正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵遍参

正法眼蔵第五十七 遍参

佛祖の大道は、究竟參徹なり。足下無糸去なり。足下雲生なり。しかもかくのごとくなりといへども、花開世界起なり、吾常於此切なり。このゆゑに甜苽徹蔕甜なり、苦瓠連根苦なり。甜々徹蔕甜なり。かくのごとく參學しきたれり。

本則・拈提に入る前の此段と次段に「遍参」に対する主要旨が述べられます。

仏道の大道は究竟参徹」

「遍参」と云う言葉を聞くと、東西南北に尋師訪道する事を思い浮かべるが、此巻で説く「遍参」とは一師の下にも、一偈一句の内にも、大小関わりなく「究竟参徹」する事を云うものです。云い換えて云うなら「遍十方界に参ずる」を「究竟参徹」とも云い換えられます。

「足下無糸去・足下雲生なり」

「「足下無糸去」とは洞山良介(807―869)の語で、

僧問師、尋常教学人行鳥道、未審如何是鳥道。師日。不逢一人。日、如何行。師日、直須足下無糸去。日、只如行鳥道、莫便是本来面目否。師日、闍梨因什麼顛倒。日、什麼処是学人顛倒。師日、若不顛倒、因什麼認奴作郎。日、如何是本来面目。師日、不行鳥道」

「僧、師に問う、尋常(ひごろ)学人をして鳥道を行かしむ、未審(いぶかし)如何なるか是れ鳥道。師日く、一人にも逢わず。日く、如何が行かん。師日く、直に須らく足下無糸にし去るべし。日く、只だ鳥道を行くが如きは、便ち是れ本来の面目なること莫きや。師日く、闍梨因什麼にか顛倒す。日く、什麼処か是れ学人の顛倒せる。師日く、若し顛倒せざれば、因什麼に奴(召使・教説)を認めて郎(主人)と作す。日く、如何なるか是れ本来の面目。師日く、鳥道を行かず」(『現代語訳・景徳伝灯録』五・禅文化研究所)

つまりは「足下無糸去」とは、進退が自由自在で何の束縛のない喩えです。

「足下雲生」とは、思うままに足下から雲を生じ、それに乗り時空を越えることを喩え、前句同様自由自在の境を云うものです。(ともに『禅学大辞典』・大修館書店)

「しかもかくのごとくなりといへども、花開世界起なり、吾常於此切なり」

「かくの如くなりといへども」は前句の対比(極大と極小)を示唆し、「足下無糸去」に対し「花開世界起」、「足下雲生」に対しては「吾常於此切」と対置する文章手法です。

「花開世界起」は、般若多羅(第二十七祖)の遺偈である「心地生諸種、因事復生理、果満菩提円、花開世界起」からの引用と思われるが、『行仏威儀』巻には「赤心片々として鉄樹花開世界香」と、行仏ある所には鉄の樹にも花が開いて世界に香し

との拈語があります。

「吾常於此切」とは、『真字正法眼蔵』上・五十五則「洞山、因僧問、三身中那身説法。師云、吾れ常に此に於いて切なり」からの引用ですが、「いつでもそのことになり切っている」・「いづれの所にても親切」の意であろうが、『神通』巻では、「不染汚といふは平常心なり吾常於此切なり」との語句あり。

「甜苽徹蔕甜なり、苦瓠連根苦なり。甜甜徹蔕甜なり、かくのごとく参学しきたれり」

「甜苽徹蔕甜」の意は、甜(あま)い苽(うり)は蔕(へた)を徹して甜く、「苦瓠連根苦」は、苦(にが)い瓠(ひさご―ひょうたん・とうがん等の総称)は根(ね)を連(つら)ねて苦く、「甜甜徹蔕甜」甘いものは蔕(へた)まで甘いの意で、「かくのごとく参学しきたれり」とは以上の喩えの如くに徹底的に成り切ること(究竟参徹)が「遍参」という事だとの老婆心語です。

 

玄沙山宗一大師、因雪峰召師云、備頭陀、何不遍參去。師云、達磨不來東土、二祖不往西天。雪峰深然之。

いはく、遍參底の道理は、翻巾斗參なり。聖諦亦不爲なり、何階級之有なり。

本則である「備頭陀、何ぞ遍参し去らざる。師云く、達磨は東西(支那)に来たらず、二祖(慧可)は西天(印度)に往かず。雪峰深く之を然(良)とす」は、『一顆明珠』(嘉禎四(1238)年四月十八日興聖寺示衆)巻冒頭に取り上げられた話頭で、この本則に対する拈提は「遍参の道理(すじみち)は翻巾斗(打返し・逆立ち)に参じ、聖諦(真実)もまた為さず、階級などはない」との拈提ですが、「翻巾斗参」とはひっくり返すことで、転じて常識をくつがえすの意。

