正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

正法眼蔵法性

正法眼蔵第四十八 法性

あるいは經巻にしたがひ、あるいは知識にしたがうて參學するに、無師獨悟するなり。無師獨悟は、法性の施爲なり。たとひ生知なりとも、かならず尋師訪道すべし。たとひ無生知なりとも、かならず功夫辦道すべし。いづれの箇々か生知にあらざらん。佛果菩提にいたるまでも、經巻知識にしたがふなり。しるべし、經巻知識にあうて法性三昧をうるを、法性三昧にあうて法性三昧をうる生知といふ。これ宿住智をうるなり、三明をうるなり。これ阿耨菩提を證するなり。生知にあうて生知を習學するなり。無師智自然智にあうて、無師智自然智を正傳するなり。もし生知にあらざれば、經巻知識にあふといへども、法性をきくことえず、法性を證することえざるなり。大道は、如人飲水、冷暖自知の道理にはあらざるなり。一切諸佛および一切菩薩、一切衆生は、みな生知のちからにて、一切法性の大道をあきらむるなり。經巻知識にしたがひて法性の大道をあきらむるを、みづから法性をあきらむるとす。經巻これ法性なり、自己なり。知識これ法性なり、自己なり。法性これ知識なり、法性これ自己なり。法性自己なるがゆゑに、外道魔儻の邪計せる自己にはあらざるなり。法性には外道魔儻なし。たゞ喫粥來、喫飯來、點茶來のみなり。しかあるに三二十年の久學と自稱するもの、法性の談を見聞するとき、茫然のなかに一生を蹉過す。飽叢林と自稱して、曲木の床にのぼるもの、法性の聲をきゝ、法性の色をみるに、身心依正、よのつねに粉然の窟坑に昇降するのみなり。そのていたらくは、いま見聞する三界十方撲落してのち、さらに法性あらはるべし。かの法性は、いまの萬象森羅にあらずと邪計するなり。法性の道理、それかくのごとくなるべからず。この森羅萬象と法性と、はるかに同異の論を超越せり。離即の談を超越せり。過現當來にあらず。斷常にあらず。色受想行識にあらざるゆゑに法性なり。

この巻は明らかに前巻『仏経』巻を継承してのものである事が、冒頭で述べられる文体により明確で、奥書にる示衆年月日でも『仏経』巻は「秋九月」・『法性』巻は「孟冬」と、どちらも日付は付されませんが、同じ書きぶりですから九月下旬には「仏経」を十月初めには「法性」の提示が有ったと考えられます。

「或いは経巻に従い、或いは知識に従いて参学するに、無師独悟するなり。無師独悟は、法性の施為なり。たとい生知なりとも、必ず尋師訪道すべし。たとい無生知なりとも、必ず功夫辦道すべし。いづれの箇々か生知に有らざらん。仏果菩提に至るまでも、経巻知識に従うなり」

或従経巻或従知識―無師独悟ー法性の図式が成り立ち、法性(ダルマター)は抽象的概念ではなく、具象事例として経巻・知識・無師独悟と、それぞれに人称句を与えるものですが、注意しなければならない点は、法性の中に経巻・知識が弁別するのではなく、経巻の時点では経巻しかなく、無師独悟の時には無師独悟それしか現成し得ない事実で、法性という茫漠したものが或従知識にすり替わる事ではありません。

「たとい生知なりとも」と文脈が変わるような言い方ですが、ここでの生知は生まれ持っての知として見得するのではなく、法性の施為としての「生知」さらに尋師訪道も同じく法性に内包される「尋師訪道」と見るべきであります。

生知に対する反措定として「無生知」を設定し、尋師訪道の対句としての功夫辦道としますが、この論述法は「眼蔵」各処に使用されるもので、能所・主客の観点からの思考形態ではない事は、自明です。

