正法眼蔵を読み解く

現代人による正法眼蔵解説

詮慧・経豪 正法眼蔵 第四十九 陀羅尼 (聞書・抄)

詮慧・経豪 正法眼蔵 第四十九 陀羅尼 (聞書・抄)

参学眼あきらかなるは、正法眼あきらかなり。正法眼あきらかなるゆゑに、参学眼あきらかなることをうるなり。この関捩を正伝すること、必然として大善知識に奉覲するちからなり。これ大因縁なり、これ大陀羅尼なり。

いはゆる大善知識は仏祖なり。かならず巾瓶に勤恪すべし。しかあればすなはち、擎茶来点茶来、心要現成せり、神通現成せり。盥水来、瀉水来、不動著境なり、下面了知なり。

詮慧

〇「陀羅尼」と云う事、世間には梵語を名づく。諸経は梵語を漢字に翻訳す。然而猶漢字に残す所を、陀羅尼という。しからば何として、梵字に残し置くぞと覚えたれども、梵字(は)多含の義にて、広く義を述ぶ。漢字は一義を心得る故に、陀羅尼と云いて、梵語を改めず。般若をいうに、摩訶般若と付け、大般若と付く心地同じかるべし。摩訶とは大多勝の義と云う。大般若と云うも、この大多勝の心なるべし。但大と云いつれば、大なるとは心得れども、多勝の字を込めて心得難きを、いま心得るようは、世間に人、只詞に滞りて如此云うにてこそあれ。大と云うに多勝の字あるべし、多と云うに大勝も隠(こも)るべし、勝と云うに大多の字も隠るなり。如此心得る時は、更無相違也。いまの陀羅尼は、「擎茶来点茶来」陀羅尼なり。人事陀羅尼也、礼拝大陀羅尼なるなり。

〇陀羅尼を云うには、八万四千陀羅尼という、これ八万四千の塵労陀羅尼ならずと云う事なき故に、如此いう。八万四千の毛孔などと云う、これらは皆教家に仕う詞也。不相違、但礼拝勤恪なるを陀羅尼と云う事は、此れ門義なり。

〇「大善知識」と云う、経(『法華経』「陀羅尼品」・注)にも善知識者、是大因縁(「大正蔵」九・六十下・注)という。「大」と云うに大乗あり、又辺際なきを大と取る。ここには世間の大と取るも無相違。

〇「盥水来、瀉水来、不動著境」は、境を不会動著して、水瓶を持て来たれど、師示すに水瓶を持ち来たりて、師の前にして水を瀉す。此事、尤不審也、水瓶を持ち来たるこそ、すでに動著するにてあれ、約束変改に似たり。但世間にこそ、境を体にする故に、持ち来るを動とも思え。仏法には境を置かず、此の時は動とは何を仕うべきぞ。この道理にては、誠(に)約束変改とも定め難し。今この義を述ぶるなり。

経豪

  • 「参学眼といい、正法眼」と云えば、人法二あるように聞こゆ。此の正法眼の所が、やがて参学眼とも云わるる也。全く二にあらず。又参学眼、則ち正法眼とも云わるべき也。此れ「大善知識に奉覲するちから、これ大因縁なるべし、是を大陀羅尼」と云うなり。
  • 是等の姿を以て、陀羅尼とも、神通とも、仏祖の心要とも可談也。「下面了知也」とは、『神通』の草子に。香厳の「我一上の神通を得たり」とて、点茶来たりし事なり。

 

仏祖の心要を参学するのみにあらず、心要裏の一両位の仏祖に相逢するなり。仏祖の神通を受用するのみにあらず、神通裏の七八員の仏祖をえたるなり。

経豪

  • 「仏祖の心要」と云うは、只仏祖の心と云うなり。仏祖の心要を参学すと云えば、仏祖の心は別にして、其の心にて参学せんずるように聞こえぬべきを、「心要裏の一両位の仏祖に相逢する也」と云えば、人与法の各別とは聞こえぬ也。「仏祖の神通を受用するのみにあらず、神通裏の七八員の仏祖を得たる也」とは、只如前、神通と心要と、相逢と受用との詞の替わる許り也。只同心なるべし。「一両位の仏祖、七八員の仏祖」と云う事は、此の数に付けて、無殊子細。只仏祖の上の一両七八員なり。

 

これによりて、あらゆる仏祖の神通は、この一束に究尽せり。あらゆる仏祖の心要は、この一拈に究尽せり。

詮慧

〇「一束」という、此の束の字(に)別の義なし。ただ一と仕うなり。

経豪

  • 如文。神通裏の一束に究尽し、仏祖の心要は、この心要裏の一拈に究尽するなり。

 

