということである。所期とは、その行者のアイデアであったのである。行者のアイデアと仏法の真実とが必ずしも一致するものではない、 なぜならば無為法である仏法は、それとは全く次元を異にしているからである。 つまりその無為法とは、行者がアイデアする以前の事実であるからである、即ち仏法は人間のアイデアの中にはあり得る事実ではないということである。したがって所期を達し得ても、それは有為法の功勲である以上ではないということである。即ちそれは流転輪廻の世界のことであったのである。更に言うならは界内の法であったのである。

 

このような公案工夫に専心する褝道の修行には、これに適しい褝堂の生活が形成されなければならない。これは今の私の考察の対象ではない。何故に、私がこれまでに大慧禅師の看話褝に立入らなければならなかったかと言うと、これから考察しようとする黙照褝の修道が、これとは全く対照的であり異質的なものであったからである。しかるに、あまり世の中ではこの両者が混雑している、ことに黙照側にあっては自己の立場が如何なるものであるかが明かでないために、これまで甚しい混修が何の疑もなく行われて来た事例が余りにも多かったことが認められるのである。

 

大慧禅師が最も憎んたものは、黙照褝であったことは無理からぬことである。即ちそれはその看話禅の全く反対の立場にあるものであり、看話褝の正当性を護持するためには、どうしても倶に天を戴いてはおられなかったからである。故に大慧褝師は「黙照邪褝」といって痛罵していることは、余りにも有名である。したがってこれに対する批判は、辛辣であるはかりではなく破壊的である。然しこの破壊的になされているところこそ、実は黙照褝の真実であったのである。

 

   

  大慧褝師が最も憎んだところのものは、却ってこれこそ黙照禅の真髄とも言うべきところであった。即ちその折伏的批判は、黙照褝者自らも気付いていなかった点に、アクセントを付けて見せてくれたのである。したがってこの点に関する抗弁が、折伏の華々しさに対して、余りにも華々しいどころが全く地味なもので、対称的であったのは敢えてその必要もなかったからである。即ちそれは抗弁ではなくて、これを媒介として自己の立場の明確に努めたものである。真歇清了褝師の「信心銘拈古」はその好例であろう。また宏智禅師に至っては、黙照邪禅と言われたのに対して、却って黙照を肯定して「黙照銘」を作っている。

今の黙照邪師の輩は、たた無言無説をもって極則として威音那畔の事となし、また空劫己前の事となして、悟門あることを信ぜず。悟を以て誑となし、悟を以て第二頭となす。(増冠傍注 大慧書下十五右)

これは道元褝師の『辨道法』の巻頭言を裏返したようなものであることに、誰れでも気付くことであろう。またこれが両者の修道の原理の差異を明確に示すものである。同時にこの大慧書の折伏的批判の語は、大慧褝師自身の修道の立場をはっきりと示している。然しこれによって、何れの折伏的批判もそうであるが、殆んど対手方の真意を得ていないということである。もっとも対手方の真意を得れは折伏的批判は出来なくなるからである。故にこの場合、この折伏的批判の指摘したものそのままが、黙照禅の真実であるから、この真実を会得出来ないものは、大慧的批判の立場とならさるを得ないことを示すものであるとも言えることであろう。言い換えれば、黙照褝で言うところの正法を誤るものの陥る実例が大慧型であるとも言えるのである。

 

ここで言われている「無言無説をもって極則とする」ということは、黙照禅がこれを主張するまでもないことで、周知の通り、大乗の極則であることは維摩経の入不二法門の明示しいるところである。大慧禅師とも言われる人が、これを知らぬ筈はない。それよりはむしろ黙照褝者が額面通りに無言無説を守って、たた無所得無所悟に無反応に黙坐して、ただそれだけでもって足れりとしているところの生温い修行態度が、大慧褝師には余りにも堪えられなかったのである。つまり、どこまでも極め尽さずには止まないという人間性に激しく燃えている、大慧褝師の求道者精神には、黙照禅者の修行態度が、たしかに腹に据えかねたことであろう。何ものにも屈しないで勇猛果敢に「さとり」を追求する執念の前には 「無言無説」では「無為無作」であって、そして兀坐を守るとあっては、それはただの癡坐に過きないと見えたのは当然であろう。