すべての個々人は法性に包含される生知でない事は無く、仏果菩提は普通に解すれば最終目標に比定されますが、ここでは発展段階説は採用しませんから、仏果菩提の時処には仏果菩提一面態ですから、それが冒頭で説かれた経巻知識に従う。と説かれた円環的論述文脈構成されます。言わんとする趣旨は、経巻知識・仏果菩提・功夫辦道・尋師訪道なども法性の施為。つまりは「法性」のお蔭であると。

「知るべし、経巻知識に逢うて法性三昧を得るを、法性三昧に逢うて法性三昧を得る生知と云う。これ宿住智を得るなり、三明を得るなり。これ阿耨菩提を証するなり。生知に逢うて生知を習学するなり。無師智自然智に逢うて、無師智自然智を正伝するなり」

先には「或従経巻し参学するを法性の施為」と説かれましたが、ここでは「法性三昧」に置き換えての説明になります。「経巻知識に逢うて法性三昧を得る」を言い替えると「法性三昧に逢うて法性三昧を得る生知」と置換出来、「宿住智・三明」つまり世に云う神通を云うのではなく、生知同様、本来具足する智慧を宿住智・三明と言われるもので、この事実が阿耨多羅三藐三菩提つまり悟りに通脈すると説かれますが、謂う所は経巻知識ー法性三昧の同態を分明にし、その道理を以て宿住智ー三明ー阿耨菩提を実証するとの事です。

「生知に逢うて生知を習学する」とは自分自身を究学・究明する事を云うものですが、究学・究明と云うと始めがあって終点を生知と見る向きも有りますが、般若智と同格と意義付けられるものです。さらに「無師智・自然智」は師が無き智ではなく、本来面目である自己そのものを、法性三昧の一面態から無師智・自然智との言い換えによるもので、法性に対する固着意識を払拭させんが為の立文字による説明です。

「もし生知に非ざれば、経巻知識に逢うと云えども、法性を聞くこと得ず、法性を証すること得ざるなり。大道は、如人飲水、冷暖自知の道理には非ざるなり。一切諸仏および一切菩薩、一切衆生は、皆生知の力にて、一切法性の大道を明らむるなり」

先程は本来面目的な生知の時節には、無師独悟・仏果菩提・経巻知識などは法性の施為として開展される事を説きましたので、ここは「生知にあらざれば」の反措定条件で俯瞰的に「経巻知識に逢うとも法性を聞くこと、法性を証すること」は出来ないとの「生知」に視点を置いた見解です。そこで云う法性の大道と云うのは、人が水を飲んで冷たい暖かいを自ら知ると云う道理ではないと。つまりは真実は感覚的に合点・承知するものではなく、坐禅に於いても同様で冷暖自知的さとりの感覚的体験はないと説く含意が有ります。

一切の諸仏・菩薩・衆生は共々法性の異名であり、その法性の大道を明らかにするには生知と云う本来智の力道が欠かせないものである。

「経巻知識に従いて法性の大道を明らむるを、みづから法性を明らむるとす。経巻これ法性なり、自己なり。知識これ法性なり、自己なり。法性これ知識なり、法性これ自己なり。法性自己なるが故に、外道魔儻の邪計せる自己には非ざるなり。法性には外道魔儻なし。たゞ喫粥来、喫飯来、点茶来のみなり」

前述からの諸仏菩薩・衆生・経巻知識等は皆法性の異句同義語である事を、同じ趣旨で経巻ー法性ー自己・知識ー法性ー自己との一実性を示しますから、外道魔儻の入り込む余地は無く、日常底である朝は御粥・昼は御飯と、日中の休息には点茶を行持する日々を法性の大道と捉え、棒喝的な奇を衒う仏法とは峻別するものです。

「しか有るに三二十年の久学と自称する者、法性の談を見聞する時、茫然の中に一生を蹉過す。飽叢林と自称して、曲木の床に登る者、法性の声を聞き、法性の色を見るに、身心依正、世の常に粉然の窟坑に昇降するのみなり」