このゆゑに、仏祖を奉覲するに、天華天香をもてする、不是にあらざれども、三昧陀羅尼を拈じて奉覲供養する、これ仏祖の児孫なり。いはゆる大陀羅尼は、人事これなり。人事は大陀羅尼なるがゆゑに、人事の現成に相逢するなり。人事の言は、震旦の言音を依模して、世諦に流通せることひさしといふとも、梵天より相伝せず、西天より相伝せず、仏祖より正伝せり。これ声色の境界にあらざるなり、威音王仏の前後を論ずることなかれ。その人事は焼香礼拝なり。

詮慧

〇「天華天香」という、天人こそ天華天香をば、従うべければ、人間界には難用。これは褒むる詞に天の字を加うなり。

〇「人事」という、ものを供養し、ものを奉ることなり。養育敬重而供養という事あり。養育は飲食衣服を供養也。敬重は以香華供養し礼拝する也。

〇六根供養と云う事あり。眼供養(以色供養是也)、耳供養(以音楽供養これ也)、鼻供養(以香供養これなり)、身供養(以衣服供養これなり)、意供養(以言音供養是也、よろこばしむる心也)。

経豪

  • 文に聞きたり。天華天香を以て仏祖奉覲する不是にはあらねども、今の「三昧陀羅尼を拈じて奉覲供養する、これ仏祖の児孫也」と云う也。「人事」とは文字の事也。今の文字は、「世諦に流通せる事、久しと云えども、梵天よりも西天よりも相伝せず、仏祖より正伝せる」なり。倩案之、まことに文字法師等は、西天梵天より相伝と云いぬべし。今の仏祖所談の言音、全く依文解義の輩と等しかるべからず。ゆえに「仏祖より正伝せり」と云うべき也。実(に)声色の境界にあらざるべし、威音王仏の前後の久近を不可論事也。人事又必ず文字許りに限るべからず。「その人事は焼香礼拝也」とある上は、以焼香礼拝、人事とは云うべき也。

 

あるいは出家の本師、あるいは伝法の本師あり。伝法の本師すなはち出家の本師なるもあり。これらの本師にかならず依止奉覲する、これ咨参の陀羅尼なり。いはゆる時々をすごさず参侍すべし。安居のはじめをはり、冬年および月旦月半、さだめて焼香礼拝す。その法は、あるいは粥前、あるいは粥罷をその時節とせり。威儀を具して師の堂に参ず。威儀を具すといふは、袈裟を著し、坐具をもち、鞋襪を整理して、一片の沈箋香等を帯して参ずるなり。師前にいたりて問訊す。侍僧ちなみに香爐を装燭をたて、師もしさきより椅子に坐せば、すなはち燒香すべし。師もし帳裏にあらば、すなはち燒香すべし。師もしは臥し、もしは食し、かくのごときの時節ならば、すなは焼香すべし。師もし地にたちてあらば、請和尚坐と問訊すべし。請和尚穏便とも請ず。あまた請坐の辞あり。和尚を椅子に請じ坐せしめてのちに問訊す。曲躬如法なるべし。問訊しをはりて、香台の前面にあゆみよりて、帯せる一片香を香爐にたつ。香をたつるには、香あるいは衣襟にさしはさめることあり。あるいは懷中にもてるもあり。あるいは袖裏に帯せることもあり。おのおの人のこころにあり。問訊ののち、香を拈出して、もしかみにつゝみたらば、左手へむかひて肩を転じて、つゝめる紙をさげて、両手に香を擎て香爐にたつるなり。すぐにたつべし、かたぶかしむることなかれ。香をたてをはりて、叉手して、右へめぐりてあゆみて、正面にいたりて、和尚にむかひて曲躬如法問訊しをはりて、展坐具礼拝するなり。拝は九拝、あるいは十二拝するなり。拝しをはりて、収坐具して問訊す。

詮慧

〇「咨参」という、ただ参学の心なり、問い習うなり。

経豪

  • 如文。

 