今時一種の剃頭外道あって、自の眼明かならず。只管に人をして死獲狙地にして休し去り歇し去ら教む。若し此の如くにして休歇するも千仏の出世するに到るとも、休歇することを得ず。転た心頭をして迷悶せしむるのみ。(大慧書上十三左)

かくてただ休歇しようとっとめるだけでは、一向に埒の開くものではない。たとい千仏の出世に到っても、恐らく「心頭は迷悶している」だけだという。即ち、ただ無一一 無説であることの価値は大慧にあっては、反故程にも認められないのである。即ちたた黙坐しておるたけで、 一向に何の手段做作をしないで放棄しておくだけならは、千仏の出世に到っても、心境は開けるものではない。それこそうたた心頭を迷悶させているだけであり、更に迷悶を増して了期はあり得ないというのである。

 

此処に至っては、両者の間には全く通路は存在しないのである。またこれは妥協を許さないものである、いや許されないのである。なぜならは、両者の価値観が、その次元と異にしているからである。したがっていかに批判し誹謗し合っても、それで解決がつく問題ではないからである。然らば次元の相違というが、一体それはどういう意味であろうか、大雑把ながら大胆に言ってしまえば、看話褝は人間に定着してその人間性を丸出しにしたものであると言えるであろう。一方はその人間を超えた「無量無辺」の「さとり」を修行するのであるから、人間的な心境の做作は全く必要はない。即ちその修行が始めから人間的要求を満たすものではなかったからである。したがって、この両者は次元を全く異にしていてそこには共通の場がないから、どんなに折伏が行われても、両者の間には塞くべき溝さえ存在しないのである。

 

   

  ここでようやく両者の根本的相違にふれて来たので、 一方の黙照褝の「さとり」 について述べなけれはならない。黙照禅の「さとり」は「黙照」そのものであったのである。

黙黙として言を亡し、昭昭として現前す。鑒する時、廓爾たり 體する処、霊然たり。

この黙照銘の示している事実、これが「さとり」 の実態であったのである。この黙照の一語は人間世界のことを言っているのではなく、尽十方世界、即ち大自然の無量無辺の宇宙の実態であったのである。即ち宇宙の間にはありとあらゆる事実が存在して犇めいてこの実態を、黙照の語はそのものすはりと巧に表現したものであるから、宏智褝師が飛び付いて黙照銘を作らざるを得なくしたものである。 この字宙の実態が真実であり、「さとり」の事実でであったのである。故にこの真実は修行の結果、経験的に得るものではなく、また特種な心理現象でもなかったのである。即ちこの真実は、人間生活の中に求められることではなく、あらゆるものごとが生存死滅している自然の事実である。したがってあらゆるものごとは、宇宙的に生存死滅しているのである、また逆に言えば、字宙とはあらゆるものごとが生存死滅している事実であると言える。ここには、私個人というものはあり得ない、故に、ただひたすらに、この現実の自然の事実(私自身も自然の事実である)に質直な姿勢をするより他に、私達が、この真実に直接する道はない。この質直であるということは、私事の問題を一切介入させないことである。そうしたことが、兀坐・癡坐として表現された修行の形態となったのである。

 

かくて自然の事実は無量無辺であったのである。故に宏智禅師がこれを真実の到処、廓落無依なり(天童→小参録上ー一八)

と示すように、真実は長年の修行の結果到達するものではない、つまり到達がないのである、故に廓落無依であったのである。即ちそれが全く埒ちの開かない兀坐癡坐の修行に現成したのである。したがって、それを修行したことによって、その人自身が救われて満足が得られるとか、安心立命が出来るというものではない、その意味では全く無反応であったのである。つまりそれ無量無辺を修行することであり、また無底の行であったのである。即ち結局、それは一向に埒の開かない修行あって、いささかの人間的要求の介入をも絶対に許してはならない厳密な修行でなければならなかったのである。それは有所得・有所悟を常に目指している人間が、無所得・無所悟・無言無説を修行しようとするのであるから、なお一層の厳しさがなければならなかったのである。