文意のままに解されるが、今も昔もドヤ顔によるドヤ話しの情景を彷彿とさせるものです。

「そのていたらくは、今見聞する三界十方撲落して後、さらに法性現るべし。かの法性は、今の万象森羅に非ずと邪計するなり。法性の道理、それかくの如くなるべからず。この森羅万象と法性と、はるかに同異の論を超越せり。離即の談を超越せり。過現当来に非ず。断常に非ず。色受想行識に非ざる故に法性なり」

先程の茫然の中に一生を蹉過するや、粉然の窟坑の実体(ていたらく)は、三界(欲界・色界・無色界)十方(東西南北四維上下)が無くなった(撲落)後、法性が現れるはずだと飽叢林の連中は思い込むのである。その法性は特別で万象森羅の事象事物とは違うと思い込むのであるが、その邪計・思い込みは三二十年の久学と自称する連中の頭の中に、固定概念としての「法性」が内在するから、森羅万象と法性を明確に区別立てするのである。

この数行がこの段に於いてのポイントになります。法性の道理というのは、前述の増上慢が考える法性と森羅万象との関係のような単純なものではなく、この空間に遍満する事物・事象は真実の現成ですから、森羅万象と法性とを教義学的に解釈する論議を超越するものであると説き、さらには離即(離れたり合致する)の談をも超越するとの識見ですが、超越とは問題放棄ではなく、議論の対象にならない事態です。謂うなれば法性の時には法性の時節ばかりとの事です。

また念押しで、この法性は過去現在未来(過現当)の時間の問題ではなく、断見常見つまり断ずる世界と常住の世界と云うような問題でもなく、五蘊の色受想行識で行う段階つまり感覚での生活に於いては、法性は有り得ないとの序論的提唱は終わり、次から本則・拈提に入ります。

 

    二

洪州江西馬祖大寂禪師云、一切衆生、從無量劫來、不出法性三昧。長在法性三昧中、著衣喫飯、言談祗對。六根運用、一切施爲、盡是法性。

馬祖道の法性は、法性道法性なり。馬祖と同參す、法性と同參なり。すでに聞著あり、なんぞ道著なからん。法性騎馬祖なり。人喫飯、飯喫人なり。法性よりこのかた、かつて法性三昧をいでず。法性よりのち、法性をいでず。法性よりさき、法性をいでず。法性とならびに無量劫は、これ法性三昧なり。法性を無量劫といふ。しかあれば、即今の遮裏は法性なり。法性は即今の遮裡なり。著衣喫飯は、法性三昧の著衣喫飯なり。衣法性現成なり、飯法性現成なり。喫法性現成なり、著法性現成なり。もし著衣喫飯せず、言談祗對せず、六根運用せず、一切施爲せざるは、法性三昧にあらず。不入法性なり。即今の道現成は、諸佛相授して釋迦牟尼佛にいたり、諸祖正傳して馬祖にいたれり。佛々祖々、正傳授手して法性三昧に正傳せり。佛々祖々、不入にして法性を活々ならしむ。文字の法師たとひ法性の言ありとも、馬祖道の法性にはあらず。不出法性の衆生、さらに法性にあらざらんと擬するちから、たとひ得處ありとも、あらたにこれ法性の三四枚なり。法性にあらざらんと言談祗對、運用施爲する、これ法性なるべきなり無量劫の日月は、法性の經歴なり。現在未來もまたかくのごとし。身心の量を身心の量として、法性にとほしと思量するこの思量、これ法性なり。身心量を身心量とせずして、法性にあらずと思量するこの思量、これ法性なり。思量不思量、ともに法性なり。性といひぬれば、水も流通すべからず、樹も栄枯なかるべしと學するは外道なり。