「聖諦亦不爲、何階級之有」は『真字正法眼蔵』下37則

「青原問能大師、当何所務不堕階級。祖云、汝嘗作什麼来。師云、聖諦亦不為。祖云、落何階級。師云、聖諦尚不作何階級之有。祖云、如是如是、汝善護持」

「青原行思(―740)が慧能(638―713)に問うた。当(まさ)に何なる所務か即ち階級に落ちざることを得べき。六祖(慧能)云う、汝曾て什麼(なに)をか作し来る。青原云く、何の階級にか落つ。青原云く、聖諦すら尚不為、何の階級か之れ有らん。六祖云く、如是如是、汝善く護持すべし」

ここで説く主旨は、「遍参」という行為で以て真実(聖諦)を会得しようとか、どれだけの尋師聞法をしてヒエラルキ―を獲得しようとしても無理(無所得・無所悟)で、「禅師」と称する輩が吹聴する事柄を「翻巾斗」ひっくり返しなさいとの拈提でした。

 

南嶽大慧禪師、はじめて曹谿古佛に參ずるに、古佛いはく、是甚麼物恁麼來。この泥彈子を遍參すること、始終八年なり。末上に遍參する一著子を古佛に白してまをさく、懷譲會得當初來時、和尚接懷譲、是甚麼物恁麼來。ちなみに曹谿古佛道、儞作麼生會。ときに大慧まうさく、説似一物即不中。これ遍參現成なり、八年現成なり。曹谿古佛とふ、還假修證否。大慧まうさく、修證不無、染汚即不得。すなはち曹谿いはく、吾亦如是、如亦如是、乃至西天諸佛諸祖亦如是。これよりさらに八載遍參す。頭正尾正かぞふるに十五白の遍參なり。

南嶽大慧禅師(677―744)とは、六祖である大鑑慧能(638―713)の法嗣四十三人の中の一員であるが、大慧(懐譲)の系樹は馬祖道一(709―788)―百丈懐海(749―814)―黄梅希運(―856)―臨済義玄(―866)というふうに臨済禅系を生み、一方先段の青原行思は石頭希遷(700―790)―薬山惟儼(745―828)―道吾円智―雲厳曇晟(782―841)―洞山良介(807―869)と曹洞禅に連なる法脈を生み出した人物である。

この「是甚麼物恁麼来」の話頭は、『景徳伝灯録』五南嶽章からの引用と思われますが、他にも『恁麼』巻・『永平広録』では374則(建長二(1250)年)・490則(建長四(1252)年)に提唱拈語が確認でき、『真字正法眼蔵』中1則にも取り扱われています。

そもそも「是甚麼物恁麼来」(なにものがどのように来たか)と六祖が問う前に、南嶽はすでに嵩山の安国和尚の処から参学に来たと自己紹介している直後に、「何者がどのように来たか」とは、いわゆる禅問答のように思われるが、問者と答者の視点の違いがこのような表現形式になったと解すれば、何ら不可解な話頭とも思われぬ。

「この泥弾子」とは泥をこねたもので無価値なものを指すが、仏法の解会法では能所の差異は問わない事から、六祖の云った「是甚麼物恁麼来」を指し遍参(参徹)すること八年の年月であった。

末上に遍参する一著子を古仏に白してまをさく、懷譲会得当初来時、和尚接懷譲、是甚麼物恁麼来」

話は進み、先の相見より八年の後の事を、「未上」(一致仕舞)に遍参(参徹)する「一著子」(著は明らかにするの意・子は接尾語で意味なし)を古仏(六祖)に申し上げた。八年前の「是甚麼物恁麼来」を会得したと。

「ちなみに曹谿古仏道、你作麼生会。ときに大慧まうさく、説似一物即不中。これ遍参現成なり、八年現成なり」

そこで六祖が你(南嶽大慧)は作麼生(このように)か会(解)すと聞くと、その時大慧は「説似一物即不中」(説いて一つの物に似るようでは、すなわち云った事にはならない)と答えた。これ(作麼生+不中)が遍参に於ける題目であり、八年の歳月の現実であるとの事です。

因みに先の「作麼生」とはソモサンと読ませ当時の俗語(日常のことば)であるが、疑問詞として捉えるのではなく、「ソモサン会す」が六祖の説法詞であり、固定概略的記述を嫌う為「いずれにも」と「恁麼」と同義的語法を用いる。

「曹谿古仏とふ、還仮修証否。大慧まうさく、修証不無、染汚即不得。すなはち曹谿いはく、吾亦如是、汝亦如是、乃至西天諸仏諸祖亦如是」

六祖が問うに、還(かえって・また・はた)修証(修は真実の実修・証は真実の実証)を仮りるやいなやと。大慧(南嶽)が答えるに、修証は無くはないが、染汚(ぜんな)する事は即ち得ず(悟(証)を待つ修行は染汚したものであるから、真の修行は悟(証)を待ってはならない)。そこで六祖が印可したことばが「吾亦如是、汝亦如是、乃至西天諸仏諸祖亦如是」である。