 

経験的に得られる心理的である「さとり」であるならは、心理学的操作などの所謂る科学的方法を採用して、能率よく得られることも出来よう。然しそのような人間以後、科学以後のものではなく、空劫己前、朕兆己前の無量無辺の修行、即ち無量無辺のあらゆるものが存在し死滅している真実を実証するのである。故にそこには技術の介入する術べは全くあり得ないのである。

若し此の一般の真実底の事を論せば、元と一切の有象を離れ、一切の幻化を離れ、一切の浮虚を離る。方に真実の事と名く。実相は是れ無相の相。真心は是れ無心の心。真得は是れ無得の得。真用は是れ無用の用。 (天童小参録上ー三十一左)

宏智禅師が示そうとする真実は、この引用によって明かである。有象・幻化・浮虚を離るとあるのは、つまり人間の感覚的生活現象内の事実ではないことを示すものである。したがってその修行は「さとり」を意識したものであってはならない、なぜならばこの「真実底の事」 は意識の取扱うことではなかったからである。したがって宏智禅師の「さとり」は具体的にはどういうものかを見てみよう。それは「無相の相」「無心の心」「無得の得」「無用の用」 であると言っているが、それはかように言うより他には表現の仕様のないようなことであったのである。無相・無心・無得・無用は何れも感覚的な人間経験のことを言っているのではない。然しそれを他ならぬ相・む・得・用の四つの生活々動そのものの本来の姿が、現実において実践しているのである。故に相・心・得・用の本来の姿を身体の姿勢によって、全人的に実証する時に、それらを「無相の相」「無心の心」「無得の得」「無用の用」といったのである。

 

したがってそれらは「心理現象」や思索などの小手先のことではなかったのである。つまりそれはその身体の姿勢によって、生活活動の一切を放棄して、大自然に生かされたまま

 

の、生活以前の実態を証するのである。そこではあらゆる心境も、身体的状態も、本地の風光であったのである。この本地の風光の模様を「無相の相」「無心の心」「無得の得」「虹 用の用」といったのである。

 

元来、褝は本来の面目とか本来の自己を明めることである、然しこの本来の面目も本来の自己も経験以前の事実である。それを明めるということは出来ない相談である。なぜならば明めるということが、経験の事実であるからである。かくて宏智褝師は

只者の霊明にして絶待底、是れ諸人の自己なり。若し諸法と対待せば、即ち自己を成せず。(天童小参録下丨二十六右)

と言っているのは、本来の自己なるものが、世界に対する自分、物を作る自分、考える自分といったような主客の対立関係の意志的意欲的な主体としてのものでないと言うことを、言おうとしているのである。即ちそれは宇宙一杯のあらゆるものが、生存死滅している真実であったのである。かくて禅師は、この本来の自己をこの言葉によって端的に示唆しようとしたものである。つまり本来の自己は自覚の主休といったものではなく、ありとあらゆるものが存在消滅している大自然の事実であったのである。故にそれは個体としてではなく、字宙的事実であったのである。言ってみれば、一個人の生命は、一個人のものではなく、宇宙的事実である。永平下の古老の言い草に、「坐褝することは、宇宙とブッ続になることだ」 とあるのは、本来の自己の当態を示唆している。

長沙景岑褝師に「尽十方界は是れ沙門の全身」の語があるが、褝の修行の明めんとする本来の自己の当態を、明確に指摘したものである。無言無説と言われ、黙癡と言われようとも、 一切作ず、一切求めずといった坐禅を行じなければならないのは、それ以外に本来の自己を実証する道がなかったからである。またこの黙坐こそ、宇宙とブッ続きである絶対行であったのである。故にかかる絶対の意味において坐褝の修行そのものが「さとり」の当態であったのである。これは人間としては、全く感覚的にも経験的にも無反応であってみれは、看話禅者ならすとも、これを肯うことは、この褝に入ったものでも容易なことではなかったのである。

 

    