本則の出典は『馬祖録』(「続蔵」百十八・百六十・上)になり、馬祖が説く無事禅「著衣喫飯、言談祗対」の日常態と法性に対する拈提です。

訓読みでは、「一切衆生は、無量劫よりこのかた、法性三昧の中に在って、著衣喫飯、言談祗対する。六根の運用、一切の施為、尽く是れ法性なり」

「馬祖道の法性は、法性道法性なり。馬祖と同参す、法性と同参なり。すでに聞著あり、なんぞ道著なからん。法性騎馬祖なり。人喫飯、飯喫人なり。法性よりこのかた、曾て法性三昧を出でず。法性より後、法性を出でず。法性より先、法性を出でず。法性とならびに無量劫は、これ法性三昧なり。法性を無量劫と云う」

馬祖が説く法性は法性道の法性であり、馬祖と法性とは一体不可分を言うものです。その一体性を別の表現で聞著あり道著ありと、聞を法性に道を馬祖に同定し、また法性が馬祖に騎るなりとし、更には人喫飯を人を法に、飯を馬祖に見立て、逆に飯喫人と主客を入れ替えての「馬祖法性」「法性馬祖」との一実同態同時性を説く趣意は、馬祖の言動を讃ずるものです。後半は法性ならぬ一法なき道理を無量劫とも法性三昧とも言い換えますが、言語意味論では法性をラングに、法性三昧・無量劫はパロールと解する事で、この文体を理解します。

「しか有れば、即今の遮裏は法性なり。法性は即今の遮裡なり。著衣喫飯は、法性三昧の著衣喫飯なり。衣法性現成なり、飯法性現成なり。喫法性現成なり、著法性現成なり。もし著衣喫飯せず、言談祗対せず、六根運用せず、一切施為せざるは、法性三昧にあらず。不入法性なり」

先に法性は無量劫と同定されますから、無量劫と対比させての「即今の遮裡」は遠から近に比する解釈法になります。次に「著衣喫飯」を法性三昧に定位して、その著衣喫飯と云う日常底言語意味構造を解体し、衣を独立させ衣自体が法性の現成であるとし、同様に喫法性現成・著法性現成と各々に法性の姿の独立した現成が法性であると説かれるものです。

日常の生活の調度である「著衣喫飯・言談祗対・六根運用」を行わず、冒頭にて説いた「法性による施為」つまり授かりものが無いなら法性三昧ではなく、これを「不入法性」と談ずるものですが、経豪和尚による『御抄』では「この入の字は、不出法性と馬祖の詞にある所を、必ず出の字ばかりにて有るべきならぬ所を不入法性と談ずるなり」と、本則の絡みから不入を導く為に、「著衣・言談・六根」等をせずとの否定辞句で以ての文体構成に成ったものと思われます。

「即今の道現成は、諸仏相授して釈迦牟尼仏に至り、諸祖正伝して馬祖に至れり。仏々祖々、正伝授手して法性三昧に正伝せり。仏々祖々、不入にして法性を活ならしむ。文字の法師たとい法性の言ありとも、馬祖道の法性には非ず。不出法性の衆生、さらに法性に非ざらんと擬する輩、たとい得処ありとも、新たにこれ法性の三四枚なり。法性にあらざらんと言談祗対、運用施為する、これ法性なるべきなり」

「即今の道現成」は本則話頭での馬祖が云う「無量劫来不出法性」を指し、この無量劫より諸仏相授に釈尊に至り、諸祖正伝し法性三昧に正伝せる。と説かれますが、相承嗣続する様態を「諸仏相授・諸祖正伝・正伝授手」とそれぞれに言句を改変する箇所などは、熟考の足跡が垣間見え興味深い処です。さらに前述の不出法性に対する不出法性を更に詳細に、不入の法性は活鱍々と常に躍動する動的状態で有ると説きます。