「これよりさらに八載遍参す。頭正尾正かぞふるに十五白の遍参なり」

南嶽が嵩山の安国和尚に紹介され来山してから足掛け十五年を云うわけですが、師匠と共に一ツ処に在修住することも「遍参」に価いするとの拈提で、「十五白」の白とは夏安居を白夏と云うに付けとか、インドを五つのカテゴリ―に分けて、一天竺を一白になぞらえての「一五白」とかの説があるようです。

 

恁麼來は遍參なり。説似一物即不中に諸佛諸祖を開殿參見する、すなはち亦如是遍參なり。入畫看よりこのかた、六十五百千萬億の轉身遍參す。等閑の入一叢林、出一叢林を遍參とするにあらず。全眼睛の參見を遍參とす。打得徹を遍參とす。面皮厚多少を見徹する、すなはち遍參なり。

「恁麼來は遍參なり。説似一物即不中に諸佛諸祖を開殿參見する、すなはち亦如是遍參なり」

前節で説いたように「甚麼物恁麼来」と「説似一物即不中」は共に説法であり、この参徹に究する事十五年を遍参現成と提言したわけですから、「恁麼来は遍参なり」とは定言で、同様に「説似一物即不中」も遍参ではあるが、言い回しを換えて「諸仏諸祖」つまりは二つ共々ありとあらゆるものを比喩する言句で、それらが「開殿参見」仏殿の中に入って修行する事は、みな連関関係に据え置くことができる事から、「甚麼物恁麼来」・「作麼生会」・「説似一物即不中」ならびに「修証」・「不無」・「染汚」・「即不得」は各々同義語句としての見方から「亦如是」(吾・汝)が「遍参」の範疇に入るわけです。

「入画看よりこのかた、六十五百千万億の転身遍参す」

「入画」とは仏祖の画図に入って看るという意で、仏法に入ってよりこれまでと解し、「六十五百千万億」のこの数量は無量無辺無限性を表現するもので、『法華経』二十七妙荘厳王本事品では「此二子、已曾供養、六十五百千万億、那由他恒河沙諸仏、親近恭敬」からの引用語数です。

「等閑の入一叢林・出一叢林を遍参とするにあらず。全眼睛の参見を遍参とす、打得徹を遍参とす。面皮厚多少を見徹する、すなはち遍参なり」

「等閑」とは、なおざり・いいかげんの意ですから、そのような態度で叢林(僧院)に出入りするのは遍参とは云わず、「全眼睛」つまりは眼を見開いた瞳を全存在と位置づけ、その瞳で見ること自体を遍参とし、「打得徹」とは、手応えあるまで徹する事・成りきる事を遍参とし、「面皮厚多少」面(顔)の皮の厚さはどれ位かとは「どのように生きているかを見通すこと」(酒井得元師釈)。つまりは打著した時の身心の活溌々を見徹・参徹する事が、とりもなおさず「遍参」との提唱です。

 

雪峰道の遍參の宗旨、もとより出嶺をすゝむるにあらず、北往南來をすゝむるにあらず。玄沙道の達磨不來東土、二祖不往西天の遍參を助發するなり。

玄沙道の達磨不來東土は、來而不來の亂道にあらず、大地無寸土の道理なり。いはゆる達磨は、命脈一尖なり。たとひ東土の全土たちまちに極涌して參侍すとも、轉身にあらず。さらに語脈の翻身にあらず。不來東土なるゆゑに東土に見面するなり。東土たとひ佛面祖面相見すとも、來東土にあらず。拈得佛祖、失卻鼻孔なり。

雪峰道の遍参の宗旨、もとより出嶺をすゝむるにあらず、北往南来をすゝむるにあらず。玄沙道の達磨不来東土、二祖不往西天の遍参を助発するなり。」

そのままの意で難なく読めるが、先程までは六祖と懐譲との修証話を提唱拈提していたのに、唐突に最初の雪峰と玄沙との師弟話頭の再拈提です。

雪峰が説く遍参の宗旨は外界に向かうばかりではなく、自己の内省的側面を促す為に、玄沙の口から「達磨不来東土」を直接云わしめる為に、敢えて外界の「遍参」に行かしめたとの事で、これが雪峰の玄沙に対する「助発」です。

「玄沙道の達磨不来東土は、来而不来の乱道にあらず、大地無寸土の道理なり」

玄沙師備が云う「達磨不来東土」は、ただ単に来る来ないと云う事ではなく、「大地無寸土」の道理と説かれますが、『御抄』では「達磨の皮肉骨髄、尽界に弥綸して、初祖の身心にあらざる所なし」を「大地無寸土」と釈されます。つまりは玄沙の説く「達磨不来東土」は達磨と表現した時には「全達磨」となり、二祖と云ったら「全二祖」との意です。