あるいは一展坐具礼三拝して、寒暄をのぶることもあり。いまの九拝は寒暄をのべず、たゞ一展三拝を三度あるべきなり。その儀、はるかに七仏よりつたはれるなり。宗旨正伝しきたれり。このゆゑにこの儀をもちゐる。かくのごとくの礼拝、そのときをむかふるごとに癈することなし。そのほか、法益をかうぶるたびごとには礼拝す。因縁を請益せんとするにも礼拝するなり。二祖そのかみ見処を初祖にたてまつりしとき、礼三拝するがごときこれなり。正法眼蔵の消息を開演するに三拝す。しるべし、礼拝は正法眼蔵なり。正法眼蔵は大陀羅尼なり。請益のときの拝は、近来おほく頓一拝をもちゐる。古儀は三拝なり。法益の謝拝、かならずしも九拝十二拝にあらず。あるいは三拝、あるいは触礼一拝なり。あるいは六拝あり。ともにこれ稽首拝なり。西天にはこれらを最上礼拝となづく。あるいは六拝あり、頭をもて地をたゝく。いはく、額をもて地にあててうつなり、血のいづるまでもす、これにも展坐具せるなり。一拝三拝六拝、ともに額をもて地をたゝくなり。あるいはこれを頓首拝となづく。世俗にもこの拝あるなり。世俗には九品の拝あり。法益のとき、また不住拝あり。いはゆる礼拝してやまざるなり。百千拝までもいたるべし。ともにこれら仏祖の会にもちゐきたれる拝なり。おほよそこれらの拝、たゞ和尚の指揮をまぼりて、その拝を如法にすべし。おほよそ礼拝の住世せるとき、仏法住世す。礼拝もしかくれぬれば、仏法滅するなり。

詮慧

〇「法益」という、古人の詞を挙げて知識に尋ぬる也。法益という、これ同じ。「請益」とて、師匠の云いし法文を、重ねて弟子に説かする云う様に、法益は又、師(の)詞を出だして仏法を説くなり。

経豪

  • 是は拝の後、法文などを尋ぬ事を云う也。

 

伝法の本師を礼拝することは、時節をえらばず、処所を論ぜず拝するなり。あるいは臥時食時にも拝す、行大小時にも拝す。あるいは牆壁をへだて、あるいは山川をへだてても遥望礼拝するなり。あるいは劫波をへだてて礼拝す、あるいは生死去来をへだてて礼拝す、あるいは菩提涅槃をへだてて礼拝す。弟子小師、しかのごとく種々の拝をいたすといへども、本師和尚は答拝せず。たゞ合掌するのみなり。おのづから奇拝をもちゐることあれども、おぼろけの儀にはもちゐず。かくのごとくの礼拝のとき、かならず北面礼拝するなり。本師和尚は南面して端坐せり。弟子は本師和尚の面前に立地して、おもてを北にして、本師にむかひて本師を拝するなり。これ本儀なり。みづから帰依の正信おこれば、かならず北面の礼拝、そのはじめにおこなはると正伝せり。

詮慧

〇「行大小時」という、大便小便の時也。

〇「奇拝」という、伝法の時の拝歟。

経豪

  • 是は時刻いつを不嫌、拝すべきように見えたり。律なんどには、大小便の時には拝する事なき歟。

 

このゆゑに、世尊の在日に、帰仏の人衆天衆龍衆、ともに北面にして世尊を恭敬礼拝したてまつる。最初には、阿若憍陳如〈亦名拘隣〉阿湿卑〈亦名阿陛〉摩訶摩南〈亦名摩訶拘利〉婆提〈亦曰跋提〉婆敷〈亦名十力迦葉〉この五人のともがら、如来成道ののち、おぼえずして起立し、如来にむかひたてまつりて、北面の礼拝を供養したてまつる。外道魔党、すでに邪をすてて帰仏するときは、必定して自搆佗搆せざれども、北面礼拝するなり。それよりこのかた、西天二十八代、東土の諸代の祖師の会にきたりて正法に帰する、みなおのづから北面の礼拝するなり。これ正法の肯然なり、師弟の搆意にあらず。

経豪

  • 是は釈尊、我不成道ば、再び王宮へ帰らじと誓いて、檀徳山へ入り給いし時、父浄飯王、此事を歎いて、只王宮に去る幽閑の地を示して、行道し給えかしと、種々に教訓し申されけれども、終に檀徳山に入りて昼夜に行道しき。枯渇盛衰して、色かたちもなく、御目は井の底に、星の移りたるが如し、木の実を食し給いき。其れを浄飯王聞きて、あまりに心苦しく歎き給いて、今の五比丘を、仏の御とぎの料りに差し進ぜられけり。此の五比丘は皆、仏の内外使役の親しき人也。如此仏に親近して、五比丘給仕し給う程に、已に成道近づくに、あまりに難行苦行に、御力落ちて御いしける程に、牧牛氏と云いし、乳の粥を煎て仏に奉りき。是に力つけて御すを、此の五比丘見て、仏を疎み申して、檀徳山を捨てて、鹿野苑に籠りて行いたり。其の後仏(は)成道して、瓔珞済難の衣を著して、金剛坐の上にして、先ず華厳経を説き給う。しかあれども、小乗の機なましくて、広大の利益なかりしにつきて、鹿野苑に趣きて、四諦縁生の法を説き給うに、鹿野苑に趣ぶかせ給いたりし時、凡そ光明赫奕として、巍々堂々と御す。仏の御姿を拝むにさしも、仏を疎み奉りて、鹿野苑に趣かせ給うとも、奉従らしと誓いたりし。五比丘仏の御相好を拝するに、歓喜踊躍のあまり、覚えずして五比丘、同時に拝し奉りき。其の事を今被載歟。仏成道の後、最初の得道は、此れ阿若憍陳如尊者也。