「文字の法師」とは世に云う学者を指し、その法師が説明する法性は、馬祖が説く法性とは同じべからずで有るが、一切衆生は皆法性を出でざれども、この境界は法性に非ずと擬する認識は、これも法性による得処では有るが、わづかに法性の三・四割の認得である。文字(黒豆)法師が云う法性ではないとする、言談祗対(ことばを交わす)や運用施為(六根のハタラキ)も現前たる真実の現成の「法性」である。との法性に能所を置かない、法性の施為を説いたものです。

「無量劫の日月は、法性の経歴なり。現在未来も又かくの如し。身心の量を身心の量として、法性に遠しと思量するこの思量、これ法性なり。身心量を身心量とせずして、法性にあらずと思量するこの思量、これ法性なり。思量不思量、ともに法性なり。性と云いぬれば、水も流通すべからず、樹も栄枯なかるべしと学するは外道なり」

ここは本則「「無量劫来不出法性」に対する拈提で、法性はあらゆる角度から考察可能ですが、先ずは無量劫の時間の中での現在・未来、云うなれば過去のビッグバンの宇宙創成からビッグクランチに至るまでの、永劫とも云い得るものが「法性の経歴」と『有時』巻で説かれた「有時に経歴の功徳あり。今日より昨日に経歴す。明日より明日に経歴す。経歴はそれ時の功徳なるが故に」と、無量劫の法性は経歴の功徳であるとの拈提です。

「身心の量を身心の量として」とは、凡夫の身心は所詮凡夫の身心で有るから、法性には及びもつかない、と思量分別する思量自体が法性であると。「身心量を身心量とせず」とは、邪解の禅坊主の坐禅指導では、一切思量を止めて無になれ。と云える・考える事が法性の功徳であるから、思量・不思量ともども法性のお蔭であると。

『聞書』では「性を理と捉えて、この性に具足して不変也」とし、『御抄』は「普通に思うに性と云えば、色も形も見えず、ただ固まりのようなる物」と註解され、外道の輩が考える(法)性は、理念化された水の流れや、樹木の栄枯が無い静止画と見識するのが、彼ら文字法師であり外道の連中である。

 

    三

釋迦牟尼佛道、如是相、如是性。

しかあれば、開花葉落、これ如是性なり。しかあるに、愚人おもはくは、法性界には開花葉落あるべからず。しばらく佗人に疑問すべからず、なんぢが疑著を道著に依模すべし。佗人の説著のごとく擧して、三復參究すべし。さきより脱出あらん向來の思量、それ邪思量なるにあらず、たゞあきらめざるときの思量なり。あきらめんとき、この思量をして失せしむるにあらず。開花葉落、おのれづから開花葉落なり。法性に開花葉落あるべからずと思量せらるゝ思量、これ法性なり。依模脱落しきたれる思量なり。このゆゑに如法性の思量なり。思量法性の渾思量、かくのごとくの面目なり。馬祖道の盡是法性、まことに八九成の道なりといへども、馬祖いまだ道取せざるところおほし。いはゆる一切法性不出法性といはず、一切法性盡是法性といはず、一切衆生不出衆生といはず、一切衆生法性之少分といはず、一切衆生一切衆生之少分といはず、一切法性是衆生之五分といはず、半箇衆生半箇法性といはず、無衆生是法性といはず、法性不是衆生といはず、法性脱出法性といはず、衆生脱落衆生といはず、たゞ衆生は法性三昧をいでずとのみきこゆ。法性は衆生三昧をいづべからずといはず、法性三昧の衆生三昧に出入する道著なし。いはんや法性の成佛きこえず、衆生證法性きこえず、法性證法性きこえず、無情不出法性の道なし。しばらく馬祖にとふべし、なにをよんでか衆生とする。もし法性をよんで衆生とせば、是什麼物恁麼來なり。もし衆生をよんで衆生とせば、説似一物即不中なり。速道々々。

ここで本則とでも云うべき十如是の中の二つを取り挙げるのは、前述で性に対する拈語でしたから、これに関連する語として「如是性」を、また「如是は尽十方界相」と詮慧和尚も云われるように、全てを包含する如是と法性との聯関、さらには馬祖の法性に対する粥飯不是なる処を独自な視点で説かれます。