「いはゆる達磨は、命脈一尖なり。たとひ東土の全土たちまちに極涌して参侍すとも、転身にあらず。さらに語脈の翻身にあらず。不来東土なるゆゑに東土に見面するなり。」

この段階で取り扱う「達磨」は人格的達磨を云うのではなく、仏法の別称を達磨と表現するものです。

そこで「達磨は命脈一尖」と達磨を命の根源として見、先端に位置付けます。たとえば東土の全土(尽十方界東西)が極涌(わき出る)して参侍(侍者の如く)しようとも転身(身をひるがえす)できず、語脈(ことば)でも翻身ではない。「不来東土なるゆゑに東土に見面」とは矛盾めいた説明のようだが、「不来」も「東土」も「見面」という事実には同価値を与えるものです。

 

東土たとひ仏面祖面相見すとも、来東土にあらず。拈得仏祖、失卻鼻孔なり。おほよそ土は東西にあらず、東西は土にかゝはれず。

「東土」という真実が「仏面祖面」と「相見」しても、達磨が東土に来たのではない。仏祖を拈得すれば自己の鼻孔を失うと。土地そのものに東西はなく、逆に東西自体も土地とは何ら関与しないものである。

 

二祖不往西天は、西天を遍參するには、不往西天なり。二祖もし西天にゆかば、一臂落了也。しばらく、二祖なにとしてか西天にゆかざる。いはゆる碧眼の眼睛裏に跳入するゆゑに不往西天なり。もし碧眼裏に跳入せずは、必定して西天にゆくべし。抉出達磨眼睛を遍參とす。西天にゆき東土にきたる、遍參にあらず。天台南嶽にいたり、五臺上天にゆくをもて遍參とするにあらず。四海五湖もし透脱せざらんは遍參にあらず。四海五湖に往來するは四海五湖をして遍參せしめず、路頭を滑ならしむ、脚下を滑ならしむ。ゆゑに遍參を打失せしむ。おほよそ盡十方界、是箇眞實人體の參徹を遍參とするゆゑに、達磨不來東土、二祖不往西天の參究あるなり。

二祖不往西天は、西天を遍参するには、不往西天なり。二祖もし西天にゆかば、一臂落了也」

先段は「達磨不来東土」の拈提でしたが、此段は「二祖不往西天」の拈提ですが、「西天を遍参するには不往西天なり」の文体は不往(の)西天なりと読み換えると理解しやすく、「二祖もし西天にゆかば一臂落了也」の一臂落了とは、達磨と二祖との問法上での物語ですが、二祖が西天(インド)に行っていたら間違いだった喩えで、これは南泉と趙州との漸猫話頭にも通じるものがあります。

しばらく、二祖なにとしてか西天にゆかざる。いはゆる碧眼の眼睛裏に跳入するゆゑに不往西天なり。もし碧眼裏に跳入せずは、必定して西天にゆくべし。抉出達磨眼睛を遍参とす」

「しばらく」の意は「一時的に・その場だけのこととして・とりあえず・かりそめに」(『全訳古語例解辞典』北原保雄編・小学館)と列記されるが、今回は「とりあえず」と訳し二祖はどうしてインドに行かないのか。いわゆる(世間でいう)碧眼(ダルマ)の眼睛裏(ひとみの中)に跳入するから不往(の)西天なり。もしも碧眼裏(ダルマの内)に跳入しなかったら必ず定んで西天に行くべし。快出(えぐり出す・ほじくり出す)達磨眼睛を遍参とする。と云うように、二祖は達磨(ダルマ)と一心同体に成りきった事での、玄沙が云う「不往西天」が成り立つとの事です。

 

「西天にゆき東土にきたる、遍参にあらず。天台南嶽にいたり、五台上天にゆくをもて遍参とするにあらず。四海五湖もし透脱せざらんは遍参にあらず。四海五湖に往来するは四海五湖をして遍参せしめず、路頭を滑ならしむ、脚下を滑ならしむ。ゆゑに遍参を打失せしむ。

此処は文の如く解し、東西に往来したり天台山や南嶽山・五台山・天上界を経巡ることが遍参ではなく、「路頭を滑・脚下を滑」道路を滑らかに脚もとを滑らかにとは、自由自在な歩き回る事を云うもので、そのような東西の修行道場回避は「遍参」そのものを打失(失わせる)させるだけ。「四海五湖」については、『眼睛』巻に「四大海」として引用される。

「おほよそ尽十方界、是箇真実人体の参徹を遍参とするゆゑに、達磨不来東土、二祖不往西天の参究あるなり」

これまでの両則に対する拈提の結語が、玄沙和尚が説く「尽十方界是箇真実人体」徹底参究が遍参であるから、同じく玄沙の云う「達磨不来東土・二祖不往西天」をも参学究事しなさいとの拈提です。