現実に色々の様相を現じながら生きている事実、これが本地の風光であったのである。これを除いた他に真実を求めようとすることは、却って、それは求めるものの思惟が、自己のアイデアを作為することであったのである。したがって黙照禅者は、絶対に現実の真実を行ずるものであるから、別に新しい境地を開拓しようとする意欲をひたすらに放棄してしまい、そして黙坐するより外には、彼には真実の実践はあり得なかったのである。大慧禅師の注文通りの修行は、黙照の禅者には全く不可能なことであったし、その非難攻撃にも貸せる耳もなかったのである。

 

かくて現実において人間の限界を超えて、絶対の無量無辺の真実を実践する黙照禅者の修道の道理は、人間性の内に定着してそれを超えることの全く出来ないでいる大慧禅師には、夢想だに出来なかった真実であったであろう。これは大慧褝師一人に限ったことではない、常に人間的に充足を求めて止まない人達には、到底、了解して貰えることではなかったのである。故に、この無量無辺の黙照禅者の「さとり」は、容易に一般の共感が得られるものでないことは当然のことである。したがって中国大陸では、結局、大慧禅のみ繁栄して行ったが、それにひきかえて、黙照禅は衰微の一路を辿ったある。かくて道元禅師(一二〇〇ー一二五三)が、如浄禅師からこの法灯を伝えて帰朝以後は、ついに中国大陸からは、ただ曹洞の名称のみを残して、実質的には消滅してしまったのである。

 

黙照禅の修行は、文字通り、一切何ものをも求めようとはしない、勿論、「さとり」も求めるということは、あり得ることではなかった。ただひたすらに「何のためでもない」正身端坐を努めるのみが、その修行のすべてであった。したがって、そこには人間的な要求が一切存在していないので、「無事褝」と言われ、「枯木死灰の徒」と誹謗されても、何とも言訳けする術もあり得ることではなかったのである。なぜならば「枯木死灰」「無事褝」といわれながらも、その坐褝を行ずることが全であってみれば、言訳けすることがないのは当然のことである。またかく坐褝することが、人間以前の無量無辺絶対の実事を修行することであったのである。

 

無量無辺ということは、到達すべき究極地がないということである、したがってこの黙照褝にあっては、その修行には究極地があってはならないのである。それならは「参学の大事の了畢」ということが言われているが、それは一体何を言っているのか。 つまりそれは人間性を超えて、現実の真実を信ずることが出来て、無量無辺の無所得無所悟の修行に何らの迷もなく、それに一生の身を托することが出来るようになったことである。即ち、 かくて信心決定したことであったのである。したがってそれは修行の終局ではなくて、無量無辺の修行の軌道に完全に乗り得たことを言うのである。 つまりここから純一に正信修行が始まって、一生受用不尽するのである。

 

かくて修行がなければ、真実の具現はあり得ないのである。故に成仏とは修行であったのである。その修行は坐褝であるから、その坐褝は成仏の当態である。しかし坐褝が無条件に成仏であるというわけのものではない、それは繰返して言うまでもないことではあるが、そこに個人的なものを絶対に介入してはならないことである。その個人的なものとは、思索すること、物を作ることなどの生活活動である、この場合、公案工夫もその例外ではない。

 

思索したり物を作るということは、生命体の生理活動が契機をなしている。つまり生理的に起って来る衝動的な意識的なものの行為的なものに流される時、それが思索になり、物を作るということになる。思索したり、物を作るところに個人というものが形成され、かくて生活活動が営まれるのである。生活活動の契機をなす生理活動は生命の表状であって、即ち生命活動が現象したものであるから、決してこれを停止することは出来ない。つまりそれは大自然の事実であり、父母未生己前の事であり、本来の自己であり本地の風光であったのである。即ちこの大自然の事実が、無量無辺の真実であったのである。その契機に流されるならば、そこには無量無辺の真実の姿は没して、有限の個人の満足追求の事実がある。ここで永平広録に左の言葉のあることを想起するのである。

古聖道く、決定して第二念に流至せざれ。中に就いて方に我が宗門に入ると。豈にこれ父母未生己前に向って、倆が為めに箇の標準を作し去るにあらずや。(中略)師云く、決定して第二念に流至せずと雖ども、永平は又道う。決定して第一念に流至せざれ、決定して無念に流至せざれ。諸人、恁麼に参学して始めて得てん。(永平広録八巻ー六右)