「しか有れば、開花葉落、これ如是性なり。しかあるに、愚人思わくは、法性界には開花葉落あるべからず。しばらく他人に疑問すべからず、汝が疑著を道著に依模すべし。他人の説著の如く挙して、三復参究すべし」

「開花葉落」のことばは、前述の「樹も栄枯なかるべしと学するは外道なり」からの関連語として挙げ、この開花葉落の現成は如是性と定めますが、先程からの愚人外道が思うには、法性界はより高貴な純粋な世界と心得て、開花葉落(事象)は法性・如是性ではない。と説く論法は前述の如くですが、その連中に対する勉学の方法論として、早急に疑問を他人に聞かず、自分の疑問を言語に引き写(依模)し、他人が説くように再三(三復)に渉り参究しなさい。と聴講衆に対する論究の基礎となる仕方を説くもので、今の我々が「眼蔵」参究する手助けとも成る提唱です。

「先より脱出あらん向来の思量、それ邪思量なるに非ず、ただ明らめざる時の思量なり。明らめん時、この思量をして失せしむるに非ず。開花葉落、己れづから開花葉落なり。法性に開花葉落あるべからずと思量せらるる思量、これ法性なり。依模脱落し来たれる思量なり。この故に如法性の思量なり。思量法性の渾思量、かくの如くの面目なり」

「先より脱出あらん向来の思量」の先とは、「汝が疑著」を指し「脱出」は脱落の同義語に当たり、文字法師たちが説いて来たものを「向来の思量」に当てられ、それらは邪思量と一蹴する事は出来ず、ただ理解出来ないという思量であり、理解出来た時はこれまでの思量は失くなったのではないのである。

「開花葉落」という現象は自然の理法であり、法性には開花葉落の事象は含まれないと思う思量が法性の施為なのです。また「依模脱落」つまり、疑問は疑問のままで引き写す事が思量であり、「如法性」つまり、如は尽十方界を包摂するハタラキですから、同義語の法性の思量に当たるわけです。

このように思量と法性は渾(全体)思量とも言い換えられる。と如是と法性との道理を説いたものです。

「馬祖道の尽是法性、誠に八九成の道なりと云えども、馬祖未だ道取せざる処多し。いわゆる一切法性不出法性と云わず、一切法性尽是法性と云わず、一切衆生不出衆生と云わず、一切衆生法性之少分と云わず、一切衆生一切衆生之少分と云わず、一切法性是衆生之五分と云わず、半箇衆生半箇法性と云わず、無衆生是法性と云わず、法性不是衆生と云わず、法性脱出法性と云わず、衆生脱落衆生と云わず、ただ衆生は法性三昧を出でずとのみ聞こゆ」

馬祖が説いた尽是法性は八九成の道と言いながら、馬祖未だ云わない処が多いとして、「一切法性は不出法性」等々を挙げられる様子を、『聞解』の斧山和尚は「嘘(あくび)の出る程数え給う」と表される如く、やや凡長と云えなくもない挿入語の感が否めません。

「法性は衆生三昧を出づべからずと云わず、法性三昧の衆生三昧に出入する道著なし。云わんや法性の成仏聞こえず、衆生証法性聞こえず、法性証法性聞こえず、無情不出法性の道なし。しばらく馬祖に問うべし、何を喚んでか衆生とする。もし法性を喚んで衆生とせば、是什麼物恁麼来なり。もし衆生を喚んで衆生とせば、説似一物即不中なり。速道々々」

この結語を導く為に、前述来の馬祖に云わせぬ法性の義を述べたわけですが、「尽是法性」を別の視座から捉えた施為が六祖慧能による「是什麼物恁麼来」をメタファー(隠喩)で説明するなら、南嶽懐譲の「説似一物即不中」はメトニミー(換喩)として説明出来る事として注釈を終わります。