 

は石頭大底大、石頭小底小なり。石頭を動著せしめず、大參小參ならしむるなり。百千萬箇を百千萬頭に參見するは、いまだ遍參にあらず。半語脈裏に百千萬轉身なるを遍參とす。たとへば、打地唯打地は遍參なり。一番打地、一番打空、一番打四方八面來は遍參にあらず。倶胝參天龍、得一指頭は遍參なり。倶胝唯豎一指は遍參なり。

は石頭大底大、石頭小底小なり。石頭を動著せしめず、大参小参ならしむるなり」

「石頭大底大」の古則は『如浄語録』上・明州瑞巌録からの引用だと思われます。

「挙。僧問古徳。深山嵓崖中。還有仏性也無。古徳云。石頭大底大。小底小」

同じ古則が『永平広録』194則(寛元四(1246)年)・502則(建長四(1252)年)にて上堂説法されます。

ここで「遍参」する主体を「石」に置き換えての説法で、大きい石はそのままで、小さな石は小さいままで、石を動かさなくても大小の石はそれ自身「遍参」を「大参小参」しているとの提言ですが、一見すると破天荒な理屈にも聞こえますが、「草木悉皆成仏」や『山水経』巻『谿声山色』巻等から推察すれば何ら驚くべき事ではなく、「尽十方真実人体」がそうさせていると云う理屈です。

ここに『如浄語録』を引用する事は、後段に引く「先師天童古仏」の伏線と考えるのは穿った考察でしょうか。

「百千万箇を百千万頭に参見するは、いまだ遍参にあらず。半語脈裏に百千万転身なるを遍参とす。たとへば、打地唯打地は遍参なり。一番打地、一番打空、一番打四方八面来は遍参にあらず」

「百千万」は無数を表すもので、そのように「百千万頭」の人に参見するのは「遍参」ではなく、「半語脈裏」半分の言句を百千万(無量)参究するを「遍参」とする。

「打地唯打地は遍参なり」には次のような話があります。

「忻州打地和尚。自江西領旨、自晦其名。凡学者到問、惟以棒打地而示之。時謂之打地和尚。一日被僧蔵却棒。然後問。師但張其口。僧問門人日、只如和尚毎有人問便打地、意旨如何。門人即於竈底取柴一片擲在釜中」

(忻州(山西省忻県)の打地和尚。江西(馬祖)にて旨を領して自り、自ら其の名を晦(くら)ます。凡そ学ぶ者問いを致さば、惟だ棒を以て地を打って之に示すのみ。時に之れを打地和尚と謂う。一日、僧に棒を蔵(かく)し却(さ)られて然る後に問わる。師は但だ其の口を張(ひら)くのみ・僧、門人に問うて日く、只如(たとえ)ば和尚の人の問うこと有る毎に便ち地を打つは、意旨は如何。門人即ちに竈の底より柴(まき)一片を取り釜の中に擲在(なげ)こむ)(『景徳伝灯録三』監修・入矢義高 編・景徳伝灯録研究会 禅文化研究所)

このように打地和尚(―773)は一向(ひたすら)に説法(接化)態を変化することなく参徹したことに、当時の道元禅師は共感されたのだと思われます。その例証が次に引かれる「俱胝参天龍、得一指頭は遍参なり、俱胝誰竪一指は遍参なり」の文章に現れています。(『真字正法眼蔵』下・四十六則 同様則が中・八十六則及び下・四十八則)

また「一番打地、一番打空、一番打四方八面来」と今日明日と入れ代わり、日替わり弁当の如く変化するを嫌い、遍参の範疇には除外されます。

 

玄沙示衆云、與我釋迦老子同參。時有僧出問、未審、參見甚麼人。師云、釣魚船上謝三郎。

釋迦老子參底の頭正尾正、おのづから釋迦老子と同參なり。玄沙老漢參底の頭正尾正、おのづから玄沙老漢と同參なるがゆゑに、釋迦老子と玄沙老漢と同參なり。釋迦老子と玄沙老漢と、參足參不足を究竟するを遍參の道理とす。釋迦老子は玄沙老漢と同參するゆゑに古佛なり。玄沙老漢は釋迦老子と同參なるゆゑに兒孫なり。この道理、審細に遍參すべし。

この古則「我れと釈迦老子と同参なり。時に僧有って出でて問う、未審(いぶかし)甚麼(なに)人にか参見す。師(玄沙)云、釣魚船上(釣り船の上)の謝三郎(玄沙の俗名)」は、『聯灯会要』二十三・玄沙章からの引用です。