 

これすなはち大陀羅尼なり。有大陀羅尼、名為円覚。有大陀羅尼、名為人事。有大陀羅尼、現成礼拝なり。有大陀羅尼、其名袈裟なり。有大陀羅尼、是名正法眼蔵なり。これを誦呪して尽大地を鎮護しきたる、尽方界を鎮成しきたる、尽時界を鎮現しきたる、尽仏界を鎮作しきたる、菴中菴外を鎮通しきたる。大陀羅尼かくのごとくなると参学究辦すべきなり。一切の陀羅尼は、この陀羅尼を字母とせり。この陀羅尼の眷属として、一切の陀羅尼は現成せり。一切の仏祖、かならずこの陀羅尼門より発心辦道、成道転法輪あるなり。しかあれば、すでに仏祖の児孫なり、この陀羅尼を審細に参究すべきなり。

経豪

  • 是等を陀羅尼と可名也。「是を誦呪して、尽大地を鎮護し、尽方界を鎮成しきたる」と云えば、此の尽地尽界を、此の大陀羅尼とて、鎮護し鎮成すべきように聞こゆ。しかにあらず、此の尽大地尽方界を、やがて鎮成とするなり。尽時界、尽仏界、乃至菴中菴外の当体を、「鎮成とも、鎮現とも、鎮作とも、鎮通」とも談ずるなり。大陀羅尼の道理、如此なるべし。

 

おほよそ為釈迦牟尼仏衣之所覆は、為十方一切仏祖衣之所覆なり。為釈迦牟尼仏衣之所覆は、為袈裟之所覆なり。袈裟は標幟の仏衆なり。この辦肯、難値難遇なり。まれに辺地の人身をうけて、愚蒙なりといへども、宿殖陀羅尼の善根力現成して、釈迦牟尼仏の法にむまれあふ。たとひ百草のほとりに自成佗成の諸仏祖を礼拝すとも、これ釈迦牟尼仏の成道なり。釈迦牟尼仏の辦道功夫なり。陀羅尼神変なり。たとひ無量億千劫に古仏今仏を礼拝する、これ釈迦牟尼仏衣之所覆時節なり。

経豪

  • 「衣之所覆」は、只仏衣をまねびて、結縁に我等隠るとこそ思い習わしたれ。今の文の如きは、返々憑敷事也。所詮「為釈迦牟尼仏衣之所覆、為袈裟之所覆なり、此の辦肯難値難遇なり」とあり、而我等あくまで、仏正法に逢い仏衣を頂戴す。まことに宿殖陀羅尼、善根の力にあらずば、争か此の法に生まれ逢うべき。

 

ひとたび袈裟を身体におほふは、すでにこれ得釈迦牟尼仏之身肉手足、頭目髄脳、光明転法輪なり。かくのごとくして袈裟を著するなり。これは現成著袈裟功徳なり。これを保任し、これを好楽して、ときとともに守護し搭著して、礼拝供養釈迦牟尼仏したてまつるなり。このなかにいく三阿僧祇劫の修行をも辦肯究尽するなり。釈迦牟尼仏を礼拝したてまつり、供養したてまつるといふは、あるいは伝法の本師を礼拝し供養し、剃髪の本師を礼拝し供養するなり。これすなはち見釈迦牟尼仏なり。以法供養釈迦牟尼仏なり。陀羅尼をもて釈迦牟尼仏を供養したてまつるなり。

経豪

  • 如文。此文殊に甚深殊勝也。同じく頂戴すとも、尤如此思い入れて可頂戴也。

 

先師天童古仏しめすにいはく、あるいはゆきのうへにきたりて礼拝し、あるいは糠のなかにありて礼拝する、勝躅なり、先蹤なり、大陀羅尼なり。

詮慧

〇天童古仏段。「雪の上にきたりて礼拝し、あるいは糠のなかにありて礼拝する勝躅なり」と云う、「雪の上」とは、二祖伝法の時刻也。「糠のなか」と云うは、六祖伝法の因縁を挙げらるる也。

経豪

  • 以下如文。

陀羅尼(終)

これは筆者の勉学の為に作成したもので、原文(曹洞宗全書・註解全書)による歴史的かなづかい等は、小拙による改変である事を記す。