これは生理活動を契機として流至しない、 つまり、生命活動の現象している、生活以前の自然の事実こそ、父母未生己前の真実であることを示しているのである。

 

いずれにも流されることがあってはならないので、道元褝師は「第二念」は申すに及ばず「第一念」にも「無念」にも流されることを誡めている。かくてこそ、始めて黙照に徹底することが出来るのである。かく徹底するのが坐褝の行の実態であり、かく成仏が行せられるのであった。故に黙坐が無所得・無所悟に行ぜられなければならなかったのである。したがって黙坐には終着駅はなかった、故に無反応といったのである。

 

   九

看話褝においては見性を意識しているが、黙照褝の立場においては、それは一体何を意味しているのであろうかをみてみよう。先ず見性の語の原典とも見るべき六祖坦経について考察して見るに、

猶お大海の衆流を納めて、小水大水合して一体となるがごとき、即ち是れ見性なり〇(燉煌本鈴木校訂二八頁)

この大海は前述来述べてきた大自然の事実、即ち父母未生己前の事であることは申すまでもないことである。 小水・大水とは諸般の生活活動である、この諸般の生活活動も、結局は大自然の事実の中のものであった。かくて小水・大水が本来の自己に還帰することを六祖は見性といったのである。つまり仏道修行の基準を、かく示したものであった。更に六祖坦 は、

智慧を用って観照するということは、 一切法において取らず捨てざることなり。即ち見性にして成仏道なり。(同本二六頁)。

と言っているのは、小水・大水が本来の自己に還帰することが、この「智慧を用って観照すること」であってーこれは見るものと見られるものとの関係ではないーいつ如何なる場合でも、即ち一切法において、個人的作業である取捨が行われないことである。そしてかくあることが、見性成仏道であると言うわけである。これでは正に黙照坐褝の無所得無所悟の実態である。故に

我れ本元は自性清浄なり、心を識り識心、見性すれは、自ら仏道を成するなり(同本二九頁)。

といっている。本来の自己を自性清浄といっている、この自性清浄の事実は「心を識る」 ことによって実証されるのである。 この「心を識る」 ことが見性であって、そうすることが仏道を成することであるというわけである。ここでも前述と同様に「識る」は個人の作業であってはならぬ。何故ならば対手の心がそれの対称となるものではない。即ちそれは識の母体であったのである。その個人の作業でないということはこの場合の「識」は現実的には個人の作業であっても、それの本来の姿は心であったのである。故に「心を識る」(識心) は「心を識る」 ではなく「識は心なり」 であったのである。心は元来自性清浄の心であって、それが本来の自己の実態であって、前述にあるように不取・不捨であったのである。故にこの場合は、不取・不捨の識でなけれはならない。つまりこの識心は黙照坐褝の実態であったのである。故に黙照坐褝が見性であり、成仏道であったのである。ここで馬祖門下の特異な存在であった大珠和尚慧海が頓悟要門の中で

問う云何が見性を得ん、師日く見は即ち是れ性なり。性無くんば見ること能わず(下巻十八・九)。

と云って前述来の坦経の見性の意味を忠実に正しく伝えているのに注目したい。つまりこれによって原始褝宗ともいう可きこの時代の禅風の傾向を窺うことが出来るのである。黙照禅は人間性を超えたところに学得するものであるからして、一朝一タに小器用に出来ることではない、これにはどうしても正師の伝灯を必要とするものである。大慧褝師時代にも、その法灯が消えかかりながらも続いていたのも、伝灯の力であった。かくて我々は仏法の正しいあり方は、黙照禅でなけれはならないと思う。かく学ぶことは果して宗我のなせることであろうかは、世の批判に一任したい。

駒澤大学仏教学部研究紀要』26・昭和43年3月

 

 

  これはインターネットからダウンロードしたpdf論文をワード化し、大幅に修訂

を加え、掲載するものである。(タイ国 バンコク近郊にて 二谷 記す)