「釈迦老子参底の頭正尾正―中略―釈迦老子と玄沙老漢と同参なり」

文意のままに解され、玄沙を釈尊と同参とする事から玄沙を褒めたものです。『一顆明珠』巻でも玄沙一人の提唱である処からも窺われます。

「釈迦老子と玄沙老漢と、参足参不足を究竟するを遍参の道理とす」

釈尊と玄沙との関係を尽十方界真実人体の理で以て考えると、両者俱に「同参・参足」である事を云うものでしょうか。

 

釣魚船上謝三郎。この宗旨、あきらめ參學すべし。いはゆる釋迦老子と玄沙老漢と、同時同參の時節を遍參功夫するなり。釣魚船上謝三郎を參見する玄沙老漢ありて同參す。玄沙山上禿頭漢を參見する謝三郎ありて同參す。同參不同參、みづから功夫せしめ、佗づから功夫ならしむべし。

この段の要旨は『御抄』にても指摘されるが、「謝三郎」「玄沙」「釈迦」を同一線上に掲げる事に疑いを発する処ではあるが、世間では謝三郎は俗名で出家以前であり、玄沙と呼べば玄沙山に住する師備和尚を指して全く別人と捉えがちですが、仏法上では前項のようなラインは設けずに考察しますから、「釣魚船上謝三郎を参見する玄沙老漢ありて同参す」も「玄沙山上禿頭漢を参見する謝三郎ありて同参す」も何ら違和感はないわけです。その証に「南泉普願」はいつも自身を俗姓である「王老師」と自称した事にも表れ、道元禅師の参究法は先段でも提唱されました「尽十方界是箇真実人体」の参徹い尽きるわけですから、世法とは異なる表現法での拈提になるわけです。

 

玄沙老漢と釋迦老子と同參す、遍參す。謝三郎與我、參見甚麼人の道理を遍參すべし、同參すべし。

これは先段の「参見甚麼人」の道理も、前句と同様に「玄沙・釈迦」→「謝三郎」(玄沙)・我(釈迦)に同参する事が仏法との拈語です。

 

いまだ遍參の道理現在前せざれば、參自不得なり、參自不足なり。參佗不得なり、參佗足なり。參人不得なり、參我不得なり。參拳頭不得なり、參眼睛不得なり。自釣自上不得なり、未釣先上不得なり。すでに遍參究盡なるには、脱落遍參なり。

ここに云う「遍参の道理」とは、先段に云う「参足参不足の究竟」「同時同参の時節の功夫」を指すものであろうが、「これら」を参徹・参究しない学人には「自・他・人・我等」の挙頭眼睛等は不得で、さらに玄沙三郎のような「自釣自上」「未釣先上」もできないとの厳しい言で遍参を究尽するには、釈迦と玄沙との同時同参の如く「脱落」した時節が遍参との提唱です。

 

海枯不見底なり、人死不留心なり。海枯といふは、全海全枯なり。しかあれども、海もし枯竭しぬれば不見底なり。不留全留、ともに人心なり。人死のとき、心不留なり。死を拈來せるがゆゑに、心不留なり。このゆゑに、全人は心なり、全心は人なりとしりぬべし。かくのごとくの一方の表裏を參究するなり。

「海枯不見底・人死不留心」の典拠は『如浄語録』だと思われるが、実際には記録がなく、『永平広録』七・五〇三則には「記得。僧問雲門如何是仏。雲門云乾屎橛。先師頌日。雲門倒屙一橛屎。悩乱瞿曇痛処針。要見海枯終徹底。始知人死不留心。―以下略」とあり、五〇二則には「石頭大底大小底小」(建長四(1252)年5月頃)の上堂説法がなされましたが、遷化される一年前に於いても「遍参」巻を御覧になり校閲等をされておたものと想像されます。

「海枯不見底」「人死不留心」の解釈拈提は、「尽十方界是箇真実人体」が前提となる条件が付与されるわけですから、「海」と「枯」を二分して考えるのではなく「全海全枯」と見なすわけですから、「海もし枯渇」すれば「不見底」とは至極当然なる解説です。

次に説く「不留・全留」の問題も同様に、「人が死んで心を留めず」とは読まず、生也全機現・死也全機現の喩えの如くに、「人死のとき心不留なり」と読ませる所以です。

ですから先程の「全機現」の如くに、「全人」「全心」を言語解体し、全―人―心の意味変容を考察せよとの事です。

 

先師天童古佛、あるとき諸方の長老の道舊なる、いたりあつまりて上堂を請ずるに、

上堂云、大道無門、諸方頂上跳出。虚空絶路、清涼鼻孔裏入來。恁麼相見、瞿曇賊種、臨濟禍胎。。大家顛倒舞春風、驚落杏花飛亂紅。

而今の上堂は、先師古佛、ときに建康府の清涼寺に住持のとき、諸方の長老きたれり。これらの道舊とは、あるときは賓主とありき、あるいは隣單なりき。諸方にしてかくのごとくの舊友なり、おほからざらめやは。あつまりて上堂を請ずるときなり。

この段は『如浄語録』上・建康府清凉寺語録からの引用です。

「上堂に云く、大道は無門なり、諸方の頂寧上に跳出す。虚空は絶路なり、清涼(如浄)が鼻孔裏に入来せり。恁麼の相見は、瞿曇(ゴ―タマ)の賊種、臨済の禍胎。咦。大家(皆さん)は顛倒して春風に舞い、驚落する杏花(あんずのはな)は飛乱し紅(くれない)なり」

大道無門とは仏法を指し、諸方(すべて)が頂寧(あたま)の上で跳出(おどり出る)。虚空(おおぞら)は絶路(みちがない)。清涼(如浄)の鼻孔裏(はなのなか)にその虚空自体が出入している。恁麼相見(このように見る)は、瞿曇(釈尊)の賊種(頂寧跳出)臨済の禍胎(鼻孔入来)。咦。大家(世の人)は春風に舞う如くに顛倒し、杏花が落ち紅が飛んでは驚く。

つまりは如浄和尚が云う要旨は、尽十方界と人体とは地続きであり、虚空そのままを鼻孔に出入させているのに、片や凡夫は春になったら喜び、花が散っては悲しみの繰り返し、大道には境界はないとの言説です。

而今の上堂は先師古仏―中略―諸方にしてかくのごとくの旧友なり、多からざらめやは、集まりて上堂を請ずる時なり」

ここは難なく文意の如し。この上堂の経緯を説明したもので、同安居等の気心の知れた参学者同士の集まりではあるが、旧友が如浄に対し上堂を請ずる、またそれを拝受するといった事が「遍参」とする解説です。

 

渾無箇話の長老は交友ならず、請ずるとものかずにあらず。太尊貴なるをかしづき請ずるなり。おほよそ先師の遍參は、諸方のきはむるところにあらず。大宋國二三百年來は、先師のごとくなる古佛あらざるなり。

この箇所の文意も文の如く読み過ごすによく、「渾無箇話」とは、まったくこのような学道の話がない。という事であり、現代の状況と照会しても、当時から坊主社会の(なれあい)集団が存在した事が窺われる。

 

大道無門は、四五千條花柳巷、二三萬座管絃樓なり。しかあるを、渾身跳出するに、餘外をもちゐず、頂上に跳出するなり、鼻孔裏に入來するなり。ともにこれ參學なり。頂上の跳脱いまだあらず、鼻孔裏の轉身いまだあらざるは、參學人ならず、遍參漢にあらず。遍參の宗旨、たゞ玄沙に參學すべし。

「大道無門は、四五千條花柳巷、二三萬座管絃樓」

「大道無門」は仏法だと『御抄』でも説明しますが、仏法を無数の柳の花、または二三万と多くの音楽を奏でる建物に喩えての言ですが、典拠は『禅林類聚』三・趙州章と思われ、趙州に僧が問うた「如何是趙州」に対し、「東門西門南問北門」と答えた趙州に対し、五人が拈語する中の「円通僊云、四門開豁任来遊脚下分明到地頭。四五百条花柳巷、二三千処管絃楼」からの引用だと思われます。

因みに『真字正法眼蔵』上・四九則には「趙州因僧問。如何是趙州。師日。東門南門西門北門。僧日不問這箇這箇。師日。你問趙州聻」が記録されます。

渾身跳出するに、餘外をもちゐず、頂上に跳出するなり、鼻孔裏に入来するなり。ともにこれ参学なり」

身体を勢いよく跳出させても、大道無門の中での仕業であり、宇宙(大道無門)の外には決して跳出できない事を云うもので、これら鼻の孔に出入する呼気吸気ひとつ共々が「参学」だと言われます。

「頂寧上の跳脱いまだあらず、鼻孔裏の転身いまだあらざるは、参学人ならず、遍參漢にあらず。遍参の宗旨、たゞ玄沙に参学すべし。」

先程とは逆に頭の上・鼻の孔に存在する尽十方界を認得できない者は、修行者とは云えず、ひたすら玄沙が云う「達磨不来東土、二祖不往西天」・「与我釈迦同参」等を勉強しなさいとの事です。

 

四祖かつて三祖に參學すること九載せし、すなはち遍參なり。南泉願禪師、そのかみ池陽に一住してやゝ三十年やまをいでざる、遍參なり。雲巖道吾等、在藥山四十年のあひだ功夫參學する、これ遍參なり。二祖そのかみ嵩山に參學すること八載なり。皮肉骨髓を遍參しつくす。遍參はたゞ祗管打坐、身心脱落なり。

文の如くに解すれば難なし。

「四祖かつて三祖に参学九載」の文は『行持』下巻「第三十一祖大医(580―651)禅師は、十四歳のそのかみ、三祖(―606)大師を見しより服労九載なり」を典拠とし、

「南泉願禅師、池陽に住して三十年山を出でざる」

南泉山(安徽省・池州・貴池)に住した普願(748―835)和尚は馬祖道一(709―788)を師に、弟子は趙州従諗(778―897)・長沙景岑等に恵まれ、四十八歳から三十二年間南泉の山を草枕とし、八十歳で観察使陸亘の請で山を下る。

「雲巌・道吾等、在薬山四十年の功夫参学」

この文章も『行持』下巻「雲巌和尚と道吾と、おなじく薬山に参学して、ともにちかひをたてて四十年脇を席につけず一味参究す」からの引用と思われ、これらの祖師方の一処参究する事が「遍参」と定義され、さらに達磨(―536)に八年参随の慧可(487―593)の修行は皮肉骨髄(尽十方界是箇真実人体)そのままの遍参(真実の実践)であったと。

そこで「遍参はただ祇管打坐、身心脱落なり」と結論部に導入され、『見仏』巻でも説いてきたように「天童古仏」提唱時には必然的に「跏趺坐蒲団」「祇管打坐」とする道元正法眼蔵論法です。

 

 

而今の去那邊去、來遮裏來、その間隙あらざるがごとくなる、渾體遍參なり、大道の渾體な

り。毘盧頂上行は、無諍三昧なり。決得恁麼は毘盧行なり。跳出の遍參を參徹する、これ葫蘆の葫蘆を跳出する、葫蘆頂上を選佛道場とせることひさし。命如絲なり。葫蘆遍參葫蘆なり。一莖草を建立するを遍參とせるのみなり。

 

 爾時寛元元年癸卯十一月二十七日在越宇禪師峰下茅庵示衆

而今の去那辺去、来遮裏来、その間隙あらざるがごとくなる、渾体遍参なり、大道の渾体なり」

那辺はあちら側に去(い)き遮裏(辺)に来るとは、「人体の真実」つまり体内の様子をこのように説明されたものだとすると、常に新陳代謝の繰り返しで動的平衡状況を此処ではこのように説明し、連続体の真実態をここでは「渾体遍参」「大道の渾体」という表現をされますが、言わんとする所は「尽十方界真実人体」の実践(修行)が「祇管打坐」であり、それを「遍参」と呼ぶと。

毘盧頂上行は、無諍三昧なり。決得恁麼は毘盧行なり」

「毘廬」は毘盧遮那仏の略語で、普段はビルシャナは真言宗と結びつけて考えてしまいますが、道元禅師の場合は天台宗の立場からの考察のようで、「清浄法身毘盧遮那仏(シンジンパシンビルシャ―ノ―フ―)・円満報身廬遮那仏(エンモンホッシンルシャ―ノ―フ―)・千百億化身釈迦牟尼仏(センパイキャシンシ―キャム―ニ―フ―)」の十仏名に説く法身・報身・応身の三身説によるからです。

そこで「毘廬頂上行は無諍三昧」とは、尽十方界光明遍照上では、太と諍うことはなく、「決得恁麼」恁麼(祇管打坐)決得(する)ことが毘廬行(一切処光明遍照)つまり「真実人体」の実践であるとの意です。

跳出の遍参を参徹する、これ葫蘆の葫蘆を跳出する、葫蘆頂上を選仏道場とせることひさし。命如絲なり。葫蘆遍参葫蘆なり。一茎草を建立するを遍参とせるのみなり。」

「跳出の遍参を参徹する」とは何やら難しい事のようですが、「葫蘆の葫蘆を跳出」とあるように、葫蘆(ころ―ふくべ・ひょうたん)は葫蘆のままでよく、また葫蘆の上を坐禅堂としていると。つまりはひょうたんはヒョウタン、そのままでよろしいとの事で、無所得無所悟の風情を述べたものです。しかしその実態は「衣は乃ち争の端なり。汝が身に止めて復た伝へざれ。且く当に遠く隠れ、時を俟ちて化を行ずべし。所謂る授衣の人は、命如懸糸也」(『景徳伝灯録』三・弘忍章)のごとしと。

「葫蘆遍参葫蘆なり。一茎草を建立するを遍参とせるもになり」

繰り返しの言で、葫蘆はそのままで遍参の進行形であり、一本の草自体そのままが尽十方界を表徴する真実茎草との言で「遍参」提唱を終わらせます。

『遍参』巻の文体構成は、先づ『見仏』巻で説いた「究竟参徹」を導入し、甜苽・苦瓠を例題にし「玄沙」・「南嶽」・「如浄」それぞれの本則を拈提し、「遍参はただ祇管打坐・身心脱落を説き明かし、苽(まこも―いね科の多年草)・瓠(ひさご―ひょうたん・とうがんなどの総称)・葫蘆(ひょうたん)それぞれの一茎草が真実を表現し、「打坐」との同時性を説く提唱でした。